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観紅葉図 三木翆山筆 その3

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骨董商にしろ、刀剣や掛け軸、漆器の修理の依頼先にしろ、一番大切なのは信頼と信用です。これは骨董の世界だけではなくビジネスの基本です。

信頼、信用できない依頼先の仕事は小生はお断りしています。コスト優先、段取りが悪い、清算の支払いが悪い方からの仕事はお断りするようにしています。繰り返しますが、ビジネスの基本は信頼と信用です。信頼の無い方の情報は他の取引先から自然と入ってくるものですし、その情報をもとにして交渉段階で氏素性は解ってくるものです。そういう方で一番手に負えないのは自分が正しいと思っている大いなる勘違いの方です。

さて、本日は三木翠山の作品の紹介です。

観紅葉図 三木翆山筆 その3
絹本着色額装
全体サイズ:縦590*横710 画サイズ:縦400*横520



すっかり秋も深くなってきましたので、展示室も模様替えです。



作品の前の陶磁器の作品は本ブログでも紹介していますので説明は省略させていただきますが、どなたの作かは読書の皆さんにはおわかりでしょう。



もう北国では紅葉の季節から新雪の季節です。新雪と紅葉のコントラストは非常に美しいものです。



新雪と紅葉のコントラストの美しさでその最たるものは上高地ですね。学生時代は登山に明け暮れており、穂高連峰に降った新雪を見ながら、紅葉の沢を渡り、登頂する醍醐味は思い出深いものがあります。



美人は槍か穂高か・・、いずれも高嶺の花。



学生時代の冬山まで経験した登山は今では無理でしょうが、あの醍醐味をもう一度経験してみたいものです。



おっと、無理は禁物。



本作品の落款・印章は下の写真のとおりです。

右は下記の本ブログで紹介した下記の作品の落款と印章です。同じような題名ですが、「観紅葉」と「観桜」の違いです。

観桜美人図 三木翆山筆 その2
絹本着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1400*横540

 

展示室の展示されたもうひとつの緑っぽい壷?は何の作品かはお解りですね。銀化していますが、漢の緑釉の作品ではありません。



すでにブログで紹介した作品ですが、同じ作品群の幾つかの作品が手元にありますので、いつかまとめて投稿もしてみたいと思っています。

登山は不思議なもので、登山中は「なんでこんな辛いのに山に来たのか?」と思うですが、登頂が終わるとすでに次の登山の計画が頭の中を巡っています。

骨董も同じですね。登山は資金繰りや休日が長く取れないと脚慣らしに丹沢や奥秩父へ・・、今回の作品も脚慣らし・・・。ひとつひとつの鍛錬の積み重ねが信頼と信用を生むようです。






氏素性の解らぬ白磁の小壷三点

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陶磁器の白磁、青磁、染付、赤絵といった分野は、生産地や年代の特定は、その種類が多いだけに非常の難しいものです。こういう分野はある特定の分野に集中して研鑽して、その分野を見きわまられると他の分野の作品であることが分ってきて、その違いが理解できてくるようですが、その道のりは長いようです。

いつのまにか何点かの白磁の壷や花入の作品が集まりました。数点紹介しますが、下記の作品はなんらかの記事で本ブログに紹介されています。









白磁の作品といってもいろんな作品があり、その生産地、時代を特定するのは思案の技、もとい至難の業です。本日は下記の作品の紹介です。



白磁陽刻梅・竹文角徳利 伝李朝
合箱
口径33*最大幅99*高さ160



よくある李朝の陽刻の花入のような作です。口の部分、銅の部分など幾つかの部分を個別に作ってあわせています。この作り方は李朝の特徴というより、普通一般的な作り方です。







本作品は洗面所に・・。

白磁陽刻梅・竹文角徳利
合箱
口径33*最大幅99*高さ160



上記の花入と同じ作りです。





白磁沈香壷
合箱
口径90*胴径180*高台径85*高さ180



「李朝白磁壷 蓋付 明器」と題されてインターネットオークションに出品されていましたが、李朝の蓋付白磁壷の蓋は被せる形であり、沈香壷のような蓋はないと思われること、高台の周りの縁のある作りから、古伊万里白磁の沈香壷ではないかと推察しています。



李朝は白磁に少し青味があるのが特徴で、伊万里はその青味がなく、ちょっと堅い感じがします。



その堅い感じが李朝に比べて、伊万里の人気のなさに繋がっていると思われます。伊万里は地肌の白さを追求しましたので、白さは魅力という方が多いですが・・。



本作品は傷ものとはいえ、蓋が残っている沈香壷の白磁のままの作品は例が少なくらしく、あっても今ひとつ形が悪いものが多いようです。、本作品はその点では優品といえるかも・・・。

十和田湖 福田豊四郎筆 その65

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投稿する原稿の作成に時間がとれない状況が続いており、投稿が途切れる可能性がありますので、読まれている方はご了解願います。

福田豊四郎の十和田湖を描いた作品は当方でも数点所蔵していますが、本作品は休屋付近から眺望した十和田湖を描いた作品に相違ないと思います。

紅葉で観光真っ盛りの十和田湖ですが、一番十和田湖が美しいのはもしかしら冬かもしれません。

十和田湖 福田豊四郎筆 その65
絹本着色額装
全体サイズ:縦735*横660 画サイズ:縦525*横450(F10号)



額の裏には画廊のシールがあります。「南天子画廊:」という京橋にある画廊です。印章と落款から昭和30年頃以降の作と思われます。

 

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南天子画廊:1960年に青木一夫・治男兄弟が開業し、以来何度か引越をしましたが、一貫して中央区京橋の地で営業してきました。故青木一夫の岳父・西山保は古美術界の老舗“壷中居”の創設者の一人でしたが、「南天子」という画廊名はその西山保の俳号に拠るものです。南天には1.南の空 2.植物のナンテン 3.南天竺(南方インド)の略、などの意味があります。

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福田豊四郎、十和田湖、「南天子画廊」の関連を調べてみました。

1959年(昭和34年):夏、十和田湖から新潟、佐渡へ旅行
1960年(昭和35年):6月南天子画廊主催にて初の個展  このときについ最近ブログに投稿している「対岸の村」を出展。
1961年(昭和36年):6月南天子画廊主催にて個展
             8月十和田湖旅行
1962年(昭和37年):6月南天子画廊主催にて個展

本作品は晩秋の十和田湖? 1962年頃の作? 



この俯瞰は秋田県側からのルートにある休屋付近からの眺望ではないかと推察されます。



十和田湖を描いた福田豊四郎の作品は思ったよりは少ないかもしれません。ただ、福田豊四郎の地元の小坂から近く、その風景には望郷を誘うものがあります。

同時期に描かれたと思われる作品が幾つか当方で所蔵しています。

湖上の岬 福田豊四郎筆 その49
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦 12号(未計測)

同じような所を描いていますが、この休屋方面は福田豊四郎の生まれ育った小坂からのルートです。

十和田湖早春 福田豊四郎筆
紙本水墨淡彩絹装軸 箱書箱入 550*415

一人の画家を調べていくといろんなことが解ってきます。

源内焼 その85 三彩獅子牡丹鉢

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戴いたチケットがあるというので、東北出張の帰りの夕方、帰宅途中で家内と待ち合わせて歌舞伎座へ・・



歌舞伎も面白かったのですが、もうひとつの小生の楽しみは館内に飾られた見事な日本画の展示です。階段には川端龍子の「唐獅子牡丹図」が迫力満点に飾られていました。



ということで本日は、しばし失念していた源内焼の「三彩獅子牡丹図」を紹介します。

源内焼 その85 三彩獅子牡丹鉢
合箱入 
口径298*高台径198*高さ50



同じ型から製作されたと思われる作品が五島美術館で開催されて発刊された「源内焼」(作品NO70 P82 「三彩獅子牡丹文鉢」)、平賀源内先生顕彰会による平賀先生遺品館企画展「さぬきの源内焼」(作品NO15 P15「三彩獅子牡丹文皿)にて両本に掲載されています。



