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Channel: 夜噺骨董談義
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灯火紋様行燈織部六寸皿  

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昨日、家内はさいたま新都心の骨董市へ・・、出店されている作品を聞いていみたが、あまりいい作品は出ていないようです。あまりにも掛け軸、陶磁器が安くなりすぎて、所蔵している人が手放さないため、品不足もその大きな原因のようです。本日は前はよく骨董市で見かけた作品です。

電気のなかった時代、行燈の中に使われた絵皿・・。行灯に火をつけるときの瞬間に見える絵皿の紋様に人々は何を感じたのでしょうか?

灯火紋様行燈織部六寸皿  
口径190*底径150*高さ18



行灯皿(あんどんざら)は、行燈に用いた油用の受け皿のことで、行燈の中に置かれ、垂れる油を受け止めていた日常の雑器です。

原料となる陶土が豊富で、安価で量産が可能な瀬戸焼、美濃焼などで数多くが焼かれ、特に信濃地域が主要産地となり、尾張地域以外でも北陸地方の角皿、「霞晴山」印のものなどがあるものの、生産量は少なく、品質も劣るとされています。

行灯の中で利用されるため、誰からもその美しさを顧みられることはなく、鑑賞の対象ではないにもかかわらず、現存するものには、無地のものが少なく鉄絵のものが最も多く、民衆的絵画「民画」に近いものです。

形の特徴は平らで丸い形をしていることですが、この形から四角いものに描かれたものとは異なる独自の絵付けが生まれました。伊万里の猪口のように絵から抜けて模様になりきったものではありません。中には織部風の緑釉を一部に掛けたものや、薄茶色で「ダミ」を入れたものなど多種多様で、末期には吹墨の物も製作されました。



皿を何枚も何枚も絵付けすることにより、無駄が省かれ、その単純さに冴え、職人達は、のびのびと、大らかに絵を描いていきました。大量に作るところから、手が勝手に動いているかの様です。描かれた題材は極めて多様でした。

代表的なものは、月・雲・宿・松・白帆・飛鳥などを取り入れた簡素な海辺山水です。簡素な組合せの中に日本の風物が端的に捉えられています。一般の人々の間に借り物ではない純日本の絵付けの皿を用いたいという要求がみなぎっていたためと考えられます。単に作る側の気持ちばかりでなく、使う側からの要求があったことを忘れてはいけません。作る人と使う人の気持ちがぴったり合って初めて真に使いたくなるものが生まれるのです。

この多様性から民芸運動などで、盛んに収集されました。江戸時代寛永年間に真鍮製が出現し、この頃は行灯油が高価で一部に限られていました。文化、文政年間以降、富裕層の拡大とともに陶製が広範囲にわたって急速に広がりましたが、江戸時代後期から明治時代初期頃には、壊れず軽く安価で量産が可能になった真鍮製に再び代わり、照明の電化とともに、完全に消滅しました。

昨日は都内の会合で講演会。東京医科歯科大学の名誉教授の講演でしたが、現代病といえる花粉症、アトピー、うつ病、がんの原因、直す方法(予防も含む)を聞いてきました。

文明の発達とともに便利にはなりましたが、ある意味でおおいに危険なことも廻りに増えたということでしょう。とくに外食産業(外食の美味しいものは危険)、電子機器、簡単食材、ストレス社会・・、これらの有害性をいち早く知ることが大切です。家内の料理は講演内容によると健康にいいようです。

松 和漢朗詠集 古今和歌集

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なんか面白ろそうと購入・・、数千円也。書の作品は全くもって、不案内な当方としては悪戯心としかいいようのない買い物でした。

歌の内容はなんとか判明しました。

松 和漢朗詠集 古今和歌集
紙本刺繍軸装 合箱
全体サイズ:縦1150*横620 画サイズ:縦290*横435



歌が二つ・・、説明文はインターネットからの検索です。箱の裏には「桃山時代」??? 「せいぜい昭和でしょう」と家内は言っております。

? 和漢朗詠集:巻下 松・四二五  源順

  「十八公栄霜後露 一千年色雪中深」



源 順(みなもと の したごう):延喜11年(911年) - 永観元年(983年))は、平安時代中期の学者・歌人。嵯峨源氏の一族で、大納言源定の孫・左馬允源挙(みなもと の こぞる)の次男。子に貞がある。下総権守・和泉守等を歴任し、極官は従五位上、能登守。三十六歌仙の一人に数えられる。大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている

【訓読】十八公じふはちこうの栄は霜の後のちに露あらはれ 一千年いつせんねんの色は雪の中うちに深し
「十八公しふはつこうの榮えいは霜の後に露あらはれ 一千年いつせんねんの色は雪の中うちに深し」
【通釈】松の栄誉は、霜の後にも色を変えないことで顕れる。一千年変わることのない色は、降り積もった雪の中でひときわ鮮やかになる。
【付記】「松」の字を分解して「十八公」とした。出典は源順の詩「歳寒知松貞」。
 「松」の字を分解すると「十」と「八」と「公」の三つに分解できる。 松は、神を待つ(松)木、年中緑を保ち、岩場など痩せ地にも生育するので、尊い存在として尊敬の念と込めて、「松」の字とを分解し「公」の字が付くようにして「十八公」とも呼ばれている。これで「まつ」と読んだり、「じゅうはちこう」と読んだりする。
【関連歌】上0741、上0847

刺繍のされた表具・・これは改装に使える。洒落た和紙・・書よりこちらに惚れ込んだ


? 古今和歌集 巻第一 春歌上  源宗于
  
  ときはなる まつのみどりも はるくれば いまひとしほの いろまさりけり 



源 宗于(みなもと の むねゆき):生年不詳 - 天慶2年11月22日(940年1月9日))は、平安時代前期から中期にかけての官人・歌人。光孝天皇の皇子是忠親王の子。娘に閑院大君がいる。官位は正四位下・右京大夫。三十六歌仙の一人。

寛平の御時后宮の歌合せに詠んで番われた歌。
ひとしほ:原義は、布などを染め汁に一度入れて浸すこと。

松は常緑樹で一年を通して色が変わらないが、春が来るとすべての木々が緑を増してあざやかに見えるように、松も一段とあざやかさを増している。 春の到来は松の色さえもあざやかに見えると詠んだ歌。

「ときは」は樹木について言う時は一年中色を変えない常緑樹を言います。松はもとより寿命の長い樹木として知られ、長寿の象徴とされましたが、「ときは木」である松は霜や雪に遭っても色を変えずに耐えるところから不変の象徴として好まれ、さらに永続する時間を示唆するものにもなりました。詩歌の世界では、雪や月、風と取り合わせられることが多いので季節としては冬の素材です。その一方で縁起の良さから新年の風情にもよく詠まれました。この世の栄えを永遠までと祈る心に重ねられるからです。

かつて陰暦で暮らしていた頃は、新年は基本的に立春(現行暦の2月4,5日頃)に重なりました。新春は名実ともに春でしたが、現在のお正月「新春」は陰暦で言えばまだ11月の末ですから自然界は冬というほかありません。風凍る中で、伝統的な新春の季節の景物を詩歌に詠み、書くのは、実感とかけ離れすぎてしまいます。そんな暦事情の中、松は新年の清新さとおめでたい気分と今の季節感とを無理なく託すことができる題材として貴重かもしれません。

さて歌の意味は解ったのですが、誰が書いたのかは? いつ頃の作品か?

