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伝古呉須安南染付 青花蓮花文八寸皿

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引越しに際して仏壇がを運び込んだ。亡くなった父や義父、家内のほかに犬が二匹、写真として飾られている。茶毛のパグと黒毛のパグである。茶毛のパグは名前を「大五郎」と称しました。知人に犬を飼う人の紹介を頼まれて一日だけ預かったのだが、完全に情が移ってしまい、ペット禁止のアパートでかうことになった。子供の頃から大学生まで秋田犬やコリー犬など多くを飼っていたことがありましたが、自分が社会人になってからは初めての飼い犬でした。

大家さんやアパートに住人に言い訳するのに、母を病気にしたりしましたが、ほどなく現場が終わり引越しとなり、ペットを飼うことが可能な借家を借りました。今ほどペットに対する理解の無い時代でペットを飼える借家は非常に少ないものでした。

それから仙台に引っ越すなどを経て15年以上生きてくれました。散歩となると玄関の扉に体当たりするなど元気な犬でしたが、年とともに失尿などが始まり、老犬の世話はたいへんでした。いつかはわが身です・・。しまいにはウンチまで家の中でする始末でしたが、申し訳なさそうな顔をする大五郎を叱るわけにもいかず、ただただ頭をなでてやるだけでした。

黒毛のパグは「木米」と称し、こちらはさらにやたら元気な犬でしたが、家内の看護時や亡くなった後は義妹が飼って面倒をみてくれました。義妹は看護士なのでなにかと老後の「木米」は幸せであったろうと思います。

老後はいかに粋に暮らせるか、いかにスマートに死を迎えられるかはなかなか人も犬もままにならぬもののようです。

さて本日の作品は中国の明末の赤絵を蒐集していると避けては通れない安南焼です。景徳鎮などの中国の影響をかなり受けているので、時として中国のものと混同されることがあります。

古呉須安南染付 青花蓮花文八寸皿
合箱入 
口径240*高台径150*高さ57



18世紀頃の作ということですが、詳細は不明です。景徳鎮の芙蓉手を模倣した安南で製作された作品と思われます。品質のよい景徳鎮の輸出が解禁したため、安南焼が瞬く間に市場が失われ、その歴史の幕を下ろしましたが、その当時の作(明末~清初)と推察されます。高内内には柿渋釉が施されているのが特徴で呉須も黒っぽい感じです。



安南焼は室町時代末期~江戸時代に安南 (ベトナム) から渡来した焼物で茶人に好まれた。無地安南,呉須安南,安南青磁,安南赤絵,安南絞り手 (染付) などの種類があります。胎土は白色ですが,釉 (うわぐすり) は青みがかっています。ベトナムの焼き物の総称として用いられている言葉です。 現在のベトナムと中国との国境付近は、その昔Annamと呼ばれていたそうです。



安南焼の歴史の基本的なことは理解しておく必要があります。

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補足説明

第一期:初期安南焼
元の時代に中東あたりから優質呉須が輸入され、初めて景徳鎮で染付け器の製作が始まりました。呉須の輸入は2つルートがあります。海上ルートは南シナ海経由、陸上ルートの雲南省経由でした。いずれも安南に近い。元軍の侵入の繰り返しおよび、明初期の占領により、景徳鎮の染付器が安南人に認識され、かつ呉須が入手しやすいため、安南焼の始まりです。

初期の安南焼は主に元青花、明早期青花の様式と模様を安南風にアレンジしたもので、自備自用なので、生産量はそれほど多くはありません。民用品は安南特色の絵付けが多いですが、現地王府用に仕上げの良い、中国明宮廷風のものも作られています。この時期のものは輸出がないため、あまり認識が薄いので、現在日本で言う”安南焼”は基本的に第二期のものです。


第二期:貿易期安南焼
明軍が安南を撤退した大きな理由は東海上の不穏です。明初めから中国福建沿岸を晒す倭賊がありまして、時々”海禁令”が発された(出海及び入港禁止)。永楽年に鄭和が大艦隊を連れて南洋を巡歴したから、一時海が穏やかになり、明軍が安南侵攻が出来た理由でもあった。しかし、永楽以降および倭賊が倡厥したため、再度海禁令が発され、厳しい時期では、沿岸住民が内陸へ遷移され、海上貿易も禁止された。こんな状態が明の後期の始まりの隆慶年まで続いた。明中期の厳しい海禁令が安南焼に貿易のチャンスを与えた。中国陶磁貿易の代わりとして、安南焼が発展した。現在日本、琉球群島、台湾、東南アジアなどで発見された安南焼と呼ばれるものはこの貿易期の物です。特徴として、明の民窯物や、福建、雲南あたりの様式を基本にした安南風アレンジ絵付けです。呉須は雲南省から持ち込んだもので、第一期より明快な色をしています。

参考作品



安南焼の終結
明隆慶年に海禁解消した。広東にて貿易司を開設し、海上貿易を再開した。明正徳年雲南から優良呉須が入手した景徳鎮が祥瑞焼を生み出した。日本へ少量に輸出されたが、南方へはほとんど輸出されていません。隆慶年は4年間だけで短いが、時代が萬暦、天啓など明末へ。
明末期、輸出量を答えるため、景徳鎮が染付大量製造しています。古染付と呼ばれるものはほとんど海外貿易用です。東インド会社からの注文された欧羅巴への輸出品は、日本では”芙蓉手”と呼ばれます。品質のよい景徳鎮ものが解禁されたため、安南焼きが瞬く市場が失われ、その歴史の幕が下ろした。ちなみに、中国広東、福建沿岸は明末の海上貿易期の刺激で、多くの窯を開いた、徳化窯白磁、彰州窯呉須手などが生まれました。安南地方は明末~清初に及び台湾福建あたりの色絵器(交趾焼)を目に付け、安南色絵(交趾焼に含まれる)が始まりました。

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安南焼にも例に漏れず贋作があるようで、下記の文章が参考になります。

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ベトナムには中国の安南都護府が置かれていたことがあり、かくてベトナム古陶器を「安南」(英語でアンナミーズ)と呼び慣わしている。その歴史からみても中国の直接的な影響下にあり、15,6世紀の染付けなど中国の元末から明朝へかけての器形・文様を直模している。磁器土としてはやや軟質な灰白色を帯びた胎土と、そこから必然的に出る微細な貫入がなければ(すなわち遠目には)中国の景徳鎮磁器そのものと言ってよいものである。17世紀以降になると作風は崩れ、染付けも黒っぽく、しかも文様が流れたものが増えたが、日本ではかえってこれが「安南絞り手」と称して茶人が珍重した。中国のものと比して総じて土が軟質なためか、きびしさがなく、ややくだけていて親しみやすい。発掘品の多い真作は使用され続けたために入る貫入の汚れがほとんどない。

贋作もあり、ほとんどが染付で茶碗・合子(香合)・花入・水指・酒盃などの日本向けのものが多い。贋作は黒っぽい呉州の色・文様の描き方・灰青色を帯びた冴えない磁肌・粗い貫入にしみ込んだ汚れ、以下のも古色蒼然とした趣があるが、文様は15世紀、釉色・呉州の色・にじみ方が17世紀ものに近いなどの矛盾がみつかる。

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貴重品「安南赤絵の皿」

現存する安南赤絵で、色が残っているものは極めて珍しいとのこと。数も少なく同時に焼かれた安南染付が100枚あると、赤絵はその内の1枚ぐらいという。



上記作品についての安南焼についての説明は下記のとおりです。

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安南焼とは、現在のベトナムで作られた焼物の総称である。その名は679年に中国の唐王朝がベトナム統治の為に、現在のハノイに置いた軍事期間・安南都御符に由来する。その為常に中国の影響を受けてきたが、大きな発展を遂げたのは12世紀頃のベトナム李王朝の時代であった。

その形は唐や宋の陶磁器を模しており、白磁と青磁を中心に褐釉、鉄絵、緑釉などが幅広く作られ、東南アジアでは圧倒的な規模を誇った。その後14世紀後半になると、中国の景徳鎮に倣い青花磁器が作られるようになった。



しかしその色は景徳鎮に比べるとやや暗くくすんでいる。これは中国がイスラム圏から輸入した質の高い呉須を使っていたのに対し、安南は国産の質の低い呉須を使っていたからである。また絵付けの線は土と釉薬のせいでそのほとんどが滲んでいる。



ベトナムでは良質のカオリンが取れず、これでは青花の色が映えないために、生地に白土を化粧がけしていたのである。しかしその白土は粒子が粗く、いくら繊細な絵付けを施しても呉須がすぐに白土に吸収されてしまう。また釉薬は不純物を多く含んでいるため、透明度が低く結果的に絵付けがぼやけてしまう。絵柄は蓮の花びらを簡略化したものがほとんどで、これが安南焼の青花かどうかを見極める決め手のひとつとなっている。



15世紀になると、赤や緑や黄色の顔料を用いた赤絵が作られるようになったが、中国に比べ低い温度で焼き付けるために釉薬が剥がれやすく、すぐに色が褪せてしまう。しかし室町時代の茶人たちは、その素朴さの中に詫び茶に通じる簡素な美を見出した。なかでも呉須が滲んで流れるような景色になった青花は、藍染の絞りに似ていることから絞手と呼ばれ珍重されている。



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安南焼に関する本ブログに投稿された主な作品

伝安南絞り手茶碗合箱
口径126*高台径60*高さ75




青花安南茶碗(補修品)その3 17~18世紀
合箱
口径145*高台径*高さ63



安南染付鳥草花文様茶碗合箱杉製
口径110*高さ78*高台径60



現在家内の実家で飼っている犬は柴犬。子犬の時代を経ていないとなかなかこちらの言うことをきいてくれませんね。息子も同じかな?

