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緑雨 奥村厚一筆 その7

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日本の女子サッカーは負けるべくして負けたようです。監督が変わらず、選手が変わらず、戦法は変わらず、相手は研究してそれらを変えているのに・・・。アメリカに完敗した教訓が生かさていないようです。監督から上の幹部の怠慢以外のなにものでもあるまい。

後継者を育てず、学習もせず、ひたすら成功体験の長期にわたるトップ、周囲のモチベーションが下がるのは必然であろう。企業も同じでそれがわからないの感性の問題・・・。

さて引っ越しに際して郷里から持ってきた作品の中に自作の作品が混じっておりました。数は非常に少ないのですが、自作の作品の中から使えそうなものだけを選んで郷里から送りました。



「蕗文様角皿」ですが、秋田市の保戸野窯で制作した作品で、平成元年頃に作ったものです。もう25年以上前のことになります。



工房の庭先に生えていた蕗を素焼きの状態の作品に張り付けて、鉄と呉須の釉薬を手吹きで吹き付け文様を出した作品で即興的に作ったように記憶しています。さらに透明釉を・・。



萩焼のような土をたたらつくりで板状に作り、工房の手元近くにあった布を当てて文様を出したことが記憶にあります。たたらの厚さも均一では面白くないように思い厚さに変化をつけました。



もの作りは二つに分類されます。計算しつくして作るものと即興的につくるものと・・・。いいものができる確率はほぼ同じであろうと思っています。



おそらく一流のプロは計算しつくしてものを使るのでしょうが、思うにきっと超一流のプロによる一級品は即興的な偶発によるものだと思います。その偶発は感性の高さから生まれてくる必然性のものでもあるように思います。

ちなみに経営トップに向いているのは即興性、思いつきの感性のレベルの高い人らしい。さらには人生の達人は感性の高い人・・・、計算づくでいかないのが人生・・。右に行くか、左に行くか、常識のとらわれない運のよい判断をするのは感性の高い人であろうと推察します。そう・・、常識にとらわれない感性が肝心なよう・・。今のままでよいという観点からはいいものは作れないのは確かです。



郷里の知り合いの大工さんに作ってもらった箱に収納していますが、小生が亡きあとは誰の作かも忘れ去られてしまうのでしょう。小生の父は私が小学校の時に亡くなっていますが、父の絵の作品は母が遺してくれていましたが・・・・。

本日の作品は奥村厚一の作品「その7」です。

緑雨 奥村厚一筆 その7(整理番号)
絹本着色軸装 共箱 高島屋シール
全体サイズ:縦1810*横900 画サイズ:縦595*横720



今まで紹介しきた作品は小さめの作品やスケッチでしたが、このたびは大きめの作品です。「主に風景画を得意とし、大きな作品はもとよりスケッチも味わい深い。」の奥村作品の評にはあります。



それほど著名な画家ではありませんが、根強い人気があり、思文閣の資料墨蹟目録にもときおり掲載されています。



昭和23年、上村松篁・福田豊四郎、吉岡堅二らと在野日本画団体の創造美術を創設しており、本ブログに投稿されている作品の基軸となる福田豊四郎と関連性の高い画家の一人ですです。



雨や雪、雲や風といったものを描くときには、それを写実的に捉えるのではなく気配とか空気感とでも言うような目には見えないものの表現によった作家といえるでしょう。



彼自身の言葉に「絵は方便みたいなもので、いつも野山を巡り、自然にただ身をよせていたかっただけ」とあるように、実にこよなく自然を愛した画家です。ゴルフ場を自然と勘違いしている現代の人々にはこの感覚は理解できないでしょう。



彼が愛し見つめ続けた風景は、数多くのスケッチとして遺されており、晩年の椿の花のスケッチなどは椿の様々なな咲き様を艶やかに描きとめていて、すでに完成作品かと見まがうほどに見事なスケッチとなっています。

 

ちなみに高島屋のシールなどはまったくあてになりません。

 

自然を味わうには山を単独行で縦走したりしてみることです。雨や雪、小鳥のさえずり、星の輝きなどまったく違うものが見えてくるはずです。



そしてそれを描いた作品を飾るときもそれを味わえるように飾る工夫をするようになります。



これらもまた計算しつくされたというより、感性のように思います。古くかある普通の床の間ではつまらないものです。

さて、いつまで同じメンバーで、同じ監督で、同じ戦法で女子サッカーは試合を続けるのだろうか? 企業も同じ教訓を学ぶべきであろう。今のままで慣れきったものには自然は味わえず、将来への感性も身につかないものです。


皿 バーナード・リーチ作 その4

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人というものは辛い経験を経てなにかを得るものですが、できれば辛い経験などしたくないものです。なにかを得る前に挫折することも多いし、なにかを得ても心に傷を負い、重い荷物を背負うことに大概のケースはなるものですから。辛い経験など人に話すことでもないし、自分で抱えて残りに人生を歩むことになります。しかし、一度だけの人生、どちらがいいかは誰にも判らないものです。

さて本日はバーナードリーチのもっともポピュラーな作品であるスリップウエアの作品です。ただあるようでないのがバーナードリーチのスリップウエアの作品です。

皿 バーナード・リーチ
共箱入 後箱として外箱製作
口径266*高台径146*高さ37



バーナードリーチ本人作のスリップウエアの作品は意外にあるようでないものです。とんとお目にかかれない???



本作品は箱書があって作品に署名があり、きちんとされています。

 

1953年の製作となります。



釉薬も良い出来です。



現在では珍しくないスリップウエアの作品ですが、バーナードリーチやその窯以外には残念ながら出来の良い作品は見当たりません。とくに日本で作られているものにはまったく魅力を感じません。



きちんとした昔ながらの登り窯で製作されていないことと感性と執念が違うのでしょう。



小生が現在の陶磁器に魅力を感ぜず、骨董に注目するのはそのあたりにも要因があります。

民芸の骨董は人を慰める暖かさを持ちます。背筋をぴんと伸ばす感動を与える作品や美しさに眼を奪われる作品など骨董の世界にはいろんな作品がありますが、辛い思いを和らげるもの、才能のないものでも無我夢中で作ったものの無垢さ、そんなやさしさが民藝の一連の作品にはあります。

スリップエアと同じように、あるようでないのが「辛い経験をして得たものがいったい何であったかということを分かり得るか、分かり得たとしてどう体現しているか」という大切なこと。分かるかな 

そうそう、少なくとも徳川家康は分かっていたようですね。下記は徳川家康の遺訓です。

 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。
 急ぐべからず。
 不自由を常と思えば不足なし。
 こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
 堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
 勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
 おのれを責めて人をせむるな。
 及ばざるは過ぎたるよりまされり。

人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。
足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。

徳川家康ほどの賢人が日本の歴史に実在したことを日本人は感謝しなくてはいけません。自分の身の回りにもこのような人物がいないかよくみて欲しいものです。意外にわがままな人間ほど??

四季山水図四幅のうち秋  陰雨之図 天野方壷筆 その4

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毎日帰宅後は、息子と少し遊んで、風呂に家内と入れて、息子を寝かしつけるまでが日課になっていますが、小生はソファベットに、息子は隣に布団の上に寝ていますが、明け方、おそらく3時頃に息子は毎日、小生の布団にもぐりこんできます。しかも時には寝ぼけながら頭突きを食らわせくるので油断できません。よって最近は寝不足気味・・・・

そんな状態で本日のようなこのような「重い作品」の調べはなかなか気が乗らないものです。「思い」というのは生半可な調べでは内容が飲み込まめないという意味です。

四季山水図四幅のうち秋
白居易 陰雨之図 天野方壷筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2070*横740 画サイズ:縦1320*横495



賛には「遊印 嵐霧今朝重 江山此地深 灘聲秋更急 峽氣曉多陰 望闕云遮眼 思鄉雨滴心 將何慰幽獨? 此北窗琴 見白易山人有□□田樹 天方壷 押印」とあり、印章は「□□書画」、「白雲外史□□□」のの白文朱方印が押印されています。



所蔵作品としての二作品目である「鯉之図」と同一な印章を本作品に押印されており、「鯉之図」の賛に「辛巳((かみのと)秋分」とあり、明治14年(1881年)57歳の作と推察されることから、本作品らが同時期に描かれた作品と推察されます。




この賛は「陰雨」という白居易の詩です。
陰雨:しとしとと降りつづく陰気な雨。空が曇って雨が降ること。
漢詩:嵐霧今朝重 江山此地深 灘聲秋更急 峽氣曉多陰
   望闕云遮眼 思鄉雨滴心 將何慰幽獨?此北窗琴

まさしく「嵐霧今朝重 江山此地深」という雰囲気が漂います。



白居易は言わずと知れた「長恨歌」で知られた唐の詩人です。詳細は下記のとおり・・。

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白 居易(はく きょい):772年(大暦7年)~846年(会昌6年)。中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。772年、鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳で盩厔県(ちゅうちつけん、陝西省)の尉になり、その後は翰林学士、左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。



 815年、武元衡暗殺をめぐり越権行為があったとされ、江州(現江西省九江市)の司馬に左遷される。その後、中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、杭州・蘇州の刺史となり業績をあげる。838年に刑部侍郎、836年に太子少傅となり、最後は842年に刑部尚書の官をもって71歳で致仕。74歳のとき自らの詩文集『白氏文集』75巻を完成させ、翌846年、75歳で生涯を閉じる。



白居易は多作な詩人であり、現存する文集は71巻、詩と文の総数は約3800首と唐代の詩人の中で最多を誇り、詩の内容も多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し、社会や政治の実相を批判する「諷喩詩(風諭詩)」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷喩詩はほとんど作られなくなり、日常のささやかな喜びを主題とする「閑適詩」の制作に重点がうつるようになる。このほかに無二の親友とされる元稹や劉禹錫との応酬詩や「長恨歌」「琵琶行」の感傷詩も名高い。いずれの時期においても平易暢達を重んじる詩風は一貫しており、伝説では詩を作るたび文字の読めない老女に読んで聞かせ、理解できなかったところは平易な表現に改めたとまでいわれる(北宋の釈恵洪『冷斎詩話』などより)。そのようにして作られた彼の詩は、旧来の士大夫階層のみならず、妓女や牧童といった人々にまで愛唱された。



