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Channel: 夜噺骨董談義
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釧雲泉その後 浅絳山水図 伝釧雲泉筆 その14(再整理番号)

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現場での安全には口うるさく指導してきたが、その中に「危険と思う感性を磨け」と述べてきました。この「危険と思う感性を磨け」には「このような状況では事故が起きている」という情報が必要とも指導しています。その情報を正しく、関わる人間にどう伝えるかが幹部の努めであろうと思います。

とかくこの世は情報社会・・、情報で満ち溢れているようですが、それをどう咀嚼するかは感性次第ですが、「感性を磨け」だけでは会社は成り立たないのが実情です。

サッカーでいうまでもなく日本人は組織力が持ち味です。個人技のプレーでチームプレーの競技に勝とうと思うのは大きな間違いです。過去何万年もの間、狩猟民族ではなく農耕民族であった日本人は個人技のプレーより、組織力を重んじてきました。過去に培われたDNAを軽視してはいけません。最近のNHKの放送であったように、産後の母親は子育てにはイライラするようなホルモンを分泌するようにできているらしく、そういう情報を持つだけでだいぶ対処に違いあるように思います。

現場での自己は個々の責任という欧米の発想でなはなく、組織で撲滅するという基本的なスタンスを保つべきです。

さて最近は自宅に居るときは初釜などの準備、終了後は片付けにかかりきりでただでさえ育児に忙しいので、作品の整理はほったらかし状態です。改装完了後に、集結してくる作品もあり、未整理の作品の数が多くなりました。

ところで本日の作品は最近ご無沙汰の「釧雲泉」らしい作品です。ここのところ、出来のよい釧雲泉の作品に巡り合えず欲求不満でつい本作品を購入しましたが・・・。

釧雲泉その後 浅絳山水図 その4 伝釧雲泉筆 その14(再整理番号)
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1940*横580  画サイズ:縦1340*横460

浅絳山水図と呼ばれる初秋を描いた淡彩による山水図です。



絵の雰囲気はいいのですが・・・。



ちょっといまひとつぴんとこない・・・。



迫力がないようですが・・・。



落款と印章などを含めて釧雲泉の作品に詳しい「すぎぴい」さんのコメントがあると助かります。



作品を整理していくときにいい作品から整理すると愉しくなりますが、あえて「氏素性の解らぬ作品」から手をつけてみました。どうもこうするとイライラするらしい・・。

「飴釉抜描湯呑」 浜田庄司作 その52  「湯呑 掛合釉五客」 浜田庄司窯作 その51

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昨日は仙台経由で女川へ・・。日帰りですが自宅から現地まで片道5約時間の道のりでちょっとくたびれましたが、帰宅後はいつもどおり家内と息子とお風呂です。

小生は一昨夜は午前様の帰宅で昨日はろくに寝ていない状態で小生が出かけたので、昨日の帰宅後は息子は小生にべったり・・・  還暦すぎての初めての息子は小生の宝物  疲れが吹き飛びますね。 



女川では多くの元同僚らと久しぶりに会えました。みなさんとは短時間の面談でしたが、復興に向けて生き生きと仕事をされておりました。途中で立ち寄った女川のラーメン屋で町長さんに会い、ご挨拶・・・。

本日の作品紹介は浜田庄司の作品です。先日の初釜の席で食事前に湯のみに使っていただいた作品です。

ネットオークションにて「浜田庄司」で検索するともののみごとに贋作ばかりです。明らかに浜田庄司の作品ではない、もしくはかなりよくできているが真作ではない作品なのに「本物保証」となって入札を促し、二束三文の作品をある程度の値段で落札させているようです。

贋作ばかりとはいえ、この世は「チャレンジしない人間はチャレンジした人間よりつまらない人生を送ることになる」ことは必定であり、骨董に限らず人は常にチャレンジして生きていくべきものです。

贋作の森に正しいものを見抜く情報と感性をもって挑むことも必要ですが贋作に騙されてもいけませんので、本来は非公開の作品ですが情報提供・・・・

なんどか浜田庄司の真贋ともども投稿していますが、さらなる参考のために再度浜田庄司の作品を取り上げてみました。よく見かける「湯呑」の作品です。

飴釉抜描湯呑 浜田庄司作
共箱 壱組(10客)
飴釉湯呑 口径82~84*高さ80韓2*高台径50~55*胴径80~85
抜描湯呑 口径84   *高さ80   *高台径50   *胴径80



10客ですが、5客ずつ釉薬が違います。



色違いで面白いですね。箱書きがきちんとあることが浜田庄司の作品の条件ですが、本作品のように花押まである作品は珍しいです。



簡単な箱書きですので、真似したり、印章を作ったりする人がいます。基本的に印章の朱肉が特注ですので、朱肉が黒っぽいことが決め手です。贋作の朱肉は明るい赤の朱肉がほとんどです。ただこの朱肉もまた同じような色合いで真似する人がいるようです。かなり稀のようですが・・・・。

浜田庄司本人の箱書きの字はあまりうまくありません。贋作には非常に巧く書くものが多くあり、字が巧いのは贋作と判断してよろしいと思います。

 

次に本人作ではなく、工房作品の紹介ですが、とくに「湯呑」や「花入」は多くが工房作品です。工房作品と本人作品は区別しておく必要があります。

湯呑 掛合釉五客 浜田庄司窯作
共箱 洲○窯
口径84*高さ82*高台径61*胴径90



きちんと箱書きで解るようにしてあるはずです。また本人作とは印章が違うはずです。

 

ときには「庄司作」として印章が別のものの場合は工房作品と疑うべきでしょう。かなりの腕の陶工による工房作品ですので、本人作との区別は意外に難しいものですが、真贋としては本人作とした場合は贋作となります。

朱肉も真似る、印章の形も真似る、このような贋作もあります。基本的には作品自体がよいか、悪いか・・、常にこのことに骨董の真贋は尽きます。

箱は本物で中身は偽物、本物に箱を付けて売る。箱は偽物、中身は本物・・・、二個で二倍の収入・・・・??? 魑魅魍魎たる骨董の世界です。

目利きになるかどうかは持って生まれた天命のようで、いくら頑張ってもダメな人はだめな人はダメなようで、そういう人がともかく多く、稀に入手した一つの逸品に百以上の駄作・贋作に囲まれているのが常のようです。

ネットオークションで浜田庄司の真作を入手することは充分に可能ですが、ともかくきちんと見極めできることができていないと、贋作をつかむことになりますので注意してください。

この世は贋作で満ち溢れています。マスコミの煽り、うわさや妬みで真実が見えにくくなっています。「真はなんなりや」を見抜く情報と感性を持たなくてはいけません。そのためにはなにごとにもチャレンジして経験と情報を積むことです。

氏素性の解らぬ作品 黄釉線彫壷 伝バーナード・リーチ作 その3

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最近の社会人は先輩に対する敬意というものが希薄なようです。退職すると上から目線で話をする後輩が多いことに戸惑うことが多い。足を組んだまま話をしたり、OBが再就職した会社をさげすんだような話し方をしたり・・・。我々先輩たちも怒らくなったのも悪い。ま~、こちらの人徳、実力が足りないと思って頭を下げて我慢するしかないのが情けないが、「急ゲド水ハ流レジ月ハ」の心境。息子の茶が心のなぐさめ

愚痴はさておいて本日はまとめて購入した作品のひとつ・・、トイレに取り付けた自宅の山林にあった欅の根の棚に飾っております。

スリップウエア、塩釉など欧米の陶芸の技法が盛んに日本でも行なわれいますが、そのようなことは日常使う器の基本としてしておくべきことでしょう。

本日はその技法を日本にもたらしたバーナードリーチと浜田庄司の関わりを記述してみました。

氏素性の解らぬ作品 黄釉線彫壷 伝バーナード・リーチ作 その3
口径*最大胴幅195*高台径*高さ248



1920年、セント・アイヴズに西洋初の日本式登り窯として浜田庄司とバーナードリーチで作り、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いています。彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り、朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターしました。



