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リメイク 再登場 暁驛飲馬 帆足杏雨筆

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家で昔から小生がやることを決めていますが
1.朝、家族全員の布団を片付ける
2.ネクタイ、ワイシャツ、背広の選定は自分でプレスも含めてやる
3.自分の靴は自分で手入れする(ビジネスシューズでも30年以上履いています)
これはず~と前から・・・。なぜかな? きっと好きなんですね。骨董の手入れと共通事項があるように思われます。

本日の作品は真作を入手するのが難しいとされる南画の代表格「帆足杏雨」の作品です。

暁驛飲馬 帆足杏雨筆
絹本着色軸装箱入 
画サイズ:横205*縦280



本作品は仙台の汲古堂からの購入作品。仙台に赴任していた頃ですので、かれこれ15年以上前の入手です。

お店に仕入れたばかりの作品で飾ってありましたが、お値段が5万円だったと記憶しています。作品には落款がなく、ベテランのご主人(和泉氏)もさすがに作者は解らなかったようです。



出来がいいのでじっくりと観て、「良し」と判断し、思い切って購入しました。



購入してから、よく印章を観てみると、印章は「遠(名)」、「致大(字)」の朱文方印と白方印が押印されています。



ここから帆足杏雨の作品と断定しました。後日、一応汲古堂のご主人にはその旨を伝えましたが、にこやかに笑っておられました。

ただこのご主人はなかなか・・・。盛岡の骨董店の主人もそうでしたが、いいものは簡単には売ってくれません。というかこちらが「これは安い、高いものが安く手に入る。」という欲を出すと必ず贋作をつかまされます。一流の骨董商はそんなもの、「選んだ貴方が悪い」となる

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帆足杏雨(ほあし きょうう、文化7年4月15日(1810年5月17日) - 明治17年(1884年)6月9日)は、幕末から明治時代に活躍した文人画家である。田能村竹田の高弟。日本最後期の文人画家のひとり。

幼名は熊太郎のち庸平、諱は遠、字を致大、杏雨のほか鶴城・聴秋・半農などと号した。豊後の人。

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表具は補修され、折れの補修が施されており、小点ながら杏雨の佳作と思っています。



杏雨の作品に竹田の落款、印章が入れ替えられると真贋が分からなくなると言われるほど竹田を踏襲した細密山水画が多い画家です。

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豊後国大分郡戸次村(現在の大分県大分市)の庄屋の四男として生まれる。帆足家は江戸期を通じて臼杵藩戸次市組の大庄屋を務めた領内でも有数の豪農で、庄屋としての公務の傍ら造酒業で家産を成した。

父統度と長兄は俳諧をたしなみ書画の収蔵家で知られ、居宅に田能村竹田が度々出入していた。杏雨はこのような芸文的な雰囲気の中で育ち、15歳の時に竹田の画塾竹田荘に入門。経学は広瀬淡窓の咸宜園の門戸を叩き、帆足万里にも学んだ。



19歳のとき同門の高橋草坪と大坂に赴き、翌年には京都に上洛。「富春館」を構え、師の田能村竹田のほか、頼山陽、篠崎小竹、浦上春琴らと交遊。天保元年(1830年)、21歳のとき竹田に伴って豊前の雲華院大含を訪ねて墨竹図を指南された。翌年3月頃に京都の医師小石元瑞の用拙居に寓居。貫名海屋や岡田半江・中林竹洞らと出会う。7月にはいったん帰国。翌年6月、大坂で師竹田が死没。天保9年(1838年)、九州各地を遊歴し、長崎では鉄翁祖門・木下逸雲・来舶清人の陳逸舟らと画論を交えた。



杏雨は表立って国事に奔走することはなかったが、杏雨の甥に当たる勤王の志士で後に初代岩手県知事となる島惟精や美濃大垣藩家老の小原鉄心など尊皇攘夷思想を持つ人物と交流した。70歳の冬に右目を失明するも画作を続け75歳で没した。門弟に小栗布岳がいる。杏雨の影響を受けた画人は多く、大分の文人画(豊後南画)の盛況に貢献した。



竹田の画風を徹底的に倣い、その上で元末四大家の黄公望や明の唐寅や浙派の作品に師法し、50歳以降に雅意に満ちた独自の様式を形成した

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作者など解らず、気に入った作品を思い切って買うと良き蒐集になることもありますが、これをあまり深追いしてもいけません。知識と感性は平行してレベルを上げるといいのでしょう。ただ、若い時の感性は年とともに鈍化し、逆に欲というものは反比例して増長するようです。

当時にしても5万円は大金です。栞を作り、書家に題を書いてもらい、指物師に箱を作ってもらい、趣味が高じているのが偲ばれます

 

欲を抑えて、好きなものはなにかと問い続けることが良き作品とめぐり合える心構えと肝に銘じています。



郷里に収納していた作品を幾つか持ち帰り、再整理して展示室にて鑑賞しています。過去の蒐集品はつまらぬものばかりでもないらしい・・・。

ところで本作品は真作と判断していますよ。帆足杏雨の贋作はたくさんありますので要注意! また南画衰退の一途ですが、帆足杏雨の作品はある程度一定の評価を保っています。


氏素性の解らぬ器たち

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本日は休日ということで、当方のガラクタ中のガラクタの紹介です。

どこからか家内が採ってきた山茶花が洗面台に空き瓶に入れて飾って?ありました。 骨董蒐集の小生を目の前に「空き瓶はね~だろう」とバケツに漂白剤を入れて汚れを落としていた粉引と思われる徳利に挿してみました。



徳利の中に何が入っていたのかは知りませんが、当初は汚らしい紋様が出てとても人前に出せる作品ではありませんでしたが、少しはまともになってきたかなと・・。

展示室のテーブルには文房道具と思われるものを並べています。



左は印鑑入、中央はインク壷、右はペン立て・・。印鑑入は中国のもの、インク壷は平戸焼、ペン立ては中国の均窯を金属製の紐を編んだもので保護したもの。

これらはすでに本風ブログで紹介された作品です。

冒頭の器は「帯山」と高台内に刻銘があります。



これは小生が茶渋で汚れていたので、漂白して洗っているときに破損したものです。これまでで初めての自損事故です。「漂白剤はすべる」は教訓!



すぐに破片を集めて修理しましたが、なかなか巧くいきませんでした。家に古くからあった作品ですので、本職の金繕いに修理を依頼しようかと思います。

使いふるされた作品をなんでも洗えばいいというものではありません。特に萩の七変化などは茶渋が魅力のひとつになります。ただ本作品のような端正な京焼と思い、洗浄したのですが、ご先祖様のお怒りに触れたようです。

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帯山焼:は延宝年間(1673~81)に、近江出身の高橋藤九郎が京都粟田東町に住み帯山と称したのが始まりで、代々与兵衛を名乗り、主に抹茶器を制作した。

明治27年に廃窯になったが、近年になって粟田帯山焼の絵付けの再現に成功した。古清水色絵・染付、銹絵を特色とした。京焼ならではの優秀な焼物である。江戸時代中期以前に京で焼かれた陶器を幕末以降に【古清水】と呼ばれる。「粟田口(あわたぐち)」「岩倉(いわくら)」「御菩薩池(みぞろがいけ)」「音羽(おとわ)」「清閑寺(せいかんじ)」「清水(きよみず)」など窯と関わりのある地名・寺院の印が押された。

江戸時代後期には、「錦光山(きんこうざん)」「宝山(ほうざん)」「岩倉山(いわくらやま)」「帯山(たいざん)」など粟田口焼窯元印や五条坂焼陶工印が押されるようになる。

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ちなみに破損する前は・・。



底には茶渋がたっぷり・・、窯傷の補修跡?  洗浄しなかったほうが良かった? 否、本作品は洗浄してよかったと思いますが・・。



本当に氏素性の解らぬ作品・・。されど代々伝わる作品は大切に



仕事を増やしてはいかませんね~

リメイク 再登場 竹巌新斎 山本梅逸筆

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本作品は秋田に赴任していた頃に、盛岡の骨董店「古陶庵」にて購入した作品です。20年ほど前に購入した作品です。各主要都市で幹事役を務めているような骨董商でも真作などは簡単には売ってくれないものです。

竹巌新斎 山本梅逸筆
絹本水墨軸装二重箱 画サイズ:横495*縦1232



















   

表具は改装したように記憶しています。

 



ネットオークションは贋作の巣窟。本物を手に入れたいなら、都心の信頼のある骨董商に高いお金を支払うしかないのです。ただ多少なりとも目利きになると真作を入手する確率は確実に向上しますが、その作品に見合った出費はつきものです。素人のような経験の浅い画商からは安い金額では決していい作品は入手できません。

本ブログをガラクタの山と思って読まれようが、真実は実際に売り買いしてる人にしか理解できないものです。さて本作品の真贋や如何? 出来や如何?