白居易の詩は中国国内のみならず、日本や朝鮮のような周辺諸国の人々にまで愛好され、日本には白居易存命中の承和5年(838年)に当時の大宰少弐であった藤原岳守が唐の商人の荷物から“元白詩集”(元稹と白居易の詩集)を見つけてこれを入手して仁明天皇に献上したところ、褒賞として従五位上に叙せられ[1]、同11年(844年)には留学僧恵萼により67巻本の『白氏文集』が伝来している。平安文学に多大な影響を与え、その中でも閑適・感傷の詩が受け入れられた。菅原道真の漢詩が白居易と比較されたことや、紫式部が上東門院彰子に教授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品においても、『枕草子』に『白氏文集』が登場し、『源氏物語』が白居易の「長恨歌」から影響を受けていることなどからも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがえる。白居易自身も日本での自作の評判を知っていたという。



白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の仏光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や、浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。『景徳傳燈録』巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、牛頭宗の鳥窠道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。



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一人で旅する姿は天野方壷の自分自身の姿かもしれません。



この天野方壷の四幅対の作品の「秋・冬図」は対にして飾るとより一層、味わい深いものとなります。



日本画の行き着くところはいずれは水墨画の世界・・、南画の世界・・、ということを改めて感じさせてくれる作品です。



南画は富岡鉄斎、浦上玉堂、池大雅などという一握りの一級品と向き合えるならそれに越したことはありませんが、それらを手元に置いて愉しむことはまず無理です。そうすると一握りから外れた画家の一級品を探して入手することで愉しめるものだろうと思います。それらが小生の蒐集の対象作品です。

人生も同じこと・・・、お金や地位、持って生まれた才以外のものを、努力や感性で身のうちに取得できるものがあります。欲しい、いつか手に入るという諦めない気持ちが一番大切・・。繰り返しますが「お金や地位、持って生まれた才以外」の本当に大切なもの・・。



黒塗京名所蒔絵文蓋付吸物椀 壱拾客揃

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日本の女子サッカーは負けるべくして負けて、勝てなくしてべきして勝てなかった。

なぜか? 繰り返すようだが日本の世界への強みは組織力であろう。フィジカルではとても適わず、個人能力では劣ることのほうが多い。その基本的なベースを忘れているように思えます。

個々の能力をつけるためと称して、海外に移籍していくが本当にそうであろうか? ナショナルチームに貢献するなら逆効果だろうとみえます。海外からの選手でのにわかナショナルチームでは練習不足、体力不足は明らかです。特に守備力はまったくもって壊滅状態、攻撃力はワンパターン、そして監督は戦略のたてようがない。

このようなチーム作りでは女子サッカーの応援は少なくなるし、NHKのゴールデンタイムの放映もまったくの逆効果のようです。

少しはラグビーや今回のオリンピック予選での男子サッカーのU21の戦略を見習って欲しいが、そもそもサッカー界には知的能力が低く、組織力を望むほうが無理というものだろうか。クラブチームもアジアでは弱い。

野球は少なからず世界への意識が高く、アメリカ大リーグへの挑戦を続け、世界に通用するようになった。最適な戦略なきところに勝利はない。

さて本日はJAPANNと呼ばれる漆器の紹介です。

黒塗京名所蒔絵文蓋付吸物椀 壱拾客揃
桐木箱入
口径139*高さ85*高台径66
 


黒塗の蓋付の吸い物碗です。一見、なんのへんてつない地味そうな作品です。桐の箱に仕舞われていますが、どうも20客揃いであったようです。



蓋にはなにやら紋様がありますね。



蓋を開けると・・・。



本体のほうにはすべて同じ図柄・・。



もちろん手書きですから、若干の違いが個々にあります。



蓋の図柄はすべて違います。



「京名所蒔絵」・・。



この技術はお見事・・・。



これが「JAPAN」・・・。



ただ黒い漆器や赤い漆器のいいのですが、こういう技術の漆器もいいものです。



10客のすべてを紹介できなくて残絵ですが、いずれまた・・。ひとつ、ふたつでも結構扱いに疲れます。



これに吸い物膳がセットになっています。こちらも京名所10客一組。漆器の骨董での値段は今がお買い得です。



さらに大き目のお膳も・・・・。これらの整理は手付かずの状態ですが、これらのいずれまた・・・。



日本古来の良さを伸ばせ。こういうものを使うろ心が豊かになります。



源内焼 その75 三彩牡丹文輪花七寸皿

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人生は二度とない。一度限りであるということを深く考えない人が多いのではないでしょうか? ゲームのようにリセットはできません。失敗したらなかなか立ち直るのがたいへんだということと、一度限りの人生だからチャレンジしようという思いを両方天秤にかけて悩むのが人生です。

自分にとってなにが大切か、自分の尺度でのみで考えずに広く考えて人生を歩まなくてはいけません。好きなことばかりすればいいわけでもまたありません。

その悩ましい人生を助けてくれるのが、知恵であり友人のようです。ただ言えるのは結婚しない、子供をもうけないというのは特別な理由が無い限り、少なくても人生の楽しみを八割を放棄しているように小生は思います。

さて本日は破天荒に生きた平賀源内が考え出した本ブログではお馴染みの源内焼の作品です。

中国からの三彩の輸入によって、日本の貨幣が海外に流出することに危惧を抱いて、中国の三彩に替わる陶磁器を日本で作ろうと思いついたという平賀源内。陶工と浮世絵の彫師をマッチングさせて、型による高級陶磁器の製作を考え出しました、普通は無理だろうと思われるものづくりを始めたと思われます。

源内焼の中で色のバランス、型がきちんと抜けている作品は意外に少ないものですが、本作品は色の味わいやバランスが良い出来の作品のひとつです。

源内焼 その75 三彩牡丹文輪花七寸皿
合箱
口径207*高台径142*高さ32



源内焼は地図皿のように大きな作品や文様に特徴のある獅子文様などが貴重な作品としてとり上げられていますが、源内焼の本当の魅力はその型の精工さと色使いにあります。貴重な作品と魅力的な作品とどちらを選ぶか・・・。



源内焼の花鳥画は色や型が不鮮明になりがちですが、本作品は源内焼の三彩の魅力、面白味が味わえる作品です。



牡丹を一面に描いたほぼ七寸サイズの皿です。



一部に欠けがあるのは残念ですが、口縁の文様もよい出来です。



淡い色使いもいいですね。



日本の色使いと西洋っぽい文様のバランスが源内焼の魅力です。スマートフォンで本ブログを見るのはきっと魅力半減です。当方は大きな画面で見れるように撮影しています。



このような作品群が日本ではまだあまり評価されていないのは残念なことです。平賀源内が考え出し、鈴木春信の工房の彫師が型を作り、その目的は海外にお金を流出する防止であり、売り先は大名・富裕層という源内焼・・・。



裏側は決まりきったように眼鏡底のなっています。



源内焼の作品のほとんどが飾りの目的に製作されていますが、サイズの手頃な作品は実用的です。蒐集してから所蔵作品は70作品を超えましたが、まだまだ・・・。

源内焼は高くても数万円、安ければ一万円以下で入手できます。

「江戸時代、稀代の発明家が創始した幻の焼物」といわれる源内焼ですが、決してそうではなく数は多いようです。「幻の陶磁器」と呼ぶべき陶磁器はほかにいくらでもあります。源内焼は状態のいいもの、大きさよりも出来のよいものを蒐集したほうが愉しいようです。さ~なにを選ぶか? 人生は選択の繰り返しです。少なくても選択肢のあるということはワクワクして幸せなことでもあります。骨董の世界は選択の連続です。

平賀源内自体もまた悩ましい人生を過ごしています。亡くなった理由も不明、亡くなった時期も定かではないようです。




四季山水図四幅のうち夏 青山白雲図 天野方壷筆 その5

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一階の客間と二階の展示室に雛人形の掛け軸を飾りました。二階の雛人形の軸を観て息子が「パパ、ママ」と・・、「あれ、君は?」というと小猿を指差しました。納得・・??



本日は天野方壷の四幅対と思われる作品の四作品目ですが、残念ながら軸先がありません。さすがに軸先がないとこれは表具店に修理を依頼せざる得ません。保存用の箱もないので、本作品をどう保存していくのか頭の痛いところです。要は費用がかかるということになります。

四季山水図四幅のうち夏
青山白雲図 天野方壷筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦2070*横740 画サイズ:縦1320*横495



「遊印 仙人中有琅玕樹 吐作千峰落毫素 峰上蒼々一尺天 峯下雲行亦無数 固憶曽為天帝客 家在白雲深處住 白雲隨龍飛出山 我亦攀□□雲路 青山笑人不早歸 人笑飛龍為雲悞 變化無定端 飛楊為□故 試問古共(工) 何労不周怒 飄々巣居翁 肯受風塵汚 安得両歯履 載我逍遥歩 □臥青山看白雲 莫嗔老子来遅莫 (共字下工字落) 倣高尚書青山白雲耑并彔張天英詩」 



この漢詩はかなり難解です。五言と七言が混合しており、家内に原文を調べてもらうと現在の中国語において下記の漢詩がありました。

题高尚书青山白云图(元?张天英)
  押遇韵  显示自动注释
仙人中(一作胸)有琅玕树,吐作千峰落毫素。
峰上苍苍一尺天,峰下云行亦无数。
因忆曾为天帝客(一作宾),家在白云深处住。
白云随(一作如)龙飞出山,我亦攀龙蹑云路。
青山笑人不早归,大笑龙为云(一作昔为龙)所误。
变化无定端(一作踪),飞扬为谁故。
试问古共工,何劳不周怒。
飘飘巢止(一作上)翁,肯受风尘污。
安得两齿屐,载我逍遥步。
醉卧青山看白云,莫(一作勿)嗔老子来迟暮。

これ以上のことは後学とします。調べると夜が明けそうです。漢詩に一文字書き損じたらしい。



「印章は「而方壷□□」、「□□□」の白文朱方印臥押印されています。



元の時代の張天英という人の詩で、題は高尚という人の書で「青山白雲図」というらしい??



