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冬景獨釣図 菅井梅関筆 その4

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昨夜は赤坂、今夜は再び大宮・・、長男を風呂に入れている時間が無い・・・。

さて本日は久しぶりに南画の世界。

釧雲泉、桑山玉洲、そして菅井梅関・・・、贋作多い南画家の作品はまるで迷路のようです。菅井梅関の作品もなんだかんだと四作品目となりました。

冬景獨釣図 菅井梅関筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2230*横692 画サイズ:縦1340*横555




魑魅魍魎たる南画の世界、江戸期から第2次世界大戦後までの贋作横行の時代、まさしく贋作は貧しさの象徴のようです。



作品の題名は仮題です。



郷里を思い起こさせる雰囲気があります。



木々の描き方がうまいですね。





印章は「菅井之印」の朱文白方印と「梅関之印」の白文朱方印の累印が押印されています。

 

作品をどこまで愉しめるか、そこがキーポイントですね。

青磁菊文稜花盤

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会社のマネジメントの是非の指標が「利益」だと私は思っています。この解りきったことをわかっている人が意外に少ない。

営業力、技術力、しいては社員のコミュニケーションの是非が「利益」という指標となって表れてくるべきものです。現場、営業所、支店、そして会社とトップを経験してくるとこの辺のことが身をもって知ることとなりました。たとえば営業の成績が利益向上に貢献しないと何かがおかしいのです。

利益至上主義ではありませんが、「利益」が向上しないのはマネジメントに大きな問題があるということでもあります。経営トップはこのことを忘れてはなりません。

「利益」が出ないのはトップのマネジメントの方向性が悪いから、「利益」が出たのは社員個々の貢献が大だからという姿勢を忘れないことです。今期も新しい期が始まりました。新たな挑戦の第一歩です。

その点骨董はすべてが個々の感性の問題、利益なんざ関係ない

本日は青磁の作品です。青磁の作品はその時代を特定するのが難しいらしいです。本作品は出来が良いので購入しましたが、時代はそれほど古くはないように思います。おそらく清朝??

青磁菊文稜花盤
合箱
口径262*高台径140*高さ40



製作年代、生産地は不明ですが、上りがいい青磁の中皿です。



古いものの模倣品には陽刻が複雑なわりに釉薬が厚く掛けられ、紋様がはっきりしないものが多いのですが、本作品は釉薬と陽刻のバランスがいいです。



菊の紋様が浮き出るように現れています。



形もシャープでお茶席も菓子皿にも使えそうです。



ありそうでないのが、出来の良い青磁の作品です。

瀬戸花紋石皿 江戸期  その5

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広告関連の会社の女性たちが訪ねてきて、長男誕生の御祝いを頂きました。義理堅いものでものです。

一昨日にそのお祝いを雀荘に忘れて、大慌てで昨夜とりに行ってきました

会食続きで、ようやく今週はまともな時間に帰宅しました。

本日はこれでとおそらく五作品目となる瀬戸の石皿の作品です。コレクションというよりは普段使いでしょう。

瀬戸花紋石皿 江戸期
合箱
口径162*高台径65*高さ33



呉須と鉄で絵付けされていて、作りは皿の縁取りが広く取ってあること、高台が厚めに低めに作ってあることで頑丈なつくりになっています。白い釉薬がたっぷり掛けられているのが実に良い。




大量に作られたが故に、そこに描かれた絵や文字は、手慣れた筆裁きによる無意識の美を貴重とし、大津絵と似たところがあります。






瀬戸の(煮〆)皿として、石皿、馬の目皿、そして絵皿があり、さらには行燈ように使われた行燈皿があります。行燈皿は私の所蔵にはまだありません。行燈皿の絵付けのものは非常に高価になっています。


代表的な作品が本作品のような石皿です。なんともよい味わいを醸し出しています。いくつか揃えると面白いと思い、数点購入しました。皆様もいかがですか? 保存はブログには合箱となっていますが、保存箱を作る必要はなくガンガン使いましょう。



柳下漁図 紀楳亭筆 その2

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帰宅すると子供の相手が面白くて、ブログの資料作製が疎かになるこの頃です。ま〜、のんびりとですね。

本日は「のんびりと」をテーマにしたような紀楳亭の作品です。

紀楳亭の作品はユーモラスで、メルヘンチックで心和むものがあります。もっと評価されてしかるべき画家の一人であると思っています。

柳下漁図 紀楳亭筆 その2
絹本水墨淡彩 軸先 合箱
全体サイズ:縦2110*横560 画サイズ:縦1130*横425



落款は「九老山樵?写 押印」とあり印章は「時敏」と「楳亭」の白文朱押印の累印が押印されています。



この落款は「滝山水家図」(大津歴史博物館所蔵)にも同じ落款が用いられています。この作品が寛政年間(18世紀末)、紀楳亭が大津に移り住んだ時期の制作と考えられることから、本区品が描かれた時期は同時期とも推察されますが、落款には少し違いがあり、まったく同時期とはいえないようです。

真贋は解らぬもののまたまた衝動買い・・、これが意外と愉しい。




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紀楳亭:名は時敏、字(あざな)は子恵といい、巌郁(がんいく)、楳亭とも号し、のちに九老と号した。与謝蕪村(1716〜83)に師事して、画と俳諧をまなんだ。楳亭は蕪村の画風の忠実な継承者であったので、近江蕪村とよばれた。



1788年(天明8)の京都の大火にみまわれ大津に身を寄せ、27年間とどまり、俳画、大津絵写、美人画、道釈人物画、山水画と多様な画題の作品を制作した。大津時代の楳亭の署名は「湖南九老」を冠してもちいた。



楳亭は1810年(文化7)7月7日、77歳でその生涯を閉じた。



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いったいこの人物の描き方は??



遠近感・・・、まるデイズニーランドに来たかのような錯覚に陥ります。

和歌 冷泉為則

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昨日の土曜日は長男と一緒に爆睡・・・。

家内が茶道を習っているのですが、小生はいたって不調法であり、とくだん茶道のために骨董収集している訳でもないので、作品に茶道で使用するお道具の中で、当方の所蔵が一個もないものがあります。たとえば茶杓、茶掛けの類です。

和歌 冷泉為則
紙本水墨軸装 軸先塗 太巻合箱
全体サイズ:縦1412*横360 本紙サイズ:縦200*横176




そこで思い切って茶掛けになりそうなものと思い、本作品を購入したのですが、なにを書いてあるのやら???