ちなみに手前の古備前は真作です。

呼び継ぎ 志野亀甲文香合

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週末は息子は祖父母と落花生の収穫のお手伝い。



結構、落花生は手間がかかります。同僚も楽しみしてくれていますが、今年はどうも実が小さいようです。それでも選んで庭に天日干し。



日常は茶室周りは、天日干しに洗濯物、縁側は昼寝、茶室は息子のジャングルジム、優雅なものとはかけ離れた使い道



最後は片付け、たとえこちらが仕事がはかどらなくてもなんでも手伝いをさせます。真似をすることが学習のようです。



落花生の枝から蟷螂の卵発見! 皆は嫌がりましたが、小生と息子ととっておこうと・・・。蟷螂や蛙、カブトムシ、蝉など生き物の誕生の観察は今の骨董の趣味に通じるものがある? 下手物は夜中に叩き潰したゴキブリ



さて、本日の紹介作品です。

「呼び継ぎ」の代表的なものに初期の頃の伊万里(主に盃)、唐津(主に茶碗、皿、盃)、そして志野がありますが、いずれも初期の頃の伊万里、桃山から江戸初期の唐津や志野の発掘された陶片で作られたものです。



陶片の呼び継ぎの詳しいことは知りませんが、「高台が完璧な部分を使うのが原則」ということを本で読んだ記憶がありますが、本当かもしれませんね。

本日は志野焼の香合の「呼び継ぎ」の作品の紹介です。

呼び継ぎ 志野亀甲文香合
金継 細工箱入
径約48*高さ35



「呼び継ぎ」は日本だけのものではありませんが、これほどおおぴっらに生業?にしているのは珍しいかもしれません。いずれにしても亜流の陶磁器類であり、毛嫌いする方も多いでしょうが、中には面白いものの多々あります。



近年、骨董商が暇なときに発掘陶片を集めては、自ら金繕いしたという話は聞いたことがあります。



玄人の職人が金繕いすればいいものを、たいして高く売れないので、素人が陶片を見繕って接着剤でつけて、下手な金繕いしているようです。



「呼び継ぎ」のいくつかを本ブログで紹介していますが、代表的なのもののひとつに唐津焼の呼び継ぎがあります。



主流ではない作品群ゆえ、どこかに仕舞い込んだと思い、屋根裏の展示室の長持ちや茶箱を探してようやく見つけ出しました。



ところで本作品が桃山時代から江戸期にかけての発掘品の金継ぎかどうかは詳細は当方の知る由もありませんが、実は本作品に付いていた箱が目当てで購入したものです。



当然、見繕った箱でしょうから、サイズがピッタリとはいきません。少し大きめですね。この箱にもっといいものを・・・



とりあえず整理はきちんとね。これに古い生地で包んでいると一丁前の骨董品・・・・・・?? 箱は傷めないようにしておかなくてはいけません。



それにしても、この金繕いはやり直しかな? 味があっていいのかな? 正直なところ迷っています。

下手物は叩き潰すに限るが・・・・



源内焼 その84 三彩桐鳳凰文五稜皿 

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本日は同僚らと一献の予定がなんと同僚の一人が緊急入院。早速電話してみたところ元気そうで安心しました。我々はそろそろ年齢も年齢なので要注意世代ですね。

日頃の食事には注意していますが、家内が昼食はお弁当を作ってくれています。朝は5時過ぎには食事になのでなかなか家族全員ではできませんが、休日と夕食は基本的には家族全員で食事です。家では息子がわがままなところが出やすいのでときおり外食・・・。

そろそろ息子には自分でやらせることが多くなるようにさせていますが、これがなかなか・・。ようやくフォーク、スプーン、そして箸が使えるようになってきました。他の小便、体洗いまではなんとか・・。



頭ごなしに叱ってはいけません。常に諭すようにして、できたら褒めてあげるように・・、これがなかなか・・・。

本日は源内焼の作品その84「桐鳳凰文皿」ですが、桐と鳳凰といえば花札の12月・・。



花札の12月に「桐」となった理由は、最後の「これっきり」らしい・・、本当? もともと桐は古来から縁起の良い木とされており、これは鳳凰が とまる木とされていることから、この図案がよくみかける理由のようです。

源内焼 その84 三彩桐鳳凰文五稜皿 
合箱入 
口径173*底径122*高さ28



同じ型から製作されたと思われる作品が五島美術館で開催されて発刊された「源内焼」(作品NO38 P50 「三彩桐鳳凰文皿」)、平賀源内先生顕彰会による内先生遺品館企画展「さぬきの源内焼」(作品NO9 P12「三彩桐鳳凰文五稜皿 五枚)という両本に掲載されています。



「桐鳳凰文」の文様の作品は源内焼には数が多く、皿だけで4種類の文様が存在します。本ブログは今回でその4種類がすべて揃ったことになります。



本ブログに掲載された作品は下記のとおりです。

源内焼 その2 三彩桐鳳凰文皿
五島美術館発刊「源内焼」(作品NO37 P49 「三彩桐鳳凰文皿」)
平賀先生遺品館企画展「さぬきの源内焼」(作品NO5 P10「三彩桐鳳凰文皿)
口径258*底径180*高さ40



ちなみに洗浄前、補修前は下記の写真の状況でした。源内焼は軟質で柔らかく、またながらく放置されていた作品が多く、汚れがあるもの、傷のある作品があります。これを蘇らせるのも蒐集するものの役目です。



源内焼 その55 三彩桐鳳凰文皿
五島美術館発刊「源内焼」(作品NO71 P83 「三彩桐鳳凰文鉢」*鉢に分類)
平賀先生遺品館企画展「さぬきの源内焼」(作品NO6&7 P11「三彩桐鳳凰文皿」)
口径255*底径174*高さ50



源内焼は細かい貫入が釉薬にあり、また胎土も柔らかいので汚れやすい性質があります。といって洗浄しすぎると色が落ちますので要注意です。

写真の色写りで色が落ちたように見えますが、色が落ちないように洗浄しています。



源内焼 その56 三彩桐鳳凰文皿
五島美術館発刊「源内焼」(作品NO36 P48 「三彩桐鳳凰文大皿」 *口径300)
平賀先生遺品館企画展「さぬきの源内焼」(作品NO8 P12「三彩桐鳳凰文皿)
口径255*高台径*高さ50



この作品は保存状態が非常に良いものでした。補修跡、色褪せ、釉薬の剥がれのない保存状態のいいものを選ぶことが肝要です。ほとんど手入れの必要がありませんでした。



源内焼の作品は大きさもまちまちです。無論、大きな器のほうがお値段が高くなりますが、型抜きがシャープであれば源内焼の魅力は充分です。型抜きが曖昧な作品は収拾は見合わせたほうがいいと思います。



当方の展示室の源内焼専用の収納棚です。



そろそろ選別に・・・、ただまだまだ奥の深い源内焼の世界です。小生の蒐集などまだ序の口ですね。

鳳凰が桐の木が育つのを優しく見つめるように、我もまた息子を見守りましょう。そんなことを考えるのも骨董の楽しみ方です。

忘れ去られた画家 高士観瀑図 金井烏洲筆 その3

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今週の「なんでも鑑定団」のテレビ放送を見ていたら、金井烏洲の作品が出品され、なんと80万の評価でした。「ん?」たしか本ブログでも紹介して画家の一人と思い出し、検索してみたら3作品があり、そのうち2作品が本ブログに投稿されていました。

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安河内眞美氏の寸評は下記のとおりです。

「金井烏洲は江戸時代末期に江戸に出て谷文晁について勉強した。墨を使って大画面をこれだけうまくまとめあげ、重さを感じさせない。力があった絵師なのだろうと感じる。右下に遊印が押してあるが、杜甫の詩で「名垂萬古知何用」とある。色々な想いがこもった印であろう。いずれにしてもこれだけの大作はなかなかない。」

インターネットからの画像は鮮明ではありませんが、出品作は下記の作品のようです。



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たしかにこれだけの大きさの作品で出来のよい作品はなかなかないと思われます。ただ、いくらんでも80万は高すぎると思います。

金井烏洲の作品は大きさも評価の対象ながら、晩年の作品が「風後の作」と評されるようにもちろんその出来が大いに関与します。

本ブログで投稿された作品は下記の2作品です。



左側の作品は「湖山雪霽図」(仮題)です。

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湖山雪霽図 金井烏洲筆 その1
紙本墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1980*横603 画サイズ:縦1333*横468



賛には「湖山雪霽 甲寅(1854年 安政元年)之復月(陰暦11月の別名:冬至があって一陽来復するため言う)烏洲老人 押印(「白沙村翁」の白文朱方印 「林学?」朱文白方印)とあり、59歳頃の作品で、この年の春には中風がやや小康を得た烏洲はさかんに筆を揮ったらしく、この年江山雪眺図など稀有の名作が数多く残し、風后一種の宏逸酒脱の気格を加えた作品を描きました。



晩年は故郷にアトリエ呑山楼を構え、中風を患うも書画の製作に打ち込み、この晩年の作を「風後の作」といいます。翌安政2年中ばころから病が再発したらしく、画業作詩の一切が知られていません。金井家に伝わる絶筆二幅はこの年書かれた作品ですが、もう筆がふるえて判読に困難なほどです。

