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羅漢図 その2 平福穂庵筆 その11

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本ブログの記事の内容を難しいという御仁の意見が多々あるようですが、こちらは所蔵作品の整理、勉強のためのブログであり、いたし方のないことと当方ではわりきっています。そもそもガラクタの山に見えるようですが、それもまた真実。ただ世の中は多少は勉強しないと解らない分野があり、ガラクタと一概には言えない分野もあります。

さて平福穂庵の「羅漢」の作品は以前にも本ブログで紹介しましたが、本作品は同じ構図で描かれた同図の作品として非常に興味深い作品です。

羅漢図 その2 平福穂庵筆
紙本水墨着色軸装軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2120*横650 画サイズ:縦1280*横440



同じ画家の同図という作品が複数存在するのは、よくあることです。印章を変えてあったり、絹本と紙本に違いがあったり、意図的に画家が変える場合もあります。模写による贋作と一概には判断しないほうがいいでしょう。

両作品ともに落款。印章から真作と判断されます。

 

描き方に違いが見られますが、どちらが先に描かれたものかは今少し詳細に調べないと判明できかねます。

 

足の描き方が雑で、不要に見えることから、「その2」のほうが先のように思えます。



ただ、平福穂庵らしいという点からは、本作品「その2」のほうがよく出ています。



ながらく作品を収集しているとこういう同図の作品にであうことはよくありますが、ただ同図の作品を入手できることは稀です。



わが郷里を代表する画家、平福父子の作品蒐集は小生のテーマのひとつです。



柳下小禽図 小杉放庵筆 その2

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昨日は株主総会。なにかと忙しい壱日でした。本日は小杉放庵の作品です。

柳下小禽図 小杉放庵筆 その2
紙本水墨淡彩軸装 軸先 合箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横300*縦1350



小杉放庵独特の和紙に描いた作品です。鳥の飛ぶ様を描いた作品は小杉放庵の真骨頂です。他に郷里から持ち帰った作品に「啄木」という作品がありますが、それはまた後日の紹介とします。



本作品は共箱ではありません。箱があったと思うのですが、紛失されているようです。なんでも鑑定団のおもちゃと同じく共箱でないと評価が下がります。残念ながら、鳥がなんという鳥なのか小生には判断できかなますが、共箱だったら判明できたと思います。



鳥が舞い降りる瞬間を見事にとらえている作品です。



印章からの制作時期については後学としたいと思います。



下記の作品は思文閣への売却を依頼された作品です。鳥のまわりにしみが発生し始めており、しみ抜きが必要なために、廉価であるとのことでしたが、それでも〇〇万円。小生の仲介の役目は紹介と適切な価格での売買かの確認です。

猛夏 小杉放庵筆
紙本着色軸装共箱二重箱軸先本象牙
全体サイズ:横753*縦1730 画サイズ:縦496*横594
 
 

本作品にも「シミ」が発生していますが、これは掛け軸に限らず、日本画の宿命です。額装にしてもカビやシミが発生します。発生しないように管理することと定期的なシミ抜きが必要となります。

気軽に買えなくなった作品 伊万里 色絵花籠文隅切角皿

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以前は古伊万里と称するのも憚れる時代の下がった各種の器でしたが、最近は、幕末か明治期のものも堂々と「200年前の古伊万里です」と云万円を超えるお値段をつけるようになりました。

要は「約200年前?」ということですが、100年を超えると切り上げで約200年になるらしい?

江戸期の最盛期の古伊万里を模した中国で作られた精巧な贋作が横行しているのと、本物が少なくなり市場に出回らなくなったという背景もあるように思われます。要は古伊万里が品薄になったてきたし、幕末や明治期の伊万里の作品には贋作が少ないということかもしれません。
古伊万里を扱う骨董商にとっては「悪貨は良貨を駆逐する」という現象で、迷惑なことですが、もともとは高く値段を吊り上げたことに起因しているので、自業自得といえるのでしょう。

伊万里 色絵花籠文隅切角皿
合箱 
幅317*奥行317*高台径77*高さ52

本作品は古伊万里の幕末頃から明治期に製作されて赤絵の尺皿で、赤、緑、黄、紫、青のガラス質の透明上絵具で上絵付けをされており、中国の影響を受け、さらには天保年間(1644~1648)に柿右衛門が取り入れた様式の影響を受けています。



本作品は大正期ではないかと思われるほど明るい器です。明治期以降、上流階級以外でも陶磁器を家庭の器として使うようになり、また伊万里だけではなく各地で伊万里に似た器を大量に生産し始めました。地方の素封家には本作品のような器がかなりの数で存在しています。



以前は骨董市には所狭しと陳列してあったもので、誰も買おうとしませんでした。ところが最近、前述のような理由で値段が付くようになってきたのかもしれません。



錦手の色絵の皿は多くありますが、意外に少ないのが色絵の角皿で、時代の下がったものにしかないのかもしれません。本作品のような角皿は以前は見向きもされなった作品です。



評価に影響するのが絵付の出来です。一般にこの時期の作品は大量生産されますので絵付が非常に雑です。色絵で雑となると目も当てられません。



ある程度ちゃんとしている絵付の作品以外は評価はないと思っていたほうがいいでしょう。



なんといっても伊万里系統の色絵の命は絵付の出来ですね。



基本的に吉祥図柄が描かれますが、松竹梅の絵柄などありきたりの稚拙な図柄の作品よりは、たとえ大量生産の普段使いの器であってもあくまでも絵付の良いものを選ぶことが得策で飽きがきません。これもあくまで感性によるもので、人によって千差万別です。いいものはやはりただそうざらにあるものではありません。

柳江山水図 山本梅逸筆 その2

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先週末には息子と家内とで母を訪ねてきました。息子は写真を一生懸命に母に説明していました。ボケとツッコミのチン問答・・・・



そして車椅子を押して部屋まで・・。




名古屋の南画を描いた画家というと中林竹洞、竹渓父子、そして山本梅逸が著名です。ただいずれも武士であっって生計が安定していたため、本来の文人が極める境地とは違うものとして評価されている面もあります。

本日は山本梅逸の作品の紹介となります。

柳江山水図 伝山本梅逸筆 その2
絹本水墨軸装 軸先木製細工 二重箱 
全体サイズ:横510*縦1800 画サイズ:横356*縦1037
 


落款は「梅逸亮写 押印」とあり、印章は「親亮之印」と「字明卿」の白文朱方印の累印が押印されています。

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山本梅逸(やまもと ばいいつ、天明3年10月20日(1783年11月14日) - 安政3年1月2日(1856年2月7日))は江戸時代後期の文人画家。名古屋の生まれで、尾張南画の代表的画家。

本名を亮、諱は親亮、字を明卿。卯年生まれに因み、通称を卯年吉(うねきち)。 画号は春園・竹厳・梅佚、のちに梅逸とした。別号に梅華道人・玉禅・天道外史・葵園・友竹艸居・白梅居など。



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名古屋天道町(現在の中区大須)で、彫刻師山本有右衛門の子として生まれる。この父は尾張藩の組同心だったとも、藩士の用人だったとも伝えられるが、記録は残っていない。父は梅逸が13歳のときに没し生活は貧窮したが、母は子どもの教育に心掛け、梅逸に和歌の手解きをしたという。


幼い時から画を好み、地元の絵師山本蘭亭に学ぶ。蘭亭は梅逸の画才を見抜き張月樵に入門させた。その後、尾張画壇のパトロンで古書画の収蔵家として知られた豪商神谷天遊(永楽屋伝右衛門)の庇護を受け、天遊に理論面での指導を受けつつ、同家に所蔵される中国古画の臨模が許された。

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本ブログでお馴染みの中林竹洞・竹渓父子とは縁の深い画家です。中林竹洞は友人で、息子の竹渓は山本梅逸を師とする時期があります。



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天遊の元で、生涯の盟友となる7歳年長の中林竹洞とも出会う。天遊に連れられ万松寺に出向いたとき王冕(元時代)の「墨梅図」を見て深く感銘したことから梅逸の号を授けられたといわれる。同じくこのとき兄弟子の竹洞は李衎(リカン)「竹石図」に感銘したことからその号を与えられたという。

享和2年(1802年)、恩人の天遊が病没すると師友の竹洞と共に京都に赴く。寺院などに伝わる明清の古書画を盛んに臨模し、明末の文人楊文聰の山水画を購入するなど書画の収集にも傾注した。

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新天地を求め上洛した二人だが、京都画壇の壁は厚く画業は停滞し、竹洞の父の危篤の報を聞いて、一旦は名古屋に帰る。天保3年(1832年)に再び京都に出て、以降画家として認められ京都の文人社会に知られるようになる。

書画会の出品も多く次第に京阪で人気の画家となり、年収が200両にもなったという。頼山陽などと交遊し煎茶にも親しみ、その茶は梅逸流と称された。弘化元年(1844年)には、煎茶会席を彩る席飾りの図案集『清娯帖』も描いている。また、名古屋の煎茶普及にも一役買っている。