紙の金彩は手書きに相違ないようです。



よく描けています。



表具の刺繍は鶴。



これも手縫いのようです。



古い木箱に納められ、箱裏には下記の写真の書付、花押が署されてあります。



なに?桃山時代?? 家内曰く「昭和じゃないの?」

ま〜、初釜にお軸かな〜。 












壺屋焼 掻落唐草文角水指 小橋川永昌作 その2

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壺屋三人男と称された小橋川永昌(二代仁王)の作です。本作品で二作品目の出品です。

壺屋焼 掻落唐草文角水指 小橋川永昌作
合箱
全体サイズ:胴径*底径*口径*高さ



高台に仁王の文字。 沖縄では子供時代の呼び名をワラビナーといい、仁王がワラビナーであった。父親も仁王を用いていたので二代仁王となるらしいです。




戦後の壺屋焼は金城次郎・新垣栄三郎・小橋川永昌のいわゆる「壺屋三人男」に代表される時代を現出しました。浜田庄司は1924年には沖縄で作陶に従事し、金城らを指導しています。

浜田庄司のこの時代に得た赤絵の技法は非常に評価の高い作品になっています。

民藝運動の指導者柳宗悦は1938年に来沖し、翌39年には会員等27人を帯同して大挙して来沖して大いに気勢をあげ、沖縄の工芸に大きな影響を与えています。

金城次郎はさらに戦前戦後を通じて浜田庄司の指導を承け、浜田の窯のある益子にもたびたび出向いています。戦後沖縄の復興期には浜田の外、河井寛次郎も作陶指導に加わっています。




金城は1985年に国の重要無形文化財保持者(人間国宝)となり、壺屋の名を知らしめたが、彼は戦前と戦後の陶工たちの違いを「戦前は使いやすさを考え、いまは飾り物に仕立てたようなところがある。雑器は使いやすく用途を考えてつくらねばならない。」と金城次郎の「用の美」論を展開しています。

ただこの民藝運動の大きなかかわりが壺屋焼本来の姿にどのような影響を与えたかの評価は大きく分かれるところです。

家内に「どうだ、力強くていい作品だろう」と見せたところ




「あなたの仲間内でなら使えるけど、私の席では無理ね。」だと・・・ ま〜、たしかに重い
女性には水指はある程度軽くないと水を入れると重くなりすぎて持てないらしい

仁王銘の作品は以前に投稿した作品があります。

赤絵文様壷 壷屋焼 仁王銘
口径105*胴径160*高台径95*高さ160

当方は、沖縄の焼き物に疎く「伝」として投稿した作品ですが、どうも真作のようです。

ところで本作品に似た作品が存在するようです。

掻落唐草文角瓶 沖縄県博蔵?



そうそう作者不明の作品・・。あまりのも出来が良いので探索中・・。

壺屋赤絵染付壺
胴径200*口径115*底径115*高さ190

本作品の底にある掻き銘



新垣栄三郎の掻き名・・。



染付の作品・・。



ちょっと無理がある?? 

でも作品が気に入って作者も解らず購入するのは何度もありますが、調べていくうちに作者にたどり着くことが何度かあります。

骨董には「作品がいいと思うこと」が大切ですね。作者がありきではお金がない限りいいものは入手できません。箱書、落款、印章ばかりの知識で購入するよりも感性でものを選びましょう。

ん? 「本作品はいい作品かって?」 そうだね〜、「武骨なところ」が好みの分かれるところですね。





羅漢図 倉田松涛筆 その14

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羅漢図 倉田松涛筆 その14(真作整理番号)
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横370*縦2050 画サイズ:横330*縦1260



右手に錫杖を持ち、左手に鉢を抱えている羅漢(一六羅漢のうち第10尊者?)と虎(虎は十六羅漢図に良く描かれています)を描いた作品です。



「百三談書房」の朱文長方印が押印されています。また「松涛」朱文長丸印も押印されています。右下には「□□□」の白文朱方印の遊印が押印されています。賛は相変わらず難解で「□□□□次之千庚□□□浣(あ)らわる」と書かれています?が、意味は解りません。



虎と描かれる尊者に跋陀羅尊者(ばだらそんじゃ:耽没羅州(たんもらしゅう)に住んでいた)と言われますが、一六羅漢のうちで虎と描かれる羅漢が特定されるものかどうかは不明です。本作品は「林和靖図」、「達磨図」と同じ頃の作と思われます。



意味するところは奥深いかもしれませんが、まずは愉快な本作品を愉しみあれ

伝井伊直弼之図 狩野永岳筆

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京都狩野派の中興の祖である狩野永岳の作品をぜひ欲しいと思っていましたが、佳き作品がなかなか入手できませんでしたが、今回入手することができました。


「菅公(菅原道真)」と題されて売られてた作品で、学問の神様ということもあり、息子の誕生記念に購入したのですが、どうも他の人物の肖像の可能性もあります。「伝井伊直弼」と仮題にしました。

伝井伊直弼之図 狩野永岳筆
絹本着色軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1940*横483 画サイズ:縦1045*横347



落款には「金門畫史 狩野縫殿助永岳洗手謹写」とあり、「永岳」の朱文白釣鐘印と「□□□」の白文朱方印が押印されています。

「金門畫史」とあることから、57歳(1847年)以降の作品と推察されます。こういうことは掛け軸を購入するときには知識として必要です。



井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる「井伊直弼」の肖像画は永岳が画いたとされ、本作品は同じく「井伊直弼」を描いた作品可能性があります。そうであれば、安政7年(1860年)に井伊直弼が暗殺されており、その前後の作品ではないかとも推察されますが、描かれている人物が少し老けているのが気にかかります





数多くの肖像画を狩野永岳が描いており、本作品を井伊直弼像とするか否かは後学とします。「九条尚忠」を描いた作品である可能性もありますが、誰の肖像か、はたまた菅原道真像か今のところ判断できかねています。

どなたか詳しい方がおられれば、ご指導をお願いします。



数多くの掛け軸から真作を探し出すひとつの方法に表具の感触というものがあります。良き家に伝わった表具は巻いた状態で触ってみてすぐにある程度はわかります。



この表具は「この梅は梅鉢紋様というのよ。少なくとも表具は菅原道真を意識しているわね。井伊家の家紋は井桁か橘よ。」と朝食を食べながらの小生は家内から薫陶を受けてしまいました・・・

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狩野永岳:(かのう えいがく)寛政2年(1790年)〜 慶応3年1月2日(1867年2月6日))。江戸時代後期に京都を中心に活躍した画家。京狩野家9代。低迷する京狩野家を再興した。永岳(永嶽)は諱。初名は泰助、字を公嶺。山梁、晩翠、脱庵などと号した。代々の通称、縫殿助(ぬいのすけ)を名乗った。父は京狩野の絵師・影山洞玉(後の狩野永章)、弟は狩野永泰で、その子が冷泉為恭。早くに才能を見いだされ京狩野8代・狩野永俊の養子となり、文化13年(1816年)永俊が没すると27歳で家督を継いだ。

初代・狩野山楽の末裔であることを誇りとし、箱書きや落款に「山楽九世孫」としたためている。山楽や二代・山雪の画を熱心に学び、桃山風の画風を基本とした。その上で、当時京都で人気を博していた四条派の画風を積極的にとり入れている。この他にも江戸中期に来日した沈南蘋の流れを汲む長崎派や、谷文晁によって広まった北宗画や文人画、宗達・光琳の装飾的な琳派、甥にあたる冷泉為恭から復古大和絵を直接学んだ。京狩野家は代々九条家と関係が深く、永岳33歳の時、画を好む九条尚忠の家来となった。嘉永6年(1853年)、尚忠が左大臣の公務で江戸に下ったとき、これに同行し富士山を実見し「富士百幅」を描いている。

