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富嶽晴望 木島桜谷筆 その5

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下原稿のままで投稿を忘れていた原稿です。

設計者である友人と勝手口の改修の打ち合わせ。隙間風で野菜の洗いなどが寒くてやれないらしいので・・。



打ち合わせ後に茶室で一服となりました。



照明や自然光で茶室の雰囲気がまったく違います。



現代の茶室は古いもの、特に流派にがんじがらめで面白くありませんね。過去の踏襲ばかりが何年続くのだろうか? にじり口は雨戸が原点で雨戸の3分の1の大きさ、扉は板が2枚半でそれがバランスが良いなどというのはとっくに解っている過去の産物。

ところでこの掃きだし用の小窓は実は外部のサッシュの鍵をかけるための窓でもあります。



それを現代でどう解釈して取り入れるのかが面白いのです。照明。エアコン、新建材、そして現代の体格、高齢化などを考慮すると私と家内の計画は予算と決められて敷地と既存の構造物からこういう茶室になったのです。



友人は自ら設計しながら、小間でのお茶は初めてらしい。そう、大工も施工者も設計も小生も初めてなのがいいのです。



作法や流派でがんじがらめでは自由な発想はなかなか生まれてこない。ただ無知でも困る。建築や茶道、材料、生活へのこだわりがないと使いやすいものや面白いものはできないようです。

友人は掛け軸や陶磁器に質問をするのですが、どうも初歩的なところの知識が乏しいようで・・。ま~、いいか。

本日の作品はひょんなことからひょんな作品。要は理屈でともかく言っても所詮は何事も縁ということ。小生や家内の暴走を抑えた友人、茶室の知らない腕のいい大工、じっくり材料を選ぶ工務店、工期を問わない施主・・・。

富嶽晴望 木島桜谷筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:横490*縦2040 画サイズ:横360*縦1160



木島櫻谷が晩年に描いた南画風の作品の佳作と思われます。天井高さが高くとれないために長い掛け軸が床の間に掛けきれない場合は床に軸受けのものを置いて掛け軸を飾るといいでしょう。余った木材でもできます。

  

箱書は昭和18年(1943年)に記されており、祝いの記念贈答のために貝島礦業株式会社社長(貝島太市?)が木島櫻谷に依頼して描かれた作品と推察されます。木島櫻谷は昭和13年に亡くなっていることから、没後の箱書で櫻谷が最晩年の作ではないかと思われます。



箱書はよく読めませんが・・。

長子威夫妻ニ子ナキ為□、次子浩ガ児正人ヲ養ッテ、朗子□□ガ嫡孫トナシ之□□披露ヲナセシ節、  恩寵ヲ蒙リ   貝島礦業株式会社社長殿
□□ ヲ耳ニサレ、祝スルニ木島櫻谷画伯ヲシテ、我邦唯一ノ霊峰タル芙蓉峯ノ英姿□画カシメラルヲ贈ラル。其雄姿ノ崇高タル、其着色配合ノ巧妙ナル、而シテ亦其幅全面□□
ニシテ華麗且ツ瀟洒ナル、一見酔ヲ壁
間ヨリ放チ難□ラサルノ健筆実ニ観者ヲシテ頗ル之レ□筆者苦心ノ程ヲ思ハシ□ルノ慨アリ、□□□□□ノ優雅亦□□□ヘキ也。
□□々郷里□□疎開□□□上京□□□之シテ愛好□カサルモシ而シテ実□ 意ト由来ヲ付記シ永久感謝ノ意ヲアラワシメントスル
筆者木島櫻谷ハ京都出身の画家ニシテ竹内栖鳳  同格ノ画家ナルモ或ハ栖鳳  知ラレ
明治神宮外苑  記念絵画館壁画第三九号青山 天覧 筆者ニ選バレシ  筆致 知ラレルガ如ク其ノ実力足ルモノアリ

宮於昭和十八年癸未  月東都   小石老迂避齢 時七十有六自誌

貝島太市:(かいじま たいち、1881年11月3日 - 1966年8月28日)は、日本の実業家。貝島炭砿社長。



箱書はちょっと大袈裟かな?



木島櫻谷はの評の一部に「冴えた色感をもって静かに情景を表現してゆくのがその特徴となっている。その作品からは対象への深い洞察・細やかな愛情が感じられ、観る者に安らぎや心地よさを感じさせる清らかな画風と言える。しかし、現在では展覧会出品作ですら多くが所在不明である。」とあります。


氏素性の解らぬ作品 梅下鳩図 荒井寛方筆

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日本画家にはその師と弟子がある程度因果関係にあり、師弟関係の教育指導が厳しかったようですが、現代の日本にはそのような師弟関係が薄れ、ものづくりの伝承がうまくいっていないように思われます。

先日テレビで放映された日本体育大学の集団行動の放送を観ましたが、あのような指導は学校のクラブ活動などで普通にありました。小生もかなり厳しい指導を学生の頃のクラブ活動で受けた経験がありますが、ことを成すには厳しい修練を乗り越えることがつきものということを経験する必要があろうかと感じました。

先日紹介しました水野年方の弟子に荒井寛方がいますが、その紹介作品を紹介しることを失念していました。「まくり」のままなのでしまい込んで忘れていたようです。もともと仏画で著名な画家で仏画を物色しているのですが、なかなか高値で入手できていません。今回は動物画で、さらりと描けています。

梅下鳩図 荒井寛方筆
絹本彩色絹装軸 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1320*横360



「まくり」の状態での購入作品。

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荒井 寛方:(あらい かんぽう)明治11年(1878年)8月15日 ~ 昭和20年(1945年)4月16日)。近代の日本画家。本名は寛十郎。栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)生まれ。院展同人。紋所や提灯の上絵を描く家に生まれる。父・藤吉は素雲と号し、瀧和亭に師事して南画を学んでいた。



明治32年(1899年)瀧和亭の勧めで水野年方に入門、歴史画・風俗画を学ぶ。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称される。四天王は鏑木清方、池田輝方榊原蕉園らで鏑木清方は兄弟弟子となります。



明治34年(1901年)第10回日本絵画協会共進会に風俗画「温和」を出品し、2等褒状を受け、以後同会で受賞を重ねる。翌35年(1902年)国華社へ入社、同社出版の古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用に、仏画模写の仕事を通じて画家として修練を積んだ。第一回文展に「菩提樹下」が入選し、第二回から第四回展まで連続受賞。



この頃巽画会や紅児会にも参加し、原三渓の庇護を受ける。

大正3年(1914年)再興第一回院展で「暮れゆく秋」(さくら市ミュージアム蔵 荒井寛方記念館)を出品し、院友となる。翌年、第二回展の「乳糜供養」では、スジャータが粥を釈迦に捧げる場面を描いて、院の東洋主義的理想とも合致し、中村岳陵冨田溪仙と共に同人に推される。以後は院展で活躍した。大正5年(1916年)詩人のラビンドラナート・タゴールに招かれて、ビチットラ美術学校の絵画教授としてインドに渡り、アジャンター石窟群の壁画などを模写。



大正7年(1918年)帰国後は、仏教関連に多く題材を得て院展を中心に作品を発表、「仏画の寛方」と呼ばれ、大正期院展の傾向であるインド的趣向の代表者として認められた。大正13年(1924年)から翌年にかけて、中国を訪問。この頃から画風が変わり、伝統的な日本の古典に取材するようになる。大正15年(1926年)、渡欧しローマの遺跡などを訪問。昭和15年(1940年)から法隆寺金堂壁画の模写事業の主任画家に選ばれ、春秋は斑鳩の里の阿彌陀院に住み模写に力を注いだが、昭和20年福島県郡山駅で急逝し、完成を見ることはなかった。

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参考落款・印章:参考にした印章は荒井寛方の最大のスポンサーであった三渓園のオーナー原さんと親しかった旅館より新発見の作品に押印されていたもの。その落款・印章は下記写真左、右は本作品。

 

本作品が「まくり」の状態のままの理由については詳細は解りませんが、このような氏素性の解らぬ作品の投稿ばかりで読者の皆さんには申し訳ありませんが、氏素性の解らぬ作品を整理するのが本ブログの目的のひとつですのでご了解願います。ときおり氏素性のはっきりとした作品を投稿しようかと思っております。

氏素性の解らぬ作品 壺屋焼 赤絵花草文扁壷 伝新垣栄三郎作 その3

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年が明けてからブログを編集する時間がとれず、以前に纏めた原稿でなんとか投稿が続いています。最近は仕事で難局を迎えており、なかなか打開策が見つからない状況が続いています。どうも根本的なところで軋轢があるようです。

沖縄の壷屋焼には明るさがあります。ある意味で日本の陶磁器の持っている暗さがありません。「暗さ」という表現が適切でないとすると「侘び・さび」という感覚かもしれませんが、形も豪快ですし、現代の日本人の持ち合わせている感覚・センスに合うものかもしれません。まとめて購入した作品のひとつの紹介です。

壺屋焼 赤絵花草文扁壷 伝新垣栄三郎作 その3
合箱
口径*胴幅178*胴奥行163*高台径*高さ231



浜田庄司の影響がよく解る作品になっています。このことについての詳細は以前に説明したので詳細は省略させていただきます。



浜田庄司との関わりを示す新たなエピソードには次のようなものがあります。

浜田庄司が「こういうものを作った方がいい」と壷屋焼の陶工に指導しています。たとえば仁王窯の小橋川永昌は、一等彫刻の壺をよく作っていて、赤絵でも一等彫刻の文様を描いていますが浜田庄司は「この文様はあまりよくない」と言って指導しました。ちなみに一等彫刻というのは以前に紹介した吉祥文の作品のことです。