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本作品の投稿記事には「著名な画家の蒐集を追及するより、このような忘れ去られた画家の秀作こそ蒐集の醍醐味といえると思います。」と小生が記しましたが、安河内眞美氏の寸評と相通じる感想かと思います。



「なんでも鑑定団」には前述のように遊印の説明があり、上記の作品「湖山雪霽図 金井烏洲筆 その1」にも遊印が押印されていますが、本作品の遊印は漢詩の部分ではないようです。

右の作品は「武陵春色」(仮題)です。下記の説明文は内容が「湖山雪霽図 金井烏洲筆 その1」と重複していますが、作品に添付されている資料の写しですので、ご了解願います。

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武陵春色 金井烏洲筆 その2
紙本墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1978*横611 画サイズ:縦1337*横474



賛には「武陵春色 烏洲老□ 押印(「白沙頓翁」の白文朱方印 「翠林巌?主」朱文白方印)とあります。晩年は故郷にアトリエ呑山楼を構え、中風を患うも書画の製作に打ち込んだ。この晩年の作を風後の作と称されます。本作品は60歳頃の作品と思われ、この年の春には中風がやや小康を得た烏洲はさかんに採管を揮ったらしく、この年江山雪眺図など稀有の名作が数多く残し、風后一種の宏逸酒脱の気格を加えた作品を描いています。



翌安政2年中ばころから病が再発したらしく、画業作詩の一切が知られていません。金井家に伝わる絶筆二幅はこの年書かれたものですが、もう筆がふるえて判読に困難なほどです。武陵春色は武陵桃源と同じく、「世間とかけ離れた平和な別天地。桃源。桃源郷。陶淵明(とうえんめい)「桃花源記」によると、晋(しん)の太元年間に、湖南武陵の人が桃林の奥の洞穴の向こうに出てみると、秦末の戦乱を避けた人々の子孫が住む別天地があって、世の変遷も知らずに平和に暮らしていたという。」の意。

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本日新たに紹介するのは下記の作品です。重複は上記と同じです。

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高士観瀑図 金井烏洲筆 その3
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2290*横760 画サイズ:縦1320*横630



賛には「一笑疎桂□以前 米生学□□□□ 図年只□□□□ □□□□人□□□ 烏洲老泰併題 押印(「金□」の白文朱方印)とあります。



晩年は故郷にアトリエ呑山楼を構え、中風を患うも書画の製作に打ち込んでいます。



「烏洲老□」と著されていることから、金井烏洲筆のその2の作品「武陵春色」にも同じ落款が記されており同時期の作品と推察されます。



この晩年の作を「風後の作」と称されます。本作品は60歳頃の作品と思われ、この年の春には中風がやや小康を得た烏洲はさかんに筆を揮ったらしく、この年「江山雪眺図」など稀有の名作が数多く残し、風后一種の宏逸酒脱の気格を加えた作品を描いています。



翌安政2年中ばころから病が再発したらしく、画業作詩の一切が知られていません。金井家に伝わる絶筆二幅はこの年書かれたものですが、もう筆がふるえて判読に困難なほどです。

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「なんでも鑑定団」に出品された作品と同じ程度の大作と思われますが、出品作ほどの端正さには欠けています。やはり中風の影響でしょうか?



痛みのある状況の掛け軸のため、処分検討の作品の中にあり、投稿作品の対象外でしたが、「なんでも鑑定団」に出品された画家ですので思い切って投稿してみることにしました



*本作品の落款が所蔵作品その2「武陵春色」と近似しており、同一時期の製作でないかと推察されます。「武陵春色」もまたその1の「湖山雪霽図」と同一印章が押印されています。

それらから製作年代を推測すると
その1 「湖山雪霽図」:安政元年11月
その2 「武陵春色」 :安政元年春、もしくは安政2年春
その3 「高士観瀑図」:安政2年 夏

「安政元年の春には中風がやや小康を得た烏洲はさかんに筆を揮ったらしく、この年「江山雪眺図」など稀有の名作を数多く残し、風后一種の宏逸酒脱の気格を加えた作品を描きました。」

「安政2年中ばころから病が再発したらしく、画業作詩の一切が知られていません。金井家に伝わる絶筆二幅はこの年書かれた作品ですが、もう筆がふるえて判読に困難なほどです。」

「安政元年から2年までの作を「風後の作」と称し、この頃の作品が金井烏洲の傑作と評され、酒脱の気格を加えた作品を描いています。」

という資料からこられの3作品は貴重な作品と思われます。ただし その3「高士観瀑図」は筆に乱れが見え始めています。

作品の出来を見てみると、安政元年から2年までの作の「風後の作」以外の作品はあまりみるべき作品が少ないともいえます。インターネットの画像で見る限り「赤壁夜遊図」、「江山雪眺図」、「なんでも鑑定団」出品作は例外に別格の出来栄えのようです。

 伊勢崎市重文「赤壁夜游図」(左)           「秋山清爽図」(群馬県立歴史博物館蔵)(右)   




つまり金井烏洲の作品すべてが「なんでも鑑定団」のような評価は受けないということです。「風後の作」の時期以外の通常の出来なら金井烏洲の作品の市場価格は1万から2万という相場であり、下手をすると買い取り手はつかないほどです。

さて、床の手前の皿は「蛸」、風鎮には井上萬二の染付に変えてみました。ちょっと風鎮で重くして折れが少し目立たないようにと・・。



皿の作者や井上萬二を知らない/kuri_1/} 前に投稿している作品なので説明は省略します。

ところで同じ番組で浮世絵の鳥居派二代目鳥居清倍の浮世絵版画が出品されていましたが、再版という鑑定結果でした。本ブログでは鳥居派三代目鳥居清満の作品を紹介していますが、浮世絵版画は非常に複雑でわかりにくい分野です。素人ではとても判別がつきにくいし、作品が美術的にどうかというと小生は今ひとつつまらない分野だと思います。あまりにもマニアック過ぎますね。



聖観音 伝平櫛田中作 その2

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茶室の窯を炉にしたのですが、息子が「お茶会、お茶会」とせがんだようで、家内は面倒なので?リビングで点てて点てだししたようです。

  

満足したようで・・・・ 本日は昨夕より名古屋入りで泊まりですので、息子は寂しいかな?

倉庫改修時にちょっとした仏壇の置き場所を作りました。息子といつも拝んでいますが・・・。その通路の階段には荒井寛方の「聖観音図」が飾っています。



今までの男の隠れ家には仏間を作りましたが、座敷に置かれた仏間だけが仏壇を置く場所ではないように思い、この度は母屋との通路に仏壇を置きました。



その仏壇に飾りたいと思う仏像がなかなか入手できませんでいました。さらには男の隠れ家にも祈るものが何かしら欲しいと思い物色中・・。

専門外の彫刻の作品、こういう分野は直感しかないですね。ただ仏像は直感とはいえ、今までの所有者の念がありますので、古いものんは迂闊には蒐集してはいけない作品だと思っています。先祖伝来のものであれば、それでいいのですが・・・。

本日は実にうぶの状態であり、素敵な顔の仏様ということで購入しました。平櫛田中作というのは二次的なものでした

聖観音 伝平櫛田中作 その2
共箱
高さ327*幅113*奥行115

捧げる湯呑みは家紋入の碗。



箱書には「百才叟田中自題 押印」とあり、昭和41年(1971年)頃の作と推察されますが、平櫛田中には贋作が多いため門外漢の小生としては真贋は後学の判断としておきましょう。底には彫り銘があります。

  

東京美術倶楽部の展示会に平安時代の仏像がありました。これは実にいい顔した作で、やはり一級品は違うと感じ入りました。時代観もありました(平安時代)が、小生にはまるで今、出来上がったような感じを受けました。お値段の表示はなし・・、おそらく非売品かな。



仏像はおいそれと買うべきではない代物・・・、買うなら日頃拝むものゆえ一級品を・・



今まで仏像については眺めていて気に入らなくなるとお寺さんに寄贈していましたので、今は何点かしか手元に残っていません。

仏像、仏画のお寺への寄贈は真贋関係なし、出来不出来も関係ないですから処分はしやすいので、掛け軸も同様に処分した作品がいくつかあります。



仏像や仏画は所蔵していて、つまらなくなっても捨てる訳にはいかない代物です。大切にするなり、お寺さんに収めるなり、処分は難しくなりますので、入手には慎重を規しています。



造りは高村光雲の作に相通じるものがありますが・・・。



百才でこれだけ細かい作業はたいへんでしょうね。



ちなみに百才の作で平櫛田中というと最近見かけた下記の作品が欲しかったのですが、手が届かなかった作品です。「いつか」ですね。

参考作品解説
福寿大黒天尊像 平櫛田中作
共箱 二重箱 百才作
高さ275*幅260*奥行183





 

