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源内焼 その43 三彩草紋手持付連鉢 その2

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最近、家内がブログに投稿した記事が「薊」ですが、本ブログにも「薊」の作品を投稿した記事を思い出しました。堂本印象の作品ですが、この作品に用いてる「香炉印」は贋作に用いることがあるようなので、ちょっと心配していましたが、最近の比較でどうも大丈夫(真作)のようです。

さて、本日は「源内焼」のその43作品目の登場です。地図皿や大きな作品はとても高価で市場に出てくることも稀であり、むろんお値段も高いので小生にとっては入手困難ですが、もう43作品にもなったのかという思いです。

実用的とはいえない源内焼・・、とくに大皿などは柔らかくて割れやすいので実用には向いていないようです。かえって小さめの皿や鉢の方が手頃な値段で入手でき、使う愉しみを味わうことができるようです。



とくにこのような蓮鉢は何に使おうかとわくわくする器のひとつです。

源内焼 その43 三彩草紋手持付連鉢 その2
合箱
幅280*奥行167*高さ130



源内焼には二つの鉢が繋がった形の「連鉢」と称する特徴的な器が存在しますが、本ブログにおいては下記の作品を先に投稿されていますので、二作品目の源内焼の「蓮鉢」です。

源内焼 その28 三彩草紋手持付連鉢
合箱
幅288*奥行168*高さ113

家内とふたりなのでペアで揃えるようにしてきましたが、これからは息子のものが必要となり、三客揃いで集めるように心がけしなくてはいけません



本作品は五島美術館にて出版された「源内焼」に掲載されている作品と釉薬も同じで、同じ型で製作された作品です。幾つかの本に掲載されています。

五島美術館出版 源内焼のまなざし 源内焼 作品NO90
「三彩唐草文手付連鉢 江戸時代18世紀後半〜19世紀中ごろ)」
幅276*奥行169*高さ130



平賀源内先生遺品館企画展 財団法人平賀源内顕彰会出版掲載 作品NO84
「三彩唐草文手付連鉢 江戸時代18世紀後半〜19世紀中ごろ)」
幅275*奥行160*高さ117



源内焼の魅力はなんといってもその型の見事さです。



平賀源内が浮世絵の鈴木春信の工房(おそらく彫師)に依頼して型を作らせたといいます。浮世絵の技術との合体という点で、古来の日本の技術の高さを示す作品群です。浮世絵技術とのコラボということを知らない人が多いように思います。



型によって作る技術の中でも最高峰に位置する作品群が源内焼です。ところで源内焼は海外で高く評価されていますが、美術においても日本人は海外から高く評価されるとようやく自国で高く評価するという主体性のない国民性のようで、この点は大いに反省すべき点です。



その中でも蓮鉢は技術の高いレベルにあります。自分で作ってみると解りますが、土で型を相手にするのは非常に難しいです。



この型で紋様を鮮明に出すのはとくに難しいものです。なぜ、源内焼がまだこのように日本陶磁器の脇役なのかが不思議ですね。

源内焼の人気を下げているのは明治期に造られた再興作品の粗雑さからもしれません。これらの作品が「源内焼」としてネットオークションなどの出品されていますが、源内焼とは一線を画すべきものでしょう。「鳩渓」などの銘が入ったものは再興作品です。これらは一部を除き、ほとんど価値のないものといって差し支えないでしょう。あとは保存状態の悪い作品も同様ですね。









 墨竹 寺崎廣業筆 その28

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先週は亡くなった家内の墓参りです。来年で七回忌ですが、いまだ命日に墓参りに来てくれる方がいるのは家内の人徳かな?



墓参りの途中で近所でぼや騒ぎ・・・、消防車が3台も来ました。田舎では滅多にないことゆえ静かなはずの墓参りがにぎやかになりました。



玄関はなんとか歩きやすくなりました。少しずつお金を蓄えての少しずつの古い家の現状維持です。



庭は義妹が仕事の合間に手入れしているようで、だいぶきれいになってきました。それでも野趣溢れる庭・・。



本日は寺崎廣業の簡素な作品です。このような作品はお世話になった方への贈答によく使われますが、いまは喜ぶ人もいないかな? 

それでも秋田ではまだ喜んでもらえる人がいるかもしれませんので、ついつい集めています。田舎は人と人との助け合いで成り立っています。といって、お金ではお礼にはならないようです。助けには助けをどうやって返していいのか戸惑うことがります。

墨竹 寺崎廣業筆 その28
紙本水墨軸装 軸先象牙 鳥谷幡山鑑定二重箱入 
全体サイズ:横450*縦2160 画サイズ:横300*縦490



箱書には「昭和丁卯初冬幡山道人□題」とあり、昭和2年(1927年)の箱書で、寺崎廣業が亡くなってからおよそ10年後、鳥谷幡山が51歳頃の箱書です。

 

落款は三本廣業で、印章は「騰龍□?軒」の白文長方印が押印されています。落款と印章から、寺崎廣業が50歳の頃で、大正初期の作品と思われます。



竹石図 寺崎廣業筆と「落款と印章」はほぼ同一ですね。



簡素な作品ながら力量溢れる作品です。



竹の作品はよく描かれたのですが、今ではだんだん見なくなってきました。



次に帰省するのはお盆かな??

忘れ去られた画家 武陵春色 金井烏洲筆 その2

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今週の月曜日は東北で一緒に仕事をしていて今は東京で仕事をしている方と一献、火曜日は東北で一緒に仕事をしていて今も東北で仕事をしている方と一献、お互いに仕事は違いますが、懐かしい話で盛り上がりました。

最近は作業員不足・・・、全国ネットで作業員を手配して応援しても、交通費、宿泊費が高くつき、感謝されるどころか高くなったのを暴利と非難されるのだからたまったものではない。

さて最近の投稿に南画が少なくなったせいか、南画ファンが読まれていないような気がします。とはいえ本ブログは南画のブログではありませんし、南画の良いものも簡単にはみつかりませんね。

本日は関東南画檀の金井烏洲の作品です、金井烏洲の投稿は二作品目の投稿となります。「忘れ去られた画家」で投稿しています。

「忘れ去られた画家 湖山雪霽図 金井烏洲筆」として投稿しています。この作品は1854年(安政元年)の作品で59歳の作品ですが、本日の投稿作品とほぼ同時期の作品と推察されます。

