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贋作考 秋圃 伝橋本関雪筆 その5

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ここ二日間は会社の本年度の業績会議。年度が始まったばかりではなく、すでに第1クオーターを終了している今が本年度の業績を論ずべきタイミングだと思っています。会社を正しく導くには王道しかありません。「信念をもって、我慢強く(忍耐)、努力すること、正しい方向に」。忍耐と努力はすべてを制する。実に当たり前のこと・・・。当たり前のことを、当たり前に言って、当たり前にできる人が少ない。

さて6月のとある日、近くの公園で自生している蛍の観察会があり、息子と家内の三人で出かけてきました。



息子は蛍より田んぼで鳴く蛙の声に興味を津々・・。それでも小生の手に舞い降りた蛍にはじ~っと見入って見入っていました。

箱根の美術館の帰りではカタツムリに興味深々・・。自然の生き物に興味を持つのは遺伝かな?

ところでこの美術館はMOA美術館と同じ方の蒐集品。茶道具と壷には驚き!



「角出せ、槍だせ、頭出せ」だと・・。



ところで本日、紹介する作品についでですが、うろ覚えはながらなにかの本で読んだのですが橋本関雪の贋作絵師には主だった者で2名いたそうで、南画系統と写実系統に分かれていたとか? 

本作品はあまりにも有名な作品と題名も同じで構図もほぼ似通っていますので、写実系統の贋作(模写)の作品かと・・・。このよううな似通った作品はときおりありますね。

秋圃 伝橋本関雪筆 その5
絹本着色額装 共シール
全体サイズ:横620*縦550 画サイズ:横*縦



橋本関雪は動物画において名品が多いですが、本作品もその力量の片鱗が窺いしれるものではあります。題名にある「圃」は田んぼのこと。

作品の落款と印章、作品にある共シールの落款と印章は下記の写真のとおりです。

 

参考資料は思文閣の作品にある印章です、落款は時期によって違いがありますので参考にはならないと思います。



ご存知のように同じ題名の同じような構図の作品が足立美術館に所蔵されています。見比べると模写というわりには鼬(いたち)の顔の描写がまったく違います。



同題作品 「秋圃」 製作年1939年 収蔵:足立美術館 



本作品のほうが狼? 狐?のよう・・。ただし絵はたしかに巧い。これだけ似せてなぜ顔だけ?



足立美術館にしろ、箱根美術館にしろ「いいもの」は凄い! 当方の蒐集品はすべて捨てたくなるような思いに駆り立てられます。

本作品が模写なのか、よくて下図なのか、・・・「真贋の世界は魑魅魍魎」という象徴のような作品です。目の前に舞い降りた魑魅魍魎たる作品にじ~っと見入るbakari・・・・。。

「角出せ、槍だせ、頭出せ」・・・、ガラクタに興味を持つのは果たして遺伝するのか? 

人の世もともかく魑魅魍魎たる世界、なにが正しいかは己の信じる道を歩むことしかないようです。ときどき落とし穴と上司に要注意・・。

読者の方の本作品へのご意見や如何? 

本ブログのいいところは贋作も掲載したり、読者の新たな意見を取り入れるところ・・・。ま~、贋作が投稿されることというのは悪い点のほうが多いということかな。

本作品は蛍やカタツムリと同じく鑑賞したら野に放つ・・・・

十和田山神社 鳥谷幡山筆

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相変わらず、寝ていると小生のベットに足をかけてくる息子ですが、熊さんにも自分でズボンをはかせたらしい。



本ブログで取り上げてきまいした寺崎廣業などの郷土の画家の作品を鑑定していたのが「鳥谷幡山」です。「鳥谷幡山」は寺崎廣業や橋本雅邦の学んだ野田九甫らと同門の画家です。

「鳥谷幡山」は十和田湖とは切っても切れない縁がありますが、本日はそのことに触れてみたいと思います。

十和田山神社 鳥谷幡山筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先樹脂 合箱
全体サイズ:縦2010*横560 画サイズ:縦1250*横440



「□二石砕雖□□ 十和田山神社々□春趣」とあります。

 

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鳥谷幡山と十和田湖:幡山の十和田湖初探訪は明治28年のことである。

6月1日に七戸を出発、一人で行くにはあまりに困難なため、十和田詣での一行6人を待ち受け、苔に足をすべらせ、岩をのりこえ、道無き道を助け合いながら、ようやく6日に休屋に到着した。7日に十和田神社を参拝し、8日は有志で舟を出して湖水を巡遊した。この探訪により、十和田湖に神の存在を感じるほどの深い感銘を受けた幡山は、十和田湖を「神苑霊湖」と讃え称し、十和田湖の喧伝にその生涯を費やすことになる。

探訪後、東京在住の青森県東南三郡の出身者による組織「奥南郷友会」に幡山が招かれ、そこで五戸出身の春汀と出会い、これが縁で互いに十和田湖の顕彰を誓いあうようになり、桂月の雑誌「太陽」への発表へとつながって行くのである。

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まさしく本作品は明治28年の十和田湖初探訪を描いたと思われる貴重な作品かと思われます。



十和田湖の周囲をドライブすると「キリストの墓」とか「日本のピラミット」という嘘みたいな名跡??があります。

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キリストの墓:「青森キリストの墓」については、キリストにまつわる言い伝えなどまったくない青森県戸来村に竹内巨麿(天津教の教祖)が現れ突然土饅頭を指差し、ここがキリストの墓だと言ったが、これにはお膳立てした人物が戸来村出身の「鳥谷幡山」です。

鳥谷幡山は村おこしの観光資源のため、観光資源の乏しい故郷に何か名所を作りたく友人の酒井勝軍に相談し、ピラミッドとキリストの墓をでっちあげたとされています。竹内巨麿と酒井勝軍は新興宗教と日本民族優越論(竹内文書)のため、キリストの墓は捏造されたと言われています。

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田舎者の狂言と呼ぶにふさわしいでしょうが、当時は真面目だったようです。



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日本のピラミッド:さらに鳥谷幡山が日本のピラミッド調査のために十和田を訪れます。昭和10年のことです。

ピラミッドについてはキリストの墓から十和田湖方面に6km程進むと、「大石神ピラミッド」と「上大石神ピラミッド」と呼ばれる場所が現在もありますが、鳥谷幡山はここがピラミッドであると指摘し、しかも造られたのは5万年前としたのです。

鳥谷幡山に同行していたのは、竹内巨麿でした。彼は天津教の古文書とされる「竹内文書」により、古文書と照らし合わせた結果、ここがイエス・キリストの墓だと発表したのです。当時は大論争となったそうです。

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なんとか十和田湖を有名にしたいという思いが根底にあったようです。



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十和田神社:乙女の像に至る道程、「開運の小径」と名付けられた分岐に入ると「十和田神社」の参道へ。しばらく歩くと整然とした杉木立と、竜神をかたどった手水舎が見えてきて十和田神社の入口へと至ります。流造の様式をたたえる本殿と、どっしりとしたしつらえの拝殿、細部までこだわりが見て取れる彫刻など、重厚な建築美に荘厳さを感じる佇まいです。

祭神として日本武尊が祀られていますが、明治の神仏分離までは東北地方に色濃く残る水神信仰の象徴であったと言われています。その証拠に、江戸時代には十和田山青龍大権現が祀られており、現在も奥の院に祀られています。静謐とした雰囲気の中、今も竜神の息づかいを感じるかのような神秘に満ちた場所です。



青龍権現とも、熊野権現とも呼ばれていた十和田神社。

その縁起には2通りの説があるとされています。

一つは大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂創建とされる説。東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという。

もう一つは、南祖坊(南蔵坊、南草坊ともいう)によるもの。熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得て、諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたといいます。当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していたそう。そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治したという伝説が残っています。南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されています。

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乙女の像に至る道程、「開運の小径」・・・、なんともロマンチックでご利益がありそうではありませんか?