永岳の代になって京狩野は紀州徳川家と彦根井伊家の御用絵師も務めるようになった。井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる井伊直弼の肖像画は永岳が画いたとされる。57歳にして禁裏(朝廷)御絵師御次席となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあった。66歳のとき禁裏の安政度造営が行われ多くの障壁画の制作にあたっている。臨済宗妙心寺には永岳の作品が多く残り、とりわけ隣華院客殿障壁画は永岳の代表作といえる。同じく臨済宗大徳寺にも頂相など多数の作品が残されている。東本願寺にも大障壁画を手掛けたがのちに焼失した。本願寺を通じて地方の別院にも永岳の作品が多数見られる。

この他にも永岳は多くパトロンをもち、京都はいうに及ばず長浜や飛騨高山にも足を伸ばし、富商や富農の求めに応じて絵を画いた。禁裏の御用絵師とはいえ、永岳が家督を継いだ頃の京狩野派は、土佐派や鶴沢派の後塵を拝し不遇な立場にあった。なおかつ江戸後期には伝統的な画派は勢力を弱め、特色を持った新興の画派が台頭していた。永岳は生き残りを掛け京狩野の伝統を革新させ、特色を打ち出すことに成功する。長寿であったことも幸いして京都画壇では重鎮として扱われた。京焼の永楽保全なども永岳に画を習ったという。享年78。

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井伊直弼:(いい-なおすけ) 1815−1860 幕末の大名。文化12年10月29日生まれ。井伊直中(なおなか)の14男。兄直亮(なおあき)のあと,嘉永(かえい)3年近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩主井伊家15代となる。安政5年大老。13代将軍徳川家定の継嗣問題や,開国か攘夷(じょうい)かで前水戸藩主徳川斉昭らと対立。日米修好通商条約を勅許をえずに調印,将軍継嗣を和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))にきめた。一橋慶喜を推して反対する斉昭ら一橋派や尊攘派を弾圧(安政の大獄)したため,桜田門外で安政7年3月3日水戸・薩摩の浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。享年46歳。号は宗観(そうかん)。著作に「茶湯一会集」など。

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万歳図 河鍋暁斎筆 その2

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昨日は息子の認印についで、実印作成に浦和まで・・、そのついでに大宮駅前の安楽寺で開催の「中村不折と師友達 正岡子規と夏目漱石」と同時開催の「幕末慶應百五十年展」を観てきました。日曜に朝にNHKで紹介されたこともあり盛況でした。



「中村不折と師友達 正岡子規と夏目漱石」の展示会はもともと中村不折の作品は好きではないのでしたが、正岡子規、夏目漱石という本ブログでも紹介した師友関係による作品は興味深いものでした。

同時開催の「幕末慶應百五十年展」は非常に良い展示作品ばかりです。副島種臣、和宮、奥原晴湖、徳川慶喜、西郷南洲らの幕末の傑作ぞろいでした。



作品を直に見れるというのはいいことです。撮影はオーケーですが、フラッシュはダメですね。

副島種臣の六曲一双の屏風は良い作品でした。



和宮の手紙・・、実に品がある・・。

やはり若い人は少ないですね。それでもこれだけ関心のある人が多いのには改めて掛け軸を見直しました。



さて本日の作品です。

河鍋暁斎の三作品目の投稿です。

もはや市場では真作は見られなくなった河鍋暁斎・・・。

万歳図 河鍋暁斎筆 その3
絹本水墨淡彩 軸先象牙 共箱? 
全体サイズ:縦1840*横427 画サイズ:横324*縦1151



「萬歳之図」と題され「三河万歳」に興ずる姿を描いた作品です。

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三河萬歳(みかわまんざい):愛知県の旧三河国地域であった安城市・西尾市・額田郡幸田町に伝わる伝統芸能である。もとは正月の祝福芸だが、現在は季節を問わず慶事の際などにも披露される。1995年(平成7年)12月26日に国の重要無形民俗文化財に指定された。

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基本的には太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の2人が1組となります。



印章は「牛若丸」(熊本県立美術館蔵)と同じ印章である白文朱方印「如空暁斎」が押印されています。



「牛若丸」には娘・暁翆による箱書きがあり、晩年の作とあります。明治20年代の作と言われています、同時期の作品かもしれません。



珍しく共箱のようですが、残念ながら印章は擦れて判読できません。

  

「太夫」は風折烏帽子に素襖(素袍)、「才蔵」は侍烏帽子か大黒頭巾に裁着袴(たっつけばかま)という衣装です。「太夫」は手に扇子か舞扇を持ちます。

袖に描かれた株の面白いですね。



今では後継者もなく廃れた芸能ですが、実に愉しそうに描かれています。この絵を飾ると思わず踊りたくなる。



それをこっそり眺めている婦女子・・。



女性の顔と襖絵の対比が面白い。狩野派の画人としての力量がうかがわれます。



襖絵だけでひとつの作品となっています。




女性の顔の描き方からみても有名な「美人観蛙戯図」(個人蔵)に見れるように、暁斎の美人画の中で浮世絵風ではありながら、最も熟達した近代美人の相です。



正月に描かれた作品でしょうか?



以前に投稿しました下記の作品・・、これと同図がなんでも鑑定団に出品されています。なんでも鑑定団に出品された作品は掛け軸を切断しているそうです。


恵比寿・大黒図 河鍋暁斎筆紙本水墨淡彩絹装軸装箱 
画サイズ:横320*縦1165




娘の暁翆ともども一門で正月には毎年、おめでたい作品を描いたいたそうです。本作品もその延長上の作品かと思います。ライバルであり、交遊のあった柴田是真の作品もそのようなものでしょう。リンク先の柴田是真との合作はすでに資金確保のために売却されています。


恵比寿大黒図 柴田是真筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先本象牙 合箱二重箱入
全体サイズ:縦1935*横633 画サイズ:縦992*横541



ちなみに河鍋暁斎は酒好きであったらしい。



白雲松風之青緑山水図 奥原晴湖筆 その2

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奥原晴湖の作品は、先日の大宮の安楽寺の「明治慶應一五〇年記念」の展覧会にも絵画が二作品出品されていました。「木戸孝允や山口容堂などの画会に出席、勝海舟が画室を訪ねたり、政界の名士たちとも親交を続け、宮中では皇后の前で揮毫もしています。」という画家であったので、明治期の立役者らとともに展示されたのでしょう。この展示会は本願寺でも開催されたもののようです。



「西の鉄斎、東の晴湖」とまで評価された奥原晴湖は女性です。明治時代に活躍した女流南画家です。近年になって再評価されている画家の一人のようです。二作品目の投稿となります。

