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紫陽花 伝神坂雪佳筆

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本日は神坂雪佳の作品です。いつかは欲しいなと思っていた神坂雪佳の肉筆の作品です。むろん真贋は解りませんが、色紙のわりには意外と高い値段でした。神坂雪佳は図案はエルメスでも取り上げられるなど、海外での評価が非常に高く、国内においても人気がありご存知の方も多いかと思いまあす。

神坂雪佳を知らない方でも下記の作品を見かけた人は多いと思います。



独創的でかわいいデザインをします。



図案家として評価され版画などが人気がありますが、なかなか肉筆画はみかけないように思いますので、もしかしたら肉筆画は貴重かもしれません。

紫陽花 伝神坂雪佳筆
色紙 絹本着色



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神坂雪佳:(かみさか せっか)慶応2年1月12日(1866年2月26日) ~ 昭和17年(1942年)1月4日)。



近現代の日本の画家であり、図案家。京都に暮らし、明治から昭和にかけての時期に、絵画と工芸の分野で多岐にわたる活動をした。本名は吉隆(よしたか)。



京都御所警護の武士・神坂吉重の長男として、幕末の京都・栗田口(現・京都市栗田口)に生まれる。1881年(明治14年)、16歳で四条派の日本画家・鈴木瑞彦に師事して絵画を学び、装飾芸術への関心を高めたのちの1890年(明治23年)には図案家・岸光景に師事し、工芸意匠図案を学ぶ。琳派の研究を始めたのはこの頃であった。



1901年(明治34年)には、イギリスのグラスゴーで開催されたグラスゴー国際博覧会 (Glasgow International Exhibition) の視察を目的とし、世界各地の図案の調査を兼ねて渡欧。当時のヨーロッパではジャポニスムが流行し、日本美術の影響を受けたアール・ヌーヴォーが花開いていた。神坂もそこで日本の優れた装飾芸術を再認識したという。



琳派に傾倒し、デフォルメ、クローズアップ、トリミングを用いた大胆な構図や「たらしこみ」の技法など、琳派の影響を受けながらもモダンで明快な作風である。染織や陶芸・漆芸など暮らしを装う工芸品の図案も積極的に行った。蒔絵師の神坂祐吉は雪佳の実弟で、雪佳が図案した作品も多い。 1942年(昭和17年)1月4日、77歳で死去した。

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「神坂雪佳」については当方ではあまり詳しくありませんので、真贋は不明です。よさそうに思われるので、たまたま空いている保存箱に収納することにしました。



多少、カビが発生しかけていますが、肉眼ではそれほど気になりません。



額に入れて飾ってみました。写真で見るとカビの発生が気になりますが、実際の見るとそれほど気になりません。鑑賞に耐え得るぎりぎりの状態です。



カビの発生は絵画では要注意です。過度な湿気は避けるべきでしょう。一度カビが発生してしまいますと、完全に修復するとも限らず、修復するにもかなり修復費用がかかり、結局、かなりの評価損や破棄する羽目になってしまいます。




すすき 堂本印象筆 その4

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神坂雪佳の作品に次いで「かび」シリーズ第二作品?

日本画に限らず、美術品の大敵にシミ、カビがあります。いくら出来の良い作品でもシミやカビのせいで興ざめすることも多々あります。美人画などは顔の部分にシミやカビが発生するととりかえしがつかないと言われています。

湿度の高いところに放置しないことが基本ですが、空調設備がフル回転や自動制御されているならともかく、通常のコレクターでは頭の痛いところです。奥さんに内緒での蒐集では天井裏や押入れ、物置に収納したりするとひどいことになりかねません。軽度のうちは表具師に頼んで修復可能ですが、あくまでも軽度のうちにです。しかも高額な修復料金がかかりますので、頼みにくいものです。

本作品は写真で見たときから、カビの発生が解っており、そのせいもあり廉価で入手できました。ただ、実際に作品をみてみるとカビが額の中で思いのほか成長しており、それを除去しても赤っぽい大きな斑点が残りました。秋の景色なので紅葉・・・? さて染み抜きの修理をしても消えるかどうか? 

すすき 堂本印象筆 その4
絹本着色額装
全体サイズ:縦655*横730 画サイズ:縦450*横530



作品を額から外してみると、額で隠れた部分に「63.8 す々き」とうっすらと読める程度に記されています。1963年の作だとすると72歳頃に描かれた作品でしょうか? 

堂本印章の落款において「恒世印象」は中期の頃の落款(「陶庵印象」は若い頃の作品)となる記されている記事を読んだことがありますが、73歳で中期・・?? 1971年の作品に「恒世印象」の作品があることは確認できていますので、ありえないことはなさそうです。

 

堂本印章について詳細な知識は当方で持ち合わせていないので、真贋はなんとも「かび」同様に厄介ですね。



額を外してみたら作品には意外にも大きなシミがあり、カビが生えていましたので、よほど湿気の高いところで保存されいたようです。

どの点がカビのシミか解らない? 紅葉と同じ色?



堂本印象は年代により画風がかなり違うものをたくさん描いており、これが堂本印象だという画風が定め難い画家です。



共通してあるのはそこはかとないメルヘンチック、ノスタルジックな印象です。

さ~て、染み抜きしてうまく消えるかどうか?



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堂本印象:明治24年生まれ、昭和50年没(1891年~1975年)、享年84歳。本名は三之助。京都生まれ。

京都海が専門学校卒業、西山翠嶂の青甲社の社中、官展を舞台に力作を発表したが、また、四天王寺や高野大塔の如き壁画大作に従事し、さらに思い切った洋画的画風によって問題を提起している。

帝室技芸院、芸術院会員。作品「華厳」は帝国美術院賞を受ける。のち文化勲章受賞となる。

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通風の良い二階の渡り廊下に展示されていますが・・・。



今のうちの愉しむだけ愉しんでおこうかと季節はずれの作品を鑑賞しています。渡り廊下を通るたびにさてどうしようかと・・・

志野花窯 鈴木蔵作 その4

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少子高齢化対策がどんどん後手に回っているようです。本ブログでも以前から保育所対策をきちんとしないといけないと述べてきましたが、女性活用といいながら、子育て支援といいながら、少子高齢化対策に大臣まで据えながら、若い女性議員を大臣に就任させて何もしない大臣となって解任。民主党時代よりはいいと思いますが、今の政府は少子高齢化にはまったくもって無策のようです。

日本の未来にとっての大きな課題のすべてが少子に起因しています。年金問題、働き手の不足による経済の不活性など少子化対策をしないといけません。保育所、教育費、母子家庭保護、いくらでもやることがあるのに目先の経済のデフレ対策ばかり。しまいには消費税見送り、マイナス金利・・・、やることが逆のようです。目先を変えたほうがよさそうなのですが・・。

さて本日は現代の人気陶芸家の鈴木蔵の作品です。鈴木蔵の作品は茶碗の評価が高いですが、花入や織部の俎板皿などの秀作もあります。ただ鈴木蔵というと織部などより志野焼というイメージですね。

志野花窯 鈴木蔵作
共箱
高さ250*幅220*奥行き200



鈴木蔵というと茶碗ばかりが目に付きますがいったい幾つあるのでしょうか? 辟易としているのは小生だけではないように思えます。鈴木蔵=茶碗という目先を変えてみましょう。



日本の焼き物に志野焼があるということはとてもありがたいことです。というのは心温まる焼き物だからです。



志野織部、鼠志野など多彩ですが、やっぱり「白」がいいという方が多いと思います。



志野の釉薬に胎土の鉄分が浮かび上がる赤・・。



加藤唐九郎、荒川豊蔵、そして鈴木蔵が志野焼の名工でしょう。他にも陶工がいますが、この3人にはとても敵いません。



志野の焼き上がりの魅力はからっとした焼きががり。



熱々の煎餅のよう・・・??