リーチ・ポタリーは、リーチの死後、リーチの3度目の夫人ジャネット・リーチにより引き継がれましたが、彼女が亡くなると、売却され解体の危機にさらされました。

ジャネットリーチの作品は以前に本ブログで紹介しています。



2005年、陶芸の歴史上、重要な意味を持つこの工房を救おうと、「リーチポタリー再建運動委員会」が発足。英国政府より認可を受けた公的慈善団体として募金活動が始まり、2006年にはポタリーの敷地および登り窯が買い戻されました。



日本側でも、柳宗悦や濱田庄司がかつて館長をつとめた日本民藝館が中心となって、募金活動がスタート。資金はリーチ・ポタリーの再建および日英文化交流奨学基金の運営のために充てられました。



こうして保存・拡張工事を経て、晴れて2008年、新リーチ・ポタリーが完成。3月6日の竣工式ではバーナード・リーチの孫、ジョン・リーチさんと、濱田庄司の孫、濱田友緒さんによるテープカットが行われました。

このような歴史的なことを知っているのと知らないのでは作品に対する思いがまったく異なるものになります。本作品の真贋はさておいて・・・

参考

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塩釉:焚口から食塩を投入し、窯内に食塩蒸気を発生させ、その作用で素地面にガラス状被覆面を作る。最高温時に食塩を窯の上部の穴から投入すると,食塩のナトリウムと陶土のケイ酸が融合し,ガラス化したケイ酸ナトリウムを陶器上に生じる。塩釉の発祥は15世紀のドイツと伝えられています。もともと薪が不足しニシンを漬けていた樽を燃料にして窯と焚いたことが起源とも言われています。
塩釉薬は濱田庄司が、英国で学んできた技法であるが、濱田庄司の塩釉は薄い釉薬の状態である事が特徴です。現在、塩釉を使う作家が多くなってきて厚がけをする作家なども出てきました。塩釉薬は厚がけをすると、貫入が大きく入ってしまうが、薄がけの場合は貫入が入りづらく使用するのにも最適です。浜田は還暦を過ぎたころから塩釉を本格的に製作するようになりました。

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この世には知らないことがたくさんあるものです。

ところで佐野乾山とバーナードリーチとの関連をご存知の方は多いと思います。そのことについては後日また・・。

この作品は「生命の樹」という有名なバーナードリーチの作品も文様をさらに抽象化した作品ではないかと思われます。検証は後学としますが、題名は「生命の樹」という可能性があります。

補足説明

バーナードリーチの「生命の樹」という題名の湯呑を描いた岸田劉生の静物画があります。

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バーナードリーチと岸田劉生

1912年に岸田劉生がリーチの作陶の絵付けの手伝いをしたことで親交を深めました。劉生にとってリーチは「素描するという事の芸術的境地」「デコラティブという事の本当の意味」、そして「東洋的審美」を知るきっかけを与えてくれた重要な友人であり、リーチもまた劉生を高く評価していました。劉生はリーチの陶芸作品をモチーフにたびたび静物画を描いています。

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バーナードリーチを調べると日本の美術に大きく関わっていたことを知ることになります。

歴史を知らないと敬意は希薄となるのはなにごとも同じで、敬意を払わないというのは無知と同じことです。。



冠形香炉 和気亀亭作

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本ブログへの閲覧者が延べで300万件、訪問者 50万人を超えましたが、閲覧者が増えるのはいいのか悪いのかよくわかりませんが、ほぼコンスタントな数字の積み重ねなので、ほぼ同じ方が読んでいただいているものと推察しております。

本日の作品は平戸焼でよく見かける冠形香炉ですが、どうも本作品は京焼のようです。和気亀亭については何代かの陶工がおられたようで、本作品が何代目の作品かはよく解りません。

冠形香炉 和気亀亭作
共箱
最大幅121**高さ124



正直なところ冠型香炉としての出来は良いとはいえないものです。



あまり出来がよくないのもご愛嬌というしろものです。



「和気会記念品」とありますから型で大量に製作されたものと推察されます。



染付の作品が主流の陶工のようですが、京焼の色付けの作品もあるようです。



透かしの出来はよいもののなんといっても形が悪い。



京焼の陶工としては三流か?



一般的に京焼は日本の陶器としては仁清、木米らの一部の陶工を除きそれほど魅力を感じないものです。



京焼はどこか化粧くさく茶器としてはまったく魅力の無い陶磁器です。



京都は排他的で近代国家の時代から完璧に時勢に遅れをとっており、桃山以前のものにしか魅力のある文化が残っていません。



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亀亭:清水焼陶工の名で,寛延元(1748)年五条坂上の音羽町に開窯した亀屋平兵衛家の流れを引く。三代平兵衛(?~1765)の時に亀亭を号したが,その子の早世により家督は備前出身の和気平吉(1707~87)が継承し二代亀亭となった。三代(~1807)・四代(1771~1848)と和気家が受け継いだ。二代は五条坂の磁器製品開発に尽力し,四代は勧業場の御用掛となるな京焼の振興に足跡を残した。

和気亀亭(初代):?-? 江戸時代中期の陶工。寛延元年(1748)京都五条坂に窯をひらく。のち播磨(はりま)の亀坪石をつかい白磁をつくった。屋号は亀屋。通称は平兵衛。

和気亀亭(2代):?-1822 江戸時代後期の陶工。備前(岡山県)の人。初代亀亭の跡をつぐ。磁器の改良につとめ,門人の宮田熊吉(亀熊)を肥前有田に派遣して染め付け磁器を完成させた。ただし染め付けの完成を3代のときとする説もある。文政5年死去。通称は平吉。

和気亀亭(4代):1826-1902 幕末-明治時代の陶工。文政9年生まれ。3代和気亀亭の長男。文久2年家督をつぐ。明治6年京都府勧業場につとめ,パリ万国博覧会などに出品した。明治35年死去。77歳。名は平吉。

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江戸期中期以降の物づくりには新たに評価すべきものは皆無であろう。

 

この作品も何代目の作品であろうかということには一切の興味が湧きません。

  

京焼に対してこのような意見を持っている人は意外に多い。気がついていないのは京都のものづくりの人々だけ・・。





壺屋焼 白化粧地呉須飴釉線彫双魚文大皿 伝金城次郎作 その6

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なにかと家内ともども忙しく、息子を乗せる自転車の段取りがようやくできました。まずはヘルメット・・、小生の選択。自転車に乗るのが楽しいらしく大喜び・・・。



自転車そのものが耐荷重性が安全なもので、載せるものも子どもが落ちないようになっていなくてはいけません・・。



ともかくしっかりつかまって家内と会話しながら楽しんでいるようです。



本日はまとめて購入した作品の最後の作品となります。大きな作品ばか購入したので置く場所に困っています。飾るべきところには飾ったのですが・・。置く場所も考えずに大きな作品を数多く購入しすぎたようです。処分、処分・・。

壺屋焼 白化粧地呉須飴釉線彫双魚文大皿
口径408*高台径*高さ78



作りは初期の金城次郎の作行です。金城次郎は無銘の頃に口径40センチクラスの大きな皿を製作していますが、いくつか本ブログで紹介した大き目の作品同様に本作品にも銘がなく共箱もありませんので、金城次郎の作とは認められないでしょうが、おおらかな作行が魅力的な作品です。



40センチを超えるとさすがに見ごたえがあります。



刷毛の勢いが表れているのも見所になっています。

 

釉薬の流れが少なくなっていることから、初期から少しなってからの作品でしょうか?