残念ながら詳細の意味はとても小生の解読力の及ぶところではありません。



絵はとても出来が良く、白雲たなびく麓の畔の家々が良く描かれています。実際の中国に渉り、絵を習得したものが描ける本格的な中国絵画の文人画です。



夏のみずみずしい描き方は富岡鉄斎とも違うものですね。



自ら「白雲外史」と称した理由もこの作品から窺えます。





源内焼 その76 三彩唐草文手付小椀付連鉢

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自分の人生は自分で思うよりもはるかに儚いものです。なのにつまらないものに固執するものです。お金、名誉、出世、地位・・・・、肝心なものを見失わないようにしないといけませんね。

本作品を投稿しようしている矢先に、なにやら昨日の「なんでも鑑定団」に源内焼の地図皿が出品されたようです。価格が1000万とか・・・、ありえませんね。発色が良くないものならありますかそれと状態の良い地図皿は珍しいのですが、いくらなんでもそのような値段では・・・、源内焼において地図皿至上という考えは間違っています。文様としては実につまらないもので、他にいいものがたくさんあります。以上は所蔵していない者の負け惜しみ・・・

源内焼 その76 三彩唐草文手付小椀付連鉢
合箱
幅*奥行*高さ125

なお掲載の写真は洗う前と洗った後の写真が混在しています。



源内焼で2個の鉢が繋がった形状の手付の器はよくありますし、1個の器に小碗が付いた手付もよくあります。ただし、本作品のように2個の鉢の連鉢に小碗が付いた作品は非常に珍しく、資料で確認できるものは一作品のみで、型の抜けのよい出来のよい作品はなかなかありません。



このような器を作るのは意外に難しいように思われます。個々を型で抜いて生乾の状態で手早く手付、小碗を付けますがその乾き具合をちゃんと見定めないと焼成の段階でうまく付きません。



器の扱いも手付の部分を持ってはいけません。手付がこの作品の見所ですので、手付の部分を傷めないように取り扱う注意が必要です。



残念ながら本作品も手付の部分に金繕いの補修の跡があります。



この作品は型の抜け、デザインが優れており、飾りを主目的にした源内焼でありながら、実用的にも作られています。



小碗に薬味などを入れて使うとなかなかいい器だと思われます。



西欧的なデザインが中国風の三彩と相俟って、本家本元の中国三彩を上回るデザインとなっています。



唐草文と竹文が粋で洒落ています。



以前にも述べたように源内焼は地図皿のような大きな器がもてはやされていますが、このようなデザインの優れた作品のほうが源内焼の真骨頂だと思います。



ただいつも源内焼で気になるのは黒い汚れです。一見釉薬のように見えますが、保存時に付いた汚れです。よく洗うとこの汚れがきれいに落ちます。



帰宅後、この汚れを丁寧に落としていくと時間の経つのを忘れて没頭してしまいます。



源内焼はすごくきれいな焼き物ですが、保存状態によってものすごく汚れています。



骨董は汚れていて古く見せるものという妄信にとらわれている蒐集家が多いようですが、完璧に陶磁器では間違っています。



いいものは新しく見えるものです。それは人物も同じ・・・。源内焼の保存状態の良いものはテカテカに光っています。



常に新しきものに挑戦する人は儚きことを知らないと思わせるくらい若い。

さ~、源内焼の次はなにの蒐集をしようかな  ただし欲に溺れて肝心なものを見失わないようにしくては・・。



福禄寿図 柴田是真筆 その10

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女子サッカーの監督への問題はずいぶん前に投稿したとおりで、4年前の再任が大きな間違いです。もはややり尽くした感のある監督を再任した時点で戦略的に「もうやることはない」というアイデアは無い状態なのですから・・。それを自覚・認識しなかった点は本人も周囲も愚かというしかありません。こういう現象は通常よくあることなので常に頭に入れておく必要があります。成功体験の記憶が人を天狗にし、実質的な問題解決とはかけ離れた戦略をとるときがあります。人を罵倒したりなどで部下とコミュニケーションがとれなったりしますが、過去の成功の成果を踏まえているゆえに周囲がなにも苦言を言えない状態が起こります。なにはともあれ、今回は完敗の責任はとらざる得ないし、監督の責任は重い。

スポーツでは選手、監督の世代交代が必要のように、経営も良い状態を維持するには世代交代が必要です。トップだけではアイデアは枯渇するものです。1年目で問題解決・業績向上の糸口をつかみ、2年目で上向きに、3年目で上昇機運に、4年目で維持状態に、5年目が交代時期です。長く就任しているとろくなことにはなりません。経営もまた常に問題の把握とアイデアが肝要です。

さて、本日の作品は柴田是真らしいのですが、巷には柴田是真の作と称する日本画は多数あり、どうもそのほとんどが贋作のようです。出来の悪い作品はすぐに判別がつくのですが、よく描けている贋作が多々あるので、入手判断は非常に難しくなります。

福禄寿図 柴田是真筆 その10
絹本水墨着色軸装 軸先鹿骨 庄司竹真鑑定箱入
全体サイズ:横295*縦1873 画サイズ:横249*縦1068



落款には「行年七十八翁之 是真 押印」とありますから、1885年頃(明治18年)の作品です。印章は多数あるようで、あまり文献資料はあてにならないようですが、ここまで贋作が多いとまずは文献にない印章類は疑ってかかったほうがいいようです。文献の資料と落款と印章が一致してもさらに疑ってかかる必要があります。



他本作品の鑑定箱書は「庄司竹真」です。むろん鑑定そのものも疑ってかかるべきでしょうが、ある程度は「庄司竹真」の鑑定は信頼できそうです。



他に紹介した作品の鑑定箱のある「梅下老人之図」、「甲子之図」と同一人物による鑑定です。



庄司竹真については下記のとおりです。

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庄司竹真:( しょうじ-ちくしん)1854年~1936年 明治-昭和時代前期の日本画家,漆芸家。
嘉永(かえい)7年3月28日生まれ。柴田是真に絵画、蒔絵、漆絵をまなぶ。明治10年内国勧業博覧会で蒔絵「月ニ船図」が褒状をうけたのをはじめ,内国絵画共進会などで受賞。昭和11年死去。83歳。江戸出身。名は余四郎。字(あざな)は有教。

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とはいえ贋作にはこだわるのは精神衛生上よくありません。息子の口癖「ま~、いいか」(どうも小生の口癖を真似ているらしい)が、商売でないかぎり、ちょうどよい骨董の愉しみ方の心構えのようです。



人生は要は「いかに福禄寿のように好々爺」になるかかもしれませんね。本作品の「福禄寿」は良いお顔をしています。



箱の誂え、表具はいいものですね。



箱に付いている古い?革紐は意外なほど当時は高級品であったらしく、江戸期には大名誂えによくあったとか・・。



柴田是真の漆器の贋作は難しいのですが、絵は真似しやすいので購入には注意しましょう。ひとつの作品の成功体験がその後の蒐集に贋作を呼ぶことが多々あります。







四季山水図四幅のうち春(LAST) 呉寛春山讀易図 天野方壷筆 その6

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常日頃、家内が小生のためにと骨董に絡んだ本を購入しくれています。最近は骨董に関する娯楽小説がたくさん発刊されているように思いますが、近日読んだのが「利休の茶杓」(山本兼一著 文春文庫)ですが、なかなか含蓄のある面白い本でした。骨董に関心のある方にはお勧めです。「とびきり見立て帖」というシリーズものですが、著者が癌でなくなったので、この本が最終シリーズになってしまいました。ご冥福をお祈りいたします・・・。

本日は天野方壷の四季山水図で四幅と思われる作品のうち最後の春の作品の紹介です。今までの作品と趣が違う作品となっております。



四季山水図四幅のうち春
呉寛春山讀易図 天野方壷筆
絹本墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2070*横740 画サイズ:縦1320*横495



賛は「山中春両過 嘉樹如新沐 鳥語時復間 惟聞澗觳續 對比一欣然 孤懐浩無欲 便樵童冠人 詠歸郊沂浴 歸来亦何事 妙意溢春服 寤寐義文間 手持一編讀 惓々濟時心 願言均發育 明人呉寛春山讀易図 方壺拵之 押印」とあります。



印章は「方壷□□印□」の白文朱方印と「□士□□」の朱文白方印が押印されています。



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呉寛:明(みん、1368年 - 1644年)時代の人。1435年~1504年。字は原簿博、号は匏翁など。江蘇省長洲の人。科挙を第一席の優秀な成績で通過して官に就き、礼部尚書(日本では文部科学大臣に相当)までに至る。詩文、書、画を得意とし、博学で知られる人物であった。同郷の沈周らと交遊が深く、沈周が黄庭堅の書を学んだのに対し、彼は蘇軾の書を学んで独自の書風を得た。現存する後の書は、尺牘や跋文が中心である。中国の難関試験・科挙において首席で合格すると、その人物は何らかの瑞兆が現れるといわれていた。成化8年(1472)に首席となった呉寛は、その瑞兆が龍に乗って空を飛ぶ夢を見たという逸話があります。

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今までの山水画から大きく人物が描かれています。描かれているのは「呉寛」か天野方壷自身か?



