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秋草 木村武山筆 その6

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高倉健の言葉ではありませんが、「プロとは?」と聞かれると「それを生業とする者」という返事が一番妥当なように思われます。

「生業」とはその職業で生計をたてていることを指しますが、「プロ」と「生業」との言葉の間には、他の追随を許さないという意味が含まれ、また誠心誠意を尽くすという意味が含まれているように思われます。

近年の働く人からはこの「プロ」と「生業」という意識が欠如しているように思えます。漫然と仕事をこなすことが多く、自分の信念で自らの職のあり方を変えていこうという意識が低いように思われます。ゲームのように自分の意識の殻に閉じこもり、対人・大局を見れない、やり直しができない意識が低くリスク管理が甘いということが目につきます。

コンプライアンスが厳しい時代に安易に規則違反を繰り返したり、自己鍛錬より他人への批判・中傷・妬みを優先したりする言動が多いように思われます。

さて、小生も偉そうなことを書くよりも「人の振り見て我が振り直せ」です。

木村武山の作品で代表的なものは仏画ですが、それに準じて多いのが「秋草」と題された金彩を施した本作品のような図柄の作品のようです。きっと依頼されて描かれることも多かったのでしょうし、それほど手間のかかる作品でもないので、数多くの作品が遺っています。

秋草 木村武山筆
紙本金泥水墨淡彩金彩軸装 軸先塗 共箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横460*縦1405



木村武山は「秋草」と題し、下記の作品のような作品を数多く遺しています。花の輪郭を周囲の隅や色で表現する作品が多い中で、本作品のように輪郭をはっきり描いている作品は珍しく、明治末頃の作ではないかと推察されます。

*下記の作品は知人が所蔵していたものですが、今は散逸しております。

秋草 木村武山筆
絹本着色軸装共箱樹脂軸先 
画サイズ:横272*縦1217



共箱の落款と印章は下記のとおりです。他の作品には作品中に押印されている印章です。

  

画中の落款と印章は下記のとおりです。文献資料と比較しております。

 

長条幅の作品が多いこの画題ですが、このように幅が45センチ、長さが140センチを超える大きな作品は珍しいと思います。









このように木の葉に隠れた虫の描き方は木村武山の特徴です。





木村武山は横山大観、菱田春草、下村観山に隠れて、あまり人の知られていない画家ですが、病気により利き腕の右手で描けなくなり、左手で描くなど、非常に興味深い画家です。「プロ」とは「それを生業とする者」と言える代表的な画家でしょう。

 

古清水焼(栗田焼) 色絵布袋唐子香炉

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義父が畑で作っている「タケノコ芋」。今年はたくさん採れたので、会社の皆さんで食べてもらうことにいたしました。義父が近所の方の協力で掘り起こし、芋をきれいにするのには顔を黒くして息子も手伝ったようです。

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タケノコイモは地上に頭を出している姿が筍に似ている事から「タケノコイモ」と名づけられていますが、「京いも」という名称でも流通しています。京都で作られている海老芋も京芋と呼ばれているので混同しやすいですが、別物になります。小芋がほとんどできず、親芋が竹の子のように地上に頭を出します。肉質がしっかりとしており煮崩れしにくく、煮物に使いやすい品種です。大きいものだと60cmほどの長さにもなる品種で、親芋自体を食べるタイプです。

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「京都で作られている海老芋も京芋と呼ばれているので混同しやすいですが、別物になります。」なるほど、海老芋とは別物でしたか。これは小生も勘違いしていました。



ということで、本日は「京芋」ならぬ「京焼」についてです。

「京都の焼き物は近年には見るべきものはない」というのはもはや自他共に認めるべきことになっているようです。それは逆に言うと、過去には偉大なる焼き物があったということでしょう。このことは九谷焼も伊万里の焼き物も同様なことで、現在の陶磁器を製作する者への奮起を促す警鐘のようなものです。

とはいえ当方はそれほど京都で生産されてきた陶磁器にそれほど詳しくもないので、今回紹介する作品ともども京都の焼き物を整理してみました。

まずは本日紹介する作品は下記の作品です。

古清水焼(栗田焼) 色絵布袋唐子香炉
合箱入
幅170*奥行130*高さ146



古清水焼とはとインターネットで検索すると下記の幾つかの文章が見つかりました。



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古清水:「古清水」という名称は、制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。

参考作品

呉州赤絵写五角鉢 奥田頴川作
時代箱(菓子鉢 唐絵鉢)入 
全体サイズ:幅155*155*高さ70



一般的には、野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称します。

なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。

野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造した。その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水(こきよみず)〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成された。

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さらに近代の清水焼との区別はとインターネットで検索すると下記の文章が出てきます。



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近現代の釉薬は大変透明感が強くさらさらしており、文様が釉薬の下に生地の貫入が透けて見えている。古いものはそのようなことはなく、ねっとりとした不透明で盛り上がり感がある。古い赤はどす黒さに近い濃い赤。土は硬くてすべすべしているが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするもの。



古清水焼は高台の裏などに窯印はない。窯印のあるものは古清水焼より若い物と区別できる。

近代作の参考作品

扇面菊花紋様図 番鹿細工香炉(本ブログでは誤って「古清水焼」として紹介されています。)
合箱
幅100*奥行き90*高さ163



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上記の作品との違いは一概には解りにくいものです。



本作品が収められている箱には「栗田焼」と記されていますが、信憑性についての詳細は不明です。



「栗田焼」との関連をインターネットで検索すると下記の文章が見つかりました。

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粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(ののむらにんせい,生没年未詳)によって大きく開花します。仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。

参考作品 

茶入 
野々村仁清作



その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。



それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(おがたけんざん,1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。



町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。



江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。そんな中,京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(おくだえいせん,1753~1811)です。頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(きんこどうきすけ,1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。



幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべえ,1824~84)によって制作された「京薩摩」(きょうさつま)が海外で大きく評価されました。しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。



一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。しかし,その後は,伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的・作家的な性格を強めながら生産を継続し,六代目清水六兵衛(きよみずろくべえ)など多くの陶芸家を輩出しました。第2次大戦後には清水焼団地(山科区川田清水焼団地町)などへと生産の地を広げ,走泥社(そうでいしゃ)が新しい陶芸運動を行うなど陶芸の地として世界的に知られるようになり,昭和52年3月に「京焼・清水焼」として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っています。

参考作品 

鶏図皿 六代清水六兵衛作
箱入
口径*高台径*高さ



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ん~、要約すると幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下し、幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われだした。ここを契機に磁器が主流となった京都の焼き物は古清水焼と一般的な清水焼との分類されるということらしい。

手元にある京都での古そうな焼き物には下記の作品があります。

お気に入りの小さな香炉です。



水屋にて茶巾立てや茶杓立てに使用している作品です。



帯山の刻銘があります。



陶磁器はともかく見識が必要で、当方においてはもっと経験を積む必要があるようです。



京都の陶磁器に限らず、古今東西の古陶磁器は骨董蒐集する者の心を惑わし向上心を煽る。これはいかなる美女もかなわぬもの、美女はすぐに醜悪となるゆえ・・・。

源内焼 その87 褐釉獅子香炉文脚付角鉢 

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先週は出張で三日ほど留守にしていたら、週末は息子がますます小生から離れなくなり、姿が見えなくなると「パパ!」と泣いて探し回る始末・・・

そこで、家にいてもストレスが溜まるので近場の水族館へ・・。



大きな水族館より実際に触れることのできる水槽が多いので、息子以上に小生も楽しみました。ウグイの餌をやれる水槽、そして二人のお気に入りは大きなヤドカリ・・。





鯛・・・。



鯉・・・。本ブログで紹介された画題の魚がたくさんですね。



手長エビ・・。



オオサンショウウオ・・・。



二人ではしゃいで見て回り、車中では二人ともぐっすり。帰宅したらまた元気になって「パパ!」

今週もあちこち出張なのだが・・、ブログの原稿が底をついてきた・・。

息子と一緒に展示室で写真撮影。偉いのは決して作品には悪さをしないこと。ただし、小生の小道具類はおもちゃに変身。

本日は源内焼の釉薬変わりの作品です。

源内焼 その87 褐釉獅子香炉文脚付角鉢 
割れ直しあり 箱入
幅212*210*高さ38



他の所蔵作品である「源内焼 その4 緑釉獅子香炉文脚付角鉢」らとは釉薬が違い、裏面まで釉薬が掛けられていますが、型はまったく同じもので、脇田舜民の作と推察されます。



右から「緑釉」、「三彩」、「褐釉」の三種類です。大きさは微妙に違います。



脚は基本的に貝ですが、種類が違うものがあります。



脇田舜民の「民」の刻銘のある作品がひとつありますが、これは貴重です。ただし、これを平賀源内自身の作と勘違いされておられる方が多いようですが、それは大きな間違いです。平賀源内が実際に作った作品は皆無で、平賀源内が生存中に作られた作品にはずべて刻銘はないどうです。



本日初めて紹介する褐釉一色の作品は数は非常に少ないのですが、見栄えがしないので人気はないようです。ただこのように三種類並べると見栄えがして意外に面白いですね。



入手時から補修跡がありましたが、接着材の跡が見えるものなので、当方で金繕いしました。



獅子に牡丹、獅子身中の虫に効くのは牡丹の露・・・。

一緒に風呂に入り、すぐに寝付いたので、なんとか原稿作成はできたのですが、夜中に小生のベットに潜んできて、朝方にベットから落ちてべそをかいていました。獅子身中の虫・・???

