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動物園へ 虎之図など 大橋翠石筆

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息子と話していると「ゾウさん、知らない」と言う。どうも絵本やテレビで知っているが見たことがないということらしい。それではいざ動物園へ・・。



向かう途中の電車でIPADに夢中の息子、スマートフォンなどは小生より扱いが早い。恐るべし、2歳半・・。



動物園に入る前に腹ごしらえ、完食・・・。

動物園に着いて、「ほれ、あれがゾウさん」、「・・・・・」無言。



「ほれ、あれがライオン」、「・・・・・」無言。



刺激が強かったようで、息抜きに蝶を見学。驚くべき昆虫館、蝶が所狭しと飛び回っていました。



そして、これが虎。「・・・・・」無言。



息子が想像していたものより大きさといい、表情といい、きっと違ったのだろう。見聞きするものと現物がいかに違うかを実感して戸惑ったのだと思う。



「かわいい」とばかり思っていた動物たちが、滝のような小便をするゾウさん、傷だらけのライオン、威厳のある虎、これらを見て、かわいいと思っていたのが、実は「こいつは手ごわい」と感じたのかもしれません。



やはり現地で、現物を、現実をみることは大切なようです。檻でない動物園でよかったかもしれません。小生は坂道だらけの動物園を息子を抱っこして歩きクタクタでしたが・・。



帰宅後、「どれが好き?」と聞いたら「虎」と・・・。

そこで2階展示室は虎の絵の名人、大橋翠石の展示になりました。ん? 大橋翠石を知らない? 本ブログでは5回目ほどの投稿されている画家です。



大げさかもしれませんが、大橋翠石を知らないで日本画はおそらく語れないでしょう。大橋翠石に限らず、意外に系統立てて日本画を理解している御仁は稀のようです。



「私の好きな画題は神社仏閣です。」とか、「私の好きなのは琳派です。」とか、「私の好きな画家は竹内栖鳳です。」とか言う人に限って日本画全体への知識は乏しいものです。



好みや知識は広く持ったほうがいいでしょう。浅学では困りますが・・。



展示室のほとんどの作品が本ブログに投稿されていますが、下記の作品は未投稿作品です。

双虎之図 大橋翠石筆
絹本水墨着色軸装 軸先本象牙 東京美術倶楽部鑑定証 共箱 
全体サイズ:横633*縦2155 画サイズ:横500*縦1373

  

「東京美術倶楽部鑑定証」が付いていますが、信用していいものかどうか。いずれ売買しないかぎり不要のものです。今では下手をすると作品より高くつきます。

作品紹介は機会がありましたら、いずれまた・・・。

春暁図 寺崎廣業筆 その50

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休日には来年には入園する予定の幼稚園の運動会へ参加。かなり大きな幼稚園らしい。



入園前の幼児も参加できる種目があるらしい。家内が「ゆっくり走っていいよ」と諭したが「早く走る」と返答。



むろん一等賞などない。全員が参加賞。



郷里の住職から夜には電話があり、近々秋田市内の市立千秋美術館で生誕150年を記念して寺崎廣業展が催されるとの報告でした。

ということで本日は寺崎廣業の作品の紹介です。上京してから集め始めた寺崎廣業の作品ですが、50作品目となりました。そろそろ系統立てて整理する段階になりました。

春暁図 寺崎廣業筆
絹本水墨着色軸装 軸先 鳥谷播山鑑定箱
全体サイズ:縦2200*横655 画サイズ:縦1290*横510



落款と印章から明治40年頃の作品と推察されます。

  

本作品に押印されている白文朱長方印「廣業」の作品は数が多く、著名になりつつある頃、依頼されて描く作品が多くなった時期かとと思います。

依頼されて気軽に描くことも多く、その多作ゆえに大衆画家とも評され、今では評価も低く「忘れ去られた画家」の一人となった言えますが、郷里ではまだ前述のような展覧会が催されています。



一般的に蒐集家にはこのような展覧会はあまり勉強にならないのが現実です。作品が代表作ばかりで立派過ぎるきらいがあります。



望むなら贋作と真作を並べた展示とか、落款と印章の変遷とかという展示が蒐集家にはためになるのですが・・。



蒐集家は骨董屋の主人と半日ほど話し込むほうがよほど勉強になるようです。相手はこちらに作品を買わせたい、こちらは作品の良し悪しを値踏みするという切磋琢磨の場が・・。



そこに印譜集やインターネットの資料を持ち込んでくる輩には骨董屋さんは作品を売りたがりませんが、こういう輩が多いようです。 

描線に勢いが無いとか細かい点を指摘する輩も同じ。知ったかぶりは骨董世界では無知と馬鹿にされ、相手に対する礼儀をわきまえて交渉することが肝要です。値切り交渉も常識の範囲が基本で、経験からは値切らぬ人がいつもいい作品を入手しています。



最初の写真では黒くてよく見えませんが、手前は蛸を描いた作品です。



裏には「f」と「BL」とありますが、氏素性の解らぬ作品ですが、愉しめるのでときおり飾って愉しんでいます。



掛け軸の絵が寂しい?ので、この作品を手前に置きました。



贋作考 氏素性の解らぬ作品 貝葉草虫図 伝斉白石筆

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家内は育児ストレスにならぬよう極力で出かけるように心がけているようですし、小生は極力息子と一緒に居るように心がけています。この生活の微妙なずれ・・・・。

さて経験上から推察して、素人が手を出してはいけない分野に中国陶磁器と絵画があるようです。ネットオークション上にこれらの作品が溢れていますが、どうにもこうにも良し悪しが判断つきにくいものばかりです。



氷破文の青磁の碗? ここまで焼成できるのなら作家作品で充分通用しそうな作品です。原清並みの青磁の焼成です。実に美しいのですが如何せん手の持った時に重すぎるかも・・。



なにやら怪しげな箱に収まっています。あくまでも氏素性の解らぬ参考作品です。

  

中国の近代画家の作品も危うい。近代中国絵画には「木版水印画」という複製もあり、出版元の名前がない限り肉筆画との見極めが難しいし、たとえ肉筆でもそ近代作家名の作品のほとんどが模写のようです。

本日紹介する絵画作品もそのような作品のひとつかと推察します。

貝葉草虫図 伝斉白石筆
水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1850*横480 画サイズ:縦*横



「木版水印画」は「栄宝斎」が出版元ですが、通常どこかに「栄宝斎」と解る印があるはずですが、これを除去してしまうと判別が難しくなります。

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「栄宝斎」と斉白石:「栄宝斎」は印章や書画骨董などを販売する300年以上の歴史のある北京の有名店です(1672年開業)。現在でも「北に栄宝斎、 南に朶雲軒あり」という言葉がある位、中国・日本人等、多くの文人墨客が訪れることで知られています。

栄宝斎では店舗の目立つ所に斉白石の作品を飾り、同時にリーズナブルな値段で版画を作り、大量販売しました。それによって世間に斎白石の名が一気に広まりました。斎白石は、その恩を重んじ、「栄宝斎」に頼まれたことならすべて引き受けたそうです。他に頼まれたら しぶしぶ 絵を一点描いたそうですが、栄宝斎に頼まれたら、百点でも、無条件に描いたとのこと。

更に、「栄宝斎」独特の版画技法、「木版水印画」に作りやすい様、絵の構図や内容を考えたりして、栄宝斎に協力しました。この木板水印画は栄宝斎特有のもので古い歴史を持っています。

全て手作業で行われる印刷技術で、この方法で印刷された画は原作(肉筆)に酷似しており、本物との区別がつかないほどです。栄宝斎が確立した木版水印画技法は斉白石自身も、「自分の作品でも肉筆か木版水印画かの区別がつかなかったほどである」と最高の褒め言葉を挙げとのことです。

栄宝斎が手掛けた斉白石作品の木版水印画は、数百種類に及びます。斉白石は、栄宝斎取扱い作家の中で、最も作品数が多い作家で、後に業界内では、栄宝斎が「斉白石出版社」と言う皮肉めいたあだ名が付けられました。

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中国絵画として日本人が訪中に際してたくさん日本に持ち込んだ作品の多くがこの「木版水印画」とのことです。



ただしそうなる以前、日中友好の証として、またはお土産として 斉白石など有名作家の作品が日本人の手に渡っていることも事実です。



中国の書画が高い評価を受ける以前では、近代中国画家の作品が百貨店などで1点数十万円程の値段で売られていたそうですが、それでも数十万です。



斉白石の画法を学ぶ画家は多く、模写したり、それが発展して?贋作が横行しているとのこと。このような作品はプロでも見極めが難しいらしいです。



本作品もなにやら怪しげな箱に収められています。怪しげな箱は中国の贋作の真骨頂・・???