平櫛田中の作品は数が多いですが、贋作も多いことは高村光雲と双璧です。もともと高村光雲の作品についてはすべてを本人が作ったという作品は数が少ないし、平櫛田中にしても色塗りは本人によるものではないのですが・・・。

ビジネスではない我々趣味人はその作品の出来不出来のみが問題、手を合わせたくなる作品がいいようです。

再評価されるべき画家 紅葉飛雁山水之図 奥谷秋石筆 その2

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本ブログで最近アクセスの多い作品に下記の作品があります。

松林帰樵山水之図 奥谷秋石筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2125*横565 画サイズ:縦1115*横422

非常にマイナーな画家の作品であるのにアクセス件数が多いのは意外です。それでは秋でもあるしと、図にのっても、本日はもう一作品を紹介します。

紅葉飛雁山水之図 奥谷秋石筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2125*横565 画サイズ:縦1115*横422



奥谷秋石は早くから橋本雅邦・川端玉章を主領とした青年絵画協会や日本絵画協会等に出品し受賞を重ねています。画力はなかなかのものです。

  

また家塾を開いて門弟の養成に尽くし、明治・大正・昭和初期の京都画壇に重きをなしています。



雁が飛ぶ渓谷に秋の模様、出来すぎた光景・・。飾るときは少し高めに掛けて鑑賞します。



「その1」が夏、「その2」が秋の軸となります。並べて掛けてみました。



四季の四幅対の作品を描いたら、いい作品ができそうですね。よく見かける市販の山水画などと見比べてみるといいと思います。市販の作品と同じような金額で入現在は入手できる画家です。



川端玉章や橋本雅邦の画風に色彩を加えたような作品を描きます。



もうひとつなにかが足りない気がする画家ですが、思文閣のカタログなどにも再三登場している画家です。



かなりの画力の有る画家として再評価されるべき画家の一人と言えるでしょう。


刀剣 その二 & その五

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刀剣類の投稿になると訪問者が少なくなるのは女性が見なくなるのかな? 物騒な分野ゆえ、また当方も門外漢ゆえ、こちらも少し遠慮気味。

本日の作品は男の隠れ家に伝来する刀剣の研ぎを依頼し、研ぎなどのメンテナンスが完了した最初の作品です。研ぎは信頼のおけるお店に依頼すべきと考えて、今回は銀座の「なんでも鑑定団」に社長が出演しているお店に依頼しました。

「研ぎ」は最低でも一寸が8000円~10000円かかります。コストがかかることもあり、品質確保も含めて錆びないように万全を期して保管する必要が刀剣にはあります。

刀剣 その二 新刀 銘あり
長さ:77.8CM 反り1.8CM 目釘穴2個
白鞘 拵付 太刀拵付
「特別貴重刀剣」認定



太刀拵
長さ:1070
黒石地笛巻塗亀蒔絵鞘略太刀拵
総金具菊図銀地片切彫鐔亀図銘一雲斉雅胤作
「特別貴重小道具」認定



刀掛、太刀拵は鶴と亀で一体に作られてたものと推察します。拵えは家紋入りであり、刀剣の紹介は省略しますが、真作の出来の良い刀との鑑定でした。



刀剣は掛け軸と同じように総合芸術です。けっして鍔のみ、刀剣のみで愉しむものではないように思います。



もっと言うならば、刀剣は掛け軸、床とともにあるものと感じました。拵えからは鍔を外して保管し、拵えは保護袋に収納し、白鞘は絹袋に保管します。むろん、登録証はきちんと所持していかくてはいけません。



日本文化を継承すべき日本男児よ、しっかりと守るべきものは守りましょう。

地釉象嵌縄草花文皿 島岡達三作

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生前退位についての述べられた天皇陛下の会見放送(2016年8月8日放送)に際して後ろの飾られていた大皿が話題になっているようです。



少しアップしてみるとどうも島岡達三の作品に相違ないように思われます。



島岡達三の大皿というと最近「なんでも鑑定団」に出品され、高値をつけた記憶があります。インターネット上にその記載がありましたので紹介します。

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中島誠之助の評価                         評価金額500万
「名品。島岡達三は濱田庄司に弟子入りし、濱田とそっくりな物ばかり作った。そこで濱田が自分の独特のものを考案しろと諭した。それで作ったのが依頼品にもみられる「縄文象嵌」。

まだ生の土の上を、組紐を転がしていく。そこへコバルトを混ぜた白い土を埋め込む技法。依頼品の見込みには円い窓が六つあるが、その中に白泥と鉄砂で草花文を描いている。それを1300度くらいの高温で焼き締め、叩くとまるで磁器のようなカーンという音がする。

箱に「地釉(じぐすり)」と書かれている。これは透明釉の中に磁器を焼く時のカオリンという土を僅かに混ぜ、それで全体を上掛けしてある。そのためしっとりとした柔らかさがある。これが島岡達三の焼き物の特徴。依頼品は生涯の傑作だと思う。」

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おそらく会見に際して飾られた皿と「なんでも鑑定団」に出品された二つの皿は50センチを超える大作だと思われます。

30センチ程度の皿はよく見かけ、小生の近くのビルの社長の応接室にも飾れていました。

なんでも鑑定団の評価金額は滅多にない大きさの作品なのだろうと推測されますが、さすがに500万はしないと思われます。また会見の後ろに飾られて作品もまた同程度の大きさで、宮内庁お買い上げの作品ですから展覧会出品クラス以上の出来のよさだろうと推測されます。

30センチ程度の大きさの皿は価格は15万程度ですが、40センチ前後以上の大きさの皿はそれよりは珍しくなります。それでも相場は25万程度かな?

ということで本日は当方では浜田庄司の脇役として蒐集している島岡達三の作品の紹介です。さすがに当方では50センチクラスの大皿は無いので40センチクラスの作品となります。

地釉象嵌縄草花文皿 島岡達三作
共箱
口径397*高台径*高さ83













島岡達三の作品は浜田庄司の作品が銘がないのに比して、「タ」の刻銘が作品に入れられています。ただこれも非常に真似しやすく、浜田庄司の作品と同様に共箱がないと真作とは認められませんし、評価金額は格段に落ちます。ただしもともとそれほど高い評価金額の陶芸家ではありません。

  

以前に紹介した「土瓶」も同じ作りです。



写真のように共箱の作品に限らず、骨董を収めた箱はきちんと箱が汚れないように保護しておきましょう。保護紙に中の作品が解るようにしておきます。中を見ないと作品が解らないということは探すときにたいへんで、作品や箱を傷める原因になります。ただし基本的にいい箱には写真は張らないほうがいいでしょう。



収納もきちんとしておきます。当方では陶芸作家の作品は専用の収納棚にしています。



展示してあるときは箱はすぐにわかるように展示品の専用の箱を置く場所を確保します。でないと箱と作品がばらばらになる可能性が高くなります。

地震などで落ちても空き箱・・・・。



これらの作品はコレクターを通しての入手で、当方のこのような保管方法を知っていて、廉価にて譲ってくれたものです。このよいうな入手の作品は多いものです。コレクターはきちんと後世に伝えてくれることが一番のこととして考えますから・・・。

すぐに売ってしまうことを考える人には持つ資格がないのです。ところで下記の大皿・・。50センチを超えますが、たしか評価金額は「なんでも鑑定団」でも500万はしなかった筈・・・・。骨董の評価なども含めてマスコミに流されないようにしましょう。



「マスコミと書いて嘘と読む、外食と書いて毒と読む、会議と書いて無駄と読む。」これは真実というより訓告という意味でしょう。

本日は真贋などという野暮な質問はなしですね。

清潭香魚図 川合玉堂筆 その4

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休日はず~っと小生と一緒の息子。さすがに日曜日の夕方から疲れたようで熟睡、それからが小生の本当の休日



「お~い、ベットを占領するなよ!」

さて本日は川合玉堂の作品の紹介です。

川合玉堂の掛け軸の作品はコレクターにとっては垂涎の的です。まともなお値段では高値の華、もとい高嶺の華。横山大観、上村松園と並んで近代画家の最高峰です。

さてその川合玉堂の作品入手への無謀なる挑戦です。狩野芳崖、橋本雅邦らの真作はいくつか紹介しましたし、川合玉堂の作品も何点か紹介しましたが、これらの画家の最盛期の作品はやはりそれなりのお値段で入手すべきものです。ただ、初期の頃の作品は意外に他人が知らずして放置されていることがあります。

本日はそのような作品の紹介です。

清潭香魚図 川合玉堂筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 共箱 旧作題
全体サイズ:縦2030*横535 画サイズ:縦1140*横408



明治33年頃(27歳)の作で、箱書は大正年間と推察されます。滅多に資料には掲載されないこの印章が記憶にあるかどうかが購入するかしないかの判断に大きく影響します。ただし・・・。



書体と印章の使用時期が一致しなくてはいけませんが、まず心惹かれるのが作品の出来でなくてはなりません。落款や印章は記憶力が影響しとても数多くある印章はすべて覚えられるものではありませんから・・・。



しかも印章や書体はある程度真似ることは可能です。ただ、感性は真作を見続けないと解らないものかもしれません。私は出来に惹かれて購入しました。資料はその後の確認事項です。購入時にそのような資料を手元に置いて見極めるなどというのは許されませんので・・。



箱書も同じく後日の確認です。「旧作」というのは贋作にもよく使いますので一概に信用してはいけないようです。



巻止には「庚子(かのえね、こうし)六月為諭吉 欸冬鮎図 玉堂筆 小湖誌」とあります。明治33年に描いたことでしょうか?

