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Channel: 夜噺骨董談義
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花鳥紋赤絵八角香合 明末〜清朝

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俗に言う明末赤絵の作品群は好きな作品のひとつです。自由闊達な絵付が魅力ですが、基本的に日本人好みというか日本向けに製作されていますので日本人の感性にあるものです。中国人は清朝の官窯の流麗な作品を好みますので、まずこの作品群には中国人は興味を持ちません。よって、値段はお手頃・・。

本日は薬味入れにお手頃な器です。

花鳥紋赤絵八角香合 明末〜清朝
合箱
口径95*高さ70*高台径55



香合と称するにはやや大き目で合子(身とふたとが合う物の意:ふた付きの小さい容器。香合・化粧品入れなどに用いたもので、合器(ごき)。ごうすと称する)と称すべきかもしれません。

本作品は明時代末期、中国福建省南部の漳州窯で焼かれた呉須赤絵で、欧米ではスワトウ・ウェアと呼ばれている作品のひとつでしょう。日本からの注文で作られたものかもしれません。



明末の作か、もしかしたら清朝まで時代が下がる可能性はありますが、非常に出来の良い作品です。手作り感の良く出た作品で、前の所蔵者もそれなりに評価してしっかりとした箱をあつらえています。



この手の作品は数多く模倣されていますが、やはり時代のあるものがいいですね。どうしてこの手の作品で、京焼や現代陶工の作品を日常に用いるのか理解に苦しみます。時代は多少新しくても、それなりに古くて味のあるものはたくさん市場に出回っています。数千円で購入できますので、朱肉入れや宝石入れ、それこそ香合として用いると面白いと思います。

さて本作品の製作年代や如何?? ま〜、たいした問題ではないでしょう。普段使いの薬味入れにもいいかもしれません。

この手と同じ香合が下記の作品です。
呉須赤絵牡丹香合(ごすあかえぼたんこうごう)    
高5.0 径6.0 底径4.2
東京国立博物館所蔵



「現存する香合の優品は中国物が圧倒的に多い。これをその定評のあるものという意味で型物香合と呼んできた。安政2年刊行『型物香合相撲番付』によればこの香合は前頭上位に位取りされた人気の高い香合である。四方入隅の形に乳白色の釉を掛け,華やかな赤絵をのせる。茶席における紅一点の働きをなし,その人気の高さもうなづける。」と説明されています。

ん? 「東京国立博物館所蔵」?? 気にしない、気にしない。模倣品でも味のあるものを探せばいい。

牡丹図 その2 平福百穂筆 その9 

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掛け軸というものは陶磁器と違って資料を見て真贋の判断がある程度は可能なものです。落款や印章などでほぼ90%くらいは真贋の判断ができます。それゆえ素人批評家が多い分野でもあります

陶磁器はそうはいかず、かなりの勉強と経験が必要で素人では無理な世界だと思います。プロについて勉強しないと真贋や時代考証は判断できないと私は思っています

さて、本日はその簡単な?分野の掛け軸の作品です。掛け軸は真贋を云々するのも馬鹿馬鹿しいくらい値段が安くなりましたが、そこはそれ真贋は別物できちんとしなくてはいけませんね。

絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横1320*縦500 画サイズ:横365*横365



本作品は秋田県の角館からの入手。そう平福百穂の出身地です。出身地から出てきた作品ほど真贋には注意を要する画家です。共箱ではなく鑑定書もありません。・・・果たして真贋や如何?



真作ならば当方で所蔵してる小色紙の作品とほぼ同じ頃の作品ではないかと思われます。



印章は「三宿翠?房」と思われますが、よく用いた「三宿草堂」と同じ意味かも知れません。



小色紙の作品より、さらに丁寧に描いた作品となっています。



共箱や鑑定書は一切ありませんが、表具はなかなかいいですね。





掛け軸の正規の作品を入手する条件というものがあるとすると、

1.状態が良いこと。できればきちんとした表具店の表具であること。
2.販売店が百貨店や一流の骨董店から買うなど出所がしっかりしていること。また画家本人から譲り受けたりなどの伝来がきちんとしていること。
3.信用のおける鑑定書がついていること。
4.最低条件として共箱であること

以上ですが、こうなるとそれなりの金額で購入しないといけません。値段も通常より?高額となるでしょう。ネットオークションではこのような作品はなかなかお目にかかれません。この条件を満足するように見えて贋作であることもしばしばあるようです。

目利きはこのような条件を満たさない作品の中から本物を選りすぐりできるのでしょうが、小生のような素人では至難なことです。真似事で首を突っ込んでいる次第です。「量より質に徹底したいもの」と思いますがなかなか・・

最近の掛け軸の骨董事情は

1.値段が暴落していること
2.需要が少ないので売りに出ることが多いこと
3.興味を持つ人が少ないので、遺産として遺された作品を売りに出す人が多いこと
です。

そのために上記の条件を満たさない作品が数多く市場に出回っています。骨董店の御主人も「あまりにも安いのでついつい仕入れてしまいますが、在庫がたまってしかたがない。」とぼやいていました。

集めるにはいい条件が揃っていますので、ある程度の知識があるとそれなりの作品は集まります。ただ上記の条件を満たしていないと売値は二束三文です。掛け軸の骨董蒐集は金儲けには絶対になりません。本作品がたとえ本物でも売り値はおそらく数万円ならいいほうで、下手をすると数千円です。

ところで平福百穂の作品で注意を要するには印刷作品が多いということです。

印刷作品には通常「工芸印」が押印されるのですが、平福百穂の作品の場合はそのことが浸透する以前と思われ、通常の印章が押印され、手採色されると全く印刷とは素人目には解らないものとなるので注意を要します。

参考:工芸品の二作品

山水図 平福百穂筆 工芸作品 その1
紙本水墨印刷 絹装軸 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横680*縦1360 画サイズ:横480*横400


 
左下に「癸酉夏日 百穂」とあり、1933年(昭和8年)の夏の作品で平福百穂の没年の作品の印刷でしょう。印章は「三宿草堂」とあり、真作と同一印章だと思います。



表面のつるつる感と第一印象の「のっぺり感」以外は肉筆と区別がつきません。



実によく出来ているので、飾っておく分には申し分ありません。



汚れたり、何かあっても支障のないところに飾っておくには印刷作品はもってこいです。



しかし、これに一部に墨で書き込んだりして、真作として売買されると・・。



このような作品と真作の箱と中身を取り替えたり、鑑定書を偽造したり・・。



さて、もう一つの工芸品。

双鶴図 平福百穂筆 工芸作品 その2
紙本水墨淡彩印刷 絹装軸 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:横435*縦2100 画サイズ:横270*横12



こちらは少しは印刷と解りやすい?当方は売買目的で所有しているのではありません。あくまでも参考作品・・。



中国ではこのような印刷や版画を贋作としないから、より恐ろしい・・。



印章も真作と同一印章らしい。



中国の「斉白石」、「呉昌碩」は版画による工芸品が多いので要注意とか。



印章や落款にこだわる人ほど意外と印刷の作品にひっかりやすいものだそうです。「木を見て森を見ず」というものでしょうか?