 

斉白石は75歳という年が厄年であると占いを受けたため、以来75歳のときから実年齢より2歳年を取った落款を使います。「借山吟館主者 白石老人八十八歳時製在京華(都という意味) 押印」と記され、88歳とありますが、実際は86歳と推察され、1950年頃の作となりますが・・・。



1950年の斉白石が居住していた中国北京などの状況は、1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧しました。



斉白石は1950年に中央文歴史編纂所館員任ぜられ、毛沢東と夕食を共にしています。その際だと思いますが、82歳の作の「鷹」や「篆書対聯海竜の世界、云是鹤ふるさと」を毛沢東に贈っているという資料があります。



なお中華人民共和国政府はその年の1950年、中央博物院の南京部分を現在の「南京博物院」へと名称変更しています。



箱に記された「民国期斉白石作 南京博物館蔵 押印」はこの史実と矛盾する?

ここまで調べることで、すでに購入費用の元はとったと思われ、あとは飾って愉しむ分には問題ない? 愉しむ分には申し分のない二作品ですが・・

福聚大黒天尊像 伝平櫛田中作

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今週の初めは新入社員の内定祝いの懇親会。まだまだ初々しい社員予定の学生を見ていると、これから本当にご苦労さんと言いたい。人生は生半可ではない道のり・・・、嬉れし涙より悔し涙、悲しい涙が多いのが現実。「がんばれよ。」と心で思いながら、伝えたメッセージは「社会人までの残りの時間を大いに愉しめ!」でした。

さて作品が数多くあっても、当方で手に入らない作品がふたつあります。藤田喬平作の「飾筥(かざりばこ)」と平櫛田中作の「福聚大黒天尊像」です。両作品ともたくさんの作品が出回っていますが、コレクターの垂涎の作品でもあり、お値段が高い。それにちょっと俗っぽい・・・。

それでも藤田喬平作の「飾筥(かざりばこ)」は光を当てて鑑賞したらいいでしょうし、平櫛田中作の「福聚大黒天尊像」は祀っておくとご長寿の御利益がありそうですね。

今回、「福聚大黒天尊像」の作品が入手できましたので紹介します。ただしあくまでも「伝」です。
*「福聚大黒天尊像」と「福寿大黒天尊象」と題名が2種類あるらしい。

福聚大黒天尊像 伝平櫛田中作
共箱 二重箱
高さ115*幅115*奥行100



昭和26年(1951年)、79歳頃の作。



人に求められることが多かったためか数多く制作されており、像高が10cmにも満たない、同型の作品もあります。

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平櫛 田中:(ひらくし(又は ひらぐし) でんちゅう、1872年2月23日(明治5年1月15日)~1979年(昭和54年)12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛倬太郎。旧姓は田中。井原市名誉市民(1958年)、福山市名誉市民(1965年)、小平市名誉市民(1972年)。

岡山県後月郡(現・井原市)の田中家に生まれる。1882年(明治15年)に広島県沼隈郡今津村(現・福山市今津町)の平櫛家の養子になったが、大阪時代までは旧姓を通称に用いていた。1893年(明治26年)に、大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし木彫の修行を行う。



1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員となった。1944年(昭和19年)7月1日帝室技芸員。同年、東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授に招聘され、第二次世界大戦後も教壇に立つ。明治末期から大正初期にかけて、東京藝大の基礎となる東京美術学校を創立した岡倉天心に師事した。東京藝大構内の六角堂に田中作になる「岡倉天心像」が安置されており、天心を敬愛していた田中は藝大勤務時代には登校のたびに、この自作の像に最敬礼していた。

1958年(昭和33年)畢生の大作「鏡獅子」を戦中のブランクを経て、20年をかけて完成する。モデルの6代目尾上菊五郎はすでに故人となっていた。1962年(昭和37年)、文化勲章受章。1965年(昭和40年)、東京藝大名誉教授となった。

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絵付は平野富山によると言われていますが、本作品の詳細は定かではありません。

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1972年(昭和47年)、田中の出身地である井原市が主催し平櫛田中賞を設けた。100歳を超え長命であったが死の直前まで創作を続けたという。没後、田中のアトリエには30年以上続けて制作できるだけの彫刻用の材木があった。この材木を利用して、井原市の田中美術館に上野桜木町のアトリエが再現された。田中は1979年(昭和54年)、東京都小平市の自宅で108歳の長寿で大往生した(享年は数え年。満年齢だと107歳)。広辞苑に載っている実在の人物の中では最も長命な人物でもある。



田中は写実的な作風で、高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並び近代日本を代表する彫刻家の一人である。代表作は国立劇場にある「鏡獅子」や、「烏有先生(うゆうせんせい)」「転生(てんしょう)」「五浦釣人(いづらちょうじん ※地名はいづらであるが、田中自身は音読して、ごほちょうじんと呼んでいた)」など。また、田中語録と呼ばれる名言も多く残している。

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田中語録と呼ばれる名言についてはご存知の方が多いと思います。

「不老 六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から わしもこれからこれから」

108歳という長寿であり、歳晩年まで制作意欲が衰えなかったというからすごいですね。

「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」というのも有名です。

前述のように「福聚大黒天尊像」の作品は人気があるため数多く存在し、その作品には当然贋作、複製も数あまたあります。また贋作ではなく絵付をした平野富山の作品、金色などの金属製の作品もあります。

平野富山の見事な作品は郷里の友人が所蔵しており、今年の夏には見させていただきましたが、さすがに絵付けが細かく見事でした。

人気の高さは下記の作品でも明らかです。

参考作品解説
福聚大黒天尊像 平櫛田中作
共箱 高さ160*幅150*奥行140

 

昭和40年(1965年)94歳の作で、友人が思文閣に売却した作品。作品の大きさも程よく10年前後前で200万で買取したと記憶しています。とても欲しかったのですがとても手が出ませんでした。それが蒐集欲のトラウマになっているかもしれません。現在はそこまでは高くないと思います。

 

福田豊四郎の「社」の作品を飾り、本作品は廊下に奉っています。



元気で長生きできるかな? こういうものは真贋よりも祈りが大切

これからの社会人人生、ともかくいろんなことがあるであろうが、丈夫で健康で長生きしたほうが勝ち、願わくは愉しく・・・。

寛政浅絳山水図 伝釧雲泉筆 その12

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日本の文化財は建物重視、古い民家を観に行っても実に味気ない。床の間には掛け軸も無ければ下手すると調度品も無い。生活そのものが無いので、実に味気ない。

男の隠れ家も冬は寒いし、夏は虫が入りので、木目の金属サッシュなどを取り付けたら文化財に指定候補からすぐに外されました。生活できない建物のみが文化財らしい。役所らしいばかばかしい決まりごとがあるらしい。

せめていい建物の床には掛け軸の一幅でも欲しいものだが建物と美術品とは管理が違うらしい。というか建物の専門家は掛け軸を詳しく知らないようです。ま~、つまらない掛け軸を飾られても興ざめしますしね。

建物は使ってなんぼのもの。新しいものとふるいものの協調させるもの。日本の茶室は天井は低いし、入り口は狭いし、冬は寒いし、いつまで過去の踏襲ばかりの茶室を作るのか! 