「浅絳山水画」という称するもののように淡く淡彩が施されている魅力的な作品ですが、力強い筆致によってこれまでの「浅絳山水画」のイメージとは違うものとなっています。



右上に力の流れを持っていき、絵全体に動きを感じさせます。



春夏秋冬の四幅の作品でこれほどの作品は今までになかったように思うのは小生の浅学でしょうか。



当方の展示室では右と左に分けて展示しましたが、四幅対で飾るのもまた一興かと思います。



天野方壷の四季山水図はこれにて完了です。軸先が無くなっていたり、ばらばらで売られていた箱のない作品でしたが、表具屋さんに見積を依頼したら、軸先を直して四幅対の二重箱を誂えて6万円だそうです 

もともとが四幅対であったどうかも不確かですが、四幅対で未来に伝えたい作品ということでいたしかたのない出費です。

近日中に天野方壷の身近の画家ということで富岡鉄斎の作品の紹介を予定しています。



幽居百道図 富岡鉄斎筆 その4(再整理番号)

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本日は以前に投稿した「東坡三養」と同年に描かれた富岡鉄斎の作品です。先週は富岡鉄斎の晩年期の作品を再度調べてみました。ふたつの作品を展示室に並べて掛けてみましたが、展示室のようなスペースがあると並べて比較するというのが楽にできてよくなりました。

今回の整理で同時期の作品で共箱の富岡鉄斎の作品が四作品あることが判明しました。今回はその二作を中心に紹介します。



右幅が「東坡三養」(箱書きの題は「壬戌の秋」)、左幅が本日紹介する「幽居百道図」です。両方ともに大正11年、富岡鉄斎が87歳のときに描いた作品と思われます。富岡鉄斎は83歳以降の作品から最晩年までが最も輝かしい画業を遺しており、特に88、89歳に描いた作品が最も価値が高いと言われています。

80歳以前の作品にもむろんいいものもたくさんありますが、蒐集対象としては数が少ないし、すでに納まるべきところに納まっているので、80歳以降の多作な作品を蒐集対象とするのが得策のようです。小生にとっては80歳以前はとくに真贋の判断はやたら難しいのも事実です。

両作品ともに蘇東坡の句や詩を賛にしています。鉄斎は、蘇東坡と同じ12月19日生まれであるのを誇りとして「東坡同日生」の印を造って用いたり、東坡遺愛と伝える「蝉硯」や、東坡が作らせたという「東坡法墨」も所持する傾倒ぶりでした。また「聚蘇書寮」という室号をつけて、東坡の著作や関連文献を熱心に蒐集し、中国では失われた「東坡先生年譜」の筆写本を秘蔵していたそうです。


蘇東坡、すなわち蘇軾(1036~1101)は、北宋を代表する文人にして官僚ですが、筆禍事件で死罪の危機に瀕したかと思えば、天子側近に取り立てられ、はては政争に巻き込まれて流罪となっています。そういう波瀾に富んだ生涯を蘇東坡は余裕たっぷりに愉しみ、「春夜詩」や「赤壁賦」をはじめ不朽の名作を残しました。



鉄斎は、生涯にわたり東坡像を数多く描いていて、本作品を描いた大正11年には『百東坡図』なる画集も刊行しています。両作品がそのような時期の製作でどのような位置づけかは小生が知る由もありませんが、時を経て、時間を隔てて、小生に縁のあった両作品です。

「東坡三養」(箱書きの題は「壬戌の秋」)の作品は以前に紹介しておりますが、本日は「幽居百道図」とあわせての説明になります。

幽居百道図 富岡鉄斎筆
紙本淡彩軸装 軸先 共箱二重箱 
全体サイズ:横455*縦2140 画サイズ:横330*縦1340



賛は「安心是薬更無方」(安心は是れ薬、更に方無し)と記され、この口語訳は「安心こそ薬。その他に治療法はない 。」という意味であり、蘇軾(1037~1101 / 北宋の文人 政治家・詩人・書家 唐宋八大家の一人)の句です。



「東坡三養 富岡鉄斎筆」(紙本淡彩絹装軸共箱 画サイズ:横327*縦1340)の他の所蔵作品と同じく鉄斎が87歳、大正11年の作で両作品の印章が一致しますので、ほぼ同時期に描かれた作品と推察されます。

サイズもほぼ同じく、下にあった畳の継ぎ目?のような跡も同じような箇所にあり、まったく同時に描いたかもしれません。



東坡(蘇東坡)については富岡鉄斎とのかかわりは深く、そのことにも若干なんでも鑑定団でも触れていました。東坡にちなんで作品に描いたものは、みな力をこめて描かれています。



年を感じさせぬ墨痕の力強さ、自由濶達な筆づかい、そして若い頃学んだことを充分に咀嚼したと思われる隅の濃淡の巧みさなど、その作風には何ものにもとらわれない、スケールの大きさが感じられます。



「万巻の書を読み、万里の路を行き、胸中より塵濁を脱去し」という文人精神そのままに、しばしば旅を繰り返し、数万冊といわれる蔵書を読破して身につけた深い教養と高潔な精神性に裏打ちされていたからでしょう。

明治に入ってフェノロサや岡倉天心の南画排撃にあって、凋落の一途をたどった日本の南画で一人孤高の位置を保ったのも頷けます。



富岡鉄斎は贋作が多い画家ですので、その真贋の極めは難を極めていますが、作品に触れていくとだんだんに解ってくるらしいのですが・・。富岡鉄斎の作品が10作品のうち9本は偽物という確率であると言われています。

下記の写真は二作品の箱書です。

左:「東坡三養」は裏に題と落款と印章が書かれています。

中央と右:「幽居百道図」は表に題、裏に落款と印章でもともと別の箱から箱書きだけ入れ込んだものです。



最初に富岡鉄斎の作品にふれると作品自体がどこがいいのかよく解らないというのが素直な感想だろうと思います。

富岡鉄斎の作品は贋作自体が真作を臨写していることが真贋の見極めを余計に難しくしています。どうも真作にふれることができた人物が贋作製作に絡んでいたらしいとか・・。贋作が非常によく描けているという点、箱書きもよく真似ているという点・・。

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インターネット上の富岡鉄斎の真贋についての記事の紹介

「真贋は大切なものだが、それほどまでに拘らなければならないものなのか。真贋は学者(専門家)にとっては確かに大切なものだが、僕のような素人にとってはそれほど拘るべきものでは無い様にも思える。絵画を見て楽しみ、それぞれのレベルに応じ、自分自身が納得いければ十分ではないだろうか。

 贋作には真作ほど真に迫る迫力がないということだが、必ずしもそういうわけではない。著名画家の作品でも、技量的に不味いものも間々あるようだ。富岡鉄斎の作品でも贋作のほうが上手だと言う専門家も多数いるようだ。何が芸術で何が駄作かは永遠の謎かもしれない。以前鉄斎美術館で真贋の作品展が開催されたことがある。おなじ題材の真贋二作品を並べて展示された。解説では真よりも贋の方が上手だという例もあったように記憶している。

 真贋の世界なんてワイン(酒)の世界に合い通じるものがあるようだ。伝統を誇り埃を被ったボルドーの世界、ワインのブラインドコンテストで、カリフォルニアワイン(アメリカ)になすすべも無くこっぴっどく打ちのめされたボルドーの主張はコンストラクチョンの有無だった。このコンストラクチョンを証明すべく10年後、20年後に再挑戦を賭けて再び行われた同じコンテストでも、返り討ちどころか完璧なまでに打ちのめされた。

 美術界(芸術界)も不思議な世界だ。また、ある意味では政治の世界にも似通っているようだ。誰が何か言おうとしても真実(まこと)その正誤は立証できるものではない。それ故非科学の分野かもしれない。でも結果論的に、どんな猫でも鼠を捕らえればイイ猫なのかもしれない。政治界も結果論的で結果を伴わなければどうしようもない。又ある意味では医学界とも相通じるようだ。ボスがたとえ黒いものでも白といえば、以後白いものとなる。美術界のボスが白といえば、これは白なのだ。黒といえば黒なのだ。白黒相反する二つの事象が一つに制約される。ことの正非はまた別ものなのだ。X線、超音波診断装置、スプリング8など、科学的検査を持ってしても、これは手段であって美術品の真贋を立証さるべきものではない。どんな手具立て手段を持ってしてもそれが真実だという100%の証明は不可能なのだ。

 世の中そんなに甘くは無い。騙し騙されて流れ行く(鴨長明)のが世の常である。永遠の不条理、断続的連続が何時の世の中でも行われている。楽しければそれでよい。楽しめたらなほ良い。それ以上の感激はない。人間単純な方が万事幸せなのだ。」

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同感・・・  本日の作品について「ん? 両作品ともに真贋?」・・、野暮な質問は止めたほうがいいいかと・・、小生にも本作品群の真贋は皆目見当がつきませんから・・。

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蘇東坡について補足

蜀(四川省)眉州眉山(眉山市)の出身。嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟・蘇轍とともに進士となる。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格した。

合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた。その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた。具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された。

最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州の知事時代である。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受け、彼自身も一旦死を覚悟したが、神宗の特別の取り計らいで黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった。左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した。流罪という挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた。

平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年、呉と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇る魏の水軍を破ったことで知られる。ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる。

元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位して旧法党が復権すると、蘇軾も名誉が回復され、50歳で中央の官界に復帰し、翰林学士などを経て、礼部尚書(文部大臣)まで昇進した。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争したことから旧法派の内部でも孤立する。

更に紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され、恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった。

左遷:44歳~50歳の5年      黄州(湖北省黄州区)
59歳~66歳(没年)の7年  恵州(現在の広東省)62歳 海南島にまで追放

許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去.