林和靖 川合玉堂筆 その3

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え~い、買ってしまえと購入した作品ですが、理由は二重箱の口が黒柿だということ。むろんそれだけではないのですが・・。なんでも鑑定団に出品された川合玉堂は贋作でしたが、通常はひと目で川合玉堂の真贋は解るものです。



林和靖 川合玉堂筆 その3
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱 旧作題
全体サイズ:縦2070*横522 画サイズ:縦1180*横415

熟年の作品ではないにしろ掛けてみると展示室の空気が一変します。このような雰囲気を出せる画家の作品は上村松園、横山大観など数人の作品くらいでしょう。



作品を描いたのが落款から明治40年頃と推察され、箱書は昭和20年頃と推察されます。



印章・落款とも資料と一致します。作品の印章や落款、共箱の落款は容易に資料から確認できますが、共箱の印章は共箱にしか押印がないようで確認に苦労しますが、たとえば思文閣墨蹟資料目録 第439号 作品NO59 「芙蓉」の共箱の印章と一致していますので間違いありません。

  

資料に埋没して真贋ばかり気にするのはどうかと思いますが、最低限の資料は頭に叩き込んでおかないと確認に時間ばかりかかります。購入時にはこのような資料はむろん手元にありませんから、直感での購入です。贋作をつかむことも当然ありますし、自分の得意な分野だけでは蒐集の幅も広がりません。人生は挑戦の連続です。



画題の「林和靖」については他の作品でも紹介しました。

林和靖図 倉田松涛筆紙本水墨淡彩軸装軸先 箱入 
全体サイズ:横514*縦1985 画サイズ:横390*縦1346

改めてその記事を下記にきします。

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林和靖:林逋(りん ぽ、967年 ~1028年)は中国・宋代の詩人。字は君復。没後に仁宗により和靖先生の謚を贈られたため、林和靖とも呼ばれてる。杭州銭塘(浙江省)の出身。



若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。



行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず盧のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禪の書を遺稿として用意してはいない」と詠み、国事に関心がないことを自認していた。その詩が都に伝わると仁宗は和靖先生と諡した。

林逋の詩には奇句が多く、「疎影横斜水清浅。 暗香浮動月黄昏。」の二句は梅を詠んだ名吟として広く知られている。平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の持は少ない。日本でも林逋の詩は愛好され、貞享3年(1686年)の和刻本その他がある。

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川合玉堂の説明は改めて記載する必要も無いでしょうが下記のとおりです。



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川合玉堂:明治6年生まれ、昭和32年に没(1873年~1957年)、享年85歳愛知県出身、本名は芳三郎。初め京都で幸野楳嶺、望月玉泉に岡山派を学び、上京して橋本雅邦に狩野派を教わり、次第に両様式を統合して自己の画風を作りあげたが、深く伝統的な画体を把握して明治・大正の新時代的な形式と感情とをそれにもって、東京画壇におけるアカデミックな一代表様式を創造した。帝国美術院会員、東京美術学校教授を経て、帝室技芸員、芸術院会員となり、文化勲章を受ける。

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著名な画家の作品のついでに下記の作品は横山大観。

連峰 横山大観筆
絹本水墨 色紙3号 共箱



色紙ですが共箱入りです。「本物?」・・、野暮な質問はするものじゃない。

伝スコタイ魚文鉄絵高台付陶片

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12月の月初めよりどうも喉が痛く風邪をひいたらしい。病院にいって薬をもらってきたがどうも思うように回復しない。木曜日には仙台から同僚が上京してきたので、数人で会社の近くで一献の席を設け、業界の今後のことなどで話が盛り上がったのですが、酒が進むうちになにやら悪寒がしてきまして具合が悪くなってきました。こういうときは早く帰って寝るに限ると上京してきた同僚に謝罪し、言いたい事を言ったらあとはさっさと中座・・

家に帰って家内と息子は風呂のようなので、小生はさっさと布団にもぐりこみ、汗をかくためにじっとしていました。そのうちに家内と息子も寝付くために部屋にきましたが、脇で眠る前の家内と息子の会話をじっとして聞いていたのですが実に面白い。「やはり日本の将来は女だ。」と感心しました。息子に諭す母親の愛情は優しい。大きく包み込むその愛情に感動しました。

こちらは熱が出てきてただ唸るだけ・・。男親は生きる姿勢を背中で示すのが役割・・・、その背中を丸くしてじっと布団に包まっていたら、息子が「パパ」と言ってにっこり・・、可愛くて抱きしめたいのをじっとこらえて、「お~」と言うのが誠意一杯。男はだらしがないもの

その夜にみた夢がまた面白かった。まったく関係の無い侍夫婦と同心との時代劇・・。小生の頭の中はどうなっているのだろう

本日の作品は東南アジアの陶片です。和蘭の陶磁器まで茶の陶磁器として用いられていますが、東南アジアの陶磁器までは日本人好みの作品の領域のように思います。西欧の陶磁器はなんとも日本人の好みからはかけ離れています。ただ東南アジアの陶磁器も贋作が非常に多いとのこと。

伝スコタイ魚文鉄絵高台付陶片
合箱入 
口径175*高台径*高さ35



本作品は発掘品ということですが詳細は不明です。



タイでサンカロークと言われる陶器は、主にスコータイ時代に作られたサワンカローク(宋胡録)とスコータイで製作されたもので、釉下鉄絵(素地に鉄を含有する顔料で,釉下に絵模様を描く技法)、青磁釉、白釉、褐釉(中国の漢時代につくられた低火度釉の褐色の釉)、焼締などがあり、当時、重要な輸出品としてインドネシア、フィリピン、中近東、日本などの国々に運ばれていたとのこと。



タイはスンコロクを含めて発掘品などを含めて模造品の宝庫?らしい。呉須での絵付けがあったのだろうか? 両作品ともに基本は鉄絵だと思うのですが・・。真贋は不明。



家内曰く「何に使うの?」だと。息子に比べて小生の骨董の趣味に包容力が足りないらしい たしかに陶片なので、がたつくしね。ま~愉しむ分にはいいでしょう。



見込みの絵柄がみどころ。絵が可愛いではないかと思うのですが・・。



骨董に対する小生の考えもまたどうなっているのやら??






葡萄図-16(三幅対) 天龍道人筆 その28

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週末は掃除だ、買い物だ、片づけだ、「パパだ!」といううちにあっというまに時間が過ぎてしまします。家内はそれ幸いと昼寝・・・。
日曜の夜になって子供が眠り、ようやく「さ~、骨董の整理}と思うと睡魔が遅いかかり、そのままご就寝と相成りました。しかもぐっすり寝たわりには変な夢をみてしまい、出勤の準備しながら「あの夢は何を暗示しているのかな?」と考え込んでしまいます。

夢ですからむろんストーリーはばらばら・・。

***********夢の概略****************

アメリカらしいとこに出張、車で仕事の待ち合わせ場所へ向かいます。方向音痴な小生はむろん迷ってしましますが、なんとなく乗りつけたホテルが待ち合わせ場所であったらしい。

そこで会った体格の良い年配のアメリカ人紳士。(夢の中では小生はまだ30代前後らしい・・。)アメリカ人紳士は紳士らしくいろいろと小生の世話をしてくれるが、どうも同性愛者らしい。むろん変な関係にはならない。

泊まったところがこれが日本風の部屋? というか数奇屋作りの家? 屋久杉のちょっと派手目の板目の壁、簾一面の壁の部屋、ありきたりの「これが数奇屋でございます」の建物ではなく、すばらしく日本風で美しい。おもわず「ほ~」と・・・。(日本では耐火基準の問題がありそう?)

なんやかんやとしているうちに帰国・・。というか帰国する早朝に寝坊したらしい。夢は常にトラブル続きで、焦る場面が多いようです。

***********以上夢の概略****************

数日前に見た「侍夫婦と同心」の夢も面白かったが、こちらもなかなか・・。夢で見たあの建物、といいうか部屋は鮮烈・・。「作れる!」、「作ってみたい!」・・、ものづくりの血が騒ぎ出す

さて、本日は原稿を作成している時間がなかったので控えていた原稿からの投稿です。

天龍道人の作品「その28」です。「二幅対」の次は「三幅対」の天龍道人の作品で、天龍道人は葡萄や鷹の絵だけでなく書も充分に魅力があります。

葡萄図-16(三幅対) 天龍道人筆 その28
紙本水墨軸装 軸先木製 片倉家所蔵箱
全体サイズ:縦1670*横420 画サイズ:縦992*横280



以前にブログで紹介した82歳の作品「葡萄図-14 天龍道人筆 その26」と本作品はほぼ同一印章と考えられますが、88歳の作品「葡萄図-16(三幅対) 天龍道人筆 その28」の印章は明らかに別の印章であり検証を要します。ただ贋作ということではないように思います。

葡萄の画家と言われた天龍道人の珍しい三幅対の作品です。箱に記された「片倉家」についての詳細は不明です。



「天龍道人八十二歳写」とあり晩年の枯淡の作と称される作品です。細かい説明は省きます。作品をじっくりご覧ください。



賛の読みはよく解っていません。



天龍道人のよい作品は前はよくインターネットオークションに出品されていまいしたが最近は見かけなくなりました。



当方のコレクションは最近は天龍道人の出来の良いものに絞って蒐集していますが、このような三幅対の作品は非常に珍しいと思います。

当方の天龍道人の蒐集の集大成としての作品になろうかと思います。「同じ画家など長く同じ関連のものを蒐集しない。」というのが小生の考えです。レベルを上げていく、分野を広くすることで面白味が増し、生活を豊かにするものと考えています。むろん同じ蒐集していた画家の作品を蒐集しますが、いいものだけに限定していくということです。これが論外難しいのが現実ですが・・・。



松渓遐園(小点) 岡田半江筆 その3

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企業では連結決算重視となっていますが、企業のグループ会社と親会社という関係はまだまだ下請という関係から脱却できていないように思われます。グループ会社の力不足がたいはんの原因ですが、グループの役割の認識が互いに出来ていないのが要因にあるのも事実です。親会社にはない機能がグループ会社にあって、貢献度の高い機能を持つという認識が互いにないといけません。時間が経つにつれ重複してきた機能はグループ会社に任せていくのもその中に含まれるように思います。

さて、本日の作品は岡田半江の「小点」です。岡田半江は最初の号を「小米」と称したそうですが。「しょうべん」というのに近い音なので嫌だったとか、大塩平八郎の乱に関与した嫌疑をかけられるのを恐れて住吉浜へ移住したとか、最初は画家の腕を評価されず父である岡田米山人から後継は田能村竹田とされる始末だったらしいなどという逸話の持ち主のようです。

松渓遐園(小点) 岡田半江筆 その3 
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱入
全体サイズ:縦1865*横370 画サイズ:縦255*横185



落款部分には「松渓遐園(都から遠いへんぴな所 辺地) 半江」とあり、押印は「粛印」と「士羽?」の白文朱方印の累印があります。天保8年(1837年)の大塩の乱に関与したという嫌疑を避ける意味もあり、この事件を転機に住吉浜(大分県杵築市にある海岸)に移住し、天保9年(1938年)頃から画作に没頭しました。住吉浜の地で数多くの傑作を画き充実した晩年を送りましたが、本作品は住吉浜に移住した後の天保10年以降の作ではないかと推察されます。



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岡田半江:天明2年(1781年)~弘化3年2月7日(1846年)、江戸後期の南画家。岡田米山人の子。大坂生まれ。名は粛,字は士羽。少年時には小米,のちに半江と号した。別に寒山などの号がある。通称は宇左衛門、のちに父と同じく彦兵衛と称した。

父に絵を学び,父と同じく津藩大坂蔵屋敷に仕えたが,左遷されて京邸に移り,文政5~7(1822~24)年ごろに致仕。以後書画三昧の生活に入り,頼山陽や篠崎小竹らの文人墨客らと交流。晩年,天保飢饉に際して住吉に隠棲。「住江真景図」(個人蔵),「春靄起鴉図」(遠山記念館付属美術館蔵)などの代表作を生んだ。父とは異なって艶麗精細な画風に特色があり,当時は大坂文人画を代表する画家であった。

