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染付陽刻菊波文様香合

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年末年始の帰郷は新青森まで新幹線です。最初は新幹線で喜んでいた家内と息子ですが、新青森からのローカル線では「雪が多いね」と心配そう?



「大丈夫、今年は少ないよ!」という小生の返事に息子は半信半疑・・・。



準備万端での降車・・。帰郷後の昼飯は当然、鶏飯。



やはり帰郷した前夜に雪が降った程度の積雪のようで今年は大したことはないようです。



息子も除雪の洗礼。



雪だるまつくりはむろんのこと・・。



本日は郷里の男の隠れ家から持参した香合です。

染付陽刻菊波文様香合
合箱二重箱
最大口径60*高さ33



製作地・製作年代は不詳です。



購入した当時は「清朝」の作品としていましたが、現在はよくわかっていません。



なかなかいい出来の古いものという判断です。



金繕いが丁寧に施され、大切に保存していたことがうかがえます。



玄関の竹篭に飾っていましたが、このたび調査や整理のために持ち帰りました。



現在の本作品緒名称は「染付陽刻菊波文様香合」としております。



非常に気品にある作品で、他の所蔵作品の香合とも引ひけをとりません。



誂えの箱に外箱、所蔵印の布で説明書きを同封しておきます。

 

整理している机の脇で息子が「パパ、何してるの?。」「作品の整理だよ。」

「どうして整理するの?」「息子よ、お前に分かるようにしているのさ、どうするかはお前次第だよ。」


馬来婦人正装 福田豊四郎筆 その68

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昨年末に義父が駐車場から取り出してきた黒柿の煙草盆。家内の実家に庭にあった黒柿の木で長火鉢、手あぶり、そして煙草盆をいくつか作ったそうです。長火鉢と手あぶりは健全な状態ですが、今回見つけ出してきた煙草盆は修理が必要でした。



ひとつは健全な状態に近いのですが、漆が色あせており、いつか補修した金属製の釘が悪さをしているようです。



もう一つは底板の桑が反っています。



もうひとつは分解状態です。



これらを直そうと思い、日本橋の小林宝林堂を訪ね、検討を依頼したところ、二つで7万円、三つめは寸法をつめたりでしないと修理できず、10万はゆうにオーバーするという回答。しかも当方のアイデアの直し方では全くできないとのこと。お店の御主人は指物師との交渉をする気がなさそうですし、仕事もわからないようなので、品物はとりあえず引き取ってきました。今度は山形の黒柿家具を扱う飯野工芸さんに依頼したところ、当方の提案もよく理解でき、すべて完璧に直して10万円ということで依頼しました。



年末には三客ともに同じように仕上がってきました。





漆の色が濃いのはだんだんに色褪せてくるそうです。



長火鉢、手あぶりと揃いました。当時は五客はあったそうです。先祖伝来のものを修理するのも、きちんとできる職人を探すところから始まります。



銀座、日本橋という一流どころもお金だけ高くても、技術の知識が軽薄なお店もあるようです。



先祖から伝わるものはいつまでも同じ状態を保つことは不可能です。メンテや手入れは怠らないようにすることです。



こちらは当方に伝わる桑でできた「田葉香盆」・・。



桑というと姿見。



木のリサイクルのお店で見つけた作品です。



平野共山のショーケースの桑・・。





おっと脱線しましたが、本日の作品は福田豊四郎の作品、その68です。

馬来婦人正装 福田豊四郎筆
紙本水彩額装 プレート付 昭和31年頃
10号 額サイズ:縦685*横457 画サイズ:縦515*横285



掛け軸や額の絵の飾りの基本は見る目の高さに合わせるということです。このことを意外に守らない人が多いようです。

今回の展示の反対側には黒柿の短冊掛けがあります。



飾られているのは平福百穂の「梅」、この黒柿の短冊掛けの黒柿もまた家内の家に生えていたいう柿の木から作ったものだそうです。



本ブログにある作品の多くは郷里に関係した方の作品が多いです。源内焼の平賀源内は郷里を鉱山に視察で訪問しておりますし、秋田蘭画の契機を作った人物でもあります。



平福百穂は秋田蘭画を世に紹介した画家であります。



賛に「馬来婦人正装 於久鎮」とあり、昭和31年4月から約3カ月間アジア連帯文化使節の一員として東西諸国を巡遊した際に描いたスケッチと思われます。



押印されている少し縦長の「豊」の白文朱長方印は2種類あるのか、時期によって印影が違うよに見えるように思われます。



このあたりに見極めは実際にいくつもの作品を購入していないと分からないものです。



むろん本作品は真作です。本ブログでの福田豊四郎の作品は一部の不確定なスケッチなどの作品を除きすべて真作です。



そろそろ「福田豊四郎 小作品展」でもやるかな?

壺屋焼 白化粧地呉須海老文大皿 金城次郎作 その5

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昨年末はなにかと気忙しい日々・・。そんな状況でクリスマスイブ。



同時に息子の三歳の誕生日を迎えました。



三年はあっという間でした・・。



本日は本ブログでたびたび紹介されている浜田庄司と縁の深かった金城次郎の作品の紹介です。金城次郎の作品については銘の有無、共箱の有無が話題になります。

壺屋焼 白化粧地呉須海老文大皿 金城次郎作 その5(整理番号)
口径408*高台径*高さ82



金城次郎は無銘の頃(作品に銘を入れていない頃)に数多くの口径40センチクラスを超える大きな皿を製作しています。

各作品の説明でも記述しているとおり、金城次郎の作品は白泥を化粧がけし、そこを釘で彫って文様を描き、茶色や青を塗っています。一気に魚と海老を描いており、その躍動感が醍醐味となっています。沖縄の釉薬は流れやすいため、釘で線を彫って釉薬で埋めましたが、それが意外な効果を生み金城次郎独特の作風となっています。



金城次郎の技法

金城次郎は鉄分の多い赤土で成形したうえに白化粧と魚や海老が描いてある作品が広く知られます。これは化粧土にイッチンで描くか、逆に工具でかき落として線彫りしています。

琉球陶器といえば金城氏の魚紋と海老紋を思い浮かべる人もいることでしょう。この模様と装飾が特徴的な技法です。その他、指描きでの装飾や釉薬の流し掛けなど、益子や小鹿田にみられる技法も自らの作風にマッチさせています。



次に釉調についてです。氏の作品は線彫りの深めのみぞが釉薬の濃淡を生み出しています。これはイッチンでも同様で、器面の凹凸で呉須の青や、真鍮(しんちゅう)の緑釉の色が微細な濃淡をみせています。

