Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all 2938 articles
Browse latest View live

出山之釈尊 山崎辦栄筆

$
0
0
8月13日から1週間ほど男の隠れ家へ・・・、新たな作品の出会いを求めて、sonotameしばし休稿。

今年もお盆が近づいてきました。墓参りに帰省しますが、郷里もまた暑いようです。予約投稿はいくつかしていくつもりですが、しばし投稿はお休みです。ここのところ整理する作品が溜まっており、追われるように整理していましたがちょっと休憩です。

本ブログの閲覧者数が350万を超え、それが読者が多いのか少ないのかは当方にはまったく解りませんが、作品整理のためにまだ少し本ブログを続けることになりそうです。

さて帰省する男の隠れ家からの作品で「鐸 その5」です。本日紹介する鐸(つば)の形は愛好家はよくご存知だと思いますが、「武蔵鐸」と呼ばれているもののようです。

(武蔵)鐸 左右海鼠透素銅地 その5  
保存箱入
縦79*横74*厚さ3



剣豪として知られる宮本武蔵は数多くの鐔を考案し、自らも多くの鐔を製作したとされ、「武蔵鐔(むさしつば)」と呼ばれる「左右海鼠透(さゆうなまこすかし)」の図案は有名です。

なぜ「海鼠透(なまこすかし)」というのでしょうか? 透かしの形全体がナマコの形? どうもよくわかりませんね。またも本作品のどちらが表か裏かも・・・。



実際に宮本武蔵が製作した作品には耳際に細い線があり、武蔵の鍔には必ずこの線が見られるそうです。

武蔵鐔の形はシンプルなデザインですが、職人が作ったものに比べるとつくりが荒く、良く見るとヤスリ痕が残っている部分があります。通常は目の細かいヤスリで綺麗にするところが、そのままになっているのだそうです。

参考作品(左):「左右なまこ透かし鍔」  (右)「左右なまこ鍔素銅地」
(右)武蔵が亡くなる1週間前に世話になった細川家家老の松井家に贈られた品
(左)二天一流の二代宗家を継いだ肥後藩士の寺尾求馬助信行に贈られた作品

 

世間一般の常識では透かし海鼠鍔が武蔵鍔として知られてますが、決して宮本武蔵が常に透かし海鼠鍔を愛用して使っていた訳ではないようです。

また宮本武蔵以降、当然の如く、数多くの武蔵鐸が作られたそうですが、武蔵自身の作った作品を凌ぐ作品はないとか・・・。

本作品は端正ながらいい出来と思いますが、いずれにしろ鐸については浅学ゆえ出来の良しは正直なところよく分かりません。

なお「鍔の役割」について記述します。ところで「鍔迫り合い」という言葉がありますが、実際は鍔がせり合うとすると、手から鍔元まで攻められており、それは敗北(重症か死)も同然のことであり、しかして鍔の役割は相手の刀刃からの斬撃防御のためにあるのではないとのこと。

実際の鍔の役割は下記のようです。

1.刃の方へ手をスベらないためのストッパー。
2.床に刀を置く時、指を離さないですむ事。
3.置いた刀を取るとき、掴み易い事。
4.腰に差しているときに左手の親指で素早く鯉口が切れて、咄嗟の抜き打ちに有利な事。

よく解らない刀剣の世界ですが、とにもかくにも家に伝わるものを少し勉強して後世に遺していきます。

閑話休題、本日の作品ですが、日本画には知名度は低いものの「知る人ぞ知る」という画家がいます。その一人が「山崎辦栄」でしょう。ただし「山崎辦栄」は本来は画家ではなく僧侶です。

出山之釈尊 山崎辦栄筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横450*縦1360



なんでも鑑定団にも二作品ほど出品され、高値となっています。
 

知名度は低いものの「知る人ぞ知る」という画家のほかには、たとえば「山田真山」、「桑山玉洲」らもいますが、あくまで好みで鑑賞するのがよいでしょう。「山田真山」、「桑山玉洲」らは本ブログでも作品を紹介しましたが、とくに、「山田真山」は今週のなんでも鑑定団に素晴らしい屏風が出品されて話題になりました。氏素性がしっかりしているのになぜなんでも鑑定団に出品するのかは小生には理解できませんが・・・。



浄土宗の僧侶山崎弁栄は宗派を超えて非常に人気があったということで、書や絵画の作品の評価は大変高くなっています。



絵がなかなか上手であったということですが、もちろん絵師ではないので人物の脚や手の描き方は稚拙です。

6年間の苦行を終えて山から出てきた釈迦の、ある意味苦悩の表情なのでしょうが、難行の末の顔を墨の濃淡で描き、ひげの濃さなどうまく描いています。



「佛陀禅那」という落款が入っていますが、大体の作品はこの落款です。印章の朱文白方印はよくも押印されており真印です。上の印章は珍しいですが、他の作品に押印されている例もあります。



***************************************

山崎辨榮:(やまざき べんねい) 安政6年2月20日(1859年3月24日) ~大正9年(1920年)12月4日)。日本の浄土宗の僧侶。大正時代に浄土宗の社会運動である光明主義運動を行った。安政6年、下総国手賀沼鷲野谷(現、柏市)の熱心な浄土門徒の農家に生まれる。

近所の真言宗寺院で仏画を習う傍ら、12歳の時、阿弥陀三尊を夕日の中に観想して出家を願い、明治12年(1879年)11月、東漸寺の大谷大康に師事して出家した。

明治14年(1881年)に上京し、増上寺や駒込吉祥寺学林(現、駒澤大学)で研鑽を積み、明治15年(1882年)に筑波山中で念仏修行を行った。明治18年(1887年)に習志野に移住し、善光寺 (松戸市)建立・浄土宗本校(現、大正大学)設立の勧進を行った。

明治27年(1894年)にはインド仏跡巡拝に出かけ、翌28年に帰国した。その後、光明主義運動を始め、大正3年(1914年)には如来光明会(現、光明修養会)を設立した。大正5年(1916年)には、総本山知恩院の夏安居に講師に招かれ、大正7年(1918年)には時宗当麻派の本山、無量光寺 (相模原市)の61世法主に迎えられ、境内に人々の教育のために光明学園を創設した。大正9年12月、各地を巡錫中、柏崎市の極楽寺で還浄した。

**************************************

本日は宮本武蔵と山崎辨榮の作品を取り上げましたが、表面上は実に両極端な二人ですが、作品を見ているとなにか共通したものを感じてきます。道を究めた剣の道、仏の道、・・・究極は同じところに行き着いているようです。それはきっと「悟りの道」・・。

スポーツでも、仕事でも、趣味でも、行き着くところは「悟り」だろうと思います。

幽谷雙猛之図 大橋翠石筆 その4

$
0
0
鐸(つば)については6作品目の紹介となりましたが、刀剣については一振り以降は研ぎの仕上がりに時間がかるようです。

ところで刀の部品の用語を使った言葉に「切羽つまった」というのがありますが、「切羽」というのをご存知でしょうか? 鐸(鍔)を抑えてある両側の座金のような部分です。刀剣について学ぶと非常におもしろい語源がたくさんあるようです。

このたびの鐸も「その5」についで武蔵鐸のようです。

(武蔵)鐸 左右海鼠透素銅地 その6  
保存箱入
縦*横*厚さ



いい出来です。華奢で装飾的な鐸より、シンプルで力強く渋みのある作品のほうが鐸については私は好きです。



「左右海鼠透」は、調べてみると模様が岩浜に棲息する海鼠の形態に似ているところによる呼称のようです。

本日のメインの紹介は近代で虎を描いては一番人気の大橋翠石の虎の作品です。贋作が多い中でようやく満足のいく作品を入手できました。以前に初期の頃の明治期の作品を紹介しましたが、その作品と比較するのも愉しいものです。

幽谷雙猛之図 大橋翠石筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先本象牙 共箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横420*縦1140



虎の作品は魔よけでもありますので、座敷の玄関方向への飾りとなります。基本的には床の間は出入り口方向へが基本というのが、小生の考えですが、必ずしも玄関でなくてもよく、外からの出入り口に向けてです。



落款は「糸落款」と称せられるもので、「翠石」が細く書いてあるもので第3期 に属し1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)の晩年、最晩年に近い作品と推察されます。

  