竹内栖鳳ら同時期の日本画家の作品はいいと思ったら、次に印刷か否かを疑ったほうがいいでしょう。手彩色でない作品は割とすぐに判断できますが、彩色されていると素人では全く解りません。ネットオークションでは肉筆保証と称して売られているから余計に区別が難しいようです。

骨董蒐集でお金をなるべく掛けない蒐集は頭脳ゲームかもしれないません。あらゆる可能性から判断する必要があるようです。それが嫌なら賢くお金をかければいいだけです。

さて連休に家内の実家へ行くと六種類の牡丹のうち四種類の牡丹が咲いていました。早速長男の幸紀と記念撮影。



作品にまたひとつ思い出ができました。骨董の愉しみというものは真贋もさることながら、こういう思い出作りが一番です。これが本当の「木を見て森を見ず」にならないということかもしれません。

骨董蒐集だけではありなせんね。人生においても「木を見て森を見ず」にならないことが肝要です。家族、健康、友人、金銭、地位、名誉・・、何が大切かを忘れないことです。



家具の顔

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郷里に帰宅すると、今回気になったのは家具の顔・・・・。和室ではいつものように、蛙がお出迎え。



最近、古民家を買い取ってリフォームすることがますます流行っています。田舎では空き家が多くなり、これからますます需要と供給がマッチングしそうです。古民家をリフォームするとそこに似合う家具が必要となります。

やはり古民家の家具は木の香りのするものがいいですが、そこにはこだわりのあるものがいいですね。



杉や桐、そして金具。単純な古民具では面白くないと思うのは私だけでしょうか。



追い求めるのは伝統と一流の技、そしてセンス・・、日本人特有の感性が生きているものが欲しいですね。



これらも一種の骨董品。

これはオマケ・・・・。



マンションにある備え付けの家具やウォーキングインクローゼットに飽きてきている人はいませんか?

それなりに広いスペースが必要です・・・、いつでも本当に豊かな生活は田舎にあると思うのですが、政策はいつも逆方向。心の貯金箱はいつも空っぽということにならないようにしましょう。

陶磁器に遊ぶ

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子どもと遊ぶのも骨董と遊ぶのも私にとっては同じような気がします。

郷里に帰宅して、久しぶりに陶磁器を手にとってのんびりと眺めていました。



以前に何度か公開している作品です。初めて購入した大きな買い物の作品です。胡麻釉など見事な窯変だと思います。



実に薄くできています。裏には葉脈と刻印があります。この刻印はとある作品によく似ていますが・・・。



備前焼の次は益子焼の角皿です。



こちらの作品も何度かブログに登場してます。親戚からとある御礼として頂戴した作品で、親戚の方は作者から直接買われた作品のようです。



骨董というものは使うなり、飾るなり、時々見るなりという遊びをしないと朽ちていくものののようです。せっかく手元にある作品ですので、心を自由にして愉しみたいものです。



備前で思い出したのが下記の作品です。本ブログで以外にもアクセス件数の多い作品です。



ずっしりとした重さのある作品です。景色も実に良いです。



本作品が収められている箱書ですが、これがもしかした意外とよいものかもしれないと見直しているところです。



さて縁側でお茶を一服・・。



作者は本ブログの読者にはお分かりでしょう。非公開作品です。



窯元作品と本人作の作品とありますが、こちらの作品(非公開)は本人作で珍しくサイン(花押)のある共箱に収められています。自信作にはサインのある共箱に収められるということを意外と知らない人が多いかも知れません。



最初の写真は初公開の古備前大舟徳利です。大いに楽しんだひと時ですが、以外と体力は使います。これも子どもと遊ぶのと同じようです。


分福茶釜図 倉田松涛筆 その13

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震災への鎮魂の作品。被災された方々にもこのような狸が出現しないものかと願っています。秋田の生んだ倉田松涛の傑作のひとつと思っています。

分福茶釜図 倉田松涛筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横570*縦2100 画サイズ:横350*縦1350



賛には「維時大正十二年龍集□陽大□□九月一日 帝京以前古今未曾有ニ一大震災後数の日鎮静記念以外下脱六縣写於北?海道巴□臥牛山麓福會南□東都牛龍之俳畫禅寺□住百三談有髪 □□陀 松濤」とあり、関東大震災の鎮静を祈念しての作品?

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分福茶釜(ぶんぶくちゃがま、ぶんぷくちゃがま):日本中で語り継がれている昔話のひとつ。文福茶釜とも表記する。タヌキがあらわれ、化けて人を騙す場面が見られる。




あらすじ
貧しい男が罠にかかったタヌキを見つけるが、不憫に想い解放してやる。その夜タヌキは男の家に現れると、助けてもらったお礼として茶釜に化けて自身を売ってお金に換えるように申し出る。次の日、男は和尚さんに茶釜を売った。和尚さんは寺に持ち帰って茶釜を水で満たし火に懸けたところ、タヌキは熱さに耐え切れずに半分元の姿に戻ってしまった。タヌキはそのままの姿で元の男の家に逃げ帰った。次にタヌキは、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して男は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である。茂林寺の伝説ではタヌキが守鶴という僧に化けて寺を守り、汲んでも尽きない茶を沸かしたとされている。普通、物怪(もののけ)は鉄を嫌うが、このタヌキはその鉄の茶釜に化けており金の精霊たる所以を表している。




「民俗学者・柳田國男:基話の狐の恩返しを基にすれば、動物と人間との交渉を物語る昔話の根幹には<動物援助>の考えがあり、選ばれた人間に神の使いである鳥獣が富を与えるのだという。そこで動物の危機を救ってやり報恩を受けるのを見ると、動物が献身的に尽くす好意も理解できる。動物援助から動物報恩に移行する過渡的な様相を帯びた話といえる。山形県米沢市南原横堀町の常慶院にも類種の伝説が伝わっているが、こちらでは狸ではなくキツネが登場する。
その他



その他

茂林寺:狸は元の姿に戻れず、気の毒に思った茂林寺の和尚さんは、狸の茶釜を手元におき大切にしました。やがて、この茶釜は福を呼ぶと噂が広がり、「分福茶釜」と呼ばれるようになりました。
狸の口上
「いや、助かりました。実は情けないことになっちまって。山で仲間と化け比べをしたんですが、私はそこで茶釜に化けたんですが、戻れなくなっちまって…。大変なことですよ。だからあなた、ここに置いてくれませんか?」

「古道具屋さんはきいているうちに要領が悪くて損ばかりしている自分の姿が重なります。とても他人事とは思えません。似たもの同士という感じです。」

「はい。私は綱渡りが得意ですから、あなたに見世物小屋を作ってもらって、お客さんをワッと呼んで、二人で稼ぎましょうや」

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東天紅図 伝小川芋銭筆 その2

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三日間、九州と広島に出張につき、その間はブログの投稿はお休みとなりました。

とにもかくにも掛け軸、陶磁器は贋作が多い。桑山玉洲、菅原梅関、横井金谷、紀楳亭などはいまだに真作と断定できる作品がてもとにありません。

家内が「以前に集めたもののほうがいいものがあるんじゃない。数多くよりいいものだけ集めたら。」と言い出す始末・・。実は過去のものは一度、ずいぶん処分していいものだけを残しているから・・とは言えず・・。もう一度処分・・・。

さて、本日の作品も真贋は不明の作品です。小川芋銭は「贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる。」という画家です。本作品も怪しいものですが、私はなんとなく好きな作品です。

東天紅図 伝小川芋銭筆 その2
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:横452*縦1895 画サイズ:横337*縦1285



共箱でもないし、印章は書いています。はてさて???