一等彫刻の作品はよく売れたとのことでこの作品は今でも仁王窯で制作されていますが、この壺については当初は丸に近い形でしたが、浜田庄司からのアドバイスでスマートな形にしていったそうです。



このように浜田庄司は絵付だけではなく形に対しても指導を行なったようです。この形の扁壷は浜田庄司、河井寛次郎の作品にも見受けられますね。その作品については後日また。



新垣栄三郎の作品か否かの判断は小生の知力の及ぶところではありませんが、高台内には下記のような掻き印があります。



作品としてはまだまだ未成熟ですが野手溢れるいい作品だと思います。ただし家内いわく「ん~」だと

たしかに浜田庄司の作品そのものと比較すると深みという点で見劣りしていますが、現況の沖縄の焼き物の芸術性の低さに比べると数段よいものです。沖縄の陶工の奮起を期待したいものです。とにもかくにも浜田庄司と壷屋焼の関係をうかがい知れる作品には相違ない作品です。

日常に飾るのにはこういう頑丈そうな民藝作品が一番いいです。壊れる心配が少なく、壊れてもあまりダメージが大きくない


氏素性の解らぬ作品 壺屋焼 赤絵花文花瓶 伝新垣栄三郎作 その4

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最近投稿の続いている壷屋焼の作品の紹介です。壷屋焼の作品は大きくなくては格好がつかないようです。どうもこじんまりした作品はつまらないものです。

壺屋焼 赤絵花文花瓶 伝新垣栄三郎作 その4
合箱
口径*胴径155*高台径*高さ301



形態的にはユシビン等に見られるように、叩いて、もしくは削って面取りをして、そこに模様を描くというのが、栄三郎ならではの形態の特徴です。このような作風は浜田庄司の影響もあるのかと思われますが、さらに国画会の会員でもあるので、そういった影響もあるかと推察されます。



線彫、赤絵、飛び飽という技法の併用も見られ、全体的にみて非常にモダンな、ごちゃごちゃしていない、どちらかというと壺屋では書きたがる傾向にありますが、栄三郎の作品は全体にすっきりしている抽象的な文様を描いています。



具象物が少なく、仁王(永昌)は鳥や花などを具象的に描きますが、栄三郎は抽象的な文様を主体に描いています。また栄三郎は電動のロクロは使わず、亡くなるまで蹴ロクロで作陶されていたそうです。ロクロの技術がとても素晴らしく、非常に手が細かく、緻密な仕事をしています。



共箱がないと新垣栄三郎の作品として認めらない、もしくは売買価格ば非常に廉価になるのは、浜田庄司の作品と同じですが、底には新垣栄三郎と思われる掻き印があります。



日常に使うものなので、真贋云々よりもエイやと購入。



さていいのやら悪いのやら・・。

恵比寿大黒天面・吉祥額 加納鉄哉作

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年始には郷里の神社、帰京後の神社などたくさんお参りしました。



年始なのでめでたい作品を飾ることにしました。大黒様に恵比寿様の丸額の作品ですが、加納鉄哉のことを知っている人は少ないかと思います。

大黒さまと恵比寿さまは共に七福神の一人で、大黒さまは豊作の神様、恵比寿さまは漁の神様、二人あわせて招福、商売繁盛の商い神として古くから民間信仰の対象となり親しまれています。

初詣だけではなく日頃から神々を信仰することをおろそかにしてはいけません。人間の能力を超えた何かが人生には大きな力をもって支配することが多くあり、それらがどう自分に働いてくるかは祈るしかほかないということを謙虚に受け取るということを日頃から覚悟しておくためにも・・。神々へはお願いではなく感謝・・。

恵比寿大黒天面・吉祥額 加納鉄哉作
恵比寿面:高さ175*幅132*厚さ65 大黒面:高さ140*幅128*厚み68
額:口径470~415*厚さ22 共板市川鉄琅鑑定箱



額には「甲子の日□あ□□□□ 恵比寿□ め 好□水野先生 鉄哉 花押」と記され、「甲子の日」のは「甲子」とは干支の年ではなく、「甲子の日に大黒天をまつる」という意味でしょう。



大正13年が「甲子」の干支であることにも関連がある可能性はあります。その根拠は箱書に「晩年の作」とあり、加納鉄哉が大正14年に亡くなってるいることからですが・・。大黒天と一緒に恵比寿様が製作された作品と推察されます。



箱書の表面には「恵比寿大黒天面 七福神付属文様 丸額」と記され、裏面には「是吾師鉄哉先生晩年作也 依而証是要 昭和甲子春日 □□最勝精舎□ 鉄琅識押印 花押」とあり、 昭和59年孫弟子(鉄哉の弟子渡辺脱哉の弟子)である市川鉄琅が箱書しています。ほぼ60年後の箱書ということになります。



加納銕哉は、1921年(大正10)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てて、本拠地としました。この工房兼住居は2度の移転を止むなくし、市川銕琅によって受け継がれましたが、銕琅の死後はその保存は断念せざるを得なかったようです。

加納鉄哉と奈良で親交のあった志賀直哉曰く「職人気質の名工」と称え、気風闊達、野の人でもあったようです。天長節(天皇誕生日)には、必ず赤飯を作り祝うことを忘れなかった銕哉でしたが、一方悪戯半分に自他を問わず贋作を作るという茶目っ気もありました。そのうち、“贋銕哉”も出現するはめになることになり、弟子の銕琅を悩ませるくらいでした。



自分でも贋作を作り、さらには他人による贋作も多くあり、ことことも知名度を低くしている理由にひとつでしょう。高村光雲も弟子の作品を自らの作と箱書きしたように、この頃の工房ではよくあったことのようです。このことが知名度を低くしてる要因のひとつでしょう。

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加納鉄哉:彫刻家・画家。岐阜生。名は光太郎。父鶴峰に南画と彫刻を学び、出家して仏画の研究を修める。還俗して鉄哉と号し、鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業とする。和漢の古美術を研究し、奈良に住して正倉院や法隆寺の宝物の模造など古典技法の修熟に努め、その技法は木彫・銅像・乾漆と多岐にわたった。大正14年(1925)歿、81才。

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箱書してる市川鉄琅は加納鉄哉の弟子、もしくは孫弟子です。

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市川鉄琅:彫刻家。東京生。本名は虎蔵。師・加納鉄哉が復活させた鉄筆彫刻の最後の継承者。金属茶道具に鉄筆の自由な筆致で花鳥風月を描き、絵画と彫刻を結ぶ技法と評価される。昭和62年(1987)歿、85才。

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ところで恵比寿様と大黒様の飾り方は向かって左側が「恵比寿様」、右側が「大黒様」というのが一般的なようです。



一説によりますと、大黒様が「兄」、恵比寿様は「弟」といわれます。又、大黒様を大地の神様「父」とするとあり、さらには恵比寿様は海の神様「母」とも云われます。



さらに恵比寿様は七福神の中で唯一の日本人というのはご存知でしょうか? 七福神のことについては日本人は意外と知らないことの多いようで、そもそも七福神をそらんじて言える人はあまりいないようです。スマートフォンをいじる時間があったら、日本の基礎知識を学んだほうがいいように思うには私だけでしょうか?

加納鉄哉は高村光雲と並んで称えられる日本の彫刻家というより、二人とも日本の彫刻職人というべき人でしょう。そもそも高村光雲もまた職人であったことは周知のとおりです。 

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加納鉄哉についての補足

弘化2年(1825)、岐阜本町に生まれる。名は光太郎。家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家であった。父・鶴峰から絵画と彫刻を学ぶが、少年時代に家は没落し、母が亡くなる。

14歳の時、長良崇福寺の住職が鉄哉を引き取り、数年間、僧の修行をした。その後、19歳で現在の美濃加茂市にある正眼寺に移る。明治元年に寺を出て還俗し、諸国を漫遊したと言われる。明治7年ごろ東京に出て、しばらくは偽筆贋作で生活していた。ある時、パリ万博やウィーン万博の出品に関わった佐野常民に見出され、自宅に招き入れられる。鉄哉の師は、父・鶴峰に学んだ以外、あまり知られていないが、鉄筆画については、辻万峰(1825生)の影響を受けていると言われる。

鉄哉の名が世に出たのは、明治14年の第2回国内勧業博覧会への出品が入賞したのが最初らしい。古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨き、フェノロサ、岡倉天心らの古寺調査にも同行する。明治22年、東京美術学校が開設された際、教諭を命じられるが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で職を辞している。

官職を離れてから、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。明治20年代の終わりからは、奈良で模作に励んだり、各界の有力者を顧客とした制作を行っている。落語家、講談師、歌舞伎界などにも交際が広がり、鉄哉作品の意匠は、若い時代から禅を学んだベースの上に築かれていったものと思われる。晩年は、奈良に滞在して制作活動を続け、和歌山や大阪の顧客の為の作品が多い。

鉄哉の人気は高く、大正9年には支援者らによる「鉄哉会」が設立され、その作品を入手するための会則が設けられたりした。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えた。

加納鉄哉については特別な研究機関はなく、「加納鉄哉展~知られざる名工~」(岐阜市歴史博物館図録)や「知られざる名工 加納鉄哉」(西美濃わが街386号)などがまとまった著作(西美濃わが街は現在は廃刊)です。