翠石はほとんど作品に竹を描かず、本作品も葦を描いた背景と推察されます。神戸に住居がある時代の作品を「須磨様式」と称されますが、その頃の作品です。



月? 直接描かず、月の明かりを表現している絶妙な描き方です。これが本作品の見所になっており、他の作品より傑出している部分でしょう。



************************************************

大橋翠石:慶応元年(1865)生まれ、昭和20年(1945)没、享年81歳。岐阜県に生まれる。天野方壷・渡辺小華に南画を学ぶ。 その後、独学をして写生画派に転向する。

***********************************************

本ブログでも紹介されている「天野方壷」に南画を師事していたとのことです。



***********************************************

動物画に秀で、特に虎の絵は細密かつ迫真にせまる作品を制作した。 内外の博覧会でも大賞を受賞し、全盛期には横山大観・竹内栖鳳と並び高い人気と評価を得た。

岐阜県大垣市の染物業の二男で、本名は卯三郎。父親の影響で幼いころから絵をかき、地元や京都、東京で南画の腕を磨いた。

***********************************************

晩年期の大橋翠石の作品は、虎に毛については金泥を使って細かく緻密に描いている。紙の上に金泥を乗せているので厚みが生まれ、まるで触れるほどの毛並みを表現します。



葦については、線を勢いよく引き、滲みを入れるなど伝統的な日本画の手法を使って描いています。それに比べ非常に写実的に緻密に描かれた虎との対比によって臨場感・雰囲気を醸し出すことを狙いとしているようです。

***********************************************

神戸に移ったのは大正元(1912)年、48歳のころ。故郷の大垣を離れ、須磨離宮公園の近くに千坪の邸宅を構えた。

「結核を患ったため、温暖な神戸で療養をと考えたのでは」と推測する。すでに名を上げていた翠石を、神戸では武藤山治や松方幸次郎ら財界人が後援会を結成して迎えた。

虎の絵は神戸でも評判となり、当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまでいわれたという。

***********************************************

またこの当時に描かれた作品は背景の樹木や岩山や笹などの描写に洋画的雰囲気があります。



***********************************************

神戸では悠々自適の暮らしを送った翠石だが、昭和20(1945)年、大空襲のあとで大垣に疎開。終戦後、老衰のため愛知県の娘の嫁ぎ先で亡くなっている。

円山応挙をはじめ虎を描いた日本画家は数多い。だが、翠石は本物の虎を写生したリアルさで群を抜く。中でも、自ら考案した平筆を駆使した毛並みの描写は圧巻だ。この画風で、パリ万博に続き米国セントルイス万博と英国の日英博覧会でも「金牌」を受賞した。

***********************************************



***********************************************

虎だけでなく、ライオンやオオカミ、鹿、鶴など多様な動物画を描いた翠石。神戸に移ってからは、背景に遠近感や立体感のある山林や雲などの背景を描き、独自の画風を完成に近づけた。神戸時代の画風を「須磨様式」と名づけ、そこに西洋絵画の影響をみる。「当時、松方コレクションはすでに散逸していたが、松方が集めた洋画はまだ神戸にあったはず。翠石がそれらを目にした可能性がある」。

***********************************************



***********************************************

明治33(1900)年のパリ万博において日本人でただ一人、最高賞の「金牌(ぱい)」を受けたこと、明治天皇や皇后、朝鮮の李王家に絵を献上していたこと…。老境を迎えた昭和初期には、日本画壇を代表する竹内栖鳳や横山大観と並ぶ高い画価が付けられるほどの人気を誇っていた。

海外で華々しい成果を挙げながら、画壇とは交わらず、権威ある文展や帝展、院展に出展することもなく、わが道を歩んだ翠石。「孤高の生き方ゆえに、多くの作品が所在不明となり、名前すら忘れられたのでは」と考える。

***********************************************



下記は同時期に描かれたと推測される作品の参考資料です。このような資料を覚えおかないと作品が目の前に現れたときに良し悪しが判断つかないことになります。



このように落款と印章が提示される資料は蒐集するものとっては非常にありがたいものです。

 

初期の明治期の作品と晩年の作品、どちらとも大切にしていきたい作品です。

虎を画題とした作品がついつい増えてきました。虎の描き方を他の画画の作品と比較するのも一興です。



さて上記は誰が描いた「虎」の作品でしょうか? 以前に本ブログで紹介した画家の作品ですが、虎にもいろんな虎がいるようで、人間の顔をした虎もいろんな虎がいるようです。


月下孤松 福田豊四郎筆 その55

$
0
0
今年のお盆も無事に帰省から帰宅しました。その報告は後日としまして、最後の夜は月がとてもきれいな夜でした。郷里の男の隠れ家の門の脇の松の木はなにも植えていないのに新築から数年後に生えてきたものです

母から妻まで脈々と手入れが続いております。



洗濯物の整理に手伝う息子ですが、洗濯物入れの箱がお気に入りのようです。



今から箱入り息子??

さて、いままではインターネットオークションにも真作が出品されることが少なかった福田豊四郎の作品ですが、最近、郷里では作品が流通し始めたようです。どうしてでしょうか? 

この夏の帰省でも5作品を骨董店で紹介され、3作品を購入しました。また出来の良い一作品を蒐集していた故人のコレクションから見せていただきました。

本ブログでの紹介は福田豊四郎の作品については一部の作品にとどめていますが、上記の理由でここ数年で作品数が増え、50作品を超えてきました。

月下孤松 福田豊四郎筆 その55
紙本水墨軸装 軸先象牙 秋田美術倶楽部鑑定書添付 箱入
全体サイズ:横460*縦2120 画サイズ:横320*縦1307



作品を見た家内が、「この作品が好き!」だと・・・。

贋作が多い店からの購入なのですが、その中から唯一、真作と判断しての購入です。当方は福田豊四郎の真作のみ所蔵しています。



落款・印章は他の所蔵作品「土筆」、「百合」に一致します。福田豊四郎にも贋作が多数ありますが、本ブログの作品は「伝」と明記しないかぎり真作のみの投稿となっています。

本作品には秋田美術倶楽部の鑑定書が添付されています。

 

鑑定書は必要なく、明らかな真作です。贋作が多い店ゆえに売買には必要でしょうが、現在は鑑定に必要な費用より作品の方が安いかもしれません。



本作品の構図からちょっと高いところに掛けて月を楽しむがごときに鑑賞するのがいいようです。



松に月、現実に必ずどこかで見たことのある景色です。



写実を超えたデフォルメされた描き方は晩年の福田豊四郎のこの当時独特の表現方法です。



墨一色で描かれたその世界は見る者を引き込んでいきます。

前述の「出来の良い一作品を蒐集していた故人のコレクションから見せていただきました。」という作品は本作品と同時期の作で「竹」という題名の作品でした。欲しかったのですが、譲る気はなさそうでした



我が郷土の画家、福田豊四郎をもっと「知ろう」というのは駄洒落

夕刻に息子が縁側から松の木の上の月を見つけて「パパ、とって!」だと・・。絵本の噺らしい。

今年の夏の帰省の最後の夜は月を見ながら「きれいだね、また来ようね。」と申しておりました。

息子と骨董の話ができるのはあと何年先かな? 骨董はある場面場面に作品が絡んできて思い出になっていく役割も担っているようです。

菖蒲 池田焦園筆 その3

$
0
0
夏の帰省前に息子らと母に面会。息子は母の車椅子を押す係になったようです。



中国風の服を着て息子はご満悦・・。そろそろ母と息子の会話は話が合うようになってきました。同じ知的レベルになった??