ど~んとしたこの花器。いかに使うか・・。我ながらかなりの贅沢。



鈴木蔵は茶碗だけではない・・・。茶碗の出来の良さも認めながらも他の器を試してみたい陶工の一人です。

ところで新たにスタートした民進党には投票する気にはまったくなりませんね。今の自民党よりよほど無策であろうと推察され、何よりも民主党時代のひどい政策は決して忘れないものです。

氏素性の解らぬ作品 遼三彩印花牡丹文皿

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茶室は子供のジャングルジム、縁側は洗濯物の干し場や義父と息子の昼寝場所・・・・。実に実用的です 

二階の展示室を見ていった電気工事の方が「ずいぶんと良くなりましたね」といってくれました。改装前を知っていて、電気工事にて工事にもきてくれていたようです。「一般の人はは見れないのですか?」とも聞かれましてが、一般の人??? 当家の一般に人はとっくに充分に使っています 



ブラインドや棚などまだ小生としてはまだ未完成ですが、資金をまた貯めなくては完成しません。

さて本日の作品は遼三彩? 本作品のような小生の未知の分野の作品を購入したのは、源内焼と同じ三彩であったからに他ありませんが、そもそも本作品が遼三彩か否かも定かではありません。

遼三彩印花牡丹文皿
合箱
最大口径185*底径*高さ38



遼三彩とは中国の東北部に建国した契丹族の遼で焼造された三彩陶器のことです。北宋王朝と北方の領土を巡って激しく争ったことで知られる契丹族の国・遼で作られた三彩です。



遊牧民族であった契丹族は,むろん製陶業はもたなかったのですが,国家意識に目覚めて916年に建国すると中国文化の摂取につとめ,文化向上のために華北の陶工を領内に拉致して窯を築かせました。



遼寧省赤峰市に近い乾瓦(かんが)窯はその代表的な窯であり,ここで遼三彩は焼造されました。その創始は遼後期の1060年代からですが、単色の緑釉陶と褐釉陶はすでに10世紀に焼造していると思われます。

遼三彩は唐三彩と同様にすべて「副葬品」であり、遼三彩の起こりは遼代中期に政府が厚葬(手厚い埋葬)を禁じたことと関わりがあります。

遼は北部に位置し自然資源はもちろん、献上される貢ぎ物にも限りがあったので、貴族たちの厚葬の風潮は社会財源にとってきわめて大きな浪費でした。そこで政府は金銀器の副葬を禁じ、代わりに金銀器の効果にならった三彩釉の陶器や金メッキした銅器を用いたのです。



唐三彩とは違って、朔北の草原に生まれたこの三彩はある程度の粗放さに裏打ちされた力強い野性味に満ちています。唐三彩と同様に赤い素地に白化粧をして低温釉の三彩釉を施すことに変わりはありませんが、地肌に付けられる刻花文や印花文が唐三彩のそれのように整然とはしておらず、その上の三彩釉も規矩にこだわらず自由奔放に掛けられますので、かなり印象は唐三彩と違ったものになります。

唐三彩ほどの繊細さはない作品ですが、素朴な雰囲気が日本のわびさびの精神に通ずるところから日本では人気がありました。また重ねて焼成するので、三点の目あとがついていることがあります。当然、一番上の作品には目跡がつきませんが・・。



本作品は遼三彩の典型的な作例で、牡丹などの花や虫の図を型押しの浮文で表し、緑釉と褐釉を掛けており、遼三彩らしい素朴さとエキゾティシズムに溢れています。

外側に2列、円を描くように各々4つずつ計8つの牡丹があらわされています。花には黄褐色の釉薬が、葉には緑の釉薬が塗られており、口縁に黄褐釉が掛けられています。遼のやきものは金銀器の影響が色濃いのですが、形や文様にきびきびとした印象が強い宋時代の陶磁器と比べると明るくおおらかであり、むしろ唐時代の中国陶磁の作風に通じるものがあります。



遼が11世紀後半になると、乾瓦窯はひときわ優れた三彩を生み出しました。轆轤成形した器面に、型で文様を浮彫りする技を得意とし、三彩の色彩も鮮やかさを増しましたが、本作品は高台もなく、成型は稚拙でそのような時期より少し前のものと推察されます。



三彩という陶磁器には主流として唐三彩・遼三彩・ペルシャ三彩・奈良三彩・明三彩・華南三彩、そして本ブログでお馴染みの源内焼などがあります。源内焼が対抗したのは「華南三彩」と呼ばれる三彩の作品群で、なかなか入手は難しいようです。

遼三彩は副葬品・・・、「遼三彩」は一般の人が使うために作られた実用的な器ではないようです。

竹林渓流図 中林竹渓筆 その6

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本作品に仮の題名をつけようと思案・・。「竹林清涼図」、「竹巌清風図」、「清涼吟行図」、・・・・、結局図柄そのままの「竹林渓流図」。家内曰く、「描いたのは中林竹渓?、名前のままじゃない。」・・ 家内はなにやら本作品を気に入ったようです。

幕末南画を語る上で避けて通れないのが、中林竹洞・竹渓父子と山本梅逸ですが、この3名は武士として生活や世襲ということなどから本来の南画ではないという評を受けています。たしかに表面的なものからは本来の文人画とは違うという異論もあろうかと思いますが、純然とその作品と向かうとそうとも言い切れないものがあり、きちんと評価する必要がありそうです。

中林竹洞・竹渓父子の作品は幕末の南画最盛期頃の著名な画家ということから贋作が非常に多いので真贋の判断は難しいのですが、中林竹渓の作品が六作品目となりましたのでここで整理してみました。

竹林渓流図(仮題) 中林竹渓筆 その6
絹本水墨淡彩 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1290*横440 画サイズ:縦310*横220



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文化13年(1816年)中林竹洞の長男として生まれ、幼年から父に絵を学ぶ。竹渓が生まれた時、竹洞は数え41歳で、遅い男児誕生に竹洞は喜び、しばしば自作に竹渓の名を記し、父子の合作も残る。日本の南画の元となった文人画・南宗画とは、実情はともかく理念的には、中国の文人生活を理想とするもので、世襲とは本来馴染まない。竹洞自身も若い頃から画論を出版し、晩年には世俗を離れ隠棲生活を送るなど、日本において最も文人らしい態度をとった画家である。しかし、その竹洞すら世襲を望み、自家を流派として存続させたい願った事が端的に表れている。

20代の竹渓は繊細な楷書で「竹谿」と署名し、竹洞の山水画様式を忠実に習っており、60代に入り枯淡・高潔な山水画様式を完成させていた父の画風をそのまま継承しようとした様子が窺える。反面、大作が殆ど無い竹洞と違い、竹渓には若年から晩年に至るまでしばしば屏風絵の大作を描いており、父との資質の違いを見ることができる。

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中林竹渓の作品で本ブログに投稿された作品で「竹谿」の落款のある作品は下記の作品です。

夕陽孤亭図 中林竹渓筆 その2
絹本水墨淡彩 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1065*横640 画サイズ:縦190*横575

この頃の作品は実に味わい深い作風ですが、父である中林竹洞の踏襲であのかもしれません。


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30歳の時、長崎に旅行。同じ頃、父の親友・山本梅逸に師事したと推測される。落款は楷書で「竹溪」稀に行書で「竹渓」と記し、花鳥画や人物画にも作域を広げ、父や梅逸らのモチーフを手本にしつつも、それらを単に写すのではなく的確に構成し直して独自性を打ち出そうとしている。

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年号が記されており、明らかに30歳代の作品は下記の作品です。

桜下猫図 中林竹渓筆 その1絹本水墨着色軸装軸先 合箱入
全体サイズ:横402*縦1658 画サイズ:横340*縦958
34歳頃


柳桃山水之図 伝中林竹渓筆 その5絹本水墨淡彩 軸先象牙 市島家所蔵箱
全体サイズ:縦2030*横620 画サイズ:縦1240*横405
33歳頃

花鳥画や人物画にも作域を広げることで、父の域から脱却しようとしてるように思えます。

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嘉永6年(1853年)に父竹洞が亡くなると、落款に30代のものに加えて、楷書で「竹渓」と記す変化が起こる。絵も南画以外の円山・四条派、南蘋派、土佐派に学び、実物写生も積極的に行ったと見られる。一方で壮年期には江戸末期の復古思潮からか、加藤清正や楠木正成などの武将を勇壮謹厳に描いた作品が多く残っています。

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下記の二作品については30代と思われますが、詳細な時期については不明です。

浅絳江山閑適図 中林竹渓筆 その3
紙本水墨淡彩 軸先骨 鑑定二重箱
全体サイズ:縦2090*横455 画サイズ:縦1345*横310

水墨山水図 中林竹渓筆 その4
紙本水墨 軸先象牙細工 添箱
全体サイズ:縦2100*横368 画サイズ:縦1330*横240

中林竹渓はたしかに中林竹洞とは違う画風を持っているようになります。

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40代後半あたりからの落款は、肥痩が強く癖が強い「竹渓」となり、特に元治元年(1864年)以降は「竹渓有節」と記す作品があり、最晩年には「有節」と号していたと考えられる。この頃は文人画風の山水画や中国人物画が再び多く書かれる一方、引き続き大和絵人物や季節の草花、動物なども書かれた。竹渓晩年の山水画は、明治・大正期に煎茶席の掛軸としてよく好まれ、またそれ以上に身近な草花や動物、風景などを描く景物画は、手頃な床掛けとして広く愛好された。明治も間近に迫った慶応3年(1867年)4月死去。享年52。

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中林竹洞の作品は真贋を含めてあちらこちらにあります。贋作が多いのでしょうが、とても小生のような浅学では真贋が解るような代物ではありません。印章や落款ではおそらく真贋は判断できないようです。

それに比して子息の中林竹渓は市場に出回る作品の数は意外に少ないようですが・・。



明らかに晩年の作と判断できる作品は小生の手元にはありません。

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竹渓はしばしば奇行でも知られる。これは、明治に活躍した名古屋出身の南画家・兼松蘆門が著した『竹洞と梅逸』(明治42年(1909年)刊)による。その竹渓伝の元になったのは、竹渓の異母妹・中林清淑の回想と推測される。