*中華料理のポピュラーな品目である「東坡肉」(トンポーロー、ブタの角煮)は、彼が黄州へ左遷させられた際に豚肉料理について詠じた詩からつけられたという。

*蘇軾の死後、蔡京が握ると旧法党の弾圧が再び行われて遺族は困窮に悩まされていたが、かつて蘇軾の部下であった高俅(物語『水滸伝』では最大の悪役とされている)は蘇軾から受けた恩義に報いるために秘かに遺族を支援していたという。

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真贋以外で骨董から学ぶことは多いものです。真贋を趣味とする者にとってある程度のレベルになると真贋は二次的な要素でしかないように思います。

さて手元にある同年代に描かれたと思われる作品の箱書きを並べてみました。ちなみに箱書はある程度の参考資料です。手練れによる贋作は箱書がかなり本物に近いものです。

箱の表書きは

左から「幽居百道図」(本作品) 「漁隠快楽図」 「如?事山寿図」の順です。



箱の裏は

「壬戌之秋(東坡三養)」 「幽居百道図」 「漁隠快楽図」 「如?事山寿図」の順です。




それでは「蘇軾」に関した本日の二作品を両脇にして他の二作品を中央に置いてみました。鉄斎の孫の富岡益太郎による鑑定は箱だけではかえって贋作と判断したほうが正解です。箱とともに写真付きの鑑定書がなくてはいけません。このような基本的なことを知っていないとひどい目にあうようです

作品の展示は「幽居百道図」 「漁隠快楽図」「壬戌之秋(東坡三養)」 の順です。



一日で絹本の作品を70作品も描いた記録があります。70歳代で3000点の作品があるとか・・、どこから真作が出てきてもおかしくないようですが・・。



まずはともかく絵のごとく楽しみあれ。



次に展示は「幽居百道図」 「如?事山寿図」 「壬戌之秋(東坡三養)」 の順です。



水墨画より着色画の評価が高いようですが・・。



墨がともかく「みずみずしい」作品がよいようです。



少なくても楽しめる作品には相違ないでしょう。



先週は富岡鉄斎の四作品を展示室に掛けてじっくり楽しみました。たしかに80歳後半の作品はごまかしようがない力強さがあります。その以前の作品に贋作が多いようです。この四作品以外は今後の課題としておきます。



いずれにしろ現在は非常に安くなった富岡鉄斎の作品です。今ではあらたに贋作を作ろうという金額ではないことは確かです。




JAPAN 八寸山水図五段重 壱組

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最近の建物を造る現場にはものづくりの基本が疎かになっているように思えます。要は段取りが悪いのですが、何が一番足りないかというと人に対するリスペクトのように思います。

段取りを良くすることは安全であり、効率的な手配なはずですが、コスト優先なのか人任せで現場を見に来ないで、なにかトラブルが起きると責任を人に押し付けるきらいがあります。実際の現場でものを造っている人に配慮が足りず、上から目線で指示を出していては人の心がついてこない。

さて本日の作品は日本固有のといっていい漆器の作品です。天野方壷の四季山水画の四幅を紹介していますが、その絵心が漆器に反映された逸品です。

写真がフラッシュが反射してうまく撮れないのはご容赦願います。

掛け軸や陶磁器類の骨董の作品の取り扱いも注意を要しますが、もっとも細心の注意を払う必要があるのが漆器です。適度の湿度で取り扱う必要があり、夏や梅雨時、冬の乾燥状態での取り扱いは厳禁です。

もちろん素手で扱うなどはもってのほかです。仕舞うときも摺れたりしないように慎重の扱います。これは簡単なようで熟練を要しますが、一番肝心なのは作品に対する、古きものづくりの人々に対するリスペクトの思いがあるかないかです。

高級義□輪島塗 総□四季山水図 総□□梨地
八寸山水図五段重 壱組
輪島 清義堂謹製 桐共箱入
幅243*奥行243*高さ170&250 



まとめて購入した作品ですが、戦後間もないこ頃の作と思われます。

 

沈金と南画のコラボの佳作であり、伝わるものとして大切に保存したい作品です。



沈金の漆の器はよく見かけますが、このように四季の山水画の出来が良いものは稀有です。絵を鍛錬したものが描いたのでしょう。現代の中国でも無理な作品です。



各々の段の四面に同じ図柄で少しずつ違うデザインで施されています。





内部と裏は梨地という豪華な作りです。



三段と二段に分かれており、蓋は二枚あります。



夏、秋、冬、そしてもうひとつ、五段重ねですから・・。





なんといっても絵の出来が良く、南画の絵師顔負けの浅絳山水図の世界です。これほどの絵はなかなか・・、なにか原画があったのだろうか・・?? 

「浅絳山水図」については本ブログを読まれている方には説明は不要でしょう。



それほど古い作品ではなく、豪華絢爛な蒔絵ではありませんが、これこそ日本の漆の作品(JAPAN)です。京都の蒔絵のような化粧くさいところもなく、高蒔絵ほどいやらしくなく、質素な南画の世界を取り汲んでいます。

これは現代の職人ではなかなか作れまい・・。だいたいが最近の漆器は絵が下手糞ですね。仏壇などはその際たるもの・・。まったくもって絵も下手くそ・・、染物も日本画もスプレーで描いたりした技術も品もなにもない作品ばかり・・。

過去の作品、過去の職人の技量へのリスペクトが足りないようです。

梢上双禽図 渡辺省亭筆 その8

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忘れ去られた画家と称してよいかっも知れませが、根強い人気はある画家のようです。ただ多作であったようで、きちんと出来不出来を見極めて蒐集する必要がありそうです。


梢上双禽図 渡辺省亭筆 その8
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1795*横545 画サイズ:縦1022*横418



「渡辺省亭は非常にモダンで洒脱な画を描く花鳥画家で、日本のみならず海外でも人気がある。ただ、今は省亭のような非常に巧い作家よりも味わい深い画を描く作家の方が評価される時代。」という「なんでも鑑定団」に出品された作品での渡辺省亭に対する評価です。



生存当時から省亭の作品は来日外国人に好まれ、多くが海外へ流出したそうです。メトロポリタン美術館、ボストン美術館、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館、ライデン国立民族学博物館、ベルリン東洋美術館、ウィーン工芸美術館など、多くの国外美術館・博物館に省亭の作品が所蔵されています。



省亭は菊池容斎から学んでいますが、菊池容斎が得意とした歴史人物画ではなく、柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いています。一説には、元々省亭は是真に弟子入りしようとしたのですが、菊池容斎の方がいいだろうという是真の紹介で、容斎に入門することになったとあります。



2年強から3年間と正確には不明だそうですがパリに滞在していた期間があり、省亭は印象派のサークルに参加しており、1878年10月末から11月末頃にエドガー・ドガに鳥の絵をあげたと逸話があります。また、省亭がこの頃の万博に出品した絵を、エドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が描法の研究のため購入したと伝えられています。いずれにしても渡辺省亭の花鳥画が日本の特有のものとして高く評価されてのことでしょう。



帰国後の明治14年(1881年)第二回勧業博覧会では「過雨秋叢図」で妙技三等賞を受賞。明治17年(1885年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で二等褒状。ただしこれらの作品は所在不明で、図様すら分からないそうです。

「月夜に杉」を想像させるような画題の作品は当ブログでも紹介しています。

しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなります。

その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと資料では説明されています。ただし、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞したとする資料もあります。

いずれにしろ作品の詳細が不明で、しかも多くの作品が海外にあるため、日本での知る人が少ない「忘れ去られた画家」となっています。

本作品と同図に近い作品がインターネット上にありました。



弟子は1年か2年ほど入門した水野年方以外はとらず、親友と呼べる画家は平福穂庵(平福百穂の父)と菅原白龍くらいで、一匹狼の立場を貫いたそうですが、本人の性格からもあるようで、言いたいことは歯に衣着せず、大正2年(1913年)第7回文展に出品された竹内栖鳳、横山大観、川合玉堂らの作品を、技法・技術面から画家の不勉強と指摘しています。

息子で俳人の渡辺水巴は父譲りの達者な筆で絵を描きますが、父から「扇子は折目が大切なのである。その折目の高低に乗ってすらすらと筆を運べなければ、扇面に書く資格は無い。」と指導されたと追憶しています。

省亭は悠々自適な作画制作を楽しんだ後、日本橋浜町の自宅で68歳で亡くなっており、省亭の忌日を、親しい人々は花鳥忌と呼んだといいます。

ご存知のように平成20年の特殊切手「切手趣味週間」の図案は渡辺省亭の作品です。

林原美術館所蔵の花鳥十二ヶ月図から四作、山種美術館所蔵から一作が選ばれた作品です。林原美術館所蔵の作品は六曲一双の押絵張屏風ですが、日本に遺っている大作の少ない省亭にとっては、一つのまとまった作品として貴重な存在です。

海外で評価されている渡辺省亭、神坂雪佳など日本人よりも海外の人のほうが徐々に日本人よりも日本美術に目利きになってきているようです。明治維新などのように日本人が美術の鑑賞どころではない時勢には、海外のほうが日本のいいものを評価してくれるようです。今の日本もどうも美術の鑑賞には眼が向いていない、とくに古いものを大切にしていないようですね。


ただ、渡辺省亭の作品には海外に媚びたような、日本的感覚を全面に出しすぎたようなひ弱さが絵にあります。そこが出来不出来の差になっている面もありますので、蒐集にはそのところをわきまえて評価したほうがいいように思います。蒐集は盲目的になってはいけない面もまたあるようです。ブログなどで作品を整理したり、調べていくと徐々に解ることが真贋以外のことがたくさんありますね。真贋のことなど些少なことのように思えます。

干支の置物&贋作考 山水図 伝釧雲泉筆 その15

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元の会社の同僚から干支の置物?が届きました。ここ2年ほど戴けなかった?ので、こちらから催促したようなもの・・



