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Channel: 夜噺骨董談義
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氏素性不明作品 宋胡録? 青磁蓋物(キャンディポット) その1

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昨日は家内と息子を連れて母を訪ねました。ベビーカーを押して都内を移動すると東京という街がいかに弱者に冷徹なところか良く解ります。



まず車椅子やベビーカーのためのエレベータがない駅がたくさんあります。前述の移動では「南浦和」の武蔵野線のホーム・・。あれだけの乗客が乗り降りしながらまったくの配慮のなさはJRの怠慢としか言いようがありませんねエレベーターはむろんエスカレーターのありません。健常者は感じないでしょうが、ひとたび病人や年寄りの介護や当事者になったら、東京の街の不便さは最悪です。

田舎では絶対に考えられませんでした。65歳過ぎたら東京から脱却することにします。

ついでながら、車椅子やベビーカーを優先しない人はたくさんいます。席を譲らない人もたくさんいます。スマートフォンを覗いて知らんぷり・・、スマートフォンを多くの人が電車で使用している光景は異常ですね。周りとの関わりを拒否しているかのようです。会社でも集合や飲み会に来ない社員が多くいますが、これも同じ現象に見えます。このような社員に有能な社員は見たことがありません。

さて整理する作品も残り少なくなり、残っているの氏素性の解らぬ作品ばかり・・。

宋胡録・・スンコロクと称されます。いくつか本ブログでも投稿した作品群ですが、近年?非常に人気が高くタイで作られた贋作も多く出回っているようです。贋作とは言わないまでも模倣品もあり、また発掘品の高台に粘土を貼り付けて焼いた作品もあるようです。さて本作品は近代の作??




宋胡録青磁蓋物(キャンディポット)
口径104*最大胴径118*高台径*高さ173



宋胡録青磁ではこれだけの大きさでかつ共蓋の作品は見たことがありません。一般的は小さな作品が多く、その素朴さと愛らしさにおいて人気があるようです。




宋胡録青磁では漆の蓋を用いて水指に用いている作品はありますが、共蓋でのこのような作品は非常の珍しいと思われます。本作品は水指というよりもちょっと大きめのキャンディポットといったところでしょうね。



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参考作品
宗久草庵 特別企画展示室
宋胡録青磁鎬文広口壺(替蓋付き)
タイ シ サッチャナライ窯 高さ 134mm 直径 167mm



木内宗久:日本の伝統文化である茶道に生かせる作品を中心に東南アジア古陶磁を収集されました。茶道に東南アジア陶磁を取り入れることは、安土・桃山時代に始まっています。

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宋胡録青磁は現在のタイ王国、スコータイ王朝時代にスワンカローク窯にて中国陶磁の影響を受けて焼かれた青磁でいわゆる「宋胡録青磁」と呼ばれています。




本作品は表面に焼成時のフリモノがあります。また釉が高台部分まで垂れていますが、宋胡録青磁にはよくあることです。また蓋と口縁に補修跡があることから、14世紀頃の作品の発掘品の可能性もありますが、製作時期などの詳細は不明です。




氏素性な解らぬ作品に食指が動いてしますという好奇心・・ 



下手な金繕いはしました。

萩茶碗「玉づさ」 古賀大眉作 小堀宗慶箱書

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なにやら家内が大枚をはたいて? 購入したお茶碗です。スーパーでも割引商品しか?買わない家内にとっては大きな買い物です・・。

遠州流12世宗家であり、美術に精通していた茶道家でもあった小堀宗慶の箱書きのあるお茶碗です。

萩茶碗「玉づさ」 古賀大眉作
小堀宗慶箱書 共箱
口径146*高台径55*高さ68



箱書には「秋風に初雁が音ぞ聞こゆなる誰がたまづきをかけて来つらむ」と詠まれ、小堀宗慶の花押が記されています。古今集の秋上の歌で、意味は「秋風に乗って初雁の鳴き声が聞こえてくるよ、いったい、誰の手紙を身に携えてやって来たのであろうか。」ということです。




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吉賀大眉(本名:寿男):大正4年、山口県萩市の窯元の家に生まれました。当時萩焼は「伝統的な工芸という枠組みの中での陶芸」という認識による工芸品・商業製品が主で、美術・芸術といった認識ではありませんでした。その現状に疑問を感じた大眉は東京美術学校(現:東京藝術大学)に入学、大学では彫刻を学び、そののち陶芸家・加藤土師萌に師事しました。その後萩に帰郷した大眉は作陶に専念し、「伝統だけの観念にとらわれない」・「伝統を超えた陶芸の美しさ」を追及し、中央の美術展覧会等で精力的に作品を発表しました。芸術院賞をはじめ数々の賞を受賞し、ついには文化功労者・芸術院会員に列せられるに至った大眉はこうして萩焼の陶芸界に大きな足跡を残し、萩焼を芸術にまで高めた作家としてその業績を讃えられています。



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12世小堀宗慶:大正12年(1923)1月14日遠州茶道宗家11世小堀宗明の長男として生まれる。 東京美術学校(現東京芸術大学)在学中、学徒出陣にて満州に従軍。 終戦後シベリアで4年間の抑留生活を送る。昭和24年9月に復員し、翌25年音羽護国寺に於いて、遠州公嫡子大膳宗慶公の号を襲名し、以来茶道界発展に尽力。同37年に12世を継承。「国民皆茶」をモットーに、茶道界のリーダーとして、茶道本源に関しての研究はもちろんのこと、建築・造園の指導並びに芸術・工芸の分野においても幅広く活動している。 特に名物裂の研究、また茶花に関しては当代随一といわれ、また藤原定家の流れをくんだ「定家書風」の第一人者としても有名。 平成4年10月には永年の文化功労に対して、都知事表彰を受ける。また平成5年には勲四等旭日小綬賞を受賞する。平成13年元旦より遠州茶道宗家として13世家元の後見はもちろん、茶の湯を軸として幅広い活動を続けた。



