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Channel: 夜噺骨董談義
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骨董の普段使い

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先週に続いて週末の臨時投稿です。

端午の節句に備えて展示替えに本腰を入れ始めました。「あれはどこ?」 「こんなのない?」そんな家内との会話で忙しいところへ「パパ~」と息子の声・・、さっぱり進みません。

作品を整理する中に自作の作品がありますが、茶碗らしき箱の中からこんなのが出てきました。



秋田市の平野氏の保戸野窯で作った瀬戸釉の平茶碗らしきものです。作ったのは平成元年頃かなと当時に思いを馳せました。



茶碗は手づくねというこだわりというか、またろくに轆轤を使えないという理由もあり、一心不乱に手づくねの半乾きの状態の胎土を削って形を作った覚えがあります。



仕事のストレスを忘れて週末を過ごしたものです。銅部分の×印はストレスの問題をひとつずつ・・・

高台には当時の指の跡・・。



当時に思いを馳せているとますます整理が進まないどころか、当時作った作品の保存箱が散らかったまま・・。自作の作品は機会があったらまた・・。



本日は自作の作品とともにあった雑器の投稿です。

まずはちょっと探すとよく骨董市に並んでいる器達。最初は大徳利・・。



明治期になると、大衆が陶磁器を食器として使い出し、伊万里の器が大量生産となります。伊万里だけでは間に合わなくなり、あちこちの窯場で普段使いの磁器が焼かれました。そのひとつがこの大きな徳利でしょう。



醤油、油、酒などいろいろな用途に使われたようです。義母によると口の周りに縄を巻いたり、棒二本ではさんで支えて、お湯に入れて熱燗にしたそうです。それを小さな徳利に分けたとか・・、なるほど・・。



なんともおおらかな徳利です。今でも骨董屋の店先に無造作にたくさん置いてあります。値段は数千円・・(なはず?)



魅力はその絵付け。花活けによさそうですが、花入れに徳利が抵抗のある方は徳利そのものに・・。



次も普段使いに使いたい漆器たち。 



梨地のちょっと高級な高付の菓子皿。お月見に・・。



真塗の無地の塗盆。無地は使い勝手がいい。もちろんムクの木で本漆がいい。



碗も揃いの漆塗りがいい。



もるん真塗の無地がいいですが、ちょっとしたデザインのあるものも使って愉しく、デザインの出来が作品の良し悪しを決めますね。



これらの作品は今ではネットオークションで安く入手できる品々です。きっと近いうちに私は骨董店は不要になると思っています。骨董店はネットオークションというツールで良心的な商いの場として変身していくでしょう。「良心的」というのが課題ですが・・。

インターネットでのビジネスはこれからの骨董の主流になるでしょう。

さて、夏にはこの平茶碗で一服とするか。

李白之図 平福穂庵筆

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家内が買ってきた三人のお揃いのセーターですが、どうも息子がお気に入りらしい。



李白には二人の息子がいたらしいです。

本日は郷里の画家である平福穂庵の作品です。平福穂庵の作品は数が少ないのか、きちんと描かれた作品は非常に入手が難しいですね。

李白之図 平福穂庵筆
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横650*縦2080 画サイズ:横500*縦1220



本作品は「穂庵」(白文朱方印)、「芸」(朱文白方印)の印章を用いている。「長安市上一杯裡別天地非人写 明治十九年夏五月 穂庵小芸併内書」とあり、1886年、穂庵が44歳頃の作。

 

平福穂庵は明治23年12月11日に死去しており、享年47歳です。44歳の作となると晩年の作と言われています



「乞食図」のような自由奔放な、墨一色で自在に描いた作品が好きという人と四条派のように色彩豊かな晩年の作が好きという人と平福穂庵の作品に対しては好みが二手に分かれるようです。



自由奔放に描かれた作品は作品の数は多く、入手も可能ですが色彩豊かな作品はなかなか入手できません。



画題の李白の家族に関する記述は少なく、李白は許夫人との間に2人の子をもうけたようですが、夫人とは後に死別したとされたといわれています。



本作品がその子供らと李白を描いた作品かどうかは解っていません。



その後、南陵の劉氏を娶っていますが、これは後に離婚したと考えられています。



さらに東魯の某氏を側室に迎え、その間に末子の李頗黎を儲けたと言うから、子供は三人いることになります。描かれているのも三人ですね。



また50歳を過ぎて、洛陽で中宗の宰相であった宗楚客の孫娘、宗氏を継室として娶ったと言われています。



実に描かれている作品です。皆さんご存知の作品だる「乳虎図」は明治23(1890)年の第三回内国勧業博覧会で妙技二等賞を受賞した平福穂庵が亡くなった年に描かれた彼の代表作です。



ここにも子供が3匹・・・・。



これらの色彩画からも平福穂庵がただならぬ画家であることがうかがえます。

本ブログでも紹介している渡辺省亭が親友と呼べる画家は平福穂庵(平福百穂の父)と菅原白龍くらいでであった理由のひとつが「師である菊池容斎が、他人の悪口ばかり言いあう画家と交際するよりも一芸に秀でた者と交われ、との教えを守ったためとする説」というのも頷けます。



なにはともあれ、こういう作品は後世に、とくに郷里には伝えたい逸品です。



表具にはがれやうきが発生しています。さて、これもどうしたらいいものやら・・。

前赤壁之賦 奥原晴湖筆 その3

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昭和60年頃に盛岡に赴任した頃に南部窯で製作した茶碗が出てきて、家内に今年の初窯に使ってもらえました。



出来がいいというよりは、クマガイソウが咲く頃なのでちょうどよいということのようでした。



息子がひっくりかえした高台を撮影していると、高台内の字を見て「これな~に?」だと・・。「パパ}とこたえると「????}らしい。



カリッと焼けているのが小生はお気に入り・・。



さて本日は奥原晴湖の三作品目の紹介です。

奥原晴湖は、幕末から明治期の画家で、野口小蘋とともに明治の女流南画家の双璧といわれ、また安田老山と関東南画壇の人気を二分した画家です。詳細は他の二作品にて紹介が済んでいますので省略しますが、男まさりの女性の南画家です。

この写真が女性???



前赤壁之賦 奥原晴湖筆 その3
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2020*横670 画サイズ:縦1300*横520



木戸孝允や山内容堂の庇護を得て多くの文人と交流し、明治3年(1870年)、家塾を開くが最盛期には門人は300人を超えたといわれています。しかし、明治15年(1882年)のフェノロサの講演「美術真説」以降文人画の人気が低迷し、明治24年(1891年)、55歳のときに東京を払って、成田村上川上(埼玉県熊谷市)へ隠棲しています。それ以来、豪放磊落な画風から謹厳精緻な画風に変わっていきます。

豪放磊落な大味な作品も魅力ですが、小生の感想では駄作も多く、それなりに作品を見極めて選ぶ必要があるようです。

画題の「前赤壁之賦」は言わずと知れた「蘇東坡」の有名な詩です。蘇東坡の詳細は富岡鉄斎の作品紹介でも記述しましたので、ここでは省略させていただきます。

本日は「前赤壁賦」を作品とともに記述してみました。

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前赤壁賦         蘇 東 坡(蘇子瞻)

元豊5年(1082)、黄州に流されてから3年目の秋、7月の16日に、蘇軾は同郷蜀の道士楊世昌とともに、長江に船を浮かべて、赤壁に遊んだ。

赤壁とは、三国志に出てくる戦場として名高い長江流域の名所であるが、蘇軾が遊んだ赤壁は実際の赤壁ではなく、黄州近在の場所であり、実際の赤壁よりはずっと下流にあった。蘇軾はこうした歴史的な事情は十分わかったうえで、そこがあたかも本当の赤壁であるかの如くに装って、この譜を書いたのである。

譜とは韻文ではないが一定の抑揚をもった朗誦文学である。屈原の楚辞を手本にして、漢代に大いに作られ、唐代でも科挙に出題されるほどであったが、文学形式として完成させたのは蘇軾であり、赤壁譜前後二篇はその最高傑作とされるものである。



  壬戌之秋      壬戌の秋
  七月既望      七月既望
  蘇子與客泛舟    蘇子客と舟を泛べ
  遊於赤壁之下    赤壁の下に遊ぶ 
  清風徐來      清風徐ろに來って
  水波不興      水波興らず
  舉酒屬客      酒を舉げて客に屬め
  誦明月之詩     明月の詩を誦し
  歌窈窕之章     窈窕の章を歌ふ

壬戌の秋七月十六日、蘇子は客とともに船を浮かべて、赤壁の下に遊んだ、清風がゆるやかに吹き、水面には波が立たない、酒を取って客に進め、明月の詩を誦し、窈窕の章を歌った。


 
 少焉        少焉にして
  月出於東山之上   月東山の上に出で
  徘徊於鬥牛之間    鬥牛の間に徘徊す
  白露江      白露江にたはり
  水光接天      水光天に接す
  縱一葦之所如    一葦の如く所を縱にし
  凌萬頃之茫然    萬頃の茫然たるを凌ぐ
  浩浩乎如馮?御風  浩浩乎として?に馮り風を御して
  而不知其所止    其の止る所を知らざるが如く
  飄飄乎如遺世獨立  飄飄乎として世を遺(わす)れて獨り立ち
  羽化而登仙     羽化して登仙するが如し

しばらくして月が東山の上に出、?牛の間を徘徊した、長江の流れが白露のように光り、その光が天に接している、船は葦のように流れに任せ、はるばると広がる水面をわたっていく、譬えれば無限の空間を風に乗ってさまよい、飄飄と飛翔してそのまま羽化して仙人になった心地だ。



  於是飲酒樂甚    是に於て酒を飲んで樂しむこと甚しく
  扣舷而歌之     舷を扣って之を歌ふ
  歌曰        歌に曰く
  桂棹兮蘭将    桂の棹蘭の将
  撃空明兮溯流光   空明を撃って流光を溯る
  渺渺兮予懷     渺渺たり予が懷ひ
  望美人兮天一方   美人を天の一方に望む
  客有吹洞蕭者    客に洞蕭を吹く者有り
  倚歌而和之     歌に倚って之に和す
  其聲嗚嗚然     其の聲嗚嗚然として
  如怨如慕      怨むが如く慕ふが如く
  如泣如訴      泣くが如く訴ふるが如し
  餘音梟梟      餘音梟梟して
  不絶如縷      絶へざること縷の如し
  舞幽壑之潛蛟    幽壑の潛蛟を舞はしめ
  泣孤舟之?婦    孤舟の?婦を泣かしむ

ここに至って酒を飲み楽しむこと甚だしく、船端を叩いて歌を歌った、歌にいわく、桂の棹蘭の?、空明を?って流光を溯る、我が思いは渺渺として、天の彼方にある月を望む、その時客の中に洞蕭を吹くものがあって、歌に合わせてこれを吹いた、その音色はむせぶようで、恨むようでもあり、慕うようでもあり、泣くようでもあり、訴えるようでもあった、余韻はいつまでも消えず、糸のように細々と続き、それを聞いた幽壑の潛蛟は舞い、孤舟の?婦は泣いたのであった。



  蘇子愀然      蘇子愀然として
  正襟危坐      襟を正して危坐し
  而問客曰      客に問うて曰く
  何為其然也     何為(なんすれ)そ其れ然るやと
  客曰        客曰く
  月明星稀      月明らかに星稀に
  烏鵲南飛      烏鵲南に飛ぶ
  此非曹孟之詩乎  此れ曹孟の詩にあらずや
  西望夏口      西のかた夏口を望み
  東望武昌      東のかた武昌を望めば
  山川相繆      山川相ひ繆はり
  鬱乎蒼蒼      鬱乎として蒼蒼たり
  此非孟之     此れ孟の
  困於周郎者乎    周郎に困められしところにあらずや
  方其破荊州     方に其れ荊州を破り
  下江陵       江陵を下り
  順流而東也     流に順いて東するや
  舳艫千里      舳艫千里
  旌旗蔽空      旌旗空を蔽ふ
  醸酒臨江      酒を醸して江に臨み
  槊賦詩      槊をたへて詩を賦す
  固一世之雄也    固より一世の雄なり
  而今安在哉     而して今安くにか在らんや

蘇子愀然として、襟を正して危坐し、客にこういった、どうすればこんな情緒が出せるのかと、客答えて曰く、月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶとは曹孟の詩ではなかったか、西のかた夏口を望み、東のかた武昌を望めば、山川相ひ繆はり、鬱乎として蒼蒼たりとは、孟が周郎に苦しめられたところではなかったか、その孟は荊州を破り、江陵を下り、そこから長江を東に下って、勢い千里、艦隊の旗が空を覆うほどであった、孟は戦いに臨み酒を用意して、槊をたへて詩を賦した、まさに一世の雄と云うべき男であったのに、今はどこにいってしまっただろうか。