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当時は人気画家で、依頼されて描いた絵が女性の下着に描いたと噂され評判を悪くしたことがあるそうですが、どうもあまりの人気の僻んで流布されてもののようです。



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日本各地に遊歴し、江戸では大窪詩仏と交流。尾張藩主の邸宅で谷文晁とともに画作を行っている。天保元年(1830年)、名古屋では藩主の命によって朝鮮から来た豹を写生している。その他にも山陽・四国・北陸にも脚を伸ばしている。京都に画家として23年留まったが安政元年(1854年)に尾張藩御用絵師格として取り立てられ、御用人支配の地位を得た。帯刀、拝謁も許され御園町(現在の名古屋市中区)に移り住んだ。享年75。法名は玉禅院天蘂梅逸居士。京都慈眼寺と伊勢山町洞仙寺(現在は千種区平和公園洞仙寺墓地)に葬られる。

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梅逸は山水画・花鳥画を得意とした。その画風は円山四条派の写実性・装飾性に影響を受け、明清の古書画の研究から模倣に陥ることなく独自の繊細で優麗な画風を築き上げ高い評価を得た。反面、描き込み過ぎで、描き殴ったような荒々しい筆致が目立つと評されることもある。

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小生は山本梅逸の作品は花鳥画よりも山水画のほうが好きです。というより山本梅逸の真骨頂は山水画だと思っています。妥協を許さぬ厳しさがその画面に表れていると思います。



山本梅逸もまた南画壇の人気画家ゆえ贋作が多い。ただ非常に書き込みが綿密な作品を描き、本作品でも書き込みが乏しいくらいです。ひとつひとつの線が厳しいという表現がぴったりする画家です。

中林父子と比して非常に真作が入手しづらい画家のようです。



本作品の表具は品の良いものとなっております。

不動明王 木村武山筆 その2 再投稿

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ものづくりの現場における安全管理の小生の鉄則は

1.現場を事前に見て、的確な責任ある指示を出すこと
 (具体的な指示ができるのは現場を見てきた者のみ)

2.現場を見て危険を感じ取る感性をもつこと
 (災害はすべて繰り返し、過去の事例を徹底して学ぶこと)

3.コミュニケーションを徹底すること
 (利害の違う立場の人が集まるのがものづくりの現場、互いの意思疎通を図らないと事故は防げない 部下と上司も同じで懲罰が優先する  と隠蔽される傾向となる。)

そもそも最初に述べた「現場をみないとはじまらない」のだが、はてさて、どれだけの人が現場第一としているのだろうか?

最近はITの悪さ、魔力もある。パソコンの席から離れない、人と話をしていてもパソコンから目を離さない・・。電車の乗客を見ても同じ。たいしたこともない内容をスマホやPCを見てばかり・・。もっと幹部も現場の社員も目の前の現場を見ることからはじめないといけません。

さて骨董も同じ。現物を手で見て、自腹で買って、実際に使って、売却して、感性を磨いて、意見の違う人の話を聞いて、さらにグレードを上げていかないと身につかないものです。PCや美術館を見た情報だけで身につくほど世の中は甘くない。

さて地元の骨董商によると、祖父は木村武山の極彩色の「観音図」の作品を所蔵し、また同じく木村武山の「旭日波」という作品を正月に床の間に飾っていたそうです。その「観音図」は散逸し、「旭日波」は今は小生に伝来しています。

不動明王 木村武山筆 あおの2
絹本銀彩絹装軸装 所定鑑定人横山陽子鑑定 共箱二重箱 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:径330



本作品は不動明王を、円窓を黒地として銀彩で描いた作品ですが、以前にも投稿したことのある作品です。このたび倉庫改修にあたり、作品整理の一部として、郷里から持ち帰った作品のひとつです。倉庫改修を契機に在京の前に集めた未整理の作品の整理も行ない始めました。そのため、しばし新規購入は見合わせ、不要な作品は処分していきます。

金彩で描いた作品はなんどか見たことはあります。下記の作品は、友人が売却したいというので、思文閣に仲介した作品です。売却金額は○○万でしたが、思文閣からの評価は「弘法大師」の作品は珍しいとのことでした。リーマンショック前のことです。むろん、仲介料金などは戴いておりません(笑)

弘法大師 木村武山筆
絹本金彩色軸装共箱
画サイズ:横350*縦1210

 

不動明王は大日如来が一切の悪魔を降伏するために変化し、忿怒身を現したもの。常に大火焔の中にあって内外の諸難や穢を梵焼し、一切の冤敵を擢滅して衆生を擁護するものです。



その姿を簡潔に描いた木村武山の佳作。「代」は所定鑑定人の「横山陽子」女史によるものです。絵そのものは脳溢血の前の作品か? 箱書きは以後と推察されます。



軸を改装のために箱に収まらなくなったか、箱の傷みがひどいためかによって、箱を細工し箱を変えていますが、これはよくあることです。



左手に衆生の煩悩や因縁を断ち切る三鈷剣、右手に悪を縛り人々を煩悩から救うための羂索という儀軌通りの不動明王の姿が簡潔に描かれています。

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不動明王:仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。五大明王の一員である、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王と祀られる。

不動明王は大日如来が一切の悪魔を降伏するために変化し、忿怒身を現したもの。常に大火焔の中にあって内外の諸難や穢を梵焼し、一切の冤敵を擢滅して衆生を擁護するものです。 
  
手に衆生の煩悩や因縁を断ち切る三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る)、悪を縛り人々を煩悩から救うための羂索(悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛り吊り上げてでも救い出すための投げ縄のようなもの)という儀軌通りの不動明王の姿が簡潔に描かれています。

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木村武山の紺(黒)地金銀泥画:主に平安時代に貴族の発願によって制作された紺紙金泥経などの装飾経は、通常の白い紙に墨書された経典とは異なり、どこか異次元的な気配を漂わせているもので、いわばその画面自体が彼岸の様相を表しているようにも感じられる。

観世音菩薩をはじめ多くの仏画を描いた武山であるが、大体は極彩色の作例が多く、紺紙金泥経に通じる味わいを持つ作例はさほど多くはみられない。

通常の絹紙に岩絵具で描く場合と異なり、筆のすべりや金泥のノリなど、技術的にも独特の困難があるのだろうが、実に自在な筆致で見事に描いている。このような作例には金泥の作品が多いが、本作品は「不動明王」という画題もあるのだろうと推察されるが、すべて銀泥で描かれた稀有な作品である。

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ところで本図と左右対称のまったく同じ図柄の金泥で描かれた木村武山の作品が存在します。このようなことも調べていくと解ることです。



二幅一対の作品かも? 両作品が揃ったら面白いでしょうね。私は銀泥の作品のほうが好みですが・・。



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木村武山:明治9年生まれ、昭和17年没(1876年~1942年)、享年67歳。茨城県笠原藩士の家に生まれる。名は信太郎。初め川端玉章について学び、後に東京美術学校卒業後、岡倉天心の率いる新興画壇の第一線に立ち、前期日本美術院、再興美術院の功労者の一人となる。横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉覚三(天心)のもとで日本画の近代化に努めた。



前半は花鳥画を、後半は仏画を描き、ことに彩色画を得意とした。作品初期は歴史画が多く、25歳頃から主に花鳥画を描く。大正初期は琳派の手法を用いた壮麗な作風が特徴的である。1916年(大正5年)、笹川臨風と共に大和巡りをした際、観心寺の如意輪観音坐像に驚嘆したのを契機に、後年は仏画を多く描いた。優れた色彩感覚を持ち、日本美術院きってのカラリストと評された。



昭和12年(1937年)、脳内出血で倒れ郷里・笠間で静養、病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名をとる。昭和17年(1942年)、喘息のため死去。法名は泰霊院映誉広彩武山居士。日本美術院同人となる。「阿房却火」、「孔雀明王」が代表作。

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木村武山の仏画については「極彩色の仏画」がいいいのか「金泥・銀泥の仏画」がいいのか賛否があるでしょうが、少なくてもこの「不動明王」は銀泥で描かれていることが見事にマッチしている作品です。

不動明王の如き毅然とした振る舞いが、ものづくりの管理には必要です。


滝観音 仲安筆

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今週は週末に帰省していたこともあって原稿が未整理段階ですので、拙文をご容赦願います。

本日の作品は伝来のきちんとしたものですが、詳細はよく解っていません。以前に一度依頼されて調べたのですが、当方に縁がまたできたので再度調査中の作品です。本日の投稿もまた調査段階での投稿となります。

滝観音 伝仲安筆
紙本水墨古画 古箱入 
画サイズ:横331*縦1045



仲安については詳細不明ですが、「仲安真康」と思われ15世紀中ごろに活躍した鎌倉建長寺の僧のことのようです。祥啓初期の鎌倉における画事の師とも言われていますが、それを示す資料はないそうですが、さらには鎌倉派の始祖と目される人物とも称せられています。