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補足説明

岡田半江:天明2年(1781年)~弘化3年2月7日(1846年)は江戸時代後期の 文人画家。岡田米山人の子。大坂の出身。幼名を常吉、諱は粛、字を士羽。半江は画号。俗称を卯左衛門(宇左衛門)、のちに吉継。岡田米山人39歳の子。米屋を営む自宅、大坂西天満宮寒山寺裏長池(大阪市北区曽根崎一丁目曽根崎天神付近)で生まれた。半江は中年期に恵まれた初子だったので父が溺愛した。

幼い時から父に習って画作を続け、居宅に出入する多くの文人墨客に感化され、自然と書画に興味を持った。12歳頃の作品に既に小米を用いているが、この画号は米山人が米芾・友仁父子に倣ったもので「しょうべん」の音に近いことから半江は好まなかったという。

28歳のとき父に代わり伊勢国藤堂藩の下役となり、大坂蔵屋敷の留守居七里鎌倉兵衛に仕えた。この頃吉継を名乗った。翌年、安積家の四君子図襖絵を米山人はじめ戸田黄山・森川竹窓らと合作している。

文政年間に相次いで両親を失い、稼業の米屋を継いで米屋彦兵衛を襲名。しかし、父と同じく藤堂藩には下役として仕え続け文人画家としても活動した。

頼山陽をはじめ多くの文人・学者らと交遊。蘭医の小石元瑞や儒学者の篠崎小竹とは竹馬の友であり、また大塩平八郎とも長年親交している。同13年にお伊勢参りに出かけている。天保3年、山陽の訃報に大きな衝撃を受け、体調不良から稼業の米屋を13歳の息子九茄に譲り隠居となった。藤堂藩の下役も40代後半で辞任。

天満橋東辺の淀川畔に別宅を買い求め詩書画三昧の暮らしを送るが、この別宅には田能村竹田が足繁く訪問し、さながら大坂の文人サロンとなった。天保7年に山陽道を旅しかつて父と合作した襖絵のある播磨国神東郡剣坂村(兵庫県加西市西剣坂)の安積家を訪問し懐旧の情に浸った。

帰阪後まもない天保8年3月、民衆の窮状に義憤を募らせた大塩平八郎が挙兵(大塩平八郎の乱)し、虚しく敗死する。この争乱によって大坂は戦火に見舞われ焼土と化した。半江の別宅も焼失。父米山人から受け継ぎ自らも買い増した膨大な典籍・書画・骨董器物などが灰と消えてしまった。

幸いにも自宅は無事であったが、この事件を転機に住吉浜に移住。友人を失い、家宝を失ったことによる精神的なダメージもあったが、大塩の乱に関与したという嫌疑を避ける意味もあったと推測される。天保9年頃からようやく創作意欲が戻り、その後は画作に没頭。住吉浜の地で数多くの傑作を画き、充実した晩年を送った。享年66。直指庵に葬られる。 友人の篠崎小竹が半江の死を悼み詩文を寄せている。

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火事により蒐集したものの大半が焼失したのは気の毒でしたね。



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画風:半江は28歳以前のとき周囲から画力が充分と認められていなかった。田能村竹田『山中人饒舌』の中に名が見えず、米山人も文化4年(1807年)に田能村竹田に自分の衣鉢を継ぐ者は竹田以外にいないと語っている。

37歳のときに半江独自の繊細な筆遣い・周到な構図・配色の調和が見いだされる作品が現れ始め、50代になって独自の画風を確立したとされる。特に傑作は住吉浜に移住後に集中し、詩情豊かで柔和な筆致、自然で気負いのない構図、繊細で効果的な配色によって高逸枯淡な画境に達した。

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「特に傑作は住吉浜に移住後に集中し、詩情豊かで柔和な筆致、自然で気負いのない構図、繊細で効果的な配色によって高逸枯淡な画境に達した。」との評のとおり、小さな画面に凝縮された山水画(「小点」は小さな作品という意味です)には並々ならぬ技量がうかがい知れます。

そうグループ会社も小さな中に並々ならぬものがなくては存在価値を疑われます。

呉州赤絵写六角火入 (伝奥田頴川作)

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夜は会社の同僚らと一献、昼には突然訪ねてきた元同僚と昼食。夜の会食で風邪が治り、昼の食事は赤坂界隈の料亭でランチをご馳走になりました。料亭の玄関正面には魯山人の金彩緑釉透かし壷(たぶんこのような名称)・・・。食事の部屋には唐三彩に松林桂月の額装の絵が飾られていました。あとはたいしたものはないとみましたが、客が多くすべての部屋は見て回れませんでした。

本日の作品は赤絵の火入です。陶磁器店をのぞくと近代の量産品に必ずといっていいほど赤絵の商品がありますが、その原点は京焼や伊万里ではなく、中国の呉須赤絵の作品群のように思えます。

逆に明末赤絵の作品を蒐集いくとその寄り道のひとつに日本の模倣品に出会うことになります。日本人好みに合わせて中国で作られた作品群ですのが、日本で作られたものには優品が多いのは当たり前ですが、赤絵の優品を製作していた犬山焼や京焼については見慣れてくるとある程度中国で作られたものと簡単に見分けられますが、奥田頴川の作品になると中国の「本歌の作品に迫るものがあります。

呉州赤絵写六角火入 (伝奥田頴川作)
杉箱入 
全体サイズ:口径97*高さ87



今回のような火入や鉢の作品群については、骨董蒐集している方から「奥田頴川の作品です。」と見せられることはよくあることです。なぜかしら一度としていい作品だと感じたことはありません。呉須赤絵の火入のような器になるとすぐに奥田頴川の作品と思いたくなる、したくなるものなのでしょう。数千円のものが数十万になるからでしょう。



当方では確証がありませんが、そのような作品については、日本製や本歌の作品に箱や作品に銘を入れたものならまだいいほうで、ひどくなると意図的に作られた出来の悪い贋作がほとんどのようです。釉薬が厚くていくらなんでも重いものなど・・。



骨董の掘り出し物へのロマンばかり追いかけていると贋作の山が出来ることになりますが、とくに地方の資産家の年配者、お寺の住職さんなどに多いようです。地方は骨董を行商で売る歩いた時代があるとかで、裕福な家の中には騙されることが多かったらしいと聞いたことがあります。



本作品は呉須赤絵の作品としては出来のよいものだと思いますが、奥田頴川とは断定できませんね。



胎土が非常に白いようですがこの辺が生産地の根拠になりそうです。



箱にはあいも変わらず「奥田頴川作」(張り紙)と記されていますが、まったく確証はありません。この張り紙は剥がすこととします。

参考までに下記の作品(頴川の名品)を掲載しておきます。

参考作品
色絵麒麟菊花文水指
東京国立博物館所蔵



赤絵飛凰文隅切膳など
益子参考館ギャラリー



文献には下記のような説明があります。いかにもまともな説明で基本知識のようです。

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頴川の作品の特徴:

1.明の呉州赤絵の写しとは思えないほど萎縮したところが全く無い、むしろ本歌を圧倒する豪快な雰囲気があること。頴川には魚、兎、鳥、変形した龍、鳳凰をスピード溢れるタッチで描く才がある。

2.作品の底には砂が着いていることが多く、なすりつけられたようなドロドロした釉薬の特徴があり、やや青灰色を帯びた白磁釉はドロリと厚めに掛けられ、たまりが見られ、また一部掛け外しが見られる。さらに一部ではカイラギになっていることもある。

3.頴川特有の筆の走りはあたかもその人だけのサインのように他人には真似ができない。

4.頴川は作品には殆ど銘を入れず、よほどの力作でないかぎり落款はない。箱書は皆無である。

*ただし、その特徴を掴んだ贋作が存在する。村田寿九郎や頴川の門人の楽只亭嘉助らがうまいが、完全には摸作できていない。

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このような説明は的を得ているようですが、真贋の判断には却って仇になることが多いものです。「絵付けは勢いがある、釉薬は間違いない、サインはない、共箱でない。」思い込んだらその作品そのものの良さの判断を怠ることになりかねません。小生も然り・・・。

参考までに今までに縁があって手元にある呉須赤絵の鉢や火入の作品を紹介します。

他の所蔵作品 その1
呉州赤絵写五角鉢 奥田頴川作
時代箱(菓子鉢 唐絵鉢)入 
全体サイズ:幅155*155*高さ70



知識だけが優先すると贋作を手にすることが多い。



虫喰い、砂付高台だと決まりごとだけで作品をみないこと。



唐津は三日月高台、ちりめんの土などというのはまったくあてにならないようです。ましては箱からはまったくなにも推察できません。いいものが悪い箱に入っている場合もあるようです。



当方の作品もまた頴川という確証はありません。作品の出来不出来でものの良さは決まるものと思うのがいいのでしょう。いずれにしろ頴川と名乗らぬがよろしいかと覚悟しています。もはや市場には頴川作の真作はないものと思ったほうが正しいようです。

他の所蔵作品 その2
呉州赤絵写火入 伝奥田頴川作
合箱
全体サイズ:口径100*高台径65*高さ85



ところで「頴川」という銘は力作でなくても入っていることがあります。「頴川は作品には殆ど銘を入れず、よほどの力作でないかぎり落款はない。」という記事は一般論ですが、とはいえあらぬ期待を持ってはいけませんね。ちなみに「頴」の字はこの作品の書体のように「「ヒ」の字が「止」に近い字になるのが正しいとのことです。



骨董蒐集というのはロマンと称して、掘り出し物を見つけることが生きがいのような人もいます。「資金を投じていいものだけを信頼のある骨董商から買うのはいかにもつまらない。」という方が多いのです。とくに中国の骨董など明末赤絵の作品を買うのは骨董商を通しては非常に高い値段で買うことになりますからそれもまたいたしかたないのですが、どちらかに偏りすぎるといけないのも真実のようです

掘り出し物を探しながら、いいものだけに蒐集作品を絞り込んでいくのがいいように思います。贋作は間違いなく入り込んできますが、徐々に排除していく努力が必要のようです。そうでないと贋作ばかりの蒐集になっていまいます。かくいう小生もその一人かな?

「買うべし、売るべし、休むべし」・・「苦労して貯めた身銭で買って、売って処分し第三者の評価を知り、蒐集を休んで勉強する。」これしか骨董蒐集の道はないようです。

少なくても大概の飾られている作品の概要は解るようになってきました。

伝古伊万里 赤絵輪線碗

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連日の忘年会、一昨日は元部署のOBらと一献、昨夜は同僚らと一献、本日は大宮から仙台へ直行し同窓らと一献。長い一週間です。

さて寒くなり、部屋で暖を通常的にとるようになると、部屋が乾燥します。風邪をひいて喉が痛くなったこともあり、さらには子供が一緒に寝ているので、今まで使ったことのなかった加湿器を購入してきました。ぴんからきりまであって、3000円から8万円まで値段もいろいろのようです。加湿器兼空気清浄機の3万ほどのちょっと高級なものを買いましたが、吹き出しから蒸気が出ない?? 高級すぎたらしい??? 