画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという。手書きの印章はよくあることで、手書きだからといって、贋作とは限りませんせい、逆に信憑性が高いくらいです。



題名も不明ですが、箱に「東天紅」と書かれているので、そのままとしました。



東天紅:ニワトリの一品種。鳴き声を賞玩する目的で作られた。鳴き声は豊かで長く,約20秒継続するものもある。高知県原産。天然記念物。



よく出来ている作品かと思いますが、真贋や如何・・・・・・。

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小川 芋銭(おがわ うせん):本名:小川茂吉、幼名:不動太郎、男性、1868年3月11日(慶応4年2月18日)〜1938年(昭和13年)12月17日)は、日本の画家。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本の日本画家である。

小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により現在の茨城県牛久市城中町に移り農家となる。

最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。

生涯のほとんどを牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという。

身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている。

芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している。

芋銭の墓は1943年(昭和18年)、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院(牛久市城中町258)に建てられた。

贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる。

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天啓古染付青花松図中皿 明末

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こんなものと思う人が多いと思います。実際に打ち捨てられていたように売られていた作品です。そこで「古染付」の賛美を投稿します。

天啓古染付青花松図中皿 明末
合箱
口径152*高台径80*高さ31



天啓古染付について
天啓の染付を、我国では俗に「古染付」と呼んでいますが、それは何時頃、誰によって名付けられたものかは解っていません。茶会記や陶書関係のどこを見ても、不思議なことにその名は見当らないそうです。「古染付」という三文字からは古い染付という意味にとれ、これは新渡りの染付に対し、古渡りの染付の意として用いられたのではないかと思われます。「元」に始まったといわれる染付が、「明」に入って宣徳、成化、嘉靖、万暦、天啓、崇禎と続き、どうして天啓の染付だけが「古染付」と呼ばれたものでしょうか? それはやはり茶人による日本向特注品ということが関係しているようです。特に天啓染付だけを別に呼称したのは、その風雅な作風を重んじ、他の時代の染付と敢えて区別した数寄者の粋な心根にあると思われます。天啓染付に「古染付」とは正に言い得て妙です。染付へのほのかな郷愁を微妙に匂わした呼び名はまさに「古染付」の他にないでしょう。



古染付の生まれた天啓年間(1621ー1627)は、万暦につづく7年間で、約300年の明朝の歴史の中で、国力の最も衰微した末期です。景徳鎮窯業史からみれば、乱世という社会情勢の中で、これまで主役を演じて来た官窯が廃止され、それに代って民窯の活動が一段と盛んになった時期です。天啓染付と称する一種独特のやきものが生まれて来たのは、この様な時代背景があってのことで、天啓年代に至って突如として出現したものではなく、万暦に既にその萠芽は見られるものです。官窯が消退したために、勢い民窯の風味が表に出て来、それが古染付の母体となったと推察できます。従って年代的には、どこからどこ が古染付の出現した時代かは判断とせず、万暦に、崇禎に降っても古染付らしい染付は存在するので、莫然とした言いまわしながら、天啓を中心とした明未清初の端境期のやきものと考えるのが妥当でしょう。



古染付は中国陶磁の官窯を笑うかの如く、対照的に自由奔放でさり気ない作品です。均等に余白を唐草模様や雲竜文で埋め尽すような明代の染付に較べ、古染付の絵付はいかにもおおらかで、屈託がありません。こうしなければならないといった制約もなければ、そうなるのが当然といった習慣めいた決まりもありません。



その文様の描線が曲っていようと、いまいと、一本余っても足りなくても、また太くても細くても、一向にお構いなしといった鷹揚さが古染付の古拙ぶりを助長し、存在感を高めています。描線が自由にのびのびとしながらも、決してバランスを崩さず、現代陶芸が真似の出来ない風雅を醸し出しています。




描かれるものは、山水を始めとして、花鳥、人物、動物、故事、物語など多種多様で、あらかじめ意図された意匠がないかの如く即興的です。 たとえば「羅漢図皿」の如きは、中皿という白い空間を描線でひきしめて、古今を通じてこの様な卓抜したデザインは、初期伊万里染付のごく一部を除いては例をみないものです。羅漢の表情は一見、漫画的であり、それは圧制から解き放たれた天啓画人の喜びの声ともとれ、また、惰落した現代陶芸への揶揄とも思えるものです。




古いやきものを愛する人は多いですが、それを使う人は少ないようです。使いこなす人はもっと少ないと思われます。毀れることを気遺って箱に仕舞い込んだり、滅多に日の当らぬ所に安置されっ放しでは、やきものとしての生命はないように思います。扱いに慎重を要しますが、それを用いることが、やきものを甦えらせることになります。 美しきものが日常的傍にあって用いられて、ハッと身のひきしまる程驚くことがあります。それは美濃や、唐津や、伊万里の残欠であっても、さり気なく用いられることがやきものへの思いが感じられて嬉しいものです。もとより古染付も用に応じて造られた雑器に過ぎないから、時に応じてそれぞれ使う選択と手だてを考え、季感、色感を他の器とのとり合わせに思いをめぐらせてみると、なかなかに楽しいものです。古染付ばかりでなく、伊万里、源内焼、瀬戸といったいろんな取り合わせを愉しむことが大切です。



昨夜の食器・・、染付、自作の鉢、古唐津(発掘品)刷毛目の呼続(この手は何点かあります)。ともかく今回の作品も普段使いに仲間入・・。

下記の作品は最近、家内が割ったもの・・・、三分割 大正期の頃の錦染付七寸皿、私が修理中・・。



普段使いはいつか壊れるもの。。、惜しんではいけませんね。修理できるものは修理して使えばいいのです。今はいい接着剤がたくさんあります。



もったいなくて使えないのは器ではないように思います。人間もいつかは死ぬ、生きているうちに使いたいものです。

リメイク再投稿 その1 井戸茶碗

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リメイク再投稿 2010年4月25日掲載

今までのブログを見直しながら、作品の整理の最終段階に入ります。これからは新旧合わせてのブログの登場となります。 

井戸茶碗
「井戸の茶碗」という落語も有名であるから井戸茶碗の名前だけは知っている人も多いのでしょう。
井戸の茶碗

20年以上前、まだ陶磁器に知識もない頃、仕事で京都近郊に出張の折、夕刻ぶらぶらと清水付近を散策していて、とある骨董店に入ってみましたところ、井戸風のお茶碗があり、衝動的に購入したことがありました。

お値段はたしか一万円だったと思います。骨董など買うことなどなく、自分でも意外な買い物に、また当時の自分としては大きな買い物に興奮して何度も割れていないのかと鞄を覗きこんでいました。

当時は結構気に入っており、箱を用意し、その夕方立ち寄った食事処の「芋坊」の名をとって銘をつけて愉しんでいたのでいました。



本作品は李朝井戸茶碗の後世の写しで大量に製作されたもののひとつでしょう。井戸茶碗の約束事は守られています。



李朝(後期李朝)と称されてトラックの荷台のまとめて乗せられたほど大量に製作されたということを聞いたことがあります。

その大量生産のなかでも、堅手の冷たい感じがなく、お湯を入れると景色が変化し、良い作品だと思っており、小生にとっては思い出深い作品です。ま〜自己満足という感じかな

基本的にお茶碗はその出来、不出来を超越した由来などの有無で価値が判断されたりしますが、個人の思い入れのある作品は生きている限り大切にしておきたいものなのです。


清流(仮題) 田中以知庵 その3

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先週は九州と中国地方の現場に行ってきました。10の現場への挨拶廻りです。足早でしたがその中でいくつかのダム現場を見ていただき、その壮大さに感激しました。