郷里への帰省は行くときはいつものようにローカル線ですが、帰京は息子には初めての飛行機の予定です。いつものように先頭に陣取り、「あっ、トンネル!」と大騒ぎ。



さて本日は池田焦園の作品の紹介、「その3」になります。この作品を投稿した意図は、拙文を最後まで読まれた方にはお解りいただけるかと思います。

菖蒲 池田焦園筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横305*縦1285



1901年(明治34年)、学業のかたわら15歳で日本画家・水野年方(1866-1908)の主宰する慶斎画塾に入門。蕉園の号は、上村松園に憧れる百合子に、松園に負けぬ美人画家になるようにと、師年方が与えたものです。

落款の字体、印章が「百合」となっている点から、20歳前後の作品ではないかと推察されます。後の1909年前後の数年間は彼女の全作品の半分以上が集中して生み出され、完成度の高い力作も集中する充実期となっています。



**************************************

閨秀画家が日の目を見るようになったのは、明治四十年創設の文部省美術展覧会、通称「文展」からのようです。優秀作なら性別を問わず出展でき、新聞各紙に詳細な評も載るため俄然注目を集めました。この文展第一回に「物詣で」を出展し、以降第十回の「去年(こぞ)のけふ」まで毎回入選を果たした実力派が、池田蕉園です。

幼い頃より画才に恵まれ、十六才で水野年方の門に入ると、着実に画壇での存在感を示していきますが、のみならず、彼女は憧れの人との恋も実らせました。同門の画家・池田輝方と十七歳のときに婚約します。まさに順風満帆な人生でしたが、そんな彼女を、思いも寄らぬ出来事が襲います。婚約者の輝方が他の女性と駈け落ちしました。さらにはこの顛末が、当時の新聞「万朝報」にて報道されます。わけもわからず醜聞の中に、世間の好奇の目にさらされます。だが皮肉にも、この一件によって彼女の絵は深みを増していくことになります。物憂げな美人画を情感豊かに描き、西の(上村)松園、東の蕉園と言われるほどの名声を博すことになります。絵に打ち込むことで心の痛みを浄化したように思えます。手痛い失恋によって女心の機微を掴み得たのかもしれません。

**************************************

入門翌年1902年(明治35年)ごろに「桜狩」を発表して画壇デビューしていますが、「他の所蔵作品 その2 桜狩」がそのような作品であるとすると、まだ少女趣味的な描き方でした。しかし「他の所蔵作品 その1 舞美人図」のような作品になると深みが増しています。



**************************************

彼女を奈落の底に突き落とした輝方ですが、八年後に舞い戻り、蕉園に求婚することとなります。蕉園はその申し出を受け入れます。以降ふたりは画壇のおしどり夫婦として創作に励み、屏風などの共作にも意欲的に取り組みます。



**************************************
 
蕉園がそれほど輝方に惚れていたとも言えますが、記事には「恋慕だけのことなら、かえって彼の裏切りに拘泥したようにも思われます。彼女には絵という決して裏切らない存在があり、自分に才能があることも知っていたのでしょう。その人間的余裕が恋というより慈悲の心で男を許したのではないか。」そして「能のある女ほど、適度に男を立てて争わない。相手が怖いからではなく、面倒だからでしょうか。男のほうもそれと察し、度量と意地で己の仕事を全うするということでしょう。」という記載があります。



小生が推察するに、実際は男のほうは駆け落ちしたことに深く後悔していたと思います。一番、自分のことを思っていてくれた女性に気がつき、駆け落ちした相手との破局後に焦園に戻ってきたように思います。

結婚後は男性のほうが、女性以上に愛情を深めていたように思います。このような愛情の機微は一般には推し量れないものがあります。蕉園は1917年(大正6年)に結核に倒れていますが、夫輝方は献身的に看病しています。

ちなみに葛飾北斎の娘、応為(おうい)は絵師として一個の天才でしたが、絵を愛好する夫の作を容赦なくけなし続け、ついには離縁を申し渡されています。



菖蒲の花言葉は「やさしい心 あなたを信じます 忍耐、あきらめ」です。本作品の紹介は真贋がどうのこうのではなく、この菖蒲の花言葉に投稿の意図があります。

リメイク 吉祥天 富田渓仙筆 その2

$
0
0
畑で採れた獅子唐・・、ともかく辛い。我が家ではお手上げなので会社で好きな方へ配りました。



さて、わが郷里は当然ながら樺細工で有名です。男の隠れ家にはたくさんの地元の工芸品がありそうです・・・。

 

このように裏表にわたってすべて桜の表皮で作られている作品は意外に高い



生地も木製の無垢でなくてはなりません。プラスチックなどの廉価品はどうも使い心地がよくありません。



さらに探すとこんな作品がありました。



なかなか面白い形をした作品です。



使いやすいかどうか?



作品展への出品作?



これらの作者について調べてみようかと思います。

本日はずいぶんと前に購入した作品の紹介です。一度投稿していますが、調査原稿が作品に添付されていないので、再度整理しました。男の隠れ家には未整理の作品がまだたくさんありそうです。

吉祥天 富田渓仙筆
紙本軸装水彩着色絹装古径鑑題二重箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横231*縦560



吉祥天とは、もと印度神話に毘沙門天の妃として愛欲複祥を司る神として説かれていたものとのこと。仏教では、この神を金銭珍宝米穀など一切の福徳を得せしめる吉祥の天女としいるとのこと。



像は天衣を着け瓔珞を飾り、容姿端麗にして、左手に蓮華または如意宝珠を捧けるらしい・・・、「容姿端麗」・・・?? 天平美人ということかな?



本作品はわりと強い色合いですばやく描かれた渓仙の佳作だと思います。



「容姿端麗」・・・、美人は拝むだけのほうが無難なようです。関わると碌なことになりません。

「美人画」もそのようです。贋作が多いとか、蒐集家も真贋ばかり気に病んで理屈っぽいなど碌な奴がいない・・・。



人柄のいい人はたくさんいますがその中に美人などほとんどいない。美人で人柄のいい人などまずはいないと思ったほういい、これはもてなかった男のひがみのようなものかもしれませんが、経験則でもあります。



小生の家内は特別・・・



本作品は富田渓仙には珍しく小林古径による箱書きとなっています。

 

 

表具、風鎮・・、蒐集する者はいろんなものに興味を持ってしまいます。好奇心が旺盛らしい。



好奇心が旺盛なので、ときおり美人を振り返り、美人画を購入する・・・、好奇心旺盛ということは支離滅裂ということと紙一重



狩場の曾我 植中直斎筆 その2

$
0
0
お盆の帰省の第一義はやはり墓参り・・・。 昔ながらの風習は小さな頃から身につけていくべきものでしょう。先祖を敬う気持ちがすべての原点です。 さて、今日は「ご馳走かな?」と息子・・・。 ところで郷里は銀細工の工芸品が盛んなところです。男の隠れ家から下記のような作品が出てきました。 扇形をした純銀の小さな器です。 結婚式の引き出物のようです。両家の家紋入りのようです。 なんと爪楊枝入です。小粋ですね。「南鐐扇子形楊枝入」とあります。 「南鐐」とはご存知の方は少ないと思いますが、 1 美しい銀。精錬した上質の銀。 2 江戸時代、二朱銀の異称。長方形の銀貨幣で、1両の8分の1。南鐐銀。南挺(なんてい)。 という意味です。 さて、本日の紹介の作品は、箱根旅行した際に「箱根神社に詣でて、橋本雅邦の作品を紹介してる」本ブログにもってこいの作品です。 狩場の曾我 植中直斎筆 その2 絹本着色軸装 軸先鹿角 共箱 全体サイズ:縦2180*横710 画サイズ:縦1430*横510 植中直斎の作品は今回で二作品目の紹介となります。 ひとつ目の作品は下記の作品を紹介しています。 陶工柿衛門図 植中直斎筆 本着色軸装 軸先象牙 共箱 全体サイズ:縦1375*横665 画サイズ:縦410*横510 「植中直斎 」については、そちらでも紹介していますので、ここでは曽我兄弟について記すことにしました。 ********************************* 植中直斎 (うえなか-ちょくさい):1885-1977 明治-昭和時代の日本画家。明治18年10月1日生まれ。深田直城,橋本雅邦に師事。また田中智学に日蓮(にちれん)宗の教義をまなぶ。大正2年山元春挙に入門。文展,帝展などに仏教画を発表。昭和48年「日蓮聖人絵伝」を完成。昭和52年8月12日死去。91歳。奈良県出身。本名は直治郎。 ********************************** かなりの技量の持ち主ですが、ご存知の方は少ないでしょうね。このような画家には贋作もなく、作品も素晴らしいものがあります。小生のような蒐集する者には狙い目の画家です。 以下は曽我兄弟についてです。 ********************************** 曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち):建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた。 所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。祐泰の妻の満江御前とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。 祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。 兄弟は、仇討ちの成就を願うために箱根権現社に赴き祈請した。祈請を済ました二人は、かつて世話になった別当の元を訪れ、別当は泣く泣く「思い出して来てくれたのはとても嬉しいことだ。」と言って二人をもてなし、五郎に兵庫鎖の太刀、十郎に黒鞘巻の小刀を与えた(両方とも源義経が木曽義仲討伐に上洛した際、討伐の成就を願って箱根権現へ納めたものであった)。別当は二人を遠くの遠くまで見送りに来て「わしがいる限り、後世のことは心配なさるな。よくよく供養しましょう」と言った。 建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した小舎人の五郎丸によって取り押さえられた。翌5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児犬房丸に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。 この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修禅寺に幽閉され、のちに暗殺されたとも自害したとも伝えられている。 また、この事件の際に常陸国の御家人が頼朝を守らずに逃げ出した問題や事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする説もある。 工藤祐経を討った後で、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとしており、謎であるとされてきた。北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある。また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親襲撃自体に頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経の後援者が頼朝であったことを知っていたとする説もある。 ********************************** 歴史画の大家にも劣らぬ見事な描写力です。展示室に飾っても見ごたえがあります。 敵討ちを控えて馬の表情も厳しい。 このようなあまり知れてない画家の出来のよい作品は入手が簡単なようで、実は意外に難しいものです。 なぜか? いい出来の作品はそれなりにもはや所蔵されていて市場に出たこないし、出てきても目の肥えた蒐集家がまだいるということでしょう。結婚式の引き出物とはいかないようです

