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2014年8月 秋田 その3

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少しでも晴れてくると家内と幸紀は「どこかへ行こうよ」という眼で訴えかけてきます。当方は郷里では行ったところがあまりないので、乗り気ではありませんが、家内はどこからか穴場を見つけてくるようです。

今回は廃線となった小坂鉄道・・・。レールバイク??



大館から十和田湖に向かう樹海ラインの道路の途中の廃線となった小坂鉄道の駅。2駅間をレールバイクと称する乗り物・・・。幸紀は危ないので我々はトロッコです。



結構人気あるようで、待ち時間があります。沢沿いを風が通り抜け涼しい乗り物のた旅。



半分のところでユーターンです。



途中に川がありスリル満点??



田舎をちょっぴり満喫できますね。



家内共々、幸紀もご機嫌です。これは楽な家庭サービス



修復した掛け軸の第2弾・・。郷里の画家の寺崎廣業に富士の作品です。本作品は投稿したような気がするのですが検索してもないようです。非公開の投稿にしている可能性はあります。

富士図 寺崎廣業筆
絹本水墨淡彩軸装 合わせ箱入
全体サイズ:縦1910*横675 画サイズ:縦1265*横550



左上に雨漏りで出来たような大きなシミがありましたが、だいぶ綺麗にとれたようです・



「為書」のある作品です。



富士の作品は寺崎廣業はたくさん描いています。



印章の例など、このような真作を蒐集することで次の蒐集の判断が出来るようになります。いくら文献などをみても蒐集しないと分からないものです。




津軽塗

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自宅の階段下の納戸にめぼしきものはないかなと物色していたところ、何やら怪しげな紙箱が出てきてきました。母の字で「漆器修理」と書かれた札がついていました。

箱を開けてみると「津軽塗修理」というものと「輪島塗修理」という札が・・・。

紙に包まれた「津軽塗修理」のほうの包装紙を開けてみるといくつかの津軽塗の蓋付碗が出てきました。



本体と蓋があるのですが、数が合いません。どこかに揃いの残りがありはずと思い、今度は主納戸を物色したところ、「30客津軽塗碗」という箱を発見・・。



ただし、全部集めても二十数客にしかなりません。



昭和の初め頃には自宅にて宴席が設けられ、数多く揃いの食器が調達されました。その一部が当家にも遺されている作品が幾つかかあります。その中の漆器のひとつにこの津軽塗の器です。



いわゆるポピュラーは「唐塗」の作品ですが、木の厚みがありよく出来ています。



約半数に小さな傷があり、母が修理に出そうと思っていたものらしいです。弘前に持っていくと修理してくれるらしいのですが・・。

とりあえず郷里から自宅まで宅急便で送り、修理可能かどうかを製作しているところに連絡し確かめようと思います。

古くから御膳や揃いの碗類は家にありました。家業がうまくいかなくなり、借入金の抵当のために実家を去る際に、最後の夜に使いました。その後はそれらを使うことはなく、ここ30年使用していません。懐かしい食器たちです。

茶箪笥に中にはこんな津軽塗の器もありました。



茶を入れる茶器??



昭和初期にはいろんな粋なものが日本人にはあったのですね。



百円ショップは便利ですが、こういう粋なもの、ちょっと値の張りそうなものの需要を衰退させている要因になっていないのかと危惧したりしますね。

漆器は最高の再興のリサイクル食器と言われています。塗り直すと新品のごとくになるようです。思い出の詰まったこの器たち・・、なんとか復活させてたいものです。

夜遅くまでかかって梱包し、補修の見積もりのために昨日弘前まで発送しました。

輪島塗

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津軽塗と一緒に母が梱包していた「津軽塗碗 修理」と掛かれた札のある箱を開けるとそこにも御揃いの器がありました。探すととも20客揃いのようです。

口縁の漆が剥がれているものを補修しようと母は考えていたようです。



なんの変哲もない器ですが、大事にしておきたいものです。



漆の器の収納箱を開けていくと家紋入の収納箱が出てきました。



珍しい家紋です。



獏を描いた飾り板もありました。



どうやって使うのかな??



銀吹きの蓋付碗も揃いでありました。



だいぶ漆が痩せてきており銀が剥離する寸前です。この修理は難しいらしいです。



蓋には福寿草??、蕗の薹??の高蒔絵・・。



何気ない流水紋様の吸い物用の蓋付碗のセット・・。



蓋を開けると京都の景色の高蒔絵。



蓋の絵柄は揃いが皆違うものです。



こういうものを日常使っていたということはなんと粋な日本文化なのでしょうと改めて感動します。



漆絵師も絵の修業をしていたとのこです。



古い根来塗の漆器と向き合っていると半日は至福の時が過ごせるという御仁もいます。木のぬくもりが内部に秘められた漆器、朱や黒の漆を見つけているとその均一さに驚きを感じ得ません。揃いである漆器たちを整理していると時の経つのを忘れてしまうのは私だけではないように思われます。

今回は撮影できなかった盆、膳、重箱累の輪島塗・・、あらためて見直す必要がありそうです。








大日本魚類画集 ニジマス図 大野麥風筆 

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無名だった画家に光が当たり始めたのは、大野風麥が原画をてがけた『大日本魚類画集』であり、近年東京ステーションギャラリーで公開され話題を呼びました。この件は以前に投稿しております。

大野麥風について以前に肉筆画を投稿しております

大日本魚類画集 ニジマス図 大野麥風筆 
紙本淡彩額装 版画
画サイズ:縦*横



本作品の彫師は「藤川象斎」、摺師は「光本丞甫」となっています。

「大日本魚類画集」において摺師は当時二人の名人によって摺られたようです。もう一人は禰宜田萬年」ですが、他にも摺師はいるようです。

1937年8月発行の500部限定で各期12点づつ、計6回で72作品が発行されています。この「ニジマス」は最初の1期目の10作品目で1938年5月発刊ですが、そのときの彫師は「藤川象斎」、摺師は「彌宜田萬年」ですから、本作品はなんらかの形での再発刊の可能性がありますので確認を要します。

 

印章も掲載の「ニジマス」とは違う??? 銀色に輝く発色も見られない??? 印刷ではない??? しかも画集における他の作品の中に同一の印章、彫師、摺師の刻銘も確認できます。

彫師は「藤川象斎」、摺師は「光本丞甫」、「彌宜田萬年」らは浮世絵の衰退で仕事を失くし、沖仕などの肉体労働に従事していたようです。そのほかにもこの画集製作には従事し、200度摺という一大版画の仕事に職人たちはどんなに喜んで専門技能を発揮したことかは想像に難くありません。



これは一体どういう作品なのでしょうか? ばら売りもあったようですが・・・。本作品はばら売りの作品??