歌 歌は「手枕の 閨のあられは □のみち たたしめ□も くだけてぞちる」? 詳細は不明・・

さらにお冷泉為則の歌でどなたが書いたのかな? 本人??

表具、太巻、箱も立派・・。

はてさてこれだけはさっぱり和歌りません、もとい解りません。やっぱり門外漢・・・


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冷泉為則 (れいぜい-ためのり) :1777−1848 江戸時代後期の公卿(くぎょう),歌人。

安永6年10月27日生まれ。冷泉為章(ためふみ)の子。上冷泉家第18代。寛政10年従三位。のち正二位,権(ごんの)大納言兼民部卿。嘉永(かえい)元年7月23日死去。72歳。家集に「冷泉為則詠」など。

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月下舟遊扇面図 平福穂庵筆

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長男は夜中は一度だけ起きるのみであとは熟睡・・、日中も泣いたり、ぐずることも少なく、ご機嫌でにこにこしています。
長男を乳母車に乗せて町に出ると「可愛いですね」とお世辞で声を掛けてくる人がおられますが、「お孫さんですか?」とお世辞で??聞かれる

本日の作品は箱もなく、軸だけで売られていた作品です。扇面の表具はよくできています。扇面を表具するのは結構たいへんなようです。

月下舟遊扇面図 平福穂庵筆
紙本水墨扇面軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1200*横580 画サイズ:縦240*横510*扇面高さ140

 

賛には「白露□江水光桜 穂庵 印」とあります。平福穂庵は天才肌の絵師と思います。在郷時代以降は特定の師にはつかず、京都で独学した画家です。



弟子には寺崎廣業倉田松涛、子息には平福百穂というように本ブログでおなじみに画家がおります。




郷里の秋田県角館には平福父子の作品を中心とした平福記念美術館があります。


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平福穂庵:弘化元年生まれ、明治23年没(1844年〜1890年)。秋田県角館出身。名は芸、俗称順蔵。当初は文池と号し、後に穂庵と改めた。画を武村文海に学び、筆力敏捷にして、ついに一格の妙趣をなし、動物画に長ず。百穂はその子。「乳虎図」(河原家蔵)は代表作。17歳で京都に上り修業、元治元年に帰る。明治23年秋田勧業博覧会で「乞食図」が一等。明治19年に東京に出て、各種展覧会に出品、大活躍する。系統は四条派で、門下に寺崎廣業ほか10人以上に及ぶ。


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補足説明

中央画壇で確固たる地位を築き、名実共に日本画壇の先端にいた画家が、平福穂庵でしょう。父文浪より絵画の基礎を習い、その後も自らの子を画家に送り届けています。繊細でありながら、独特の色彩使い、そして力強くも淡めのタッチが彼の心の穏やかさと、才能を感じさせるポイントではないでしょうか。

1844年に仙北市に生まれた平福穂庵は、幼い頃より、絵画に興味を持ち続けます。父に教えを乞うこととなり、その才能を幼少期という頃より身に着けていきました。1851年には、竹村文海に師事をしており、より研鑽を積んで行くこととなります。1861年になると、京都を遊学します。ここで、多くの京画壇の作品に触れることとなり、後の大きな影響を受けていきます。ちなみに、この頃より穂庵の号を名乗り活動を始めています。

様々な絵画方法などを模索していた平福穂庵でしたが、北海道のアイヌ地方の人々の生活に魅せられ、1872年よりアイヌの人々の生活を描き続けて行くこととなります。そして、8年後には、第3回飽きた勧業博覧会にて「乞食図」を出品することとなります。この、乞食図が何と一等賞を受賞することとなり、平福穂庵は一気に美術界に広まることとなります。この頃より、様々な画風にまた挑戦しますが、伝統的で繊細な画風だけは守り、平福穂庵だけの持つ世界観を表現するようになっていきました。

1884年に、パリで開催され開催された龍池会主催第2回に本美術縦覧会においては、「鷲」を出品し、高い評価を受けます。そして、その6年後の第3回内国勧業博覧会では、「乳虎」が妙技2等賞を受賞。その類い稀なる技に美術界が驚きます。モチーフへの核に迫ることとなる、緊迫した写実表現と、新たな日本画の表現で、多くの人々を魅了し続けていったのです。日本画が持つ文化を美しい心で描き続け、日本画に新しい息吹を吹き込んだ平福穂庵。心の底にある、類を見ない芸術への情熱が、彼の感性を研ぎすまし続けたのでしょう。

乳虎」明治23(1890)年 平福穂庵最晩年の代表作について

日比谷公園で展示されていた虎を一週間通い詰めて描いた入念な写生図をもとに、明治22(1889)年に病気のため帰郷した角館で構想を練り、制作されたものです。円山四条派の流れをくむ写生体で、模索の末に打ち立てた独自の画風の円熟をみることができます。精緻な筆遣いで描かれた表情や金泥(きんでい)を施した毛並みの柔らかい質感など、細部まで余すことなく描き込まれた本作品は、鋭い観察と磨かれた画技に支えられ、平福穂庵の精神性までもが表現された、格調高い作品です。秋田県指定有形文化財(絵画)

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さて、本作品は真作と思います。最近の掛け軸は贋作も真作もともかく安値で売られています。好きで集めるのは面白いのですが、決していい儲けにはなりません。

贋作考 備前 跳馬 伝金重陶陽造 その5

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秋田市中通の県立美術館の新館長に、県工芸家協会会長の陶芸家平野庫太郎(くらたろう)氏(68)=同市=が就任した。」とのこと・・、平野庫太郎氏は本ブログの何度も登場してる方です。んん〜、5月の連休に早速アポイント。

家内が久しぶりに帰宅し、この作品を観てびっくり・・、「ブロンズ?、えっ、備前!」「えっ、金重陶陽??」
そう、金重陶陽である必要は全くないのですが、よくできています。