  況吾與子      況んや吾と子と
  漁樵於江渚之上   江渚の上に漁樵し
  侶魚蝦而友糜鹿   魚蝦を侶とし糜鹿を友とし
  駕一葉之扁舟    一葉の扁舟に駕し
  舉匏樽以相屬    匏樽を舉げて以て相ひ屬し
  寄蜉蝣與天地    蜉蝣を天地に寄す
  渺滄海之一粟    渺たること滄海の一粟なるにおいてをや
  哀吾生之須臾    吾が生の須臾たるを哀しみ
  羨長江之無窮    長江の無窮なるを羨やむ
  挾飛仙以遨遊    飛仙を挾んで以て遨遊し
  抱明月而長終    明月を抱へて長へに終はらんこと
  知不可乎驟得    驟には得べからざることを知り
  托遺響於悲風    遺響を悲風に托さんと

まして私もあなたも、江渚の上に漁樵し、魚蝦を侶とし糜鹿を友とし、一葉の扁舟に駕して、こうやって酒を飲みながら、天地の間をうろついておる、その渺たることは滄海の一粟と同じだ、自分の命の短さを悲しみ、長江の無窮なるを恨み、せめて飛仙を挾んで以て遨遊し、明月を抱へていつまでも生き続けることは、到底できないのであるから、悲しい音でも吹いて風に託すほかはない。



  蘇子曰       蘇子曰く
  客亦知夫水與月乎  客も亦夫の水と月とを知れるや
  逝者如斯      逝く者は斯くの如くなれども
  而未嘗往也     而も未だ嘗て往かざるなり
  盈虚者如彼     盈虚する者は彼の如くなれども
  而卒莫消長也    而も卒に消長する莫きなり
  蓋將自其變者而觀之 蓋し將た其の變ずる者より之を觀れば
  而天地曾不能一瞬  天地も曾て一瞬なること能はず
  自其不變者而觀之  其の變ぜざる者より之を觀れば
  則物於我皆無盡也  則ち物と我と皆盡くること無きなり
  而又何羨乎     而るを又何をか羨みんや

蘇子曰く、あなたも月と水の関係は知っておられるだろう、水は月をたたえて流れつづけ、いつまでも尽きることがない、月は水に浮かんで満ち欠けするが、消え去ることも大きくなることもない、変化の視点から宇宙を見れば、天地は一瞬たりとも止まってはいない、不動の視点から宇宙を見れば、物には尽きるということがない、それゆえそんなに恨むことはなかろう。



  且夫天地之間    且つ夫れ天地の間
  物各有主      物各おの主有り
  苟非吾之所有    苟そしも吾の所有に非ざれば
  雖一毫而莫取    一毫と雖も取るなかれ
  惟江上之清風    惟だ江上の清風と
  與山間之明月    山間の明月と
  耳得之而為聲    耳之を得て聲を為し
  目遇之而成色    目之に遇ひて色を成す
  取之無禁      之を取るも禁ずる無く
  用之不竭      之を用うれども竭きず
  是造物者之無盡藏也 是れ造物者の無盡藏にして
  而吾與子之所共適  吾と子との共に適する所なり

天地の間にあるものには、おのおの主人がある、いやしくも自分のものでないものには、手を出してはならない、ただ江上の清風と、山間の明月とは、その音を自分の耳で聞き、その姿を自分の目で見てよい、自分のものにしても差し支えないし、使ってもなくなることはない、自然が作りだした無尽蔵のものは、誰でも遠慮することはないのだ。



  客喜而笑      客喜んで笑ひ
  洗盞更酌      盞を洗って更に酌ぐ
  肴核既盡      肴核既に盡き
  杯盤狼藉      杯盤狼藉たり
  相與枕藉乎舟中   相ひともに舟中に枕藉して
  不知東方之既白   東方の既に白むを知らず

客は喜んで笑い、盞を洗って更に酌いだ、そのうち肴核も尽きて、杯盤が散らかるなか、ともに舟中に枕を並べ、夜が明けるのも気が付かなかった。



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天下の名詩文・・・。



展示室を暗くして眺めていると暖房を入れていないことに気がつき、いつのまにか暖かくなってきた気候に驚いています。

(実はこの原稿を書いたのはずいぶんと前・・

氏素性の解らぬ作品 白化粧彫絵山猫文大皿 伝バーナード・リーチ作(作者不詳) その4

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端午の節句が近いので展示も替えました。



福田豊四郎の鐘馗図をメインとした床飾りにしてみました。



棚には香道具箱、田村耕一の作品など・・。

本日の作品は小鹿田の系統の作品であることには相違ないでしょうが、バーナードリーチの作品かどうかは不明です。「BL」のサインや刻印がないとかえって安心にて見ていられる作品なのですが・・・。バーナードリーチの作品もまた贋作が多いようで、この図柄の贋作もまた存在します。私の見た贋作はかなり稚拙な作品で贋作の共箱に収められていました。

本日は作品の真贋よりもバーナード・リーチの日本での交流について調べてみました。

氏素性の解らぬ作品 白化粧彫絵山猫文大皿 伝バーナード・リーチ作(作者不詳)
口径445*高台径*高さ75



バーナード・リーチは日本のみならず陶磁器の近代史には欠かせない人物であり、その人となりを調べていくといろんなことが解ってきます。作品の好みではなくバーナード・リーチを知らずして近代陶芸を語ることはできないと思います。



資料より

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1887年(明治20年)、植民地官僚だったイギリス人の父とイギリス人の母の間に香港で生まれた。母は出産で死去したため日本にいた母方の祖父に引き取られ、関西に住んだ。リーチの祖父は京都の第三中学校や彦根中学校で英語教師をしていた。来日から4年後、植民地官僚だった父の再婚にともない香港に戻ったが、1895年、父の転勤でシンガポール移った。1897年、イギリス本土に移され教育を受ける。

《高村光太郎との出会い》

1903年、芸術家を志してロンドンの美術学校に入学するが翌年父が死んだため銀行員となり、1907年からロンドン美術学校でエッチングの技法を学んだが、ロンドン留学中の高村光太郎(高村光雲の息子)と知り合って日本に郷愁を抱くようになり、1909年(明治42年)、日本へ戻って東京・上野に居を構えた。



《柳宗悦・富本憲吉・六代尾形乾山とのい出会い》

リーチは生涯の友となる柳宗悦をはじめ白樺派の青年達と知り合いになり、1917年には彼らの本拠であった我孫子にて版画指導を行った他、イギリスで起こったウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動など西洋芸術についての議論を通して手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合った。またリーチは富本憲吉と知り合い、富本とともに訪れた上野の博覧会会場で楽焼の絵付けを始めたことをきっかけに茶道や茶道具に惹かれた。
1912年に六代尾形乾山に陶芸を学び、中国から戻った1917年、我孫子の柳の家に窯を開いて陶芸家としての一歩を踏み出した。後に七代乾山の名を免許された。



《浜田庄司との出会い》

この時リーチたちのもとを訪れた陶芸家の濱田庄司と友人になり、リーチは1920年に濱田とともにイギリスのセント・アイヴスに移り日本の伝統的な登り窯を開き、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いた。彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターした。
(*1924年、濱田は関東大震災をきっかけに帰国、栃木県益子にみずからの窯を築きます。)



 彼らは陶磁器を芸術、哲学、デザイン、工芸、そして偉大な生活様式の融合したものと見ていたが西洋人の多くは陶芸を一段低い芸術と考え、彼らの作品を当時の洗練された工業製品に比べて粗野で下手なものとみなしていた。1934年、リーチはイギリスでの陶芸全般の評価に失望し再び来日し日本民藝館設立を目指していた柳に協力した。イギリスに戻って1940年に出版した『A Potter's Book』(陶工の書)はリーチの職人としての哲学や技術、芸術家としての思想を明らかにした本でリーチの名を知らしめるもとになった。



 リーチは実用より美学的関心を優先させた純粋芸術としての陶芸に対し、実用的な日用陶器を作ることを擁護した。リーチは陶磁器に重要なのは絵画的な絵柄でも彫刻的な装飾でもなく、日用品としての用を満たす器の形状や触覚だと考えた。このため、リーチの制作スタイルは1950年代から1960年代のミッドセンチュリーのアメリカ合衆国でカウンターカルチャーやモダニズム・デザインに大きな影響を及ぼした。



 リーチは近代的で協同組合的なワークショップを運営して、一般大衆向けの手作り陶磁器のラインナップを制作することを切望していた。世界中からリーチ・ポタリーに陶芸家が弟子にやってきて、リーチの様式と信念を世界に広げていった。例えば、カナダから来た見習い陶芸家達は1970年代にかけてバンクーバーを中心としたカナダ西海岸に活発な陶芸シーンを形成した。アメリカ人の弟子たちの中にはウォレン・マッケンジー(Warren MacKenzie、彼もミネソタ大学で多くの後進の陶芸家に影響を与えた)やバイロン・テンプル(Byron Temple)、クラリー・イリアン(Clary Illian)、ジェフ・ウェストリッチ(Jeff Oestrich)といった陶芸家がいる。ニュージーランドの陶芸の第一人者レン・キャッスル(Len Castle)も1950年代半ばにイギリスへ旅しリーチと働いて大きな影響を受けた。また長年リーチの助手だったマイケル・カーデューやオーストリアで陶芸を修めた後にナチスから逃れてイギリスに渡りリーチの影響を受けたルーシー・リーらは、リーチと協力しあるいは競いながらイギリス陶芸の地位向上に努めた。
またたびたび来日し各地で作陶したほか、『Unknown Craftsman』(知られざる職人)などの書を通して民芸運動やその関連作家をイギリスに紹介、展覧会も開きその理論を解説した。



 リーチは1940年、アメリカ人画家マーク・トビーとの交友を通じバハーイー教に入信していた。1954年、イスラエルのハイファにある寺院に巡礼に行ったリーチは、「東洋と西洋をより一つにするため東洋に戻り、バハーイ教徒として、またアーティストとして私の仕事により正直になろうと努力したい」との感を強くした。

 リーチは1972年まで制作を続け、なお世界を旅して回ることをやめようとしなかった。また、リーチは視力を失っても陶芸に関する著述をやめなかった。1963年に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章。1974年には国際交流基金賞を受賞した。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館は1977年にリーチの大規模回顧展を開いたが、リーチはその2年後逝去した。リーチ・ポタリーは今なおセント・アイヴスに残り、リーチやその関係者たちの作品を展示する美術館を併設している。

下記は浜田庄司らとの写真です。

 

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バーナードリーチは、1954年(昭和29年)4月、小鹿田に約3週間滞在し、作陶を行っています。 民芸運動の中で小鹿田焼の転機となったのは、バーナード・リーチが小鹿田に来た時からだそうです。



当時67歳と既に陶芸家として大きな名声を得ていたバーナード・リーチの小鹿田での作陶と、大手デパートでの展示会は、マスコミで大きく取り上げられ、小鹿田の知名度が高まる大きな契機となったそうです。



参考作品:「鹿文大皿」(昭和29年)。

 

参考作品:「白化粧彫絵飛燕文皿」1954年 口径38.7cm 高さ8.2cm 



著名な「蛸図大皿”(1925)」もその頃の作品で、動物、植物、幾何学文などを生き生きと描いた魅力的な皿、鉢を数多く制作したそうです。

バーナードリーチの作品の参考作品として所有していますが、このような大きな皿の贋作を製作するのもたいへんだったろうねと思います

大皿の釉薬、図柄の彫り、胎土の味わいはなかなかのものです。


ロクチュディのヨット 藤本東一良画

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家内が彼岸の墓参りにために買ってきた花のひとつがつぼみのまま折れてしまって洗面所にありました。つぼみのままなので硝子の器に水を入れておきました。友人の同級生、亡くなった家内の墓参りから帰宅すると僅かながら咲き始めています。



ロクチュディのヨット 藤本東一良画
10号油彩額装 共シール タトウ入 
全体サイズ:横720*縦645 画サイズ:横530*縦455



藤本東一良:(ふじもと とういちりょう)1913年6月27日~1998年9月17日)。洋画家、



ヨーロッパの港町の微妙な陽光に彩られた風景を明るいタッチで描いている画家です。



描かれたのはフランスのブルゴーニュ地方のロクチュディという漁港の景色で、景観のよいところで有名らしい。



空と海の明るい青、白い帆が映えて美しい風景となっています。聳える灯台?がなんとも幻想的ですね。



キャンパスの裏には下記のような記されていますいます。





1946年から1954年くらいまでは「T.Huzimoto」とされ、それ以外の年代では「T.Fujimoto」と書かれている。途中でサインを変更し、また元に戻したことになる。どのような経緯があったのでしょうか。



