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庭 その2 小松均筆 その5

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日本列島を立て続けに台風が襲うなど、日本列島の亜熱帯化は徐々に進みつつあるようです。庭に降った雨も水がはけない状態が続きましたので、対策を家内は考えてるようでした。



改修した倉庫のほうへ流れ込んでくる水が問題なようですが、小生が考慮してすでに考慮して縁側の土間の勾配を外勾配にして対策を打ってあるのですが、そのせいで余計に庭に溜水するようです。暗渠の設置が必要でしょうとコメントしておきました・・。



というブログを書いているうちに今週の日曜日に植木屋さんが測量しに来て、次の日にはもう工事開始らしい。「はや!」

ということで本日は小松均の「庭」という作品の「その2」です。

庭 その2 伝小松均筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱入
画サイズ:縦470*横500

相変わらず「まくり」の状態です。ふたつの作品を並べてみました。



共箱もなにもないので今回も「なまづ」の作品の印章を中央にして比較してみました。



模写? それにしても良く描けています。



描いたのはやはり大原三千院の庭でしょうか?



そのような立派な庭とは比較になりませんが、展示室や茶室から見える我が家の庭の保全におおわらは・・。



どうも息子は現場監督しているらしい。一日で工事完了!

暗渠より枯れ池のほうに勾配を取り直したらしい。池の下には排水暗渠があるのでそれはそれで正解だが・・。今回の家内の手回しの早さには驚き



息子には「おもちゃ」よりも迫力があったらしい。

忘れ去られた画家 深巌古廟之図 甲斐虎山筆 その2

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休日には近くの図書館に行ったついでに、公園にあるSLを息子を見せに連れて行きました。



看視の方に「中に入らないでください」と注意されました

鍔は「その9」となります。



鉄の錆付いた感触はSLと同じ? 「透銀杏文瓜形鉄地」かな? 作品の名称というのは難しいものです。



本日の作品もまた渋い味の作品です。

深巌古廟之図 甲斐虎山筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱入
全体サイズ:横435*縦2170 画サイズ:横315*縦1390



新たな描法の南画の世界です。



「深巌古廟」・・・?? どこだろう? 山水画だけでなく画題というものはわかりにくい時が数々あります。もっと解りやすくして欲しいとそのたびに思いますが・・。



甲斐虎山の作品はたまにインターネットオークションに出品されています。本作品もインターネットオークションで落札しましたが、マニア?には根強い人気がある画家かもしれませんが、現在は「忘れ去られた画家」の一人でしょう。



不動立山、不染鉄らもまた・・・、一部の収集家しか知らない画家でしょう。



インターネットオークションでは著名な画家には手を出さずに、「忘れ去られた画家」を落札すると思いのほかいい作品が入手できるようです。



「忘れ去られた画家」とは誰? というのが難しいでしょうね



ただし、あくまでも出来の良い作品を選ぶことがいずれにしても肝要です。数点いい作品を入手するなら、「忘れ去られた画家」の作品を「共箱、表具の状態が非常に良い」という条件で入手すると良いでしょう。



真贋の目利きを磨きたいなら、ある程度真贋相俟った画家を研究するのも良いでしょうが、、あまりお勧めはできません。10点のうち、1点だけでも真作という心積もりなら良いでしょうが・・。魑魅魍魎たる世界に足を踏み入れることになります。



賛には「深巌古廟 虎山 押印」とあり、箱書は「乕山人深巌古廟図」と題され、箱裏には「叟簡自署 押印」とあります。右下には遊印が押印されています。

  

箱書などもしっかりしているのがよろしいようです。

  

いずれにしてもこの世は魑魅魍魎たるものばかり、それを避けては生きられない。他人に、家人になんと言われようが鉄の如く強い信念と精神力が必要らしい



桜井の別れ 蓑虫山人筆 その9

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銀座にある刀剣店に立ち寄ってみたら、拵えの修理が終了しているとのことでしたので、受けとってまいりまいした。



切羽部分が不完全であったものを今回修理した拵えです。「切羽」・・・、切羽がつまると刀が抜けなくなるのが「切羽詰まった」の語源のようです。鍔を抑えている座金なようなものです。



「相槌を打つ」、「しのぎを削る」、「頓珍漢」も刀剣用語が語源のようです。骨董というより、趣味はたくさんのことを教えてくれます。趣味を持つと持たないでは知識の巾は大いに違うかもしえません。当方のようにマニアックな知識ばかりも困りものですが・・。





NHKの大河ドラマで真田父子の「犬伏の別れ」が話題になっていますが、もっとも有名な父子の別れは 楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」です。

その別れに際して楠正成は形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を楠正行に授け、今生の別れを告げたそうです。よって本日は刀と「桜井の別れ」の作品紹介です。



桜井の別れ 蓑虫山人筆 その9
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横455*縦1760 画サイズ:横335*縦1130



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「桜井の別れ」は、西国街道の桜井の駅で楠木正成・正行父子が訣別する逸話。桜井の駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。



建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、20分の1ほどの軍勢しか持たない新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。



その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳(一説では20歳頃)の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。



その後正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦った。正成の嫡男だけあって、南朝から期待されていたという。足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破っている。

住吉浜にて足利方を打ち破った際に敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰した。この事に恩を感じ、この合戦で楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられている。

楠正行は正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)において足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害して果てた。嘉暦元年(1326年)生まれだとすれば、享年23。但し、享年に関しては諸説があり、前述の通り、父の戦死時に20歳前後だったとすれば、享年は30歳前後となる。

楠木正行は「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。


左写真:皇居外苑にある楠木正成像   右写真:櫻井之驛址にある父子別れの像

 

明治維新の尊王思想の模範とされ、その誠忠・純孝・正義によるとして、楠木正行は明治13年(1880年)には正一位を追贈され、楠木正行は明治9年(1876年)に従三位を追贈された。さらに明治22年(1889年)には殉節地の地元有志等による正行を初め楠木一族を祀る神社創祀の願いが容れられ別格官幣社として社号を与えられ、翌明治23年(1890年)に社殿が竣功し正行を主祭神とする四條畷神社が創建された。さらに明治30年(1897年)には従二位が追贈された。

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蓑虫山人については本ブログで何度も紹介していますので説明は省略します。

 

最近になり日曜美術館で紹介された蓑虫山人ですが、まだまだ忘れ去られた画家の一人でしょう。

生死や家族との別れも、人生の非常な試練も気丈に乗り越えられる者を「もののふ」というのかも、日本人なら「もののふ」になりたいものです。刀剣類を見ていると「もののふ」になったような気がしてくるから不思議です。だから危ないのかも、「きちがいに刃物」・・・

鼠之図 西村五雲筆 その8

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机上だけで横柄にコスト交渉してはいけません。スケールメリットとかギブ&テイクとか、他社との比較データだとかのみでコスト交渉する人がいるようですが、技術・設計検討、互いの立場尊重のない調達は人の恨みを買うだけです。いわばどこかの野党の党首選の女性みたいなもので、現場も見ずに横柄に下請けいじめする輩が最近多い。骨董でもそういう人にはガラクタしか集まらない。

さて、今年の夏に息子が初めて足を踏み入れた男の隠れ家。興味津々?