冬木立 福田豊四郎筆 その67(再整理NO)

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本ブログの閲覧数は表示のとおりですが、順位は26万を超えるブログ数の順位らしいです。よく読まれているほうなのか、いないほうなのかは小生の知るところではありませんが、良く続いているものだと我ながら感心しています。最近は300人を越える方が閲覧しているようですので、うっかりしたことが書けないのが気懸かりですが・・・。

さて本日紹介する作品は、本ブログでお馴染みの福田豊四郎が昭和初期の若い頃に描いた作品です。手前に描かれた社は以前に紹介した色紙の作品に共通した画題です。



手前にある大黒天と同型が恵比寿尊と対で思文閣の最新の入札カタログに開催されていました。



思文閣の入札ですから、いい作品であり、ちょっと大き目の作品です。

参考作品
福聚大黒天尊像 満徳恵比寿尊像
「和の美」 思文閣大入札会 作品目録 平成28年12月
作品NO1 P14~15
オークション開始価格:500万



入札開始価格が500万・・・ たしかに知人が単体で思文閣の売却した時が200万でしたから、妥当といえば妥当な金額なのでしょう。このようなオークション資料は非常に参考になります。

  

掲載の作品は各々が共箱ですから、当初から対で作られた作品ではない可能性があります。



なんともご利益のありそうないい作品です。



おっと本日の紹介は福田豊四郎の作品です。

冬木立 福田豊四郎筆 その67(再整理NO)
絹本着色軸装 軸先 共箱
全体サイズ:縦1960*横470 画サイズ:縦1210*横335



書斎にしばらく竹内栖鳳の蛇の作品を飾っていたので、今回は書斎には本作品を飾ることにしました。



福田豊四郎が郷里を独特の叙情で描いています。



北国の寒い冬、灰色の空・・、まだ馬橇が行き交う田舎道・・。



木材が大きな産業でしたので、木材を積んだ馬橇がよく道を走っていました。馬糞がぼたぼたと道に落ちたものです。



雪に霞む山々の景色・・、北国の、ふるさとの叙情がよく出ている作品です。



雪に埋もれる小さな社・・。



ショールを全身に纏う橇の人。



この時代の福田豊四郎の共箱の作品は珍しい。

 

作品集に同じ印章が押印された作品が掲載されています。昭和4年に描かれた作品ですが、この印章は大正末期から昭和初期まで使用されている凡例があります。

 

昭和4年作(25歳)でその題は「雪を描く男」・・・。作品は自画像でしょう。この頃にはすでに上京して作品を製作しています。



ひとつの作品から本当のいろんなことが解ってきますし、情報が整理できます。福田豊四郎の初期の作品もだいぶ蒐集できてきました。



桃太郎の鬼退治 平野富山作

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先日、歌舞伎座にて観劇の合間に美術品をいろいろと見て回ってのですが、平櫛田中作の「鏡獅子」は見当たりませんでした。前の歌舞伎座にはあったのですが・・・。その平櫛田中作の「鏡獅子」の彩色を担当したのが、平野富山ということはあまりにも有名な話ですね。



平野富山については平櫛田中との関連もあり、また「なんでも鑑定団」にも出品されていますので、ご存知の方は多いと思います。

桃太郎の鬼退治 平野富山作
ガラスケース入
ケース:幅590*奥行550*高さ550 本体:幅340*奥行280*高さ255



息子の三歳の誕生祝、クリスマスプレゼント、お年玉の三つを兼ねた息子への祝いの品のつもりです。生前贈与対象金額以内という算段もあります。



早めのクリスマスツリーに息子は「きれい!」とはしゃいでいます。

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平野富山:明治44(1911)年3月7日、静岡県清水市に生まれる。本名富三。

清水市立江尻高等小学校を卒業して昭和3(1928)年に彫刻家を志して上京、池野哲仙に師事する。同16年より斎藤素巌に師事。翌17年第5回新文展に「女」で初入選。この頃から昭和50年代初めまで「敬吉」の号を用いる。



同18年第6回新文展に「想姿」を出品したのち一時官展への出品がとだえるが、戦後の同24年第5回日展に「若者」を出品以後は一貫して日展に出品を続けた。同31年第12回日展に「若人」を出品して特選となり、同34年第2回新日展出品作「裸婦」で再び特選を受賞。同38年日展会員、同57年同評議員となった。



日展審査員をしばしば務めたほか、同33年より日彫展にも出品を始め、同37年には第58回太平洋展に「習作T」「現」を初出品して文部大臣賞を受け、同年会員に推挙された。団体展出品作は塑像が多く、ブロンズ像を中心に制作したが、彩色木彫も行ない、昭和33年には平櫛田中作「鏡獅子」の彩色を担当。同60年静岡駿府博物館で「平野富山彩色木彫回顧展」が開催された。



裸婦像を得意とし、若く張りのある肉体をなめらかなモデリングでとらえる。ポーズによって「流星」「かたらい」等、自然物や抽象的概念を暗示する甘美な作風を示した。能や舞、女性像、動物をモチーフにした木彫り彫刻作品に日本画に使われる光沢のある顔料を用いて衣装や装飾を描く「彩色木彫」の第一人者として高く評価されています。また、平櫛田中が制作した作品のほとんどの彩色を担当しています。享年78。



*平野は同じモデルの作品を40~50体作ったが、完璧なコンディションで残っているものは少ない。



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「平野は同じモデルの作品を40~50体作ったが、完璧なコンディションで残っているものは少ない。」・・・・、本作品はほぼ完璧なコンディションです。



表情といい、彩色といい、また大きさも大きめでいい作品だと思います。



この彩色を補修できる人がまだ居るのかな? 10年前には思文閣の方が「ひとりだけいる」と仰っていたと記憶していますが・・。



人形は骨董では意外に敬遠されることが多いようです。まず場所をとる、扱いがたいへん、地震などに弱い・・。



ともかく保存がたいへんですね。



平野富山については「なんでも鑑定団」に出品されていますので、そちらを参考にされるといいでしょう。



代表作は下記の作品のようです。平櫛田中の作品のほとんどを彩色しているのも有名です。



完全な状態に保存しておくのが難しいのは、木は乾燥しすぎると割れるし、適度な湿度を保とうとして過度な湿気を与えるとカビが発生するためもあります。



日本のように湿気の高いところではやはりカビが一番の大敵ですね。



適度な湿気で保存していく為には機械的なコンデションが必要のようです。



湿気の高い季節には除湿など・・・。

リメイク 早春 伊藤小坡筆 その1

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天気のよい週末、家内と義母がないやらハンドバックを引っ張りだして、痛んでいないかチェックして日干しするようです。



靴磨きしようと思っていた矢先でしたので、「ついでに手入れしてあげようか?」と一声かけたのが運の尽き・・・。あちらこちらからバックが所狭しと出てきました  結局、靴の手入れの前にクタクタ・・・

ただしバックから小銭が出てきて、昼飯代金を頂戴しました



さて思文閣の大入札会のカタログを見ていたら、珍しく九条武子の掛け軸が出品されていました。「時代婦女乃図」と題され、落款は「松契」という号が記されています。

参考作品

時代婦女乃図
「和の美」 思文閣大入札会 作品目録 平成28年12月
作品NO P
オークション開始価格:150万



九条武子が絵を習うために上村松園に弟子入りしたのは1916(大正5年)頃で、1920(大正9年)頃までです。東京に出てからは関東大震災復興などに奔走していますので、画業に従事した期間は短かった。九条武子は、松契という画号を使用しています。

 

九条武子が上村松園の絵の影響を強く受けていることを示す貴重な作品です。



このようないい絵に出会うと美人画に大切なのはやはり品格なのでしょうとつくづくと感じ入ります。浮世絵の大半、とくに歌川派がそうであるように、品格に無い美人画はやはり下手物をして扱うべきでしょう。



本ブログでも伝九条武子の作品を真偽は別として取り上げたことがあります。



九条武子の画の作品は非常に珍しいように思います。







さて、本日はそのような品格のある美人画を描いた伊藤小坡の作品のリメイクした投稿です。男の隠れ家に保管したあったので、写真撮影の状態が良くなかあったので、再度の投稿とさせていただきます。

早春 伊藤小坡筆 その1
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2105*横392 画サイズ:縦1281*横279



伊藤小坡については以前に紹介していますので、詳細は省略しますが、本日の投稿の流れをうけてやはり女流画家です。



伊藤 小坡(いとう しょうは、)は1877年(明治10年)生まれですので、九条武子より10年早く生まれていますがほぼ同年代です。



明治31年には画家になることを決意し京都に出て、磯部百鱗の紹介により森川曽文に師事し「文耕」の雅号をもらうが、曽文が病に倒れたため歴史画を得意とする谷口香嶠に師事し、「小坡」の雅号を受けています。やはり九条武子と同じく京都に縁の深い画家です。



伊藤小坡は伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれている。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習っていますので、やはり九条武子と同じように育ちが一般とは違い、その辺の素養が品の高い画う生んだのでしょう。



デビュー当時から上村松園に次ぐ女性画家として一躍脚光を浴び、大正6年には貞明皇后の御前で揮毫を行っています。



歴史風俗や人物から取材した作品が、晩年の小坡作品の多くを占めるようになり、描かれた凛とした美しい女性は見る者を引き込む強い世界観を画面の中に作り出しています。

 

本作品は祖父が購入した作品で、叔母からまた祖父へ、そして父に、そして小生に伝来した作品です。

 

小生が後年に入手した伊藤小坡の「その2」の作品と比較してみました。本作品もまた本ブログで紹介されています。

旅路 伊藤小坡筆 その2 
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2090*横541 画サイズ:縦1215*横410



今まで別々に保管されていた作品が初めて並んで展示されることになります。



ほぼ同時期に描かれた伊藤小坡の晩年の作と推察されます。



表具も両作品共にきちんとしたものです。



衣装考証も良く調べられています。



美人というのはやはり中身ですね。品格がなくてはいけません。最近の美人というのは中身がない。



落款と印章は下記のとおりです。意外に調べようがないのが落款と印章です。このように掲載されている記事は少ないと思われます。過去には贋作などに利用されるからだったのでしょう。

 

箱書きは同一印章が押印されています。



表具したお店が解るような資料もまた極力残しておくべきでしょう。



これらの作品は将来に渉って残していきたいと思っています。ハンドバックとともに・・???? ちなみに小生の靴は履き続けて30年以上はざら・・・、要は手入れ次第ですね。




源内焼 その88 三彩クルス草文様燭台

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以前にも述べたように平賀源内が製作したという「源内焼」は存在していません。平賀源内は指導を行なったことは明白ですが、自分では作ってはいません。「志度舜民」や「舜民」という印章が押印された作品は、基本的に脇田舜民の作であり、まったくの別人です。しかも銘を入れた作品は平賀源内が亡くなった後の作品です。「鳩渓」という銘の入った作品は、明治に再興を目指した作品であり、これは技量共々下手物であり、厳密には源内焼とは一線を画すべき作品です。むろん、平賀源内の作品ではありません。

銘の入った作品が重宝がられるのは基本的に大きな間違いなようです。

本日は意味深な燭台の2作品目の紹介です。胴部分に施された十字架の文様と葵のような文様・・、さて何を意図するのでしょう。

源内焼 その88 三彩クルス草文様燭台
高さ142*底部分径128















以前に紹介した下記の作品は同型のものですが、台座の文様に違いがあります。

源内焼 その19 三彩クルス草文様燭台
高さ128*底部分径122



燭台としては源内焼ではさらには下記の作品を本ブログでは紹介しています。

源内焼 その81 三彩蝶花文燭台一対
合箱
巾100*奥行き100*高さ101



源内焼は皿や鉢だけではなく種々に優品があります。



ただ、源内焼以外の下手な作品と混同している資料が多く、本来の源内焼は非常に優れた焼き物です。

これだけガラクタを揃えて、ようやく展示するスペースを作った甲斐ができたというもの。飾るスペースのない蒐集は蒐集の意味がないというのが持論です。種々飾ってようやく見えてくるものがあり、取捨選択をした上での新たな蒐集が始まるように思っています。