青が濃すぎないのは黒釉を混ぜているためです。この黒釉は黄土と灰を混ぜたもので飴釉にも蕎麦釉にもなります。日用品を旨とする壺屋ではよく使われる釉薬といえます。また、透明釉にはモミの灰に珪石、石灰質の補填ではサンゴを用いています。これらの原料は全て沖縄で手に入るものです。沖縄独特の釉薬言えるでしょう。



透明釉はさておき氏の作品を見ると釉が流れているのがよく分かります。線彫りとイッチンの凹凸がないとさらに流れてしまうので、この装飾が釉薬をせき止めているわけです。こうして金城次郎は独自の世界観を構築していきました。

氏が陶業に関わり60年が経った1985年、国の無形文化財「琉球陶器」保持者に認定されます。17歳年上の濱田氏は「笑った魚や海老を描ける名人は次郎以外にいない」と評したそうです。戦後の琉球陶器において「魚」と「海老」は一般的なモチーフでした。それにもかかわらず、魚紋と海老紋は金城次郎の代名詞といえるほどの独自性と躍動感に満ちています。



本作品は壷屋時代の無銘の頃の作品とは断定できず、壷屋時代の最後の頃か読谷に移転してからの最盛期の作品ではないかと推察されます。1980年以前には銘を入れてなかったのでその頃の作品、もしくは銘を入れ始めた頃になんらかの理由で銘を入れなったのかもしれません。贋作の可能性は否定できませんが、これほどの作品を作る人がいるかどうかは不明です。数多くの類似の作品が出てきており、これらの検証は後学とせざるえないのが現状です。



1978年(昭和53)に高血圧で倒れ、その後はリハビジに励みながら作陶をしています。後期の作品に見るべき作品が少ないのはこの病気が影響しているかもしれません。

贋作が存在するが故に銘や共箱がないと金城次郎の作品と一般には認められませんが、逆に銘や共箱のある作品は勢いのうせた作品になっています。なお1997年(平成9) 思うような作品ができなったということで、高齢を理由に引退しており、晩年の20年間で膨大な作品を製作しております。



前述のようにインターネット上の記事には1980年までは銘を入れていないという記述があります。40センチを超える大皿の製作には体力を使いますので、高血圧で倒れた後にはこのような大きな作品の製作は無理があったのかもしれません。

市場に流通している金城次郎の作品は銘や共箱のある作品がほどんどですが、それらは逆に見るべき作品が少ないといわぜる得ない状況です。

*なお金城次郎は箱書きなど不要と考えていたのか、箱書きの文字が統一されておらず、箱書や銘は他人に任せていた可能性があります。



金城次郎の作品を見る上では、作品そのものを見る眼が大切ですが、これがなかなかどうして素人では難しいものです。難しいがゆえにその果てに真実があるように思いますが・・・。



骨董も含めてモノづくりのすべては疑心暗鬼のような過程を経て辿り着くものかもしれません。

いずれにしても銘や共箱のある作品が主流となっている金城次郎の作品より、もっと以前の銘などない作品に真骨頂があるように思われます。



贋作の罪というか、銘や共箱、鑑定が優先し、本来評価されるべき作品がなおざりにされているきらいがあります。

さらに言うなら名声や金銭的な俗世間的なものを先んじるがゆえにモノづくりには後継者が育たなくなったとも言えます。まずはホンモノを見る眼を養うことです。それがものづくりの原点ですね。

*ちなみに筑紫哲也氏は金城次郎の著名なコレクター。

*金城次郎は高台部に傷がついたもの、あるいは焼成中にゆがみが生じたものも、注文主に渡したり、一般に販売したりしていています。

下記の作品は本ブログでも紹介されている作品です。



琉球王府時代に窯業関係を所管した行政組織。瓦奉行所には多くの職人たちの中に「洩壺修補細工」という職人が配属されており、焼成で生じた傷・ひびを補修して市場に出すことは一般的であったそうです。

下記の作品は本ブログでも紹介されている作品ですが、厳密に寸法を測ると歪んでいるのが解ります。



近代期でも壺屋の製品は、通常は東町の焼物市場で売買されますが、歪みや傷が生じた製品は別の専門の市場で売買されています。金城次郎にとって、焼成による失敗品を売買することに抵抗感はなかったようで、むしろ窯の中で生じる変化に、積極的意義を見出そうとしているかのように思われます。



下記のブログで紹介した作品ですが、浜田庄司が評した金城次郎の作品には魚が笑うような独特の表現があります。



あらためて金城次郎の作品を休日にじっくりと観察いたしました。



息子は家内と初釜に出かけて行き、ひさかたぶりにのんびりとした休日を過ごせました。

氏素性の解らぬ作品 伝古清水焼(堆朱手) 色絵草花文三足香炉

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今年も同僚らに配った畑で採れた作物です。



落花生は手間がかかっています。今年はいまひとつ実が小さく、義父は美味しさに自信がなさそうでしたが・・。



たけのこ芋に、庭の木に実った柚子・・、義父と義母が高齢ゆえいつまで続けられるか 配られて方には迷惑かもしれませんが、配れるうちは健康な証。



伝古清水焼(堆朱手) 色絵草花文三足香炉
合箱入
径80*高さ75



「堆朱手」というものが古清水焼に存在するのかは良く解りませんが、購入時の説明にそうありましので、そのまま記載しました。



古清水焼と称する作品群にこのような釉薬は見かけます。



「堆朱」ということから、釉薬を削って文様を出す?のではないかと推測されますが、詳細は不明です。



実際に香炉として用いられていたように思われます。



幕末期の京都ので製作された作品ではなかろうかと推察しています。高台内にある「物化」という刻銘については不明です。



当方でも本作品以外に他に二点ほど同じ技法の作品があります。まずは小振りな香炉です、



釉薬を掛けてから削る? ん~、どうも文様が堆朱に似ているからかな?  



見込み内には「文化」というふうに読める書きが見られます。







もう一作品は最近紹介しました「帯山焼」の湯呑みです。



この手の作品は時折見かけますので、明治期の作品かと・・。



ところで、小生の信条に「仕事に人間の好き嫌いを持ち込むな」というものがあるが、仕事の組織にそのことを持ち込む輩が最近多いように思えます。実に大人気ない

元旦

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新年はあちこちで神棚を拝みまくり・・・、まずは男の隠れ家で。



しめ縄を取り替えて、榊も・・。



男の隠れ家に帰郷しての第一番目のお仕事。



お神酒は今話題の地酒を。



元旦は初詣・・。



息子は義父が着ていた着物を・・。



墓参りも・・。



あちらこちらの墓参り・・。



これぞ神仏混合。



息子は雪の洗礼を受けています。ん? キリスト教・・??