冨士 福田豊四郎筆 その2 & 残雪の社 福田豊四郎筆 その57

$
0
0
台風が関東に上陸するという当日の朝から義父は畑で無花果(イチジク)を採っていました。強風で実が落ちる前に少しでも採っておこうということらしい。いつもは朝の散歩の人で欲しいという方に分けてあげるのですが、さすがに朝からの雨で通る人もいないので、自宅で食べる量以外は会社にて皆さんに食べてもらうことにしました。



なかなかの美味のようで、皆さんで食べていただけたようです。

本日は福田豊四郎の作品ですが、まだ戦後間もない頃の作品です。まずは先日に帰省した時に購入した色紙の作品です。



屏風に貼られていた作品でしょうか、薄い色紙に描かれた作品です。題名は不明ですので「残雪の社」と仮題はしておきました。



落款と印章から昭和20年前後ではないかと推察しています。



同じ落款と印章の作品があります。福田豊四郎の作品は祖父の代から所蔵していましたが、本作品は自分で買った最初の頃の作品です。表具されていないまくりの状態で、簡素な軸に巻かれていた作品でした。そのため骨董店から安く譲っていただいた作品です。

冨士 福田豊四郎筆 その2
絹本着色絹装軸供シール箱 横415*縦1310



戦前、戦中、戦後すぐの頃に描かれた作品のようです。「その2」とありますように、蒐集して最初の頃の作品です。



購入費用は〇〇万円。ともかく、購入した経験の少ない頃で若かった小生にとっては大金でした。



骨董は自腹で購入しないと「その価値は身にしみない」ものです。骨董というものは、生活必需品ではないので、いずれも自分の身の丈よりも無理した買い物になるものです。



思い切って購入し、またお金を貯めて後日に表具をしてみたら、実にいい作品であると実感しました。



技術的には稚拙なところはありますが、福田豊四郎の実直さがよく出ている作品だと思います。



戦前、戦中、戦後を通じて国粋主義の高揚と相俟って、多くの画家が富士山を描きましたが、この作品にはその意図は微塵もありません。



ススキに新雪の富士・・。



表具することでまたこの作品は永らく未来永劫の遺すことができればと思います。



巻かれていた軸の紙に残されていた「題」や「落款」はそのまま残しました。誰かが福田豊四郎氏の描いたもらったのでしょうが、その後、表具される機会の無いまま放置されてたのでしょう。表具されていない状態で作品が残っていることはよくあります。描いてもらったのはいいが、表具代金を含めてタイミングを逸してしまったということでしょう。

  

今では掛け軸は破格なくらい安いお値段で入手できます。ゴルフワンプレー分で出来のよい作品が買えます。目先の面白さより、将来に残る面白さが骨董にはあります。



帰省に際しては、息子らと今は電車の走らなくなった小坂鉄道のレールでレールバイクに乗りましたが、川の上の鉄橋を走ります

そう・・、福田豊四郎は小坂町の出身です。



男の隠れ家では社の前で宴会です。

椿鶯図 橋本雅邦筆

$
0
0
息子との郷里での夏季休暇は夏真っ盛りの自然とのふれあい・・、まずは庭木の成長具合の確認。



近所の散策、吹き渡る風が都会とは違います。今年の稲の具合は? 蜻蛉が飛び交い、蛙の合唱が響き、夜には虫の音との交響曲となる。



ときおりの休憩は近所の美味しいところへ、最近は田舎といえでも食にこだわるお店も多くなりました。



移動中は睡眠・・、ともかく寝る子は育つ。



さて、帰省前の箱根旅行での美術館見学の後には富士屋ホテルで喫茶・・、その間は小生と息子は池の鯉に夢中・・。



宿泊以外で訪れた範囲内でこの建物内を観た感想は、展示品にしろ、作りにしろ、このホテルで見るべきものはないということ。造りはよくなく、悪趣味の塊のようなもの、これをよしとする感性は歪なもの。

我ら庶民はちょっぴり贅沢な別のホテルへ・・、案内されたホテルの部屋の床には山内多門の額装が・・、「いいね!、趣味がいい。」、家内も「これはお気に入り」とのこと。工芸品などの印刷ではなく、額装されているとはいえ本物が掛けられているというのはいものです。

とりあえずいつなんどき、どのような場でも床の軸くらいはどの程度のものかを解るようになっているべきでしょう。。



1920年(大正9年)の作品ですね。「夏七月 於いて 京□」とあります。



山内多門というと川合玉堂とその師である橋本雅邦に入門していた画家です。山内多門の作品については資金繰りのために品を手放したという苦い思いがあります。

床に間に飾られた作品は「チフスを患うが九死に一生を得た後、中島観誘に就いて禅を深めるなど、より内生的になっていく。」という頃の作品らしい。「ウム~」

***************************************

山内多門についての記事より

宮崎県都城市倉之馬場通東に山内勝麿の子として生まれる。16歳で郷里で狩野派の中原南渓に学ぶ。1899年(明治32年)に上京、同郷の造船技師で経営者だった須田利信の家に寄寓しながら、川合玉堂に入門、雅号都洲を授かる。

翌1900年(明治33年)橋本雅邦に師事し、前期日本美術院に参加、同年第8回日本美術協会第三回日本美術協会連合絵画共進会「三顧草盧」という歴史画で初入選。

1903年(明治36年)画号を本名の多門に改める。この頃は須田の後援を受け研鑽に励み、同じ院展の中堅画家山田敬中と比較されるまでになる。この頃は伝統的狩野派風の肥痩や圭角の強い線ではなく、雪舟の広大で雄渾な山水画に多く学んでいる。

1906年(明治39年)国画玉成会の創立同人に名を連ね、後に幹部となる。大正に入ると二葉会の幹事も務める。1916年(大正5年)チフスを患うが九死に一生を得た後、中島観誘に就いて禅を深めるなど、より内生的になっていく。

雪舟の影響を脱し、むしろ与謝蕪村風の余情ある画趣に引かれる。再興院展後は院展より官展に出品し、後に審査員となる。1930年(昭和5年)聖徳記念絵画館に大作を献納してから床につくことが多くなる。若葉会の会頭として多くの後進の指導に努めたが、1932年(昭和7年)病となり没した。

***************************************

ということで前置きが長くなりましたが、本日は久々に山内多門の師である「橋本雅邦」の作品の紹介です。

椿鶯図 橋本雅邦筆
絹装軸紙本水墨 軸先象牙 橋本秀邦昭和16年鑑定極箱入
全体サイズ:横400*縦1080 画サイズ:横260*縦190



意外に多いのが橋本雅邦を師とする日本画家です。川合玉堂が代表ですが、池田焦園などもその一人です。



掛け軸は床の間だけでないところに飾ることをしていかないと飾る場所がなくなってしまいますね。当方も工夫しながら飾っています。



このような小点の作品は飾るところに意外に応用が効きます。額装にするというのもひとつの策ですが、表具の面白味がなくなってしまいます。



円窓の作品は幕末の狩野派の画家が好んで描いています。幕末から明治期にかけて流行?したのかもしれません。なかなかモダンな洒落た作品となっています。



子息の橋本秀邦の鑑定箱ですが、この鑑定はよく見かけますので真贋を鵜呑みにはできません。書体や印章にて判断する必要があります。本作品は当方では真作と判断しています。

 

本作品は印章のみの作品ですが、橋本雅邦の作品にはときおり印章のみの作品を見かけます。本作品に押印されているこの印章は珍しいかもしれませんが、同一印章を確認できています。