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鳥谷幡山(とや-ばんざん):明治9年1月18日(1876年)~昭和41(1966)年2月20日。青森県七戸出身。明治-昭和時代の日本画家。名は又蔵、別号に宗山。

明治28年に上京し、日本画家寺崎広業の内弟子となる。同門の野田九浦らと画技を磨き合い、30年には日本絵画協会主催の第3回絵画共進会に「南海観音」を出して二等褒状を獲得。同年東京美術学校日本画科に編入学して橋本雅邦に学ぶが、31年の東京美術学校事件における同校長岡倉天心の辞職に共感し、同校を中退した。

その後、一時絵画から遠ざかるが、間もなく復帰し、師の広業が主宰する天籟画塾の塾頭に就任。37年には同門下生による美術研精会の創立に参加し、主任幹事として会を運営するが、文展が開設した40年頃に師との折り合いが悪くなり、中央画壇から去った。

以後は、専ら十和田湖の美を描き、その紹介に努めた。作品は他に「十和田湖大観」などがある。昭和41年(1966)歿、90才。画家としてまた寺崎廣業や平福百穂らの 鑑定士として活躍した。

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「寺崎廣業や平福百穂らの 鑑定士として活躍した。」とありますが、意外にいい加減な鑑定は少ないようです。郷里の画家との関連、郷土の観光地を描いた作品という理由から入手してみた画家の作品です。

赤絵草花文碗

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ゲームに夢中の若者が多いようですが、まことに嘆かわしい状況です。勉学に仕事に打ち込む情熱と時間を無駄にしています。

パソコンゲームはパチンコに似たようなもの、人生を喰い噛む麻薬です。不毛のゲーム熱中などから早く脱却すべきでしょう。

ちょっぴり贅沢をして箱根のホテルに一泊・・。息子は大喜びの一日でした。最後はホテルのレストランで食事。「おいしいね」と言って、自分で食べていました。2歳半になるとどんどん自分でやりたがるようです。



食事のほぼ最後に小生に抱かれた眠りました。布団では家内と重なって爆睡・・、そうそうお風呂には夕方2回、朝1回・・。



我々より旅行の愉しみ方を知っているようです。

さて、本日は赤絵の碗の紹介です。

赤絵草花文碗
合箱
全体サイズ:口径105*高台径*高さ50



本作品は当方の収集作品の呉須赤絵の周囲の作品として購入したものです。この手の作品は数点が手元に集まりました。一度、比較してみようかと思っています。これも蒐集の楽しみです。



南宋赤絵らしき発掘作品と思われますが伝来、時代については不詳ですので以下、説明は省ききます。

















参考作品
宋赤絵花文鉢
磁州窯  高 5.7cm 口径14.0cm 底径5.0cm
金時代 13世紀 日本画家の安田靫彦旧蔵。



宋赤絵 盃
(金時代)  直径9cm



単なる宋赤絵の写しではなさそうですが、時代や窯のの特定は断定できません。盃や小鉢にいい作品です。

家内は「私の飯碗にいい。」だと・・。小生が「小さすぎない?」と突っ込み・・。

今週末は息子と川遊びの後は爆睡の週末・・・、原稿作成の時間がままならず・・・。

露朝 田中以知庵筆 その7 かわせみ

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なんやらかんやら作品が出てくる男の隠れ家ですが、乾漆の香合が出てきました。



乾漆:器物などの素地 (きじ) 製作法の一つ。木,土,石膏などの型を使って,麻布などを漆糊 (生漆に姫糊を混ぜて作る) で張り重ねて素地を作る方法をいう。中国ではこれを夾紵 (きょうちょ) といい,戦国時代に現れ,漢代に多く製作された。



塗師「哲山」というのはよく見かける棗などを制作する作家のようで、いずれお稽古用の作品かと思いますので水屋へ・・・。

さて近所のコンビニの店にカワセミの手作りの写真集が置いてありました。どうも近くを流れる子供と魚捕りした境川に生息してるらしく、市の鳥らしい。

調べてみると「近年生息域を拡大傾向にあるカワセミですが、ここ(境川)でも少数が暮らしています。コンクリーで固められた護岸から自然に近い状態になればうれしい限りです。綺麗な青い色とかわいい姿は境川のアイドルです。」という記事を見つけました。

本日はそのカワセミを描いた作品です。

露朝 田中以知庵筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1500*横630 画サイズ:縦470*横480



描いた画家の田中以知庵はすでに本ブログでなんどか取り上げた画家です。別号に咄哉州・一庵等があり、箱書きにはその号にて記載されてることもあります。

釈宗活について禅を学び、朝鮮半島に渡るなど数年にわたって求道的な生活を送っており、その飄逸な世界を描いている画家です。



画家の日本の身近な自然をこよなく愛し、みずみずしく潤いのある画風で、鳥、草花、蛙、風景などを描いた以知庵芸術に接していると、忘れかけていた日本の美を取り戻した様な気持ちになります。



近所に川があると洪水など不安の要素もありますが、動植物に触れる機会が多く、庭にいてもときおりそれらがやってきます。息子は最近遊んできたらしい。

小生が子供の頃に川で遊んだ記憶はたくさんあります。魚採り、泳ぎがメインですが、なんといっても魚採りはいろんなことをやりました。



さてカワセミがひょうきんに愛情豊かに表現され、今獲物を狙う表情が実にいいですね。このような表現美は日本画の偉大な魅力です。



掛け軸のきちんとした表具には表具師の名前があることが多く、贋作にはあまり見られないことことです。内箱には取り出しやすいように金物が付けられ、内箱に表には箱書き痛まないようにカバーがあります。カバーのない場合は紙を挟むようにするのが普通です。

 

落款・印章は下記のとおりです。

  

茶室に何気なく掛ける楽しみは掛け軸の大いなる楽しみ方。近年は掛け軸を黴臭いと仰る御仁が多いようですが、きちんとした掛け軸を扱うとそのようなことは一切ありません。かえって実に新鮮です。

鮎 福田豊四郎筆 その13

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「刀剣の鍔 その3」ですが、かなりのしつこい赤さびがついている鍔です。

鐸 その3 木瓜形鉄地無銘透鍔 
鉄地 木瓜(もっこう)形 保存箱入
縦82*横80*厚さ5



錆が酷かったので手入れしましたが、時間切れです。強引に錆を落とすと傷になり、あとはじっくりやるしかないようです

傷をつけると厄介ですが、もう一度錆を発生させるしかないようです。とてもマニアックな世界・・、どうも小生には向いていないようです まだまだあります・・・。

本作は切羽の痕も残り、両櫃孔のみで素朴であり、鉄味もよく武骨な鍔ですが実戦向きに作られています。製作年代や「木瓜形鉄地無銘透鍔」という名称がいいのかどうかなどはよくわかりません。



さて家族での箱根での旅行で眼にしたのは渓流で鮎を釣る釣り人達、旅館で食した鮎料理。そこで鮎の作品はと思い出したのが本作品です。
 
鮎 福田豊四郎筆
絹本着色軸装 共箱二重箱 軸先象牙 
全体サイズ:横605*縦1450 画サイズ:横442*縦377



本作品は我が家に祖父の代から伝わる作品です。



本作品を原画に輪島にて飾りの漆盆を製作しました。



この漆盆は祖父の興した木材会社の50周年記念に製作されたものです。



祖父が亡くなり、父が亡くなった後に輪島で製作した商店が原画となった本作品を買い取りたい訪ねてきたそうですが、母が丁重にお断りしたそうです。



ただし、その後骨董店などで、この図柄のデザインが結婚記念などの明記があった製作された作品があることが解り、無断?で借用されているようです。



漆盆は祖父が数多く製作したようで、父方に、母方にもあり、関係者に数多くあり、郷里では家に飾ってあるのを時折見かけます。当方の所蔵だけでも丸盆は3作品あります。基本的には箱が誂えられていますが、それは祖父が配ったもののみのようです。



漆の作品は光沢があり、写真撮影が難しいですね。日中は仕事があるし、休日の日中は子育てのため、夜の撮影は反射してうまく撮影できないことをご了解ください。

  

祖父が蒐集した作品はさすがに非の打ち所の無い作品ばかりで、きちんと整理されています。子どもの頃、蔵にたくさんの美術品がありましたが、鎧など床に飾れられていたのは薄気味あるかったし、蒔絵の硯箱などは見事だったのを記憶しています。

 

祖父は小生がまだ小学生の頃、父は中学生になったばかりの頃に亡くなっていますので、当時の思い出は断片的ですが、母からはいろんなことを聞かされています。祖父と父はともに会社の経営者であり、経営者として地元では名を成しており、会社に従事されていた人々からも二人のことは聞いています。祖父については本も出版されており、本作品を鑑賞しながらよき時代を懐かしんでいます。



父は鮎やヒメマスが好きで、突然タクシーに乗せられて、十和田湖まで連れて行かれ、ヒメマスを食べたこともありました。その時に湖岸でカブトムシを見つけて大喜びしたのも良き思い出です。

息子にも少しでも思い出になるような体験をさせたいものです。神によってもたらされた貴重な時間は少ない・・・。



源内焼 その81 三彩蝶花文燭台一対

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研ぎを完了した太刀(大阪丹波守吉道 特別貴重刀剣 認定作品)とその拵え(特別貴重小道具 認定作品)ですが、砥いだ後はメンテが必要らしい。二度ほど油を塗リ直し、その後は3ヶ月に一回ほどの手入れとか・・。



その合間に写真撮影。「亀と鶴」・・・。太刀の説明、拵えの詳細、掛け軸「跳鮎之図 小泉檀山 その2」は未投稿です。



刀剣は取り扱いに気を使いますね。

さて地図皿などの大型の作品は少ない源内焼の蒐集ですが、細かい細工を愉しむのにはかえって小さめの作品のほうが面白いと思います。ただ、最近は市場に滅多に小さな作品の源内焼すら出回らなくなりました。どうしてでしょうか? 