第一輯(12枚組)=35円、第二輯(12枚組予定)=33円という値段だったいいます。昭和12年の大卒初任給は70円ぐらいだったから、この第一輯と第二輯を合わせてちょうど大卒初任給程度、現在なら20万円というところらしいです。

ちなみに、1枚バラ売り=4円(継続購入者は3円)だったとのことです。



本作品は「綺麗だな」と想い、盛岡の骨董店で勧められるままに購入したものです。後摺の版画かもしれませんが、その確証もありません。非常に悩ましい・・。



備前茶碗 伊勢崎淳作 その2

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これまでに備前焼の分野では5人(金重陶陽、藤原啓、山本陶秀、藤原雄、伊勢崎淳)が人間国宝に認定されてきましたが、その中で伊勢崎のユニークさはモダンな造形感覚にあります。本ブログには山本陶秀以外の作品は投稿されていますので、比較してみると面白いかと思います。

ただ、正直なところお茶碗としては伊勢崎淳の作品は作為的なところがかえって品位がないように思えて、気に入ったお茶碗はありませんでした。本茶碗は作為的な面を窯の偶然性が上回った稀有な例と思え、入手判断しました。

備前茶碗 伊勢崎淳作 その2
共箱
口径122*高台径*高さ86



伊勢崎淳はイサム・ノグチ(1904-1988)や池田満寿夫(1934-1997)などのアーティストと交流を積極的に行ない、備前焼に新しい境地を切り開いてきました。伝統的な茶器からオブジェ、インスタレーションまで、大胆なフォルムによる斬新な作品を毎年発表し、国内外からその動向が注目される数少ない陶芸家の一人です。今まで主流であった登り窯に対して中世の穴窯を復活するなど備前の歴史を深く研究した陶芸家でもあります。



登り窯は丘の斜面に設けた連房式の窯で、焼成室が幾室も設けられ、均質の焼き物を大量に生産するのに適しているため備前ではこの100年近く「登り窯」が主流でしたが、伊勢崎淳はあえて中世の斜面を掘り下げた上部を土で覆ったトンネル型の「穴窯(あながま)」穴窯を復活させています。



本作品は外側に灰が降りかかった胡麻釉の景色、見込みと高台廻りには火襷紋様と魅力いっぱいの作品になっています。本作品は穴窯による作品ではないかと思います。



窯の中で偶然ついた灰がまるで茶碗の外側に花が咲いているような紋様を生み出しています。家内も本作品を観るなり、「いいお茶碗ね〜」と合格点



作為の強い茶碗はどこか出世欲の強い人間を見ているようで貧相ですが、そこを品位を保って製作している作品が貴いものと感じます。



共箱になっています。製作年は残念ながら解りかねます。



このような景色を狙って作ったものではあるのでしょうが、窯任せもあるのでしょうね。



火襷、胡麻釉の垂れ、端正なてにしっくりなじむシンプルなフォルム、なによりも花が咲いたような備前焼には稀有な紋様? 貴重な逸品のように思います。



備前の茶碗は夏向き以外は良きものはないというのが、小生の持論ですが考え直す必要があるようです。

家内は息子を連れてお茶の稽古を再開しました。息子の愉しみは小生と同じようです・・。





五月風景 福田豊四郎筆 その43

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帰省した際に馴染みの骨董店に立ち寄り本作品を購入しました。東京では滅多にお目にかかれない福田豊四郎の作品です。インターネットオークションにもなかなか登場しない画家ですし、出品されていても結構高い値段で出品されいます。郷里では人気が高くときおり見かけます。

小生の生涯を通じての唯一の蒐集対象の画家です。ようやく43作品目となりまいした。

五月風景 福田豊四郎筆 その43
紙本水墨淡彩軸装 軸先練 合箱 
全体サイズ:横552*縦1240  画サイズ(色紙):横263*縦235



このような作品は福田豊四郎には珍しいかと思います。

秋田県小坂の出身でよく上京後もよく郷里には来訪されていたようで、小生の父とは交友関係にありました。父は福田豊四郎から絵を習っていました。



大作は当方では所持していませんが、小品を戴いたりしておりました。父が亡くなった後も母を通して交流していたようです。

この福田豊四郎の作品にも贋作があるようですので要注意ですね。

本作品の印章は祖母のお見舞いに頂いた「茄子」の作品と同様の落款と印章です。最晩年の頃の作品となります。



この風景は郷里の風景に合い通じるものがあります。



人はいつでも胸中にふるさとがあるものです。ふるさとを大切にしない人はいないのです。


伝再興九谷松山窯 青手草花紋深皿

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日本の陶磁器の大きな本流に九谷焼があります。その流れに中には古九谷と再興九谷があります。本ブログでも幾つかの作品と取り上げてきましたが、なかなか氏素性のつかみきれない作品群でもあります。

伝再興九谷松山窯 青手草花紋深皿
古箱
口径313*高台径150*高さ58



時代・・・江戸末期(嘉永元年1848〜明治五年1872)?



金繕いが綺麗に施されています。



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青手九谷:加賀藩の支藩大聖寺藩九谷村で慶安年間(1650年頃)から作陶された古九谷と呼ばれるものの中にもみられ伝世されている。青手古九谷などと呼ばれている。青手古九谷は、赤色を全く使わないのが特徴であり、紫・黄・緑・紺青のうち三彩または二彩を使用し、作品全面を塗埋める技法が使われている。古九谷時代を通して作られた。慶安年間とは関ヶ原の戦いから戦後50年にあたり、武士に代わって台頭した町人文化が自由闊達の風に花開いた時期である。また海外の文化・技術を積極的に取り入れた安土桃山時代の絢爛華麗な記憶が鎖国の中でもまだ残っていた時代でもある。 青手九谷はこうした時代背景をもとに作られ、写実精密緻密であるより大胆奔放華麗の作風であるといえる。空を飛び舞う兎あり、デフォルメの大樹あり、黄素地に鮮やかな竹松あり、四彩(緑、紺青、黄、紫)で色取られた百合ありと まさに大胆不敵とも見える意匠である。 古九谷は、発掘結果とその考古地磁気測定法による年代測定から50年後には作られないようになり80年後には完全に終わったとされる。ただし、伝世九谷の素地と同じものが古九谷窯からは全く発掘されないことや、前者に多くある目跡(窯の中で器同士の溶着を防ぐスペースサーの跡)が後者には全くないなどから、古九谷は九谷村で作られたものではなく、有田(伊万里)で作られたものとする説(古九谷伊万里説)が出された。これに対し、藩主の命を受けた後藤才次郎が修業した地である有田から素地を移入し、九谷で絵付けのみを行なったという説(素地移入説)が出され、古九谷伊万里説と素地移入説で論争が起こっている。その後九谷焼は作られなかったが、文化年間(1804年以降)になり、古九谷の再興を目指して加賀藩により新しい窯が築かれ、その後明治期まで次々と新しい窯が作られ、合わせて「再興九谷」と称されている。再興九谷で最初に現れたのが「春日山窯」で、京都より青木木米が招聘され作陶が始まったが、木米の作風は赤や青を基調としたもので、青手古九谷の技法は見られない。その後再興九谷では一番の名声を博した「吉田屋窯」が古九谷窯跡地に作られた。大聖寺の豪商豊田伝右衛門が開窯しその屋号から命名されたものである。この吉田屋窯では日用品が多く量産されたが、古九谷同様高台に角福の入った青手九谷も多く作られた。



