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Channel: 夜噺骨董談義
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瀞潭 福田豊四郎筆

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5月の帰省に際しての目的は

ますは春の花々を愉しむこと。



次に毎度ながら家々の健全性を確認すること。



今回のちょっとした目的は探し物、ありました!

前回、本ブログで記載した日本三大遺訓から思い出したもので、我が祖父の処世訓。母方の叔父が祖父の処世訓を、書家に書いてもらった額を居間に飾ったあったものを、小生が書き写し、知り合いの書家にやはり書いてもらい、額入りにしてあったもの。額装にしていないものも数枚あっがはずですが、今回は探しきれませんでした。



「強く正しくにこやかに
 前見てすすめ下みて暮らせ
 真剱の前に不能なし
 論で負けて 行で勝て
 長者と交われば悪友無し
 話上手より聴き上手
 己に克ちて人に譲れ
 急ぐな休むな怠るな
 向上に終点無し
 仲良く働け笑って暮らせ」

尋常小学校卒業の祖父、なかなか難しいことが書いてあるようです。

「強く正しくにこやかに 前見てすすめ下みて暮らせ」がこの世の基本。どこかの知事さんにも読んでもらいたい処世訓のようです。税金でインターネットオークションや高級ホテルに飲食・・・。なにかを勘違いしているようです。



我が家はお惣菜・・、ともかく食べろや食べろ!

祖父や父は材木業を生業にしていたことから、家内が「この作品を購入したら?」という勧めもあって、今年の帰省の時に骨董店から購入した作品です。もちろん自腹・・。

瀞潭 福田豊四郎筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱二重箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横612*縦1270



題にある「潭」は「たん」と読む。「潭」は「ふち 水を深くたたえた所」という意味。



描いてある川はむろん米代川。



いろんなことを背負って川は流れていくもの。「振り返れば 遥か遠く故郷(ふるさと)が見える」は景色ではなくきっと故郷で生きてきた家族のことかもしれません。



「川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて」



「生きることは 旅すること 終わりのない この道 愛する人 そばに連れて 夢 探しながら」

小生も東北の田舎からはるばると遠くへ来たものです。「仲良く働け笑って暮らせ」を求めてきたように思います。



鐸 武州住 正義

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昨夜は同僚らと上野で日本酒を痛飲・・、久方ぶりに気持ちよく酔い帰宅が遅くなりました。

帰省先の未整理の作品の中に何点かの浮世絵があります。幾作品かはすでに本ブログで紹介されています。本日は刀剣がらみの作品の紹介です。



浮世絵は基本的には赴任地の骨董市や骨董店で見つけたものです。高くても一万円くらいだったと思います。



店先に積まれた版画の数々を座り込んで、一枚一枚めくりながら選んだものばかりです。当然ながら痛みのあるもの半端ものばかり・・。



初代豊国? 実は浮世絵は途中でつまらなくなり、蒐集はやめました。マニアックすぎるのと、いい作品になるとお値段が高いのがその理由でした。



それでも浮世絵は嫌いではありませんので、美術館にはよく観に行きますが、作品が小さいので行列になるのが難点です。

並んでいるアベックなどの鑑賞談義を脇で聞いていると、いかに若い方が浮世絵の基礎知識がないのかよく解りますね。基礎知識であるということすら知らないようです。伊藤若冲展もこのノリで観に行くから混雑するのでしょう。基礎知識のない方は展覧会を見るよりも画集で充分です。一人に画家を中心とした美術館鑑賞は前もって知識が無いとまったくもって無駄足です。

さて本日は市川男女蔵が差している刀剣類についての投稿です。

先週の金曜日はサミット? ともかく都内はポリスがあちこちにいました。そんな状況の中、銀座の通りを刀剣を持ってお店を探してウロウロ・・・

長くて重い荷物をかかえながら、ようやくお店にたどり着くと、お店の人が「よくこんな状況で、平気で刀剣を持って歩けましたね?」と・・・。「は?」

そういえば朝の出掛けに家内が刀剣を持って小生が家を出ると「今日は都内は厳戒態勢だって? 大丈夫?」と言っていたのを思い出しました むろん登録証は持ち歩いていますので、銃刀法違反ではありませんが・・。

鐸 武州住 正義
花籠図 真鍮地 長方丸 高彫透し
縦73*横69*厚さ3.5



武州伊藤派には正義(まさよし)は二人おり、一人は伊藤家三代目の門人、もう一人は幕末の頃に存在していた正義だそうです。どちらの作かは後学としますが、出来は上作の部類となると思われます。鐸は思いのほか廉価なものです。ちなみに「武州は江戸近辺」のことらしいです。鐸を扱う鍛冶職人はたくさん居たのでしょう。



もともと、刀剣類にはほとんど知識のない小生ですが、代々伝わる刀剣や依頼を受けた刀剣類が、そろそろちゃんとしたメンテナンスの時期にきており、そういう指導を仰ぐなら一流どころと思い立ち銀座に本店のある店を訪ねた次第です。

最近、縁があって舞い込む作品の数が増えてきており、整理が追いつかない状態です。そこへまた不得意な刀剣類が・・・。



刀剣類はまとめてどのようなメンテナンスにするのか、見積もりしていただくことになりました。昨日、鑑定書類が届き刀剣はすべて真作とのこと、ただしメンテ費用が高い 

本作品は刀剣と一緒に所蔵してある鐸ですが、保存箱がこれだけないので保存箱を買いにいったついでにお話をいろいろと聞いてきました。



「刀剣類を扱う人はどうも胡散臭くてね」と正直に小生がお店の方に言うと「胡散臭く見ますか?」と言うので「見えますね。」と・・。

胡散臭い人間が刀剣を持ってポリスの間をぬって銀座で店を探し回った 別段、悪いことをしているわけでもないので、そういうところは小生は無頓着・・。

基本知識を知らないということすら自覚のない方が一番始末に悪い。趣味の範囲ならまだ許せますが、仕事となると使い物にならない人材となります。ともかく知らないことは早期に解決すること。胡散臭い人であろうと初対面であろうと一流のプロに尋ねることです。

ともかく刀剣類は保存をきちんとしておかないといけませんので、基礎知識でしたがいろいろと勉強になりました。基礎知識のない小生はなんでも直接詳しい方に聞くタイプ、厳戒体制の中、出かけていくのだから展覧会に行くより始末に悪い。




寒山拾得図 山田真山筆

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息子は大の字になって寝ています。ほおっておくと布団からどんどん離れいきますが、どうもこれは遺伝らしい・・??

夜はぐっすり眠ること。日中は仕事で悩んでも夜はぐっすり眠れたら一人前というのが小生の持論・・。



さて本日は・・。

日本画はどうも現代は停滞しているように思えますが、その原因は本当の日本画の世界にたどりつけていない我々がいるように思います。著名な近代画家が果たして本当に我々の眼を愉しませてくる画家なのであろうか? 横山大観、伊東深水、上村松園、片岡珠子ら・・、どうも解りやすい単純明快な作品が多く、もっと深い味わいのあるものを現代の本当の知恵者は求めているように思います。

本日紹介する画家は山田真山で本ブログでは初登場です。山田真山は田中一村とともに沖縄を代表する画家のひとりです。

寒山拾得図 山田真山筆
絹本淡彩軸装 軸先鹿角 合箱 
全体サイズ:横549*縦1865 画サイズ:横405*縦1113



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山田真山 :(やまだ-しんざん)。明治18年(1885年)~昭和52年(1977年)。大正から昭和時代の彫刻家,日本画家。沖縄を代表する芸術家の一人。明治18年10月27日、壺屋に生まれる。童名・真山戸(まやまと)。父は士族であったが、世替わりの時代に一家で八重山に移住し、苦しい生活を送った。



真山は幼少時から手先が器用なことで知られ、その才に着目した大工に引き取られ、十代前半に東京へ移り住みました。大工仕事を通じて造形に目覚めた真山は、苦労の末、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学し、彫刻と日本画を学んだ。彫刻を高村光雲,山田泰雲に学び、泰雲の養子となる。



画は小堀鞆音(ともと)に学ぶ。高名な芸術家たちに師事した真山は才能を開花させ、1914年に文展に入賞したことを皮切りに数々の絵画・彫刻作品が入選。



昭和初期には明治神宮聖徳記念絵画館に「琉球藩設置」を奉納するという栄誉も得た。1940年に沖縄に帰郷した真山は悲惨な沖縄戦を体験し、息子二人が戦死したことも相まって世界平和への想いが強まり、1957年、72才にして平和祈念像の制作にとりかかった。しかし、その完成を見ずして197年、92才で亡くなる。像は真山の制作した原型をもとに、翌年完成し、糸満の平和祈念堂に安置されている。

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なんでも鑑定団でも高値をつけるなど根強い人気のある画家です。



全国的にはあまり知られていないかもしれませんが、沖縄では非常に人気がある画家です。



タッチや線で立体感を出すのではなく濃淡や陰影で描いており、西洋画の陰影法を取り入れている画家です。そういう意味で全体的に古臭さを感じさせない新鮮な画家です。



忘れ去られた画家と称して差し支えない画家ですが、目先の画家に目を捉われていて本当に評価すべき画家を置き去りにしているようにも思われます。



千住博、草間彌生、・・本当の良い絵なのだろうか?? 