日本画ばかりの展示スペースにたまには洋画もいいのではないかと飾っています。



さて春ですね、明るく生きましょう。

美人図 池田輝方筆 その2

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今週末より郷里に家族で帰省します。行きは花輪線経由、帰りは内陸縦断鉄道経由かな? 十和田湖、弘前、八甲田、八幡平・・・、さてどこに行こうか・・。ブログはしばし休稿となります。

先週末に家内の友人が来訪しました。



案内役は息子・・・。



なかなかの芸達者・・。



床にはクマガイソウ。



女性好きは誰の遺伝か・・・

ということで本日は滅多に投稿しない美人画・・・。

美人図 池田輝方筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横600*縦2140 画サイズ:横400*縦1220



池田輝方は師えある鏑木清方の立会いの下、池田(旧姓:榊原)蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは明治44年(1911年)に結婚したそうです。

  

池田焦園の作品と並べて展示してみています。



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池田輝方:明治16年(1883年)1月4日~大正10年(1921年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。



明治16年(1883年)1月4日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。明治28年(1895年)に水野年方に内弟子として入門。明治32年(1899年年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。



明治35年(1902年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌明治36年(1903年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。他方、鏑木清方らによって明治34年(1901年)に結成された烏合会にも、結成直後から参加、明治36年(1903年)の同会の第6回展に「暮靄」と、同門の榊原蕉園(のちの池田蕉園)をモデルとした「墨染」を、第8回展には「奥勤め」を出品した。



この年に師・清方の立会いの下、榊原蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは明治44年(1911年)に結婚した。この事件の顛末は田口掬汀によって連載記事「絵具皿」として万朝報に掲載され話題となる。この間明治40年(1907年)には川合玉堂に師事しており、風俗画に特色を示している。また、同年、浮世絵に惹かれて来日していたフランス人の浮世絵師ポール・ジャクレーに日本画を教えている。



大正3年(1914年)の第8回展では「両国」で3等賞、大正4年(1915年)の第9回展では「木挽町の今昔」で2等賞を受賞し、大正5年(1916年)の第10回展では「夕立」(山種美術館蔵)で妻の蕉園とともに特賞を得た。大正8年(1919年)の第1回帝国美術院展(帝展)では江戸時代の絵師・英一蝶の流刑を画題とした「絵師多賀朝湖流さる」(島根県立石見美術館蔵)が推薦出品とされ、浮世絵の精神、造形美を受け継ぐ画家としての評価を確立した。同年石井林響(1884-1932)、山内多門(1878-1932)と如水会を結成。大正10年(1921年)5月6日没。

輝方は水野年門下で後に川合玉堂に学んだ人物画の名手であるが、惜しむらしくは39歳、その力倆の熟し輝きつつある途中の、いわば「未完の美」で生涯を閉じてしまった。しかし、天性の才能がもたらせる彼の作品の秀逸さは、五歳年長の同門鏑木清方より一年先(大正5年)に「夕立ち」一対で文部省美術展覧会特選になったことで知られる。

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池田焦園が33歳、池田輝方が39歳で亡くなっていますが、まことに惜しいことです。



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池田焦園:(1886年5月13日 ~ 1917年12月1日)明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。

夫も日本画家の池田輝方日本画家。水野年方、川合玉堂に師事する。文展等諸種の展覧会に出品し、多くの賞を得た。烏合会会員。大正6年(1917年)没、享年33歳。明治、大正、昭和初期の近代日本画において美人画のジャンルは絶頂期を向かえ、その中でも女流画家の活躍はめざましいものがあったが、「三都三園」とはそんな近代女流美人画家の代表的な3人を称しますが、京都の上村松園、東京の池田焦園、大阪の島成園がその3名で池田焦園があげられています。ただし島・池田とも松園にあやかって園の文字が使われたとのことです。

明治に始まる東京画壇の鏑木清方、池田輝方と池田焦園の夫婦などは浮世絵の美人絵を清新な時代感覚で蘇生させようとした画人達であり、伊東深水などに受けつがれて、これらの人々は近代美人画の主流となっていきます。

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池田輝方と池田焦園は紆余曲折後に結婚していますが、結婚後は仲睦まじく、池田焦園が病気の際は池田輝方は懸命の介護をしたそうです。

 桜狩 池田焦園筆 その2

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本日は臨時投稿ですが、本日の早朝より帰省ですので、ブログはしばしのお休みです。

庭の牡丹がクマガイソウとともに盛りとなりました。(2週間ほど前の原稿です)



息子と庭で記念撮影・・。



クマガイソウはお見事です。



牡丹は大味かな、散り始めています。



本日は華にちなんで花と関連する美人画の作品紹介です。以前に池田輝方・焦園の夫妻の作品は紹介していますので、説明は重複しているかと思います。

桜狩 池田焦園筆
絹本着色軸装 軸先骨 池田輝方鑑定箱 南陽堂書店値札有
全体サイズ:横615*縦1990 画サイズ:横415*縦1110



夫の池田輝方によって「桜狩」と題されていますが、入門翌年1902年(明治35年)ごろに「桜狩」を発表して画壇デビューしているが、その作品との関連は不詳です。

 

以前に紹介した池田焦園の下記の作品とさらには池田輝方の作品と三作品を並べて展示してみました。

左の作品:「舞美人図 池田焦園筆」
      絹本着色軸装 軸先塗 鑑定箱 
      全体サイズ:横552*縦2200 画サイズ:横415*縦1100



中央部分に池田輝方の「美人図」(後日投稿予定)を配しました。



なかなか色っぽい・・。







さて池田焦園の二作品を並べて展示しますと・・。



類似点がよく解ります。



そもそも印章は同一印章です。

 

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池田焦園:(1886年5月13日 ~ 1917年12月1日)明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方日本画家。水野年方、川合玉堂に師事する。

文展等諸種の展覧会に出品し、多くの賞を得た。烏合会会員。大正6年(1917年)没、享年33歳。明治、大正、昭和初期の近代日本画において美人画のジャンルは絶頂期を向かえ、その中でも女流画家の活躍はめざましいものがあったが、「三都三園」とはそんな近代女流美人画家の代表的な3人を称しますが、京都の上村松園、東京の池田焦園、大阪の島成園がその3名で池田焦園があげられています。

ただし島・池田とも松園にあやかって園の文字が使われたとのことです。明治に始まる東京画壇の鏑木清方、池田輝方と池田焦園の夫婦などは浮世絵の美人絵を清新な時代感覚で蘇生させようとした画人達であり、伊東深水などに受けつがれて、これらの人々は近代美人画の主流となっていきます。

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池田焦園の補足説明

1886年(明治19年)5月13日、東京・神田雉子町に、榊原浩逸、綾子夫妻の長女として生まれる。下に一人の弟、三人の妹がいる。父浩逸は旧岸和田藩士であったが、慶應義塾で福沢諭吉に学び、彼の勧めによりアメリカ・ラトガース大学に留学して鉄道を研究、日本鉄道に勤務したのち、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)の幹事となった人物。母綾子は実業家にして歌人でもあった間島冬道の娘で、和歌や書に優れていたほか、1876年(明治9年)ごろからは国沢新九郎の主宰する彰技堂画塾に入門、国沢のほか本多錦吉郎にも師事して洋画を学んだ経験を持つ。夫妻は鹿鳴館にも出入りしていた名士であった。



1893年(明治26年)4月に両国の江東小学校に入学、1895年(明治28年)には一家が麹町区富士見町に転居したため、富士見小学校3年に編入。この頃より草双紙の絵を石版に描き写すなどして画才を発揮し始める。1898年(明治31年)4月に女子学院(現在の女子学院中学校・高等学校)に入学、当時開明的とされた教育を受けるが、1901年(明治34年)、学業のかたわら15歳で日本画家・水野年方(1866-1908)の主宰する慶斎画塾に入門。蕉園の号は、上村松園に憧れる百合子に、松園に負けぬ美人画家になるようにと、師年方が与えた。




入門翌年1902年(明治35年)ごろに「桜狩」を発表して画壇デビュー。この頃より同門であった池田輝方と相思相愛の間柄となり、学業を放棄。



1903年(明治36年)からは、同門であった鏑木清方が主宰する研究グループ・烏合会に、村岡応東、吉川霊華(1875-1929)らとともに参加してさらに研鑽を積む。同年第9回絵画共進会で「つみ草」が、第10回の同会では「夕暮れ」が入選。

1903年(明治36年)師の立会いのもと、池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と失踪、この出来事の顛末は田口掬汀による連載記事「絵具皿」で万朝報に報じられ、広く話題となった。蕉園は悲しみのあまりしばらく作品制作から遠ざかったほどであったが、


こうした経験がもたらした苦悩と、水野から学び受け継いだ浮世絵風の造形美が、独特の甘く感傷的な作風へと昇華されたといわれ、3年間のブランクの後、1906年(明治39年)に美術研精会に出品した「わが鳩」で研精賞碑を受賞、橋本雅邦に実力を認められる。1907年(明治40年)、21歳で東京勧業博覧会に『花の蔭』を出品して2等賞、同年秋に開催された第1回文部省美術展覧会(文展)では「もの詣で」で3等賞を受賞。

1908年(明治41年)の第2回文展には「やよい」を出品して3等賞を受賞。この年には師・年方が死去したため、翌1909年(明治42年)からは川合玉堂に師事し、鈴木華邨にも指導を受ける。こうした研鑽の甲斐あってか、この前後の数年間は彼女の全作品の半分以上が集中して生み出され、完成度の高い力作も集中する充実期となった。

同年刊行の泉鏡花の『柳筥』の挿絵が知られており、同年の第3回巽画会展へは「帰途」、やはり同年の第3回文展に「宴の暇」、1910年(明治43年)の第4回展に「秋のしらべ、冬のまどい」、1915年(大正4年)の第9回展に「かえり路」を出品してそれぞれ3等賞、1916年(大正5年)の第10回展では「こぞのけふ」で特選を受賞し、1912年(大正元年)の第6回展第2科の「ひともしごろ」、1914年(大正3年)の第8回展の「中幕のあと」はともに褒状を受けた。

1910年(明治43年)の日英博覧会には「紅葉狩」「貝覆」の二曲一双屏風を出品。1911年(明治44年)の第1回東京勧業博覧会へ出品した「夢の跡」では、「朦朧派」の影響の下、人物の目元などにぼかしをかける叙情的な表現が用いられたが、これは伊東深水、竹久夢二などの追随者を生んだ。

この活躍により、同様の動きを見せていた京都の上村松園とともに「東の蕉園、西の松園」「閨秀画家の双璧」「東西画壇の華」とされた他、のちには大阪の島成園を加えて「三都三園」と呼ばれたりもした。こうした一方で泉鏡花の『柳筥』『白鷺』の口絵を手がけ、徳田秋声の『誘惑』、雑誌「女学世界」「女鑑」「少女世界」「少女画報」などの挿絵も描いた。蕉園自身は泉鏡花の文学の熱烈なファンでもあり、1908年(明治41年)には彼を支持する人々の集まり「鏡花会」に参加。泉本人のほか、長谷川時雨との交友も盛んとなった。このほか観劇、邦楽などの愛好家としても知られた。

新婚間もない頃の池田輝方・蕉園 (中根岸の自宅にて)



1911年(明治44年)、放浪生活から戻った輝方と結婚、輝方も蕉園同様に文展で受賞を重ね、夫婦で屏風や双幅を合作したりもして、「文展のおしどり画家」と呼ばれた。

1914年(大正3年)には再興・第1回日本美術院展(院展)に輝方の「お夏」とともに「おはん」を出品しているが、これは二人のただ一回の院展出品となった。そのころには国民的名士として知られ、上流階級の夫人、令嬢を多く門弟としたほか、大正天皇の前で絵を描いてみせたりもし、作品は高値で買い取られた一方、文展には多くの模倣作が溢れて識者の顰蹙を買い、私生活での行動までもが人々の興味の対象となった。



1916年(大正5年)の第10回文展での特選受賞は夫婦揃ってのものだったが、蕉園はこの翌年1917年(大正6年)に結核に倒れ、夫輝方の献身的な看病もむなしく、やがて肋膜炎を併発、同年12月1日、31歳で死去。犬養毅、当時の皇后宮大夫、文部次官など政、官界の要人、高村光雲、鏑木清方、徳田秋声、松岡映丘ら多くの美術人、門弟、愛好家たちが参列する盛大な葬儀が営まれ、谷中墓地に埋葬された。法名は「彩雲院蕉園妙観大姉」。夫の輝方も4年後の1921年(大正10年)に38歳で没した。弟子に、木谷千種、松本華羊、ポール・ジャクレーなど。

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池田焦園が享年31歳、池田輝方が享年38歳という若さで亡くなっており、残存する作品数は非常に少ない画家です。