赤を使わず塗埋手の技法を使うという青手古九谷の技法を用いたものだが、青手古九谷より落ち着いた濃さをもっている。全体として青く見えるため、青九谷と呼ばれ、後世これに倣った絵付けが多く行われるようになった。吉田屋窯はわずか8年で閉じられ、その後番頭であった宮本屋宇右衛門が「宮本窯」を開いたが、精緻な赤絵金襴の意匠が多く青手九谷は見られない。その後も「民山窯」「若杉釜」「小野窯」などが作られたが、嘉永年間(1848年以降)になって大聖寺藩松山村に著名な「松山窯」が藩の贈答用とするために始まり、吉田屋窯の意匠を継いで青手九谷が作られた。



以上のように古九谷、吉田屋窯、松山窯で青手九谷が作陶されたとするが、骨董として取引される青手九谷うち、古九谷では350年を経ているため多くが伝世されているとは考えにくい。吉田屋窯では購入時に日用品であるのに箱書きとしてその名を記したとは思われない。松山窯は官営であったため多くが作られたとは思われず、また全般に後世のように作者名が有ったわけではないため、結局伝世の青手九谷の真贋は決めがたいとされる。市場でこれら窯として取引される伝世品の多くが、次の明治以降のものである可能性が高いと思われる。



明治維新(1868年以降)で成った明治政府は、開国に沿って殖産興業を推進し伝統工芸品の輸出を奨励した。そのため九谷では各国の博覧会に出展し名声を得、多くを輸出した。明治前期には九谷焼の8割が輸出に回され輸出陶磁器の1位を占めるようになり、「ジャパン クタニ」のブランドはいやが上にも高まった。




現存する半陶半磁を呈する骨董としての青手九谷の多くがこの時期のものと推量され、また明治前期に輸出された九谷が逆輸入されているものも多い。 青手九谷はその後も徳田八十吉などにより作られ、また現在も工芸品として金沢を中心として売られている。

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松山窯:今から350年前に九谷焼を興したのは、実はこの加賀大聖寺藩前田家です。その九谷焼の窯は江戸初めの大聖寺藩の御用窯、藩窯になりますが、この松山窯も別名「御上窯(おかみがま)」といわれ、幕末の大聖寺藩の藩窯として興った窯です。つまり、嘉永元年(1848)頃、当時の第11代藩主 前田利平の命により、青手様式の九谷焼を主に贈答用品として使うため、領内松山村の山本彦左衛門に命じて開窯させ、この窯で作らせました。
*藩主 前田利平は、小藩の宿命でもある慢性的な財政赤字に対策を講じ、倹約を強化し、さらに文治の奨励も行ないました。この文治政治が九谷松山窯にも影響を与えているといわれます。
 嘉永年間は黒船ペリーが来航するなど幕末の混沌とした時代であり、加えて江戸後期の天保年間に宮本屋窯で飯田屋八郎右衛門が赤絵の細書きの九谷焼を完成させ、九谷焼きと言えば赤・金といったようなものが本流になっていたときに、大聖寺前田家はこの青手の九谷焼を再び領内で復活させました。大聖寺前田家は、古九谷、吉田屋窯といわれた各窯の青手九谷、つまり緑色を中心にした青々しい九谷焼が次第に焼かれなくなったことに対し、かつての古九谷、吉田屋窯を意識して青手九谷を復活させました。このために、文政年間に再興九谷で最も名高い吉田屋窯で色絵窯の主任をした粟生屋源右衛門(小松の材木町に居住していた)が松山窯の主軸になる主工に迎えられました。彼のもとには松屋菊三郎ら若手の優れた画工たちが集まり、絵筆を揮いました。こうして後の九谷焼を支える名陶工たちが輩出されることになりました。




 “九谷焼は絵が命である”といわれるように、松山窯の特徴は、『松山窯もいろんな絵が描かれています。丸い皿を一枚のキャンバスに見立て、そこに青手の四彩の色を使って、さまざまな絵をまさに絵師が描いていると思って下さい』といわれる。そして、デザイン的な意匠面もたいへん優れています。そういった面からも九谷焼のひとつの完成形というものが松山窯の中に見てとれます。絵具の一つの特徴として、古九谷や吉田屋窯のような濃紺の紺ではなく、少し空色をしているような花紺青が多用されています。それが松山窯の一つの特徴になっています。花紺青は、18世紀初めイギリスで製造され、陶磁器などに使われた青色顔料で、それが清国経由で日本に多量に輸入され広がりました。古くは伊藤若冲が使用したことがわかっており、葛飾北斎も使っています。古来、日本には岩紺青という紺青の顔料があり、それと区別されています。



 古九谷、吉田屋窯、松山窯の三つの九谷焼に共通してわかることは、縁文様が同じ形式で、これをひし形の木目文様と称しています。青手古九谷ではこの文様が地文様として描かれ、それが吉田屋窯にも引きつながれて吉田屋風に描かれています。そして松山の作品にも古九谷のようなひし形の木目文様を縁文様に描かれています。そして見込にそれぞれのメインテーマである画題を描いているところは、全く様式的には一緒です。このように系統立てて見てみると、古九谷、吉田屋窯の伝統を松山窯は受けついでいるといったことがわかります。だた、松山窯も松山窯なりの成立という過程があるので、決して吉田屋窯の真似をしていないし、古九谷の真似もしていません。もうひとつの特徴は、キャンパスが少々歪んでいて、少々難があってもその難を覆い隠すがごとく、それ以上の成果をもって絵付けで見せる、これが九谷の本領と思えます。



吉田屋窯が宮本屋窯に変わってから20年も経っていないとき、再び、吉田屋伝右衛門のロマンを彷彿とさせるようなことが加賀の地で起こりましたが、この九谷松山窯も今の九谷焼に与えた影響は大きかったと考えられます。
*松山窯と同時期(幕末)には、青手を焼く窯が加賀地方にいくつもありました。蓮代寺窯、小野窯、九谷本窯(宮本屋窯を引き継いだ窯)などです。普通、ひっくるめて青九谷と呼ばれます。

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「結論として本当に再興九谷??」



「ちゃんと説明よんだが? さてそれはお前がこれから確かめるんだべさ・・」
「おっと、枝豆の殻を食べてはいけねど。贋作を食っているようなもんだべさ。」


鐘馗煎茶之図 小田海僊筆 その6

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厄除けの吉祥図柄として「鐘馗図」が良いので、また男の誕生もあり、五月の節句飾りとして「鐘馗様」の作品を集まるようになりました。このように特定のものを蒐集するのは玉石混合になることが多いのですが・・。