現場の方々の丁寧な説明は非常に解りやすく、感謝感激です。



自然豊かな中での昼夜におよぶ現場ですが、貯水や洪水対策という工事の持つ意義は高いものがあります。

さて、山の中の渓流を眺めてもきたので、本日は「清流」という作品です。

鮎を描いた日本画の作品は多々あります。福田豊四郎、郷倉千靭などが私はお気に入りです。小泉檀山も有名ですが、なかなか真作は入手しづらいです。

清流(仮題) 田中以知庵筆
絹本着色軸装 軸先象牙 
全体サイズ:縦1440*横653 画サイズ:縦446*横509



本作品は共箱ではなく、とりあえず「清流」と仮題にしておきましたが、鮎を描いた同じような作品に「消音」という作品があります。



箱にも入っていない状態での購入です。真作か否かも不明です。



胡粉が剥離してきていますので、太巻きにして保存しておきたい作品です。



描かれているのは鮎でしょうか?



それならば題は「香魚」のほうがわかりやすいでしょう。



魚の作品にも秀作の多い画家のようです。


参考作品

鮎 福田豊四郎筆
絹本着色軸装共箱二重箱軸先象牙 
全体サイズ:横605*縦1450 画サイズ:横442*縦377



本作品は塗飾盆の原画です。



下の作品は友人から見せていただいた作品です。

鮎 郷倉千靭筆
紙本着色色紙軸装軸先陶製共箱題旧作 
縦265*横237



初夏の掛け軸に「鮎」の作品を飾るのも涼しげでいいですね。食欲も増します
今回の出張の夜は海の幸・・・

2014年4月 帰省

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帰省に際して義母から借りたオペルのヴィータ・・、実はこれで3台目、2台は実は事故でオシャカ・・・。当時は頑丈が売り・・、シンプル・・、古いですが小生もお気に入りの車です。



車庫のシャッター、もう20年以上前に小生が考案。電動のオーバースライダーに天然木を貼りました。焼き付けや塗装のシャッターでは味がない・・。



雪国では珍しい瓦屋根で、昨年は下地を改修。雪国でも瓦屋根は大丈夫なようです。ただ急勾配のほうが雪下ろしがなくいいようですし、凍害も少ないようです。

ただ天窓付近はやはり痛みがひどくて改修が必要となりました。天窓の吹き抜け部分は電動で開くようにしたのですが、故障するとたいへんなことになるのと、積雪時には開閉できないのが難点です。積雪でガラスが壊れるのは心配ないようです。



玄関は広めに、吹き抜けに・・。正面は福沢一郎・・未公開作品。



これは本来は外にあるべきもの・・、ちょっと玄関飾りに。



左は郵便受けボックス・・、不思議と「こけし」(又五郎作 未公開)が倒れたことはない。先日の地震でも倒れなかったようです。最近はなにやら「こけし」がブームなようです。母が集めた作品も数多くありますが、価値が出る???



照明の下での「麗人」(横尾芳月筆)の御出迎え。



魔除けの「獅子香炉」(平戸焼)



秋田名産???



玄関と階段は吹き抜けに・・、さらに居間も・・、なにがあっても家じゅうに聞こえる?? 将来はエレベータもつけやすい??
 これは意外といいですが寒いのが難点です。

「冬の山」(伊勢正義画)・未公開作品・。



茶室(和室)への廊下。同級生が設計で、母と付き合いのある大工さんが施工、なんと母が現場監督でした。施工してた住宅会社が倒産、工事金額を持ち逃げ・・、大変な目にあいました。外構はお金を貯めながら数年かかりました。

寺崎廣業向井久万福田豊四郎、信太金昌(未公開)・・秋田の画家がメインです。幾つかは未公開です。



縁側の突き当りが水屋となります。北国は二重サッシが基本、結露対策です。材料は親戚などからの調達や有り合わせを使い、工事費を低減しました。



和室兼客室。隣は道具室。



ストーブは格子で目隠し・・。冬は邪魔で暖房で反ってくるので、もう一工夫が必要です。



ちょっと飾りすぎ? たいしたものはありません。

昨年の5月以来、帰宅していないので節句の御飾りがそのまま。これもまた魔除ですが役目は果たしてくれたようです。

鐘馗図」(小川芋銭筆)、「緑釉麒麟像」(遼時代)



息子は初めてわが郷里へのご訪問。



息子に住宅の建て方を伝授しなくては???? 今回はプライベートなお部屋は非公開

住宅は建ててみないと解らないので、「家は二度建てなくてはいいものができない。」といいますが、資金的には無理ですね。

「家は所詮、仮の住まい」と悟るが得策、マイホーム至上主義は私は苦手で、セキスイホームのコマーシャルは好きになれません。

転勤が多かったため、この家には通算しても半年も住んでいません




雪路 小早川清筆 その3

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本作品で三作品目の本ブログ登場の作品です。

雪路 小早川清筆 その3
小色紙



本作品を売っていた秋田の方は作者を知らなかったようです。秋田に滞在し,いくつも作品を遺した画家です。小生の家や叔父の家にいくつか作品を遺しています。

昭和23年に亡くなっていますので、戦後前後に秋田に来てたのではないかと推察されます。

瀟洒な美人画を得意とする画家ですが、知名度は低く高価な画家ではありません。小児麻痺による後遺症のため、左手一本で絵を描いた画家で、分類は浮世絵師とされています。



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小早川 清(こばやかわ きよし):明治30年(1897年)〜 昭和23年(1948年)4月4日)は、大正時代から昭和時代にかけての浮世絵師、日本画家。鏑木清方の門人。福岡県福岡市博多に生まれる。初めは南画家の上田鉄耕に師事し、1915年(大正4年)に上京して、清方に美人画を学んだ。

小児麻痺による後遺症のため、左手一本で絵を描いた。

「長崎のお菊さん」が、1924年(大正13年)の第5回帝展に初入選し、その後、長崎を題材にした美人画を描いて、続けて帝展において入選を重ねた。1933年(昭和8年)には、歌手の市丸を描いた「旗亭涼宵」が特選となっている。

1936年(昭和11年)以降は、文展無鑑査となり、同年、文展招待展に「宵」を出品してからは、文展及び新文展に作品を出品した。その他にも、日本画会、青衿会などにも、会員として多くの作品を発表していた。そして版画は、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)に発表した「近代時世粧」シリーズが知られている。その中でも、ほろ酔・爪・化粧・黒髪・口紅・瞳などは著名で、また、艶姿・湯上がり・舞踊なども佳作とされている。

清は、戦後にも数点、作品を発表しているが、やはり昭和初期の頃の作品に人気が集まる。また、清は、新版画の分野においても活躍している。代表作に「長崎のお菊さん」、「春琴」などが挙げられる。1948年(昭和23年)、東京都大田区の自宅で脳溢血により死去。享年52。



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色紙掛

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ポールマッカトニーの日本公演が中止となりとても残念ですが、ローリングストーンズは予定通り行われました。高校のころ、ビートルズのホワイトアルバム、ローリングストーンズの六角形のアルバムに夢中となったのを思い出します。