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加納鉄哉と志賀直哉の関係については下記のとおりです。

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絵画や彫刻、古美術研究と調査・・・等、博学多才で知られる加納鉄哉(てっさい)は、東京美術学校の教論職を2ヶ月で退き、その頃より「唯我独尊庵主」を名乗っている。煙管筒や根付、仙媒等もつくり、晩年は奈良を活動の拠点とした。

作家の志賀直哉は、大正14年、京都から奈良へ居を移している。この年、鉄哉は亡くなっているのだが、志賀は生前の鉄哉の工房を訪ねているようだ。2年後、鉄哉をモデルにした短編小説「蘭齋没後」を発表しているが、鉄哉よりむしろ、息子の加納和弘や弟子の渡辺脱哉(だっさい)らと親交があったようだ。

脱哉とは「人間がぬけているから」という理由で、師匠の加納鉄哉によって付けられた号である。彼のキャラクターと数々のエピソードは、志賀の短篇「奇人脱哉」に見る事ができる。牙彫出身の脱哉は、水牛角の干鮭の差根付を唯一の得意とし、銘は鉄哉が入れていた、とか、それは30円で毎月一つつくれば生活が出来たとか、又、作品の箱書きは、息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた等、興味深い話ばかりだ。そこには一貫して、志賀の、脱哉へ向けたあたたかな眼差しが感じられる。

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加納鉄哉、渡辺脱哉、市川鉄琅の三人はかなり著名な彫刻職人です。とくに脱哉の「水牛角の干鮭の差根付」は骨董蒐集するひとの垂涎の作品ですが、知らない人が多いのはなげかわいしことです。現代の若い人は紅白歌合戦に出演してるくだらない歌手の名は知っているのに・・・。



参考になんでも鑑定団に出品された加納鉄哉の作品を紹介します。

なんでも鑑定団出品作  
煙管筒六本
評価金額150万

「鉄哉の本当に良い作品が久々に出てきた。煙管筒はかなり作ってはいるが、色のある作品は珍しい。依頼品はおそらく注文品だったと思われる。それぞれの顔の表情が抜群に見事。鉄哉は花柳界や芸人とのつきあいが深かったので、女性の表情を常に観察しており、それが活かされている。ごく僅かな差でちゃんと高低がついており、特に衣紋線の細い線刻がぴしっと決まっている。材も選び抜かれた柘植で、傷や汚れもほとんどない。それぞれの裏を見ると鉄哉のサインが彫られている。さらに落款もあり、これは鉄哉にしか書けない字なので本物に間違いない。」

現代の若者はマスコミで作られた虚像の人物、歌手などはその際たるものですが、それらの虚像に騙されてコンサートなどの商業ベースにはまっていることに気がつくべきでしょう。そのようなものより、もっとものづくりの人となり、技術を深く知るべきでしょう。

忘れ去られた画家 春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆

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年末から年始にかけて例年のごとく郷里に帰省してきましたが、例年になく積雪が少ない状況でした。それでもクリスマスのころから積雪が増えて、帰省した頃には息子が愉しめるほどの雪がありました。



我が郷里では2年目のお正月の息子です。



着物を着て初詣・・。



座敷わらし・・・???



とにもかくにも田舎は自然が一杯です。都会のようにゴルフ場が自然とは誰も考えない!



本日は三幅対の痛んだ掛け軸。捨てるかどうするかの分かれ目のような作品です。かなり痛んだ状態で軸先はなくなっており、保存箱などもなく、掛けることもままならに作品です。しかも誰の作品??という状態でインターネットオークションに出品されていました。

出品者は「金江作」としての出品です。この「金江」なる画家は愛媛県出身の三好藍石のこどでしょう。「金江」は三好藍石の号のひとつですが、知らないと解らないし、ま~知っている人は稀有でしょう。オークションとしては意外と高値となり1万7500円也で落札。三好藍石の作と知っている人が複数いたようです。通常の市の競では数千円でしょう。



三幅対ですが、「春、夏、冬」とあり、「秋」を描いた作品があった可能性がありますが確証はありません。三幅のままかもしれません。

春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1885*横535 画サイズ:縦1270*横415

  

賛には「柳市枕隠 藍石居士写於小画禅堂 押印」、「層密雲樹 倣宋□岳藍石居士 押印」、「寒渓雪暮 丁未(ひのとひつじ、ていび)□□写於小画禅堂 □□□藍石居士 押印」とあります。明治40年(1907年)、三好藍石が69歳頃の作品と推察されます。印章は「信□小貞」の白文朱方印、「金江」の朱文白方印の累印が押印されています。

藍石の三幅対の作品は見たことがないので購入・・。

愛媛出身の正岡子規は、同郷の洋画家下村為山に、「南画にあらずんば絵にあらず」といい、南画礼賛論で為山と激しい論争を展開しています。その論争は結局子規の負けとなり、彼もやがて洋画礼賛論者となりますが、幕末・明治の南画全盛期には、絵心あるものはだれもが南画を習い、子規のいう「南画にあらずんば絵にあらず」の風潮は、単に愛媛県下だけでなく、全国津々浦々に普及していた時代思潮でした。




一体、なぜ南画がそれほど普及し、一般に親しまれてきたのでしょうか?

中国における北宗・院体、日本の狩野・大和絵が常に支配階層の専有であるに対し、南画はあくまで在野の絵、その清新自由なアマチュア精神、庶民感覚の大衆性によるといえます。明治維新を成し遂げた憂国の志士たち、また新政の要路にたった官僚たちは、みな漢詩・漢文により育てられた悲憤懐慨の士であり、いわば体制への反逆者です。したがって、伝統絵画の優美華麗さより、彼等の感懐を端的に表す豪放洒脱な南画を歓迎したのも至極当然だったのでしょう。そうした新政府官僚たちの支援も得て爆発的な盛況を呈したのが、南画隆盛の要因と推察されます。

ところが、明治も中ごろになると、文明開化の波に乗り、西欧リアリズムの洗礼を受けた新日本画の台頭や洋画の進出が目立ち、これまで時流に乗ってきた南画も、次第に画壇の表舞台から姿を消します。従来の床の間芸術をそのままに公開の会場に持ち込んだ南画は、新時代の覚醒に乏しく、近代絵画としての脆弱さも目立ち、旧派といわれ次第に主流の座から追い落とされました。南画・文人画は、元来素人の絵です。その大衆性が基盤となり大発展をとげることとなったことが、やがて裏目に出て、いわゆる「つぐねいも山水」の汚名とともに凋落の一途をたどることとなりました。

愛媛県では脈々と南画の人気が続きましたが、世の流れには逆らえず、今では三好藍石を知る人は愛媛県でも少ないでしょう。

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三好藍石:天保九年(1838)徳島県池田町に生まれ、川之江の素封家三好家に迎えられ養子となる。名は信、字は小貞、通称を旦三といい、藍石は号であり、金江・螺翁・河江翁ともいう。

三好家は、代々酒造業を営む近郷きっての素封家であり、彼も詩文・書画を好む学識高い文化人であった。当家は文人墨客の出入りが絶えず、当地における文化交流の一大サロンの役を果たしていた。近くに住む続木君樵もその常連であり、彼の画業に大きい影響を及ぼすこととなる。そうした環境で悠々と文人気どりの彼は、明治初年の激動期、郷党に推され県会議員となり政界に乗り出す。さらに時代の要請で産業開発にも関心を示し、製陶・海運・養豚にまで手を出す。だが、元来は無欲恬淡の文人ゆえ、政治や実業が性に合わずすべてが失敗に終わって、さしもの名家も破産という破局を迎えることとなる。



彼が、いわゆる文人画家から脱却、専門画人としての道を選ぶのはそのころのようである。先祖から受け継いだ栄誉・資財の一切を失い、人の世のはかなさ、みにくさをつぶさに味わい、彼は60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。その大阪行きをすすめ、奔走したのは当時宇摩郡長を勤める門人の手島石泉ら多くの門弟たちだという。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。

大阪南画壇で盛名をはせた彼は、80歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、*城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、画禅三昧の老境を過ごし、大正12年(1923)10月20日、86歳で没す。

筆法はあくまで南画の伝統描法にのっとり、一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出する。その卓抜の画技は、長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、いつまでも郷土人士の心をとらえて離さない。藍石の影響を受けた同郷の画人に大西黙堂・安藤正楽がおり、また東の藍石、西の青石と称された八幡浜の野田青石がいる。

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本ブログで紹介しました天野方壷は同郷の出身です。

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天野方壷と続木君樵は明治初頭における愛媛画壇の双璧といわれていますが、君樵は、帰朝後郷里に落ちつき、作画を楽しみながら画塾を開き後進を指導、そこに育った三好藍石ら多くの門弟たちは、やがて以後の愛媛画壇を風靡するに至る。

一方、方壷は、郷土を離れ全国各地を歴遊、中央画壇で華々しい活躍をするが、一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念する。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのか。その点資料が乏しく推測の域を出ないが、彼は、専ら作品により郷土人士の心をとらえ、その作風で愛媛画壇を風扉したのではなかろうか。

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*城山(しろやま):愛媛県松山市内中心部にある国の史跡に指定されている山である。正式には、「勝山」(かつやま)であるが、山頂に松山城天守があることから、一般的には「城山」と呼ばれている。

三好藍石の代表作
*「寒霞渓秋景之図」:コロンブス記念博覧会出品(54歳作)
*「祖谷山蔓橋真景」:(55歳作)
*「老松亀鶴之図」:大正天皇御大典記念に献納 
*「一品当朝之図」:天覧の作