金井烏洲は天保末年(1843)から多くの名作を残していますが、さらに最晩年の安政元年(1854)春に、やや病の小康を得た烏洲はさかんに採管を揮ったらしく、この年「江山雪眺図」など稀有の名作が数多く残し、「風后一種の宏逸酒脱の気格を加う」と評されています。そういう観点から「湖山雪霽図」は重要な意味を持つ作品と思われます。

関東在住の方々にとっては身近な画家のはずですが、知っている人は本当に少ないでしょうね。私もよくは知りませんでしたが、関東出身の画家には欠かせない存在のようです。

「赤壁夜遊図」(56歳の作)などはなかなかの秀作で伊勢崎市の市指定重要文化財となっています。

群馬県の伊勢崎市の出身で伊勢崎市では展覧会が開催されたりしているようです。イントラ上には「金井烏洲の美術館」があるようです。

武陵春色 金井烏洲筆 その2
紙本墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1980*横610 画サイズ:縦1370*横470



賛には「武陵春色 烏洲老□ 押印(「白沙頓翁」の白文朱方印 「翠林巌?主」朱文白方印)とあります。

  


晩年は故郷にアトリエ呑山楼を構え、中風を患うも書画の製作に打ち込んだようです。この晩年の作を風後の作と称されます。享年が61歳ですから、現在の私と同じ年で亡くなっています。昔は60歳程度でも長生きなほうであったようです。



本作品は「湖山雪霽図」と製作が同じ頃と推察される作品で、60歳の春には中風がやや小康を得た烏洲はさかんに採管を揮ったらしく、この年江山雪眺図など稀有の名作が数多く残し、風后一種の宏逸酒脱の気格を加えた作品を描いています。翌安政2年中ばころから病が再発したらしく、画業作詩の一切が知られていません。金井家に伝わる絶筆二幅はこの年書かれたものですが、もう筆がふるえて判読に困難なほどとのことです。




本作品の賛にあり、題名とした「武陵春色」は武陵桃源と同じく、「世間とかけ離れた平和な別天地。桃源。桃源郷。陶淵明(とうえんめい)「桃花源記」によると、晋(しん)の太元年間に、湖南武陵の人が桃林の奥の洞穴の向こうに出てみると、秦末の戦乱を避けた人々の子孫が住む別天地があって、世の変遷も知らずに平和に暮らしていたという。」の意で、よくいう「桃源郷」を描いた作品でしょう。画題としてよく描かれますが、死期を悟ったか否かは解りませんが、死後はこういう世界に住みたいという願いあったようにも思います。



「少量の墨でかすれるように描く焦墨渇筆を多用したみずみずしい山水図表現に特色がある。」と評されています。ん?「焦墨渇筆」とは?

焦墨:筆に水を加えず、磨ったままの墨を用いる
渇筆:筆の穂の中の水分を布巾などで拭き取ってから描くと墨線がかすれてカサカサし枯れた感じを表現できること

板橋区立美術館発刊の「関東南画大集合 のぞいてみよう心の風景」という本にも谷文晁、渡辺崋山らとともに金井烏洲が掲載されています。但し掲載作品はやはり群馬県立近大美術館や群馬県立歴史博物館所蔵の作品です。

金井烏洲は本ブログに登場する画家と縁の深い画家のようです。

春木南湖に師事・・・子息の春木南溟の作品を投稿しています。

菅井梅関と交流・・・仙台四大画家の一人としていくつかの作品を投稿しています。

田崎草雲の入門・・・もともと烏洲家と田崎家は親縁の関係であったようです。

本ブログの投稿された画家の関連を整理すると面白いかもしれませんが、時間が足りない



鷹図(三幅対)その3 天龍道人筆 その22

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天龍道人の作品は意外に市場に多く出回っています。贋作もありそうななので、ネットオークションからの購入などは一応警戒して、印章などは照合した方がいいようです。本作品は最晩年の作と思われ、資料での最終確認は未了ですが、一応真作としての前提でブログを作成しました。

鷹図(三幅対)その3 天龍道人筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦520*横1300



落款は「天龍道人九十三歳筆」と記されていることから、1810年(文化7年)、天龍道人が93歳頃の作品と推察され、この年の8月21日に天龍道人は亡くなっています。

  

最晩年のもっとも枯淡の現れた作品であり、この年の作品は非常に少なくとても貴重だと思います。

左幅がもっとも出来がよく葡萄の花? に鷹の図。



根津美術館発刊「天龍道人 百五十年記念展」の解説には「葡萄図は八十代、九十代に於いて独自の境に入り完成したもの」という記述があります。



さらには93歳の葡萄図の賛に『天下無人知我者 総道只葡桃先生 看画不敢論工拙 東西各自伝虚声 我幸好以有此癖 風流一世得遯名 鵞湖折脚仙九十三歳天龍道人王瑾併題書』とあり、意味深長である。」とあります。



「老境に入ってますます旺盛にして、本作品は一代の傑作であり、初期の五十代、六十代の作とは別人の観があります。」



「壮年期の作品を凌ぐものであるのは、磨き上げた芸術の偉大な力と言えましょう。」とも・・。




佐賀県立博物館の所蔵されている「葡萄図」には「鵞湖折脚仙九十一歳天龍道人王瑾」の署名があり、最晩年の91歳の作品と判明している作品です。この作品の賛文を読み下すと、「かつて葡萄を描くもの、果を描き花を描かず。われはこれ新様を写し、千載一家をなす。」と記されています。

賛文をふまえて、この作品の葡萄をみると、点描風に描かれているのは果実ではなく、花であり、花が咲いた状態の葡萄を描いた珍しい作品といえます。葡萄を描く場合、実をつけた状態で描かれるのが一般的ですが、天龍道人は花の状態を描いており、そのことを賛で、これまでにない新しい葡萄画を描き「一家をなす」、と自負しているものと思われます。


本作品にも葡萄の花を点描風に描いた左幅があり、鷹の絵が描かれた非常に貴重な作品だと推察されます。

まくりの状態での入手で屏風から剥がした作品かもしれません。しみ抜きをして三幅対の掛け軸に仕立てたら、さぞ立派になろうと・・・。



先立つものは資金・・。また何かを処分せねばなりません



中央は松ニ鷹図・・・。



水墨に鷹の部分に一部、胡粉を使っています。



墨が枯れたように筆が運ばれ、見事というほかありません。



このような作品がまだ市場にあったというのはラッキーでした。数千円での入手。



右幅は葡萄に鷹図?。



長野などで2010年の没後200年ではなにか記念の展示会は催されたのでしょうか?