清淑は年の離れた竹渓に複雑な感情を抱いていたらしく、『竹洞と梅逸』には竹洞の遺産を竹渓が分けてくれなかったという愚痴が長々と載り、清淑が撰した竹渓の墓碑には「人となり剛狷介、世と合わず、人徒にその絵の巧みなるを見、その志しのなお高遠なるを知らず」と、故人を称えるべき墓碑に「巧みなだけで志が表現されていない」と断言する。こうした清淑の竹渓像が、清淑びいきの蘆門によって増幅され、これが諸書に引用されて広まっていった。

こうした評は幾らかは竹渓自身が招いたものかも知れないが、竹渓の作品を見ると、生き物の夫婦や親子を描き込む作品がかなりあり、自賛や高名な文化人による着賛も殆ど無く、俳画風の略画や他の画家との合作も見られない等、心優しく生真面目な画人を想像とさせる。

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上記のような記事の内容のようなことがなんらかで竹渓の人気に水をさしているのかもしれませんね。



このような軸を床に掛けて一服というもの洒落ていていいように思います。



小点ながら、川の流れの音、竹にそよぐ風の音が聞こえてきそうです。



名古屋南画の画人には本ブログでは投稿が少ないですがこのほかに山本梅逸がいます。



老松図 平福百穂筆 その13

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息子が掃除、小生が仏壇掃除を担当するのが週末の日課になってきました。大雑把な掃除なので、ハンドクリーナーで小生が仕上げ掃除です。当然息子は大人の3倍以上も時間がかかりますが、幼い子供が手伝わせること、手伝うことに喜びを感じることが大切ですね。



なにかと週末には家に居るようにしいてますが、常に小生の周りで息子は遊んでいます。ちょっと居なくなると泣いて小生を探し回るようです。「ちょっと起きてよ。」、「ちょっと来てよ。」が息子の口癖になってきました。面倒くさい気持ちが正直なところ少しはありますが、精一杯付き合うようにしています。これほどのたのしい時間は長くは続かないことを小生は知っているからです。大切で、貴重な神がくれた愛すべき時間です。

さて良い作品の掛け軸は観なくても持ってきた段階で解るという御仁がおられますが、持ち主やその扱い方、誂え(箱など)からの判断だろうと思われます。作品を見る前に感じることができるのは重さです。良い作品はそれなりの表具師に依頼されて表具しており、適度な重さの軸を使用していますので、そのあたりを判断して真贋を見極めているのでしょう。

掛け軸の作品を見るのには、巻いている作品を少しずつ広げていくので、段階的に作品が見えてきますが、その最初の筆致でほぼ判断が決まります。落款や印章、箱書はある意味でよほど出来のよい贋作でないかぎり付随事項でしかありません。

ところで掛け軸の作品を広げるときに作品を掛けるところがなければ、きれいな床に置いて慎重に見てください。いきなり手に持って作品を広げてぶらさげるのは作品を傷める可能性が高くなりますので厳禁です。少しずつ作品をみていくことで愉しみがましてくるはずです。

本日の作品は我が郷里の画家の平福百穂の松を描いた作品です。朝陽を浴びた老松を描いた吉祥の図です。少しでも長く陽が浴びれるようにと・・。

老松図 平福百穂筆 その13
紙本水墨淡彩 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:横470*縦220 画サイズ:横330*縦1380



落款部分には「百穂写於白田草堂 押印」とあります。印章は本ブログに投稿された「不老長春」、「扇面武者絵図」と同一印章です。 



このように勢いのある、水分を含んだ筆遣いの作品は見るものを魅了してやみません。



この筆遣いはよほど鍛錬していないと描けないものです。



水墨に僅かな代赭色を用いて朝陽まで描くことなく表現しているようです。良き掛け軸にめぐり合えたときは至福のひとときです。



「伝」ですが下記の作品もまた勢いのある筆遣いで梅を描いた作品です。

梅 伝平福百穂筆
紙本水墨布装軸箱入 画サイズ:横340*縦1260



好きな作品のひとつですが・・。



本作品と同様に水墨の使い方に妙技があります。



本作品の外箱にある「白根家」については蒐集家であったと思われますが詳細は不詳です。



平福百穂、穂庵の良き作品が市場に出てこなくなったように思います。最近見るのは贋作ばかり・・、なぜでしょう? インターネットオークションは贋作ばかりですので、真贋の区別には気をつけましょう。

ところで本作品と同一印章の作品で「五位鷺」が平福百穂の絶筆の作品として画集に掲載されています。



この絶筆の作品(昭和8年の作)よりは印影が多少はっきりしているようですが、昭和初期の平福百穂の晩年の作で間違いないと推察されます。印章は資料を紐解かなくても頭に入っていることが肝心なようです。



良い掛け軸もまた神が与えてくれた貴重な賜物です。そのように感じ取れるかどうかは知識と感性の問題のようですが、その人の考え方によって人生は数倍に楽しめるものです。決して長くはない人生です、後悔の無きように存分に楽しむことです。






終南山之図 高島北海筆 その4 

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先週末は家族全員で花見。



近くの桜並木ばかりではと、山へ分け入りました。ついでに太陽光発電も見学。



桜はやはり自然に咲く山の桜です。



貝母の花を見つけました。



紫だいこんの花も・・。



後日、所有者に了解を得て貝母の花を分けてもらいに採りにいきました。息子は大はしゃぎ・・。



お手伝いのご褒美にレストランで食事。



相変わらず「うめ~」と・・。



本日は明治新政府の技官としての半生の上に、植物学の深い造詣を基礎とし、南画に写生の技法を加えた清新な山岳風景画を描いた高島北海の作品です。今回で四作品目の投稿となります。ヨーロッパ視察に際してはフランスのナンシーに3年間在学しており、アールヌーボーと日本の関係を結びつけた人としても評価されています。詳細は他の作品紹介を参考にしてください。

終南山之図 高島北海筆 
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横659*縦2181 画サイズ:横506*縦1265



賛には「興来毎独往 勝事空自知 行到水窮処 坐看雲起時 北海漁叟寫并山緑□□詩 押印」とあり、「北海」の朱文白方印が押印されています。賛は王維の漢詩「終南別業」の一節。

  

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漢詩本文
終南別業
(入山寄城中故人)王維
中歳頗好道、晩家南山陲。
興来毎独往、勝事空自知。
行到水窮処、坐看雲起時。
偶然値林叟、談笑無還期。

概略
終南山の別荘で
(城内の友人に届ける)
中年になってから頗(少しばかり)仏教の教えにしたがってきましたし、歳をとってきたので終南山の陲(麓)に家を構えました。
物欲のない気の向くまま生活しているし、勝事も自分にとって『空』である。
修行は水が湧き出るところ見つけ出すように励んでいるし、座禅をして半眼で、雲が湧き出るところを見ている。
時に出会った木こりのおじいさんと話をはじめたら帰る時を忘れました。

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解説

初句の「中歳頗好道」は中歳+頗好道で、次の句は晩家+南山陲で、中歳は中年、歳は動詞で、中ほどに年を取るで中年です。

晩家は家は動詞、これも家を建てるとか構えることになります。晩の意味は前句は中年に対しですから晩年となります。

頗好道は、よい教え仏教の道をさし、南山陲は長安の南東にある終南山の麓ということですが、前句の好道に対しては、悟りを開くところという意味になります。

この詩は、詩人の仲間に、朝廷に行かないで引きこもっていることを告白していることも意味しています。

次の聯、興来+毎独往、勝事+空自知で、興来は興味があるときはであり、勝事は素敵なこと、素晴らしいこと、何事にも勝ること、毎独往は、毎はそのたびごと、独は一人で、往は行く、空はくう、何にもない仏教用語。

自は自分、知は知る。これらから、「物欲のない気の向くまま生活しているし、勝事も自分にとって『空』である。」という意味になります

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この詩で王維が終南山に向かって座禅の毎日であることを連想させます。

実際このころ、朝廷内の宦官から起こった前皇帝玄宗派と粛宗皇帝派の醜悪な争いが官僚、文人すべてにわたり、朝廷の威信が落ち、反乱軍を倒すため一致すべきところが逆のことをします。

粛宗皇帝は、玄宗派を徹底的に、排除し、左遷します。唐朝廷、唐国軍はガタガタになります。そのため、反乱軍を平定するのに10年近くもかかってしまう。王維はこの中に入りたくなかったのです。この聯は、とくに有名です。

日本では、この句、聯のみを取り出して、一人歩きをさせて、勝手な解釈をしてきました。有名な句がたくさんあり、中には詩人が詠んだ意味とは全く逆の意味の場合もありました。

昔から、この聯は、「行きては水の窮(きわ)まる処に到り、坐りて雲の起こる時を看る」と読まれてきました。修行は到達する。水がわき出るところが最初であるようにと読むのであり、座ってみる。座禅をして半眼で見る。雲が沸き起こってくるのを。沸き起こるところが見えるわけでもないものを見るといっているのです。ここでも『空』であるといっています。

余談ですが、中国では、雲は、谷の奥まった岩の割れ目、洞窟から湧き出てくるといわれていました。王維は水の湧き出るところ、と雲の湧き出るところを極めるといっているつまり、仏教の修行に励むのでしょう。