古い家元制度のままで、茶会は家元にちなんだものお道具ばかりですね。つまらまくて家元の色濃い茶会など二度と往こうとは思いません。日本の伝統文化は廃れる一方です。

さて当方の蒐集ではかなりの確率の低い真作率の釧雲泉の作品ですが、ようやく整理がつきかけています。著名な南画の作品は松本清張の「真贋の森」(浦上玉堂の作品などの贋作製作のストーリー)の内容の如く素人ではまったく手の出せない世界です。

今までの作品を整理してみると下記のような分類になります。まだまだ篩にかける必要があろうかと思いますが・・。

釧雲泉の落款と印章
A.真作断定作品(12作品/28作品:43%)
NO1. 「秋渓蕭散」 
NO2. 「浅絳山水画双幅」
NO3. 「浅絳山水図 江山肅雨」(NO6と同一印章) 文化4年(1806年)47歳
NO4. 「浅絳山水 雲仙普賢岳」
NO5. 「浅絳山水図」     .
NO6. 「文化丙寅浅絳山水図」 文化4年(1806年)47歳
No7. 「寒江独釣」     
NO8. 「文化甲子重陽山水図」 文化元年(1804年)45歳
NO9. 「寛政癸丑浅絳山水図 」寛政5年(1793年)35歳
NO10. 「文化年間 越後江山図 1810年前後の最晩年の作      
NO11. 「竹石図」 雲泉遺墨集の図44の夏景山水で押れている物と同一印章(未確認)


未鑑定(今回の紹介作品 2作品)
NO12.13. 「寛政浅絳山水図 その1 その2」(冒頭写真 左が「その1」、右が「その2」) NO9「寛政癸丑浅絳山水図」と同一印章?


B.真作とはできない(2作品)
NO101.「秋渓覚句」NO8.「文化甲子重陽山水図」に「丹青□」の印章は一致。 参考印章の「火食神仙」は一致しない。
NO102. 「浅絳山水図」(1802~1806頃)参考印章の「火食神仙」は一致しないが、「NO101.秋渓覚句」の印章に近似する。

NO101.と102は同一人物の作者の可能性があります。No7.「寒江独釣」も同じことが推察されますが、出来の差から同一人物によるものではないと判断されます。

No7.NO101.102は入札目録に掲載された作品と同一の構図でしたが、この美術倶楽部の入札目録に掲載された作品の多くが真贋については信憑性に問題がありそうですので、真贋の根拠資料からは除外されるものと判断しました。

C.贋作 レベル1(5作品)
NO21「蘭図」    
NO22.「楼閣浅絳山水図」
NO23.「丙寅浅絳山水図」(文化2年 1805年 46歳)
NO24.「浅絳山水図」
NO25.「山水図」 他の所蔵作品と印が一致しない

D.贋作 レベル2(9作品)
NO31.「水墨山水図 」
NO32.「夏山山水図」  
NO33.「水墨山水図」
NO34.「石榴ニ叭々鳥」   
NO35.「浅絳水墨山水図」    
NO36.「浅絳山水図」
NO37.「富嶽図」    
NO38.「蘇鉄山水図」  
NO39.「浅絳山水図」

少なくともB以降の作品は参考資料として後は廃棄となります。

本日は「NO12 NO13」の作品の紹介です。「NO12」は実に簡便な作品です。通常はとるに足らぬ稚拙な作と思われ、単独であれば分類Dになる作品にしかねない作品ですが、ちょっと判断に困っています。

寛政浅絳山水図 その1&その2 伝釧雲泉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2075*横452 画サイズ:縦1306*横320



寛政は寛政13年までと期間も長く、製作時期を特定できませんが、とりあえず画風から初期の頃と推察し、仮題として「寛政浅絳山水図」としました。



「NO13」は初期の頃の作風が見られますが、「NO12」はおとなしい・・・。



釧雲泉の作品は寛政の頃の若い頃の作品が評価が高いと言われており、評価が高いがゆえに贋作も生まれる可能性も高いと推察されます。



単独で作品を見ると「NO13」は真作、「NO12」は贋作と分類されそうですが、両方ともに贋作、もしくは真作という可能性があります。



「NO12」本作品はかなり簡略化された描写の作品ですが・・。





若描きの作品についてはまだまだ当方に資料は乏しく、稚拙とはいえ一概に贋作と判断しておりません。



印章がまったく違うものであればと思うのですが、両方とも贋作か両方とも真作か・・。NO9、12、13の印章が一致しています。



たしかに「NO12]ではもっと大胆な構図が釧雲泉の初期の作の持ち味と思います。



前述のように他の所蔵作品NO9「寛政癸丑浅絳山水図」(1793年 寛政5年)と同一印章が押印されています。

 

表具や箱、軸先はなかなかいいものを揃えており、現在の表具は同一人物による表具の可能性があります。ちなみに出所は違います。



魑魅魍魎たる骨董の世界、真贋などせせこましいことのないようにしたいのですが、これが魅力でもあることに変わりないのも事実です。

同時期と思われるNO9「寛政癸丑浅絳山水図」は真作。NO13「寛政浅絳山水図 その2」は真作に限りなく近い? No12「寛政浅絳山水図 その1」は?? 

「ん~?」悩ましい、ちょっとまだ頭が整理できていないので、本日はここまで・・・・・・・・・・・・・。整理できそうで整理できないのが真贋の森・・。日本の絵画を見極めるのは実に難しいがこれもまた文化探求 悩みつくして厳選した掛け軸を飾ると実にいいものです。

双虎之図 大橋翠石筆 その5

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「さ~風呂だぞ」といつものように息子と家内に声をかけても来ない。なにかなと居間を覗くと急遽、理髪店に・・・。



「長くなったね、切ろうか」と息子から言い出したらしい。美容院のお店を閉るという叔母から義母がもらってきたというピンク・。



切り終わってご機嫌。「さ~今度こそフ風呂だぞ~」といってもまた一向に現われない、今度はトイレで大騒ぎ。どうも初めて息子が便器に座って大便をしたらしい。毎日なにかが起こる我が家です。さすがにこちらは写真撮影なし・・・・

さて自分で真贋が判断できない作品は鑑定に・・、本日は現在もっとも権威のある鑑定と思われる東京美術倶楽部の鑑定証のある作品の紹介です。

通常このような作品は投稿しないのですが、本ブログの読者の皆さんの真贋に対するもやもやの解消に投稿することにしました。

双虎之図 大橋翠石筆
絹本水墨着色軸装 軸先本象牙 東京美術倶楽部鑑定証 共箱 
全体サイズ:横633*縦2155 画サイズ:横500*縦1373



「翠石」の落款が石の文字が太いことから「2期 1922年(大正11年)-1940年(昭和15年)」(下記の落款の説明参照)に分類されます。

  

大橋翠石の作品は製作時期によって画風が変わっていることから、下記のように分類されています。

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1.青年期から初期 
南画画法によって虎の縞で形を作り描いている。(輪郭線を描かない)毛書きは白黒で描かれているために全体には薄く白っぽく見える。背景がない。

2.中間期  
墨で縞を描くのは変わらないが、地肌に黄色と金で毛書きをし腹の部分は胡粉で白い毛書きがしてる。全体には黄色っぽく見える。背景は少ない。

*本ブログで紹介の「正面之虎」が中間期までの作。



3.晩年期
虎に赤い綿毛が下に塗ってある上に金で毛書きが施されており、全体に赤っぽく見える。この当時に描かれたものは「樹間之虎」「月下之虎」「山嶽之虎」など背景があり、樹木や岩山や笹などの描写は洋画的雰囲気がある。

*今回の紹介作品がこの時期の作。



*さらには本ブログで紹介した「幽谷雙猛之図」がこの時期の作。



4.最晩年
地肌に赤、金で毛書きがされ、毛書きの量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化し、構図も前を向く虎の顔や全身に比べて尾や後身が抑えて書いてある。

*この時期の作品は後日また・・・。

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晩年期の作品を並べて展示してみまいした。



落款によっても製作時期の見極めができます。

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落款変遷
1. 点石翠石 - 「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏まで
     *本ブログで紹介の「正面之虎」が中間期までの作。

     *本ブログで紹介の「正面之虎」が「点石翠石」の落款です。

2. 翠石 - 二文字とも同じ大きさ 1期 1910年(明治43年)-1922年(大正11年)

3. 翠石 - 石の文字が太い 2期 1922年(大正11年)-1940年(昭和15年)
     *今回の紹介作品がこの時期の作。

4. 糸落款翠石 - 翠石が細く書いてある。3期 1940年(昭和15年)-1945年(昭和20年)
     *本ブログで紹介した「幽谷雙猛之図」がこの時期の作。
5. 石寿―1942年(昭和17年)に、喜寿の記念として翠石自身が「石寿」と号したと言う。

*    その他 「翠石生」  「即現 」 「鉄拐山民」

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動物園で虎を見た息子は意外にもこれらの虎の作品には興味がないようです。



どうも「パパとママ、〇〇は?」と自分がいないのが不満かもしれません。



大人とは次元の違う鑑賞の仕方らしい。



自分というものを認識しないと不安がある時期なのかもしれませんね。「ライフ・オブ・パイ / トラと漂流した227日」かな?