この世の真の姿をとらえるには自分の精神状態を平静に保てること。ともかく夜はぐっすり・・・。

氏素性の解らぬ作品 伝南京赤絵 雲流文様変形鉢 

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原稿を休日に書き溜めているので、投稿し忘れている原稿もあります。

ひとつ気前の5月の連休前でしたが、週末に強風の中を博物館まで出かけてきました。天気の悪い休日は人も少なくじっくり見られるからです。



青磁蓮弁紋鉢・・、鈍翁の愛蔵の作品。



見事に銀化した唐時代の作品。



このような作品をじっくり見られて、なおかつ写真撮影もオーケーなのは嬉しい展示会です。本などで見るより実物を見るのが一番ですが、それでも直に触れられないと本当は作品をわかることはできないのですが・・。そう、実際に購入して自分のものにしないと作品は結局は理解できていないものです。

展示の中に幾つかの明末の赤絵の見事な作品がありました。



この作品は俗に言う「明末呉須赤絵」という作品群に属します。



他にも宋赤絵の作品があり、安田靭彦の愛蔵の作品らしいです。



閑話休題、本日はその流れの中にあるらしい?赤絵の作品の紹介ですが、「氏素性の解らぬ作品」です。

展示作品とは比べ物にならない下手な作品?で、「南京赤絵」として売られていましたが、南京赤絵というより形の面白さに惹かれての購入です。つけまつげ?の龍がなんとも・・・。

氏素性の解らぬ作品 伝南京赤絵 雲流文様変形鉢 
合箱
幅205*奥行123*高さ45



高台内には署名はなく、砂付高台と断定できるものでもなく、虫喰も顕著ではない。



明末から清朝にかけての赤絵とのことですが、写しも多いので断定はできません。おそらく古くても清朝・・。



虫喰がさほどないことから時代の下がった清初めの赤絵の作と推察されます。南京赤絵という説明で売られていましたが、分類上は色調からは「五彩」が適切かもしれません。



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南京赤絵:350年くらい前の中国明時代末期から清王朝初期に掛けて景徳鎮の民窯で作られた南京赤絵。

17世紀に入ると各地で農民の反乱が相次ぎ明王朝は衰退しその結果景徳鎮の官窯は消滅したが、民窯はしたたかに生き残りむしろ自由闊達な赤絵を作りはじめた。これを南京赤絵という。

南京赤絵の生地の多くは従来の青味が強い白ではなく乳白色を帯びていて、これは色彩を一層際立たせる効果があります。絵付けには基本的に染付けは用いず、色釉だけで彩色され、その色数も初期は赤、緑、黄と少なく作風はきわめて豪放です。その後、紺青、紫、黒、褐色などの色が増えるとこれらの色数を組み合わせ繊細華麗な作風へ変化しました。



当時の主要な輸出品で西欧諸国に売ったものは壷や花生けや蓋ものなど大作が多い。ところが日本に輸出したものは茶道具あるいは鉢や小皿中皿など食器が多い。



デザインも日本人好みの余白を十分とった絵画的な構成になっています。これは南京赤絵の手法です。高台内は車輪高台で、砂付高台。評価は寸法によって大いに違い、辺20センチ程度のものはかなり高価で、辺12センチの同じような皿だと30万円程度になる。

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五彩のような余白が少ないものでもなく、南京赤絵のように余白を生かしたものでもなく、判断は難しいですが今のところ時代の下がった「南京赤絵」という当方のジャッジですが、最終的にはもう少し勉強してみる必要があるようです。

数千円で入手できる清朝の模倣品でも近年は「時代がある骨董品」として扱ってもおかしくない時代になってきました。

氏素性の解らぬもので遊ぶのも恥ずかしながら小生の骨董の守備範囲・・・。

昨夜は若い女性に誘惑されるという滅多に見ない色っぽい夢、昨夜は赤坂で元同僚らと飲みすぎたか? はたまたこの器の龍のお誘いか? クワバラクワバラ・・・

日露戦争従軍図 四福対 寺崎廣業筆 その54

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天野方壷の四幅対の作品の保存箱が出来上がってきました。この作品がどうこれから評価されていくのかは、小生の知るところではありませんが、天野方壷の作品の中で最高の出来であることには相違ないと確信しています。



自分の見識の範囲で粗雑に扱われていた作品をきちんと遺せるものとしておきたいと思います。四幅対の保存箱は既製品にはないので、特注品でけっこうお高くつきました。

さて本日の作品は同じく四幅対の貴重な作品です。

寺崎廣業は宴会、旅先での席画が得意であったらしく、地方の老舗旅館などに彼の水墨画をよく見かけます。それらの作品はとるに足らないつまらない作品が多く、もう少しいい作品を飾ったらいいのにと思うには小生だけではないようです。

存命中は懐も潤沢な画家であったとみえて、千坪の邸宅を構え、欄干のついた数十畳の画室兼客間で、相撲取や芸人に取り巻かれ、庭前には篝火をたき、日本橋の美妓を大勢並べて豪奢な酒宴を張るという生活ぶりだったようです。田舎の成り上がり者の典型です。

いろんな意味での大衆文化の代表格の画家で、多作で雑な絵も多いので現在では非常に評価の低い画家になっています。「なんでも鑑定団」の評価を鵜呑みにしてはいけません。

それでもそれなりにその時代に評価されているのは、なかには良い作品をたくさん描いていたからでもあります。贋作、駄作の多い画家ですので選り好みをきちんとするといい作品があるようです。

本日はその寺崎廣業が日露戦争に従軍した時に描いた珍しい肉筆の作品です。

日露戦争従軍図 四福対 寺崎廣業筆 その54
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱入
全体サイズ:縦970*横385 画サイズ:縦245*横315



1904年(明治37年)には日露戦争(1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日)の従軍画家となり、その経験を生かして木版画による戦争絵、美人画、花鳥画を多く描いてます。



寺崎廣業が従軍したと思われる日本第二軍は、 明治37年(1904年)5月上旬に遼東半島の西岸に上陸し、5月25日には金州・南山に 布陣するロシア軍を攻撃しています。



従軍していた時に当時は管理部長「橘周太少佐」、のちの軍神、橘大隊長と知り合ったとのことですが、健康を害して3か月で帰国しています。非常に短い期間の従軍でした。

 

寺崎廣業の作品はその落款の「業」の書体から「二本広業」、「三本広業」と区別されていますが、だいたい四回ほど書体を変えているとのこと。「二本広業」が明治35年頃から42年頃までの7年ぐらい、以後は「三本広業」です。三本の方は、頼山陽の書体の影響だともいわれています。



落款の書体と絵の題材から時代は一致しています。



従軍していた時か従軍後の明治37年頃の作品と推察されます。



1898(明治31)年に東京美術学校の助教授になりますが、翌年同校長岡倉天心の排斥運動が起こり、岡倉天心が辞職するとその後を追い寺崎廣業も辞職しており、その後日露戦争の従軍画家となったようです。明治40年には1回文展に大作『大仏開眼』を出品するなどしています。



従軍期間は短く肉筆による戦争画は珍しくとても貴重のように思います。しかも四幅対で肉筆の揃いであることは貴重な作品だと思います。



本作品の版画の作品はあるようですが、わずかに背景など微妙に違うようです。



戦争を描いた作品に賛否はあるでしょうが、当時の画家の立場は微妙です。戦争というものは人間の立場を複雑にしますが、真はひとつ、戦争はしないこと、むろん核兵器などはもってのほかですね。