これは桑で出来ている五客揃いの煙草盆。探すともっとあるかもしれません。

きちんと当時のままの布で包まれています。当時のままの布や紙袋は掛け軸の共箱やおもちゃの箱のようなもので保存しておくと良いでしょう。ただ実際に扱ってみると解りますが、作品の出し入れに際して紙や布は破れやすく残っているほうが珍しいものです。

自宅で宴会が多かった頃は近所の女性の方が手伝いに来て、扱いが荒っぽいことも多かったようです。今の人は扱い方すら知らない人がほとんどでしょうね。

現代では煙草盆も無用のもの、何に使ったいいっでしょうか?



高足膳。こまめに手入れしていないとこれもまたカビや収縮で壊れてきますが、これはかなりの高級品で漆が厚く塗られて丈夫なほうです。出来不出来が保存期間に大いに影響します。塗りの良くない作はすぐに器が割れたり、漆が剥がれてきます。出来の良い物は漆を磨くだけで新品同様に蘇ります。



漆器は「JAPANN」と海外から評価され、これらは印籠や蒔絵に比べて、今は粗末にされていますが、そのうち貴重品となります。家内は扱いに慣れているので、早速手伝ってもらっています。ただ休暇の度でのこのペースなら10年はかかりそう・・・

さて本日は掛け軸の作品の紹介です。掛け軸の収納時の紐の仕舞い方は、通常は丁寧ならばぐるぐる巻いてもいいのでしょうが、正規の仕舞い方も覚えておいたほうがいいと思います。

紐の長さがいい加減な表具師もいますので、紐の長さが合わないと無理なときがあります。小生もちょっと間違えて覚えていたようです。略式の結び方や掛け軸の巻き方も知らない方が多い昨今です。



正規の箱の結び方と称してもいくつかあるようですが、一番ビューテフルなのはこれだと思っています。ただ紐がきちんとしたもので長さがあっていないといけません。

本日は西村五雲の作品の紹介です。

鼠之図 西村五雲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:縦1210*横465 画サイズ:縦340*横413



西村五雲は生来病弱(糖尿病であったらしい)で、官設展などの大きな展覧会にはあまり出品しておらず、大作や作品数も少ないので、知名度は高くない画家ですが、動物の生態を生き生きと捉える絵を描き、平和でのどかな動物画を得意とし、その繊細で高度な写実力は、現在でも高く評価し続けられています。

本ブログでは「その8」となりましたので、西村五雲の略歴は下記に記しますが、詳細は省略します。



本日は「納豆」の話。我が家も週に2,3回は納豆食。

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納豆は健康に良いとされていますが、

1.納豆菌には腸内での病原菌の発育を抑制する働きがあり、ブドウ球菌や、赤痢菌、チフス菌などに対して抗菌作用を発揮します。

2.納豆菌には血栓を溶かす強力な酵素・ナットウキナ-ゼが含まれています。この酵素で脳の血管が詰まるのを防ぎボケ防止になります。

3.納豆菌にはさまざまなビタミンを作る効果がありビタミンK群も豊富に作ります。ビタミンKは骨粗鬆症の薬として認可されています。

4.納豆菌には発ガンを抑制する何らかの成分が含まれているということがわかっているらしい。
(動物実験で、マウスの左右の鼠輕部にエ-ルリッヒ腹水ガンを移植し、2~3日後に右の鼠輕部だけに納豆菌を注射したところ、右の鼠輕部にはガン細胞が増えていなかったか、あるいは半分しか増えていなかったことが明らかなった。)

5.納豆菌にはアルコ-ルの代謝(利用と排泄)を促進する作用と、毒性の強いアセトアルデヒドを抑える働きがある。納豆菌は二日酔いや肝臓の予防にも最適です。

6.納豆菌には活性酵素がたくさんあり、これが消化活動を活発にし、食物せんいと一緒になってお腹の中を清掃してくれます。

7.納豆菌には体内で皮膚や粘膜を正常に保つ美肌作りに欠かせない成分となる種々のビタミンも生産する効果があります。また肌荒れや吹き出物の原因となる便秘の解消にも効果があります。

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上記のがん細胞の実験以外の鼠との関係記事

「納豆菌の胞子に強い血圧上昇防止力があるということのようです。またネズミによる実験ですが、納豆菌に含まれる成分を慢性すい炎を起こしていたネズミに与えたところ、改善したという実験報告があります。」

ついでに鼠は縁起物について

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大黒天と鼠

大国主命は、スサノオ命から3番目の試練として、荒野に向けて放った鏑矢を取って来るように言われる。矢を探して野の中に入ると、スサノオ命は野に火を付け、大国主命は野火に囲まれて窮地に陥る。

その時、一匹のネズミが現れて、「内はほらほら、外はすぶすぶ。」(内はホラ穴だ、外はすぼんでる。)と告げる。大国主命が、その穴に隠れて火をやり過ごすと、ネズミは探していた矢をくわえて来た。こうしてネズミの助けにより、大国主命はこの試練を乗り切ることができた。

大黒天仏教の神である大黒天は、後に大国主命と習合して、七福神としても祀られるが、ネズミを使者としている。ネズミが使者とされる理由については一般に、大黒天の乗る米俵や、ネズミが大国主命を助けた事に由来するといわれる。しかし、中国や西域では毘沙門天(びしゃもんてん)がネズミを眷属としており、大黒天は毘沙門天とは非常に近しい関係にあったので、ネズミとの関係は日本以前に遡るとも言われる。

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要は鼠は大黒天の使い、富をもたらすらしい?



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西村五雲:明治10年京都に生まれる。本名源次郎。23年岸竹堂に師事する。30年と32年に全国絵画共進会で連続して四等賞を受賞する。

30年に師竹堂が没後、竹内栖鳳に師事する。33年新古美術品展で三等賞、36年には第5回内国勧業博覧会に「残雪飢狐」で褒状、40年第1回文展で三等賞と次々に受賞を重ねる。

明治45年画塾を設け、大正2年京都市立美術工芸学校教諭となる。大正9年帝展委員、13年市立絵画専門学校教授となる。大正13年画塾を晨鳥社と命名、後進の指導に当たり新進作家を輩出する。


昭和8年帝国美術院会員、9年からは珊瑚会展、春虹会展、七弦会展などにも出品する。昭和13年京都で没。享年62歳。



竹内栖鳳の弟子で、文化勲章受賞の西山嶧章と双璧とされています。

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ついでに脇にある亀さんは北の角の守り神。



骨董品などはすべてが縁起物・・、縁起物が集まらないと人生も豊にはなりません。恨みばかり買う輩はどうなるかは自明の理。



建物の角には縁起物をと、ときおり展示作品を掛け買えています。



ちょっとした息抜きの場の東京の男の隠れ家、最近はやたら洗濯物干しや祖父の昼寝が多く、小生は週末はいつも掃除機かけ。

洗濯物や布団から綿ごみが出るようで・・



早春 寺島紫明筆 その2

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家内が最近読んでいる本について、家内が話をすることが多くなり、例えば「漆の材料は最近は国産の漆じゃないらしい。」などと衝撃的な話をしています。その本は読み終わったようで週末には小生の机の上に載っていました

日本古来の文化の今後について興味深い提案があるようです。日本古来の文化について知らない日本人が如何に多いかということも・・。ということに関連するかどうか知りませんが、本日は掛け軸の扱いについてです。

掛け軸の大敵にシミというのがあります。先日紹介した「狩場の曾我 植中直斎筆」と同じ画家の作品で以前に紹介した下記の作品もシミがひどい作品のひとつです。 



湿気が多いところに長期間放置するとこのようなことになります。染み抜きで取れるかどうかは微妙と思われ、多少は跡が残るようですが、まずは染み抜き処理するにはかなりの費用がかかります。