 

山内多門の作品から橋本雅邦を思い出す人は少ないでしょうね。しかも山内多門の作品の月の円から円窓の作品を・・・・。こういう発想の鑑賞も面白いと思います。

とにもかくにも、なにごともまず知識から、そしてその後に経験、最後にそれらを糧にした知恵、されには究極は感性へ・・、ただし感性が歪であってはいけません。背筋がまっすぐな感性、ものごとは王道を歩まなくてはいけません。小生の骨董などまだまだ邪道。

銅彩鷺文壺 田村耕一作 その

$
0
0
男の隠れ家の心臓部への一部へ初めて侵入したわが息子・・。



「これはいったいなに?」と尋ねたので、「なに、がらくたさ」と小生。



さて、その中から今年もいくつか引っ張り出してのメンテナンスです。漆器、軸類はメンテが重要です。今年から息子もお手伝い。



片付いたら、手伝い疲れたようなのでご休憩・・。



ところで、佐野市庁舎の工事に関わった元同僚から「さのまるくん」のぬいぐるみの贈り物をいただきました。息子が生まれたばかりの頃に戴きましたが、今も大切に息子は抱っこしています。



佐野市出身というと陶芸家の人間国宝「田村耕一」が思い起こせますね。ということで本日は当ブログでおなじみの田村耕一の作品の紹介です。

銅彩鷺文壺 田村耕一作
共箱 
高さ238*口径52*高台径108*胴体径190・180



すでに幾つかの作品が本ブログで紹介されていますので、田村耕一についての詳細の記述は他の本ブログ記事を参考にして下さい。



本作品は田村耕一の真骨頂といっていい作品です。



「銅彩」という一種の青磁の釉薬と絵付において、人間国宝のなっています。「鷺」と「ほたるふくろ」の絵付が代表的です。



作新学園が今年の甲子園で優勝した栃木県、その栃木県から浜田庄司に次ぐ二人目の人間国宝の田村耕一です。意外に知られていないかもしれません。



陶芸を知る方法でもっとも効果的な方法は人間国宝の作品から知ることだと私は思っています。作品も観ることはたやすいし、真贋は明確になっていますし、小さな作品なら手の届く可能性もあるますから・・。 



古陶磁器、中国陶磁器、西洋陶磁器から入り込むと迷路に入り込みます。小生のようになかなか抜け出せないことのなります。

氏素性の解らぬ作品 交趾焼? 三彩亀型酒器

$
0
0
お礼が遅くなりましたが、先月に友人から山形のさくらんぼが届きました。息子が大好きで大喜びです。その後にブドウ、モモが2階・・?? 「お~い、何度も果物が来るけど、ボケたのではないだろうな?」と電話したら「いや、大丈夫、今年はいろいろおいしいのが採れた。」という返事・・・・。



さて源内焼を平賀源内が興すもととなったのが、日本に輸入されていた交趾焼です。本日は「交趾焼」の紹介です。

長崎に遊学した源内は交趾焼の技術を学び、日本に輸入されていた交趾焼に対抗するために、肥後天草で良質の陶土がとれることを知ると、すぐさま陶器工夫書を代官所に提出し、技に優れた陶工を集め、新たな造詣や文様を工夫すれば、蒔絵に肩を並べる程の輸出工芸品になると力説しました。ところがこれは資金のめどが立たずあえなく却下されてしまいます。そこで讃岐に戻り陶工を呼び寄せ、自宅の庭に窯を開いたのが源内焼の始まりです。



「交趾焼」はその当時の作品は意外に市場には出てきません。国内の模倣作品は多くありますが、時代のあるものはとても高価で入手困難です。(本日の作品についても時代については不詳です。)

交趾焼? 三彩亀型水注
補修跡有 合箱
幅162*奥行き125*高さ114



交趾焼(こうちやき)は中国南部で生産された陶磁器の一種。名称はベトナムのコーチシナ(交趾支那)との貿易で交趾船によりもたらされたことに由来しています。



正倉院三彩などの低火度釉による三彩、法花と呼ばれる中国の元時代の焼き物、黄南京と呼ばれる中国の焼き物や清の時代の龍や鳳凰が描かれた焼き物も広い意味では交趾焼です。



総じて黄、紫、緑、青、白、などの細かい貫入の入る釉薬のかかった焼き物を総称します。



中国の明末~清代にかけての時代に交趾地方で生産された陶器の総称でもあり。前述のように交趾は中国の南方の地域で,漢代には交趾郡がおかれたことが知られ,早くから開けていた地方です。



この地方の窯,すなわち広東省の諸窯,浙江省の宜興 (ぎこう) ,蜀山などの窯で交趾手のものが制作されたようで,青,黄,緑,紫などの釉 (うわぐすり) を用いて三彩釉に似たやわらかみのある色調が特徴で、胎土は暗色で三彩釉が施されています。茶人の間では香合が珍重されました。



さて。本作品が江戸期の作品であるかはどうかは別として、雰囲気は「交趾焼」風です。むろん国内で近年に製作されて可能性もありますが、上下真っ二つに破損した形跡があり、うまく直しています。それだけ、前の所蔵者が大切にしていたのかもしれません。



本作品は水注として売られていましたが、酒器のようなです。主席で使用したか、何らかの理由で破損したのでしょう。



作品としては面白い作で良い出来だと思います。作名に「亀」としましたが、正しくは「玄武」かもしれません。

中国の神話に四神(ししん、しじん)というものがあり、天の四方の方角を司る霊獣のことです。四獣(しじゅう)、四象(ししょう)とも称されています。四象と四神・四獣は同義であり、実体のない概念である四象に実体を持たせたものが四神・四獣とされていますが、東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武です。五行説に照らし合わせて中央に黄龍(書籍によっては麒麟を据える場合もある)を加え数を合わせた上で取り入れられています。

亀の置物を家の北に守り神として置くと良いとされるのは、上記の神話からきています。

*******************************

玄武は、北方を守護する、水神。「玄」は「黒」を意味し、黒は五行説では「北方」の色とされ、「水」を表す。

脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多い(尾が蛇となっている場合もある)。

古代中国において、亀は「長寿と不死」の象徴、蛇は「生殖と繁殖」の象徴で、後漢末の魏伯陽は「周易参同契」で、玄武の亀と蛇の合わさった姿を、「玄武は亀蛇、共に寄り添い、もって牡牝となし、後につがいとなる」と、陰陽が合わさる様子に例えている。

「玄武」の本来の表記は(発音は同じ)「玄冥」(「冥」は「陰」を意味し、玄武は「太陰神」とされた)であり、(北方の神である)玄武は、(北にある)冥界と現世を往来して、冥界にて(亀卜=亀甲占いの)神託を受け、現世にその答えを持ち帰ることが出来ると信じられた。

「玄武」の「武」は、玄武の「武神」としての神性に由来し、後漢の蔡邕は「北方の玄武、甲殻類の長である」と述べ、北宋の洪興祖は「武という亀蛇は、北方にいる。故に玄と言う。身体には鱗と甲羅があり故に武という」と述べた。玄武の武神としての神性は、信仰を得られず、唐宋以降には伝わらなかった。

中国天文学では、周天を天の赤道帯に沿って4分割した1つで、北方七宿の総称。北方七宿の形をつなげて蛇のからみついた亀の姿に象った。

*******************************

蛇までは絡み付いていないので本作品は題名は「亀」としましたが、面相からやはり魔よけ、守り神として作られているのでしょう。

ただ、このような破損のある作品は逆効果になることもあり、傷の補修などをきちんとしておかないといけないとする考えもあります。仏像などがその例で、粗末にすると逆にバチあたりになる・・・・



この形の酒器はときおり見かけますので、日本で作られたもののように思いますが、全体の釉薬には虹彩が出ておりますが、いったいどこで焼成された作品でしょう?

PS
この置物で思い出すのが調査で見たことのありますが、現在非公開となっている徳川水戸家の累代の葬儀墓。日本では珍しい儒教の形式によるもので、螭首亀趺(ちしゅきふ:亀の胴体に竜の首が付いている台石)とよばれる墓の様式です。



古柏山雀図 平福百穂筆 その23

$
0
0
男の隠れ家にある我がスペースに初めて息子の立ち入りを許可しました。興味深々??