日露戦争の勝利に沸き立つ人達には少なくても喜ばれた作品でしょうが、描いた寺崎廣業の心境は推し量れません。



淡々と写生しているという感じの作品で、戦争を鼓舞しているふうでもないように思われます。



いずれにしても、骨董というものは、世評や金額の評価に流されず、真贋も云々という周囲に流されず、たんたんと己の見識を高めていくことが肝要のようです。



戦争のない、今の時代ほど趣味に興ずることができる時代が今までなかったことをかみしめながら・・・。



父は戦地の満州からの帰還兵、義父は特攻隊、寺崎廣業は郷土出身。



さてこの四幅対の掛け軸もまた保存箱がありません。如何にせん・・・ 

作品を整理してると、ときおりですが「こんなこをしていてなんになる」という思いにかられることがあります。時間と手間とお金が浪費するばかりかと・・。



ただ蒐集の役割としてきちんと遺すことも大切な役割のように思います。戦争というものの現実も将来に遺せるなら一石二鳥でたいへんに大切なことかもしれません。

将来に何を遺せるかをを考えるのは、仕事でも趣味でも非常に大事なことで、そこにはすでに損得は存在し得ないものでしょう。戦争なども同じこと、国同士の損得よりも優先するものがある。中国はそれを忘れている道徳観が皆無の愚かな国。





源内焼 その78 三彩山水図輪花四寸皿

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茶室の未完成のものにブラインド工事があります。郷里ではさすがに和室が日光に耐え切れずにつけたことがります。



和風のロールブラインドですが、これが意外に高いのです。今回の倉庫改修に際しては工事費不足で見合わせました。ただ、これは実に良い。汚れないし、壊れないし、20年以上経つのに昨日付けたように古びていないのです。

とりあえず改装した茶室で緊急を要する部分には簡単な簾をつけましたが、これはホームセンターで安く売っていますが、さらに安くあげるために車庫にあった中古品を自分でつけました。



理想はこのタイプ・・。家内はホームセンターで買ってきた安物のカーテンでいいと・・・。このあたりの価値観が小生と家内の溝らしい



さて、本日は源内焼の作品です。源内焼の詳細についてはまだ明らかになっていない点が多々あるようです。江戸期の源内焼であるにも関わらず、あきらかに焼成具合の違うものがいくつか存在し、窯が複数あったのか、途中でなんらかの釉薬に違いが出た可能性があるのではないかと推察されます。まるで最近出来たような発色のものと薄汚く汚れやすい釉薬のものが混在しています。

伝源内焼 その78 三彩山水図輪花四寸皿
合箱
幅130*高台径*高さ21
 


源内焼には吸水性のある汚れやすい作品のほうが圧倒的に多いのですが、時にはこのように今焼きあがったかのようなまことに綺麗な作品があります。



なんでも鑑定団に出品された地図皿の説明にあるような「軟質施釉陶器にありがちな釉薬の剥落、擦れ、色褪せなどが一切なく、いま窯から出したかのよう」という焼成の具合になります。



この作品群は見込みに山水風のデザインで、見込み内の書き込みは非常に少ないようです。



他の投稿作品では似たような作品に下記のものがあります。

源内焼 その67 三彩山水文大皿
讃楽」銘 合箱
口径367*高台径*高さ62

復興された源内焼はこれよりも稚拙なので違う窯のものだと思われます。

本ブログでは繰り返しになりますが、明治期に復興された源内焼は出来もよくなく、江戸期の源内焼とは一線を画すべきだと思っています。

また源内焼以降、四国で焼成された多くの源内焼の影響の見られる作品もまたとるに足らぬものばかりです。



本作品の釉薬の具合、そして源内焼特有の臭いは源内焼そのもののようです。



釉薬の味わいも深いものがあります。



骨董にのめりこむと「知らないことが益々増える」という不思議なジレンマに陥るもののようです。



重ね焼きのような見込みの目跡もまた・・。これは他の源内焼にはまったく見当たりませんが・・??



ともかく大きさは本当に小さく、手頃なかわいいお皿です。通常の源内焼よりも色が鮮やかです。



不思議な魅力のあるの源内焼です。骨董の世界にもいいものは古びたところがないという作品が多々あるようです。

ものづくりはではいいものは新しく見えるものです。安くて材質の悪いものはすぐに古びます。ブランインドもいいものを・・・。今日の主旨はそこ、いつになるやら・・。

氏素性の解らぬ作品 無量寿仏 伝呉昌碩筆 その2

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休日は息子と銀ブラ・・・。



またリュックを背負って夜道を闊歩して歩く我が子の写真に、2歳半、大きくなった。



さてと大きくなったので、物騒な刀剣店へ同行。



小生と同じ年齢の胡散臭い親爺としばし歓談・・。刀剣の手入れの基礎知識を教えていただきました。



殺生に関連する品々をみたので、本日は仏の作品。

帰省に際して、遊びに出かけない日は押入れの中を物色・・、転勤にてあちこち転々としていた頃にその地方、その地方の骨董店などで購入した作品を見直してみました。ともかく資金のなかった頃で、そんなにいいものはあるはずもなく、ガラクタばかりですが、当時の思い出が蘇り懐かしくなりました。

本作品はどこで購入したのかは失念しましたが、呉昌碩という画家・書家のことも録に知らずに購入した頃で、まくりの状態で売られていたように思います。

無量寿仏 伝呉昌碩筆 その2
紙本水墨着色額装 縦450*横330



描かれたのは「丙申吉年 呉俊卿敬製」とあることから、1896年(明治29年)と推察されます。



呉昌碩(中年から昌碩と名乗り、その前は俊卿と称した)が53歳の時、絵を本格的に任伯年に学び、著名になり始めた頃と思われますが・・。



出身地からの名の「安吉」の朱方印が押印され、左下には遊印?が押印されています。



「無量寿仏」というの題は阿弥陀仏の異称のようです。阿弥陀仏は西方浄土の教主で、すべての衆生を救おうと48の誓いを立てた仏。

浄土宗・浄土真宗では本尊とし、念仏による極楽往生を説いています。弥陀、阿弥陀、阿弥陀如来とも。中国では画題に取り上げられることが多く、このような姿で描かれることも多いとのこと。



賛の読み、意味は不明で後学によります。



肉筆には相違ないのですが、汚れ、虫食いの跡があります。中国や日本では呉昌碩の人気は高く、工芸品が水孔印刷(精巧な版画)、模倣作品が横行していますが、本作品も模倣作品の部類かと思っています。



入手経緯は前述のように失念しましたが、購入時は補修されたまくりの状態であり、額装としたことを覚えています。絵が面白いので購入しましたが、掛け軸に表具するほどもなかろうかと在り合せの額に入れて放置していました。

今では所蔵品を処分したりして資金を調達できていますが、資金ない頃にはガラクタといえども1点ずつ、調べながら慎重に購入していたことが、今になって少しは役に立っているようです。

「初心に戻れ」ということか、それにしても刀剣は管轄外。

本日は全国挨拶廻り、まずは名古屋へ。

柿釉抜繪皿 浜田庄司作 その43

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昨日は名古屋へ挨拶回り、帰りに時間の許す限り元同僚らと一献、帰宅したら息子は熟睡していました。今朝は小生のパソコンの脇で「抱っこ」・・、ここ数日帰宅が遅いので甘えているようです。

先日、祖父母が畑で採ってきた夏蜜柑を会社で配りました。ピーナッツ、芋、えんどう豆などに続いて、自宅では消費しきれないものは会社の同僚でお好きな方に配っています。



本日はずいぶん前に入手した浜田庄司の定番のお皿です。定番にはそれなりの創意工夫があります。

浜田庄司は赤粉を低温で焼くなど改良を重ね、「柿釉」に生み出します。さらに柿釉に別の材料を加え、多彩な色を生み出しました。その材料のひとつが裏山のクヌギの木ですが、燃やして出来た灰を水に沈ませアクを抜き、浜田庄司の作ったレシピに基づいて柿釉に混ぜると、全く別の釉薬が生まれます。陶工はおのれの独自の釉薬を持つものです。

柿釉抜繪皿 浜田庄司作 その43(整理番号)
共箱 花押サイン入 
直径272*高さ50*高台径178



本作品は蠟で描いたものに釉薬を掛けて焼成し、蠟が溶けて釉薬が掛からなかった部分が絵になるのですが、これはポピュラーは技法です。ロウケツ染めの手法を取り入れた蝋抜などと称される技法です。



蠟が固まるまでの間の瞬時に描きますので、慣れた筆遣いが必要です。

東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科に入学し、そこで友になった河井寛次郎は卒業して現在の京都市陶磁器試験場に入所しましたが、浜田庄司はその後の二年間を板谷波山に学び、黒田清輝が設立した白馬研究所に通ってデッサンを修練しています。

美術と陶器の授業を受け持っていたのが板谷波山で、尊敬していた波山のところへ行き、「日曜の度にお手伝いに上がっても良いでしょうか? 学校以外に教えていただきたいのです」と濱田はお願いしたたそうです。

波山宅の棚に益子焼の山水絵の土瓶があり、興味をもった濱田は大正9年はじめて益子を訪ねました。益子は東京に近く、いつでも行きたいときに行けるし、そのときに「ここは住むのに理想的なところだ」と考えたようです。