引越しでかなりの不要な軸や陶磁器類が収納する場所がなく、山積みされてきました。売買するのも面倒なので廃棄処分ですが、その中の作品のひとつです。

明末呉須赤絵 花鳥文皿 その6  (五彩牡丹鳳凰文皿 その3)

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昨年末は大宮で昼食後、仙台で夕方の同窓会。とんぼ返りで帰宅したの12時近く。息子の寝顔を見てほっとしたものでしたが、なにかと気忙しい昨年末でした。

年末年始には帰省しのんびりと過ごし1月2日には帰京し、私が知る限り一時的に以外は開いたことの門を義父と正月には開いてみることにしました。倉庫改修が終わり、いろんな材料を片付ける一環として門の前にあった資材も片付け、初釜を控えての開門です。



江戸期からあった門のようですが、扉だけが当時のままのようです。

ところで寒くなってくるとトイレも寒くなってきます。トイレは暖房の入れっぱなしが怖いので温度センサー付き・・これは電気料金が高くなります。そこで今年は人感センサー付を試してみました。スイッチが入るを確認し、切れるかどうかを確認するまで家内は廊下でじっと待っていたらしい 便利なのはいいのですが、なにやらトイレの数を数えると幾つになるのやらと・・。

さて本日明末から清初に漳州窯で製作された呉須赤絵の作品群ですが、呼称に様々あり混乱を招いている作品群でもありますが、本日の作品を紹介するにあたり整理したいと思います。

(明末)呉須赤絵 花鳥文皿 その6 (五彩牡丹鳳凰文皿 その3)
合箱
全体サイズ:口径228*高台径110*高さ47



焼き物としての呉須という名称は、現在の中国福建省から広東省にかけての主に漳州窯で生産されたと思われる明中期以降の半磁器のことで、英語では“swatow ware”と呼ばれ、広東省仏頭(スワトウ)港から積出されたとされますが、呉須または呉洲の呼称の語源は不明です。



箱には「南京 赤絵」と記されています。



高台は汚いほうが時代があります。



明末かな? 茶人に重宝されたという記事を見かけますが、茶事のどのようなときには菓子皿? 盛り付け皿?



絵付の迫力は他のブログに投稿した作品には負けていますね。



本ブログに投稿された中皿サイズの作品を今一度掲載してみました。

呉須赤絵 花鳥文皿(明末呉須赤絵花鳥文皿) その1
全体サイズ:口径209*高台径123*高さ36



呉須は本来、染付(青花)顔料のコバルトの意味で焼物の呉須とは 区別されています。



仏頭を輸出港とするこれらの焼物は、日本をはじめ東南アジア,中近東, ヨーロッパにまで送られ、明末・清初に景徳鎮で受注生産された古染付,祥瑞などに むしろ先んじて日本へ渡来し、茶陶としての用途に重宝されました。



器種は鉢,皿が多く、染付,瑠璃,柿釉,白釉,五彩などがあります。

呉須赤絵 花鳥文皿 (五彩牡丹鳳凰文皿 その2)
合箱入
全体サイズ:口径225*高台径128*高さ45



五彩のものを呉須赤絵と呼び、その華やかさもからわが国では古来人気が高いもののようです。呉須や五彩と称されましたが、同じ分類の作品群に属すると思われます。



砂高台は高台の底に砂の痕(あと)が残っているものを総じてそのように呼びます。重ね焼きの際、器物どうしが溶着するのを防ぐために砂をまいたために生じ、朝鮮製の茶碗(ちやわん)などにも多い特徴です。



呉須赤絵 花鳥文皿(五彩鳥花文皿) その3
合箱入
全体サイズ:口径169*高台径85*高さ28



明末から清初の作品が勢いのある絵付や虫喰、砂付高台など見所が多く、清初以降は面白味のない作品群となっていきます。



呉須赤絵の花鳥文の作品だけでもいろんな作品があるものです。



呉須赤絵 花鳥文皿(五彩牡丹双鳳凰文盤 呉須赤絵鳥花文様八寸皿 その2) その4
古箱入
径248*高台径*高さ41



余白まで絵付で描かれた作品は評価が高いようようですが、賛否はあると思います。



本ブログでは中皿のほかに大皿、鉢なども取り上げていますが、さらには染付、赤絵というより青色を主体とした皿、さらに「寿」や「天下一」の字体のあるものなど各種あります。



赤絵として日本の犬山で製作されたものや京都で製作されたもの、名工と称された投稿が製作したものがありますが、本歌のほうがいいと思うのは私だけではないでしょう。

基本的にこれらの作品の総称は「呉須赤絵」でいいと思います。市場には星の数ほど作品が出回っていますが、出来のよいものは意外に数が少なく、ほとんどが時代の下がったものでとるに足りないものばかりです。出来のよいものを選択して蒐集する必要があるようです。当方では普段使いの数が揃ったのでそろそろ蒐集は終了しようかと思っています。

この手の大皿の作品は年始の中尾彬らが出演してるテレビでも紹介されていましたが、なんと所有者によると購入購入金額が1000万だそううですが・・・?? 二桁金額を間違えているとしか思えませんが、お金のある方はお金の使い方に見る眼がないということの証でもあろうと思って観ていました。

骨董の世界では無知と無駄遣いは同じこととして捉えられますが、これはどの世界でも同じで、日々情報を集め基礎知識を研鑽する努力を怠ってはなりません。意外にものごとを知らないことがこの世は溢れているものということを骨董を通して学んできましたが、何かに通じるということは逆に他人は物事を知らないということを痛切に感じるということでしょう。

仕事でもそうであって、その道のプロが意外にその他のことには無知であることが多いものです。とくに大きな企業にその傾向が多く、自分の担当職務には詳しくても互いの連携の仕事を理解していない人が多く、そういう企業はいずれ衰退するものだろうと感じることが多く在ります




氏素性の解らぬ作品 ガレナ釉蛸文大皿 伝バーナード・リーチ作 その2

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先週末には近くの公園にどんと焼に行ってきました。家族が風邪をひかぬように・・。



首都圏を中心に新年のあいさつ回りがほぼ終わりました。本日は夕刻より横浜へ・・。どうも最近のまわりの事業展開はここ数年の繰り返しの展開になっているように思います。経営トップ、拠点幹部が交代しても根本が変わっていないよう・・。大型案件に集中し利の少ない、もしくは利が確保できない同一顧客に戦力が集中しており、また長期案件ゆえにある時期に単価高騰に遭遇して大慌てする危惧があります。

完全に大型案件に酔っていますね。人員がかかりすぎて期間が少なく利が少ないものには関わらないほうがいい。もっと目先を変えたほうがいいのに戦略の切り替えができないようです。これは危ない・・。同じ失敗は繰り返さないは入社以来の私の信念・・、弊社はただしたたかに、ただただしたたかに・・・。

さて本日も氏素性の解らぬ作品で、氏素性の勉強です。

氏素性の解らぬ作品 ガレナ釉蛸文大皿 伝バーナード・リーチ作
口径485*高台径*高さ114



リーチの大きな業績は1920年、濱田庄司とともに祖国イギリスに赴き、イギリスの伝統的な陶器「スリップウェア」を復興させたことです。“蛸図大皿”(1925年頃)もその頃の作品で、動物、植物、幾何学文などを生き生きと描いた魅力的な皿、鉢を数多く制作しています。



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バーナード・リーチ:(1887-1979):香港に生まれ、まもなく母を亡くしたリーチは、日本在住の祖父に引き取られ、京都や彦根で幼少時を過ごしています。帰英後、美術学校に学んだリーチは、日本への憧れを募らせ、1909(明治42)年に再来日。白樺派の同人や岸田劉生などに銅版画を教えていましたが、そこで「白樺」最年少の同人であった柳宗悦と親交を深めることになります。その後招かれた茶会で楽焼に接して激しい興味を抱き、6世尾形乾山に入門、楽焼についで本焼の技法を修得し、本格的な陶工として立つに至りました。富本憲吉がリーチに触発されて、同じく陶芸に転じたのはよく知られていることです。



柳を通して濱田庄司とも知り合ったリーチは、1920(大正9)年、浜田庄司と共に帰英、英国のセント・アイヴスに登窯を築いて作陶を行ないます。以後ここを本拠としつつ国際的な活躍をつづけ、次第に高い評価を得ていきます。92年の生涯のうち、長短あわせて11回来日、各地で制作や講演を行い、柳・濱田・河井寛次郎らの民藝運動に寄与。東西文化の融合を陶芸を通して具現しました。著作には数多くの陶工にバイブルと称される A Potter's Book(1955)や、柳宗悦の民藝についての東洋的考察をまとめた The Unknown Craftsman(1972)などがあります。



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基本的には日本でいうところの民藝の陶工ですが、人気の高いことから高値で売買されることになりました。

技法としては発色が濃いもののスリップウェアの技法で製作されているようです。スリップウェアの技法についてはご存知の方も多いでしょうが、ここで復習してみましょう。

スリップと証するには泥漿(でいしょう、水と粘土を適度な濃度に混ぜたもの)状の化粧土のことです。これで装飾する方法で、近年でも陶芸家によって作品が作られています。

まずスリップを準備し、生乾きの鉢や皿の全面に地色となるスリップを掛けます。この上にスポイトなどから細く垂らしたり、筆で描いたり、更にこれを櫛状の道具で引っかいたりして文様を描きます。このあと場合によっては型に押し当てて成型し、窯に入れて焼きます。完成後、スリップをたらした部分は盛り上がって素地とは違う色の文様が浮かび上がることになります。