あとで下記のような作品を見せてあげようかな?



子虎を「猫じゃん?」と言われそう・・・・ 風呂でも小虎の我が息子。

鑑定証のある作品と他の作品と見比べるとある程度他の作品の真贋の判断に役に立ちます。

もちろん本日掲載の大橋翠石の作品はすべて真作です。




月下湖麗望図 渡辺省亭筆 その12

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平成29年4月2日は、本ブログでお馴染みの明治期の日本画家である渡辺省亭の100回忌にあたります。これまで大きく取り上げられることのなかった省亭の展覧会(回顧展)が、加島美術にて開催されるようですが、渡辺省亭について詳しく解説が書かれているサイトも既にオープンしているとのことです。ちなみに加島美術からはときおりカタログが届きますが、注文すると売約済みが続き、現在のところ当方とはまだ残念ながら縁がありません。

渡辺省亭については本ブログでも本日の紹介で「その12」となります。

月下湖麗望図(仮題) 渡辺省亭筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1270*横500



「平成29年4月2日は、明治期の日本画家である渡辺省亭の100回忌にあたります。これを機に本展では、個人蔵による渡辺省亭の作品を集めた初の回顧展を開催します。



またこれにあわせて渡辺省亭の作品を所蔵する都内各美術館等でも所蔵作品を自館で展示する予定です。これにより東京都内で渡辺省亭の代表作が同時期に見ることができます。 印象派の画家たちにも愛された省亭の洒脱な作品の数々の魅力をお楽しみください。」とのことですので、非常に楽しみですね。



「渡辺省亭は非常にモダンで洒脱な画を描く花鳥画家で、日本のみならず海外でも人気がある。ただ、今は省亭のような非常に巧い作家よりも味わい深い画を描く作家の方が評価される時代。」というのが、「なんでも鑑定団」に出品された際の渡辺省亭への評価ですが、あらたに見直されるかもしれません。



海外で高く評価され、岡倉天心、フェノロサにも認めれたにもかかわらず、弟子もとらず、どこの団体にも属さず、画業に専念した画家です。



他の著名な画家達への評価も厳しく、その性格が災いしたことも日本での現在の低い評価に繋がった可能性もあります。下記のエピソードがその例かもしれません。

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言いたいことは歯に衣着せずに言え、大正2年(1913年)第7回文展に出品された竹内栖鳳、横山大観、川合玉堂らの作品を、技法・技術面から画家の不勉強と指摘している。

例えば、今日名作とされる栖鳳の「絵になる最初」(京都市美術館蔵)を、「先ず評判の栖鳳を見ましたね、いけない、あれは駄目だ、此前の「あれ夕立に」か、あれもそんなに佳いとは思わなかったが、今のよりはずっとよかった、あの時丈が一寸足りないと思ったが、今のは又ひどい、第一着物がいけませんよ、どうも塗り損なひぢゃないかと思う、それでなければ衣文の線がもっと見えなけりゃならない、一体あの紺と云う色は日本絵の具にはないのだからね、きっとありゃ塗り損ひだよ、うまく行かないから濃い墨で塗りつぶす、其上に藍をかけると丁度あんな紺に見えます、私もよくやった覚があるが……ハッハッ、それにあの手が骨ばって、女の手は肉で包んでなけりゃね、栖鳳と云う人は動物は描けるが人物は描けない人らしい、顔は大いし髪が又ひどいし、髪は生際が一番でね、西洋画ならいいが日本画ぢゃ生際が出来なければ髪が描けるとは云はれない、それから上方ではどうか知らぬがあの中を障子にして、上下にキラキラの型紙のある……あれは東京では引出茶屋にしか有りません、キラキラの型紙と云う奴がまた一番安っぽいものでね……」と談じている。

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省亭の作品は当時の来日外国人に好まれ、多くが海外へ流出したことも日本での評価の低い原因と言われています。メトロポリタン美術館、ボストン美術館、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館、ライデン国立民族学博物館、ベルリン東洋美術館、ウィーン工芸美術館など、多くの国外美術館・博物館に省亭の作品が所蔵されているそうです。

*本作品は髪の黒い部分に補筆の跡があるようです。



師とした菊池容斎とは対照的に弟子を取らず(水野年方が1,2年入門しただけという)、親友と呼べる画家は本ブログでお馴染みの平福穂庵(平福百穂の父)と菅原白龍くらいで、一匹狼の立場を貫き、省亭は悠々自適な作画制作を楽しんだ後、日本橋浜町の自宅で68歳で生涯を終えました。



当方での蒐集品はたいした作品はありませんが、その作品からうかがわれるのは、全体に淡い色調で描かれ、そのこころもとなさが好みによっては評価が分かれるところでしょうね。本作品は美人がの部分が珍しく強い色調で描かれていますが、渡辺省亭には珍しいことのように思います。



上記の作品は「五位鷺」という参考作品で、本作品と同一印章が押印されています。渡辺省亭の「省亭」という印章はかなりの種類があることが解ってきました。現在整理中です。竹内栖鳳などは当方もない種類の印章がありますが、そこまでは多くないようです。

渡辺省亭の作品は真贋云々より、出来不出来のほうが重要な要素と思われ、残念ながら出来の悪い作品も多くあり、出来の良い作品を取捨選択することが肝要のようです。

思うに渡辺省亭の作品で出来のよい作品はそれほど多くないように思います。数%くらいしか見るべき作品はないと思います。色彩が淡すぎてぱっとしない作品が多くあり、このような作品は見るべき点がありません。

本ブログで数多く投稿されている寺崎廣業と同じく多作であり、たとえ真作でも出来の悪い作品が横行していることは否定できませんね。



*上記の印章を違うものと判断する人もおられるようですが、そこまで神経質になる必要はありません。印章は押す時期や紙や絹の材質によって異なるように見えるときもあります。神経質なコレクターほど反面いいものが集まらないのも事実です。

展示室に飾って見ました。手前は以前に紹介した「壷屋焼」の作品です。



前にも記述したとおり、金城次郎の銘や共箱のある作品より、作品自体は気に入っています。金城次郎も渡辺省亭も同じで、吟味して取捨選択する必要のある作品ばかり・・・。繰り返すようですが、金城次郎の銘や共箱にある作品は見るに値しません。

鐘馗図 福田豊四郎筆 その39

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湿気の多い時期に掛け軸の掛け変えは本来は禁物です。仕舞う方の掛け軸に湿気を含んだまま保存箱に収納するとカビの発生が急激に進行するからです。掛け軸を巻くときに、裏の紙部分に水気を感じたら危険信号です。

倉庫改修でエアコンで充分に除湿してあるので、これからは「掛け軸の掛け変え」が湿気の多い時期でも可能となったのは大助かりです。



飾り物の交換は息子が寝た後ですので、夜中にこっそりと・・。別段息子が悪さをするわけではなく、かえって悪さをしてはいけないと感じているようですが、小生から離れず、手伝おうとするので厄介です

室内犬(パグ:木米にダイゴロウという)を二匹飼っていたことがあますが、彼らも決して床に広げた掛け軸の上を歩きませんでした。人が大切に扱っている様子を見ているとちゃんと感じてくれているのでしょう。

実際に行なったことのある人だと解ると思いますが、「掛け軸の掛け変え」といっても結構時間がかかるものです。前の展示作品を収納し、新たな作品を展示する。だいたい人作品につき15分くらいでしょうか? 

作品の状態を確認したり、今までにない発見をしたり、ちょうどよい大きさかどうかチェックしたり・・。



本日は「掛け軸の掛け変え」の作品のひとつで、息子の節句のお祝いに床の間に掛けていた作品です。「鐘馗図」の図は専門に蒐集しているわけではありませんが、日本画には多い題材なので、自然に多くなってきました。

鐘馗図 福田豊四郎筆 その39
紙本水墨淡彩軸装象牙軸共箱 612*1270



本作品は福田豊四郎氏の郷里でお付き合いのある方の子息の誕生を祝って描かれた作品で、その経緯も当方では知っている作品です。ただ、散逸して以降は行方がしれていませんでしたが、縁があって当方で入手されることになりました。



おそらく福田豊四郎の「鐘馗図」はこの一品だけだろうと思いますが・・。福田豊四郎には珍しい大幅の作品です。

  

昭和30年頃の作品です。押印されている印章は最晩年の頃まで使用されていたものです。

贋作考 叭々鳥 伝田中一村(米邨)筆

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男の隠れ家から引っ張りだしてきた膳。



20人揃いのうちの10客。



残りの10客はいずこへ・・・、男の隠れ家の家捜しが必要か?



