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萩ニ扇美人図 伝寺崎廣業筆 その30

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先週の金曜日は東京国立博物館で開催の故宮展が夜遅くまで開催されているので、家内と息子と3人で仕事終了後に、上野で待ち合わせて回覧しました。



「神品至宝」とありましたが、いまひとつぴんときません。これはあくまでも中国人的な趣味のコレクションという前提で見ないと意外とつまらな展示会です。要は完ぺき主義的な作品ばかりです。書に興味のある方はどうぞ、といった展覧会ですね。

陶磁器は現代の技術がすでに追い越していますし、絵画は細密画や古い作品が多くガス越しではフラストレーションがたまります。

玉や刺繍は皇帝趣味・・。ま〜、期待したほどの展示会ではありませんが、金曜日の夕方はそれなりにゆっくりみられます。息子がぐずって途中で寝かしつけるのにひと苦労でした。

本日は寺崎廣業の美人画ですが、寺崎廣業の美人画は非常に人気があります。というより「ありました」という表現のほうがいいかもしれません。人気があったゆえに贋作も多かったようです。当然、寺崎廣業の美人画には秋田美人の要素が入っているように思います。

萩ニ扇美人図 伝寺崎廣業筆 その30
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1885*横520 画サイズ:縦1102*横398



落款は「二本廣業」の書体であり、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間の落款の書体とされています。印章は「廣業之印」の朱文白方印が押印されています。




この印章は廣業の代表作である「秋苑」(明治32年 東京国立博物館所蔵)にも押印されています。この印章を押印している作品は少なく当方では判断材用に乏しいことから真贋の判定は「伝」とします。



この頃の廣業は、1898年(明治31年)東京美術学校助教授に迎えられ、翌年校長岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の彼は美校を去りましたが、天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らとともに広業もこれに参加しています。明治34年に、美術学校教授に復し天籟散人と号しました。1904年(明治37年)には日露戦争の従軍画家となり軍神橘大隊長と知り合ったが健康を害して3か月で帰国しています。



本作品は真作ならば、明治35年頃の作品と推察されますが、痛みがあり再表具されています。表具はちょっとおもしろい表具になっていますね。

再表具に際してシミ抜きしたかどうかは解りませんが、シミ抜きが可能かどうかは真贋をきちんとしてうえでの判断となります。



描かれてる草花はおそらく萩の花、着物はもみじ・・。両方ともに胡粉で白く描かれいるのはとてもセンスが良いというのは家内の評価です。



悩ましい一作です。美人という意味ではなくて、簡素ながら品格があってよさそうな作品という意味です。趣味に合わない展覧会を観ているより、手元に作品を観て所蔵欲と贋作とのハザマで揺れ動くほうがよっぽど勉強になります。


葡萄図 川村曼舟筆 その3

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先週の日曜日には浦和のパレード見学・・、小学校の鼓笛隊です。



小学校の鼓笛隊は圧倒的に女の子が多いようです。男の子は一割以下・・、「おい、売り手市場らしいぞ・・」
息子は離乳食を開始し、そろそろ食べ物に手を伸ばし出しました。小生の食事中も虎視眈々・・、油断できない段階



桃、さくらんぼと果物の美味しい季節がやってきました。そろそろ葡萄・・。と思っていたら「葡萄」の色紙が日曜日に届きました。

葡萄図 川村曼舟筆 その3
絹本水墨色紙
画サイズ:縦273*横243



天龍道人とはまた違った品のある作品です。



川村曼舟には贋作もさることながら、「川村曼舟」と名乗る贋画家がいたそうです。



色紙のほどよい作品を購入するのは日本画を理解するうえで非常にいい方法だと思います。骨董市の色紙の山をじっくり見てみるのもたまには良いかも・・。

*「川村曼舟 その2」は未投稿。

水墨梅図 その2 天龍道人筆 その21

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日本の伝統文化がどんどんなくなっていくことを危惧しているのは私だけでしょうか? 

本ブログで取り上げた掛け軸などの骨董に関するものだけでなく、たとえば布団、座布団などどいった身近のものもどんどん縁遠くなっています。これは少子高齢化も無関係ではないし、地方都市の衰退とも関係があるように思います。

御膳などもそう・・。そういうものが蔵や納戸にあって、人数の多い家族、親戚皆で使っていたものです。これは単に時代の流れとは言えないように思いますし、大切なものを置き去りにしているような気がします。

安倍首相が「地方都市の創生」と「少子高齢化対策」を最大のテーマとして掲げたようですが、その狙いの真意は別として、最大のテーマとして掲げたことは大いに評価でき、私も賛同します。とくに「少子高齢化対策」は早急に具体的な政策が必要です。総論賛成、各論反対という状況を打破しなくてはいけません。「地方都市の創生」もそうです。TPPの前にやるべきでしょう。


本日の作品は天龍道人です。

天龍道人といえば「葡萄図」と言うのが通念ですが、天龍道人の奥深いところは「葡萄図」以外にも優れた作品や興味深い作品があるところです。人間、いろいろと引き出しの多いことは魅力的なところが多いようです。仕事人間ほどつまらないものはないですよ。ゴルフ、旅行・・、いかにもありきたりですね。日本の伝統文化のひとつでも趣味に加えてみたらいかがでしょうか?
たとえば漆工芸、陶芸、書道、茶道、表具師・・・、とてつもなく面白いように思います。

とにもかくにもついつい天龍道人の作品があると、安いこともあって購入してしまいます。

水墨梅図 その2 天龍道人筆 その21
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1800*横640 画サイズ:縦1290*横562



制作当時のままの紙表具のようの思います。雨漏りのようなシミがあります。このような表具上部の沁みは古い作品にはよくあります。どうも床の間は建物の配置上、雨漏りがしやかった??