「獅子牡丹」の文様の作品は源内焼きには数が多く、皿や鉢だけで種類の文様が存在します。「皿」と「鉢」の源内焼の分類は図鑑によってまちまちのようですが、裏側の高台が通常の皿状のものが「皿」、眼鏡底のようなものが「鉢」に分類されているようです。

なお本作品は図鑑に掲載されている作品より保存状態が良く、獅子にはそれぞれ緑と黄色、牡丹には紫の釉薬がかかり、掲載作品よりひとつ使用されている釉薬が多い。



唐獅子と牡丹の関係は本ブログをお読みの皆様はすでにご承知かと思います。「獅子身中の虫には牡丹の夜露が殺虫剤になる。」ということですが、このことを知らない人はまだまだ多いようです。



「獅子身中の虫」にはまったくもって困ったものであり、組織にもよからぬことを行なう者がいるようです。コンプライアンスを徹底しないと組織の存在や信用、信頼を失墜させることとなります。



また「獅子身中の虫」とは身内や自身の中に、思わぬ悪いものが潜んでいたり、裏切り行為のことを表します。これは獅子の身体に寄生する虫により、獅子の命をも脅かされることからきた言葉です。どんなに大きく強いものでも、内部の裏切りや悪いことから身を滅ぼすことにもなりかねないということです。



「獅子身中の虫」に効果覿面の特効薬はないものかとつくづく思います。



先日に本ブログで紹介した「堀尾之陵図 池田遥邨筆」の作品を見ながら、本作品を鑑賞するのも一興かと・・、裏切り者を逆に討ち取った武将のお墓を描いた作品・・。









忘れ去られた画家 游鯛図 中村左洲筆

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先日訪れた箱根の岡田美術館・・、とにもかくにも素晴らしい逸品揃い。息子を義父と義母に遊んでいただき、エントランスにて待ってもらっての見学のため、急いでみて回り、少し消化不良でしたので、図鑑を買ってきました。



じっくり見てきたかった作品がいくつかありましたが、図録には掲載されていない作品も数多くあり、再訪問の必要がありそうです。思うにまかせないことが多いのが世の常・・・。



均窯の作品もそのひとつ。当方の作品とは見比べようもないが・・。



耀洲窯の作品もそのひとつ。



こちらの窯の作品は当方の作品も自信あり・・。



さて「中村左洲」のこの作品を見つけましたので、本日紹介いたします。この画家を知っている方はかなり数少ないと思われます。

前々からこの画家の作品は欲しいと思っていましたが、なかなか縁に恵まれませんでした。たまに作品と出会うことがあっても、ありきたりの構図の「鯛」の作品であったり、しかも怖い?「鯛」の作品であったりでさっぱりめでたさが伝わってこない作品であったりで、触手をのばすところまでの作品にはめぐり合えていませんでした。

今回はちょっと無理をして入手しましたが、忘れさられた画家とはいえ入手金額は当方の予想を越えました。いい作品はそれなりの値段はするものと再認識しました。

游鯛図 中村左洲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 昭和19年共箱 
全体サイズ:縦1883*横540 画サイズ:縦1282*横423



そもそも中村左洲の作品がいいと思ったのは思文閣の墨蹟資料目録「和の美」に掲載されていた美人画であったように思います。ただし中村左洲の作品といったら「鯛」です。ただし前述のように中村左洲の鯛の作品はどれでもいいということではなさそうです。

まず半切の作品は魅力がありません。やはり長条幅のように縦長の作品でないと魅力が少ないと思われます。そして鯛は一匹や二匹ではなく、群鯉が良いようで、しかもにユーモラスな表情のある作品が中村左洲の魅力のようです。



鯛や鮎(小泉斐・檀山)、虎(大橋翠石・岸駒)などの各々画題で著名なそれぞれの画家がいますが、彼らのすべての得意とする画題の作品がいいというものでもないので、吟味して入手する必要があります。



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中村左洲
日本画家。三重県生。名は作十。磯部百鱗に師事、四条派を学ぶ。山水や魚の絵を能くする。巽画会会員。岐阜絵画展一等賞受賞。文展入選。昭和28年(1953)歿、80才。



中村左洲といえば、 伊勢地方では 「鯛の左洲さん」 として広く親しまれている画家です。 左洲は明治 6年(1873)、現在の二見町の出身。昭和28年に81歳で没するまで、終生二見の地にあって鯛の絵をはじめとする多くの作品を残しました。



10歳で父を亡くした左洲は、生業の漁業に従事するかたわら、伊勢在住であった四条派の画家磯部百鱗から絵の手ほどきを受けます。明治28年の第4回内国勧業博覧会に出品した「製塩図」が褒状を受け、以後東京で開催される展覧会にも出品するようになりました。

 

大正6年(1917)の第11回文展では、入選した「群れる鯛」 が*御木本幸吉の眼にとまり、 買い上げられたという逸話が伝えられています。

*本作品は昭和18年初秋に描かれ、箱書は昭和19年5月に記されている作品です。

 

左洲が師事した百鱗は、江戸時代後期以降、全国的に流行した四条派の画家でしたから、 左洲の作品も温雅な写実表現を基調とするようになりました。



伊勢では、左洲といえば鯛の専門画家のようにいわれており、それは左洲が漁師でもあったこと、 魚類は円山四条派の重要な写生対象であったこと、 鯛の絵は吉祥画として多くの需要があったことなどが主な理由のようです。

確かに、鯛を描いた作品には終生伊勢の海に親しみ、伊勢志摩の自然と一体化したかのような彼の特質を見ることができます。一方、内宮や外宮、山岳風景を主題とした情趣こまやかな風景作品には画家中村左洲の技量が より強く現れているように思われます。伊勢神宮が近くにあり、皇族や宮司からの依頼や招待が多く、作品を献上することもあったとのこと。



*御木本 幸吉:(みきもと こうきち、安政5年1月25日(1858年3月10日) - 1954年(昭和29年)9月21日)。日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。真珠王とも呼ばれた。

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中村左洲と伊勢神宮、ミキモトとの関連性があることも興味深い話です。



本作品は中村左洲の鯛を描いた作品の中でも秀作とだと思います。

描いている鯛の表情が実にユーモラスで面白く、通常は数匹しか描かない作品が多い中で、5匹の鯛を人物のように相関している構図は面白い。昭和18年初秋に描いて、昭和19年5月に箱書をしていますが、戦時の中、これほど明るく描けていることには驚かされます。



本作品の鯛を見て、息子曰く「お店にいたよ!」だと、むろん魚屋での鯛・・・。



試食コーナーの常連となった息子は「美味しいね~。」と言って店員さんと仲良しになっていました。



美術館の一流品にしろ、試食の模倣品にしろ、贋作にしろともかくトライしないことには味は解らないもの。所詮本物と模倣品、贋作らは紙一重、ただし評価は雲泥の差、一度きりの人生、hutokoroguaiの許す限りトライすることからすべては始まる。

寒牡丹図 渡辺省亭筆 その14

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小生が書斎で作業していると、息子も一人で遊ぶようになりました。まずは小生の引き出しから物色・・。



紙、ものさし、糊、朱肉、印鑑・・・、小生が普段使うもの。



眼は真剣そのもの・・・。決して叱りつけることはしません、好きなだけどうぞ。ただし片付けしないと一緒に片付けて諭します。



本日は冬の軸の準備・・・・。先日、久方ぶりに源内焼の作品にて「唐獅子に牡丹」にちなんだ作品の投稿をしておりで、本日も「牡丹」につていの作品を投稿させていただきます。

寒牡丹図 渡辺省亭筆 その14
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 大木豊平鑑定箱
全体サイズ:縦2200*横660 画サイズ:縦1210*横505



寒牡丹:厳密にいえば冬に咲く牡丹には寒牡丹と冬牡丹があります。

寒牡丹は二季咲き性の品種で、6月頃にできたつぼみを切り、8月に葉を切って、秋に2回目のつぼみを出させます。これに対して冬牡丹は、春咲きの品種を促成栽培して冬に咲かせたものです。また、品種ではなく開花・観賞時期によって分類する場合もあり、寒の時期、つまり二十四節気の、小寒から立春の前日までの約30日間に咲いているものを寒牡丹、それ以外の冬期に咲いているものを冬牡丹とする分け方です。いずれにしても、真っ白な雪景色の中に花の真紅と葉の緑が映える、四季を愛でる日本ならではの花です。