源内焼 その81 三彩蝶花文燭台一対
合箱
巾100*奥行き100*高さ101









源内焼 その70 三彩蝶型小皿五客揃」と同型の皿に燭台を付けた作品。



色合いは違いますが、まったくの下部は同型の作品です。





源内焼の燭台には所蔵作品では他に「源内焼その19 クルス草文様燭台」があります。



だんだんと面白みが増してくる源内焼の蒐集です。
 


非常の脆い胎土ですから、決して実際に蝋燭を立てて火をつけてはいけないと思います。万が一、蠟燭の火を付けたまま放置すると、急激な温度上昇で割れる可能性がありますから・・。

最近、掛け軸の筋の良いものも値段が高くなったようです。かえって人気が低迷している刀剣がかなりいいものでも安いようですが、ただこの分野は素人では明らかに真贋は解らない領域のようです。

葡萄図-19 天龍道人筆 その30

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本日は久方ぶりに天龍道人の作品の紹介です。葡萄の画家と言われた天龍道人の作品です。

賛には「天龍道人 九十三歳」とあり、亡くなった歳の作と推察されます。印章には「天龍」と「公瑜」の白文朱方印と朱文白方印の連印が押印されており、その下には「三国?一家」の印が押印されている。93歳の作品は貴重でそれほど多くないようです。

葡萄図-19 天龍道人筆 その30
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1846*横401 画サイズ:縦1313*横292



手前の刀剣の拵えは江戸期のものでしょう。



螺鈿に蒔絵は見事です。



刀剣の鍔も装飾的です。



天龍道人の作品は80代、90代に於いて、独自の画境に到達したと評価されています。まさしく枯淡の作といわれるものです。その以前のみずみずしい作品を好むという評価もあるでしょうが、やはり天龍道人の作品は枯淡の作を最上作とすべきでしょう。



天龍道人が本作品と同じく93歳の最晩年に描いた葡萄図の賛に下記のような記載があります。

「天下無人知我者 総道只蒲桃先生 
 看画不敢論工拙 東西各自伝虚声 
 我幸好以有此癖 風流一世得遯名
 鵞湖折脚仙 九十三才 天龍道人王瑾併題書」



天龍道人は92歳、文政6年(1809年)脚疾を患っており、文政7年(1810年)の8月21日に亡くなっています。

天龍道人は不遇の人である。約300年前に鹿島鍋島藩の家老の子として生まれ、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていたが、藩主家の後継ぎ問題に父が巻き込まれ、改易となって流浪の人生が始まる。



晩年自ら三国一家(三国一:日本・唐土・天竺の中で第一であること。世界中で一番であること)と呼称しましたが、天龍道人の葡萄の作品は、芸術の極地は葡萄の図にあります。



「三国一家」の遊印のある渾身の傑出の作といえるでしょう。文化の研究者で文化功労者の中野三敏さん(武雄市出身)が、『江戸文化評判記』(中公新書)で、肥前が生んだ風流人として、煎茶(せんちゃ)道の祖とされる高遊外売茶翁(ばいさおう)とともに天龍道人を挙げています。

 

改めて記述するまでもなく、天龍道人の名を不朽にしたのは、勤王の志ではなく葡萄(ぶどう)と鷹の絵事によります。

特に葡萄は絶品で、肉筆の大作も多く伝世しています。画業にいそしんだのは50歳を過ぎてから。道人は10代で郷里を離れ、二度と戻ることはありませんでした。時代や理由を思えば、帰郷は許されることではなかったのでしょう。今やその名を知る人は地元でも少ない。

彼を偲んで刀剣を捧ぐ・・。

氏素性の解らぬ作品 四耳花入 その2 

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畑で採れたブルーベリー、トマトに続き会社で配りました。



もちろんこれも無農薬。ジャムにすると美味しいです。



さて土日は読者も少ないようですし、こちらもあまり肩のこらない作品にて投稿することにしています。

「他人からみるとガラクタにしか見えない作品が、人によっては気高き花器や茶器となる??・・・。」という信念を持って骨董品を吟味していますが、なかなか思うようにはなるものではありません。

むろん時として贋作、駄作を入手することが多々あります。あの益田鈍翁ですら、ひとつの蔵分の贋作・駄作を入手してしまったか・・・。

ところで本ブログでは原稿の題に「贋作考」とある作品は90%以上の確率で贋作と思われる作品で、その確率で廃棄処分されています。

「氏素性の解らぬ作品」はその確率が50%程度ですが、稀に後学によって「贋作考」、「氏素性の解らぬ作品」から真作に昇進?となった作品もあります。同時に真作と思った作品が、工芸作品や模写、贋作であったりすることもむろんあります。

骨董には教科書がありませんし、これが解答というものもありませんので、納得するまでじっくり時を待つことが必要のようです。

本日はその「氏素性の解らぬ作品」のひとつの紹介です。

氏素性の解らぬ作品 南蛮手 四耳花入  
合箱入
口径*最大胴径*底径*高232



肩に四つの耳の付いた壷は元来四耳壺(しじこ) と称し、肩部に紐をかける半環が4カ所ある器です。本来は四耳壺は骨蔵器として納められていたと思われますが、後世には衣装的なもの、格が上がって茶器(茶壷)として作られました。



本作品は南蛮焼の可能性がありますが、丹波焼とされていました。丹波焼に釉薬を掛けることもあるようで、本作品は意図的に褐色の灰釉が掛けられいるように推察されます。



口の周囲には古い鎹による補修がされており、茶器の花入として使用されていたものと推察されます。



鎹で補修されるほどの作品? 以前に所蔵されていた方は大切にされていたのでしょう。



釉薬の剥がれなどから古いもののように推察され、灰釉を人工的に掛けた丹波焼の可能性を否定できませんが、「氏素性の解らぬ作品」として後学の作品と分類しています。



鎹による補修も古く見せたり、貴重性を持たせるために意図的に施すこともありますので、貴重性の決め手にはなりませんが、景色として捨て難い面白い作品となっています。

形は意図的に歪んだものではなく、ごく自然に隣の焼成作品とひっついて歪んだ作品のようです。通常は破棄されるべき作品がどうして残ったのやら・・・。

本作品をガラクタとして捨て置くか、趣のある作品としてみるか、美的センスがおおいに問われる作品です。







大津絵 二作品 外法の梯子剃と女虚無僧

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久方ぶりに本日は大津絵の紹介ですが、大津絵の江戸期のものは非常に入手しづらくなっているようです。明治以降から最近の作品は入手できるようですが・・。

本日は大津絵の画題としては初めて登場する「女虚無僧」です。本作品は図柄からみると「女虚無僧」と「藤娘」が混同されたような図柄になっています。絵の具から推察すると多少は時代が下がった作品のように思われます。

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女虚無僧:顔を完全に隠した虚無僧の図ですが、その華奢な指先や少しだけ覗かせる足先から美人画とわかります。春画のようなジャンルには決して筆を染めなかった大津絵ですが、美人画自体は非常に多種多様に渡って存在し、中にはこういった一風変わった絵もあります。

大津絵 日本民藝館所蔵 東方出版 P76より
「藤娘」、「太夫」その他の大津絵には女姿の美しい数々の画題があります。「虚無僧」は元来、普化宗の行脚僧で、深編笠をかぶり尺八を吹いて布施を乞う僧を指します。ところがいつしかこれにならって、いつしか女が身を隠して町々に色を売ることが行なわれたと見え、これを画題にしたのが「女虚無僧」であると云われています。この図はごく古い文献には現われてこないが、遺品から推すると古い風俗画の一図として描かれた事は、残る優品で明らかです。