掛け軸に多いトラブルは幾つかあります。

シワ・・これは保存状態が悪いこと、掛け軸の巻き方に問題があることによります。箱の大きさが合っていないこともにも起因するようです。

シミ・・・湿気が原因です。保存状態の湿度に問題がありますし、湿気を含んだまま箱にしまってもいけません。




破れ・・・これは掛け軸を落としたり、引っ張ったりすることによります。



焼け・・・掛け軸を連続で飾るのはひと月が限界と言われています。長く続けて飾ってはいけません。安宿の泊まると廊下などに飾りっぱなしの絵があることがよくありますね。



表具の浮き・・・表具のやり直しが必要です。表具の技能が悪いこともありますが、自然の材料糊で表具してるとある程度は止む得ないことです。

だいたい20年以上経過するとなんらかの問題が出てくる可能性があるようです。大切な作品は額装にするように勧める表具師が多いようですが、掛け軸の表具もまた無くなっていく大切な日本の伝統技能のように思いますが、大切にしたいですね。



一服 倉田松涛筆 その3

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今週の「なんでも鑑定団」は結構面白かったですね。当ブログにも登場した原羊遊斉(現在は非公開)、西山翠嶂筆、円山応挙(当ブログでは「伝」)、斉白石などはお馴染みの作品群です。とくに興味深かったのは原羊遊斉(現在は非公開)の印籠・・。
これは後日として西山翠嶂の作品は意外と評価が高いものですね。

さて本日は「なんでも鑑定団」にも出品されたことのある倉田松涛の作品です。

本作品は無銘ですが、倉田松涛の作品に相違ないようです。まとめて倉田松涛の作品を購入した時のひとつです。今となってはそのような掘り出し物はそうはないようです。

倉田松涛の作品は「なんでも鑑定団」に出品してからなかなか市場に出回らないようです。数万しかしない作品に20万などという値をつけるからですね。

そんな値段で売れるはずもない・・、そのよう値段で売れるなら私もひと財産・・、とっくに売っぱらっています

翁の一服図 倉田松涛筆
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2020*横540 画サイズ:縦1310*横360




秋田県出身の画家ということで本ブログにも何度か投稿しています。「その3」となっていますが、当方の整理NOであって、すでに10作品ほど投稿しています。



名前を知っている人は数少なく、まだまだマイナーな画家です。




評価は少しずつ上がってきているように思いますが・・。マイナーな割に値段が高い でも数万円から数千円のものです。



巻き止めに大正10年(1921年)と記されており、倉田松涛が56歳以前「の作品と推察される。巻き止めに記されている佐藤氏という方は倉田松涛とおそらく親交があったようであり、無落款でありながら倉田松涛の作品であると断定できます。



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倉田松濤:明治〜大正期の日本画家。慶応3年(1867)生〜昭和3年(1928)歿。秋田県出身。巽画会・日本美術協会会員。

幼い時から平福穂庵に師事。特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。

宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。落款「百三談画房」、雅号は「百三談主人」など。

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ま〜、のんびりいこうや・・という作品ですね

前はいた倉田松涛のファン(蒐集家)・・、今でもいるのかしら???


短冊 梅 平福百穂筆 その15

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さて本日は大阪まで・・、その後横浜・・。

骨董品の処分したおかげでマンションの部屋がだいぶ片付きました。まだまだ処分する予定・・。

本日はなぜかしら縁のある平福百穂の梅の作品・・、ただし短冊です。

短冊 梅 平福百穂筆 その15
紙本水墨淡彩 タトウ入
画サイズ:縦362*横60



真作?? これはもう私の経験値



平福百穂の印章は意外に種類が多いかも?? 



竹内栖鳳などはその印章の種類たるやものすごく多いです。整理された画集があるのですごく参考になります。

梅花ニ雀 平福百穂筆
絖本水墨淡彩 共箱二重箱 軸先本象牙
小畑家(小畑勇二郎:元秋田県知事所蔵)
全体サイズ:縦2270*横498 画サイズ:縦1328*横361



梅 伝平福百穂筆
紙本水墨布装軸箱入 画サイズ:横340*縦1260



真贋は別にしてこの梅はうまい



平福百穂の印章が整理された書物をどなたかご存知ないでしょうか?

忘れ去られた画家 秋景山水図 十市石谷筆 その3 

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暑くなってきたこの季節こそ、床の間なり、ちょっとした壁のスペースの山水画でも飾ってみませんか? 子供の頃に遊んだ山や川・・、もしくはキャンプに行った自然を思い出し、愉しいひと時を思い出す・・、そんな時間が都会で暮らす我々には必要だと思います。

山水画・・、いわゆる南画の作品がいいと思いますが、いい作品でも数千円で購入できますよ。ちなみに本日の作品もそのようなお値段です。

秋景山水図 十市石谷筆 
紙本水墨 軸先木製 鑑定箱入
全体サイズ:縦2000*横580 画サイズ:縦1060*横435



印章は「石翁」の朱文白方印が押印され、落款には「己酉秋日石谷冩」とあり、嘉永2年8(1846年)に描かれた作品であると推察されます。十市石谷が53歳の作となります。


 

箱書きには「十市石谷先生水墨山水図」と表に署され。裏には「三東□□養神窟主青石樵□題簽」とあります。

「青石」愛媛は愛媛県出身の南画家である野田青石であろうかと推察されます。

石谷の写生は椿椿山円山応挙もその右に出るにあたわずと褒めたたえられたそうです。かの田能村竹田も彼の模写をなんとしても見たくて、本人に無断で持ち出した逸話が伝えれています。



野田青石:(せいせき、1860〜1930年)。愛媛県八幡浜市古町の庄屋で生まれ、大分県や京都府で柔らかな筆遣いなどが特徴の南画を学びました。同市出身で臨済宗の高僧西山禾山(かざん)和尚から禅の教えを受けたことでも知られています。



南画を解る人は皆無に近い状態になりつつありますが、作品を選ぶときには自分の感性で選ぶことです。著名な画家の作品は避け、金銭欲や真贋は抜きにして、自分がこれはいいと思うものを選ぶことです。飽きてきたら、またひとつ・・、自然にいいものが入手できますよ。

寒山拾得図 妹尾天然筆 

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本作品を描いたのは誰かも知れずに購入、箱もなく数千円也。資金不足の最近はこのようなガラクタ?が増えてきました。「妹尾天然」というのは誰??? 調べたのは購入後ですが、実に面白い作品です。

寒山拾得図 妹尾天然筆 
紙本水墨軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:横770*縦2090 画サイズ:横640*縦1330



「画は天真を貴び個性を重んじる」という妹尾天然の言葉どおり、天心爛漫、実に個性的な墨絵です。




墨で勢いよく描かれた本作品には並々ならぬ技量がみてとれます。




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妹尾天然:画壇の外にあって、縦横に彩管をふるった備中の生んだ信念の日本画家。花鳥・山水・仏教画等、雄渾な筆致による作品を遺している。明治21年岡山に生まれ、日本画を学ぶなかで信仰に目覚め、高山樗牛の著書に出会い、日蓮聖人遺文を読む。さらに摩訶止観、一切経を読破、日蓮教学を学び、画道・仏道に励んだ。晩年は篤き法華信仰のもと身延山に住み、久遠寺大客殿の「日蓮聖人御影」など数々の大作を残す。昭和52年、90歳で没した。



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寒山拾得(かんざん じっとく):中国,唐代の隠者,中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる寒山と拾得の伝承詩人である寒山と拾得のこと。9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。二人とも奇行が多く、詩人としても有名だが、その実在すら疑われることもある。寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残した。





拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められる。拾得は天台山国清寺こくせいじの食事係をしていたが、近くの寒巌かんがんに隠れ住み乞食のような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったという。その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持を語っている。
寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身と言われることもあり、非常に風変わりなお坊さんだったようで、後年様々な絵画に描かれる。たいていは奇怪な風貌で、なんとなく汚らしい服装で描かれている。そして、怪しげな笑い顔で描かれることが多い。また拾得が箒を持っている作品が多い。





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補足
唐の時代(七世紀頃)、寒山という人がいた。風狂の化け物と称される。カバの皮を着衣し、大きな木靴を履いていたと言われる。寒山は普段は寒厳の洞窟に住んでいたそうですが、たびたび国清寺に訪れていた。寺に来ては奇声を上げたり、奇異な行動をとって寺のもの困らせていた。しかし、追い払おうとすると彼の口から出る言葉はその一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。



寺の給仕係りをしていた拾得とは仲良しで、いつも寺の僧たちの残版を竹の筒につめて寒山に持たせて帰らせた。



寒山と拾得を導いたのは豊干という国清寺の僧。豊干は、二人について「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」と言ったという。「寒山拾得」というのはこの二人の伝説の事。寒山と拾得の二人は、のちのち墨絵の題材となり多くの画家が絵を残しています。日本の有名な画家たちも「寒山拾得図」を描いています。

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豊干(ぶかん):中国唐代の詩僧。天台山国清寺に住み,虎を連れた姿で知られ、寒山・拾得(じつとく)を養育した人と伝えられる。豊干を釈迦の化身に見立てるものもある。

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「豊干」を描いた作品は本ブログにも投稿されています。

羅漢と虎 今村紫紅筆
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1250*横420 画サイズ:縦260*横350


羅漢図 倉田松涛筆 その14(真作整理番号)
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横370*縦2050 画サイズ:横330*縦1260

山村春色之図 久保田米僊筆 

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心機一転、落ち着いて制作に励もうとした矢先に眼病を患い、明治33年(1900年)に失明した画家です。人生なにが起きるか解らない・・。日頃、何気ない毎日が平穏に過ぎていくことに感謝できる人は、なにが起こるか解らないという経験をした人が多いかと思います。人生が何が大切かも同時に味わった人もその中には多いと思います。地位、お金、名誉などというものを求めて仕事などに励むのも結構だが、本当に大切なものは全く別次元にある。

さて、本日はノスタルジックな田舎の風景の作品です。昔はこのような風景があちこちで見られてのですが、今では探しても見られなくなりました。

山村春色之図 久保田米僊筆 
絹本着色軸装 軸先鹿骨 共箱
全体サイズ:横544*縦1935 画サイズ:横422*縦1290






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久保田 米僊:(くぼた べいせん)。嘉永5年(1852年)2月25日〜明治39年(1906年)5月19日)は、明治時代の日本画家。鈴木百年の門人。



京都錦小路東洞院西入元法然寺町生まれ。本名は久保田満寛、後に寛。幼名は米吉といった。字は簡伯といい、米僊、米仙、漁村、錦鱗子、紫桜庵、塵芥頭陀などと号す。

代々割烹料理店を営む家の一人っ子として生まれた。幼少から絵が好きで、矢立を腰に挿し町内の白壁や門に描いてまわり、家業を継がせようとする父から絵を禁じられても、深夜密かに起きて描いたという。



慶応3年(1867年)6月、日本画家の田中有美の紹介で四条派の鈴木百年に師事する。更に沢渡精斎に経史を習い、京都中の貸本屋を巡り古代の歴史風俗を独学したという。明治維新の後、明治6年(1873年)第二回京都博覧会の在洛五十名の揮毫者のうちに選ばれる。この頃から幸野楳嶺との親交が始まり、『京都日日新聞』の挿絵を描いたり、風刺雑誌『我楽多文庫』の編集に関わる。この頃は南画が大流行しており、米僊らの写生派は困窮し、友禅の下絵や貿易画を描いて糊口をしのいだ。一方、油画を試したのもこの頃である。



明治11年(1878年)京都画壇の興隆を目指し、楳嶺・望月玉泉・巨勢小石らと京都府画学校の設立を建議した。同13年6月画学校開校と同時に出仕し、翌14年同校議事及び工業委員に選ばれる。しかし、国会に請願したり、立憲改進党に加入するなど、画壇の刷新するため政治活動に熱中したのが災いし、まもなく職を辞す。



師風を継いだ雄渾な画風の風景画で知られており、明治15年(1882年)第1回内国絵画共進会では京都の画人を代表して出品人総代として上京、楳嶺・原在泉らと共に審査員を務め、出品作は銅牌、絵事功労賞を受ける。同17年(1884年)第2回内国絵画共進会展では、豊臣秀吉の名護屋城の陣に取材した「朧月夜」を出品し最高賞の銀章を受賞して世に知られるようになる。以後、内国勧業博覧会でも受賞を重ねている。主に、歴史画、風俗画、漫画、小説の挿絵を描いている。



明治22年(1889年)私費でフランスに渡り、パリ万国博覧会に「水中遊漁」で金賞を受賞、ギメ東洋美術館に「年中行事絵巻」を寄贈してローヤル・アカデミー賞を贈与される。渡欧中に林忠正と交流し、渡辺省亭に次いで早い時期にフランス遊学も果たした。一方で、『京都日報』に寄稿し、帰途に立ち寄ったベトナムとサイゴンの風物を『米僊漫遊画乗』としてまとめて刊行している。同年暮れには、楳嶺と共に京都美術協会の結成にも尽力した。



翌24年(1890年)には徳富蘇峰の誘いにより、上京して國民新聞社に入社。同社で挿絵を描くかたわら、芝桜田町に「司馬画塾」という塾を開き後進を育てる。明治26年(1893年)のシカゴ万博の様子を描き『閣龍世界博覧会美術品画譜』(大倉書店)として出版され、翌明治27年(1894年)、日清戦争中には従軍画家として『日清戦闘画報』を描いて名を上げた。これらの幅広い活動によって、画家だけでなく各界の人々との交流を広げており、特に森鴎外ら根岸派の文人たちとは親しかった。



反面、明治20年代末頃から絵画一筋に研鑽を重ね実力をつけてきた東京画壇の若手や竹内栖鳳らの作品を目の当たりにし、手を広げすぎ散漫になった自らの画風を内省し始める。そんな折の明治30年(1897年)、岡倉天心や納富介次郎に該博な見識を評価・懇願され、石川県立工芸学校の図案絵画科の教授として赴任する。彼の地で心機一転、落ち着いて制作に励もうとした矢先に眼病を患い、明治33年(1900年)に失明する。以降は主に俳句や評論活動で心を慰め、明治35年(1902年)その見聞録を『米僊画談』して纏めた。代表作として、「半葛捨身」などが挙げられる。