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最後の聯は偶然は偶然、値は会うこと、林叟は山の仕事で生計を立てている老人、談笑は談笑、無還期は話が弾んで、帰る時を忘れるほどだということです。

中国では、漁夫、漁師、猟師、木こり、炭焼き、日本では柴刈り爺さんでしょうか、誰ということではなく、山の中で過ごすことを指します。宮廷では、めったなことが言えませんし、書き残すことができません。ましてや長い立話でもしようものなら、謀反の話し合いをしていることになります。

中国では、酒を飲んでべろべろになること、こうした木こりなどと長く話すということは暗に朝廷批判をしていること示すことなのです。

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「南画に写生の技法を加えた清新な山岳風景画を描いた高島北海の作品です。」という評がしっくりくる高島北海の山水画です。



橋本雅邦の描いた山水画の影響がみられるように感じるのは小生だけではないと思います。



マンネリ化した狩野派や南画から抜け出し、雪舟に戻れと提唱した山水画の機運を感じ取ることができます。詩書画一体となった近代の山水画を味わえる数少ない作品であろうと思います。



詩書画一体を味わうには自然での体験と知識とが大切ですね。



山中の空き家に立派な蔵を発見しました。「いいね~」と息子と小生・・・

自は自分、知は知る。これらから、「物欲のない気の向くまま生活しているし、勝事も自分にとって『空』である。」という意味・・・・









もっと評価されるべき画家 乙丑初夏図 伝田中一村(米邨)筆

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季節も移り、端午の節句も近づき、そろそろ展示作品も思いつくままでなく、展示替えしようかと思っています。



さて本日投稿の画家は田中一村です。田中一村は現在の人気画家の一人ですが、米邨時代の彼の画風を理解し、評価している人は少ないでしょう。奄美大島時代の田中一村の作品は個性的で新たな挑戦として見事な作品ですが、それ以前の彼の作品を知る人は多くはないようです。。

ただ本作品のような南画風の作品は「なんでも鑑定団」にも出品されご存知の方も多いかと思います。

乙丑初夏 伝田中一村(米邨)筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横450*縦1970 画サイズ:横340*縦1360



賛に「乙丑(きのとうし、いっちゅう)初夏」と記されており、大正14年(1925年)、田中一村が16歳頃の作と推察されます。

 

あきらかに近代中国絵画の巨匠と称される呉昌碩の影響を受けた画風です。



田中一村と呉昌碩の関係はよく知られていますので、本ブログで詳細の説明は割愛しますが、田中一村は呉昌碩から大きな影響受けています。その後の奄美大島での作品の源流はそこにあるといっても過言ではないでしょう。



奄美大島で描かれた作品の多くは美術館に所蔵されており、入手は困難であり、またその人気からとても高価な作品群です。「米邨」時代の画についても多くが消失しており、このような状態の良い作品は稀なようです。むろん贋作も多いので本作品はあくまでも参考作品ですので、「伝」としております。

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田中一村:(たなか いっそん)1908年7月22日 ~ 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。

 

補足
1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。



1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。



1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。



1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。墓所は満福寺。



没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある。



「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館[1](館長・中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。



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呉昌碩の作品と並べてみました。



両者ともども入手困難な画家の作品ですので、あくまでも「伝」ですが、なんとなく一村への呉昌碩の影響を納得できます。



さらに斉白石の作品とも並べてみました。



こういう遊びも趣味には許される楽しみ方であろうと思っています。







春秋水禽図双幅 渡辺省亭筆 その9

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渡辺省亭についてはすでに9作品目の投稿となりますので、説明は重複する点が多いと思います。

春秋水禽図双幅 渡辺省亭筆 その9
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1820*横640 画サイズ:縦1170*横500



渡辺省亭は柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いていきますが、最初は菊池容斎を師としています。もともと省亭は是真に弟子入りしようとしたのですが、「菊池容斎の方がいいだろう」という是真の紹介で、容斎に入門することになったという説があります、なぜ柴田是真は菊池容斎のほうがいいだろうと判断したのでしょうか? 残念ながら詳細は不明です。 



容斎のもとで計6年間学んだ後、22歳で画家として自立、同年には父と同門で莫逆の友であった渡辺光枝(良助)が没したため、渡辺家の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継ぐことになります。

なるほど姓が変わっていますね。小生にも経験がありますが、姓が変わると結構たいへんです。夫婦別姓に私は賛成ですが、この点も政策は時代遅れのようです。女性活用とは口先ばかりで実態がよく解っていないのが政治家のようです。保育所問題然り・・。



明治8年(1875年)美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出され、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社である起立工商会社に就職します。

濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨かれていきます。この「西洋人受けする洒脱なセンス」が最終的に渡辺省亭の絵の枠を決めてしまったように思います。本作品もその一例のように思われますね。



明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会で金髹図案で花紋賞牌(三等賞)を受賞。更に翌年のパリ万国博覧会で芸図案が銅牌を獲得。これを機にパリに派遣されることになります。これは日本画家としては初めての洋行留学でした。



パリ滞在期間は2年強から3年間と正確には不明ですが、この時期省亭は印象派周辺のサークルに参加しています。省亭がエドガー・ドガに鳥の絵をあげたという逸話があります。留学した渡辺省亭は留学というより、日本画の紹介役となってしまったように思います。



省亭が万博に出品した絵を、エドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が描法の研究のため購入したと伝わっていたり、他にも印象派のパトロンで出版業者だったシャルパンティエが、1879年4月に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』という挿絵入り美術雑誌には、美術協力者の中に山本芳翠と共に省亭も記載されています。

省亭は彼らとの交流の中で、和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いたと見られます。ただし、日本的な危うさ、ひ弱さが絵の中に混在している点は否定できません。



明治17年(1885年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で二等褒状。これらの作品は所在不明で、図様すら分っていません。

しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなります。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明されています。ただし、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞したとする資料もあります。

殆どの展覧会へ出品しなくなった点は思い上がりという一面があったかもしれません。



省亭の本分はあくまで肉筆主体の日本画家でしたが、他方で木版画、口絵、挿絵にもその才能を示し、その分野で評判が高かったようです。



師・容斎とは対照的に弟子を取らず(水野年方が1,2年入門しただけという)、親友と呼べる画家は平福穂庵(平福百穂の父)と菅原白龍くらいで、一匹狼の立場を貫いています。これは容斎が、他人の悪口ばかり言いあう画家と交際するよりも一芸に秀でた者と交われ、との教えを守ったためとする説もありますが、単に省亭の性向によるものにも見えます。



言いたいことは歯に衣着せずに言え、大正2年(1913年)第7回文展に出品された竹内栖鳳、横山大観、川合玉堂らの作品を、技法・技術面から画家の不勉強と指摘しています。

このような性格を柴田是真は見抜いていたようにも思われます。よって基本的なことの指導の厳しい菊池容斎に入門させたようにも推察されますが・・。



本作品への評価はふたつに分かれそうです。どうも絵が堅い・・、版画のような感じすると評価される方と好きだという方と・・。小生の感想は「洋間には合う絵ですが、どこか日本の居間にあそぐわない絵」・・。



海外受けする作品に没頭していて、本来日本が目指すべき新境地は開けなかった点では大観や栖鳳には劣るのでしょう。



ただ渡辺省亭の双幅の作品は珍しいので貴重な作品には相違ないですね。



作品の作品の保存状態も良くようです。洋間に掛け軸を飾るスペースがあったら、ぴったりの作品でしょう。





黄初平 その3 寺崎廣業筆 その53

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久方ぶりに子供の遊び場と義父の昼寝場所と化した茶室の掛け軸を変えました。ついでに香炉も・・。



上記の作品は以前に古清水のように紹介して投稿しましたが、それは恥ずかしながら間違いです。どうも近代の清水らしいです。色絵部分の釉薬がうすく、透けてその下が見えるのが判別の大きなポイントのようです。基本的なことを知らずにいたのは赤面の至り・・。ともかく骨董は毎日が新しい知識に巡り合うことばかりです。

本日は本ブログではお馴染みの郷里出身の画家の寺崎廣業の作品です。小作品ばかりですが、もはや「その53」となり、福田豊四郎、源内焼、浜田庄司らと並ぶ作品数になりました。

黄初平 その3 寺崎廣業筆 その53
紙本水墨軸装 軸先竹製 合箱入
全体サイズ:縦950*横420 画サイズ:縦160*横270



おそらく画帳から取り出されて軸装にされた作品のようです。



寺崎廣業の描いた「黄初平」の作品は本ブログに投稿された作品でも三作品目ですので、多く描いた画題であろうかと推察されます。

凡人には岩にしか見えないものが、羊になるという逸話を描いた作品ですが、意図するところは奥深いもののようです。



岩が一万頭もの羊になることから「富を生む吉祥図」として好まれたようですが、実際の意図するところには「この世を支配する物質界から眼を広げよ。」という意味もあるようです。

 

当時は吉祥図として好まれたのでしょう。中国では黄大仙(道教系寺院)に本尊として祀られ、日本では黄初平は「すべての願いを叶える神」として解釈され、縁起のよい仙人として数多く描かれました。



小点ながら品の良い表具となっており、茶室の掛け軸としては、その表面的な意図よりも隠された奥深い意図の軸として扱いたいものです。



ところで茶室の床の掛け軸を掛ける高さの調整には竹のものを使いたいですね。

物質界そのものの骨董の世界、奥深いところまで学ばないといけないようです。






氏素性の解らぬ作品 銀七宝細工 蟋蟀と籠

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最近、息子が虫をみると「こわい」と言うようになりました。まだ正体不明の動く物体としてしか認識はないのでしょうが・・。小生は子供のころから虫好きでカブトムシは捕ってきては家中をブンブン飛び回って母から怒れられたものです。

郷里の家で夜に寝転んでいると、家の灯にいろんな虫がたくさん飛んできました。また樹木には酒と蜂蜜を混ぜて塗り、夜中に傘を逆さまにして集まった虫を一網打尽のごとく採ったものです。家をゴキブリが歩き回ると手にティッシュをもって、手づかみで「はい、ご苦労さん」といって潰してしまいます。

本日の作品は虫が苦手な方はどうも好きになれないでしょうが、息子が虫に慣れるためにと購入??