 

シミの発生は根本的には湿度管理が行き届いた環境で保管するしかないようで、一般的な保存ではいつかは発生してしまうようです。

本日の作品もそのようなシミが発生した作品です。美人画でのシミ発生は致命傷になりますね。

早春 寺島紫明筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横660*縦1425 画サイズ:横510*縦430



漆器のカビ、刀剣の赤錆、そしてなによりも美人画の顔のシミは作品の命とりになります。



とくに絹本に描かれた作品のシミは奥まで入り込んでいる可能性が高く、取れにくいと聞いています。



捨て難き作品か? さて如何にすべきか? じっくりと作品を値踏み?しながらの判断・・・・。



共箱、太巻き、表具もきちんとしていながら、どういう保管方法をしていたのやら。



掛け軸を桐箱の中で絹布に巻いてることがありますが、これはよくないと聞いたことがあります。紙で巻くほうがよいとか。たしかに本作品は絹布で巻かれていました。高価な作品ほど絹の布が付いていることがあります。



掛け軸の扱い方、保存方法はよく覚えていたほうがいいようです。時には衣服用の防虫剤を掛け軸の箱に入れておく暴挙もありますから・・。衣服専用の防虫剤は掛け軸の保存には良くないようです。きちんと掛け軸用の防虫剤を使ってください。





田家の春 寺崎廣業筆 その48

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本日の作品は今回の帰郷で知人から譲っていただいた作品です。



少子高齢化で廃れ行く地方ですが、文化は息づいています。知人が「こういった作品を今後どうしたらいいのだろう」という話をしてきました。

田家の春 寺崎廣業筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 鳥谷播山鑑定箱 二重箱
全体サイズ:縦1960*横562 画サイズ:縦1086*横416



郷里におられる亡くなられた収集家のお孫さんから依頼があり、祖父から受け継いでいた作品を見てあげたところ、その御礼に本作品を譲り受けたものです。

小生は祖父の方とは生前に僅かながら交流があり、お孫さんにもまた現在いろいろとお世話になっているという縁もあります。



作品に箱には「大正壬戌仲夏」とあり、大正11年(1922年)の鳥谷播山の鑑定となります。他に見させていただいた作品に「菊花秋日」、「倣応挙雪景山水図」、「瀑布図」、「李白観瀑図」などがあり、いずれもしっかりした作品で、特に前述の二作品が優品でした。



いい作品はあるところにはあるものです。小生の所蔵する作品などは足元にもおよびません。



小杉放庵、山口蓬春、田崎草雲、平福百穂など筋の良い、いろんな作品を見せていただきました。



次から次に作品が出てくるので、夕食に遅くなり家内から催促の電話・・・



骨董蒐集家というものは寝食を忘れるもの・・・ 



人間、寝食を忘れるものがひとつやふたつあったほうがいい。



刀剣にしても鍔にしても、陶磁器にしても、掛け軸にしても、興味や知識のない人にはその楽しみはわかるものではありませんが・・。



本作品・・・、亡くなった家内も現在の家内も酉年。息子と小生は巳年

さて贋作の多い寺崎廣業ですので、まずは間違いの無い蒐集家の作品でも一応、確認しておく必要があります。

 

資料の乏しい画家でもなんとかして資料を揃えておく必要がありますが、ただし資料ばかり優先して、作品が乏しいと「論語読みの論語知らず」の疑心暗鬼ばかりの蒐集家になりかねませんので自戒しております。

 

「買え、売れ、勉強しろ!」が骨董の基本。

  

もうひとつ「贋作・駄作は捨てろ!」、作品のレベルを上げていくためには必要なことのようです。

氏素性の解らぬ作品 高取掛合釉扁壷花生 

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機械をいじるのが好きな年頃? iPad,スマートフォン、デジカメでパシャパシャと写真を撮りまくり、再生して喜んでいます。スマートフォンは小生より扱いが慣れている? 恐ろしき2歳半・・




我らが書斎のCDをいじり、ジャズ鑑賞??・・・。



音楽を聴きながら竹内栖鳳の蛇の作品とともに・・・、父子ともども巳年。生まれ変わった小生は常に息子と同い年



さて、本日は蛇の皮のような釉薬の作品です。たしか蛇の皮の文様の名がついた釉薬の名があったけど何だっけかな? 蛇文??

高取掛合釉扁壷花生 時代不詳
合箱
巾194*奥行き71*高さ230



本作品は製作年代が不詳です。それほど古いものではなさそう?ですが・・・。

本日は高取焼についてはまったくの素人ですので、高取焼の歴史を調べてみましたので記述します。

高取焼についてはたしか本ブログでは二作品目になり、近代の高取焼については一作品目で記述したようですので近代については省略します。

一概に高取焼の古陶磁器といっても、髙取焼は幾度も移窯・増窯を経てきた窯で、その変遷に伴い作風にも違いが見られるため、これらの変遷は古髙取、遠州髙取、小石原髙取、東山髙取、西山髙取の5期に分類されています。



まずは「古高取」についてです。

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古髙取:永満寺宅間窯

髙取焼の第1番目の窯で、藁灰釉や飴釉の掛かった、素朴で力強く、伸び伸びとした作品が伝世しています。窯が開かれたのは西暦1606年のころとされる。窯址の調査報告書によると大小の碗類や皿、鉢、壺、甕、片口、瓶、擂鉢などの器も多く出土しています。釉薬の特徴は、窯変により釉薬が海鼠(なまこ)の体表を見るように青白く呈色する例を数多く見受け、「青海鼠」の名称で呼ばれています。
窯址は福岡県直方市大字永満寺宅間(福岡藩の出城の一つだった鷹取城の南山麓あたり)にありましたが、現在は石碑のみがそこに窯があったことを示しています。

古髙取:内ヶ磯窯

髙取焼の第2番目の窯で、慶長19年に鷹取山の南ふもとの内ケ磯(直方市頓野内ケ磯釜の尾)に移転した。「内ケ磯窯」は豪放かつ大胆な織部好みの意匠で、ロクロによって成形された真円にヘラで歪みを加えており、今日の視点から見れば芸術性豊かで興趣をそそる志向があるが、その奥に隠された思想により御用窯廃絶の憂き目に遭遇する事になった。歪みや箆削りなど作為性を強調する桃山様式の焼物が多く伝世しています。窯の構造・規模は、焼成室14室、焚口1室をそなえた段階式連房登窯で、全長四6.5メートルの大規模な窯です。髙取焼研究に重要な影響を与えた窯で、現存する髙取焼の中でも、最も多くの作品が伝わっています。出土陶片から窺えるこの窯の製品は多岐に及び、茶入や茶碗、水指などの茶陶関係の製品以外に、大小の皿、鉢、擂鉢、壺、片口、徳利などの日常雑器、陶人形、漁具、筆立、水滴など生活全般にわたっています。窯址は、鷹取山の北を西流する福地川の渓谷を数キロメートル入った尾根の上に位置したところにありましたが、その場所にダムを建設することになったため、大規模な発掘調査を行った後、状態を損なわないよう埋め戻され、今はダムの下に沈んでいます。