同年代の会社の同僚のひとり(未だにローリングストーンズの熱狂的なファン)とおなじ話題によくなります。ジャズのキースジャレットのホワイトアルバム、ジョンコルトレーン、マイルスデービスなど・・。ブルーノートを買いあさった?、あのLPは今どこに・・、

母がお茶会でよく使っていた色紙掛ですが、廉価なものや額縁屋さんで売っているものではつまらないので、なにか良いものはないものかと探していたところ、このような作品が入手できました。

色紙掛
絹軸装
全体サイズ:縦1575*横287



いったいいつ頃作られたものでしょうか? 今、このような色紙掛を製作したらかなり高価なものになりそうです。



色紙を入れてみまいした。どのような色紙の作品をあわせるか楽しみになります。



色紙の作品を入れなくても、むろん鑑賞できる作品かもしれません。



本日の投稿作品は色紙掛であって、色紙の作品そのものではありませんので、色紙の作品の説明は省きます。むろん真贋など蚊帳の外 

すぐ手元にあった作品をかけてみたのですが、家内には不評

色紙の四角形を見ているとLPのジャケットを思い出します。LPのジャケットもひとつの文化であったように思います。
        

リメイク再投稿 その4 贋作考 鍾馗之図

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リメイク再投稿 贋作考 2010年5月16日掲載

リメイクしていくことによって最初に投稿された原稿は非公開となっていくものが多くあります。このブログは作品の整理という目的でスタートしていますので、あまりにも拙い作品は処分していきますし、逆にある程度評価のあるものも非公開となります。

本日の画題の「鐘馗様」の掛け軸ですが、「鐘馗様」の作品は盛岡の骨董店で初めて購入しました。描いた画家も不明で、表具がボロボロでしたが迫力ある作品でしたので、額装に改装して現場事務所に飾りました。魔除けのご利益によってか、おかげで大きな事故やトラブルなく工事をいくつか終了することができました。最後の現場終了時に欲しいという方がいて、その方に作品を差し上げました。自宅の玄関ホールに飾っているそうですが、孫が「怖い」というので困っているそうです。

本ブログにて、その後の「鐘馗様」の蒐集作品を投稿してきましたが、その最初が本投稿でした。

鍾馗図 伝横山大観筆
絹本着色軸装合箱(署名有)二重箱軸先鹿骨 
全体サイズ:横505*縦2050 画サイズ:横373*縦1167


鍾馗之図 寺崎廣業筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦2000*横875 画サイズ:縦1480*横740


今までに鍾馗さんの絵は福田豊四郎、伝横山大観、寺崎廣業などを手にしましたが、なかなか面白いですね。愛嬌のあるお顔が厄除け・・・。

寺崎廣業や福田豊四郎(後日、縁があれば・・)の鐘馗様の作品は真作と判断していますが、当然ながら横山大観は贋作と判断しています。出来がいいのと落款・印章まで近似していていますので、欲にかられて購入したのですが、「絵の具が安っぽい」のと「筆遣いが荒っぽい」ことをで贋作と判断しています。鐘馗様の作品としては面白い

横山大観の作品は「大観記念館の鑑定番号」が軸の裏面付近にあって、それが登録されていないと真作とは認められません。鑑定のない作品は基本的には贋作扱いとなります。

本箱書から贈答に使われようになっていますが、作品は共箱ではありません。

       


寺崎廣業は私の郷里の秋田県出身の画家です。贋作も多く、落款の字体もいろいろと変化しており、判定の難しい画家の一人といえるでしょうが、私は本作品については真作と判断しています。

    


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鐘馗:中国で広く信仰された厄除けの神。
唐の玄宗皇帝が病床に伏せっていたとき、夢のなかに小さな鬼の虚耗(きょこう)が現れた。玄宗が兵士をよんで追い払おうとすると、突然大きな鬼が現れて、その小鬼を退治した。そしてその大きな鬼は、「自分は鍾馗といって役人の採用試験に落弟して自殺した者だが、もし自分を手厚く葬ってくれるならば、天下の害悪を除いてやろう」といった。目が覚めるとすっかり病気が治っていたので、玄宗は画士に命じて鍾馗の姿を描かせ、以来、鍾馗の図を門にはり出して邪鬼悪病除けにするようになったという。
初めは年の暮れの習俗であったが、のちに5月5日に移り、図柄としては鍾馗が刀を振るってコウモリ(蝙蝠)を打ち落としているものが好まれた。これは蝠の字が福に通じることから、これによって福を得たいという気持ちを表現したものである。この鍾馗の信仰は、日本にも伝わって室町時代ごろから行われ、端午の節供を通してなじみが深い。

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寺崎廣業:1866年〜1919年。日本画家。秋田生まれ。幼名忠太郎。秋田藩家老で七百石取りの家に生まれ、父が維新後、資産を蕩尽し、氷の行商まで経験している。
小室秀俊、平福穂庵に学び、のちに上京。絵画叢誌に古画の縮図や口絵を描き、山田敬中、邨田丹陵らと研究会をもちながら苦学。波瀾に富んだ修業生活を送りながらも、血筋のせいか豪快な性格は失なわず、ついに明治画壇のトップに立っている。
1897年(明治30)東京美術学校助教授となるが、翌年の美術学校騒動で岡倉天心らとともに辞職し、日本美術院の創設に参加。1901年(明治34)には、美術院正員のまま美術学校に復職し、教授となった。07年の第1回文展から第7回展まで審査員を務め、17年(大正6)帝室技芸員となった。代表作は『秋苑』『大仏開眼』『高山清秋』など。門下に野田九浦、中村岳陵、町田曲江らがある。大正8(1919)年、のどの癌が原因にて53歳で世を去った。

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寺崎廣業の「鐘馗様」の作品は大枚を出して改装し、家内の実家の床の間に飾っておいたら息子が誕生しました。

信じない方がおられるでしょうが、「骨董品を大切にしていると宝くじがあったようなことが起きる。」そういうことがときおりあるのです。

なになに本作品が欲しいという方がいる??? それではご利益はないでしょうね。前述の玄関に飾った「鐘馗様」もご利益がなかったのではないかと心配しています。

お願いされて人に骨董を差し上げることは何度かありましたが、後味があまりよくないので今はしないことにしました。自分で一番欲しいものを人様に差し上げなくてはならないのですが、それは蒐集している人には無理です。この程度でいいだろうという作品はやはり中途半端なものになり、失礼であったと後悔しることしきりです。

また一緒に骨董を購入するときに他人とはいかないことにしています。骨董市に連れてほしいという方がいますが、いいものはこちらも欲しいので、どちらかがいいものを見つけるとどちらかが地団駄を踏むことになります。骨董を買うときに一緒に行くのは家内だけと決めています。



忘れ去られた画家 蘆間笛吹図 東東洋筆 その1

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大学を卒業後、研修を終えて小生の最初の赴任地が仙台でした。その後各地方に赴任し7度の引越しを経て、再び仙台に戻ってきました。通算で15年ほど生活したのが仙台です。その仙台で「仙台四大画家」と称される画家がいるののを知ったのは、つい最近のことです。仙台にある県立博物館は何度か訪れていましたが、まったく興味がありませんでした。骨董を趣味とし、菅井梅関や菊田伊洲の作品を入手してから調べるようになりました。

菅井梅関、菊田伊洲、東東洋、小池曲江の4人を仙台四大画家と称しますが、南画、狩野派、四条派、南蘋派など各々ジャンルが異なることも四大画家として彼らが呼称される所以といわれています。彼らを四大画家と命名したのは仙台に在住した裁判官で、南画家として知られる川村雨谷です。そういえば、小生が最初に新入社員で応援に赴任した現場が裁判所でしたし、骨董市で購入した最初の南画が川村雨谷でした。川村雨谷の作品はどうしただったろうか??