寒牡丹とは
  春に咲こうとする花の蕾をつみ取り去り
  夏の終わり頃に葉もつみ取って花期を遅らせます
  藁の霜囲いをして暖かいところに保護すると冬に開花する
  花の時期にはほとんど葉っぱをつけない

冬牡丹とは
  春咲きの品種を人工で温度調節し冬に咲かせる牡丹
  なので、見頃の花は鉢ごと土に埋められているのが特徴です
  温度調節をして咲かせているため、花と葉っぱが同時に出ます

簡単な見分け方は   
    緑の葉があれば『冬牡丹』 
    葉が無く花だけ咲いているのが『寒牡丹』だそうです。



本作品は出来、印章などから出来のよい渡辺省亭の真作で、大木豊平のよる鑑定箱になってています。渡辺省亭と大木豊平の関係? 残念ながら当方ではその詳細は解りませんでした。

大木豊平:日本画家。千葉県生。蔦谷龍岬に師事する。帝展六回入選。奉賛会出品。日本画会会員・中央美術会員。昭和55年(1980)歿、81才。

  

シミなどもありますが、渡辺省亭の作品で最も人気の有る図柄のひとつです。



雀の描写も巧いものです。作品の状態は染み抜きする一歩前・・、さ~、メンテナンスはどうしようかな?



前にも述べましたように渡辺省亭の作品には不出来の作品も多くあり、取捨選択して作品を蒐集することが肝要のようです。贋作と判断する方もおられるようですが、出来の悪い作品が多いと当方では判断しています。



当方もだいたい作品が揃ってきましたので、そのあたりの見極めをして、作品を整理していこうと思います。



渡辺省亭・・・、それでもこれからも注視すべき画家の一人だと思います。

箱根にて その1

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義父の誕生日の祝いに食事にでも出かけようと思っていたのですが、義父が帯状疱疹やら風邪に罹患しのびのびになっていました。今月の初旬になって体調が良くなったので、急遽箱根にでも出かけようということになりました。紅葉の観光シーズンでしたが慌てて、家内が旅館と食事する処の予約をとってくれて出かけることになりました。

いつものようにそれ以外は計画なしの旅立ちです。箱根湯元に着く時に道路は混在していることからバスでの予定を中止し、電車とタクシーを乗り継いで食事する蕎麦屋さんに予定時間通りに着くことができました。旅は判断力が大いに問われますね。予定に縛られての旅行はつまらない・・・??

息子が案の定、「パパ抱っこ!」というので、この交通機関の選択は正解でしたし、予定通りバスでまともに目的地に向かったら、かなりの時間のロスでした。



蕎麦屋では個室を予約しておきました。息子はすでに上機嫌・・・。



紅葉にはちょっと早かったですが、部屋からの眺めは最高です。



部屋の飾りつけも小生好み、家内の選択はなかなか・・・・。



食事開始・・。各々、勝手のお好みのものを・・・。このお店のお蕎麦は逸品・・・・、皆が美味しいと感心しきり、小生も久し振りに良き蕎麦に巡り会えました。



息子は箸の使い方が巧くなりました。外での食事のほうが緊張感があるのか、愉しいのか、きちんとしてくれます。



食事の後は邸内見学です。



蔵はギャラリーとなっています。



一階は「山本丘人」の展示でした。



山本丘人の作品は本ブログでも何点か紹介しています。





2階は三岸節子を中心に、東郷青児、宮本三郎、林武、小磯良平、小林和作などの豪華な顔ぶれの展示でした。



当方では彼らの作品そのものは少ないのですが、東郷青児は藤田嗣治の鑑定、宮本三郎は色紙の作品などがあります。宮本三郎の「薔薇」の作品は残念ながら、今は手放しており手元にありません。

  



邸内を見せていただいた後は、庭園を抜けて岡田美術館に向かいます。



階段を歩くのも息子は自力で歩けるようになりました。そうそう、この蕎麦屋さんは藤田公爵別邸だったとか・・。



箱根はモダンなところより、ふるいものを見て歩くところだと改めて実感しました。これから以降のこの旅もそのことをますます感じるようになりましたが、この後の報告はまた後日・・・、ともかく岡田美術館は凄かった・・・

その後は第三の目的地の旅館へ・・・。





箱根にて その2

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夕方、今後の病院建築の方向性などを題目としたセミナーに参加してきました。

デテールでは眼科で採用されている煙感知器と連動した手摺に内蔵された誘導照明が面白かったです。火災の際に火災発生場所から煙の少ない通路を手摺の照明にて誘導するというものですが、こういう便利はものは眼に障害のある方だけでなく、幅広く適用されるようになる可能性のあるものでした。

さて、昨日に続いて「箱根にて」です。

初日の箱根は昼食を蕎麦屋ですました後は美術館でたっぷり愉しんだ後、夕方には湯元に戻って旅館へ向かいました。旅館はかなり古い旅館です。旅館の名前を命名したのは、木戸孝允らしく、フロントには直筆の旅館名の欄間額が飾られていました。この翌年に木戸孝允は亡くなっており、貴重な書とのことです。



泊まる部屋はかなり広く、4部屋ありました。むろん、小生好みの飾りつけ・・・。



建具関連の細工は見事です。



竹の障子は最近見なくなりましたね。



息子は浴衣に着替えて上機嫌・・・。



夕食前には息子と旅館の探索です。



「おいおい、迷子になるぞ!」



「夕食ですよ~」



木戸孝允の書を床に飾っての食事、むろん直筆です。



天井には松林桂月、高島北海らの絵がありました。



それらを鑑賞しながら、「さ~、食事の開始、おじいちゃん、誕生日おめでとう。」



「食事終わりましたよ~」「ん? フロントを呼び出せる?」



デザートです。



欄間額は三条実美の書です。



明治政府創立の功労者達がこの旅館にずいぶんと訪れたようです。泊まる部屋には有栖川宮熾仁親王の欄間額が掛けてありました。福沢諭吉らとも親交があったようです。



部屋の柱は桜、柱が斜めで建具の枠も斜め・・・。こういう納まりができるのかと改めて再認識した次第です。



至るところに面白い趣向がある建物です。 







泊まる部屋の入り口は蔵の扉??











そう、大久保利通の直筆の手紙の下書き、その前にて息子は朝まで熟睡。





「さ~、朝食ですよ~」



朝食後も邸内観察・・・。



天井も立派ですが、今ではこのような納まりは難しいかも。



ただ材料さえあれば、今でもできると小生は確信しています。



納まりはできる、技術も大丈夫、まだ今なら指導すればできる・・・。



もっと住みやすい、意匠ももっといいのができる、ただコストだけがネックかも、まだ今ならできる。このような建築物は骨董も解る人でないとできない



息子も一緒に探索。



著名な画家の作品はなさそうでしたが、かわいい雀を見つけました。



なにやら避難用のロープ・・・、「ん、紐?」 祖父曰く「夜逃げ用?、食い逃げ用?」だと・・・。



この旅館には本ブログでおなじみに寺崎廣業も逗留しており、作品を遺しています。



近代的な旅館よりたまにはこのように国の重要文化財建造物の建物に泊まってみませんか

意外にも今回の旅行を一番喜んでいたのは息子でした。日頃留守の多いパパさんと一緒に居られるのが嬉しかったのかも・・
















氏素性の解らぬ作品 古伊万里盃? 二種

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家内の実家の敷地内にあったという柿木から採れた黒柿で明治時代に作ったという長火鉢、手焙り、そして煙草盆。その煙草盆の残材?を義父が見つけてきて。「これ要る?」・・・。