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吉賀大眉には個人作と窯作品とがあるようですが、本作品は本人作の作品ですね。



窯作品は酒井柿右衛門がその最たるもので、窯作品を本人作と勘違いして購入する人も多いようです。完全に商流にのった利益優先の作品群です。浜田庄司の窯にもあります。



萩茶碗というと最近は三輪休雪かな? 坂倉などもありますが、今回の投稿作品はオーソドックスな萩茶碗です。

氏素性不明作品 備前耳付水指

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陶磁器の行きつくところは「備前焼」という骨董収集の先輩が言っていましたが、最近は納得のいくことだと思っています。無釉の火に任せた作行きは人間の及ばぬ作品を生むようです。備前焼だけでなく他にも無釉の作品がありますが、窯変の妙は備前に敵う陶器はそうあるものではないように思います。

本日はその備前の水指ですが、氏素性は全く不明です。本ブログへの投稿作品は当方の感で蒐集しいるモノばかりで、本作品も形が面白く、窯変が興味深いことから購入しましたが、価値などは一切解りません。ただこれほど作為的なものも珍しくお見事というしかありません。人間もここまで作為的となるとかなりの名演技??

備前耳付水指
杉古箱
口径96*最大胴径165*高さ170



本作品の製作年代など詳しくは不明です。口縁から底にかけて割れの補修跡が見らますが、共色でうまく補修されています。



蓋は塗で作られています。



底などにも窯印らしきものは一切なく詳細は不明です。



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同類?の作例
備前 耳付 水指
高さ18.7cm 口径16.8〜18.5cm 左右22.7cm 底径17.5cm


備前の水指としては作振りに変化があっておもしろいことから、茶人の間では声価が高く、益田家に伝来したものです。



作行きにかなり作為が目立ち、全体の作りも薄手にできています。口部を歪め、胴にも箆使いがかなり細かに施されています。肩の左右についた耳にもおもしろみがあり、胴裾に二段に箆目をめぐらせ、底は平らです。

口部から肩にかけて、一部に面麻釉が降りかかり、一部ほどよく、あるいはこげて窯変をなしています。見込に馬蹄形の印がおされていますが、印付が悪くかすかに残っている程度のものです。

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本作品は上記の作品と比べるべくもない作品ですが・・。よく見ると補修跡の共色が剥がれてきていいますので、金繕いが必要です。



本作品の特徴はその耳が大きく力強いことです。ここまで作為的だとイヤミを通り越してお見事というしかありません。



作為的ですが、これは作ろうと思ってやってみると分かるのですがなかなか出来るものではありません。



これは男の水指ですね



氏素性不明作品 古伊万里青白磁花弁形向付

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息子は我が家の仕事場の椅子がお気に入り?? 

「よ! 社長!」「なんだね、君」



本日は白磁というより青白磁の発色といえる奥深い色の見事さにほれ込んで購入した作品です。

古伊万里青白磁花弁形向付
合箱
口径117*高台径42*高さ65



伊万里だ思うのですが、よくわかりません。伊万里だとしても製作年代が解りません。



贔屓目に見ると古伊万里?? 大きな勘違いかも・・・。我が息子が社長気分になったようなもの・・。



卑下してみると100円ショップの売り物???



この辺が陶磁器の難しいところ・・。



昔は難しい技術でも現代では簡単に焼成できる。



とはいえ本作品は古伊万里・・・、だと思う

氏素性不明作品 清涼美人図 肉筆浮世絵

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週末は親子ともども遊び疲れて昼寝・・。



母との面談ではなぜかしら大泣き・・、どうも人見知りする段階に入ったらしい。



親子ともども女性は若い方がいいらしい。そこで本日は美人画の投稿となりました。

清涼美人図 肉筆浮世絵
紙本着色軸装 軸先   合箱入
全体サイズ:縦1870*横520 画サイズ:縦1070*横385



本作品は無落款です。かなり傷んでいた作品を改装しています。



幕末から明治期にかけての作品?? この頃の歌川派や菊川派の肉筆浮世絵は型にはまり、ほとんど見るべきものはないと思っています。



本作品は書き込みや技量としては未熟ながら、女性の肢体の描写がいい。



団扇を後ろに片足を上げて、如何にも暑さをもてあましているけども楽しそう・・。



ちょっとした色気というのはこういうのを指すのでしょうね。最近の女性のあらわな姿はなんとも・・・。



うち捨てられいる氏素性不明の作品群・・、いったいどれほどの価値を持ち、どれくらい存続し続けることか。



氏素性の解らぬものに人見知りすること無きように・・・。




関羽(関羽周倉)図 天龍道人筆 その22

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仕事にも人生にも二人三脚というか、相棒というか、互いに刺激し合い、欠点を補え合える人物が必要なものです。

さて本日はそのような二人の組み合わせ・・・。

天龍道人の作品が「葡萄図」、「鷹図」、「山水図」のような水墨画だけが得意と思ったら大間違いで、長崎派のような色彩画にも長けています。本日の作品は74才から「天龍道人」と号する以前の作品で、この当時の作品は非常に少なくとても貴重であると思われます。


関羽(関羽周倉)図 天龍道人筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1830*横460 画サイズ:縦980*横330



落款は「七十翁王公瑜瑾冩」と記されていることから、1787年(天明7年)、天龍道人が70歳の作品で、74才から「天龍道人」と号する以前の作品で、この頃の作品は非常に少なくとても貴重です。



印章は「王瑾印」、「王公瑜」の白文朱方印が押印されています。他の所蔵品「虎図」が71歳の作品、「鷹図」が70歳の作品であり、ほぼ同時期の作品でしょう。



虎図 天龍道人筆
全体サイズ:縦1450*横370 画サイズ:縦696*横283


鷹図 その2 天龍道人筆 その13絹本着色軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦1810*横492 画サイズ:縦940*横360