スリップは、陶の上に色を一層または数層に重ねて絵を描く手法としても使われます。このうち、スポイトから垂らす手法は日本の作陶における「筒描き」と同じ手法であり、スリップを垂らしては流す事を繰り返して矢羽根文様を作ることもできます。



リーチと浜田庄司は1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰っています。柳宗悦や河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えることになりました。



後年、丹波の柴田雅章によってイギリスのスリップウェア技法が明らかにされ、芸術新潮(2004年)の紙面において技法公開がなされました。



本物なら珍しい作品でしょうが、当方は出来が良いのでそれなりの値段で購入したものです。かえって印などがないほうが面白い作品ですね。



本作品のオリジナルは下記の作品です。

ガレナ釉蛸文大皿
1925年、セント・アイヴス、東京国立近代美術館蔵



代表的な作例はとても著名な作品です。スリップは白い粘土や鉱石の調合で作られ、「ガレナ」は硫化鉛のことらしい。



同一な紋様の作品がかなり複数存在するようですが・・・。



惜しげなく飾り、なにかあってもたいした問題にならぬ作品を持つことは普段の展示に必要です。真贋を問題にしないということも蒐集には必要というこです。ただあまりにも出来の悪い作品は所蔵している人の器量が疑われますね

古きよきものは復活に努めるをよしとしますが、悪しきものに手を出して失敗は繰り返さないことです。過去のことに大いに学び、よりよきものにしなくてはいけませんが、目先のことで栄達を望み人を育てぬものは未来はない。なにも陶磁器だけの話ではない



水墨山之図 藤井達吉画賛 その14

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勝手口が寒いという要望で始めた勝手口の改修工事が完了しました。屋根と床はそのままとしほとんど外壁のみの改修工事でした。今では安っぽくない新建材が多々あるので、左官工事でなくても外壁はそれなりの高級感にあるものができます。



まだまだ中途半端なところはありますが、だいぶ改修する部分の格好がついてきました。茶室周りの庭造りはじっくりとやるしかありませんが、庭の砂利を義父が綺麗に直してくれました。



小春日和のときは洗濯物に下で転寝するのが義父のたのしみのようですで夏は夏で涼しいと満足のようです。



本日は藤井達吉の作品の「その14」です。藤井達吉の作品はそれほど購入金額が高くないので愉しめる作品が多く、贋作も少ないようで、当方ではまだ贋作にお目にかかったことがありません。藤井達吉は近所の方から野菜をいただくとそのお礼に都度、絵を描いてあげたそうですから、膨大な数の作品が存在するように思います。

水墨山之図 藤井達吉画賛 その14
紙本水墨軸装 軸先陶器 栗木伎茶夫鑑定箱
全体サイズ:縦1280*横590 画サイズ:縦310*横450



箱書には「八十の 口ひげそりて 筆つくり よきすみつけて 山をかきぬかも 伎生誌 押印」とあり、賛には「空庵」と落款が記されています。年齢から昭和36年頃の作と推察されます。

ん? 髯で筆を作った? 我が息子は初散髪の毛で筆を作りましたが・・・。



「伎生」とは栗木伎茶夫氏のことで藤井達吉に師事した陶芸家です。「空庵」はよく使われる藤井達吉の号です。

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栗木伎茶夫:(くりき ぎさお)陶芸家。明治41年(1908)生。藤井達吉に師事する。半世紀を超える陶歴で瀬戸陶芸界の長老と呼ばれ、土ものの赤絵の技法を用いた。文展・日展等入選多数。瀬戸市無形文化財保持者(陶芸・赤絵技法)。氏は「藤井先生の座右の一言『ロクロは自分で挽け、文様は自分で考えよ。』は、陶芸の規範であり、形と線により出来たものを科学的に処理して生まれる物が陶芸である。」と述べています。



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参考となる作品が思文閣の墨蹟資料目録に掲載されています。



本作品と同じように栗木伎茶夫氏のよる箱書の作品です。   



箱書きの書体は同じようです。

 

参考作品にある印章は他の投稿作品である下記の作品に一致します。

疎林図 藤井達吉筆 その10紙本水墨軸装軸先陶器 熊澤五六鑑定箱
全体サイズ:縦1260*横370 画サイズ:縦445*横335



絵は非常にいい感じです。思文閣の評価金額の25万は10倍のお値段だと思っていいでしょうがそれでも高いと思います。今は骨董のお値段は非常に安いと思っていいでしょう。



判読についてはとても小生の手に終えるような書体ではありません。



藤井達吉の作品の表装は味のあるものとなっています。本人の表具とそうでないものがあるようですが、総じて表具はいい表具になっている作品が多いのは工芸家として表具のデザインにこだわりのある藤井達吉の影響が後世にもあったのでしょう。



本来なら藤井達吉の掛け軸の表具はもっと面白いものですが、この程度の表具を愉しむのも掛け軸のひとつの楽しみ方です。



繰り返すようですが、日本古来の文化である掛け軸を読書の皆さんもちょっと余裕があるなら一幅気に入ったものを購入してみたらいかがでしょうか? ゴルフや酒を外で食事をするよりはまともな人生の楽しみ方です。








氏素性の解らぬ作品 壺屋焼 赤絵黍文壷 伝新垣栄三郎作 その5

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大工さんが忙しく計画で中断されていた階段の墜落防止工事が週末に完了しました。前回は手摺代わりの格子の取り付けたのと踏み込みに板を貼り付けました。基本的に幼児対策です。



階高のある階段は直通はやめたほうがいいです。踊り場での折り返しある階段が安全です。螺旋も踏み外す危険性があります。



2階には既成の作を取り付けました。



柵の受けのためと本棚不足解消へ・・。



階段が暗くなると天板から落下防止に欄間額を取り付けました。欄間額のこのような利用方法は当方のアイデアです。



天板は屋久杉の板、実は2枚継いであります。これらの材料はインターネットオークションで廉価で購入しました。



取替え可能なように押し縁で固定しています。

子供が大きくなったらと欄間のみになりますし、ものの搬入する際には取り外しできます。

本日はまとめて購入した壷屋焼の作品シリーズの続きです。

壺屋焼 赤絵黍文壷 伝新垣栄三郎作 その5
合箱
口径*最大胴径230*高台径*高さ232



デーンとした壷です。



絵筆の勢いは今ひとつ・・、家内の評価もいまひとつ・・・・



新垣栄三郎らしき刻銘はありますが、共箱がないと体外的には認められないのが骨董の掟。



掟は売買に際して重要視されますが、普段使うのにはなんら支障はありません。

根付 寿老人に髑髏

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先日投稿しまいした印籠と一緒に倉庫整理から出てきた喫煙具の中に煙草入れついた根付もありました。昔はキセルで煙草を吸うことが多かったのでいろんな小道具が必要だったようです。

根付 寿老人に髑髏
寿老人:縦41*横38*高さ41 髑髏:縦12*横10*厚み高さ 象牙
喫煙具:幅13*奥行20*高さ110
専用保存箱



煙草入れ自体はもはやボロボロでしたので破棄し、根付だけを残しましたが髑髏の細工物も一緒に付いています。



寿老人と鹿はつきものですが、髑髏はどういう意味でしょうか? 紐のゆるみ止めに玉などをつけることが多かったので、ひとつの粋なお洒落としての「しゃれこうべ」でしょうか?



印籠の保存箱に空いえているものがもう一個あったので、保存箱としました。もうひとつ出てきた細工物は何でしょうか? 人面が彫られています。



キセルを入れていた器のでしょうか? 「煙管筒」というものらしいですが、二本出てきました。



漆で描かれた柿、もうひとつは彫り物の鳥でしょうか? こちらには玉が付いています。



最近のものかどうか解りませんが、陶器のクラッシックカーの型をした灰皿です。



なかなか味があって捨てがたいものです。



彫り物の紙煙草入・・。



大きさは名刺入れにちょうどよいものあります。欅で作られています。



ちなみに最近入手した欅で作られたボールペン。これは現代作品。



応接間のアクセサリーに・・。



今では禁煙ブームで省みられることの少なくなった煙草道具に一般の人も興じた時代があったのですね。なお印籠は薬入れですので喫煙道具ではありませんので欧米で珍重されるのでしょう。根付も珍重されていますが、象牙彫、彫金、陶磁器、七宝、堆朱・・、日本の古来の技術の粋が込められているから人気が高いのでしょうが印籠と根付はセットであるべきです。根付だけを蒐集するのはどうかと思います。根付や印籠を蒐集する人は非常にマニアックな人が多いようです。贋作、模倣作品が多いのそうならざる得ない原因のようです。

幾つか当方に縁があった根付の一部を紹介します。



各々印籠や銘については省略します。



これらは切手収集と同じでせせこましい分野に違いない。



それは単品に凝るからで根付、印籠は基本的に着物にも凝る必要があります。



要は粋の世界ですから・・。



印籠や根付を蒐集してファッションに凝らないのは釣合がとれないのです。



根付に印籠、着物と凝っていくときりがないものでそのうちに破産ということになります。そう身の程をわきまえるという観点から手を出さないこと。

当方のようなガラクタが無難ということです。



ところで印籠の人気作家というと原羊遊斉ですが、「なんでも鑑定団」において「羊」の上の二本の線が離れている、「遊」のしんにょうの点がないなどが羊遊斎のサインの特徴であるという説明がありましたが「遊」のしんにょうの点がないというのはあくまでも原則論のように思います。