本日は輪線文様・・・、単純な輪線紋様には器の形も素朴なゆえに魅力があります。

以前に投稿したのは呉須の輪線紋様の作品でした。現状手元に置いてあるいままでの作品を並べてみました。



輪線紋五寸皿 江戸期後期鍋島?合箱
口径150*高台径*高さ45

鍋島の色見本らしい??  同じブログに掲載されている作品には下記の作品があります。

輪線紋染付碗 清朝?
合箱
口径113~116*高台径*高さ50

「清朝?」としたのは購入先の説明によりますが、日本の作ではないかと思っています。

上記の二作品は当方の収集対象外でいまだに出生が解らず戸棚で転がっております。輪線のデザインはシンプルで実に好感の持てる作品群のように思えます。

本日の作品は赤い輪線紋様の器です。古い伊万里には茶碗は少ないと聞いていますが、真意のほどはよく解りませんね。一応「伝」としておきましょう。

伝古伊万里 赤絵輪線碗
合箱入 
口径140*高台径60*高さ55



古伊万里での幾何学文のシンプルな意匠で人気の高いひとつに「輪線文」があるそうです。意外に古伊万里においては非常に数の少ない図柄だそうで、「人気の蕎麦猪口などでは驚くほどの値段が付いているコレクター垂涎の作品」という説明もありますが、当方の蒐集対象にはないもので真偽はよく解りません。



見込みに色絵の図柄は非常に珍しい。見込みは赤のみで外の高台周囲は呉須とのコラボとなっています。破損の度合いが大きいことなどから発掘品のように推察されます。ともかく雑な補修です。

なにやら高台内には文字が記されていますが、発掘場所の符号? もしくは以前投稿した呉須の輪線文の茶碗のように色見本の記号かもしれませんね。



ともかく破損具合が大きいので参考作品ですが、使用するにあたっては金繕がいいのか朱漆での補修がいいのか迷うところです。



前述のように古伊万里には茶器としての茶碗は作られて形跡がないという方もおられます。茶器の茶碗としての手頃な大きさの器がなかなか見当らないのは事実です。手頃な大きさでも扱うときに熱さが伝わり過ぎて持てないことが難点になるように思われます。



焼き具合の見本で見込みに絵付けをするかな? そもそも何の絵柄かさっぱり?? 古九谷に通じるような釉薬ですが・・。



初期の伊万里の焼き損ないという推察が正しいように思われます。ま~、参考品ですので数千円で入手できるものです。



陶磁器に詳しい方のアドヴァイスがあるとありがたいです。これだけ割れた跡があるので、水を入れてみると若干の水漏れがあります。これは当方でなんとか修理できそうです。



明末呉須赤絵 天下一大皿

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食事をあまり食べないで小生に叱られた息子は大泣。それでもいつもどおり小生と風呂に入って、添い寝で熟睡。ところが珍しく夜中に起きて眠そうにしながら、パソコンに向かっている小生らの書斎の前の廊下まで歩いてきて「パパ」・・。

しばらく寝付かないまま、小生の布団にもぐりこみ、ようやく再び寝付きました。このような可愛い時期はもうすぐ終わるらしい

近年のネットオークション上に数多くの「明末呉須赤絵」の作品が出品されています。「なんでも鑑定団」にて高値で評価された影響もあるのでしょうが、実際は2万~3万程度で落札されています。むろん真贋とともに時代の見極めが大切で清朝を下った作品は非常に評価が低いものとなり、虫喰の有無や状態・絵付の勢い・面白味、高台の砂付状態で評価は一変します。いくらいいものでも10万円はしないのが相場でしょう。なにしろもともと下手物の作品ですし、中国本国では相手にされない作品群です。

下記の説明のように日本だけの評価ですが、現代の日本人もこの器の面白さが理解できる御仁はそうはいますまい。

そういえば最近の「なんでも鑑定団」に同時期にて同じ窯で焼かれた染付の作品が出品されていました。染付は評価が低いのですが、なんと40万の評価額でした。このような染付の作品は当ブログでも何度か登場しています。なんでも鑑定団に出品された作品より絵付の面白さは数段上ですが、いくらなんでも40万円では買う人は誰もいません。



本作品と近似した明末赤絵の作品群もまた前に投稿したように「なんでも鑑定団」に出品されていますが、これも高値すぎます。当方でのブログにもこの作品群を投稿していますがこれもまた通常の価格の10倍の高値です。



「なんでも鑑定団」では鑑定を間違えることは時折しかありませんが、常に評価金額は通常の価格の5倍から10倍の高値の高値ということを心得ておく必要があります。この値段で引取りなら小生はすべて売却します。骨董に価格の妄想は禁物です。

さて本日の作品はこれらの作品群を産出した漳州窯の作品のひとつです。「天下一」と記された作品は数多く存在し、こちらもむろんそれほどの高値ではありません。

明末呉須赤絵 天下一大皿
合箱入 
口径350*高台径180*高さ75



別称として「五彩天下一魚文盤」と称される作品で、製作時代は明時代 17世紀、窯は漳州窯で呉州赤絵の作品に属します。いかにもえらそうな名称ですが、これらは下手物には相違ありません。



本ブログになんども登場してる「呉須赤絵」の作品ですが、改めて説明しますと

「呉須赤絵は日本との関わりが深く日本では、呉須赤絵と呼ばれていますが、欧米では広東省北部の汕頭付近で作られたと考え、「スワトウウエア」(汕頭磁器)と呼んでいます。製作年代は,明末~清初(16世紀後半~17世紀)頃で、製作地は今まで福建省南部から広東省北部とされていましたが、近来、明時代の漳州窯(漳州地域 福建省南端部)に、分布する事が明らかになってきました。今後は益々、窯址研究が進んで行くと思われます。



又、呉州手の磁器は、ヨーロッパのみならず世界各地に輸出され(東南アジアから西アジア、アフリカに広がるイスラム圏)東西交流の焼物史資料として貴重なものです。日本との関わりは古伊万里や古九谷、吉田屋は勿論のこと、江戸時代の多くの陶工(尾形乾山、奥田頴川)等が、この呉須赤絵を模写しています。しかし私見では日本で製作されたものとは根本的に味という点では違いがあるように思います。



なかでも、呉須赤絵写しの窯として愛知県の犬山焼は特筆すべきで、呉須赤絵の生産に関して群を抜いて居り、そしてそこから、雲錦手と言う独自の素晴しい作品が生まれました。近代では、北大路魯山人や荒川豊蔵等、昭和を代表する陶芸家達が、この呉須赤絵を忠実に写し、作品を残しています。



砂高台の粗雑な作りの磁器では有りますが、民窯の豪放な絵付等、江戸時代より日本人の感覚にマッチし珍重された事もうなずけます。この手の作品と同様な作品が「平凡社陶磁大系45 P45」に所載されていますが、天下一とは明らかに和語(安土桃山時代の流行した)で有り、日本向けに制作された事は疑いがありません。なお作品の多くは「天下一」が擦れて消えていることがあります。(本作品のように「天下一」が読み取れる作品は貴重です。)」

「天下一」は当時日本での流行語らしい?です。



釉薬が青味がかっていますので、安南手や犬山焼の疑いもありましたが、一応明末赤絵に相違ないように思われます。



虫喰は残念ながら?金繕いされています。



びっくりしたのは保存箱・・。これは立派ですが、大きさからもともと本作品の専用の保存箱とは思われません。さて、別の箱に転用するかな? 



呉須赤絵の真骨頂はなんといっても絵の味ですね。それと古いこと・・。清初から下ると虫喰もなくなり、高台や釉薬も綺麗になり、絵付から筆の勢いも消え、ほとんど見るに値しない作品となります。

下手物には下手物の味というものがあります。綺麗になっては味が落ちるというものでしょう。この世にはそういう御仁や作品がたくさんあるものです。下手物を軽んじていると世の中はつまらないものです。かくいう小生もまた下手物の内らしい。

骨董と一緒に風呂に入ったり、布団の中で抱いて寝る輩が本当にいるようですが、それはちょっと異常です。骨董蒐集の本当のお宝は「いいものはいい」と感じることであり、真贋ばかりをどうのこうのとの事象では無いように思われます。むろん売買される骨董の評価額などは問題外。










源内焼 その71 三彩菊花紋様陽刻長皿

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子供の成長は早いものです。

義父と息子は落花生の殻剥き・・。



義父が幼児の頃に着ていた着物が整理した荷物から出てきていました。息子がそろそろ寒くなってきたので着始めましたが、なんと80年ぶりでのこの着物は復活したのです。生活の道具のすべては骨董に通じるが小生の信条です。ただゴルフ道具ばかりは高いわリにはさっぱり趣がなく小生の嫌いなものの代表格・・、ゴルフに凝る御仁の意図がさっぱり解りません。



日向ぼっこしながら家内の手伝いで布団剥ぎ・・。



パソコンの買い物に付き合うとパソコンを使い始めました?? まだ2歳前・・・。



親の日頃の行動を真似るのが子供の習性のようです。働くのを見せるのが一番・・。休みだからといって寝ているばかりいると親に似るらしい。親が怒ってばかり、愚痴ってばかり・・これはいけませんね。この時期の子供、「三つ子の魂、百」までというらしい。ともかく一生懸命に親を手伝う息子ですが、なにはともあれ元気に育つことが一番の親孝行です。

本日は本ブログで繰り返し取り上げている源内焼ですが、未だに知名度は低いようです。インターネットオークションに出品されている「源内焼」と記されている作品はまったく源内焼とは異なる作品が多く、また明治期の再興窯による作品が多く、その作品らは下卑ていて本来の源内焼とはまったく異なる作品群です。

源内焼はどこか洒落ているところがあるものです。本日紹介するのは実用的な長皿です。

源内焼 その71 三彩菊花紋様陽刻長皿
合箱
幅223*奥行108*高さ25 



当方のブログに掲載されている「源内焼その10 三彩菊花紋様陽刻四方皿」と同じような作品です。



下記に本作品と並べて撮影した「源内焼その10 三彩菊花紋様陽刻四方皿」は本ブログでアクセスの多い源内焼の投稿作品です。この手の作品は源内焼の分類に入らないと思われている方もおられるでしょうが、間違いなく江戸期の源内焼であろうと当方では判断しています。



源内焼の作品はすでに70作品を超えており、あえて記事にする題材が少なくなってきましたが、源内焼の作品の種類の豊富さは意外に多いようで改めて源内焼の作品群の奥深さを知りました。



間違いなく将来は高く評価されていく品々だと思っています。さて本日の源内焼の作品も購入時は前掲載のように汚らしい状態であったので汚れを落としてみました。その状態で「源内焼その10 三彩菊花紋様陽刻四方皿」と並べて撮影しました。



そっくりな紋様ですが「源内焼その10 三彩菊花紋様陽刻四方皿」に使用されている白釉がアクセントとして効いています。



本作品の長皿も汚れを落とすと洒脱だと思いませんか?