古髙取:山田窯
元和9年、黒田長政が没すると、髙取八蔵(八山)らが朝鮮への帰国を願い出て二代藩主忠之の勘気を被り、寛永元年(1624)、扶持を召し上げられ嘉麻郡上山田村へ蟄居させられました。このころ朝鮮側から、文禄・慶長の役で連行された朝鮮人を返還せよとの働きかけが行われていた。八蔵もこれに応じたものと考えられる。少数の門弟らとともに、日常身辺の焼物を焼いたと伝えるのがこの山田窯で、藩の庇護がなくなったため、高級茶器などは見られず、日用の雑器が多い。作風は李朝の特徴を残した、大らかで豪壮なものであったと伝えられます。窯址は、山田市大字上山田字木城にあったとされていますが、現在は戦時中の石炭採掘により、一帯はボタの捨て場所となり、完全に埋没しています。


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上記のニケ所「永満寺宅間窯」と「内ヶ磯窯」で作られた陶器をとくに「古高取」と総称する場合もあるそうです。



次は「遠州高取」についてです。

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遠州高取:白旗山窯

山田村へ蟄居を命じられてから6年、寛永7年(1630)、帰参を許された髙取八蔵(八山)らは、
穂波郡合屋川内中村(現在の飯塚市幸袋大字中字野間)の白旗山の麓で新たに築いたのが白旗山窯です。この頃、八山父子は京都伏見の小堀遠州のもとへ茶器制作の指導を受けに行き、生産の主体は茶器におかれます。遠州好みの「綺麗寂び」を体した茶陶を生産したので、この時代の作品を遠州髙取と呼び、染川・秋の夜・横嶽など多くの名品が生まれました。

「遠州高取」になると器は端正になり、古高取とは対照的に瀟洒、風流人好みの作品が焼かれるようになった。華やかな釉調と軽やかな姿形をした瀟洒な茶陶は、当時の国焼にはない独自の特徴をそなえており、特に釉薬の美しさは、江戸時代の京都の名工野々村仁清も写したと伝えられます。窯址は、白旗山の北麓にある撃鼓神社(別名高宮権現)の境内の馬場脇あたりに位置していますが、現在は周りに民家もあるため発掘調査を行った後埋め戻されています。

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端正な高取焼になると当時ほど現代では魅力はないと感じるのは小生だけではないと思います。



次は「小石原高取」についてです。

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小石原高取:小石原鼓窯

寛文5年(1665)、窯は小石原村の鼓に移転、またその後は藩主の御用窯として福岡城下にも窯が開かれ、ニカ所で操業された。初代八蔵重貞亡きあと長男八郎貞清病弱のため次男八蔵貞明が二代を継ぎ、上座郡鼓村釜床(現在の朝倉郡東峰村大字小石原鼓釜床)に築いたのが小石原鼓窯です。この時代に焼かれた作品は、一般に「小石原髙取」と呼ばれています。明治4年(1871)、廃藩置県にともない藩窯としての役目を終え廃窯しましたが、昭和32年(1957)に髙取静山氏により再興を果たしています。窯址は、現在も髙取家(小石原鼓釜床)の家屋の裏山に遺っています。
「小石原高取」の頃になると技術は爛熟し、「遠州高取」より更に繊細な作風となっている。なお、小石原高取は民窯の小石原焼に多少の影響を与えている。今日の作風は小石原高取以後の技法で、使用する釉薬は多い。個性的な釉薬が多く、高取黄釉、春慶釉、高宮釉、道化釉、ふらし釉、真黒釉などがある。

小石原高取:小石原中野窯

小石原鼓窯が開窯した後も白旗山窯はしばらく存続しており、八山の嫡子で病弱だった八郎右衛門貞清の次男八之丞が住居していて、そこから鼓村へ掛け勤めを行っていましたが、寛文9年に小石原村中野(現在の東峰村大字小石原皿山)へ移り住み、廃藩の明治4年まで小石原鼓窯と東皿山窯へ掛け勤めを行いました。小石原中野窯の原窯とされる中野上の原窯の窯址は現在も小石原皿山に遺っており、草で覆われてはいますが、その古跡を窺うことができます。

大鋸谷窯

元禄元年前後に福岡城の南(早良郡田島村抱大鋸谷)に築窯され、元禄17年の廃窯までおよそ20年間活動したのがこの大鋸谷窯です。この窯では藩主綱政みずから筆をとって茶碗に絵付けを行い、あるいは素焼きの茶器を上方に送って宮崎友禅に好みの下絵を描かせたといいます。確かな所在や出土遺物についてはほとんど不明で、伝存する陶片の多くは細かい破片の状態でしか残っていないようです。

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最後に「東・西山高取」です。

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東山高取:東皿山窯

享保というと幕府による「享保の改革」が有名ですが、諸大名の財政事情も厳しかったようです。このとき早良郡麁原村上の山(現在の福岡市早良区西新)に増窯されたのが東皿山窯で、一般に「東皿山」と呼ばれています。主に茶道器を製造する窯場でした。この時から廃藩置県までのおよそ150年間にわたって活動し、髙取家の歴代は小石原鼓窯に半年、東皿山窯に半年と掛け勤めしていました。現在、窯址付近には人家が建ち並び、その古跡を窺うことはできません。

西山高取:西皿山窯

次に東皿山の西に増窯されたのが西皿山窯で、一般に「西皿山」と呼ばれています。この窯は一般の庶人を対象とした徳利、食器、甕、すり鉢等を製造する窯場だったとされています。

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廃藩置県により多くの御用窯が廃窯となりましたが、小石原中野窯は現在に至るまで生産活動を持続しています。



本作品の特徴は、まず器の形は李朝の影響を受けています。釉薬は朝鮮唐津のように掛け合わせです。銘などの作者の手がかりになるような痕跡はありません。



多少、落ち着きが悪く傾いていますが、それがまた味? 口縁には古いながら巧妙な補修の跡があります。



近代のよる作か?と思われますが、小生は気に入っています。いかにも朝鮮唐津という模倣のいやらしさはありません。



「李朝か高取か・・、なんだろう? 」と思うあたりが面白い。単に氏素性がわからぬだけでなく面白さに惹かれるのは私だけでしょうか?



さて、なにの花を生けたらいいのだろう?





忘れ去られた画家 渓山烟靄 結城素明筆 その3

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都知事にしろ、野党党首にしろ女性の方がトップの様相ですが、はたからみてその危うさを感じざる得ない状況です。部下や官庁を敵に回して手厳しくやることだけが目に付いて、長い目でみると部下や実働部隊の人心が離れているというやり方です。とくに野党の党首選に名乗りを挙げておられる方は政権時代にその実績があるので、官庁は誰も言うことを聞かないでしょう。もし党首になったら、分別の有る国民は誰一人投票しないことです。

豊洲の問題も今さらの感があり、もっと事前に経緯を確認して対処すべきことです。都職員を火だるま状態にして、自分だけ正義の味方では人心は離れます。本当に土知事を続け、都政を良くしたいなら、このような対処は疑問を生じます。トップはその前任者の為政にも責任はあると思います。


さてもう30年近く前、盛岡に赴任していた頃に作った水指。



素人が作ったものですから、ぴたりと合う蓋がないようで、いつか蓋を作りたいと思って持ち歩いています。



さて作品の入手に際してはその経緯をきちんと遺しておくことが不可欠です。相続税対策などの理由から遺さないという話を聞きますが本当でしょうか?