以上で本ブログの定期な投稿は完結かな・・・。

リメイク 修業之余閑 加納夏雄筆

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息子は茶室の六本引きの戸袋に収まっています。その後、この六本引きをする契機となった夏用の障子がさらに男の隠れ家から数枚が出てきました。またこれを利用してなにかを作りたくなっています。モノ作りは常にアイデアの勝負です。こういうものを、こういう方法で作りたいという気持ちがないとモノ作りは楽しくないのです。



先週も九州など何日か出張で家を留守にし、土曜日の午前中に大阪から帰宅すると、息子は週末は一時も小生のそばから離れません。日曜には家内が同級会に出かけて留守なので、もはや小生は息子の遊び相手・・。よってブログの原稿はまったく書けず・・・。今週からは毎日の投稿は無理になりそうです。

さて本日紹介する「修業之余閑」という作品の題はあくまでも当方の仮題です。男の隠れ家に保管してあったのですが、写真の再撮影のために持ち帰った作品です。

修業之余閑 加納夏雄筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱二重箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横285*縦780



本作品は10年以上前に仙台の骨董店「汲古堂」より購入したものです。それまで、加納夏雄は金工としての知識しかなったのですが、加納夏雄が、画家としても確かな技量があるとこをうかがわせる作品だと思います。



賛には「壬戌猛夏日寫於□□園南窓」とあり、文久2年(1862年)の作であり、34歳の時と推察されます。「修業之余閑」と「夏雄」の印章、「なつを」の落款です。表具は上表具であり大切にされてきたことが窺われます。



加納夏雄についてご存じない方は下記の記事を参考にして下さい。加納夏雄の作品の刀や鍔は収集家にとって垂涎の作品であると聞いております。

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加納夏雄:(かのう なつお)1828年5月27日(文政11年4月14日)~ 1898年(明治31年)2月3日)。幕末から明治期に活躍した金工師。京都出身。

文政11年(1828年)京都に生まれた。本姓は伏見。天保5年、七歳の時に刀剣商播磨屋、加納治助の養子となり、装剣彫金に心を惹かれる様になる。ごく自然に鍔や柄の美しさに魅せられると見よう見まねで鏨を握るようになった。



その才能を認めた養父母の勧めで12歳の頃から彫金師奥村庄八の元で修行し、線彫り、象嵌などの技法を身に着けた。14歳の時に大月派の 池田孝寿の門に入り金工技を学び師の一字を貰って「寿朗」と号するようになった。また同じく14歳で円山四条派の絵師・中島来章に師事し写実を極めた。和漢の学術や「万葉集」「古今和歌集」などの歌道を儒学者 谷森種松に師事する。



弘化3年(1846年)、19歳で金工師として独立、その頃に夏雄と改名 したと思われる。6年後の安政元年(1854)江戸に移り神田に店を構え小柄や鐔などに生命を宿すことに心血を注ぐ。鏨を斜めに方向け片側で彫ってゆく片切彫を得意とした。



1809年、明治維新を迎えると刀装製作は皇室その他からの僅かな物で近代化と共に一般工芸品に移っていった。また大蔵卿の大隈重信の指名により新貨幣鋳造の原型を委託され晩年まで起用される。当初はそれを元にイギリスで型を作る予定だったが見本を見たイギリス人技師がその完成度の高さから辞退、そのため新貨幣はデザインから型の制作まで全て加納に一任された。

  

1876年に廃刀令が交付されると多くの同業者は廃業に追い込まれるが、加納は注文が引きも切らず煙草入れや根付の名品を作り続ける。またその気品ある作品は海外でも人気を博し、その名は世界中に知れ渡った。

明治23年(1890年)第三回内国勧業博覧会で百鶴図花瓶が一等妙技賞を受賞し、その後宮内省買い上げとなり、明治宮殿桐の間に飾られたと伝えられる。またこの年東京美術学校の教授に就任し、さらに第1回帝室技芸員に選ばれる。

明治31年(1898年)2月2日、特旨を以って正六位に叙せられ、 勲六等瑞宝章を賜ったが、翌3日に71歳で歿している。加納家は三男秋雄が継いだが 病気がちで、家業を廃止しなければならなかった。

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加納夏雄の金工の作品は、いつか機会があったら入手したいと思うのですが、専門外でもあり、真作は高価ということもあり、今は高嶺の花といったところです。



明治の頃の蒔絵や金工を専門とする職工は絵を本格的に習ったのでしょう。柴田是真もまたその一人でありますが、その時代の作品と比較して近代の蒔絵や金工に魅力が乏しいのは、やじゃり修練のなさゆえなのでしょう。

寒山拾得図 伝堅山南風筆 その5

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箱根で家内と二人で美術館見学中に祖父母と入った足湯のつもりらしい・・。



この頃は祖父母と落花生の皮むき・・・、息子は手伝いが大好きなようです。



落花生は収穫からピーナッツにするまで至極、時間と手間のかかるものです。



さて本日の作品は本ブログで何度か取り上げている「寒山拾得」を題材とした作品です。描いたのは堅山南風のようですが、共箱もなく真偽のほどは断定できませんが、出来や作風から真作と思われます。

寒山拾得図 堅山南風筆 その5 
絹本水墨淡彩軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:横530*縦1940 画サイズ:横390*縦1230



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堅山南風:明治20年生まれ、昭和55年没(1887年~1980年)、享年90歳。名は熊次。熊本生まれ。高橋広湖の門に入り、花鳥画を主とし、出世作「霜月頃」があり、爾来院展に出品し、魚類の妙技に長じ「あげ汐」「鱗光閃々」の作があり、豪放な筆法の中に面白さを示している。日本美術院同人の元老。芸術院会員。文化勲章受賞。



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作品中の落款と印章は下記のとおりです。シミの跡などがあり、ずいぶんと痛んでいた作品を改装したように思われます。共箱はなく、紙箱の状態であり、ずいぶんと手頃なお値段で入手しています。



寒山拾得は言うまでもなく、中国,唐代の隠者,詩人である寒山と拾得のことです。9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。

ただ寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した人です。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残しています。拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と思われます。実在したのは寒山のみであり、拾得と豊干は想像上の人物ということらしいのですが・・・。

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寒山拾得(かんざん じっとく):中国,唐代の隠者,中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる寒山と拾得の伝承詩人である寒山と拾得のこと。



9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。二人とも奇行が多く、詩人としても有名だが、その実在すら疑われることもある。寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残した。拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められる。



拾得は天台山国清寺こくせいじの食事係をしていたが、近くの寒巌(かんがん)に隠れ住み乞食のような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったという。その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持を語っている。



寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身と言われることもあり、非常に風変わりなお坊さんだったようで、後年様々な絵画に描かれる。たいていは奇怪な風貌で、なんとなく汚らしい服装で描かれている。そして、怪しげな笑い顔で描かれることが多い。また拾得が箒を持っている作品が多い。



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ともかく有名な「寒山拾得」ではあり、その二人の意図するところは小生の推し量る域を越えるものですが、寒山の詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品だそうであり、強固な自己疎外者としての矜持を語っていると評されています。

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補足
唐の時代(七世紀頃)、寒山という人がいた。風狂の化け物と称される。カバの皮を着衣し、大きな木靴を履いていたと言われる。寒山は普段は寒厳の洞窟に住んでいたそうですが、たびたび国清寺に訪れていた。寺に来ては奇声を上げたり、奇異な行動をとって寺のもの困らせていた。しかし、追い払おうとすると彼の口から出る言葉はその一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。



寺の給仕係りをしていた拾得とは仲良しで、いつも寺の僧たちの残版を竹の筒につめて寒山に持たせて帰らせた。寒山と拾得を導いたのは豊干という国清寺の僧。豊干は、二人について「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。



寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」と言ったという。

「寒山拾得」というのはこの二人の伝説の事。寒山と拾得の二人は、のちのち墨絵の題材となり多くの画家が絵を残しています。日本の有名な画家たちも「寒山拾得図」を描いています。

豊干(ぶかん):中国唐代の詩僧。天台山国清寺に住み,虎を連れた姿で知られ、寒山・拾得(じつとく)を養育した人と伝えられる。豊干を釈迦の化身に見立てるものもある。

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以下は森鴎外の「寒山拾得」からの文章の抜き出しです。

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「こゝは湯気ゆげが一ぱい籠こもつてゐて、遽にはかに這入はひつて見みると、しかと物ものを見定みさだめることも出來できぬ位くらゐである。その灰色はひいろの中なかに大おほきい竈かまどが三つあつて、どれにも殘のこつた薪まきが眞赤まつかに燃もえてゐる。暫しばらく立たち止とまつて見みてゐるうちに、石いしの壁かべに沿そうて造つくり附つけてある卓つくゑの上うへで大勢おほぜいの僧そうが飯めしや菜さいや汁しるを鍋釜なべかまから移うつしてゐるのが見みえて來きた。

この時とき道翹だうげうが奧おくの方はうへ向むいて、「おい、拾得じつとく」と呼よび掛かけた。

閭(りよ)が其その視線しせんを辿たどつて、入口いりくちから一番ばん遠とほい竈かまどの前まへを見みると、そこに二人ふたりの僧そうの蹲うづくまつて火ひに當あたつてゐるのが見みえた。

一人ひとりは髮かみの二三寸ずん伸のびた頭あたまを剥むき出だして、足あしには草履ざうりを穿はいてゐる。今いま一人ひとりは木きの皮かはで編あんだ帽ばうを被かぶつて、足あしには木履ぽくりを穿はいてゐる。どちらも痩やせて身みすぼらしい小男こをとこで、豐干ぶかんのやうな大男おほをとこではない。

道翹だうげうが呼よび掛かけた時とき、頭あたまを剥むき出だした方はうは振ふり向むひてにやりと笑わらつたが、返事へんじはしなかつた。これが拾得じつとくだと見みえる。帽ばうを被かぶつた方はうは身動みうごきもしない。これが寒山かんざんなのであらう。

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まさしくこの光景を描いた作品であろうと推察されます。帽はかぶっていませんが・・。

森鴎外の文章を読みながら作品を鑑賞するのも一興かと思います。

息子と小生との会話もまた寒山拾得のようなもの、人生で一番大切なものは何かを常に諭させられる。

リメイク 古伊万里 若双鶏牡図水指

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来年の干支は酉、家内は年賀状のデザインに古染付皿の鶏の図柄をデザインしました。