出来心で購入した「金重陶陽の作品??」。他の金重陶陽の所蔵作品はひとつをのぞき真作と判断していますが、金重陶陽も贋作の多い陶工の一人です。

備前 跳馬 金重陶陽造 その5
桂又三郎鑑定箱 
幅150*奥行320*高さ235



金重陶陽が若い頃には細工物をよく製作したていたようです。この頃を「第1期」と分類するようです。

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第1期:細工物の名手(明治43年〜昭和5,6年頃まで)

主に細工物を制作した時期。細工物を作る陶工は「でこ師」と呼ばれ、陶陽も22,3歳の頃すでに伊部を代表する「でこ師」のひとりとなった。明治29(1896)年、和気郡伊部村(現備前市伊部)で生まれているので、「土、」(39歳〜45歳まで使用)の刻印が使用されたのは1935年以降であり、昭和10年(1935年)以降となる。細工物をまだ作っていたかどうかが、真贋の鑑定のポイントとなる。「土、」の刻印の細工物の作品は鶏の香合にも見られるように存在していますので、あり得ないことではあります。

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「土」の刻印から昭和10年以降に製作したものと思われますが、真贋の判断には慎重を要します。細工物に「土」の刻印のある作品はたくさんあるようです。



さて本作品を真作だっだ場合の口上(売り込み時の説明)・・。

「本作品は金重陶陽が若い頃によく製作した細工物のひとつで昭和10年以降に製作したものと思われます。造形、表情、焼成そのどれを取っても素晴らしく、その圧倒的なまでの存在感にただただ陶酔するのみであります。その精悍な顔付きを見れば、目はまるで生きているかのような生命力を放ち、そして胴体は全身の筋肉が波打つような躍動感に満ち溢れ、今にも動き出しそうな程の完璧な造形美を誇っています。



水簸した土を用いたキメ細かな土肌は、じっくりと焼成されまるでブロンズのようであり、隆々とした筋肉の動きがより際立った勇壮な馬に仕上がっていますが、陶陽先生らしい細部の丁寧な処理により、他と一線を画す優美さと気品をも兼ね備えています。このように精緻な細工でありながらも窯疵一つ無い完璧な状態で存在しており、正に奇跡の逸品と言っても過言では無く、後世に残る陶陽先生の名品である。」




なんともは、立派な一物、もとい馬並みの口上・・、いや立派な口上・・・

箱は桂又三郎鑑定箱・・・・・・・????



箱書は本作品では真贋にはまったく関係ありません。「桂又三郎」の箱書は偽物が多く、箱書きはないほうがいいですね。

さて刻印を他の真作と比較してみました。



よく出来てるな〜。



茶入の刻印との比較。



写真では「違う」ように見えますが、これが写真の限界ですが、非常に似ています。他の「蓮葉盆」と比べても非常に似ています。贋作なら最初から贋作狙いのかなり悪質な作品となります。

さて読まれている皆さんは本作品が真作と思われるか?

本作品の真贋や如何? 真贋は奥が深いね〜。


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金重陶陽:昭和42年没、享年71歳。人間国宝、岡山県出身。備前中興の祖、日本工芸会理事。細工物に長じ、雅味豊な茶陶をものにし、皿の重ね焼きで緋襷をとることにも成功した。しかし、陶陽の最も評価されるべき点は作陶姿勢であり、先祖と土に対する感謝の念、古備前を復興し、備前焼を再興し育て、後世に伝えるという責任感そのものであった。そして、その作陶姿勢を貫き通し、やり遂げたことが後世の人々に「備前の巨星」、「再興の祖」と称えられる真の理由である。

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真贋は要は所有者の気持ちの持ちようでしょうが、贋作を真作と思って所有していると所有者の品格を問われるのは確かです。
贋作を贋作と解って鑑賞することは私は構わないと思っています。

歌仙図 藤原仲実

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昨日のなんでも鑑定団の最後の出品作は、我が郷里の秋田県大館市からの「福田豊四郎」の作品でした。ものの見事な贋作でしたね。所有者はよく知らなかったと思いますが、あの落款と印章はまずいですね。滅多に贋作はないのですが、ときおりあるとは聞いていましたが・・。

福田豊四郎氏は父の友人で、父の死後も母と交流があったようです。インターネットオークションでは入手できない画家の一人です。本ブログでも差し障りのない範囲で投稿していますが、随時非公開になろうかと思います。

普段使いの器のブログを見ていた家内が、実家から帰宅すると「普段使いの器があったわよね?」だと
早速、親戚の家で採れた大量のタケノコの料理の器に使われてしまいました。瀬戸の石皿はすべて普段使いに 次から次へと食器棚にしまわれてしまいました。



さて本日の作品もまた小生の及ばぬ範囲の作品です。なにやら書いてあるらしい??

歌仙図 藤原仲実
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1210*横415 画サイズ:縦310*横225



「藤原 仲実」の像と歌が書かれているのかな??



これこそさっぱり解りません。古そうな作品ですが、江戸期かな?



絵もうまいのか、へたなのか??



表具などの雰囲気が良いので購入。こういうのは好きか嫌いかだけ・・・。




藤原 仲実(ふじわら の なかざね):康平7年(1064年)〜保安2年12月23日(1122年2月1日))。平安時代後期の公卿。大納言藤原実季の三男。桟敷または高松を号す。官位は正二位・権大納言。承保3年(1076年)侍従、承暦2年(1078年)従五位上兼丹後守、永保元年(1081年)従四位下、備中守(これ以前に少将)・右中将、同4年(1084年)正四位下、寛治5年(1091年)兼中宮権亮・蔵人頭、同6年(1092年)参議、 同7年(1093年)左中将兼播磨権守、嘉保3年(1096年)従三位、永長2年(1097年)正三位、承徳2年(1098年)兼備中権守、康和4年(1102年)権中納言、同5年(1103年)正二位、永久3年(1115年)権大納言。白河法皇の院近臣として仕えた。保安2年(1121年)12月7日出家し、同月23日薨去する。享年58。

ピアノ 杉本健吉筆 その4

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最近NISAなどによって投資ブームが上昇中らしいですが、絶好のタイミングは去ったと私は思っています。投資するなら2年前であったのでしょう。ただ、その頃にドルなどの外貨やアメリカのリートなどに投資する決断をした人は少なかったと思います。ほとんどの投資信託は20%以上の利を出しましたが、今はとんとんで定期預金よりはましという状態です。