鐘馗煎茶之図 小田海僊筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 佐竹永稜鑑定箱
全体サイズ:縦1830*横527 画サイズ:縦1040*横412



本作品は「東坡煎茶図」の見立図と推察されます。小田海僊の作品に「東坡煎茶図」(誠之館所蔵)があります。小田海僊から絵を学んだとされる富岡鉄斎もまた描いています。



鐘馗様と鬼の表情が面白い。



両者ともに煎茶を愉しんでいる・・。



息子も団扇が大好き・・。



さしずめ我が家の鐘馗は小生で、小鬼は息子か・・?? ん? 逆かもしれません。



興味にあるものにはすぐに手の出る・・、これでほんとに厄除けの図柄・・・。

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佐竹永稜:日本画家。東京生。旧姓は黒田、名は銀十郎、別号に写山画房・巍々堂。佐竹永湖に師事し南北合派を学びのち師家を継ぐ。日本画会の結成に参加し、また松林桂月らと日本南宗画会を結成した。文展開設では旧派の正派同志会の結成に幹事として参加した。また制作のかたわら谷文晁の画風の研究・鑑定も手がけた。日本美術協会委員。昭和12年(1937)歿、64才。

 

 

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佐竹永海、佐竹永湖、佐竹永稜は3代続けての画家の一派です。佐竹永海については「なんでも鑑定団」に三幅対の掛け軸が出品されていましたのでご存知の方もおられるかと思います。




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小田海僊:天明5年(1785年)〜文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。

 


周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、写生的な画風を修得し同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競った。のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や粉本を学び南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞、浦上春琴らと並び称せられた。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。1826年、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。

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小田海僊の作品も六作品目か〜。意外と多くなりました。


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参考作品
「東坡煎茶図」 小田海僊筆
画サイズ:縦395*横535



作品に添えられている「大瓢貯月帰春甕小杓分江入夜瓶」という賛は、以下に挙げている蘇東坡作の七言律詩「汲江煎茶」の第3・4句を抜き出して録したものです。この詩は蘇東坡が騙されて海南島に流された晩年における代表作。
  汲江煎茶       江を汲んで茶を煎(に)る
活水還須活火烹: 活水(かっすい)また須(すべか)らく活火もて烹(に)るべし
自臨釣石汲深清: 自ら釣石(ちょうせき)に臨んで深清(しんせい)を汲む
大瓢貯月帰春甕: 大瓢(たいひょう)月を貯えて春甕(しゅんおう)に帰し
小杓分江入夜瓶: 小杓江(こう)を分って夜瓶に入(い)る
雪乳已翻煎処脚: 雪乳已(すで)に煎処(せんしょ)の脚(きゃく)を翻(ひるが)えし
松風忽作瀉時声: 松風(しょうふう)忽(たちま)ち瀉時(しゃじ)の声を作(な)す
枯腸未易禁三椀: 枯腸(こちょう)未(いま)だ三椀を禁じ易(やす)からず
坐聴荒城長短更: 坐して聴く荒城(こうじょう)長短(ちょうたん)の更(こう)

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整理していたら、底には覚書が貼り付けられていました。

「海僊鐘馗之図 和久 昭和参拾年参月参日(昭和30年3月3日) □求」とあります。和久の意味は解りません。




古い版画

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母を訪ねて納戸にしまわれていた補修の必要な漆器の話をしました。
「納戸にしまってある漆器を覚えている?」
母「あらそう、もう忘れましたね。」
「修理しようと思っているよ」
母「あら、ありがとう」


津軽塗の補修を依頼したところはかなり親切な対応でした。まけていただいても一客5000円かかるそうですが、いい品であるし、新品同様に治るそうです。仕上げを見ていただきたい、と自信ありげで、仕上がりが楽しみです。

輪島塗もほぼお値段のようですが、新品同様にはならないかもしれません。。目下、交渉中・・、こういう交渉はおなじ技術屋として大事なことです。

さて、今年のお盆も郷里の秋田に帰省しました。もう何年前のことだろう、秋田と青森を襲ったリンゴ台風。家内の実家を直撃し二階の屋根が半分吹き飛ばされました。雨で濡れた屋根裏から出してきた箱の中から古くてぼろぼろの掛け軸が・・。

家族でお金を出し合い、それでも足りなくて災害対策費用を無利子で借りて、まずは屋根や建具を直しました。

その後家の修理が落ち着いてから、少しずつ掛け軸を額装に改装しました。なにしろ家の守り神としてあった掛け軸、骨董店では二束三文どころか、引き取ることさえできかねますと断られそうな作品でしたが、粗雑に扱うことはできません。

不動明王、そして菅原道真公の天神様。写真は暗いところに祀ってあるのでフラッシュの跡があるのはご容赦願います。



それと庚申様。



菊川英山の虎。



これはなんだったかな〜



金毘羅大権現・・、改装して直す時に自分で持ち歩いて現場の安全祈願??



この作品だけはなにやら印章がありますが、どなたの作品だろう??

 

これらは家の2階に私がまとめて祀りました。りんご台風以来、少しずつ、資金を調達しては直してきた家ももう少しで完成です。これも神々のご加護の賜物でしょう。

祖先や神々は大切にしなくてはなりません。仏壇、神棚は大切に・・。信仰、宗教をどうのこうのいうだけではなく、己の力の及ばぬところで世の中は動いているという謙虚な祈りの姿勢を忘れないようという戒めのためにも・・・・。

大切なものを失って人間は初めて己の無力さ、人生の儚さを痛感し、大切なものとは何かを知ることとなります。それを失わぬようにとの願いから神々や先祖を敬うのです。それでも残念ながらいつか必ず失うものです・・。

2014年8月 天地交換・紐交換 二重箱・上箱新調

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退職金の優遇金利の運用も70%終了、約3年できる見込みです。ちょっと特殊な運用でしたが、有利な運用になりました。今後参考にしたい方は・・・・内緒だよ

ちょっと痛んでいる掛け軸で本体がなんともない場合には天地(上下)を新しくして、箱を新調するということをします。
漆器、掛け軸、陶磁器・・、遺すモノにかける費用はばかになりませんが、遺すと相続税だなんだといわれるとばかばかしくなることも正直なところありますね。ゆえにかなりの数を処分することとなり、その費用でメンテナンスをすることにしています。

月下楼閣水墨山水図 橋本雅邦筆
絹本水墨淡軸装 軸先鹿角 合箱 
全体サイズ:横565*縦1960 画サイズ:横503*縦1200



全体さらりと描かれていますが、その技法の確かさは全体の緊張感を損なうものではなくいい作品となっています。とはいえ著名な画家のほぼ90%は贋作ですので、判断は慎重を要します。とくに橋本雅邦などは出版物など記録がないとまず正式な真作とは認められない傾向にあります。それだけ贋作が多いということでしょう。