浮世絵の彫師が絡んだどこか日本情緒のある源内焼・・、読者の方も一品いかがですか

日本の器の歴史くらいは知っておいて損はありません。漆器、陶磁器、そしてさらに書、日本画くらいは・・・。親にそういう素養があると子供はそういう姿を見ていて教えなくても身につくもののようです。





天保浅絳冬景山水図 中林竹洞筆 その6

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帰宅して着替えていると家内が寝室の扉にクリスマス飾りをしてありました。子供と小生は大はしゃぎ・・。



部屋の照明を消すとうっすらと見えるという畜光をするステッカーらしいです。子供は照明のスイッチを指さして「ママ、ピ!」と何度も点けたり消したりさせてじっくり見ていました。
100円ショップで買ったらしくふたつで200円也。



本日は南画の山水画の中で素人受する冬の景色を描いた山水図です。水墨は冬の情景を描くのに適した画材のように思われます。

この作品は中林竹洞の作品であり、中林竹洞のその6となり、詳細な説明は他の投稿作品を参考としていただくことでご了解願いたいと思います。

落款には描かれた年号が記されており、作品の題名は「天保浅絳冬景山水図」としております。

天保浅絳冬景山水図 中林竹洞筆 その6
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 田中柏陰鑑定箱 
全体サイズ:縦1930*横560 画サイズ:縦1260*横410



「天保癸巳(みずのとみ、きし)清和月写 竹洞山人」とあり、1833年(天保3年)、55歳の時の作品であると解ります。清和月は旧暦の4月のことのようです。保存状態もよく、大幅で竹洞の作品中でも傑作の部類に入るかと思います。印章は「成昌之印」と「竹洞自□」の白文朱方印が押印されています。



鑑定箱には「大正十一年壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)之秋日題画於□禅壷中 柏陰主人鑑 押印」とあります。

 

鑑定箱の「柏陰主人」は画家であり、竹田系統鑑定家の田中柏陰のことでしょう。

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田中柏陰:日本画家。静岡県生。本名は啓三郎、字を叔明。別号に静麓・孤立・柏舎主人・空相居士。京都に出て田能村直入に南画を学び、竹田・直入の画風を継ぐ青緑山水を能くした。京都と山口県右田に画塾を設け、多くの後進を育成し、関西南画壇の重鎮として活躍した。竹田系統鑑定家の第一人者でもある。昭和9年(1934)歿、69才。

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中林竹洞は南宋画的な絵よりも、色彩画の上品な味わいのある絵が竹洞の真骨頂といえます。他の本ブログでの紹介作品「汀蓮白鷺之図」がそれに相当する作品といえるでしょう。



竹洞の作品は特に印象が強いわけではなく、現在は画家としてそれほどの注目を集めていないのが現状です。しかし竹洞は『芥子園画伝』や『佩文斎書画譜』などの画論に精通していたのに加え、中国絵画を多く臨模して作画に活かしたことで、生存当時は日本文人画の第一人者と称された画家です。



日本の文人画家を論じる上で竹洞に注目すべきであり、さらに伝存作品、著作ともに多く、比較的容易にその精神に触れることができ、19世紀の文人画を理解するためには最も適当な画家であることには相違ないでしょう。そして何よりも真理を探求し、軽佻浮薄に流れない竹洞のストイックな生き方は共感をよぶものがあります。



その画風は清代文人画正統派の繊細な表現スタイルを踏襲。幕末日本文人画の定型です。長男・中林竹渓、三女・中林清淑も南画家です。

南画は明治以降はその魅力を失い、富岡鉄斎や松林桂月などの実力のある一部の画家を除いて優秀な画家が輩出されることもなく廃れいき、今ではまったく評価されていませんが、その魅力は作品の中で生き続けています。

サンタのステッカーに雪景山水図・・、今年の我が家のクリスマスは暖冬での雪不足にはならないようです。新しきもの、古きもの・・、どちらも愉しむのが現在を生きる我々の賢い暮らし方です。



氏素性の解らぬ陶磁器 阿蘭陀焼?花文鉢

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天井裏は物置・・??? 男の隠れ家を作り続ける魂がまた疼き始めます。



眺めはいい。ただ夏は暑く冬は寒い。これをどうするか・・。ともかく資金調達・・・、骨董の処分か・・。



息子は寒くなってきたので先輩から戴いたオーバーを着始めました。



息子は車好き? 遺伝? もともと子供は車好き・・。



さて本日は氏素性の解らぬ陶磁器です。氏素性の解らぬ作品なら星の数ほどある。

阿蘭陀焼?花文鉢
合箱入 
口径240*高さ38



製作時期は幕末から明治の頃と記されていますが詳細は不明です。



そのまま置いてあると陶磁器ショップのセール品??

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阿蘭陀焼:江戸時代、オランダ船がもたらしたヨーロッパ各地の陶磁器を、日本人は「阿蘭陀焼(おらんだやき)」と呼んで珍重していました。18世紀後期・産業革命下のイギリスで銅版転写技術を用いて文様を施す軟質磁器(プリントウェア)が生産されはじめ、19世紀にはオランダやベルギー、フランスへ生産地が広がりました。

プリントウェアの文様はヨーロッパ各地の風俗・名所風景画や理想化された中近東・インド・中国の風景画など、当時のヨーロッパ社会の好みを色濃く映し出しています。こうしたヨーロッパ製プリントウェアはオランダ商人経由で同時期の日本にもたらされ、人々の目を驚かせました。

日本人はこのプリントウェアもまた「阿蘭陀焼」とよび、さらには西洋の風景・人物をモチーフに取り入れた手描きの染付陶磁器(「阿蘭陀写」)まで作ってその異国情緒を楽しんだのです。

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口縁部分はプリント、見込みは手書きかな。



それなりに時代はありそうです。



箱は無残・・、もともとの収納箱かどうかはわかりません。このような氏素性の解らぬ作品は数千円での購入です。



菓子鉢? 菓子皿では・・。



ともかく骨董は氏素性の解らぬものたちとの出会いの場です。わけのわからぬ天井裏に潜り込んだよう気になることがあります。
解ってしまうと眺めはよくなり、オーバーを着たように暖かくなり、好きな車に乗ったように快適な気分・・



氏素性の解らぬ作品 刀鍔蒔絵印籠 伝水谷秋登甫作

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近所の親戚の方が不要なものでリサイクルできるものを引き取ってくれるということなのでで急遽、週末の早朝より駐車場に置いてある不用材を処分することになりました。

義父が農作業で使うものがメインなので任せておいたら、義父が煙草入れのようなものを持って来て「これ捨てる?」と言ってきました。その品物は木製の彫りものの作品で今で言うと「お土産品」程度のようなものですが、物自体が古いものなので「とっておきましょう」と答えました。

そうこうしているうちに義父が一人ではたいへんなので、家内と小生も手伝い始め、材木やら農作業の道具やらを仕分けてリサイクルで処分できるものを選んでいると、家内が隅に置いてあった缶の中身を全部出して広げはじめました。

最初に目をひいたのが袋・・。なにやら「町田銀行」とあります。町田にこのような銀行あったの? 



袋の絵柄は恵比寿様。内側は高級そうな絹・・。



なにやらお金に縁がありそう・・。こいつは捨てないでとっておこう。



その他に二個の印籠がありましたが、一個は痛みがひどく捨てることにしました。もう一個は多少痛みがありましたが、状態がまだ良いので捨てないことにしました。



日本人が思っているよりも海外で高額の取引となっているのが印籠と根付ですが、高額で取引される作品はかなり出来の良いもので状態もしっかりしたものです。

海外で高額で取引される江戸期の著名な作家の作品は明治期には模倣品が出回っていたようです。根付に至っては中国の練りで作られたものが象牙として売られており、小生も騙された経験があります。素人目には見分けが難しいです。実際には高額で取引されるような作品は当然ながらかなり数が少ないのが実情のようです。

処分するはずのごみから見つけた印籠、はたして鑑定や如何に?

本作品を「題する」と下記のような題になろうかと思います。

刀鍔蒔絵印籠 伝水谷秋登甫作
根付:硝子徳利(珊瑚玉) 
四段重螺鈿高蒔絵 桐箱入 底銘



底には銘が記されており、「水谷秋登甫作」とあります。調べると「水谷秋登甫」は印籠を作った江戸期の有名な漆芸師のようです。

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水谷秋登甫:漆芸師。活躍した時期は江戸期寛文年間より寛保年間で尾形光琳や小川破立らの活動時期と同じです。出来のよい作品は欧米で人気があり高額(1000万弱)で取引されている。

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僅かのことしか当方の資料では解りませんが、江戸中期の人物ということのようです。家内の実家は宝暦の頃から続いているので所蔵していた可能性はあるのですが、明治の頃の模倣作品かもしれません。



痛みはあるものの出来はよさそうです。本当の刀鍔のような金属の材質感があり、刀の鍔をデザインした印籠は小生は初めてみました。おそらく類例はかなり稀だと思います。

有名な作りに「立翁細工」というものがありますが、本作品がその作りかどうかは、残念ながら印籠については小生の蒐集対象外ですので詳しいことは知りません。



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立翁細工:小川破立が蒔絵に鉛・金・銀・銅・鉄・陶器片・象牙・ギヤマン(硝子)など、多種多様な美しい異物を混然と嵌入して、時にはその上にさらに蒔絵を凝らすという、独自のいわゆる一種の蒔絵破笠細工(笠翁細工)を生み出し、派手好みだった当時の人々に大歓迎を受けました。

鉛の使用は本阿弥光悦らにもみられますが、作風は光悦の侘び寂びとした純和風に対し、かなり異国風(中国趣味)が感じられます。ただし当時から小川破笠は人気作家だったので、本人が手がけた作品以外にも彼の工房製、つまりは弟子の手による作品も「破笠細工」として流通しています。

近代になって、欧米でも評価が高くなったことにより、輸出目的で製造された明治以降の職人の手による「破笠風に作られた新作」も多く存在します。

幕末の漆芸家柴田是真もしばしば破笠写しの作品を作り、外国人観光客に売っています。小川破立・水谷秋登甫・野村九国・野村摴平・三浦乾也・貞二などの作品にも見られます。

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取り合い部分にも絵柄が描かれています。



根付はガラス?? 古ガラスというものでしょうか?



玉は珊瑚??