10客すべてが絵が違います。「都名所蒔絵」らしい。



昔の蒔絵職人は絵師について絵を習ったらしい。現代とは絵の腕前が違います。

京都で作られた漆器、現在では材料は中国、工程も中国というものを京漆器で高値で売っているらしい。現代の漆器は買う価値はありません。自業自得というのが日本の伝統技術にはあるようです。



時代は幕末から明治頃かな? 柴田是真だけ注目しないでいただきたいと思わせる作品。現代漆器より古いもののほうがいいのが現実です。



奇抜なデザインの絵柄もあります。日本の漆器は古いものの修理だけしているのがいいと思います。現代の漆器技術はとても過去のものに手が届く技術のレベルではない。



箱の中は補強や傷防止に古紙が貼られている?



「黒吸物膳」・・、そう吸物碗、本膳が付いています。紹介は後日また。



保存用の紙(写真の紙はその上に保護用の紙で小生が包んだもの)もそのまま残っています。昔の人は扱いに手馴れていたのでしょう。今の人なら紙は破って捨ててしまうでしょうが・・。

本日は休日、一休みしての贋作考。読者の方からは本ブログは「贋作も投稿されるから役に立つ」というご意見もありますが、当方は好き好んで贋作を購入しているわかではありませんが・・・・。

叭々鳥 伝田中一村(米邨)筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦



田中一村の作品は「米邨」銘時代の南画風の作品は時折見かけますが、「一村」銘時代の八丈島の頃の人気作品はまずは市場には出てこないでしょう。一村時代の作品の本作品のような画題はあるのだろうか?



半ば贋作と承知のうえで購入する理由もあって購入しているのも事実・・。今回の購入理由は箱が立派だったから・・



印章は一致していないようですが、この作品だけ見たときには気がつかないくらいです。見比べて解る程度。印章はすっかり真似するのはこの当時は無理だったのでしょう。

 

息子は「この鳥、おもしろいね~」だと・・。そう面白い。



表具の跡に下を切り詰めた形跡があります。つまり全体の絵の下の部分を切り詰めて落款や印章を取り除き、改めて「一村」の印章と落款を記した贋作と推察されます。下を切断して脇に落款と印章を押印した可能性がありますが、真実は遺憾、もとい如何? 



箱はいいものでしたので別の作品に転用。幸い箱にはないも書いていない 

ただし田中一村とは断定できないですがいい作品です。叭々鳥だけでも切り取って額にしたい作品ですが、花もよく描けていますのでそれもまずい。なにゆえこのような贋作に仕立てるのか・・・、腹の立つやり方です。

落款と印章があるので、ビジネスとしては成り立たない作品ですが、そこを膳の如く良き部分だけ鑑賞するのも、懐の広い鑑賞方法でしょう。でもやはり当方ではお払い箱の対象となります。

冬 岩田専太郎筆  その4

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先週のNHKの日曜美術館で取り上げられた画家が鈴木其一とのこと。本ブログでも紹介された画家です。

琵琶に菊 伝鈴木其一筆
絹本着色絹装軸箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横305*縦905

福娘之図 伝鈴木其一筆 その2
絹本着色絹装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横305*縦905

あくまでも「伝」とご了解ください。

本日の作品・・、もともとの画題は「薫風」・・??、どうみても画題が合わない 

額からはずしてみると色紙の裏には「冬」と書かれいました。なんらかの理由で額の中身を替えた可能性があります。

冬 岩田専太郎筆
紙本水彩 色紙額装
画サイズ:縦270*横240

展示室への通路に飾った作品。いつもは仏様の作品なのですが・・・。



岩田専太郎は売れっ子画家ゆえ模写も多いですが、印章は真作と一致しますので、故意の贋作づくりではなさそうですが、一応疑っておく必要はありますね。



この世の事象は魑魅魍魎たるもの、何が真実かは解りかねることが多いようです。



とくに美女にはその傾向が大きい。みかけで誤魔化されてはいけませんね。あくまでも知識と知恵で生き抜きましょう。



でもこのように見つめられると迷いそう・・・。

  

真実一路、王道一筋、迷う事な莫れ! 女に迷ってはいけません。美人は男の人生の邪魔者以外のなにものでもない。
美人は自分を美人と自覚して生きてきていますから、その中身は驕りと自意識過剰の塊と心得よ! 

文久辛酉 秋景浅絳山水図 木下逸雲筆 その3

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三連休は家内は護国寺のお茶会に出かけて行き、小生と息子はお留守番です。二人でお茶ごっこ・・・。

「お茶をどうぞ」と息子、「どうもありがとう、美味しいですね」と小生、お菓子もどうぞ」と息子、「ありがとう」と小生。義母が「おやつですよ~」と茶の間から声・・・、グッドタイミング



さて本日は久方ぶりに南画の登場です。南画は吟味するといい作品が、現在は実に廉価で入手できますと以前から紹介していますが、「いい作品」を吟味する必要はおおいにあります。南画の良し悪しの判断ができる方がどれほどいるのでしょうか? 掛け軸というと「かび臭い」とか毛嫌いされ、その中の「南画」というと「山、川、橋、人と決まりごとばかりとばかり」とけなされる御仁には到底理解の及ばぬ世界です。

文久辛酉 秋景浅絳山水図 木下逸雲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1860*横570 画サイズ:縦1160*横342



賛に「我愛秋□□ 胄濠秋気清 辛酉仲秋日写於□□□□窓 逸雲□ 押印」とあり、文久元年(1861年)の作で、他の所蔵品「浅絳山水図(その1)」(安政2年 1860年作)の一年後の作品で、木下逸雲が61歳頃の作と推察されます。



木下逸雲の作品は今回で「その3」となりますが、画家の来歴については下記によります。

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木下逸雲:寛政12年8月1日(1800年9月19日)~慶応2年8月4日(1866年9月12日)。江戸時代後期の長崎の南画家。鉄翁祖門・三浦梧門と共に長崎三大家とされる。

幼名弥四郎といい、のちに通称を志賀之介とした。諱を相宰。逸雲は号、ほかに如螺山人・物々子。室号を養竹山房・荷香深処とした。長崎八幡町、木下勝茂の3男に生まれる。

押印されている印章は、判読不明で申し解りませんが、白文朱方印「□□湖印」、朱文白方印「逸雲」であり、右下に遊印「?」が押印されています。

 

文化14年(1817年)、18歳で木下家代々の乙名(名主)の役を引き継ぐも、文政12年(1829年)にその役を兄の子に譲り、自身は元来関心のあった医師を生業とし、医門名を得生堂と称した。蘭医オットー・モーニケによって伝えられた種痘術の普及に努めている。



画は、はじめ唐絵目利の石崎融思に学び、来舶清人の江稼圃・張秋谷からは南画の技法を修めた。その後も清人陳逸舟、徐雨亭にその画風を学んだ。さらに雪舟、狩野派・大和絵・円山四条派などの諸派や西洋画の画法を熱心に研究し、様々な技法を取り入れた。



画僧鉄翁祖門と画を共に学び生涯の友となった。逸雲は筆が早く、遅筆の鉄翁と対極をなした。



田能村竹田・頼山陽・広瀬淡窓など文人と交わった。門人に、河村雨谷・津田南竹・池島邨泉・長井雲坪など。また姉の小蘭、甥の秋塘も画家である。



逸雲は多芸多才で知られ、書・篆刻を能くし、琵琶の演奏・制作に巧みで、煎茶をたしなみ、藤原相宰の名で優れた和歌を詠んだ。また白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、自ら絵付けも行っている。



長崎円山花月楼清譚会の世話役を務め、日中文化交流を促した。慶応2年(1866年)4月、京阪・江戸に漫遊し、同年8月横浜から長崎行きのイギリス船黒龍号に乗船するも、玄界灘で海難事故に遭い、帰らぬ人となった。享年68歳。