箱内の書によると名は「梵師字仲安松屋」と号すとか・・、別号竹天叟。明應(1492年~)年中の人で、室町時代の作者となります。



「仲安真康」との関連性についても後学によるものとします。



調べてみると、仲安真康筆とされる「布袋図」という根津美術館所蔵の作品(紙本墨画 縦70.6㎝ 横30.5㎝)があり、その記事には

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「仲庵真康は、鎌倉建長寺西来庵の住僧で、諸山住持の経歴によるものか康西堂の名で尊称された。法諱を真康、道号を仲安といい、ほかに九華山人、意足道人と称したと伝える。

『古画備考』に宝徳4年(1452)の年紀をもつ「東光眞康」署名の古文書が収録されており、これが仲安の活躍時期をうかがう唯一の資料となっている。

鎌倉諸大寺の蔵する元代の道釈画や羅漢図、あるいは東福寺明兆系に学んで、その水墨的要素を積極的に摂取しようと努めた画風は、十五世紀の鎌倉派水墨画におけるいわば祖的な存在と解され、賢江祥啓はその門下といわれる。

本図(布袋図)にみられるように、肥痩のある筆致の多用と墨色の濃い画面はやや古拙で、明澄さの乏しいものながら、屈託のないその表現は、よく主題の性格をあらわしている。図中に「仲安」(朱文重郭方印)と「眞康」(朱文鼎印)の二印を捺す。」

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とあります。

これは実に興味深い内容です。上部には毘沙門天が描かれておりますが、下部に残念ながら欠損があります。ただしそのことを割り引いても「仲庵真康」の作とされている作品の中でも非常に出来の良い作品です。



本作品には3種の累印が押印されています。「意足道人」、「仲安」(朱文重郭方印)、「眞康」(朱文鼎印)と推察されます。よって本作品は「仲庵真康」と推察される作品となります。

欠損や虫喰の跡があることから、改装されていることが解ります。



この画家について外国の方ですが、研究している方もおられます。

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・リオ・アーロンの記事より 
(Aaron M. Rio / コロンビア大学院美術史考古学部 日本美術史 博士候補生)

仲安眞康については実はあまりよく知られておらず、かなり謎の人物ですが、鎌倉の建長寺で15世紀に活躍していた画僧だと言われています。間違ったアトリビューション(帰属、属性)を含めて、仲安眞康のものと言われる作品は多くて20点もあります。

大雑把に言って、仲安真康の絵はやや暗くて、少し古風にも見えて、あまりにも独特なスタイルですけど、私は鎌倉の「ローカルスタイル」の「元」として考えています。要は、ある場所(鎌倉)、ある時間(大体15世紀)だけに存在する様式だと。しかし、正直言うと、彼は雪舟や雪村といった有名な画家のような素晴らしい才能を持った画家ではありませんでした。それでも興味深くて重要な研究対象だと思います。



私はこれらの絵画を日本のものというより、漢字文化圏の絵画の中の一部であるとして捉えています。そのため、15世紀の鎌倉で、仲安真康のような画家はどんな絵を見ていたか、鎌倉でどんな絵が好まれていたか、というような問題は私の研究にとってとても重要です。

例えば、「仏日庵公物目録」という日本で一番古い、言わば中国美術のコレクションについての資料があります。因みに、仏日庵とは鎌倉にある円覚寺という寺院の塔頭です。その目録には牧谿(もっけい:南宋の画家)の作品も記録されています。牧谿は、私が思うに、鎌倉の絵画にとって最も重要な人物で、仲安眞康も牧谿の影響を強く受けています。でも、日本では牧谿があまりにも愛好されて、彼の作品ではなくても牧谿という名前が付けられていくという現象が生じました。だから彼は実際に牧谿の絵を見ていたのか、牧谿のものだと思われていた絵を見ていたのかよく分からない。とりあえず牧谿という画家のスタイルに基づいた「牧谿様」というスタイルが作られていったんです。場所と時間によってそのスタイルは異なっていますけどね。



15世紀の鎌倉にはユニークな「牧谿様」も存在しました。私は13〜15世紀の鎌倉における「牧谿様」とは何か、それが仲安眞康以降の関東画壇にどのような影響を与えたかを再現しようとしています。その際、仲安眞康を日本人の画家と捉えるより、漢字文化圏のひとりとして捉えた方がいいと私は思います。また、仲安眞康のものだと伝えられてきた絵をリアトリビューション(再鑑定による作家名の変更)することも私の論文の重要な部分だと思います。今まで充分に調べられてはいない。

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現代段階では「仲庵真康」と断定されますが、むろんリアトリビューションもありえますが、「仲庵真康」の作と思われるのは20点ほど、確実なものは数点しかないと思われますので、新たな発見というべき作品でしょう。

なお箱裏のある花押とともに記されている「夢關」という人物についても詳細は不明です。

  

室町期以前の古画については、主に仏画が多いのですが、記録も少なく一般に知られていない画家が多いようです。このような古い作品が舞い込んでくるのまたなにかの縁であり、後世に伝えていくべきものでしょう。



前の所有者も同じように後世に伝えたかったのでしょう。ところで本作品の魅力は写真ではちょっと伝えがたいところがありますので、ご了解願います。







古備前壷 その4 舟大徳利

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男の隠れ家から出てきた錆だらけの刀の鍔・・。幾つかは鍔専用の保存箱に、これまた専用の布袋に入れられて保存されていましたが、箱のマットもまた錆でぼろぼろ・・。なんとも錆だらけのものをどうしたいいのかと、刀剣を研ぎに依頼した銀座のS刀剣というお店で聞いてきたり、文献で調べてきました。

鍔の錆落としは以下の手順らしい。

1.刀剣用の手入れに使う油を塗り、錆を浮かせる。
2.刀剣用の目釘に使う槌で、錆を叩き落す。(むろん傷をつけないようようにして・・・)
3.大きな錆を落としたら、鹿の角で擦って錆を落とす。(これが結構、錆が落ちなくて根気のいる作業・・・)
4.木綿に布で根気よく磨く。(ただひたすら根気よく磨く・・)
5.日光に晒して艶に味を出す。



錆落とし・やすり・錆チェンジャーなどの化学的薬品、堅いものは厳禁らしい。ともかくマニアックな世界・・。天日に晒して、最終段階。

ただ、錆は完全には落ちない。多少、錆のあることが味があると思ったほうがいいようです。拵えの揃った刀剣に鍔を変えて愉しむようです。鍔や小柄だけ集めてもつまらないでしょうから・・。

手入れは油は塗らずに「錆を育てる」らしい? 赤錆は大敵で、保護となる「黒錆」を育てて味を出す。ただひたすら日頃、木綿の布で磨くのみ・・、保存箱に仕舞っているとダメらしい。どう考えてもマニアック・・・

さて本日は「緋襷舟徳利」の作品の紹介です。

船の中で使っていても倒れないように、底が平たく広がっている徳利のことを「船(舟)徳利」と称します。備前のそれが特に名高く、ほかに丹波などがあるようです。漁師が沖へ出漁するときに酒を入れていったといわれるています。



古備前 緋襷舟徳利
杉箱入
口径50~55*胴径190*底径175*高さ380



高さが40センチ近くのこれほどの大きさの古備前の舟徳利は珍しく、火襷が景色となっている作品は稀有な存在と言えるでしょう。

窯印らしきものがあり、出来から桃山期の作品と推察されます。文献によると舟徳利は桃山時代に作品が多くなっているらしいです。ただ、壷の制作年代推定はかなり難しいので、確証はありません。



「緋襷について」はインターネット上の記事に詳しく説明されています。

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古備前 緋襷について

桃山時代に焼かれた古備前には緋襷の名品が多い。なかでも国の重要文化財となっている緋襷姥口水指(畠山記念館蔵)は、「日本一ト昔往ヨリ云伝」と明治の「名器拝覧秘記」にあるなど古来よりいい伝えられた名品である。



根津美術館所蔵の緋襷鶴首花瓶はかぶせ焼によってヒョウげた鶴首となった尻張徳利ねっとりとした深い土味に緋襷のグラデーションが魅力的。 利休所持の緋襷茶入「布袋」は、撫肩で胴紐が巡らされている桃山時代の名作です。

室町後期から江戸初期までは大窯という共同窯で焼く古備前の全盛期‥‥現在のように耐火煉瓦や棚板がなかった時代には地下半分を掘り下げ、アーチ状に竹で編んだ天井に土を塗って伊部の中心部からみて南・西・北に築窯された。

共同の大窯は大きく、一度で多くの作品を焼くため作品を重ねて焼かなければならなかった。直接作品同志を重ねたのではくっついてしまい、作品に傷がつく。しかも器物を重ねて焼かなければ窯の底ばかりに作品をいれてしまうこととなり、 火は天井の方ばかりにいってしまい底にある作品は生焼けになる。