「酉」は、「とり」と読みますが、実際には「にわとり」のことです。新年も一番に鳴く鳥のため縁起が良いとされています。さらに商売関係に縁起のよい干支とされています。「とり→とりこむ」で、商売に繋がるとされています。行動力があり、積極的。親切で世話好きであるという意味もあります。ちなみに家内は酉年生まれ。

さて鶏というと骨董では伊藤若冲が代表的な画家ですが、鶏にちなんでは数多くの骨董の作例があります。本日は非常に珍しい鶏をデザインした水指の紹介です。以前には本ブログで「今までトイレにあったもの・・」という題目で紹介しています。

古伊万里 若双鶏牡図水指
古杉箱入 幅260*高さ250



実際に水指には水を入れると重いし、派手なデザインということもあり、家内からは不評で一度も水指としては使われたことはありません。ただし、来年は酉年ということもあり、使い道はありそうです。今はとりあえず茶室の床の間に飾ってみました。時代のある作品ですが、蓋裏に一箇所極小の小アタリがある程度でほとんど美品と言って良い作品です。



箱の脇には「享和3年(1803年) 癸亥(みずのと)歳 十一月吉祥 永松佐次?(所蔵者?)」と記されています。



1803年の作というよりも、入手した年のことででしょう。本作品は1690年代には染付の素地に赤、金などを多用した絵付を施した製品が作られるようになった「古伊万里金襴手」の作品群と推察されます。この種の様式はヨーロッパ向けの輸出品の作品です。



二羽の鶏を蓋の取っ手にあしらい、水指の耳の部分に鶏の鶏冠をデザインして付けられており、珍しい作行きの作品です。



金襴手とは陶磁用語で(きんらんで)と読みます。絵付した後,金を焼き付けて文様を表したもので,赤絵,色絵に施す金彩との配色が織物の金襴(金糸で文様を織り出した織物)と似ているところからこの名が生まれたそうです。



16世紀中ごろ中国江西省景徳鎮民窯で作られて発達、江戸時代中期に日本に持ち込まれ白磁をベースに赤地に金彩で文様を表す金襴手が流行しました。



本作品は中国にはない日本的な作りと言え、実用と言うより輸出用というのが頷けるものです。



なお伊万里焼と古伊万里の大きな違いは、作品そのものの持つ骨董的価値の有無です。江戸時代に有田(佐賀県有田町)で焼成された歴史的、骨董的価値のある作品を「古伊万里」と呼び、明治以降に現在の佐賀県伊万里市で焼成された陶磁器のことを伊万里焼と呼んで区分します。

以前は江戸末期に大量生産された作品は「古伊万里」とは呼ばなかったのですが、近年は作品の不足もあり、幕末やさらには明治初期の作品を「古伊万里」と称する傾向にあります。



明治初期に焼き物を産地名で呼ぶようになり、現在の「伊万里焼」と呼ばれる陶磁器が誕生しました。古伊万里は中国の王朝である明から清への時代変革時に発生した、欧州での中国磁器の断絶に代わる最良の品として欧州へと輸出されましたが、古伊万里はヨーロッパの王侯貴族達に愛され、今でもオールドイマリ(Old Imari)として世界中に熱烈なコレクターが存在しています。また日本でも愛好家が多くなり、多くの作品が日本に里帰りしています。



床の掛け軸は奥村厚一の色紙を表具した作品です。ちなみにこの画家の作品はシミが発生している確率が高い傾向があります。これは膠などの処理の画家の癖によるものなのでしょうか? 画家によってシミの発生の確率が高い画家とそうでない画家があるように思われます。むろん保存状態も影響しているのでしょう。

雪路 奥村厚一筆 その3
和紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1230*横400 画サイズ:縦260*横240



今年の新年は寒い郷里で迎えそうなので、本作品との取り合わせにて掛けて年末年始の郷里の寒さに今から慣れておくためのイメージトレーニングです

流雲 藤井達吉筆 その15 & 金重陶陽

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今週は社内の忘年会。赤坂にある老舗の料亭での忘年会でしたが、同僚とオーナーがなんと同級生であったそうな・・。

床には大きめに堂本印象の額装の見事な山水画、玄関には魯山人の壷。懇親を深めたほかに眼も潤いました。料亭での一流のものとの触れ合いはとんと少なくなってきた昨今ですが、解る人も少なくなってきたように思います。

さて藤井達吉の画の作品に魅せられて蒐集して、ようやく15作品目の作品の紹介となります。

流雲 藤井達吉筆 その15
紙本水墨軸装 軸先陶器 共箱
全体サイズ:縦1500*横415 画サイズ:縦630*横240



藤井達吉は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住みましたが、故郷での藤井の生活を支えたのは碧南市民をはじめとする藤井を敬愛する方々でした。「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というエピソードが多々あり、気軽に作品を人に差し上げることが多かったようで、まくりの状態の作品や共箱でない作品が数多く存在します。



それゆえ、共箱でない作品が多く、また栗木伎茶夫氏など直接藤井の教えを受けた方々の鑑定した箱書のある作品も数多くあります。そして意外に少ないのが共箱の作品です。本作品のような共箱の作品は貴重となります。藤井達吉の画の贋作は少ないのですが、やはり共箱や鑑定箱のあるきちんとした作品が市場では評価されるようです。



美術学校にも行けず、独学で芸術の道を歩んだ達吉に美を教えたものは、「自然」であったそうです。草花の無駄の無い美しさに美の本質を見つけ、そこから芸術を学んだと語っています。路傍の雑草一本にも心を使い、庭は手入れをせず、自由奔放に育った雑草と四季の移り変りの美を大切にしたと・・・。



「自然を見つめる。言い換えれぱ自然を愛すること。そして自然に教えられることが芸術の第一歩ではなかろうか。」、「写生をし、写生を超越して創造に行くのが芸術である。」と言っています。

根底にあるものは「自然を観察せよ。」の信念であり、全てここから出発しています。このことは、達吉の多くの作品の基となっているデザインに見つけることができます。



工芸については、

「工芸とは本来、絵画・彫刻・及び工芸全般を包合し、総合的に作られてこそ一つの作品となるもので、その内一つでも欠けることは許されない。」

「工芸においては、絵画も一義、図案も一義、素材も一義、枝術も一義であり、全てが整って初めて一つの作品となる。つまり、工芸は全ての芸術的要素を含んだ総合芸術である。」と・・・。

そして、「旧来、工芸品は数人の分割された職人の手仕事によって作られており、作り手の作意は表に出さなかったが、これでは本当の芸術とは言えない。一つの作品の、図案から制作までを一人でおこない、作者の人間性を表現して初めて芸術作品と言える。」と言っている。

この言葉には小生も大いに賛同します。



芸術については、「芸術作品は、作者の人間性、全人格が優劣を決めるのであって、技術ではない。」、「最後は『人格』に帰する。何をしてもこの『人格』の表現だ。」と言っているように、人格の大切さを唱えています。

そして、芸術を行なう理由として「より人間らしく生き、人間らしく生きるために芸術をおこなうのである。」と言っています。

達吉の言う「人間らしさ」とは、常に向上すること。つまり、咋日より今日、今日より明日の自分の方が進歩していて、死ぬときが最高の自分であることを求めつづけるという意味、人が人を、自然を愛し、慈しみ、感謝し、心豊かに生活することと言えるのでしょう。

友人に当てた書簡につぎの言葉がある。

芸術とは何ぞや宗教なり 
宗教とは何ぞや真実なり 
真実とは何ぞや愛なり 
愛とは何ぞや芸術なり

藤井達吉の言葉からは芸術至上主義のような印象を持たれる方も多いでしょうが、芸術だけだなく、人間の生、そのものに当てはまる言葉のように思います。



達吉は師も弟子もなく、生涯独身ですごし一切の妥協を排し、名利に悟淡として一所不在の生活をおくり、「孤高の芸術家」といわれました。多くの苦悩を超え、自然の教えに帰依し、後半生の藤井の作品は文人画的性格が強まりました。

その後半生の作品の代表格のひとつが藤井達吉の水墨画です。

ちなみに手前の作品は以前に紹介しました金重陶陽の作品です。以前に本ブログでも紹介しました。

備前一輪花入 金重陶陽作 その5(整理番号)
共箱
幅120*奥行き100*高さ190



金重陶陽は人気を失っていた備前焼を再興させることに成功し、ご存知のように初代人間国宝にして「備前焼中興の祖」と称されています。金重陶陽の作品は紛らわしい贋作が多いので共箱が重要となります。



自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育て、その中から次々と人間国宝を輩出するなど備前焼の歴史上果たした功績は計り知れません。小生もファンなのですが、なかなかその作品の蒐集はお値段も高く、贋作も多いので困難を極めています。



陶陽は没年となる昭和42年に、岡山県で開催された全国植樹祭に出席のため来岡された 昭和天皇皇后両陛下に対して轆轤実演を披露していますが、この時の印象をもとに、皇后陛下は次の歌を発表した。この歌を紹介し、結びとしたい。

備 前 焼 「孫のごと若きに轆轤まはさせて 土のたくみは鉢つくりなす」



古備前を見つめつつ新しい備前を再構築した金重陶陽もまた藤井達吉と同時代を生き抜いた「真の工芸」を作り出した一人と言えるのでしょう。



備前の中ではやはり最高峰の作品を作り出した陶工です。



底には「ト」の刻銘のある作品です。



展示室に飾ってみた藤井達吉と金重陶陽・・、意外にマッチングするものかと・・。描いた人、作った人物が解っている作品はその人となりも鑑賞の対象となるもののようです。

鐘馗図 伝法橋月岡雪斎筆 その3

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本日は月岡雪斎の作品の紹介です。本来は浮世絵の画家ですが、どうも浮世絵の画家でありながら、美人画以外の作品のほうが良いように思います。

もともと小生は一部の作品をのぞき浮世絵の美人画には価値はないと思っています。とくに幕末の歌川派以降の作品群は下手物以外の何者でもありませんね。肉筆もしかり・・・。ま~、美人そのものに大いに懐疑的ですが・・。

鐘馗図 伝法橋月岡雪斎筆 その3
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横680*縦1860 画サイズ:横540*縦1290 



安永7年(1778年)に、父月岡雪鼎が法眼になるのと同時に法橋に推免せられ、更に父同様法眼に進んでいます。ゆえに1778年以降から数年間の間に製作された作品と推察されます。落款から法橋の早い時期の段階で描かれた作品であると判断できます。



月岡雪斎の略歴は下記のとおりです。本ブログで紹介されている月岡雪鼎吉村周山、月岡芳年らと関連しています。

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月岡雪斎:月岡雪鼎の長男。大坂の人。通称は為三郎、名は秀栄。字は大素。巍江斎と号す。



父雪鼎と狩野派の吉村周山に絵を学んだ。天明(1781年-1789年)末から天保(1830年-1844年)の頃に活躍し、天明7年(1787年)頃には父と『和漢名家画繍』を合作している。



安永7年(1778年)に、父雪鼎が法眼になるのと同時に法橋に推免せられ、更に父同様法眼に進んでいる。また後年には江戸に移ったともいわれる。



人物画や花鳥画を得意としていたが、特に肉筆美人画にその手腕を発揮し、雪斎による美人画は父雪鼎より練達した筆致で描かれ、注目すべき作品が多い。法橋期は美人画を雪鼎譲りの豊麗さと可憐の風情で描いた.