胃癌のため死去、享年55。墓所は京都市右京区鳴滝音戸山町の専修寺京都別院。長男の久保田米斎も日本画家で舞台芸術家。次男の吉太郎(1875年-1954年)は、金僊と号しており、19歳の時に父とともに上京、国民新聞社に入社、従軍記者になって、日清・
日露戦争に参加した。 弟子に一見連城、田一華、福田眉仙、名取春仙など。



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袁安臥雪図 小田海僊筆 その5

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袁安臥雪図 小田海僊筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先本象牙細工 合箱
全体サイズ:縦2215*横822 画サイズ:縦1466*横641



賛には「倣王右丞(王維の別称)意 七十五翁海僊」とあり、安政7年(1860年)頃の作品と推察されます。「王羸」「巨海」の白文の下駄判の累印が押印されています。




本作品は大正6年12月に東京美術倶楽部で催された売り立て会の目録に記載されている。



能の『芭蕉』には、「雪のうちの芭蕉の 偽れる姿の まことを見えばいかならんと」という詞章があります。これは、唐時代の詩人であり画人でもある王維が、雪景色のなかに芭蕉を描いたという故事を指しております。

芭蕉は春夏には緑鮮やかな大きな葉を繁らせますが、冬はその葉も枯れてしまって見る影もありません。ですから雪の中の芭蕉を描くことは、間違っているというわけです。この画は「袁安臥雪図」という作品ですが、後漢時代の清廉な役人であった袁安という人が、雪の降るなかひとり家で横になっている姿を描いたものです。



宋時代の沈括なる人がこの画を所有していて、沈括はその著書『夢渓筆談』のなかで、「王維は、文物を描くのに、季節を問わず、桃李(春)と芙蓉・蓮花(夏)を同じ景色のなかに描いてしまうという評伝があるように、たしかに季節と文物が呼応していないのであるが、正確さというものに必ずしも画の善し悪しがあるわけではない。袁安の清廉な人柄を、雪中の芭蕉で表すというところに、この画の妙味がある」。王維の死後、三百年以上を経た時代の評ですから、それが王維の真意であるかどうかは解りません。




しかも残念ながら王維の画は、すべて失われてしまいました。しかし詩は残っており、彼は人事社会から離れ、自然の美しさだけを真っ直ぐに詠む詩人であり、その詩は「詩中に画あり」と賞賛されています。



ここに一首挙げてみましょう。
      独り幽篁の裏に坐して     ひとり竹藪の奥に坐り
      弾琴 復た 長嘯       琴を弾き 詩を歌う
      深林 人知らず        深い竹林には人影もなく
      明月 来たりて相照らす    ただ月だけが私を照らしてくれる
この詩は「竹里館図:という詩です。湯田玉水という画家の作品があります。数多くの画家が王維の詩を絵画で表現しています。


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小田海僊:天明5年(1785年)〜文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、写生的な画風を修得し同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競った。のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や粉本を学び南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞、浦上春琴らと並び称せられた。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。1826年、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。

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王 維:(おう い)。生卒年は『旧唐書』によれば699年 〜 759年、『新唐書』では701年 〜761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、長安元年 〜上元2年)は、中国唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。また、画家、書家、音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。河東(現在の山西永済市)出身。同時代の詩人李白が”詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれている。

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戌 近岡善次郎筆

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近岡善次郎の作品は、古くから傍に作品があり、馴染みのある画家でした。山形出身といいうこともあったのでしょう。親戚で所蔵していた秋田県の五城目の市場を描いた作品が記憶に残っていますが、今は所在が解りません。

戌 近岡善次郎筆
本人裏書 共タトウ
着色色紙3号 縦270*横230



かわいいさくひんですね。



干支の記念に描いた作品であろうと思います。

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近岡善次郎:大正3年、現在の新庄市大町に生まれる。東京の川端画学校に学び、昭和16年に一水会賞を受賞、名実ともに日本の画壇の一線に躍進した。昭和38年には安井賞を受賞し、作品には国立近代美術館の買上げとなった。

また、全国の西洋館の姿を描き残し、その後それらは近代洋風建築シリーズ切手のもととなった。郷里においては、児童文化の向上と美術教育の振興を願い、昭和24年、最上学童展を創設。

昭和52年には学童展キャラバン隊を結成し、交流活動などを通し地域住民の情操面を大いに高めた。郷土愛あふれる作品や地域文化振興に対する指導は、広く敬愛を受けている。この功績により、平成11年、新庄市名誉市民の称号を贈られる。平成19年、92歳で逝去。(1914〜2007)

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深林図 伝吉岡堅二筆 その4

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昨夜はオークラホテルにおいてのITの会社の50周年記念パーテイに出席しました。梨田元プロ野球監督の講話はなかなか面白かったです。

先週も帝国ホテルでの取引先の会社の社長就任記念パーテイにも出席しましたが、ほとんど知っている人がいないパーテイに一人で出席というのはどうにも手持無沙汰・・・。

福田豊四郎と縁のある画家ゆえに食指が動く。

深林図 伝吉岡堅二筆 その3
絹本着色軸装 合箱
全体サイズ:縦1160*横560 画サイズ:縦357*横403



吉岡堅二は、福田豊四郎らとともに創画会を興しました。福田豊四郎と名コンビと言われました。 




「この二人の仕事ぶりは俗衆批評を超越して存在するのである。この二人の人気の本質に関して露骨な言ひ方をすれば、世間には福田、吉岡よりも、絵そのものの、うまい作家はザラにゐるのである。然しながら福田、吉岡の人気の高さは、絵のうまさだけでは凌げないものがある。」と評されています。



本作品は特異な作風で、吉岡堅二と断じていいかどうか不明の作品です。



よって「伝」として投稿します。どなたか詳しい方のご教授をお待ちしております。


青緑山水図 高森砕巌筆 その3

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いまいちピンとこない構図・・・?? こんな風に水が流れる?? 人が雲の上を歩いている?? 木の根が宙に浮いている??