本作品のような作品は「関羽図」として数多く描かれています。「関羽」が神格化されたことにより、とくに中国からの画家の渡来が多かった長崎では多くの作品があったものと推察され、長崎派の影響のみられる天龍道人もそれに倣って描いた作品と推察されます。



関羽とともに描かれている人物は側近の「周倉」という架空の人物です。




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関 羽:(かん う)? - 建安24年12月(220年1月)[1])は、中国後漢末期の将軍。字は雲長(うんちょう)。元の字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。子は関平・関興。孫は関統・関彝。

蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた。悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神とされた。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。

小説『三国志演義』では、「雲長、関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、『三国志演義』などでは「美髯公」などとも呼ばれる。

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周 倉:(しゅう そう)は、『三国志演義』『三国志平話』『花関索伝』『山西通志』『関大王独赴単刀会』『聊斎志異』に登場する蜀漢の武将で架空の人物。

古典劇目の『走麦城』、『収周倉』、『収関平』で字は元福。小説『三国志演義』の第二十七回で、黄巾時代からの同僚裴元紹から語られているところによると、出身は関西地方(涼州)であり、両腕に1千斤の怪力があり、鉄板のような厚い胸板に、渦を巻くような形の縮れ髭の容姿であるという。

関羽の側近としてあまりにも有名なため、実在の人物ではないにもかかわらず、湖北省当陽県麦城村(当陽市南東30km)には墓が建立され、関帝廟には関平と共に関羽の従者として祭られている。中国や華僑の居住地では、現在でも信仰の対象とされている。

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天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。

天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。

30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。

54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。

天龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。

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氏素性不明作品 金彩東屋型蔦紋様土瓶 

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モノはモノでしかなく、スミカはさだまるものでもなく、ちいやめいよは思うほど大事無く、人は生きるよりどころを常に求めてやまない。つまるところ人は己の価値観を持つことで生きる術を持つようになる。

モノはモノでしかない・・、そう骨董は所詮ものでしかない。つまるところは己の価値観で・・・・

骨董市などで骨董かなにか解らないものでも気が惹かれる作品があることがあります。本作品も骨董の部類に入るのやらさえ解りませんが、ちょっと惹かれて3000円で購入した作品です。



金彩東屋型蔦紋様土瓶 
合箱
幅140*奥行125*高さ210



急須として売られていましたが、急須というより割と大きいので土瓶と称するのが適切かと思います。土瓶蒸しに最適?? 

最近の作?? 蓋の裏に銘があるのですが判読不明です。京焼???



手持ち部分の野趣あふれる趣と丁寧に作られている本体とがアンバランスではなく、実に魅力的で実用以外にも飾りとしても面白い作品かと思うのですが・・・。



読めそうで読めない刻印、いったいどこで作られれた作品で、いつ頃の作品でしょうか?



本作品が陳列されていたなら、本ブログをご覧に皆様は購入しますがか??



古かろうが新しかろうがいいモノはいい・・・。






琉球南蛮焼花生 荒磯徳利(鬼の腕)   

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さて、会社の方は昨日から夏季休暇に入りました。本日から私は郷里に帰省します。ブログのネタ(作品)もそろそろ尽きてきましたので、新しいネタでも探してきましょう。

本日は武器の代用品としても製作された作品です。

琉球南蛮焼花生 荒磯徳利(鬼の腕)   
 合箱
口径44*最大胴径80*底径60*高さ258



本作品は沖縄でウニヌーティー(鬼の腕)といわれている作品のようです。



琉球は、1609年に薩摩藩により占領された。薩摩藩の支配下にあった時に、反乱を起こさぬように武器となる刀を所持する事を禁じられていました。武器を持てなくなった琉球の人びとが慣れ親しんでいる泡盛の徳利を、 いざとなった時は底を割って武器として使ったと言われ、 その割れ口が「鬼の腕」に、鬼の腕の太さに似ているところからそう呼ばれています。




また、海上輸送の折に海賊に襲われたとき、こん棒や投げつける武器としても使われていたようです。



泡盛焼酎を入れる器だけでなく、武器としての用途もあり、かたく焼き締めて硬く、分厚くてずっしりと重いという特徴があります。




江戸時代に、琉球が薩摩藩から独立して、江戸に参勤交代するようになって、道中の街道や宿場で泡盛を入れた酒瓶(鬼の腕)を宣伝したのが、茶人の眼にとまって、姿形のよい花入れとして重宝するようになりました。当時は、鎖国時代で、外国(南蛮)との貿易は、長崎の出島以外は御法度があり、外国製品はたいへんな貴重品で、異国南蛮のやきものに対するエキゾチックなあこがれも強かったこともその要因と考えられます。



鬼の腕は、茶花一輪、枝もの、投げ入れが品よく収まり、花もちも最高と評されています。南蛮焼は総じてその窯変を愉しみ、その粗雑さ、歪さも興味が尽きない。水に濡らして愉しむのもまた一興です。




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南蛮焼

南蛮焼というのは、中国南部・ルソン・安南などから輸入された?器(せつき)のことで、紫黒色で無釉(むゆう)のものが多く、日本では茶入れ・茶壺・水指・建水などに用いられてきました。

各国産のものが混在しており、作風は一定していません。南蛮島物はほとんど呂宋(フィリピン)と阿嬬港(マカオ)との製品とすることがありますが、これらの地はただ陶磁の集散地であっただけで産地ではないようです。

中国明代の広東窯はフィリピン、ボルネオその他南洋諸島に大小各種の陶器を輸出したので、南蛮焼といわれるものの大部分は中国南方の生産と思われ、南蛮芋頭水指という伝世品に万暦(1573-1619)の年款のあるものがあります。そのほか安南(ヴェトナム)・迢羅(タイ)あたりの粗製品も混在しているようで、またインド文のあるものもあるのでインド産の一部も南蛮焼と呼ばれていたことがわかります。