元旦の墓地は除雪などしていません。今年は雪が少ないのでらくちんですが・・。



帰宅後は男の隠れ家で簡単なおせち。実はもう撮影はしていませんが、もうひとつの男の隠れ家でも神棚があり、正月は五つの神棚がまだあります。



帰京後も神頼み、もとい神様には感謝・・。



荒神様もお忘れなく・・。



恵比寿・大黒もある。



ここにもお稲荷さん・・。男の隠れ家には庭に稲荷神社まであります。



他に天神様、利休像、二宮尊徳、仏壇・・・、年末年始の頭を下げた回数は数知れず。頭を下げた分だけ運気が向いてくるもの。

最近は頭を下げることを知らぬ傲慢で横柄な者が多いようだが、いずれ不徳の致すところとなろうに・・。人生は我慢した分だけ身につくものが多い。

修理 輪島塗銀吹御櫃揃

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元旦の行事を済ましたあとは、男の隠れ家に集合した家族で近場の温泉へ・・。



九州から、仙台から、郷里からなどからようやく集まったのが元旦を過ぎた翌日。日帰りだが旅館に部屋を予約し、皆が集合。



まずは露天風呂。



いい風呂でしたね。



さ~、皆さんお食事ですよ。



むろん、男の隠れ家でも食事。食べるものを食べて今年も頑張ろう。息子は三人目のおばあちゃんとも仲良し。



「かにさん、かにさん、どこ行くの」とご機嫌。



今年のお正月は雪が少なくていいお正月でした。ともかく健やかに・・。慎重がだいぶ違うこのお二人、親子です。



ふるさとの家は落ち着くものです。



男の隠れ家で気になっている作品に下記の作品があります。輪島塗の「銀吹」という珍しい漆器で、祖父の代から家に伝わっており、母が大切にしていた作品ですが、だいぶ漆がやせてきて、銀片がとれてきているのです。

輪島塗銀吹御櫃揃
御櫃:口径238*底径246*高さ110
台(膳):幅288*奥行289*高さ90
杓子:長さ247*幅62*高さ20



そろそろ修理しなくてはいけません。先日黒柿の煙草盆の修理で出費したばかりですが、持ち帰るタイミングが少ないので、今回修理を検討するために持ち帰りました。



内部は真塗です。銀吹の御櫃というのはついぞみたことがありません。漆器には祖父が特注で作らせたものが多いのでその中のひとつだろうと推測しています。



透かし漆を塗って、銀片が落ちるのを防止するのでしょうが、よくある梨地のようになってはつまらないものになります。



果たして修理可能か否か・・。まずは以前に頼んだ地元の輪島に問い合わせることにしています。東京の一流どころはこういうのは値段ばかり高くてあてになりません。



銀吹の器は他にも汁碗揃などがあります。母が大切にしながら、痛んできたのを気に病んでいました。



膳も・・、食器とともに揃いであります。宴席で使っていたようです。工房作品の柿右衛門は使い勝手いいようです。下の染付は小生のお気に入りですが、かなり出来が良く1客しかありません。揃いを販売するための見本品であったようです。

まだまだ揃いの食器はありますが、年末年始の時間のないときに並べてみるほうがたいへん・・・・、他は後日また・・。



汁碗も膳も修理してまた家族で食事会ですね。まだまだたくさんありますのでいつになるやら・・・。古きものを大切にするというのは言うが易し、行うは難し・・。やはり宴会はホテルで・・・。

とりあえず、御櫃はメールでなんどかやり取りした後に修理ができそうなので。週末には輪島に発送としました。

漆器類も整理し出すと途方もない数になる



手吹瑠璃洋酒器 醍醐 藤田喬平作

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男の隠れ家の棚でごそごそと昔作った茶碗を取り出していると家内が「これは?」と聞いてきたので「これは失敗作だよ。」と・・。



「どこが?」、「面白味がないからかな。」と・・。たしか盛岡の南部窯でつくった灰釉の茶碗。



「面白いとおもうけどな~」と家内、「あっそう。」とすげなく返事したものの、なんとなく嬉しい。ということで持ち帰り。

本日は本ブログでときおり登場している藤田喬平作の酒器です。

手吹瑠璃洋酒器 醍醐 藤田喬平作
共箱 
酒器:幅110*奥行105*高さ270
盃:口径48*高さ57



藤田喬平の作品は何点か本ブログで紹介していますので説明は省略します。



硝子の器ですので、あまり肩の凝った作品より、廉価な普段使いの器のほうがいいと小生は考えています。



やはりきりっと冷えた日本酒が一番ですね。



ワインなら白のすっきり味・・。



藤田喬平の酒器でちょっぴり贅沢な気分で・・。



盃が揃いで付いています。



夏には平茶碗もいいでしょう。



お刺身を盛るのもいいでしょう。普段使いに合うガラスの食器です。



男の隠れ家の贅沢なひと時・・、いったいいつになったら実現するのかな





氏素性の解らぬ作品 色絵草花文三足水注

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週末には近くの公園でどんど焼き



焼いている火で団子を焼きます。皆さん団子を串刺し? 竹に指して準備・・・。



熱いね~、と火には近寄らない。「君子危うきに近寄らず。」



週末は雪が降りそうだったので除雪の準備も・・。



ついでに自転車の練習・・。



小生に似て何事にも慎重派。幼稚園で出合った母親達に早速あだ名されたのが、「学級委員長」・・、筋は通すが慎重らしい

そもそも慎重派は学級委員長は受けない、小生しかり・・。

色絵草花文三足水注
合箱入
幅185*奥行145*高さ180



上部に補修跡があります。



箱書の書付には「紀州御庭焼 水指」とありますが、本作品との関連性は不詳です。
また箱の底には「安永元壬辰(みずのえたつ、じんしん)年(1772年 明和9年、安永元年11月16日 ~)霜月(11月)十一日 橋村也吉 年賀・・・」こちらも当作品との関連性は不明です。

 