参考作品

壺屋焼 魚文大皿
サイズ:口径約39.5cm*高さ 約8.3cm
売値価格:200万



200万だって・・・。誰が買うのでしょうか?? このお値段では誰も買いませんね! 小生が買うなら2万円程度のものでしょう。40センチ近い作品ながら、出来はそれほどよくないものです。

他の所蔵作品紹介より 

壺屋焼 白化粧地呉須線彫双魚文大皿 伝金城次郎作 その3 
口径436*高台径*高さ87



どの作品が出来が良いかは賛否両論でしょうが、金城次郎の作品は銘などないほうがのびのびしています。どうも「金城次郎でございます」的な作品はまったく面白くなく、どちらかというと壷屋三人男で小橋川仁王や新垣栄三郎のほうがいい作と評される原因はこのあたりになるのでしょう。

金城次郎の作品の90%以上は繰り返しの文様で創意工夫の無い作品ばかりです。同じ陶工でも出来のよいものをきちんと選ぶ必要があります。かえって銘のない、面白い作品を飾るほうが愉しいものですが、そういうふうなことを理解してくれる人は少ないものです。

福禄寿星像 鈴木百年・松年合作 その7

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本ブログの内容が難しいとか説明文が多すぎるという方がおられるかもしれませんが、これは骨董の整理上、やむをえないことで、とくだんブログ用に書いているものではありませんのでご了解願います。あくまでも本ブログの主目的は作品については作品整理の資料です。

さて本日の作品は福禄寿について・・、福禄寿について知っているつもりでも意外に知らないことが多いものです。

福禄寿は道教で強く希求される3種の願い、すなわち幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものです。

福禄寿星像 鈴木百年・松年合作
絹本水墨淡彩軸装 軸先 時代箱
全体サイズ:縦2090*横530 画サイズ:縦1250*横500



鈴木百年と松年父子の合作であることから明治24年以前の作品であると推察されます。福禄寿はもともと前述のように福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、三体一組の神であり、「寿星」を百年が描き、「福・禄星」を松年が描いた作品です。

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鈴木百年:文政8年(1825年)~明治24年(1891年)。名は世寿、俗称は図書。字は子孝、百年・大年・大椿翁と号した。通称は図書。天文・易学の大家であった鈴木星海の子で、円山派の大西椿年(ちんねん)に就いて画を学び、与謝蕪村の風を慕い諸派を折衷して一家を成し、鈴木派と称される新興流派を作り出し、幕末から明治にかけて急速に台頭した四条派の画家である。

山水人物画に巧みであった。北宗科の教師として京都府画学校教諭となり、後進に指導に当たった。天文学に精通、陰陽寮に出仕。岸岱、岸連山、狩野永岳、小田海僊らと親交があった。鈴木松年はその子で、弟子に今尾景年久保田米僊、がいる。門人がおおく鈴木派と称された。明治24年12月26日死去。享年67歳。最晩年には田淵家に滞在していたという記録が残る。通称図書。「競馬図屏風」(稲荷神社蔵)の遺作がある。

 

鈴木松年(すずき-しょうねん):(1848~1918)明治-大正時代の日本画家。嘉永元年6月14日生まれ。鈴木百年の長男。幼少のころより父にまなぶ。

明治14年京都府画学校の教員となる。人物画を得意とし,いま(曾我)蕭白(しょうはく)といわれた。内国勧業博覧会などで受賞。上村松園の最初の師。大正7年1月29日死去。71歳。京都出身。名は賢。初号は百僊(ひゃくせん)。

上村松園の最初の師であり、上村松篁は子息。印名は「世賢」 「鈴木世賢」 「百僊」(「百仙」) 「松年」 「松年僊史」(「松年仙史」)「梥年」 「源僊」 「老龍館主」 「老龍館松年」 「天龍叟鈴木賢松年印」 「芭蕉雨梅花雪」「東錦楼」 「一日席画千枚之一」 「楊柳風悟桐月」 「粟畏雨雙霜擢」「菅公千年祭梅松千畫一鈴木世賢筆」 など

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福禄寿(ふくろくじゅ):七福神の一つ。道教で強く希求される3種の願い、すなわち幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものである。

宋の道士・天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもある。 福禄人(ふくろくじん)とも言われる。

福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、三体一組の神である。中国において明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた「三星図」を飾る風習がある。福星は木星(十二次では歳星)とされ、多くは裕福な官服を着た黒髪の姿で三者の中心に描かれる。禄星は「禄」 lù が「緑」 lù と同音のため緑色の服装で、豊かさを表す金銭や嬰児を抱いた姿で描かれることが多い。寿星は南極老人星(カノープス)とされ、容貌は時期によって諸説あるが近代以降は禿げた長大な頭に白ひげをたくわえた老人とされることが多く、また厳密にはもともとこの寿星(南極老人)が単独で日本に伝わったのが寿老人である。

三星図は実にさまざまな形態で描かれるが、三者それぞれを人の姿ではなく意味や音韻に関連性がある象徴物として描くものも多く、そのバリエーションは多岐にわたる。中には、寿星だけを老人の姿で描き、その左右に福星を蝙蝠として(「福」 fú と「蝠」 fú が中国では同音のため)、禄星を鹿として(「禄」 lù と「鹿」 lù がやはり同音のため)描いたものなどもあり、こういった伝来物が日本人には二物を伴った一人の神に見えたため、日本においては福禄寿を三人ではなく一人の神格とする認識が流布したと考えられる。中国では、鶴・鹿・桃を伴うことによって、福・禄・寿を象徴する三体一組の神像や、コウモリ・鶴・松によって福・禄・寿を具現化した一幅の絵などが作られ広く用いられた。また、背が低く、長頭で長い髭をはやし、杖に経巻を結び、鶴を伴っている像とされる。 真言は「オン マカシリ ソワカ」。

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小生は日頃より七福神が好きで、骨董書画でも七福神について気に入ったものについて懐が許す範囲であれば購入しております。

その恩恵があってか還暦を過ぎてから、初めての子宝に恵まれました

「希求される3種の願い、すなわち幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)」のようですが、あとの二つは??? 欲を持ちすぎてはいけません

上村松園は鈴木松年とのあいだに上村松篁という画家を生み、鈴木松年の長男は大成せず、鈴木松年が亡くなった7年後に亡くなっています。

とにもかくにも骨董というもの、古いもの、縁起物は大切にしないとご利益がないどころか、運から見放されることすらあるものです。

本ブログに投稿される作品の出来としてはそれほどでもなく、本ブログの内容も拙い資料ですが、作品を整理していくと意外に知識は深まるものらしい???








浅絳山水図 蓑虫山人筆 その8 

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最近は恩師、恩人、知人が亡くなったり、同級生が病気で入院したり、廻りになにやら嫌な雰囲気が漂います。今という時間を大切にしないといけないと改めて実感する日々です。



昨日は新橋で元同僚らとふぐの会(2月9日)で一献・・、痛飲・・。

本日は蓑虫山人の作品の紹介です。

蓑虫山人の作品はどこか飄々としており。その旅先のスケッチのような作品が共感を呼んで根強い人気があります。

浅絳山水図 蓑虫山人筆 
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横370*縦1980 画サイズ:横310*縦1300



蓑虫山人は根強い人気があり、一時期はかなり高額になったこともあり、贋作が存在しますので、落款・印章や絵の雰囲気で判断します。鑑定や箱書きは一切ありません。



稚拙なようでも絵の腕前はたしかなようです。遠近感に違和感を覚えるなど、器用な絵ではありませんが・・、ただ器用な画家ほどつまらないものはないので、このあたりが絵の難しいところです。



ひとり佇むのはおのれ自信か?