もともと一客は手焙りと一緒に倉庫改修時に見つけて保管していましたので、今回は上記写真の中央と右のばらばらの部材です。



野晒しになっていたのか、漆の塗装はなくなり、生地にままとなっており、底板は桑なのですが、一客は反っており、一客は紛失してるようです。



これを持って日本橋の漆や指物を扱うお店に修理を転倒してもらったら、なんと二客の修理で7万円、バラバラの方は寸法をつめないと直らないというそつない返事でした。



そこまで費用をかけたら、新しいものが買えるのではないかと思うのですが・・・。一流どころは庶民の感覚とはかけ離れたところにあるようです

そこで山形の黒柿の家具の扱うお店にメール・・。なんとか三客が同じ寸法で直るようですし、これから山形まで現物を送って検討してもらうこととなりました。

本日の紹介する作品は同じように出来損ないと再利用した?作品の紹介です。おそらく発掘した作品かと思われますが、詳細は解りません。

面白いと思ってインターネットオークションで入札したのですが、意外に高くなりました。このような作品に贋作はあるまいと思って、落札しましたが、二つ合わせて25000円なり。ちょっと出来のよい作品が買えるお値段でした

古伊万里盃 二種

白磁 縦彫文 盃?
幅62*45*高さ40



ドレッシングを入れる器にいいのかなと家内に話したら、もっといいものを買いなさいと叱咤激励されました



歪なところが、自分に似ていてすきなのですがね~。



当方は西洋陶磁器のような「ピッシ」とした器はどうも苦手です。



染付 草文盃?
幅75*46*高さ42



このような好みに賛同される方は少ないのでしょうね。



最近はどうも杓子定規な人間ばかりが多くて世知辛い。日本橋や銀座でお金持ち相手ばかりの商売も同じ。漆器、刀剣、家具、掛け軸などのメンテナンスは地方を利用しましょう。現在は地方のほうが腕の良い職人がいます。



出来損ないはあくまでも出来損ないですが、そこがかわいいという人間が好きです。出来損ないを一人前にするのには意外に費用と手間のかかるもののようですが・・・

食器棚の奥にしまいこまれそう・・・・。

鐘馗図 平福穂庵筆 その12

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最近の週末は天気が良いと落花生の天日干しです。落花生は非常に手間のかかる穀物です。採れた後は選別、落花生の仕分け、天日干し、さらに仕分け、殻除去、仕分け、燻りとその手間たるや販売コストに合わないのである。野菜が高いと消費者は苦情を言うが、今の販売価格では維持できないのが農業の実態らしのようです。



さて、五月の節句でもないのに本日は「鐘馗」様の作品の紹介です。最近はとくに入手の難しい平福穂庵の作品です。

鐘馗図 平福穂庵筆 その12
紙本水墨軸装 軸先象牙 平福百穂鑑定箱
全体サイズ:横420*縦1940 画サイズ:横300*縦900



円山四条派の流れをくむ写生体で平福穂庵の魅力一杯の水墨作品。平福穂庵は、明治時代前半の日本画の混乱期に近代日本画の方向性を示した先駆者の一人であり、写生を重んじるその精神は、子の平福百穂に受け継がれていきます。そして、平福穂庵がつけた中央画壇への道筋を足掛かりに、寺崎広業や平福百穂がその才能を開花させたと言えるでしょう。



平福百穂が父である平福穂庵の鑑定をするかというと、これは非常に珍しい箱書です。他の作品の箱書と比較すると下の写真のようになります。珍しいですが、ないことはない鑑定箱書です。

 

このようなデータは蒐集したことによって積み重ねられてきます。

 

印章と落款は資料と比較すると下記のとおりです。今はデータさえあればすぐに検索して照合できるので便利ですが、あくまで写真データですので、幾つかの実物を比較しておく必要はあります。

 

ただし、資料にばかりかかりっきりでいても判断できるものではないように思います。

 

本ブログに幾度の投稿されいる寺崎廣業と平福穂庵の関係を述べます。寺崎廣業が鹿角の登記所に勤めていた22歳の明治21年、平福穂庵の勧めで寺崎廣業は 上京し、穂庵邸に寄宿するようになります。このときに寺崎廣業は力強く躍動する線やみずみずしい写生表現に、穂庵から大きく影響を受けています。



本作品と同じ画題の寺崎廣業が描いた「鐘馗図」の作品にそのことをうかがいしることができます。



落款からは明治20年代の寺崎廣業の作品と推測されます。この時期の作品で遺っている作品は非常に少ないと思われます。



本日の平福穂庵の作品と近似した描線といえます。



両作品を比較してみましょう。

 

穂庵は寺崎廣業の郷里での師である画家、小室怡々斎に遠慮して、寺崎廣業を客分として迎えたようです。

 

寺崎廣業は忙しい平福穂庵の仕事を手伝いながら学び、穂庵はまた口癖のように「古画を模倣せよ」と指導したと伝えられています。

 

しかし、平福穂庵の苦しい暮らしぶりを見て、5ヶ月の修行の後、再び寺崎廣業は遊歴の旅に出ています。その直後に寺崎廣業はもう一人の師である南画家の菅原白龍に出会っています。

 

*余談ですが、平福穂庵と菅原白龍は本ブログでお馴染みの渡辺省亭と親交のあった数少ない画家です。

平福穂庵から寺崎廣業、そして穂庵を父とする平福百穂とのつながりを理解する上でこれらの作品は非常に参考になります。ちなみに寺崎廣業とのライバルというと横山大観になりますね。



鍾馗図 伝横山大観筆
絹本着色軸装合箱(署名有)二重箱軸先鹿骨 
全体サイズ:横505*縦2050 画サイズ:横373*縦1167



あくまでも「伝」です。お遊びで購入した作品ですが、自由奔放な描き方で出来はいいですね。



箱書から察すると、進呈作品としてどなたかに依頼されて描かれたように推察されますが・・。



初期の頃の落款と思われます。



現在は掛け軸の作品はインターネットオークションにて数千円で面白い作品が入手できます。下記の作品もまたインターネットオークションで入手した作品です。



江戸期くらいはありそう?

鐘馗図 無落款
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙加工 合箱タトウ
全体サイズ:横938*縦253 画サイズ:横193*縦253

軸は改装されています。



誰が描いたかはまったく不明ですが、昔から端午の節句にはどの家でも「鐘馗図」を飾ったのでしょう。



鍾馗は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神であり、日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりしていました。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする風習が古くからあります。



一幅くらいは一軒の家に欲しい画題の作品であり、選ぶなら魔よけになる「効験あらたかな作品」がいいですね。





寛政壬子浅絳山水図 釧雲泉筆

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いままで迷路に迷い込みながら、蒐集してきた「釧雲泉」の作品ですが、少しずつ理解度が深まってきました。未だに未熟なところで判断に迷うことがありますが・・・。

寛政壬子浅絳山水図 釧雲泉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製加工 合箱
全体サイズ:縦1820*横420 画サイズ:縦1060*横360



賛には「壬子季夏冩於黄備之寓居 岱就 押印」とあり、1792年(寛政4年)夏に吉備、岡山滞在時34歳の作。



印章は「釧就」、「仲孚」の白文朱方印の累印が押印されています。



この当時の作品は後年に作品より評価が高いようです。模索しながら描いてる時期でしょうが、後年の重苦しさよりもこの当時の自由奔放さが評価されているようです。



評価が高いために後年の作ほどではないですが、贋作もあるようで、最近紹介した作品で最終的に贋作と判断した作品もあります。



南画の作品は迷路です。出来や落款、印章からだけでは難しく、その作品の雰囲気が読み込めないといけないようです。



さ~て、本作品はいいように思いますが、最終判断はじっくりと鑑賞したあとでのこととなります。



ここまでして迷路に入り込む必要がないという方もおられるでしょうが、骨董を趣味としたことのない方のご意見であり、仕事も趣味もいずれもいつかは迷路に入り込む時期があるものと割り切らざる得ないもののようです。



最終的にいいものだけが遺ったときは、充実感のあるものです。たとえ本ブログのようにガラクタばかりでもね



本作品の一年後に描いた下記の作品と並べてみました。

寛政浅絳山水図 釧雲泉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製加工 合箱
全体サイズ:縦1850*横568 画サイズ:縦1413*横461