参考作品

「人形遣い図」&「月下美人図」 共に法橋期 絹本着色 東京美術館蔵

 

*本作品と「人形遣い図」が同一印章のように思われます。

法眼期になると当世美人に加え古典的主題を得意とするようになった。墓所は下谷竜泉寺町の竜泉寺にあったが現存しない。子に雪操と雪洞、門人に弟の月岡雪渓がいる。雪斎の養子になったとされるのが月岡芳年である。

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鐘馗、法橋などの用語については本ブログをお読みの方はすでに掲載されていますので説明は省略します。とくに「鐘馗」を描いた作品は本ブログでかなりの数が紹介されています。

小生の所蔵する「鐘馗」を描いた作品でのお気に入りは寺崎廣業、福田豊四郎、平福穂庵などの郷里の作品です。

今回、月岡雪斎を再度調べているうちに以前に紹介した下記の作品と同じような作品を見つけました。

遊鯉之図 その1 法眼月岡雪斎筆
絹本着色軸先鹿骨 合箱入 
全体サイズ:横659*縦1260 画サイズ:横539*縦320



鯉の構図が下記のボストン美術館蔵の作品とほぼ同一です。ボストン美術館蔵の作品が「法橋」と記されており、先に描かれた作品と推察されます。

参考作品 鯉図 月岡雪斎筆 法橋期 絹本 ボストン美術館蔵 



ともかく調べていくといろんなことが解ってくる骨董の世界ですが、肝に銘じなくてはいけないのは「思い込み」です。常に真贋も含めてこれは正しい判断かということを反芻することでしょう。

よって本日の作品もまだ「伝」です

雷聲忽送千峰雨図 横井金谷筆 その8

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本ブログで記載のとおり、日本画の作品で真贋の見極めのもっとも難しいのが南画の山水画の分野です。ほぼ50%以上の確率で贋作が横行しているといっても過言ではないでしょう。

本日紹介する横井金谷もまた贋作の多い画家の一人です。知名度は低いですが、近江蕪村と称されるように、南画の世界ではかなり評価の高い画家です。しかも落款と印章が簡便なので実に真似のしやすい画家の一人です。

雷聲忽送千峰雨図 横井金谷筆 その8
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1870*横565 画サイズ:縦1190*横420

横井金谷の作品はそのほとんどが紙に描かれていますが、絹に描かれた作品は数が少ないようです。本作品は長年の保存により、絹が摺れて痛んでおり、修復の必要があります。



絹賛には「雷聲忽送千峰雨 金谷 押印」とあります。



「楳亭・金谷」(近江蕪村と呼ばれた画家)大津市歴史博物館刊に掲載されているNO224「梅花書屋図」(個人蔵) NO236鐘馗図(個人蔵)と同一印章ですが、この印章を押印した作品は非常に稀有です。一般的な「金谷」の朱文白丸印は非常に数が多く、真贋の区別がつきにくい印章ですが、この印章を押印した贋作は存在しづらいと思われます。
(そのほかにNO222 「草廬三顧山水図」、NO225「芭蕉書屋歓談之図」、NO234「馬上帰農図」にも押印されています。いずれも紙本)

  

このような印章や落款の比較の資料が意外にインターネット上でも少なく、蒐集家には不便ですので、あえて当方では判明する限りの比較を投稿しています。資料が少ないのは、贋作作製に利用される可能性があるためでしょうが、現代では掛け軸の作品も廉価となり、また模写するだけの技量の持ち主も皆無となっていますので、要らぬ心配かと思われます。古来の贋作を排除していくためにも、このような資料を公開することを望みたいものです。



55歳を過ぎた文化10年(1815年)以降、横井金谷は蕪村写しを行なっています。蕪村写しが本格的になったのは、近江移住前後の餐霞洞・常楽山房時代です。この時代の作から近江蕪村と称されました。本作品も晩年のその時代の作と推察されます。

*蕪村の死後10年以上の後に蕪村に私淑しているだけであり、決して蕪村の弟子ということではありません。このことは多くが誤解しているようです。
*滋賀県の個人所蔵には横井金谷の後期の作品が多く、この地域ではまた贋作も多いとのことです。

なお横井金谷は本ブログで何度か紹介している釧雲泉と同時期を生きた僧侶であり画家です。横井金谷の略歴はなんどか紹介しておりますが、改めて紹介すると下記のとおりです。

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横井 金谷(よこい きんこく):宝暦11年〈1761年〉~天保3年1月10日〈1832年2月1日〉)。江戸時代後期の浄土宗の僧侶、絵仏師、文人画家。近江国の生まれ。僧名は泰誉妙憧、別号に蝙蝠道人など。



宝暦11年(1761年)近江栗太郡下笠村(現滋賀県草津市)に、父横井小兵衛時平と母山本氏との間に生まれ、幼名を早松と称した。明和6年(1769年)、母の弟円応上人が住職を務める大阪天満北野村の宗金寺に修行に入る。明和8年(1771年)には近隣の商人伏見屋九兵衛の娘と結婚を約し、また江戸への出奔を試みる。



安永3年(1774年)、芝増上寺学寮に入るため江戸に向かい、翌年には早くも五重相伝・血脈相承を修めたが、安永7年(1778年)品川・深川への悪所通いが露見し増上寺を追われ、高野聖に化けるなどして下笠に帰国した。安永8年(1779年)伏見光月庵主寂門上人や京小松谷龍上人に教授を受けに下笠より通い、また因幡薬師で龍山法印に唯識論を、六条長講堂に法相の碩徳大同坊の講義を聴聞するなど勉学に励んだ。そのかいがあって天明元年(1781年)京北野の金谷山極楽寺の住職となり、山号をもって雅号とした。この頃のことについて、金谷自らが書いた『金谷上人行状記』において、岡崎の俊鳳上人に随って円頓菩薩の大成を相伝し無極の道心者と言われる一方で、博打・浄瑠璃・尺八などの芸事に夢中であったと記載されている。



天明8年(1788年)、正月30日の天明の大火で極楽寺が消失し、負傷した金谷は翌月城之崎へ湯治に出た。翌年3月、長崎を目指し旅立ち、姫路の真光寺や赤穂の大蓮寺などで「円光大師(法然上人)絵詞」を描き、寛政3年(1791年)長崎からの帰途にも諸寺に立ち寄り絵詞を納め、翌年赤穂において浪士原惣右衛門の孫・原惣左衛門の娘ひさと婚姻した。ひさを連れ江戸へ旅立つが、名古屋において長子福太郎が誕生し、名古屋で3千石取りの藩士遠山靭負の援助を受け留まる[2]。享和2年(1802年)法然6百年御忌報恩のため全国48寺に「円光大師絵詞」を納める。文化元年(1804年)7月、京醍醐寺三宝院門主高演大僧正の大峰入り(大峰山に登っての修行)に斧役として従い、8月その功により「法印大先達」の称号と「紫衣」を賜り、名古屋に帰宅した。



文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)故郷近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結び、天保3年1月10日(1832年2月1日)大津坂本にて死去した。



横井金谷は紀楳亭(1734年-1832年)と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われる。紀葉亭は蕪村に師事していたが、金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いが、その事実の確認はできていない。『金谷上人行状記』においても蕪村に関する事項は一行もない。但し、名古屋において一時期近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけではない。事実、蕪村風の画風の絵は金谷が48歳以降から晩年のものである。

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現代風に略歴を書くとこうなるらしい。

「9歳で寺に修行に出るが、11歳で彼女をつくって駆け落ち。14歳で江戸に出て、改心して仏教を学ぶも、途中でくじけて遊郭通い。尼僧を襲って破門されるも、茨城に逃げて農家の婿に。ところがやっぱり江戸の暮らしが懐かしくなり遁走。この後、気の向くままに放浪し、長崎や天草に行ったり、子作りに励んだり、修験者になったり、富士山にのぼったり・・。ある地では船の操縦に凝り、バクチや凧揚げにも熱中した。脈絡は一切ナシ。」
*ただし、自伝的な書のよるもので、滑稽で突飛すぎる記述には信憑性に欠けると思われます。



自由奔放に放浪を繰り返した画家・・、小生も生活圏を十一の町で移動を繰り返しましたが、ある程度の限定された区域で生活するより面白い経験ができるものです。

もっと評価されるべき画家 蘭壽万慶 粛粲宝筆 その2

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先輩がエレベーターの中で「これ知っている?」と渡されたのが、サントリー美術館で開催されている「小野田直武と秋田蘭画」の展覧会の資料。わが郷里の武士であり、画家の展覧会ですが、小野田直武は平賀源内の導きで西洋画の技法を学び、世間に秋田蘭画を広めたのは同じ秋田県出身の画家である平福百穂です。平賀源内は源内焼で本ブログでなんども紹介していますし、蒐集対象である平福父子も本ブログではお馴染みの画家です。

開催は来年の1月9日まで。なんとかして行きたい・・・。

蘭壽万慶 粛粲宝筆
紙本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦1430*横413 画サイズ:縦676*横284



昭和30年の作ですが、残念ながら粛粲宝という画家については資料が乏しいのが現状です。



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粛粲宝(しょくさんぽう):明治35年 新潟県生まれ、本名は水島太一郎、油絵を黒田清輝、日本画を小林古径に師事する、花鳥・静物・人物画を得意とした、三越本店個展、連続16回、その他個展多数、フランス個展数回、東京在住、平成6年(1994年) 歿、享年91才。異色日本画家。

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ただこの作品を見た人が「良い絵ですね」と言われることが共通しています。



蘭に桃、長寿を願う吉祥図かと・・。



色紙の作品などは良く見かけますが、共箱でニ重箱の作品は珍しいかもしれません。

 

男の隠れ家に飾ってあった作品ですが、整理のために持ち帰っています。

  

多作なようで、色紙の作品で数万円で売られているようですが、なかなか面白い作品を描いています。もっと評価されてよい画家だと思うのですが・・。

もっと評価されるべき画家 春のこども 岡本大更筆

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週末は昼食にラーメンと食べようということになり、町田の駅前まで・・。人気のあるお店のようですので空いている時間帯を狙いましたが、食事を済ます頃には行列ができていました。