鷹の絵であまりいい作品がなかったのですが、本作品は別格ですね。



このような作品を後世に伝えてゆきたいものです。



?? 「この絵のどこがそんなにいいのかい?」だって? そこから説明するのはちょっと厄介ですね。

天龍道人のファンがいないものでしょうか? 本ブログで20作品以上を投稿していますが、いまだにコメントは一件もありません 内容がつまらない・・・


天龍道人は姓は王、名は瑾と称しましたが、「勤王」をひっくり返したものらしい

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天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。

半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。

54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。

天龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。

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なんといっても90歳を超えて、これだけの絵を描くというのはたいしたものだと思います。90歳以上も永く生きることさえ難しかった時代に・・・

源内焼 その44 三彩唐人琴奏図皿

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サッカーのワールドカップの試合は非常に面白いのですが、日本の試合は最悪でしたね。そもそも日本人の男子サッカーはフィジカル面で世界には通用しないようです。フィジカル面で劣るならすこし頭(組織力)を使うことを覚えないと通用しませんね。

韓国も日本のサッカーを酷評しながら、自国も惨憺たるもの・・。日本は一人足りないチームに勝てず、最後には二軍と試合して負けましたが、韓国は二軍でかつ一人少ない相手に負けたともいえます。自国の試合前に、日本を自国を顧みずに酷評するという品格の無さは、韓国に劣る国は中国くらいでしょう。ともかくクラブチームでアジアで勝てない国が世界には通用しない。他国の個々の強さを見せつけられて、また個々の力を身に着けるという目標を選手が掲げていますが、すでにその時点で間違っていますね。どうもサッカー選手は頭が悪いようです・・。

さて本日は本に掲載にはない作品のようですが、江戸期の源内焼に相違はないようです。

源内焼 その44 三彩唐人琴奏図皿
合箱
口径260*高台径180*高さ43



最近のネットオークションには何点か江戸期の源内焼が出品されているようですが、釉薬の禿が多いものはその価値がほとんどないので、価値目的ではそのような作品は購入は控えてほうがいいと思います。使う目的なら補修して使いましょう。



本作品も縁の釉薬の剥がれた部分が多くありましたが、漆で補修して金繕いを黒めにして仕上げました。



源内焼は非常に脆い作品群ですが、やはり本来骨董というものは使っていくらですね。

ところで浮世絵が美術館で暗いところで展示されていますが、あれではなんら愉しみがない。照明によって浮世絵の絵の具が退色するためですが、作品本位の学芸員の考えそうな愚かな行為で、愚の骨頂もいいとこで、なんらの方策を考えるべきでしょうね。

小生なんぞは江戸期の浮世絵の版画は明るい玄関に堂々と飾っています。色が変色しようが、骨董とはそもそもそういうもの。税金対策で作品は燃やしたり壊してもいいが、絶対に美術館に寄付という愚かな行為はしません。





秋山訪友之図 菅井梅関筆 その3

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菅井梅関はその晩年は盲目の弟とその家族を支える生活は厳しく、折からの飢饉も加わって貧窮を堪え忍ばざるを得なかった。このような事情のためか梅関は生涯を独身で過ごしています。文人としての矜持をもって過ごすも、支援者・理解者の相次ぐ訃報に接し、ついに心が折れ天保15年(1844年)正月、自ら井戸に身を投げたという悲劇的な最後を遂げた画家です。

秋山訪友之図 菅井梅関筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦2000*横750 画サイズ:縦1240*横540



印章は「菅井之印」の朱文白方印と「梅関之印」の白文朱方印の累印が押印されています。「冬景獨釣図」と同一印章です。「菅井之印」の印章の寸法が数ミリ違うのは、絹本に押印した際の寸法違いなのかどうかは後学とする。ただ同一印章であることには相違ないようです。落款は「梅関岳」と署されています。



先代から谷文晁に弟子入りのために江戸に出て、その後長崎までの江稼圃学のものとに遊学し、山陽の頼山陽宅に世話になり、母が没して仙台に戻ったという経歴の持ち主です。転勤族の小生には他人ごとではない転勤歴です。



地方地方で多くの人と交わり、きっと愉しかったのでしょう。その頃の知人が訪ねてくる、また訪ねていく・・、そんな思いが本作品を描かせたのでしょうね。



頼りにしたり、親交のあつかった友人の多くが亡くなり、ついには貧窮に耐えかねての自殺と言われています。



そういう点からこの「秋山訪友之図」という作品の持つ意義を考える必要があります。秋の物寂しい季節に描いた菅井梅関の心境や如何?

 

交通の便がいくら良くなっても、少子高齢化の今日では、この菅井梅関の思いにはなんら変わりはないように思います。


縞鯛 田中以知庵筆 その4

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最近、寿司屋や料亭に行ってもあまりいい絵が飾っていませんね。というか観るほうも解らないのでは飾る意味もないかもしれませんが・・。

縞鯛 田中以知庵筆 その4
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦1170*横420 画サイズ:縦二百六十五*横235



昔は? 少なくても私の経験ではちょっとした料亭にはいい絵が飾ってあったものです。



そういうところでは無論禁煙・・。

  

きちんとした絵を飾ったところで煙草を吸ったら、縞鯛が怒り出して絵のように睨みますね。

銀河釉掛合茶碗 中尾哲彰作 その4

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先週末には家内の実家からの帰りに新宿で「銀河釉 中尾哲彰 作陶展」に立ち寄りました。ちょうど先生もおられて、少しの間説明を聞くことができました。

海外では高い評価を得ている銀河釉の作品ですが、日本での知名度はまだまだ低いようです。

本日は遠州流と縁ができる前の頃の作品です。

銀河釉掛合茶碗 中尾哲彰作 その4
口径125*高台径53*高さ78



1980年頃の製作の作品ではないでしょうか?