いい作品です。ごちゃごちゃ描かず、さらりと描いた秀作です。



我が郷里に長期に、そして複数回滞在した画家です。郷里の床に飾り一幅・・、もとい一服。これもまた今という時間を大切にすること。時間を大切にするということは、「仕事などに真面目に過ごすよりことも大切だが好きなことで過ごすこと」だそうです。

韓信之股潜図 倉田松涛筆 その19

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ニッチに飾ったのは影青らしき小皿。



こういう鑑賞のしかたはいいと思うのですが、誰もほめてくれません



さて本日は郷里出身の画家の作品です。画題の「韓信之股潜」については以前に投稿した下記の作品で詳細は記述しましたので説明は省略させていただきます。

韓信之股潜図 野沢如洋筆 その2

野沢如洋は青森出身、倉田松涛は秋田出身の画家です。東北出身の画家が上京して、いつしか立身出世して「今に見ていろ」という思いが絵になったというのは考えすぎかもしれません。

韓信之股潜図 倉田松涛筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 極箱
全体サイズ:縦2370*横660 画サイズ:縦1390*横500



一気に墨で描く作品の多い倉田松涛にしては珍しく、書き込みの多い作品です。



建物の壁を描くことですっかり画面が二分された斬新な画面となっています。



各々の顔の表情を実によく描ききっています。



この世に生きている限り、このような意地悪をされた経験は誰にでもあるものです。



学校でのいじめに始まり、職場でのパワハラなど年齢を重ねるごとに陰険の度合いは増してくるものです。小生も経験がありますが、最初の付き合いはかえって良好である場合が多いので周囲は気づきにくいので要注意です。



互いに人間の度量が問われることになりますが、一般的には加える側に罪の意識が乏しく加えたという自意識に欠けているのですが、加えられた側は一生忘れません。加える側が度量の低い人物であることが常です。



「韓信(~紀元前196年)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。」という史実から、手前に置いたのは明末の呉須赤絵の「天下一」・・。



本来この「天下一」の語句は日本での流行語であったらしいですが、この陶磁器の作品についての説明はまた別の機会にしましょう。



忘れ去られた画家 漁夫 若狭成業筆

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仕事をしているところへ家内からのメール、しかも写真だけ・・。



どうもニッチの毘沙門天をどけて花を飾ったらしい 花入に洗面台にあったガラス瓶を使ったらしい。ま~、いいか。

本日は故郷の画家の作品ですが、本ブログでは初めて投稿する画家です。本ブログでお馴染みの「寺崎廣業」に師事していました。

若狭成業は同郷の寺崎廣業に学び、中国の著名な画家である王一亭・呉昌碩らの影響を受けています。ほとんど忘れ去られて画家といっても過言ではないでしょう。画力のある画家の一人ですが、最近では非常に評価の低い画家のひとりです。
「王一亭・呉昌碩ら」の近代の中国の画家は真作であれば非常に高い評価を受けていますが、版画などの作品や贋作が横行しており、素人にはまったく判別がつかないものが多く、禁断の画家?といってもいいでしょう。

本作品は郷里出身が画家でもり、また「面白い」と思い購入した作品です。

忘れ去られた画家 漁夫 若狭成業筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1990*横700 画サイズ:縦1290



賛には「学道老標失本心 湧歌一曲□□□ □江暮雨楚雲月 □□風情夜々□ □□□□ 於□山下 物外写 押印」とあります。意味は? ちょっと難解そうですね。



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若狭成業:南画家。秋田県生。名は忠太郎、別号を如岳・物外。初め小野崎如水・高橋晁山に入門し、上京後寺崎廣業に、のち京都で山田介堂に学ぶ。中国へ歴遊し、王一亭・呉昌碩と親交し、その影響を受けた。巽画会会員。昭和32年(1957)歿、71才

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王一亭・呉昌碩の作風に似ているもののやはり日本人の感覚の作品ですね。王一亭・呉昌碩の作品は非常に評価の高い画家で、日本でいう富岡鉄斎のような南画めいた作品を描きます。



作品には画力充分と思わせる迫力があります。



このような作品は数千円で購入できますし、ほぼ贋作はないと思っていいでしょう。もっと評価されるべき画家のひとりです。

郷里の画家などに興味を持つことから骨董蒐集を始めると長続きするようです。

唐美人図 伝狩野惟信(養川院)筆

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積雪で庭に倒れていた楓の木を根元からチェーンソウで切断して片づけましたが、その枝がもったいないということで庭にあったツボに・・・。



このツボは倉庫改修に際して出てきた品物・・・??



いったいいつ頃にどこで作られたものやら・・、捨てるにはもったいないのでとりあえず仮置きです。



本日は壺と同じく家内の実家に遺されていた作品で処分せずにおいた作品のひとつです。出来から判断して真作とは思えませんが、古くからあった作品として遺しました。地方では狩野派の作品はヤマとあります。狩野探幽の作品はあちこちに点在しますが、まず地方に真作はないでしょう。

唐美人唐子図 伝狩野惟信(養川院)筆
絹本水墨軸装 軸先鹿角 合箱
 全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



落款には「養川法眼筆 押印(「惟信之印」の白文朱方印)」とあることから天明元年(1781年)29歳以降から寛政6年(1794年)42歳で法印になるまでの間の作品と推察されます。落款の特徴からは良さそうですが、真作との確証までにいたるものではありません。



宮廷内、楼閣と思われる前庭で女性や子供たちが楽しくくつろぐ様子墨を主体として描いていますが、出来は不十分でなんらかの下絵の写しの可能性があります。



「画風は大人しく、父・典信が推進した江戸狩野派の新たな展開に大きく寄与することはなかった。しかし、大和絵を良くし、温和で軽妙な筆致に持ち味がある。」がありますが、その評がしっくりくるような作風ではあります。



痛みのある状態から判断すると本作品自体は再表具されています。



模写に後落款という可能性もあり、本作品は「伝」としております。

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狩野 惟信:(かのう これのぶ)宝暦3年10月15日(1753年11月9日)~文化5年1月9日(1808年2月5日)。江戸時代の木挽町(こびきちょう)家狩野派7代目の絵師である。父は狩野典信で、子に狩野栄信がおり、鍬形斎が弟子だった時期がある。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。
 
狩野栄川典信の長男で父が築いた地位を順調に受け継いで、歴代の狩野派の絵師の中でも異例に早い出世を遂げる。明和元年(1764年)12歳で早くも奥御用を務め、父と同様10代将軍徳川家治や老中田沼意次に厚遇され、天明元年(1781年)29歳で法眼に叙せられる。

寛政2年(1790年)父の跡をうけ、木挽町狩野家を継ぐ。更に寛政6年(1794年)42歳で法印となり、病死が続いた宗家の中橋狩野家を尻目に、奥絵師四家筆頭の地位を確たるものにする。江戸城障壁画や京都御所関係の絵事を多く手がけた。

文化5年(1808年)、56歳で死去。早い栄達の割に画風は大人しく、父・典信が推進した江戸狩野派の新たな展開に大きく寄与することはなかった。しかし、大和絵を良くし、温和で軽妙な筆致に持ち味がある。

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表具が剥がれてきていましたので小生が修復しています。これがけっこう大変でひと月ほどかかりました。骨董というものは古くから伝わるものは金額的な価値以前に大切にする思いが大切で、そのことが将来の恩恵につながるものです。粗末してはいけません。


海幸 伝竹内栖鳳筆 その7

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既成の飯碗を使用していたのですが、縁が欠けてしまい、いつものように金繕いで補修しようと思ったのですが、普段使わない自作の茶碗があるので、探し出して使うことにしました。



作品には昭和60年、盛岡の南部窯にて製作と記されていました。もう30年以上になるのかと思い出に耽ってしまいました。まだまさ初心者の頃で、窯元の先生にお手伝いいただいて作られた作品です。