いつ頃の値札でしょうか? 「南陽堂書店」についての詳細は不明です。



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福富太郎対談記録より

昭和41年ころの入院時、浮世絵の贋物を集めてばかりじゃ切りがないから、今度は清方、池田輝方、池田蕉園、その辺を本格的に集めようと。

池田輝方、蕉園の作品収集を断念
福富  いまでも残念だと思うのは、中川一政の「監獄の横」や寺内萬治郎の「裸婦」、片多徳郎の絵とか、売ってしまいました。清方はほとんど売ったことはありませんが。
猿渡  池田輝方とか蕉園は見る機会がほとんどないですが、マーケットに出ているんですか。
福富  出たらみんな買っちゃうけどね。安いんですよ。
猿渡  じゃ、ライバルは。
福富  いなかったのが、画商に「ライバルが現れました。松岡清次郎という人です」と言われた。お金持ちで自分で買いに行くらしい。
いくらで売れたんだと聞くと、えらく高い値段です。それから僕は買わなくなった。松岡さんは骨董や陶器を集めていましたが、絵画にまで手を出してきたんで。彼にはかなわない。
猿渡  松岡美術館は二〇〇〇年に御成門から白金台に移転しましたね。輝方も蕉園も若くして亡くなっているからそんなにたくさん描いてないのでは。
福富  あるのはほとんど買いましたから。
猿渡  じゃ、骨董屋さんや美術商の人も、これが出てくれば、とにかく福富さんの所に持っていきましょうと。
福富  そうそう。あと北野恒富とかね。

妖艶な空気がただよう池田蕉園の日本画

猿渡  来年春に横浜美術館で開催予定のフランス人浮世絵師のポール・ジャックレーの展覧会の準備を今やっています。お父さんがフランス語教師として招聘されたため、ポール・ジャックレーは数え年四歳で日本に来ているんですが、十代のころ、この池田輝方、蕉園夫妻に 日本画を学んだと言われているんです。それで軽井沢のアトリエについこの間も行ってきて、まさに肉筆浮世絵ばりの日本画が幾つか残っていました。

蕉園と輝方のことは、一般にはあまり知られていないのですが、福富さんの『絵を蒐める』に、二人の恋の行方から全部書いてあって、興味津々でした。かなり妖艶な空気がただよってくる日本画ですね。

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男の女の関係にはいろんな彩があるものです。それを知らずして生きていくか、知りながら生きていくかは各々の生き方次第ですが・・・。この世には骨董より大切で、難しく、面白いことがたくさんあるものです。

雪景燈籠ニ蛙図 渡辺省亭筆 その10

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連休の帰省から土曜日に帰京しましたが、その報告は後ほど・・。十和田湖、弘前などや骨董談義にも夢中になった連休でした。ともかく我が二歳児の息子と遊び呆けてきましたが、息子はタフ、こちらはクタクタ。帰京後の昨日もまた公園やら親戚の家やらに息子はせっせと出かけていきました。義父母が久しぶりのお相手で互いに喜んで相手してくれて助かります。

しばらくは連休前に作成した原稿を投稿させていただきます。

さてお茶の稽古の着物には姿見鏡は必需品。以前にも紹介しましたが、茶室に改修する際して木場の古材買い付けに寄った資材に中にあった鏡を購入しました。置屋さんにあった品とか・・??



水屋にはだいぶ道具類が備わったきました。立って使う水屋のほうがやはり便利なようです。



本日の作品は渡辺省亭の作品です。本作品で「その10」となりました。

雪景燈籠ニ蛙図 渡辺省亭筆 その10
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 昇山鑑定 合箱
全体サイズ:縦1930*横640 画サイズ:縦1230*横500



現在は人気がなく、意外に市場に多くの作品が流通しています。簡素な作品よりも書き込みの良い作品を選ばれるほうがいいと思います。作品によっては出来不出来の差が大きく、出来不出来の観察眼が必要です。贋作は非常に少ないのですが、共箱の作品もまた少ないようです。



本作品のように、渡辺省亭の作品はどこか日本情緒のある、面白味のある作品が真骨頂のようです。この作品は軸先がとれており、箱も無く、非常に廉価で売られていた作品です。



雪の降って芭蕉の葉? に苔のむした燈籠、滲みの技法で描かれた竹、そして吉祥図柄の蛙。



このような作品はあるようでないものです。日本人の心が休まる作品です。



なぜ人気がないのでしょうか? 多くの作品が行方知れず、海外に代表作が多い、うまいと思う技巧派の作品などが原因に挙げられていますが、いいものはいい。



福帰る、福替える(福に転じる)・・蛙の表情がいいですね。



この描き方はやはり巧い。



最近味のある燈籠が見当たらなくなりましたが、苔のむした燈籠はいいですね。



表具もきちんとしているものがいいです。本作品もこれ以上放置していたら、ボロボロになっていたでしょう。保存箱を手配しようと思います。

 

共箱ということもあり参考にしたカタログで渡辺省亭の価格は20万前後していますが、市場の取引価格は10分の1です。

 

日本の生活にもっと掛け軸という文化が帰ってこないかな? という趣旨で本日は「カエル」の作品の紹介でした。

PS.この作品には巻き止めに鑑定した署名があります。明確ではありませんが、渡辺省亭に師事したと記録のある、“幻の画家”と称される「岩井昇山」という画家の署名です。

 

この鑑定の署名は非常に貴重かもしれません。渡辺省亭に師事したという証拠になるやもしれませんね。

下記の記事によると“幻の画家”と称される「岩井昇山」としてマスコミに取り上げれると一躍注目を浴びて贋作が横行したそうです。いつものことながら骨董商と称する一部の輩は浅はかなものです。



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岩井 昇山:(いわい しょうざん)旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)~ 昭和28年(1953年1月11日)は、明治から昭和期の日本画家。

旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)、太政官府の役人・岩井秀一の次男として、東京麹町に生まれる。本名は小五郎。成童のころ北派(文晁系)の画家・吉澤雪庵に学び、次いで容斎派の松本楓湖の安雅堂画塾の門人となる(楓湖の浅草栄久町時代、明治10〜25年の弟子)。

晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。

日本画会、明治画会、帝国絵画協会、巽画会などに所属するものの、画家としての活動記録はほとんど見られず、展覧会出品の記録も明治35(1902)年の第12回「日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会」、大正2(1913)年の「表装競技会」など極めてわずかで、人嫌い、変人、果ては楓湖門破門説などに結びつけられ、“幻の画家”と称される由縁となっている。

大正終わりから昭和始めころには、東京都下谷区(現台東区)から埼玉県寄居町に移り、山水を中心に清澄で透明感のある独自の画風を確立したが、ついに画壇の寵児となることなく、昭和28(1953)年1月11日、同地で没した。享年81。
 
2006年8月25日号の美術誌『Bien(美庵)』Vol.40(藝術出版社)にて、巻頭特集「幻の画家・岩井昇山』として紹介されるや、一躍脚光を浴び、『埼玉新聞』2006年9月14日付でも「謎多き孤高の画家」として大きく紙面を割いて報道した。その後も地元・寄居周辺を中心に展覧会の動きもあり、盛り上がりを見せている。

昇山の名が上がるにつれて、ネットオークションや埼玉など地方において悪質な贋作が出回っているようだ。見つかっているものは、

A.熱で圧着させたシールのような落款を用いている→落款をよく見ると、サインや印章の周囲に不自然な光沢がある等の特徴から判別できる。

B.直接インクを転写するやりかたでサインや落款を入れている→Aのように不自然な光沢は周囲にないが、サインならば墨の色が絵中の墨色と違ったりする(薄かったり青かったり、異質な感がある)ことから判別できる。

近年は、上記AB2点のような判別が困難な、巧妙な落款を施した贋作が確認されている。

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本作品は軸先もとれており、保存箱もなかったので、それらを手配してしばらくは手元に置いておこうと思います。渡辺省亭は今後大いに見直される画家の一人のように思います。

本日は帰省、帰京で「カエル」の作品の紹介でした。(蛙は吉祥の象徴で無事に帰る、福に変えるなど)




手鏡 菊池契月筆 その3

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走るのが愉しくて仕方のない息子は転ぶ回数も多いようです。



人生で一番転ぶ回数が多いのはこの頃か? 大人になると転ぶのが怖くて何もしなくなる人多いようですが・・。

上記の写真は都内での花見の写真です。そして下記の写真が今回の帰省のときの郷里の写真・・。



庭は花盛り・・。北国はいっぺんに華が咲きます。



枝垂桜も・・。



何度も観られる桜吹雪に息子は大はしゃぎ・・。



水の入る直前の田には春の匂いがします。

本日紹介する菊池契月の作品はけっして奇をてらって人の目を驚かせる絵ではなく、粋好みの洒落っ気も見られませんが、聡明で典雅な香りさえする独自の画風を完成させるに至っています。

真っ向から自己の芸術を探求し続け、弛まぬ努力研鑽と高い精神力によるものでしょう。この生真面目さは見習うべきものがあります。

自然の風景の匂い、日本画からの香り・・。

手鏡 菊池契月筆
色紙 絹本着色
中晩年(60歳前後)の作品とのこと



1879年(明治12年)11月14日、長野県下高井郡中野町(現在の中野市)で素封家の細野勝太郎・はつ夫妻の次男として生まれ、1892年(明治25年)、13歳で山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に入門、「契月」の画号を与えられました。

1896年(明治29年)、妹の結婚式のどさくさに紛れて同郷の友人・町田曲江とともに故郷を出奔、京都に出て南画家・内海吉堂に入門。しかし、二人はその画風を受け入れることができず、これを察してか二人の画力と性格を見抜いた吉堂は、契月に京都の日本画家・菊池芳文を紹介。翌1897年(明治30年)に、18歳でのその門下に加わった。因みに町田曲江は寺崎廣業の門下となりました。

菊池契月は最初は南画家のもとで絵の修行をしたことになります。



菊池芳文は幸野楳嶺門下で、同門の竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香とともに「門下の四天王」とも呼ばれていまいした彼のもとで研鑽を積み、入門の翌年の1898年(明治31年)には第4回新古美術品展で『文殊』が一等賞を得、さらにその翌年には第2回絵画共進会展に出品した『資忠決死』も一等賞となっています。その後も毎年受賞を重ね、1906年(明治39年)27歳で芳文の娘・アキと結婚、菊池家の婿養子となり、以後菊池姓を名乗ることになります。



大正期に入ると、それまでの歴史上の故事に取材した作品にかわって、身辺の風物を題材とした作品が主流を占めるようになり、文展の永久無鑑査作家、翌年には絵画専門学校の助教授に昇進しました。

1918年(大正7年)に師であり、義父でもある芳文が死去すると、師の後継者として「菊池塾」の主宰者となり、同年には絵画専門学校の教授、さらに文展の審査員にも就任しています。

画壇での地位を着実に高めていきながらも、1920年(大正9年)の『少女』では、それ以前の作品に見られなかった鮮烈な色彩、不気味なまでに生々しい写実的表現が見られ、師匠から受け継いだ四条派の伝統を墨守するだけでなく、それを踏まえたうえで新しい独自の画風を確立しようとする姿勢が窺えます。



1922年(大正11年)、画家の入江波光とともにヨーロッパへの視察出張に派遣され、1年ほどに及んだ欧州滞在の間、フランス、イタリアを中心に各地を訪問、特にルネッサンス時代のフレスコ画や肖像画に深い感銘を受け、チマブーエやジョットのいくつもの作品を模写していています。

古典的作品の偉大さや価値を再認識し、帰国後も仏教美術・大和絵・浮世絵の諸作を研究し、収集し、こうした行動の成果は1924年(大正13年)の『立女』や、翌年の『春風払絃』となって結実しています。

1928年(昭和3年)の『南波照間』(はいはてろま)で到達点に達し、この作品は1986年(昭和61年)4月に発行された「切手趣味週間」記念切手の図柄として採用されているのは周知のことです。



昭和に入るころからは、こうした傾向の作品と並行して、均一でクールな線と抑制された控えめな色彩による白描画風の諸作が生み出されるようになり、作品に二つの系統が認められるようになります。

この頃には若い女性の姿がしばしば画題となっています。なかでも特筆すべきは、その当時の風俗に則って描かれた、昭和9年12月3日には帝室技芸員となっています 。



昭和10年以降から当時の日本を巡る情勢を反映してか、倶利伽羅峠の戦いに取材した1935年(昭和10年)の『松明牛』、戦場での武士同士の交流を描いた、1938年(昭和13年)の『交歓』などといった、戦(いくさ)を題材とした作品が目立つようになります。

特に1941年(昭和16年)の日米開戦以降は、日本画家報国会による軍用機献納展や、帝国芸術院会員による戦艦献納展などといった展覧会に作品を出品し、地位と名声のある画家として、戦時下における銃後の志気高揚に協力することになります。