 

もろん作品そのもの自体からの判断ですが、上記の両者ともに真作であろうと私は判断しています。これもマニアックなこと・・。

最初に戻りますが、本日紹介した「寿老人」の根付は銘はないもののなかなかの面白い出来で、印籠が梶川作のものに付いている象牙の根付に比較すると彫りはあまいですがよい出来だと思います。根付や印籠は当方の蒐集とは縁がありませんが、なにはともあれ世界に誇れる日本の興味深い骨董の分野であることには違いはないと思います。ただ深みにはまらないこと・・。





菖蒲白鷺図 渡辺省亭筆 その7

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明るさの変わる照明スタンドが照らすのは羅漢図の赤絵の皿。



本日の作品である渡辺省亭の作品は「その7」となりました。「なんでも鑑定団」にも出品されたことのある画家ですので、ご存知の方も多いかと思います。

「なんでも鑑定団」での寸評には「渡辺省亭は非常にモダンで洒脱な画を描く花鳥画家で、日本のみならず海外でも人気があります。ただ、今は省亭のような非常に巧い作家よりも味わい深い画を描く作家の方が評価される時代。」とのことですが、この寸評には意見の分かれるところでしょう。

菖蒲白鷺図 渡辺省亭筆 その7
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱二重箱
全体サイズ:縦1880*横530 画サイズ:縦1040*横410



本作品も「なんでも鑑定団」に出品された作品のように陽に焼かれているようで、状態がいいとは言いがたい作品です。掛け軸は掛けて飾るのは年1回、ひと月が限度をいうのを知らない方が多いようです。しかも陽の当たる場所、タバコの煙、囲炉裏の煙は禁物です。長く掛けておくと陽に焼けた状態になってしまいます。



「巧い作家よりも味わい深い画を描く作家の方が評価される時代」とはどういうことでしょうか? ちょっと当方には理解できない説明です。加島美術の説明では渡辺省亭の作品は明治期に海外に多くが流出し、そのせいで海外の人気は高いが、日本では展覧会を開くにも日本に遺る大作の数が少なく人気が出ないというな説明であったように思います。



また弟子をとらなかった点も人気の出ない原因とも言われています。画力はあり、味わいもある画家です。



「なんでも鑑定団」に惑わされない評価をしていかなくてはなりませんが、マスコミというのは怖いもので、その評価に大きく影響されるのも事実です。

マスコミというのは常にそのようですが常に功罪があるもので、真実を見極めるのは常にひとりひとりの個々の力です。

氏素性の解らぬ作品 古画 お多福図 作者不詳

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本日は「徳分」についてです。

やる気満々であるが徳のない人が上に立つと組織はギスギスするといいます。懲罰ばかり、規則ばかり、打ち合わせばかりが先行し、組織のモチベーションが極端に下がっていくそうです。やる気満々で望む人ほどこのような人物が多く、組織は長い眼でみると完全に疲弊します。

本人も回りも1年、2年は持続できるかもしれませんが、次第に組織は硬直化し、問題ばかりが浮上してくるものです。上に立つ人間に必要なものは「徳」、「熱意」、「信念」が必要であり、人事にはその見極めが肝要のようです。

本日の作品は古そうな作品で、めでたい画題なので購入した作品です。「古そう・・」・・、いつ頃の作品かは断定できませんが、江戸時代と推察されます。

氏素性の解らぬ作品 古画 お多福図 作者不詳
紙本水墨着色絹装軸 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1880*横355(絹) 画サイズ:縦*横(紙)



「おかめ・おたふく」が醜女(しこめ)の代名詞のようになっているのは、甚だしい誤解で「おたふくさん」は、下ぶくれのお顔で頬がふっくらとしているのが特徴で平安朝の昔から、これが日本美人の典型とされています。



日本語の世界に「お多福」の一語があって、日本的女性美の極致を表現しています。「お多福」さんは、女性の美しさのみならず、女性の徳分をも表している言葉ともいえます。



本作品は落款や印章もなく描いた画家を特定する要素はなにもありませんが、よく描けていると思います。



着物の文様や団扇の絵なども丁寧に描かれています。



吉祥を表す作品です。家内に「貴方にそっくり」と言ったらどうも気に食わないようす・・・



大切にされていたようで表具もなかなかいいものを使用しています。



「徳」のある作品も人も長続きするものです。懲罰ばかり、規則ばかり、打ち合わせばかりが先行すると本当の優秀な人ほど組織から去っていくことになります。

組織の話はともあれ、将来のパートナーは徳のある女性を選ぶことです。見栄えより徳が肝要・・。

氏素性の解らぬ作品 壺屋焼 赤絵黍文花瓶 伝新垣栄三郎作 その6

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大工さんと改修した倉庫の屋根裏部屋でなにやら仕事を開始しました。



なんといっても高さのない空間です。長持ちの蓋が梁にぶつかって開かないので、高さのある空間まで簡単に移動できるようにキャスターを取り付けました。そして蓋が開きやすいようにアームをつけて開き止めにして一人でも収納などができるように細工します。当方のアイデアですが、これによって屋根裏部屋も展示空間になるはずです。



長持ちの下にはローラーが取り付けられ、蓋にはアームロックの金具がつきました。随分と収納しやすくなりました。展示も初釜にはなんとか間に合いました。息子は初釜、席披めのご挨拶の練習中・・・。紹介は後日また・・・。



本日はまとめて買った壷屋焼のひとつです。

壺屋焼 赤絵黍文花瓶 伝新垣栄三郎作 その6
合箱
口径65*幅200*奥行き170*高台径117*高さ230



相変わらず箱もない作品ですが、実に姿がいい作品だと思います。



浜田庄司や新垣栄三郎が得意とする所謂「黍」文様です。



大きさは今ひとつですが、堂々とした作品です。風格が足りないと思われましたが、本作品は風格が備わっています。



この風格というものは技術だけではそうしようもないもののようで、個々の資質というものが大きく関わっているものなのでしょう。



個々の全部の作品が風格がないわけではなく、その陶工に作品の幾つかには風格が備わっているものもあるので不思議です。

蒐集する側は作品の風格を重んじなくてはいけません。とく壷屋焼では同一の投稿の作品にばらつきが多く、そのほとんどがとるにたらない駄作ばかりですが、突然ものすごくいい作品を眼にすることがあります。

源内焼 その72 三彩羅漢ニ龍虎図

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初釜と席披めの準備は庭に雪が降ってちょうどよい景色をなりました。



水屋の準備もオーケーかな?



食事に食器もなんとか揃いました。



詳細はまた続きです。本日の作品は「源内焼 その72」となります。

源内焼は27センチほどの大きさになると大きな作品の部類に入ります。最大では40センチを超えるもののありますが、滅多にみられるものではなく、当方で確認できている作品で現在では2種類の2枚が存在します。通常は七寸皿(20センチ強)程度です。30センチを超える俗にいう尺皿もなかなかお目にかかれません。

源内焼 その72 三彩羅漢ニ龍虎図鉢
合箱
口径270*高台径*高さ55



さて本作品の文様は羅漢には相違ないでしょうが、問題は羅漢の脇にいるのは「虎」? 「馬}? あわせてトラウマ・・・??

十六羅漢のうち、虎を従えているのが第六羅漢の跋陀羅(ばだら)であり、仏舎利を持って龍を従えているのが第十羅漢の半託迦(はんたか)ですので、この羅漢は跋陀羅と推測されます。



羅漢というと虎だよね、普通は・・。龍は迫力ある図で出来がいいのですが、馬? 虎?はユーモラスです。



羅漢と龍の図は多くの画家が描いています。落款と虎も然り・・、しかし多くの羅漢が描かれている五百羅漢図には龍虎が描かれいますが、一人の羅漢に龍虎が描かれている図はまだ見たことがありません。



尺近い大きさの作品は基本的に装飾用ですので、保存状態がいいものがよくあります。かえって七寸皿のような皿は実用性もあり、複数枚揃いであった可能性が高く、重ねた摺れや使ったための釉薬の剥がれなど痛みのある作品が多いものです。



本作品の図柄の作品はあまり類例を見ることがなく珍品の部類のようです。



古九谷や古鍋島の作品は贋作が多く、真作には滅多にお目にかかれませんが、源内焼はまだまだ知名度が低く市場で真作が入手できます。関心のある方はどうぞ。


氏素性の解らぬ作品 壷屋焼 白化粧地呉須飴釉色付線彫魚海老文大壺 伝金城次郎作 その4

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初釜の準備が整った当日の午前中の撮影です。



会食の場所には正月の目出度い軸を・・。息子はなにやら上機嫌・・、こちらは緊張気味。脇にあるのは改築前の母屋の写真ですが、まだ平成においても茅葺であったらしい・・。息子が着ている着物は祖父が子供の頃に着ていた着物で80年以上前のものです。



会食中の話題にと明治30年に庭に生えていた黒柿で作られた長火鉢を置きました。母屋解体に際して母屋の棟にあった銅版を利用して、長火鉢などの内部の銅版が張り替えられています。

荷物の移動に際して捨てられそうになった印籠や喫煙道具類も並べました。ちなみに手あぶりの中にある湯飲みは浜田庄司の本人作品です。花押が書かれた箱書が伴った10客揃いの珍しい作品です。



祖父はぎりぎりまで庭の砂利の手入れ。



さ~て、開門!!