粟田口焼の錦光山の古い作品ではないかとも推察していますが・・・・。



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錦光山:粟田陶工の旧家のひとつで慶長年間(1596~1615)よりすでに製陶に従ったという。正保年間(1644~8)に初代小林徳右衛門が粟田口に窯を築き鍵屋と号した。二代もまた徳右衛門という。元禄(1688~1704)に三代茂兵衛が粟田青蓮院の宮の御用を仰せ付けられて錦光山の名を賜った。

また当時の将軍家日用の茶碗は粟田口焼の蛋白色のものを用い、三文字屋の専業で三文字屋は御茶碗師と称していたが、延享年間(1744~8)に至って資産が窮乏して幕府の用品を製造することができず、幕府もこれを補助したがついに堪えることができなかったので1755年粟田陶工を簡択して錦光山・岩倉山の両人に製造を命じた。錦光山は御用茶碗を焼くほかに天目茶碗・御鷹野茶碗などを作った。

四代・五代共に喜兵衛と称し御用陶工であった。オランダ写しあるいは御室仁清風のものをつくり、マル宗ともいった。六代宗兵衛の頃から姓を錦光山と改め青木木米に師事して磁器の製法を伝習し維新の頃製品を改良して貿易を始めた。京都磁器海外輸出の最初であっただろう。七代宗兵衛はますます貿易に励み、欧米を視察して製品の改革を図り斯業に大いに貢献した。緑綬褒章受賞。1928年2月61歳で没。

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つい最近紹介しました「伝古清水焼(堆朱手) 色絵草花文三足香炉」らの作品と共通した作品群のように思われます。



道筋が間違っていようが、調べているうちに、実物にて確認していくと類は友を呼ぶように同じような作品が蒐集されてきます。なにしろ名うての慎重派ですから・・・。



ものはどうあれ、この水注は堂々としており、非常に気に入っています。手持ちを何にしようかとあれこれ考えるのも愉しいものです。



これで湯呑みが揃うと面白い道具になります。





幻の画家 松上鶴・梅下亀双幅 岩井昇山筆

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男の隠れ家で懐かしい作品を見つけました。秋田の保戸野窯で作った初めての抹茶茶碗です。



なんともへたくそな絵付けに削りすぎて歪んだボデイ・・、当時は割って捨てようと思ったのですが、保戸野窯の平野先生に「最初に作ったものはいつか大切に思う時がくるからとっておいたほうがいいよ。」と言われてとっておいたものです。



実用性はともかく無心で作っていたあの頃が懐かしくなります。難しい仕事の取り組んでおり、気がめいるときに打ち込んだ陶芸は面白かったものです。当時の手の跡が残る茶碗・・・。「初心忘れるべからず」か



さて本日は幻の画家と称される岩井昇山の作品の紹介です。

本ブログにて「岩井昇山」が登場したのは、当方の蒐集対象の画家である「渡辺省亭」の巻き止めに鑑定書があったことによります。ただし下記の記事に「晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。」とありますように、渡辺省亭との関連性は明確なものではないようです。落款や印章の資料が当方には乏しいことから、この鑑定が岩井昇山のものかどうかは定かではありません。ただ、信憑性が高く、渡辺省亭と岩井昇山の関連性を裏付ける作品になるかもしれません。

雪景燈籠ニ蛙図 渡辺省亭筆 その10
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 昇山鑑定 合箱
全体サイズ:縦1930*横640 画サイズ:縦1230*横500

本作品はもともと三幅対の作品であったものが双幅とて遺っている作品です。このようなことはよくあることで対の作品を単品で売買されてり、一幅だけ飾っていたりして、箱と離れてしまったりすることなどの理由によるもののようです。

松上鶴・梅下亀双幅 岩井昇山筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製(梨地塗) 共箱(三幅対のうち双幅)
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1286*横294



もともと寿老図(竹が背景にあったものを推察されます。)が加わった三幅対の作品の中の双幅の作品です。

表具を新たにしており、その際に軸全体が太くなり、共箱に納まらなくなり、中央の軸だけ箱に収まらなくなったと推測されます。古い表具は厚みが薄いのでよくあることです。

 

このような場合は、箱の書付部分を新たな箱に組み込むのですが、そこまで費用をかけるほどの作品ではないと判断したのでしょう。作品の保存にはとても残念なことです。



共箱には「大正5年丙辰(ひのえたつ)冬日」とあり、大正5年(1916年)、岩井昇山が45歳の作。東京都下谷区(現台東区)に在住の頃の作品で、埼玉県寄居町に移り住む前の作品となり、この頃の作品が遺っているのは希少と思われます。

 

岩井昇山についてはご存知の方が少ないと思われますので、下記のインターネット上の記事を参考にしてください。

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岩井 昇山:(いわい しょうざん)旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)~ 昭和28年(1953年1月11日)は、明治から昭和期の日本画家。

 

旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)、太政官府の役人・岩井秀一の次男として、東京麹町に生まれる。本名は小五郎。成童のころ北派(文晁系)の画家・吉澤雪庵に学び、次いで容斎派の松本楓湖の安雅堂画塾の門人となる(楓湖の浅草栄久町時代、明治10〜25年の弟子)。晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。

日本画会、明治画会、帝国絵画協会、巽画会などに所属するものの、画家としての活動記録はほとんど見られず、展覧会出品の記録も明治35(1902)年の第12回「日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会」、大正2(1913)年の「表装競技会」など極めてわずかで、人嫌い、変人、果ては楓湖門破門説などに結びつけられ、“幻の画家”と称される由縁となっている。

大正終わりから昭和始めころには、東京都下谷区(現台東区)から埼玉県寄居町に移り、山水を中心に清澄で透明感のある独自の画風を確立したが、ついに画壇の寵児となることなく、昭和28(1953)年1月11日、同地で没した。享年81。


 
2006年8月25日号の美術誌『Bien(美庵)』Vol.40(藝術出版社)にて、巻頭特集「幻の画家・岩井昇山』として紹介されるや、一躍脚光を浴び、『埼玉新聞』2006年9月14日付でも「謎多き孤高の画家」として大きく紙面を割いて報道した。その後も地元・寄居周辺を中心に展覧会の動きもあり、盛り上がりを見せている。



昇山の名が上がるにつれて、ネットオークションや埼玉など地方において悪質な贋作が出回っているようだ。

見つかっている贋作類は、

A.熱で圧着させたシールのような落款を用いている→落款をよく見ると、サインや印章の周囲に不自然な光沢がある等の特徴から判別できる。

B.直接インクを転写するやりかたでサインや落款を入れている→Aのように不自然な光沢は周囲にないが、サインならば墨の色が絵中の墨色と違ったりする(薄かったり青かったり、異質な感がある)ことから判別できる。