このころどこの家庭にもみられたこの土瓶、生涯、益子の土瓶に山水を描きつづけた「皆川マス女」は有名な絵付師でした。絵に使われた筆は茶の犬の襟髪にある固い毛を鋏で切って、無駄毛をとったものを糸で巻いて縛り、細竹の柄になる先を四つに割って開いて、毛を押さえて糸で巻いて自分で作ったそうです。一日に千個も描くから筆の線に力があり、少なからず絵付けには「皆川マス女」の影響を受けているのでしょう。沖縄の絵付もむろん影響を受けています。



ただ喜寿記念に刊行した『濱田庄司七十七碗譜』の茶碗作りの一文の冒頭で、濱田庄司(1894~1978)はこのように回顧しています。「師匠はない方がいい。ぼくも師匠はない。自分のやりたいことがやれる。それが個性だ。河井寛次郎、バーナード・リーチらと友達になって今の自分になった。師匠に三年ついて習えば、師匠から脱皮するには六年はかかる」と・・。



大正9年、京都の市立陶磁器試験場に久々に寛次郎を訪ね、そのときには河井は相変わらず金ボタンの学生服をきて釉の濃度の測定をしていたそうです。「一緒にやろう!」と、河井にいわれて試験場に就職することを決意したとのこと。このとき、濱田22歳。

寛次郎と素地・釉薬・絵具・窯・焼成法などの研究に従事するなど恵まれ、釉薬の研究に励んで合成呉須の研究をはじめ、青磁、辰砂、天目など約一万種の釉薬の調合を試みています。

轆轤は付属伝習所轆轤科の生徒であった近藤悠三(当時・雄三)に手もみから手ほどきを受け、このころ五条坂付近には諏訪蘇山や宇野仁松という青磁や辰砂の名手がおり、奈良県大和安堵村に富本憲吉を訪ねたりして多くの先輩陶芸家と交友がありました。



バーナードリーチとのイギリスでのスリップウエアの製作を経て、大正13年、濱田は益子に入りましたが、田舎の益子ではよそ者扱いされて部屋も貸してもらえず、旅館暮らしで「共産党員ではないか、スパイではないか」と怖れられ、警察や役場の人たちに監視された日が6年間続くことになります。



そのためもあって、浜田は沖縄で製作を行ないました。濱田にとって沖縄壺屋での陶工の仕事振りには学ぶことが多く、仕事場の前に拡がる砂糖黍畑、その見渡す限りの光景に興味を覚えて、ある模様を生みすこととなります。子供の頃から魯山人同様、画家を夢見ていた浜田庄司のトレードマークとなった「糖黍文」である本作品の文様です。



リーチがあるとき、「二尺の大皿に釉の流しかけをするのをみたい」と言ってきたので、浜田庄司は柄杓に半分ほど釉をすくって、皿の向こうから真っ直ぐな線を引くために、縁から一尺ほどところから流しはじめ、作為を持たずに手許まで一気呵成に柄杓を引いた。横に流すのは難しいので、皿を九十度回転させ、もう一度おなじように釉を掛け流した。このような大皿に流し掛けで装飾し施釉するのに実際は十五秒とかからない。

「早すぎるのではないか。いつも満足のいく出来栄えか。装飾に十五秒しかかからないのにどうして高価なのか」と人に言われたので、浜田庄司は「皿を作るには六十年と十五秒もかかっているのです」と答えた。リーチも「うまく答えた」と手を打って喜んだという逸話は有名な話です。



益子周辺で産出される赤粉(芦沼石)は含有鉄岩で、益子独特の柿釉となり、土灰を加えると黒釉などの鉄釉となります。この独特の柿釉薬と独特の焼成が浜田庄司の作品の味わいです。



浜田庄司は作家と呼ばれること好まず、自らは工人と称して作品には銘を入れていません。河井寛次郎には銘を刻した作品はありますが、浜田庄司には皆無です。それゆえ浜田庄司の作品に共箱は不可欠な条件になります。ご子息の浜田晋作の箱でもかまいませんが、価値はある程度下がることになります。共箱がないとほとんど価値がないものとされ、それゆえ共箱の偽物がかなりの数出回っており、その数は真作を上回っているかもしれません。



本作品のように花押まである作品は珍しいものです。本作品のような定番の抜絵の作品に花押があるのはよほど巧くできたという思いからかもしれません。

 

浜田庄司は昭和43(1968年)年5月に故郷の川崎市ではじめて作品展を開催しましたが、事前に作品展の準備のため集めた作品を濱田が見て、「これは私の作ったものではない」というものが何点かあり、しかも、集められた自分の作品にA・B・Cのランクをつけたそうです。
「Aは必ず展示してください。BはAで作品が埋まらなかったら出して、Cは出さないでください」と・・・。



浜田庄司の作品には贋作はむろんのこと、でき不出来が多く存在することを念頭に置いておく必要があります。

でき不出来の判断は? それは感性です。仕事も趣味も最後は感性が磨かれているかどうかの差です。

本日は採用面接、人を見る感性はどうも苦手・・。

湖上の岬 福田豊四郎筆 その49

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5月に帰省した際に小坂経由で十和田湖へ行ってきました。わが郷里の隣町の小坂は昔鉱山で栄えていた町です。現在の小坂鉄道は電車は走っていません。



小坂駅の周辺の線路沿いは桜が満開でした。



ゆっくりして自宅を出てきたの、小坂の小洒落たレストランで昼食。



窓から鉱山事務所跡を眺めながら食事できます。



この町は福田豊四郎の生誕の地です。地元で薬屋さんをやっていたそうです。



福田豊四郎の作品を見ようと訪れた地元の博物館は休館・・、5月の連休中に休館とは! 役所だね。それではと十和田湖へ・・。



中学生の頃には自転車で来れた距離です。車ですぐの休屋経由です。息子は乗ると言い出して湖上の人となり、ご機嫌です。



これがヒメマス・・。



「うめ~」



ついでに奥入瀬へ・・。



さらについでに十和田湖一周、山の上は雪・・。



見所たくさんの我が郷里。遊びに来てはいかがですか?



ということで、本日は郷里を愛してやまなかった福田豊四郎の描いた十和田湖の作品です。

湖上の岬 福田豊四郎筆 その49
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦 12号(未計測)



2015年9月に帰省した際に、郷里である秋田県大館市の骨董店より購入した作品で、合わせて購入した作品が「田園交響楽」(同サイズ)です。



「一恵堂」のシールがあり、日本画 の額装屋で有名なのは「岡村多門堂」と並ぶ「仁科一恵堂」のこと。

 

郷里を描いた福田豊四郎の作品はいいものです。出来のよい作品はなかなか入手できなくなっています。それほど高価ではなにのですが、好きな方のところに納まっているということのようです。



昔の十和田湖はのどかでした。観光客はそんなに訪れていなかったように思います。



ただ、今の十和田湖は閑散としてきています。ロッジも廃屋となってきています。



5月の連休も小生のルートは車も少なく、昔の自然をそのまま楽しめるようになってきました。



朝、ゆっくり出てきて、小坂から十和田湖を見ることができました。



自宅近くで夕食を食べて、息子は終始上機嫌でした。

さ~、皆さんも自然を満喫できるわが郷里へどうぞ。この季節、桜の弘前だけが観光地ではありません。

さて、本日は早朝より四国へフライト、ただし日帰り。


古備前壷 その2 

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出張帰りはお菓子のお土産が多いようです。

週末は魯山人展を見に出かけましたが、帰りについでにアンテイークモールまで出かけました。



日頃あまり一緒にいないせいか「抱っこ」とねだる回数が多く、電車の中も、展覧会場も、銀座の通りも抱っこして歩いていたら、体のあちこちが筋肉痛・・。店で骨董を見ている間は、いつものお店のご主人に息子の相手をしてもらいました。



「なにかいいのはないかな~」というご主人の言葉に、「ないね~」と息子 それを聞いていた皆さんは

本日は、以前、本ブログで「雪に備前と戯れる」(実際は信楽もありますが・・)で紹介したことのある備前の壷の作品です。

古備前壷 その2
箱入
口径約130*胴径300*底径約170*高さ360



各々作品を焼いていた備前焼の陶工は、戦国時代の戦乱を逃れるため3つの大窯、共同窯を作って焼いていおたそうです、その作品が区別できるように窯印を入れており、その窯印がこの作品では見所となっている正面に記されておりこれが景色となっています。窯印が景色なっているのがこの作品の持ち味です。