缶の中にはその他の作品として根付も・・、それらはまた後日。

水谷秋登甫については海外におけるオークションの記録でいくつかの作品を見つけることができます。下記の作品の落札金額は約170万円のようです。



下の作品はかなりの力作で約500万円での落札です。



ほかに写真はありませんでしたがいいものになると1000万円弱の落札のようです。

贔屓目かもしれませんが上記のふたつの作品よりは本作品のほうが私は好きですね。出来もよいように思います。なんといっても刀の鍔のデザインがいいです。売り払って放蕩三昧などという罰当たりなことを考えてはいけませんね。

早起きは三文の得・・、捨てていたら縁のなかった作品です。痛みや使用した跡がありますが三文くらいの価値はあるかもしれません。町田銀行?の袋といい、印籠といいなにやら朝から得した気分になりました。

ガラクタやごみの中から掘り出し物が見つかるということは私の骨董蒐集の経験としてはときおりあることです。ただそういう機会とどうめぐりあいをつくれるかがポイントです。たとえば知人が古いものを処分する際に私が骨董蒐集が好きであるということを知っていないと処分する際に声をかけてくれませんから・・。ただめやたらに掘り出し物があるということでもありません。

古くから家内の実家に伝った作品です。私の所有物ではありませんが痛んでいる部分を修復しようかと思いますが、印籠の修理を受け付けているところはあるのかな? それとも手を加えずこのままがいいのか・・。下手すると早起きは三文の損になりかねませんね。

ちょうど印籠を収納する箱だけが空いているのがありましたので保存箱として使うことにしました。印籠棚に印籠掛け・・これもどこかにあったはず・・。男は凝り性なものです。

印籠などのように昔の男の趣味は粋だった。昔の男の趣味はゴルフ三昧などという実に安っぽい趣味ではなかったです。




芭蕉に蛙 蓑虫山人筆 その7

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最近のなんでも鑑定団に伝秋月等観筆の「羅漢図 双幅」が出品されたようです。小生は観ていなかったのですが、当方の投稿作品であった下記の作品とよく似ていました。

羅怙羅尊者像 伝秋月等観筆紙本水墨淡彩軸装 無落款 古筆鑑定書有
全体サイズ:縦1920*横600 画サイズ:縦1150*横465

安河内真美さんの評は「落款・印章がないので秋月とは断定ができない。ただとても古いのは確かだと思われる。江戸時代の初期くらいはあるのではないか。右側に描かれた白髪の人物が第一羅漢の賓頭盧(びんずる)。仏舎利を持っているのが第十羅漢の半託迦(はんたか)。虎を従えているのが第六羅漢の跋陀羅(ばだら)。通常は十六羅漢全てを描くものだと思うので、依頼品はおそらく何かからの離れではないか。(評価金額:60万)」ということでしたが、見る限り投稿された作品のほうがたしかなものように思われました。60万とると双幅ですから一幅30万・・。この金額なら小生の作品は売りますね。購入金額はこの10分の1以下・・・。掛け軸はそんなに高くはないものです。

本日は我が郷里と縁のある画家「蓑虫山人」の作品です。どうしても欲しかった一品でした。ようやく入手できましたので紹介します。蓑虫山人についての詳細の説明は他の投稿作品を参考にして下さい。
蓑虫山人の作品の入手は意外に難しい。ネットオークションに出品されている作品はどうも怪しいと思わざる得ないものばかりで、一時期人気があったので思いのか値段が高くなり贋作があるようになったので蒐集には慎重をきするようにしなくていけません。市場には駄作はたくさんあっても、秀作はなかなか出てこないようです。

芭蕉に蛙 蓑虫山人筆 その7
紙本水墨淡彩軸装 軸先練箱入 
全体サイズ:横615*縦2015 画サイズ:横484*縦1330
(参考価格:思文閣「年々如意大吉之図」画サイズ:横470*縦1270  45万)



蓑虫山人の作品は郷里の知り合いがいくつか作品を所有していました。秋田県扇田の素封家から譲り受けた作品と聞いています。手放した作品をなんとか入手にこぎつけた作品がいくつかあります。



その作品の中でも一番気に入っていたのが本作品です。西郷隆盛を助けたといおう逸話の持ち主の蓑虫山人、全国を行脚した蓑虫山人・・。



印章と落款は下記の写真だけを頭に入れておくとよいでしょう。



墨たっぷりで一気に描きあげたスピード感のある作品です。



斉白石、呉昌碩に並ぶ水墨画の達人と言えるでしょう。




氏素性の解らぬ作品 三彩 鴛鴦文陶枕

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先週の家内のお茶の稽古は「夜噺茶会もどき」・・・。

正客に据えられた息子と小生はしどろもどろ・・。席に入り、正座した息子に家内と家内の友人、先生のご子息が製作された掛け軸をまず鑑賞。「この靴下は君の靴下だよ。そう足が大きくなって入らなくなったんだよ。」・・、たいへん芸術レベルの高い話を二歳になろうとしてる息子と話しております。濃茶の時点で息子はとうとう眠くなって暗いところは嫌になり、小生は外で息子の子守とあいなりました。



本日の作品はまったくもってよく解らない作品です。前述の掛け軸のことではありません。

本作品は古そうで、釉薬は剥がれている部分が多くあり、裏面の胎土は今にもぼろぼろと崩れてきそうです。古い発掘品にある状態のようです。

三彩印花鴛鴦文陶枕
幅205*奥行184*高さ137
化粧箱入 



鴛鴦文陶枕(えんようもんとうちん)と読みます。そう陶器製の枕です。



三彩といえば唐三彩、遼三彩、さらに磁洲窯にもありますし、明時代にもありますが、本作品は遼三彩のように思えるですが・・。交趾焼にも似ています。



ちょっと触るとどこかが剥がれるという感じです。よくある薬品で古色をつけたという贋作なのでしょうか?



前に紹介した緑釉の麒麟像もこのような感じでした。



さらには漢の緑釉の壷もそうでしたが、どちらかというとペルシャの発掘作品に状態が似ています。現在は唐三彩の発掘が進み数が多くなり、漢の緑釉の壷などは暴落しましたが、このような三彩もそうかもしれません。



内側は胎土が丸出しでこれでは水洗いは禁物です。薬品によって煮沸などの古色をつけることは不可能ですね。



埋葬品のようにも思えます。「ぐっすり寝てください」という意味でしょうか? 夫婦のお墓? 鴛鴦夫婦の・・・。



贔屓目かもしれませんが飾ると良き雰囲気があります。



騙されたと思って所蔵しておきましょう。

「さ~、息子よ、ぐずらないで早く寝りなさい。」帰りの車中で家内と小生(鴛鴦?)に挟まれてすぐに寝息をたてました。

山水図 木村兼霞堂賛画

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今月から勝手口で農作業で採れた野菜を処理したりするのに寒いと義母がいうので、勝手口の改修を倉庫改修した工務店に依頼して工事を始めました。



たしかに風が吹き込んで寒い・・。



工事は解体もあっという間・・・、工事もあっという間・・・。



外壁は既製品を選択・・。なかなかいい感じに仕上がってきました。



不用材を軽トラックで家内と運んで焼却場へ・・。



焼却場に隣接したリサイクル家具展示場で掛け軸の保存棚を購入。ごみを処分してごみをまた運んできた? 意外に安くいいものがあります。



半年以上片付いていなかった玄関がさっぱりし、クリスマス飾りですが、これも古い・・、異常な音がする??



おっと、本日の作品は現在茶室に掛けられている作品です。

山水図 木村兼霞堂賛画
紙本水墨軸装 軸先竹 合箱
全体サイズ:縦2020*横385 画サイズ:縦1310*横260



遊印「生涯画筆兼訕筆」(朱文白長方印)が押印され、「虚亭林木裏 傍水着欄干 試展?蒲園主? 葉聲生早寒」の賛があり、「右唐六如詩」とされ、「孔恭 押印(「金坤?之印」の白文朱方印、「□□□」の朱文白方印)」



「右唐六如詩」とある「唐六如」は「唐寅」のことのようです。

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唐寅(とういん):(1470年-1523年)。中国明代に活躍した文人である。書画に巧みで祝允明・文徴明・徐禎卿と並んで呉中の四才と呼ばれた。字は伯虎、後年、仏教に心を寄せたことから六如と号した。

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木村 蒹葭堂(きむら けんかどう):元文元年11月28日(1736年12月29日)~ 享和2年1月25日(1802年2月27日))。江戸時代中期の日本の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。名は孔恭(孔龔)、幼名は太吉郎(多吉郎)、字を世肅、号は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)、通称 坪井屋(壺井屋)吉右衛門。蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。

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補足

蒹葭堂は生まれつき病弱で手がかかる子どもであったので父より草木を植えて心を癒すことを許され、やがて植物や物産への興味に繋がっていく。極めて早熟であり、10代はじめから漢詩や書画の手ほどきを受け、その才能は周囲の大人たちを驚かせた。15歳のとき父を亡くす。

家業を継いでからも学芸に励んだ。21歳のとき示子(森氏)と結婚。23歳のとき、後の混沌詩社の前身となる詩文結社 蒹葭堂会を主催し、定例会を8年続けた。31歳のとき京都丸山の也阿弥で催された物産会の品評執事を三浦迂斎や木内石亭と務めた。33歳、長女生まれる。近年「浪速の知の巨人」と称され評価が高いが、事実、本草学、文学、物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画や煎茶、篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人であった。



また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの大コレクターとしても当時から有名であり、その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の元に訪れた。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には延べ9万人の来訪者が著されている。漢詩人、作家、学者、医者、本草学者、絵師、大名等など幅広い交友が生まれ、個人としては最大の知のネットワーカーとなり、当時の一大文化サロンの主となった。

寛政2年(1790年)55歳のとき、密告により酒造統制に違反(醸造石高の超過)とされてしまう。酒造の実務を任されていた支配人 宮崎屋の過失もしくは冤罪であるか判然としないが、寛政の改革の中で大坂商人の勢力を抑えようとする幕府側の弾圧事件とみるべきだろう。蒹葭堂は直接の罪は免れたが監督不行き届きであるとされ町年寄役を罷免されるという屈辱的な罰を受ける。



伊勢長島城主増山雪斎を頼り、家名再興のため大坂を一旦離れ伊勢長島川尻村に転居。二年の後に帰坂し、船場呉服町で文具商を営んだ。その後、稼業は栄え以前にも増して蒹葭堂は隆盛となった。享和2年(1802年)歿す。享年67。天王寺区の大応寺に眠る。

彼の死後、膨大な蔵書は幕命により大部分は昌平坂学問所に納められたが、帝室博物館書目に昌平坂学問所の蔵書印が押された蒹葭堂蔵書の一部が確認できるため、いくつかの過程を経て一部散逸してしまったことははっきりしている。昌平坂学問所に納められた大部分は、現在内閣文庫に引き継がれている。

谷文晁による『木村蒹葭堂像』(重文)は彼の死後2ヶ月経過した享和2年3月25日に描かれた。昭和35年3月、大阪市によって木村蒹葭堂邸跡地に顕彰碑が建立された。顕彰碑は現在、木村蒹葭堂邸跡地近くの大阪市立中央図書館の横に建てられている。