近年は、上記A・B2点のような判別が困難な、巧妙な落款を施した贋作が確認されている。

*昇山の名が上がるにつれて、不当な値付けで儲けようとする業者が出て来ているようです。現在の昇山の価格相場では、共箱付の掛け軸であったとしても、3万〜5万が相場とのこと。

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インターネット上の他の記事を纏めると下記のようになります。

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岩井昇山は寄居町桜沢本村に住し、妻(くに)と共に身寄りとてなく暮らしていた。糊口をしのぐため、遠近の僅か訪うひとの求めに応じ、祝い絵の蓬莱山などを書きながら、古武士そのものの枯淡の日々をすごしていたという。名は小五郎といい、号は昇山、明治三年東京に生まれる。父祖は京都伏見の甲冑師、岩井平次郎秀一師で、蜂須賀阿波守の家臣。明治維新の際、旗本八万旗の版籍奉還と共に零落したという。幼くして松本楓湖、吉沢雪山に歴史画を学ぶ。世に無名ではあるが、その絵画たるや実に清澄透徹、澄みて鏡の如しで、一種独特なる風格を持った作品を描く。



岩井小五郎の父は明治天皇が幼少のときより武士として傍につかえ、岩倉具視や桂小五郎とともに活動した勤皇の志士であった。京都では桂小五郎を幕府の手のものからかくまい、その縁故で息子を小五郎と名づけた。小五郎の父は 維新後、明治天皇から御徒町の地に広大な土地を賜ったが、江戸に溢れる浪人たちに次々と自分の財産を分け与え、最後はたいへん質素な暮らしをしていた。葬式には、その恩を偲ぶ人たちが長蛇の列をなした。



岩井昇山は夜中あちこち歩き回り絵を創作していたため、「こうもりの画家」とあだ名された。ただ生活スタイルの厳格さは武士そのものであった。 何事においても無欲な人で、金銭のために絵を描くという気持ちはもっていなかった。



小五郎の妹「すえ」の夫、江間平吉は妻と子供4人を連れ、第一次大戦後の中国に移り住み石炭事業を起こしましたが失敗し、失意のうちに中国で亡くなりました。夫なき後4人の子供をかかえ、東京にもどったすえが頼れる身内は寄居町に住む兄岩井小五郎しかいなかった。小五郎は妹すえの求められるままに次々と猛烈なスピードで絵を描いていき、すえ一家の生活を支えた。

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ニ幅しかなくそれほど抜きん出た作品ではありませんが、幻の画家と称されていることと当方の蒐集対象の渡辺省亭との関連性から保存しておくことにするつもりです。



表具も丁寧になされており、いつか「寿老図」と縁があるかもしれませんね。

大津絵 その18 弁慶の立ち往生(長刀弁慶) 

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今週の初めの夜中に息子が急に具合が悪くなり嘔吐・・。その後下痢となり、家内共々寝不足。なにしろ具合が悪いときもママさんよりも「パパ!」という息子です。

出勤した後に家内からメール、息子曰く「もう大丈夫だから心配しないで」だと・・・

お昼近くには「お腹空いた、もう直った!」・・・・ いままでほとんど熱を出すこともなく、丈夫に育っているようでしたのでたしかにずいぶんと心配したのですが、大丈夫らしい。帰宅後にはいつもの息子になっていました。



軽度のノロウイルス??、ともかく部屋中を消毒しておきました。

仕事部屋の机は最近息子の遊び場と化しています。硝子の器や掛け軸のある机の上は糊でべとべと・・。「駄目です」とは滅多に言わないようにしています。叱るときは叱る時に・・・。



健康第一、安全第一は仕事も子育ても同じようです。また信頼関係も、互いを思いやる気持ちも・・。

さて、本日はひさしぶりに大津絵の紹介です。「身体強健」を護符とする「弁慶図」です。

大津絵 その18 弁慶の立ち往生(長刀弁慶) 
紙本着色軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横350*縦1355 画サイズ:横230*縦745



息子が具合が悪くなったので飾ることにしました。本来飾り物とは願いや祈りが込められるのが始まりですから・・。大津絵は仏図が始まりですから、仏様の近くに飾り、亀は北の守護、何事にも知識と基本をわきまえて。



大津絵の投稿は久方ぶりなので復習を兼ねて以前投稿した下記の説明を引用します。

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大津絵:滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624- 1644年)のころに仏画として描かれ始めた。当初は信仰の一環として描かれたものであったが、やがて世俗画へと転じ、加えて18世紀ごろより教訓的・風刺的な道歌を伴うようになった。



松尾芭蕉の俳句「大津絵の筆のはじめは何佛」には、仏画が多かった初期の大津絵の特徴が表れている。また、江戸時代初期のキリシタン弾圧に際して「自分は仏教徒である」という隠れ蓑的役割も有していたと言われる。江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられている。多くの絵画・道歌には、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されている。



文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って減少し、現在では百余種とされる。大津絵の画題を唄い込んだ元唄・音曲・俗曲(大津絵節)、大津絵節を元に踊る日本舞踊の一種(大津絵踊り)にも、「大津絵」の名がついている。前述のように江戸後期に絵種の十種に絞り、もっぱら護符として売られた時代がありましたが、文化・文政の頃から徐々に大津絵の主となり、幕末には他の図柄はほとんど描かれなくなってしまったようです。人気は依然高かったものの、初期の風格を失い、美術価値が低いとされることも多い時期です。

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大津絵の定番となっている10種をすべて江戸期の作品で揃えようとするとこれがなかなか難しいようです。ちなみに大津絵10種は下記の作品のことです。

鬼の念仏    小児の夜泣きを止め悪魔を祓う
藤娘      愛嬌加わり良縁を得る
雷公      雷避け
瓢箪鯰      諸事円満に解決し、水魚の交わりを結ぶ
座頭      倒れぬ符
槍持奴      一路平安道中安全
鷹匠      利益を収め、失せ物手に入る          未入手
弁慶      身体強健にして大金を持つ
矢の根五郎   目的貫徹、願い事叶う             未入手
長頭翁      長命を保ち、万事意のままになる 