そのため、くっつきの傷を防ぐために、耐火性の強い藁を挟んで焼成することをおぼえた。このおかげで、作品同士くっつかず、しかも藁の跡が、緋の襷をかけたような筋となり、白い地肌に交差して、これがひとつの景色になったのである。おそらく陶工たちが、縄で縛って運んできた自分の作品を窯詰めした時、「どうせ燃えてしまうだろう」と、取らずに窯焚きをしたら、作品に付着していた藁の跡が、赤く鮮やかに出て驚いたのではないだろうか。



運搬に使った古い藁の方が作品に巻きやすい。こうして偶然の化学変化によってできたこの「緋襷」は、その後、作為を持って作られるようになる。

緋襷に使用する藁は稲藁で、餅藁は使わない。正月の飾りに使われるのは細工しやすいので、もっぱら餅米の藁だが、この餅藁は火に弱く、作品同士がくっついてしまうし、藁灰釉のように白い固まりができやすいからだ。しかし農薬に汚染?された藁はひ弱く切れやすい。 岡山県南でとれる備前雄町米は酒米である。これは茎も長くしっかりしていて緋襷に好都合であるという。

備前の緋襷をまねた常滑では白泥の素地にコモクという海藻を巻き付けて匣鉢に入れて焼いた。この「藻掛け」で緋色をだすため、あらかじめ藁を塩に浸してから巻き付けると考える人がいる。

しかし長時間焼く備前では藁に塩分を浸したりしない。 海に近いが貝高台もなく、本来、藁をそのまま使った緋襷という手法は備前だけのものだ。せっかく藁を巻いても匣鉢などを使わず、むきだしで焼くと最初に藁が焼けてしまって緋襷にならない。それだけでなく自然釉が降りかかったりして炎が直接あたるため茶褐色の地肌となってしまうので、あらかじめ大きな壷や水指の中に入れたり、匣鉢にいれてから焼成している。このため、現在では薪の灰がかからないガス窯や電気窯などが匣鉢が必要ないので広く使用されている。



襷の形は色々ある。古備前に限っていえば、筋をなして太めのものが多いが、火襷が一カ所に集まって火色がまとまって出ているものが多い。 藁には節があり、先端にいく程、だんだん細くなっているが、なるべく同じ太さの藁を選んで巻きつけてあるようだ。

現在ではそれほど藁の太さを選ばず、襷から枝が出ていたり二股に分かれているものもあり、下手な絵より勝る調和のとれた火襷を製作するようになった。 砂気の少ないねっとりとした白い肌に細かい「小豆」とよばれる赤い斑点があるものを古来より貴ばれている。棚板がないために作品を被せたり重ねて窯詰めした。緋襷と胡麻が掛分のような釉景となる、これが伏せ焼き。



釉薬をかけない備前焼にとって窯詰の工夫によって変化のある作品を生むこととなった。作品を寝かしたりすることもすでに桃山時代には確立されている。伏せ焼きなどで、作品同志がくっつかないように間に稲藁を巻くが、器物の外にはみだしてしまった藁が自然釉の胡麻を誘い、その胡麻が糸状に細くみえるところから「糸胡麻」とよんでいる。これは飛び胡麻とともに直炎式の穴窯に多く、登窯ではみられない。

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窯印は底にあることが多いようです。



大きさは大き目の作品がやはり見栄えがしますし、形は安定性のあるすっきりしたもので、さらにねっとりとした深い土味に緋襷のグラデーションが真骨頂です。このような作品があるようでないもので、本作品は非常に稀です。



「砂気の少ないねっとりとした白い肌に細かい「小豆」とよばれる赤い斑点があるものを古来より貴ばれている。」ということですが、さすがにこのような作品は茶陶器にはあっても、舟徳利には少ないようです。

大きい作品には箱が無いことが多いですが、本作品には杉箱が付いています。



大海原の船の底のほうで、じっとしていた徳利・・・。じっと耳を傾けると海の音がする・・?? するわけがないか。

同時期のものもある鍔・・、メンテナンスの面倒な鍔、ただし丈夫。メンテナンスの要らない舟徳利、ただし割れる。さてどちらがいいのだろうか?

海老図 福田豊四郎 その56

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昨日のアクセスが多い記事に「弓野焼」の2件に記事がありました。どうも昨夜放映の「なんでも鑑定団」(秋田の羽後での会場)で出品されたらしい。

ところでパパが居る時には「パパ依存症」の息子です。何をするにも「パパ!」のようです。オムツを換えるのさえ「パパ!」



寝ていてもベットに脚をかけてくる始末・・・ 

朝起きて小生がいないと「パパどこ?」と探し、トイレまで入ってきます。朝早く見送られて出社すると、家内からメール「ママと〇〇寂しいね~、パパ行っちゃたから。」と〇〇の息子が言ったらしい。

昨夜は海外に赴任する元同僚の壮行会・・。帰ったらちょうど寝息を立て始めていまいした。残念・・・・。ただし「なんでも鑑定団」はなんとか最初の作品以外は見ることができました。弓野焼の作品の評価と売買値段はやはり一桁違うようで・・。

さて、まだ骨董に興味を持つ前のこと、親戚の家で見た色紙の作品であったと記憶していますが、福田豊四郎の「海老」の作品が「いいな~」と感じたことがありました。今まで縁が無かった福田豊四郎の画題ですが、このたび入手できました。小生は執念深い、そう蒐集する心構えは執念深いこと・・・。

伊勢海老 福田豊四郎筆 その56
紙本着色軸装 軸先象牙 太巻合箱入
全体サイズ:横460*縦1260 画サイズ:横*縦



海老の図は「髯長く、腰曲がるまで」という長寿の吉祥の図です。



福田豊四郎は写実的ではなく、実にユニークは表現で描いています。



覚書が軸箱に同封されており、製作時期は昭和38年のようです。制作年が特定されているのに、共箱でないことから推察するに、依頼して描いたいただき「まくり」の状態であったのを、あとで表具したのでしょう。表具はいいもので「太巻き」で保存されています。

 

吉祥図ですので、干支を選ばず、正月の掛け物にも最適です。



落款と印章は下記のとおりです。



大きさも茶室なども小さめの床にもいいものです。掛けて写真撮影していると、近くで昼寝していた祖父が絵を眺めながら「うまそうだね。」だと・・。



我が息子も海老のよう・・。駄々をこねるときはうつ伏せになって海老の如く跳ね回り、・・・・
狙った作品を蒐集できないときは、小生も海老の如く地団駄を踏む・・。



デルフト その5 染付花鳥文壺

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調達を一本化しようとすると社の方針に逆らい、個人プレーをする者が出てきます。既存の商流を守ろうとするのですが、それが個人プレーとは認識せず、周囲に対して妨害行為に及ぶとこれは厄介なことになります。さて、今日は早朝より九州と広島へ一泊にて出張し、夜は同期と一献。よって、明日の投稿は休稿となります。

ずいぶんと前になりましたが、5月の連休を利用しての帰省の帰京のルートは鷹巣から角館までの内陸縦断鉄道を・・。このルートはこれで2回目の本ブログでの紹介です。



連休中でもガラガラの車内は景色やら雰囲気を自由に堪能できます。運転席の隣で、「ほらトンネル」とか・・。



「お!、橋!」とか



途中では待ち合わせの電車も・・・。



角館では駅前でカレー・・。遊び過ぎてお腹が空いた ここからは新幹線です。



今でもときおり息子がテレビで電車をみると「トンネルがあったね」と要っています。

本日はデルフト焼の作品の紹介です。デルフト焼は好んで蒐集したわけではありませんが、いつしか「その5」となりました。

デルフト その5 染付花鳥文壺 
合箱 
口径82*胴最大幅160*底径121*高さ223



オランダのデルフト焼は明末清初の染付を模倣した作品群です。



本作品はアムステルダムのショップからの購入という触れ込みでオークションに出品されていた作品で、口縁部分に共直し、削げがある作品です。



各人の好みですが、デルフト焼は単に中国の模倣のような作品はつまらない作品が多いと思います。大きな壷で、まるで景徳鎮で作られたかのような作品には興味が湧きませんが、こちらのほうがはるかにお値段は高いようです。



中国や日本の磁器のような堅牢さはなく、まるで楽焼や源内焼のようなはかなさが初期のデルフト焼の魅力です。



本作品はそのような観点からは非常に魅力的な作品です。和洋折衷の面白さがあります。



仕上がりも雑な作品のほうが面白味があります。



人も陶磁器も模倣で完璧なものはそれはもはや単なる模倣でしかありませんね。それはすでに創造性のかけらすらない・・・、既存の商流をただ守ろうとすることも同じこと。



はてさデルフト焼に詳しい読者の皆さんの評価は?

