家で昔から小生がやることを決めていますが
1.朝、家族全員の布団を片付ける
2.ネクタイ、ワイシャツ、背広の選定は自分でプレスも含めてやる
3.自分の靴は自分で手入れする(ビジネスシューズでも30年以上履いています)
これはず~と前から・・・。なぜかな? きっと好きなんですね。骨董の手入れと共通事項があるように思われます。
本日の作品は真作を入手するのが難しいとされる南画の代表格「帆足杏雨」の作品です。
暁驛飲馬 帆足杏雨筆
絹本着色軸装箱入
画サイズ:横205*縦280
本作品は仙台の汲古堂からの購入作品。仙台に赴任していた頃ですので、かれこれ15年以上前の入手です。
お店に仕入れたばかりの作品で飾ってありましたが、お値段が5万円だったと記憶しています。作品には落款がなく、ベテランのご主人(和泉氏)もさすがに作者は解らなかったようです。
出来がいいのでじっくりと観て、「良し」と判断し、思い切って購入しました。
購入してから、よく印章を観てみると、印章は「遠(名)」、「致大(字)」の朱文方印と白方印が押印されています。
ここから帆足杏雨の作品と断定しました。後日、一応汲古堂のご主人にはその旨を伝えましたが、にこやかに笑っておられました。
ただこのご主人はなかなか・・・。盛岡の骨董店の主人もそうでしたが、いいものは簡単には売ってくれません。というかこちらが「これは安い、高いものが安く手に入る。」という欲を出すと必ず贋作をつかまされます。一流の骨董商はそんなもの、「選んだ貴方が悪い」となる
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帆足杏雨(ほあし きょうう、文化7年4月15日(1810年5月17日) - 明治17年(1884年)6月9日)は、幕末から明治時代に活躍した文人画家である。田能村竹田の高弟。日本最後期の文人画家のひとり。
幼名は熊太郎のち庸平、諱は遠、字を致大、杏雨のほか鶴城・聴秋・半農などと号した。豊後の人。
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表具は補修され、折れの補修が施されており、小点ながら杏雨の佳作と思っています。
杏雨の作品に竹田の落款、印章が入れ替えられると真贋が分からなくなると言われるほど竹田を踏襲した細密山水画が多い画家です。
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豊後国大分郡戸次村(現在の大分県大分市)の庄屋の四男として生まれる。帆足家は江戸期を通じて臼杵藩戸次市組の大庄屋を務めた領内でも有数の豪農で、庄屋としての公務の傍ら造酒業で家産を成した。
父統度と長兄は俳諧をたしなみ書画の収蔵家で知られ、居宅に田能村竹田が度々出入していた。杏雨はこのような芸文的な雰囲気の中で育ち、15歳の時に竹田の画塾竹田荘に入門。経学は広瀬淡窓の咸宜園の門戸を叩き、帆足万里にも学んだ。
19歳のとき同門の高橋草坪と大坂に赴き、翌年には京都に上洛。「富春館」を構え、師の田能村竹田のほか、頼山陽、篠崎小竹、浦上春琴らと交遊。天保元年(1830年)、21歳のとき竹田に伴って豊前の雲華院大含を訪ねて墨竹図を指南された。翌年3月頃に京都の医師小石元瑞の用拙居に寓居。貫名海屋や岡田半江・中林竹洞らと出会う。7月にはいったん帰国。翌年6月、大坂で師竹田が死没。天保9年(1838年)、九州各地を遊歴し、長崎では鉄翁祖門・木下逸雲・来舶清人の陳逸舟らと画論を交えた。
杏雨は表立って国事に奔走することはなかったが、杏雨の甥に当たる勤王の志士で後に初代岩手県知事となる島惟精や美濃大垣藩家老の小原鉄心など尊皇攘夷思想を持つ人物と交流した。70歳の冬に右目を失明するも画作を続け75歳で没した。門弟に小栗布岳がいる。杏雨の影響を受けた画人は多く、大分の文人画(豊後南画)の盛況に貢献した。
竹田の画風を徹底的に倣い、その上で元末四大家の黄公望や明の唐寅や浙派の作品に師法し、50歳以降に雅意に満ちた独自の様式を形成した
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作者など解らず、気に入った作品を思い切って買うと良き蒐集になることもありますが、これをあまり深追いしてもいけません。知識と感性は平行してレベルを上げるといいのでしょう。ただ、若い時の感性は年とともに鈍化し、逆に欲というものは反比例して増長するようです。
当時にしても5万円は大金です。栞を作り、書家に題を書いてもらい、指物師に箱を作ってもらい、趣味が高じているのが偲ばれます
欲を抑えて、好きなものはなにかと問い続けることが良き作品とめぐり合える心構えと肝に銘じています。
郷里に収納していた作品を幾つか持ち帰り、再整理して展示室にて鑑賞しています。過去の蒐集品はつまらぬものばかりでもないらしい・・・。
ところで本作品は真作と判断していますよ。帆足杏雨の贋作はたくさんありますので要注意! また南画衰退の一途ですが、帆足杏雨の作品はある程度一定の評価を保っています。