大津絵に登場する弁慶の絵柄は下記の説明にもありますように牛若丸と出会う前の「釣鐘弁慶」の図と衣川(岩手)での弁慶最後の姿「弁慶の立ち往生」の2種類があります。




なお片手で三井寺の鐘を持ち上げる「釣鐘弁慶」は「身体強健にして大鐘を持つ」という願いが込められています。  


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大津絵の弁慶:大津絵に登場する弁慶には、牛若丸と出会う前の「釣鐘弁慶」の図と、この「弁慶の立ち往生」とがあります。立ち往生とは、衣川(岩手)での弁慶最後の姿で、「長刀(ナギナタ)弁慶」とも「弁慶の七つ道具」とも呼びます。江戸後期の大津絵十種にこそ「釣鐘弁慶」が選ばれましたが、現在ではこの「立ち往生」の図の方が人気があるようです。

長刀(なぎなた)・箙刀(えびらがたな)・首掻刀(くびかきがたな)・小反刃(こそりば)・熊手が本来の七つ道具ですが、大津絵は鉞(まさかり)・袖がらみ・槌・鋸・鎌・刺股と入れ替えています。形と筆運びを主眼としたからでしょう。 絵になれば故実を無視するところも大津絵のおおらかさです。



この絵にある道歌も「時にかなふ七つ道具は人の情むさしといふはわたくしでさふろ」とありますが、立ち死の気配を無視しています。

「武蔵坊慈悲さへあれば七つ道具長刀いらず国はおさまる」

身体壮健のお守りとされたこともあります。

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大津絵は古いものから新しいものまで様々で、古く見せた贋作もあります。廉価で入手できると思ったら大間違いで、江戸期の二枚綴りの作品は数十万します。ゆえにその当時に似せた贋作が数多く出回ることになったようです。



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大津絵の二枚綴

二枚綴(にまいつづり)は二枚継ぎとも呼ばれ、古典的な大津絵の特徴となっています。最も入手が容易で安価であった半紙を、絵を描きやすい大きさに継ぎ合わせたものです。

江戸初期から中期にかけての大津絵は、ほとんどがこの二枚綴の大きさでした。稀に三枚を継いだより大きなものもあったようです。

江戸後期は、逆に継ぐことをやめ、半紙(半紙のサイズ:縦24~26センチ、横32~35センチ)そのままのサイズで描くようになっていきます。現在では紙のサイズも自由に入手できるようになり、古紙を使うのでなければ特に継ぐ必要もないのですが、掛軸などでは大津絵の特徴として再現しています。

ちなみに江戸初~中期の大津絵として売られているもので、二枚綴・三枚綴以外のサイズであったり、継ぎが無いものは考えにくいので、古大津絵を入手するときには一つの判断ポイントになります。大津絵は昭和に入ってから贋作が作られるようになり、紙自体に茶などで古色をつけ、古く見せるために折っていく。そのため折り目が均等に入っているようなものは割に贋作が多いとのことです。

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痛んでいる状態での作品も多く、当時売られてままの表具のままの作品がベストですが、再表具されていてもそれほそれで評価に影響はありません。ただ仏画などのように手書き表装のような作品はそのままで存在するとかなりの評価となります。しかし大津絵の仏画はそうそうあるものではありませんが・・・。



丁寧に改装されていますが、残念ながら本作品はうぶなままではありません。

ともかくお土産の品であった大津絵ですが、高価なゆえに贋作もあり、「なめたらいけない、大津絵」です。それよりもなによりも健康祈願・・・。



田家秋色 伝小野竹喬筆 その3

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縁側にあったテーブル・・、家内の実家の庭にあったケヤキの根っこで製作したもののようです。陽があたるので割れてきたと義父が言い出しました。見ると大して割れていないのですが・・。



しかたなく「えんやら、どっこいしょ」と持って玄関へ移動しました。息子が「パパ、力持ちだね」と言うので、「いや、それほどでも」

なにか飾らないと格好がつかないので弓野焼の壷をどかっと・・。我が家の玄関はケヤキの根っこの展示場と化しています。



ついでに玄関で靴磨き。小生の靴も骨董品? 10年、20年履いている靴はざらです。



底はむろん、踵、内張りは補修をなんどもしています。
 


馴染んだ靴は靴べらなどは不要になります。男のみだしなみは靴から、一流のホテルマンは靴から客を判断するらしい・・・。いい靴か否かではなく、手入れをみるらしい。

さて、本日は男の隠れ家から持ち込んできた作品です。

田家秋色 伝小野竹喬筆
紙本着色絹装軸 軸先木製塗 共箱 
全体サイズ:横444*縦1885 画サイズ:横328*縦1242



小野竹喬は大正12年まで「竹橋」の号であり、この号は竹内栖鳳から雅号と頂いたものです。画の印章は「孫魚乙」の朱方印であり、1919年(大正8年)頃からの使用です。このことから大正8年頃、竹喬が30歳頃の作品ではないかと推察しています。



ただし印章は竹喬の号になってから使用している作品が多く、大正10年頃の作品の可能性も高い(大正12年7月に竹橋から竹喬に改名)かもしれません。

いずれも素人の推測ですので、明確な判断は後学とさせていただきます。

  

本作品は竹喬がセザンヌに惹かれていたという点と故郷笠岡の思い出が象徴的に出ている作品ともいえるかもしれません。真主題は日本画風でありながら、日本画の絵の具で油絵のような表現を試みている青年画家竹橋の、清新な心が伝わってくる気がします。



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小野竹喬は明治22年生まれ、昭和54年没。享年89歳。名は英吉、岡山県に生まれる。京都絵画専門学校を卒業後、竹内栖鳳の門に入り、師の風景画の特色を継承し、更に独自の風景描写を加える。代表作に「冬」がある。詩情豊か温和な風景画家である。昭和22年芸術院会員、のちに日展顧問。

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小生がいろいろとお世話になった叔父は、人生の先輩、骨董蒐集の先輩としても敬愛していますが、叔父が小野竹喬の若い頃の作品を所有していたそうです。



機会があって小野竹喬にお会いし、その作品を見ていただいたところ、その作品と引き換えに作品を描いたいただいたそうです。



色紙程度の大きさの作品ですが、その作品は晩年の代表的な絵柄で菅らしいものでした。若い頃の作品がどのようなものであったかは、聞いておりませんが・・。



その叔父も亡くなり、その作品も蒐集作品も手放されておりますが、小野竹喬の作品を見ると作品を見せていただいた当時を思い起こします。



骨董というものはすべてが縁(えにし)ですね。



縁(えにし)はこちらから求めないと来ないもののようです。とくに骨董では・・・。さてそろそろいい靴にでも履き変えようかな

氏素性の解らぬ作品 仙山遊鹿図 伝冨岡鉄斎筆

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男の隠れ家の正月飾りは、盗まれたり、汚れても気にならない作品・・・。