さらには明治34年に亡くなった福沢諭吉に縁のある作品というロマンが・・、そこまでは「まさか」ですね。「小湖誌」の詳細は不明です。



箱書きにある「欸冬」とは「フキ キク科の多年草、園芸植物、薬用植物」のことです。このようなマイナーなことも判断基準になりますかね?



とかく落款や印章、筆致ばかり真贋の話題のする御仁には間違いが多いと思います。



たとえ贋作でもビジネスではない当方はダメージは少ないものです。



まずは購入するか否かは第一印象の勝負ですが、きちんとその後は調査します。「自分のお金で買え、そして売れ、売買は休んで調べろ」という骨董の鉄則を小生は死ぬまで続けるのでしょう。



ただ休日は調べ物から片付け、飾りつけまで寸暇を惜しんで忙しいのですが、息子が思うようにはさせてくれません。



むろん仕事も忙しいのですが、このような趣味の世界をなにかしら持つのは愉しいと思います。



趣味といえども真贋のみならず、資金も現実は厳しいものがあります。資金に余裕があれば氏素性のしっかりしたもっといい作品が入手できますが・・・。

ただ「資金が潤沢なものほど贋作ばかりを入手する。」というのが世の常とか。資金を投入して信頼できるところから入手するというのは相場の倍での購入となり、これは売る側の論理。かなりの無駄遣いでもありますが、骨董好きのかなりの高い割合の人が贋作揃いというのも現実であり、贋作ばかりよりはましなら、高い骨董商への目利き料金の支払いをするしかありません。骨董の世界は自分が目利きになるのがもっとも効率的で遠い道のり・・・・

高望みによって初めてその距離がつまりますし、高望みしないとまたその望みは一生叶いません。ただ高望みばかりでは贋作揃いになります。美女への高望みは人生の大いなる時間と金の無駄、骨董への高望みは人生の肥やしです。


秋草 平福百穂筆 その24

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当方の蒐集対象の画家である平福百穂の作品ですが、わが地元の秋田でも贋作が多いのでは有名です。ようやく最近になって真贋がある程度解るようになってきました。平福穂庵、百穂の父子の作品は厳選しておきたい画家になります。

本日は平福百穂の大正時代の作品の紹介です。

秋草 平福百穂筆 その
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:縦2170*横520 画サイズ:縦1310*横450

床の右が島岡達三の作品で、左が古備前の壷です。掛け軸の正面に置かない飾りも面白そうです。どちらかひとつのほうがいいかもしれませんね。



掛け軸は秋の草花を描いた品格のある平福百歩の佳作といえます。



「丁巳晩秋」とあることから1917年(大正6年)、平福百穂が40歳頃の作品であると推察されます。

   

この年、大正6年には百穂が、大作「豫譲」を帝展に出品、特選を獲得し、大へんな評判となり名声を博した頃でもあります。



豫譲 (1917) 永青文庫 所蔵
屏風 六曲一双 絹本裏箔着色 各1720×3747



なお「豫譲」なる人物をご存じない方のために説明文の抜粋を記載します。ここに「知己」の語源が記載されていますのでご参考までに・・。

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豫譲(よじょう、? - 紀元前453年頃):中国春秋戦国時代の人物。予譲とも呼ばれる。敗死した主君の仇を単身討とうと試みたが、遂に果たせなかった。



晋に生まれる。初めは六卿の筆頭である范氏に仕官するが、厚遇されず間もなく官を辞した。次いで中行氏に仕官するもここでも厚遇されず、今度は智伯に仕えた。智伯は豫譲の才能を認めて、国士として優遇した。

数年後、智伯は宿敵の趙襄子を滅ぼすべく、韓氏・魏氏を従え趙襄子の居城である晋陽を攻撃した。三氏の連合軍に包囲された趙襄子は二人の腹心を秘かに韓氏、魏氏の陣営に赴かせて韓氏と魏氏を連合から離反させて味方につけた。韓氏と魏氏の裏切りにあった智伯は敗死し、智氏はここで滅ぼされた(紀元前453年)。

趙襄子は智伯に対して節年の遺恨を持っていたために、智伯の頭蓋骨に漆を塗り、酒盃として酒宴の席で披露した(厠用の器として曝したという説もある)。一方、辛うじて山奥に逃亡していた豫譲はこれを知ると「士は己を知るものの為に死す」と述べ復讐を誓った(これが「知己」の語源である)。やがてほとぼりが覚めると豫譲は下山し、趙襄子を主君の敵として狙った。

左官に扮して晋陽に潜伏していた豫譲は、趙襄子の館に厠番として潜入し暗殺の機会をうかがったが、挙動不審なのを怪しまれ捕らえられた。側近は処刑する事を薦めたが趙襄子は「智伯が滅んだというのに一人仇を討とうとするのは立派である」と、豫譲の忠誠心を誉め称えて釈放した。

釈放された豫譲だが復讐をあきらめず、顔や体に漆を塗ってらい病患者を装い、炭を飲んで喉を潰し声色を変えて、さらに改名して乞食に身をやつし、再び趙襄を狙った。その変わり様に道ですれ違った妻子ですら豫譲とは気付かなかったという。たまたま旧友の家に物乞いに訪れた所、旧友は彼を見てその仕草ですぐに見破った。旧友は「君程の才能の持ち主であれば、趙襄子に召抱えられてもおかしくない。そうすれば目的も容易く達成できるのに何故遠回りなことをするのだ?」と問うた。それに対して豫譲は「それでは初めから二心を持って使えることになり士としてそれは出来ない。確かに私のやり方では目的を果たすのは難しいだろう。だが私は自分自身の生き様を持って後世、士の道に背く者への戒めにするのだ。」と答えた。

やがて、豫譲はある橋のたもとに待ち伏せて趙襄子の暗殺を狙ったものの、通りかかった趙襄子の馬が殺気に怯えた為に見破られ捕らえられてしまった。



趙襄子は、「そなたはその昔に范氏と中行氏に仕えたが、両氏とも智伯に滅ぼされた。だが、その智伯に仕え范氏と中行氏の仇は討とうとしなかった。何故、智伯の為だけにそこまでして仇を討とうとするのだ?」と問うた。
豫譲は、「范氏と中行氏の扱いはあくまで人並であったので、私も人並の働きで報いた。智伯は私を国士として遇してくれたので、国士としてこれに報いるのみである。」と答えた。
豫譲の執念と覚悟を恐れた趙襄子は、さすがに今度は許さなかった。「豫譲よ。そなたの覚悟は立派だ。今度ばかりは許すわけには行かぬ。覚悟してもらおう。」



趙襄子の配下が豫譲を斬る為に取り囲むと豫譲は趙襄子に向かって静かに語りかけた。
「君臣の関係は『名君は人の美を蔽い隠さずに、忠臣は名に死するの節義がある』(賢明で優れた君主は人の美点・善行を隠さない、主人に忠実な家臣は節義を貫いて死を遂げる義務がある。)と聞いています。以前、あなた様が私を寛大な気持ちでお許しになったことで、天下はあなた様を賞賛している。私も潔くあなた様からの処罰を受けましょう。…ですが、出来ることでしたら、あなた様の衣服を賜りたい。それを斬って智伯の無念を晴らしたいと思います。」趙襄子はこれを承諾し豫譲に衣服を与えた。

豫譲はそれを気合いの叫びと共に三回切りつけ、「これでやっと智伯に顔向けが出来る。」と満足気に言い終わると、剣に伏せて自らの体を貫いて自決した。趙襄子も豫譲の死に涙を流して「豫譲こそ、またとない真の壮士である。」とその死を惜しんだという。この逸話は趙全体に広まり、豫譲は趙の人々に愛されたといわれる。

なお、横山光輝の漫画『史記』では、「義に殉ずる」として上げられている。

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骨董というのはありとあらゆる分野に知識を広げることになりますし、逆に知らないとなにも解らないということになるようです。



草花はいったい幾つ描かれているのでしょう。



萩、桔梗、羊歯、秋海棠、酸漿・・、ん~、植物は小生は苦手分野



なお作品を描いた年を記載した作品は平福百穂の作品では珍しいと言えますが、この頃の作品には年号が記されている作品が多いようです。

 

本作品と同一の印章もこの頃多く押印されており、印影は一致します。

本作品は平福百穂の佳作の部類に入ります。ようやくそのような判断に少し自信が持てるようになってきました。ほんの少し・・・  今までの平福百穂の作品を見直す必要があります。