センスの良い包装に包まれて、中から出てきたのは愛らしい「羊」さん・・。



今まで本ブログにて「鼠(子)」から紹介してきましたが、もう8年になりますか・・。



息子も大喜びです。



愛らしいものには息子は接吻をするようです。



さて本日は小生が懲りずに蒐集している「釧雲泉」の作品です。一度よくなさそうな作品を整理して再スタートした「釧雲泉」の作品蒐集ですが、未だに釧雲泉の作品の入手については出来のよさそうな作品と駄目な作品とヒット率がフィフテイフィフテイのようです。しかも良さそうなものが続くと駄目なものが続くというパターンのようです

どうも今回も駄目そう・・・

山水図 伝釧雲泉筆 その15
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1940*横580  画サイズ:縦1340*横460



写真で見ると良さそうに見えるのが骨董の難点。



実際に掛けてみるとすっきりとせず、うなだれてしまいます。作品そのものが稚拙なように・・、小生の鑑識眼もまた稚拙なようです。もともと南画は一見稚拙なのですが・・



「火食神仙」と「雲泉」の印章が押印されていますが、印影が今までの良さそうな作品とは微妙に違うようです

 

もっともらしい巻き止めに題・・・



そろそろ釧雲泉もいいものが出回らなくなったようで、さらなる再整理の必要がありそうです。愛らしく接吻ができそうな作品を入手するには当方の鑑識眼をいまひとつレベルアップする必要がありそうです。

明末呉須赤絵花鳥文尺皿 その3

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本日は同級生が亡くなり、葬儀に出席のため朝から郷里まで・・、同級会もさびしくなります。

本ブログに何度か投稿している明末の呉須赤絵の作品ですが、「なんでも鑑定団」に何点か出品されています。

今週の「なんでも鑑定団」にも同類の「天下一」銘の皿が出品されていました。この作品と同じ部類の作品は本ブログにも投稿されています



なんでも鑑定団の評には「約400年前の中国明王朝後期に、南方の漳州市一帯で作られた呉須赤絵の皿。当時の日本から東南アジア一帯に広く使われた。筆が走っており、赤の草花文に緑で描いた魚がぴょんぴょん跳ねている。依頼品は見込みが擦れてしまっているが、よく見ると中心に「天下一」と書いてあったことがわかる。その周囲に十干十二支の二十四文字がぐるりと書いてあり、大変おめでたい図。ただし縁がぶちぶちと欠けてしまっている。それがなければ50万円。」とあります。



本作品は「天下一」の銘が残っていますが、その周囲も「十干十二支の二十四文字」は省略化されています。虫喰部分は金繕いされておりますが、縁が欠けているものではなく、もともと焼成時に釉薬が胎土と収縮率が違うことから釉薬がはがれ跡で、景色として評価されているものです。



本ブログの作品がいかほどの評価は知りませんが、50万円では小生にとっては高値(高嶺)の華です。

流布される金額・・50万(鑑定団の価格)
実際に売る金額・・20万~30万万ほど(値引きということで安く売ったように客に思わせる)
骨董商の利益・・・15万~20万
仕入れ価格・・・・5万~10万(実際に骨董商が引き取る最高の価格)

これが現在の価格設定と推察されます。利益が暴利か否かは別として、骨董商はそういうものです。購入側は大幅な損ということです。これではいくらなんでも現在の流通価格からはかけ離れており、こういう価格ではそのうち骨董商は売れなくなるでしょうね。インターネットなどの普及により小生は店としての骨董商は無くなると思っています。

本日もまた明末呉須赤絵の作品ですが、前にも記述したようにこの作品群は絵の出来如何で良し悪しが決まります。それと古趣ですね。明末以降の清の時代のなると古趣が大きく劣る作品となりますので、このあたりを理解して評価していく必要があります。

明末呉須赤絵花鳥文尺皿
杉古箱入
全体サイズ:口径338*高台径*高さ71



現在の市場では明末の完品で出来の良い作品が10万程度、清初だと2万程度? 否、値段がつかない状況でしょう。本作品のように補修跡があると基本的には評価には影響しないという御仁もいますが、評価は半分程度になるかもしれません。



一時期はかなり高い評価を受けていたのでしょうが、現在は古趣ということを理解する人が少なくなったのでしょう、評価は思いのほか低いものです。



茶道においても使う機会は少なく、鉢などを水指に見立てて使う程度でしょう。綺麗なもの、完品を好む方が多くなり、煎茶も愛好家が少なくなり、とくに女性が茶道に多いことから、このような重い器は敬遠される傾向にあるようです。この器で重いといのが小生には理解できないのですが・・。



数も多くあり、最近はインターネットオークションへの出品が多くなり、その落札価格は上記のとおりです。



ちょっと贅沢な普段使いにはぴったりです。本来の古趣には赤絵を模倣した京焼、犬山焼、作家作品などは足元にも及びません。



尺皿などの飾り皿や普段使いの七寸皿、鉢などひとつとしてまったく同じ図柄はなく実に多彩な作品群です。清初になる作品群も多くありますが、まずは虫喰いのない一見して綺麗な作品は評価は蒐集対称とはなりません。赤絵ではく染付のものを古染付と称し居るようですが、それは議論のあるところです。



中国にはまったく作品が遺っていないというのも痛快です。



とにもかくにもこのような洒脱な絵が描かれた作品群は大切にしたいものですね。



明末赤絵は市場に溢れています。ただ面白きもの、時代のあるものは非常に少ないので前述のようになんでもいいというのは禁物です。補修跡があっても面白いものを選ぶのが得策です。



ひとつの目安として、「虫喰い」の無いもの、高台周りが綺麗なもの(本作品でも綺麗なほうです)は絵も面白くなく、作品としてもとるにたらないものと思って相違ないようです。

後世に伝えられるものを残すことに費やす時間が少しずつ着実に少なくなっていきます。







松絵紋二彩唐津水甕 古弓野焼 その2

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週末はなにかと気忙しく相変わらず展示作品は代わり映えしない状態ですが、本日紹介する作品を1階の展示室に置いてみました。



本作品は唐津焼に分類されています。ご存知の方はご存知、知らない方はまったく知らない焼き物群ですね。本ブログでは二度目の投稿となります。一回目の投稿作品は「氏素性の解らぬ作品」・・・。氏素性が知れてきたようです。

松絵紋二彩唐津水甕 古弓野焼
漆蓋 合箱
口径320*胴径355*高台径130*高さ295



絵の力強さ、刷毛目も充分で、大きさ・造形美の魅力を備えています。一作品目は水指に使用されているおとなしい作品(松絵紋二彩唐津水指 伝古弓野焼 漆蓋 合箱(所蔵印在) 口径96*胴径175*底径*高さ145)でしたが、本作品は実にのびのびとちしています。



下部の刷毛目の文様は波のようにも見え、弓野焼や二川窯などの松絵甕の作品群の中でも優品といえます。



弓野焼との双方の判別は非常に難しく、時代の特定も難しい作品群でありますが、出来の良さなどから江戸期の弓野焼と思われます。



「弓野焼」、「二川焼」、「二彩唐津」、「武雄唐津」を総称して「古武雄(コダケオ)」と称しています。



江戸時代前期に作られた古武雄の水甕などは、かつては民藝陶器の分野に入れられていたものですが、当地の陶芸家で人間国宝の中島宏氏がこれを収集・研究して肥前陶磁史上に古武雄として確立ました。



鉄分を含んだ赤い土をろくろの上で立ち上げ、回して形を作る。そして回しながら水に溶かした白泥を刷毛目で塗っていくため、白い部分に濃淡が出て、絵が浮き上がります。



鉄絵具で一気呵成に松を描き、裏には岩を描いています。



この力強さに棟方志功も感動して半日口をきかなかったといい、またピカソはこれこそ本物の芸術だとうなったといわれています。



水を入れていたなどの日常雑器です。当然、使用されていたもので痛みもあります。胎土が柔らかく焼成も甘い(低温で長時間焼いているからヒビが入りやすい)ことから、殆どの残っている品に破損やひび割れが見られるのも特徴です。



購入時は中にはごみが溜まっていました、今もそのまま??



本ブログでも紹介されている人間国宝の青磁陶芸家・中島宏氏の紹介が無ければ、今でもきっとただの民藝品であったかもしれません。

*佐賀県西部の武雄市に住み、弓野に窯を築いている人間国宝の青磁陶芸家・中島宏氏が最大のコレクターである。2002年に根津美術館が、「知られざる唐津」と銘打ち、中島さんのコレクションを中心に、大きな展覧会を開いている。



ただ弓野焼の作品は棟方志巧によって見出され、民芸ブランドとして認知されています。柳宗悦らの民藝運動にて紹介されたことによって注目されたようですが、すでに戦前の山中商会の古民藝売立目録などにも紹介されています。その美しさに気が付いて昔から収集された方も多くいたと思われます。



口縁には大きな補修跡があります。このように丁寧な補修があるということ自体が価値を認めていた人が所蔵していたことが窺われます。ただ、現在はまた忘れ去れている陶磁器群のようで、廉価にて市場に出回っていることがあります。廉価で購入した作品ですが、よく観ると実に味わいが深い作品のように思います。

あまり馴染みがない作品でしょうから、下記に参考作品を列記しました。

参考作品
(日本民藝館所蔵)
唐津 武雄南部系弓野 
江戸時代 17世紀後半
31.2 x 32.8cm 



なんでも鑑定団にも数週間前に出品されていましたが、その前にも出品されています。

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弓野焼:佐賀県武雄市弓野弓野焼(肥前国杵島郡西川登村大字小田志字弓野:佐賀県武雄市西川登町小田志字弓野)で焼かれた陶磁器。江戸の中期頃(寛永年間)から焼かれたと言われ、陶器は1532年(天文2年)より淵小七が企業したと伝えられます。1694年(元禄7年)になり江口林平が初めて磁器製造を開始し、その子福田林平が有田焼に倣って改良、さらに1839年(天保10年)頃再び改良して日用諸種の器を製造しました。明治の中期になり朝鮮向けの磁器または博多大形の模造をなす者がありました。この窯は1897年(明治30年)頃まで松の絵の水飯洞・提鉢をつくっていました。