とはいえ「富岡鉄斎」・・。見栄と欲望が葛藤しての飾りです。

仙山遊鹿図 伝冨岡鉄斎筆
絹本着色軸装共箱二重箱軸先本象牙 
全体サイズ:横454*縦1970 画サイズ:横424*縦1338



年末年始は寒いし、時間はないし・・、あたふたと正月の準備。



居ることの少ない男の隠れ家は盗まれたりしたら困るので実害のない作品を飾っています。こういうときに便利なのが解りにくい贋作や真贋の判断がつかない作品。

飾りはひびの入った藤田喬平の花瓶など・・



別段骨董を生業としていないので、「贋作だよ。」と言われても頭を搔いていればいいこと。飾る人間には贋作も必要なのですよ。明らかな贋作ではつまらないといういたずら心もある。「いい作品ですね~」といわれたりしたら、一番困るのですが・・。



一応、共箱らしいものがあります。

  

レンズも寒くて曇っています。

 

さて、本作品の真贋は・・・、休日の投稿です。

まくり 富嶽図と海 小松均筆 その6&7

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息子より?ノロウイルスに感染・・・。週後半の大事な会議を同僚に一任し、完全にダウン。吐き気というより胸やけから始まり、なんとか発症当日は現場トラブル謝罪のため、現場まで直行したが、その後は帰宅・・。息子の感染後は2次感染防止の務めたが、効果はなかったようで、かなりの感染力の強さを感じます。下痢、関節痛、微熱の症状がなかなか収まらないで困りました。ようやく昨日には動き回れる状態になり、寝室は感染殺菌しましたが、療養中は息子とは完全隔離・・・・・。

日曜日は皆で朝から布団干し・・。夕方、買い物から帰宅後にベットメイキング。我が家の部屋は整理整頓・・、掃除や片付け担当は小生と息子。むろん、ベッドメイキングは毎日、起床時と就寝時、これは日本の常識です。

骨董類は寝室は無論のこと、まず目につくところにはありません。展示室以外の普段の生活スペースに趣味の作品は飾ることはありません。むろん職場に持ち込むのは論外の邪道。自分の趣味をあちこちに置いておくのはその道のアマチュアクラスのすることと心得ています。まずレベルと志が低いので相手にしないことにしています。たとえなら昨日のフェデラーと錦織のレベルの差・・。残念ながら現在の錦織には将来にわたって四大大会で優勝する可能性は見出せていなように思えました。

本ブログをお読みの方は「これだけの作品をしまっておくのはたいへんでしょう?」と尋ねてきますが、「そりゃ、たいへんですよ!」と答えることにしています。実は目につくところには一切ありません。



さて30年以上前ですが、盛岡の骨董店で小松均の作品を入手できるチャンスがありました。手持ちの資金に限りがあり、肉筆の浮世絵と並べられて、二者選択をせまられることになりました。お値段は両方とも12万円ほどであったと記憶しています。

結局肉筆の浮世絵を選びましたが、今思うと小松均の作品を選ぶべきでした。現在では肉筆の浮世絵は模写と判断しています。浮世絵の美人画にはろくなものはないというのがその後自論となりました。浮世絵の美人画を蒐集している人間も碌な美意識をもっていないようです。

小松均の作品はたしか牛を描いた独特の作品でした。骨董店の奥さんが気に入っており、腰がひけたのかも知れませんが、当時の小生の美意識のレベルが今より低かったと反省しています。

その後、ほとんど小松均の作品とは縁がありませんでしたが、最近インターネットオークションに小松均の「まくり」の状態での出品があり、いくつかを入手することができました。



それにしても「まくり」の状態で4作品もあるというのも奇異に感じますが・・。とりあえず値段もそれほどでもなく、それでも数万はしますが、印も落款もよく、作品も巧いので購入してみました。

今回は二作品を一幅にしてある作品でした。



富嶽図 小松均筆
絹本水墨軸装 まくり
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦405*横485



昭和52年の第62回院展「富士山」以降の富士山シリーズを描いています。墨を主体に、細かく、しかし綿々と描き込み積み上げていく画風は、素朴さと大地のエネルギーを伝える力強さに溢れ、“大原の画仙”と称されました。



海之図 小松均筆
紙本水墨軸装 まくり
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦410*横485



これらを双幅にするか、でも絹本と紙本・・・。さらには下記の作品を加えて四幅対にするか・・。やはり大きさが違うので単品ずつが妥当かもしれません。



いずれにしてもなにゆえ表装されずにこの二作品が存在するのかは不明です。



庭 小松均筆
紙本水墨 まくり
画サイズ:縦495*横505



ともかく水墨画が独特で巧い。本作品らは小松均としては大きな作品ではありませんが、小松均の水墨画の特徴が良く出ている佳作だと思います。それでも前述の牛を描いた作品には劣る・・・、どうもトラウマかな?

庭 その2 小松均筆
紙本水墨淡彩 まくり
画サイズ:縦470*横500



本ブログでお馴染みのわが郷里の画家である福田豊四郎とも縁があり、昭和3年には福田豊四郎、吉岡堅二らと山樹社を結成しています。

未整理の作品で悩むのはこのような「まくり」の作品。真作と判断しても、どのようにすべきか・・・。ま~、楽しみでもありますが・・・。

展示室の置物

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同僚から今年の干支の作品が届きました。毎年楽しみにしていますが、前年にご不幸もあってようで、今年はなかなか届かなかったので、諦めていたのですが先週に到着しました。

表情が愉しくなかなかの出来ですし、また台座が面白いですね。

帰宅後には展示室を見て回り、時折置物を変えてみたりしていま

階段には毘沙門天。



飾り台には聖観音。



角コーナーには作品は円空仏の写し。



宋の赤絵に明末赤絵の盃台にて天目台の見立て。



大黒天にもお供え。すべての置き物には俗世間とは離れた願いと祈りが込められています。



ようやく干支も伝達・・、置物の交代です。作り手のウイットに富んだ心柄がしのばれる作品です。ものづくりはかくありたいもの。



送っていただいた同僚に幸大かれと・・・。

源内焼 その89 三彩軍配形脚付鉢(菊文)

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以前に紹介した作品ですが、ブログの投稿に追われてじっくり鑑賞していなかった作品を改めて鑑賞するようにしています。