南蛮焼と呼ばれるものを通観してみると、一定の作風がなくまた窯印もほとんどなく、多くは紫黒色の妬器質で、無釉の作品に頑健味があるようで、また施釉の作品もあります。『万宝全書』は「南蛮焼は下品なり日本の備前焼物を見るが如し」といいます。備前焼と南蛮焼は無釉の焼締という似たような器とみなされていたようです。

国内の南蛮写しは備前・伊賀・京都・信楽・常滑・瀬戸・丹波・萩・唐津・高取などにありますが、本作品は沖縄の南蛮手に分類されるかと思います。



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閑日 田中以知庵筆 その5

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「癒しの画家」という表現がぴったりくる画家の一人ですが、知名度は非常に低い画家です。そんな田中以知庵の癒しの作品です。

昨日から郷里でのんびりしています。県立美術館では館長自らの説明での藤田嗣治の作品を鑑賞させていただきました。いいね、秋田。

閑日 田中以知庵筆 その5

紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1690*横450 画サイズ:縦800*横300



家内はこの作品を気に入ったようです。



胡粉で表現された山中の花を見ながら、庵住まいの隠居人は何を思うのだろうか?



移りゆく季節を感じながら、時の流れに身を任せている人物を描いた飄逸な世界・・・。



今忘れている日本の本来の国土というものを大切にする心情がひしひしと伝わってくる佳作だと思います。



「国家の基本は農にあり」と言われた時代は遠い過去・・。山は荒れ、田畑も荒れ、住居は空き家となり、人の心も荒んできている現代。



少子高齢化対策とふるさとの創生こそがこれからの日本の未来には大切なことです。



共箱このような作品は大切にしていきたい。

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田中以知庵:日本画家。明治26年(1896)〜昭和33年(1958)。東京生。名は兼次郎、別号に咄哉州・一庵等。上原古年に画の手ほどきを受けたのち松本楓湖に師事し、巽画会・紅児会等で活躍する。速水御舟などともよく交友し1929年には小室翠雲の推薦により日本南画院同人となりその後は同展を中心に日展などでも活躍した。

また、釈宗活禅師に禅を学び1912年には禅号として咄哉(州)を拝受、南画研究と禅修行の為に朝鮮半島に渡るなど求道的な一面をみせ、作品では詩情に溢れた花鳥、風景画を展開、晩年は風景画に独自の画境を拓き、飄逸な絵画世界を展開した。春陽会会友・日本南画院同人・日展審査員。昭和33年(1958)歿、65才。

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下記の作品は箱もなくもったいないので、太巻きにして保存箱をあつらえました。このようなことに労力をかけるのも蒐集する者の務めかもしれません。

清流(仮題) 田中以知庵 絹本着色軸装 軸先象牙 
全体サイズ:縦1440*横653 画サイズ:縦446*横509

松竹梅図茶巾筒 古清水焼

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松竹梅図茶巾筒 古清水焼
口径48*底径65*高さ75

 

松竹梅の紋様は三つとも寒さに耐えるところから、歳寒の三友とよび、めでたいものとして慶事に使われます。洒落としてはウナギ屋で長時間待たされることを「待つ(松)だけ(竹)うめ(梅)え」として使われます。



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古清水:制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。 なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。 古清水の名で呼ばれる、緑・紺色の色釉を用いた色絵陶器や、それらに赤・金彩などの色釉で絵付けされた色絵陶器は京都らしい優雅な情感にあふれています。全体に淡い卵色の肌に細かいヒビが入り柔らかい風合いを持っています。



誕生の背景には、安土桃山時代から京の商人が岐阜県東濃地方の美濃焼を購入する為に文化交流が盛んあったことがあります。岐阜県土岐市の陶磁器資料館にも卸問屋の帳簿に記載が有ります。江戸後期になって,清水焼の需要が増えた為に生産が追いつかなかったようです。その理由は瀬戸や美濃の窯数は膨大な数に対して清水はわずかな窯しかなくて生産の対応ができなかったことによります。そのために美濃の素焼きを京の商人が購入して,清水で絵付けのみ清水で対応したようです。古清水焼は美濃焼と良く似ている為に間違えやすいのはこのためです。江戸時代の古清水焼は伝世品の品数が極めて少なく、この作品を古清水焼と混同しやすいようです。

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補足説明
仁清は1656‐57年(明暦2‐3)ごろから本格的な色絵陶器を焼造した。その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水(こきよみず)〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成された。一方,1699年(元禄12)仁清の陶法を伝授され洛西鳴滝の泉山に窯を開いた尾形深省(尾形乾山)は,兄光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し,〈乾山(けんざん)焼〉として広く知られた。


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備前耳付花生 伊勢崎淳作

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つまるところ焼き物の行き着くところは備前焼と言う人が多くいますが・・。

備前耳付花生 伊勢崎淳作
共箱
口径60*最大胴径120*高さ235



これまでに備前焼の分野では他に四人(金重陶陽、藤原啓、山本陶秀、藤原雄)が人間国宝に認定されてきました。本ブログでも金重陶陽、藤原啓、藤原雄らを紹介してきましたので(現在は一部のみ公開)、残りは山本陶秀のみとなりました。



その中で伊勢崎のユニークさはモダンな造形感覚にあります。イサム・ノグチ(1904-1988)や池田満寿夫(1934-1997)などのアーティストと交流を積極的に行ない、備前焼に新しい境地を切り開いてきました。