そういう風に思うところが面白い作品・・・

青緑山水図 高森砕巌筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2175*横557 画サイズ:縦1403*横412



箱書には「高森砕巌青緑山水」とあり、「丙辰(大正5年:1916年)春日砕厳併題□ 押印」の共箱となっています。印章は「白雲紅葉図」の箱裏と同一印章です。

 


賛には「乙卯初夏於薮荘」とあり、大正4年(1915年)の作と思われます。砕巌68歳晩年に近い作品で円熟の域にあったと思われます。此の当時、相州小田原に別荘を構え双松庵と称し、自題落款にも用いられていますが、薮荘が双松庵を示しているかどうかは不明です。

左下の遊印は「白雲紅葉図」と同一印章です。

  


他の所蔵品については製作年代は不明でしたが、本作品は製作年代が明らかです。なお「白雲紅葉図」と同一の遊印が押印され、また同じ印章が箱書に押印されていますので製作年代が近いかもしれません。



賛は「層々交□雲 歴々映□□ 雲山互左依 青白眉□□ □□土□者 静居気□聚 修松蔭写
宇 細学被行□ □凛□□□ 吋□直秋□ □禽値□来 □□客還□ 天機□□□ 漠□□人故 」


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高森砕巌:弘化4年 5月22日(新暦 1847年7月4日)(10月1日とも)生〜大正6年 10月25日(新暦 1917年12月9日)歿。 近代南宋画の大家。上総の国(千葉県)長南町に生まれる。幼名宗之助、名は敏、字は子訥、通称有造、翠巌・菊梁・七松・射谷・朶香・遂頑居士・自知斎・七松園・双松庵 等の別号を持つ。江戸に出、服部蘭台に儒学を学び、17歳で渡辺崋山の高弟山本琴谷に師事。格調を持った山水花鳥画を得意とし、後に与謝蕪村に私淑したと言われている。南宋画に対する研究、眼識は当代随一と称され、鑑識、鑑定家としてもその重きを為した。船会社や司法省に勤務するが、画業に専念、公の展覧会には出品せず画作を続ける。南画会の結成に参加。日本美術協会会員。

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南画は描く人の精神性が問われます。



俗世間からの離脱、その自由性が作品に現れるようです。



高森砕巌は公の展覧会には出品せず画作を続けた画家ですが、明治末から大正にかけてを最後に漫画は幕を閉じます。



高森砕巌を含む松林桂月、富岡鉄斎といった巨匠らを最後に南画は幕を閉じ、未だに日本で再度スポットを浴びることはありません。

結局のところ南画の精神性といったところは、近代の写実性や人間の心理面を描写した作風に押され消えていきましたが、画家の暮らし自体の変化が、地位、名誉、金銭といったことに偏り、高い精神性から離れたことも起因していると言われています。

帰牛図 東東洋筆 雲慧澤賛 その2

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縁があると続けて同じ画家の作品を入手することがあります。

帰牛図 東東洋筆 雲慧澤賛
紙本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1870*横455 画サイズ:縦1000*横345



「仙台四大画家」(東東洋(あずま とうよう・1755〜1839)・小池曲江(きょっこう・1758〜1847)・菅井梅関(1784〜1844)・菊田伊洲(1791〜1852)の4人の画家)の一人。

賛は「北溟(北の海の近くに居するという意味?)僧鵬謹題」とあり、「雲慧澤(井県永福庵第9代住職、鳥取県善福寺第10代住職 文化13年(1816年)寂)の賛ではないかと推察されます。



落款には「法眼東洋」と署され、1795年以降、法眼に叙されて以降の作品と推察されます。賛は「適入蘆□□□官 飄然倒騎歴層巒 □傾不背西方□ □□潘公一様看」とありますが、またまた難解で詳細の意味は不明です。




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東 東洋(あずま とうよう):宝暦5年(1755年)〜天保10年11月23日(1839年12月28日))。江戸時代中期から後期の絵師。幼名は俊太郎、のち儀蔵。姓・氏は東、名・通称は洋。よって本来は単に「東洋」とするべきだが、一般的な表記である「東東洋」を採用している。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。

仙台藩御用絵師を勤めた近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。東洋自身は、自作に「東洋」とだけ署名しており、「東東洋」と記した例は知られていない。東洋が生きていた時代に刊行された『平安人物誌』での表記法から、本姓・氏が「東」で、名・通称が「洋」だと分かる。こうした表記法は、江戸時代後期の文人にしばしば見られる、中国風に二字の姓名の名乗ったのと同じ趣向とも考えられる。なお、「東東洋」と呼ばれたのは存外に早く、画を好み東洋とも交流のあった仙台藩の儒者・桜田澹斎の著作に既に見受けられる。

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補足
生い立ち:現在の登米市石越町で、岩渕元方の長男として生まれる。ただし、東洋が5,6歳の時、一家は近隣の金成(現在の栗原市金成町)に移住した。父・元方の数点の絵画作品が確認されている。14,15歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑(1728-1807年)から本格的に絵を学ぶ。(梅笑:江戸幕府の表絵師深川水場町狩野家の三代目当主。宝歴13年(1763年)から寛政5年(1793年)の30年間一族から義絶され、越後や奥州を遊歴)東洋18歳の時、梅笑の婿となり江戸へ出る。姓の「東」は梅笑の姓を継いだものであり、最初の号玉河(玉峨)も梅笑の別号「玉元」から「玉」の一字から取っている。

上京と各地遊歴:19,20歳の頃、今度は京に上り、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受ける。以後半世紀、京都を中心に活動する。20代の東洋は、中国の古画を模写のより古典を学び東洋の姿勢が伺える。20代の終わりから30代初めにかけて、東洋は長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされる。しかし、同時に南蘋派も学んだ。



円山応挙の影響:円山応挙の活躍が目覚ましく、各地を遊歴して帰洛した頃には、東洋は狩野派を離れ、東洋もその影響を受けていく。寛政7年(1795年)東洋41歳の作「花鳥図」(個人蔵)における枝の書き方には、応挙が創始した付立技法が顕著に現れている。また、この作品は年期のある作品では初めて「法眼」落款を伴っており、この少し前に東洋は法眼位を得たと推測できる。これは東洋と親交のあった妙法院真仁法親王の助力があったと考えられる。真仁法親王の周りには、応挙や呉春といった絵師だけでなく、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らが出入りしており、東洋もその中に混じりしばしば合作もしている。



仙台藩御用絵師:こうした活躍が認められ、東洋は仙台藩の絵画制作に携わるようになっていく。寛政8年(1796年)正月、東洋42歳の時、藩の番外士として画工を命じられた。翌月には藩主・伊達斉村に召され、以後しばしば斉村の前で席画をしている。江戸屋敷の屛風や衝立を多数手がけた記録が残る。文政8年(1825年)71歳で仙台に帰郷。仙台藩の御用を勤める一方、藩の重臣の肖像画を制作している。天保10年(1839年)11月23日死去。享年85。墓は、若林区荒町にある昌傳庵。