堀尾之陵図 池田遥邨筆 その2

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池田遥邨の作品は意外に好き嫌いがある方多いでしょうね。傾倒した富田渓仙もそうでしょうが、こららの画家を理解できるほど、現代人は心豊かではないかもしれません。

堀尾之陵図 池田遥邨筆 その2
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1263*横445 画サイズ:縦260*横316





「堀尾之陵」とは堀尾吉晴(ほりお よしはる)の墓のこと。安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。豊臣政権三中老の1人。

 

「堀尾吉晴」についてはリンク先を参考にしていただきたいのですが、有名な水野忠重暗殺は下記の事情のようです。石田三成の企てのように書かれていますが、真偽のほどは解りません。

堀尾吉晴は「仏の茂助」と呼べれている反面、小田原攻めの際、古くから親交のあった中村一氏に、吉晴は陣を敷いていた絶好の場所を奪われ、吉晴から陣地を強奪した一氏はその恩恵も合わさって抜群の武功を挙げました。吉晴は激怒し、抜刀して一氏に斬りかかり刺し違えようとまでしたという逸話もあります。

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堀尾吉晴は、越前国に向かう途上で三河国池鯉鮒に至った。時に水野忠重は吉晴と信友であったので、刈屋からやって来て吉晴を饗応した。
この時、図らずも加賀井秀望もやって来て三人は談話をしながら酒を飲んだ。

日はすでに暮れて吉晴は酔って眠ってしまった。すると突然、秀望は忠重を斬殺した。太刀音を聞いて目覚めた吉晴は秀望を組み伏せて刺殺した。事態に気付いた忠重の家臣達は刀を振るって吉晴に向かって来た。

吉晴は彼らを制したが聞き入れてもらえず、灯火を倒して暗闇にまぎれて庭に下り、塀をつたって逃れた。吉晴は数ヶ所の傷を負い、家臣に扶持されて浜松へ帰った。

忠重の家臣達は吉晴が逆心により忠重と秀望を殺害したと関東へ報告した。これを聞いて徳川秀忠は「吉晴と忠重の二人に限って逆意を企てるはずがない」と言ったが、日あらずして飛脚が来たり「秀望の死骸をあらためたところ、三成の書簡がありました。

それには『徳川家の老臣、または吉晴か忠重を殺害したならば重く恩賞を与える』とありました。ですから秀望が忠重を殺し、吉晴が即座に秀望を討ったのです」と報告された。

よって吉晴の子息忠氏のもとへ使者を下してその功を賞し、家康も吉晴に御書を与えて、その傷を見舞った。

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吉晴が我慢の限界に達してキレてしまったがゆえに取ってしまった矯激な行動と解釈される説もあり、普段は相当に無礼な扱いを受けようとも従容と受け入れる寛容さと忍耐を持った人間でもあったという。「温厚な奴ほどキレると怖い」という説ですね。



いずれにしても、松江城築城の功績もあり、武人としての逸話に事欠かない人物のようです。



「堀尾之陵」という題名から「堀尾吉晴」のことを知らないとないを描いたかさっぱり解らないということになります。堀尾吉晴に敬意を表して箱書きには「敬題」とあります。



池田遥邨は若年より歌川広重に傾倒し、法被姿で広重の足跡を辿り、東海道五十三次を3度も旅し、また生涯、自然と旅を愛し全国を旅して回った。晩年は種田山頭火に傾倒し、山頭火の俳句をモチーフに画作を行い、山頭火の姿で旅をしたそうです。

冨田渓仙の影響を受けた鳥瞰図法による明るい色彩の風景画で独自の画風は実に魅力です。本作品は旅のスケッチのような何気ない作品ですが、余すところなく池田遥邨の魅力を表現しています。

地文建水 伝村田整珉鋳? その3

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建水でまともな作品は少ないようで、当方もその一人です、なにかいいものはないかと物色しても南蛮焼とか・・・。本日はこんな作品が眼について購入したので紹介します。

地文建水 伝村田整珉鋳
古箱入
口径143*底径*高さ87



茶道の建水として製作したのではなく仏具でないかもしれません。お値段は2万強程度。



建水は水を入れて持ち運びしますので、滑りやすかったり、重すぎたり、持ちにくいのは禁物です。



これは鋳物でも薄く軽く、また文様によって滑りにくくなっています。

底には大日本文化年整珉鋳」と銘がありますが、同じような建水の作品は量産品らしくたくさんあります。ただ銘が不明確であったり、型の抜けのよくない作品が多いようです。鋳物に詳しくない小生の目から見ても、型のよくないもの、後から銘の部分をつけたものなどが多いようです。

この建水の作品は三代村田整珉という記述がありますが詳細は解りません。



似た文様の鋳物の作品はほかにも二点あります。



下記の作品は読者からのコメントで「骨董市に村田整珉の作品があるはずがないし、裏の銘が不明確である。」ということでした。









当方にとっては仏具には興味がなく、他の水盤や仏具などの村田整珉の作品をみても素晴らしいとは思えないので、コメントには反しますがかえってこちらの作品のほうが出来が良いように思えます。

もうひとつは銘のない作品です。やはり銘がないものは型にミスが多いようです。









明治の頃の鋳物師はそれなりの絵の心得がないといけないようですね。加納夏雄の修行時代の掛け軸の作品がありますが、蒔絵師しかり、職人は今よりも多能であったように思われます。

結論としては本作品は建水にもってこいの作品です・・・・。

参考までに村田整珉についての記事を抜粋して記述しておきます。

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村田整珉:宝暦11年生まれ、天保8年没。初め木村氏、田村家の後見となり、両氏をあわせて村田といい、総次郎と称し、整眠北玉臾と号す。江戸神田の住。多川眠郎の門下で蝋型鋳物に巧みで、江戸の鍋長、初代竜文堂に匹敵する。手法は写実的で、銅器の置物、仏具等を製作する。門人は木村渡雲、栗原貞乗等がいる。代表作は「竜蝋文五具足」。

置物・花瓶・水盤・仏具等、多様な作品を残し、中でも、新宿花園神社の唐獅子一対(文政4年 造立)は代表作、また、仏具一式が国立博物館に展示されている。

彼の名が一躍世に知られたのは、文化12年東照宮二百年忌に際して、将軍家斉及び紀州候より、日光山に進献する幣串の台の製作を命ぜられたことからです。

田川珉武の門人で、鋳金家(蝋型鋳造の名手)として一家を成した。初代整珉(1761年8月13日 生まれ、1837年11月24日 没)の後は、子供が幼かった為、養子で弟子の木村渡雲(岩手県出身)が二代目整珉となり、後に、初代の子(仙次郎)が三代目整珉となる。
辞世の句に、『極楽も地獄もままよ死出の旅ここは追分ちょっと一杯』

『大日本文政年整珉鋳』と銘のある作品と、木村渡雲(二代整珉)の『渡雲鋳』と銘のある作品がある。

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家内曰く「いままでの建水よりはましね。」だと・・・  

権威を重んじる傾向にある仏具とこの手の鋳物の作品は茶道とは相容れないところがあるようです。ともかくこのような分野はマニアックな愛好家が多く、小生の好む分野ではないようです。茶道の窯もそうらしいですが、小生は普段使いの建水で十分・・・。


展示されている小物達

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休日の投稿につき、手軽な作品から、収納箱する箱も無く、展示室の棚の中や机の引き出し、展示棚の隅に追いやられている小物を選んでみました。



ますは銀化した小皿。欧米人は緑釉の銀化したものを好まないそうです。日本人は逆に銀化した釉薬の作品を珍重したようです。



こちらは銀化の少ない小さめの壷です。これはこれで味がありますが、これらの緑釉の作品は発掘によって大量に出土されています。



粉引の徳利、古伊万里白磁の猪口、覆輪のついた青磁の小皿。



これは例外。共箱があります備前の花入、最近のお気に入り。



どなたの作かは本ブログの読者はお解りでしょう。



古染付・・・、来年の干支。



両方が雄鶏では年賀状の図柄は無理かな?



それではこの掛け軸は・・、奥村厚一の作。



机上の小物・・。



安南の参考品。



宋赤絵?



呉須赤絵。



徳化窯?