終戦後は、同年の『富士出現』を最後として大規模な作品の制作からは遠ざかり、同年の作である『小堀遠州』は水墨画風の洒脱や軽妙を見せるもので、画家が新たな境地を切り開いたことを示しています。

これ以後はこうした小品が創作の中心となりましたが、その背景には、持病の高血圧症の悪化による体調不良もあったようです。

1947年(昭和22年)に日本芸術院の会員、1950年(昭和25年)には京都市立美術大学の名誉教授、1954年(昭和29年)には京都市の名誉市民となり、同年には平等院鳳凰堂の壁画模写の指導にあたっています。その翌年の1955年(昭和30年)9月9日、脳塞栓により自宅で死去、享年75歳。絶筆は『源氏物語挿図』。京都市美術館で市民葬が営まれ、死の翌年には京都と東京で遺作展が開催されています。



他の所蔵作品より

涅歯(はくろめ)伝菊池契月筆 その1(投稿は日付が経つとリンクしなくなるらしい??)
和紙淡彩額装 310*400



松籟 菊池契月筆 その2
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱(大正時代の作)
全体サイズ:縦1195*横558 画サイズ:縦280*横421



品の良い独特の絵を描く画家には相違なく、日本画の代表として今後も評価されていくべき画家でしょう。

同時期に活躍していた東の画家・鏑木清方は、西で活躍した契月を次のように述懐しています。

「誰でもその画は作者の性格を佯(いつわ)るものではないと云ふがその通りで、菊池さんはその風牟(ぼう)なり、挙止なりが、その画かれるものとひとがらとに、毛筋ほどの食い違いもなく、長く接していて人を信じ切ることのいかに愉しいかを切実に訓えられた。…(中略)…数年前友人のT君に托して贈られた、江戸麹町、いわきますやと、駿河町のゑちごやとの、包紙も真新しく見えるほどの婦女用の綿帽子と、金箔を押して太く綰た元結とが、今はなによりの形見と愛蔵している。これに対すると、いつも私は、君の画に見る端正な婦女像を偲ぶのである。」
(『菊池契月画集』序文「こころのとも」1956年/美術出版社)

日本画の世界を我々日本人はもっともっと深く知る必要がありますね。それが我々の「手鏡」ですから・・。

大人になるとむやみやたらとは走らなくなりますが、己の信念の赴くところには走らなくてはいけません。

PS.
そういいえば「なんでも鑑定団」に屏風の作品が出品されていました。評価金額は1000万・・・!! 

茄子画賛 小野竹喬筆 その3

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帰省に際して息子は新幹線がようやく理解したようですが・・?? もうこれで5回以上は乗車しています。



今回は盛岡から銀河鉄道・・。



否、花輪線。



特等席。



小生が大学時代から始めた最初に登山した山、岩手山を看ながらローカル列車の旅。霧にまかれて途中、道をロストし散々な目にあいましたが・・。



最初はのどかな田園風景が続きます。花輪線の紹介は今回で2回目ですが、連休初日ながら本当にガラガラに空いています。



徐々に渓流沿いになります。



春真っ盛り・・。



渓谷へ・・。



3時間強のローカルな風景を愉しめます。そして大館駅・・。



本日はなにかと縁があった小野竹喬の作品の紹介です。

茄子画賛 小野竹喬筆 その3(整理番号)
紙本水墨色紙 共タトウ 
画サイズ:縦270*横240



「暮れぬめり 今日まちつけて 棚□は 嬉しきにもや 露こほるらむ 竹喬畫」とあり、共タトウには「茄子 竹喬自題」と記されています。



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小野竹喬(おのちくきょう)(1889―1979):日本画家。本名英吉。岡山県笠岡(かさおか)に生まれる。竹内栖鳳(せいほう)に師事、京都市立絵画専門学校に学ぶ。



1907年(明治40)第1回文展に入選して以来出品を続け、16年(大正5)『島二作』が特選となり注目された。18年土田麦僊(ばくせん)らと国画創作協会を結成。21年から翌年にかけてのヨーロッパ旅行後は、むしろ伝統に心を傾けるようになった。28年(昭和3)国画創作協会解散後は麦僊とともに官展に戻った。47年(昭和22)帝国芸術院会員、76年文化勲章受章。代表作に『冬日帖』など。



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真面目なきちんとした作品のようですので、保存をしっかりしておくことにしました。

 

色紙のタトウに説明書を封筒に入れて保存しておきます。



色紙専用の小さな箪笥を保存用にしてあります。



色紙用の額は程度の良いもの、面白いものを数点用意しれあればいいと思います。それぞれに額や額の保存用のタトウを用意すると場所がいくらあっても足りなくなります。

小野竹喬についてさらに小生の他のデータを検索すると・。

参考作品

朝雲 小野竹喬筆
紙本着色額装共シールタトウ入 240*370

本作品は所蔵主から「小野竹喬が若いときの作品と引き換えに描いていただいた作品」と説明を受けました。おそらく小野竹喬の最盛期の作品でしょう。今はどこにあるか所在は不明な作品です。



さらに参考になるデータはないかと検索したところ、処分していない下記の所蔵作品が見つかりました。

時雨 伝小野竹喬筆
絹本着色額装共シール タトウ入
画サイズ:横480*縦410



まだ仙台に勤務していた頃に購入したものらしい・・。



本作品は小野竹喬の昭和20年前後の作風に近いと思われますが・・。



共シールの印章は昭和30年作の扇面画の「春の袖ふるるほとりの絵具皿」の白方印「竹喬」のものかと思われ、絵の印章は昭和2年の「波涛」の印章と同じものと思われる。

 

それほど大枚をはたいてまでは買っておらず、あくまでも本作品は参考作品として「伝」です。本物ならかなりの幸運

現実の風景と日本画の世界、このギャップが面白い。どう自然を表現するかが画家の裁量であり、実際の風景を見てどう感じとっているかで絵を見る側も絵への感じ方が違うように思います。

氏素性の解らぬ作品 青手九谷 鶴首花入 

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週末は山林へ山椒採りと筍採り・・。



他の方々も・・。



小生は息子の子守・・。



飽きてくると竹林探索・・。



急斜面にクマガイソウ群落発見・・、東京都内にここにしかないらしい。絶滅危惧種であり、採って行ってはいけません。



ここは小生と息子ら家族だけの秘密の場所、息子も探索・・。



まだ蕾の花筏発見・・・、珍しいらしい。



自然の中で遊べや遊べ・・・、とはいえお手伝い・・。



採った山椒は佃煮に・・。家中が香りで満ち溢れています。筍は先週も収穫しているので食いきれずに近所へ配ってしまいました。



さて、本日は青手九谷の作品です。ちょっと時代にある九谷の鶴首の作品は珍しいのと絵柄が気に入っています。

青手九谷 鶴首花入 
合箱入
口径約*胴径85*底径*高さ185



古九谷、吉田屋窯、松山窯で青手九谷が作陶されたとされていますが、骨董として取引される青手九谷うち、古九谷では350年を経ているため多くが伝世されているとは考えにくいものです。



吉田屋窯では購入時に日用品であるのに箱書きとしてその名を記したとは思われません。松山窯は官営であったため多くが作られたとは思われず、また全般に後世のように作者名が有ったわけではないため、結局伝世の青手九谷の真贋は決めがたいとされています。市場でこれら窯として取引される伝世品の多くが、次の明治以降のものである可能性が高いと思われています。

さてそんなことよりこの図柄。



首が破損した補修がありますし、首が傾げていますがご愛嬌・・・・。

青手は、色使いは五彩手と似ていますが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式です。要は満遍なく釉薬が掛けられ絵が描かれているのは、胎土の粗悪さを隠すため??



九谷は古九谷、再興九谷以降は極端なことを言うと、まったくいい作品が在りませんが、このような図柄はいいものと改めて見直しました。

高台内は約束どおり角福の文字・・・、いつの時代の作品でも青手九谷と称される作品の高台の中には、「角福」と呼ばれる二重四角の中に福の吉祥字のある銘を持つものが多いようです。



皿などの口縁もそうですが、口に回りは褐色釉薬・・、これは以外に知らない約束事のようですが、要はこれも素地の粗悪さを隠すためらしい。



古い作に鶴首のような作品があったのかどうかは不明ですが、小振りな鶴首のほうが使い勝手いいものですが、大振りな花瓶などは値段だけ高くて意外に使い道がないものです。

明治政府は、開国に沿って殖産興業を推進し伝統工芸品の輸出を奨励し、そのため九谷では各国の博覧会に出展し名声を得、多くを輸出しました。明治前期には九谷焼の8割が輸出に回され輸出陶磁器の1位を占めるようになり、「ジャパン クタニ」のブランドはいやが上にも高まりました。

現存する半陶半磁を呈する骨董としての青手九谷の多くがこの時期のものと推量され、また明治前期に輸出された九谷が逆輸入されているものも多いそうです。本作品も古くてもその時期の作と推察されます。



継がれて傾げた首は考え事をしているかのよう・・。



遊べや遊べ・・、骨董・・・。



庭に咲いていた牡丹をこの花入に活けてみました。そう獅子に牡丹・・、この関係は本ブログにて説明



倉庫改修で造ったこの円窓。狙いのひとつは棚板に石を使ったこと、花入が石の面に写りこむ。



円窓が陽の翳りで二重や三重の円を成す。

意図するところは他人はあまり気がつかいてくれないようです 

遊べや遊べ・・、ものづくり・・・。




PS:この鶴首の花入が古九谷か? 再興九谷か? 結局のところ、首が破損してかしげている姿、絵の文様が面白いという結論のみ。

忘れ去られた画家 猛虎図 御船網手筆

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帰省に際して盛岡駅で乗り換えのため、時間があったのでステーション内をぶらぶらしていると、なぜかしら仙台名産のはずの「ずんだシェイク」が売っていました。「お~」とばかりさっそく買って息子と飲んでいると、周りの観光客も集まってきて数人が買っていました。よほど二人でうまそうに飲んでいたらしい??



さて本日の作品は、絵が面白くて入手した作品ですが、画家が干支の年号を間違えているとしか思えないのがまた面白い作品です。普通は贋作と考えて購入しにくいものです。小生は物好きな性格なようですが、そもそも「御船網手」という画家を知っていること自体が相当にマニアックらしい。

忘れさられた画家 猛虎図 御船網手筆
紙本水墨着色 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1950*横560 画サイズ:縦1060*横420



箱書には「大正丁未(ひのとひつじ、ていび)冬 網手筆 押印」とありますが、大正と丁未が一致せず、一番近い「丁未」が1907年は明治40年である。とはいえ贋作ではなく、「丁巳(ひのとみ、ていし)(1917年 大正6年 41歳)」と誤記した可能性が高い?



そのようなミスを犯すのだろうか? まるで本ブログで紹介した伝高村光雲作の「菅公像」→「官公像」のように題を誤字するなど・・。



作品そのものは実に真面目な作品です。

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御船綱手:(みふね つなて)。1876年(明治9年)-1941年(昭和16年)。日本画家。明治9年(1876)岡山県倉敷市に生まれる。東美校卒。

 

明治43年欧米各国を漫遊。植物画の研究に専念する。画室の周囲に内外の植物千余種を栽培し、その写生に努める。大阪に住した。

14歳の時、画家を志して、初め円山派の木村応春に、ついで大阪の渡辺祥益に学ぶ。その後上京し、川端玉章に師事する。1896年、東京美術学校に編入、橋本雅邦に師事する。1897年、日本絵画協会第2回共進会で「山櫻鷲」が2等褒賞を受ける。



1899年に東京美術学校日本画科を卒業した後は、大阪で画業に励む。1910年、日英博覧会に際して欧米を旅行。ハワイからアメリカ合衆国を横断してヨーロッパに渡り、イギリス、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、オランダ、ノルウェーを経て、ロシアからシベリア鉄道で帰国した様子を、1913年、「世界周遊実写 欧山米水帖」として描いた。晩年は、自宅に植物園を造り、植物の研究を深めて週刊朝日に「百花画譜」を発表するなどした。昭和16年(1941)歿、65才。

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虎の絵の近代の名人はなんといっても本ブログでもなんどか投稿している大橋翠石ですが、ちょっと違った虎を描いています。



「これはこれで近代の佳作といえるでしょう。」というと興味を持つ人が増えるかもしれません。骨董も「ずんだシェイク」のようなものでうまそうに飲む人、この作品がいいと認める人によってファンが増えるものです。



ただ本作品もまた軸先の片側が紛失しているなど粗末な扱いをうけていたようです。



もともとはそれなりの表具はされていたようですが・・。



このような痛んだ作品ばかりを蒐集していても、費用がかさんで困ったものです。小生の所蔵する作品については、処分する作品ときちんと保存しておく作品を整理する時期にきているようです。