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大津絵 その17 女虚無僧 
紙本着色軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横330*縦1530 画サイズ:横245*縦700

 


大津絵は江戸後期に絵種を十種に絞り、もっぱら護符として売られた時代がありました。この10種は文化・文政の頃から徐々に大津絵の主となり、幕末には他の図柄はほとんど描かれなくなってしまったようです。人気は依然高かったものの、初期の風格を失い、美術価値が低いとされることとなります。面白いのはやはり江戸中期の頃の作品らしい。



大津絵の「二枚綴」についてですが、二枚綴(にまいつづり)は二枚継ぎとも呼ばれ、古典的な大津絵の特徴となっています。最も入手が容易で安価であった半紙を、絵を描きやすい大きさに継ぎ合わせたものです。江戸初期から中期にかけての大津絵は、ほとんどがこの二枚綴の大きさでした。稀に三枚を継いだより大きなものもあったようです。



江戸後期は、逆に継ぐことをやめ、半紙(半紙のサイズ:縦24~26センチ、横32~35センチ)そのままのサイズで描くようになっていきます。現在では紙のサイズも自由に入手できるようになり、古紙を使うのでなければ特に継ぐ必要もないのですが、掛軸などでは大津絵の特徴として再現している作品も多くあります。

ちなみに江戸初~中期の大津絵として売られているもので、二枚綴・三枚綴以外のサイズであったり、継ぎが無い一枚ものは考えにくいので、古い大津絵を入手するときには一つの判断ポイントになります。



また基本的に大津絵は作者の落款は記述しませんので、下記のような作品は近代になってからのもの? 古いものには銘はまずありません。

大津絵 外法の梯子剃



この落款はよく見かけますが、年代は当方ではよくわかりません。古くみせているのか、ある程度古いものにも落款のある作品があるのか?



二枚綴りにはなっていますが、古いものではなさそうです。





時代はありそうですが、古くても明治頃?



なんという落款と印章なのでしょうね。悪意の作品とは思われませんが・・。



ともかく江戸期の古い大津絵は非常に希少で入手が困難になっています。「継ぎ目のない作品には古いものは無い」というのが本日の作品紹介以外の記事のポイントです。。

なまづ 小松均筆

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休日には最近食欲の落ちている息子を連れて、家族全員でお昼に外食。選挙に出かける前に近所の魚屋さんでマグロの解体があるというので見学へ・・。



マグロは大間が有名で、一時期ときおり出張で行っていました。家内は大トロ、中トロを買いましたが、魚屋で売れていたのはうなぎ。息子だけでなく皆さん夏ばて気味らしい。ところで最近は国産うなぎが高いので、「なまづ」を食うようになったようですね。

ということで、こじつけですが本日は小松均の「なまづ」の作品です。

なまづ 小松均筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先練 共箱入
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦400*横410



小松均は京都の大原に居を定め自給自足の生活に入り、世俗とは無縁の暮らしを貫きましたが、雄大で力強い風景画と飄々とした生活、風貌から「大原の画仙」と呼ばれました。



小松均もきっと「なまづ」位は食べたのでしょう?・・・。



小松均の作品で小生が好きなのは「牛」と「なまづ」の作品です。



1902 山形県の曹洞宗延命寺の住職の子として生まれる
1920 上京し、川端画学校に通う
1924 京都に転居し、土田麦僊に師事。東山洋画研究所でデッサンを学ぶ
1928 国画創作協会日本画部解散後、新樹社を結成
1937 津田青楓、小杉放庵、小川芋銭らと墨人会倶楽部を結成
1965 第50回院展で文部大臣賞を受賞
1975 最上川シリーズで芸術選奨文部大臣賞を受賞
1976 京都市文化功労者顕彰 翌年、京都府美術工芸功労者顕彰
1979 第64回院展で内閣総理大臣賞を受賞
1980 勲四等旭日小綬章受章
1986 文化功労者の表彰を受ける
1989 京都で逝去。



私の郷里には「なまづ」はいませんでしたが、ヤツメウナギがたくさんいました。眼にいいというので食している人がたくさんいます。小生はその生態を知っているだけに、ちょっと苦手・・・。

 

産地のひとつであるわが郷里では、カワヤツメをぶつ切りにして醤油と出汁の濃い目のツユですき焼き風に煮込むかやきが冬の味覚となっているようです。



本日はウナギの代用魚の事例でした。息子と小生の二人は試食の食材をパクパク、昼ごはんの後でしたが息子は「おいしいね~」だと・・。二人は満足して選挙の投票へ・・。

 

*本ブログでは落款や印章は極力掲載するようにしています。意外にインターネット上でも少ないのが、この落款や印章の資料で、少しでも読者のお役立てばという思いです。

小生もブログに自分で掲載してあると、作品を見るときに検索できて助かっています。公開していない写真でも画像データに登録しておくといつでも、どのスマートフォンでも見れて便利です。

魚獲図(仮題) 小杉放庵筆 その4

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茶室の縁側ではクーラーの苦手な義父が昼寝をしているため、床の掛け軸は涼を感じる掛け物にしています。「かわせみ」の掛け軸を変えて今回の作品にしてみました。

魚獲図(仮題) 小杉放庵筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱 
全体サイズ:横530*縦1180 画サイズ:横400*縦330



息子と川に魚採りをしたのですが、田舎の私の子供の頃に比べたら生き物が断然に少ないですね。



我ら悪がきどもは、魚を採るためにはいろんなことをしました。石で水止めを作って、水の流れるところに網を張り、皆で魚を追い込んだり・・。



長い釘を木の棒に付けて銛を作り、自転車のタイヤチューブを付けて、鉄砲のようにして素潜りで魚に打ち込んだり・・。よく大人に怒られました。



このように岩の上から銛で突いても魚は採れるものではないとやったことのある人なら誰でも思いますよね。



網も自分らで工夫して、破れたら直して使いました。ものづくりを物心がついたころから実践し、遊び道具は自分で調達していました。



無我夢中で遊んで日が暮れても戻らず、捜索隊?に見つかって大目玉・・



川や沼で不漁となると、本家の池に釣り糸を垂れて、大きな鯉がかかって屋敷中に鯉の跳ねる音が響いて大騒動・・

漁の成果を新鮮に保存するために? 庭に建築現場から持ってきたセメントで見よう見まねでセメントを練って池を作ったり・・。母からは怒られましたが、父は即座に裏庭に私のために本格的な池を作ってくれました

 

一幅の作品にもいろんなシーンが蘇ります。小学校の低学年の頃ですが、あまりにも遊びすぎて、その後は家庭教師をつけられる羽目になりました。すぐに学年のトップの成績になりました。既成概念に縛られない発想豊かな創意工夫が役に立ったようです。

さて花入に花が無いのでさみしいなと思っていたら、縁側で寝ながら庭を眺めていた義父の独り言が聞こえてきました。

明日の投稿に続く・・・。

PS.共箱ではありませんので、作品の題は仮題です。印章は確認できています。残念ながら染みが出ていますが、印刷などの工芸品ではなさそうです。

百日紅

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義父母が畑で作ったブルーベリーを会社で配ったのですが、なんとそのブルーベリーでケーキを作ってくれた女性の同僚からの贈り物。



何気なく貼られたステッカーが嬉しいですね。とても美味しいケーキでした。家内曰く「まだたんまりとあるブルーベリー」だと・・・。

さて以下は前日からの続き・・・。

改修した倉庫、我々家族では「離れ」と呼ぶようになったようです。小生には実際はやっぱり「倉庫」で、皆には本来は「洗濯干し場」、「昼寝場所」のようですが、「離れ」はなんとも優雅な呼び名で気に入っているようです。

義父がその「離れ」で、昼寝しながら庭を眺めて、「百日紅くらしかこの時期は庭にいろどりがないね~、どうも百日紅も真っ赤だと暑苦しいけど、ま~彩がないのもさびしいからいいかね~」と独り言。



確かにこの時期は草花以外は彩がさびしい。2階の展示室から見える景色にも百日紅は彩を添えてくれています。



庭には他に現在咲いている花はなんと蘇鉄! 10年に一度位の花で珍しいのが・・・、雄花と雌花があるようです。蘇鉄は食べられますが、毒がありますので素人は食用にはしないほうがいいそうです。「ソテツ地獄」という言葉があるくらいです。