もちろん抹茶用に作ったものですが、当時数多く作りましたが、その多くはガラス屋さんに頼んで底に孔を空けて、植木鉢と相成りました。抹茶用のお茶碗は思いのほか難しいものです。



少しはまともそうなものだけが手元に残っています。

白釉が志野の釉薬のようなカリっとした冷たさではなく、温もりがある感じが気に入っています。銘もちゃんとありますよ。



せっかくだから使わないと・・・・。小生が亡き後は打ち捨てられるのがオチでしょうから・・。

さて本日の作品は「鯛」・・・。年始に飾る掛け軸は干支の猿とめでたい吉祥のものと思い掛けてみました。「めでたい」と「鯛」・・・・。

海幸 伝竹内栖鳳筆
絹本着色軸装 軸先象牙 二重箱竹内四郎鑑定箱
全体サイズ:縦1280*横500 画サイズ:縦350*横360



箱には「海幸」と題され、「昭和戌子瓜月上浣 四郎観 押印」とあり、1948年(昭和23年)7月上旬の箱書と推察されます。作品は昭和12年前後の頃の作品と思われます。箱書の書体は良さそうですが、箱書の印章については、手元に同一の資料が無く同時期のものと比較が必要なようです。

 

なにしろ贋作や工芸作品の多い竹内栖鳳ですので、あくまでも「伝」です。



作品の印章はよさそうですが、竹内栖鳳の作品の真贋についての判断は総合的に行なう必要があります。



製作時期は昭和13年前後でしょう。竹内栖鳳の印章はものすごい数になります。覚えておくには無理がありますので竹内栖鳳の作品については非常に難しい入手判断になります。資料が手元にあって購入できるといいのですが、購入は一瞬のひらめきの勝負です。



表具はいいもので、二重箱が備わっています。



同題の「海幸」という代表的な作品は画集にあります。当然ながら綿密に描かれた代表作で実にリアルです。



この作品に比して、本作品は少ないタッチで描かれておりおとなしい感じがしますね。



よさそうと判断していますが、やはり「伝」が無難なところでしょうか?

ちょっと憂鬱な雰囲気の漂う展示になり、本作品は今年の展示は止めてお蔵入り・・。替わりに出てきた自作の茶碗・・・。





波斯 青釉銀化花文壷

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砂漠の中に置いたほうが味わいがありそうですが、庭に何気なく置いてみました。小生のお気に入りの逸品です。

波斯 青釉銀化花文壷
「レイまたカシャーン 12世紀」 市川清鑑定箱入
口径約96*胴最大径200*高さ230*高台径85



箱書きには「花文」とあり、わずかに口の外周りや胴部分に花のような文様が残っています。水をかけてみると全体の文様がよくわかりますが、低温で焼成された上に経年で水に弱くなっているので水分は厳禁であり、胎土は非常に脆くなっています。



黒い釉薬、もしくは泥を掻いたような白ののぞき部分に青い釉薬が掛かっているものと推察されます。



箱の裏書きには『レイ又はカシャーン 十二世紀 市川清 「清」の朱方印』があります。



発掘品ですが状態はすこぶる良い作品です。ただし胴の部分に割れが生じているので取り扱いには十分注意を要します。



また口縁の外側に欠けがあるので漆で補修しておきました。上半分の銀化が進んでおり、半分埋まった状態での発掘とも思われます。

鑑定箱にある「市川 清」について詳細は不明であるが、古代陶磁器の鑑定に関わっている案件によく耳にする人名です。



レイは、中国の史書『史記』や『後漢書』にもでてくる古い街で、シルクロードをつなぐオアシスのひとつらしいです。11世紀、セルジュク朝では、首都になっています。



イラン高原の麓にあるカシャーンは遺跡から農具や土器が発見され、ここで5500年まえに農耕がはじまったことがわかっています。白地にシカやトリを描いた彩文土器は、メソポタミアとおなじ古さだそうです。



ペルシャで発掘された作品をいくつか所蔵していますが、これほど完品で銀化が素晴らしい作品は見たことがありません。中国の陶磁器の銀化よりももっと美しいものです。



陽に光を浴びて輝く姿に、800年以上の前の風景を思い起こすとロマンですね。ペルシャのラスター彩など及びのつかぬ美しさです。



骨董というものは、時代の経過というものが新たな美しさを作品に加味するものですが、そのことが実感できる数少ない作品です。

文書く美人 柱絵 鈴木春信 再々投稿

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当方は浮世絵に関しては詳しくありませんが、ときおり縁があって購入することがあります。以前は骨董市で山積みされている浮世絵を一枚一枚めくって物色するのが楽しみで、他の骨董にいいものが無いときには致し方なく浮世絵を買ったりしていました。

文書く美人 柱絵 鈴木春信
絹装軸紙本浮世絵版画箱入 柱絵 
画サイズ:横117*縦632



浮世絵における柱絵をご存じない方のために下記にインターネット上の説明記事を掲載します。

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柱絵(はしらえ):江戸時代に描かれた浮世絵の様式のひとつ。柱に飾るため、極めて細長い画面に描いた浮世絵を指す。柱隠し、柱掛けともいわれる。

直接柱または壁に貼り付けるか、簡単な軸装にして掛け、時代を下ると次第に後者のほうが多くなったようだ。また、衝立や屏風、襖・障子類に貼交ぜられることもあり、現在でもその痕跡が残る遺品もある。そのため概して保存状態が悪く、人気絵師の作品でも現存数は少ない。この柱絵の極端に縦に細長い画面に見事に構図を収めた点は外国人を驚かせた。

画題は美人画が多いが、他に役者絵、山水風景、故事説話を題材にしたものや縁起物等がある。美人画の場合、縦長の構図を活かした立姿のものが多く、なかには湯上がり姿や強風で白い脛を露わにした「あぶな絵」的な作品も含まれる。

画面が異様に縦長という制約を、特殊な画題や、画面構成の工夫によって乗り越えようとしため、かえって面白味のある作品となることも多かった。



奥村政信による発案といわれ、発生は錦絵として製作されたのは元文(1736年-1741年)末頃と推定される。肉筆浮世絵においても、ほぼ同じ頃から少しずつ描かれるようになったと思われる。

一口に柱絵と言っても、時期によって大きさなどに微妙な変化が見られる。政信時代の柱絵は、大体縦69~75cm×横17cm前後または25~26cmである。横幅が2種類あるのは、横50cmの丈長奉書を横に二つ切りにするか、三つ切りにするかの違いによる。現在の浮世絵用語では、どちらも幅広柱絵と呼び、更に前者を「掛物絵」として区別することがあるが、当時からこの2種を区別する呼称があったか不明である。

政信の時代を第一次ブームだとすると、第二次は鈴木春信や礒田湖龍斎らが活躍した宝暦から明和年間頃である。サイズも宝暦以降4つ切りにしたため縦69~70cm×横12~13cmと全体に小さくなり、より縦長な画面に変化する。「春信版画総目録」[1]によると、春信の柱絵は紅摺絵・錦絵を合わせて140点を超え、春信の総作品数843点のうち約17%を占める。この割合の大小は判別しがたいが、春信追善を意図したと思われる作品には、しばしば春信の柱絵が画中画として描きこまれ、柱絵は春信作品を象徴する形式と認識されていたことが窺える。

第三次のブームは、鳥居清長の活躍期で、柱絵が清長全作品に占める割合は約20%ほどである。しかし、清長画の形式変化を眺めると、次第に柱絵の制作から大判錦絵の続物に重心が移っていくのが見て取れる。この流れが清長後も続き、肉筆は既に明和(1764年-1772年)の頃には衰退していたが、版画も文化(1804年-1818年)頃まで終わりをむかえる。柱絵衰退の理由としては、この大判続絵の一般化の他に、人物描法の変化などが考えられる。