仙台四大画家の一人である東東洋の作品はなかなか入手できませんでしたが、このたび縁があって入手できました。ただ、表具がボロボロで改装が必要です。

不思議と東東洋の作品はボロボロの状態が多い気がします。それだけ近年興味を失われて、評価の低い画家かもしれません。菅井梅関もまた表具の良いものは少ないようです。今は彼らは「忘れ去られた画家」・・・。

仙台に長く勤務していたこともあり食指が動いたのですが、仙台在住の方でも「仙台四大画家」を知っている人は数少ないと思います。本ブログを読まれている方でもご存知の方は少ないのではないでしょうか?

され小生の蒐集の四大画家の残りは小池曲江の作品ですが・・・。

蘆間笛吹図 東東洋筆
絹本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2000*横466 画サイズ:縦1138*横362



これと同じ題材で、似た構図の作品が仙台市博物館所蔵にあります。その作品は「仙台市博物館所蔵資料図録 NO7(仙台四大画家 作品NO27 絹本淡彩 画サイズ:縦1098*横423)」に掲載されています。掲載されている作品は天保期の晩年の作品と推察され、笛を吹く子どもは後姿が描かれています。



本作品は春めいた色使いですが、掲載作品は秋の作品でしょうか? 本作品の印章は「東洋之印」の白文朱方印で、この印章は法眼に叙された頃(寛政7年 1795年 41歳)にも使われています。両作品は描いた時期に違いがあるようです。



「仙台四大画家」と言われる東東洋(あずま とうよう・1755〜1839)・小池曲江(きょっこう・1758〜1847)・菅井梅関(1784〜1844)・菊田伊洲(1791〜1852)の4人の画家)の一人。東東洋と菅井梅関とは親交が深く、菅井梅関は京都に滞在中は、郷里の先輩画家・東東洋のもとに身を寄せ、古画の鑑賞と模写に明け暮れました。

菅井梅関は東東洋をかなり頼りにしていたようです。東東洋が亡くなるとまもなく、金銭に苦労してい菅井梅関は落胆も深く、自らの命を絶っています。








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東 東洋(あずま とうよう):宝暦5年(1755年)〜天保10年11月23日(1839年12月28日))。江戸時代中期から後期の絵師。幼名は俊太郎、のち儀蔵。姓・氏は東、名・通称は洋。よって本来は単に「東洋」とするべきだが、一般的な表記である「東東洋」を採用している。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。

仙台藩御用絵師を勤めた近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。東洋自身は、自作に「東洋」とだけ署名しており、「東東洋」と記した例は知られていない。東洋が生きていた時代に刊行された『平安人物誌』での表記法から、本姓・氏が「東」で、名・通称が「洋」だと分かる。こうした表記法は、江戸時代後期の文人にしばしば見られる、中国風に二字の姓名の名乗ったのと同じ趣向とも考えられる。なお、「東東洋」と呼ばれたのは存外に早く、画を好み東洋とも交流のあった仙台藩の儒者・桜田澹斎の著作に既に見受けられる。

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補足
生い立ち:現在の登米市石越町で、岩渕元方の長男として生まれる。ただし、東洋が5,6歳の時、一家は近隣の金成(現在の栗原市金成町)に移住した。父・元方の数点の絵画作品が確認されている。14,15歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑(1728-1807年)から本格的に絵を学ぶ。(梅笑:江戸幕府の表絵師深川水場町狩野家の三代目当主。宝歴13年(1763年)から寛政5年(1793年)の30年間一族から義絶され、越後や奥州を遊歴)東洋18歳の時、梅笑の婿となり江戸へ出る。姓の「東」は梅笑の姓を継いだものであり、最初の号玉河(玉峨)も梅笑の別号「玉元」から「玉」の一字から取っている。

上京と各地遊歴:19,20歳の頃、今度は京に上り、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受ける。以後半世紀、京都を中心に活動する。20代の東洋は、中国の古画を模写のより古典を学び東洋の姿勢が伺える。20代の終わりから30代初めにかけて、東洋は長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされる。しかし、同時に南蘋派も学んだ。

円山応挙の影響:円山応挙の活躍が目覚ましく、各地を遊歴して帰洛した頃には、東洋は狩野派を離れ、東洋もその影響を受けていく。寛政7年(1795年)東洋41歳の作「花鳥図」(個人蔵)における枝の書き方には、応挙が創始した付立技法が顕著に現れている。また、この作品は年期のある作品では初めて「法眼」落款を伴っており、この少し前に東洋は法眼位を得たと推測できる。これは東洋と親交のあった妙法院真仁法親王の助力があったと考えられる。真仁法親王の周りには、応挙や呉春といった絵師だけでなく、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らが出入りしており、東洋もその中に混じりしばしば合作もしている。

仙台藩御用絵師:こうした活躍が認められ、東洋は仙台藩の絵画制作に携わるようになっていく。寛政8年(1796年)正月、東洋42歳の時、藩の番外士として画工を命じられた。翌月には藩主・伊達斉村に召され、以後しばしば斉村の前で席画をしている。江戸屋敷の屛風や衝立を多数手がけた記録が残る。文政8年(1825年)71歳で仙台に帰郷。仙台藩の御用を勤める一方、藩の重臣の肖像画を制作している。天保10年(1839年)11月23日死去。享年85。墓は、若林区荒町にある昌傳庵。
周囲:長男・東東寅、次男・東東莱も絵師。弟子に村田俊、伊藤東駿など。画風は、全体に角がなく丸みを帯び、親しみやすい。別号に白鹿洞とあるように、鹿の絵が多い。また、東洋は農村の風景を好んで描いているが、これは東洋が高く評価していた江戸時代前期の絵師・久隅守景の影響だと考えられる。

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郷土出身の画家の作品は郷土にゆかりの人々が大切にしなくてはいけません。いま失われつつあるもの、郷土に対する愛着かもしれません。サッカーや野球もいいかもしれませんが・・、両方のスタジアム建設に携わりましたが、もっと大切なものが郷土にはあるように思われます。

ついでながら・・、TPP参加も止む得ないかもしれませんが、基本的に郷土愛を忘れた都会暮らしの政治家の今までの、愚策、横暴という側面があることを忘れてはいけません。

ぼろぼろになった表具の本作品・・、なにか象徴的ですね。お金を貯めてせめて改装してあげようかと思います。

菅公図 平福百穂筆 その10

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十和田湖周辺にキリストのお墓やピラミッドのある?ことをご存知でしょうか? 家内と初めて十和田湖をドライブした時に「このあたりにキリストのお墓があるわよね?」だと・・

家内はマニアックなことを知っていてびっくりすることがあります。地元出身である私もそのときに知ったのですが、キリスト教の墓やピラミッドが十和田湖周辺にあるとでっち上げた?張本人のひとりが本作品を鑑定している鳥谷幡山とのことです。


ときおり兎も角いろんなことがいろんなようにつながっているということが、骨董を趣味としていることで。人物の資料を紐解くと解ってきます。


菅公図 平福百穂筆 その10(真作整理番号)
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 鳥谷幡山鑑定箱
全体サイズ:横325*縦1570 画サイズ:横225*横705