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参考作品
松絵紋壷 古弓野焼 江戸前期
なんでも鑑定団出品



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二川窯:筑後国(現、福岡県)三池郡二川で焼かれた陶磁器。江戸時代末期頃に陶土の原料が発見され、弓野焼の職人を招いて製作された。刷毛目地に、鉄、銅で松などの絵付けをしたものが多い。

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参考作品
愛知県陶磁美術館蔵



これらの作品もまた、力強く器面に踊る老松の幹は、濃い鉄釉で縁取りされており、さらにこれを引き立たせています。前面に薄く透明釉がかけられていますが、幹の部分など馴染みの悪い部分も認められるようです。

上記の参考作品より本作品は出来が格段に良い。平べったい感じのする形や松の絵の色が濃いものなどよりは小生好みの作品です。
購入価格は2万円しなかったお買い得作品です。 これが目利きの骨董の相場です



お気に入りの絵の前に飾ってみました。敷板は庭にあったという欅の根をスライスしたそのままのもの。



狼聲野月図&月鴉図 野口幽谷筆 

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なんとも打ち捨てられてようにあった掛け軸・・、不気味な動物画・・、狼と鴉の作品です。落款はなく印章のみ・・、購入理由は「日本オオカミ?」と思ったからです。

どうみても洋犬にしか見えないような絵ですが、題名には「狼」の文字があります。ご存知のように日本オオカミは絶滅しており、1905年(明治38年)1月23日に、奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存する)が確実な最後の生息情報とされています。

狼聲野月図 野口幽谷筆 
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 益頭峻南所蔵 合箱入 
全体サイズ:横820*縦1930 画サイズ:横630*縦1370



印章のみの作品。印章は「續印」の白文朱方印と「幽谷」の朱文白方印の累印が押印されています。



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脊椎動物亜門哺乳類綱ネコ目(食肉目)イヌ科イヌ属に属する。絶滅種。体長95 - 114センチメートル、尾長約30センチメートル、肩高約55センチメートル、体重推定15キログラムが定説となっている(剥製より)。



他の地域のオオカミよりも小さく中型日本犬ほどだが、中型日本犬より脚は長く脚力も強かったと言われている。尾は背側に湾曲し、先が丸まっている。吻は短く、日本犬のような段はない。耳が短いのも特徴の一つ。周囲の環境に溶け込みやすいよう、夏と冬で毛色が変化した。



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「耳が短い?」 日本オオカミ写実的に描いたのかとおもいきや違うのかな?



月鴉図 野口幽谷筆 
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 益頭峻南 合箱入 
全体サイズ:横502*縦2000 画サイズ:横306*縦1360



成り行きで購入した作品。衝動買いにて反省・・・。



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野口幽谷:文政8年(1825年)~明治31年(1898年)6月26日。享年74歳。幕末から明治期の南画家。名は續、通称を巳之助。幽谷、画室を和楽堂と号した。江戸神田町の生まれ。



大工の棟梁源四郎の次男として江戸に生まれる。しかし、幼年時に患った天然痘からくる虚弱体質のため大工を継がなかった。15歳で父を失ったのがきっかけで、宮大工の鉄砲弥八に図面製作を学ぶ。弥八から技能を磨くためにまず絵画を学ぶようにいわれ、知人の紹介で椿椿山の画塾琢華堂に入門。また、漢学を大黒梅陰に学ぶ。生活は苦しく母の生活を支えるため日中は製図を描いて働き、夜になって書と画を学んだ。



あるとき師椿山から「画は何のために描くのか?」と問われ、「気ままに自分の心を画き、気ままに生活したい」と答えたところ、幽谷に咲く恵蘭のような心と評されて幽谷の画号を贈られたという。5年後の1854年(嘉永7年)、師椿山が没すると、寺子屋を開き子供たちを教えながら渡辺崋山に私淑して画を独学。明・清の画家の画法を修めて花鳥画・山水画に秀で、特に菊の絵が多い。渡辺崋山、椿椿山と続く、謹直な画風で花鳥図、人物図などを得意とした。



1872年(明治5年)の欧州の博覧会をはじめ内国勧業博覧会・絵画共進会などに出品し、画才を認められる。宮中で障壁画制作を任され、各会の審査委員を歴任。帝室技芸員の制度ができると1893年(明治26年)9月25日には橋本雅邦らと共に帝室技芸員に任命される。



1855年(安政2年)の安政の大地震で自分の家が半壊したにもかかわらず、師椿山の家の被害がひどく位牌が水に浸かってしまったことを聞くに及んで、自分の家の修復を後回しにして、師の家の修復を大工出身の幽谷自ら行なったというエピソードが伝わっている。また明治を迎えても生涯、丁髷で通したことでも知られる。



大家になった後も落款や印章に「幽谷生写」と修学中を意味する「生」の字を使い続け、画商に「生」の字があると絵の値段が落ちるからやめるように言われると、「自分は未だ崋山先生や椿山先生を超える絵を描けていない。両先生以上の絵を描けるまで「生」の字をつけるのをやめる気はない」と答えたという。安政の初年頃、横山氏の娘と結婚し嗣子をもうけた。この息子は長じて松山と号して優れた作品を残しているがなぜか記録や資料が伝わっていない。



門弟:松林桂月・椿二山・益頭峻南・的馬白峰などがいる。

主な作品
1872年:ウイーン万博「雌雄軍鶏」、
77年:第1回内国勧業博覧会展「竹石図」(褒状)、
82年:内国絵画共進会「菊花図」、
88年:日本美術協会展「矮竹子母鶴図」(銀牌)など

印名:「幽谷畫印」(「幽谷之印」) 「輪樂」(「和楽」) 「臣読之印」 「東京之人」 「読之印」 「読印幽谷」 「米墨水神仙」 など

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巻き止めにあるのは「益頭峻南」の所蔵というが、詳細は不明です。



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益頭峻南:南画家。江戸生。名は尚志、字は示徳、通称を銓太郎。野口幽谷に師事し、花鳥を得意とした。東京勧業博覧会二等賞牌受賞。文展審査員。大正5年(1916)歿、66才。



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落款のないボロボロ直前の紙表具の作品、どうもこのまま御蔵行きの作品となりそうですね

岩魚釣図 野田九浦筆 その4

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先週末には亡くなった同級生の葬儀にために郷里まで・・。空港には友人の同級生が迎えに来てくれて、葬儀には各地からまた同級生が多数駆けつけ、葬儀の後には恩師に線香をあげに恩師の自宅に、そしてその後は「故人を偲ぶ会」を催し多数のまた同級生が・・。これだけ集まるクラス会はないと恩師の奥様。もうクラス会も40回を超えていますが、何十年ぶりにあった同級生もいました。

夕方にはさらに会食という好々爺、婆になってきた同じクラスの同級生たちに後ろ髪を引かれる思いで、亡くなった家内の実家へ向かいました。



たんぼには白鳥がたくさん舞い降りており、亡くなった同級生がたくさんの同級生を集めたような思いにかられました。



本日は郷里出身の画家である寺崎廣業の門下生で、寺崎廣業の箱書鑑定などもしている画家の野田九浦の作品です。最近の日曜美術館にも作品が登場して話題を呼んだ画家です。

岩魚釣図 野田九浦筆 その4
絹本着色軸装 軸先擬象牙 共箱
全体サイズ:縦2155*横564  画サイズ:縦1282*横420



2016年3月13日放送NHK日曜美術館「アートの旅 みつけよう、美 決定版」より

「今回の最初の旅人は、ノーベル賞科学者・大村智さん。訪れるのは、故郷・山梨県にある韮崎大村美術館。この美術館には大村さんが収集してきた1700点に及ぶコレクションを収蔵する。 大村さんは、研究者として成功をつかむまで、何度も挫折を味わった。その度に、生きる勇気をもらったのが絵だった。そんな大村さんの美の発見の物語をひもとく。片岡球子の絵の独創性に感銘する。また野田九浦の「松尾芭蕉図」に癒される。」



岩魚釣りはいつ頃が時期なのでしょうか? 釣りには疎い小生ですので、明確ではありませんが、初夏(5月~)かな? 郷里は渓流釣りにたくさんの人があちこちから来るようです。



家内曰く「帽子が小さい、手の表現がぎこちない」だと・・。



「こんなもんじゃない」と小生。



山桜?