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柱絵には月や大の月、小の月をを示すものもあり、暦としての機能も果たしていたようです。



鈴木春信の柱絵は140点にもなる作品を遺しており、さらに紅摺絵期間も含めるとさらに10点ほど増えるとのことです。



本作品は仙台の汲古堂より購入したもの。若干のしみが残念ですが、全体に保存状態は良好なほうです。柱絵は数が少なくなっているようで最近はあまりお目にかかれなくなったように思います。



評価が低かったせいもあるでしょうが、掛軸として掛けっぱなしのせいで状態が悪くなったことで残存数が少なくなったこともあるようです。



洒落た表具になっています。当方もちょっと洒落た風鎮などを・・・。



題は知り合いの人に書いてもらうなど、廃れていくものへの愛着を込めて保存しています。

この版画製作の工房の彫師が、本ブログでお馴染みの源内焼の型を製作したと思うと絵を鑑賞する興味も湧いてきます。



下は版画店などのカタログですが、価格が高すぎますね。こちらで売るときのお値段は「10分の1位でましなほう。」と思ったほうがいいでしょう。





信楽壺

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初釜の席で広間の床の間に置いた信楽の壷で、小生のお気に入りのひとつです。

骨董の趣味の終着のひとつに壷があるように思います。

古信楽壺
箱入
高さ300*胴径220*口径105



大きさはそれほど大きくありませんが、どっしりとした迫力があります。肌に出ている長石、「ウニ」と称される空洞、ビスケット肌、ビードロ状の釉薬の流れ、口縁周りの輪線など余すところなく信楽のよさを兼ね備えています。



今回は魯山人の桧垣文の壷との比較と意図で展示しましたが、出席された皆さんにはゆっくり見ていただける時間がなくなってしまいました。



古い壷ほど目利きは難しいもので、小生の力の及ぶところではありませんが、いいものはいい・・・。



時代はだいぶ古いものらしいです。ただただ、観るのみ・・。



鎌倉時代から室町時代にかけて焼かれた種壺・雑器でしょう。



信楽には茶道の「侘び・寂び」の雰囲気があり、飛び出ている長石、木節によって穴のあいた地肌、ビスケット肌、淡いグリーンの自然釉など素朴でいて力強い造形を持つ信楽は人を魅了して止まないものですね。



裏面(火裏)のこびりついたような灰もまた魅力的です。



ごろんと転がるように置かれた壷・・、魅力を見出せるかどうかは鑑賞者次第・・・。



壷は買うごとに失敗ばかり・・、そのたびに置くところに困り処分することになります。さてこの作品は・・??



ただただ観るのみ・・・。そして魅せられていく。時とともに変わる女性のうわべの美ではなく永遠の美の世界に・・・。

武陵猟夫 岡本豊彦筆 その1 再々投稿

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本ブログで何度か投稿されている蓑虫山人についての特集が「今週のNHKの日曜美術館の番組」で放映されました。

内容はあきらかに時間が不足しており不十分な内容でしたが、取りあげたことには大いに賛同します。いままで取り上げなかったことが不思議なくらいですが、個人蔵が多いため作品を集結しての展覧会は無理かもしれませんので、有意義な特集番組でしょう。一部の愛好家には根強い人気のある画家ですが、今では忘れ去られた画家のひとりなのでしょう。

そのほかに「釧雲泉、天龍道人、源内焼、倉田松涛、平福穂庵」など取り上げてほしい作品群が多々ありますね。これらの画家などはこれからご注目です。

さて本日の作品は、原稿を書いてから改めて気がついたのですが過去に二度投稿していました。郷里に収納していたのですが、手元に置いておきたくて、帰京に際して持ってきた作品です。春になると飾りたくなる作品であり、つい・・・。

武陵猟夫 岡本豊彦筆
絹本金泥着色絹装軸二重箱 
画サイズ:横234*縦315



幕末以降、四条派は京都画壇をリードしていきますが、その基礎を築いたのは本作品を描いた岡本豊彦と言っても良いでしょう。彼以降、単なる華麗で単調な作品が多いなかで、彼の弟子である柴田是真が発展性をみせ、竹内栖鳳へと繋がっていきます。しかし、四条派の絵が退屈なものとなったのは否めないように思います。



日本画の生きる絵としての価値をどこに見出したらいいのかは、近代絵画の出現を待つしかなかったことは四条派に限ったことではありません。四条派の画家の一人とされる我が郷里出身の画家の平福穂庵もその例であり、京都四条派の作品は時代の経過とともにつまらなくなっていきます。

岡本豊彦以降の作品は南画、狩野派もそうであるように単調・装飾的であり、江戸時代末期から明治後半まで一部の画家を除き日本画の倦怠期のよう時期です。



四条派についての薀蓄は別としまして、ともかく本作品は良い作品です。うららかな春の陽射しのある日に転寝をしながら脇に飾るにはもってこいの作品でしょう。



画題は東晋末から南朝宋にかけて活躍した詩人陶淵明の著した散文「桃花源記」の冒頭部分を描いたものです。

「晋の太中元年間、武陵に漁師がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って舟を漕いでいくとどこまで行ったかも分からなくなり、突如、桃の木が生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が広がった。」



まさに桃源郷発見の瞬間であろう、その光景を絵にしたものです。



岡本豊彦は安永2年生まれ、弘化2年没(1773年~1845年)、享年68歳。字は子彦、号は紅村、丹岳山人。備中の人で京都に出て、松村呉春に学んで、景文とともに四条派の双壁をなしました。

明治初期の代表的な画家である塩川文鱗や柴田是真はその門人。「松村景文の花鳥画と並んで豊彦の山水画」と賞せられ、呉春より文人画的な要素が強いと評せられています。亮彦はその養子。



表具もきちんとしています。



小生がまだ蒐集して間もない頃はこのように栞を作ったり、友人の書家に題を書いてもらったりして愉しかった、初心なころが懐かしい。



初心忘れるべからず・・・。



今は作品の数が多すぎて気持ちが落ち着かないのはかえってよくないかもしれませんね。源郷の世界に浸ってのんびりとお気に入りの作品だけにしたいと思っています。

JAPAN 黒塗草木蒔絵文蓋付吸物椀 壱拾客揃

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骨董は学ぼうとするものには、必ず一日にひとつ程度の知識を与えてくるものらしいです。

下記の作品の名称を変更します。俗に言う「影青(インチン)」という作品群のひとつです。

影青刻花輪花皿 合箱入→青白磁刻花花文輪花鉢
口径150*高台径45*高さ45



何気なく引越しで片付けていた図鑑を見ていたら、下記の作品の写真を見つけました。



「どっかで見たような作品だな~」と思って、本ブログを検索したら、冒頭の作品が見つかりました。



「ん?」・・、むろん本物と思っていたわけではありませんが、どうも出来が良いので購入した作品ですが、焼成があまいのが欠点と思っていました。



なるほど「青白磁刻花花文輪花鉢」と称するのか? 