百日紅は花が美しく、耐病性もあり、必要以上に大きくならないため、しばしば好んで庭や公園などに植えられますが、花名のサルスベリは、樹皮がツルツルして、猿が登ろうとしても滑ってしまいそうなことに由来しているそうです。実際には滑ることなく、猿は簡単に登ってしまうそうですが・・。



百日紅(サルスベリ)は、百日紅(ヒャクジツコウ)とも呼ばれ、それは、サルスベリが夏の盛りに百日近く咲き続けることに由来するといわれています。

また、ある王子が恋人に百日後の再会を約束して旅立ったものの、戻るとすでに恋人は亡くなっており、埋葬された場所からこの木が生えたという伝説によるともいわれます。



冒頭の写真は息子の撮影によります。息子は小生が写真を撮っていると、なんでも自分で撮りたくなるようです。

息子が寝ている間に、茶花を採る名人の家内に依頼して、離れに百日紅を生けてもらいました。

花器は先日紹介しました下記の作品です。野趣のある花には野趣を抑える花器が似合うようです。たとえ氏素性の解らぬ「ガラクタ」と称せられる作品でも歪な部分を利用してうまく生けてくれています。花器がまるで百日紅(さるすべり)の幹のように・・。

氏素性の解らぬ作品 南蛮手 四耳花入  
合箱入
口径*最大胴径*底径*高232



ところで、サルスベリの花言葉は「雄弁」「愛嬌」「不用意」・・・、なにやら身につまされる花言葉??

*実はこの花器は1000円程度で購入した作品です。購入値段も野趣あふれています

氏素性の解らぬ作品 絵志野筒型水指

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息子には極力自然に触れて欲しいと思っています。現代の都会の生活は「無機質」が多くなり、スマートフォンのゲームなどはその典型です。

「無機質」の世界はやり直しができたり、感情に任せて夢中になれますが、有機質の生き物の世界はやり直しが効かず慎重にならざるえないことを学び、感情任せになっては命にかかわるということを教えてくれます。もっと有機質の世界で子供を育てたいものです。

若いときの貴重な時間をそのような「無機質」に費やすのは馬鹿馬鹿しいと早く気がついてほしいものです。商売根性丸出しの不毛なる時間の浪費ですが、この世にはそのようなことがたくさんあるものです。

テレビをみてごらんなさい。99%が金儲けの商売根性丸出しです。金と時間を無駄使いさせようというものばかりです。大して歌の巧くない、大して美人でもないロリコン趣味の複数の女性にヒットしそうな歌を歌わせたり、これからはもっと高いレベルのものに関わりあいましょう。

世の中は人と人の有機質の結びつきで成り立っています。とかくエリートは懲罰や正論でものごとを押し切りますが、それもまた「無機質
」の世界・・。この世は言わずと知れた有機質の世界です。

また「無機質」で育った最近の若い人は根回しや心の機微を読むのが苦手らしい。社内の根回しができない社員に機微を読み取る必要のある対外的な折衝などできるはずも無い、これは至極当たり前のこと。

おっと、支離滅裂になったきたので閑話休題・・・、収納している戸棚をひっくり返しているとこのような懐かしい酒器が出てました。



叔父が鈴木蔵氏から譲っていただいた作品ですが、その作品を小生が結婚したお祝いに頂戴した作品です。



当時は町長だった叔父は山形の自宅まで、訪ねてきて飲んで帰りました。豪快な人でした。



鈴木蔵氏の初期の頃の作品だと思います。



赤志野のほうが大きい、大きさが極端に違う夫婦の盃? 叔父独特のユーモアか? こいうことに思い当たるのも有機質の考え・・。



底に銘等はないようですが小生の判断はむろん真作です。この当時から志野の焼き物には興味を抱いていました。

 

本日は志野焼の作品です、志野焼といえば最高峰は桃山期。当然、そのような出来のよいものはもはや市場には存在しないと思っていたほうがいいようです。

本日の作品はは江戸末期から近代の志野焼と推察されます。

絵志野筒型水指
古杉箱
口径118~128*胴径115~130*底径115*高さ157



桃山時代の志野焼の胎土はもぐさに似ていることから「もぐさ土」と呼ばれている軟らかい土です。



近代の品は堅焼きの煎餅のように硬い土となっていて、この胎土によって時代の判別ができるようです。茶碗のような高台ではそのような判別が明確に解りやすいですが、本作品のように底が平らになると解りにくくなっています。



本作品は桃山期とされて売られていました。たしかに桃山期の志野の作品となるとかなり高価となるためにそのように売られているのでしょうが、当方の判断は江戸期末期から近代までの作であろうかと・・。蓋がうまくはまるようにすっきりとしてる口もこの頃の作のものかと思われる根拠です。底は窯ワレでしょうか? 水は漏れてきません。



文様が「橋姫」に似ていますね。意図的? 小生は月のように釉薬が掛けられていないところが景色となって面白いと思います。



大きさは使いやすい小振りな水指になっています。このことが一番気に入っています。あまり大きいと重くて使いづらいものです。



「稽古用にはもってこい」という家内の評価・・・



水指がダメなら花入ですね。



江戸期末期から近代作の志野焼だから駄作というのは早計です。たしかにこの時期には桃山期の作風を目指して製作したのでしょう。それが仇となって桃山期の作品と称して売買することに繋がったと思われます。ただ中には最初から贋作製作として作られたものもあろうかと推察されます。

とはいえ、趣のある作品は趣があるもので、真贋ばかりこだわる人はそのへんが見えていない人が多いようです。桃山時代の作品といって売るからよくないだけの話です。

無機質から有機質的な作品評価・・・、独善的? もともと骨董などは独善の世界です。

はてさて、冷静に考えると骨董ほどお金と時間の無駄遣いはないかも



香道具 笹文様蒔絵

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家内からのメールに息子の写真が添付されていました。スイカの上に腰掛けたその写真を見ると、最近ずいぶんと「少年」じみてきたな~と感心してしまいました。

あっという間に赤ちゃんから少年になりつつあります。まだ2歳と7ヶ月ですが・・・。愉しみのような、正直なところ恐いような気がします。



昨日は体調が悪く、早退して自宅の筋向いの病院に出かけたところ、息子は義母と病院前まで迎えに来て「大丈夫?」、「抱っこしたから?」と心配していました。

さて郷土の工芸品を探していたら、さてなにやら男の隠れ家から純銀の水指が出てきました。



作者は地元出身のようです。

 

賛否両論がありそうな作品ですが、夏の暑いときには似合いそうな作品です。



郷里は銀細工の盛んなところですが、純銀は扱いに注意が必要です。



漆、金銀、刀剣とい道具の扱いは素手で触ることは基本的には厳禁です。あらかじめ手袋を用意しておくことが必要です。本日の作品もそのひとつです。



香道具 笹文様蒔絵
黒塗外箱 全体寸法 高さ215*幅255*奥行き182



外箱から器を取り出し、最初の蓋を開けると香盆が出てきます。漆器の華奢さに緊張感が増します。傷や手垢などをつけないように細心の注意を払います。

息子を寝かしつけ、湿気が厳禁ですので、風通しの良いところか空調の管理された部屋で慎重に扱います。倉庫改修の目的は湿気対策がそのひとつで、倉庫改修にエアコンが5台、郷里には2台増設しました。



一段目。おそらく嫁入り道具に誂えた作品?で、一度も使用していないうぶな道具です。すべてが完品で絹布で包まれています



一人の塗師だけで作られたものではないと推察されます。



「高蒔絵の硯箱」とはいかにないまでも豪奢でかわいらしい硯です。ただ(高蒔絵の硯箱の紹介はまた後日)筆類が見当たりません。



お香が入れられた包装はすべて手書きの絵になっています。



二段目は道具類。



本来、取り扱いに慣れている人にしか触れられないものです。硝子ケースの中では味わえない作品鑑賞です。当方も年一回の状態確認のためのときだけの作業です。緊張する時間です。

一度、作品を観るまで作品の梱包を解くと、元に戻すのはわりと神経を使います。気の短い人や体力のない人、腰を痛めている人はまず手を出さないほうがいいでしょう。



本作品は、それほど豪奢でないにしろ、いわゆる大名道具のひとつでしょう。祖父もこのような作品を書院などに飾っていました。当方ではむろん香道などは縁がありませんが、この作品は使うためではなく飾りと割り切っています。