生涯独身を貫き、性格は男勝りであったそうです。人柄さながらの大胆で筆致の力強い絵を描きます。自ら漢詩を作り、詩画が一体となった世界を描きます。

白雲松風之青緑山水図 奥原晴湖筆
絹本着色軸装 軸先木製 渡辺青嵐鑑定箱
全体サイズ:縦2040*横725 画サイズ:縦1300*横505



1905年(明治38年)の作品で奥原晴湖が68歳の頃の代表的な作品です。1913年に弟子の女流画家である渡辺青嵐が鑑定しています。


賛には「半壑(谷)松風一 灘流水白雲 度噸而不散 山勢楼升而未止」とあり、賛の末尾に「明治三十八年秋九月上浣晴湖併題於繍水草堂」とあります。




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「繍水草堂」は大正2年(1913)に晴湖は没し、画室「繍水草堂」であるは主を失います。そこで、晴湖のおいにあたる池田多喜雄氏によって昭和4年、誕生地である池田家の屋敷地内に移されました。平成20年、故奥原ミチ子氏の遺志により、奥原晴湖画室の寄附申し入れがあり、古河歴史博物館南側に移築いたしました。昭和4年に古河へ移築されたのは、熊谷にあった画室の一部ですが、移築工事にあたっては、すべてではありませんが、熊谷にあった当初のかたちをなるべく再現され、庭石の一部に、古河城の礎石が再利用されています。

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巻止には「先妣青古白雲松風之図 癸丑仲秋 晴嵐鍳題 押印」とあります。  



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奥原晴湖(おくはらせいこ):(1837―1913)明治の女流南画家。本名は節子。下総古河藩家老職池田氏に生まれる。初め同藩の枚田水石に学び、のち明清諸家を研究し、とくに鄭板橋と費晴湖に私淑した。1865年(慶応1)奥原氏の養女となり、江戸に出て下谷摩利支天に住し、勤皇の志士や諸名流と交わりながら画名を高める。一時は門人300人を数えるほどに流行したが、南画衰退の時流に伴って91年(明治24)中央画壇を去り、熊谷在川上(埼玉県)に隠棲(いんせい)した。粗放な筆致による墨画山水は明治の南画の特色をよく表している。当時としては異例の断髪にするなど、風采および性格ともに男性的で、逸話の多い女性であった。

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渡辺晴嵐:明治・大正期 安政2(1855)年7月30日〜大正7(1918)年7月29日 明治・大正期の日本女流画家で師は奥原晴湖。

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補足
「奥原晴湖」:岡倉天心が師事した、幕末から明治にかけての女流絵師。南画(文人画)家ですが、閨秀画家という肩書からはちょっと想像できない画家で、男子に”散髪脱刀令”が出た時、すぐさま自分も日本髪を断髪したそうです。晴湖は幕末に古河藩士の娘として生まれます。藩内で、漢学と絵を学び、29歳で江戸に出ます。当時、古河藩では女性が一人で江戸に入ることは許されなかったため、別藩の伯父の養女となって出ていったそうです。上野に住み画塾を設て、多くの文人たち(男性がほとんど)と交流しています。奥原晴湖の絵は、ずいぶん人気が高かったようで、江戸では300人もの門弟がいたそうです。



木戸孝允や山口容堂などの画会に出席、勝海舟が画室を訪ねたり、政界の名士たちとも親交を続け、宮中では皇后の前で揮毫もしています。明治の中期、フェノロサの「文人画批判」が契機になり、”南画”の人気が衰退していきます。維新は絵の世界でも変革期でした。西洋画の影響を受け、日本画の世界にも激動の波が押し寄せます。そんな中で、晴湖は、江戸を離れ熊谷に隠棲、77歳で亡くなるまで、喧騒からへだたった場所で自分の絵を描き続けます。



透明感のある彩色と隅々までの細かい筆致、のびやかな人物描写が特徴の密画で、雄大な自然を描いています。澄み切った光と空気を感じさせてくる作品です。文人の理想境を描いたもの。山中の松や渓流の流れが自在な筆でゆらぎながらのびやかに描かれています。



明治期からの南画の衰退やフェノロサの南画批判受けながらも、それに反発するかのように鷹揚で自由な表現を世に問うた画家です。



朝陽 福田豊四郎筆 その33

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本日は小生の何歳目かの誕生日・・。連荘の遊びでくたびれて、今日は会食

それで本日は特別投稿。

自宅の和室の壁にず〜っと飾っているのは、私が中学校に入学したばかりの頃に亡くなった父の最後の作品です。病床から福田豊四郎氏と手紙でやり取りしながら描いた作品です。私の大切な作品のひとつです。



所蔵する福田豊四郎氏の作品はそのほとんどが、本人から直接頂いたものです。

福田豊四郎の作品はそれほど高価ではないわりには、市場やインターネットオークションには滅多に出品されてきません。贋作もあるようですから要注意です。

朝陽 福田豊四郎筆 その33(福田豊四郎の真作整理番号 本ブログでは基本的には非公開)
絹本着色共箱二重箱軸先本象牙 
全体サイズ:縦1468*横658 画サイズ:縦448*横509



本作品もやんどころなく手放した作品ですが、前の所蔵者からの好意でこちらに戻ってきました。



春めいてきて、陽には暖かさがあるもののまだ残雪が多い松林の風景でしょうか?



福田豊四郎氏の人柄の暖かさが偲ばれる作品です。

  

かなりの数の作品を処分、整理していますが、本作品は譲っていただいた方の好意に応えるためにも、父の作品とともに息子に遺しておきたい作品のひとつです。


古唐津残欠

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古窯跡から発掘された破片をつなぎ合わせ、それを販売することを生業とする骨董屋が結構たくさんいたそうです。とくに唐津に多かったというのを本で読んだことがあります。

骨董市にはそのような作品がたくさん並んでいましたが、いかにも破片を組み合わせて作ったことがみえみえで、また以外に高価なこともあり、あまり買う気にはなれないものでした。最近は骨董市でもあまり見かけなくなったように感じます。ちょっと購買意欲を誘うものがないときに、出来心?で今回の三作品の残欠?を購入してみました。

ひとつは最大幅が130mm程度の歪んだ無地の作品です、



残欠の組み合わせの原則は、高台はひとつの作品で、高台のみは完品であることらしいです。



歪んで売り物にならないか、焼成時に欠けていて打ち捨てられたものでしょう。この歪みのある作品には、目跡以外のひっつき部分にはサンダーを掛けた跡があります。



次は最台径幅が115mm程度の白っぽい、釉薬のタップリ掛けられた皿です。



同じ釉薬の残欠を探すのはたいへんだったろうな? という作品です。



次は刷毛目のお皿です。最大幅は125mm程度です。



目跡があることから最初の作品と同じく重ね焼された大量生産品だったのでしょう。



おなじような陶片が足りないときには、似たようなな? 陶片を使います。



まるで練りこみのようなこの作品は小生のお気に入りです。



本日の作品の雑な金繕いは小生が施したものです。買ったときにはちょっとした共色の細工がしてありました。



打ち捨てられたものたちを組み合わせて、使えるように蘇らせる・・。もともとは古窯跡を掘り返し完品を探そうとしたのでしょうが、完品などはめったになく、陶片ばかりたくさん集まったのでしょうが、陶片だけではあまり売れないので、自分らで陶片を貼りあわせて売りさばいたものでしょう。

これらの作品? 食卓に並んだら意外に楽しいではありませんか?