左の作品は、賛より製作時期が1793年(寛政5年)陰暦11月と解ります。同じく備前に居た頃と推察されます。このように検証するにあたり、同時期の作品を比較してみるのが有効なようです。一年後の作品のほうがやはり出来はいい。



さて手前の刀剣は古刀で室町末期の作で、「南都住金房左衛門尉政定作」。鑑定は真作であり、研ぎなどのメンテナンスが終わりました。



刃紋も見事な作とのことで筋がよいものと・・・。



今では刀の人気も下火らしいですが、本作品は家の伝世の作ゆえ大切にしておくべき作品と心得ております。ただし物騒なものだけに息子に見られないように、こっそり夜中にメンテしたり、鑑賞したり・・・。

*掛け軸の防虫剤と刀剣は相性が悪いらしい。保管はまた難しくなります。掛け軸は湿気を嫌い、漆器は乾燥を嫌う。保管は矛盾するものを複数扱うとますます難しくなります。

源内焼 その86 三彩人馬文大皿 

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初めての新しい歌舞伎座です。



幕のデザインも面白いですね。



開演中は撮影禁止で、開演前と休憩時間だけの内部撮影となります。



休憩時間中はロビーに飾られた日本画の鑑賞となります。

上村松園。



川端龍子。



小林古径。





奥村土牛。



伊東深水。



大作ばかりです。大作というと緞帳・・、こちらは松尾敏男。



そんな作品の中に本ブログでお馴染みの平福百穂の絵馬がありました。



近代画家の一流品ばかりです。浅井忠の作品もありました。

本日は日本画ではなく源内焼の作品の紹介です。

源内焼 その86 三彩人馬文大皿 
合箱入 
口径340*高台径198*高さ50



同じ型から製作されたと思われる作品が瀬戸内海放送編「香川の美Ⅰ 陶芸漆芸」(P30)にも掲載されています。

平賀源内が生存中の作品には源内焼の作品すべてに銘はありません。「銘」のある作品を貴重と考えるのはどうも大きな誤りのようです。

むろん平賀源内自らは作品を製作していませんし、平賀源内は製陶事業家であってけっして陶工ではありません。このことを勘違いしている人がたいへん多いようです。



本作品は図鑑に掲載されている作品よりも抜けの状態が良く、釉薬の色具合もよいようです。

平賀源内が歿した後になって、赤松松山、舜民らの陶工がそれぞれに銘を用いて独自の作域を確立していきますが、平賀源内の甥の堺屋源吾のみは自分尾の銘を用いず源内焼の忠実な陶工として終えています。

また源内焼の名称は、比較的に新しく、源内焼の呼び名は「青焼き皿」、「いぎりす鉢」、「万国図の鉢」などと直接に作品を則した呼び名や地名の「志度焼」となっていたようです。
 
「鳩渓焼」は明治35年になって、源内の末孫平賀源太郎が焼成したもので、志度の自宅に庭に窯し築き、京都から陶工川村某氏を雇い入れて際作したもので、作品はと多く源内焼には及ばず、すぐに衰退したようです。ほんの一部の作品以外は源内焼とは比較にならない下手物です。



口径が34センチという皿は源内焼では地図皿、一部の山水文皿に次ぐ大きさになります。源内焼には40センチを超えるは滅多にありませんが、なんでも鑑定団で放送されたように数枚しかないというわけではありません。



このように地図皿や山水文皿以外に、このような大きな皿は非常に貴重であり、源内焼の陶工の腕の確かさをうかがわせる作品には相違ないと思います。



釉薬も品の良い発色となっています。高台内には目跡があり、なんらかの下駄を履かせた焼き方が解ります。



これほど状態の良い状況で遺っているのは、よほど大切に保存されていたのでしょう。古伊万里や鍋島が評価が高い日本の陶磁器ですが、源内焼はもっと大いに評価されていいと思うのですが・・・。

参考までに源内焼の陶工を整理してみました。

赤松松山:源内焼の名工の一人。名を光信といい、号を松山と呼び、通称は五番屋伊助である。元文4年(1739年)、志度町に生まれ、父清兵衛と共に志度で唐津焼を焼いていたが宝暦5年5月平賀源内について陶法を学び、弟忠左ェ門、新七等と製陶業に従事した。初期の源内焼は赤松松山が中心になって、焼成したものと推察される。

脇田舜民:源内焼の名手。作品に「民」、「舜民」、「□々斉舜民」または「志度舜民」と記している。この舜民の銘についてはかつて平賀源内の別号、または源吾の号ではないかとう説があったが、今では否定されている。中国の陶工にも勝るとも劣らない陶工と称せられた。

堺屋源吾:(さかいや-げんご?-1819)平賀源内の甥。讃岐(さぬき)(香川県)の人。宝暦のころ長崎から郷里の讃岐志度村にかえった源内に,交趾焼を模した源内焼を学んだ。赤松光信とともにその製法をつぎ,製品はのちに志度焼といわれた。文政2年8月7日死去。陶工の技量はめきめき上達し、かなりの技量であったらしい。

高見周吉:讃岐出身の彫師で陶工。平賀源内が江戸に呼びつけて面倒をみたが、細工は日本で一,二を競うほど上手であったどうだが、癇癪もちであったとの記録があります。

ともかくきちんとした知識がないと源内焼の評価はできないようです。



秋景山水図 寺崎廣業筆 その52

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11月の週末は箱根まで一泊。家内の急な旅館の手配ですが、ちょっと古風な*旅館に泊まりました。木戸孝允、大久保利通、三条実美らの書に囲まれた特別部屋?に泊まりましたが、その旅館の紹介の図録に寺崎廣業の作品が紹介されていました。



その旅館に泊まった明治34年4月28日の作のようです。酔って求めに応じて描いた作品との説明です。旅館の方にお尋ねしたら「よくご存知ですね~」だと・¥・・・。

本日は本ブログでおなじみにその寺崎廣業の作品です。

秋景山水図 寺崎廣業筆 その52
絹本水着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2140*横554 画サイズ:縦1205*横412



共箱もなく、むろん鑑定もありませんが、現時点ではこれは寺崎廣業の作に相違ないと判断しました。なお本ブログで数多くの寺崎廣業の作品を紹介していますが、そのずべてが真作とは判断できません。非常に贋作が多い画家ですし、明らかな贋作は投稿していませんが、非常に際どい作品が紛れ込んでいるようです。



本作品の製作年代は、落款から判断して大正時代の作と推察されます。印章は「*騰竜軒」の白文朱楕円印が押印さています。



*騰竜軒は寺崎廣業が居する所の名前でもあります。

*明治34年5月に自宅の床の間の壁際から筍が芽を出し、これに因んで漢詩人小野湖山から画室名「騰竜軒」、別名「天籟山人」をもらい、画塾の名称も宗山画塾を「天籟画塾」と改称しています。よって本作品は明らかに明治34年以降の作です。

*箱根で宿泊した旅館は「福住旅館」といい、福沢諭吉が懇意にしていた旅館です。最近紹介した川合玉堂の明治33年の作の作品の巻き止めに「「庚子(かのえね、こうし)六月為諭吉 欸冬鮎図 玉堂筆 小湖誌」の「小湖誌」とあったのは小野湖山の可能性があるのかな?
つまり寺崎廣業、小野湖山、福沢諭吉、川合玉堂とが関連する・・、蒐集する者は妄想にとらわれず、現実だけを見るべきですが、こういう想像から検証していくことも大切かと・・。



琳派風の画風がうかがえ、手前に紅葉、その上部に川、そして霞、遠景に山岳の大胆な構図と色使いは晩年に風景画を得意とした寺崎廣業の真骨頂といえる作品でしょう。

琳派風の表現に寺崎廣業が取り組んでいたことはあまり知られていませんが、現在、秋田市立美術館で公開されている展覧会には新たに発見された「春秋花卉図」(二曲一双)の作品が紹介され、琳派の画風に取り組んだ作品として展示されています。



この作品は依頼されて気軽に描いた作品に相違ないように思われます。大正期には信州の別荘に毎年のように赴いており、信州の秋の景色を描いた作品でしょう。



ご存知のように大正期になると、寺崎廣業は風景画がメインの画家となります。大正元年に横山大観と競作となった有名な「潚湘八景」が契機となっています。この作品は偶然に同題の作となり、その背景には横山大観とともに中国を遊歴したことがあります。