蒔絵の作品はいくら写真で紹介しても、実際に直接目で見て、触れないとその作品の出来不出来が解らないと思います。

骨董は不思議なもので贋作は写真のほうがよく見え、真作は写真のほうが悪く見えるようです。人も同じように思いますが・・・。美人、イケメンほど意外につまらない人が多いようです

「息子よ、つまらない人間にはなるなよ!」、 「はい!」と息子はいつも返事はいいのだが・・・。昨夜はベットで小生に絡みついてくる息子でした。







忘れ去られた画家 楼閣山水図 萩尾九皐筆

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わが家は皆さん、朝から働き者です。特に夏は日中は暑いので畑仕事は早朝から朝飯前です。息子も畑のお手伝いです。ブルーベリーの採取ですが、これは非常に手間のかかる作業のひとつです。



ところで「嫁は農家から貰え!、坊主と医者の娘は嫁を貰うな」という格言?を親から聞いた覚えがあります。要は「よく働く親の姿を見て育った娘を貰え」ということのようです。「坊主と医者」は別として、これはかなり的を得ている訓告かもしれません。

「働かざるもの食らうべからず」、「贅沢は敵!」これもまた真実のようで、苦労して育った人が一番よき伴侶になるようです。お嬢様育ちのような苦労知らずはなにごとにも中途半端なようです。

嫁という男の伴侶は大切です。なんといっても日本を背負う子供らを育てる役割を持つのですから・・。ゆめゆめゴルフや外食,ショッピング、海外旅行にうつつをぬかしているお嬢様を選んではいけません。息子がこれを読む頃に私は居ないと思うのですが・・・。さ

て息子も手伝ったブルーベリーは昨日は会社で皆さんにおすそ分け・・。直接そのまま食べても美味しいし、ジャムや砂砂糖水に浸けてから食べるのも一興。



本日紹介する作品は「萩尾九皐」という画家の作品です。ほとんどの人が知らない画家だと思います。このようなあまり知られていない画家の出来のよい作品を蒐集するのが一番良い蒐集とされています。

楼閣山水図 萩尾九皐筆
絹本水墨軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:横720*縦2370 画サイズ:横570*縦1450



全体に金泥を施した絹本に描かれた力作。雪舟に戻れという幕末から明治にかけての日本画再興の意欲がうかがえます。



明治期の狩野派の最後の画家として著名な狩野芳崖を彷彿とさせるような作品です。



床の間に映える作品です。武家様式とも言える江戸末期には失なわれた狩野派の真髄をみるようです。手前は以前に紹介した室町時代の古備前の壷(真作)です。



よく見ると絹に金泥がうっすらと下地処理されおり、力作で高級感のある作品になっています。



明治期の南画がつくもね山水と称せられてはいましたが、まだまさ南画隆盛の頃にこのような作品はどう評価されたのでしょうか?



「雪舟に戻れ」という岡倉天心に言葉通りの作です。



雪舟を超えた迫力があるといってもいいでしょう。



僅かに胡粉も使われているようです。



全体の構図のバランスを崩すことなく細かく描写されています。



宮内庁に作品を収めたという記録がありますが、如何せん現在では忘れ去られた画家のひとりでしょう。



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萩尾九皐:(はぎおきゅうこう)文久1(1861)年9月11日~大正12(1923)年。明治・大正期の日本画家。

本名熊吉 文久元年9月11日福岡県八女郡広川村長延で生まれる。菊池氏の武将の血をひき江戸期広川地方の大庄屋の流れをくむ。一時八女郡福島町本町二番地のニ百六十八番地(現八女市本町古松町)に居住。

 

明治12年ころ柳川藩絵師諸藤実斎に狩野派の絵を学ぶ。同18年上京して廻国修業ののち京都に定住して四條派の幸野楳嶺に学ぶ。日本画家深田直城の娘と結婚。

一時期四国に住むが、明治31年(1898)から大阪に定住した。画業が進み菅公千年祭記念展出品に出品などして関西で活躍。宮内庁にも自作を献納したという。関西の中堅画家として活躍。

全国書画倶楽部を結成して指導にあたり、同42年新古美術展では大阪絵画協会から選ばれて監査役となるなどの画歴が知られる。狩野派の流れをくむ九皐は謹厳な画風。八女を代表する日本画家。大正11年10月29日大阪市東区伏見町四の一で死亡、亨年61歳。

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きちんと共箱に収められてるのも貴重です。

 

本来なら地元を代表する作品として地元で所蔵されるのが望ましいのでしょうが、地元でも蒐集している方はおそらくいないでしょうね。董蒐集はまず地元の作者からが基本だと思っています。


贋作考 黄瀬戸茶碗(向付)

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桃山期の黄瀬戸は非常に珍重されるがゆえに、その再現に何人もチャレンジしましたが、ほとんどが失敗したようです。近年では加藤唐九郎が成功して以降、幾人かの陶工がその再現に成功しています。

本日紹介する作品は、その再現にチャレンジした当時のものと推察されます。これを「桃山期の黄瀬戸」として売ると贋作になります。

黄瀬戸茶碗(向付)
箱入
口径115*高さ75



「ぐいのみ手」の属すると思われますが、全体に汚い印象と貫入が顕著な点は珍重される桃山期とは異なる作と推察されます。



黄瀬戸の起源は、志野、織部、瀬戸黒とともに、桃山時代、盛んに美濃一帯で作られた焼きものです。



黄瀬戸の釉色は、釉薬に含有するわずかな鉄分が酸化焔焼成のために出た色ですが、渋いくすんだ黄色に言い難い親しみがあります



よく焼けて釉薬が透明になり、ピカピカと光る黄瀬戸を俗に「ぐいのみ手」と呼び、しっとりとして滋味がありじわじわとした肌をしているのを、「油揚手」と呼んでいます。



一般には薄い作りで、彫りと鉄絵、胆礬の緑彩で表し鉄彩と緑彩を点じています。



高台は低く薄い作りで、高台内に置き台の跡が茶褐色に焦げて輪形に残っているのが特徴です。



通常は向付のような食器を茶碗に見立てたものが多く、稀に当初から茶碗として作られてものがあります。



桃山期と証する贋作も多く、桃山期の作品は砂地に油を流したようなしっとりとした照りがあり、ざらつきはないものです。

胆礬(たんぱん)釉も桃山期の作品はほのかに染み込んでいて絵具で描いたようにべたついているものではありません。本物には高台まですべて釉薬がかけてありますが、贋作の多くは胎土が露出しています。

本作品は、薄作りの向こう付けとして作られ、底まで釉薬が掛けられ、置き台の跡がきちんと残ってます。問題は胆礬(たんぱん)釉と釉薬全体ですが、品格に欠けるのです。

さて、代表的な桃山期の黄瀬戸を観てみましょう。

参考作品
黄瀬戸梅花文銅鑼鉢 美濃
( きせとばいかもんどらばち)
桃山時代(16世紀後期) 高さ45*口径164*高台径93



参考作品
黄瀬戸胴紐茶碗
桃山時代・16-17世紀 三井記念美術館



参考作品
黄瀬戸平茶碗 銘 柳かげ
桃山時代 五島美術館蔵



本物は胆礬(たんぱん)釉や黄色の釉薬がしっとりしています。形も優雅ですね。さすがにこれほどの作品は再現できず、近代になってようやく加藤唐九朗が復活させました。桃山期のような製作は焼成としてもかなり難しいようです。

単品でみていると実感できませんが、見比べるとどうしても桃山期の品格には見劣りします。

いくつか本ブログでも黄瀬戸の作品は紹介しています。

本ブログの紹介作品

黄瀬戸 彫草葉紋皿
合箱
最大幅240*高台径110*高さ47



黄瀬戸茶碗
仕覆付合箱
口径100*高さ76

 

「彫草葉紋皿」はかなりいい線にいっています。本作品や「黄瀬戸茶碗」も悪意の贋作と片付けるのは簡単ですが、愉しむ分にはいたっていい作品です。なにしろ本物の黄瀬戸の作品などは高嶺の花もいいところで、アルプスのてっぺんみないなものです。