縁があって購入したものですが、まだまだ銀河釉とは知らない方が多いようです。



展覧会での作品はとても高価で、茶器にはわれわれサラリーマンではとても手が出ませんね。



コーヒーカップなど日常的な器が手頃なのは嬉しいです。



轆轤の腕前は非常に高度なものです。保戸野窯の平野先生もそうですが・・。



「日展作家」と明記されていますが、現在は脱会しているとのこです。



このような百貨店での個展というのは敷居が高いですが、私は乳母車をひいて参入しました。いいものを見るためには格好やふとごろ具合は関係ない




中尾哲彰:昭和27年生まれ。銀河釉というオリジナルの技法を開発した陶芸作家。スペイン、オランダ、フランス、トルコ、イタリアなどのヨーロッパや中近東で多くの賞を獲得するなど海外で高い評価を得ていて、フランス・パリのルーブル美術館には「中尾哲彰」の名が刻まれています。哲学への造詣が深く、作品を通じて人類史に残るメッセージを伝えることが中尾氏のテーマです。国内では、個展を中心に活動し、まるで宇宙空間に広がる無数の星がきらめくような銀河釉の文様は絶賛されています。

雨中孤舟図 寺崎廣業筆 その25

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しばし行方不明の作品でした。「あれ〜処分したかな? どこかにしまったかな?」と思っていたら、未整理で箱の題名が「雨中山水図」となっており、探し出せないでいました。

寺崎廣業の作品をインターネットオークションで入手しようとすると、本作品程度の書き込みだとおそらく2万円前後でしょう。人気がないようである、あるようでないという中途半端な画家のひとりです。繰り返しですがインターネットオークションに出品される作品の70%以上は贋作ですのでよくよく注意してください。遺された作品の数が多いので蒐集しやすい画家ですが、きわどい贋作が数多くあります。

雨中孤舟図 寺崎廣業筆 その25
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:横535*縦1990 画サイズ:横410*縦1110



このようにブログで紹介するとライバルが多くなるのですが、秋田出身の小生にとっては蒐集対象から外せない画家です。いつか郷里で展示会でもできたらいいなと思っています。



雨の中を漁にでも一人で出るのであろうか? なんとも哀愁のある作品です。何気ない本作品ですが、飾っていたら家内が「いい作品ね」だと・・。解るようになってきたか

そうそう家内が氷川神社からお守りを買ってきたようです

落款は廣業の「業」の字が二本線のことから、俗に言う「二本廣業」で、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間に描かれた作品と思われます。印章は朱文二重(達磨?)印でその後箱書によく使われる印章が押印されています。共箱や鑑定はありませんが、出来からも真作と判断していますが?



真贋を見極めるには贋作に騙されることも必要なようですが、贋作を購入すると自己嫌悪との葛藤に結構苦しむことになります。さて今回は騙されているのか? 騙されていないのか?

瀟相八景図 狩野素川筆 

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瀟湘八景の名前を覚えるにはよいかと二、三千円で購入してきた作品です。瀟湘八景、近江八景を諳んじれる人はなかなかいない。ついでに金沢八景・・・

瀟相八景図 狩野素川筆 
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:横940*縦1520 画サイズ:横750*横505



素川は50代で章信と改めたが、それまでは号は大玄齋、素川(そせん)であり。章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったということから、本作品は50歳前の作品であると推察されます。印章は「大玄斎」の朱文八角印が押印されています。



瀟湘八景:(しょうしょう はっけい)。中国の山水画の伝統的な画題。またその8つの名所のこと。瀟湘は湖南省長沙一帯の地域。洞庭湖と流入する瀟水と湘江の合流するあたりを瀟湘といい、古来より風光明媚な水郷地帯として知られる。北宋時代の高級官僚・宋迪はこの地に赴任したときにこの景色を山水図として画いた。後にこの画題が流行し、やがては日本にも及んだ。有名な桃源郷の伝説もこの一帯から生まれた。



瀟湘夜雨 [しょうしょう やう]:永州市蘋島・瀟湘亭。瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景。
平沙落雁 [へいさ らくがん]:衡陽市回雁峰。秋の雁が鍵になって干潟に舞い降りてくる風景。



烟寺晩鐘 [えんじ ばんしょう]:煙寺晩鐘とも。衡山県清涼寺。夕霧に煙る遠くの寺より届く鐘の音を聞きながら迎える夜。



山市晴嵐 [さんし せいらん]:湘潭市昭山。山里が山霞に煙って見える風景。
江天暮雪 [こうてん ぼせつ ]:長沙市橘子洲。日暮れの河の上に舞い降る雪の風景。
漁村夕照 [ぎょそん せきしょう]:桃源県武陵渓。夕焼けに染まるうら寂しい漁村の風景。
洞庭秋月 [どうてい しゅうげつ]:岳陽市岳陽楼。洞庭湖の上にさえ渡る秋の月。
遠浦帰帆 [おんぽ きはん]:湘陰県県城・湘江沿岸。帆かけ舟が夕暮れどきに遠方より戻ってくる風景。

全風景は含まれないものの、瀟相八景図と称してよい作品かと思われます。



今は箱もなく打ち捨てられた作品ですが、昔はそれなりのお屋敷にしかなかった作品だったのでしょうね。

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狩野 章信:(かのう おさのぶ)明和2年(1765年)〜文政9年10月2日(1826年11月1日)。江戸時代中期から後期に活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師を勤める表絵師浅草猿屋町代地狩野家5代目。幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改める。号は大玄齋、素川(そせん)だが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったという。

狩野派にありながら浮世絵美人画にも学んだ、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評された。

狩野賢信(かたのぶ)の子。父の跡をうけて浅草猿屋町代地狩野家をついだ。一説では宇多川徳元の子とされる。木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川に匹敵する実力者といわれた。文政9年10月2日死去。62歳。

浅草猿屋町代地狩野家は、狩野永徳の弟子・祖酉秀信を祖とする表絵師の家系である。4代目の寿石賢信から継いだが、実父は宇多川徳元だとされる。1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好んだ。吉原の老妓の門弟も多かったという。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信のライバルと言われた。

居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もある。章信はいつも手ぬぐいを頭に被り脱がなかったという逸話が残るが、これは田沼候に招かれる際の出来事が元になっているという。自分は寒がりなので頭巾を外せないが、それでも良ければ参上すると答のが認められ、諸人がこれを真似たという。

弟子に、6代目の寿石圭信、川越城の杉戸絵を手掛けた舩津蘭山など。また、増上寺の「五百羅漢図」で知られる狩野一信も章信に学んだと言われる。

狩野派にはもうひとり「素川」と号する画家がいますので要注意です。。
狩野信政:(かのう-のぶまさ) 1607〜1658 江戸時代前期の画家。慶長12年生まれ。狩野祖酉(そゆう)の長男。狩野孝信の娘婿,のち探幽の娘婿となる。東福門院の御用絵師をつとめ,代表作に聖衆来迎寺客殿の障壁画がある。明暦4年4月15日死去。52歳。通称は外記。号は素川。