氏素性の分からぬ作品 井戸茶碗&古染付 四作品

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週末の閑話休題・・、臨時投稿です。

本ブログに最初に投稿した井戸茶碗が最近、大活躍です。家内が来客のもてなしに使うからですが・・。



出張中の工場から夕方に京都に着いて、ひとりぶらぶらと骨董店を見て回ったときに購入した品物ですが、かれこれ30年前です。



琵琶色ではないものの「ときん高台」、「強い轆轤目」、「釉薬の溜まり」、「目跡」など約束事がきちんとしていたので購入しました。むろん箱など無く、一万円也・・。



その後は使い込んでこのようになりましたが、いまでも気に入っています。



さて本日はまとめて購入した記憶のある染付けの器です。

「古染付」という作品群も死語になりつつあるようで、市場にはあまり出回らず、ネットオークションにはまがい物が出回り、「古伊万里」、「古九谷」という名称は知っていいても「古染付」は若い人にはなんのことやらさっぱり知らないでしょうね。本日は紹介する作品は普段使い作品ですが、これらをもとに「古染付」を改めて記述してみました。

古染付 四作品
 
古い陶磁器を愛する人は多いのですが、それを日常に使う人は残念ながら少ないようです。そしてそれを使いこなす人はもっと少ないでしょう。確かに古い陶磁器を日常で使用するのには逡巡しがちです。用いたとしても、せいぜい花生か、酒器ぐらいのものが多いものです。毀れることを気遺って箱に仕舞われていては、骨董や陶磁器としての生命はないといえます。扱いに慎重を要しますが、それを用いることが、やきものを甦えらせることになり、それが骨董を趣味とするものの務めのように思います。

その1 人物文小碗
「大明成化年製」銘
口径79*高台径35*高さ42



美術館の陳列ケースに美しい作品が並べられているより、なにげなく座辺にあって用いられている作品にハッと身の引き締まる思いを抱くことは多いものです。さり気なく用いられることが、古陶磁器への思いやりと飾る人の感性が感じられて嬉しいものです。古陶磁器の魅力の原点は気どらぬ自然の中にあるといえるのでしょう。



陶磁器の形が不均整であるのは自然だからであり、絵付が自由でのびのびとしているのは、作為がないからです。また初期の伊万里や、創成期の唐津が美しくて力強いのは、そのうぶ気な稚拙さの中にも、ひたむきな自然さが感じられるからなのでしょう。

それらは親み深く、観る人の心を把えてはなしません。自然であることは、いかにも美しい在り方と言えます。逆に言えば、人巧を弄することは自然に逆らうことであって、その度合いは美しさに反比例するのでしょう。つまり自然であれば、ある程美しいと言えます。これらは、骨董や陶磁器に限らず、人間の在り方や生き方をも暗示しています。そのような古陶磁器の代表格に「古染付」があります。

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古染付の概要

古染付とは南方民窯の呉須手とは区別され、一般に中国,明末・天啓年間(1621年~1627年)あるいは崇禎年間(1621年~1644年)頃に作られ、江西・景徳鎮の民窯にて焼かれた染付磁器ことをいいます。

明らかに日本向けとされるものも含まれ、重厚なつくり、陶工の意匠を素直に表した飄逸みにあふれる文様が特徴です。その味わい深い古染付、茶人に親しまれることによって日本では珍重され、中国での遺品は皆無であり、ほとんどの遺品は日本にのみ伝わっています。

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その2 魚文角皿
幅107*奥行85*高さ23



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呼称の由来

古染付の呼称については諸説ありますが、江戸時代の資料にはみられないことからも決して古くから使われていた言葉ではないようです。茶会記や箱書によると、それ以前には「南京」つまり中国渡りの染付との意味で「染付南京」と呼ばれていたようです。

その後江戸後期に伝わった煎茶道具の清朝染付に対して、初期に渡った古渡りの染付を「古染付」と呼ばれたとの説が一般的であるそうです。天啓の染付を、我国では俗に「古染付」と呼んでいますが、それは何時頃、誰によって名付けられたものかは判然としないとのこと。

当時以後の茶会記や陶書関係のどこを見ても、その名は見当らないようです。いずれにしても、その時期はせいぜい百年位前ではなかろうかといわれています。

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「元」に始まったといわれる染付が、「明」に入って宣徳、成化、嘉靖、万暦、天啓、崇禎と続き、それぞれの時代の作風が見栄えを競って咲き誇った中で、どうして天啓の染付だけが「古染付」と呼ばれたのかは、茶人による特注の日本向特別品という意味合にも関係しているようです。

そして数ある染付の中で、特に天啓染付だけを別に呼称したのは、その風雅な作風を重んじ、他の時代の染付と敢えて区別した数寄者の慧眼と、粋な心根にあると言えるでしょう。

天啓染付にこの様な愛称を与へた人の機智もさることながら「古染付」とは正に言い得て妙であり、染付へのほのかな郷愁を、これ程に微妙に匂わした呼び名はないと思います。



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明末の景徳鎮

明末の景徳鎮(萬暦年間)における御器廠への焼造下命はおびただしい量となり、碁石・碁盤・碁罐・屏風・燭台・筆管といった食器の類ではないものまで用命されるようになったようです。その結果、原料の消費は甚だしく採土坑は深く掘り下げられ、役人は私腹を肥やし、陶工らは辛酸を舐めることとなったそうです。

しかし、萬暦帝の崩御により御器焼造は中止となり御器廠は事実上の閉鎖を迎えました。このような背景の中、景徳鎮の民窯によっていわゆる古染付、天啓赤絵・芙蓉手・祥瑞・南京赤絵が生み出されました。

古染付の生まれた天啓(1621年~1627年)は、万暦につづく7年間で、約300年の明朝の歴史の中で、国力の最も衰微した末期に当り、景徳鎮窯業史からみれば、乱世という社会情勢の中で、これまで主役を演じて来た御器が廃止され、それに代って民窯の活動が一段と盛んになった時期です。

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その3 大根文丸皿
口径133*高台径60*高さ46



俗に天啓染付と称する一種独特のやきものが生まれて来たのは、この様な時代背景があってのことのようです。

天啓年代に至って突如として出現したものではなく、万暦年間に既にその萠芽は見られ、官窯が消退したために、官窯の特徴であったかたさが次第に消えて、勢い民窯の風味が表に出てきて、それが古染付の母体となったようです。

従って年代的には、どこからどこが古染付の出現した時代かは判断とせず、天啓を中心とした明未清初の端境期のやきものとうけとめた方が適切であるとのことです。

この様な生い立ちの古染付はいかにも中国陶磁の伝統を笑うかのごとく自由奔放でさり気ない作品です。

「律義に、しかも均等に余白を唐草模様や雲竜文で埋め尽すような明代の染付に較べ、古染付の絵付は、いかにもおおらかで、屈託がない。そこには、こうしなければならないといった制約もなければ、そうなるのが当然といった習慣めいた惰性もない。その文様において描線が曲っていようと、線が一本余っても足りなくても、また太くても細くても、一向にお構いなしといった鷹揚さが、反って古染付の古拙ぶりを助長し、その面目を躍如とさせています。 また、線描きを主とした幾何様文でも、輪文、網文、麦藁文、石畳文、更紗文など、描線が自由にのびのびとしながらも、決してバランスを崩さず、沃気に満ちた現代陶芸が、真似の出来ない風雅を醸し出している。 そこに描かれるものは、山水を始めとして、花鳥、人物、動物、故事、物語など、何事も画題となり、あらかじめ意図された意匠がないかの如く、自由でかつ、即興的である。 そして、絵付の展開は甚だ詩情的であり、説話的である。この様な卓抜なデザインは、初期伊万里染付のごく一部を除いては例をみない。」と評されています。



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古染付の特徴

銘:古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られます。

また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつもそれまでの様式にとらわれることはなかったようです。これら款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていましたが、款記と同じく比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えていたようです。それ以前の景徳鎮では、このように自由な作例はみられず、民窯であったからこそ陶工の意匠を素直に表した染付を生み出すことができたのでしょう。

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その4 鳥文鉢
口径165*高台径93*高さ26



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虫食い:天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなく、そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違いから生まれてしまう。特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれがのこってしまう。本来、技術的には問題となるところを当時の茶人は、虫に食われた跡と見立て鑑賞の対象とした。古染付特有の特徴であることも知られています。

絵付:土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用い絵付を行っています。それまでの型にはまった様式から一歩踏み出し、自由奔放な筆致で明末文人画を例にとった山水や花鳥、羅漢・達磨など描いているのが特徴です。

器形:中国では元来、小皿の形の多くは円形をなしています。古染付でも円形の小皿は多くみられ、その他にも様々な器形がつくられています。十字形手鉢・木瓜形手鉢・扇形向付といったものは織部にも見られる器形であり、日本から木型等を送り注文をしていたのではないだろうかとも想像されます。

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轆轤を専門としていた景徳鎮において、手捻ねりへの突然の変更は難しかったでしょうが、しかしその注文に応じていくうちに更に独創的な形(菊形・桃形・柏形・魚形・馬形・海老形・兎形)を生み出し、古染付独自の器形をつくり上げていったことは確かでしょう。



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派生した器  

天啓赤絵
古染付と時同じくして天啓年間(1621~27)にはじまり、景徳鎮の民窯にて焼かれた赤絵のことです。萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に朱・緑・黄にて上絵付を施しています。その特徴は古染付とほぼ同様であるが、古染付と比してその生産量はかなり少なく希少価値が高い作品群です。

南京赤絵
南京とは中国を意味する言葉として使われており、南京赤絵とは中国・明末の赤絵のことを言いますが、狭義では天啓赤絵・色絵祥瑞らと区別して使われることが多い。その意味で南京赤絵は、明末に景徳鎮で作られた五彩のことを指し、施文には染付を用いずに主として赤・緑・黄を使い、染付は銘など一部に限られているのが特徴です。 華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものがあります。

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「派生した器」については他のブログの投稿作品を検索してみてください。

中国の爆買いの人々が日本特有の良さに気がつきだしたようです。親切や気遣い、マナー、伝統に驚いて買い物よりも観光に眼をむけ始めたようです。国策による教育は恐ろしく、国民に先入観を持たせるものです。自分の眼で、自分の感性で、いいものを学ぶことが必要でしょう。

長々と「古染付」について説明しましたが、難しいと思うでしょうが、これらはほんの基本事項の一部です。

PS.掲載した写真の作品が古染だという保証は一切ありません。

デルフト焼 その4 楼閣文牛型香炉

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息子と義父は茶室の前の縁側が昼寝場所らしい。たしかに風通しもよく、快適のように思えてうらやましい。



本日の作品はデルフト焼? デルフト焼は中国陶磁器や日本陶磁器の模倣品と言えますが、独特の味わいのある作品群です。

デルフト焼 その2 楼閣文牛型香炉
合箱
幅160*奥行*高さ125



デルフト焼は中国陶磁器や日本の有田などの陶磁器の模倣した作品が多く、当然のごとく皿や花瓶といった類の作品が多いようです。



本作品はそういう類の作品と比べてちょっと変わった面白い作品のように思います。



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デルフト焼:17世紀初頭に中国製の染付の磁器がオランダに出回り、品質が高く、大変な人気を博しました。それまでは、イタリアの錫釉陶器のマヨルカ焼きの影響を受けていたデルフト焼きは、中国製品の品質に追いつく為に努力を重ね、産業として大きく成長しました。

18世紀の始めに頂点に達したデルフト焼きは、ヨーロッパ中の人気を集め、デルフト焼きの筆使いは、中国の磁器の絵付けを参考にし、相当高いレベルにまで発達しました。しかしその一方で、マイセン焼きの発祥のきっかけとなった磁器の原料のカオリンがドイツ北部で発見され、磁器生産はドイツの他にフランスやイギリスにも広がり、19世紀半ばには、デルフト市内の焼き物工房のほとんどが姿を消してしまいました。

幸いにも、19世紀半ばにイギリスで始まった産業革命による大量生産は、手作りを基本とする焼き物の世界を終わらせることはありませんでした。作り手の生命の吹き込まれていない焼き物や、その他の工業芸術に対する反発が、奇しくも産業革命発祥の地イギリスで芽生え、「芸術運動」として始まり、1867年に行われたパリ万国博覧会に出品された日本製品のデザインからの影響も受け、手作りの美しさは甦ることとなったのです。

(この運動の影響は日本における柳宗悦、浜田庄司や、バーナード・リーチらの「民芸運動」にも及びました。)

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本ブログにて今までに紹介されたデルフト焼関連の作品は以下の通りです。

デルフト焼 湖図花瓶合箱
幅120*奥行90*口径50*53*高さ200

染付蝶紋ガリポット薬瓶
口径32*胴径195*高台径*高さ255

和蘭デルフト藍画花瓶手皿
古杉箱 
口径231*底径90*高さ40

まともな皿や花瓶はとても日本や中国の作品には敵いませんが、ちょっと変わったものは実に面白い作品があるようです。



もともと骨董というものは、変わったものを集めるもので、同じ窯や同じ作者の作品ばかり集めたり、半一級品を揃えても、小生の経験からもつまらないように思います。



また、いくら一級品とはいえ、藤田喬平のガラス箱、平櫛田中の大黒天、浜田庄司の赤絵などは人気はあり、そこそこの蒐集家は所蔵していますので、面白くもなんともない(たしかに欲しいのは事実ですが・・・)



資金に限りのある小生はちょっと変わった作品に目がいくようです。自滅の道か、浪費の道か・・・



西洋に香炉というのはあるのかな??