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幕末から明治期の南画は「つくね芋山水画」と岡倉天心らに揶揄され、明治期には南画は衰退の一途を辿ります。富岡鉄斎らの一部の天才画人によって、再評価されますが、現代では忘れ去られた画といって過言ではないでしょう。



南画に限らず日本水墨画は「気韻生動(運気の響き、風格・気品がいきいきと満ち溢れている)」を旨とし、「写意」を第一とすることを定義していましが、南画には加えて、「逸品、逸格、去俗」を重要視しています。幕末、明治期の一部の画家にはその気骨のある作品を見出すことができます。



南画の作品の中には駄作が多いのも事実ですが、良き作品を選んで蒐集すると、「逸品、逸格、去俗」を味わえる作品が多々あるようです。

秋の季節を味わいながら、南画の世界に身をゆだねてみたいと思いませんか? 写真や美術館では味わえませんよ。実物を目の前にして、誰もいない空間でないと・・。そういえば日曜美術館で浦上玉堂を紹介していましたね。

*とことろで日本男子サッカー・・・現在は意外に弱いと指摘し、以下の点をずいぶんと前に記したのだが・・。

1.組織力を生かし守備を基本とすること・・日本の利点は秩序ある組織力をもつ守備
2.海外組はすでに高校生以下・・・・・・・組織力は数日の練習では身につかない、組織力は走力が必要
3.外国人監督は組織力を生かせない・・・・組織力が大切と理解するまで時間がかかる

たしかに試合を重ねるごとに強くはなるのだが、いつまでも海外組に依存していると予選は勝ち抜けそうにない。

サッカーは会社組織と同じように思えます。個人商店の集まりでは生き残れない。

源内焼 その83 三彩獅子香炉 その2

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源内焼の彫塑的な作品は数は少なく、他の源内焼の亜流の窯の作品が源内焼として紹介されたり、明治期の作品の出来の悪い再興窯の作品もまた源内焼として紹介されたりしていますが、源内焼の作品は出来が違います。

地図皿などの大皿ばかりが注目される源内焼ですが、彫塑的な作品にも優品があると私は思っています。獅子を題材にした作品だけでも当方に3作品が集まりました。



手前の水滴はとても珍しい優品です、左の作品はときおり見かける香炉ですが、発色の良いものを選ぶといいでしょう。本日は奥の右の少し大振りの獅子香炉の紹介です。

源内焼 その83 三彩獅子香炉 その2
合箱
最大幅155*最大奥行88*高さ128



獅子の顔の表情がとてもユーモラスです。



釉薬の色彩の発色に濁りがありません。



造形に無駄がありません。



楽焼の獅子香炉に似た形状です。緑釉の色が濃い部分は補修の跡ではありません。



通常はこの形状の香炉には蓋があるのですが、焼成時から無いように思われます。作ってみても面白いかと思います。



源内焼か否かの見極めは釉薬かもしれません。似たような作品を源内焼に分類されることがありますが、出来がまったく違い、亜流や再興窯の作品は打ち捨てるべき下手物です。



源内焼は細かい貫入の入った透明性の高い釉薬が特徴です。



亜流の窯や再興の窯の作品はとるに足らない作品群であり、最近の再興作品も同様です。



この区別をきちんとしていないから源内焼の評価が上がらないのでしょう。



蒐集する側はそのおかげで廉価にて入手できるのはありがたいことですが・・・。



冒頭写真左側の源内焼「三彩獅子香炉」は以前に紹介されています。こちらは小振りの作品でかなりの数が市場のあるようですし、似たような作品が多々あります。ただし釉薬が濁っている汚らしい作品は源内焼とは違うものですので問題外です。

源内焼 その66 三彩獅子香炉 
合箱
最大幅140*最大奥行80*高さ120

皿などは皿立てに飾るしかありませんが、彫塑的な作品は飾る場所に苦労しませんね。



展示室の階段や飾り棚など・・。







かわいいというか、魔よけというか・・・・。獅子の香炉は数多くの種類がありますが、源内焼のこの釉薬と形の面白さは一味違います。



結局飾った場所は男子用便器の脇の棚・・・、用を足しながら「よっ!」と挨拶する作品・・。

親子虎図 伝大橋翠石筆 その6

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今週は時間に合間に銀座方面の現場まで。銀座は人通りが多く、しかも資材搬出入は夜間のみというものづくりには過酷な条件での仕事になります。さ~、これからが追い込み、またまた突貫。

さて大橋翠石の虎の作品で作風分類の最後に残っているのが最晩年の作品ですが、これがなかなか入手できません。今回はあくまで「伝」としてお読みください。

親子虎図 伝大橋翠石筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先本象牙 合箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横500*縦1300



大橋翠石の最晩年の作で「地肌に赤、金で毛書きがされ、毛書きの量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化し、構図も前を向く虎の顔や全身に比べて尾や後身が抑えて書いてある。」という最晩年の作品の特徴があります。



落款は「糸落款翠石」と称せられるもので 翠石が細く書いてあり、3期と区分される1940年(昭和15年)~1945年(昭和20年)の作と推察されます。

左が本作品の落款と印章。中央は文献資料からの掲載です。なお掛け軸の巻き止めに「明治四十年十月画リ(□年拾七)という記載がありますが、落款や描写から昭和15年以降の作であり、あくまでも真作なら誤記と思われます。

   

初期の明治期の作品と比較してみましょう。



最晩年 は上記に記載のように「地肌に赤、金で毛書きがされ、毛書きの量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化し、構図も前を向く虎の顔や全身に比べて尾や後身が抑えて書いてある。」という描写です。



青年期から初期 は「南画画法によって虎の縞で形を作り描いている。(輪郭線を描かない)毛書きは白黒で描かれているために全体には薄く白っぽく見える。背景がない。」というようにまず金の毛書きはありません。



背景の描き方が初期に近いので混同しやすいようです。



子虎がちょっと稚拙・・?? 「ん~」これが問題ですね。外野の皆さんは贋作だとか好き勝手言いますが、実際に吟味する側は早計なことはできません。別段、ビジネスではないのでじっくり鑑賞して結論を出せばいいことですが・・・。



表具は面白いのですが、痛みがあります。



自由自在に作品を比べて作品を愉しめるのは蒐集家ならではと思います。右が初期、左が最晩年ね~



ま~、大尽の蒐集のように出所のしっかりした真作ばかりではこのような展示で思いをめぐらせることはできませんし・・・

贋作は排除していきますが、真作を贋作と見誤ると贋作を真作とするより罪が重いのです。

漁村の月 寺崎廣業筆 その51

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まったくもって天気の悪い日が続く今年の秋です。中秋の名月も見れず、夜長、虫の大合唱を聞くばかりで今ひとつ情緒がない夜が続いています。せっかくの時期がこのまま過ぎるのは惜しいと月に縁のありそうな作品を選んで飾ることにしました。

本日の紹介はお馴染みの寺崎廣業の作品です。おそらく明治末期頃の作品でしょう。

漁村の月 寺崎廣業筆 その51
絹本水墨軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2050*横560 画サイズ:縦1060*横400



このように筆数が少なくてもしっかりとした作品が描ける寺崎廣業ですが、このことが多作となって災いとなり大衆画家と評されている原因のひとつになっています。



月に照らされる漁村、静寂の中に人々の生活がある。墨一色で描かれた夜の描写・・・。



うっそうとした手前の森がより一層静寂さを高めている作品です。波の音に、虫の声・・・。穏やかな時が過ぎていきます。

  

共箱でしっかりした表具、当時の人気の高さがうかがえます。

ところで、どこかの知事の暴走はどこまで続くのか? 本ブログに以前に述べたように当選直後の最初からやり方がおかしいと記述しましたが、あのやり方は会社組織ではあってはならない経営トップのやり方です。

大儀名分ばかりが優先し、周囲の人の気持ちというものを大切にしなくは部下はついていきません。結局自分のためだけのパフォーマンスに終始します。自分の功績を他人に自慢するような行為は人間の品格を問われます。マスコミや見かけに騙されてはいけません。