山水を描くようになった理由は幾つかあるようですが、岡倉天心に「山水を学ばねば筆が伸びぬ」と言われたことに啓発されたことも理由のひとつで、明治30年半ばから山水画の研究に没頭します。

中国遊歴では中国画の峨々たる山は胡蝶ではなく実景であることに感動し、以後は南画風の写生的表現を画業の中心に置くようになります。



掛け軸から学ぶこと、推察することは限りなくありますが、無頓着ならなにも気がつかないで終わるのも事実です。

さて、真贋はともかく50以上の作品が蒐集されましたので、同時期の作風を比較してみました。

色紙 林檎と紅梅そして挿絵原画 福田豊四郎筆 その63&その64&その65

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最近入手した福田豊四郎の色紙の作品が二点ほどあります。福田豊四郎の色紙の作品は丁寧に描かれており、飾っておいても飽きのこない作品が多いと思います。

ネットオークションにおいては怪しい作品が多く、吟味して購入する必要がありますが、本ブログに掲載されている落款と印章を参考にされると間違いは少ないと思います。

林檎 福田豊四郎筆 その64
紙本着色 色紙タトウ入 昭和40年頃
3号 



福田豊四郎の色紙の作品で背景まで着色された静物画は非常に珍しく、また押印されている印章が押印されている作品も数が少ないものです。この押印されている少し縦長の「豊」の白文朱長方印は年によって、多少違いがあり、2種類あるのではと当方では推察しています。




紅梅 福田豊四郎筆 その63
紙本着色 色紙額装タトウ入 昭和40年頃
3号 



本作品の落款と印章は当方の他の所蔵作品である「蜜柑」などと同じものです。当方で所蔵する「蜜柑」などの色紙の作品は父が亡くなった50年前に母が福田豊四郎に依頼して、父が生前にお世話になった方に差し上げるために描いた頂いた色紙作品の中、母がで手元に残した作品のひとつです。





 

福田豊四郎が描いた梅の作品は幾つか所蔵していますが、下記の作品は祖母の依頼で、紫と朱の生地に描いたペアのうち、紫の小袱紗に描いた梅の作品です。印章は押印されず、「豊」の略字が記されています。



写真では伝わりにくいのですが、このような袱紗は印刷などと違って品格があります。

「林檎」の作品のような作風は意外に福田豊四郎には珍しく、印章も珍しいので、一見購入を躊躇する方も多いかもしれません。当方では同じ印章の作品があり、それらを参考にして判断していますが、大半の判断根拠は作品の出来であることには相違ありません。



印章なのどの知識を頭の隅においておかないと入手を逃すことになりますが、マニアックにならずに第一印象で真贋は解るようになってきました。



色紙の作品はまだまだ男の隠れ家にありますが、現在手元にある福田豊四郎の色紙の作品が増えてきました。



手頃な値段で入手できる福田豊四郎の色紙ですが、「色紙の作品に魅力のある」のも福田豊四郎の特徴と言えるでしょう。

 

日本画というのは、大きな作品ばかりでなく、着物や帯に描かれた作品もあり、非常に多種多様な一面があるものです。

そういえば、知り合いの女性が帯に描いた福田豊四郎の作品を所蔵していると言っていましたが・・・。その作品はやはり祖母から叔母に伝わっていた作品らしく、またしても興味深々な作品が・・・。

ところで展示室には代々伝わる蒔絵の硯箱を出してみました。幕末頃の逸品、実は文箱との揃いです。

この作品は当方の未公開作品です。高蒔絵は日本の芸術ですね。小刀や錐は刀剣の世界、墨は中国、水滴は金物細工。総合芸術です。ここにもひとつの色紙のような作品の世界があります。色紙の世界と相通じるということで、今回の展示です。

蓋表と裏では絵柄が違い、箱を開けるとそこは別世界・・・。



なんといっても息子が興味深々・・・。ただし、当方の旧蔵品ゆえ非公開、息子にも非公開・・??

おっと、福田豊四郎の小作品というともう一作品あります。

挿絵原画? 福田豊四郎筆
紙本着色 額装
画サイズ:縦85*横114



挿絵で著名な福田豊四郎の作品

三浦綾子の「氷点」
昭和39年12月(1964年)~昭和40年11月(1965年)
「続氷点」
昭和45年5月(1970年)~昭和46年5月(1971年)
福田豊四郎没後は向井久万が担当

本作品には非常に珍しい印章が押印されています。



福田豊四郎の挿絵原画と思われる作品。ただし正確には挿絵の原画かどうかは不詳です。

戦後を中心に数多くの挿絵を福田豊四郎は担当し、「氷点挿絵展」を催したり、小作品にも数多くの秀作を福田豊四郎は遺しています。

また没後の昭和63年(1988年)に妻文が秋田県立博物館に作品24点とともに、挿絵原画1215枚、スケッチブック71冊、スケッチ1184枚が寄贈されており、それゆえ市場に残存している挿絵原画は少ないと思われます。以前に紹介した大町桂月の挿絵原画とともに大切にしておきたい小品です。

えびす講

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先週末は恵比寿(・大黒)様への感謝の日。よって家内と息子と共に鯛を買いに出かけました。



早速、神棚の前の祭壇を祀り、捧げ物・・。鯛は古伊万里の大皿へ。



展示室には恵比寿・大黒を飾ります。

まずは加納鉄哉の作。



河鍋暁斎。



1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願する日です。



柴田是真。この作品は息子がまだ家内の胎内にいた頃に購入した作品です。入院している家内に持っていって見せたという我が夫婦にとっては思い出深い作品のひとつです。

この時には家内が出血し緊急に救急車で病院に搬入され、息子の出産は一時断念かと思われた時でもあります。本作品は我ら家族に息子を引き入れたというご利益があります。



えびす講は各家庭内での祭祀の意味も持ち、東日本では家庭内祭祀の意味合いが強くとか。また東日本では商業漁業の神としてのみならず、農業神として崇める傾向が西日本よりも顕著とのこと。



河鍋暁斎と柴田是真の二人は仲が悪いようで良かったという当方の推察。明治画壇の恵比寿・大黒・・・。ボロボロの状態で改装した作品、今後のいい作品に巡り会えますようにと小生は崇めました

日当たりがいいので義父と義母は落花生の天日干し・・・。



今年は落花生の出来は良くなかったようで・・・・


初雪

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先日の初雪の日、家内が離れで洗濯物を干していたら、息子と「初雪のお茶を飲もうか?」ということになったらしい。勤務先の小生にメールにて「茶室のエアコンのリモコンどこ?」とか「弓野焼きの水指どこ?」とかの連絡・・、会議中にて無視



ま~、罪滅ぼし?に主茶碗に小生作のお茶碗を使ってくれたらしい。銘は「初雪」なんてな



帰宅したら息子とが「パパとママと爺と婆でお茶飲もうか?」と・・・。風呂に入る前に一服。夜の初雪を眺めながらのお茶席となりました

ジャングルジムがある茶席で、縁側には洗濯物が干してるのですが、息子は上機嫌です。



小生も家内と息子に点てました。



息子は様になってきております。



「お茶、どうぞ」などど・・・。



11月の50数年年ぶりの初雪、寒い夜の暖かいひとときでした。家族がすべての原点、つねに大切にしなくてはいけませんし、壊すような行為は慎まなくてはいけません。

明日からは広島方面、大阪、四国と挨拶回りです。しばしブログは自動投稿としておきますが、なにしろ隣で息子を遊ばせながらの原稿作成、思うに任せませんので粗文のまま・・・。

贋作考 (柳下)唐美人 寺崎廣業筆 その51

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郷里出身の画家の寺崎廣業の作品は贋作が多く、要注意の画家の一人であるということは再三、本ブログで述べてきましたが、贋作の多い理由を当方の経験から推察すると下記のことだと思います。