ただこれから相続税が増税になるなど不動産投資が増加するという背景はあります。各社の年金の運営など個人の責任による運用がますます問われますし、高齢化した人が金利では増えないので投資への意欲は上向くことや保険などの金融が株式や外債に流れる可能性はまだあります。

今まで貯蓄に頼っていた日本人がどれだけ投資への疑心暗鬼を振り払えるか?? 先の見えないことが多いこの世の中は魑魅魍魎たるものです。骨董などはかわいいものですが、骨董も投資も余裕資金で行わないといけません。


さて本日の作品は杉本健吉です。ありそうでないのが杉本健吉の肉筆画です。あったとしても結構いい値段がします。そこで資金の少ない小生は掘り出し物を探すことになります

ピアノ 杉本健吉筆 その4
着色色紙3号 縦270*横230

実に和やかないい作品です。本当にこのようにしてピアノをいじくるのかどうかも私には解りませんが・・・。

額に入れて飾っていたのでしょう。やけた跡があります。


 
裏には「北海道漁直送団 杉本健吉」とあります。本紙右下には「‘70 ken」と記され、「健」の朱文白方印が押印されています。1970年は杉本健吉が47歳の作品と推察されます。

 

掘り出し物を探す時はひょんな時に作品が出てきますから、勘だけが頼りです。手元に資料を持ってきて、ああだこうだと検討している時間はありません。

かえって資料にこだわる人は真作を入手する確率は少ないと私は思っています。理屈が先に立ち、品物を買う決断力に乏しくなるからです。疑心悪鬼は蒐集には必要不可欠ですが阻害要因にもなります。

源内焼 その41 褐釉唐草文皿  その2

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家内が帰宅してからは再び家の中に花があるようになりました。さて明日からの連休前半は郷里に帰省です。長男と一緒ですので遠出はできませんが、きっと百花繚乱のいい時期でしょう。



同じ紋様の色違いをすでに投稿しており、本作品はその色違いです。浮世絵の鈴木春信の工房で作られた同じ型で作られていますので同じ紋様の皿がかなりの数で存在します。色違いで揃えて普段使うのも源内焼ならではの贅沢な愉しみ方かもしれません。

源内焼 その41 褐釉唐草文皿 
合箱入 口径155*25*底径



平賀源内のまなざし「源内焼」(五島美術館出版)に作品NO53として掲載されています。また「さぬきの源内焼」(平賀源内先生顕彰会出版)に作品NO45として掲載されています。



本来源内焼は鑑賞用であって、使うものとしては作られていないという評価ですが、それはあくまで大きな作品でのこと。特に小皿類は普段使いに使ってよいと思います。



ただ、非常に傷つきやすい軟陶なので傷のつかないようなメンテが必要です。
 

広東碗 江戸期 お薄で一服

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昨日でブログ開始から4周年となりました。家内の支援もあり、続いてきました。
トータル閲覧者数 約160万人 
トータル訪問者数 約34万人 
ヤフーブログ数 約20万件中第1700番目前後をキープという数字らしいです。
骨董趣味の人が多いのやら少ないのやらよくわかりませんね。

さ〜、今朝から新幹線「こまち」で秋田市内へ・・。それから各駅停車。長男が一緒なのでどんな旅になるやら。

昨夜は連日のように午後7時頃からぐずる長男を風呂に入れ、寝付けて久しぶりにお薄で一服

さてお茶碗は山茶碗に最近見つけた広東碗・・。

広東碗 江戸期
 合箱
口径139*高台径68*高さ56




売っている説明には「古琉球 山丼 呉須砂糖釉系統 元朝末期」と記されていますが、明末から清朝にかけて(日本では江戸期)の安南系統の碗かと思われますが、ちょっと雰囲気が違いますね。

沖縄にて幕末頃によく使われていたものでしょう。「古琉球 山丼 呉須砂糖釉系統 元朝末期」とは訳の解らない文句をよく並べましたね

日本以外にも琉球や東南アジア一帯で大量に発見される明末の広東窯の碗は後期倭寇密貿易最大の商品の一つだったのでしょう。日本の戦国時代に安南の陶磁器が大量に国内に流通するがこれも後期倭寇の業績かもしれません。



明末の広東窯の碗には高台内の土見せの部分に所有者の名が墨書きされている作品が多くあります。航海中の生活や各地のチャイナタウンでの共同生活の中で自身の所有物を明確化するためでしょう。名前入り広東碗はこの時代の特徴といえます。本作品は名前入ではないかもしれませんが、呉須の紋様が実に描かれており、たっぷり掛けられた釉薬で温かみがあります。



呉須で染付された作品で重ね焼きのために高台内に円状に釉薬が掛けられていません。これは沖縄のマカイと言われる器と共通することから古琉球としたのかもしれませんが、大量生産の器にはよくあることです。この碗類は径12センチ前後、深さ4〜5センチのものが一般的のようですが、本作品は少し大き目です。



自分で簡単な金繕いしてみました。

この手の碗はお茶席用には向いていないのが普通です。まず大きさが小さ目、作り、釉薬が安っぽい、99%の碗がお薄にさえどうかなというものばかりです。その点、本作品が気に入っているのは、大きさが大き目、釉薬がたっぷり掛けられていること、そしてなんといっても形が少し歪んでいることによって面白みがあること、お薄程度なら使えそうな碗です。



家内は山茶碗で、菓子皿は源内焼のぺア・・。



山茶碗は色の対比もよく、景色もよい。ただ使い込まないと土臭い・・



お茶碗は飲み終えた景色も大切・・、これを気遣う人が少なくなった。茶碗に使える器はそうざらにはないもの。当たり障りのないものは星の数ほどあれど・・・。探すのはたいへん・・、贋作や写しと遭遇しながら・・



広東碗もなかなか・・。



広東碗、安南染付・・、数千円で買える雑器です。食器類に・・、骨董と称せるかどうかも怪しいですし、茶碗に使えるのは滅多にないと思います。本作品は磁器の素っ気なさがたっぷり掛けられた釉薬で消えていますし、そのたっぷりした釉薬で素朴な染付がぼんやりとしていてますます生きています



本作品も飲み終えたあとの景色は良かったです。源内焼の型材のデザインも楽しめました。



さ〜、秋田じゃ、秋田じゃ・・・

贋作考 富士図 その2 寺崎廣業筆

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昨夕に秋田から帰宅しました。骨董に関する情報もほんの少し入手・・。先週の「なんでも鑑定団」に出品された福田豊四郎の作品。果して本当の贋作であろうか?