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干柿之図 正宗得三郎筆 

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今ではすっかり高級菓子になってしまった干し柿。田舎では秋も深まると家の軒下には干し柿がぶら下がっていたものでした。

干柿之図 正宗得三郎筆 
紙本水彩軸装 軸先 向井潤吉箱
全体サイズ:横655*縦1375 画サイズ:横505*横350



子どもの頃には塀によじ登って、よその家の柿の実を採っては食べたものです。大概は渋柿でした。子どもが採っても大目に見るのは渋柿と知ったのは大人になってからです。



その後、軒下には干し柿が吊るされました。さすがに失敬するわけにもいかず、後日おやつになってから食べたものです。



今では一束数千円する高級お菓子のようです。思わず手が伸びそうな干し柿に懐かしさの感じる作品です。

家内曰く「ちっとも美味しそうではないよ」だと・・。我々の世代の干し柿はこんなもの、こぎたい感じのするもの

実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬というエリート兄弟です。

明治35年(1902年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事しています。のち洋画に転じ、明治40年(1907年)東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科を卒業しています。


正宗得三郎と向井潤吉はどういう関係でしょうね? 高島屋の梱紙に包まれたいましたが・・。

「30年の伝統をもつ二科会は1944年10月6日幹部会を開いて、熊谷守一、正宗得三郎、宮本三郎、向井潤吉、東郷青児、田村孝之介、栗原信、渡辺義知等の評議員が集り、各団体に率先して解消することを決議、その旨声明書を発表した。」という記録があり、二科会にて両名のつながりがあるようです。

向井潤吉の茅葺の家・・、いつかは欲しい油絵のひとつです。


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正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう):明治16年(1883年)8月21日 〜 昭和37年(1962年)3月14日)。日本の洋画家。岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬がいる。

明治35年(1902年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事した。のち洋画に転じ、明治40年(1907年)東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科を卒業。

大正3年から5年(1914年 - 1916年)、大正10年から13年(1921年 - 1924年)にかけてヨーロッパに渡り本場の西洋絵画を学ぶ。この時アンリ・マティスにも学んだ。大正4年(1915年)前年に創立したばかりの二科会会員となる。

第二次世界大戦前は二科会の重鎮として活躍した。東京都中野区東中野にアトリエを構えていたが、昭和20年(1945年)空襲によりアトリエを焼失し作品の多くを失った。

戦後は昭和19年(1944年)に解散した二科会に代わり、昭和22年(1947年)正宗は熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、宮本三郎、横井礼市と共に「第二紀会」(後、二紀会と改称)を結成した。晩年は富岡鉄斎の研究を行った。

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向井 潤吉(むかい じゅんきち):1901年(明治34年)11月30日 〜1995年(平成7年)11月14日)は日本の洋画家。

戦前から戦後にかけて活躍、40年以上に渡り北海道から鹿児島までを旅し、生涯古い民家の絵を描き続け「民家の向井」と呼ばれた洋画家であった。

長男は元TBSディレクターで萩本欽一を育てた事で有名な向井爽也。京都市下京区仏光寺通に父・才吉と母・津禰の長男生まれる。父はもともと宮大工の家柄で東本願寺の建築にも関わった。潤吉が物心ついた頃には、家で10人近い職人を雇い輸出向けの刺繍屏風や衝立を製造していた。

1914年(大正3年)4月、父と日本画を学ぶことを約して京都市立美術工芸学校予科に入学するが、2年後どうしても油絵が描きたくて父の反対を押し切って中退、家業を手伝いながらという条件で関西美術院に入り、4年間学ぶ。

1919年(大正8年)、二科会第6回展に初入選。翌年家に無断で上京、半年ほど新聞配達で働きながら川端画学校に通うが、年内には再び京都に戻る。1927年(昭和2年)、当時最も安い経路だったシベリア鉄道を使いフランスへ向かう。滞仏中は、午前中はルーブル美術館で模写、午後は自由制作、夜はアカデミー・ド・ラ・ショーミエールで素描をおこなうのが日課であった。

潤吉は後年「私の如き貧乏の画学生には、費用のかからないそして自由に名画に接し得られる美術館での勉強はまことに有り難かった」と述懐している。模写した作品はヴェネツィア派からバロック絵画にかけての作品が目に付く他、コローの作品が多い。その一方で、スーティンやココシュカを想起させる荒々しい筆触の作品も描いており、フォーヴィスムへの接近を色濃く感じさせる。

3年後の1930年(昭和5年)に帰国し、模写の展覧会を開く。同年結婚、また、二科会に渡欧中に制作したフォーヴィスム調の作品11点を出品、樗牛賞を受ける。1933年(昭和8年)、東京都世田谷区弦巻に転居し、以後没年まで居住する。1937年(昭和12年)、個人の資格で中国の天津、北京、大同方面に従軍、1938年(昭和13年)、大日本陸軍従軍画家協会が設立されると、潤吉も会員となり戦争画を描く。終戦後の1945年(昭和20年)秋、新潟県の川口村で取材した作品「雨」(個人蔵)を制作、以後生涯の主題として草屋根の民家を描き続ける。しかし、初期の頃は労働や生活の現場を画面に取り込んだ作風を見せ、いかにも潤吉らしい民家作品としての作風が確立するのは昭和30年代に入ってからのようである。1993年(平成5年)5月、世田谷区に自宅を兼ねたアトリエとその土地、ならびに所蔵の作品を寄贈、同年7月、世田谷美術館の分館として向井潤吉アトリエ館が開館する。1995年(平成7年)、急性肺炎のため自宅で逝去。93歳没。

戦後の高度経済成長により次第に伝統的家屋が失われていくなか、潤吉は全国を巡り古い藁葺き屋根の家屋を描き続けた。種々の資料や潤吉自身の言葉から推定すると描き残した民家は1000軒を超え、油彩による民家作品は2000点にも及ぶとされる。1959年(昭和34年)から1988年(昭和63年)までに描いた1074点の製作記録が残っており、これによると、制作場所は埼玉県が約32%、長野県が約19%、京都府が13%と大きな偏りがあり、近畿以西は旅で訪れてはいても作品は極めて少ない。一年の内の製作時期は、2月から4月が一つのピークで、ついで10月から12月が多く、逆に8月は非常に少ない。この理由として潤吉は「民家を描くためには、繁茂した木や草が邪魔になるからであるとともに、緑という色彩が自ら不得手だと知っているからでもあると述べている。