1.生前は横山大観、竹内栖鳳と並ぶ人気画家であったこと。当然高値で売買されていた画家の筆頭の一人であったと思われます。

2.多作であり、依頼されたなら気軽に作品を描いていたこと。横山大観は描いた作品はすべて記録していたので、記録に無い作品は現在でも所定の鑑定ではほぼ真作とは認めていないの比して、寺崎廣業の所定の鑑定というものが現在でも存在していない。(秋田美術倶楽部が現在は鑑定しているようですが・・・。)

3.生活が派手であり、周囲の画家からは反発あったろうと推察され、「その程度の絵なら俺でも描ける。」という不遇の画家が多々いたと思われます。とくに秋田などの地元に贋作が多いらしい。これは平福父子も同じ傾向です。

4.天才的な個性の画家ではなく、画風も個性に乏しい。努力の画家であり、その点では真似しやすい。

本日は寺崎廣業の作品分類でも初期の頃から描いていた美人画の作品についての「贋作考」です。現在手元にある寺崎廣業の作品を整理中であり、数点際どい贋作が紛れ込んでいるようでますますの淘汰が必要なようです。

寺崎廣業の「美人画」は人気が高く、寺崎廣業の画題の中では一番難しい画題のようです。

(柳下)唐美人 寺崎廣業筆 その51
絹本水着色軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦2150*横670 画サイズ:縦1400*横520



寺崎廣業の美人画はまだ絵の腕前が発展途上であった明治の中頃から、挿絵を中心に人気を博して数多く描いています。その当時は版画などにも多くの美人画を遺しています。この当時の美人画は「風俗美人画」と称せられるものでした。



その後、「秋苑」、「月光燈影」などの名品を描き、後に美人画として名を上げた鏑木清方も、「美人画に品格を与え芸術の域に高めたのは寺崎廣業の功績が大きい。」と述べています。

腕前が発展途上であり、画風も変わるし、落款。印章も変遷しており、体系的に整理しないと解りにくいものです。



作品に押印されている朱文白丸印「廣業」の印章は美人画の作品では、明治33年作の「美人(芸妓)」(富岡永洗との双幅)にも押印さています。本作品はその印影と近似しいてますが、微妙な点で一致していません。ただし他の作品のものにあり、年代によって2種類の可能性もあります。



この明治33年作の「美人(芸妓)」を描いた当時はまだ「二本廣業」という落款の書体の頃の作品です。本作品のような落款の字体になるのは、大正になってからです。箱書の落款も同様の頃の所定です。

本作品を描いたとしたら、明治40年代から大正初期の作ということになります。 

  

有り得ないことではありません。ここから先の考察は小生の推察の域を越えた判断となります。この頃に描いた唐美人の作品は「夜聴歌者」の屏風に描かれたものがありますが、このような力作ばかりと比較するは早計となりかねません。多くの作品を参考としていく必要があります。ここが難しいところです。

贋作を真作と判断するのは趣味のレベルでは大きな間違いではなく、よくある罪の無い思い込みですむことなのですが、決してしてはいけないのは、真作を贋作と決め付けることです。判断は慎重に行なう必要があります。



さて、他の所蔵作品と比較してみると面白いことが解ってきます。三本廣業の落款の時代にも「美人(芸妓)」に押印されている印章は使われており、その作品の箱書を当作品の箱書と比較してみると下記のようになります。



また、寺崎廣業の美人画の顔の表現は、それまでの胡粉のべた塗りに臙脂の隅をとる方法から、胡粉と黄土を混ぜてその上澄みをつかい、さらに胡粉を重ねる方法で柔らかい自然な肌の色を再現しているという特徴があります。



美人画という分野は常に難しく、決して踏み込んではいけない領域かもしれません。ただし地元出身の画家ということで、寺崎廣業の美人画の作品はより深く再考の必要がありそうです。

同時期に描かれたと思われる作品を比較してみました。本来ならもっと多くの作品を慎重に比較して見るべきなのでしょうが、週末や子供の寝静まった後では時間が充分でなく、現時点ではなんとも中途半端な状態のままでの考察となっています。

とりあえず下記の作品との比較です。

梅月想思図 寺崎廣業筆
水墨着色絹本軸装 軸先象牙 二重箱共箱 
全体サイズ:横558*縦2030 画サイズ:横420*縦1210









両作品の箱書きです。

 

互いに同じ印章を用いていますが、かたや作品の印章が箱に、かたや箱の印章が作品に押印されていることになります。



このようなことはありえることではありますが、どうも印影がはっきりしません。

 

 

互いに贋作か、真作か? ふむ美女と関わると碌なことにならないというのは古今東西、昔からの真理のようです。

郷里の画家ゆえ寺崎廣業を蒐集の対象としていますが。寺崎廣業の作品蒐集で避けては通れないのが美人画の作品のようです。

参考作品 下記は晩年作。

 

氏素性の明確な状態の良い寺崎廣業の美人画は意外に評価が高いので、なかなか入手が難しいようです。



氏素性の定まらぬ当方の作品ハ、時間ができたらもっとじっくりというのが、現在の正直なところの判断です。

当方の作品では、釧雲泉、寺崎廣業の美人画は時間とかけて、展示室にすべて並べて、納得のいく判断が必要な時期のようです。

楠木彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作

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「聖観音菩薩像」が続きます。ここでついでに三作品を紹介します。



ひとつは最近紹介した伝平櫛田中の作品です。

聖観音 伝平櫛田中作 その2
共箱
高さ327*幅113*奥行115



この作品は以前に紹介しましたので、詳細は省略します。

もうひとつは澤田政廣の作の頒布作品。これは昭和55年講談社出版販売㈱から発売されたブロンズ彫刻の頒布作品です。

聖観世音菩薩 澤田政廣作
頒布品 共箱
高さ518*幅147*奥行125



澤田政廣の作品で金属製の作はあることはありますが、本作品は頒布作品ですので、数がかなり多く出回っています。



オリジナルの作品は知人が一体持っていましたが、だいぶ作風は違うものです。



オリジナル(原型)は澤田政廣自作ですので、それなりの風格はあります。



講談社からの頒布作品です。

 

落款や印章は木版か複写でしょう。頒布価格は高く。55万という資料もありますが、あくまでも頒布作品ですので、取引価格は10分の1以下が妥当でしょう。

 

知人の所蔵していた作品は下記の作品です。このようなオリジナルの作品に出会うまでの息抜きの頒布作品です。オリジナルの如くで売ったり、オークションに出品されていますが、それなりの値段なら許せるのですが、高額での入手は遠慮したほうがいいでしょう。北村西望にはこの手の作品が数多くあります。

聖観世音菩薩 澤田政廣作
共箱(未撮影) 高さ285*幅80*奥行き75



そしてもうひとつは以前に加納鉄哉の作品で紹介した市川鉄琅の作品です。最近えびす講にちなんで加納鉄哉の作品を紹介しましたが、その鑑定箱書をしているのが市川鉄琅です。

楠木彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作
楠木 金彩色 共箱
幅136*高さ315



市川鉄琅:彫刻家。東京生。本名は虎蔵。師・加納鉄哉が復活させた鉄筆彫刻の最後の継承者。



金属茶道具に鉄筆の自由な筆致で花鳥風月を描き、絵画と彫刻を結ぶ技法と評価され、昭和62年(1987)歿、享年85才。評価は、師である加納鉄哉をしのぐとも言われています。



東大寺 第208世 清水公照とは、互いの師匠同士につながりがあり当然のように親交が続いていました。互いに技量を認め合っており、特に清水公照は市川銕琅の業に惚れ込んみ「天下の至宝」という言葉を送っています。



市川鉄琅は鉄筆彫刻の作品が主ですので、このような彫刻の作品は非常に稀です。



金彩が施されているのも珍しいかと思います。



加納鉄哉との関連、志賀直哉との関連は以前のブログでの紹介記事を参考にして下さい。



仏像は顔がとても重要です。また仏像は過去の念がありますので、うぶな作品のほうが無難でしょう。よほど古くて念が消失して枯れている?作品はいいかもしれませんが・・。



作家作品は共箱であることが必須です。

 

このような特徴の有る、癖のある字体は真似が難しいらしい。

 

高村光雲、平櫛田中は真似がしやすいらしいですが・・。

 