残っているのは主に日常使っていたになりました。男の隠れ家はあちこちに・・・。



おかげさまで未整理作品は少なくなってきまいした。



もともとあった作品やあちこち赴任していた頃に集めた作品が整理で遺っている作品です。



処分も進み、だいぶ整理は進んでいます。



ところで作品入手時に迷うのは、作品に判断材料の乏しいことです。共箱・共シールがない、鑑定書・鑑定シール・鑑定箱がない、まくりの状態である(表具されていない)、さらには落款・印章もないという場合ですが、その場合には作品そのものが根拠にしかなりません。

本日、紹介する作品は落款と印章はありますが、その他の判断材料はありません。こういう場合は感性だけが頼りです。

古柏小禽(山雀)図 平福百穂筆
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱二重箱 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦500*横540



物事には一番最初は知識が必要で、経験を積んで知識をベースに知恵を働かせ、最後は感性によって、人を動かし判断していくものですが、あくまでも知識がベースとなります。



知識、経験、知恵がないと感性がただの「感」になりますが、小生の骨董収集はいまだに知識を吸収する段階のようです。



仕事も同じ、若いときは必死で知識を習得し、知恵を絞って物事にあたって経験を積むと、問題に直面したときに感性が自ずと働いて的を得た解決策が生まれるものです。その実績に人がついてくるもののようです。



経験の中で失敗することもあるでしょうが、単なる失敗か、将来に役立つ経験になるかは知恵を絞ったかどうか、努力したかどうかが鍵になります。



骨董も同じで、まがい物を経て、真に迫っていくもののようですが、その過程が大切です。



さ~、本日の作品はいかなる方向性を我にもたらすやら・・。

ひとつひとつの整理にかかる時間と知識は意外に多く、体力と気力が大事・・。

同様のような作品は鮮明ではありませんが、インターネット上のあります。

古柏栗鼠
秋田県立近代美術館蔵



この作品ありきで入手したのではなく、あくまでも未成熟ながら現在の感性で入手判断した作品です。

氏素性の解らぬ作品 磁州窯? 白地鉄絵草・福文水指

$
0
0
今年のふるさとは日中はとくに暑かった。



それでも夕方から朝にかけては涼むによい気候となりました。



天窓を全開・・・。



夏は吹き抜けはありがたい、冬はちと寒い・・・。



本日は「磁州窯」らしき氏素性の解らぬ作品です。

磁州窯の作品というと「なんでも鑑定団」に出品された掻き落しの文様の作品を思い起こす人が多いと思います。このような手の込んだ作品もいいものですが、磁州窯と同じ地方で作られた民窯の雑器もまた魅力的だと思います。

磁州窯? 白地鉄絵草・福文水指
宋時代 合箱入
口径110*胴径165*高さ115



磁州窯は中国は河北省邯鄲(かんたん)市近郊にあり、五代頃から現代まで続いています。

中国有数の民窯の窯場であり、おもに一般庶民の使用する雑器を焼成し、製品は多種多様であり、とくに白化粧掛けをした素地に黒で奔放な鉄絵文様を描いたものや、 白化粧もしくは、その上に塗った黒色の鉄泥を掻き落としたものなどが代表的です。



本作品は「白化粧掛けをした素地に黒で奔放な鉄絵文様を描いたもの」に属するようですが・・。名品は宋代のものが特に名高く、日本人好みの意匠で、古くから愛好されています。



本日紹介するような作品は雑器ですが、まず白い釉薬に魅力に温かみがあり、奔放な絵が魅力となっています。



本作品は蓋はないものの水指にうってつけの大きさと形です。蓋は均整のとれた円形であれば、5000円程度で調達できます。お稽古用や気軽な茶席にはいいものと思います。



このおめでたい「福の字」がいいですね。



本ブログで紹介しました「鉄絵草紋筒茶碗」も同じような作り方です。



製作年代はよく解りませんが、渋味もあり趣があります。



既製品のような面白味のない水指を使うより、氏素性は解らぬものを見立て水指を調達するほうが愉しいと思います。茶道はすべてが見立てのようなもの。

家内に頼んで現在塗り蓋を手配中です。



何事も既製品の「安かれ良かれ」で物事を決めるものづくりの現場、ものづくりには安かれ良かれは禁物なのに。

月下猛虎図 西山翠嶂筆 その6

$
0
0
今年の帰省は秋田市内の窯元の先生や幼馴染の友人やらを訪ねてきました。「人生いつなんどき」と思うくらい、皆さんいろいろあったりしていましたが、それぞれ元気でした。



その日の夕方は家の近くでの大文字焼と花火。



息子は愉しそうに観ていました。



「ヒュルヒュル~、ドン」が息子の口癖。



帰京する前夜は縁側で花火・・・。



小生は何度も行っていますが、息子といつかは大曲の花火大会へ。



帰京は飛行機・・・・、本人は背中に羽が生えている。



本日の作品は実によく描けています。

なぜに共箱でないのか不思議なくらいですが、共箱でないと真贋はちょっと解りにくくなります。むろん、共箱でないと評価も低くなります。評価が低いから小生の入手しやすいのですが、そこは真贋の目利きの領域になります。これを博打というのか、蒐集というのかは見識の相違でしかありません。

月下猛虎図 西山翠嶂筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1910*横560 画サイズ:縦1070*横410



西山翠嶂の作域は人物、花鳥、動物、風景の多岐に渉りますが、その得意とするところは人物、動物で、京都伝統の円山、四条派の写生を根底として作風を展開しています。そのはじめ彼は、歴史人物画が多かったのですが、次第に抒情味にあふれる人物画に移り、晩年は動物画や山水に洗練された技法を示しています。



西山翠嶂の描く作品の特徴は、師匠である竹内栖鳳から受け継いだ軽妙洒脱な、とてもモダンで洗練された作風でしられ、そのどこか艶やかさも感じる作風で評価を受けています。



画家として大きな貢献をし続けた西山翠嶂ですが、教育者としても高い評価を得ています。堂本印象や中村大三郎などは自らが主宰した青甲社から輩出した逸材であり、自らの芸術で美術界を盛り上げて行くのではなく、後進の指導力にも長けていた西山翠嶂です。



芸術家として、素晴らしい功績をあげていった素晴らしい画家の一人であり、日本芸術院会員、京都美術大学名誉教授を歴任され、文化勲章を授与されている数少ない画家の一人です。



「ありきたりといえばありきたりの構図での虎を描いた作品ですが、洗練された技法」、「軽妙洒脱」、「とてもモダンで洗練された作風」、「どこか艶やかさも感じる作風」というのが伝わってきます。



どこかユーモラスで可愛らしささえ感じます。写実的に描かれていますが、大橋翠石の作品と比べると面白いですね。



葦を描くなど大橋翠石の影響があるように感じます。



竹内栖鳳を師とする西村五雲、西山翠嶂(文化勲章叙勲)のこの二人を抜きにして画壇を語ることはできないのは事実です。



ただ、竹内栖鳳に比してある程度気安く愉しめる画家とも言えます。




葡萄図-17&18 天龍道人筆 28&29

$
0
0
男の隠れ家から漆器を取り出し、一部を手入れしてきました。これは「丸型弁当」? 昔からあり蕎麦の器のように思われますが用途の詳細についてはよくわかりません。



塗りも厚く、精度もぴったりでよく出来ています。保存箱も秋田杉の柾目が見事です。



息子もお手入れのお手伝いです。まだ2歳半ですが、こういうことはもっと小さな頃から手伝ていますが、好きなのかな?



本日の作品は久方ぶりに天龍道人の作品の投稿です。天龍道人の作品は贋作は多々ありますが、本物は市場に出なくなりました。以前は廉価でかなり出回り、かなり集まったのですが、いったいどうしたのでしょうかね? 