染み抜きしたり、全体を改修すると結構出費がかさみますが、天地交換などの方法では最小限に出費に抑えられます。



ちょっと気になるが手放すには惜しい、いましばし手元に於いて真贋を見極めたいときの作品にはちょうどよい改修かと思います。それと贋作でも普段飾っておくと何があっても惜しくはないという安心感があります。掛け軸の贋作にはそういう飾り方?もります。



「2014年8月 天地交換・紐交換 二重箱・上箱新調」 処分するだけでなくて遺すものにはそういうものあります。



表具の改装も各々の目的に応じて依頼する表具師を変え、そのやり方も変えていくのがいいと思います。

備前徳利

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いろんな局面で税理士さんや銀行さんと面談することが多いのですが、今の経済状況は決して良い状況とは言えないということを実感します。バブルを味わった人達はいろんな意味で慎重ですが、現在の日本を取り巻く少子高齢化、個人的には大幅な増税(消費税、相続税、所得税は基本的に近代日本には例を見ない増税)の状況から楽観は許されないというのが共通した所感のようです。

株高に促されるように投資をすることはかなりの慎重を期さないといけません。たとえば金利が上昇した場合にはどうるかシミュレーションするとか・・。

建設費は今後ますます高くなりますがテナント料、家賃収入は想いのほか上がりません。建設コストを上げるような状況にデベロッパーはないということで、下手をすると建設業だけ憂き目とみる羽目になりかねません。

さらに個人としては投資には不向きな状況のなかで融資先のない地銀などは相続税対策としてマンション購入やアパート建設を勧めますがリスキーな面を派博しておく必要があります。

とかくこの世は自分の利益しか考えない人が多いと思った方が利口です。骨董の世界も同じですね。新しいものは古く、贋作を真作のように売り込んできますから・・。

さて、本日の作品や如何・・・??

備前徳利
古箱
口径41*最大胴径108*高さ180



本作品の製作年代など詳しくは不明です。



昭和初期に津山市で購入したものらしい・・、時代は、製作者は??? 全くわかりません。



ただ「いいものはいい。」のです。売り込みが古備前であろうがなかろうが、審美眼だけが頼りです。



灰を被った胡麻釉薬の流れ、窯変の発色の良さ・・、これこそ備前焼という大きめの徳利・・、というか一輪挿しがいいかも。



古備前の可能性もあるかも? というのはちょっと贔屓目に見すぎかもしれませんね。



星のあまたのほど作品のある備前焼。その中からこれぞというものを見つける必要があります。



好みの問題はあるでしょうが、美のツボは普遍のように思います。備前の窯変の七変化・・。



我が息子の表情も七変化・・。農協から頂いた洗濯もの干しの金魚がお気に入り・・。



七変化・・、セオリー通りいかないのが世の常・・。魑魅魍魎たる世界に君はようこそ・・


備前耳付花入 藤原建作 その3

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骨董蒐集というものは難しいというか、面白いところがあります。ある一定の資金でまとまっていいものを一点だけ購入すればいいのにと思う人がほとんどなのに、なぜかしらそれが出来ない人が多いのです。

まず「一点だけいいものを手に入れる」というのが至難の技なのです。信用ある骨董商、鑑定書のある作品はお値段が高い。手放す時にはその値段では売れない値段で購入しなくてはいけません。金銭的には損をすることになります。資金があっても損を承知で購入に踏み切れるかどうかです。つまり欲が働くのです。

眼力のある人と自信のある人は値段の高い堅実なものよりも、一ランクも二ランクも下げた作品を狙うこととなります。眼力のある人と自信のある人以外も狙うから始末に悪いのですが・・。

当然そこには贋作が交じってきます。ここで欲によって贋作ばかり貯めこむコレクションになる可能性が高くなります。安物買いの銭失いです。「なんでも鑑定団」の登場するガラクタ蒐集がその一例です。

資金があるなら損をしても堅実なものを購入するというのが得策のようです。

自分では十分な知識と眼力を持っていると思っている人ほど贋作だらけというには実に面白い現象なのですが、これは事実のようです。はてさて我もこの迷路に迷い込まぬように自戒をしているのですが・・・。

本日の作品はなぜかしら人間国宝のなれなかった藤原建・・、その作家の耳付花入を3点ほど所蔵しています。

藤原建の作品のその3です。(一部は非公開です)

これもまた安物買いの銭失いか・・・

備前耳付花入 藤原建作 その3
共箱共布
口径97*最大胴径110*底径110*高さ245



実に堂々とした作品です。いつか備前焼をすべて並べて比較すると面白いかもと思っています。



金重陶陽、藤原啓、藤原雄、伊勢崎淳、藤原建らの作品は本当に安くなりました。好きな人にはいい蒐集対象ですが、高くはなりませんよ



栞から昭和50年頃の作品と推察されます。53歳の若さで亡くなっていますが、そのなくなる少し前の作品です。




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藤原健:大正12年生まれ 昭和52年没 享年53歳。陶芸家。備前焼。岡山県生。叔父は藤原啓。金重陶陽・北大路魯山人に師事。岡山県無形文化財。日本工芸会正会員。日本工芸会正会員で金重陶陽賞ほか多数賞を受賞する。

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日本人の博打依存度は欧米各国に比較して異常に高いらしいです。小生の骨董蒐集も博打・・・ 気を引き締めなくては・・、もとい財布の紐を絞めなくてはいけません








花魁図 恋川春政筆 

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表具は再表具されて綺麗になっていますが、再表具に際して本紙は染抜きなどをしなかったようです。絵の具が落ちるのを懸念したからでしょう。

花魁図 恋川春政筆 
紙本着色軸装 軸先螺鈿塗   合箱入
全体サイズ:縦1965*横435 画サイズ:縦1285*横283



歌川春政・・・・知ってる人は少ないでしょうね。本作品は「晩器春政」として売られていましたので余計に解りにくかったかもしれません。

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恋川 春政:(こいかわ はるまさ、生没年不詳)とは、江戸時代後期の浮世絵師。恋川春町の門人といわれる。



北川、恋川、晩器、花月斎、春政などと号す。享和(1801年 - 1804年)から文化(1804年 - 1818年)頃にかけて、主として喜多川歌麿風の肉筆浮世絵の美人画や読本の挿絵などを描いている。文化8年(1811年)刊行の馬田柳浪作の読本『朝顔日記』十冊の挿絵などが知られている。

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古いがゆえに痛みがありますがよく描けています。



当方は浮世絵に詳しくありませんが、よさそうな感じの作品のように思えます。



シミや絵の具の落ちなどが残念な作品です。



鶴の柄の着物が描かれ、表具にも鶴の柄の布が用いられ、吉兆の作品です。



だんだん少なくなっている肉筆浮世絵・・、古い肉筆画にはなかかなお目にかかれなくなりました。




恋川春政の代表的な作品には下記のような作品があります。

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代表作:「美人に猫図」   紙本着色   東京国立博物館所蔵 
    「二美人図」    紙本着色   東京国立博物館所蔵(二作品は下記参照)
    「遊女図」     絹本着色   光記念館所蔵、
    「懐紙を持つ芸妓図」紙本着色   熊本県立美術館所蔵、
    「駕籠の女」    大長判    城西大学水田美術館所蔵

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それらの作品のうちの二作品と比較してみました。まずは本作品の上半身部分と落款の比較です。



「美人に猫図」紙本着色 東京国立博物館所蔵 



「二美人図」 紙本着色 東京国立博物館所蔵



ところで賛はいったいなんと読むのでしょうか?