香炉には意外に面白い作品が多いものです。



形やアイデアが豊富なようです。ただし、あまり数が多くあっても困りものです。



いつ頃の作品でしょうか?



少しは時代があると思うのは贔屓目でしょうか? 下手物といえばそれまでの作品。



家内曰く「変な牛!」・・、ごもっともなご意見です。週末は縁側で昼寝でもするか

食って寝てばかりいると牛になるぞ!

垂桜 伝金島桂華筆 その1

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帰省した翌日は昨夜の到着が遅かったこともあり、遠出はやめて近所の公園に出かけてきました。車で3分、それから徒歩で10分程度の貯水池ですが・・。



以前は車で入れた道路ですが、現在はメンテナンスが難しく、駐車場から徒歩で上り坂を10分ほど歩きます。突然目の前の視界が広がり、この景色です。

手入れがほとんどされずに自然のまま・・。桜はもっとたくさんあったのですが、生き延びた桜のみ自生しているそうです。



貯水池を一回り歩くのに約30分程度かかりますが、地元の人以外はあまりお目にかからない隠れスポットです。

小生も子供の頃は洞窟で遊んだり、あけびを採りに入ったり、奥の山頂まで登山し夜遅くなり大騒ぎになって、皆さんに迷惑をかけた記憶もあります。



学生の頃はデート・・・  本日は息子とデート。



これほどの景観を持ちながら、連休でも人がいないのがいい。



多彩な景観は一見に値します。



本日は息子を抱っこしなくていけないので、貯水池を一周できずにほんの少しの間の眺めでしたが、近所の方々はウォーキングやマラソンのコースにしているようです。



貯水池以外にも遊歩道があり、見所満点です。



枝垂桜・・。



自宅に戻り、枝垂桜の作品があったはずと倉庫を探すと、ずいぶんと前に入手した作品ですがありました。

描いた画家は金島桂華で、現在でも人気の高さを保っている画家の一人です。むろん真贋はわかりませんが・・。よって「伝」です。

垂桜 伝金島桂華筆
絹本着色額装タトウ入共シール
額縦585*横585 画サイズ:縦391*横390 画径380



丸額用として描かれたものではなく、掛軸に描かれたものを額装とした意図が推察されます。



額装が見事に絵に合っていますが・・・。



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金島桂華は、明治25年(1892)広島県深安郡神辺町に生まれた。名は政太。14歳のとき大阪に出て西家桂州に絵の手ほどきを受け、18歳のときにはすでに大阪、東京で行われた展覧会でその優れた素質を見ることができた。



この頃桂華は、人生をまじめに生きることや教養を身につけること、心の修行を行うことの大切さを教えられ実行し、このことは、桂華の人生・画業に影響を与え生涯貫かれることになる。



19歳のとき知人の紹介で、京都の竹内栖鳳の画塾「竹杖会(ちくじょうかい)」に入った。栖鳳の下で写生の勉強からやり直しはじめたが、直後兵役をつとめ画業は空白期間をもつ。



大正に入り、花鳥画を基本に修業し、展覧会でその成果が現れるようになる。昭和になってからは、ますます装飾性を加えた明快な画面へと作風が変化し、花鳥画の巨匠として歩む。



明朗な画境を持ち、「芥子」、「鳴于九皐」、「牡丹」を帝展に出品、凡て特選となった。その後研鑚を積み、数度審査員を務め、近代的画風を展開した。芸術院会員。



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いずれにしても、桜は実物が一番ですね。午前中に雨が上がって、青空の下、貯水池の蒼さと相俟って素晴らしい景色でした。骨董蒐集の基本は外へ出なくては学べないように思います。



黄初平 小杉放庵筆

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お茶室で息子が遊びだしました。



家内の真似をしているらしい。いつもはお茶をいただくのを真似していたのだが・・・。



ご機嫌である・・。



つい本作品を思い出しました。

黄初平 小杉放庵筆
和紙本水墨淡彩 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横230

賛は「叱石化羊黄初平」と記されています。



「黄初平」についてはなんども本ブログで作品を取り上げています。

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黄初平:(こう しょへい、328年? - 386年?)晋代中国の仙人。「黄」は「皇」と書く場合がある。黄大仙(道教系寺院)に本尊として祀られる。浙江丹渓(浙江省金華市)の人。

15歳の時に命じられて羊飼いをしたが、一人の道士に気に入られて金華山の石室に連れて行かれる。兄の初起が40年後に探し当て、初平は白い石を1万頭の羊に変じる術を見せた。兄もまた妻子を捨てて初平とともに仙道をきわめ、不老不死となった。初平はその後「赤松子」と名を変え、初起も「魯班」と称したと『神仙伝』にあるが、赤松子・魯班(公輸般)ともに前の時代の伝説的人物である。

石を羊に変える逸話は「富を生む」とされ、縁起のいい仙人として知られており、多くの画家に描かれ、雪舟の重要文化財となっている作品などが著名です。中国では「すべての願いを叶える神としてご利益があり、信心を集めています。

初起が道士に遇って所在を聞きだし、初平と再会することができたが、道士によれば、いまだに羊飼いをしているはずの初平の周囲には一頭も羊が見あたらない。そこで、不思議に思った初起が問いただすと、初平は、「羊はいますよ。ただ兄さんには見えないのでしょう」と言って鞭を振るい、周りの白い石を叱って、石をことごとく羊に変じさせたという。

修行を終えた仙人にとって、石は羊でもあり、羊は石でもある。物質界が、ある一側面からの物の見方によって定義づけられた、制約の多い特殊な世界であるという教えであると考えられてます。多くの画家が画題として描いています。

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本作品は郷里にある骨董店から購入した作品で、他の福田豊四郎の作品らとまとめて入手した作品。

その日に福田豊四郎の作品を二作品でまとめて購入したこともあり、廉価で譲っていただきました。ただそのときに迷った近藤浩一路の作品はいい出来でしたが、どうも遊印が「複製」に読めるような漢字で、工芸作品の疑いが晴れずこちらを購入しました。



このような和紙に描いた小杉放庵の作品は、小杉放庵の代表作で人気が高く、これもまた工芸作品が多く存在します。どうもこの印章がみたことがないので気になります。これも工芸品?

 

工芸作品は通常ならはっきりと「工芸印」が押印されているのが基本ですが、紛らわしい工芸品が存在します。特殊印刷に手彩色となるととても素人では印刷か肉筆かは判別できないようです。


通常は工芸作品となる作品は、著名な作品が多く、市場やインターネット上に同一の図柄の作品があり、気がつくことが多いものです。

この作品には現在はそのようなことはないようですが、最終的な判断は後学としますが、贋作ではないので「伝」とはしません

工芸品を購入する人は筋がいいといわれるそうです。物自体は本物だからということ

「窯よ窯! 羊にな~れ」と富を生む縁起のいい仙人に息子がなるのかもしれません

PS.
昨夜のなんでも鑑定団に「鮎之図 小泉檀山筆」が出品されていました。ようやく出品されたかという感じです。本ブログでも紹介されている作品です。鮎が同じく11匹・・。1匹20万? 一桁違うのはいつものこと。

くわらんか碗 三点 

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帰省してお出かしない時間は、息子は庭でお遊び、水周りにある蕗に向かって水遊び。



家内の庭での剪定のお手伝い?



維持管理の方々が雑草を刈り取りしたため、庭は徐々に閑散となりつつあります。



それでもシラネアオイは今年も咲いていました。



家内は庭から採ってきた花を玄関に棚に生けました。



本日は「くわらんか碗」の紹介です。

最近、NHKで波佐見焼の特集が放送され、お猪口や「くわらんか碗」が取り上げられました。思い出して帰省した折に棚を覗いてみたら、ずいぶん前に購入した「くわらんか碗」が紙に包まれた状態で見つかりました。



伊万里というと「古伊万里」、「初期伊万里」、「藍九谷」、「柿右衛門手」が代表格ですが、これらの一群の作品は高価になり、そして巧妙な贋作が横行し、「伊万里系統の作品は購入しないほうがいい」とまで言われるようになっているようです。



それ故かどうかは別として、伊万里の真髄は波佐見系統のお猪口、くわらんかにあると思っているのは小生だけではないでしょう。「古伊万里」、「初期伊万里」、「藍九谷」、「柿右衛門手」には遊び心が足りないように思います。

くわらんか碗 三点 
1.草花文    :口径100*高さ53*高台径43
2.丸文 その1 :口径128*高さ58*高台径53
3.丸文 その2 :口径128*高さ60*高台径52

「古伊万里」、「初期伊万里」、「藍九谷」、「柿右衛門手」を蒐集している方には失礼かもしれませんが、こればかり集中して蒐集してもとてもつまらないと思います。どうも肩が凝るアイテムで、せいぜい普段使いの数があれば充分で、とてもお茶席では使えない代物のように思います。もともとがそういうものであったはずでしたから。

********参考記事より****************************

くらわんか碗:江戸時代大阪淀川を往来する三十石船を相手に酒食を提供していた小舟が用いた器からこの名が付けられました。

この小舟は「くらわんか」と叫びながら商いをしていたのがその名の由来です。

しかし、その用いられた器は大阪の産ではありません。遠く佐賀県の有田からもたらされました。おそらく18世紀に入って、有田で磁器の大量生産が始まり、有田周辺にこのような雑器を作る窯ができ、庶民にも磁器を使用できる時代が到来したと言うことでしょう。

磁器に呉須で絵を描きます。庶民が手荒く使っても大丈夫な様に厚手で、かつ大量に作るため、その絵付けは素早く流れるような筆さばきで描かれています。まさに陶磁器の絵付けののびやかさの美を表しています。

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「磁器に呉須で絵を描きます。庶民が手荒く使っても大丈夫な様に厚手で、かつ大量に作るため、その絵付けは素早く流れるような筆さばきで描かれています。まさに陶磁器の絵付けの美を表しています。」という説明はNHKの番組にもありました。

伊万里の「お猪口」、「くわらんか碗」は普段使いのいわゆる下手物ですが、大量生産ゆえの面白味が評価されてのことでしょう。

丸文 その1



ニュウがあります。「くわらんか碗」としては大きめですね。例にもれずぶ厚く丈夫に作られており、大量生産のため重ねて大量に焼かれてました。



染付は実にあっけないくらい簡素です。



丸文 その2



口縁に欠けがあり、小生が補修しました。補修も実にいい加減ですね



骨董市かどこかで、キズモノということもありふたつ揃いで廉価で購入した覚えがあります。以前はたくさん骨董市に並んでおり、お小遣い程度で、からかい気分で買えたものです。



草花文



小さめの碗です。碗というより盃に使う方が多いようです。むろん食器として使うと面白いです。



今ではちょっと高くなりすぎているかも・・。重ね焼きの跡がなく、見込みがきれいですので上手手の部類でしょうか?



丸文と草花文、どちらを好むかは好み次第ですね。なお初期伊万里、古伊万里を含めて茶席で使える抹茶用の茶碗は伊万里では皆無に近いと言われているそうです。


********参考記事より****************************

参考作品 二点のくらわんか碗
丸文                                    草花文

 

*丸文:くらわんかの茶碗のなかでもこの文様は、はっきりいって数は、非常に少ないです。
また、完品などはめったに出会うこともなくなりました。

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「くらわんかの茶碗のなかでもこの丸文様は、はっきりいって数は非常に少ないです。また、完品などはめったに出会うこともなくなりました。」というこの記述ですが、本当かな?