席の詳細は後日として、本日は当日の展示作品のひとつを紹介します。

壷屋焼 白化粧地呉須飴釉色付線彫魚海老文大壺 伝金城次郎作 その3
口径*最大胴径222*高台径*高さ330



金城次郎の作行きの大きな壺ですが、銘はありませんし、箱もありません。よって金城次郎の作品とは認められませんが、実におおらかないい作品です。



呉須や飴釉が流れて滲んでいる景色が魅力となっています。



また底の周囲が分厚く作られている部分が力強さを増しています。30センチを超える大きな壺の作品は金城次郎の作品には少ないようです。



魚文のいかにも金城次郎という作品ですが、金城次郎の魚文の作品には出来不出来が多く、出来の良い作品は意外に少ないように思います。魚文の作品の出来不出来をきちんと判断する必要がありますね。

参考作品
白化粧地呉須飴釉線彫魚海老文大壺
サイズ:高さ約27cm 胴幅約18.7cm 口径約10.1cm



説明文より
「呉須と飴釉で色付けられた上下の文様の間に、大迫力のウロコ文様の魚文が、見事に線彫りされ、飛び跳ねております。また呉須と飴釉で緻密に色付けられたウロコが、魚文に立体感を与えております。見れば見るほど味わい深い魚文です。顔の上に4cmくらいの浅いニュウがありますが、深いものではありません。 口部の縁は、茶褐色と一部水色に、その下部は、モスグリーンと一部水色に発色しているのもきれいです。全体的にも釉薬の剥がれの殆ど無いきれいな焼き上がりです。



魚文の両脇には呉須と飴釉で丁寧に立体感を与えられた海老文が佇んでおります」



文様に若干の違いはあるものの文様のパターンは本日の作品と同一のように思われます。参考作品は金城次郎の作品の中でも逸品でのようです。どちらの作品がいいのか意見が分かれるところでしょうか?

真贋はさておき、魚が笑っているような表現、釉薬の流れに味のある点、底の周りの節が力強いことや大きさに勝ることから当方は本作品を選びますが・・。どうも初期の作品のほうがおおらかで、参考作品の時代になると絵がかたい。



金城次郎の箱書はちょっといただけませんね。とはいえ作家陶工による作品には銘や共箱が必要なようです。しかし無銘の作品でもいいものはいい、銘や共箱があっても出来の悪いものは悪い・・。骨董とは基本に忠実に蒐集するものです。

富岳図 福田豊四郎筆 

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初釜と席のお披露目の茶室の準備も完了しました。



床の間には青磁の花入に梅と椿、軸は鶴・・・、初釜と席開きで「鶴と亀」、「松竹梅」の吉祥の一環です。



置物には「亀」、上の棚は「竹に蛙」。これで「鶴と亀」、「松竹梅」・・? 「松」は弓野焼の水指の文様しました。



庭の手入れもちょうどよいようです。



晴天とはなりませんでしたが、明るさも良し・・。



妙齢の美女達の参上。本ブログは作品同様に非公開が多い・・・・。

続きは後日また・・・。

本日は父や祖父、叔父、母らと交流のあった福田豊四郎氏の作品の紹介ですが、最近わりと縁が多く、漆器の丸盆(祖父が依頼して製作したもの)、色紙、わりと大きな作品などを購入しました。

父が亡くなった時、母が父と交流のあった福田豊四郎氏に依頼して、父がお世話になった方々に色紙を描いていただいて配ったそうです。その当時の色紙が今でも遺っていたことや母kaら父との福田豊四郎氏との交流、父が亡くなったあとの交流などを聞いていたこともあり、福田豊四郎氏の作品を目にするとついつい無理をしてでも購入してしまいます。

富岳図 福田豊四郎筆
紙本着色 色紙額装タトウ入 3号

母が依頼した色紙の作品と落款・印章と同一であり、昭和40年過ぎ頃、福田豊四郎氏が60歳を過ぎた頃、最晩年の作品と推察されます。



この作品はインターネットオークションから購入した作品です。ただしインターネットオークションでは福田豊四郎の真作は残念ながら滅多に出品されていないようです。現在、インターネットオークションに出品されている福田豊四郎の作品のほとんどが贋作ですので要注意です。とくに秋田県の地元に贋作が横行していますので注意が必要です。

母の実家にあった額に入れて飾りました。



当方では他の所蔵作品である「富士」、「薔薇」(二作品)、「鶴」(袱紗)、「鯰」、「蜜柑」、「竹」(売却済)の落款・印章と同一であり、落款・印章を確認をしてから入手していますが、手元に参考になる作品が揃っていないと贋作を入手することになりかねません。

また下記の作品は落款や印章がありませんが、福田豊四郎の画帳からの作品とのことで、郷里の骨董店から購入した作品です。家内が目をつけた作品ですが、作品が含まれていた画帳がかなり痛んでいたとのことで画帳外しの額装になったそうです。本人の作品かどうかは当方の判断ですが、福田豊四郎の作品に間違いないと思います。



初釜の当日は父と母の結婚記念に福田豊四郎氏に描いていただいた作品を二階の展示室に展示しました。

下記の写真がその作品で、父母の結婚記念に描いていただいた福田豊四郎の「鶴汀」(本ブログでは非公開)という作品ですが、父方と母方の両方に福田豊四郎氏に描いていただきました。つまり最低ふたつの作品が存在し、父方のほうの作品は行方が解っていません。父方の叔父が処分したようで調べましたが、近所の洋装店に譲渡したまでは解っていますが、そこで処分したかどうかなど残念ながら現在は所在が解っていません。

母方の作品は親戚の好意によりなんとか当方に戻ってきました。図柄を写真で確認すると若干違うようです。



福田豊四郎氏の作品の近くに父が福田豊四郎氏に指導していただいて描いた色紙の作品を展示しました。手前の志野の作品はどなたの作かは本ブログの愛読者にはよくお分かりかと思います。



郷里に飾っており、このたびは展示していませんが、昭和21年に福田豊四郎氏が私の両親の若かりし頃を描いた作品が遺っています。これは叔父からいただいた作品です。「鶴汀」と同時期の作品かと思われます。



今回の改装で作った展示室に数々の由来の品々がたくさんの方々のご好意とご協力で集まってきています。祖母から祖父から伝わった作品は他の人の所蔵となりながら、当方に戻ってきたものも多くあります。



源内焼 その73 三彩親子亀香炉

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初釜と席披めにおいて当方は慣れぬ袴の着物姿にて・・。着物は親戚や先々代からのもの。



小生は慣れない袴の着物を着て「どうやってトイレにいくの?」という野暮な質問をして家内から失笑・・・。「大」の用事は袴を脱がなくてはいけません。



ま~、袴は裾が乱れないからまだ動きやすいようです。家で作った梅酒を一献・・、手が震える・・・。席の詳細はこちらのブログにて・・。



最初は皆さんも緊張気味らしい。



次第に長火鉢の話題になどで和んできました。



本日のブログは茶席での置物の作品のひとつを紹介します。

前回記述のように初釜と席お披露目の茶席での道具類は吉祥を主体にしました。ともに平安時代から吉祥として扱われた「鶴と亀」、「松竹梅」です。

まずは「松竹梅」は席では水指に弓野焼の「松」、花入には畑に芽吹く「梅」(ちなみに料理の食前酒は畑で採れた梅の実で作った梅酒)、置物のひとつは「竹に蛙」の緑釉の香筒で、「松竹梅」です。



掛け軸は「鶴図」(橋本雅邦筆)、そして置物に本作品です。



源内焼 その73 三彩親子亀香炉
合箱
幅230*奥行170*高さ65



亀について

「亀」は浦島太郎の話では龍宮城の使いとされていますが、古い中国では仙人が住む不老長寿の地として信じられた逢莱山の使いとされ、たいへんめでたい動物とされていたようです。日本でも「鶴は千年、亀は万年」と言われており、長寿を象徴するめでたい動物です。よってお席は「鶴と亀」・・・。



昔から家の中で亀を飼育すれば、家族の長が十分長生きできると信じられています。そして、亀は長寿の象徴だけでなく、守備が堅い(身を守る)ことの象徴とも云われています。それは亀が甲羅を持っていることに意味があるようです。



亀の甲羅は、外側が多数の六角形紋様のうろこで作られ、内側が骨で形成され、両方が堅固に合わさっています。中国では、亀は背中の上に「天地」を乗せて運ぶ生き物とたとえられています。つまり上側の甲羅はあたかも天のように円形にカーブしていて、下側の甲羅は地のように平らになっているからです。球形は宇宙からのエネルギーをより多く吸収しやすいと言われています。



これが亀の持つ不思議な力(長寿や堅固な守り)の源になっているのかもしれません。日本では、亀の置物は結婚式のような、おめでたいセレモニーには欠かせない贈り物として用いられています。そして、亀の置物を家の中に飾るときには、家の北側に置けば幸運がもたらされれるとされています。

本茶室は家全体の敷地の北側に位置していますので、飾りは「亀」となりました。



風水的に。亀は昔から、中国でも日本でも長寿・守護・支援・権力の維持・財運などの吉兆で、あらゆる幸運を招いてくれる神聖な動物とされています。

裏にある印のように見えるのは明確ではありません。



風水では、亀の置物は、亀の甲羅が邪気のエネルギーを跳ね返すと考えられており、化殺アイテムとしても使われています。どのように化殺効果があるかというと、亀の甲羅は凸面鏡のように弧になっているため、邪気をはじき返すという力があるとのことです。