備前焼に、彫られた窯印が見られる様になったのは、一般的には、室町時代中期以降であると言われています。即ち、大窯を共同で焚くようになって、各自の製品がわかる様に手印を入れたのが始まりであろうと思われます。窯印も後代になっては、その様な目的だけではなく、自己の製品の優秀性を表示する商標の如きものに変わってきたのです。



なお備前の陶印はその大部分が共同窯に於いてその所属を明らかにするための窯印ですが、その窯印には家号を用いており、丹波では共同窯の場合には各窯の部屋のよって区別しているため窯印の必要がなく、主として作者名が彫ってあります。



窯印の書かれた場所、大きさなども多様で、室町時代後期のものは大きく、肩、胴部に彫っていますが、時代が下がってくるに従って小さく、底部に彫られるようになり、押印も桃山時代から見られるようになって、江戸中期以降は押印の方が彫印より多くなります。



いつの時代に製作された作品かは詳細は解りかねますが、本作品の特徴は

1.肩がはった状態ではないが、非常に美しい肩を形成している。
2.窯印が正面に景色となっている。
3.胴体後部に複数の輪線がある。
4.自然釉はまったくないが、土の味わいが深い。

なお備前の大型壷には丸胴型のものはなく、全て長胴形であることが特徴だそうです。備前で釉薬がわざとらしく流れている作品は小生は好みではありません。それはすでに備前焼ではないと思っています。信楽には敵いませんからね。素肌の良さが古備前の良さです。



はてさて、壷のような重いものは小生には縁の無い世界。色男は金と力はなかりけり・・、製作年代を推測できる資料はここまでです。いったいいつ頃の作品でしょうね?



室町中期から末期の古備前というところでしょうか?



備前や焼き締め関連の焼き物にスプレーで水をかけて、焼き肌をよく見せることが茶席でよくあります。



真似をしてみたのですが、すぐに水が乾いてまたすぐに水を吹く掛けたくなるものですが、これは邪道です。間違った慣習ですね。



やはり、庭にでも置いて、雨が降ったり、陽があったりするのを愉しむのが一番ですね。



雪の中に置いて鑑賞するのもいいですが・・。



燈籠との対比もまた面白い。



車庫裏に放置されていたおかげで味のあるものになりました。



どこにどう置いておくのかがいかに難しいかが改めて考えさせられます。



配置は微妙なもので人も骨董品も共通しています。



苦労した人間は味があるようで・・・、否、無垢な人間も味がある



もっと評価されるべき画家 平安長春図 下村為山筆

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最近、若い社員の幾人かが公務員試験に合格した理由などにより退社しています。地方公務員もひと手が足りないようですが、せっかく一人前になりつつある社員が退社していくのは、なんともやり切れません。もっと今の仕事の魅力を伝えていかなくてはいけない旨を痛感しています。

さて本ブログもある意味で魅力を伝える一助になってくれればと思います。こちらは骨董の噺ですが・・

本日紹介する下村為山という画家は「もっと評価されるべき画家」というか「忘れ去られた画家」というべきか、知っている方はほとんどいないかもしれません。作品の評価も数千円程度の画家ですが、絵の線が鋭く、並々ならぬ才能を認めざる得ない画家のひとりです。富岡鉄斎ほどの哲学性はないにしろ、田中一村、呉昌碩、斉白石にも劣らない画力を持つ画家と評価しているのは小生だけではないでしょう。

本ブログでは初めての紹介ですが、いい作品が入手できたので紹介します。

平安長春図 下村為山筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横490*縦2090 画サイズ:横330*縦1290



賛には「平安長春図 為山小隠七十画 押印」とあります。

竹は、風雨でたわんでも折れることがないところ から「平安」、薔薇はその花が四季咲くことから「長春」とも呼ばれ、花鳥画にはこうした吉祥的な意味合いが込められ、この二つを組み合わせて描かれることが多い画題です。(橋本雅邦「平安長春図」 山種美術館蔵など)。



下村為山の紹介記事より

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下村為山:(しもむら いざん)本名を純孝。別号は留華洞、不觚庵、雀蘆、俳号を冬邨、百歩、牛伴など。洋画家であり,俳人であり,後年は俳画(近代南画)の第一人者家。子規と感化し合った日本画家。865(慶応元)~1949(昭和24)年。

慶応元年5月21日松山藩士下村純の次男として松山城下出渕町(現松山市三番町)に生まれる。幼少より絵を好む。 明治15年18歳で上京,初め岡松甕谷の紹成書院に漢学を学び、のち本多錦吉郎の画塾「彰技堂」に入塾, 23歳にして小山正太郎の不同舎に学ぶ。



明治23年の内国勧業博覧会出品の「慈悲者殺生」は二等妙技賞を受賞,新鋭洋画家として活躍する。続いて24年の明治美術会春季展に「池辺秋暁」、同秋季展に「敗荷鴛鴦図」を連続出品し好評を博し、中村不折らと同門の四天王また双璧とうたわれ大いに将来を嘱望される。

その頃,従兄の内藤鳴雪を介し同郷の正岡子規と知り合い、俳句の研究に熱中する。 俳句については門弟、絵に関しては師匠格で互いに協力、啓発し合う仲となる。俳号は「牛伴」で、その腕前は子規に「学ばずして俳句を善くす、また巧緻(こうち)なり」(明治二十九年の俳句界)と評されたほど。



子規も幼少から絵を好んだが、絵画については子規も負けず、絵画についての論争はしばらく続いたが、 新鋭洋画家の専門理論には子規も歯がたたず、ついに屈服する。彼の説く写生論は子規の俳句革新に大きい影響を及ぼす。その後俳画の研究に没頭し、改めて南画を見直し、次第に日本の伝統絵画にひかれ、 ついに本業の洋画を投げうち日本画に回帰することとなる。



子規の没後は郷里に帰り,俳画の研究に没頭、俳画家として名声を博す。松山の俳句結社「松風会」の指導に当たり、子規の日本派俳句を伝えた。 後年彼は「俳句は日本特有の文芸,俳画もまた日本芸術の光」といい,古今独歩, 俳味横溢の画境を開拓し現代日本水墨画に新境地を開く。



西欧的写実性をあわせ持つ俳画で評価を得、芥川龍之介が為山の画を絶賛するところとなる。彼は一切の画流から孤立し、「赤貧洗うが如し」の一生で、世評を外にその水墨を追い続け、現代日本水墨画の創始者といわれながら、戦後の混乱期、疎開先の富山県で、昭和24年7月10日、85歳で没す。

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明治24年、正岡子規と出会ったことが彼の生涯を決めたようです。出版物の装丁・挿絵などを描いて子規に協力するようになり、やがて『ホトトギス』表紙と口絵を担当し、同じく子規に協力する中村不折のよきライバルとなりました。ちなみに中村不折の作品は小生はあまり好きではありません。



子規の没後、各地を放浪。この間に高浜虚子や河東碧梧洞らと親交を結びました。大正3年、右手に受けた障害から油絵は捨てざるを得なくなり、これが彩墨画家としての再出発ともなります。東京に居を移し数多くの作品を残しました。晩年は、細部にとらわれず、筆のタッチを存分に生かした、いわゆる破墨を重視した大胆な作風に変化していきます。



紙表具の、虫喰い跡の多くあるこの作品、絵自体は線が鋭く並々ならぬ才能を認めざる得ないものがあります。富岡鉄斎の哲学性には適いませんが、絵の表現力そのものは素晴らしいものがあると感じ購入しました。もっと評価されていい画家の一人ですね。

みすぼらしい虫食いの有る紙表具がなぜかしっくりくる作品です。このような一幅は貴重なように思います。生活の安定性よりもおのれの信念を貫き通した画家の作品がここにあります。



仕事の魅力は何なのでしょう? 安定性、給料、将来性、やりがい・・、どれもこれも大切なようですが、個々の価値観に訴えるハートのようなものが根底に必要だと思います。

コンプライアンス重視の経営を運営する側はとかく懲罰重点になりがちですが、会社というものは人で成り立ち、人の心で成り立っていることを忘れてはいけませんね。「世評を外にその水墨を追い続けた」という下村為山の気概を見習うことが必要です。


古備前壷 その3 室町前期

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5月の帰省でいろんな経験をした息子・・、休日にはブログの原稿を制作している小生の脇でパソコン上の写真を見ながら「楽しかったね」だと・・。



十和田湖の残雪。



弘前公園のお茶席。



熊が出た! ・・??