銀細工 蟋蟀と籠
合箱
幅130*奥行き110*高さ110(蟋蟀を除く)



虫は蟋蟀でしょうか? 色はキリギリス・・。だいぶデフォルメされています。銀で籠が作られ、七宝焼で草花や蟋蟀が作れらてるようです。重さは101g、銀そのものの値段はたいしたことはなさそうです。



虫籠は清水焼などで華麗な作品がよくありますが、富裕層向けの装飾用です。本作品は虫が苦手の方に庭で虫が鳴くのを聞きながら、室内に飾ったものでしょうか?



製作年代、作者はまったく解りませんが、よくできています。



草花もよくできています。



これは骨董か? そういう議論なら夜噺骨董談義にはもってこいの作品ですね。



骨董の作品の存在意義は後世に伝えるべき価値のあるものか否かがポイントですね。ただこれは虫に慣れるため・・??



虫の配置はいくらでも変えられます。



いつ頃に誰が作った作品でしょうか?



近年作られたように推測しますが、よくできているように思いますが・・・。

もっと評価されるべき画家 山村桃花之図 楠瓊州筆

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先週末にはまだ桜が見れるとあって、家族で近所までピクニック・・。



シートを敷いて昼食です。



風が強くて桜吹雪・・・。



近代南画も散り際が美しい・・・??

近代の南画家は富岡鉄斎で終焉したというのが定説?ですが、果たして田中一村(米邨)の南画風の作品、下村為山、そして本日投稿する楠瓊州という画家らをもっと評価すべきでしょう。

山村桃花之図 楠瓊州筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入タトウ付 
全体サイズ:横430*縦2030 画サイズ:横290*縦1320



賛には「一年十二月 殊是李春優 陽気鳥方唱 東国人自悠 桃花紅彩野 楊柳緑沿流 楽小閑暇 山村散策遊 於久寿軒 瓊州詩畫 押印」とあり、昭和元年(1926年 12月25日から昭和元年)34歳の特別な期日に描いた作品。

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楠瓊州:日本画家。広島県生。名は善二郎。田中柏陰の門下。京都に出て、服部五老・江上瓊山に師事し南画を学ぶ。富岡鉄斎・浦上玉堂を研鑽し、晩年梅原龍三郎や中川一政らの影響も受け、油彩や水彩、南画の融合を試みた。また詩書・篆刻・和歌も能くした。昭和31年(1956)歿、64才



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絵全体がぼや~とした感じがするのが楠瓊州の作品の特徴と言えます。多くの作品を集めるとノイローゼになりそう? よって春の作品のように花曇りのようにぼやけているのがお似合いのようです。



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補足

世の中には、満ちあふれた素晴らしい才能を持ちながらも、いつしか時の流れの中に、忘れられ、遂には消えていってしまった画家が何人もいます。この二人の南画家、下村為山と楠瓊州もまさにそんな画家です。ともに己の信念を押し通して、どの画壇、団体にも属さず、いささか、頑なに偏して生きた人達だとも言えましょう。



楠瓊州は明冶25年2月、広島県尾道市に生まれる。高等小学校を卒業後、服部五老の内弟子となって絵の修行に励むが、父の急逝により、尾道に戻り家業を継ぐ。その後再び京都に赴き南画家江上瓊山に師事。尾道に戻った後、23歳で画家として立つべく札幌に渡るが、大正7年には東京に転居。飛鳥山にほど近い北区西ヶ原で、亡くなるまでの約40年間おびただしい画作を続けた。



南画の基調である水墨山水画を出発点としながら、油絵、水彩画、南画の長所もあわせた新日本画の確立を望んでいたという。昭和31年3月24日、64歳で孤独の内に没し、画室には膨大な画稿が残されたのである。だれ一人身寄りとてなく、あばら家のセンベイ布団にくるまったまま、近所の人にも気づかれず冷たくなっていたという。



「その画家の絵は、これまで何人かの人に売られたが、それもきわめて安いうえにきわめてマレであった。よくそれで生きられたと思うが、晩年は書いた絵を友人のところへ持って来ては、米にかえ、金のかたとし、細々と生き延びて絵をかき続けたという。




もっとも、コレだけのことなら、気の毒とはいってもたいして不思議ではなく不精な絵かきの中にはありそうなことである。またコレという画才もなく、生活の才覚もないのなら、やむおえぬ運命かもしれぬ。しかしこの画家は生活の才覚は無かったかも知れぬが、決してただの無能の画家では無かった。いや、それどころか、この晩年の困窮の中で、しだいに画境を純化し、何のとらわれも無い自然な境地に立ち至り続々と興味ある画作を書き残したのである。



数日前、知人からの話でその晩期の遺作の何十点かを見た私は、このあばら家の画家が晩年の孤独のうちに上りつめていた画の世界の純度に驚いた。困窮生活にかかわらず、少しも貧乏くさいところがなく、甘美な情緒さえたたえ、力まず、気取らず、よごれず、遥々とし美の国に遊んでいる。



絵のかき方は南画だが、南画といっても児童画のような自由さをはらみ、香り高い色感をもっている。よくもこの境地まで行ったものだ。世間に画家は多いし、えらい人も多い。しかし、その中でこの名も無く貧しい画家がひとり静かに実現しているものは、決して見過ごすべきものではない、画家らしい画家のひとりがこんなところにもいたことを私は喜ぶ。その画家の名は楠瓊州である。」



当代一流の美術評論家でもある河北倫明氏のこの一文は、思わぬ反響を呼び、後に国立近代美術館主催の「近代における文人画展」や、また氏が館長をつとめる京都近代美術館での「異色の水墨画展」への遺作九十余展に発展したというのである。

元総理の宮沢喜一さんが惚れ、美術評論家の河北倫明氏が褒め、そして有名な 書家上田桑鳩氏が熱愛した人物。

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なんとも曖昧な、ぼんやりした感じのする絵を描きます。好みによりましょうが、このような一種独特の風景画が彼独自の個性を生み出しています。

床に掛けて、過ぎ行く春を懐かしみ「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と吟じて鑑賞するのも 一興でしょう。



富岡鉄斎、下村為山、田中米邨のような強さ、鋭さはありませんが、「甘美な情緒さえたたえ、力まず、気取らず、よごれず、遥々とし美の国に遊んでいる。」という評は言いえて妙です。

本ブログで紹介するまでもなく「もっと評価されるべき画家」に相違ありません。

絵刷毛目茶碗 浜田庄司作 その1

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手摺取り付け用につくった本棚の一部を息子に開放・・。絵本の本棚になりました。自分で整理するのが嬉しそうです。今のところは絵本が大好きなようです。



本日は浜田庄司の作品ですが、浜田庄司の作品で人気の高いのは沖縄の壷屋焼のような赤絵を取り入れた赤絵の器、大皿などの釉薬の流し掛け、そして本作品のような塩釉と色釉のコンビネーションの器でしょうね。

改装した茶室の「席開き」でお薄に使ったお茶碗ですが、当方では浜田庄司の作品の中で一番最初に入手した作品でもあります。

絵刷毛目茶碗 浜田庄司作 その1(整理番号)
共箱 
口径121*高さ105*高台60



浜田庄司と塩釉の関わりについては本ブログの他の記事で述べましたので省略しますが、本作品を味わうのにはその技巧をきちんと理解しておく必要があります。

陶磁器の製法についてきちんと理解している人は意外に少ないものです。



単なる塩釉の作品なら浜田庄司にも数多くありますが、このような色釉とのコンビネーションによる作品は少ないと思います。



浜田庄司の茶碗については、茶器として使用するには賛否両論があるでしょうが、浜田庄司の作品の魅力はなんといっても釉薬の妙味ですね。この妙味は民藝でありながら品が高く、他の茶器を圧倒します。