周囲:長男・東東寅、次男・東東莱も絵師。弟子に村田俊、伊藤東駿など。画風は、全体に角がなく丸みを帯び、親しみやすい。別号に白鹿洞とあるように、鹿の絵が多い。また、東洋は農村の風景を好んで描いているが、これは東洋が高く評価していた江戸時代前期の絵師・久隅守景の影響だと考えられる。


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雪景山水図 伝田崎草雲筆

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昨日は在京している郷里の高校の同級会で、15名ほど集まりました。

本日はほぼ同じ年のころに描かれたされる田崎草雲の作品です。

真作なら「その5」となるところですが、印章が確認できていないこどもあり「伝」としておきましょう。

雪景山水図 伝田崎草雲
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱入
全体サイズ:縦1800*横640 画サイズ:縦1280*横510



落款には「草雲生冩於白石山房」とあり、印章は「草雲□□」、「田崎芸印」の大きさの違う白文朱方印が押印されています。この印章については確認を要します。草雲が63歳頃、明治11年(1878年)に蓮岱寺山(現足利公園内)に草庵の白石山房を建て住むこととなります。



この印章が当方の資料からは一致するものは確認できてない理由もひとつの根拠として「伝」とします。



どうも小生は雪国の出身で雪景の山水画には食指が動きやすいようです。この楼閣? いいですね・・。



ただいまひとつこの構図にはピンとこないところがあります。さて読書の皆様は本作品の真贋や如何?



田崎草雲というと「富士山」がやはり一番のようですね。


田崎草雲:治以降の南画家中最も覇気に富んだ画家(文化12年〜明治31年:1815〜98)。下野足利の生まれで、名は芸といい、梅渓・白石生・硯田農夫・七里香草堂・蓮岱山人等と号した。その画法は沈周、徐熙を宗とし、山水花鳥ことごとく得意であった。文献によると谷文晃門下となっている。室翠雲は門下生となる。

氏素性不明作品 仁王窯? 三作品 その1

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7月の3連休は家内の実家からの帰りに、暑い中を子どもを連れて日本民芸館に「浜田庄司生誕120記念展」(昨日の日曜美術館でも紹介されていました)に出かけてきました。



浜田庄司だけでなくバーナードリーチ、河井寛次郎、イギリスの古窯、特に李朝の壷群は見ごたえがあります。



浜田庄司と関わりの深い沖縄焼・・、本日は詳細不明な沖縄の焼き物を投稿します。沖縄の焼き物は当方には不得手の分野ですが、沖縄の壷屋焼の仁王窯の作品と思われる三作品を購入しました。ただし氏素性はまったく分かりません。

仁王窯は琉球王朝時代より、約300年間の伝統を守る古窯であり、小橋川製陶所は赤絵の再興と釉薬の研究に熱心だった名陶2代目小橋川仁王の意志を受け継いで赤絵を中心として製作されている窯です。

最初の作品は吉祥紋様を絵付けだけでなく、彫りも交えて作られた作品。小橋川何代目の作かは分かりません。


壺屋焼 吉祥紋壺 小橋川仁王作?
合箱
口径90*胴径135*高台径82*高さ158



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壷屋焼 吉祥紋様:壺屋焼には幾何学模様から動植物、沖縄の風物など多種多様な文様が描かれており、その文様の中には特別な意味を持つものがあります。仁王窯では赤絵壺に描かれる伝統的な文様があります。



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通常は絵付で描かれた作品画多いようです。二代目仁王の作品で有名な絵柄ですが、後世の方も描かれています。



内部は濃い紫色の釉がタップリと掛けられています。



竜の紋様・・。



松の紋様・・。



桃や柘榴の紋様・・。



口縁廻りは七宝紋様・・・。



この刻印は果してそもそも仁王窯の刻印???



果して本作品の氏素性や如何???

華蔭遊猫図 大橋翠石筆 その3

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大橋翠石というと「虎」の作品で有名ですが、子虎ならぬ「猫」の作品にもその技量が発揮されています。

大橋翠石の作品としては以前に明治期の「虎」の作品を投稿しています。

正面之虎 大橋翠石筆
絹本着色軸装収納箱二重箱 所蔵箱書 軸先本象牙 
全体サイズ:横552*縦2070 画サイズ:横410*縦1205

大橋翠石の作品は「なんでも鑑定団」にも出品されていますね

ついでに玉置頼石も「なんでも鑑定団」に出品されていますが、本ブログにも投稿されています。

虎図 玉置頼石筆絹本着色軸装 軸先木製
全体サイズ:縦2175*横645 画サイズ:縦1290*横420

伝」大橋翠石として狸の作品も出品されています

本日は「猫」の作品です。

華蔭遊猫図 大橋翠石筆
絹本着色額装 
全体サイズ:横695*縦630 画サイズ:横530*縦446(F10号)



落款は晩年の糸落款、印章は「翠石壽」の白文朱方印が押印されています。真作ならば、この落款の特徴から昭和15年〜昭和20年までの最晩年の作と推察されます。



本作品と同じような作品はいくつかインターネット上に掲載されています



我が家の子虎の子虎視眈々?? 作品は子猫視眈々・・・。



本作品は共箱でないので題名が不明のため、インターネット上の作品を参考にして題名を「華蔭遊猫図」としました。



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大橋翠石:慶応元年(1865)生まれ、昭和20年(1945)没、享年81歳。岐阜県に生まれる。天野方壷・渡辺小華に南画を学ぶ。 その後、独学をして写生画派に転向する。動物画に秀で、特に虎の絵は細密かつ迫真にせまる作品である。

内外の博覧会でも大賞を受賞し、全盛期には横山大観・竹内栖鳳と並び高い人気と評価を得た。岐阜県大垣市の染物業の二男で、本名は卯三郎。父親の影響で幼いころから絵をかき、地元や京都、東京で南画の腕を磨いた。神戸に移ったのは大正元(1912)年、48歳のころ。故郷の大垣を離れ、須磨離宮公園の近くに千坪の邸宅を構えた。「結核を患ったため、温暖な神戸で療養をと考えたのでは」と推測する。

すでに名を上げていた翠石を、神戸では武藤山治や松方幸次郎ら財界人が後援会を結成して迎えた。虎の絵は神戸でも評判となり、当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまでいわれたという。神戸では悠々自適の暮らしを送った翠石だが、昭和20(1945)年、大空襲のあとで大垣に疎開。終戦後、老衰のため愛知県の娘の嫁ぎ先で亡くなっている。