歌が添えられているように思われますが・・・。「人も世も 花ぞ根にあり 冬さくら」・・??



冒頭の印章もまた不明・・・。



「直一亭」?? 「芦洲」???



表具は後世の再表具・・・。



さて本作品の氏素性や如何・・・。





草花紋瀬戸絵石皿 時代不詳

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居間のテレビの脇に飾って毎日本作品を眺めていますが、なかなか面白い作品です。見飽きない作品のひとつですね。絵高麗と呼ばれているデザインでしょうが、製作年代は不詳です。

草花紋瀬戸絵石皿 時代不詳 
口径216*高台径126*高さ35



本ブログに今までにもいくつかの瀬戸の石皿の作品を投稿しております。

灯火紋様行燈織部六寸皿  
口径190*底径150*高さ18

瀬戸花紋石皿 江戸期
口径162*高台径65*高さ33

瀬戸跳兎紋馬の目石皿 江戸期 その4口径250*高台径165*高さ35

瀬戸水鳥紋石皿 江戸期口径165*高台径70*高さ25

瀬戸 馬の目皿
径265*高台径126*高さ45

瀬戸鯛紋石皿 江戸期口径240*高台径123*高さ55

別に瀬戸石皿を蒐集しているわけではありませんが、その洒脱な絵紋様と頑丈がゆえの普段使いによって、廉価なこともあり、ついつい骨董市などで購入したものです。



だいぶお値段もひところより安くなったように思います。本作品もこのように絵の出来の良いものは高嶺の花でしたが、今回は気軽に買えるお値段でした。



欠損もなく、茶色の色のある面白みにある作品は数が少ないかもしれません。花? カエルにみえる?? 口縁周りの馬の目?紋様の勢いのある筆遣いなど魅力満載です。江戸期を模倣した近代作の可能性もありますので時代は不詳としております。



陶磁器に関しては深い知識がないのですが、「面白いものはいい」



この種の作品がいくつかあって普段使うには面白いですね。



大きさも七寸皿でちょうどよいです。



日本の食卓は西洋かぶれ?ですが、食器くらいは日本の作品にしたいものです。





藤之図 伝斉白石筆 その5

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斉白石の名前は知っている人は多いかと思います。本ブログにも何度か登場しました、「なんでも鑑定団」にも出品されています

近年、その価格は上昇し数百万円を超えることもしばしばです。それゆえに贋作も多く、肉筆と区別不可能なほどの版画もまた横行しています。このような部類の作品も勉強のために購入しています。日本の石刷りの複製画にもこの手のものは存在します。

藤之図 斉白石筆 その5
紙本水墨淡彩軸装 合箱入タトウ付 
全体サイズ:縦2090*横540 画サイズ:横340*縦1080



中国絵画は印刷、版画、弟子による作品など贋作というより模倣品が多いと思います。特に版画は素人では判断がつかないほどのものがあります。弟子のよる模倣作品も贋作とはいえない作品が存在するがゆえに判断が難しい作品群のひとつです。



本作品が白石の真作なら現在100万前後(現在はさらに高い?)の値をつけると思います。落款に「星塘老屋後(后)人白石冩京華」とあり、作風からも晩年の作と推察されます。



京華は「都の美称。花の都。京洛。」で北京のことかと思われます。印章は「阿芝」の朱文白方印、「白石翁」の白文朱方印が押印されています。



表具は中国で製作されたままのようです。

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斉白石:1864 – 1957 中国の画家。湖南省湘潭生まれ。1957年(昭和32年)没、享年94歳。幼名は阿芝、のち璜、字は渭青。別号に老民、木匠等。40歳から全国を行脚し、もちに北京に移り住んだ。石涛や呉晶碩に至る明・清の個性派から多くを学び、草花・虫・蝦などを愛情とユーモアに満ちた画風で描いた。また篆刻は雄渾な作風を備える。北京美術専門学校教授。中国美術家協会主席。人民芸術家の称号を与えられた。



号について:宗族派名纯芝,小名阿芝,名璜,字渭清,号兰亭、濒生,别号白石山人,遂以齐白石名行世;并有齐大、木人、木居士、红豆生、星塘老屋后人、借山翁、借山吟馆主者、寄园、萍翁、寄萍堂主人、龙山社长、三百石印富翁、百树梨花主人等大量笔名与自号



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補足:中国清朝末期から現代の詩人・画家 ・篆刻家。日本語読みは「せいはくせき」だが「さいはくせき」の読みも一般的。英語では"Qi Baishi"と表記。

斉白石は湖南省の貧農の家に生まれた。家計の困窮と病弱により学校には1年に満たない期間しか通えなかった。木工としての腕は極めて優れ、やがて広い地域で評判となる。27歳でようやく本格的に地元の画家について花鳥画、山水画等の画法の勉強を始め、同時期に、詩文も学んだ。30歳で、書法・篆刻も独学した。40歳頃から5回にわたり、中国各地を旅してあらゆる景観を銘記し、同時に全土の優れた伝統芸術を実見して芸術家としての視野を広げた。57歳で、戦乱を避けて北京に移住し、書画に専念する。その後、斉白石は、徐渭の奔放な溌墨、石濤や八大山人のシンプルで深淵な筆さばき、呉昌碩の書法などを吸収して、いわゆる「紅花墨葉」の画風を確立した。



海老、蟹、鶏、蛙などのいきものをシンプルに描くことを好んだ。草花、花鳥、昆虫、山水などを組み合わせ、濃い色彩と自由闊達な水墨を用いて生き生きと描いた。



日本でも知られるようになり、1930年(66歳)にはイサム・ノグチが北京に来て画法を学びに来ている。陳半丁・陳師曽・凌文淵と共に、斉白石は京師四大画家と称された。中国近代絵画の巨匠、歿後50年を迎えるが、彼の絵画に対する評価は近年ますます高まっている。



中国において日本の作品を高値で蒐集する人も多い。白石の絵画は独創的なデザイン感覚において、他者の追随を許さない。誰もが真似できそうで、しかし以前には全く描かれたことのない奇抜なかたちと色彩が堂々とその存在を主張する。まさに現代のグラフィック・アートに通ずる面白さがある。

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斉白石の作品の魅力に魅せられている人もたくさんいます。同じような作品の例を下記に記しますが、落札金額が本当なら異常に高い画家の一人でしょう。