小橋川永昌(二代仁王)の碗  その6

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九州と広島への一泊の挨拶回り、懐かしき元同僚、現在の同僚らとの貴重な語らいの時間はありがたいものです。

男の隠れ家に持ち込まれた箱の中からなにやら碗が4個。「仁王」の書き銘があります。



これは小橋川永昌(二代仁王)の碗と解ります。沖縄では子供時代の呼び名をワラビナーと称するようで、仁王がワラビナーのことらしい。小橋川永昌の父親も仁王を用いていたので二代仁王として、沖縄の壷屋焼の窯を引継ぎました。



「仁王」の銘は三碗にあり、一碗は無銘ですが、同一の作者と推察されます。小橋川永昌(二代仁王)については浜田庄司との関連でも本ブログでお馴染みであり、「なんでも鑑定団」にも出品されている陶芸家です。

小橋川永昌(二代仁王)の碗 その1
口径127*高台径57*高さ58



銘はありませんが、作行きと他の作品と一緒になっていたところから、小橋川永昌(二代仁王)の碗に相違ないでしょう。



家内は四碗の中でこれがお気に入りとのこと。数茶碗のひとつにいいかも・・。



小橋川永昌(二代仁王)の碗 その2
口径126*高台径58*高さ64



この赤絵は浜田庄司や島岡達三などの作品に相通じるものがあります。



この書き銘は「なんでも鑑定団に出品された作品」と同時期のものと推察されます。



素朴な味がいい、茶碗としても使えそうですが、もともと飯碗として製作されたものかもしれません。購入時は数千円で買ったものでしょう。



小橋川永昌(二代仁王)の碗 その3
口径124*高台径59*高さ66



私はこの碗が好きです。胎土などからも浜田庄司の作品に一番近い作りになっています。



萩焼きに近い「鹿背」がうっすら出ています。



高台も砂付? 野性味溢れる作品で書銘も上記と同じ頃。同時期の作品でしょう。



見込みはまさしく浜田庄司の「地釉茶碗」と同じです。



ちなみに浜田庄司の「鉄絵茶碗」の見込みは下記の写真です。



「(縁黒)地釉茶碗」については、本ブログですでに紹介済みですが、記事はすでに非公開にしておりますのでご了解願います。



本作品はもっともオーソドックスな浜田庄司の茶碗です。



小橋川永昌(二代仁王)の碗 その4
口径146*高台径64*高さ67



家内は「パンダ?」と・・、確かに巴の文ではない。「息子の飯碗にいいとのこと。むろん育ち盛りになってから・・・」



底には書き銘があります。銘があるのは三碗です。



見込みには少しの絵付けと一滴の釉薬の垂れ・・。これが景色となっており、本作品にほんの少し面白味を加えています。



ある程度の知識がないと打ち捨てられていた作品です。箱には飯碗としか記されていませんでしたから・・。とはいえ、売買時にはされほど高くはありません。あくまでもガラクタ・・・??

小橋川永昌、金城次郎、新垣栄三郎の壷 の三人を沖縄の代表的な焼物「壺屋焼」を世間に認知させたため、親しみをこめて壷屋三人男と呼んでおり、この三人と浜田庄司の関係は本ブログで何度も紹介しておりますので、本記事では省略させていただきます。

なんでも鑑定団のインターネット上の記事は多少なりとも参考になります。



書き銘が参考になります。



この作品とて技術的には所詮稚拙。どこに価値を見出すかは鑑賞する側の感性次第です。男の隠れ家にはいろんな作品が集まってきます それ相応の目利きの持ち込みもあるので舐めたらアカン・・。

骨董との語らいもまた貴重・・??

天保九年 観瀑山水図 中林竹洞筆

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幼稚園から高校までの同級生の友人が設計してくれた郷里の自宅です。その一室の照明は凝っていますが、母の寝室としてしばらく使用していました。小生は和室で寝起きしており、この部屋では通算しても一ヶ月は使用していません。



その室に飾られている洋画は木下孝則の「裸婦」です。



ずいぶんと色っぽい作品ですが、父が日動画廊で購入した作品で、小生のお気に入りでもあります。部屋全体が色っぽくなりすぎて、どうも落ち着きません



本日、紹介の作品はまったく趣向の違う南画の山水画です。

天保九年 観瀑山水図 中林竹洞筆 その
紙本水墨軸装 軸先木製加工 合箱 
全体サイズ:縦2000*横 画サイズ:縦*横

手前に置かれているのは先日の「なんでも鑑定団」に出品されたものと同じ弓野焼の甕です。



賛には「董北苑晝法 戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)秋八月寫 於東山草堂 大原老人 押印」と記されており、1838年(天保9年)、中林竹洞が60歳の時の作と推察されます。清和月は旧暦の4月のことでしょう。



「董北苑」については下記のインターネット上の記事を引用します。

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董源:中国,南唐の山水画家。五代,宋初の画家。江南の鍾陵 (江西省南昌) の人といわれる。

董元とも書く。字は叔達。南唐の中主に仕え北苑副使となったため,「董北苑」と称された。



王維を継いだ唐朝青緑山水画風を追倣した作風もあったが,淡墨を重ねて江南湿潤の景色を写す山水画風を創始したとされ,その水墨画法は粗放であったといわれが、柔軟な筆づかいで江南の風景をえがき、水墨画は王維に、彩色画は李思訓(リシクン)に似ているといわれた。

山水画技法の基礎を確立,後世南宗画の祖と呼ばれる。生没年未詳。

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本作品は保存状態もよく、大幅で竹洞の作品中でも傑作の部類に入ります。「成昌之印」と「竹洞自□」の白文朱方印が押印されています。



鑑定箱には「大正十一年壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)之秋日題画於□禅壷中 柏陰主人鑑 押印」とあります。「柏陰主人」とはむろん画家の「田中柏陰」のことです。

「田中柏陰」については下記のとおりです。

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田中柏陰:日本画家。静岡県生。本名は啓三郎、字を叔明。別号に静麓・孤立・柏舎主人・空相居士。京都に出て田能村直入に南画を学び、竹田・直入の画風を継ぐ青緑山水を能くした。

京都と山口県右田に画塾を設け、多くの後進を育成し、関西南画壇の重鎮として活躍した。

竹田系統鑑定家の第一人者でもある。昭和9年(1934)歿、69才。

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「大正十一年」という書付から、田中柏陰が55歳の頃の鑑定と推察されます。



本日は南画と「裸婦」・・・。



「中林竹洞」については、何度も本ブログにて掲載していますが、改めて下記の記しておきます。

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中林竹洞(なかばやし ちくとう):安永5年(1776年)~嘉永6年3月20日(1853年4月27日))は江戸時代後期の 文人画家。尾張の生まれ。名は成昌、字を伯明、通称大助。竹洞は画号。別号に融斎・冲澹・大原庵・東山隠士など。

竹洞は、名古屋の産科医中林玄棟の子として生まれた。幼い時から画を好み、14歳で沈南蘋風の花鳥画を得意とする絵師山田宮常に学ぶ。翌年、尾張画壇のパトロンとして知られた豪商神谷天遊に才覚を見込まれると同家に引き取られひたすら古画の臨模を行って画法を会得した。天遊に連れられ万松寺に出向いたとき李衎(リカン・元代)の「竹石図」を見て深く感銘したことから竹洞の号を授けられたといわれる。このとき弟弟子の梅逸は王冕の「墨梅図」に感銘したことからその号を与えられた。

19歳のとき画家として独立。享和2年、恩人の天遊が病没すると同門の山本梅逸と共に上洛。寺院などに伝わる古書画の臨模を行い、京都の文人墨客と交流した。天遊の友人内田蘭著に仕事の依頼を受けて生計を立てた。30代後半には画家として認められ、以後40年にわたり文人画家の重鎮として知られた。

竹洞は『画道金剛杵』などの画論書を著し、中国南宗画の臨模を勧め、清逸深遠の趣きを表すべきであると文人としての精神性の重要さを強調している。また室町時代からの画人47人を品等付けし、その上で池大雅を最高位に置いている。その画風は清代文人画正統派の繊細な表現スタイルを踏襲。幕末日本文人画の定型といえる。長男・中林竹渓、三女・中林清淑も南画家。

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「中国南宗画の臨模」の一環として本作品が描かれたものと推察されます。



南宋画的な絵よりも、色彩画の上品な味わいのある絵が竹洞の真骨頂と言えます。また本作品は紙本ですが、絹本の作品で「竹洞裂」と称される目の荒い上等な絹に描かれた作品が特に評価が高いようです。

さらには竹洞の作品は特に印象が強いわけではなく、画家としてそれほどの注目を集めていないのが現状です。



しかし竹洞は『芥子園画伝』や『佩文斎書画譜』などの画論に精通していたのに加え、中国絵画を多く臨模して作画に活かしたことで、当時日本文人画の第一人者と称された画家です。



日本の文人画家を論じる竹洞に注目すべきですが、伝存作品、著作ともに多く、比較的容易にその精神に触れることができ、十九世紀の文人画を理解するためには最も適当な画家と言えるでしょう。

そして何よりも真理を探求し、軽佻浮薄に流れない竹洞のストイックな生き方は共感を感じます。

我々は「裸婦」の作品と南画の山水画の両方を飾り方を変えながら愉しめる時代に生まれたことを幸せに思わなくてはいけないのでしょう。



手前においてあるのは、「古備前緋襷舟徳利」です。

近年のように「南画」を毛嫌いしたりしているのは、時代を享受できていないようでもったいない気がします。


 