円山応挙をはじめ虎を描いた日本画家は数多い。だが、翠石は本物の虎を写生したリアルさで群を抜く。中でも、自ら考案した平筆を駆使した毛並みの描写は圧巻だ。この画風で、パリ万博に続き米国セントルイス万博と英国の日英博覧会でも「金牌」を受賞した。虎だけでなく、ライオンやオオカミ、鹿、鶴など多様な動物画を描いた翠石。

神戸に移ってからは、背景に遠近感や立体感のある山林や雲などの背景を描き、独自の画風を完成に近づけた。神戸時代の画風を「須磨様式」と名づけ、そこに西洋絵画の影響をみる。「当時、松方コレクションはすでに散逸していたが、松方が集めた洋画はまだ神戸にあったはず。翠石がそれらを目にした可能性がある」。調査を進めると、意外な事実が次々に判明した。明治33(1900)年のパリ万博において日本人でただ一人、最高賞の「金牌(ぱい)」を受けたこと、明治天皇や皇后、朝鮮の李王家に絵を献上していたこと…。

老境を迎えた昭和初期には、日本画壇を代表する竹内栖鳳や横山大観と並ぶ高い画価が付けられるほどの人気を誇っていた。海外で華々しい成果を挙げながら、画壇とは交わらず、権威ある文展や帝展、院展に出展することもなく、わが道を歩んだ翠石。「孤高の生き方ゆえに、多くの作品が所在不明となり、名前すら忘れられたのでは」と考える。翠石は、明石市内に移された墓石の下で静かに眠っている。

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最晩年の作品と断定した根拠は下記の落款の特徴の記述によります。

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最晩年の作品の特徴
地肌に赤、金で毛書きがされ、毛書きの量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化し、構図も前を向く虎の顔や全身に比べて尾や後身が抑えて書いてある。

落款変遷
?点石翠石  - 「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏まで
?翠石    - 二文字とも同じ大きさ 1期 1910年(明治43年)-1922年(大正11年)
?翠石    - 石の文字が太い 2期 1922年(大正11年)-1940年(昭和15年)
?糸落款翠石 - 翠石が細く書いてある 3期 1940年(昭和15年)-1945年(昭和20年)

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筋の良い確かな作品か否かはいま少し検証が必要ですが、確かな作品のようならばしみ抜きしてきれいにしておく必要がありそうです。

氏素性不明作品 呉須(州)赤絵写? 鳥獣紋碗 その1

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昨日の閲覧者数が4200件以上というのは初めての異常値です。訪問者数は相変わらずの300名前後ですから、訪問者数が増えたことによるものでもないようです。いったいなにが起きたのやら??

本ブログのアクセス件数の多い記事(人気記事と称するようです)は最新記事以外は日替わりに変わるようです。ですから何にアクセスが集中しているのかは解りませんが、当方はマイペースで休日に作品を整理しています。

さて本日は赤絵の碗の作品です。

古くより明末の中国陶磁として珍重されたもののひとつに、呉須(州)赤絵と呼ばれる作品群があります。これはベンガラに熔剤を加えた酸化第二鉄を釉薬とした、赤色が基盤となっている磁器で、奔放な絵付けと力感のある色彩と造形に特徴があります。

呉須赤絵は呉州手とも称され、古染付と同じように中国の明朝末期から清朝初期にかけて焼成された焼き物ですが、同時期に古染付もあり、古染付とどこが違うかというと、古染付が現在の江西省景徳鎮で作られた焼き物であるのに対して、呉州手は福建省南部で作られた焼き物であり、その産地が全く異なる作品群です。

呼び名の由来は、その名の示すとおり「呉州」、すなわち三国志で知られる「呉」の国の領域あたりで作られた焼き物であるという認識から付けられたものと考えられています。

当時「南京手(なんきんで)」と呼ばれた景徳鎮の焼き物と区別する必要性から付けられた名称のようです。欧米では、この呉州手が船積みされた貿易港・汕頭の名前から、「スワトウ・ウェア」と呼ばれています。



これまで、明時代から清初の焼造でありながら景徳鎮窯の出土がなく、生産地が不明でしたが、近年の発掘成果により、福建省南部の漳(ショウ)州窯の焼造であることが有力視されています。現在中国では、この地域の明時代の地域名である「漳州(しょうしゅう)」の名を冠し、「漳州窯系磁器」と呼び始めているようです。




製造された時期については、萬暦年間(1573〜1619)末から天啓年間(1621〜1627)を中心とする頃と想定され、日本をはじめ、東南アジアや西アジアにも分布することから、広くアジア地域に輸出されたものと考えられています。すべてが輸出専用で中国本土には作品は残っていないようです。

輸入されて流通しだすことにより日本の九谷、京都では「呉須赤絵写」が多数作られ、精巧なものは区別がつきにくいものがあります。また安南でも同じように「呉須赤絵写」が作られました。



さらには中国本土でも時代が下がるにしたがって、作風に違いができ評価が分かれるものがあります。このように一般的に「呉須赤絵」と呼ばれる作品群にはいくつもの産地や多様性があります。



これら呉州手の器は、日本国内では安土桃山時代末期から江戸初期にかけての近世都市遺跡において多くの出土例があります。特に大皿などは当時の富裕階層に人気を博し、競うようにして買い求められ、各地の旧家の蔵に納まり、宴席ともなればその財力を誇示するかのように中心に据えられ大いに使用されたようです。そしてこの呉州手大皿の人気は、やがて唐津や伊万里などで大皿が焼成される動機ともなりました。

本日は今まで紹介してきたそのような大皿ではなく碗という小作品です。


呉須赤絵写鳥獣紋碗
合箱入
口径144*高台径74*高さ60



桃山から江戸にかけて大量に輸入され、茶人や富裕層から珍重された呉州赤絵の器ですが、寛文元年(1661年・順治1年)、清朝が「遷界令(せんかいれい)」という福建・広東省住民の強制移住政策を断行するにいたって、その輸入はぱったりと途絶えてしまいました。

日本国内の呉州赤絵に対する需要は衰えず、京焼の尾形乾山や奥田頴川、永楽保全ら、実に多くの陶工たちがその写しを作っています。また尾張犬山焼は呉州赤絵を模した独特の作風で知られています。

本作品のように茶碗のような大きさのものは本来中国本土の焼き物には少なく、本作品も「安南手」として売られていましたが、釉薬、胎土から前述の日本製の可能性が高いと思われます。京都の粟田口焼の可能性があります。

砂付高台と判断できない点もその理由のひとつです。ただ高台まわりの粗雑さは味があり、日本で作られたものとしても本歌にひけをとりませんし、絵付けの洒脱さが生きています。