そんなかんやで、作品名の変更で休日にパソコンに向かっていると息子が自慢そうに首輪を掛けてきました。家内とトイレットペーパーの芯で作ったようです。これでまた作品整理はすすまない



この笑顔にはいかなる骨董品も適わない。

手早く写真をまとめて、本日は漆器の作品です。

現在整理されている作品でもっとも少ないのが漆器類ですが、これに手を染めるとまったくもって時間が足りなくなります。実に実用的な作品が多いのですが、数は多く、写真撮影も難しくフラッシュが反射するので困りものです。

黒塗草木蒔絵文蓋付吸物椀 壱拾客揃
輪島 奥田五右衛門工房作(奥田漆器店) 杉木箱入
口径122*高さ90*高台径50



漆器類は木の温かみ、この丸さが碗の命ですね。漆器は世界に類を見ない日本の特有の美術品です。陶磁器がCHINAなら、漆器はJAPANと称されています。
 
この作品は家にある調度品の一つで戦後間もないころの作と思われます。「奥田五右衛門漆器店」は現在も「石川県 輪島市 河井町」に現存しているらしい。



いくつか少しずつ家や蔵から運び込んで、漆器類も整理を開始したいと思っております。



普段使いで漆器の優るものはない。古くていいものを使いましょう。まったくもって感触が違います。ひとつ500円くらいからいいものがあります。

参考資料
民芸手帖 212号 東京民芸協会 1976/01月号
表紙:朱塗粥椀・輪島奥田五右衛工房作品



この資料も偶然見つけたもの・・・、記憶力さえあれば、いろんなところの資料が骨董に繋がっています。

ただ贋作が資料の作品と似ているのもまた真実・・・、資料に似たような作品があるからといって高価だとか真作だとかは思わないほうがいいですね。人は刊行物に弱い というのが本日のテーマのひとつ・・・・。

贋作ならトイレペーパーのネックレスよりも価値が低い

源内焼 その74 三彩五鳥文輪花皿

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新事業の立案が進んでいます。新事業はニーズと供給のバランスが肝要ですが、もうひとつ大切なことはその社会的な意義です。社会的な意義がどこまで周囲に理解されて支援が得られるかが、事業の成否を決定します。これがなかなかたいへんで、周囲の意見を聴きながら、こちらも修正しながら説得力を高めていかなくてはなりません。一番肝要なのは内部の社員の賛同・・。

本日は源内焼の作品「その74」です。

源内焼において本作品と同一の図柄の作品がインターネットオークション上に登場したのは2回目です。最初は入手し損ねましたが、今回は入手することができました。最近も同じ図柄の源内焼の作品が出品されていましたが、これは状態が悪いもので、型の抜け、欠けなどから本作品のほうが保存状態が良好なようです。

源内焼 その74 三彩五鳥文輪花皿
合箱
口径270*高台径*高さ35



鳥が描かれていますが、手前に「鶴」、その後ろには「孔雀」、奥には「雉」、右下には「鷺」、木の上には「インコ」とまっている姿が描かれています。「なんでも鑑定団」による説明では、この図柄は「五鳥紋」という吉祥文らしいです。



本作品と同じ図柄は「なんでも鑑定団」に出品されており、70万円という評価金額でした。



状態に差こそあれいくらなんでも70万円は高いように思います。三度同一の図柄がインターネットオークションに出品されたことから、本作品と同図に作品について数がそれなりに流通していることが窺えます。



一桁低い金額で売買されているのが実情であり、「なんでも鑑定団」のお値段は憤懣やるかたなき評価と言わざる得ません。



そのような評価金額の半分でもいいから売れるなら売ってしまいたいくらいですね。当方は作品数が70を超えましたから、ひとつが○○万で売れたら、いくらになるかな? 捕らぬ狸の皮算用とはよく言ったもの。骨董は狸、化かされないように気をつけないといけません。



作品を洗浄してみると、型の抜けはこちらのほうがいいようですね。吉祥文様の作品において、図柄が不鮮明だとなんとなく御利益が少ないように感じてしまいます。

参考作品
なんでも鑑定団出品作品
評価金額70万



本作品は型については参考作品よりよく抜けていますが、発色については少し劣っているようです。源内焼は型の抜け、発色、保存状態に差がありますので、極力状態の良いものを選択する必要があります。



繰り返しになりますが、真贋はともかく「なんでも鑑定団」において、あてにならないのが評価金額だと思います。インパクトを強くするために意図的ともとらえかねられません。出演者からは「やらせ」が多いという不満があるなど、骨董を扱う番組でありながら主催側の品位が問われています。

骨董の作品はもっと手頃な値段で購入できるとありがたいですね。


忘れ去られた画家 春夏秋冬四幅対? 天野方壷筆 その3

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本日の紹介する画家は、富岡鉄斎と並び称せられる明治期の南画家の天野方壷です。本ブログでの天野方壷の作品の投稿は三作品目となります。

四幅対なのか否かは断定できておりません。というのはばらばらで売られていたのを各々別々にまとめて購入したものだからです。売主は同一人物であり、出所は同じで作行から同時期に描かれた作品であろうと推察されます。春、夏、秋、冬と四季に関した山水画がメインとなっております。

ホームページがあるなど未だに根強い人気がありますが、知っている人は少なく「忘れ去られた画家」と言えるでしょう。遺っている作品の中で本作品は天野方壷の稀代の傑作であろうと思います。

春夏秋冬四幅対 天野方壷筆
絹本墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2070*横740 画サイズ:縦1320*横495

天野方壷については不明な点も多いのですが、その理由として、彼は明治画壇の本流から外れ、弟子も少なく、また、著作や日誌の類がなく、もっぱら画家として芸術家の生涯を貫いたためと考えられています。その評価は昭和前半は高かったのですが、終戦とともに衰退したそうです。あらためて再評価する値のある画家であろうと思われます。



春夏秋冬としての四幅ですが、箱も無く一部には軸先も無くなっており、基本的にこの作品の来歴は不明です。ただ冬の賛より1881年(明治14年)天野方壷が58歳頃の作であると推察されます。



実は当方では購入後はしばらくは本作品を失念しており、引越しに際して作品の所在に改めて気がついて「さて、なんとかしてやらねば」と思った作品です。



本作品を改めて左右の床の間に掛けて俯瞰すると天野方壷の作品は実に重々しい。俗塵離れをした天野方壷の作風は、当時南画の尖端を行く作家にふさわしい貫禄を示しているということでしょう。この重苦しさが小生がこの作品の原稿整理に机に向かわなかった原因かもしれません。

師としたのは土佐光孚、貫名海屋、中林竹洞、日根対山、椿椿山、橋本雪蕉、木下逸雲、富岡鉄斎(鉄斎は友人?)と本ブログでもお馴染みの画家が名を連ねていますが、画力も学識もよく鍛錬された画家ですが、富岡鉄斎のようなユーモアさより、これぞ南画という重苦しさがあります。

河野是山[伊予絵画概説]の方壷略伝によると「英昭皇太后(明治天皇の母君)より揮毫を命ぜられる光栄に浴し、名声を博す。」とあります。ただ、その絵がどのようなものだったか不明ですが、忘れ去れられていく南画の中でもっと注目すべき画家の一人には相違ないでしょう。

価値や如何・・・? 価値はさておいて絹本に描かれている本作品は状態も良く、出来のよい作品には相違ないようです。四幅の作品を一品ずつ今後投稿していきたいと思います。

柿釉青渦巻鉢 浜田庄司作 その42

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本作品の箱書をしている当時の浜田庄司夫妻が写っている写真が同封されいる貴重な作品です。じっくりご覧あれ。

柿釉青渦巻鉢 浜田庄司作
共箱 花押サイン入 写真付
直径345*高さ100*高台径195



1976年(昭和51年3月10日)の新聞が箱内に入っていますので、その頃に製作された作品ではないかと推察されます。奥さんの和枝さんも一緒に写っています。本作品の箱書をしているときの貴重な写真です。



浜田庄司は神奈川県の川崎市で生まれ、東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学しています。都立日比谷高等学校から東京工業大学と現在だとかなりの高学歴の持ち主となります。



歴代の陶工の第一人者である板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学んでいます。1916年(大正5年)東京工業大学を卒業後は、2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行っています。この頃に柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチと知り合っています。