動機はどうあれ打ち捨てられたものたちを再生した・・、これは仕事にも大切なことです。
人事にしても、ジョブにしても配置や人員の見直しで組織が蘇ることがあります。

松ニ鴉図 長井一禾筆 その5

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ワールドカップでの日本のサッカーの活躍や如何? 個人的には日本はあまり強くないと思うですが、自分でワールドカップ開催のスタジアムの工事に従事していたこともあり、応援だけは?一生懸命です。

全日本の代表マークに使用されているのは八咫烏(やたがらす)ですね。
日本サッカー協会の説明には「ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊を道案内をしたということもあり、烏には親しみがありました。旗の黄色は公正を、青色は青春を表し、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現しています。」とあります。これくらいはサッカーファンは知っておいた方がよいでしょう。

日本画で烏の画家といえば長井一禾でしょうね 与謝蕪村も著名ですが、連作という点では長井一禾の右に出る画家はいません。


松ニ鴉図 長井一禾筆 その5
絹本着色軸装 軸先鹿角 合箱入
全体サイズ:縦1993*横493 画サイズ:縦1242*横352



ところで卓球もバレーもそしてサッカーもそうですが、テレビ放映の解説は品格というものがないですね。音声を消して愉しむほうがいいですね。



日本人は品格を失いつつあると思います。そもそもAKB45?? 似非なグループにうつつを抜かす若者に日本の将来は託せるのか?? 一世代前のアイドルはグループではなく一人でした。個性や魅力が個々の品性に関わっていましたが、今はみんなでということで個々を磨くという点では意識が薄れていますね。



この長井一禾の烏・・・・、そういう点では個性の主張が強い作品です。



どこかマンガチックで、決して写実的ではありません。



松の描き方もそれに合わせています。



倉田松涛と同じように「心行くまで愉しまれよ」という作品です。



ワールドカップに試合もそうしたいのですが、試合が日本時間で午前中



さて優勝はどこでしょうね? 日本だったら最高


柿釉鐡絵蓋物 浜田庄司作

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浜田庄司の作品本体には刻銘、印銘ないのが普通です。初期の河井寛次郎にはありますが、民芸運動に関わった浜田庄司と河井寛次郎の作品の作品本体は無銘が基本です。

それゆえ、贋作が多く、箱書きのある共箱がついていない作品は、基本的に価値は認められません。インターネットオークションの作品を見てみるとそのほとんどが贋作です。

浜田庄司の共箱は特注の朱肉を使用した押印をしますので、朱肉の色(本物は濃い色の朱肉)と印章の印影(贋作の印章はいくら真似しても違いがある)で95%の作品の真贋が解ります。



ただ、窯作品は普通の朱肉を使っているものもあり、窯作品はより一層難しい判断が必要ですが、窯作品はそれほど高価ではないので贋作は少ないようです。ただ窯作品の印章で浜田庄司本人の作品として出品されているのがほとんどですから、窯作品の印章は覚えておく必要があります。

さらには箱が本物で中身が偽物、さらには箱が偽物で中身が本物という、一つの作品から二つの作品を生み出すことがありますので、そこにも注意が必要です。

本日の作品はそれとはまた違う、浜田庄司の子息の浜田晋作のの検定箱です。親戚の方が浜田庄司の作品をいくつか所蔵していて、普段使っていたのですが、まとめて盗難にあったそうです。箱は手元に残ったのですが、茶碗本体は戻ってきませんでした。

これは特殊な事情として、なんらかの理由で共箱と離れた作品を鑑定する人が所定鑑定人ですが、浜田庄司の鑑定人で第一人者が父と同じく陶芸家の浜田晋作です。

本日はその鑑定箱に入った作品です。これは贋作の多いインターネットオークションからの入手です。インターネットでもある程度の真贋の判断は可能ですが、詳しくない方はインターネットオークションでの真作の入手は難しいと思います。

柿釉鐡絵蓋物 浜田庄司作
浜田晋作箱書箱
全体サイズ:幅66*奥行き35*高さ52



作品そのものがいいものと判断しての購入です。この判断で、共箱のないものもいくつか購入しています。

私も浜田晋作の鑑定箱は初めてですが、幾つか資料はあります。



本作品の箱裏書きです。これは浜田晋作がかいたもので印章は浜田庄司が押印していたものを、朱肉も浜田庄司本人が特殊注文していたものを使っています。



同じ朱肉、印章を使いますので、意外と判別はしやすいのですが、基本的には作品そのものが一番大切です。



箱は本物で中身が偽物というのに、印章や箱書きにこだわっていると、そのような贋作に騙されます。



小生は蓋物は初めての入手ですが、ものは良いものだと思っていますが・・。



掛け軸も陶磁器も基本は同じだと思います。落款や印章だけにこだわっていけません。そのような資料に固執するのはプロ、売買を生業とする人だけでよいのです。

作品が楽しめるか否か・・、これが基本のように思います。



家内曰く「これはなにもの・・??、ん? ふたもの??」



俳句画賛 紀楳亭筆 その1

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二週続けて日経新聞に掲載されているのが「英一蝶」です。名前くらいは知っている人が大半だと思いますが、彼が俳人「宝井其角」と友人であった(友人というより放蕩三昧の飲み友達?)であったことは知りませんでした。

紀楳亭の作品は三作品目の投稿となります。折れがありますが、改装するといい作品になるでしょうが、時代があるものとしてこのままもいいかと・・。

俳句画賛 紀楳亭筆 その1
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1090*横305 画サイズ:縦270*横207



印章は「楳」と「亭」の白文朱累印が押印されています。この印は文化3年の頃の作品に見られます。念のために文献資料の印章との比較です。

 

最晩年はは画俳の境地で力の抜いた作品で有終の美を飾ったと思われ、本作品も最晩年の作品のひとつでしょう。



賛は「干瓜は おしろいしても 黒き顔 其角 楳低写併題書」とあります。川柳のような俳句です。

新聞にかかれていましたが、芭蕉の名句「古池や 蛙飛び込み 水の音」に対して、宝井其角は発句を「山吹や」ではいかがでしょうかと推したそうです。師をして天才といわしめた宝井其角は、この句に色取りを添えてかったようです。

紀楳亭は近江蕪村と称されるように、蕪村に倣ったような肩の力を抜いて愉しんだ俳画が多くあります。宝井其角の没年は1707年、紀楳亭は1810年、楳亭の一世代前の俳句の寵児の句を借りた俳画の作品ですが、購入した時は紙屑同然のような値段でした。

五柳先生図 寺崎廣業筆 その26

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日本のサッカーはそれほど強くないと言ったことが現実となりましたが、至極当然のことのように思われます。フィジカルに劣る日本が世界に通用するのには、組織力であるはずなのですが、その練習がまったく足りていないように思えました。

海外移籍している代表が多くなればなるほど、個々のプレーに頼るところが大きく、日本の強みである組織プレーが陰を潜めました。

日本の強みはないごとにも「組織に対する忠誠心に基づいた組織力」です。これはスポーツもサ同じです。それゆえゴルフやテニス、卓球という卓越した個々が希に出ても、組織で闘うものほど強くはありません。いまやこれを忘れかけているのが日本人です。

五柳先生図 寺崎廣業筆 その26
水墨淡彩紙本軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横435*縦2230 画サイズ:横310*縦1310



箱の箱書などから知人が売却した「寿老人(思文閣へ売却)」と同時期の作品かと思われます。



題名の「五柳先生」とは「陶 淵明」のことです。

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五柳先生:陶淵明の号。彼が自分のことを託して書いた「五柳先生伝」という文章に基づく。家の前に5本の柳があったところからの名という。

陶 淵明:365年(興寧3年)〜 427年(元嘉3年)11月)は、中国魏晋南北朝時代、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字は淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。