本日の作品は生前に骨董に関して指導して頂いた蒐集家、そのご子息から頂戴した作品です。形見分けみたいにして頂いた作品です。同様なケースで所蔵になる作品は意外に多いものです。

渓山烟靄 結城素明筆
絹本水墨淡彩絹装軸 軸先本象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:縦2270*横565 画サイズ:縦1325*横419



本作品は初夏のころの渓谷が爽やかに描写されていますが、今でも花輪線や秋田内陸縦断鉄道からよく見られる景色です。



結城素明については本作品で三作品目ですので、詳細は省略しますが、玉章の内弟子となった平福百穂と知り合い意気投合、両者に後年まで絵画技法上の共通性はありませんでしたが、終生無二の親友として交友しています。



このような関係から郷里には結城素明の作品がときおり見られます。



表具は「中村鶴心堂謹装」の札が箱に入っていることからこの店の表具と推察されます。



中村鶴心堂についてはインターネット上に「漱石の近所に住む中村豊という青年が、京都の経師屋へ修業に出るにあたり、西川一草亭に他につてがないので経師屋の紹介をお願いする、という手紙が取り上げられています。詳しくはそちらをご覧になっていただくとして、この青年は墨光堂で修業し、東京に戻り中村鶴心堂という店を開き、横山大観などの表装を手がける職人になりました。」という記事があります。

*最近の記事の「男の隠れ家の床」参照。



結城素明からの書簡も箱に同封されています。

  

この書簡から蒐集家のお父上が昭和18年に入手された作品であることが解りました。



現在では忘れ去られた画家、評金額に換算したら価格もそれほどでもない画家の作品、思い出はずっしりと重い作品。いつまでも遺って欲しいものと願いながら本ブログを綴る日々です。

昨夜の朝、奥様の訃報が届きました。

秋海棠 清水比庵・三渓画賛

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休日には家族でお茶道具屋さんへ、抹茶とお菓子の振る舞い・・・。



息子が抹茶を飲む。「おいおい、小指を立てるなよ!」



「美味しいね~」だと・・、「おいおい、緑色のヒゲ!」



さて、秋の気配になってまいりました。秋風を浴びながら家内と高取焼の花生に「花はなにを生けようか?」、「秋海棠なんかがいいんじゃない?」、「どこに咲いているかな?」と会話。

ということで本日は「秋海棠」を描いた作品の紹介です。

秋海棠 清水比庵・三渓画賛
紙本水墨淡彩扇面軸装 軸先象牙 共箱タトウ 
全体サイズ:縦1150*横444 画サイズ:縦290*横424



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秋海棠:夏から初秋にかけて草丈 70cm 前後に生長し、扁心形で左右非対称の葉を互生させる。この葉は長さが 20cm 程度と大きい。葉にはシュウ酸が含まれる。花期は 8〜10月。

花期になると茎の頂点から花序を伸ばし、2〜3cm 程度の淡紅色の花を咲かせる。雌雄異花同株で、雄花は上方に正面に向いて開き、中央に黄色く球状に集まった雄蘂が目立ち、4枚の花弁のうち実は左右の小さな2枚が花弁で、上下の大きな花弁のように見える2枚は萼。雌花には下方に垂れ下がった状態で下方に向いて開き、中央の黄色い雌蕊は3つに分かれ先はらせん状になっている。雌花も雄花と同様の花を咲かせるが、三角錐状の子房を持ち小さな花弁が1枚だけのことが多い。花が終わると、こげ茶色がかり羽が 3枚ある楕円形の実を付ける。この種子のほか、開花後には葉腋に珠芽を付け、それでも殖える。実を付ける頃には地上部は枯れ、球根で越冬する。

花言葉は、自然を愛す、恋の悩み、片思い、未熟。「片思い」はハート形の葉の片方が大きくなるところからといわれる

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「片思い」はハート形の葉の片方が大きくなるところからといわれるか・・・、なるほど。



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清水比庵:(しみず ひあん)1883年(明治16年)2月8日 ~1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。晩年は「今良寛」と呼ばれた。岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に生まれる。

高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。翌1909年に退官し、安田銀行に入行。1927年(昭和2年)に古河電気工業会社に勤務。翌1928年に日光精錬所に勤める。



処女歌集『夕暮』を「清水匕舟」の名で刊行する。1929年に歌誌『二荒』を創刊、主宰となる。1930年要請を受け栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の町長となり、日光の観光行政の基礎を作り上げた。1935年に、萩原朔太郎、岡本かの子、中河与一等を中禅寺湖畔に招き「慈悲心鳥を聴く会」を主催し、「歌人町長」と呼ばれた。この年、号を「比庵」に改める。

1939年に部下の不祥事により町長を引責辞任し千葉県市川市に移る。歌誌『二荒』が友誌の『下野短歌』に合併、その主宰となる。町長辞職後は和歌、書などの創作活動に専念する。戦後になると、1958年に日光市名誉市民となる。1966年宮中歌会始の召人となる。この時の御題は「声」であった。1968年に地方の歌誌であった『下野短歌』が全国的規模に発展し『窓日』と改称、その主宰となる。1971年に高梁市名誉市民となる。1975年に東京にて逝去。享年92。墓所は岡山県笠岡市の威徳寺。

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さて、清水比庵のこの賛、いまだに読めません。

「秋きぬて 涼をくれて ???」



清水比庵は4人兄弟の長兄。弟の郁は弁護士、浩は実業家、妹の章子は呉服屋に嫁いだが、浩は三渓の号で画を描きました。



比庵と三渓は川合玉堂の賛助を得た「野水会」で兄弟展を行い、のちに妹の章子も参加したそうです。

玉堂の死去により、「野水会」は終結しますが、比庵と三渓は、のちに奥村土牛、小倉遊亀、酒井三良の賛助を得て、「有山会」を創立し、兄弟展が復活しています。



その後も比庵と三渓の兄弟展は度々開催され、比庵が歿する昭和50年まで続き、比庵のライフワークと言える活動となります。

友人が下記の作品を所蔵しています。川合玉堂の鑑定登録番号もあるしっかりした作品です。

参考作品

秋の□ 川合玉堂画 清水比庵賛
和紙水墨賛画軸装 折補修有 川合修二鑑題箱 
画サイズ:縦318*横428



これもなんと読むやら・・・。

一昨日の夕刻から息子が高熱・・・、会食を中座し、その夜は添寝。朝には少し熱は下がったようだが、ちと心配。今までほとんど熱を出すことなどなかったので右往左往・・・。

表具を改装した作品 太巻きについて

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表具が痛んでいた作品を何点か修理を依頼していましたが、今回の依頼分が出来上がってきました。以前に紹介した「美人図 伝九条武子筆」もそのひとつです。九条武子は上村松園に絵を習ったていたことも以前に記述しています。

 

きれいな方ですね。やはり花の命は短いらしい。



上村松園に習ったということがうかがえます。



絵の具が剥落し始めているので、太巻きにしました。

「表具し直してもたいしてきれいになっていない?」(表具前の記事参照)・・・、「美人は欲深いものさ~、だから関わらないほうがいい、金がかるだけ。」



ところで太巻きというのはご存知ですよね。



ちなみに手前は壷屋焼の大皿。



以前に紹介しました作品です。



窯割れのある無銘の作品ですが、捨てがたい作品です。共箱や銘入りのある頃の金城次郎の作品より私は好きです。共箱や銘入りのある頃の金城次郎の作品は野性味が足りず、民芸作品としてとるに足らないと評価しているのは小生だけではないでしょうね。