跳鮎之図 小泉檀山筆 その2

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夏の夜は花火です。大曲に花火、大文字焼きの花火など郷里の祭典も息子に見せてやりたいものです。まだ赤ちゃんのころ一緒にした花火を覚えているのかな、真冬に雪の上でやった花火も・・・。



花火の次は川遊び、息子と近所の川に魚捕をしたのですが、海老やドジョウの中に混じって、運よくほんの少し多きめの魚が獲れました。用意した魚を入れる容器に入れておいたのですが、家内が気を効かして、温度の上がらないように浅瀬に置いていたのですが、元気の良い魚は飛び跳ねて逃げたらしい・・。

そこで本作品の紹介・・・。

跳鮎之図 小泉檀山筆 その2
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1060*横410



小泉檀山の鮎を描いた作品の中でこのように一匹だけを描き、「鯉の滝登り」のように描いた構図は稀有です。以前に紹介した作品と並べて展示してみました。



オーソドックスな「その1」より本作品のほうが小生は好きですが・・。



小泉檀山の詳細は「その1」に記していますので、この投稿では省略させていただきます。50歳の時に黒羽藩主大関増業より城北の鎮国社宮司職を与えられ、それ以降に画の創作を旺盛に行なったという記述があり、その頃の作品かと思われます。



小泉檀山(斐:あやる)の作品は最近の「なんでも鑑定団」に85歳の作の作品が出品されており、その記述には「85歳という年齢の為か、若い頃はもっと葦の葉などきれいに描かれているのが、いわば雑なのだが、これはこれで味になっている。」とあります。



「若い頃はもっと葦の葉などきれいに描かれている。」という点から、本作品は丁寧に描かれており、また構図にも安定した多くの鮎を描いた時期より独創的という点から、より若い頃の作という判断です。若いといっても50歳以降と思われます。



なんでも鑑定団の評では「一匹20万円」???だそうですが、そのような値段の根拠はどこにも通用しません。その根拠での本作品の値段は20万円? 小生なら売ってしまいます。繰り返すようですが、なんでも鑑定団は自分で売りたい値段ですので、実際にこちらで買って欲しい値段はその10分の1にもなりません。

マスコミ報道というものは常に裏があり、その裏を見抜けないととんでもない無駄な時間を費やすことになります。テレビは極力観ないことです。虚実の塊です。



さて涼を求めるこの時期には良い作品と思い掛けてみました。鮎の画題の作品も増えてきました。「鮎」、「鯉」、「富士」、「鐘馗」などどうも小生の蒐集にも偏りがあるようです。



子供の頃の魚採り、学生時代の登山などが根底にあるかもしれません。

本作品の軸自体は痛みがこれ以上進むと改装の必要があります。おそらく制作当時のままのうぶな表具のままなのでしょう。



掛け軸は時間の経過とともに全体が固くなり、折れやすくなったり、破けやすくなったりします。同じ掛け軸は一ヶ月以上は掛けないようにしたほうがいいでしょう。痛んできたら、思い切って改装する手段はありますが、うぶな表具をそのまま活用したいときには、「締め直し」という方法がいいと思います。



「小泉斐印」と「子章□」の白文朱方印と朱文二重方印が押印されております。
(当方では印章は未確認ですが、落款から真作と判断しております。)

 

猫が飛びついたという小泉檀山の「鮎」の作品だそうです・・・。

浜田庄司と田村耕一の花入

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帰宅すると「今日はなにして遊んだの?」尋ねると、「公園」という息子の回答。家内曰く「パパから教わって水遊び」と・・。写真がメールに添付されていたのを思い出し、「アッ、蛇口を指で塞いで噴水かな~」と・・。びしょぬれになって遊んだらしい。



さて、男の隠れ家からの「鐸」の「その4」です。

鐸 その4 土佐住明珍宗利名 
木瓜形 鉄地 保存箱入
縦*横*厚さ



錆が酷かったので当方で手入れしてあります。「神道五鍛錬 二月吉日」「土佐国在 明珍宗利」とあります。いつの頃の作品でしょうか?

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明珍(みょうちん):具足鍛冶師。初代 増田宗介紀ノ太郎が、近衛天皇(1141~54)に鎧(よろい)、轡(くつわ)を献上したところ、触れあう音が「音響朗々、光明白にして玉の如く、類稀なる珍器なりとて明珍の二字を賜ひ」という伝があり、代々「明珍」と称した。元は京都で馬の轡を作る轡師で、室町時代くらいから刀の鐔を作るようになったという。

安土桃山時代に宗広が具足のほか火箸・鐶などの茶道具を手がけた。江戸時代に、明珍宗信が江戸に居を構え、元禄・宝永ごろ中興の祖 明珍宗介が、系図や家伝書を整備するなどして家元制度を整え、古甲冑を自家先祖製作とする極書を発行し権威付けを始め、弟子の養成に努め、「明珍」の名乗りと名に「宗」の字の使用を許すなどしながら勢力の拡大を図り、甲冑と言えば「明珍」といわれるようになり、明珍派は上州・仙台・越前・土佐など各地にあり俗に脇明珍とよばれる。

現在姫路明珍と呼ばれる家系は、前橋から移封され姫路城主となった酒井雅楽守忠清にお抱え甲冑師として仕え、茶道具も製作する。49代 明珍宗之のとき明治維新で禄を離れ、千利休の火箸を作ったという伝にならい、それまで余技だった火箸づくりに転じた。当代 明珍宗理は、平成4年に第52代明珍を襲名。

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「俗に脇明珍とよばれる」作品のようです。



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木瓜形:木瓜紋の模様は古代中国の官服の図柄としても用いられており、その原形は鳥の巣に生み落された卵をテザインしたもので、後にこれが木瓜の実を輪切りにした形或いは胡瓜の断面形状に似ているところからこの呼称があてられるようになった。

いずれも円形周辺に凹部をもたせた柔らかな感じのある形状で、家紋などにもこれを用いた例は多いが、鐔では四ツ木瓜と呼ばれる四分割形が一般的。他に両(二ツ)木瓜・三ツ木瓜・五ツ木瓜など変形は多い。木瓜紋(もっこうもん)は、日本の家紋や模様のひとつ。藤紋、片喰紋、鷹の羽紋、桐紋と合わせて五大紋と呼ばれる。もとは有職文様である。子孫繁栄を祈る家紋である。

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たいしたものではありませんが、先祖伝来は大切に整理したおきます。

さて、本日紹介する花入はふたつとも以前に紹介された作品です。(浜田庄司の花入は現在は未公開) 探し物があって戸棚をひっくり返していると出てきたので、同じような使い勝手の良さそうな花器なので、改めてふたつを同時に紹介します。男の隠れ家は無尽蔵です。

これらは好きな作品群でいくつか絵柄や釉薬の違う作品を所蔵しています。

灰釉六角花立 浜田庄司作
共箱 
90*90*高さ196



なんども記述しますが、浜田庄司の釉薬はいいですね~。子息の浜田晋作も同じ釉薬なのでしょうが。味わいが違うのです。



この釉薬の味わいが浜田庄司の真骨頂です。



これと同じ作品がいくつも市場に出回っています。むろん本人作が多いのですが、窯作品、模索や贋作もあるようです。



共箱がないと一般的には真作として扱ってもらえませんが、よく知っている人はすぐに浜田庄司の本人作と解ります。

銅彩柿文筒花入 田村耕一作
共箱 
高さ188*胴径79



田村耕一の作品の真骨頂はやはりこの淡い朱色でしょう。「ほたるふくろ」を描いた作品が人気ですが、その作品の紹介は後日また。



田村耕一のこの手の贋作は見たことがありませんが、きっと難しいのでしょう。



田村耕一の作品は刻印があります。



知っている人は少ないのですが、田村耕一もまた人間国宝になっています。ただし本作品は人間国宝になる前の作です。

これらの作品は数が多く、いろんな機会で実際は目にしているはずの作品です。むろん、その場には共箱は展示されておらず、底を覗いて銘を確認することもかなわない状況ですから、好きな者だけがひそやかな喜びに浸れる時間ですが・・。

そう骨董は知らない人にはなにがなんだかわからないもの・・・。

贋作考 薫風行旅 伝竹内栖鳳筆 

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畑で採れたブルーベリーを社内で配ったところ、そのブルーベリーを生かしてのケーキを女性の同僚が作ってくれていますが、本日はその第2弾。チーズ風味です。ブルーベリーと相俟って非常に美味しい。息子も大喜びでした。