息子は箸の使い方が上達し、前ほどは時間がかからずに食事を済ますことができました。



さて当方は別にロリコン趣味ではないですが「少女図」が何点か所蔵することになっています。

少女図 河崎蘭香筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1750*横505 画サイズ:縦1075*横410

女童図 伝木谷千種筆絹本着色 軸先塗木製 合箱
全体サイズ:縦1770*横540 画サイズ:縦1085*横410

美人図 伝九条武子筆
絹本着色絹装軸 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1674*横510 画サイズ:縦1086*横400

上記などの作品が本ブログに投稿されています。

本日は岡本大更の作品の初めての紹介です。

春のこども(春能こども) 岡本大更筆
絹本着色軸装 軸先木製 共箱 
全体サイズ:縦2160*横561 画サイズ:縦1252*横421



箱書に「星次大正十季年酉孟春(春の初め)」と記されてあり、1921年(大正10年)、岡本大更が42歳の作です。

 

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岡本大更(たいこう):日本画家。三重県生。名は直道。明治12年(1879)9月14日、名張郡滝之原村(現・名張市滝之原)で、父・多吉、母・まさの二男として生まれた。

明治12年三重県名張市滝大更8歳の時、一家を上げて上京。神童とうたわれた大更の美人画の境地をきりひらいた作風は「近代的な浮世絵」と激賞されたようです。

  

若い頃は貧しさのため師につかず、独学にて文部省美術展覧会などで入選を重ね、美人画の大家(近代的な浮世絵師)と評されるまでになりりましたが、若くして名張の地を離れたため、伊賀地方では全く忘れ去られた存在となっています。



第八・九回文展、第一回院展に入選。人物画を得意としています。また音楽・演劇を好みましたが、戦争が激しくなった同19年(1944)、後妻の郷里、香川県豊島に疎開し、翌20年12月、疎開先で死去、満66歳でした。主に大阪に住しています。



*妻の妹だった更園(こうえん・本名、星野延子)は、20歳で義兄大更の私塾「更彩画塾」で、日本画の手ほどきを受け、2年後の大正5年(1916)の文部省美術展覧会で初出品初入選に輝きました。のちに上京し、鏑木清方の門を叩き、女流画家として活躍しました。



*大更の長男・富久馬は更生(こうせい)と号して、京都絵画専門学校を卒業後、土田麦僊に師事し、大阪美術展覧会などに出品しました。戦後、当時の名張町で「桔梗ヶ丘学園」が開校されるや、日本画講師に就任し、名張地方の画家仲間で結成した「コンパル画会」に参画するなど活躍したが、昭和55年(1980)、74歳で没しました。

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画力はかなりあったように推察されますが、戦争中に亡くなっており、今では知る人が少ない画家の一人のようです。



さらりと描かれた作品ですが、力量のたしかさがうかがえます。



妻である岡本更園のほうを知っている方のほうが多いかもしれません。岡本更園、吉岡(木谷)千種、島成園、松本華羊で「女四人の会」を結成しています。

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*「女四人の会」
1
916年(大正5年)5月、かねてから親交のあった同年代の女性日本画家木谷千種、岡本更園、松本華羊と結成した「女四人の会」の第一回展が大阪で開催され、妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼んだが、身分違いの恋や不倫の恋、心中、性的倒錯、犯罪など、恋愛感情に駆られての反社会的、反道徳的行動を主題とする文学作品を題材とする絵画を、若い女性画家が描き、それらを発表する展覧会を開いた、ということが、識者には生意気な、挑発的行動と受け止められ「斬うした遊戯を嬉しんで囃し立てる大阪の好事家というのもまたつらいもの(中央美術 大正5年6月)と揶揄された。

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叭々鳥 児玉希望筆 その6

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週末は夕食材確保に畑まで・・、大根とカブを採ってきました。



「うんとこしょ、どっこいしょ」



本日は児玉希望の作品の紹介です。ときおり本ブログで紹介している児玉希望の作品ですが、週末に二階の展示スペースの飾ってましたした。



飾る脇で息子が遊んでおり、全部飾るのに半日がかり・・・



どこから見つけてきたのかパチンコ玉を転がして大はしゃぎ・・、それに付き合っているといつまでも止めません。展示室や茶室は子供のいい遊び場です。



作者を絞って展示して観るのも勉強になります。天龍道人、福田豊四郎、平福父子、寺崎廣業、浜田庄司、源内焼などを並べて観た事がまだありませんので・・・ 時間のある方はどうぞ、なんてね。

児玉希望の作品は気がついたら六点になっており、こちらにすべて揃っているので、あらためて確認のために整理してみました。とくに系統立ててしている訳でもなく、いい作品ばかりでもない点はご容赦願います。各々の作品の詳細は本ブログにて検索すると記述されていますので省略いたします。

色紙 山中松林図 児玉希望筆 その5 
絹本水墨 色紙  
画サイズ:縦270*横240



初秋山水図 児玉希望筆 その4
絹本着色軸装 軸先鹿角 合箱 
全体サイズ:縦1350*横700 画サイズ:縦412*横498



群青の色が目を引きますね。これは共箱もないので、真作かどうかはどうかは当方の判断ですが、この群青は児玉希望の群青と判断しております。



池の群青と紅葉し始めた樹木の色彩の対比がこの作品の見所だと思います。

清潭 児玉希望筆 その3
絹本着色 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦1900*横530 画サイズ:縦1225*横420



後述に巻き止めの所蔵の書き止めのある作品です。



初夏を描いた作品でしょうか? やはり群青が鮮やかな作品です。



初秋、初夏、そして初春の作品ですが、これは偶然の蒐集です。季節によって作品を選んだ覚えがないので、その時々で縁があった作品を入手したものです。

初春 児玉希望筆 その2 
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:縦1415*横650 画サイズ:縦411*横486





冨士 児玉希望筆 その1
絹装軸絹本着色箱入 452*416



この作品はまだ蒐集始めたばかりの頃に仙台で入手したものです。共箱もなにもありませんので、ただ作品と表具が気に入ったので購入したものです。



何も考えずに購入した頃のほうが、純粋な思いで購入しており、懐かしくなります。

さて本日初めて紹介するのが下記の作品です。

叭々鳥 児玉希望筆 その6
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱タトウ付
全体サイズ:縦1500*横710 画サイズ:縦500*横560



叭々鳥は(中国で瑞鳥のひとつとされる)吉祥の鳥で、枯木にとまる鳥の図は、南宋以来水墨画の画題として好んで描かれています。



中国南宋時代の禅僧画家牧谿(生歿年未詳)が描いたと伝える作品(五島美術館蔵)が著名で、本来は三幅対の中のひとつであり、室町幕府3代将軍足利義満(1358~1408)の鑑蔵印「天山」を有し、もとは東山御物です。

三幅対の他は静岡・MOA美術館と東京・出光美術館が所蔵しています。織田信長(1534~82)が、美濃の武将「稲葉一鉄」に和睦の記念として、三幅の中から本図の「叭々鳥」を選び、青磁香炉とともに贈ったと伝えられています。



*稲葉一鉄は江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父にあたり、養祖父ですが、信長に暗殺されかけたことでも有名な人物ですね。わき道に逸れますが、彼のその逸話は下記のとおりです。

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一鉄のことを信長に讒言する者があった。これを信じた信長は一鉄を殺そうとして茶会に招いたが、一鉄が床にかけられた禅僧の虚堂智愚の墨蹟『送茂侍者』を読み下しながら自己の無実を述べたので、信長は学識の高さに感嘆すると共に無罪を信じたと言う『寛政重修諸家譜』の逸話は有名である(『名将言行録』では、類似の逸話で掛軸の画賛の韓退之の詩「左遷至藍關示姪孫湘」を読んでみせている)。

『名将言行録』では、信長が一鉄に感嘆し、「あまりにも感激したので真実を話そう。実は今日貴殿を討ち果たすつもりで、供侍たちに暗殺を命じていた。だから、供侍は全員懐剣を忍ばさせている。これからは貴殿を害することはない。わしに従い謀りごとを献じてくれ」といったところ、一鉄は「死罪を助けて頂き有り難うございます。拙者も実は暗殺されると思いましたので一人ぐらいは道連れにしようと思っておりました。実は拙者も懐剣を持っております」と懐剣を見せたので、信長は益々感激したという。これは一鉄が武勇だけでなく、文才・謀略にも優れていたことを示すものである。

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戦国時代の武将の逸話は実に命がけのものばかりです。

吉兆の鳥というともあり、来年の吉祥のためにもいい掛け軸となりそうです。松も吉兆であり、正月飾りにはいい掛け軸でしょう。





近代の画家の作品は基本的に由来、共箱、誂えがしっかりしているものがいいです。

  

ニ重箱のいいものには内箱が引き出せるように皮などの紐が裡箱に付いているものがあります。ただ、由来、誂え、共箱がなくても見極めができるようになると、廉価でいい作品が入手できるようになると思います。

  

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児玉 希望(こだま きぼう):1898年7月5日~1971年5月2日)は、日本画家、日本芸術院会員。

広島県出身、本名・省三。尾竹竹坡、川合玉堂の門に入る。「希望」の号は竹坡がつけたもの。帝展に出品し、1918年同審査員、文展、日展に出品。1950年日展運営会参事、伊東深水門下の白鳥映雪らとともに日月社を結成。1953年日本芸術院賞受賞、1958年日展評議員、1959年日本芸術院会員。1961年日展常務理事。1970年勲三等旭日中綬章受章。 画塾の門下には佐藤太清、奥田元宋、船水徳雄らが在籍した。

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児玉希望の作品は過去に「なんでも鑑定団」にも出品されています。

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補足;「なんでも鑑定団」の記事より

児玉希望は水墨に生きた日本画家。1898年広島県高田郡(現安芸高田市)に生まれる。小さい頃から絵に親しみ13歳にして院体画に習った細密な武者絵を描いている。20歳のとき上京、当初は実業家を目指していたが祖父の死を機に画家になることを決意。

日本画家川合玉堂の門を叩いた。そのわずか3年後帝展に初入選し新進気鋭の画家として注目を浴びた。30歳のとき「盛秋」で帝展で特選を受賞。池の群青と紅葉した樹木の色彩の見事な対比は、大和絵の研究をするうちに自ずと身に着けたもので気品あふれる傑作と絶賛された。しかし色彩の効果にのみに頼ることを恐れ、南画を学びさらには花鳥画、歴史画、人物画などありとあらゆる画題に挑戦した。

その後は北宗画の細密さとヨーロッパ絵画の写実が融合した戦前の代表作で眼光鋭い狐の姿に並々ならぬ技量が見てとれる。さまざまな試行錯誤を経て最後にたどり着いたのが水墨画であった。