桜、桜、・・。



どこへ行っても花真っ盛り。



毎日、帰宅するとぐっすり・・、さ~て、今度は飛行機かで帰省しようかな。

本日は壺シリーズ・・。

古壺の代表格は信楽です。ただ、ひとつ間違うと信楽焼はただの大きな下品な焼き物となります。備前焼もそうですが、そのあたりの鑑識眼が問われるのが壺の世界のようです。

小生は備前が好きな部類で、そこで本日は少し小さめの古備前の壷です。小さいといっても高さは30センチを超えています。

古備前壷 その3 室町前期
杉箱入
口径101*最大胴径200*底径168*高さ338



本作品の持ち味のひとつに「胡麻」があります。備前焼の代表的な焼きなりにしての焼成の過程での「胡麻」と称せられるもので、「胡麻」とは、いわゆる自然釉をあらわす備前独特の言葉です。



備前で、自然釉をなぜ「胡麻」と言うようになったのかは不明ですが、一説にはゴマ油の様にテラテラと光るからだとも言われています。



この「胡麻」は、燃料の赤松のアルカリ分(K2O)が素地土の珪酸アルミニュムと反応して一種の釉を形成しているのです。



燃料の松割木が燃えた時の灰が飛んで付着して出来る為、置き場所などの条件により色々な「胡麻」が出来ます。



温度の高低による「かせ胡麻」「流れ胡麻」、大きさ、付き方による「飛び胡麻」「微塵胡麻」「糸胡麻」、色による「黄胡麻」「黒胡麻」などの名称がありますが、本作品の「胡麻」の呼び名はなんて呼ぶのでしょうか? 

本ブログでは下記のような作品も紹介しています。

備前徳利
古箱
口径41*最大胴径108*高さ180

ともすれば「胡麻」は汚く見えたり、わざとらしい流れになりますが、本作品のような胡麻の文様は珍しく、品の良い佳作といえるでしょう。信楽も同じで、自然釉が流れていればいいというものでもないと思います。



なお本作品は窯印がありません。以前記述したように備前焼に、彫られた窯印が見られる様になったのは、一般的には、室町時代中期以降であると言われています。



大窯を共同で焚くようになって、各自の製品がわかる様に手印を入れたのが始まりであろうと思われます。本作品は窯印が見られる以前の古備前と思われます。窯印がなければ古いというわけでないようですが・・。



「胴と底は別々に作り、あとではめ込む」という、そのはめ込んだ跡があると、それは室町初期から中期にかけての古い手に見られる作行きだそうです。



本作品はそのように作られたようにも思われますが、はっきりしません。ただ、その荒々しい作りは他のものを凌駕するものです。こうあったら、こうだという既成概念はあまり持たないほうがいいのが、陶磁器の世界のようです。



古備前は木陰で太陽の陽を浴びたり、翳ったりする景色が見所です。



もともと茶道具や観賞用でない実用的に作られた器です。江戸期に入り、観賞用に作られた壺は野性味が無く見劣りするもので、実用的に作られた時代の作には足元にも及びません。



ともかくよほど大きな家でないと格好のつかない壺、しかも飾っておくのはせいぜい一つか二つをよしとするもの。これぞという美の鑑識眼が問われるもの。そう・・・、難しきもの。

虎之図 倉田松涛筆 その23

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先週の名古屋出張では元同僚から名古屋のおいしいお菓子をいただいて帰りました。

我が郷里にもおいしいお菓子のようなものがいくつかります。その中のお勧めが「バター餅」、「山吹饅頭」、「酒饅頭」。ただしいずれも日持ちしないものですし、売っているところはかなり限定的です。しかも早く売り切れるようです。もちろん出来立てが美味しいので、我が地元に来ないと本当の美味しさは解らないでしょうね。



本日はおなじみの我が郷里の画家の「倉田松涛」の作品の紹介です。

虎之図 倉田松涛筆 その23
紙本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1800*横630 画サイズ:縦1080*横425



郷里の骨董店では2万から3万くらいで売られている画家ですが、着色画は非常に少ないです。2万から3万でもなかなか売れないようです。かえってインターネットオークションのほうが高くうれるようですが、佳作でも3万くらいがいいとこです。



倉田松涛は平福穂庵の影響を受けており、このような着色画にその影響が顕著に出ていますが、俳画のような作品は残念ながら、お値段でいうと1万でも売れないようです。興味にある方は出来のよいものを選ぶといいでしょう。



ただし倉田松涛は、お値段のわりには非常にうまいし独創的な画家です。



私は値段が安いわりにいい絵を描く画家としては現状では随一だと思っています。私のように購入する側にとっては、地元の骨董店の方々が高く売れると考えているのが難点です。



ところでこの図はなにを画題にしたのでしょうね? 帰省に際して遊んできた水芭蕉の自生群や貯水池には「熊注意!」という看板が多かったので、熊注意の看板の絵にしたらいかがと思うのですが・・。



もとい「虎」か



実にユーモラスで洒脱な作品ですね。



ディテールを見ていくとますます面白い作品です。



もっと評価されいい画家ですが、如何せん地元にはそれを広めるだけの博識者、蒐集する方がいないようです。



これ幸いとどんどん蒐集して愉しんでいる小生は別段評価が上がらないほうがいいのが本音



日本画においては天龍道人、藤井達吉、倉田松涛、平福父子、寺崎廣業、福田豊四郎、渡辺省亭らが私の蒐集対象です。他はこれらの画家の参考となるべきものをベースにおいています。



いずれもそれほど作品が高価な画家ではありませんが、数よりいいものだけを資金面で無理せず蒐集していこうと考えています。

  

その意図からはあまり倉田松涛の作品を、このようにブログで紹介しないほうがいいと思うのですが、あさはかにも少しは周囲にも理解されたいという意図があります。

水藻の花 福田豊四郎筆 その53

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家内に夕食用にキャベツを採るように頼まれて、息子と畑まで・・。



「おいおい、いくら無農薬でも、虫に食われ過ぎ!」



息子と二人でモンシロチョウの幼虫探し・・、相当中央部分までいかないと見つからない。「いたいた!」



息子は幼虫観察に夢中に・・。結局。キャベツ採取は諦め・・。無農薬栽培は生易しくないようで・・。

本日は初夏の掛け軸。

水藻の花 福田豊四郎筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱入
全体サイズ:横663*縦1418 画サイズ:横513*縦405



画中の魚は「ウグイ」のようです。



2016年5月に大館市にある骨董店「三浦堂」にて購入した作品。可憐ないい作品と判断・・・。



以前に紹介した作品である「静潭」と同時に購入した作品です。



戦前か戦後に描かれた作品にのちに箱書した作品。福田豊四郎の初期の佳作と言えます。

  

故郷の川でウグイを捕ったりした思い出など、生き物と関わりは子供の頃の貴重な思い出ですね。

本作品は「水藻の花」ですが、この花は?? 

明日は大阪出張です。この度は一泊となり、明日のブログは休稿となりかもしれません。

踊 菊池契月筆 その4

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我が家は休日も含めて皆が早起きです。朝の5時には、義父は畑へ、義母は庭で草取り、家内は朝食作り、小生は6時には出勤なので準備、息子はその前には起きてきて、「パパ抱っこ!」と相成ります。息子は休日もそうなので、休日は小生は朝から子守と相成ります。

早起きは三文の得・・・???

さて入梅の季節となりましたが、掛ける掛け軸はその半歩前ということで夏の掛け軸を物色・・・、かなり早い?かもしれませんが、盆踊りの掛け軸の紹介です。

画家の菊池契月については以前に紹介しましたので、詳細は省略します。

踊 菊池契月筆 その4
絹本着色軸装 軸先象牙 契月書簡付 共箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横250*縦1305



落款の契月の「契」の字の横棒が非常に短い。これは大正前期の特徴で、それより少し前の時代の作品はもっと背景を描いている。西洋画の影響で非常に写実的に描いていたのだが、大正時代の作品はシンプルになってくる。伝統的な日本画に戻ってきている作品。



添付新聞の切り抜きに「四五人に 月落ちかかる 踊り哉」(与謝蕪村)」があります。「宵の口には大勢いた踊り手が、世も更けるにつれて一人二人と抜けてゆき、今は四五人のみ。西へ傾いた月の光がその上にしっとり落ちて」という意味。



この情景にぴったりの俳句と思い、添付されていたのでしょうか?



はたまた同封されている菊池契月の書付と関連するものでしょうか?