平櫛田中と市川鉄琅の「聖観音像」・・・、非常に似ていて興味深い作品です。



さてついでながら、現在展示されている他の彫像作品を改めて紹介します。

伝村田整珉作「大香炉」



伝平櫛田中作「大黒天」



作者不詳「毘沙門天」



伝高村光雲作「菅公」



近日のニュースで博多人形の名工に川崎幸子氏が選ばれたという放送がされていました。ニュースでは「父川崎虎雄に師事していた」とか・・。「川崎虎雄」・・・?、たしかどこかで聞いたような・・。展示室に飾ってある「利休」の作者はたしか「虎雄」・・・。



何気なく購入した作品ですが、どうも「名人と誉高い川崎虎雄」かな? 惜しむらくはマンションの玄関に飾ってあったので、弾みで右手首を破損したこと



作品の底にはたしかに「虎雄作 押印」とありますが、詳細は不明。

下手物揃いながら、感性頼りに探り当ててきた小生の彫像作品ら・・・。

贋作考 浅絳山水図 釧雲泉筆

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昨日の夜に3日間の出張から帰りました。久方ぶりに息子と二人で布団の上での語らい・・・

さて本日の紹介する作品は凝りもせず釧雲泉らしき作品の紹介です。

浅絳山水図 伝釧雲泉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 鑑定杉箱
全体サイズ:縦1870*横410 画サイズ:縦1040*横280



釧路雲泉の初期の頃の作品に触手を伸ばして、ますます迷路にはまり込み、まさしく「下手な鉄砲も数打てば当たる」という感覚です。



南画の作品は難しいということに起因していますが、かの松本清張の「贋作の森」という小説の題材もまた浦上玉堂の南画作品を題材にしています。



「美術館所蔵作品に贋作がある?」という文章がありましたが、本当でしょうか?



本作品の落款や印章は? 箱書がある?



鑑定があるようですが、詳細は不明です。



ところで手前の刀剣は「京二代丹波守吉道」で、研ぎが完了いたしました。以前に拵えともに紹介したのは大阪二代、この刀剣は京二代です



丹波守というと簾刃が有名ですが、「三代以降は作為的に顕著な簾刃」という評価があるようで、評価が高いのはいずれも二代以前の作とのことのようです。刀剣は当方では数が少ないし、研ぎに出す前に真贋は見てもらっていますので、投稿されている刀剣はすべて真作です。



釧雲泉の作品の話題に戻りますが、本作品共々、選別中の手元に近くにあった幾つかの釧雲泉の作品を並べてみました。



その中で落款の書体が近いのは「浅絳山水図 文化四年」と思われます。



なんとも言い難い比較ですが・・。

 

ちなみ下記の作品「蘭図」の真贋もまたは判断に迷った作品です。



蘭図 伝釧雲泉筆
紙本水墨
画サイズ:縦280*横480



釧雲泉の作品にこだわらないすると良く描けている作品ですが、描いた画家の落款や印章を切り取ったものかもしれません? 比較している「竹石図」とはよく似ている描き方です。



贋作は廃棄する方針ですが、このような作品については処分に躊躇することがあります。



落款や印章や落款がなければ良き作品として扱われたものを・・。人間の欲というものは美を冒瀆するものであるということを深く認識しなくてはいけません。



釧雲泉の作品を真贋共々比較することも勉強になります。

一路功名 榊原紫峰筆 その3

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近くの公園に家内と息子と三人で昼食がてらにお出かけ・・。最初は蓮の枯れた池のほとりを歩きました。そこに鴫?・・・。



さらに息子が「カワセミ!」と・・・。



おっと、紅葉を見に来たのですが、来年の干支は酉年でもあり、「こいつは縁起がいいね、来年も良い年になりそうだ。」



充分に紅葉も楽しむことができました。



それでは本日は酉(鳥)と縁起つながりで下記の作品を紹介します。

一路功名 榊原紫峰筆 その3
絹本水墨淡彩軸装 軸先蒔絵 共箱二重箱
全体サイズ:縦1860*横380 画サイズ:縦1090*横275



「立身出世を志して年齢を 経る」という吉祥語句を、1羽の鷺(ろ)と「一路」の 語呂合わせで表現した謎語画題。

 

著名な作品には下記の熊斐筆による作品があります。

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一路功名図 熊斐筆
江戸時代、18世紀中頃 神戸市立美術館蔵
斐(1712~72)は本名を神代彦之進(のち甚左衛門)といい、長崎の唐通事(中国語通訳)の家に生まれた。熊斐という名は中国式の呼称。享保16年(1731)長崎へ渡来し、その写実的作風で江戸時代画壇に強い影響を与えた花鳥画家・沈南蘋に直接師事した唯一の日本人。のち多くの弟子を育て、南蘋様式を全国に広めた。款記に「一路功名到白頭之句 繍江熊斐補圖」とあり”ひたすら立身出世を志して年齢を経る”という吉祥語句を、1羽の鷺(ろ)と「一路」、頭上を飛ぶシロガシラと「白頭」の語呂合わせで表現した謎語画題とわかる。画面は中彩色を用いて淡雅に整えられ、「熊斐印」「淇瞻」の2印に「興到筆随」の遊印を捺す。尾張徳川家に伝来した。



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「立身出世を志して年齢を 経る」というのもたいへんなことですが・・・。



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榊原紫峰:明治20年(1887)~昭和46年(1971)京都市中京区に京友禅の染織家の次男として生まれる。明治36年、京都市立美術工芸学校に入学し、竹内栖鳳、山元春挙から伝統的な円山四条派の写生画を学ぶ。42年には新設の京都市立絵画専門学校に編入学し、卒業制作は文展で受賞となる。大正に入ってからは、日本画の革新に情熱を燃やしたが、文展では受け入れられず、土田麦僊らと国画創作協会を結成。その頃、形式よりも内面を追求しはじめ、国展解散以降は自然に深い愛情を表し、清澄にして崇高な画風を創り上げた。晩年は色彩を離れ、水墨画に独自の画境を築いた。



補足
紫峰は1887年(明治20)京都に生まれ、京都市絵画専門学校で日本画を学び、在学中より文展に入選するなど、早くから頭角を現わしましたが、当時の多くの日本画の旧態然とした作風に飽き足らず、西洋絵画の写実性や桃山期障屏画の装飾性などを研究して新しい日本画を目ざしていました。こうした新しい試みは、然し、保守的な当時の文展では容れられず、紫峰はより自由な発表の場を求めて、1918年(大正7)に、絵画専門学校同期の土田麥僊、小野竹喬、村上華岳らと国画創作協会を結成、その展覧会に「青梅」「赤松」「奈良の森」などの意欲作を、また、宋元花鳥画への憧憬を示す「雪柳白鷺図」「蓮」、動物のリアリティーを内面的に深く掘り下げた「獅子」、澄んで高遠な画境を示す「冬朝」などを発表しました。
紫峰は初期から晩年まで花鳥画一筋の生涯でしたが、最晩年には、古典的水墨画の世界に通じる、ほとんど墨一色による森厳な境地を拓いた。



他の所蔵作品から

蔦図 榊原紫峰筆
紙本水墨軸装 合箱
全体サイズ:縦1310*横583 画サイズ:縦270*横270



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*本作品は画風と落款の特徴的な形から、昭和10年頃の作例と推察されます。印章と落款は参考例と比較しておきます。

 

共箱の落款と印章は下記のとおりです。

 

榊原紫峰の作品は資金調達などの理由により手放したこともあり、なかなかその後は縁のない画家でした。

思文閣のカタログに関連する資料がありました。

参考作品
雪中柳鷺図
思文閣墨蹟資料目録 第453号
P46 作品NO22 
評価金額75万
絹本水墨淡彩軸装 共箱二重箱
全体サイズ:縦2160*横570
画サイズ:縦1350*横420





さすがにいい出来の作品です。

たんたんと整理してきた蒐集作品ですが、そろそろ終焉です。あとはずいぶん前に蒐集した資料の再確認と作品の整理です。お気に入りの作品だけを遺していくことのなりそうです。
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