1.朝、家族全員の布団を片付ける
2.ネクタイ、ワイシャツ、背広の選定は自分でプレスも含めてやる
3.自分の靴は自分で手入れする(ビジネスシューズでも30年以上履いています)
これはず~と前から・・・。なぜかな? きっと好きなんですね。骨董の手入れと共通事項があるように思われます。
本日の作品は真作を入手するのが難しいとされる南画の代表格「帆足杏雨」の作品です。
暁驛飲馬 帆足杏雨筆
絹本着色軸装箱入
画サイズ:横205*縦280
本作品は仙台の汲古堂からの購入作品。仙台に赴任していた頃ですので、かれこれ15年以上前の入手です。
お店に仕入れたばかりの作品で飾ってありましたが、お値段が5万円だったと記憶しています。作品には落款がなく、ベテランのご主人(和泉氏)もさすがに作者は解らなかったようです。
出来がいいのでじっくりと観て、「良し」と判断し、思い切って購入しました。
購入してから、よく印章を観てみると、印章は「遠(名)」、「致大(字)」の朱文方印と白方印が押印されています。
ここから帆足杏雨の作品と断定しました。後日、一応汲古堂のご主人にはその旨を伝えましたが、にこやかに笑っておられました。
ただこのご主人はなかなか・・・。盛岡の骨董店の主人もそうでしたが、いいものは簡単には売ってくれません。というかこちらが「これは安い、高いものが安く手に入る。」という欲を出すと必ず贋作をつかまされます。一流の骨董商はそんなもの、「選んだ貴方が悪い」となる
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帆足杏雨(ほあし きょうう、文化7年4月15日(1810年5月17日) - 明治17年(1884年)6月9日)は、幕末から明治時代に活躍した文人画家である。田能村竹田の高弟。日本最後期の文人画家のひとり。
幼名は熊太郎のち庸平、諱は遠、字を致大、杏雨のほか鶴城・聴秋・半農などと号した。豊後の人。
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表具は補修され、折れの補修が施されており、小点ながら杏雨の佳作と思っています。
杏雨の作品に竹田の落款、印章が入れ替えられると真贋が分からなくなると言われるほど竹田を踏襲した細密山水画が多い画家です。
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豊後国大分郡戸次村(現在の大分県大分市)の庄屋の四男として生まれる。帆足家は江戸期を通じて臼杵藩戸次市組の大庄屋を務めた領内でも有数の豪農で、庄屋としての公務の傍ら造酒業で家産を成した。
父統度と長兄は俳諧をたしなみ書画の収蔵家で知られ、居宅に田能村竹田が度々出入していた。杏雨はこのような芸文的な雰囲気の中で育ち、15歳の時に竹田の画塾竹田荘に入門。経学は広瀬淡窓の咸宜園の門戸を叩き、帆足万里にも学んだ。
19歳のとき同門の高橋草坪と大坂に赴き、翌年には京都に上洛。「富春館」を構え、師の田能村竹田のほか、頼山陽、篠崎小竹、浦上春琴らと交遊。天保元年(1830年)、21歳のとき竹田に伴って豊前の雲華院大含を訪ねて墨竹図を指南された。翌年3月頃に京都の医師小石元瑞の用拙居に寓居。貫名海屋や岡田半江・中林竹洞らと出会う。7月にはいったん帰国。翌年6月、大坂で師竹田が死没。天保9年(1838年)、九州各地を遊歴し、長崎では鉄翁祖門・木下逸雲・来舶清人の陳逸舟らと画論を交えた。
杏雨は表立って国事に奔走することはなかったが、杏雨の甥に当たる勤王の志士で後に初代岩手県知事となる島惟精や美濃大垣藩家老の小原鉄心など尊皇攘夷思想を持つ人物と交流した。70歳の冬に右目を失明するも画作を続け75歳で没した。門弟に小栗布岳がいる。杏雨の影響を受けた画人は多く、大分の文人画(豊後南画)の盛況に貢献した。
竹田の画風を徹底的に倣い、その上で元末四大家の黄公望や明の唐寅や浙派の作品に師法し、50歳以降に雅意に満ちた独自の様式を形成した
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作者など解らず、気に入った作品を思い切って買うと良き蒐集になることもありますが、これをあまり深追いしてもいけません。知識と感性は平行してレベルを上げるといいのでしょう。ただ、若い時の感性は年とともに鈍化し、逆に欲というものは反比例して増長するようです。
当時にしても5万円は大金です。栞を作り、書家に題を書いてもらい、指物師に箱を作ってもらい、趣味が高じているのが偲ばれます
欲を抑えて、好きなものはなにかと問い続けることが良き作品とめぐり合える心構えと肝に銘じています。
郷里に収納していた作品を幾つか持ち帰り、再整理して展示室にて鑑賞しています。過去の蒐集品はつまらぬものばかりでもないらしい・・・。
ところで本作品は真作と判断していますよ。帆足杏雨の贋作はたくさんありますので要注意! また南画衰退の一途ですが、帆足杏雨の作品はある程度一定の評価を保っています。