伝統的な茶器からオブジェ、インスタレーションまで、大胆なフォルムによる斬新な作品を毎年発表し、国内外からその動向が注目される数少ない陶芸家の一人です。



さらには今まで主流であった登り窯に対して中世の穴窯を復活するなど備前の歴史を深く研究した陶芸家でもあります。登り窯は丘の斜面に設けた連房式の窯で、焼成室が幾室も設けられ、均質の焼き物を大量に生産するのに適しているため備前ではこの100年近く「登り窯」が主流でしたが、伊勢崎淳はあえて中世の斜面を掘り下げた上部を土で覆ったトンネル型の「穴窯(あながま)」穴窯を復活させています。



本作品は伝統的な耳付花生のフォルムでありながら、上部にモダンな造形を取り入れ、窯変も見事な秀作です。



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伊勢? 淳:(いせさき じゅん、1936年2月20日 〜 )日本の陶芸家。備前焼の人間国宝。1936年、伊勢崎陽山の次男として、岡山県備前市伊部に生まれる。同じく陶芸家の伊勢?満は兄。1959年、岡山大学教育学部特設美術科卒業。1960年、伊勢?満とともに、姑耶山古窯跡に中世の半地下式穴窯を復元。1966年、日本工芸会正会員。1978年、岡山大学特設美術科講師に就任。

1998年、岡山県重要無形文化財保持者に認定。社団法人日本工芸会理事および日本工芸会中国支部幹事長に就任。2004年9月2日、重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。1981年 金重陶陽賞。1993年 岡山県文化奨励賞。1996年 山陽新聞賞(文化功労賞)。2005年 岡山県文化賞。

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栞から昭和40年代(1965年〜)以降の作品か?


氏素性不明作品 南蛮手焼締四耳花入 江戸前期 ? その2

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昨夜に帰省から帰宅しました。なんとも郷里は涼しい、というよりも寒いくらいでした。クーラーは一切必要なく、虫の音と吹く風にはすでに秋の気配が感じられました。

本日はまた南蛮手と呼ばれる無釉の作品群です。

このような一見愛想のない作品は最近人気がないようで、一万円前後程度の値段で入手できます。釉薬のかからない、南蛮手と言われる作品群ですが、本ブログではその作品群では2作品目の投稿となります。

無釉で銘などもなく、見極めの難しい作品群でもあります。人間社会も同じこと・・、地方から出てきた氏素性の解らぬ?外様への評価と風当たりは厳しいもの・・・・

南蛮手焼締四耳花入 江戸前期 
合箱
口径55*胴径130*底径75*高さ275



本作品の説明には「江戸前期」とあり、杉の古い箱に収められていますが氏素性は不明です。古来より黒褐色をした焼締陶器を、茶人の間では南蛮と総称します。



南蛮焼とは本来は中国南部・ルソン・安南などから輸入された?器(せつき)の総称です。紫黒色で無釉(むゆう)のものが多く,日本では茶入れ・茶壺・水指・建水などに用いられてきました。



各国産のものが混在しており,作風は一定しません。産地はベトナムを始めとする東南アジア産とする可能性が高いようです。



本作品の製作年代、生産地は不明ですが、耳があり形がこのようの整った作品は珍しく、沖縄(琉球)や備前などの国内で作られた可能性が高いと思われます。




耳付の作品は沖縄で多く作られています。なお口縁と底に補修跡が見られます。この作品の見所は胴体の景色、轆轤目、耳付の景色・・。



繰り返すべくもなく作品は作風の品格で良しあしが決まるものですが、はてさて本作品はそれがありやなしや


2014年8月 秋田 その1

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朝の八時から九時頃の新幹線で秋田に向かうとちょうどお昼頃に秋田駅に到着します。
ちょうど昼飯時・・。

代表的なのは比内鳥の親子丼。まげわっぱがいいね。

ただし秋田駅のものより大館市内の「比内屋」のものが逸品・・。女性店員の高慢ちきな態度が気に入らないが・・。



とんぶり入の冷麺セットも捨てがたい。



これらに飽きてきたなら欲張りセット。



B級グルメには焼きそば。



体力をつけるのにはカツどん。



小生は本日はカツどん・・・。



昼飯を食べたら駅から歩いて散策。



千秋公園のお堀の蓮は風物詩になりつつあるようです。



よく見ると蓮の花は変わっているね。



県立美術館で平野館長さん(陶芸の先生)と待ち合わせ。



3階のコーヒーラウンジで一服、安藤忠男に設計。右手が平野美術館。今後の使い方が未定らしいです。



これは川蓮塗の食器、県の指定の作品らしいですが洒落ていますね。



館長自らの案内で藤田嗣治の展示作品を回覧しました。なんとも贅沢なひと時

回覧後は館長室で休憩



平野先生作の壷・・、そういえば「この釉薬でお願いした茶碗と花入は?」とお聞きしたら「忙しくてちょっと待ってほしい」とのこと

汽車の時間までのんびりしながら、市内を散策して駅まで戻りました。



駅前には市立美術館(千秋美術館)もあります。街は草間弥生一色・・。盆前、台風が来る直前の天候の合間での散策でした。

 

帰省 自宅

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今年の夏も帰省と相成りましたが、昨年は手術で入院していましたので、夏は二年ぶりです。

空き家管理さんで草刈や剪定はしてくるので助かります。

今年も義母の車を借りてきましたが、この車は私が選んだ車です。家内が亡くなる前ですから10年以上経過した車ですが、私のお気に入り・・、今は欲しい車が本当に無い・・、レクサスはダサいし、ベンツはいかにもベンツ、BMWやアウデイは日本車と変わらなくなった・・。ミニかスマートくらいか??



家内が玄関前の松を剪定し始めました。この松は自然に生えてきたものです。



裏庭の楓も自然発生・・。



庭の中央の楓もそうらしい・・。



雨模様なので幸紀は家の中・・。「遊びに行きたい〜。」と訴える目つき・・、母親に似た??



食い意地だけは一人前。美味しそうなものにはすぐに手が出る・・、誰に似た??



寝るのは二人前・・。これは小生の遺伝子かな??