侘びさびが茶道の基本というものでしょうが、本来の侘びさびは人間本来の人格の表現のように思います。浜田庄司の作品自体は銘のない民藝の作であり、そこには無地のもの。どう描くかは捌く人の器量のように思います。主張の少ないいい茶碗だと小生は思います。



高台の周囲には貝の跡があるのが浜田庄司の塩釉の作品の特徴です。



浜田庄司は作品には決して銘はありません。それゆえ箱が重要になりますが、繰り返しになりますが箱の偽物はたくさんあります。

朱肉が特注で独特の鈍い朱色になっていますので、鮮明な赤色の朱肉を使った印の箱は贋作です。印章は初期以外は一種類のみ。

また他の印によっては工房作品となりますので、たとえ本人の箱書きでも工房作品は評価が下がります。



印章がちょっとでも違う点があったら贋作と判断していいでしょう。慣れてくると作品のみで真贋が解るようになるようです。インターネットオークションでの入手は可能ですが、ほとんど贋作ですので、本作品の印章や箱書と比べてよく見極められるといいでしょう。小生の眼力では見極めが難しいようです・・・。

さて作品の整理はちょっと休息かな・・。息子のように整理が愉しくてしかたがないというのが、本来の趣味の世界の愉しみ方ですが、最近は整理に慌くばたばたしすぎました。

朱鐘馗之図 吉村周山筆 その2

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なにかと気忙しい3月で、展示室の展示も展示替えができずにいますが、照明を暗くして愉しんでいます。



階段部分も・・。



本日は端午の節句を控えて吉村周山の「鐘馗様」の掛け軸の紹介ですが、本来は吉村周山は狩野派の絵師でありながら根付で有名な人です。

周山の生み出した根付の作品は200年以上たった今も海外を含め幾多の人々を引き付けてやみません。「根付の曾我蕭白」と称していいと小生は思っています。

朱鐘馗之図 吉村周山筆 その2 
絹本朱墨 軸先骨 所蔵合箱
全体サイズ:縦1940*横502 画サイズ:縦1004*横391



落款には「端午正春 法眼周山探僊叟筆 押印」とあり、最晩年の作であることが解ります。「探興斎」の朱文方印が押印されています。

  

本ブログに投稿した吉村周山の作品「その1」は下記の作品です。根付の作例はこちらのリンク先を参考にして下さい。

鶏之図 吉村周山筆 その1 
紙本水墨 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦2010*横650 画サイズ:縦1350*横510

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吉村周山:生年: 生年不詳~没年:安永2年(1773)歿、73才。 江戸中期の画家、根付師。大坂の人。名を充興,通称を周次郎といい、別号に探仙叟・探興斎、法眼を称しました。



性川充信に絵を学び、中国の神話や神仙伝に取材した作品を多く遺しています。江戸時代中期に大坂で活躍した画家。橘守国、大岡春卜に次いで大坂で活躍した狩野派系画家として知られ、多くの門弟を養成し、江戸中・後期の大坂における狩野派系画家の隆盛の基礎を築きました。



門弟の中では、森周峰(森狙仙の兄で、森徹山の実父)が知られています。一方、懐徳堂の三宅春楼、中井竹山らとの交流もあったようで、周山の作品にこれらの儒者が着賛した作品も、しばしば見受けられます。



彫刻を得意とし、特に根付師として著名です。三宅春楼・中井竹山・履軒らと交わっています。彼の根付は檜の古材に彫刻をほどこし,さらに彩色を加えたもので、数多い根付師のなかでも独特の作風を築いています。

自らの作品に銘を刻むことがなかったため、周山作と確認できるものは少ないとのことです。



絵師でありながら根付彫りをし、檜に漆で磨きをかけ色とりどりに染色された仙人列伝や山海経をモチーフにした斬新で大振りな根付は迫力あるものです。海外における蒐集家及び研究家らから最も重要かつ古典的根付師として評価されています。

吉村周山なくしては、根付を語る無かれとも言われているそうです。吉村周山は狩野派の画家で弟子もかかえ、法眼を叙せられた一流の絵師の立場であり、狩野派の絵師として一派の狭苦しい格式重視の伝統に縛られており、主題、扱い、あるいは様式が限定されていましたが、一方で周山は、根付彫刻として、様式にとらわれない作風を遺しました。

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画家としての吉村周山の評価は非常に低いものです。平成14年10月15日放送のテレビ番組「なんでも鑑定団」に吉村周山の墨で書かれた屏風絵の本物が出品され、70万円の鑑定額であったとそうです。なんでも鑑定団において、大きな作品である屏風がこのような評価金額ですから、水墨の掛け軸などは数千円のものでしょう。



箱には「法眼周山探仙叟鐘馗之掛物先祖ヨリ伝来之箱大破ニ及候ニ付 明治三十一年七月更に調整ス 玉井健次郎識之」とあります。



「箱大破」?・・、「調整」?・・・、ある程度修復したのでしょうが、現在は軸先も無く、天地は虫に食われ孔があいています。さて小生はどうしたらいのであろうか。根付ならともかく掛け軸・・・。



根付に自由奔放な作行を見せながら、本職ともいうべき絵画では狩野派という枠に縛られた画家です。ただ「鐘馗」というが画題ゆえ「作品その1 鶏之図」とともに根付にみられる奔放さの片鱗が見える作品です。



締め直しなどしないで軸装はそのままとし、軸先のみの取り付け補修とするのが正解かな? 虫喰穴は裏から補修・・。これらは本職に依頼せざるえません。



九谷 徳利&お猪口

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土曜日の臨時投稿です。

庭から取ってきた椿を眺めながら本日は閑話休題・・・、骨董といえるかどうかは多少疑問? 夜噺骨董談義としては気軽な作品を取り上げてみました。



家内が家の戸棚の整理していて、面白い徳利とお猪口を見つけ出し「これはどう?」。

まずは達磨の徳利とお猪口のセット。なんとお猪口は達磨と福娘のセットです。いや~、よくできていますね。こんなのが大量に作られた良き時代があったのでしょう。宴会の時に愉しかったでしょうね。インターネットで検索してみると「夫婦達磨徳利」と称するもののようです。



徳利の上にお猪口。最初は達磨、一個のお猪口をとると福娘・・。達磨と福娘は見立てなどで組み合わせられる画題でもあります。



お猪口の内側は「寿」と「福」の字が書かれています。粋とはいかなくても遊び心は充分。上記リンク先の作品には達磨のお猪口の内側には「俺リャ 九十九まで」、幅娘のお猪口の内側には「アタシャ百まで」の朱文字が記されているようです。



高台内には「九谷」。箱もなにもないので、なにかでとっておいた安っぽい桐箱?に収納。この作品は捨てがたい・・・。



さらには七福神のセットのお猪口。絵だけでの七福神のお猪口はよくありますが、型で作ったリアルな顔の七福神のお猪口セットは初めて見ました。



明治以降の九谷の陶磁器には見るべきものはないというのが実感ですが、この遊び心は今となっては面白いものです。おそらく昭和初めの頃のものではないかと思います。



顔の表情が面白いですね。



ひとつだけです、同じような作りで外側には鬼、内側には福娘・・、要は「鬼は外、福は内」ですね。角と顎で三足になっています。



さらにはいろんなお猪口があるようです。郷里にも古い箱にはたくさんのお猪口がありますが、自宅での大勢での宴会に用いたものでしょう。総じてお猪口は揃いものですが、欠けているものが多いです。酔ってぶつけたりすることが多かったのでしょう。これらを補修するのは結構たいへんです。

これらの作品は決して小生の好みではありませんが、捨てがたい作品群であることのは相違ありません。「どう?」と家内に言われても、整理や修理でまた本筋の作品らの整理が追いつかなくなるだけ・・・。



窓からの景色も暖かくなってきました。家に閉じこもっていては精神衛生上よくないようです。

田園交響音楽 福田豊四郎筆 その50

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故郷は遠きにて思いを馳せるのが一番良いのかもしれませんが、このたびの地震のように災害などの危惧する事項の場合は、居ても立っても居られないが故郷への思いでしょう。

さて本日は福田豊四郎の作品の中でもお気に入りの作品のひとつです。郷里の骨董店で「十和田湖」というほぼ同じ大きさの額装の作品と同時に購入した作品です。

田園交響音楽 福田豊四郎筆 その50
紙本着色額装 共シール 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦 (寸法未測定) 12号程度



購入時は小生より家内がこの作品を気に入り、家内が二作品の購入金額の3分の1ほどを負担しました。小生は思いで深い「十和田湖」が欲しかったので、二点とも購入した次第です。



購入時は安い値段ではないのでかなりの覚悟?が要りますが、家内と相談して購入するというのはいいことだと思います。思い出が作品に込められることになります。夫婦間で内緒で購入するなどということは止めたほうがいいと思います。



夏の日の夜、縁側で涼みながら文庫本でも読みながら横になり、目の前の田んぼから賑やかな蛙の鳴く音を聞きながら過ごす時間のなんと貴重なことか・・。



縁側で涼む、蛙の音色を愉しむ、なにものにもとらわれない自由な時間、現代の都会では想像もつかない贅沢な時の過ごし方です。



マンションなどの部屋に聞こえてくる電車や車の音、もしくは何も聞こえない生活はなんと貧しいことか・・。一戸建てにしてもなにも季節の音はなにも聞こえてこない。たまに蝉の音くらいか? 田舎の蛙の啼く音はまさしくオーケストラ・・。



この作品は郷里の玄関に飾っています。さて、連休、お盆は田舎にまた帰ろう。

福田豊四郎のカエルを描いた作品としては以前に下記の作品を紹介しています。

蛙の音楽隊 福田豊四郎筆 その17
ペン画水墨 紙本水墨額装 紙タトウ
全体サイズ:縦303*横395 画サイズ:縦140*横190



郷里の友人の同級生の告別式参列のための郷里への日帰り、来る夏への郷愁の思いがまた募る・・。

静汀水禽図 木島桜谷筆 その6

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クマガイソウの咲く頃にあわせて週末には茶室で有志によるお茶のお稽古を行なうことになりました。



この頃には牡丹も花咲く頃です。



白い牡丹はまだ早かったかな?