この世は骨董だけではなく、人も含めて真贋の魑魅魍魎たる世界です。闇夜を歩くが如くですが、せめて月の明かりくらいは欲しいものですが、それはとりもなおさず自分の信念という明かりに違いありません。

白磁太白鷺形彫香合 一二代柿右衛門作

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休日ということで、手短な文の投稿です。

盃とともに男の隠れ家からの出土品?に香合があります。今回は純白の香合・・、どうも十二代の柿右衛門らしい・・。

白磁太白鷺形彫香合 一二代柿右衛門作
共箱
幅60*奥行35*高さ40



柿右衛門には工房作品と本人作品があって、お値段は雲泥の差のようですが、当方にはよく解りません。



柿右衛門はそれほど好きではありませんが、この香合はなんとなくお気に入り・・。



展示室の棚の上などに何気なく飾っておくのといいかも・・・。




旅の回想 福田豊四郎筆 その39

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先週末には美術財団の講演会、東京美術倶楽部の特別展、そして母への訪問と業務外で忙しかった日々でした。

母には一生懸命に写真の説明していました。お茶の話などお茶を教えていた母には共通の話題で話がはずんでいました。



さて、本日は本ブログで母とも交友のあった、お馴染みの福田豊四郎氏の作品です。

福田豊四郎の作品がなんでも鑑定団に出品され、贋作と断定された作品については以前に本ブログに記載しましたが、福田豊四郎出身の地元ではあれは真作という評価があります。真偽のほどは小生の知るところではありませんが、「なんでも鑑定団」の鑑定が万能ではないことの証のようです。

本ブログでは紹介している福田豊四郎の作品は「伝」と記載のない限りすべて真作と判断して紹介しています。まず、間違いありませんが・・・。

旅の回想 福田豊四郎筆
絹本着色額装 共板 
画サイズ:横575*縦380



当方での福田豊四郎の作品蒐集は小品が主で掛け軸が主流ですが、最近は額の作品が増えてきました。額は輸送が困難なのが難点で入手したところに所蔵したままになっていることが多いです。



額は飾りやすいのですが持ち運びに不便で、あちらこちらの男の隠れ家?に保存しています。

本作品は掛け軸を額装にしたものかもしれません。インドに旅行したのちに描かれた作品で「ボンベイに於いて」と記されています。

福田豊四郎は昭和31年にインド・エジプト・ヨーロッパ・ソ連・中国・ベトナム・北朝鮮を訪問しています。

 

エジプトを描いた作品には下記の作品が本ブログでは投稿されています。これらの作品は昭和31年以降の晩年期に描かれたものど推察されます。

スフィンクス 福田豊四郎筆
紙本着色額装 共シール 415*515

いずれも福田豊四郎には珍しい画題で貴重で、エキゾチックな作品です。

色紙・はがきについて 

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先週末は家族でお出かけ・・。息子はテントウムシのリュックを背負って出かけました。



行く先は東京美術倶楽部・・。数年に一度開催される一流どころの骨董店の一流品の作品が展示販売される展示会です



まずは腹ごしらえから・・・。館内には食堂があり、集まる客もそれ相応のひとばかり、むろん当方のような子連れなど一人もいません。



いざ戦場へ・・・。



と思いきや、ワンフロアを回ったところで息子がギブアップ。二人でくつろいで展示品の鑑賞。

「お月様だね」と息子。「今年は天気が悪くてゆっくり観れなったね。」と言うと「壊れてるね。」だと・・。「そう窯割れというのだよ、」と骨董の会話を2歳半の息子と展示している廊下に胡坐をかきながら・・・。



休んだところでもうワンフロア・・、またもギブアップ、よって休憩。息子の興味は石灯籠び止め石・・・。「止め石」は読者の皆さんはご存知ですよね?



結局、思うように見れませんでしたが、それでもなかなかお目にかかれない逸品を直に触れてみることができて有意義な時間でした。

価格の表示のない作品多かったですが、ほとんどが三桁・・、値段も一流。

さて当方の拙なる作品、贋作と判断した作品、真作でも出来の良くない作品、表具を改装するまでもない作品を徐々に仕分けていますが、一流の作品をみるとそういう思いが益々高まりますね。



上記の伝広田多津の作品もそのひとつです。陶磁器も掛け軸もだいたい遺さない作品の確率は同じようです。

「売るべし」にもならない作品はほとんど廃棄ですが、掛け軸などはさほど大きな作品はないので家庭ごみで処分できます。逸品を見てくると自分の所蔵作品がつまらなく見えてくる・・・。

それでは本日は極端に「つまらない」作品ということで、紹介するのは色紙やはがきの作品です。これらは場所をとらないので意外に処分する気にならない・・?・・。

色紙 山中松林図 児玉希望筆 
絹本水墨 色紙  
画サイズ:縦270*横240





色紙は福田豊四郎の作品がメインですが、こちらもだいぶ多くなってきました。

樹下小禽図 下村観山筆 
絹本水墨淡彩 色紙  
画サイズ:縦270*横240







筍 川端龍子筆
葉書
画サイズ:横90*縦142









 



色紙やはがき用を入れる額はいいものが数点あるといいと思います。場所をとるので残った古い額や安物の額は廃棄処分し、色紙や額はタトウに入れて専用の箪笥に収納しておくとよいでしょう。



だいたい、作品の整理ができてきました。あとは改装や収納の改善の必要のあるものを処置し、古くに集めたものを今一度見直してみることで、ブログも終焉に近づいてきました。



数が多い掛け軸はいったん長さ別に整理します。長さ別に6箇所の保管棚があります。



骨董は飾る場所と整理する場所がなくてはいけません。骨董をビジネスを趣味とする者がやたらに集めて散らかすなどはもってのはか・・。整理しきれないときは処分、処分・・・。レベルを上げて東京美術倶楽部の展示会のレベルまで・・・



最初の写真を覚えていますが? 「見直そう、自分のごみを・・・」 

一流品をみてあらかた処分しようと思う反面、これはと思う作品も数は少ないですが見つけては自信をもつ作品もあります。いずれ一級品に触れることは大切です。「いつかは・・、」という思いがいいものを呼び込むことになると信じています。そう、いつかは・・。



源内焼 その85 三彩草花文茶托十客揃

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休日は小生の骨董整理の時間・・、息子は脇で遊んでいます。今話題の真田紐、全部引き出して遊んでいます。「これで登ったよね?」だと・・、「ん?、猿飛佐助のことか」 (NHK 日曜日大河ドラマ「真田丸」から)。

ともかく覚えるのが早い。ただ何を言っているのか、瞬時に理解するのに困ることがあります。小生が会社で言っていることも同じか

こういう時は叱らないようにしています。なんぼでも遊ばせておくように・・、最後は諭すように片付けてみせます。



江戸期は生活のためにいろんなことを考えた人がいますね。源内焼は中国の陶磁器の買い込みのよって、通貨が海外に流出することを危惧した平賀源内が海外の三彩交趾焼に劣らぬ焼き物を考案しようとしたことから始まっています。当時の富裕層はこぞって中国陶磁器を買い漁っていたようです。

本日は本ブログの目玉作品のひとつの「源内焼」のその84の紹介です。

源内焼 その84 三彩杜若文茶托十客揃
合箱入 
幅100*奥行70*高さ20



本作品はインターネットオークションで入手した作品です。五客ずつ売られていたので、離れ離れにするのはもったないというのが落札した大きな理由です。

最近は家族の減少、自宅での宴席の減少で、「揃えの器が」どんどん少なくなります。下手するとペアまで・・、否一個売りにまで・・。



売るほうも売りやすいし、買うほうも買いやすいのですからそうなるのでしょうが、もったいない気がします。揃いは揃いで揃っていたほうがいいように思いますね。



片方にだけ箱がついて出品されていました。



ふたつ箱があったのか、この箱に十客が納まっていたのか? 作品が届いてみると、ひとつの箱に収まりきれませんので、これはなにかほかに使われていた箱を転用した可能性もあります。



文様は「杜若」と当方で判断しました。



源内焼では大きな地図皿が「なんでも鑑定団」に出品され、高額な評価額(1000万)をつけて話題になりましたが、本来は大きさよりも型抜きのシャープさや透き通った三彩の釉薬、デザインの独自性が魅力の器だと思います。