染付 隅田川文香合

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選挙というものは、ある意味で政治家の茶番劇であるという側面をもっているものですが、今回の選挙もまたそのような側面を改めて感じました。もしかしたら一番賢いのは投票する側の国民であったという今回の参議院選挙の結果かもしれません。

さて息子は最近、小生の寝ているベットに足をかけてくるようになってきました。朝起きると「パパ、どこ?」と半泣き状態で小生を探し回る始末・・・、「かわいいね~」



本ブログの作品でアクセス件数の多い作品に「染付香合 五良太甫呉祥瑞造銘」があります。

本日紹介する作品は同じく染付の香合の作品です。

(古)染付 隅田川文香合
箱入
幅68*奥行67*高さ40



復習の意味で香合の由来を調べてみました。インターネット上の記事を引用します。

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香合(こうごう):風炉や炉の中で焚く「香」を入れる「盒子(合子)」(小さな蓋付の器)です。

炭点前のときに普通は、炭斗(すみとり)に入れて席中に持ち出し、炭をついだ後、火箸で香合より香を取り、下火の近くと、胴炭のあたりに入れます。炭点前がない場合は、床の間に紙釜敷(和紙を重ねて四つ折にしたもの)に載せて飾ります。

炉には木地、塗物等の香合を使い、伽羅、沈香、白檀などの香木を使います。

風炉には普通は陶磁器のものを使い、練香(香木の粉と蜂蜜などを練り上げた物)を使います。

古くは、「室礼(しつらい)」(座敷飾り)に香炉に付属して置かれ、大半は塗物でした。

草庵の茶室でも香炉と一対で席中に持ち出し飾られましたが、炭道具として独立したかたちでの香合は、記録では文禄年間(1573~1595)以降とされます。

漆器や陶磁器の小品から取り上げて使うようになり、また焼物香合を焼かせることも始まり、桃山時代から黄瀬戸、志野、備前、織部、信楽、伊賀、唐津などが焼かれます。

もとは日用雑器から取り上げたものが多く、古い時代ではそれほど重く扱われていませんが、江戸時代後期、文化・文政年間になるころ、蓋置などとともに小物に趣向を凝らす事が盛んになり、唐物を中心に陶磁香合が重く扱われるようになり、安政2年(1855)に交趾・染付・呉州・青磁・祥瑞・宋胡録などの唐物香合を主に215種で編集した『形物香合相撲番付』が制作され、後世の評価にも影響しています。

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『形物香合相撲番付』なるものを調べてみましょう。まるで相撲の番付のようなものです。こちらもインターネット上の記事を引用します。詳細はリンク先を参考にして下さい。

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「形物香合相撲」番付表:安政2年(1855)に出版され、染付85種、交趾64種、青磁29種、祥瑞19種、呉須16種、宋胡禄2種の計215種の唐物の香合が選出され東西に分けられています。

行司に塗物香合3種、頭取に和物の焼物の代表的なもの7種が選ばれ、勧進元に呉須台牛と紅毛2種の計3種、差添に南蛮・寧波染付の2種の、総計230種の香合が記されています。その他は世話人の部に入れられています。

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現存する香合のほとんどがこの分類に区分けできるようです。当然の如く、写しの作品もあれば、稀に当時の古来の作品もあります。



本作品もこの分類の中にあり、「形物香合相撲番付表」の番付の四段目十四位に位置するのが「隅田川」香合です。



作品の特徴の説明には

「多少ふくらみのある四方形で、蓋の甲に対角を結んで川に架かる橋を表わしたハジキ(弦状の摘み)が付き、これを境に上部に枝垂柳、下部に川面を行く船人物を描いたもの。図柄は少しずつ異なる。日本からの注文品で、根津美術館のものが知られる。」とあります。



使用する季節は春のようで、「春のうららの隅田川・・」?、四隅に桜も文様が描かれています。根津美術館所蔵の「隅田川」香合作品を看てみたいですね。



本作品が模倣品なのか、古染付の作品なのか? 小生には知る由もありませんが、古染付の雰囲気があり、正直なところ願わくは古染付であってほしいものです。



前の所蔵者が大切に保存していたことがうかがえる保存箱です。



写真の無い時代は中身が解るように小さな札を付けておくのが普通でした。香合の保存箱は小さいのを良しとするようです。いいものはぎりぎりの大きさの箱に保存されています。



紐が皮だともっといい仕立てになります。茶碗や茶入ではいい道具はさらに外箱が付きますが、香合ではあまりみたことがありません。



古染付であろうとなかろうと、「形物香合相撲番付表」なるものを知ることができたのは収穫です。

選挙になると誰が誰だか解らなくなるので、政治家や政党にも番付評、もとい番付表でも作ったらいいのではないでしょうか? 

日本をダメにしかけた前回の政権での予算切りの女性の責任者は誰だったのか、タレント議員なるものの才能はいかほどかなどの忘れ去られた事実や知られていない事実を一覧にしてもらいたいものです。まだまだ当選すべきではない人物が議員になっているような気がしてならない。

懸崖雁行之図 寺崎廣業筆 その44

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亡くなった家内の墓参りに帰省した際に、義妹から「お寺の住職さんが会いたいようなことを仰られている」というので、電話連絡してみると、住職の祖父が蒐集された作品を見てももらいたいとのことらしいです。

住職の祖父の方からはなんどか骨董の指導をしていただいているので、是非にと思いましたが「急がないのでいつか」ということになりました。所蔵されている作品の中で多いのは「寺崎廣業」の作品だそうですが、郷里では著名な蒐集家でしたので楽しみです。

ということで本日は久方ぶりに「寺崎廣業」の作品の紹介です。

懸崖雁行之図 寺崎廣業筆 その44
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙加工 合箱
全体サイズ:縦2010*横550 画サイズ:縦1060*横410



押印されている印章は他の所蔵作品「黄初平」らと同一印章です。「寺崎廣業」の作品の贋作はいくつかみましたが、印章まで正確に模倣している作品は少ないようです。



描かれている山は富士山・・??



前にも記述したように寺崎廣業の作品は多作で、席画のような駄作も多いので、展覧会への出品作は無理としてもきちんと描かれた作品を選択して蒐集するのがポイントです。



寺崎廣業の作品の中でも風景画は傑出しています。寺崎廣業の粉本の画帳を見たことがありますが、丁寧に過去の名画を写して勉学しており、ものすごい努力家です。一概に大衆画家とは言えないが画力があります。



本作品にも画力が読みとれる作品です。下手な箱に収納されており、掛け軸を開くまではいけない作品だろうと思っていましたが・・。



ガラクタだろうと黴臭いと思われようとこの手の作品は誰かが保存しないとそれこそゴミ箱行き・・。



表具は絵とマッチしており、いい表具です。



郷里での寺崎廣業の作品の出会いを楽しみにしています。

再登場 蒔絵刀掛と刀剣と拵え

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周囲の男性はゴルフの趣味の方が多いようですが、ゴルフは自己世界ばかりで何が愉しいのか私は理解に苦しみます。もともとゴルフなどは野趣な男の趣味のように思われ、ゴルフは人生そのもの、奥が深いなどは違和感があります。世の男性には「大人の男の趣味」にもっと没頭したほうが世界が広がるように思います。

」て男の隠れ家からの出土品??  刀の鍔(鐸と証するらしい)ですが、錆だらけの作品をなんとかいろんな資料や銀座にある刀剣を扱うお店で聞き込んだ情報でここまでになりました。刀剣店に伺うとあとは象牙で磨き、ひたすら木綿布などで磨くしかないということで、まだ不十分らしい・・



どっちが裏でどっちが表? 「菊型鉄地透字文」? ともかく刀剣類は扱うことの少なかった作品群ですので、名前の付け方さえ右往左往しています。といって粗末に扱うこともできず、刀剣は研ぎに、拵えは直しにと手間のかかる作業にかかっています。



さて本日は友人から譲り受けた蒔絵の刀掛です。

蒔絵刀掛 
波ニ鶴 梅 保存箱
幅486*奥行190*高さ355

「波ニ鶴」と「梅」の図柄です。吉祥門の絵柄が気に入り、友人に頼み込んで譲ってもらいましたが、男の隠れ家の刀の観賞用に使用しようと思っています。江戸期から幕末の蒔絵のようですが、きちんとした保存箱に収められています。使用した様子もなく、これといった傷の無い完全な状態です。

以下は説明文は不要でしょう。



















手元にある模造刀を置いてみました。真剣の置きかたは鋭い刃が痛まないようにこれとは上下が逆、また実際は刀と触れる部分には保護布などを置くほうがよいようです。

どうも模造刀では、鍔が玩具のようでさまになりません。そこで研ぎなどの修復が出来上がったきた真剣とその拵えを置いてみました。刀剣店の見立てでは「大阪丹波守吉道弐代」(江戸期 新刀 中上作)の真作でかなり出来のよいものだそうです。これらの作品の詳細は後日に機会があればまた紹介します。