このようなことを見聞きすると欲が出るのが骨董の世界。またお猪口や「くわらんか碗」に異常事態が発生するやもしれませんね。

********参考記事より****************************

有田周辺の窯で大量に生産された「くらわんか碗」ですが、下記の写真は上手の碗で、おそらく有田の旧来からの窯の製品と思いますが、器そして絵付けの繊細さ、線の伸びやかさが魅力で、くらわんか碗とはまた違った美しさがあります。

 

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近年、「くらわんか」の贋作が横行し、非常に巧妙な贋作があるそうです。見分け方としては絵付けにのびやかさがないもの、表面の傷が一定方向のものは贋作と疑うべき作例だそうです。値段が上がると贋作が多くなるようですが、製作元は中国とのこと。

下手物までにも贋作が横行している骨董の世界は異常で、下手物を蒐集している我が身に危険が迫っているように思えます。

「くわばら、くわばら」・・、「くわばら碗」とでも名前を変えたら解りやすい。「お猪口」は「おちょくり」とでも・・。「初期伊万里」は「ショッキング」とか

悪貨は良貨を駆逐する、贋作は真作を駆逐する、古伊万里にはしばし触手を動かさすべからずが正解か?

本日登場の作品も気侭に買ってきた作品ですので氏素性は不明です。「人間万時塞翁が馬」、而して「骨董万物塞翁が馬」と割り切るのが精神状態を平静に保つコツのように思います。。(「人間万時塞翁が馬」の下の句を意外と知らない方が多いようです。その件は後日また・・)、

気侭に庭の剪定するのと骨董も同じです。気の向くまま、時間の許すまま、資金の無理の無いまま、続けて手入れしていれば、お気に入りの愉しめる器もその中にいくつかはあるようなるのでしょう。庭から採ってきた花のように・・・。

PS.
くわらんか碗の撮影用の台に使用してる板は屋久杉です。欄間用として売っていたのを購入しました。さて展示室の廊下の飾り棚に使いたいのだが・・・

古備前壷 その1

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息子と食堂で食べたお子様ランチ・・、なんと汽車から煙が出る!



これには息子は興味津々・・、ドライアイスのようですが、お店の方に頼んで、2回やってもらいました。息子は蓋を開けてドライアイスに直接触る始末・・

探究心が旺盛なのはよいのですが、無謀・・。

本日は桜吹雪に鎮座している壷・・・。



古備前壷 その1
箱入
口径115*胴径240*底径160*高さ315



壷というものを家の中に飾るというのはよほどの大きな家でないと様にならないものです。



しかも家の中にいくつもの壷を並べておくものではないと思います。幾つも立派そうな壷を並べておいているのはいかにも成金趣味・・。



内か外か・・、どちらの壷が生き生きしているかは一目瞭然です。



飾り方知らず、数だけ誇るような陳列は、鑑識眼にないことを如実に言っているようなもの。個人的には所蔵者の品格を疑うようになりますね。



壷は外にぶん投げておくのがよいのです。もともとそういうものでしょう。



この作品は友人が壷を選ぶときに、ふたつあって、「ふたつともでも、ひとつでも好きにしたら」といったら江戸期の大きな壷を選んで持っていきました。ひっつきや自然釉の流れの面白味のあるほうを選んだのでしょう。素朴なこの壷は残されたほうの壷で引き取り手がないので小生がいただいた壷です。



飾り気も無く、自然釉の景色も無く、時代を示す窯印などもなく、氏素性が不明ですが、小生のお気に入りです。



土の味がいいですね。



わりと小さめな壷です。それでも30センチを超える大きさです。



小生は浅学ながら「古備前」と判断しました。



陽とともに変わる景色はなかなか・・・。



ま~、最近の作られたこのような壷は焼成の狙いがあって作りますので面白くないですが、このような生活雑器には「ほっておけ」という力強さあります。

そう息子の探究心は「ほっておけ!」・・・

元禄美人図 寺崎廣業筆 その42(晩年作)

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先週末は久方ぶりに植木屋さんが来て松の手入れをしていました。二階の窓からのぞいてみると、否、のぞかれた? ヘルメットと安全ベルトはないのかよ~



前から気にしていた車庫裏に放置されている石灯籠・・・。植木屋さんに手伝ってもらい復元を検討することにしていました。



一組は健全な状態で遺っていますが、他の二組は地震で倒壊し、元に戻すと危ないということで二組がそのまま放置されていました。



格段、石燈籠に興味があるわけではありませんが、このまま朽ちさせるには忍びないと前から考えていました。少しでも倒壊を防ぐには接着をするといいようです。

一組はもとあった位置にとりあえず運んでもらいました。小生だけでは「色男、金と力はない」のでなんともならなくて困っていましたが・・。



しかし力自慢が四人揃っても一番上の石が上がらないとのこと。後日、三脚でやっとこを組んでチェーンブロックであげるとのこと。

もう一組については植木屋さんが「これは練ですよ。」といって組み立ててくれません。「練」とは一般にコンクリートや樹脂で練って作った偽造品を指しますが、小生は「いや、これは練ではない。」と主張し、再度、皆で実物を検証したところ石できちんと作られた作と断定。

その日には組み立てられず、月曜日に組み立ててみることにしました。火曜日の朝に小生が見てみることに相成りました。



火曜日に朝にちょっと見てみると、「うむ、なかなかいいじゃない」と独り言。ただし設置する場所は未定。



元に位置に設置した燈籠も最上段まで組み立てられたようです。やはり古いものはいいですね。

最近つくられたものは味がない。古いものの味を理解する人が少なくなりましたね。



まだ茶室は完成度が70%くらいですが、その完成していないひとつが庭からのアプローチです。さてこの燈籠がその一部につかえるかどうか・・。



さらに庭から家内が探してきたこの石・・。母屋の手洗いに使っていたらしい。これを蹲に使えないだろうか?



蹲はかがんで手を洗うものですが、それでは不便ですからなにか工夫が必要ですね。水道は引かないほうが自然でしょうというのは家内と意見が一致しました。一応計画では水道がひけるようにはしてありますが・・。ま~、アプローチは家内の意見を尊重しましょう。



ふと見上げると楓に種が付いてきていました。子供の頃、よく飛ばして遊んだものです。今でも遊び心は変わらないままのようです。大人になっての遊びはお金と時間と労力と、そして知恵を浪費するものらしい。

楓の種を息子に飛ばしてみせたら大喜びでした。飽きたら遊びが終わるのは子供も大人も同じこと、損得はまったく考えないのも同じこと。損得はまったく考えないというのが肝要なようです 人生は短い、遊べよ、遊べ。



ところで息子は祖母と庭にある草花に水をやるのが日課のようです。岩松は生長が遅いので気がかりなようです。

さて、本日は寺崎廣業の晩年作という席画程度の美人画です。

寺崎廣業は活躍当時は横山大観と並び称せられた画家ですが、近年では大衆画家と言われえる由縁はその多作ゆえでしょう。

横山大観は描いた作品をすべてリストにしてあったそうですが、寺崎廣業は求めに応じてすぐに描く席画のような作品が多いことが現在人気を落としている理由のひとつでもあるようです。当時に人気ゆえ贋作の存在が多いことも人気のないこと理由のひとつのようです。

本日の作品はそのような席画ですが、美人画で著名になった寺崎廣業には美人画の席画は意外に少ないようです。

元禄美人図 寺崎廣業筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 鳥谷播山鑑定箱入
全体サイズ:縦2220*横450 画サイズ:縦1260*横430



押印されている印章は本ブログで紹介した「黄初平」らの作品と同一印章です。「三本廣業」の作であり、鳥谷播山の鑑定には「昭和庚辰(かのえたつ、こうしん)新春」とあり、1940年(昭和15年)鳥谷播山が65歳の鑑定です。

  

箱の表には寺崎廣業が晩年の作と記されています。門下生であった鳥谷播山がそのように記するのであろうから間違いはないのでしょう。ただし晩年といっても54歳で亡くなっています。



本ブログに寺崎廣業の美人画を数点投稿していますが、なかなかこれぞという作品は入手できません。やはり美人との縁は小生には難しい。



いずれにしても人気が出始めた頃には、多くの美人画を描いた寺崎廣業ですが、後期にはほとんど美人画を描いていないので、このような晩年の美人画は資料として貴重かもしれません。

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寺崎廣業:慶応2年生まれ、大正8年没、享年54歳。秋田藩の家老の家に生まれる。幼名は忠太郎、字は徳郷。初め秀齋、後に宗山、騰竜軒・天籟散人等と号した。初め郷土の小室秀俊に狩野派を学び、のちに上京して刻苦精励、諸派を摂取して晩年には、倪雲林、王蒙に私淑し、新南画の開拓に努めた。東京美術学校教授、文展開設以来審査員、帝室技芸員に任ぜられ東都画壇の重鎮となり、交友広くその生活は頗る華やかであった。

鳥谷幡山(とや-ばんざん):(1876-1966)青森県出身。明治-昭和時代の日本画家。明治9年1月18日生まれ。名は又蔵、別号に宗山。寺崎広業の下で野田九浦と学び、また橋本雅邦の指導を受ける。広業門下の青年画家を中心に美術研精会を結成し、主任幹事として活躍。東美校中退。明治35年美術研精会の創立にくわわり、のち独立絵画会主幹をつとめる。十和田湖をこのんでかいた。作品に「十和田湖大観」など。昭和41年(1966)歿、90才。

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人間の晩年は、草に始まり、土を愛し、石で終わるというジンクスがあるとか。植木(盆栽?)→陶磁器(壷?)→庭石(燈籠?)・・・ やはり、少しは美人に興味を持っていたほうが年をとらないかしれません。

染付けのお猪口

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帰省して到着した翌日は雨・・、昼飯にちょっとはやっていそうな国道沿いのラーメン屋まで。



そのついでに近くの山中に・・・。



熊が出そうな、実際に出くわすようですが、竹やぶの向こうには水芭蕉の自生群があるとか・・・。女、子供だけでは危険ですよ。



実際にわが郷里ではあちこちに看板がありますが、リアルに怖い・・。クマが飛んでくるらしい??



サルの看板はまともですが・・。



小さな沢沿いにありましたが、時期的には水芭蕉の花は終わりごろですね。



昔はこんな程度の景色はどこでも見られたような気がします・・。



さて、本日は「お猪口」の紹介です。

前にも記述しましたが、骨董市でめぼしいものがないときに、少しずつ買い集めたお猪口があります。骨董市をぶらつく時間に比例して数が増えるようで、それだけ骨董市にはポピュラーは存在でした。



骨董市で見つけた古い樽を飾り棚にしたものに並べて愉しんでいます。最上段の左が一番古く、お値段も高かったと記憶しています。高台や生掛けなどで時代を見分けるようですが、小生はそれほど詳しくありません。この棚からその都度気に入ったものを使ったりすると便利です。



数が揃ったいいものは年々少なくなってきているようです。一個やペアで売るほうが売りやすいようです。



小生は時代にこだわらず染付の気に入ったものを購入しています。



一時期はかなり高額になったようですが、最近は高くても一万円前後にて購入できるようです。数千円で買えるものもありますが、幕末から明治期に時代が下がる作品が多いようです。時代が下がると染付の古趣が劣るようです。



この波佐見系統のお猪口は大きさが酒盃や食器に使えるのでとても便利です。同じ系統の作品には「くらんか碗」、「油壺」などもありますが、汎用性は「お猪口」が一番ですね。

帰宅して、こちらに持ってきて使っているお猪口を改めて見直してみました。呉須の滲んでいるのが味があっていいですね。



白磁のお猪口もあります。



基本的に江戸期のものがいいものがあるようです。繰り返しになりますが、どうしても時代が下がると絵柄がよくないようです。



気侭に筆の赴くままに描いていますので、何を描いているのか判明しない作品が多いです。ちょっとした欠けやニュウの入ったものが廉価で入手できますが、補修が必要ですので自分で補修して使っています。



先週末にもアンテイークモールを訪れてみましたが、お猪口のいいものは並んでいませんでした。



品薄なのか、売れないのかはよく解りませんが、油壺、くわらんか碗などもなく、伊万里のいい作品群は入手が難しいようです。使っているので補修も剥がれてきていますが、景色になっているのでそのままにしています。



以前のように「仕方がないからお猪口の面白そうなものでも買おうか」ということはままならないようです。



それでもインターネットには品数が豊富なようですが、初期伊万里など時代の古い作品は、贋作もあるでしょうからインターネットオークションはリスクが高いかもしれません。幕末から明治期のおもしろい図柄は入手しやすいようですが・・。



なんだこれ? 植木を手入れする人物? 下記の作品は太公望・・。



時代の見分け方は高台の底らしいです。下は幕末から明治期の作品の高台。



さらに江戸期。



高台が高めのものは古い? 一概には言えないようです。



ただ、これらを集中的に蒐集するのは私は好みません。並べてみても水芭蕉の群生を見ているようなことになり、マニアックすぎるきらいがあるからですが、あくまでも個人の趣向の問題ですね。

いずれにしろ、以前は骨董市でたくさん見られたお猪口ですが、いったいどこへ消えたのでしょう?


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