「水墨画だけは素人には絶対に描けるものではない 若し描いたとしてもそれは墨で描いた絵に止まり古来の水墨画とは自ら別のものである」希望はこう語っている。

1957年、59歳で渡欧し1年間滞在した。これは西洋古今の美術を勉強するとともに異国の地で水墨画を改めて見直し世界に通じる日本画を描きたいと思ったからであった。帰国後発表した新水墨画十二題ではさらに東洋的抽象表現を追及、水墨画の新たな可能性を切り開いた。

1971年製作中に持病の脳血栓が再発し筆を持ったまま絵の中に倒れこみそのまま帰らぬ人となった。享年72歳。

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児玉希望は一般には色彩のある鮮やかな作品が有名ですが、実は水墨画にこそ真骨頂があるようです。当方にないのはその水墨画・・・。

ブログの原稿作成に追いかけられずに、これからはのんびりと作者別や分野別の整理に専念していくつもりです。



贋作考 寒江獨釣 その2 伝釧雲泉筆 番外編

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畑から採れてからピーナッツとして食べられるまで非常に手間のかかる落花生ですが、最後の煎る段階から選別の段階まできました。息子は採れた当初から手伝っています・・、というより邪魔しています



息子が友達に家で見たショベルカーが欲しいと言い出しました。なんやかんやは買ってやらない方針ですが、ものづくりのものはかってやらないと思い、「桃太郎」の人形は誕生祝として、今回はクリスマスプレゼントでショベルカー(バックホー)とダンプカーのセットを買い与えました。



なにやら出来上がったピーナッツで祖父を相手に遊び始めました。動作はいたって簡単なおもちゃ。壊れなくていい・・。



ということで週末はミニクリスマス・・・。



さて本日は本ブログでも真贋が課題となっている釧雲泉の作品について考察してみました。というのは別の作品で紹介しました「寒江獨釣」という作品がまた見つかりましたので、その作品を中心に考察します。

冒頭の写真がその二つの作品を並べてみた写真です。右が以前に紹介した作品で「寒江獨釣 その1」と仮題にしております。左が今回見つかった「寒江獨釣 その2」の作品です。

贋作考 寒江獨釣 その2 伝釧雲泉筆
水墨淡彩紙本軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1870*横565 画サイズ:縦1190*横420



賛には「寒江獨釣 戊辰薔薇月作□ 四幀為贈 博堂仁兄清鑒 釧就 押印」とあり、文化5年(1808年)の作と推察されます。印章は「釧就之印」の白文朱方印と「仲孚」の朱文白方印が押印されています。



落款・印章は真作の作品に近似した印章が押印されています。あくまでも「近似」ですので、今回の作品は「贋作考」の紹介します。

  

本作品を紹介するにあたっては、同じ図柄の作品がいくつかありますので、その幾つかの作品を比較してみる必要があります。

まずは大正7年10月に開催された東京美術倶楽部主宰の「高田氏及び某家所蔵品入札作品」に掲載されている「作品NO42 春冬山水図のうち冬図」です。

 



サイズは「寒江獨釣 その2」に近い大きさです。



同一作品? 「作品NO42 春冬山水図のうち冬図」は写真が鮮明でないので小作品の厳密な比較は難しいのですが、同一作品とは違うのではないかと判断しております。



賛には不鮮明ながらほぼ同じ内容が記されているように推察されます。書体も思わず唸るほど近似しています。

 

「寒江獨釣 その2」の作品の出来は下記のとおりです。



読者の方からコメントをいただいたように、この双幅、もしくはこの作品を含む四幅の作品には複数の作品が存在していると判断してよさそうに思います。コメントによりますと、その後、同題の作品は「某子爵家」が売りに出したという昭和3年の目録があるそうで、またその後、昭和8年に「渡邉家」の売立目録に、この作品を含む4幅対が掲載されているとのことです。



「四幀為贈」と賛にあることが、その根拠になり得ると推察されますが・・・。ただしこの目録の作品の真贋も含めて、また模写という可能性も考える必要があります。



もうひとつの同じ構図の作品「寒江獨釣 その1」は当方の所蔵作品です。現在は「真作とは断定できず」の作品に分類しています。

寒江獨釣 その1 伝釧雲泉筆
水墨淡彩紙本緞子軸装 軸先鹿角 合箱二重箱
全体サイズ:縦2050*横740 画サイズ:縦1500*横608



落款は「雲泉写」とあるのみです。印章は「釧就之印」の白方印と「丹青三昧(絵画の道一筋であるとう)」朱方印です。



目録の作品や「寒江獨釣 その1」の二つの作品よりも少し小さい大きさですし、落款からは目録の作品や「寒江獨釣 その2」よりも前の作品と思われます。



こちらの作品のほうが真作の可能性が高いと思われますが、いまだに「真作とは断定できず」の分類です。



高値での売買がされていた釧雲泉の作品ですので、模写(贋作)と判断するか、贋作というよりも、「保存用(飾るため)や学習用に臨写された作品と判断するのか、さらには複数描かれた真作とするのか、それは当方の蒐集品のうちは当方の判断です。



さらにもうひとつの違う構図の作品(四幅のつちの一幅と思われる作品)を紹介しなくてはなりません。こちらも当方の所蔵している作品です。こちらも「真作とは断定できず」の分類です。

秋渓覚句 伝釧雲泉筆
紙本水墨軸装 軸先木製
全体サイズ:縦2100*横700 画サイズ:縦1736*横616

冒頭に「寒江獨釣」は双幅と書きましたが、実際は前述のように四幅対(春夏秋冬)である可能性が高く「秋渓覚句」はその秋の幅かもしれません。「寒江獨釣 その2」と同じ大正七年十月の當市高田氏及某家所蔵入札目録(東京美術倶楽部開催)には作品NO26として水墨双幅として掲載されています。



この作品は図柄、大きさから上記の「高田氏及び某家所蔵品入札作品」の「作品NO26 山水図双幅」と同一作品の可能性が高い作品です。



印章が微妙に違うとか、模写であるとの見解もあり、贋作と決め付ける方もおられるでしょう。当方ではこれらの作品は「真作とは断定できず」に分類しますが、「保管しておく価値のある作品」と最終的に判断しております。並みの趣味人ではこの斟酌度合いが難しい  

この「寒江獨釣 その2」と「秋渓覚句」のニ幅は大きさがほぼ同じ、真贋度も同じ、秋冬の双幅として寛容度を広く持ち、鑑賞するのも悪くはない。こういうことができるのは骨董を生業としない、しかし骨董を愛する趣味人だからできることだと思います。真贋の森で僅かながらひとつの指針を見つけ出したように思います。


ピーナツでも選別する際に売り物なら厳密にしますが、生業としないなら食べると美味しい形の悪いものは残して自ら食べますよね。
 
(注意)釧雲泉に限らず、南画の世界は真贋魑魅魍魎たる作品群の巣窟です。著名な画家に限らず当方でも菅井梅関、桑山玉洲といういわゆるマニアックな画家においても数多く贋作という判断となり愕然とします。高値ゆえ、模写が多いゆえ贋作が横行したのでしょうから手を出さないほうが無難というのもまた真実のようですが、その真実の壁の向こうに愉しみがあるようです。



桜桃鸚哥図 橋本関雪筆 その5

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家内曰く「橋本関雪? イメージが違う!」だと。「大丈夫、このような作品も描いているし、初春に飾る額だよ。」といったら納得していました。来年の干支は酉。本来は鶏ですが、鶏の作品だけではつまらないので鳥全般にして、正月に向けての展示にしようかと思っています。桜に桃もあるし、春まで飾っておける・・・。

桜桃鸚哥図 橋本関雪筆 その5
紙本水墨着色額装 共板 タトウ
画サイズ:横450*縦430



橋本関雪は動物画において名品が多いですが、本作品もその力量の片鱗が窺いしれるます。なお「鸚哥」はインコのことです。

本ブログで投稿しております「贋作考 秋圃 伝橋本関雪筆 その5」にもあるとおり、橋本関雪の贋作はたくさんあります。腕の良い贋作者が二人ほどいたとか・・。懲りずに橋本関雪の動物画への再挑戦です。さて本作品は・・・、懲りずに挑戦するのが趣味人ですが、知識や知恵のない浅学でかつお金をかけないことは、挑戦と言わず無謀という。



もともと掛け軸であったのでしょう。額装に改装され、共箱の板がタトウに収納されています。このような誂えは意外に費用のかかる細工です。



共板(共箱の蓋)には「白沙村人自検 押印」とあり、落款・印章ともどもしっかりとしたものです。

  

押印されている印章は「関雪」の朱文白楕円印です。「関雪作於冬花(瓜)庵 押印」とあります。よって昭和11年以降の作と推察されます。(宝塚にある冬花(瓜)庵は昭和11年の造営となるため)

*関雪の号:藤原兼家が雪降る逢坂の関を越える夢を見、その話を聞いた大江匡衡は「関は関白の関の字、雪は白の字とか。必ず関白に至り給ふべし」と夢占いをしたという。果たして翌年、兼家は関白の宣旨を蒙ったという故事より父である海関が名付けたもの。

*京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号しています。(白沙村荘の庭園は現在一般公開されています。)庭を営むことが多く大津に「走井居」、明石に「蟹紅鱸白荘」、昭和11年に宝塚に「冬瓜(花)庵」という別邸を造営しました。「冬瓜(花)庵」は所有者が変わり、現在は名古屋に移築されています。

広大な庭には、自ら世話をした犬、猫、猿、鳥など様々な生き物が遊び、動物に傑作の多い関雪の創作の源となり、動物を愛した画者の眼差し、一瞬の姿を描きとめる確かな観察眼と画技が橋本関雪の真骨頂となっています。
また、古今東西の古美術の蒐集においてもよく知られています。

   

箱の印章もお馴染みの印章ですが、贋作にも数多く押印されているものです。

 

出来共々、当方では真作と判断しております。



橋本関雪は何点か鸚哥を描いた作品があります。インターネット上には下記の作品があります。小生は値段はともかく本作品のほうが気に入っています。

参考作品 「鸚哥図」阪神梅田本店 阪神美術画廊 2014年 価格:150万
(同図の作品 姫路ヤマトヤシキ 7階の特選ギャラリー 「日本画・洋画 秀作展」 2013年 715*570 210万)