由利高原で描かれたという作品、再度検証してみる必要があるかもしれません。

秋田の画家には著名な画家が多く、福田豊四郎、倉田松涛、伊勢正義、平福百穂、平福穂庵、佐竹曙山など枚挙にいとまがありませんが、贋作も非常に多いのも特徴です。地元秋田に贋作作者が多かったようですので、地元から出た作品のほうが贋作ということが多いかもしれません。

本日は寺崎廣業の贋作です。寺崎廣業の贋作は二作品目?の投稿となろうかと思います。資料を手元に置かず選びますので、ちょっとした間違いはよくあります


富士図 その2 寺崎廣業筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1700*横360 画サイズ:縦800*横260



印章は「騰龍軒」を用いていますが、この印章について資料と違う印章があり、確認を要しますが、本作品は贋作と断定すべきものでしょう。巧妙の作られた贋作のひとつです。




寺崎廣業は富士を題材とした作品を数多く残しています。「富士」を題材とした作品で所蔵してるのが他に4作品(真作)ありますが、それでも贋作をつかまされるとは我ながら自己嫌悪に陥ります。

寺崎廣業の作品はその落款の「業」の書体から二本広業、三本広業と区別されていますが、大体四回ほど書体を変えているとのこと。二本広業が明治35年頃から42年頃までの7年ぐらい、以後は三本広業らしいです。三本の方は、頼山陽の書体の影響だともいわれているとのことです。



ネットオークションでは寺崎廣業の贋作は非常に多く、また通常の骨董店でも多くありますので要注意です。

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寺崎廣業:1866年〜1919年。日本画家。秋田生まれ。幼名忠太郎。秋田藩家老で七百石取りの家に生まれた。しかし父が維新後、資産を蕩尽し、氷の行商まで経験している。小室秀俊、平福穂庵に学び、のちに上京。絵画叢誌(そうし)に古画の縮図や口絵を描き、山田敬中、邨田丹陵らと研究会をもちながら苦学。波瀾に富んだ修業生活を送りながらも、血筋のせいか豪快な性格は失なわず、ついに明治画壇のトップに立っている。1897年(明治30)東京美術学校助教授となるが、翌年の美術学校騒動で岡倉天心らとともに辞職し、日本美術院の創設に参加。1901年(明治34)には、美術院正員のまま美術学校に復職し、教授となった。07年の第1回文展から第7回展まで審査員を務め、17年(大正6)帝室技芸員となった。代表作は『秋苑(しゅうえん)』『大仏開眼』『高山清秋』など。門下に野田九浦、中村岳陵、町田曲江らがある。広業が晩年に建てた小石川関口町の邸宅は千坪もあり、「欄干のついた数十畳の画室兼客間で、相撲取や芸人に取り巻かれ、庭前には篝火をたき、日本橋の美妓を大勢並べて豪奢な酒宴を張るという生活ぶり」(村松梢風『本朝画人伝』)だったらしい。大正8(1919)年、のどの癌が原因にて53歳で世を去った。


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インターネットより
「大正六年五月、私は叔父奈良磐松の随行で、東京小石川区関口町に新築された寺崎広業の邸宅を訪れた一千坪余りの宅地に、門をはいると石組みあり、竹林ありという風で、巨匠の住み家にふさわしい雰囲気だった。招待の日時が打合せてあったので、先客として、代議士井口延次郎と大関栃木山とが、すでに座にあった。その傍らに、主人広業が坐っていた。初めて見る巨匠であるが、周囲の大男に対比したせいか、広業は、いかにも、小さく見えた。実際余り大きくない人だったが、眼光はだれよりもするどかった。やがて配膳されて、老妓がお酌に出た。その老妓の帯の模様は、広業のかいたものらしく、側胴あたりに広業の落款がはっきり見られた。盃のやり取りのうちに、これを関取へとか、これは関取りからなどと、私には、ちょっと奇異にさえ感じられる宴席風景だった。 ご馳走がすんだ後、私が、おそるおそる画帖を出したところ、直ぐ筆と硯を取りよせ「ただの時は、富士さ」と富士をかいてくれた。その態度は、いかにもて恬淡で磊落だった。私と少し関係ある、もと広業と同格の武士だった松野老人にかいてくれたのも富士だった。以来富士の絵を見ると、これもただかなアと思ったくらいである。 その二年後に、広業が、亡くなったのだから、一層、忘れがたい思出である。
二本広業だの、三本広業だのと世間からいわれているが、大体四回ほど書体を変えている。二本広業が三十五年頃から四十二年頃までの七カ年ぐらい、以後は三本広業である。三本の方は、前に述べた扁額の頼山陽の書体の影響だともいわれている。」 (奈良 環之助著)

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淘汰して所蔵作品のレベルを上げなくてはいけませんが、半分くらいが処分か? 今回は返品できました
返品のできる取引相手を選ばなくてはいけませんね。たとえ半額でも 福田豊四郎のこのたびの作品は如何? 