これからは新規の作品蒐集よりメンテの必要のある作品について注力していきたいと思っています。

桐下唐美人図 寺崎廣業筆 その49

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休日は家族であちこちを歩き回りました。息子も健気に歩き通していました。



さすがに途中で「抱っこ!」。バス停に着いたら二入ともぐったり・・・。



桐下唐美人図 寺崎廣業筆
絹本水着色軸装 軸先ガラス 鳥谷播山鑑定箱
全体サイズ:縦2200*横655 画サイズ:縦1290*横510



印章は他の所蔵作品「西王母之図」と同一印章の朱文白丸印の「廣業」印。

 

鑑定は「昭和十二年八月」とあり、鳥谷播山が60歳頃の鑑定箱書です。「廣業」の落款が「三本廣業」となっていることから明治40年前後頃、日露戦争の従軍を終えた頃の作品と思われます。

 

*日露戦争に従軍以降に落款を「二本廣業」から「三本廣業」に変えたのではなかろうかと推察しています。



疲れて説明文を書く気力なし 美人はただ鑑賞するのみ、関わらないことです。























寺崎廣業の作品は美人画も含めて踏破、もとい淘汰する必要があるようですが、その結果は後日また・・・。

資金に余裕のある者でもなく普通のサラリーマン、古くから家にある品々は家業をたたんだ際に手放しており、骨董を生業とする者ではなく、文系というより理系を生業とする小生が蒐集したる作品ですので、閲覧の方々にはご不満もあろうかと思いますが、愉しんでいただけたり、蒐集の参考になれば幸いです。






紅葉小禽図 伝金島桂華筆 その2

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息子はバスで出掛かるのも大好きです。自家用車で出かけるよりも、いろいろと息子の将来のためになるように思います。



以前に紹介した膳を家内の要望により男の隠れ家から持ち帰りました。無論、保存のためのメンテナンスの目的もあります。



「蔦流紋九尺足付黒塗膳」とでも題すればいいのでしょうか? 琳派の日本画を見るようで、品格のある好きな作品のひとつです。



膳にも一の膳、二の膳、三の膳、さらにはお吸い物膳と各種あり、さらには絵柄によって季節、黒塗・朱塗のよってと膳といっても各種ありますね。



十客揃いでありますが、製作当時は注文のよって50客を超えることあったのでしょう。通常最低20客揃いはあったと思われますが、まだ隠れ家にあるのか、別家や嫁入り先に分けたりして数が減ったのかは定かではありません。生業とした木材業ということもあり、保存箱は杉箱です。



このような漆器類も扱いに慣れた人が扱わないとよく破損したり、漆が剥がれてきたり、カビが発生したりします。脇で手伝う息子よ、よく覚えておきなさい。

さて、本日は秋の作品ということで、同じく帰省に際して探し出してきた作品の紹介です。

紅葉小禽図 伝金島桂華筆
絹本着色絹装軸 箱入
全体サイズ: 画サイズ:縦421*横421



本作品の印章は「秀光」を押印されております。



金島桂華の「垂桜」の作品と一緒に探し出してきた作品です。



勢いに任せて、ずいぶんと前に購入した作品です。



小鳥の表情が面白くて購入したように覚えています。



残念ながら共箱ではありませんので「伝」です。



若い頃はずいぶんと思い切りが良くて、品定めも中途半端でしたが、かえって今より良い作品を入手できていることもあります。

水墨山水図 甲斐虎山筆 その3

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「鍔 その10」です。



赤錆をとるのもこれが限度かな?



「なんだこれは?」という水墨画を描くのが甲斐虎山の水墨画の世界。まともな作品も無論多いのですが、それはそれでつまらないように思います。

積墨層巒飛泉図 甲斐虎山筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先 共箱入
全体サイズ:横640*縦1310 画サイズ:横510*縦410



箱書に「乕(虎)山積墨層巒飛泉図]とあります。「ん~」、相変わらず難解な画題です。

 

賛には「米壽乕山画」とあり、甲斐虎山が88歳(1955年 昭和30年頃)の作と思われます。箱裏には「斐簡自署 押印」とあります。右下には遊印が押印されています。

 

以前に紹介しました「深巌古廟之図(甲斐虎山 その2)」とは同時に描かれた作品ではないかと推察されます。



日本画の独特の墨絵の世界、独自の画法で著名なのは近藤浩一路、小松均など。一風変わった熟練の技の作品を時には飾って鑑賞するのも一興かと。



「積墨層巒飛泉図」は「積墨」、「層巒飛泉図」かと。



「積墨」:中国画の水墨画の技法名。すなわち幾重にも加墨すること。中国の歴代の名画を生んでいる技法。



「層巒」:重なり連なっている山々



暗くした床に飾るとしっくりきますね。闇の中に瀧の音が聞こえてきます。「GOOD!」

伝南方染付 草文染付沓茶碗

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家内が絵の具の筆を振り上げて、息子を追いかけてなにやら遊んでいるようです。



息子の手の跡のある作品?・・・。赤は金魚らしい。家内が製作する年賀状や挨拶状をまともに解る御仁がいるのだろうか? 今回の絵柄は暑中見舞いの葉書らしい・・・。

脇で騒がしい両者を尻目に本日は5月に郷里に帰省した際に、福田豊四郎の作品を購入したときに一緒に購入した作品です。

*本原稿は6月に製作したもの。

作品の箱書には「古染付」と書かれていましたが、小生は「古染付ではなく、南方でよく焼かれて染付ではないですか?」と骨董店のご主人に尋ねると怪訝そうな顔で「古染付ではないのですか?」と・・・ 古染付を正しく理解していないらしい。

南方染付 草文染付沓茶碗
合箱
口径122から07*高台径52*高さ78



沓状に歪んでいて面白いし、お値段も手頃なので購入しました。一万円也。



本ブログでなんども投稿しましたが

「古染付は中国,明代末期に民窯で作られた日本向けの染付磁器で古染ともいう。在来の中国磁器に比べると器形も絵付けや文様も自由自在で,型にはまらず,茶人に珍重される。中国,明末・天啓年間(1621~27)あるいは崇禎年間(1621~44)頃に作られ、江西・景徳鎮の民窯にて焼かれた染付磁器こという。」

というように古染付は定義が明確で「虫喰い」や「砂付高台」、高台内の削りに特徴があります。

ところでこのような記事を難しいという御仁は骨董には向いていません 骨董は一応は学問です。



古染付と本作品のような「南方民窯の呉須手」とは区別されます。

古染付はさらに

「高砂手・桜川水指・羅漢手の反鉢・魚形の向付など明らかに日本向けとされるものも含まれ、重厚なつくり、陶工の意匠を素直に表した飄逸みにあふれる文様」

が特徴で、味わい深い古い染付です。茶人に親しまれることによって日本では珍重され、ほとんどの遺品は日本にのみ伝わっています。



結論として本作品は古染付とは区分される「南方民窯の呉須手」の作品です。

古く見せるために?高台内も洗っていなかったようです。骨董は古いままがいいとうことで、洗わずに売っていますが、蒐集する側はすぐに洗うことです。贋作は洗うと化けの皮がはがれることが多く在ります。



東南アジアに多く渡っている中国南方の輸出品で、明末から清朝の作?