クマガイソウは満開?



昨年のブログで詳しく記述しましたので、今回は詳細は省略しますが、蘭の種類の珍しい植物らしい。



皆さんで鑑賞・・・。



鑑賞後は茶室へ・・。



我が家のガイドは息子・・。



障子の説明? 否、遊び方の説明らしい。

本日の作品は木島桜谷の作品です。

本ブログで何度か投稿されている画家の木島桜谷ですので、詳細の説明は他の投稿を参考にして下さい。ところで「木島」は「きじま」ではなく「このしま」と読みます。

静汀水禽図 木島桜谷筆 その6
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横542*縦1965 画サイズ:横412*縦1190



「大正辛酉(かのととり、しんゆう)秋日」とあり、大正10年(1921年)、木島桜谷44歳頃の作品と推察されます。

 

木島桜谷の作品は初期、中期、晩期でガラリと画風が変わっているそうです。初期は正統的な四条派の画風を受け継いだ絵を描いていますが、中期には琳派の画風を取り入れたり、西洋風の写実的な作品を描いたりしています。晩期は南画風の文人画が多くなっています。

 

初期はおそらく明治期の作品でしょう。今尾景年塾を代表する画家として成長して行く過程で、四条・円山派の流れをくんだ写生を基本とし、また動物画を得意としていました。



彼の代表作である「寒月」という作品が大正元年の第六回文展に出品され、これ以降の大正年間が中期の作風でしょうが、夏目漱石がこの作品を酷評することとなります。

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インターネット上の説明文には

第六回文展に評論記事を連載した夏目漱石は、「木島櫻谷氏は去年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持ち悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於いては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と夫から狐だかなんだかの動物が一匹いる。其月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。所が動物はいえ昼間ですと答えている。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である。」と酷評された。

また、横山大観は後年この受賞について、審査員内で第2等賞内の席次を決める際、大観が安田靫彦の『夢殿』を第1席に推すと、景年が『寒月』を第1席にしないと審査員をやめると抗議し、その場で辞表を書いて提出したため、大観が妥協したと回想している。

(結局「寒月」が題1席となっています。)

漱石が辛い評価をした理由は不明だが、「写真屋の背景」という言い方から、留学時代泰西の名画を多く見てきた漱石にとって、桜谷の絵は西洋絵画的写実を取り入れたことによって生じる日本画らしさの欠如や矛盾、わざとらしさが鼻についたのが理由とも考えられる。当時の漱石は、絵でも書でも作為や企みが感じられるものを嫌悪する性向があり、「寒月」のような技巧を重ねた作品は、漱石の好みとは合わなかった。

しかし、明治30年代以降の日本画において、西洋絵画的な写実感の導入は重要な課題だった。先輩格にあたる竹内栖鳳が先鞭をつけ、桜谷の制作も同じ方向性の上に成り立っている。桜谷は「寒月」において、竹林を描くのに当時新たに開発された荒い粒子をもった岩絵具を用い、巧みな付立て技法で明暗・濃淡に微妙に変化をつける事で、日本画でありながらザラザラとした物質感を感じさせる油絵のようなマティエール(絵肌)と、劇的なリアリティの表出に成功している。

と記述されています。(以前の作品の説明と重複しています)

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「寒月}は伝統的な日本画の屏風絵の画面構成や空間処理を離れ、写真を思わせるリアルなタッチで描かれグラフィックデザイン的な人工性を感じさせるのは事実でしょうが、全体として調和が取れた木島桜谷の代表作と現在は評価されています。



本作品もその中期の作風の頃の作品となります。



竹内栖鳳と京都画壇の人気をわけ、華々しく注目される画家となりましたが、それ以後は師である今尾景年の過剰なまでの推薦が反動となって画壇から嫌われ、熟達した筆技も過小評価されて再び台頭することはありませんでした。

昭和に入ると平明な筆意の作風となり、帝展にも変わらず出品を重ねますが、昭和8年(1933年)の第一四回帝展を最後に衣笠村に隠棲、漢籍を愛し詩文に親しむ晴耕雨読の生活を送ります。

昭和になってからの作風が「晩期の作風」と称されています。



その後は、やがて徐々に精神を病み、昭和13年11月13日枚方近くで京阪電車に轢かれ非業の死を遂げることになったそうです。



現在では展覧会出品作ですら多くが所在不明であり、知っている人も少ない「忘れ去られた画家」の一人ですが、今一度見直しても良い画家の一人だと思います。

本作品は軸先も無くなっており、インターネットオークション上で廉価で入手できたものです。明治期、大正期の絵のほうが小生の好みということと描かれた年代が解るものは貴重という理由での購入です。



木島桜谷をこのように初期、中期、晩期とその置かれた状況を鑑みて鑑賞するのもひとつの絵の鑑賞の仕方だと思います。とはいえ、まるで学芸員の説明のようにきちんと分類されないのが世の常でもあります。

水戸黄門公遺訓 福田古道人筆

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久方ぶりに母に会いました。皆で動画や写真をみながら大笑い・・。



息子は車椅子に興味津々・・・。



良い子にしていたご褒美に帰りは喫茶店に・・。



なんでもかんでも興味津々・・・。

日本三大遺訓をご存知でしょうか? 伊達政宗の「貞山政宗(伊達政宗)公遺訓」、言わずと知れた徳川家康の「徳川家康公遺訓」、そしてご存知水戸黄門(水戸家の当主は代々黄門様)の「水戸光圀公遺訓」です。

本日は最近アメリカなどで人気の南画家である福田古道人の書で「水戸黄門公遺訓」です。

水戸黄門公遺訓 福田古道人筆
紙本水墨 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1620*横300 画サイズ:縦850*横280



「右水戸黄門公遺訓 善秀老人嘱 古道人□□ 押印(「福田世耕」白文朱方印 「静処」朱文方印)」と記されています。

  

伊達政宗の「貞山政宗(伊達政宗)公遺訓」、徳川家康の「徳川家康公遺訓」、水戸黄門(水戸家の当主は代々黄門様)の「水戸光圀公遺訓」は下記の通りの内容です。

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「貞山政宗(伊達政宗)公遺訓」
仁に過ぐれば弱くなる。
義に過ぐれば固くなる。
礼に過ぐればへつらいとなる。
智に過ぐれば嘘を付く。
信に過ぐれば損をする。
気長く心穏やかにして万に倹約を用いて金を備なうべし。
倹約の仕方は、不自由を忍にあり この世の客にきたと思えば何の苦もなし。
朝夕の食事うまからずともほめて食うべし。
元来、客の身なれば好き嫌いは申されまし。
今日の行き送り子孫姉妹によく挨拶して娑婆の御いとま申すがよし。

「徳川家康公遺訓」
人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。
己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。

「水戸光圀公遺訓」
苦は楽のたね楽は苦のたねと知るべし 
主人と親は無理なるものと思ひ恩を忘るることなかれ 
下人はたらわぬものと知るべし 
子程に親を思い子なきものは身にくらべて近きを手本とすべし 
掟に怖じよ 分別なきものに怖じよ 
朝寝すべからず 長座すべからず 
小事もあなどらず 大事も驚くべからず 
慾と色と酒はかたきと知るべし 
九分は足らず 十分はこぼるると知るべし 
分別は堪忍にありと知るべし 
正直は一生の宝 堪忍は一生の相続 慈悲は一生の祈祷と知るべし

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本作品の文は
「正直は一生の宝 堪忍は一生の福 慈悲は一生の祈祷 苦は楽のたね楽は苦の基なるべし 主人と親は無理なるものと思へ 下人は足らぬものと知るべし 子を思う程親を思へ 子なきものは身にくらべて近きを手本とすべし 掟を守り火をおそれよ 色と酒と欲はかたきと知るべし 朝寝すべからず 長座すべからず 小事に分別せよ 大事も驚くべからず 九分は足らず 十分はこぼるると知るべし」