箱書きには「菅公図」と署され、裏には「昭和戊寅秋□ 幡山道人恭題 押印」とあり、鳥谷幡山の昭和13年(1938年)の鑑定です。なお平福百穂は昭和10年に亡くなっています。

鳥谷幡山の鑑定は意外と?まともです。意外ということは、中には「鳥谷幡山」の鑑定そのものが贋作、もしくは鑑定に間違いがあるということを含んでいます。100%信用してはいけませんね。橋本雅邦、寺崎廣業、平福穂庵、平福百穂など鑑定する対象画家は何人もいます。

  

印章や正式な印章でないのは即興で描かれたことや神格化された菅原道真に対する敬意の為と考えられます。画家が貴き対象(神仏や身分の高い人物など)を描くときにはよくあることです。

平福百穂はマークのように書いている印章を時折使います。手書きの印章だから贋作と判断するのは早計、というより大きな間違いです。

「菅公」というのは説明するまでもなく「菅原道真公」のことです。



本作品を平福百穂の真作と認めるのは私だけではないように思います。

百穂の人物画は「田沢湖伝説」、「高麗献馬」、「豫譲」、「王詳」、「聖徳太子」、「法然上人」、「堅田の一休」などほとんどすべてが歴史上の人物となっています。

対象に迫ってものの本質を捉えようとすることは、人物画においてもその姿勢は変わらず、本作品は「菅原道真」というより天神様としての神格化された「菅公」の表情を描こうとしてるようにうかがえますね。

鳥谷幡山は日本画家としてのほかに十和田湖を観光地として盛り上げた人物として著名ですが、その中にはピラミッドやキリストのお墓というのまであります

キリスト様のお墓をでっち上げた?人物が天神様の作品の鑑定???  そういう観点から作品を観るのも面白い


鳥谷幡山:(とや-ばんざん) 1876−1966。明治-昭和時代の日本画家。明治9年1月18日生まれ。寺崎広業,橋本雅邦にまなぶ。明治35年美術研精会の創立に加わり,のち独立絵画会主幹をつとめる。十和田湖を好んで描いた。昭和41年2月20日死去。90歳。青森県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「十和田湖大観」など。

獣双耳三田青磁花瓶

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なぜ三田青磁?? と思う人が多いかと思います。そもそも青磁という作品群は非常に製作地、時期の特定が難しい分野です。
こればかりは、素人には無理でしょうね。形、釉薬の具合、色、土の具合などで判別するのでしょうが・・。

そのなかで意外と簡単なのが、三田青磁かもしれません。検証の方法は下記に記しましたが、ともかく現物を手元に入手することです。そうでないといくら文章で説明しても理解できるものではありません。

骨董も仕事も同じこと・・、「見て聞いて実践して失敗して覚える」。同じ失敗は一度は許されるが二度目は絶対に許されない。

獣双耳三田青磁花瓶
口径102*胴径125*最大幅140*高台径94*高さ308



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三田焼:兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりであります。

惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。1801年(享和元)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。1810年(文化七)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期でありました。しかし1827年(文政一〇)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同一二)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に傾いました。





天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政{1854-六〇}頃には田中利右衛門がこれを継いだが業績振わず、明治に三田陶器会社が設立され、1889年(明治二二)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。虎山の没後、有志が相寄って一窯焼いたのを最後に昭和8年に三田窯の煙はまったく絶えました。青磁の上がりは天竜寺手調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれた。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています

三田焼の特徴である型物は京焼の陶工欽古堂亀祐(1765−1873)によってもたらされた技術によるところが大きい。「欽古作之 文化三玄夏」(1806)などの土型が伝わっている。欽古堂亀祐は京の名工奥田頴川の弟子であり、頴川門下として他に青木木米(1768−1833)、仁阿弥道八(1783−1855)、永楽保全(1795−1854)などが知られている。亀祐は道八、木米とともに頴川門下の三羽ガラスといわれ、互いにその腕を競っていた。

寛政12年(1800)に神田惣兵衛は頴川のもとを訪れ、三田青磁焼成のため、しかるべき陶工を紹介してほしいと依頼したところ、選ばれたのが亀祐であった。一説によると木米の青磁焼成技術があまりにも「唐物写し」として名高く、木米の指導により三田青磁が唐物との区別がつかなくなることを憂えた頴川の判断によるともいわれる。そして翌寛政13年に今度は紀州藩から陶工派遣の依頼が頴川のもとに持ち込まれたときは木米が派遣されている。頴川にすれば木米の技量が三田青磁をつくりあげることで、木米の技術も固定化し、また技術力の増した三田青磁が中国産のものと紛れて流通した場合の責任を恐れたのかもしれぬ。当時粟田口で京の名工として名をはせていた頴川のもとにも三田青磁の評判は轟いていたにちがいない。

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三田青磁か否かの検証

三田青磁は複雑で、豊かな造形や色調に魅力があって、型物成形の製品が多く、全体の出土量の3分の1を土型が占めているそうです。土型を用いた成形は、ロクロでは作り出せない複雑かつ巧妙な形のものを一つの型から数多く生産出来る。緑青色をした美しい釉調の青磁は、中国明代の天竜寺手青磁に似ていると、人々から讃えられた。三田青磁の魅力はその色の深さもさることながら、土型成型による多様性にあると考えられている。




判別の仕方

1.釉肌:単一な色目になってない事が重要です。濃い部分や、薄い部分が微妙に入り混じって、見た目に不安定感が漂います。近代の作品は焼成技術が高いので、焼成が難しい青磁とは言え、ほぼ均質に焼けてしまいます。古い物は、逆に不均質に焼けます。高麗青磁などのような例です。濃いとこ、薄いとこ、釉溜まりに釉切れ、磁肌だけで、微妙な変化が見受けられます。この“不均質さ”にこそ、品物の奥行きが生まれます。青磁に限らず、この奥行きが味を醸成していることがいい作品の条件です。



2.釉薬の色目:青ではなく緑っポイ色。これが三田青磁の典型的な色目です。ルーペで見ますと、大小の泡が絡み合うように混在しています。この釉薬の中の気泡が、緑色に深みを与えます。



3.浮き模様:瀬戸製の三田青磁写し(時代はある)や、今出来の三田青磁はこの浮き模様がクッキリ見えませんが、三田青磁は模様が複雑で細かいにも関わらず、ハッキリ見えます。技術の高さは伺えます。



4.土味:写し物の三田青磁は、均一な色、ベタとした朱色っポイ土ですが、三田焼は朱色と白っポイ部分が交互に出ており、カリッカリに焼けてます。




*三田青磁の場合、時代的な古さより、三田青磁であるか否かが重要らしい?? 