以前はマニラ、バンコクなどに豊富にあった下手な染付碗です。

ただ現在は古いものは少なく、キズモノを補修して売っているようです。本作品もそのような部類の作品ですが、ひっつきにより沓状の茶碗となっており、抹茶用の茶碗としての体をなしているのが救いとなっています。



茶碗として使えるものがよほど少ないのでしょう。繕いも丁寧にされています。ただし誂えられた箱は寸法が合っていないようで本来のものではないでしょう。

盃の部類にはまだまともそうな作品があります。



この手で茶碗の大きさがあるといいのですが・・。



骨董の鑑定というのは面白くて、高麗なら「高麗であるか、否か」が大問題で、茶碗して使えるかどうかは二の次になることがあります。



本来は器としてどうかが焦点な筈が、どこかずれている鑑定が多いようです。



骨董市での鑑定をしている骨董商などはその最たるもので、目利きではなく、鑑別者です。料理や茶道を知らないのでしょう。



家内に茶碗の鑑定を頼んでみてもらったら「高麗ではない、土が違う、箱が違う」と散々だったようですが、そんなことは東方は最初から知っていて、茶碗として味のあるいいものかどうかが聞きたかったのですが・・。



さて、この三碗・・、読者はどう見ますか? 骨董屋にとっては打ち捨てるべき部類で、せいぜい数千円で売られている品々です。



南方の染付は意外に面白いと思いませんか?



皿にはさらに味わい豊富な作品があります。日本で製作した安南手写しでいいものがないようです。



これらは組み合わせでは使い方が様々ありそうです。



最近、この手の作品が小生の手元に増えてきています。ともかく資金が無いのでガラクタが参集・・。



山となった皿が崩れそう・・。

家内と息子の合作のような品々・・、といったら怒られそう




まくりを表具した作品 観桜美人図 伝三木翆山筆

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床を片付けてどの作品を飾ろうかと思うとき・・・・、



理屈抜きに誰が見ても「きれいだな」と思える作品を飾りたくなるときがあります。

観桜美人図 伝三木翆山筆
絹本着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1400*横540



本作品は「まくり(未表装)」の状態での購入です。「まくり」だからといって、模写と決め付けるのは早計で、藤井達吉、天龍道人、平福百穂、福田豊四郎の作品をまくりの状態で当方では入手しています。



季節は春ですが、迎える秋の侘しさに耐え切れない心情の時には春の華やかな作品もいいものです。



人というものは決まりごとだけで生きてはいけないものですから・・。



辛い思いを心の奥底に抱えながら、笑って生きていくものです。



得てして骨董の世界や茶の世界は決まりごとだらけですが、それでは息がつまります。



そんな作品は拵えもきちんと艶やかに?



暗くして照明をあて、刀剣の拵えを手前におきました。



息子も「きれいだね~」。



まくりの状態の作品は屏風の剥がした作品でない限り、うぶできれいな状態ですので、表具すると見違えるようになります。これも掛け軸の愉しみのひとつです。表具という日本文化を愉しみましょう。


表具を改装した作品 釧雲泉 床に対して長い作品

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我が家の日課は犬と金魚への食事の世話です。息子とホームセンターの金魚すくいで無料で戴いた金魚二匹・・。



朝から愛犬は吼える、金魚は水面でパクパクと食事の催促・・、朝の息子との餌やり。「ずいぶん太ったね。」「パパみたいだね」  たしかに金魚すくいではすくえない大きさ、倍以上になった。



さて床の天井が低い割りに長さのある掛け軸が掛けられないという事態があります。そのときは軸に枕木のようなものを当てるといいでしょう。



当方も1階の展示室は階高が低く、長さのある掛け軸は高さが足りなくなります。代わりに2階はかなり高く床を作り、2メートルを超える長さの掛け軸も掛けれるようにしてあります。



長さのある掛け軸を1階の床に飾るときは写真のようにしてあります。



もちろん絵が途中で切れるとうまくありませんが、たいがいの作品がこれで鑑賞できるようになります。



枕木はホームセンターでも作れます。熱心に鑑賞している息子は「これだ~れ?」



「それはパパだよ」、「ふ~ん、おじいちゃんだよ。」・・・ ちなみに息子の鑑賞する姿勢、目線は正しい。

表具を依頼した先方が、なんと太巻で箱を拵えたようで・・・



ま~、いいか。

同時期に購入した釧雲泉のもうひとつの作品は箱がない状態でしたのでニ重箱を誂えました。こちらも表具は痛んでいましたが、うぶなままで味のある表具でしたので改装はしておりません。



厳選したものを次の世代に伝わるようにするのが当方の役目、願わくは金魚のごとく実らせて伝えていくことでしょう

次世代は見込みがありそう?

丹霞和尚 伝前田青邨筆

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先週、台風が来る前に彼岸の墓参りを済ませました。息子は墓参りには慣れており?いろいろと手伝ってくれます。幼児と一緒では手伝いされると事がスムーズに進まず、時間がかかりますが、そこは鷹揚に構えるのが親の務めですね。何事も手伝いや自分でやろうとすることはやらせています。



拝むのも得意ですが、神仏混合・・・。



本日は何を崇めるものかという本質を問うた画題の作品です。

丹霞和尚 伝前田青邨筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先 鑑定箱入
全体サイズ:縦1400*横480 画サイズ:縦440*横320

手前はご存知〇次郎の作品。こちらは明らかな正真作品ですが、明らかな正真の作品は当方ではあまり投稿しておりませんのでご了解ください。

投稿作品の基本は真贋不明の作品が中心ゆえ、「ガラクタばかりという評」に対する当方の意地のチラリズム、一寸の虫にも五分の魂のようなもの?



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丹霞和尚:丹霞天然(たんか・てんねん。739年~824年)禅師は、石頭希遷(せきとう・きせん)大師の法嗣であり、大寒のとき仏像を燃やして尻をあぶったことで有名な和尚である。



平安初期、禅僧の丹霞和尚は、例年にない長い冬で遂に燃やす物が尽き、探し回ったあげく、一体の仏像を割って囲炉裏の焚き付けにしました。丁度その時、信者がやってきてびっくり仰天。



「これは罰あたりな!和尚、気でも狂ったのですか。」「やあ、見ておられたか。今、この仏像のお舎利(仏を火葬した骨・聖骨)を取っているところじゃ。」「和尚、冗談もいい加減にして下さい。仏像からお舎利がでる訳ないでしょう。」「おお、その通りじゃ。お舎利のでない仏様など、何がもったいないのじゃ。ただの薪と同じじゃよ。」という話が残っています。



木や物体を拝んでみても、何も起こらないのです。天地宇宙を創造した方を拝むことです。

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拝む物的な対象ばかりにとらわれてはいけないということ。人生も同じ、地位、金銭。名誉・・、それらような即物的なものより大切なものがある。



人は生まれてから、学校や会社でその大切なものを見失っていくもののようです。悲しいかな人間は必ずいつかは死するもので、それらはなんの自慢にもならないものらしい。まずは家族を大切にすることですね。そこから何かが見えてくるような気がします。家族ですらいつかはいなくなるのですから・・・、大切に。家族がいない方はつくることです。小生がいい見本

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前田青邨:(まえだ せいそん 1885年1月27日 ~1977年10月27日)は、岐阜県中津川市出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。

1955年(昭和30年)に、文化勲章を受章するなど、画壇・院展を代表する画家として長年活躍した。晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わった。その遺志は、青邨の弟子の平山郁夫等にも引き継がれている。