そういう点からは大きな作品に限らず、このような茶托のような小さな作品であっても充分にその魅力を発揮していると思います。



茶托だけでなく小皿として食器に使ったら面白いですね。



同じような大きさの作品を並べてみました。どうでしょう? 伊万里や九谷の小皿よりも優れた焼きものです。



繰り返しになりますが、大きな飾り皿もいいですが、このような小皿も源内焼の大きな魅力です。

刀剣 その四 脇差&拵 無銘

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会社への息子の見送りは毎朝、6時。迎えは玄関までやってきます。その後着替えと明日の準備を息子が手伝い、家族全員での食事、その後少し遊んで(昨夜は玄関で自家製?の紙のボールでサッカー)、家族で入浴し、最後に寝かしつけるまで小生の役目・・・



ボールを蹴るのが様になってきました 日々の成長が驚くほど早いのにはびっくりです

先日、家に代々ある刀剣を研ぎに依頼している銀座のお店(なんでも鑑定団に社長さんが出演されています)から連絡があり、二振り目の作品が出来上がったというので受け取りにいってきました。

刀剣にはまったくの門外漢ゆえ、不躾ながらまたしてもあれこれとお店の方に質問してきました。そもそも最初の訪問で「刀剣を扱う人間には胡散臭い人間が多いようだが、貴方は大丈夫ですね?」と訪ねた小生です。

今までは主にメンテナンスの方法についてでしたが、今回は刀剣の分類についてです。少しは知識はありましたが、まったくの白紙からの勉強ですが、胡散臭そうなベテランが小生には分けの解らない用語で丁寧に説明してくれます 

ベテラン? どうも同年齢・・、息子を紹介したら、「孫でしょう」だと・・・

まずは日本刀はその作られた年代により「古刀」、「新刀」、「新新刀」、「現代刀」に分類されます。

おおまかに室町時代後半までにつくられたものが「古刀」といわれます。

「新刀」は安土桃山時代の慶長以後の刀工の作刀をいう。豊臣秀吉が天下を統一して諸国に新興の城下町が発達し,そこに古刀時代の諸国の刀工群が分散して集った結果,各流派の伝統がくずれて新しく自由な鍛練法が生れ,桃山時代の華麗な時風を反映した新様式の刀剣が出現したそうです。

新刀のうち、特に安永年間(1772~1781)以降 につくられたものは「新新刀」。年代には諸説あります。

「現代刀」は明治9年(1876年)の廃刀令以降に作刀された刀剣をさすことが多いそうです。

今回研ぎが完了して受け取ってき作品は、この分類としては「新刀」です。

刀剣 その四 脇差 無銘
長さ:一尺五寸五分五厘 拵付
反り:三分五厘 目くぎ穴2個



次に日本刀は長さによっても名称があり、かなり細分化されていますが、大まかには下記のとおりです。

太刀(たち)とは、日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60cm)以上

脇差は刃渡り1尺(30cm)以上2尺(60cm)未満

短刀は、長さ一尺(約30.3cm)以下の刀の総称

今回は脇差の作品です。銘はありませせん。登録証には「則光」と記されていますが、根拠はありません。基本的に「新刀 無銘」です。



本作品は先祖伝来のものです。金銭的な価値は度外視ですが、価値は別にして、拵えや白鞘、刀掛などの保存は登録証、保存登記証共々、管理はきちんとしておく必要は無論のことです。鍔などの小道具類とは管理のレベルが違います。銃刀法違反など法的な規制をきちんと把握しておきましょう。



登録証のコピーは白鞘に、本証は別に保管しておきます。これは小生の管理方法です。本証を本体に付けている御仁も多いようです。むろん外への持ち出しには本証の携帯が不可欠です。

なおこの脇差には拵えが付いています。伝来の刀剣はあくまでも拵えと刀剣が一体であり、拵えと刀剣の組み合わせが解るように保存します。基本知識のない御仁は、拵えと刀剣を別なものと思い、別々に手放したりしかねません。

黒漆青貝微塵笛巻鞘脇差拵 



白鞘は刀剣の普段着、拵えは外出着ですので、対になっているのが望ましいのです。普段は白鞘に収めておきます。拵えに差した状態での保存はよくありません。



なお拵えの飾りっぱなしは厳禁です。漆が変色してきますので・・。名刀でなくても先祖代々伝わるものは、後世にきちんと遺すべきものでしょう。



拵えはもはや現在の状態を維持することのみ。痛みが酷い場合は漆の本職に依頼するしかありません。刀剣の専門店でも意外に漆の知識は浅いようです。

なお柄の部分はこれを「サメ」とは呼称しますが、実際は「サメ」ではなく「エイ」の皮のようです。



刀剣類は当時の武士の魂です。忘れ去られしものは骨董というものだけではないようです。忘れ去られた「凛とした精神を」蘇らせる力が骨董にはあります。



刀剣を抜き、床の軸とともに鑑賞するときの背筋の緊張感は生きる力になります。

拵えもまた日本古来の伝統芸術の極みであり、こらら一連の組み合わせの刀剣は、おそらく許された者?にしか扱えない代物かもしれません。まずは絶対的な自制心をもつことからですが・・・



「刀剣女子」という漫画の中の少女趣味的なものでは決してありません。男の魂として保存はきちんとしておくべきものでしょう。

なお小柄と笄は探すといくらでもありますので、拵えにない場合はサイズの合うものをつけておくと良いのでしょう。鍔なども小道具はあくまでも小道具で主流のものではありません。



保存に際しては拵えの鍔は外しておくことです。

本日紹介した作品は家に代々ある作品です。一応真作という鑑定は受けてはいますが、拵え共々、刀剣としてはそれほど価値のあるものではありません。初心者向けの作品・・・・。

先日、東京美術倶楽部で「井上真改」の「真改銘」の太刀を見てきました。勝海舟所持? 「国貞銘」の作はよくありますが、「真改銘」は非常に貴重で最上の作と言えるのでしょう。このような知識もだんだん備わってきました。ちなみにお値段は3000万です。通常はその10分の1ですが、この作品は決して高くはないと思いました。いつかは欲しい・・・。

他のブースにも名品揃いでした。特に拵えは一級品ばかり・・、これは確かに日本の文化です。

茶道もまた武士の心得、利休も結局は武士の中の武士、決して商人や茶匠ではありませんでした。刀剣を見ずして日本文化、精神を語るなかれですね。

リメイク 再登場 児戯之図 柴田是真筆

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休日には息子と床の掛け軸を変えました。こういうことは小さな頃から馴染ませておく必要があります?

郷里に収納していた作品の再整理している作品のひとつです。郷里に収納している作品は一度処分しているので、気に入ったものしか遺していませんが・・。

盛岡に赴任していた頃にかなりの大金?を注ぎこんで購入した作品です。東北は福島を除いてあちこちを家内と共に仕事の関係で赴任しました。引越しの回数は7回、首都圏を入れると10回になります。

各地方で思い出になる作品をと思い、盛岡では本作品を欲しいと家内に伝えると、家内は「買ったら」と気前が良かった。ただ骨董商から常に本物を譲ってくっるとは限りません。この骨董商から購入した作品もようやく三分の一くらいが現在でも所蔵しているまともそうな作品です。

児戯之図 柴田是真筆
絹本着色軸装 東京美術倶楽部売立品 仕立箱入 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:横730*縦1110





















 

 

昭和2年の「5308円」・・いったい今ではいくらなのだろうか? 資料によると当時の1円が現在の605円らしい・・。高いですね、当時は実質的な価値はその10倍の金銭価値であったらしいです。

むろん当方の購入値段はそれほどの値段ではありませんでしたが、サラリーマンにとってはかなり高額な買い物でした。

東京美術倶楽部の展示会に出品されていた柴田是真のたいしたことのない?作品が250万・・・・ 

仕立ては当時のままで、地元の木工大工さんに頼んで外箱を誂えました。

説明は再投稿につき省きますが、述べておくことは、明治期の漆芸家の絵の腕前は現代の比ではないということです。金工家なども然りで、絵をきちんと習得していたようです。現代の日本の伝統工芸作家は今のままでは過去の作品には足元にも及ばないということです。

息子にも無言・・、「トンボが一匹いるね、相撲とってるね。」が息子の感想・・・、まさしく正解! 子供の心の中にもすとんとおさまる本作品は柴田是真の上位作となるものです。
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