 

浅学の小生には判読できません。読める方のアドヴァイスがあると助かりますが・・。



なにはともあれ、初夏の一幅にはよく掛け軸です。



盆踊りにはそこはかとない?色気が・・。学生時代に夏休みで帰省した盆踊り、地元の女性に誘われて・・・・


冨士 福田豊四郎筆 その19

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本日紹介するのは父が亡くなった際に、小生が父から譲り受けた作品のひとつです。まだ小生が中学生の頃ですが、結局のところ親から譲り受けたのは骨董・・・。

福田豊四郎と父は友人であり、父は事業の傍ら福田豊四郎から絵を習っていました。祖父や祖母の代から福田豊四郎とは交流があり、多くの作品を描いてもらったようです。父が亡くなった際には、父の世話になった方への色紙を福田豊四郎氏に描いたもらったようで、父が亡くなったあとも母や姉は交流があったそうです。そのような経緯で小生に伝世してきた数少ない作品のひとつです。

最近になって、父の記事をインターネットで見つけました。郷里での記事ですが、取材に答えての記事の内容のようです。インターネットで祖父を題材にした本を家内が見つけたり、今また父のことに関する記事が見つかり、古い記事でもインターネットによって見つかるのは驚きです。

昭和40年の記事で、小生が中学校1年の時に亡くなっていますので、亡くなる直前の記事です。父は祖父が興した木材業を手伝う傍ら、分離してプレハブの会社を設立したばかりでした。東北で始めてのプレハブに企業化に挑んだのです。

*************************記事の内容***************************

父の発言を取り上げています。なにしろ昭和40年の東北の田舎の話です。『』が父の発言です。

『コツコツ貯め、やっとある程度の金ができたと思ったら諸物価値上りで計画がおジャン、その問についつい貯えに手をつけてしまって元のモクアミにかえったという人も案外多いようだ。せっかく当った金融公庫の貸付けを棄権する人も、そんな理由で頭金が不足するからだ。労働組合で結束して賃上げを要求するご時勢だ、そのエネルギーの一部を、そういう社会制度を作る運動にふり向けたらどうだろう――』

『日本人は、もっともっと、自分の家を持つということに対してドン欲にならねばならないのではないか。ハワイでは、大学を卒業して会社に就職すると希望者にはまず会社が金を貸して家を建てさせるという。快適な環境に住んで、充分に会社のために働いてもらおうという考え方である。日本はその反対で、一生あくせく働いてやっと退職金で家を建てる。粒々辛苦のあげくの新居に、当の本人は何年も住まないうちにあの世行きだ』

自らの《住いの哲学》の実行のために、昨年七月からプレハブ住宅の製造販売をはじめた。東北では、初めての企業化である。プレハブ住宅は、規格による量産だからコストが安く、組立て式だから工期の早いのが特徴である。諸外国の例をみるまでもなく、高層建築以外の住宅などは将来すべてプレハブ式にとってかわるだろうと予想される。

『五十年以上も使用する住宅の高い、安いを単に"金高"で論ずること自体誤りではないか。骨組みは鉄骨、外壁に法定不燃材のカラーベスト(セメント)と石綿などの混合したもの)を、内壁には断熱材を用いた住宅を、旧来の家の観念で同一すべきではない。理屈から言っても自社の材木を使い、一日手間千五百円の大工が数日がかりでやるカンナやノミの仕事を日給五百円の女工と機械が数時間で仕上げ、そして製作から販売までの間に一切の中間マージンを排除している"商品"が、高いはずはありえないではないか。消費者が"終いの栖家"となる家というものに対する観念を改めることも今後の住宅問題を考える上で大切なことである』と力説する。

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この記事の直後に、志半ばで父が病気で亡くなり、母が会社を引き継いだのですが、プレハブ化は仮設の建物に適用されていきました。小生も高校生や大学の頃、プレハブの工場で働いたのを懐かしく思い出します。父の志は小生の中に今も生きているように思います。

さて、本題の本日の作品です。

冨士 福田豊四郎筆
絹本着色軸装共箱二重箱軸先象牙 
全体サイズ:横733*縦1550 画サイズ:横570*縦485



本作品は小生のお気に入りの作品のひとつです。叔父の家にも富士の作品が一点ありましたが、だいぶ痛んでいたのと、叔父が亡くなってから散逸したようでとても残念です。



小生が初めて購入した福田豊四郎の作品はやはり富士の作品で、まだ若い頃の作品です。いつか機会がありましたらまた紹介します。



印章や落款で製作時期がわかるようですが、恥ずかしながらいつでもできると思っているうちに未整理のままです。

 

小品ばかりですが、かれこれ50点を超える作品の数になりましたが、少し整理して数を減らそうと思っています。

 

日本画家で富士というと横山大観、片岡珠子、奥村土牛・・・、これらの作品も見事ですが、この作品も私は見事だと思います。



富士に魅せられている人は多くいるでしょうが、遠くにいる人はそうそう簡単には見れなかった時代、富士を描いた作品は珍重されたのでしょうね。



また戦争中などは国民を鼓舞するためにも残念ながら利用されたこともあったと聞いています。



今では心静かに作品を楽しみましょう。父もきっと絵を愉しんだことでしょう。



表具は祖父が依頼しておこなったようで、非常に品のある表具がされています。



一時的に整理のため帰京に際して持ってきておりますが、本来は郷里に収納しておくべき作品ですので、近いうちにまとめて郷里に戻す予定です。

塩釉象嵌縄文土瓶 島岡達三作 その1

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本日は小生の誕生日。幾つになっても成長しないものと反省しきり・・。

さて本日は浜田庄司を師とする島岡達三の作品の紹介です。意外にも島岡達三の作品の紹介は本ブログでは少なかったようです。

浜田庄司の作品とそっくりな作品ばかり製作する弟子の島岡達三でしたが、浜田庄司の指導のもとで徐々に独自の作風を生み出していきます。弟子とはいえ、島岡達三もまた人間国宝になっています。

塩釉象嵌縄文土瓶 島岡達三作 その1
共箱
幅270*胴径190*高さ290



なんでも鑑定団の島岡達三の作品に対する評に「島岡は三代続いた組紐屋の息子で、濱田庄司に弟子入りした。お前の得意とするものを何か考えろと言われ、自分の父親がやっていた組紐のデザインを象嵌して作品に入れてみた。依頼品は代表作と言ってよい。」ということが記載されています。




「箱に「地釉(じぐすり)」と書かれています。

これは透明釉の中に磁器を焼く時のカオリンという土を僅かに混ぜ、それで全体を上掛けしてある釉薬のことです。そのためしっとりとした柔らかさが生まれるとされています。これが島岡達三の焼き物の特徴のひとつですが、これは浜田庄司から受け継がれています。



角皿、花瓶、丸の大皿は島岡達三の定番の作品としてよくみかけますが、このような大きな土瓶は珍しいと思います。蓋をとって花入れにもいい思います。民藝の代表作品といってよい作品です。



家内曰く「重い」と

小生にはなんともありませんが・・。いかにも民芸の益子焼躍如と言わんばかりの風情漂う作品です。

源頼朝狩之図(仮題) 小堀鞆音筆 その2

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週末は母の見舞いもあり、息子は小生につきまとい、ブログの原稿作成などしている時間をとれず・・・  とりあえず書き留めたおいた原稿にて投稿します。

本日の作品の題となっている「源頼朝狩之図」は共箱ではないので、明確に頼朝を描いたという根拠はないので仮題とご了解願います。

源頼朝狩之図 小堀鞆音筆 その3
絹本着色軸装 改装補修跡有 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1980*横700 画サイズ:縦1243*横558



手前に置かれた壺は後日に紹介します。骨董マニアには察しのつく陶芸家の作品です。



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小堀鞆音(こぼりともと):(1864―1931)日本画家。下野国(栃木県)に須藤晏斎の三男として生まれる。本名桂三郎。早くから父や兄に手ほどきを受ける。

1884年(明治17)に上京、川崎千虎について歴史画、有職故実を学んだ。91年、日本青年絵画協会の設立に参加。97年には東京美術学校助教授になったが、翌年、いわゆる美術学校騒動が起こり、校長岡倉天心とともに辞職、日本美術院創立に加わった。1907年(明治40)に開設された文展には最初から審査員として出品し、以後官展で活躍した。また08年には東京美術学校の教授に復帰、17年(大正6)帝室技芸員、19年に帝国美術院会員にあげられた。大和絵(やまとえ)の手法を継いで歴史画を得意とし、『宇治橋合戦』『経正詣竹生島』『武士』などが代表作。門下から安田靫彦、川崎小虎、尾形月山らが出ている。

昭和初期、大礼服の小堀鞆音画伯



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画号の「鞆音」は師の川崎千虎の本名「鞆太郎」の一字を貰ったと言われており、「鞆」は弓を射る時の皮製の武具であり、弦があたるとそれが音を発するという意味です。

この武者絵は作者の名と画業を象徴している作品といえます。



東京美術学校を新設し、西洋文化を取り入れて西洋と対抗出来るように、新たな日本文化を打ち出さねばと“新機軸打ち出し”に躍起になっていた岡倉天心と大和絵の真髄を行こうとする鞆音はそりが合わなかったようです。