古伊万里の白磁猪口、天神様へのお水入れ。

いずれも保存箱がないので、ウロウロしている作品ですが、作品は入手してすぐに箱にしまいこまないほうがいいです。箱を作ったり、誂えるのはかなり時間が経ってからにして、しばらく手元において鑑賞することです。つまらなくなったら何らかの処分、気に入ったら普段使いや箱を誂えるというのがいいようです。

さて、本日紹介された作品たちの運命や如何・・・。



菖蒲遊鯉之図 渡辺省亭筆 その13

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最近取り沙汰されることが多くなり、また本ブログでも投稿される機会が多くなった渡辺省亭ですが、その作品に贋作はないのか?という疑問が前からありました。というのは、出来不出来があることと、近似した種類の印章が多く見られることから、贋作が多いのか、出来不出来が多い画家なのかという疑問がありました。

菖蒲遊鯉之図 渡辺省亭筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



渡辺省亭の真贋について興味深い記事が資料に載っていたので投稿します。

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渡辺省亭の真贋について

渡辺省亭歿後、息子の水巴は父省亭の鑑定を手がけるようになった。「真筆といふ物は十幅に一幅有るか無しである。ましては是れはと思ふ出来栄の佳い物など滅多に見かけない。」というから、なおさらのことである。

省亭作品の真贋の難しさは、当時の人気画家であったこと、そして展覧会に出品せず、そのほかの資料も少ないためである考えられる。実に上手い画家であり、贋がままならないのは、同時代の西洋のジョン・シンガー・サージェント、小品の上手さでは、エルネスト・メソニエを思わせる。ここでは、真贋の参考となる省亭作品の特徴を取り上げ、以下に示してみたい。

その特徴は、

①落款・印章が同時代のほかの画家に比べ、生涯のかなり長い期間あまり変化がなく基本的に単純で、雅号や印章に複雑な種類がないと推定されること。そのかわり、筆跡の流暢さは破格であり、容易に模倣できない。ただし、これらが真作と確定されているわけではない。しかしこれらの落款・印章類は安定していると思われる。

②画風に特別の品格がともなうこと。独特の芸術的な色気がある。これは、私淑した柴田是真とのみ唯一、混同されるような同種の巧さである。

③作品には必ず、筆技の冴えが全画面に見られること。ヴィルトオーソ(名人芸の持ち主)である。その芸術技巧上の最大の特徴である。

④花鳥画家として第一に知られるが、省亭の画歴における最大のエポックが山田美妙の小説『胡蝶』の挿絵、花鳥画家として第一に知られるが、省亭の画歴における最大のエポックが山田美妙の小説『胡蝶』の挿絵で裸体画を描き、世間に論争を引き起こしたことであった。そしてその種の挿絵を多く残していることでもわかるように、実は美人画、それもあくまでも清楚のなかに官能美を秘めた、他の追随を許さないような出来ばえを示している。

この美人画では今日残る作品から想定して、多作であったと推定される。美人画で示される画風は、花鳥画にもどこか秘められたものである。省亭作品にはそうした上記②でも触れた芸術的色気がなければならない。

⑤画面に空間・間を多くとること。これは、江戸っ子らしさでもあるが、描かずして暗示だけで描くのを最大の腕の見せ所、芸術の勘所とする欧米の世紀末肖像画家と一脈通ずるものである。

⑥独特の色彩を使用していること。渡辺水巴の証言にもあるように、色彩には工夫が見られる。これもまた是真との共通性がある。

⑦俗を嫌うこと。どんな通俗的テーマ、モチーフでも、けっしてこれ見よがしではなく、粋な表現にこだわっている。

の以上七点である。

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渡辺省亭歿後、息子の水巴によって鑑定された作品は下記の作品が本ブログでも投稿されています。

月明秋草図 渡辺省亭筆 その3
絹本水墨淡彩 軸先象牙 渡辺水巴鑑定箱
全体サイズ:縦2070*横533 画サイズ:縦1125*横413

この作品は渡辺省亭の作品の中でも最上位に位置する作品だと思います。渡辺水巴は出来のよい、最上位の作品にのみ鑑定したものと推察されます。

ところで本作品の真贋は?



一見するといかにも花鳥画にとりあげられる構図というイメージです。



琳派の手法の滲んだ表現方法です。



「この鯉は実は一匹でしょう。」というのが家内の指摘です。



波というか水辺の表現方法・・・。「これは素敵、好み。」、「この作品はいい」というのが家内の意見。



印章は相変わらず微妙に違う「省亭」の印章で、統一された資料が当方にはなく、現在ある手持ちの資料ではこの印章と一致するものは確認できていません。



小生は記事の内容である「真筆といふ物は十幅に一幅有るか無しである。ましては是れはと思ふ出来栄の佳い物など滅多に見かけない。」というのには、多少異論があって、「是れはと思ふ出来栄の佳い物など滅多に見かけない。」というのが渡辺省亭の真実ではないのかと思うのです。多作ではあるが、出来のよい作品は少ないということです。印章は意外に種類が多いというのが事実ではないかということです。

毎度述べるように、ある程度の見識があれば、ビジネスではない蒐集する当方の側にとっては、出来の不出来で鑑賞するのが正解であって、結論として本作品は今のところ真作とあろうという見解が成り立ちます。







静物図 福田豊四郎筆 その61

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同級生が写真で地方新聞社主催のよる選考で大賞を受賞したとのこと。女性ながらたいしたもんだと同級生が皆、感心しきり・・・。同級生の集まりのサイトからのデータから下記の写真のようですが、まるで日本画の世界・・。



数年前も森吉の山道をドライブしていると目の前に鷲が舞い降りてくるような田舎ですから、このような光景もさもありなん・・。

さて本日の作品の紹介です。郷土出身の画家であり、当方の祖父母、両親と交流のあった福田豊四郎の作品も蒐集して60作品を超えてました。小作品ばかりですが、真作ばかりの作品が蒐集できていますし、出来にはずれのないのが福田豊四郎の作品の特徴です。

静物図 福田豊四郎筆 その61
絹本着色額装
全体サイズ:縦570*横650 画サイズ:縦420*横350



本作品に描かれているメロンはよく描かれている画題で、他の作品をネットオークションや骨董店で1点ずつ見かけたことがあります。(インターネットオークションの作品は贋作)



福田豊四郎の色紙の作品としては人気があり、意外と高いお値段がついています。色紙で5万~10万くらいが妥当なお値段かと思います。



印章、落款から昭和40年頃の作と推察されます。

古くて痛んでいる額に収められていましたが、額はそのままとしました。

なお額といえどもきちんと手入れしておく必要があります。まず硝子やアクリルをきれいに拭くこと、ただしよく乾燥させてから、元の状態に戻します。額も湿気を帯びますので、額の内部に湿気がこもると作品にカビ、シミがすぐに発生しますので、定期的に手入れや様子をみてみることが必要です。



*下記の写真の作品は、母が福田豊四郎氏に依頼して描いてもらい、父が亡くなった際にお世話になった方々に配った色紙の作品のひとつです。

その時に描いて頂いた作品の数枚を母が保管してあったらしく、そのひとつが下記の作品の「メロン」ですが、落款と印章から本作品は同一時期に描かれれた作品と推察されます。

  



福田豊四郎氏の作品もひととおり蒐集しましたので、そろそろ数を少なくして今少しいいものを・・、そうその貪欲さが蒐集するものには必要なようです



表具を改装した作品 三社託 春日百鹿・八幡百鳩・二見浦朝日図 

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刀剣店での店の方との会話。

小生 :「いや~、刀剣の研ぎ代金にはずいぶんとお金がかかりますね。」
店の方:「そうですね、だから刀は錆させないようにしないといけません。」
小生 :「研ぎ代金をかけていると、手頃な刀剣そのものの値段(骨董商の買値)より高くなることもありますね。」
店の方:「それでもメンテナンスがいつかは必要なものです。」
小生 :「掛け軸もそうです。シミや虫食い、巻きシワなどのある掛け軸は放っておくと修理不可能になっていきますし、では改装となるとときとして売れる値段よりも高くなるのが現状です。腹をくくって費用をかけて改装しないといけないのでしょう。」
店の方:「刀剣にしろ、掛け軸にしろいつか誰かがやらないといけないことです。だめになったおしまいですからね。」
小生 :「日本の伝統文化を守る職人もそういう仕事が必要なのでしょうね。」

拵えの修理、刀剣の研ぎなどのメンテナンスが完了した作品は、日々のメンテナンスと保管のきちんと行なう必要があります。保存用の袋は不要になった着物の帯で義母が製作してくれました。これも着物のリサイクルとなり、日本文化を守ることになるように思います。



表具師、研ぎ師、漆職人、金継ぎ職人などに妥協のを許さない愛好家の眼によって仕事を依頼することで、日本の技術もまた存続していくものですが、それが一大危機に陥っているらしいです。日本の伝統文化に中国製の漆、桐などが入り込み、コスト優先とするがゆえに日本製と偽っている現実は、供給側も再考しなくてはいけない課題らしいです。

さて、そんな大それた話もさることながら、本日は幾度か紹介している「痛んだ表具を改装した作品」の紹介です。

三幅対の作品なので、費用がかなりかかるので補修で済まそうとしましたが、表具の依頼先から「全面改装しないと無理」という返答があり、思い切って全面改装しました。費用が思いのほか高くつきましたが、しっかりした作品ですので、後世に伝えるべく英断しました。

三社託 春日百鹿・八幡百鳩・二見浦朝日図 
三幅対 池田孤邨筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1900*横545 画サイズ:縦1040*横360