参考作品


斉白石 葡萄熟図(図左): 102×34cm 東京中央オークション 
(落札額:2300万)




斉白石 葡萄図 (図右):  99×34cm 横浜国際オークション 86才作
(落札額: 300万)



落札金額の違いは作品の保存状態が大きく影響しています。

さてそんな夢のような価格はさておいて、斉白石の世界を楽しみましょう。






備前手持皿 隠崎隆一作 その2

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陶器でつくる手桶の器・・、自分で作ると解りますが意外に難しいものです。私も挑戦したのですがうまくいかず、結局陶芸の先生がほとんど手を貸してくれて作った苦い?思い出があります。その作品は「どこかに箱に入れてしまったはず・・」と思い起こさせてくれる作品です。

備前手持皿 隠崎隆一作 
共箱
最大幅*高台径*胴径*高さ・・・未測定



作陶というものを経験したことのない人はとても損だと私は思います。



土を捏ね、「さてどういうものを作ろうか」と心が弾むのはとても楽しいことです。



電動ろくろで器用に作るのよりも手捏ねでつくる器が味があっていいものです。自分で作った皿やお茶碗を使うのは人間の原点のように思います。

今はなんでも買ってしまいますが、数十年前は椅子や机なども自分で作ったものです。どうやって作るのかとても楽しかったですね。造ることを愉しく思う気持ちを忘れた人(現場マン)にはモノを作る資格そのものがもはや無いといってもいいでしょう。



管理ばかりでなく、人にモノを作る愉しみを与えることが我々の使命のひとつでもあります。

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隠崎隆一:1950年 長崎県に生まれる。1973年 大阪芸術大学を卒業、1988年 田部美術館「茶の湯の造形展」大賞受賞。1995年第8回MOA岡田茂吉賞優秀賞受賞。1996年 日本陶磁協会賞受賞。2004年 「備前焼の魅力―伝統と創造―展」出品

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贋作考 浅絳山水図 その2 伝横井金谷筆 その4

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今週は横浜、福島、大阪へ・・・、一昨日はいわきから富岡町まで・・。今回は原発へは入場している時間はありませんでしたが、富岡の現状は少し見られる時間がありました。予想以上に復興は進まない状況で、3年前の津波被害のままとといった方が適切ですね。

下記からは一ヶ月前の下原稿のままの投稿です。

政府の対応はいまひとつというのが実感・・・。オリンピック景気、アベノミクスと騒いでいますが、景気もいまひとつ。理由は景気がグローバルで動いていること。アメリカの金利動向、ヨーロッパのリスクやアジアの関係など世評による為替、株価が大きく景気に変動を与える要素になっています。

もうひとつは人不足・・・、技術者、運転手、作業員がまったく不足しています。少子高齢化が現実となってきていますが、まったく対策が打てない政府の無策ぶりには改めて失望せざる得ません。小生のように還暦過ぎてから子供を作るような気概が欲しいもの

優遇税制、教育費補助、保育園の増設、介護者の優遇など日本をダメにするTPPなどに夢中になっているどころではないのです。これらを優先順位をつけて早くやることが大事だと思うのですが・・。

さて、本日は怒り?のあまりに「贋作考」

与謝蕪村に傾倒していたため、紀楳亭とともに「近江蕪村」とも称された横井金谷ですが、紀楳亭と横井金谷・・、よく比較されますが、好みは大きく分かれるところでしょうね。

浅絳山水図 その2 横井金谷筆 その4
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1880*横370 画サイズ:縦1335*横305




横井金谷は紀葉亭(1734年−1832年)と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われる。紀葉亭は蕪村に師事していたが、金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いが、その事実の確認はできていないとのこと。



名古屋において一時期近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけでなく、蕪村風の画風の絵は金谷が48歳以降から晩年の作品です。



横井金谷も贋作が多そうです。本作品も「伝」としておきましょう。






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横井金谷:1761年〜1832年(宝暦11年‐天保3年)。江戸後期の浄土宗の僧で,のち修験者となった。絵をよくし,名は妙憧,別号は蝙蝠道人。金谷上人,金谷老人とも呼ばれた。

近江国栗太郡の生れ。京都にのぼり,21歳で金谷山極楽寺の住職となった。のち諸国を歴遊し,中年になって名古屋住吉町に住して鈴木鳴門,丹羽嘉信ら文人画家と交わり,また張月樵に絵を学んだ。

「近江蕪村」と呼ばれるほど与謝蕪村に傾倒し,山水,人物を好んで画題とし俳画も描いた。みずからの放浪の生涯を描いた「金谷上人御一代記」を残している。

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この印章が確認できません



印章が一致するものがないから贋作という判断が一般的ですが、そういう方に限っていいものを蒐集できていないのも事実 文献で調べることに偏重するのも考え物、一番大切なのは手元に本物を置いて観るということらしいです。


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補足説明

金谷は宝暦11年(1761年)近江栗太郡下笠村(現滋賀県草津市)に、父横井小兵衛時平と母山本氏との間に生まれ、幼名を早松と称した。明和6年(1769年)、母の弟円応上人が住職を務める大阪天満北野村の宗金寺に修行に入る。明和8年(1771年)には近隣の商人伏見屋九兵衛の娘と結婚を約し、また江戸への出奔を試みるなど、良く言えば活発、天衣無縫な面が垣間見られる。

安永3年(1774年)、芝増上寺学寮に入るため江戸に向かい、翌年には早くも五重相伝・血脈相承を修めたが、安永7年(1778年)品川・深川への悪所通いが露見し増上寺を追われ、高野聖に化けるなどして下笠に帰国した。安永8年(1779年)伏見光月庵主寂門上人や京小松谷龍上人に教授を受けに下笠より通い、また因幡薬師で龍山法印に唯識論を、六条長講堂に法相の碩徳大同坊の講義を聴聞するなど勉学に励んだ。そのかいがあって天明元年(1781年)京北野の金谷山極楽寺の住職となり、山号をもって雅号とした。この頃のことについて、金谷自らが書いた『金谷上人行状記』において、岡崎の俊鳳上人に随って円頓菩薩の大成を相伝し無極の道心者と言われる一方で、博打・浄瑠璃・尺八などの芸事に夢中であったと記載されている。

天明8年(1788年)、正月30日の洛中洛外大火で極楽寺が消失し、負傷した金谷は翌月城之崎へ湯治に出た。翌年3月、長崎を目指し旅立ち、姫路の真光寺や赤穂の大蓮寺などで「円光大師(法然上人)絵詞」を描き、寛政3年(1791年)長崎からの帰途にも諸寺に立ち寄り絵詞を納め、翌年赤穂において浪士原惣右衛門の孫原惣左衛門の娘ひさと婚姻した。ひさを連れ江戸へ旅立つが、名古屋において長子福太郎が誕生し、名古屋で3千石取りの藩士遠山靭負の援助を受け留まる。享和2年(1802年)法然6百年御忌報恩のため全国48寺に「円光大師絵詞」を納める。文化元年(1804年)7月、京醍醐寺三宝院門主高演大僧正の大峰入り(大峰山に登っての修行)に斧役として従い、8月その功により「法印大先達」の称号と「紫衣」を賜り、名古屋に帰宅した。