美術史家・辻惟雄は、今後も評価されるに違いない画家の一人として、潤吉の名を挙げている。

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備前茶碗 藤原建作

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今回の会社での業務が2年を経ようとしています。取り巻く環境はなかなか厳しいものがあります。愚痴を先週、地方に出張のおり、居酒屋で酔いに任せて吐露しました。ま〜、すこしずつ変えていくしかあるまい。間見合わない可能性もありますが・・。

さて、本日は備前の茶碗です。
「茶碗は究極のところは備前」と言われる方は意外に多いものです。その意見に私は全面的に賛成というわけではありませんが、納得しています。冬だけはどうかな? という気がします。

備前の茶碗は古備前ではいい作品を観たことがないので、茶碗というと基本的に作家ものの作品になってしまいます。歴史的な古さがないというのも備前茶碗に対する認識のなさがあるように思います。むろん、茶碗以外の壺、花入などは備前の独壇場ですが・・。

備前茶碗 藤原建
共箱
口径150*高台径58*高さ92

「なんでも鑑定団」で有名な田中が社長を務める思文閣で近々、藤原建の特集展示会を催すようです。



備前焼に対する情熱がひしひしと伝わってくるような作品です。備前の茶碗というと金重陶陽、藤原啓、藤原雄といったあたりでしょうね。そのほかにも金重素山、伊勢崎淳、森陶岳などたくさんの備前の陶芸家が良い茶碗を造っています。ただ、他の陶器に比べて評価は低いように思います。

藤原建は53歳で亡くなっていることもあり、人間国宝に指定されていないので、力量の割にはご存知の方が少ないようです。 ただ、藤原建の作品は緻密ながらもそれを感じさせない大らかさがあり、何物にも捕らわれない豪放な作風は藤原建の最大の魅力と言えます。



勢いのある糸胡麻や粉雪が舞うように優しい飛び胡麻、土味は刻々と表情を変える夕焼け空のようで、土味、胡麻の景色は自然体でいて見れば見るほどに表情豊かであり、自然の冥利を授かった素晴らしい作品を生み出しています。



本作品も自然と人間がつくり出す備前焼ならではの魅力を語りかけてくれる、そんな茶碗のひとつです。緋襷など小細工のうるさい茶碗でないところもいいですね。高台の堂々たる造りは見事です。



見込みはお茶の緑がいかにも映えて美しくなるような色合いです。



全体の形の歪さはしっくりと手になじみます。



とくに見どころはその高台廻りですね。端正ではないその造りはお茶を飲んだ後の鑑賞で驚きを与え、その作りはまさに男の茶碗と言えます。



共布、共箱の誂えです。購入時はだいぶ使い込んでいるのかなと思いましたが、どうも初心な(一度も使っていない)作品のようです。



余計なことですが備前も贋作が多いので要注意ですよ。



ひとつの真作を入手するとかなりの割合で真贋の区別がつくようになります。下の写真は「備前花入((非公開)」の作品の共箱です。



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藤原健:大正12年生まれ 昭和52年没 享年53歳。陶芸家。備前焼。岡山県生。叔父は藤原啓。金重陶陽・北大路魯山人に師事。岡山県無形文化財。日本工芸会正会員。日本工芸会正会員で金重陶陽賞ほか多数賞を受賞する。

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本ブログを参考にすることで良きつけ悪しきにつけ、真贋の区別がつくようになっていただけると幸いです。

骨董の真贋を云々する前に人間の真贋がよく分かるのが今の仕事・・・。
 

西湖湖心亭 福田豊四郎筆 その36

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先週は三日連続で遅い帰宅でしたが、その一日はできたばかりの客先への接待専用のフロアでの会食。料理はなだ万、飾ってある作品は川端龍子、中村岳稜(扇面「紫陽花」)、徳田八十吉、狩野探幽関連の狩野派一連の作品。これらは客先が客先だけに本物揃い。久方ぶりに立派な座敷で気持ちよく酔えました。酔いに任せて作品解説・・。ちょっと野暮なことで口が多すぎたかもしれません。

本日は福田豊四郎の作品です。
郷里からの福田豊四郎の作品を「なんでも鑑定団」に出品されていましたが、贋作という評価だったこともあり、福田豊四郎の作品を帰省した折にしばらくぶりに鑑賞しました。こちらは正真正銘の真作です。

西湖湖心亭 福田豊四郎筆 その36(整理番号)
絹本着色軸装 共箱二重箱軸先本象牙
全体サイズ:縦1445*横655 画サイズ:縦438*横507



本作品は一時期、やむえない状況で手放した作品です。縁あってふたたび戻ってきました。骨董というものは不思議なものです。



中国に旅行した際のスケッチをもとにして描いた作品と思われます。



郷里からの福田豊四郎作ということで「なんでも鑑定団」に出品した作品は、売買に関係した方々は贋作とは思っていなかったようです。

本作品はむろん本物で、床の間に飾られていた中村岳凌の「紫陽花」の扇面画に劣らない作品ですね。

三島手茶碗 二作品 平野庫太郎作

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現代の茶碗のお勧めのひとつに秋田県秋田市の保戸野窯の平野庫太郎氏のお茶碗があります。最近秋田市内の公立美術館の館長となり、寡作な上にますます作品は少なくなるように危惧します。しかしお値段は実にお手頃でサラリーマンでも手の届く範囲で購入できます。興味にある方はぜひお早めに・・。

撫子紋三島手茶碗 平野庫太郎作
合箱
口径140*高台径53*高さ71

本作品は今年の5月におじゃました時に頂戴したお茶碗です。辰砂が見込みに飛び込んだ失敗作らしいのですが、是非にと私の手元に置いた作品です。無理に頼んでいますから、他の人には譲れない作品ですね



無理に頼んでいますから、他の人には譲れない作品ですね



もともと三島手の象嵌茶碗はかなり技量の要する作品群です。



高台はすっきりしています。



外側は辰砂釉を刷毛で・・。



実はもう30以上前に先生から下記の作品も譲っていただいていました。先生もよく覚えていました。

葡萄文三島手茶碗 平野庫太郎作
合箱
口径140*高台径50*高さ70



象嵌がうまくいかなかった作品のようで、味があったの是非にと・・・



家内も本作品を覚えていて、こちらが好みらしい・・。



さて日頃使うお茶碗・・、ちょっといいものが欲しいですよね。



いろんなお茶碗を紹介しましたが、保戸野窯の平野庫太郎氏のお茶碗・・、ぜひどうぞ。



花がたみ 伝寺崎廣業筆 その29

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最近は資金不足でいい作品が買われていくのを横目で眺めるだけ・・、円山応挙の「鯉」(当然ながら真作、久方ぶりに真作を見ました)、渡辺玄對の「孔子像」、黒田稲皐の「桜下馬之図」・・、玄人好みの作品ばかり。