豊公神影図 幸野楳嶺筆 その2

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**荒木十畝の作品に「贋作」の可能性がるとのコメントがあり、荒木十畝の二作品は悪質な贋作の可能性があると判断し掲載を取止めました。**

楳嶺は画家というよりも教育者として名高く、貢献も大きいと賞され、その指導力は大いに今の経営者は見習うべきところ大です。

豊公神影図 幸野楳嶺筆
絹本水着色 軸先木製塗 共杉古箱 
全体サイズ:縦1810*横420 画サイズ:縦1000*横280



箱書きには「豊公神影」、「明治戌子蒲月題匣於鶯梦軒□ 楳嶺豊 押印」とあり。明治21年(1888年)の作と推察されます

 

織田信長は自らを神として信仰させようとしましたが(異説あり)、秀吉もまた自らを神として祀らせようとしたようです。秀吉は死に際して、方広寺の大仏の鎮守として新たな八幡として自らを祀るよう遺言しましたが、秀吉の死後、八幡として祀られるという希望はかなえられず、「豊国大明神」という神号で祀られ、豊国社も別に神宮寺を置くこととなりました。



幸野楳嶺は弘化元年3月3日(1844年4月20日)、新町四条下ルに於いて金穀貸付業を営み、市内六軒の町奉行の一であった安田四郎兵衛の第四子として生まれています。嘉永5年(1852年)、楳嶺九歳の頃円山派の中島来章の門に入門します。この関係は、師の来章の許しを得て塩川文麟の門に入門する明治4年(1871年)までの約二十年間続きました。



落款には「幸野豊謹冩 押印」とあります。




楳嶺は画家というよりも教育者として名高く、貢献も大きい。菊池芳文、谷口香嶠竹内栖鳳、都路華香という楳嶺四天王と称される4人のほかに、森川曽文、三宅呉暁、加藤英舟、川合玉堂、川北霞峰、上村松園、田南岳璋、五代清水六兵衛、森本東閣 (楳嶺長男)、幸野西湖(楳嶺次男)がいます。



厳しく徹底的に基礎教育をする代わりに、基礎が出来たら自由にさせていたようです。また、常に門弟たちを引き立たせるようにしていたようでもあるそうです。門弟が少し慢心していると絵の批評も痛烈ですが、やや悲観している者があると拙い絵でも褒めてやり、その匙加減が絶妙だったと言われています。部下を育てるにはこうでなくてはいけませんね。厳罰ばかりでは部下は委縮し、コミュニケーションがますます悪くなります。

以外と少ないのが「豊臣秀吉」の肖像画かもしれません。本作品は重厚に描かれ、いい出来だと思います。



表具もそれなりにというところでしょうか。

葡萄図 12 天龍道人筆 その20

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郷里への帰省の際の写真の整理もままならず、それどころかブログの下原稿はありながら、さっぱり筆?がすすみません。そこに贋作の指摘の投稿などくると調べる暇なし

飲み会やらなにやらで夕刻から忙しく、帰宅すると長男の風呂、子守でそれどころではありなせん。子守で腰が痛くなるは、肩が痛くなるは・・、それでもかわいいものです。笑うとこれがまた格段にかわいい。帰省した郷里でも前向きに抱っこされていると、どうも人に挨拶されると笑うらしい。女子高生やらおばさんに「かわいい」と言われることしばしば・・。還暦のおやじがそばにいると変な感じなのでいつも少し離れていますが・・

天龍道人の何作品目の投稿かちょっとこんがらがってきました。ともかく、天龍道人の作品を投稿するとアクセス件数が激減しますので飽きられるくらい投稿していると思います。

インターネットで検索したらこんな記事がありました。
「ボストン美術館を訪問し、東洋美術担当の、サラ・カーティス氏に案内されて日本美術を見ていた私の目に、見慣れた葡萄の絵が突然飛び込んで来ました。天龍道人の描いた作品です。与謝蕪村の『柳提渡水』屏風や、尾形光琳の『松島図』屏風と共に、我が家にもある葡萄の絵が展示されていました。驚きと共に見た絵は、長崎画風な葡萄だが細い巻き蔓を書でも書くように筆を使い、墨の濃淡による平塗りで描かれたものでした。高名な画家たちの作品の中にあっても其処には独特な世界がありました。」

ボストン美術館にも天龍道人の作品が展示されてる??


葡萄図 12 天龍道人筆 その20
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1570*横385 画サイズ:縦991*横284



落款は「天龍王山人七十七年筆」と書され、印章は「王瑾」、「公瑜」の累印の朱方印が押印されています。75歳から「天龍道人」と号しています。

 

本作品は今は私のベットの脇に掛けらいます。はてさてボストン美術館にはどのような作品が展示されているのでしょうか?



きっと素晴らしい作品のだろうと思いを馳せるとワクワクしますね。そういえば東京芸術大学の所蔵品にもあります

桃下唐人図 寺崎廣業筆 その24

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今は二束三文のわが郷里を代表する日本画家の寺崎廣業の作品ですが、家内が小生の所有する作品を観て「寺崎廣業の作品はま〜、いいねと言える作品が多いね。」だと・・・。なかなか見る眼がありそうな伴侶である。

もうこれで24作品目となりました。贋作が多いので要注意ですが、数千円から数万円以内でいい作品がごろごろしています。当時は横山大観や竹内栖鳳と並び称されるほどの画家でしたが、あまりにも多作過ぎたのか現在では評価金額は非常に廉価な画家です。それでも出来の良い美人画はそれなりに人気があります。

桃下唐人図 寺崎廣業筆
絖本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入 
全体サイズ:横290*縦1180 画サイズ:横170*縦225



落款部分には「甲午孟冬巴□□次 宗山生廣業 押印」とあり30歳(明治27年)頃の作品と推察されます。印章は「廣業」の朱文白方印が押印されています。廣業の「業」の字が二本線の場合は俗に言う「二本廣業」で、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間に描かれたといわれていますが、本作品はさらにそれ以前の作品と思われ、「廣」の字も馴染みのある字体と違います。



酔っぱらった唐人と世話する子供を描いた作品なのでしょうか? 小生なら子どもよりうら若き女性を描いてしまいそう

画題は不詳ですが、なにか画題がありそうな気がします。

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戸籍名は広業(ひろなり)でしたが、周囲の者は皆「こうぎょう」と呼び、そのまま通号としました。ただし秋田には小室怡々斎(いいさい)という狩野派の画家がいたので、もともと絵の好きだった広業は成年まで世話をした乳母である長谷川家とも相談のうえ入門し、「秀斎」の号をもらっています。これが初号となります。その直後に平福穂庵に才能を見出され上京しましたが、さらに放浪しならが修練し、明治23年(1890年)に第三回内国勧業博覧に出品した「東遊図」が褒状を受け、明治24年狩野派風に描いた中国人物「藍菜和図」を日本青年絵画協会に出品して最高の一等賞を獲得しています。邨田丹陵や山田敬中も一等賞を受けていますが、明治25年に広業が結婚した菅子は、丹陵の姉となります。向島に新居を構えた広業でしたが、結婚のあくる年明治26年4月、仲間と市川方面に写生に出かけている間に住まいが貰い火で全焼し、粉本やデッサンの類をすべて焼失してしまいます。しかし広業は、これからいよいよ広業の絵を描くことにしよう、と平然としていたといいます。広業の負けじ魂が言わせたものでしょう。広業が東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)の助教授に抜擢されたのは、明治30年3月ですから、本作品はその直前から火災に遭った間の作品となります。その後「売れっ子は東の広業、西の(竹内)栖鳳」と言われた一時期があったくらい広業は自身の創作活動にも打ち込み、各種展覧会の入選者の常連となって弟子も次第に増えていきます。