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本作品をつまなないと感じるか、いい作品だと感じるかは「陶 淵明」という詩人に関心、知識があるかないかという素養の問題が大きく関係します。



郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる・・・、そういう生活を送りたいものです。詩を才能がないから無理として・・。このような晩年を送れるのは極少数でしょうね。体力と死(生)へのきちんとした考えがないとできない。

それも組織から脱却してから、組織に組しているうちは組織の目的に忠実にならないといけませんね。

李朝 葡萄・山水文染付面取水滴 

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李朝は文具のいいものがあることでも評価が高い作品群です。本日の作品はとても大きい水滴です。

李朝 葡萄・山水文染付面取水滴 
合箱
最大幅135*最小幅125*高さ85



箱には「18〜19世紀」とあります。



1752年に広州に分院の官窯が作られ生産の中心になりましたが、1883年に分院が民営化され官窯の歴史は終わります。

下絵付はありましたが、上絵付はありませんでした。コバルト顔料で下絵付した青花も作られましたが、コバルト顔料が不足したため、鉄絵具で下絵付する鉄砂や銅絵具で下絵付する辰砂も作られました。いずれにしても顔料の不足していた時代です。呉須がもったいなくてさらりと描いたり、鉄釉ももったいなくてさらりと描いたり・・、それがいい味となっています。



しかし、李朝白磁の95%以上は他の色による装飾のない純白磁です。それゆえ李朝後期とはいえ、本作品のように呉須のよる染付作品は数が少ないようです。



保戸野窯の辰砂の水滴と本作品の水注の大きさを比べるとよく解りますが、とても大きいものです。辰砂の水滴が通常の大きさです。



呉須と鉄釉で描かれた葡萄の図が本作品の見所です。

松ニ八哥鳥図 川合玉堂筆 その2

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ものを買うには理由があります。それでは骨董品を購入する理由はいったい何なのでしょうか?
「普段使うのにいいもの」、「飾って楽しめるもの」、「資料的に価値があるもの」というのが純粋な愉しみ方ですね。
「将来価値が出る」、「高くなる、売れる」これは投資的な理由によりますね。

純粋な愉しみからみると真贋は、「資料的な価値」という観点からは本来一切関係ないのものです。ただ「他人に見せる」という行為が生じたときに、これが厄介なことになります。真贋を見極める力が問われるからです。

さて本日の作品は、続けて烏の、もとい八哥鳥・・、共箱でもなく、鑑定証もなく、でもお気に入り・・、小生の真贋を見極める力や如何?

松ニ八哥鳥図 川合玉堂筆 その2
紙本水墨軸装 合箱 田中針水鑑定書付
全体サイズ:縦1980*横330 画サイズ:縦1060*横300



落款の書体や印章に用いている「金華山作」から明治40年頃、玉堂が40歳前後の作と推察されます。ただし、この印章は玉堂の印譜集に掲載されている「金華山作」の中には同一印章がないことから今後の確認が必要と思われます。



金華山(きんかざん)は、岐阜県岐阜市にある標高329mの山のことで、旧名稲葉山(いなばやま)と呼ばれ、岐阜城で有名です。幼年時代を岐阜で過ごした玉堂は金華山に思い入れがあったのでしょう。金華山の西面山麓に大正6年の建立された三重の塔がありますが、建築場所を決めるにあたっては当時岐阜市に住んでいた(この頃は東京在住?)日本画家川合玉堂がこの場所に決めたとあります。



松や鳥の墨の滲みによる表現には一種独特のものがあります。



橋本雅邦の「龍虎図」をみて感動し、橋本雅邦の門下に入門したことは有名です。

田中針水の書は昭和24年に書いたもので、田中針水が46歳ときです。「見附町」とは現在の新潟県見附市のことのようで、「見附市ゆかりの作家たち 〜明治後半から昭和30年代まで」にお田中針水の名前があります。



川合玉堂には「八哥鳥」を題材とした作品がいくつかあるようです。こちらは昭和に入ってからの晩年の作品と思われます。

八哥鳥
思文閣墨蹟資料目録 和の美 第422号 作品NO53
 共箱二重箱 東京美術倶楽部鑑定証添付



家内が本作品と比べて
家内:「こちらの作品が毛づくろいしている表情がかわいい」
小生:「晩年の作品のほうが味があるのはしょうがないさ」
家内:「なんといっても。晩年の作品のほうがかわいい」



小生:「本作品のほうがかわいいのさ。目を観てごらん。ハートだぞ」
家内:「なろほど」と大笑い。



そう、小生のお気に入りはこのハート・・。前にもこのような作品がありましたね。


柿下牛之図 須田珙中筆
絹装軸水墨淡彩紙本箱入 
画サイズ:横508*縦357

検索してもブログ内では見つからない?? すでに非公開としたのかもしれません。



須田珙中は福島県の出身の日本画家で、昭和39年没。享年57歳。名は善二、東京美術大学卒業。前田青邨に師事し、院展同人となる。代表作は「牛」。軸先が水牛の軸となっており、痛んでいた状態で再表具したものでしょう。墨が薄くなっていますが、たらし込みの水墨のうまさはさすがの出来で、左隅の柿の絵が利いています。眼がハート形はかわいらしいです。

購入した真の理由は二作品とも、眼がハート型・・・

飾ってよし、差し上げてよし、好きな人に想いを打ち明ける目的にこのような掛け軸はいかがでしょうかね




苔庭図 吉岡堅二筆 その5

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五月の連休に郷里をドライブ・・、家内がどこで見つけてきたのか山瀬ダム。家内ともども在籍していた会社の施工。



国道7号線から北の道へ入り込み30分ほどでダムのある公園に着きます。



五月の連休の日曜日だというのに、実に閑散としています。見渡せど家内と私のみ・・。



湖からさらに北上・・、滝とロケット実験場があるとか。道は狭くなるし、雪解けで崖は崩れていて危険なので途中で断念しました。



雪解け水で湖は満杯・・、水は青く実にきれいです。



はるかかなたには本州北の名峰、田代岱・・。北の大正池という雰囲気です。



ともかく一人もいない。広い駐車場にただ我らが車が一台。携帯も通じないし、なにかあったらたいへん・・

本日は亡くなった家内の命日でまた帰省します。家内の実家の玄関前の改修工事が完了したらしいので、その確認も・・。

本日は福田豊四郎と親交の深かった吉岡堅二の作品です。今回で四作品目の投稿です。

苔庭図 吉岡堅二筆
板着色額装 合箱
画サイズ:縦308*横267



吉岡堅二は、福田豊四郎らとともに創画会を興しました。福田豊四郎と名コンビと言われました。



「この二人の仕事ぶりは俗衆批評を超越して存在するのである。この二人の人気の本質に関して露骨な言ひ方をすれば、世間には福田、吉岡よりも、絵そのものの、うまい作家はザラにゐるのである。然しながら福田、吉岡の人気の高さは、絵のうまさだけでは凌げないものが」る。・・・・」と評されていいます。



板裏に昭和27年2月29日号と記されており、なにかの雑誌の挿絵か表紙かもしれません。題名に「苔庭」とありますが、昭和16年制作の吉岡堅二の代表作にもある作品名です。



さて本作品は何のために描かれた作品でしょうか? どなたかご存知の方は???