資金不足では致し方ない・・、作品処分で資金準備

さて本日の作品・・、本作品を観たときにすぐに思い浮かぶのは上村松園の代表作の「花がたみ」という作品でしょう。



このような名品と真贋さえも不確かな本作品と見比べるのはおこがましいとは思いますが、そこはそれ知識の吸収ということでご容赦願います。

花がたみ 伝寺崎廣業筆 その29
絹本着色軸装 軸先鹿骨 合箱入
全体サイズ:縦1710*横575 画サイズ:縦960*横418



落款は「二本廣業」の書体であり、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間の落款の書体とされています。本作品の印章は以前に投稿した「鯉」と同じ印章です。



そもそも「花筐(花がたみ)」というのは何かというと、下記の説明のとおりですが、恋焦がれて精神状態が不安定になった女性を描いた作品です。



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能楽 花筺(はながたみ)
あらすじ:越前国味真野におられた男大迹皇子(応神天皇の五世の孫)は、皇位を継承されることとなったのを機に、召し使っていた照日の前にお暇を出された。

その際、照日の前に御文と御花筐(花摘みに用いる籠 花は桜)を賜ったので、照日の前はそれを抱いて故郷に帰った。扇には別れの文にあった歌「忘るなよ程は 雲居になりぬとも 空行く月のめぐり逢ふまで」が記されている。

その後のある日、継體天皇となられた皇子が行幸されるのを知った照日の前は、お慕いした余りに心が乱れて侍女とともに都へ向かった。天皇が紅葉狩りに出かけたとき、その途中でその行幸に行き逢い、御文と御花筐を持ってその前に進む。



照日の前は、それが君の御花筐であることを告げ、恋慕の情を述べる。帝は花筐によって女が照日の前であることを知り、一緒に伴って還幸される。

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話としてはハッピーエンドらしいです。

上村松園は精神状態がおかしな女性をどう描くか、だいぶ悩んだそうです。

焦点の定まらない視線・・・。



手の表実にはだいぶこだわったようですが、いみじくも本作品は左手と右手の違いはあれ、手によって狂態を表現しています。




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上村松園の「花がたみ」(花筐は竹で編んだ花籠)は第九回文展出品作で、大正四年の制作である。照日前の能衣裳の美しさにともない、狂人の表情を示す能面の凄美さは、何にたとえんものがないほど、息づまる雰囲気をそこに拡げています。

松園は能面「十寸髪」(ますがみ)を狂女の顔の参考にしたという。いとしい人にあいたくてあいたくてあいたくて物狂いになった女を、女性画家の上村松園が描きました。

魂が抜けてしまうほどに恋しがることを「あくがれる」といいます。この絵はそんなあくがれいづる女の恋慕を表現しています。髪は結髪されずに後ろに長く垂らした垂髪、灰白の小袖に茜色の長袴、その上に緑青の単(ひとえ)、単には鬱金色(うこんいろ)の花菱が並んでいる。その上に錆桔梗(さびききょう)、藤色、薄色、下二領を白にした紫の薄様の五衣を重ね、珊瑚の文様が散らされた赤白橡(あかしろつるばみ)の表着と萩と女郎花の文様が白く抜かれた白緑(びゃくろく)の唐衣を羽織っている。

十二単のはずなのにどの衣も厚みなく左肩から崩れ落ちている。右手には白菊が盛られた花籠を提げ、その蔓には手紙が結ばれている。

切れ長の目の中の瞳は、少し中央に寄り、光まで吸い取ってしまうような空虚な気配を漂わし、この世でない場所へ焦点を結んでいるようだ。少し開かれた唇は、当初の微笑みに、嘆き、怒りといった他の感情が加わり、せめぎ合い、引きつれ歪み、諦めて弛緩している。彼女の心が尋常ではないことが画面全体から伝わってくる。

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真贋については慎重に判断しなくてはいけません。



着物の表現は見事・・・。



贋作ならもととなった作品があるはずなのですが、寺崎廣業の作品に「花がたみ」の作品に関する記述はみたたりません

鐘馗之図 その2 寺崎廣業筆 その27

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3か月ごとの血液検査・・、今回も異常なしでオールクリアでした。検査結果を聞くまではハラハラドキドキ・・。医療費の精算待ちの席で前のご高齢の方がお二人で話されていましたが、「長生きは運が必要だね〜。」だと・・、思わず納得。

さて本日の作品の作者である寺崎廣業は本作品を描いてからのどの癌を発病し、1年を待つことなく亡くなっています。存命中は横山大観と並び称せられた画家でしたが、今少し長生きしていれば現在の評価も少しは高くなっていたかもしれません。

本ブログにて壮年期と最晩年期の「鐘馗之図」が揃ったことは幸運ですね。

鐘馗之図 その2 寺崎廣業筆
紙本水墨軸装 軸先鹿骨 共箱 
全体サイズ:横443*縦2255 画サイズ:横310*縦1334



落款部分には「大正七年四月 廣業 押印」とあり亡くなる前年の53歳の作品です。印章は「騰龍軒」の白文朱楕円印が押印されています。大正七年には有名な「杜甫」の作品が10月に描かれていますので、その落款と一致します。

 

この年には帝国技芸員に任命され、さらには菅子夫人との銀婚式を迎えたのですが、夏には咽頭癌により静養に入ります。

「杜甫」(第12回文展出品作)の作品は弟子である高橋万年の模写作品が本ブログに投稿されています。




他の所蔵作品
「鍾馗之図 寺崎廣業筆」紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:縦2000*横875 画サイズ:縦1480*横740の大幅



この作品は落款の「廣業」の「業」の字が二本線の俗に言う「二本廣業」で、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間に描かれた壮年期の作で、こちらは筆の勢いのある作品となっておりますが、本作品は落ち着いた熟練の域にある寺崎廣業の作品といえます。