作品自体は以前にブログに投稿していますので省略させていていただきます。

軸の両脇がぼろぼろでしたが、すっきりときれいに直りました。



正月などの吉祥時に床の間にて掛けるのには最適の図柄ですが、しばらく飾っておいて乾燥させ、改装したときの糊などの湿気を抜きます。



表具という伝統技術はこのようなメンテナンスを依頼することで存続していくものですね。こちらも生半可な表具には苦情を入れますので、きちんとした仕事を要求します。



改装したことのない人には理解できないでしょうが、表具が出来上がると作品の見栄えが格段に違います。京都の代々続くような表具師は非常に高価ですので、当方では依頼したいのですが、まだまだ無理なようですが・・。



日本特有の芸術伝統文化に掛け軸があるのですが、だんだん廃れています。ただ数が少なくなるといつかは見直される日がきます。



最近は桐箱に中国製が多いようです。漆箱も中国製・・・。



共箱はそのままとし、ニ重箱を新調しました。このようの三幅対となるとかなり重くなるので扱いも慎重にしなくてはいけません。立ったまま外箱から軸箱を出そうとして落とす御仁がいますが、掛け軸の扱いは立ったままではご法度です。



軸の出し入れは最初から最後まで座ったままが無難なようです。立ったままで軸を巻いたり広げたりも危険です。このような基本的な扱いをわきまえている御仁が少なくなりました。

掛け軸や陶磁器、刀剣など扱い方には基本がありますし、その扱いの心構えは「ものを大切に扱う」ということでしょう。その大切に扱う心によって作品に宿る神々からのご利益を受けることができるのだと思います。

*下記の記事からもうかがい知れるように、池田孤邨のできよい遺作の残存作品は少ないようです。

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池田 孤邨:(いけだ こそん、 享和3年(1803年) - 慶応4年2月13日(1868年3月6日))。江戸時代後期の江戸琳派の絵師。酒井抱一の弟子で、兄弟子の鈴木其一と並ぶ高弟。

越後国水原近辺(現在の阿賀野市)出身。名は三信(みつのぶ)、三辰、字は周二、通称・周次郎。号は自然庵、蓮菴、冬樹街士(天保後期)、煉心窟(安政から文久頃)、画戦軒、天狗堂、旧(舊)松軒、久松軒など。

池田藤蔵の子として生まれる。10代後半には江戸へ出て、文政年間前期頃に抱一に入門、抱一の号の一つ「鶯邨」の1字から孤邨を名乗ったと推測される。

安政6年(1859年)刊の『書画會粹 二編』では「画名天下に高し、然れども名を得る事を好まず、戸を閉め独り楽しむ」とあり、その人物を伝えている。書画の鑑定に優れ、茶道を好み和歌に通じた教養人で、蓮を好み「蓮菴」と号した。

琳派の後継者を自認したが、孤邨は其一ほど多作ではなく、作品の質も振り幅が大きい。また、抱一や其一、酒井鶯蒲に比べて画材に劣り状態が劣化しているものが少なからずあり、彼らに比べて大名や豪商の注文が少なかったと推測される。しかし、代表作「檜図屏風」(バークコレクション)には、近代日本画を先取りする新鮮な表現がみられる。

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池田孤邨の作品は美術館でも酒井抱一や鈴木其一の比べて格段に数が少ないです。出来の良い、保存状態の良い作品は滅多にないと思われます。近年の琳派の人気もあり、琳派の最後の画家の一人として本作品の希少性は増すように思います。


刀剣 その六 半太刀拵

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近所にアパートが新築され、電気に引き込みの工事が始まり、息子は高所作業車に興味津々。



「あれはアウトリガーというだよ。」、「ふ~ん。」、「張り出し長さが足りないと思うけどね。大丈夫かな?」、「ふ~ん。」だと・・・。

さて本ブログをどのような方々がご覧になられているのかはよく解りませんが、こちらで想像するに、むろん骨董に興味のある方がメインだと思います。ただ刀剣に興味のある方が本ブログをご覧になることは少ないと思います。

刀剣を趣味にされている方はそのことをあまり他言しないということを刀剣を扱う方が述べておられました。物騒なものと、どうも高額な買い物で相続対策が理由のようです。

当方の所蔵はそれほど高価な作品ではないので、そういう心配はないのですが・・・。

さて半太刀拵の修繕が終了したという連絡があり、帰宅に際していつもの刀剣店に寄って受け取ってきました。

「半太刀拵」とは?? という以前に私のような素人は「太刀とは・・」を理解する必要があるようです。

刀剣には大きく「太刀」と「打刀」があるようです。私のように刀剣に門外漢の方にはその違いどころか、「打刀」という名称すら知りませんでした。

刀 その6 半太刀拵
長さ
真鍮金具黒漆素地



詳細はインターネットに詳しく掲載されていますが、基本的に「太刀」は刃を下にして吊り下げて持ち歩く(刀を身につけることを佩用 ハイヨウといいます)馬上を主体とした武具、「打刀」は刃を上にして挿して持ち歩く(佩用)歩兵の武具。どちらも刀のこどで、刀はこのふたつに大別されます。

室町以降は基本的には「打刀」が主流ですが、その時代以降も軍隊での将校クラスは「太刀」を所持する武士が多かったようです。「半太刀拵」は太刀から打刀への過度期の拵えとのことです。「太刀拵」の簡略版?



時代とともに太刀から打刀にする場合など変化があり、長さを切り詰めている刀剣が時代を経るに従い多くなったとか・・・。

長さをつめるのは所持する人の背丈、時代の規制上の点からの理由によることが多いとのこと。よって、長さをつめた刀は目孔が複数になっています。

*この辺の刀剣の事情は、小生の浅学の言葉や字句ではとても表現しきれないものがあります。



拵えは柔らかい布にくるんで保管しますが、鍔は痛めやすいので外して保管するのが基本です。



本作品は四隅がハートでなんともお茶目な鍔となっています。



太刀拵や半太刀拵えの鍔は特殊なものが多いようです。



小生の所有する刀剣類は先祖伝来のもので、むろん営利目的ではありません。先祖伝来の作品ゆえ、研ぎ、金物の修理、塗りの修理、保管をきちんとすることとしました。



刀掛、拵え、刀剣本体、鍔・・・、日頃の手入れも必要です。それが後世に伝えるために必要なことです。陶磁器のようにメンテがほとんど不要のものとは一味違います。

刀剣類は鍔、束、笄、目釘など刀剣本体とは分かれての小物の蒐集が多いようですが、どうも分解したものを蒐集するのは邪道だと思います。印籠も根付が蒐集対象になっていますが、これも邪道だと思います。異論はあろうかと思いますが、揃って初めての作品です。そのようなことは掛け軸や陶磁器にはありませんね。

さて、拵えを保護する布製の袋、既製品はどうもつまらないものです。上記の写真の上は既製品、下は古くなって痛んだ袋です。白鞘はそれまた専用の保存用の袋があります。

先日紹介したように、義母が使用しなくなった着物の帯で保存用の袋を作ってくれました。わが家にも母が作ってくれた保存用の袋があります。



一家の努力でまた後世に伝えっていくものなのでしょう。

さて本日は早朝より東北へ・・・、明日は夕方東京駅から戴いたチケットで歌舞伎座へ、土曜日はふるさと会の会合、ブログの原稿を書いている時間がない


春萌 福田豊四郎筆 その60

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2歳半の息子がぺたぺたと絵の具を付けて描いた作品?



捨て難くて、タトウに入れてとっておいています。



さて、理解できない息子の作品はさておいて、福田豊四郎の作品はかなり理解できてきました。ただ作品が少ない戦前の作品はいまだに暗中模索中です。展覧会にもこの頃の作品は非常に少なく、資料も少ないようです。まだまだ続く・・・。

本日は戦前の頃の福田豊四郎の作品の紹介です。

春萌 福田豊四郎筆 その60
紙本水墨淡彩 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1340*横320 画サイズ:縦2100*横450



当方の所蔵作品の「梅・竹扇面図」・「冨士」・「柳燕図」・「鶏小屋」・「夏之渓流」・「秋渓之図」と同時期の落款「豊四郎生」です。

  

印章は「豊四郎」と思われますが、この頃の印章については資料が不足しており、当方の所蔵作品では初めての印章ですが、資料などの作品に押印されている作品(著名な作品では「春暖」など)から昭和7年年頃の作と推察されます。



この当時の作品で共箱で遺っている作品は稀有と言えるでしょう。



一般的は戦後の抽象画的な作品のほうが人気がありますが、戦前の作品のほうがのどかで戦後の作品よりも好きという方も多くおられます。



戦前から福田豊四郎氏と当方の祖父母、父との付き合いが始まったようです。



戦後になってから、戦地から還った父と交流を深めたようです。



仕事の関係で上京した際も、また福田豊四郎が帰郷した際も会っていたのかもしれません。



やがて母も叔父もその交流に加わることになったようです。いずれ皆酒好きな男ばかり・・、ちなみに父は絵を習っていました。

PS.
ネットオークションにときおり、福田豊四郎の贋作が出品されています。本ブログに掲載されている以外の印章の作品は贋作と思ってください。暗中模索中の蒐集家よりのアドヴァイスです。信用するかしないかは読書の皆さんにお任せしますが・・・。

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