クーラーなど一切不要で寒いくらいですで実に快適・・。

旧家保存 その1 旧家見学

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マタギの里である阿仁からの帰りに8月の13日〜15日まで見学できる北秋田市内の旧家があることを知り、翌日の墓参りのついでに見学してきました。



広大な敷地に一部2階建ての築180年の建物です。地元の有力者であった方の建造物で北秋田市の文化財になっているようです。



10年ほど前?までは人が住んでいたそうですが、その後空き家のまま放置され、最近になってようやく見学できるようになったそうです。

ともかく痛みがひどく、屋根などはすぐに補修しないと雨漏りがするというか、今年の積雪時には崩壊しかねない状況と判断しました。基礎部分も一部は下がってきています。どうしてここまで放っておいたのかと疑問に思わざるえません。



外部は補修するにしてもタイミングを失しているように見受けられ、かなりの費用と手間をかけないと維持できないと思われます。

藩侯が入るという玄関、簾は家紋入りで立派ですが、ここだけ立派でも物悲しい気がします。



内部は意外としっかりしていますので、手入れをするならこれ以上痛まないように今しかないというタイミングですね。



人が住まなくなり、というより今では寒くて住めないのでしょう。トイレ、風呂、台所という設備系が整備されてないと人は住めません。

縁側のケヤキはお見事・・。



この建物は費用対効果で遺す必要があるかどうかの判断も必要です。客観的にみると遺す要性はないようにも思わますが、地元の方々の思いもあるでしょう。

文化財として残すとどうしても過去のまま残すということになりますが、手入れはどちらかというと疎かになりがちです。旧家が文化財に指定になるのはいいことばかりではないように思います。



文化財として残すよりも、個人で手入れして住みながら残すのが良かったように思います。人の住まなくなった家は実にかび臭い匂いがします。失礼ながら私には家の死臭のように感じられます。なんとか生き返らせたいもんですが・・・。

文化財として残すなら最小限として母屋部分(座敷部分とその周り)だけにして残すのも方策のひとつです。それでも結構な修理費、維持費がかかるようにみてとれました。

遺すならそれなりの資金が必要ですね。ふるさと納税でお金を集めて徹底的に直すのも一考かと・・。建築の知識と今後の運用を考えた企画能力のある人が地元にいたらいいですね。

歴史があるという過去のプライドだけでは遺っていけないのでしょう。文化財ということがかえって拘束にならないことを願います。見学まで漕ぎ着けた人々の労力が報われることを祈るばかりです。


旧家保存 その2 旧家改修

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「男の隠れ家」などで本ブログで何度か紹介してきた築120年ほどの建物です。20年ほどかけてすこしずつ改修してきました。改修の契機はリンゴ台風で屋根が吹き飛ばされたことによります。



最初は緊急対応のための屋根の直しですが、これはりんご台風に対する無利子の貸付金を使いました。屋根とともに2階から建具を取り付けましたが、もともとは格子のみで蚕を養うスペースのため建具もなく、格子だけの窓から吹き上げられて屋根が飛ばされました。屋根本体はもともとは板や木の皮のよるものでしたが、その後の改修で金属による屋根でした。

2階の外部終了後に1階部分の建具を取り付けましたが、2階も含めて資金調達後がその都度ですので、サッシュの色がそのたびに違います。

外回りのアプローチはずーっとあとになってからです。庭を車が通り抜けできるのはかなりの贅沢ですが、土地代がべらぼうに安い・・。

北国ですから凍害や雪害を考えた改修が必要でした。ガラスも冬にこのままでは雪が積もって割れてしまいますので、格子のガードが必要です。近所の方が雪の降る前に木製の雪よけガードを取り付けてくれます。部材は使わないときは車庫に保存しておきます。



外の建具は木製の雨戸でしたが。腐っていたのでアルミのサッシュに改修しました。木製の断熱サッシュは当時とても高価でしたので手が出ませんでした。保険以外の外部の改修資金は義父や義妹達とお金を出し合いました。建具に一番費用がかかっています。

「古いままではない」と嫌がる人がいますが、今となってはこれが最高です。断熱効果が高く、虫が入ってこない。北国は冬の寒さ、田舎の夏は虫との闘いですから・・。

家に倒れる危険性のある大木は切り倒しました。これは近所の方々のボランテアによります。



玄関の建具だけは安いので輸入材の建具にしました。ただ、狂いが大きい・・。入り口まで直したのは最近です。



道路までせり出した木々が家を守ってくれます。伸びてきた枝は電力会社が切ってくれます



雪で下がってきた屋根やその可能性のある部分は一応補強しておきました。



庭は最後です。現在も職人の手は入っていません。義妹が最近手入れしてしていてだいぶ良くなってきました。



「野趣溢れる庭」という表現がぴったりです。周囲の田畑を入れてすべてが庭ですので、敷地内にこだわる必要もないです。

庭を照らす照明を付けました。雪が積もった時などの庭の眺めは格別で雪見酒がとてもおいしいですよ。



蔵は屋根のみ補修で、内部は未了でがらくたを片付る必要があります。。



最近、積雪で潰れそうになっていた車庫を新築しましたが、なるべく既存の雰囲気に合わせるようにしました。



神社は亡くなった義父が生前に直しましたが、そろそろ屋根の塗装をする時期のようです。



今年は蝉の抜け殻が意外に少ないようです。いつもはもっとたくさんあるのですが・・。



川のせせらぎを聞きながらお昼寝・・。住んで愉しむのが家・・。文化財の指定など受けると改修もままならず、自分の家でなくなります。

古い家は改修するか、いい木材は転用して建て直すのがいいでしょう。古いものはただそのまま残せばいいというものではありませんね。資金に無理があるのなら、興味のある方に売却するのがいいと思います。