ところで以前に紹介した下記の作品ですが、読書からのご指導で「希斎」という落款が作品中に記されていることが解りました。調べてみると、長野の善光寺の天井に江戸時代の天井が「希斎」という画家が描いたらしい。

蓬莱図 希斎筆
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2113*横504 画サイズ:縦1023*横355

善光寺金堂中陣天井には、江戸の希斎という画家によって、巨大な龍が二匹描かれているとのこと。



本作品と同一の画家かどうかは解りませんね。



本日紹介の作品は竹内栖鳳の水墨画です。ただし現時点では贋作と当方では判断しています。

栖鳳の絵の魅力は、水墨淡彩の濃淡の妙と線描の自在さにあるいっても過言ではないでしょう。

薫風行旅 竹内栖鳳筆 贋作
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ縦1420*横570 画サイズ縦440*横450



「薫風」は初夏,若葉の香をただよわせて吹いてくるさわやかな南風を意味し、季語そしては夏になります。

  

竹内栖鳳は水墨の妙味について下記のように述べています。

「墨と筆の関係で生まれ出る言ふに言えない渋味、それが紙だと一層よく出る。(中略)絵を仕上げる迄の手間から言へば、紙のほうが絹より時間がかかる。あの墨のにじむ紙には私らも若い頃よわされたりしたものが。描いた時には反故の様にグチグチしているが、それが表具するとすかっとなる。底味のいいものを味わえるのは紙だ。」

 

落款などから昭和初期の作品と推察されますが、栖鳳は、1920・21(大正9・10)年の両年、春から夏にかけてのほぼ同じ季節に、中国の江南地方を訪れたており、その旅行時の風景でしょう。



円山・四条派の伝統を最も正統に継承し、西洋と東洋の絵画の特質を見極めた栖鳳。栖鳳が描こうとしたものは、自然を、自然の一瞬を、単なる風景描写ではなく、そこで暮らす人間、生きとし生けるすべての生命を内包するような自然の姿です。それが栖鳳にとっての「写生」であったものと思われます。



破墨による濃淡の薄墨で描かれた木々や下草が画面の大部分を描いていおり、伝統的な縦画面での水墨山水図を避け、横幅で描くことで、画趣に富む水郷風景を表現しています。



参考作品
墨蹟資料目録 「和の美」第490号 作品NO13「水墨山水図」より



本作品は、真作を模倣した作品ではないかと思われます。全体によく描かれており、離れてみると実に味わい深い作品ですが、どうも・・・・。こういう作品を飲み込むのも人生の味わいでしょう。


最近の色紙などの小作品蒐集

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最近紹介しました志野焼の水指・・、家内から突然「どこにあるの?」という質問。茶道具置き場の棚にあると教えてあげると「ぴったりね」と喜んでいました。「ぴったり?」・・・。

 

どうも旅箪笥?というものに入れる水指に最近紹介しました志野焼の水指のサイズがあったらしい・・・。意外に合わないのが箱と作品。よく茶碗用の保存箱が売られていますが、持っている茶碗と箱ですらサイズが今一合わないものです。



たしかに既存の箱に持ち合わせの作品がぴったり合うのは奇跡に近いことです。「この水指を幾らで買うの?」とはしゃぐ家内に問いかけても返事はありませんでした。桃山期の作品だったら高く売れたのに・・・・

閑話休題、骨董市には掛け軸はほとんど出品されませんが、版画などを扱う骨董商の脇に現在もダンボール箱に積み上げられているのが、色紙の作品の束です。ほとんどに人が面倒なので見向きもしませんが、小生は他にめぼしいものがないときにはじっくりと見ることにしています。

ほとんどが無名の画家の作品であったり、名のある画家の作品の工芸品や印刷などまず掘り出し物はありませんが、ときおり面白い作品があることがあります。インターネットオークションでも色紙の作品にはアクセスが少なく、ねらい目でもありますが、当然共箱でもなく、共タトウでもないので、駄作を購入することもしばしばです。

そんな状況下でいくつか最近入手した作品を紹介します。

菅公図 伝菊池契月筆 
金紙着色淡彩 タトウ  
画サイズ:縦220*横235 



良く描けています。菊池契月の作品にこのような落款はあまり見たことがありませんが、ないことはない落款です。ま~、天神様ということで・・・。

菊池契月は1892年(明治25年)、13歳で山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に入門、「契月」の画号を与えられていますが、最初は南画からスタートしています。その後、南画家である内海吉堂に入門。しかしその画風を受け入れることができず、これを察して、契月の画力と性格を見抜いた吉堂は、契月に京都の日本画家・菊池芳文を紹介しています。

菊池芳文は幸野楳嶺門下で、同門の竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香とともに「門下の四天王」とも呼ばれた京都画壇正統の四条派の画法を会得していた画家ですが、契月は1906年(明治39年)27歳で芳文の娘・アキと結婚、菊池家の婿養子となり、以後菊池姓を名乗ることになります。この当時は歴史上の故事に取材した作品を多く描いています。この頃の作品?



樹下小禽図 伝下村観山筆 
絹本水墨淡彩 タトウ  
画サイズ:縦270*横240



これも著名な画家。普段、トイレなどの壁に飾るのには都合が良さそう・・。直感では良い作品のように思います。

輪郭線を描かない朦朧体の描き方の片鱗がうかがえる作風です。朦朧体というと菱田春草が著名で、菱田春草亡き後、横山大観が大成させましたが、もともとは橋本雅邦がその最初とされていることを知っている方は少ないかもしれません。



山中松林図 児玉希望筆 
絹本水墨 タトウ  
画サイズ:縦270*横240



巧い。



児玉希望は川合玉堂の高弟。師の筆法を継ぎ、山水、花鳥画をよくし、覇気に満ちた性格と共に、近代的な色彩感覚を風景花鳥画を数多く描いていますが、本作品は川合玉堂の影響がうかがえる作風です。



れんぎょう 鬼頭鍋三郎筆 
紙本水彩 タトウ  
画サイズ:縦270*横240



共タトウと思われますが、詳細は不明。鬼頭鍋三郎は洋画家で、一時銀行に勤務しますが、上京して岡田三郎助、のち辻永に師事しています。従軍画家として戦地に赴き、戦後は光風会展・日展を中心に制作発表し、バレリーナシリーズで著名になります。

本作品はいかにも洋画家らしい描き方です。

  

柿一意 芝田米三筆 
紙本水彩 タトウ  
画サイズ:縦270*横240



味わいのある作品。こちらも洋画家の作品で、芝田米三はキリスト教的な作風で知られれいます。

 

山茶花 伝高山辰雄筆 
紙本淡彩 色紙 共タトウ  
画サイズ:縦270*横240



巧い! 共タトウ・・、ただこれはあまりにも著名すぎる画家・・。ただこの作品は小生にお気に入り、色紙の真贋に目くじらを立てるほどのことはない

 

筍 川端龍子筆
葉書 タトウ
画サイズ:横90*縦142



これは葉書絵ながら巧いですね~。

龍子は息子を戦地で、妻を病で亡くしており、第二次大戦後の1950年(昭和25年)、65歳になっていた龍子は妻と息子の供養のため、四国八十八ヵ所巡礼を始めています。6年がかりで全札所を回り、各札所で淡彩のスケッチを残していますが、その当時の葉書絵です。

その背景を知っていたので、通常は購入しない葉書絵ですが入手しました。



季節に合わせて、気軽な値段で購入できる色紙などの作品です。玄関やトイレなど、ちょっと洒落た色紙額を見つけては架け替えるのは愉しいです。ただよく飾られる色紙の作品ですが、これはその人のセンスを如実に表しますのである意味で要注意です。色紙一枚でセンスのすべてを知られてしまいます



額は数個あれば、寸法は同じですのでいくつでも色紙の作品を飾り換えられます。

色紙もタトウに入れて、引き出しに収納すると保存にも場所はとりません。ぜひ色紙の作品にチャレンジを・・・、印刷や工芸ではない肉筆の作品をお勧めします。



ところで骨董蒐集する心得にひとつに「収納、片付け」があると思います。床の間や部屋に所狭しと陳列している御仁にいい蒐集はまずありません。良き蒐集の前提は「収納、片付け」ですね。



展示を生かした工夫するためには常に収納と整理が必要で、収納をオーバーするなら作品を整理処分し、所蔵作品の数ではなく、レベルを上げていくことが良き蒐集になるように思います。自戒を含めて・・・・。

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