交友者・来客者:高芙蓉 十時梅 福原五岳 野呂介石 青木夙夜 与謝蕪村 伊藤若冲 円山応挙 岡田米山人 田能村竹田 頼山陽清水六兵衛 頼春水 上田秋成 本居宣長 
佐藤一斎 皆川淇園 司馬江漢 青木木米 谷文晁 浦上玉堂 桑山玉州 大田南畝
釧雲泉 蠣崎波響 大原呑響 春木南湖

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皆様におかれましては愉しいクリスマスを経て、安らかな年末で良き年が迎えられますように・・・。






氏素性の解らぬ作品 観桜美人図 三木翆山筆 その2

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引越し荷物を片付けて見つけた宝物がこの陶器。どうも車の形をした灰皿らしい。楓の木材の上に乗せてみました。



ずいぶんと前からあったもののようですが、今作られたような新品のごとく保存状態のよいものです。応接間の飾りにテーブルの上に落ち着くようですが、むろん家では誰も煙草を吸いません。窓台には黒柿の手あぶりに蚕の糸巻きを入れて鉢飾り・・。飾りは至ってシンプルがよい。

母はいつも人目につくところに余計なものを置かないようにし、シンプルに飾っていました。床の間に掛け軸ひとつ、生けた花ひとつ・・。小生はそのような光景を見て育ったせいか身の回りに余計なものがあると片付けたくなる性分になっているようです。



床の間もそう・・。床の間の飾りをきちんとしている家は最近めったに見なくなりました。なにもいいものを飾る必要はないのですが、余計なものの置き場所が床の間というのが定番なようです。床の間がない家がほとんどですが、つまらなくなりました。床の間、仏壇置き場、神棚・・、これは日本の家の三種の神器です。これを疎かにしているから日本はおかしくなってきたのです。

さてなにやら応接間の飾りから床の間の飾りの話題となりましたが、床の間飾りまで作品を持っていくには大枚をはたいて一流の作品を購入するのか、打ち捨てられている良き作品を掘り出すのか・・。何はともあれ、床の間の美学はその両方を許容しています。



上記のように落ち着いた床の間というのを演出していきたいものです。飾った作品(非公開)の作者は読書の皆様ならお解りのはずですね。

本日の作品は落款と印章は未確認でまくり(未表装)の状態ですが、よく描けているので購入したものです。

観桜美人図 三木翆山
絹本着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1400*横540



本作品のように直感で購入することはよくあります。落款や印章が文献とあわないからどうのこうのと骨董店の店先で資料をもとに調べながら購入を決断する御仁は骨董商に嫌われます。骨董の購入とはその場での感性と知識だけで判断するものです。



骨董は直感で購入するものというのが大原則です。直感に自信のない御仁は大枚を払うのがその代償ですが、贋作をつかむのは嫌だという方は大枚を使うことです。



人を見る眼も然り・・・。これは大枚をはたいても本物とは限らないようです。



女性を見る眼などはその局地です。見かけでの判断は禁物です。外見の美しいものは常に中身は往々にして醜いものです。こういう表現は正しくないかもしれませんが、美しいものほど中身を磨かないと傲慢になりかねないということ・・。内外ともに傲慢という方も多いですが・・。男の人生で一番大切なのはどういう女性を伴侶に選ぶかです。その見極めの直観力の大切さは骨董を見る眼どころではない。感情に押し流されてもなお冷静でいられる見る眼がないといけません。



直感でいいものを嗅ぎ分けるのは難しいことですが、人生には必要不可欠な要素です。直感は常に勉強して磨くものです。勉強せずして直観力などと過信してはいけません。当方もまだまだ勉強中・・・ おっとこれはあくまでも骨董の見る眼のこと。

今は打ち捨てられたような作品を拾い集めて、床の間までどうやって持っていくかを模索中・・。むろん本日の作品がいいものかどうかは解っていません。骨董には失敗がおおいに許されるのですが、女性の見際めに失敗は許されませんよ。



氏素性の解らぬ作品 壺屋焼 黍文赤絵鉢 伝新垣栄三郎作 その2

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今週の祭日には母を家内と息子とで訪問。息子と母はどこか波長が合うようです。今は姉の居る練馬にいますが、母が住めるように建てた郷里の家に今年も墓参りもあり年末には息子と家内で帰省します。郷里に家を建てたので仕事の都合でジプシー状態でしたしたが、最終的には帰郷するつもりがいろいろあって郷里は遠くなってきました。今年は雪が少ないようです。

母とは波長が合うようです。



帰りにはご褒美にクリスマスプレゼントを買ってきました。興奮したのかその夜は寝付けず、寝てからも起き出して小生の寝床にもぐりこんできました。



人生には家族という大切なものがある。たとえ自分は一人でも他の人には家族がいるということを忘れてはならない。そのことは何事においても人に接する原点であろう。人を思いやり、自分を大切にするという基本的な理由がそこにあるし、仕事では厳しくなる理由もそこにある。

それに比したら骨董なんぞとるに足らないものものです。本日もそのとるに足らないものの投稿です。

本日は沖縄の焼き物ですが、沖縄県が指定してる焼き物として琉球焼と壷屋焼というふたつの呼称があります。沖縄の焼物のうち琉球王府時代の六古窯の流れをくみ、さらに壺屋焼の影響を受けながら沖縄県域全体で焼かれている焼物を沖縄焼と区分しており、壺屋焼以外の陶器を琉球焼と称しています。我々には解ったようでよくわからない区分ですが、沖縄で焼き物に携わる方々には大きなことなのだと推察されます。

壷屋焼というと真っ先に思い浮かぶのが人間国宝になった金城次郎ですが、さらに代表されるのが彼を含めて壷屋焼三人男と称される小橋川永昌、新垣栄三郎です。金城次郎だけが人間国宝となり有名になった感が否めませんが、実力では他の二人が上という方も多くおられます。当方では沖縄の焼き物は蒐集の対象ではないので投稿している数は少ないのですが、幾つかの沖縄の作品を紹介しています。また小橋川永昌と2代目仁王の作品も紹介しています。金城次郎、(伝)新垣栄三郎の作品についても数は少ないながら紹介しています。

この三人と関わりが深いのが浜田庄司であるということを知っている方は多いでしょう。本日はその中でももっとも浜田庄司と関わりが深かった新垣栄三郎の作品の紹介です。正確には「新垣栄三郎」の作品と「思われる作品」です。

壺屋焼 黍文赤絵鉢 伝新垣栄三郎作 その2
合箱
口径295*高台径*高さ116



箱書がないのであくまで「伝新垣栄三郎作」としています。

新垣栄三郎の作品にふれるのは本ブログでは2回目となります。

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新垣栄三郎:1921年(大正11年)に生まれ。13歳の頃にはロクロの仕事をし、一中(首里高校)を卒業後、濱田庄司、河井寛次郎両氏のもとで1年間修行しています。しかし、父栄徳は焼物よりももっと待遇のいい仕事に就かせたかったようで、教員の仕事を息子に望み、栄三郎は台湾の学校を卒業して教職に就いていました。

父栄徳が亡くなった後、壺屋小学校での仕事を最後に教職を辞め本格的に作陶を開始。沖展や国画展などに出品し、金城次郎と二人展を開始しています。

1961年から琉球大学で教鞭を執り(助教授となっている)、工房では分業制を確立していました。長男勲はロクロや壺作りを専門とし、次男の修はお皿や湯呑み、三男の勉も同じようにロクロ物を中心に製作、その時、太郎という職人がおり、彼は土作りと抱瓶、角瓶などの型物を製作、菊おばさんは線彫の加飾を中心にしています。染め付けは栄三郎の奥さんが行っていました。さらに窯詰めはハルおばさんで、ハルおばさんは時間が空くと抱瓶などを製作、一さんは小さな楊枝壺と土練機の担当、娘の紀美江は主に販売だったそうです。

壺屋ではどの工房でも家内工業でしたので、従業員もほとんどいなかったそうです。例にもれず新垣栄三郎の窯も家族で分業を行っていたようです。1人が同じものをたくさん作っているので、ひとつとしておかしい製品は出てこない、素晴らしい製品を作り出していました。それは化粧の細かさ、形の端正さに現れています。一日おきに窯を焚いていたので生産量もすごかったと推測され、壺屋に組合の販売店が出来た頃、新垣製陶所の売上は組合の半分近い量を誇っていました。それだけ新垣の窯では、安定したシステムの中で、品質が端正で綺麗な製品が作られていたとのことです。

子息の新垣勲は現在の壷屋焼の第一人者といって過言ではないでしょう。

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新垣栄三郎については知らない方がほとんどでしょう。



新垣栄三郎の模様についてはサトウキビをアレンジした文様が特徴で、濱田庄司の「黍文」と同じように、数多く使われたデザインが非常に特徴的です。このような文様を多く描き、非常にモダンで幾何学的な文様の作品になっています。

形態的にはユシビン等に見られるように、叩いて、もしくは削って面取りをして、そこに模様を描くというのが、栄三郎ならではの形態の特徴です。この辺りは、濱田庄司の影響もあるのかと思われますが、さらに国画会の会員でもあるので、そういった影響もあろうかと推察されます。



他に線彫、赤絵、飛び飽という技法の併用も見られ、全体的にみて非常にモダンでごちゃごちゃしていない、どちらかというと壺屋焼の作品では文様をたくさん描きたがる傾向にあるようですが、栄三郎の作品は全体にすっきりした抽象的な文様を描いています。



新垣栄三郎の文様は具象が少なく、一方で仁王(永昌)は鳥や花などにしても具象的に描いていますが、栄三郎は抽象的な文様を描いています。また栄三郎は電動のロクロは使わず、亡くなるまで蹴ロクロで作陶されていました。ロクロの技術がとても素晴らしく、非常に手が細かく緻密な仕事をしています。



文様には浜田庄司の影響が明らかですね。



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浜田庄司は、新垣の工房でロクロを引いて作品を作っています。浜田庄司は赤絵の作品も新垣で焼いていたようです。浜田庄司の沖縄での作品はフースー窯もガス窯も両方あるとのことです。浜田庄司が沖縄に来ると、たくさんの人がぞろぞろとついてきて、いろいろなことを浜田庄司に聞いたりしたようです。

浜田庄司が新垣栄三郎の窯でお昼休みをしていると、たまたま栄三郎の抹茶茶碗を買った客が「箱書きがない、困ったなあ。」と言っているところへ、浜田庄司が「では、私が箱書きを書いてあげましょう。」と箱書きをしたことがあるそうです。当然ながら客はこの茶碗より箱書きの方が大事だと言って喜んだそうです。

仁王窯では小橋川秀義さんという方がほとんど箱書を書いています。製品が売れると、秀義さんを捜しに壺屋を探し回ったという逸話があるそうです。仁王窯は製作者本人が箱書をしていないらしい・・。

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ところで浜田庄司の赤絵の作品は浜田庄司の作品の中でも群を抜いて人気が高いことは周知の事実ですが、主に沖縄で製作した作品ではないかと推察されます。沖縄の赤絵の作品は力強く陽気な雰囲気があって魅力的です。



本作品については箱がないので新垣栄三郎の作品次か否かは後学とせざる得ません。浜田庄司も箱書がないと本人作と断定できないという・・・。作品の出来不出来での判断になりますが、絵付の筆の勢いとかで判断するのでしょうが、当方では判断できません。沖縄の壷屋焼にも贋作があるのでしょうか?