今回は以前に投稿した「葡萄図-17 天龍道人筆 その28」と本日の投稿となる「葡萄図-18 天龍道人筆 その29」の二作品の比較です。

葡萄図-17 天龍道人筆 その28
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2030*横700 画サイズ:縦1350*横510


 
葡萄の画家と言われた天龍道人の作品です。「鵞湖王瑾筆」とあり、鵞湖というのは「諏訪」の別称で、天龍道人が 61 歳で下諏訪に家屋敷を購入したと年譜にあり、それ以降の作品に姓の「王」と名の「瑾」を合わせて。「鵞湖王瑾」という組み合わせの署名がみられます。



「天龍道人」という署名 というは、70 歳頃からのようです。印章には「天龍」と「王瑾」の白文朱方印が押印されています。



本作品の「鵞湖王瑾筆」という書体の署名は70歳になる前の作品に見られ、晩年の独自の作に比べると若さが見られます。



流れるような描きっぷりはみずみずしさで溢れています。



淡彩筆力が流れるが如く、この時代の代表作でしょう。

二作品目は枯淡の域の作と言われている85歳の作品です。

葡萄図-18 天龍道人筆 その29
紙本水墨軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1340*横664 画サイズ:縦345*横560


 
賛には「蕉鹿院法印天龍公瑜写寫 子時年八十有五歳」とあり、85歳時の作と推察されます。印章には「天龍」と「公瑜」の白文朱方印と朱文白方印が押印されており、左下には「□□□□」の印が押印されている。

 

興味深いのは画位である法印を天龍道人が賛に用いているかどうかで、今までの作品ではない記述です。



「□□院法印」のように「法印」と名乗っていたとすると新たな発見となります。



天龍道人の作品に長条幅の作品が多い中で本作品のように横に長い作品というのも特異です。



上記の作品がみずみずしいのに比較して85歳頃の作品は枯淡の域を示していると評されています。



よく観ると実に巧い。



天龍道人の「葡萄図」はもっと評価を受けていい画家ですね。



軸先は陶磁器のようです。



「□康院法印天龍□□写寫 子時年八十有五歳」・・資料などの年表では85歳とされるのは享和2年(1802年)ですが、「子時」と記述されているところから文化元年(1804年)の作と推察されます。実際の年齢と2年ほどのズレがあるようです。

みずみずしい作品と枯淡の作を比してみましたが、解りましたか? ま~、解りにくいでしょうね、「みずみずしい作品と枯淡の作」とかはマニアックな人の評だと思います。小生は正直なところたいした違いはないと思っています

漆器のようなもの、年季の入った漆器は、磨くと新たなみずみずしさをたたえますが、どこかに古さを感じさせる渋みが出てきます。これも永年、漆器を手入れしてきた人にしか解らないものです。



菊 福田豊四郎筆 その58

$
0
0
今回の帰郷でも刀剣を数振りほど手入れのために帰京に際して持って帰りました。さて、手入れする価値がありや否やはあろうかと。その点をプロの意見を聞いてみたいと思います。

さて鍔の整理はそろそろ大詰め・・、頑固な赤錆は徐々にとれてきてはいますが、まだまだです。



鍔については郷里でも蒐集家にいい作品を見せてもらいました。多くの蒐集家の蒐集の対象は細かい細工の施されたものが多いようですが、小生は無骨な、飾り気の少ない鍔が好みです。 



さて郷里出身、もしくは郷土に縁の深いの画家で、本ブログにたびたび紹介されている作品に福田豊四郎、寺崎廣業、平福父子、倉田松濤、蓑虫山人の作品があります。とくに福田豊四郎は父と友人ということもあり、当方には大作はありませんが、福田豊四郎の作品蒐集は小生のライフワークのようになっています。

今回の帰郷で福田豊四郎の22歳の頃、修行時代の作品を入手することができましたので紹介します。

菊 福田豊四郎筆
紙本水墨淡彩 軸先 共箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



今回の帰郷で入手した作品のひとつです。福田豊四郎の入手ではなじみの骨董店からの購入です。今回は色紙「残雪の社」、額装「対岸の村」と共に3点購入しました。



作品の落款には「大正丙寅秋日 平安画人」とあり、大正15年(1926年)福田豊四郎が22歳の時に京都で描いた作品と推察されます。



福田豊四郎は大正8年、小坂町立小坂高等科を卒業し、画家を志して京都に出、鹿子木孟郎の塾に入りましたが、間もなく親の反対で一旦帰帰郷しています。。



大正11年再び上京し、川端竜子に師事、さらに翌12年京都に戻り、土田麦僊に師事し、この頃から豊四郎の号を用いています。



大正14年京都絵画専門学校に入学、昭和3年同校選科を卒業。同年の秋、上京して旧師川端竜子に師事しています。よって本作品は京都絵画専門学校に在席し、土田麦僊に師事していた頃の作であろうと思われます。



非常の初期の頃の作品で遺っている作品が少ないと思われます。骨董店の店主もこの頃の印章は知れていないとのことで、資料的な価値が高いと推察されます。

京都に在住しており、遠い東北出身ということで「奥州」や「陸奥」という印章を使用したようです。ちなみに土田麦僊は新潟の佐渡出身です。

  

この当時の作品で共箱である点も貴重です。

 

作品としては未熟で、見るべきところは少ない作品ですが、初期の作品を蒐集することは次の作品蒐集につながることも多く、蒐集する側にも非常に貴重な作品です。

ネットオークションなどにはほとんど真作の出品のない福田豊四郎の作品ですが、郷里にはファンもいて、数多く作品が遺っています。今回の帰郷でも蒐集家から良き作品をいくつか見せていただきました。

生意気なようですが、美術品の詳細な点は美術館でいくら見ても身につくものではありません。実際に手にとって共箱、箱書き、軸装、絵の筆致などを見せてもらうことから知識が始まります。これは絵も陶磁器も同じようです。理屈や写真では説明に限界がありますが・・・。そうそう鍔や弁当箱も同じかも、そして仕事の然り。

西王母之図 寺崎廣業筆 その45

$
0
0
日本のサッカーは我が認識以上に弱いと以前に記述したが、今回のオリンピックやワールドカップの予選では早くも露呈してきています。原因はサッカーに関わる日本人の人格の低さにあるという当方の私的がどうも的を得ているようです。今回も審判のせいにしているようですが、人格の低さ・・、それゆえまったく組織力が生かせないのです。

これは民間の会社組織も同じです。人格の低い人間の集団は会社の組織力が全く生かせないものです。懲罰主義、会議ばかりの時間割、教育・委任のないトップダウンのおしつけがましい方針、さらには発注先との癒着など・・。


さて男の隠れ家のぐい吞の続編です。

 

洒落たデザインの作。



今右衛門となると柿右衛門。

  

酒井田柿右衛門は商売上手。かなりの作が本人作ではなく工房作品。こちらも工房作品? 落款や印章に違いがあるらしいが当方はあまり詳しくはしりません。



あまりにもビジネスライクな陶芸家ゆえ十四代柿右衛門は小生は蒐集対象とはしていません。



三右衛門というのをご存知でしょうか?



十三代を三作品揃えて販売したこともあったようです。こちらの柿右衛門は十四代ではなく十三代です。膳に食器揃いに当方であるのは十三代画多いようですが、稀に十二代があったかも?



さて本日は初期の頃の寺崎廣業の作品です。寺崎廣業は「その45」となりました。徐々に系統立てて作品が整理できるようになってきました。

西王母之図 寺崎廣業筆
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2180*横635 画サイズ:縦1250*横500



落款部分には「甲午夏日写 宗山生廣業 押印」とあり30歳(1894年:明治27年)頃の作品と推察されます。この頃の作品が遺されているのは非常に珍しいかもしれません。

  

同じ年の冬に描かれた作品が本ブログで紹介されています。下記の作品がその作品で、上記写真右がその落款と印章です。本作品の印章は「廣業」の朱文白丸印が押印されています。

桃下唐人図→酔李白図 寺崎廣業筆 その24
絖本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入 
全体サイズ:横290*縦1180 画サイズ:横170*縦225

廣業の「業」の字が二本線の場合は俗に言う「二本廣業」で、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間に描かれたといわれていますが、本作品はさらにそれ以前の作品と思われ、「廣」の字も馴染みのある字体と違います。他の所蔵作品「酔李白図」と同一落款であり、同一時期に描かれた作品です。

線がかたくまだ稚拙な点はあり、ひと目見たときには本作品が寺崎廣業?と思われる作品かもしれません。



まだ未熟とはいえ美人画としての名を上げていた頃でもあり、代表作品「秋苑」(1899年 東京国立博物蔵)は本作品から5年後の作となります。

寺崎廣業の美人画には贋作が多くあり、さらには版画、印刷作品などが数多く見受けられます。



美人画以降の、この頃の寺崎廣業の作品は加速度的に絵が上達していきます。努力の画家と称せられる由縁でもあるのでしょう。



画題も挿絵のような美人画から優雅な美人へ、そして風景画へと移行しています。



書き込みも非常に細密になったかと思うと、すっきりした画風へと変化します。



狩野派から近代画風へ、そして洒脱な画風へと・・。



晩年は多作となり、席画のような作品を乱発して後世には大衆画家と呼ばれ、不評を買うようになり、現在は人気は下火です。



それはまるで江戸時代の谷文晁と重なる部分があるように思います。寺崎廣業、谷文晁、十四代酒井田柿右衛門のいずれも多作であったことは共通しています。乱発な多作はいけませんね。


男の隠れ家の床

$
0
0
男の隠れ家の床にはたまには額装の日本画を飾ってみました。手前の大鉢は誰の作品かは解りやすい。



こちらもまた男の隠れ家の床。



こちらの男の隠れ家には小点の作品と手桶の作品。陶磁器の作品は荒川豊蔵の箱書き、といえば誰の作品かは解りやすい。小点は霊峰富士。

軸の箱印章は下記のとおり、右写真は表具元。 

 

本日の公開は短期間。

庭 小松均筆 その4

$
0
0
自然豊かな郷里。



虫が飛び交う中を男の隠れ家も散策?