さて陽刻のある作品はその彫りの美しさが三田青磁の魅力ですが、陽刻の少ない本作品の場合は釉薬の濃い部分や、薄い部分が微妙に入り混じって、見た目に不安定感が漂いますという、そこがひとつの魅力となります。それが魅力と感じないと本作品はつまらない作品に見えてしまうでしょうね。

青磁はその釉薬の発色の美しさ、その均一さを競ってきたように思います。その魅力は完璧な美人・・、でも私にはつまらない、というより相手にされない

青磁が大好きという御仁は多いのですが、本当の好き者はある程度の知識、理解を深めないと好きとは言えないのでしょう。人間と同じで外見だけではなくその氏素性、性格を理解しないと・・。

街頭遅日図 平福穂庵筆 その8

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わが郷里の秋田県を代表する画家、「平福穂庵と平福百穂の平福父子」の作品です。平福穂庵の作品に平福百穂が鑑定箱書きしている珍しい作品です。鑑定箱書きの真偽は別として・・・。

街頭遅日図 平福穂庵筆 その8(真作整理番号)
絖本水墨軸装 軸先象牙 平福百穂鑑定箱
全体サイズ:縦1240*横550 画サイズ:縦310*横460



秋田の角館からの入手です。箱書きには「先考穂庵先生真蹟街頭遅日図」とあり、箱の裏には「男 百穂貞謹題」とあります。平福穂庵の作品に子息である平福百穂が鑑定してる珍しい作品です。

  


街頭で亀を売る老人があくびでもしているのでしょう。遅日とは「日あしがのびて、暮れるのが遅いところから春の日」という意味です。



私の子供の頃には祭りの出店で亀が売っていました。欲しくてたまらなかったのですが、子どもに買える訳もなく、沼で捕まえてきたことがあります。

 

結局は池に放し飼いにするのですが、鯉や金魚の尻尾をかじるということになり、えらい怒られて川へどぼんと捨てられました。                              



そう、観賞用の池には亀は禁物です。



子どもの頃は田舎で育ちましたから、川や沼でいろんなものを捕まえては家にもってきました。バケツで飼っていることから始まり、裏の空き地のブロック塀の材料の中からセメントを持ち出し、自分で池を作ってまたまた大目玉・・。でも後日、オヤジが子ども専用の池を中庭に作ってくれました。そこに亀は入れませんでした・・。

平福父子のさらにその先代もまた画家です。平福文浪といいますが、京都に修行に行った息子の穂庵が遊びほうけているのが心配で、京都に行ったのはいいのですが、一緒になって遊んいたようです。なんともはや、秋田県人は酒のみが多い

寒山積雪 菅井梅関筆 その2

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寒山積雪 菅井梅関筆 その2(整理番号 三作品は「伝」で除く 基本的には整理番号は真作と断定できたものとする 本作品は真作と現状では判断しています。)
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱 高畑翆石鑑定書付
全体サイズ:縦1990*横410 画サイズ:縦1312*横265



印章は「梅関」の朱文白方印と「字正卿」の白文朱方印の累印が押印されています。この印章は「秋冬山水図(双幅) 倣江稼圃」(「仙台市博物館所蔵資料図録 NO7(仙台四大画家 作品NO63 紙本淡彩 画サイズ:縦1308*横370 伊澤家コレクション)」と同様のようです。落款もこの作品の頃と同じ書体です。秋冬山水図(双幅) 倣江稼圃」が文政10年と年代が明らかであり、同じ頃の作品と思われます。

菅井梅関は名は岳・智義、字を岳輔・正卿、号ははじめ東斎としましたが梅館・梅関に改めています。



遊印は「宮城郡人」。



昭和16年(1941年)2月の高畑翆石の鑑定書が同封されています。これは全くあてしないほうがいいでしょう。

 

高畑翆石:篆刻家。東京生。名は持隆。篆刻を山崎酔石・蘆野楠山に学び、書を近藤雪竹に学ぶ。書道奨励会を設立し、雑誌『筆之友』を発刊する。昭和32年(1957)歿、79才。



それほど書き込みの多い作品ではありませんが、好きな作品のひとつです。これからの季節に良いかもしれません。夏に冬の掛け軸を飾るのは良くあることです。夏の暑い時期に冬の掛け軸・・、ただ、雪の経験のない人には実感の湧かないかも?



なぜ菅井梅関に贋作が多いのかというと釧雲泉と並び称せられるほど評価が高かったためと推察されます。明治期の骨董ブーム?に南画が人気があり、高値で取引されてことに起因します。

本ブログでは五作品目の投稿ですが、本作品も調べていくうちに「伝」(贋作)となる可能性はあるかもしれません。ブログの作品を削除したり。「伝」と追記したりが続いていますが、これによって蒐集作品が洗練されていくものと思います。



仙台の四大画家と称されていますが、今ではご存知の方が非常に少ない画家たちです。仙台の四大画家?? はご存知ですよね?



蒐集する人が少なくなり、南画そのものの評価は非常にふくものですが、南画の飄々たる気概は味わい深いものがあります。蒐集するには不人気は好都合ですが、残念ながら南画の真贋は思いのほか厄介です。それなりに画力のある画家が描いているし、それほどの技量がなくても、うまく見える

小生の蒐集も打率は非常に低いですが、少しずつ真作を・・・、根気が続くか、諦めが先になるか

ところで菅井梅関が天保8年(1837年)、上州、信越地方に遊歴し、金井烏洲と交遊があったとのこと、これは私としては新しい情報です。

葡萄図-12 天龍道人筆 その20

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表具を改装しようと思っている掛け軸を入れてある眺めの段ボール箱が小生の狭い書斎に大きなスペースをとっています。その段ボールも3個目

痛んだ掛け軸は意外と廉価なこともあり、またいい作品がそうなっていることにたまらなくなり、ついつい購入していると改装費用の都合がつかなくなり、ついつい改装の必要な掛け軸がたくさんたまっています。

その中で一番多いのが「天龍道人」の作品です。

葡萄図-12 天龍道人筆 その20
紙本水墨軸装 軸先木製
全体サイズ:縦1208*横495 画サイズ:縦1960*横605



製作時期そのままの表具が多いですが、改装されて残っているものの多くあります。



以外と贋作が少ない画家のようです。かなりの数の作品が市場のまだあるようですが、ネットオークションに出品される数は意外と少ないようです。



印章は一応確認してからの購入が無難でしょう。葡萄の作品にはそれほど多くの印章の種類はありません。長崎派の頃の作品の印章は資料が不足してるようです。

本作品は印章のみです。屏風や襖に描かれた作品か、双幅で描かれた作品と推察できます。



長崎派の作品鷹図山水画がありますが、とうぜん天龍道人は葡萄図ですね


さて、山となったこのガラクタ・・、ふ〜




暑いときほど・・

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まだ梅雨入りしたばかりでの暑い日々・・、最近冬の冬の掛け軸を夏に飾ることがあると説明しましたが、家内の実家もその作戦・・。

冬景水墨山水図 伝橋本雅邦筆絹本水墨淡軸装 軸先象牙 前田黙鳳極箱 
全体サイズ:横555*縦1998 画サイズ:横420*縦1138



じーっと見ていると冬山登山を思い出す。



はたまた田舎の風景か・・。



参考までに箱書きら・・。以前に投稿していますが・・。

  

床の間に飾る時は仕舞もきちんとしたものが良い。



実際に床の間からはこのような掛け軸はこのように見える??



寒い中を歩く姿・・、いいですね。ちょっとした色使いがアクセントになっています。



木々の緑もまたアクセント・・。



描き方は妙技ともいえますね。



飾れるのも息子がいたずらしないうち・・。真贋?? 野暮なことは言いっこなし。



飾り皿はこれも涼しげに・・。



「仙郷図?」・・、この手の皿は中央部部の図柄の出来如何がポイント。



この手の皿はなんでも鑑定団にも出品されています。数はたくさんあります。



飾り棚には呉須赤絵。



ついでに偕楽園焼。



壊されても盗まれてのいい程度の作品???



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