文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)故郷近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結び、天保3年1月10日(1832年2月1日)大津坂本にて死去した。

横井金谷は紀葉亭(1734年−1832年)と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われる。紀葉亭は蕪村に師事していたが、金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いが、その事実の確認はできていない。
『金谷上人行状記』においても蕪村に関する事項は一行もない。但し、名古屋において一時期近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけではない。事実、蕪村風の画風の絵は金谷が48歳以降から晩年のものである。

彼は若いときから絵を独習し、特定の師についたわけではないが、与謝蕪村に傾倒していたため、紀楳亭とともに「近江蕪村」とも称された。63歳で坂本に住居を定め、草庵「常楽房」を営んだ。彼は、天保3年(1832)72歳で没するまで、ここで暮らした。この頃の金谷の画賛には「金谷道人滋賀山寺に於いて写す」「台嶺麓下金谷写す」などと記されている。おそらく大津の山水の美しさが、晩年の金谷の心をとらえたのであろう。


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古越前焼締肩衝水指 桃山期??

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もともと陶磁器の鑑賞の基本は「いいものはいい」という直感が大切だと思います。作家ものだから、家元好みだから、古いから、数が少ないから・・というのは邪道なのでしょうね。

古越前?焼締肩衝水指 桃山期??
杉古箱
口径160*最大胴径195*底径160*高さ175



本作品の製作年代など詳しくは不明です。

何気なく購入した作品です。古越前かどうかもよくわかりませんが、そういうふれこみでした。しかも桃山期??? そもそもこのような形が越前焼に存在したのであろうか??

家内には「漬物入れにどうだい。」と言って棚の上に置いておいたところ、家内は近くにあった水指の蓋をかぶせて「いいじゃない、水指に・・」だと・・

たしかにそれようにきちんと蓋を作るといい水指になりそうです。



釉薬や灰かぶりなど一切のない焼き締めの姿ですが、力強い轆轤目と石はぜがいい景色となっています。ちょっとした拾い物かも・・。



越前焼というとお歯黒壺・・、これこそお歯黒壺ならなんでもいいという風潮があり、姿、景色が変なものまで数万円から数十万円という訳の解らない値段になっています。





もともと茶道具を目的とした作風は一切なく、実用品ばかりの越前焼きです。その気風を尊重したいものですね。やっぱり漬物入れ

氏素性不明作品 仁王窯? 三作品 その3

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帰省の新幹線内で隣の若い女性に我が息子は熱い視線を送りっぱなし・・。

若い女性好きはどうも遺伝されたらしい・・・。

骨董と若い女性との共通点は???  お金がかかる? 面倒見るのがたいへん??・・いずれ碌なことはない
大いなる相違点は年を経るごとに魅力を増すのが骨董


さて本日は「氏素性不明作品 仁王窯?」の三作品目です。

壺屋焼 赤絵水滴 伝小橋川仁王作
合箱
胴径115*高さ75



小さいながらよく出来ています。



よく出来ているというのは味があるということですが・・。



御土産品??? 銘はなにもありません。



売主は二代目仁王と言っていますが・・、この作品だけでなく各売主はこれら三作品ともに??(三作品の売主は各々別です)

ま〜いいではないか、作者は誰でもね。さてこの水滴をなにに使おうかな? 醤油入れ?
水滴だけでは面白くない

備前茶碗 浦上善次作

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仕事をする上で大切なことは請負の矜持を守るということ。これが最近なされていないことを見受けられるジョブが多い。「下請けに責任や難しさを押し付け、自らの業務の責任を回避するような行為」は下請けからも声を上げるべき問題であろう。

先日、金物を請け負うことを前提とした仕事を最終的に小生の判断でお断りしました。元請のすべきことを下請けに押し付けることにより、元請自らのなすべき品質・工程管理に疑問をもったからです。むろんお断りする理由にはそのようなことは申し上げませんが、お断りにあたっては関係者に謝罪に回る始末・・。真の理由、そのことを意に汲んだ人が社内にも、発注にもいなかったというのはとても残念です。

下請けであろうとも「一寸の虫にも五分の魂」という気概が必要です。さて、こんな寂しい思いのときにはお気に入りのお茶碗で一服・・・。


備前茶碗 浦上善次作
共箱
口径115*高台径58*高さ84



大切な器の私流の収納方法を紹介します。

まずは中身がなにかすぐに分かるようにしておくこと。これは写真が便利です。これは上と横・・。積み重ねてしまうことが多いので横は必須です。これがないと中身を確認する必要が多くなり、棚などでついつい不安定なところで蓋を開け、破損の原因にもなります。

家元などに将来箱書きしてもらうから邪魔という人もいますが、今は水で簡単に剥がせます。



共箱、箱書きがあるもの作品を集めることが望ましいですね。それを保護する紙などを上にしておく。



中には説明書が必須。次に所蔵する人が器の由来を分かる人とは限りません。分からない人という確率が99%以上でしょうね。



器の周囲にはクッション材が必須。汚れや水分を取る布も必須・・。



茶碗などを布で直接包んではいけません。乾燥が不十分だとカビがはえます。和紙で先に包んでおきます。



以上が保存の仕方ですが、ふつうはこれらは自分で考えるのが常識・・。最初の話も常識とは思いますが、そのことを教える人がいなくなりましたね。



言っていることの裏の真(信・心)を知る人が少なくなったね・・・。



「茶碗もそう・・、裏を必ず見ること。仕事のプロは趣味もプロ並というのが通説・・・??。本当のプロが少なくなったね。」と独り言・・

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浦上善次:岡山県重要無形文化財保持者。1929年より名工西村春湖に師事。動物の置物や陶像などを得意とし、備前陶彫の第一人者。牛を頂点とした動物の置物、陶像、レリーフを得意とする。昭和4年、西村春湖に師事してヘラ技術を、同10年、北村西望に入門して彫塑を学ぶ。昭和13年から文展(日展)に3年連続人選して頭角を現し、フランスのル・サロン展で、金(48年)・銀(46年)・銅賞(45年)を受賞し、国際的作家になる。 昭和47年 フランス・ル・サロン無鑑査会員となる。昭和48年 岡山県垂要無形文化財保侍者となる。昭和57年 岡山県文化賞、紺綬褒賞をうける。外でも評価が非常に高く、多くの人々に愛されています。主な作品は、岡山新空港やJR伊部駅の陶壁など。紺綬褒章や勲五等瑞宝章など、数々の栄誉に輝く。

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連休は家内の実家へ・・・、いろんな意味で今後は大変そうです。

おっと、肝心のお茶碗の説明が・・・。ま〜、本ブログを読まれている諸氏には説明は不要でしょう


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