岐阜県中津川市に青邨から寄贈された本画や下図などを展示する青邨記念館がある。青邨の代表作の1つ「洞窟の頼朝」は2010年(平成22年)に重要文化財に指定された。

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茶室の床に飾っておいたら家内曰く「茶室に変なものが飾ってある」だと・・・・

なにやら鑑定箱に収められていますが、詳細については小生は知る由もありません。作品の教えが好きで購入した作品です。

  

骨董もこの教えに同じこと。金銭的価値なのか、審美眼を磨き真贋見極めが目的なのか、己の愉しみのためなのか、日本文化を後世に伝えるためなのか・・・。ビジネスや金銭では決してない当方の蒐集目的を見失わないようにしておきたい。

柳燕図 福田豊四郎筆 その3

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お盆前のことですが、近所の川で魚捕りをしていたら、川岸でカワセミの撮影をしている人がたくさんいました。自転車で帰ろうとしたら頭上を飛び交う鳥がいました。カワセミかと思ったら燕でした。そこで本日は燕の作品です。

*週末は出か桁ばかりで原稿作成が間に合わず、残っていた原稿に手を加えての投稿です。悪しからず・・。

柳燕図 福田豊四郎筆
絹本淡彩軸装 軸先陶製箱入
全体サイズ:縦1338*466 画サイズ:縦506*横350



本作品はまくり(表具をしていない状態)で姉から譲り受けた作品です。母から姉に結婚に際して持たせた作品と聞いています。



姉から譲り受けた作品では他に「百合」(同じく福田豊四郎筆)などがありますが、母曰く「せっかくあげたのに興味が無いのだからしょうがないね~」と・・。小生が表具しました。



この作品は福田豊四郎が本家に出入りしていた頃、祖母に頼まれて羽織の裏地に描いた作品だそうです。



祖母に依頼されて福田豊四郎が描いた作品はいくつか小生にも遺されています。扇子、袱紗などが多いようですが、晩年、祖母は看病してくれていた人やお見舞いの方々に多くの作品を差し上げたそうです。



いかにも福田豊四郎らしい愛らしく燕を描いた作品です。

頭上を飛び交う燕に祖母らの思い出が脳裏を飛び交います。

骨董はただの物、ガラクタではないようです。記憶と共に遺されていくものでしょう。小生の郷里とは遠く離れたしまった息子にはどんな記憶が刷りこまれるのでしょうか? *夏の休暇には今年も帰省することにしています。

*本投稿の原稿はお盆前に書いた原稿ですので、ご容赦願います。

まくりの状態の作品は作品蒐集には常に出会うものです。まくりの状態になぜなったのかは様々です。幾つかのケースを挙げてみました。

1.画家から直接書いて戴いた作品でそのままの状態。なにかのお礼や頼まれて描いた作品に多い。

2.屏風や襖から剥がしたままの状態。屏風や襖は痛みが早いし取り扱いがたいへんなのでこのケースは意外に多い。倒産などの家の売買に際してが多い。

3.掛け軸をさらに運搬しやすいように作品部分のみ切り取ったもの。戦争中の疎開や引き上げに際してが多いようです。

4.模写などの画家の習作。

いずれにしても何らかの理由で表具していない状態の作品をいい作品なら表具してやりたいと思うのが蒐集する者の思いです。

下記は天龍道人の屏風から剥がした作品と推察しています。最晩年の佳作と思います。



こちらはケース1? 88歳の力作。



最近は天龍道人のまともな作品は市場で見かけなくなりました。この90歳前後の驚くべき作品をなんとか遺してやりたいものです。

三幅、双幅は表具や箱の拵えに費用がかかるものですが・・

奥入瀬 近藤浩一路筆

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週末は皆で玄関掃除・・。お手伝いというより息子はなんでも親がやることを真似したがリます。



こちらは仕事がはかどらず(秋田弁で「はがいがね!」または「ひまずれだべ~」と言いますが・・・)、なるべく息子と一緒に家事をやります。そしてひとつひとつ諭すように教えていきます。ま~、ほとんど聞いてくれませんが・・。

さて、本日の作品は「奥入瀬」という画題に飛びついて購入した作品、我が郷里が画題ならと・・。

水墨画として名高い近藤浩一路ですが、もともと洋画が出発点で京美術学校西洋画科の同級生には親友となった藤田嗣治らがいます。

奥入瀬 近藤浩一路筆
絹本水墨着色軸装 軸先ガラス 共箱
全体サイズ:縦1350*横550 画サイズ:縦370*横405



奥入瀬で漁をしている? さていつ頃のこと・・・、ずいぶんと前の作品と推察できます。

今週は退任される方の送別会のために麻布で会食しましたが、東北の話で盛り上がり、八甲田、八幡平、十和田の温泉やゴルフの話となりました。ひなびた宿が多いですが、とてもいいところばかりだったと思い起こし懐かしくなりました。



近藤浩一路もまた画風の変化の激しい画家の一人です。



さて、手前の一輪挿しはどなたの作品か解る方はかなりの備前通です。銘は「ト」です。むろん真作です。



たしかにいつ頃描かれた作品でしょうか? 作品の落款からは若い頃の作品ではないかと推察しますが、箱書は後になって書かれたものでしょう。



二階の展示室にも掛けてみました。こちらは手前の作品はコバルト釉薬双魚文大皿ですが、むろん無銘です。壷屋焼において銘や共箱のある金城次郎の作品よりもよほどいいですね。



掛け軸は額装と違って空間の広がりをもって鑑賞できる日本固有の美学です。中国は表具がお粗末でその点でも劣るものです。普段は使わないですが、風鎮を飾ったり、手前に陶磁器や漆器を飾ったり、自由に愉しむといいものでしょう。

空間の広がりと追憶の広がりは掛け軸の鑑賞の心の広がりにつながります。

急な来客

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休み前日、倉庫改修を設計した大学の同級生の友人から、「夫婦で明日行っていい?」というTEL・・・。

前日の夜遅くから洗濯物や物干しの片付け

当日は朝から掃除、相変わらず息子の手伝い



一応、お薄をということでありあわせの道具類で急遽の用意・・・。



主茶碗は自作、替えもまた自作、恥も知らずに一丁前の箱書などもある



最近閉めたことのない障子、縁側が洗濯物干し場ゆえ戸袋から埃が・・・



床の飾り・・・、家内から軸について「品の良いのに替えなさい」と言われる始末



花は庭に無く、家内が畑から採取。



なんの花でしょう? 解る人は畑の通・・・。



家内と息子で最終チェック。



「ま~、いいかな」と息子。



案の定、「これ何の花?」



最初に小生が掛けた「品のない」軸は裏の展示用の床へ・・・。



お尻を出していては席には合わないということらしい



季節に合った当たり障りのない掛け物に交換、でもやっぱり掛け軸、陶磁器の類は友人には理解できなかったらしい。家内には「どうせ解らないからなんでもいいよ」と言ったのに・・・。

息子はいつものように女性の接待役



友人夫婦はこんな苦労を知らず、お薄を服し、展示室を見て、男同士でビールをたらふく飲んで、上機嫌?で帰宅しました

愉しんでくれたかな? 片付けた後は小生は酔っ払って熟睡・・・。

訪問を希望される方は少し早めの連絡をお願いしますね。

*床の花は「おくら」と「にら」、なみに花言葉は「「おくら」は「恋の病」と「にら」は「多幸」らしい。急な誂えでしたのであまり今回の席には関係なかったですが、「多幸」は良かったかな?
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