他に、北は職業運を支配する方位なので、仕事場の北に亀を置くと出世運をもたらしてくれるそうです。



風水での亀には、主に財運アップ、厄払いの効果があります。また、亀の動きは緩慢ですが、根気よく前進することから、事業運、開業運のアップに利用されます。親子亀の香炉は、長寿と子孫繁栄の願いが込められています。



以上より吉祥に欠かせないのが「亀」でして、本作品の購入は初釜にぎりぎり間に合うことのなりました。

ちなみに松竹梅については、縁側に飾った油壷の「梅」と食前酒の「梅酒」が前哨戦・・。



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松竹梅(しょうちくばい):慶事・吉祥のシンボルとして松・竹・梅の3点を組み合わせたもののことで、日本では祝い事の席で謡われたり、引出物などの意匠にも使われてきた。もともとは中国の「歳寒三友」が日本に伝わったものである。松・竹・梅を3種類の等級名として使うことがある。 松を最上級とし、次いで竹、梅とする場合が多いが、梅を最上級とする場合もある。もともと瑞祥としての松竹梅には明確な優劣があるわけではない。江戸時代、京・嶋原や大坂・新町の遊廓においては、遊女の格付けにも使われた。 松は太夫(たゆう)、梅は天神、竹は囲(かこい、鹿恋とも。また単に鹿とも呼ばれた)である。

「歳寒三友」とは・・・。

歳寒三友(さいかんのさんゆう):宋代より始まった、中国の文人画で好まれる画題のひとつであり、具体的には松・竹・梅の三つをさす。三つ一緒に描かれることも多いが、単体でも好んで描かれる。日本では「松竹梅(しょうちくばい)」と呼ばれる。松と竹は寒中にも色褪せず、また梅は寒中に花開く。これらは「清廉潔白・節操」という、文人の理想を表現したものと認識された。日本に伝わったのは平安時代であり、江戸時代以降に民間でも流行するが、「松竹梅」といえば「目出度い」ことの象徴と考えられており、本来の、中国の認識とは大きく異なっている。

始原と考えられているのは、中国の宋代において、文同、蘇軾等が竹を水墨画の主題として描き始め、後、梅・蘭・菊・松と画題の広がりを見せていく。その中でも、松・竹・梅の三者が前記理由で特に頻繁に取り上げられていくのである。元・明代には、陶磁器に描かれる主題としても好まれるようになる。日本においては、主に陶磁器・漆器・染織に描かれることが多い。また、門松・雛飾りそして婚礼・出産等の慶事に用いられる主題として民間に定着し、「鶴亀」等の主題と組み合わせて用いられることもある。

「鶴亀」とは・・・。

鶴亀:鶴と亀。「鶴は千年,亀は万年」といって,長寿でめでたいものとして,お祝いの飾りなどに用いる。鶴と亀はいずれも寿命の長い、めでたい動物とされ、縁起物としてさまざまな装飾に用いられた。鶴・亀を瑞祥(ずいしょう)の動物とし、これを装飾のモチーフに用いたのは平安時代からで、『栄花物語』の「けぶりの後」の条に「女房の装束例の心々にいどみたり。すぢをき、鶴亀松竹など、心々にし尽くしたり」とあり、すでにこの時期に、鶴亀松竹の模様が用いられていたことがわかる。なお遺品としては、藤原時代の重要文化財「蓬莱山蒔絵袈裟箱(ほうらいさんまきえけさばこ)」(法隆寺献納宝物、東京国立博物館蔵)がもっとも古いものの一つであろう。

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さて我が家の北の守りはこの亀の置物となります。



「亀は長寿の象徴だけでなく、守備が堅い(身を守る)ことの象徴。」、「長寿・守護・支援・権力の維持・財運などの吉兆で、あらゆる幸運を招いてくれる神聖な動物とされています。」「事業運、開業運のアップ」、「長寿と子孫繁栄の願いが込められています。」・・・、骨董というのは本来は吉祥、願いの産物という側面があります。

人間の力の及ばぬところでこの世界は満ちています。努力のひとつひとつを積み重ねることが人生の王道ですが、それでも及ばぬところを知るものは祈りと願いを託するものをもつものです。

初釜・席披露 最終章

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初釜と席披露の食事が終わり、茶室への移動です。たったまま茶室に出入りできるにじり口の設定です。頭は下がるような高さの設定です。むろん通常通りに入ってもかまいません。

通常の茶室は狭いにじり口、冷暖房のない部屋、車椅子の入れないバリアフリーでない設定など高齢化時代に時代遅れもはなはだしいものばかりです。



入る際は入り口の折戸はフルオープンですが、入り終わると寒さ対策で閉じることになります。内部はエアコンで快適です。身障者は縁側から自由に段差なく入れます。

これから茶室を作られる方の参考になればと思います。各家元の流派にこだわったり、過去の産物に倣う茶室はまったくの時代遅れです。もっと自由な発想、時代の技術の駆使、耐震・バリアフリーなどを考えるべきで、非日常の世界と茶の世界を別扱いするのは不勉強者の言い訳でしかありません。



まずは濃茶の席。当方は茶の世界には不慣れゆえ廊下であくびをしておりました。



濃茶の席終了後は水屋などを見ていただいて、その間に軸を変えて薄茶の席。



変えた軸は狩野常信の「布袋図」です。仙台の骨董店にご主人にこの軸を見せたら「あなたはどこか観る眼がありますね。」と初めてこのご主人に褒められたことがります。子供と小生の図・・・、これも吉祥図。



濃茶の終わりかけから薄茶の席は昼寝をして目覚めた息子も参加。



「塩釉」のお茶碗を見ていただきました。「塩釉」は民藝活動には欠かせない話題です。



席が終了後はまずは1階の展示スペースへ・・。今回使用した道具類の紹介は後日また・・。



今回は道具類の箱書き等の展示は一切おこないませんでした。展示するなら次回からは使った道具類の箱書き等はこの展示スペースに置いたほうがいいかと思っています。茶室に箱類を置くのはどうも野暮ったく、小生の趣向には合いません。よく平気で箱書きのある箱を並べている人がいますが、悪趣味極まりないものです。通常の茶室は人が多いとよく見ていられませんし、見る気にもなりませんね。



浜田庄司が展示作品の箱書きをしてる夫婦での貴重な写真もあります。



民藝三人男(浜田庄司、河井寛次郎、バーナードリーチ)&沖縄三人男(金城次郎、新垣栄三郎、小橋川仁王)。水屋につながる廊下・・。



茶室前の展示スペース・・、民藝にちなんだ作品・・。

二階へ・・、由来のある作品・・。明治2年に柱時計が何十年ぶりで時を刻み、時を知らせてくれています。



ここも基本的に吉祥が主体。



時間があれが、椅子に座ってのんびりと骨董談義・・。そう夜が更けるのを忘れて「夜噺骨董談義」。



屋根裏へ・・、氏素性の解らぬ中国陶磁器・・・。



何代にもわたる長持ちが蘇っています。鋼材で補強されています。





作品の敷台に多用しているのは敷地に生えていたという欅の根をスライスした残材です。





固定した棚も同様に欅の根です。木目と水の流れ・・。



猫は切り株の上で昼寝・・。



お帰りの頃には外は暗くなっておりました。足元のためにライトアップ・・・。



お休みのところ、寒い中、遠くから初釜・席披にご参加いただきましてありがとうございました。まだ未完成部分もあり粗宴ではありましたが、お楽しみいただけましたでしょうか?

皆様、お疲れ様でした。お気をつけてお帰りください。


















壺屋焼 白化粧地呉須飴釉線彫エジプト文大皿 伝金城次郎作 その5

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いつも行なうルーテイーンのような作業は人には必ずあるようです。小生は朝に族の布団をあげること。仏壇を拝むこと。ズボンにプレッサーをかけること。そしてブログの原稿を書くこと・・。毎日ルーテイーンで行うことは日々の祈りのような行為です。

本日の作品は珍しく家内には好評な作品です。



壺屋焼 白化粧地呉須飴釉線彫エジプト文大皿 
金城次郎作(無銘)
口径383*高台径203*高さ67



この絵柄は金城次郎が「エジプト文」、もしくは「竹人形文」と名づけています。無銘ですが、これも作行から金城次郎の作でしょう。



「エジプト文」、「竹人形文」の由来はよく解りませんが、魚文の作品が多い金城次郎の作品の中でこの文様の作品も多くありますが、数は非常に少ないようです。



白化粧の下地に流れる呉須の色が味わいを深くしています。沖縄の釉薬は流れやすいので釘彫によって流れを防止していますが、この滲みのように見える味わいがないと意外につまらない作品と感じるには小生だけではないと思います。



大きさは40センチを超えないやや大皿としては小さめで、もっと大きくてもいいように思います。



この作品も銘もなく、共箱もないので金城次郎の作とは認めない方も多いと思います。

参考作品
エジプト文様皿
サイズ:口径 240*高さ50

 

説明文より
[のびのびと描かれたエジプトの模様から、作家らしいおおらかさと温か味が伝わる作品です。]

この参考作品の箱書はいいですが、本人が書いたものかどうかは不明です。壷屋焼の箱書は本人でない場合が多いということも他の投稿で記述したとおりです。



銘もなく、箱も無く、纏めて購入した作品ですので、実に気軽に飾ったりして扱えるので愉しい作品です。



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