田舎の庭もまた苔庭のよう・・。

大津絵 その15 若衆と座頭 双幅 

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大津絵の対幅というものは存在しないので、たまたま二幅を入手したので一緒に表具した作品ということでしょう。

大津絵 その15 若衆と座頭 双幅 
紙本着色軸装 軸先鹿骨 由来箱書箱双幅 
各々全体サイズ:縦1478*横287 画サイズ:縦695*横225


箱には「鳥羽絵対幅 古画」とありますが、「鳥羽絵」ではなく「大津絵」が正しいでしょう。裏には「昭和参六年八月七日祥日臨□布□松堂書写」とあります。




若衆:美少年に女に近い着物を着せています。二刀差であることが、男であることを語っています。



元禄のころからの淫蕩の風の現れであって、図としても浮世絵の影響の強い大津絵の一例と伝えられるものです。




ただこの若衆には色々の姿があって、また着物等の美しい模様のものがあって、女姿の大津絵の一群としても大いに特色があります。



文献的には宝永、正徳の頃に度々現れてくるが、後年の画題には「馬乗若衆」もあります。本作品の図柄は非常に珍しい図です。




座頭:大津絵には江戸後期に絵種を十種に絞り、もっぱら護符として売られた時代がありまた。文化・文政の頃から徐々に大津絵の主となり、幕末には他の図柄はほとんど描かれなくなってしまったようです。人気は依然高かったものの、初期の風格を失い、美術価値が低いとされることも多い時期です。



座頭が犬に褌を銜えられる様子を描いた図で、目が不自由だからこそ気をつけているはずが、意外なものに足元をすくわれることがあるという風刺画です。現在ではあまり人気のある絵とは言えませんが、かつては大津絵十種に選ばれるほどで、種類も多く創られています。




確かに現代人の感覚で、盲人を嘲笑した絵と取れば、受け入れられないのも無理はありません。ただ、この絵の時代の「座頭」というのは幕府の公認と保護を受けた有る程度の権威を持つ「当道座」に所属する人間であり、庶民にすれば、しばしば悪徳高利業者として描かれることのある「検校」を頭とする組織の一員でした。座頭そのものはその組織の下位の人間であるものの、この絵ではそういった「権威」の象徴として扱われています。「鬼の寒念佛」で僧を、「奴」で武士を笑い飛ばしたように、この絵で笑われたのはそういった「座」そのものでした。



座頭が狼狽する姿は、庶民を省みない権威はいずれその庶民の突き上げをくらうだろう、といった意味を持っています。そのような事情が有る絵ですが、時代の趨勢としては消えるのも致し方ないのかもしれません。



まるで光悦、送達のようなたらし込みのような犬の描き方・・ 実に愛嬌があって良き作品です。

中期以後の画題なのか、二枚版の佳作はそうたくさんは残っていないそうです。この座頭に関する文献は宝永より安永までたくさん現れてくるそうです。

春さむ 伝伊東深水筆  

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昨日は大学時代の同級生と青山の事務所で打ち合わせ、その前には銀座で現場&物件探索・・。

打ち合わせも早々に、喉が渇き、事務所近くで乾杯。大学時代から今までの噺で盛り上がりました。もう、35年近くじっくり噺をしていなかったので、時間の経つのを忘れて半額サービスの焼き鳥タイムを超過

本日の作品は伊東深水?  一応「伝」としておきましょう。

春さむ 伝伊東深水筆  
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 細工共箱
全体サイズ:横308*縦1817 画サイズ:横203*縦970



顔が後ろ向きなのはつまらないですね。



それなりに? 雰囲気はあるようですが・・。



ちょっとよさそうなので購入・・、いつもの出来心。



箱は替えたようで、箱書きを新たな箱にはめ込んでいます。これはよくあることです。



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伊東深水:明治31年生まれ、昭和47年没、享年75歳。名は一、東京深川の生まれ。鏑木清方に師事し、版画「対鏡」を処女作とし、現代風俗画家、特に美人画家として有名。日展に出品し、「秋晴れ」、「羽子の音」、「鏡」等の大作があり、小品、創作版画にも敏腕を振るい、現代美人画家の第一人者であった。芸術院会員。 

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古画 源氏物語 朝顔之図 

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株主総会やら命日やらで、お祝い事は後にしていましたが、昨日の土曜日に小生の誕生日、義母の誕生日、父の日とお祝いで家族で食事会です。



簡単なコースでの食事会でしたが、長男は口を開けているばかり・・・。



本日の作品は源氏物語・・、源氏物語の絵巻は過去にたくさん作れたのでしょう。その断片を掛け軸にしたものと思われます。

本作品の時代は「室町時代」との説明でしたが、詳細は定かではありません。

古画 源氏物語 朝顔之図 
紙本着色軸装 軸先象牙 太巻合箱
全体サイズ:横925*縦1680 画サイズ:縦620*横760



源氏物語の「朝顔」は光源氏32歳の秋から冬の話ですね。



藤壺の死去と同じ頃、源氏の叔父である桃園式部卿宮が死去したので、その娘、朝顔は賀茂斎院を退いて邸にこもっていました。



若い頃から朝顔に執着していた源氏は、朝顔と同居する叔母女五の宮の見舞いにかこつけ頻繁に桃園邸を訪ね、紫の上を不安にさせます。




朝顔も源氏に好意を抱いていましたが、源氏と深い仲になれば、六条御息所と同じく不幸になろうと恐れて源氏を拒みます。



朝顔への思いを諦めた源氏は、雪の夜、紫の上をなぐさめつつ、これまでの女性のことを話して過去を振り返ります。・・・・気にイラね〜男だね



その夜源氏の夢に藤壺があらわれ、罪が知れて苦しんでいると言って源氏を恨みます。翌日、源氏は藤壺のために密かに供養を行い、来世では共にと願ったそうです。



なかなか立派に表具され、かなりの補修跡があります。

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朝顔の君:桐壺帝の弟・桃園式部卿宮の姫君で、光源氏のいとこにあたる。名前は、源氏からアサガオの花を添えた和歌を贈られたという「帚木」や「朝顔」の逸話からきており、そこから「朝顔の姫君」「朝顔の斎院」「槿姫君」「槿斎院」などの呼び名がある。

五十四帖中「帚木」から「若菜」まで登場。源氏が若い頃から熱をあげていた女君の一人で、高貴の出自のため正妻候補に幾度か名前が挙がり、正妻格の紫の上の立場を脅かした。姫君自身も源氏に好意を寄せているが、源氏の恋愛遍歴と彼と付き合った女君たちの顛末を知るにつけ妻になろうとまでは思わず、源氏の求愛を拒み続けてプラトニックな関係を保ち、折に触れて便りを交わす風流な友情に終始した。

朱雀帝時代から斎院を長く続けたため婚期を逃し、そのまま独身を貫き通して出家、物語の表舞台から消える。

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もうひとつの作品「空蝉之図」もありましたが、両方は高くて手が出ず、ひとつの作品だけの入手でした。



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空蝉:光源氏17歳夏の話。空蝉を忘れられない源氏は、彼女のつれないあしらいにも却って思いが募り、再び紀伊守邸へ忍んで行った。そこで継娘と碁を打ち合う空蝉の姿を覗き見し、決して美女ではないもののたしなみ深い空蝉をやはり魅力的だと改めて心惹かれる。源氏の訪れを察した空蝉は、薄衣一枚を脱ぎ捨てて逃げ去り、心ならずも後に残された軒端荻と契った源氏はその薄衣を代わりに持ち帰った。源氏は女の抜け殻のような衣にことよせて空蝉へ歌を送り、空蝉も源氏の愛を受けられない己の境遇のつたなさを密かに嘆いた。