形がいびつな点も捨てがたい味があります。以前に形の整った茶碗を入手しましたが、見込み中央に「魁」の文字が描かれておりましたが、全体に整いすぎていて味がなく明治以降の写しだろうと判断して売却したことがあります。この作品はおそらく犬山焼であったと思われます。

生産地いかんにかかわらず、呉須赤絵の鑑賞のポイントは「奔放な絵付けと力感のある色彩と造形」にあります。



本作品は「碗」となっていますので「茶碗」にはどうかな? この作品でお薄をいただくのもまた一興



というこで家内のお茶会の友人から頂いたカステラを賞味させていただきながらお薄を一碗・・。



なかなかのお茶碗です 赤絵のお茶碗としては滅多にない佳品??。口縁の欠けた部分は当方で急繕いで金繕い・・。

愛嬌のある鳥獣の絵付けが見どころですね。 



本ブログで投稿された「呉須赤絵」の作品の中で、中国本土で作られた作品で「奔放な絵付けと力感のある色彩と造形」という点で評価できる作品は少ないかと思いますが・・。リンクした作品は意外とアクセス件数が多いようです。



本当の意味での「呉須赤絵」の器はお茶会などでなかなかお目にかかれません。なぜでしょうね・・?? お茶会では家元の流派の関係のある器が多いせいかもしれませんし、女性の好みには合わない粗野さのせいかもしれません。



本来の「呉須赤絵」、日本の「赤絵写」、清以降の綺麗な「呉須赤絵」、東南アジアの「赤絵写」・・、ともかく陶磁器は判別が難しいし、人によって評価がまちまちなので戸惑うことばかり

茶溜りが花の赤絵とコントラストになって実に美しい。このような景色を楽しめることもこの作品のみどころ・・。



「呉須赤絵」・・、興味のある方は是非ひとつ・・。

この歪さがまた楽しい・・。呉須赤絵・・・桃山、江戸、そして近現代という長きに亘って、これほど日本人に愛され、日本人の生活に溶け込んできた中国陶磁も珍しいでしょう。




家内との一服で使ったもうひと碗は浜田庄司の地釉縁黒茶碗・・。



持ち味の違う碗で愉しむのもまた一興



エビと魚図 伝藤田嗣治筆

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我が郷里の秋田県に縁の深い画家の一人に藤田嗣治がいます。支援者の一人に秋田市内の平野政吉がいますが、彼の所蔵した藤田嗣治の作品が平野美術館から秋田県立美術館に収められ(平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m))、その美術館の館長に本ブログで何度か紹介した平野政吉の縁戚の保戸野窯の平野庫太郎氏が就任したのも非常に興味深いことです。

エビと魚図 藤田嗣治筆
紙本水墨額装
全画サイズ:縦265*横195



なにしろ巨匠の作品ゆえ贋作は星の数ほどあるようです。「東郷青児」の鑑定があるといいのですが

エビの描き方は「斉白石」よりもうまい・・。



この作品は面白いと思い購入したものです。独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像や猫や子供を描いた作品とは画風の全く異なる作品ですが、このような作品も描いています。



真作なら日本に帰国中に描かれた作品と推察され、1933年〜1937年、1939年、1940年〜1949年のいずれかの時期と思われます。私は1937年ころではないかと推察していますが・・。

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藤田 嗣治:(ふじた つぐはる、レオナール・フジタ、Léonard Foujita または Fujita)1886年11月27日 〜 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家(晩年にフランスに帰化)である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。

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1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野(詩人中原中也の名づけ親<父が中村の当時部下>)が、従兄には小山内薫がいる。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいる。なお藤田のその他の親族に関しては廣澤金次郎・石橋正二郎・鳩山由紀夫・郷和道・吉國一郎・吉國二郎(6人とも藤田と姻戚関係にある)

彼の作品は東京のブリヂストン美術館、国立西洋美術館、赤坂迎賓館や箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館で見ることができる。 関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵・・」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。 晩年に手がけた最後の大作は、死の直前に描きあげたランスの教会における装飾画である。

1933年に日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年-2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。

日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力に対する心無い批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。戦後になり、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ば生贄に近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してパリへ向かい、二度と日本には戻らなかった。

フランスに行った後、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく藤田は語った。その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」のになぜ非難されなければならないか、と手記の中でも嘆いている。取分け藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったが故に、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。

パリでの成功後も戦後も、藤田は存命中に日本社会から認められる事はついになかった。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」「近代日本画家作品集」等の、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきた。近年になり、日本でも藤田の展覧会が開かれるようになった。

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氏素性不明作品 仁王窯? 三作品 その2

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一昨日は帰宅途中に家内から携帯に連絡があり、盆踊りの真っ最中とのことで新都心のケヤキ広場にて待ち合わせ。しばし踊りと太鼓と散歩を愉しんで帰宅しました。

本日は沖縄の仁王窯と思われる作品ですが、氏素性の解らぬ作品の二作品目はお茶碗です。一作品目と入手先は全く違います。

壺屋焼 花鳥紋茶碗 小橋川仁王作
共箱
口径115*高台径*高さ80

洒脱?か稚拙か? ま〜それなりに味わいがあります。



見込みには茶渋??



高台は竹節高台。



このようんは箱書きは見たことがありません???



仁王窯としたら何代目なのでしょうか?

 

高台脇には刻印があります。このような印もあるのか〜



面白い紋様に誘われれての購入ですが・・・。

氏素性不明の作品 呉須赤絵写? 鳳凰菊花紋角皿 その2

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大きく破損した角皿ですが、丁寧に金繕いで補修されており、その丁寧さと味のある絵付けに惹かれて購入した作品です。ここまで破損していると価値はあまり認められないものですが・・。

呉須赤絵写鳳凰菊花紋角皿
合箱入
縦247*横24*高台145□144*高さ50



勢いのある良い絵付けですね。この角皿と最近投稿した「呉須赤絵写鳥獣紋碗」とはいい組み合わせです。どちらも日本で造られた可能性のある「呉須赤絵写」ですが、本歌を凌駕する出来・・・???。



大きく破損しており、丁寧な金繕いで補修されています。



釉薬に剥げている部分が多くありますが、窯の中で剥がれたようなものが多いです。緑釉は泡がふいたような跡があります。



一見、単調な図柄に見えますが、ひとつひとつ見どころがありますね。



ずっしりと重く歪みのある角皿です。



これは鳳凰紋様らしい・・。



さて、このようなガラクタ・・、あなたなら使いたいと思いますか??



繕ってくれたということは価値を認めた人物がいたということ、繕ったものでも存在し続けたということはその物自体に価値があるということ・・。

人の世は己も含めておおよそ繕いの多いガラクタの集まりさね  

どう今を生きているかが価値を決めるのさ
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