そのまま遺す価値のあるのはほんの一部の歴史的に本当に価値のあるものだけでしょう。

この旧家も何度か市で調査に来ましたが、手を入れすぎているので文化財として認められないとのことですが、こちらから頼んだことではないのでかえってありがたいことです。



さ〜て、子々孫々に伝えるものがわれらの使命のひとつですね。仕事以外では次に何をするかな












旧家保存 その3 旧家改修

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一昨日は家内の仕事の関連でPホームと老健施設事業の打ち合わせをしました。年金生活での老健施設入居に対して、事業側は補助金なしでは成り立たないようです。これからの高齢化社会での対応の難しさをちょっと痛感しました。今回の事業は白紙となりました。

さて、本ブログの「男の隠れ家」の最終編のような投稿です。

内部は義父が生存中に補修しました。壁は知り合いの左官屋さんに塗り替えてもらったそうです。床飾りは小生が蔵から引っ張り出してきました。



縁側はほとんどそのまま。雑巾掛けした程度のことしかしていませんが、ブラインドと照明器具を取り付けました。



障子は義妹が義母と張り替えました。皆で力を合わせて改修したこの家で亡くなった義父、家内のお通夜が出来たのは良かったと思います。



土のままの土間はタイルを張りました。これは意外といい・・。



玄関も直したのは土間のみ・・。木材は腐っていることなく堅牢でしっかりしていました。



勝手口の天井は知り合いからの神社で不要となった杉材を頂いて天井を張りかえました。



2階の蚕の飼育場は現在は応接室? というか洗濯物の干し場・・

ここにも頂いた杉材で天応を張りました。



隠し階段はちょっと急ですが、回収によってここも雰囲気が良くなりました。床の取っ手を引くと階段が隠れます。まさしく二階は隠れ家となりますが、もともとは蚕を飼っていた空間です。



ここはもうひとつの階段ですが、ここも急で私は寝ぼけて下まで落ちました。下の襖が少し破けています。



2階は客用の寝室がありますが、廊下から風が通り抜けます。2階は改修未了部分がありますが、それはそれで味がある・・?? 否資金がない



ちょっと小洒落た窓を付けてみました。



囲炉裏は義妹のアイデアで普段は蓋をしておきます。



囲炉裏の上は天井を壊して吹き抜けにしました。これは工事費より天井裏だった部分の汚れ落としが大変でした。



写真ごとにおよそ最低一年ずつかかって改修していますが、実は台風対策の後に最初に行ったのは風呂場とトイレの改修でした。

風呂は義母が改修。



トイレは義妹が改修。もともとは汲み取り式の和式



ついでに廊下も改修・・。



最近になってようやく台所の改修となりました。



これら水周りの改修で最初に必要だったのが下水処理。下水道がないこの田舎では処理槽が必要です。



処理槽の大きさが家の広さによる?? ともかく行政との調整もいろいろありました。設計者に頼ることなく自分で検討して少しずつ改修したものです。

一遍でやるともっと良いものができたとは思いますが、そこはそれ資金調達に難があったので無理がありました。ただ、少しずつ考えながらやる方が面白いものかもしれません。なにしろ20年以上年月を要しました。まだ終わっていません

都会で高層マンションに住みたいと計画している皆さん、田舎の古い家を改修してみませんか? 高層マンションよりず〜っと快適ですよ。

荷物はすべて田舎に置いて、都会は仕事のみ・・、東京から数時間で来られます。元気なうちの老後生活や別荘として考えるのも一計です。軽井沢などよりず〜っといい。



悲しみも喜びもすべて詰まったこの家・・、ハチになったわが息子は二度目の訪問ですが、涼しさに上機嫌です。

家内曰く、赤坂でモデルにどうかと声をかけられたとか・・本当かな?? 「亭主の稼ぎが悪いから子供に稼がせたら・・」と伝えたのですが・・・

今度は冬に連れてくるぞ〜


人物図 木村立獄筆 

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作品の題目は「人物図」としましたが、なにか題材がありそうな作品ですね。調査中・・・。

人物図 木村立獄筆 
紙本着色軸装 軸先本象牙 合箱
全体サイズ:横322*縦1800 画サイズ:横298*縦923



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木村立嶽:(りゅうがく、りつがく)。富山生まれ、幼名は専之助。父親の定吉は大工で、富山藩十代藩主前田利保(としやす)の推薦により、江戸幕府の絵所で学ぶこととなり、狩野派の伊川院栄信(いせんいんながのぶ)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)、勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ)を師としました。




雅邦、芳崖、狩野勝玉と共に勝川院門下の四天王と称された。やがて富山藩の絵師として取り立てられる。藩主の前田利保とは関連が深く、『本草通串(ほんぞうつうかん)証図』(利保の編纂といわれる)の下絵を描き、利保の隠居所の千歳御殿(ちとせごてん)の襖絵(ふすまえ)や能舞台の松の絵も手掛けた。また「立嶽」という画号も利保が与えたと言われています。



明治期には江戸に移住しましたが、富山にも多くの作品が残されています。明治期には、東宮御所の絵を手掛けるなど、様々な仕事をしています。また当時盛んに行われた博覧会に、多くの作品を出展して大賞などを受賞しました。



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氏素性不明作品 宋胡禄? 鉄釉菊花紋陽刻合子 その2

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宋胡禄鉄釉菊花紋陽刻合子
合箱
最大胴径970*高台径40*高さ58



本作品の製作年代は不詳です。17世紀の作と説明がありましたが、非常に微妙な表現です。17世紀には宋胡禄の窯は途絶え、20世紀後半から製作が再開されていますので、近代作の可能性もあります。