現在、福田古道人の絵の作品は大人気?です。アメリカでは高い人気ですが、意外に日本人は知らないようです。現代の日本人は日本の文化に疎いのは相変わらずのようです。



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福田古道人:漢詩人・俳人・南画家。慶応元年(1865)、新宮藩与力、中村家の次男に生まれ、同藩士の福田家を継ぐ。和歌山県生。名は世耕、漢詩に静処、南画及び和歌に古道人と号した。

福田古道人は和歌山県の熊野古道にちなんでつけた名前。俳号は把栗。少年の頃、京都に上り、鈴木百年について絵を学ぶ。まもなく東京に出て、漢詩の塾を開いた。漢詩人として早くから名を成すが、正岡子規との交遊がはじまり、終生の知己とした。のち子規門に入って俳句をはじめ、特異な風格を示した。

京都に住んだが、昭和10年5月頃、山形県に長く逗留して多くの絵や書を書き残している。山形県寒河江市近隣には、たくさん絵や書を残されてるらしい。静処は、漢詩を最も得意とし、書・画・俳句・和歌の、いずれにも優れていた。渡瀬凌雲も漢詩を学んだ一人である。

紀州のみならず、全国的に高く評価されている文人である。近代南画家の大家と言える。アメリカで人気が高い。独特の色使いで、常識とは少し異なるが、それが非常に人気がある。昭和19年(1944)歿、80才。

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「子程に親を思い」など胸に突き刺さるような言葉です。

倹約の仕方は、不自由を忍にあり この世の客にきたと思えば何の苦もなし。
朝夕の食事うまからずともほめて食うべし。元来、客の身なれば好き嫌いは申されまし。
今日の行き送り子孫姉妹によく挨拶して娑婆の御いとま申すがよし。

堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。
己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。

朝寝すべからず 長座すべからず 
小事もあなどらず 大事も驚くべからず

正直は一生の宝 堪忍は一生の相続 慈悲は一生の祈祷と知るべし

今になって解ることが多いもの 

このような内容の書は簡素な紙表具蛾に似合います。



そういえば祖父が作った家訓があったことを思い出しました。叔父のところにあった額に飾った書を写し、現場で知り合った書家(機会のオペレータ)に書にしてもらったもの。たしか「上みてすすめ、下みて暮らせ」云々・・・。郷里にあるはず・・・どこへいった?

源内焼 その77 緑釉羅漢虎図長皿

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クマガイソウの咲く時期の茶室の現在の展示です。



棚は祥瑞手の香合。最近アクセスの多い作品です。



周窯の香炉・・・。



床は荒川豊蔵の晩年に水月窯で製作した花入に中林竹渓の軸です。



クマガイソウが主役なので花は活けていません。



本日は源内焼の作品の紹介です。

以前に投稿した源内焼の作品NO63ですが、名称を「三彩蓮花香炉」としましたが、どうも「三彩富貴頭香炉」ではないかとも・・・。

思文閣のオークションリストに掲載された永楽和全の作品が同じような形でそのような名称でしたが、未だに確証はありません。ちなみに永楽和全の作品は香炉ではなく食籠です。蓋に穴が空いていなければ、本作品も食籠かもしれませんでしたが・・。ただしこの穴の開いている部分が蓮に見立てられますのでやはりそのままの名称が正しいように思います。

源内焼 その63 三彩蓮花香炉
合箱
最大幅94*高さ79



多岐に渉る作品が存在する源内焼ですが、基本的に陽刻であること、型が繊細でしっかりしていること、胎土が楽焼に近いことなどから判断しないと、ネットオークションのようになんでもかんでも源内焼と称されるのは他の焼き物を混同してしましますね。

源内焼 その77 緑釉羅漢虎図長皿
合箱
幅210*奥行135*高さ34



地図皿のような飾り用のもの以外に以外に実用的な源内焼が私は好きです。



1000万もの高値の源内焼の地図皿は高嶺の華ですね。とっともその10分の1からが妥当な取引価格であり、そのよう値段では誰も買い取ってくれません。



骨董の価格は蒐集する者が決めるべきであって、商売人が決めるものではありません。ましてや「なんでも鑑定団」などのようなやらせの番組の値段を信用してはいけないように思います。



さて、三彩の釉薬がかかった作品が多い源内焼で緑釉だけの作品ですが、意外に味わい深いものです。



源内焼にはこのような長皿の形状も多くあり、揃いで集めて使うのもいいですね。



現れてくる文様を楽しみながらの食事もまたいいものです。



あっというまに紋様が見えるのではなく少しずつ見えてくる趣向などはどうでしょう。



各人違う文様の皿なども面白いのでは・・。



酔って虎になって絡むようになっていけませんね。酔狂というもの、否、粋興というもの・・・。



贋作考 鐘馗図 伝橋本雅邦筆

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二階の展示は端午の節句の作品関連で郷里に由来の作品を展示してみました。



蓑虫山人の「鯉」や平福穂庵、倉田松濤の「鐘馗図」・・・、源内焼を数点。



福田豊四郎の「富士」・・。



蒐集していた幾つかの「鐘馗図」を引っ張り出してはどれを飾ろうかと見比べてたところ・・・。



休日には息子が小生の脇から離れませんので、作品整理がなかなかはかどりません。作品の写真撮影をも息子が自分がやるといってだたをこね、記念撮影をすると言ってごまかしながらの写真撮影をしながらの作品整理です。

家内達が子供の相手をしてくれるようにするのですが、小生の姿が見えなくなるとすぐに小生を探し始める始末・・。このようなはかどらないことを愉しむ心の余裕が必要です。

本日は「鐘馗図」の作品の中から伝橋本雅邦の作品への考察です。ところで小生のブログを難解と嘆く御仁がおられるようですが、同じ趣味をもたれている方には実に基本的な事項ですので、趣味の異なる方には悪しからず・・・。 

鐘馗図 伝橋本雅邦筆
絹本水墨軸装 軸先象牙 合箱 
全体サイズ:横445*縦1710 画サイズ:横330*縦835



落款には「押印:(「克己」の主文長方印) 行年六十五歳雅邦圖之 押印:(「橋本雅邦」の白文朱方印と「勝園」の朱文白方印)」とあり、1900年(明治33年)の作と推察されます。

明治31年(1898年)には岡倉天心が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加していた直後となります。

 

これらの印章からだけでは真贋は難しい判断となります。画家として高名であり、印章や落款を模倣するくらいは贋作作りには常套手段であろうと推察されるからです。

印章に用いられている「勝園」は橋本雅邦が狩野勝川院雅信に師事していた頃の号で、同じ門下の狩野芳崖は「勝海」と号していました。

下記の思文閣墨蹟資料目録「和の美」(第  号 作品NO52 「蓬莱朝陽図」)の記事を参照にして下さい。



大きさの違う写真での比較で解りにくいですが、ここでは比較しませんが、他の贋作作品に押印されている「勝園」の印章よりは似ているようです。「勝園」の偽印章が存在するということです。

徐々に手元に資料が揃うことでいろんなことが解るのが趣味の醍醐味です。骨董を生業とする方のように手元に資料があって、すぐに解るというのは、骨董蒐集する者にとっては実に味気の無いことなのです。

資料と比較して、「これは贋作だよ。」という御仁には骨董蒐集の素人の愉しみ方はわからないものです。本当の楽しみを理解している御仁は「結構な作品ですね。」と笑って答えるらしい・・、ただし本物ですねとは答えないらしい

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雅邦の父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師であり、木挽町狩野家当主晴川院養信(せいせんいん おさのぶ)の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。このため雅邦は天保6年にこの木挽町狩野家の邸内に生まれている。

慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、12歳の時正式に父と同じく養信に入門する。ただし養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師としたと見てよい。

この時同日に狩野芳崖も入門しており、7歳年上で穏和な人柄の雅邦と激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。両者は早くも頭角をあらわし、安政4年(1857年)23歳で塾頭となる。芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めた。

安政7年(1860年)雅邦の号をもらって絵師として独立を許され、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。しかし当時既に絵画の需要は少なく、また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。

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なお「雅邦」の号になって以降も「勝園」の印章・落款は使われてるようです。



橋本雅邦の作品の真贋判定には信頼の置ける画集掲載などが必要だと聞いたこともあります。ときには川合玉堂の信頼性の高い鑑定書(下記のような書付)や子息の橋本秀邦の鑑定書が必要です。ただこの二人の鑑定にも贋作が多いのでよくよく注意が必要のようです。



当方は端午の節句の縁起物として鐘馗図を蒐集しているのですが、素人にとっては面白い作品だと思います。



ともかく橋本雅邦は著名な画家ゆえに贋作が多いのですが、現在は本物でも作品のお値段はかなり安くなっています。贋作をどうのこうのいうほど高い売買はされなくなりました。



まともな値段になってきたということでしょう。



われわれ庶民も席画程度なら入手して愉しめるようになってきました。



ある一定のレベルになると掛け軸において出来のよいものをほんものか、にせものかと騒ぎ立てるのは大人気ないことになりつつあります。



いつものように結論は同じこと・・・、要は「いいものはいい、悪いものは悪い」、その点においては本日の作品はいいもの・・




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