小堀鞆音は近代日本画の巨匠、安田靫彦の師で、歴史画を得意とした画家であり、同世代の画家では横山大観がいます(大観より4歳年上)。



小堀鞆音の作品は山種美術館や東近美でたまに展示されることはありますが、特別展でもない限り、ほとんど縁がない画家といっていいでしょう。知られてはいませんが、安田靭彦の「黄瀬川陣」や前田青邨の代表作、「洞窟の頼朝」などは小堀鞆音の影響を強く受けています。

代表作の「武士」(東芸大美蔵)は縦224cm、横113cmの大作であり、描かれている武将は“保元物語”に登場する弓術に優れた悲劇の英雄、鎮西八郎源為朝(1139~77)です。

鎧や兜の精緻な描写や青の地にくっきりと目立つ大柄な紋様、そして、足を大きく広げ、左前方を見つめる迫真の姿が胸が見事に描かれています。前田青邨らの歴史画に出てくる武将たちは皆鼻が大きいなどを小堀鞆音の影響とみる意見もあります。



小堀の時代考証は徹底しており、描こうとする人物が身につける衣装の色や紋様、兜、鎧、刀、弓などの形や意匠、屋敷の場面に必要な調度品、そして合戦の舞台となる建物や背景にある海や山の風景など知っておかなければいけないことが沢山あるようです。



小堀鞆音は甲冑研究も深めて、自分で材料からすべて制作してしまうという傾倒ぶりで、なにごとにも極めねばすまない大和魂が疼いて仕方がなかったようです。武具甲冑の収集にも熱心で、国宝鎧の修理監督も務めたそうです。



ただし有職故実に忠実すぎると、絵としての魅力がなくなるようで、合戦の武者を描く場合、絵に勢いがないと見る者を感動させられず、だから、画家は視線の集まるところでは対象の形や色を誇張したりデフォルメして描かれています。



これにより力強さや迫真性が表現されます。小堀鞆音の代表作の「武士」も豊国や写楽が描く役者絵と同様、強いインパクトがあり、武者絵を描いたら他に追随を許さないと評されています。

 

残念ながら共箱ではなりませんが、上箱に収められ、表具も改装され、痛んでいた部分も前の所有者によって丁寧に補修されています。掛け軸を大切に保存する気持ちのある方が所蔵されていたのでしょう。

友人からの贈り物 「干支の作品 猿五郎丸」(Y氏作)&「釉裏紅菊唐草文大鉢」(平野庫太郎作)

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元同僚からの贈り物。干支の作品を毎年戴いていたのですが、このたびは多忙の中、製作していただいた作品が届いております。当方が子育てで忙しく なかなかブログにアップすることができずにいましたので、たいへん恐縮しておりました。



丁寧に梱包された作品を家内と息子で開けると「お~!」と歓声を上げるとともに、同時にニヤリ・・。



五郎丸君ではありませんか。よくできています、傑作ですね。「ポール内に入ってね」という願い?と緊張感がよく表れています。



むろん、息子は「五郎丸」を理解できません。「おもちゃ」ではないので高いところに置くことになりました



毎年毎年、面白い作品ばかり。よく考え付くものだと家内と感心しきりです。いつも思うのですが、大量生産できたら欲しい人がたくさんいるだろうと・・

「五郎丸君」と前後して郷里の保戸野窯の平野庫太郎氏から大きな鉢が届きました。お願いして譲っていただいた平野庫太郎氏の作品です。とても大きな作品で、奥さんとご子息がだいぶ梱包に苦労したようです。

釉裏紅唐草文鉢
口径476*高台径292*高さ98



「釉裏紅」*は発色が難しく、なおかつこのような大きな皿で絵柄が品良く仕上った作品はそうそうあるものではありません。

「釉裏紅」*:銅は高温化では揮発しやすいので、文様が安定して表わされることが難しい



高台内のシールから出品された作品と推察されます。



平野先生には珍しく彫り銘です。



一度、手にとってご覧になってもらいたい作品です。



微妙にかすれた感じが品がよいいですね。



「持っていてもらいたい」という旨を平野氏から伝えられ、「郷里の個人の窯で出来上がった」ということを後世に伝えていくべき作品であり、ちょっと当方としては責任重大です。

両作品ともに機会あるごとに展示室に飾っておきます。

古染付 松下双鶏図皿 & 伊藤若冲

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週末には家族で小生の誕生日祝い。好きなものを食べさせてくれたらしい・・?? まずは昼食はラーメン。



小生が郷里で友人から戴いたもの。



夕食はステーキ。肉はギフトセットから選択したもの、野菜は畑から採れたもの。



我が家は皆さん働き者。休日も朝の5時には義父は畑へ、義母は草むしり、家内は朝食準備、小生は子守。そして皆さん倹約家。

息子のナイフとフォーク捌きが身についてきた? 否、まだまだのようです。それでも幼少期よりこのようなことが経験できるのうらやましいかぎりです。小生のような田舎者は就職してしばらくしてから・・。



最後はケーキ・・。



亡くなった家内は小生の定年まではと闘病を続け、小生は退職も覚悟しましたが、どうにもそれまではもたなくて、なんとか小生のその年の誕生日までと頑張り、家族でささやかなバースデイを開きました。その後すぐに昏睡状態にとなり、1週間後に旅立ちました。まもなく家内の命日です。今年で8年目・・、郷里へ日帰りですが墓参りに帰ります。

さて、亡くなった家内も今の家内も酉年生まれ。酉の作品が二人とも好きでした。ということで本日は酉にちなんだ作品を紹介します。

酉というと伊藤若冲ですが、近日、伊藤若冲展が開催され、またしても若冲人気が高まっています。さらには現在、小生が読書中の本は「若冲」(澤田瞳子著)・・。展示室へひさかたぶりに若冲の作品を飾りました。本ブログでアクセスの多い「その2」の作品とは違う作品です。



墨一色の若冲の作品は青山の骨董店でよく見かけました。水墨による鶏や鯉の作品はお手頃な値段でした。現在もそれほど変わらぬお値段だと思いますが・・。



若冲の作品は落款入の作品は少なく、真贋については印章がひとつの決め手になります。「その2」の作品でその点は記述しております。



単純な作品ながら構図が独創的で、工夫があります。



墨絵だとほとんどの作品が筋目描になっています。



双鶏ということで、本日は古染付の作品を投稿いたします。ちなみに小生も息子も巳年生まれ・・・・。

古染付 松下双鶏図
口径147*高台径*高さ25



大きく欠損しているので、骨董では「参考品」として扱われます。参考となるのは、古染付の特徴が如実にわかる作品のひとつだからです。

ご存知のように、当ブログで紹介される陶磁器の作品の系統は明末の染付、呉須赤絵に重点が置かれ、古染付、南京赤絵、天啓赤絵はその流れの中にあることから、これらの作品も紹介されています。

見方によると下手な作品という見識もありますが、一分野からの派生という理解がないと本ブログの作品は、お好みが合う方に限られてくるかもしれません。またこれらの作品は、ひび、虫喰、釉薬の剥離、補修跡はつきものの作品群ですので、完品とは程遠いものとなります。



「これは初期伊万里ですか?」、「いえ、古染付です。」、「それはとても残念ですね。」という会話があったそうです。古染付より初期伊万里を偏重する傾向を皮肉った?逸話のようです。



古染付は小汚く、完品でない陶磁器ですが、陶磁器にもし格があるとすると意外に上位に入ります。お値段がどうのこうの、数が少ないのどうのこうのではなく、煎茶道などの扱いからの格もあろうかと思います。人気故、面白い図柄の作品は数がたいへん少なくなっています。(なお「古染付」については本ブログで飽きるほど記述していますので詳細は省略します。)



伊藤若冲しかり、古染付しかり、極みはその墨や呉須の洒脱な描きっぷりです。

5月の連休に故郷の骨董店で家内が陳列ケースを見て、「これいいですね。」と鶏を描いた皿をご主人から見せてもらってました。



六代清水六兵衛の作品です。



六代清水六兵衛:1976年(昭和51年) - 文化功労者 
        1980年(昭和55年) - 日本橋高島屋で開かれた「清水六兵衛歴代名陶展」の際に挨拶していたところ倒れ、死去。



やはり鶏の作品が好きなようで・・、家内がお買い上げ! 一万円なり。どうも目利きは前の家内と同様にしっかりしているようです。



ガラクタの山と呼称されていますが、物は集まってきます。これもまた思い出の山・・・ 

「もの」はあくまでも「もの」として、まずは家族に感謝
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