本来の鉄絵ではなく陽刻の菊花紋に鉄釉が掛けられた作品です。高台脇の貝殻は焼成時のものでしょう。鉄絵でなく陽刻なところがかえって魅力的です。



海に沈んでいた作品のように推察されます。



あちこちに珊瑚や貝の跡が見られます。



実に見事な菊紋様の作品です。



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宋胡禄/宋胡録/寸古録:(すんころく)タイのスコータイ県、サワンカローク周辺で作られる陶器に対して言われる。「宋胡禄」の語自体は産地である「サワンカローク」の音訳である。元々は、素焼きの器に、梨地の白化粧をし鉄絵で多少の飾り絵を描いたものを言ったが、後に意味は拡大されタイで産出される焼き物すべてを指すようになった。歴史は、13世紀頃にラームカムヘーン大王が中国から陶工を呼び寄せ生産に成功した。14世紀〜15世紀頃には輸出ように頻繁に作られ、中国人の商人によって日本へ持ち込まれた。日本では茶器としてつかわれ、茶道が普及し始めた戦国時代から注目を集めて、江戸時代には茶人に広くもてはやされた。秀吉以前より南蛮貿易によって日本にも輸入されていました。

宋胡録の魅力は何といってもその鉄絵(鉄分を多く含んだ顔料で下絵をかき、その上に釉をかけて焼きます)の面白さにあるといっていいでしょう。極く微妙な条件の違いによっても多様に変化するこの炎の芸術は、まさに宋胡録ならではのものです。しかし、13世紀から16世紀にかけて繁栄した宋胡録の産業はその後衰亡の道をたどり、タイ国の北部の農村地帯などに分散して僅かに残りましたが、なぜかそこには宋胡録の命ともいわれた鉄絵が消滅していました。理由は解りませんが恐らくはこの鉄絵の難しさにあったのではないかと思います。中国やベトナムの陶器の影響を少なからず受けたと思われる宋胡録がなぜ、呉須(青色顔料)を使わずに鉄絵になったのかといえば、それはタイ国に呉須が産出しなかったというだけのことのようです。これがかえって宋胡録を世界的に有名にする原因になったのでしょう。



宋胡録の釉は2種類の樹木の灰にディンナアナーと呼ばれる田んぼ上積み泥土を調合して作りますが、何しろ全くの自然物ですからその時、その場所によっていろいろと成分の違いが出てくるし、灰にする木の樹皮に附着した土などの異物によっても釉の成分は違ってくるのです。ですから宋胡録の鉄絵というものは呉須絵のように安定せず、ほんの少しの成分の違いや温度あるいはその炎の状態によって色調が変わり、時には絵を崩したり流したりしてしまいます。恐らく昔の陶工たちは、新しく釉を調合した時試験焼きをして、絵がきれいに出ない場合はその陶器を失敗品として捨てたのでしょう。古美術商などの店頭で見かける絵の流れた物や、ナマ焼けのように白っぽくなっているものはこれらの失敗品の出土品です。絵を定着させない釉や、ナマ焼けで白濁したようの釉も見方によっては趣のある面白い陶芸品を作りますし、茶人の「侘び寂び」を求める心にフィットするかも知れません。事実、今、白濁した釉の陶器などを「これこそ本当の宋胡録だ」と思っている人は意外と多いようです。しかし、タイの有名な宋胡録蒐集家のコレクションにはこのような作品は無く、殆どが鉄絵の見事な芸術品で、これが宋胡録の本流です。

宋胡録の鉄絵はようやく1965年頃から復活し、現在に至っています。1997年にバンコクで開かれた宋胡録陶芸展では鉄絵の見事な作品が数多く紹介され、内外の陶芸品愛好者の目を見張らせるに至りました。そしてこれを機に、タイ国の宋胡録研究家や学者たちによって1999年6月、元タンマサート大学学長のチャーンウィット博士を会長に宋胡録陶芸保存協会が設立しました。タイ人の誇りとするタイの伝統芸術「宋胡録」が南牧村で再び世界の目を集めようとしています。


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2014年8月 秋田 その2

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一昨夜は大曲の花火大会でした。今回は行けませんでしたが、相変わらずの盛況だったことと思います。まだ見たことのない方は是非に・・・、この花火を見ずして日本の花火を見たことととなならず・・とまで言う人がいます。

さて今回のお盆の帰省は台風の前に帰ったので、台風をやり過ごしてからお出かけです。家内が見つけてきた阿仁のゴンドラ・・。「なにそれ」というと、どうもスキー場のことらしい・・。



大館から鷹巣を経由して阿仁へ・・、車で2時間ほど。結構、山道を走ります。



それほど難しくないスキー場のようで私でも滑降できそうですが、ちょっと物足りないスキー場かもしれません。



ゴンドラはいつでも乗れます。台風の後で乗客はまばらでガラガラ・・。



思ったより長いゴンドラで乗りがいがあります。



もう上は寒い。



それほど良い天気ではありませんでしたが眺めは最高ですね。



幸紀もごきげんです。



帰りは渓谷を満喫・・。



途中で道路の真ん中に鷲と遭遇・・。道路にあった獲物を食事中に小生の車がはちあわせ・・・。
写真を撮るどころか双方、びっくり・・・・。「なんでこんなところに鷲が・・」、「なんで滅多に通らないところに車が・・」 なんでもありの郷里です。
五月は雉の夫婦の横断歩道・・。今年は鷲の食事・・。かなり大きな鷲でした。

マタギの里の阿仁に立ち寄り、地元産を物色しました。



またたび・・、どうやって食べるのかな〜。



さて、前に投稿した下記の作品がしみ抜きされ改修され綺麗になって送られていました。




鯉之図 天野方壷筆絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1925*横475 画サイズ:縦1005*横345



鯉は立身出世の吉兆図といわれるが、己だけではなく家族の図柄であることが本作品の妙味です。



子々孫々までの伝えるものとして本作品を改修して遺す作品として選びました・



己だけの金銭欲、名誉欲、地位欲はどは紙屑同然と気がつくのはいろんな経験を経た後のことか・・・・・・・・・



染抜きして改修すると掛け軸は蘇ります。



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