「これからの季節はこういう膳はいかがかな?」、「うん、いいね。」と男同士の会話。



板目を描いています。通常は生地の板目を出して薄く漆を塗ったものが多いですが、それは本当の高級品ではありません。



出来のよいものは描いています。絵も修練を積んだ作品で、現代の蒔絵師のようにへたくそな絵ではない。



包装してある一枚一枚の包装紙を捨ててはいけません。こちらの変形盆も板目を描いています。



20人揃いは少ないほう、40人揃い、50人揃いとあったもの。



生地の木、塗も厚い。



こちらの京蒔絵は20人揃いで絵が全部違います。本膳、汁膳、汁碗と揃い。



銀は変色しやすい。



こちらは銀吹という今は無い?技法。祖父の特注品。



前にも紹介した作品。



銀が取れてきているが、現在は補修が可能なのだろうか?



下手な絵の蒔絵の多い高級らしき漆器。これらの作品のほうが品格があっていいし、実用的です。

本日は小松均の水墨画です。表具をしていない状態ですが、このように表具をしていないから模写とか、贋作とかきめつけないほうがいいでしょう。
庭 小松均筆
紙本水墨 まくり
画サイズ:縦495*横505



本作品を遠目に見たときは印刷かな?と思いましたが、肉筆に相違ありませんでした。



小松均の水墨画はたしかに一種独特ですが、このような作品を観たのは小生は初めてです。



真贋を別として、どうやって墨一色で描いたのであろうか?



いろんな筆致があります。



大原三千院の庭? 苔寺? 京都・大原の仙人といわれた画家・小松均。天才と言われた土田麦遷に師事し、横山大観の応援もあって、スケールの大きな生命感あふれる絵を描き、画壇で確固たる地位を築きましたが、60歳を超えたころから、これまでの画風を一切捨て、京都大原に庵を結び、水墨画の世界にのめりこみました。そこからは、まるでマグマが噴出するように、名作・傑作を生み出します。



ちょっとやそっとでは描けそうにない水墨画です。小松均は川端画学校卒業し、土田麦僊に師事しています。福田豊四郎と共通していますが、画風はまったく違います。



小松均の水墨画は、あくまで写実主義に立脚し、実景を把握しようと努め、現場に小さな小屋を建て、そのなかで何十日も風雪に耐えながら写生に励んだそうです。



小松均の描き方には特徴がああり、首はまったく動かさず、紙と実景を同時にみつめ、目玉だけを動かしながら筆を運ぶそうです。猟師が照準を合わせて引き金を引くような緊張がそこにあったとか。



最近紹介した「なまづ」の印章(右写真)との比較です。

 

多種多様の作品を生み出した小松均ですが、その中でも水墨画は「水墨画の近代」を観させてくれる画家の一人でしょう。

対岸の村 福田豊四郎筆

$
0
0
男の隠れ家の盃の続編です。ところで「盃」、「お猪口」、「ぐい呑」の違いってなんだろう?

調べてみると

*****************************

お猪口:言葉の由来は「ちょく(猪口)」という言葉からきていて、ちょっとしたものを表す「ちょく」や安直の直と関連すると考えられています。お猪口の大きさはぐい呑みに比べて小振りで、徳利とセットでついてくるようなサイズのものがお猪口と言われています。素材は陶磁器製のものと言われていますが、酒器はガラス製や木製のものも増えていますので、現在に至っては陶磁器製に限るというものではないでしょう。

*****************************

骨董ではお猪口はやはり磁器のもので徳利とセットを指しているように思います。

*****************************

ぐい呑みの言葉の由来は「ぐいっと呑む」「ぐいっと掴んで呑む」といったような所から来ているとされていますが、定かではありません。
サイズはお猪口よりも大きく、言葉の由来とされている「ぐいっと呑む」という言葉から想像できるようにぐいぐい呑みすすめるような大きさのものを指します。素材は特に限定されていません。

*****************************

「盃」は両者の総称か? よって盃の陶器の箱書きには「お猪口」はない?



木村芳郎の青釉の鶴文です。



二代目加藤春鼎の志野焼。



二種類の志野の盃です。



白志野と鼠志野。

 

どちらかがいいかはお好み次第。



さて。本日は福田豊四郎の作品ですが、このような福田豊四郎氏の作風は非常に珍しいでしょう。

対岸の村 福田豊四郎筆
紙本着色額装  福田文鑑定シール
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



もともとは軸装で合ったのではないかと骨董店主の説明してくれました。



今回の帰郷では三点の福田豊四郎氏の作品を購入しましたが、もっと欲しい作品はありましたが、予算がなく断念。



白い薔薇の色紙、山を描いた8号程度の作品など・・。



東京などでは滅多に作品が出回ることのない画家の一人ですが、郷里では意外に目にするとこが多く、骨董店以外にも蒐集家から良い作品を今回の帰京でもみせていただきました。



落款や印章から晩年の作品と推察されます。



本作品には福田豊四郎の奥さんの共シールがあります。奥さんの「福田文」のシールは非常の珍しいが、福田豊四郎氏が亡くなった後に、小生の母に贈られてきた作品集には「福田文」のサインが記されています。

 

友人であった父と福田豊四郎、父が亡くなり、お世話になった人への記念に配った色紙を描いた下さったのは福田豊四郎氏であり、母と姉は福田豊四郎氏が入院し見舞ったことも・・。なにかと縁があった福田豊四郎氏といまこうして私とは少なからず縁があります。

夏景山水図 寺崎廣業筆 その47

$
0
0
先日紹介した「氏素性の解らぬ作品」に水指の塗蓋が届きました。家内に依頼しておいたら2,3日で届きました。



変則なサイズでなければ、インターネットですぐに購入できるようです。落とし蓋でも同じです。価格は数千円で入手できます。



蓋があるだけでなんとなく品が良くなった気がしますね。水指、建水に稽古用になら見立てられる作品を見つけるのは愉しいですね。その中からさらに正式な場でも用いられる作品を見つけられれば禍福ですね。そうふたつの福・・・・。

さて、本日は郷土の画家で本ブログでもおなじみの寺崎廣業の作品です。

夏景山水図 寺崎廣業筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2060*横620 画サイズ:縦1260*横500



状態がちょっと悪いのですが、本作品を購入した理由のひとつは印章の確認資料してです。



本作品と同一印章には本ブログで紹介された「達磨之図」、「楊柳観音図」(二本廣業 1903年 明治36年)、「雪中山水図」の三作品が他にありますが、「雪中山水図」(野田九甫、鳥谷播山鑑定)については印章に違和感がありました。



ちょっとでも印章に違いがあるとすぐに贋作という御仁が多いのですが、その点では私は早計、かつ贋作としての参考に大いになると思っています。明らかに違う引用は贋作としてもいいのですが・・・。



以前に本ブログで紹介した作品である「雪中山水図」(野田九甫、鳥谷播山鑑定)ともう一作品がどうも贋作ではないかというのが当方の結論です。



「もう一作品がどうも贋作ではないか」という点については後日また。



橋本関雪、竹内栖鳳の作品は作品そのものが贋作を製作しやすく、横山大観、上村松園の贋作は出来そのものが難しいので落款と印章の資料引用の前に贋作と判明しやすいようです。



寺崎廣業、平福穂庵、平福百穂もまた贋作を製作しやすいかもしれませんね。なかなかどうして寺崎廣業の作品も奥が深い

ちなみに本作品は落款に力強さが乏しく贋作と判断される方もおられるかもしれませんが、真作と当方では判断しました。

Viewing all 2938 articles
Browse latest View live