真剣が物騒なら太刀の拵えだけの飾りでも充分見ごたえがあります。亀の蒔絵の太刀拵えに鶴の蒔絵の刀掛けで長寿の吉祥となります。

太刀の拵えは家紋入でこのような拵えは大名道具などによくあります。風鎮は黒珊瑚、道具は大人のお洒落。掛け軸は長寿の天龍道人の葡萄図。この道具立ては長寿祈願・・・。解るかな~。



掛け軸の前に刀剣を置く・・。「刀剣女子」なるものが増えているそうですが、そのようなレベルではない「男の隠れ家の男の大人の遊び」をしたいものです。軸はさらには剣豪山岡鉄舟の書とか、西郷隆盛や副島種臣の書とか・・。



残りの真剣の研ぎなどがすべて終わるのには一年を要しそうです。男の隠れ家には何振りのガラクタ刀剣があるのやら・・。じっくり勉強しながら一振りずつの修復し、後世に伝えようと思います。ただどうも刀剣店の方もこちらを教えるのを楽しみにしてる雰囲気がある

刀剣は趣味が広くて奥が深いので要注意です。鍔、小柄、目貫などとてもマニアックな世界が広がります。こちらものめりこむと大変なことになりそうです。

掛合釉盃 浜田庄司作 その20 盃考あれこれ その1

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本日は朝一番で大阪へ・・。まずは東京に引き続きOB会への出席。その後、同業者との会合、そして帰京。夜遅くなりそうです・・。

さて伊万里の盃などの窯作品は本ブログで紹介しましたが、陶芸作家による盃は本ブログではきわめて稀かもしれません。

そもそも当方は自宅ではほとんど酒を飲みませんし、家族も全員下戸ですので、徳利や盃は家では無用のものです。酒は寿命を縮めますので、過度の酒量は厳禁というのが持論ですが、無論適度の酒量は百薬の長ということは認めています。

しかしながら、このたびの作品の整理にあたって作品を漁ってみると盃、もしくは酒器になる器が意外に多いことに気がつきました。世人には盃を専門に蒐集している御仁も多いと聞いていますので、少しずつ紹介してみたいと思います。

本日は浜田庄司の盃です。蒐集してみると記がついたのですが、浜田庄司の「盃」の作品はそれほど多くありません。「多くない」という表現は適切ではなく、「非常に稀」というのが適切だと思うのですがなぜでしょうね? 「徳利」の作品もまた稀・・。門窯や初期の赤絵の作品はあるようですが・・。

もしかしたらあまり酒を飲まない人だったのではないでしょうか?

掛合釉盃 浜田庄司作
共箱
口径92~95*高さ62*高台径47



箱書はきちんとしていますので、無論真作です。本ブログで「伝」や「贋作考」という注釈や説明できちんと贋作という記述の無い限りすべて真作です。当方で解りうる浜田庄司の真贋鑑定方法は本ブログで記述していますので、ここでは詳細は省略します。



浜田庄司の魅力のひとつはその釉薬の発色の素晴らしさににあります。初冬に真っ白な雪が松の木の上に降り積もったような味わいがあります。

小さめの茶碗に近いかなり大き目の盃ですが、胎土の適度な厚さと手持ちの良さがこの盃の持ち味の良さのひとつです。

盃は備前、志野、初期伊万里、唐津・・・云々と好みはいろいろでしょうが、盃というものは意外にこれといったものが人には少ないように思います。かなり凝った方ですと李朝とか・・。



旨い日本酒をぐっと一献・・・。この盃で是非飲んでみたいという盃は意外に少ない。ただ、陶磁器を製作した経験から言うと、盃は実に簡単に自分で作っても様になる器です。一番安上がりなのは、自分で作った盃だと思っています。



お気に入りの盃に、徳利は最上級の李朝の雨漏手で・・。「李朝の徳利」・・・、欲しいものです、しかもいい「雨漏手」・・・。酒器は李朝、備前がやはり本流か?



欅の木片をお盆代わりに一献・・・。展示室の冷蔵庫にそういえば戴いたワインやら日本酒があったはず・・。

温めの燗をしたした日本酒を注ぎ、降り始めた雪を眺めながら男の隠れ家の縁側で一献・・。小生が選ぶとしたらこの盃・・・。

転勤した当初は酒席が多くなり、小生は酒の里の雪国出身ゆえに酒好きと思われるのか、転勤当初は酒を貰うことが多いのですが、実は戴いたお酒はすべて会社に持ち込んで同僚らに飲んでもらっています。自宅では稀にしかお酒は飲まないので・・。

人生の敵は「欲と色と酒」と言いますが、骨董を、否ガラクタを扱う際は酒は敵、これはまさしく事実

さ~、本日は三つの会合ですが、飲み過ぎないようにしなくては・・・。


盃考あれこれ その2

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昨夜は大阪からの出張から帰ったのは夜遅く、本日は朝早くから家族で箱根へ・・。

出張や暑いので、週末は体力をつけようと奮発して、先週末には皆でウナギを食べに出かけました。



息子も大喜びです。



帰宅途中でコーヒーを飲もうということになり、ちょっと変わった喫茶店へ・・。



店のご主人とピアノの演奏を控えていた女性の方と話すうちに時間前でしたが、特別にピアノを演奏してくれることになりました。



男の隠れ家の箱から出てきた盃の面々・・。まずは硝子の盃、作者は藤田喬平。オーソドックスな盃ですが、媚びたところがないのはさすがという作品です。

盃 藤田喬平作
共箱 
最大口径60*最大高台径39*高さ47

 

夏の酒器には欠かせない硝子の盃です。底にはサインが通常ありますが、盃類はないものが多いようです。共箱がないと判断がつかなくなりますね。



備前の盃もまた欠かせない作品です。

盃 藤原建作
共箱
口径74*高台径40*高さ45



外側には胡麻釉、内側には緋襷という贅沢な作品です。



備前の酒器で作家作品では藤原雄が著名ですが、これはちょっと一般的かもしれません。



最近は備前の酒器には奇抜な作品が流行していますが、これはまた改革のひとつですから、評価はここでは遠慮します。



次は坪島土平の作品ですが、共箱も無く、銘もありませんがメモ書きからの作者の判断です。「坪島土平」を知っている陶芸ファンは多いと思います。

盃 坪島土平作
箱なし
口径53*底径32*高さ44



坪島土平は、戦時中に大阪から半泥子の窯場の近くに、たまたま疎開してきていたことから半泥子の手伝いをするようになり、ついには半泥子の跡継ぎになった陶芸家です。「土平」という号は、半泥子が付けたもので、本名の苗字の坪島の「坪」の字を左右2つに分けたものらしいです。実際には土の字の右側中央付近に点が付いているのが特徴で、これは土が飛んで付いたことを意味しているそうです。しかし、日本語の文字としては存在しません



盃という小さな器は値段的にも入手しやすいもので、その作家や窯と縁ができるには最適なものかと思います。酒を飲まない方でも食器としてあれこれ使えるものですね。

氏素性の解らぬ作品 交趾焼? 緑釉蜥蜴彫細工水孟

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3連休は近場に遊びに行こうということになり、家族全員で箱根へ・・・。週末はブログの原稿作成にいい時間でしたが、また推敲なしの拙文になってしまいます。ということで本日はなにやら訳のわからない作品の紹介です。

近代中国で作られた作品のように思います。

交趾焼? 緑釉蜥蜴彫細工水孟
補修跡有 銘有 合箱
幅70*奥行き65*高さ55



蜥蜴が覗き込むような作は何か謂れがるのでしょうか?



印鑑立てにいいかと思います。



「うっかり気軽に印を押すなよ」という警告にいいかも。



型で作ったのかは不明?