民藝運動の関わった陶工はかなり知的レベルの高い人物ばかりであり、当時の陶工を甘く見てはいけません。



1920年(大正9年)、イギリスに帰国するリーチに同行しており、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯しました。



1923年(大正12年)にはロンドンで個展を開催し成功をおさめています。1924年(大正13年)帰国、しばらくは沖縄・壺屋窯などで学んでいます。この頃から沖縄とは縁が深くなっています。



基本的には手轆轤のみで成型するシンプルな造形で、釉薬の流描による大胆な模様を得意とします。



戦後、1955年(昭和30年)には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定され、また1964年(昭和39年)に紫綬褒章、1968年(昭和43年)には文化勲章を受章しています。



柳宗悦の流れをうけて民芸運動に熱心であり、1961年(昭和36年)の柳の没後は日本民藝館の第2代館長に就任し、また1977年(昭和52年)には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館しました。田中角栄が日中国交回復で(昭和49年)、毛沢東への土産として浜田の作品をを持参しており、益子窯を有名にしました。

花押のある箱書は希少で、よほどの出来のよいもので無い限り花押は書かないようです。



浜田庄司が有名になり出したのは昭和40年前後からで、一頃にはブームを巻き起こしたほどだそうです。毎年12月に彼は沢山の作品にて個展を三越本店で開いたそうですが、柿釉の器に赤やブルーを入れた全く違う趣の作品が三越開店と同時に売り切れたそうです。開店と同時に足の早い男に階段を走らせ、エレベーターよりも早く会場に着いて、色つきのものを片端から買約したと言うファンもしたそうです。以来、赤の入った作品は希少価値となり、以後市場に出る事が少なくなったそうですが、今でも赤絵の作品は人気が高く、沖縄で製作したと思われる赤絵の作品はとくに評価が高いようです。

1978年(昭和53年)益子にて亡くなっており、享年83歳でした。本作品は最晩年の作となります。弟子には同じく人間国宝となった島岡達三がいます。



なんでもかんでも赤絵の作品がいいというのはどうかと思います。小生は浜田庄司の真髄は釉薬の掛け合わせの妙だと思っています。

さて浜田庄司の没後も窯は濱田窯として引き継がれ、子の濱田晋作と孫の濱田友緒が継いでいます。



民藝運動の作品に興味のある方は当展示室へ・・・、といっても公開していませんので本ブログへ・・・。

とりあえず浜田庄司の作品は民藝記念館や益子参考館でじっくりご覧になれます。ただし手に触って見れないからにはいつまでも本当の良さは解らない・・。



四季山水図四幅のうち冬 子猷訪戴図 天野方壷筆 その3

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本日は天野方壷の四幅対の作品の紹介です。年代などが記された「冬 子猷訪戴図」から紹介します。 

四季山水図四幅のうち冬
子猷訪戴図 天野方壷筆 その3
絹本墨淡彩軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦2070*横740 画サイズ:縦1320*横495



賛は「子猷訪戴図 平生戴隠居 破琴還雲□ 亦有□竹人 悠然□□調 雲渓夜間舟 未見心正了 乾坤謙虚白 □方□其妙 明人張以寧詩 明治十四年□辛巳自八月至十一月 立冬前□□十二□於□田楼上 西京 白雲外史天方壷 押印」とあり、印章は「方壷生」と白文朱方印と「□□□□」の朱文白方印が押印されています。



1881年(明治14年)天野方壷が58歳頃の作です。



画題「子猷訪戴図」についての詳細は下記のとおりです。

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子猷訪戴図:子猷が月夜雪後の景色を戴安道とともに語り眺めようと思い立って、舟で訪ねたが、着いた頃にははや夜明けとなったので、門内にも入らずに再び舟をさして帰ったという逸話を絵にしたもの。



「子猷」は「王徽之」のことで王義之の子息です。

王徽之:(?~388) 中国,東晋の人。字は子猷。王羲之の第五子。官は黄門侍郎に至る。会稽の山陰に隠居し,風流を好み,特に竹を愛した。

王羲之:詳細は省略しますが、「書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王(羲之が大王、献之が小王)の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。」と評されている人物です。



戴安道:晋代の人、名は逵、字は安道、譙郡の人、博学穎悟にして能文、また鼓琴をよくし、書画に工で画は範宣を師とし人物及び山水画に妙を得、其の観音は最も得意とするところで、みな帖金をしたといふ。又、常に琴を弾じて楽しむ。ある時太宰武陵王晞、これを聞いて人を遣はして之を召す、逵その使者に対し琴を破つて曰く、戴安道は王者の伶人たるを希はずと、孝武帝の時召されたが辞して就かず、その子戴勃、戴顒また画をよくし、殊に戴勃の山水は顧之に勝ると称せられた。王子猷が剡渓に戴安道を訪ひ会はずして帰つた逸事は剡渓訪戴として有名であり、戴安道を画にしたものには英一蝶の作がある。



明人 張以寧:字は志道、古田の人。元の泰定丁卯の進士で、翰林侍講学士になった。明朝でもそのままだった。洪武二年に安南王冊封の使者となったが、その帰路に死んだ。生涯は『明史』文苑伝に見える。史書には「以寧は春秋科を優れた成績で合格した。学問も春秋にもっとも精しく、自得するところも多かった。著書の『胡伝辨疑』は特に優れた批判書だったが、『春王正月考』はまだ完成できないでいた。安南を訪れたとき、半年かかって完成させた」とある。『胡伝辨疑』は既に散佚し、本書だけが残っている。

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南画というものはその画力もさることながら、その学識が問われることにもなります。小生の遠く及ばざるところに南画の真髄が存在するということを改めて痛感させられる逸品です。

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天野方壷:天野方壷の名はそれほど知られていませんが、出身地の愛媛県では続木君樵と並んで伊予画壇の双壁といわれていました。天野方壷の経歴については、その実家に伝わる明治17年に書かれた自筆の履歴書により知ることができます。



文政7年(1824)8月16日、伊予松山藩の三津浜(松山市三津)に生まれた方壷は、13歳で京都に出て、文人画家の中林竹洞や、書家としても有名な儒者の貫名海屋に学んだのち、関西から山陽山陰を経て九州四国まで数年にわたり西日本各地を歴遊し、勝景、奇景を写生したり古画書を模写したりして修行を続けました。

21歳のとき一旦は京都に戻り、日根対山に師事しましたが間もなく京都を発って関東へ旅行、江戸に至り、渡辺華山高弟の椿椿山に学んだあと、蝦夷地にまで行って海岸の勝景を写生しております。

さらに、長崎で木下逸雲に学び、明治維新後、明治3年47歳の時には中国上海に渡航し、胡公寿にも師事しました。

各地の有福な書画の愛好の庇護をうけつつ、休みなく全国を旅し画道修行を続けた彼は、明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住しました。



画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。この間35歳の時、那須山の温泉で洪水に見舞われ、溺死しかかったが九死に一生を得ております。しかし、この時携えていた粉本、真景などをことごとく失いました。また、49歳の時東京に寓居中火災に会い、粉本をことごとく焼失しました。



ほとんど日本全国に足跡を残してますが、京都に定住したのちは、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。墓は京都市上賀茂の霊源寺にあります。



方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを 「画匠」と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。鉄斎といえば[萬巻の書を読み万里の路を行く]を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この[万里を行く]ことに関しては方壷は鉄斎を凌駕しているかもしれません。



愛媛県美術館には彼の作品が42点所蔵されております。平成16年は方壷生誕180年に当たり。これに因んで当美術館分館の萬翠荘において7月17日から8月29日の間展覧会が開催され作品20点が展示されました。また、平成15年の10月3日から12月25日まで福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されました。



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うっすらとして照明の中でこの作品を観ていると背筋がぴんと伸びてきます。雪の月夜に舟を漕ぎ出し、







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