壮年期と最晩年期の「鐘馗之図」が揃ったことは幸運ですね。



晩年期といっても53歳の作品です。5月の節句のために描かれた作品でしょう。



この年の夏に喉に痛みを感じて箱根、及び信州の別荘に静養します。10月には文展に「杜甫」を出品し、11月には美校教授および文展審査員を辞任して、療養に専念します。

  

翌年の2月には咽頭癌で亡くなっています。あまりにも早すぎる死ですね。

2020年には没後100年となります。そのときにはきっと記念展が開催されるでしょうね、どんな作品が揃うのかが愉しみです。

源内焼 その45 三彩山水図長皿

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この大きさの源内焼なら普段使いに重宝ですね。

源内焼 その45 三彩山水図長皿
合箱
長さ191*奥行141*高さ35



本作品は五島美術館にて出版された「源内焼」に掲載されている作品と釉薬は違いますが、同じ型で製作された作品です(作品番号26「三彩山水長皿」 江戸時代18世紀後半〜19世紀中ごろ)。




縁紋様は唐草というより蔓草のような大柄な紋様です。裏面は全面施釉の平底でになっています。



五島美術館にて出版された「源内焼」に掲載されている作品は売りに出されているようです。

この値段ではとうぶん売れることはないようです。せいぜい高くても5万程度がいいところです。

京乃妓 梶原緋佐子筆

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日本画壇において、女性画家の美人画といったら、大阪の島成園、京都の上村松園、東京の池田蕉園の三人が著名で「三都三園」と並び称されていることは有名です。それにつけ加えるなら伊藤小坡木谷千種とともに梶原緋佐子を忘れてはいけませんね。

京乃妓 梶原緋佐子筆
タトウ
着色色紙3号 縦270*横240



妓子というと土田麦僊が有名ですね。



当方は美人画を優先的に蒐集はしていません。だいたい、美人には縁がない・・。



美人は宇宙人というコマーシャルには賛成ですね。家内は別



息子にも「女には気をつけろよ。たいがい美人というのには碌なやつがいないからな。」と言って聞かせています。



美人は観て楽しむだけ・・、三日もみていれば飽きてくるは言い得て妙。



妻を娶らば才長けてが一番。見目麗しくは付属・・、これ骨董と同じかな?



学生時代のマドンナなどというのはたいがい碌な男と一緒になっていないのはなぜ?? と思うにもてなかった男の僻みか??

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梶原緋佐子:1896−1988 大正-昭和時代の日本画家。明治29年12月22日生まれ。菊池契月の門にはいる。木谷千種(ちぐさ),和気春光とともに,菊池塾の三閨秀といわれ,師の没後は白申社に属した。昭和22年日展で「晩涼」が特選となる。舞妓や芸妓をテーマとした作品を多く描いた。昭和63年1月3日死去。91歳。京都出身。京都府立第二高女卒。本名は久。

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食事会

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先日の食事会の写真が同僚からメールにて届きました。久方ぶりにリッチな気分で愉しみました。



一膳目でびっくり・・。綺麗な盛り付けですね〜。 



こりゃまたたまらん。



このあたりでビールから日本酒で饒舌に・・。



床の絵は中村岳稜の「扇面 紫陽花」で、酒井田柿右衛門の壺に、藤田喬平のガラス器



なんともきれいな眼を愉しませてくれる御膳たちです。私の器ではもっとどんくさい。上がり間には三代徳田八十吉の壺、EVホールには川端龍子の二十号大の立派な作品・・。



さてそろそろご飯とあいなりました・



最後はデザート・・。



さすが銀行さんの専用の摂待フロア・・、たしたもんだな〜。この食事会は年二回の双方の主催で行われます。今度はこっちか ま〜、分相応で対応としましょう。

先日は土浦で元同僚と「タコツボ料理」・・、これまた絶品。最近どうもおいしいものにありつけている 体重がますます増えてきた



墨巳図 幸野楳嶺筆 その3

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休みの日など6ヶ月になる長男とずーッと一緒はいいのだが、なかなか泣き止まない時があり四苦八苦・・。「お〜い、幸ちゃん、還暦男性、子疲れで自殺??、なんて新聞の見出しはやばいべ〜」と言ったら泣き止んだ

長男は私と同じ巳年。その記念ということで本作品と「豊公神影」を購入・・・、蒐集するものはなんだかんだと理由をこじつけて購入する言い訳にするものです。

私の巳年記念は松村景文。これはずいぶんと大人になってから自分で購入したものです。

幸野楳嶺については先日投稿した作品の説明を参照にしてください。

墨巳図 幸野楳嶺筆
紙本水墨淡彩 軸先木製 幸野西湖鑑定箱入 
全体サイズ:縦1770*横280 画サイズ:縦940*横260



落款には「明治二年 槐夏二浣葉月日咸次 己巳穀旦 梅嶺豊筆 押印」とあり、1869年楳嶺が25歳で塩川文麟に入門する前の中島来章に師事していた頃の作と推察されます。初号の「梅嶺」の落款のある貴重な作品です。

 


「槐夏」は.槐(えんじゅ)の花の咲く夏という意味でしょう。「二浣」は中浣?で中旬のこと、「葉月」は八月。「日咸次」の意味は不明です。押印は「直豊」、「梅嶺」の累印です。

 


箱書は「大正丁巳(1917年:大正6年)仲秋 西湖幸埜誠第題之 押印」とあります。幸野西湖が36歳頃の箱書のようです。



ブログをご覧の皆さんも自分の干支にちなんだものをなにかお持ちではないでしょうか?

今週の水曜日に建築資材の展示会に出かけてきました。再就職した元同僚や仕事の関連で知っている人がいるので顔を出したら喜んでいただき、せっかくだから講演会にも出席してほしいというので聴いてきました。



「東本願寺 御影堂御修復のあゆみ」というタイトルの講演会でした。なかなか面白いもので、いかに今まで日本人が文化財の保存に力を入れてきたのかよくわかる講演でした。




その講演の資料に障壁画の修復が掲載されており、その作者が原在泉、幸野楳嶺、望月玉泉、羽田月洲、内海吉堂という本ブログでもおなじみの京都四条派などの画家でした。




ここでも幸野楳嶺と出会いました。侮りがたし「幸野楳嶺」、「内海吉堂」・・。




山形県の朝日町産の限定ワインを頂いてきました。山形には3年半ほど仕事の関係で新婚時代に居住していたこともあり、とても懐かしい思いがしました。建材の中には面白いものもあり、これは自宅の改修に使えそうと・・・

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