寺崎廣業の落款には「秀齋」、もしくは「秀齋廣業」(所蔵作品:勿来の関)、そして四種類の書体の「廣業」があり、さらには「二本廣業」と「三本廣業」に分類されます。本作品は数少ない火事の被災から東京美術学校助教授に就任するまでの作品と思われます。所蔵品にも同時期の作品と思わる作品があり、「鯉」、「鐘馗図」、「山水図」が同時期と思われます。豪放磊落な人柄がよく表れています。評価は「三本廣業」が一番高いと言われていますが、それゆえ「三本廣業」や美人画には贋作が多くなっています。現在となっては逆に「三本廣業」以外の作品が良い出来のように思えます。それは「三本廣業」の時代の寺崎廣業は流行画家となり、作品をかなり描いており、酒席でも依頼されるとよく描いており、濫作のごとくになっているためです。きちんと描いた作品でないと価値を見出すことすら難しいとさえ評価されています。贋作も多く、現在では売買価格については横山大観や竹内栖鳳に比してかなり廉価な画家のひとりです。逆にいいものだけを集めるチャンスかもしれせん。私の郷里の代表的な画家の一人ですので、これからは厳選して収集に努めたいと思います。



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源内焼 その42 三彩文字文角皿

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昨日は家内はお茶のお稽古に先生宅に・・。久しぶりに骨董整理をしようと思うもデータがパソコンに取り込めず右往左往・・・・

源内焼の作品です。源内焼の評価は意外と高いものがあります。リンク先は記事としては古いものですので、出品作品ですので高いとは思いますが、今の評価は金額的には安いと思います。

今回の源内焼は図鑑などに掲載されている作品ですが、なかなかお目にかかれない作品のように思います。

源内焼 その42 三彩文字文角皿 
合箱入 
縦228*横230*底(縦146*横142)*高さ35



中央の文様は「五嶽真形図」のひとつで中国の信仰上の五霊山の内、「南岳衝山」を表す記号。この御符を持てば他人から傷害を加えられず、また火災を免れるという(「さぬきの源内焼」平賀源内先生遺品館企画展掲載:作品NO78「三彩文字文手付角鉢」より)」。



源内焼のデザインは当時の幕府や大名家に納品さいた作品群ですから、創意工夫されているものが多いです。



「平賀源内のまなざし 源内焼」(五島美術館出版)に掲載されている作品NO84、85「褐釉文字文脚付角鉢、三彩文字文脚付角鉢」の二作品は少し大き目ですが、本作品と同じ型から製作された作品です。



釉薬が違うがボストン美術館のモース・コレクションにも存在するそうです。



魔除けとしての飾り皿に使う作品のように思います。



牡丹図 その1 平福百穂筆 その8

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マンションのトイレに飾ってある作品ですが、投稿していないことに気がつきました。

牡丹図 その1 平福百穂筆 その8(真作整理番号)
紙本着色小色紙 平福一郎鑑定書付 タトウ入
画サイズ:横181*横211



平福百穂が牡丹を描いた作品は他の所蔵で掛け軸の作品があり、いくつか作品を描いたものと思われます。本作品は「菊ニ蜻蛉」の作品と同じく平福一郎氏による鑑定シールが付いています。*「菊ニ蜻蛉」は鑑定書(「菊ニ蜻蛉」は非公開中)





平福百穂の作品には贋作が多く、所定鑑定人には舟山三郎氏、平福一郎氏がいて、鑑定書が重要視されます。平福一郎氏の方が信用度は高いですが舟山三郎はあてにならないそうです。




在は両名ともに亡くなっており、東京美術倶楽部が所定鑑定となっているようですが、秋田の美術倶楽部での鑑定はどうでしょうかね??                      

達磨図 倉田松涛筆 その11

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昨日は長男の初節句(本当は来年?)、お祝いを頂いた親戚にお祝い返しでお出かけ・・、長男は疲れたのか、9時間ぐっすり

本ブログによく出品される作品というと
1.源内焼
2.浜田庄司(非公開)
3.福田豊四郎(非公開)
4.平福父子(一部非公開)
5.天龍道人
6.倉田松涛
7.寺崎廣業
といったところでしょうか? 
その中で倉田松涛の11作品目の投稿となります。郷里の秋田県でも知っている人の少ない倉田松涛の作品です。少しでも多く、廃れる前に手元に保存し、伝承しておきたい画家の一人です

いつか郷里で展覧会を催せたら本望ですが、それにはもっと蒐集品を充実させなくてはなりませんね。本日は達磨を描いた作品で、珍しく厳しい顔を描いた作品です。

達磨図 倉田松涛筆 その11(真作整理番号)
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横460*縦1730 画サイズ:横340*縦1090




落款の部分に「百三談畫房□人 松涛□」と署されていますが、この人の賛は非常に難解です。



「百三談書房」の朱文長方印が押印されています。また「松涛」朱文長丸印も押印されています。

倉田松涛の達磨についての作品は下記の作品が投稿されています。

達磨の凧揚げ圖 倉田松涛筆
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2020*横425 画サイズ:縦1310*横335

ともかくも倉田松涛の作品は人の表情が実に面白いですね。布袋などの一般的な作品は郷里でもときおり見かけますが、もっと面白い作品がたくさん倉田松涛は描いています。

本作品は紙表具のまま残っています。状態が良いのでこのまま保存


本日は「達磨」についての基礎知識・・・

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達磨について

達磨(だるま、ボーディダルマ):禅宗の開祖とされている人物である。菩達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるがいわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記する。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。