野田九浦の共箱は意外に少ないかもしれません。

  

だんだん暖かくなる季節にはもってこいの一幅のように思います。



寂しくなるが「友よ、安らかに眠れ。いろいろとありがとう。」

月下双狸図 望月金鳳筆 その2

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休みには息子と遊び呆けておりますが、近くにいないと「パパ、パパ」と泣いて探し回る始末です。どうにもこうにも自分のことはできない状態ですが、いまのうちとこちらも大いに楽しんでいます



本日は「狸」の作品です。

古来より「狸」の絵は「他を抜く」という語呂から吉祥図とされ、福徳を招くとして商売をする人からは珍重されています。商売繁盛・家内安全をもたらす吉祥の掛け軸です。

月下双狸図 望月金鳳筆 その2
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横450*縦1170 画サイズ:横270*縦340



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望月金鳳:弘化2年(1845)生まれ、大正4年(1915)没、享年70歳。大阪の人。本名は平野学。初め森二鳳に円山派を学び、ついで西山完瑛に四条派を学ぶ。その傍ら武術を学び真陰流を修めた。



17歳頃養家を去って、京阪の地で当時の幕末の志士と交わり活躍した。明治9年上京、内務省の吏員となり、開拓使に転任、札幌県、北海道庁に勤務するが、23年辞職し画業で立つ。この間15年内国絵画共進会に出品、また23年以降日本美術協会で受賞を重ねた。



28年内国勧業博で「古木巨鷲」が妙技3等賞、30年全国絵画共進会で「月下群犬」が3等銅牌となる。31年野村文挙らと日本画会を結成。33年、パリ万博出品。40年文展開設の際、審査員選定の不満から高島北海らと正派同志会を結成、幹事となり、第1回展不出品ののち、41年第2回文展より出品、審査員を務めた。



動物画を得意とし、「狸の金鳳」と称された。日本美術協会会員。

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狸には化け狸、狸寝入りなどという面白い用語がたくさんあります。

化け狸:化ける動物の代表格といえるキツネと比較すると「狐七化け、狸八化け」といって、タヌキのほうが化け方が一枚上手であるといわれています。これについては、キツネは人を誘惑するために化けるのに対し、タヌキは人をバカにするために化けるのであり、化けること自体が好きだからという説があるそうです。分福茶釜も化け狸のひとつの逸話でしょうか。



狸寝入:動物は自らの意志で擬死(死にまね。death feigning, playing possum)をするのではなく、擬死は刺激に対する反射行動だそうです。哺乳類では、タヌキやニホンアナグマ、リス、モルモット、オポッサムなどが擬死をするとのこと。 擬死を行うことによる利点として、身体の損傷の防止と捕食者からの逃避が考えられ、擬死は捕食者に捕えられたときなどに起こるとのこと。捕食者から逃げられそうにない状況下で無理に暴れると疲労するだけでなく、身体を損傷する危険があり、捕食者は被食者が急に動かなくなると力を緩める傾向があります。このような時に捕食者から逃避できる可能性が生まれ、この機会を活かすためには身体の損傷を防ぐ必要があるから擬死をするらしいです。人間も狸寝入りして急場をしのぐらしい・・。

このような小点は小さめの収納箱にきつく巻かれて収めていると、糊付けの部分が剥がれてきます。掛け軸はきつく巻いてもいけない理由のひとつです。



糊をさして上から重しを置いてしばらくおいておきます。他に抜かれてばかりや化かされたという理由で狸を押しつぶしているわけではありません



ある程度表具はよくなりました。このようにものを大切にすることが骨董では大事です。



掛け軸は日頃からきちんと手入れをしておくことが肝要です。軸先の部分は表具部分を含めて上に埃が溜まりやすいので、飾った後に収納する際に軽くティッシュなどでふき取ったり、羽根箒で埃を落とすことです。





春光 酒井三良筆 その4

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息子はシャボン玉遊び。引越しする日に慌しいので駅前で息子と時間を潰していたら、年長の子供らがシャボン玉で遊んでおり、はじめてみるシャボン玉を息子が夢中で追いかけているのを思い出しました。



そうそう、人生はシャボン玉を追いかけるようなもの・・。追いかけるものは自分で作って、一生懸命つかもうとしてもつかまえられないもの、そして作り続けないと無くなってしまうもの。それを愉しめる心行きを忘れないこと。



さて本日は酒井三良の作品で、現在でも大変人気のある作家の一人であり、農村の生活や自然を詩情豊かに描いたノスタルジア溢れた作品を描いています。雪国暮らしの経験もある酒井三良が描く雪の風景などはグレーを基調とし、まさに雪国の温度を感じるかのような、独特の描写が特徴的です。

仲睦まじく過ごす家族の姿が描かれ心温まる作品が多く、家族の暖かさを思い出させ胸を熱くさせるような郷土愛に満ちあふれた風景を描き続けました。

生活の苦しい日々をくぐり抜けながら作品を描き続け、文部大臣賞などの受賞することになる酒井三良。愛らしい彼の作品から、愛を大切にしたすばらしい芸術家であったことを知ることができます。

春光 酒井三良筆 その4
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 酒井澄鑑定箱二重箱 
全体サイズ:横380*縦1185 画サイズ:横240*縦270



福島出身と思われている酒井三良ですが、実は福岡県に生まれています。酒井三良は、はじめは坂内青嵐に絵の手ほどきを受けることになりますが、結果的に自らの求める画風との違いを感じてしまい、会津に住み込み独学で絵画を描き続けることになります。



院展で活躍することとなる酒井は、小川芋銭と出会い自らの画境を開拓していくことになります。



決してうまいとはいえない酒井三良の作品ですが、その多くはのどかな田園風景を郷土愛に満ちあふれた美しいタッチで情緒的に描かれ、美しい作品が多数あることで有名となります。淡く白みを基調としいた作品はどこか繊細であり、緻密な表現力で描かれる日本人の琴線に触れるような作風により人気があります。



共箱以外に酒井澄・智子による鑑定の箱が多いようです。ただし小川芋銭ほどではありませんが、贋作が多いので要注意です。



決して豊かと言えない生活を妻と一人娘を引き連れて過ごす酒井三良は横山大観の勧めで太平洋側ののどかな場所で暮らすようになっていきます。戦後、生活も徐々に安定していく酒井三良は自然と親しんでいた経験を元に、日本の風景や四季を愛しその風景を中心に描くようになります。



郷土に対する郷愁、日本の風景への哀愁など福田豊四郎、奥村厚一などの本ブログで取り上げている画家と共通項があるように思います。

参考作品
雪路
思文閣「和の美」墨蹟資料目録 第496号 作品NO33 P78
評価金額:35万





意外に?お値段も高い画家のひとりです。骨董蒐集の大先輩の方が数多く蒐集されており、その方の作品を見せていただいたのが懐かしい思い出です。相続争いの挙句にすべて手放されてようですが、なんと愚かなことか 他の人が作ったシャボン玉を追いかけてはいけません・・・



樹下高士観月図 寺崎廣業筆 その40

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最近、夢中になって読んだのが「あきない世傳 金と銀 源流篇 」(時代小説文庫) で田郁の著)で、以前に投稿した「みをつくし料理帖 」(ハルキ文庫)と同じ著者です。娯楽小説ですが、丁稚奉公という観点から小生は面白く読みました。

思うに成人して世に出るというのは自立するということです。職を会得し、自分で生活すること。しかしながら、職を転々としたり、少しきつい仕事や人間関係のぎすぎすしたことで仕事に嫌気がさすという若い人が多いように思えます。職を得る、収入を得るということは生半可なことではありません。

就職しても自宅から通勤したりしている者いますが、本来は「戻るところはない」という覚悟で職に就くものです。本来は寝るところさえあればいい、飯さえ食えればいいというところからのスタートです。親の脛をいつまでも齧ろうなどいう輩は中途半端なように思います。丁稚奉公はたしかに古い考えですが、その覚悟に学ぶところは大きい。

小説は9歳で奉公に出た小娘の話からのスタートです。 苦労を重ねた人間は人を見る眼も肥えるわけで、そのような人間関係が面白く描かれています。シリーズもののようですが、興味のある方はどうぞ

さて本日は寺崎廣業の作品です。寺崎廣業は本ブログで何度も投稿しているように我が郷里を代表する画家の一人です。最近は「なんでも鑑定団」に屏風が出品されて500万という高値の評価を受けています。

樹下高士観月図 寺崎廣業筆 その40
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1990*横550 画サイズ:縦1120*横410

本作品は席画程度のレベルであり、佳作とは言い難い作品ではあります。



押印されている印章は他の所蔵作品「夏景山水図 寺崎廣業筆 共箱」と同一印章です。寺崎廣業は一時期非常に高い評価を受けていたため、贋作が数多くあります。

道半ばで亡くなったことや画風が保守的であったこと、さらに贋作が多いこと、本作品のような求めに応じた席画のような作品が多いため、横山大観と並べ証せられながら、現在では評価が低い画家になっています。



なんでも鑑定団の屏風の評価が逆に異常に高いものと思っています。本作品は席画のように描かれ力作ではないので、屏風とは比べるまでもありませんが、いくらいい作品でも寺崎廣業の作品を500万で買う人は皆無と言っていいでしょう。



郷里に贋作が多いことも事実で、九州に田能村竹田の贋作が多いの同じようです。九州は贋作の産地と称されて、炭鉱などで栄え、成金が多く、骨董が流行した頃に数多くの人が騙されて贋作を購入したと言われています。東北も炭鉱や木材業での成金が数多く騙されていたようです。



寺崎廣業は多作なために大衆画家と称されてもいますが、著名になったがゆえに所望されることも多く、所望に応じて数多く描いたようです。逆に横山大観はほぼすべての作品を記録しており、そのためにその記録のよる所定の鑑定機関で鑑定されないと、真作と断定されないということになっています。

寺崎廣業は明治維新に際して藩の重臣であった父の職業上の失敗もあって、母の実家である久保田藩疋田家老邸から横手に移って祖母に育てられました。幼児から絵を好みすぐれていたということでしたが、家は貧しく10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたといいいます。いわゆる屋台の蕎麦屋です。

秋田医学校にも入りましたが学費が続かず、結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を踏み出しますが、鹿角に至った折に郡長の配慮で登記所雇書記になりました。生活はようやく安定しましたが、絵への興味は少しも弱まらなかったそうです。廣業は東京小石川で薬屋を営んでいた兄弟のすすめで上京しました。1888年(明治21年)23歳のことです。

上京すると同郷の平福穂庵に入門しましたが、廣業は4か月でまた放浪の旅に出ます。足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった知人の紹介で日光大野屋旅館に寄寓し、ここでようやく美人画で名を挙げました。1年半で帰郷し穂庵の世話で挿絵の仕事をし、ここで諸派名画を模写し広業の総合的画法の基礎を築いたといわれています。粉本などから廣業の血の滲むような努力の跡が窺われ、このことから放浪の画家で苦労人であり、努力の画家と称されています。

なにごとも努力、諦めない姿勢が大切ということです。なにはともあれ、若いときは自ら苦労の場を求めることです。人生はただの一度きり。自分の可能性を信じて、自分の好きな道を、力の限り歩むのが一番の幸せです。

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