来年のお正月に向けての飾り物・・。



展示室の飾り付けを徐々に愉しみながらあれこれ検討しています。



手前の花瓶は浜田庄司・・、「鉄絵花瓶」と題されています。

*なお当方の浜田庄司はすべて真作です。ブログで意見を募る必要もないので近代陶工の作品の公開は基本的にしておりません。



当時の資料はそのまま遺されています。



最晩年の作と推察されます。



ところで浜田庄司の「鉄絵茶碗」の箱書のある箱のみを入手しました。箱は本物ですが、中の作品はどこへいったのでしょう? こういうことはよくあることで、この箱は現在使い道はありませんが、共箱のない浜田庄司の作品と縁が出来たときには使い道を考えます。
 


それが邪道か否かは見識のある者ならきちんとした使い道になるものと思っています。そう、「見識のある者」なら・・・。
さて、定期的な投稿は本日をもって終了となります。



浅絳山水図 その3 伝横井金谷筆 その7

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***** 定期的な投稿は先週をもって終了とさせていただきます *****。

本日は投稿するのを失念?していた原稿ですが、定期的な投稿は先週をもって終了とさせていただきます。今年は本日をもって終了となります。ご愛読の皆様、良いお年を・・、来年もよろしくお願いしたします。年末年始はまた男の隠れ家にこもります。

本日は原稿を見直したところ、投稿する記事を書いている最中に、横井金谷を整理していたら「その7」の作品の記事を投稿していないことに気がつきました。この文章は夏頃記述し記事のようです。本日はそのままの投稿をさせていただきます。

展示室の展示の模様替えです。



堅山南風の鯉、金重陶陽の蓮葉盆。



浜田庄司「春去春来」の赤絵壷。



最近紹介した虫籠。



茶室や二階は後日また・・。

本日の作品は横井金谷の山水画の作品紹介です。

山水画の作品は広い床の間で、つまり広いところで観るのがよいようです。狭い部屋で見ていても味わいが乏しい気がします。都会生活で広い居住空間の少なくなった今ではなかなか望むべくもないことなのですが・・・。

南画は人気がありませんのでいい作品が入手できる機会も多くなっていますから、一度そういう広いところで出来の良い山水画をじっくり観て欲しいものです。ちなみに広いところで観る感覚は美術館では味わえません。他の作品の展示の無い広い床で鑑賞すると美術館とは大いに違う感動があるはずです。



さて本日の作品は観ていて「すとんと納まる作品」のようです。「すとんと納まる作品」というのは表現が難しいですが、ま~お気に入りの作品のひとつということです。

浅絳山水図 その3 伝横井金谷筆 その7(整理番号)
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2010*横335 画サイズ:縦1320*横565



横井金谷は紀楳亭(1734年-1832年)と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われている。



紀葉亭は蕪村に師事していましたが、金谷もまた一般には蕪村に師事したと表されることが多いですが、その事実の確認はできていません。『金谷上人行状記』においても蕪村に関する事項は一行もありません。



名古屋において一時期近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけではありませんが・・。事実、蕪村風の画風の絵は金谷が48歳以降から晩年のものです。



下記は参考記事より

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横井金谷:1761年~1832年(宝暦11年‐天保3年)。江戸後期の浄土宗の僧で,のち修験者となった。絵をよくし,名は妙憧,別号は蝙蝠道人。金谷上人,金谷老人とも呼ばれた。近江国栗太郡の生れ。京都にのぼり,21歳で金谷山極楽寺の住職となった。のち諸国を歴遊し,中年になって名古屋住吉町に住して鈴木鳴門,丹羽嘉信ら文人画家と交わり,また張月樵に絵を学んだ。

「近江蕪村」と呼ばれるほど与謝蕪村に傾倒し,山水,人物を好んで画題とし俳画も描いた。みずからの放浪の生涯を描いた「金谷上人御一代記」を残している。



補足説明

金谷は宝暦11年(1761年)近江栗太郡下笠村(現滋賀県草津市)に、父横井小兵衛時平と母山本氏との間に生まれ、幼名を早松と称した。明和6年(1769年)、母の弟円応上人が住職を務める大阪天満北野村の宗金寺に修行に入る。明和8年(1771年)には近隣の商人伏見屋九兵衛の娘と結婚を約し、また江戸への出奔を試みるなど、良く言えば活発、天衣無縫な面が垣間見られる。



安永3年(1774年)、芝増上寺学寮に入るため江戸に向かい、翌年には早くも五重相伝・血脈相承を修めたが、安永7年(1778年)品川・深川への悪所通いが露見し増上寺を追われ、高野聖に化けるなどして下笠に帰国した。



安永8年(1779年)伏見光月庵主寂門上人や京小松谷龍上人に教授を受けに下笠より通い、また因幡薬師で龍山法印に唯識論を、六条長講堂に法相の碩徳大同坊の講義を聴聞するなど勉学に励んだ。そのかいがあって天明元年(1781年)京北野の金谷山極楽寺の住職となり、山号をもって雅号とした。この頃のことについて、金谷自らが書いた『金谷上人行状記』において、岡崎の俊鳳上人に随って円頓菩薩の大成を相伝し無極の道心者と言われる一方で、博打・浄瑠璃・尺八などの芸事に夢中であったと記載されている。



天明8年(1788年)、正月30日の洛中洛外大火で極楽寺が消失し、負傷した金谷は翌月城之崎へ湯治に出た。翌年3月、長崎を目指し旅立ち、姫路の真光寺や赤穂の大蓮寺などで「円光大師(法然上人)絵詞」を描き、寛政3年(1791年)長崎からの帰途にも諸寺に立ち寄り絵詞を納め、翌年赤穂において浪士原惣右衛門の孫原惣左衛門の娘ひさと婚姻した。ひさを連れ江戸へ旅立つが、名古屋において長子福太郎が誕生し、名古屋で3千石取りの藩士遠山靭負の援助を受け留まる。



享和2年(1802年)法然6百年御忌報恩のため全国48寺に「円光大師絵詞」を納める。文化元年(1804年)7月、京醍醐寺三宝院門主高演大僧正の大峰入り(大峰山に登っての修行)に斧役として従い、8月その功により「法印大先達」の称号と「紫衣」を賜り、名古屋に帰宅した。



文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)故郷近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結び、天保3年1月10日(1832年2月1日)大津坂本にて死去した。



横井金谷は紀葉亭(1734年-1832年)と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われる。紀葉亭は蕪村に師事していたが、金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いが、その事実の確認はできていない。『金谷上人行状記』においても蕪村に関する事項は一行もない。但し、名古屋において一時期近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけではない。事実、蕪村風の画風の絵は金谷が48歳以降から晩年のものであって蕪村の死後からです。



彼は若いときから絵を独習し、特定の師についたわけではないが、与謝蕪村に傾倒していたため、紀楳亭とともに「近江蕪村」とも称された。63歳で坂本に住居を定め、草庵「常楽房」を営んだ。彼は、天保3年(1832)72歳で没するまで、ここで暮らした。この頃の金谷の画賛には「金谷道人滋賀山寺に於いて写す」「台嶺麓下金谷写す」などと記されている。おそらく大津の山水の美しさが、晩年の金谷の心をとらえたのであろう。



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55歳を迎えた文化12年(1815年)以降では、「吾五十有五而志学」(われ五十有五にして学を志す)の遊印を用いた作品が多く、蕪村画写しを盛んに描きました。蕪村の画風が強く見られるのは、晩年近江移住前後の餐霞洞・常楽山房(晩年の画室)時代です。近江蕪村と称される理由もそのことによります。本作品の印章の欠け具合、落款、作風から蕪村写しではないにしろ、この時期の作と推察されます。



本作品を稚拙と嘲笑うか、いいな~と思うかは評価の分かれるところでしょう。



今では10分の1以下の値段になったと言われていますが、一時期は近江蕪村と称されて人気を博したことから非常に贋作が多いようです。稚拙なところがあるので、贋作も描きやすかったのでしょう。



*骨董はまさに真贋の森、迷ったら自分で道を切り開くしかない森です。今も尚、森を彷徨う旅人のようですが、だいぶ方向感覚は整ってきました。

ご愛読いただいた皆様、良いお年を・・。






伝天啓赤絵 馬文筆洗形茶碗

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郷里から三日の夜遅く帰宅し、昨日は挨拶廻りに安全祈願に仕事初めと慌しい一日でした。

年末には母への訪問していきました。会う前に腹ごしらえ・・、息子の箸の使い方も様に?なってきたようです。食事の躾は外食がいいようです



相変わらず元気そうで、息子とのコミュニケーションも良好で、息子も母に会うのを楽しみにしているようでした。



こういう点ではなかなか感心な子です。写真の説明も相変わらず熱心に・・。郷里でももう一人のおばあちゃんにも愛想よく・・。



さて、本日の作品はちょっと見慣れない作品です。天啓赤絵と思われる筆洗形をした器です。家内共々「面白い絵付けだね」、「茶碗として使えないこともない」と・・。

伝天啓赤絵 馬文筆洗形茶碗
合箱入
幅145*奥行70*高台径57~80*高さ70



天啓赤絵については本ブログをお読みの皆様には説明は不要かと思われます。詳細は他のブログの記事をご覧ください。

振り返る馬がなんとも愛らしい・・??



明末から清初にかけては官窯が衰退しており、民窯の作品が盛んに作られ、江戸初期の日本の茶人に愛用されて、天啓赤絵や南京赤絵、そして古染付など多くの作品が日本からの注文で輸入されました。その中には日本から型を送り、注文に応じた作品が作られたと言われています。



本作品は天啓赤絵の約束事である虫喰いが少ないですが発生しています。



砂付高台ではなく、また高台内の鉋の跡がないという点は注文品の丁寧な作りには見られないことがあります。



高台内に銘がないことなどから、時代は清朝、天啓赤絵の分類に入るかどうかの間際の作品と推察されます。



茶碗の体をなしている器は非常に珍しく、しかも筆洗形であり、日本から特注された作品であると思われます。



「筆洗形」についての説明は下記のとおりです。

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筆洗形について
筆洗(ひっせん・ふであらい)とは絵具のついた毛筆を洗う器のことです。筆を水ですすいだあと、水を切り穂先を整えるための切込みが入った文房具です。この筆洗を食器の形に取り入れたものが筆洗形のうつわです。主に茶碗や鉢などの飲食器に見られる形で、口縁部に切込みが入っています。



*詳細はリンク先を参考にして下さい。

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骨董や茶道をたしなむ方には「筆洗形」くらいは常識として知っておかなくてはいけません。



本作品の真骨頂は天啓赤絵であるか否かではなく、その文様の愉しさにあります。むろん天啓赤絵ならかなりの貴重な作品ですが、もともと天啓赤絵や南京赤絵、古染付は雑器です。茶碗に見立てるには無理があるでしょうし、それも日本から注文で茶を理解しない中国で作っているわけですから・・。



今年は整理にもっと重点を置いたマイペースの投稿とさせていただきます。本年もよろしくお願いします。

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