曇林が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば宋_(南朝)の時代に中国にやって来たとされている。中国禅の開祖。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗と呼ばれた。「ダーマ」とも。



菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いを持たれている。南天竺国香至王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨(ボーディダルマ)になったということになっているが、最も古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』(547年)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。
「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。起ちてはるかなる中土に来遊す。このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。ペルシア生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、わが中国へ来遊した。金盤日に?(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、南無と唱え、連日合掌す。 永寧寺の塔の金盤が太陽に輝き、その光が雲表を照らしているのを見て、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。その自ら言うところでは、齢は150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮にはまたと無いもの、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。(洛陽城内伽藍記巻第一(永寧寺の条))」

達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。





大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。

その没後には道教の尸解に類した後日譚が伝わるが、中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。それは当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。

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2014年4月末 保戸野窯

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連休の最初は帰省、今回も新幹線で秋田まで。長男は初の帰省、長距離の旅です

秋田到着後は、まずは腹ごしらえ。比内親子丼ととんぶり入りの冷麺。この組み合わせが絶妙です。比内鶏の親子丼は大館や比内のほうが絶品です



13時にアポの保戸野窯へ・・、先生は秋田県立美術館の館長の4月に就任。ありゃ、お祝いを忘れた



お庭のお手入れ中・・、手入れが大変そうですが、都会では味わえない風流が身近にあるのはいいものです。



奥さんに子守をお願いして、我々はお茶を一服

お団子は先生作の油滴天目のお皿。



近況報告をお互い・・・

コーヒー茶碗、お茶碗も当然先生作。



先生個展は活況だったらしいです。作品は売れてしまい、現在箱を製作して注文に対応中とのこと。

3月末に依頼した水滴と硯は忘れていないで、用意していただいていました。本作品は私から家内へのプレゼント



油滴の硯も魅力的・・。本作品は売約済み。



硯や水滴をペアで揃えるのもいいものです。





ところでこの油滴の水滴は実際は水注部分に釉薬が流れ込み、失敗作。そこで椿を生けて一輪挿しで個展で興を添えたところ、譲って欲しいとの申し出が結構あったとのこと。当然、非売品。



保戸野窯の辰砂、油滴の釉薬は特にその釉薬の変化が品がよく、是非ひとつはお求めになられたらいかがでしょうか? お値段はお手頃価格だと思います、お買い得です。





帰り際には私と家内で作品の注文依頼・・。

私はこの花入れ。



この釉薬の変化がたまらない。



家内は辰砂に均窯の釉薬のお薄用のお茶碗。



こちらも釉薬の変化がお見事。



写真の花入れは一部に失敗部分があり、非売品。お茶碗はたしか売約済みだったかな?



出来上がりを楽しみにしながら秋田を後にして郷里へ・・・。



三島手のお茶碗は後日掲載予定です。


五柳先生図 倉田松涛筆 その12

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節句にマンションに鯉の幟というわけにもいかず、鐘馗様の掛け軸を飾りました。



倉田松涛の作品ですが、状態のよくない作品を改装した作品で、家内も大好きな作品です。鬼の表情も面白い。




本日の作品は実のところ、題名が解りません。「人物図」や「菊と老人」などどいう愛想のない題でもよいのですが、とりあえず陶 淵明を描いた「五柳先生図」としておきました。なんかどこかで見たような図でそのうちに解るかと思っていますが、その頃には作品はもう手元にないというのが常です。

五柳先生図 倉田松涛筆
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横460*縦1730 画サイズ:横340*縦1090



落款の部分に「百三談 畫房主人 松涛□」と署されている。「百三談畫房」の朱文長方印が押印されています。また「松涛」朱文長丸印も押印されています。



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倉田松濤:明治〜大正期の日本画家。慶応3年(1867)生〜昭和3年(1928)歿。秋田県出身。巽画会・日本美術協会会員。 幼い時から平福穂庵に師事。特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。落款「百三談画房」、雅号は「百三談主人」など。



五柳先生:陶淵明の号。彼が自分のことを託して書いた「五柳先生伝」という文章に基づく。家の前に5本の柳があったところからの名という。



陶 淵明:365年(興寧3年)〜 427年(元嘉3年)11月)は、中国魏晋南北朝時代、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字は淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。



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倉田松涛の評価を再認識できないかと思い、こうしていくつもの作品を投稿しています。



そうそう本作品を「陶 淵明」とした根拠はないわけではなく、下記の詩「飮酒二十首 其五」の部分の「採菊東籬下:菊を採る 東籬の下 東の垣根の下で菊を摘むと」 によります。

結廬在人境:廬を結びて人境に在り(人里に家を構えているが)
而無車馬喧:而も車馬の喧しき無し( しかし来客が車や馬の音にのって騒がしく訪れることもない)
問君何能爾:君に問う 何ぞ能く爾ると (「なぜそんなことがありえるのか」と問われるが)
心遠地自偏:心遠ければ 地 自ずから偏なり (心が世間から遠く離れているから、住んでいる土地も自然に人少ない趣きにかわるのだ)
採菊東籬下:菊を採る 東籬の下( 東の垣根の下で菊を摘むと)
悠然見南山:悠然として南山を見る( 遠く遥かに廬山が目に入る)
山氣日夕佳:山気 日夕に佳し( 山の光景は夕方が特に素晴らしい)
飛鳥相與還:飛鳥 相ひ与に還る (鳥たちが連れ立って山の巣に帰っていく)
此中有眞意:此の中に真意有り(この光景に内にこそ、真実の境地が存在する)
欲辯已忘言:弁ぜんと欲して已に言を忘る (しかし、それをつぶさ説き明かそうとすると、言葉を忘れてしまうのだ)

郷里の秋田には多くの味わい深い画家がいます。地元である秋田の人も解る方が少ないというのはさみしい限りです。解っていても大切にしないで、先祖が遺したものも売り払うというのはもっとさみしいものです。結局はそういうことをすると手元にはなにも残らない・・。上記のような漢詩を味わうこともない・・。


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