控えめで慎み深く、小柄で容貌も美貌とはいえない地味な女性であったが、立ち居振る舞いが水際立っており趣味も良かった。源氏の求愛に対しても、悩み迷いながらも最後まで品良く矜持を守り通し、始めは彼女を見下していた源氏を感心させている。彼女のモデルに関しては、境遇や身分が似ているため、作者(紫式部)自身がモデルではないかと言われている。

元々は上流貴族の娘として生まれ育ち、宮仕えを希望したこともあったが、父の死で後ろ盾を失った。そのため心ならずも、伊予介を務める男の元に後妻として嫁ぐ。伊予介は空蝉を非常に愛していたが、当の空蝉は受領の妻という下の身分に零落したことを恥じており、夫への愛も薄かった。

ある時興味本位に忍んできた源氏と情を通じてしまう。若く高貴で魅力的な源氏の求愛に心の底では空蝉も惹かれ悩みながらも、聡明な彼女は身分が釣り合わない立場であることを理解していた。一度は身を許したものの、その後はいくら源氏に掻き口説かれても誇り高く拒んで決して靡こうとはせず、その後夫に従って京を離れた。皮肉にも、驕慢な貴公子であった源氏にとって、空蝉の拒絶が彼女を忘れられない存在にした。その後「関屋」帖で二人は再会するが、間もなく夫を亡くした空蝉は継息子・紀伊守の懸想を避けるため出家、源氏は尼となった彼女を二条東院に迎えて住まわせた。

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「昔の日本の女性は性には開放的であったらしい。」とは和田竜の小説に記載されていましたが、これは戦国時代での話です。

こちらの作品も金彩をはじめかなりの補修跡があります。



食事会の最後はあまりのも暑いので屋上でカキ氷・・・。



最近のカキ氷は高級品・・・


秋景宮島之図 絵金(友竹齋)筆 

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お祝い会のあとで、浦和の図書館へ・・。駅前になんとナマハゲがいました。
幸紀はナマハゲを怖がらないようです、日頃から小生のナマハゲぶりで慣れているらしい




骨董蒐集はひとつのロマンです。掘り出し物、貴重品、あり得ない物などを探してはそれが望みを果たした時の喜びはまたひとしおです。まずはめったにそういうことにはならないものですし、なったように勘違いしているひとがほとんどで、そういう私もその一人です。

ここのところそういう作品が続いていますが、ブログの閲覧数と訪問数が低下傾向
でももともと整理が目的ですので、ブログの閲覧数や訪問者数を気にいていると、面白くかこうとか、真贋ばかり気になって記事がすすみません。

珍しい絵金(弘瀬金蔵)の狩野派次代の御用絵師だった頃の作品と推察されます。

友竹齋→弘瀬 金蔵→絵金→狩野派という連想のない人は買わないし、見落とす作品です。もしくはこちらの早とちり・・。

でも出来がいいものですね。

当時、狩野探幽の贋作製作の疑いにて嫌疑をかけられ、その刑に狩野派時代の作品をほとんど焼却されているため、真作なら貴重な作品と言えます。「友竹齋」の号はいつ頃に用いられていたかは不明です。狩野派の時代のも用いられ、50歳すぎた絵金時代にも用いられていましたようですが・・。

絵金と言えばおどろおどろしい舞台絵で有名ですが、150年余り無事に保存されてきた絵が、2010年12月熊本市美術館に貸し出ししていたところ、無知な燻蒸作業(絵金屏風絵変色問題)により著しく変色してしまいとりかえしのつかないことになってしまったことでも知られます。

秋景宮島之図 絵金(友竹齋)筆 
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横726*縦1353 画サイズ:横594*縦417


非常に珍しい絵金(弘瀬金蔵)の狩野派時代の御用絵師だったことをうかがわせる作品です。



狩野探幽の贋作製作の疑いにて嫌疑をかけられ、その刑に狩野派時代の作品をほとんど焼却されているため、真作なら狩野派の特徴をうかがわせる貴重な作品と言えます。




「友竹齋」の号はいつ頃に用いられていたかは不明です。狩野派の時代にも用いられ、50歳すぎた絵金時代にも用いられていたようですが、詳細は不明です。



絵金と言えばおどろおどろしい舞台絵で有名ですが、150年余り無事に保存されてきた絵が、2010年12月熊本市美術館に貸し出ししていたところ、無知な燻蒸作業(絵金屏風絵変色問題)により著しく変色してしまいとりかえしのつかないことになってしまったことでも知られます。




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弘瀬 金蔵:(ひろせ きんぞう)文化9年10月1日(1812年11月4日)〜 明治9年(1876年)3月8日)。江戸時代末期から明治にかけての浮世絵師。本名は生前10回以上にわたり改名しているが一般には弘瀬金蔵の名で知られており、高知県下を中心に絵金(えきん)の愛称で親しまれている。

文化9年、高知城下に髪結い職人の子として生まれる。幼少の折から絵の才能で城下の評判となり、16歳で江戸に行き土佐江戸藩邸御用絵師・前村洞和に師事する。また幕府御用絵師・狩野洞益に師事したともいわれる。通常ならば10年はかかるとされる修行期間を足かけ3年で修了し、林 洞意(はやし とうい)の名を得て高知に帰郷、20歳にして土佐藩家老・桐間家の御用絵師となる。築地本願寺の輪番室には、「友竹齋」と落款のある狩野派と思われる金屏風の大きな絵があります。「友竹齋」は墓にも刻銘されています。

狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことで職を解かれ高知城下所払いの処分となり、狩野派からは破門を言い渡される。その際、御用絵師として手がけた水墨画の多くが焼却された。洞意が実際に贋作を描いたかどうか真相は明らかではないが、習作として模写したものが古物商の手に渡り、町人の身分から若くして御用絵師に取り立てられた洞意に対する周囲の嫉妬により濡れ衣を着せられたのではないかと洞意を擁護する意見も存在する。

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これはよくあること・・、妬みからの嫌がらせは悪質で女々しいもの・・、サラリーマンにはよくあること。上司から謂れのないひどい成績をつけられたりという経験は私にもあります そういうことのないように成績のチェックは今も私の重要な仕事です。

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絵金蔵(高知県香南市)高知城下を離れて町医者から弘瀬姓を買い取った後の足取りには不明な点が多いが、慶応年間より叔母を頼って赤岡町(現・香南市)に定住し「町絵師・金蔵」を名乗り、地元の農民や漁民に頼まれるがままに芝居絵や台提灯絵、絵馬、凧絵などを数多く描き「絵金」の愛称で親しまれた。

この時期の猥雑、土俗的で血みどろの芝居絵は特に人気が高く、現在も赤岡では毎年7月に各家が屏風絵を開陳する「土佐赤岡絵金祭り」が開かれている。

大政奉還の後は生まれ故郷の高知に戻るが、1873年に中風を患い右手の自由が利かなくなったため左手で絵を描き続けた。1876年3月8日死去。享年65。

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「宮島」というのは秋田県男鹿市にもある島ですよ。

成績のチェックは重要な仕事ですが、常に公平に見られる人、幹部の候補を育てあがられる人が最終チェックをしていなくてはなりません。各分野を統率する人・・、なかなか成績を見せようとしない・・、己の権限ゆえ・・、ただここが会社の行く末の肝どころ
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