とうとうブログの題材に困ったか?と思われてもいたしかたない



底のある印銘は「道光年製」・・・・・。なんでも偉そうに印銘があれがいいというものではないと思いますが、真偽のほどは小生には判断がつきません。



机の脇にず~っとペン立てとして置いてありますが、なにやら気になる作品です。

源内焼 その79 三彩龍虎文水注

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息子が最初は苦手だった滑り台ですが、最近は高くとも、長くとも平気なようです。



慣れるというのは必要なことであり、怖いこともでもあるのですが・・。

本日の作品は源内焼の水注です。

源内焼 その79 三彩龍虎文水注
合箱
幅123*奥行95*高さ125



源内焼の水注は珍品中の珍品です。水注、もしくは酒器でしょうが、実用的ではありませんね。



他の対の同じような器と比較して写真撮影してみました。



いくつか同じような作品が集まり、それらとて型での作品でありながら、ひとつとして同じ作品はなく実に味わい深い作品群です。



最初は「龍獅子」で売られていましたた、「龍獅子」?? 「龍虎」でしょうね。

 

「急須」で売られていましたが、「水注」が正しいのでしょう。作品を正しく表現できる御仁が少ないようです。

 

本作品ほど源内焼の妙技を如実に現してる作品は少ないと思います。

 

ただでさえ、急須や水注の作品はとても難しいものです。

 

陶磁器の型ものでこれを作るのは至難の技・・。

 

図柄も稚拙なようで稚拙ではないようです。

 

陶芸でチャレンジしたことのある御仁は解ると思いますが、作品製作は滑り台のように瞬時の業です。



源内焼のコレクションの収納棚の向いは幅の狭い掛け軸の収納棚となっています。掛け軸は横幅によって決まる長さによって5段階の収納棚があります。その収納方法はおってまた紹介しましょう。

お馴染みの画家 荒磯 奥村厚一筆 その8

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先週末は3連休を利用して、家族皆で箱根まで一泊の旅行してきました。まずは箱根湯元まで小田急線のロマンスカーで行き、そこら登山鉄道に乗り、まずは箱根美術館を目指します。



鈍翁の茶室で一服・・。



息子は慣れたもの・・。「あのお道具はなに?」



さすがに粋な茶室ですが、建築というものがよく解っている造りです。茶室そのものはたいしたことはないですが、全体がものづくりの愉しみ方をよく解っている造り方をしています。これは現代の人には解るかな? 一流の男の隠れ家には資金も必要だが、付き合う職人も知識も必要・・・。

行かれたことのない方にはお勧めの建築物です。・・風呂も見られます。



さて、本日の作品紹介です。

蒐集というものは時を経るごとに蒐集対象が徐々に絞り込まれてくるものらしい。当然、いいものは予算的にも蒐集が難しいので、己の身の丈にあった対象の作品となってきます。

そのような中で小生の蒐集対象の画家の一人に「奥村厚一」の作品があります。「福田豊四郎」の周辺の画家として蒐集していたのですが、その描く風景画は簡素にして、親しみと観察、その写生はその本質を見据えており、品格の高いものです。

根強い人気の奥村厚一の作品ですが、思文閣の入札会のスタート値段は6万円ほどです。まだ高いかもしれませんが、作風が好きな方には手頃な画家かと思います。

荒磯 奥村厚一筆 その8
紙本着色額装 共シール
全体サイズ:縦517*横633 画サイズ:縦332*横450(8号)



日本人であれば、いつかどこかで見た風景と感じさせる一作となっています。生涯一貫して風景画にこだわった厚一らしい一作です。



秋野不矩は奥村厚一の風景画について、「奥村さんその人にあるような気がする作品である。」と述べています。

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奥村厚一:京都生。京都絵専卒、研究科修了ののち西村五雲に師事する。第二回日展特選。

「我らは世界性に立脚する日本絵画の創造期を期す」として、昭和23年の創造美術結成。秋野不矩、福田豊四郎、山本丘人、吉岡堅二ら東西の中堅作家13名の創立会員の一人として参画。以後新制作協会日本画部から創画会への変遷とともに歩み、生涯一貫して風景画にこだわった。

風景画を追求し、晩年は水墨調の画風を展開した。創画会会員。京都市立芸大名誉教授・嵯峨美短大教授。昭和49年(1974)歿、享年69才。

 

*画中の印章は本ブログで紹介した掛け軸の作品である「春」の共箱の印章と同一です。奥村厚一の贋作はまだ見たことがありませんが・・。

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意外に奥村厚一の作品はカビなどが発生しているものが多く、選ぶなら状態の良い作品を入手するほうがいいでしょう。顔料の関係かな?

ともかく日本画に限らず、骨董にはこの梅雨時は非常に危険な時期です。保存には充分に気を使いましょう。



額に入れた作品を飾るスペースは、掛け軸とは違って自由です。なるべく目線に近い高さで適切な距離がとれる位置が飾るときのポイントです。



額装と掛け軸・・、どちらがいいかは各個人に好み次第ですが、現在は圧倒的に額装を好まれる方が多いようです。

風雅な男の隠れ家で、風雅な作品、望むべくは無いのですが・・。せめて拙宅で月を愛で、潮騒の音を想像して我が身を時の流れに身を委ねて、のんびりとする時間を過ごしたい。そういう意味ではあちこちを旅するのは良き想像力が身に付いていいかもしれません。骨董の整理で、家に籠もっていてはカビが生えてきそう

ところで昨夜に放映された「なんでも鑑定団」本ブログで紹介された作品とほぼ同型の作品が出品されていました。その作品へのアクセスが昨夜だけで300件弱もありました。普段はあまりアクセスのない作品なのに・・・。



白蔵主像 永楽妙全造
永楽妙全共箱入 
高さ220*奥行き115*幅115



なんでも鑑定団出品に同型の作品が出品
2016年7月19日
評価金額:80万

出品側の説明:戦中戦後の食料不足の中、芋の蔓を食べながら「甘いものを思いっきり食べたい!」と思っていたため、16歳の時、食べた人を幸せな気分にさせるケーキを作りたいと考え、大阪で修行。24歳で洋菓子店を立ち上げた。今は息子がその店を継いでおり、新作のケーキを味見するのが何よりの楽しみ。お宝は、先祖代々受け継ぐ置物。物心ついた時からなぜか仏壇の隣りに置かれ、父が毎日手を合わせていたため、父に倣って365日欠かさずこのお宝の前で「商売繁盛、家内安全」をお祈りしている。すると不思議な力を感じるが、家族は皆、懐疑的。有名な陶工が作ったものと聞いているが、確かに作りが素晴らしく、まるで生きているかのよう。



寸評:十一代保全の作品ではない。十四代得全の妻である永樂妙全の作品。箱書きに書いてある書体が妙全のもの。そこに「悠」という印が押してあるが、これは妙全の朱印として名高いもの。

 

妙全という人物は得全が亡くなってから19年間、細腕一本で永樂を支えた。依頼品はおそらく北三井家に伝わっている保全の白蔵主の掛軸を原本として作成したものと考えられる。仲間を次々と猟師に殺された古狐が僧侶に化けて猟師のところに意見をしに行く。



これは狂言の大変な難曲で、依頼品の後ろ姿・横からの姿に能楽師の耐えている演技が実によく表れている名作。



なんでも鑑定団に出品された作品より、本ブログに出品された作品のほうが保存・出来は上のようです。家に代々伝わる作品、神棚にて日々祈願は当方と同じ・・・。本ブログはガラクタだらけとは存じますが、それなりになおざりにできない作品もあるようです。

唐子印籠箱・印籠掛

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本日の諭告からはグループ会社の集まりでした。幹事で開会挨拶をさせていただきましたが、6社もが社長交代・・、時の流れは恐ろしく早い。

会社というものはその会社から離れて、少し時間が経って外から見れるようになると意外に内部にいると見えないことがろいろと見えてくるものです。数々是正すべき点があると思われるのですが、元の会社では如何せんやり残したことになってしまいました。

本日は畑で採れたトマト。会社でおすそ分け・・・。



昨日で2回目。、ちろん無農薬です。



さて、日本の伝統工芸にはいろんなものがありますが、海外から高く評価を受けているのが、「JAPAN」と海外で呼称されいる漆工芸です。器以外に印籠や刀剣にも用いられています。先日紹介した刀剣の拵えなどはその代表的なものです。螺鈿や高蒔絵など本ブログでもいくつか紹介してきました。そこには日本画の修行が欠かせず、図案には明らかに絵の修行がみられます。刀剣の鍔もその一例でしょう。

さてその流れから本日は印籠に絡む工芸品の紹介です。男の粋な小道具に印籠がありますが、その印籠の保存もまた「洒落」があります。

作品の紹介については本日は一切の説明は抜きにしましょう。

唐子印籠箱・印籠掛
箱入
全体サイズ:幅388*奥行き195*高さ278



























印籠の保存箱と印籠掛はつきものです。





 

刀剣に印籠類など昔の男性は粋な遊び方をしたようですが、現代では興味に無い方はこられをガラクタと称するようです。ま~、所詮は男の遊びですから・・。

これらのガラクタを貴重?だからといって、骨董品などを金庫に収納するなどは下卑た行為で、作品が痛みますのでこれはやめたほうがいいと思います。盗難に対する安全性を第一に考えてのこどでしょうが、個々の痛みを考慮して日々のメンテナンスが必要な品々ですので・・。

本作品もそうですが、代々伝わってきた作品は大切にしなくてはいけません。後世に伝えるべく不断の努力が必要です。その時々にできることでいいのですから・・。

今回の印籠の収納箱も実は唐子の細工が壊れていました。外箱は痛まないように桟が付いているのですが、仕舞う際にぶつけたようです。小生が補修していますが、見た目には解らないようにしてあります。

あまり熱中せず、何度かは離れてみて第三者的な見地からも・・、仕事も趣味も同じこと。このような趣味と仕事を持てたことに感謝です。

注釈:印籠はこのような引き出し式の保存箱では傷が付きやすいのでちょっと考えもので、実際は印籠はこの保存箱には保管されていません。
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