とるに足らないものにこだわってしまうのが人の世の常ですが、とるに足らぬものと会得するまで人は学ぶものが多いようです。

メリークリスマス、息子よ、学べ! 学べ!!  



氏素性のわからぬ作品 壺屋焼 青釉魚文大皿 

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玄関の飾りが難しいときがあります。ごちゃごちゃ飾らずひとつかふたつでピシッと決める飾りです。高級品は玄関ですからいけません。たとえ壊れても盗まれても大きなダメージのないものにするのが玄関の飾りです。

なにか大きめの皿と思ってもいいものは値段が高くなり、当方では入手できません、そこで狙いをつけたのが、無銘の窯割の作品の出来の良い作品です。運よく?出来たのが今回の作品です。

氏素性のわからぬ作品 壺屋焼 青釉魚文大皿
口径436*高台径247*高さ87



無銘で窯割がある作品ですが、作りは初期の金城次郎の作行です。金城次郎は無銘の頃に口径43センチクラスの大きな皿を製作していますが、銘も無ければ箱も無く誰の作品かは当方では解りかねています。



豪放磊落なつくりですね、



窯傷もそれほど作品のダメージになっていません。



なんといっても呉須の絵付けが活きています。



とぼけた魚の表情がなんともいえずにいいものです。



玄関に納まりました。家内の誕生祝いの時の羽子板と共に・・。



赤と青のシルエット・・。



正月以外は・・・。とにもかくにも安らかな年末と明るい正月を迎えられんことを祈念します。



ピカソの絵のようなとは義母の表現。無銘ながらもなかなかの作品かと・・。



読者の皆様、よいお年を・・。今から雪の郷里へ向かいます。




氏素性の解らぬ作品 浴後美人図 水野年方筆

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読者の皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。おかげさまで年末年始は郷里でゆっくり過ごしてきました。

年末には義父が畑で作った落花生と京芋を会社でおすそ分け・・、家では食いきれないようで・・。とても美味しいのですが、なんといっても調理の手間のかからない落花生のほうが人気が高いようです。落花生は義父と義母と息子の三人の共同作業の賜物。



さて、本日は明治期の浮世絵師の水野年方の作品です。現在人気がある月岡芳年の弟子であったことは周知のことですが、気難しいことで知られる月岡芳年の指導は厳しかったようです。

骨董蒐集を始めた頃に骨董店や骨董市に山積みされた浮世絵版画を漁ると、水野年方の作品を見つけ、その作品を購入したりしていまいした。その後に資金調達を目的としてほとんどを手放しましたが、いくつかは著名な作であったものもあり、惜しいことをしたものと後悔しています。資金調達のために作品を手放すことはやむ得ないことで、今も進行形ですが、その判断は慎重にすることが肝要と思われます。

浴後美人図 水野年方筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1150*横320 画サイズ:縦320*横220



彼の経歴には本ブログで関わったり、紹介した数多くの画家の名前が出てきます。リンク先を見ていただけると紹介作品が出ています。

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水野 年方:(みずの としかた)慶応2年1月20日(1866年3月6日)~明治41年(1908年)4月7日)。 明治時代の日本画家、浮世絵師。

生い立ち: 月岡芳年の門人。元の姓は野中、通称は粂次郎または粂三郎。 応斎、蕉雪と号す。神田東紺屋町に住む左官の棟梁・野中吉五郎の長男として生れる。

生来絵を好み、父の仕事を継ぐべく仕事場に行って土捏ねをするさなかに、漆喰にコテを使って絵を描いていたという。それを見ていた出入りの旦那が、年方の父に向かって「こんなに(絵が)好きなら一つ習わせてみたらどうか。失礼ながら(年方は)職人には惜しい品の良い子、骨細で色白な、日盛りの土蔵の屋根で仕事をしている柄ではない」と説き、父も年方が嫌と言えなかったことを不憫に思い、絵の道に進むのを認めた。



修行時代:父の許しを得た年方は、明治12年(1879年)数え14歳で月岡芳年に入門し浮世絵を学ぶ。しかし、この頃の芳年は借金をして遊郭に入り浸るなどの不行跡が目立ち、これに我慢ならなかった年方の父が翌年には連れ戻している。

その後生活のため一時、鈴木鵞湖門下の山田柳塘に陶器画を学び、薩摩陶器画工場神村方の職工長となっている。16歳のとき父を亡くし、陶器の下絵やビラ絵を描いて自立している。

明治15年(1882年)に芳年が第一回内国絵画共進会に出品した「藤原保昌月下弄笛図」(ウースター美術館蔵)で名声を得て、翌年これを錦絵にして出版されるなど、芳年の社会的評価が高まるに乗じて、年方は再び芳年に師事する。

なお水野姓に変えたのも芳年再入門と同じ頃である。芳年は弟子を大変可愛がった反面、気に食わぬ事があれば、六尺棒を振りかざしてどやしつけ、破門すると言っては叱りつけるような、厳しく難しい人柄だった。結果、通わなくなる弟子も珍しくなかったが、年方は熱心に通い、芳年の叱責にも涙をこぼしながら黙って聞いていたという。



独り立ちと一門の継承:早くも明治17年(1884年)にデビュー、武者絵などを手がける。翌年の見立て番付「東京流行再見記」浮世絵の部では、早くも12番目に載っている。

明治19年(1886年)年頃からは『やまと新聞』に挿絵を描いて名を上げる。この時を機に、署名も「野中」から「水野」へ改めたと見られる。23歳か24歳の頃には日本青年絵画協会に出品して認められている。また柴田芳洲に南画を学び、明治23年(1890年)に芳洲が没すると、渡辺省亭や三島蕉窓について南画、花鳥画を学んだ。別号の「蕉雪」は、蕉窓との繋がりによる。一方で故実家の松原佐久について、有職故実も研究した。



明治25年(1892年)に芳年が亡くなると、年方が「二代目大蘇芳年」を名乗るのは取りやめになったが、実質的に芳年一門の後継者に推された。明治28年(1895年)創刊の『文芸倶楽部』では13年間に52枚の口絵を描き、多くの文学小説の単行本にも挿絵をよせるなど、尾形月耕と並ぶ人気挿絵画家となる。

年方の活動期は丁度日本の出版業界が勃興する時期に重なり、口絵挿絵の評判次第で売れ行きが大きく変わることから、何でも描ける年方のもとには作画の依頼が引きも切らなかった。

当時最も注文が多かった画家と言われ、生真面目な年方はどんな仕事でも依頼されれば断ることが出来なかった。錦絵でも「今様美人」のようなシリーズの他、風俗画を多く手がけ、芳年や楊洲周延の歌川派様式とは異なる、穏やかで気品のある独自の風俗画を打ち出した。



反面、本画の方でも歴史人物画家として活動し、明治31年(1898年)日本美術協会の日本画会結成に参加。第1回展に出品した「佐藤忠信参館の図」は宮内省御用品となっており、年方は日本画会の評議員になった。同年、日本美術院の創設にも参加、特別賛助員になっている。さらに日本絵画協会第5回絵画共進会で褒状1等を受賞するなど、自ら日本画を出品し各種の展覧会で活躍した。

翌明治32年(1899年)には日本絵画協会第7回絵画共進会で「平忠度」が銅牌を、明治33年(1900年)の日本絵画協会第8回絵画共進会で「富峯」が同じく銅牌を、明治35年(1902年)の日本絵画協会第13回絵画共進会で「橘逸勢女」が銀牌を受賞した。同年、小堀鞆音と歴史風俗画会を結成し、ますます歴史画に打ち込んだ。年方のこのような活動は、浮世絵師が時代とともに町絵師から芸術家へと変わりゆく時代を示すものであった。



享年43歳。死因は、当時の訃報記事では脳疾患と書かれているが、過労とも言われる。墓所は台東区の谷中墓地にあるが、管理する者もなく荒れ果て、無縁墓として撤去が危惧される。また神田神社には、大正12年5月に弟子たちが建立した顕彰碑があり、こちらは千代田区指定文化財(歴史資料)として指定されている。法名は色雲院空誉年方居士。

門下生:門下から鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園らの美人画家の他、小山光方、竹田敬方、大野静方、荒井寛方らの画家を輩出した。また後妻の水野秀方も年方に師事し、日本画家として活躍している。

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見た目から版画? 印刷と疑ってみましたがどうも肉筆のようにも見えますので検証が必要です。

印章の部分に不思議な跡がありますが、「年方」でない印章は不明な印章です。所蔵印??



痛みのある作品を表具したようです。表具は面白い図柄を使用しています。



木版なのか、印刷なのか、はたまた肉筆なのか、押印された印章は何故か? 氏素性の解らぬ作品には相違ない。



天地の表具も描かれたもののようにも見えます・・???



巻き止めにある所蔵印は「道草蔵」?? どうも作品上に押印されのも所蔵印かな?



こういう作品に関わるのを骨董蒐集における「道草」と称するのかもしれませんね。

年末には息子の2歳の誕生日。



早いものでは2年が経ちました。健やかに成長することを祈るばかりです。








氏素性の解らぬ作品 黄瀬戸釉壷 伝バーナード・リーチ作

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息子は小生が眼鏡をかけているせいか、眼鏡に興味津々のようです。義母の老眼鏡をかけてご機嫌です。眼鏡に悪さをしないようです。



本日はラブビーボールのような壷、それとも花瓶? 家内曰く「これ皮じゃない?」と思わず触ってみたそうです。ラグビー人気にあやかっての投稿作品です。

黄瀬戸釉壷 伝バーナード・リーチ作
口径*最大胴幅232*高台径*高さ302



で~んとした実に存在感のある器です。壷屋焼の作品と一緒にまとめて購入した作品ですが・・。



このようなデザイン感覚は日本人には持ち合わせていないように思われます。



ないやら刻印が押印されています。「BL」と読み取れますが、バーナード・リーチの作品? このような刻印は? 他の「バーナードリーチの所蔵作品は作品や共箱にサインなので比較できないので詳細は解りません。

たしかにバーナード・リーチは沖縄で作品を製作しています。新垣栄三郎に本体を作らせ、絵付をバーナード・リーチが製作したことが知られていますが・・。



箱もないのでバーナード・リーチの作という根拠は何もありません。模倣作(贋作)の可能性もおおいにありますね。



真贋は小生のあずかり知らぬところですが、それでもいいと思うものはいい。骨董蒐集の性ですね。

ちなみに下記のようなポスターがあります。



釉薬から黄瀬戸のように見えますね。このような作品がバーナードリーチの作品にあるのですね。さすがラグビーの国。転がるような壷です。





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