なんとも捉えどころのない花瓶ですが、じっくり見ながら遺すべき作品かいなから品定め・・。



箱のなく、氏素性の解らぬ作品、最後はやはりこちらの眼力次第・・・。



さて本日の作品紹介はひさかたぶりに源内焼です。

軍配形のものは伊万里焼にもありますが、本作品は源内焼の中でも、細かな文様も精緻な優品といえます。財団法人平賀源内先生顕彰会発刊(平賀源内先生遺品館企画展)「さぬきの源内焼」には表紙の掲載されている作品と同型の作品です。



源内焼の作品の中ではとりわけ優れた作品として評価されています。



源内焼 その89 三彩軍配形脚付鉢(菊文)
高さ40*縦278*横223



五島美術館発刊「源内焼(平賀源内のまなざし)」には「作品NO88 P102」として掲載されています。鉢の章のトップページにも掲載されています。



本作品とは縁などの釉薬の色に違いがあります。



前述の財団法人平賀源内先生顕彰会発刊(平賀源内先生遺品館企画展)「さぬきの源内焼」にんは作品NO73・74・75の三作品がP44に掲載されています。



掲載されている作品のすべてが三足になっていますが、本作品だけは四足になっています。



釉薬の使い方は個々で様々で本作品は見込は広い部分を占める白と、要所に使った緑と紫の釉薬が華やかなデザインになっています。四足ゆえ安定性は充分です。



波型の縁には緑釉と褐釉で彩色しているものと、本作品のように緑釉が一色の作品があるようです。



脚は貝の形で皆同一で、分類は「皿」ではなく「鉢」となっています。前述のように他の作品は三足、本作品は四足で非常に珍しい作品と言えるかと・・。



見込みの上部左右には亀甲が重なる文様が施されています。



本作品は型からの抜けも良く、彩色もきれいで源内焼を代表するなかなかいい作品だと思います。



下部には花菱文があります。



中央は竹でデザインを引き締めています。この作品は品定めの必要はないようです。しいてあるなら保存箱もなにもないのが難点。



当方の源内焼のコレクションもメインは残すところ「地図の絵柄の皿、もしくは鉢」のみとなってきました。そのほかにもまだいくつか代表的な作品がありますが、非常にレアでなかなか入手の機会がありません。



嘉魚 中村岳陵筆 その2

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昔、祖父は上京した際に、お土産に数枚の色紙作品を買ってきたそうです。それは出版されたばかりの大塚工芸社の印刷された著名な画家の作品だったそうです。今では工芸作品として見向きもされませんが、当時はその印刷技術の高さに人気があったようです。人気の理由は肉筆と引けをとらないくらい精巧であった点です。横山大観も絵の具を提供して、その複製作品の向上に尽力したという記述もあります。

その色紙作品の数枚が当方に遺っており、その中に中村岳陵の「茄子」という作品があります。骨董蒐集を始めたばかりの頃には肉筆かとおもったものですが、良く見ると複製作品と解るようになりました。実に初歩的な見分け方のポイントですが、本当に良く見ないと肉筆と勘違いすることがよくあります。

本日はその中村岳陵の作品の紹介です。現在、展示室の二階の廊下には藤田嗣治の魚の水彩と本作品を飾っています。このような作品を見て息子は魚や動物の名前を覚えるようですが、本日の「鰈」は話がややこしい・・。



嘉魚 中村岳陵筆 その2
絹本着色額装 紙タトウ 共シール
額サイズ:縦570*横690 画サイズ:縦400*横52



印章は「筆俊」の白方印が押印されています。

 

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中村岳陵:明治23年3月10日生れ、昭和44年11月20日没(1890年~1969年)大正~昭和時代の日本画家。静岡生れ。野沢堤雨、川辺御楯に師事。東京美術学校卒。本名は恒吉。日本美術協会展に入選を重ね、紅児会会員となる。明治44年巽画会、東京勧業博覧会でそれぞれ受賞。大正元年文展初入選。3年今村紫紅、速水御舟らの赤曜会結成に参加し、院展に出品。4年日本美術院同人。昭和2年日本美術学校日本画科主任教授。5年福田平八郎、山口蓬春らと六潮会を創立。10年多摩帝国美術学校教授、帝展参与。16年新文展審査員。戦後は日展で活躍した。昭和36年朝日文化賞、毎日芸術大賞。37年文化勲章。日展顧問、帝国芸術院会員、文化功労者。伝統的な大和絵や琳派の描法に、明るく華やかな後期印象派の感覚が統合された、モダンで清新な画風で知られる。作品に「輪廻物語」「気球揚る」など。

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嘉魚は岩魚(いわな)の別名で、「嘉魚」で「いわな」とも読める。描かれているのは鰈であり矛盾するが、「嘉魚」の字は、めでたい魚であることに由来する。鰈は。このほか「鰕魿」、「嘉列乙」、「嘉鰈」、「魪」、「鮙」、「鰜魚」などの漢字表記もある。「嘉魚」という呼び名があるかどうかは不明です。めでたい魚はふつうは鯛ですが、北陸地方(特に福井県)ではカレイである事が多い。



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ちなみに腹を手前に置いて左に顔があるのがヒラメ,右にあるのがカレイである。ところがカレイの仲間でも,左に顔があるものもいるから話しはややこしい。ヌマガレイがそうだ。さらに面白いことにこのカレイ,アメリカ西海岸では左に顔のあるものが50%,ところがアラスカ沖では70%,それが日本では100%となるのである。"左ヒラメ"に"右カレイ"は,万国共通ではないのだ。



「左ヒラメに右カレイ」は、世界的には通用しない。

それではヒラメとカレイを見分けるには,どうすればよいか?実は,両者の顔を見ればわかるのだ。ヒラメは,口が裂け怖い顔をしている。一方,カレイはおちょぼ口でやさしい顔である。もう一つの大きな違い。それは歯である。ヒラメの歯は大きく尖っている。しかしカレイの歯は小さい。これらの差は,両者のエサの違いに起因している。ヒラメは,イワシやアジを食べる。そのためには大きくて強い歯が必要だ。また肉食だからどう猛な顔になる。それに対してカレイは,イワムシやゴカイを食べている。だから歯も小さくてすむ。それぞれの食べ物の差が,歯の違いであり顔の違いとなって現れる。



*ヒラメやカレイ は、実は浮き袋の無い魚です。そのため泳ぐ時は長い背ビレと腹ビレで
力強く泳がなくてはなりません。カレイが海底に潜る時も同様です。そのためヒレの付け根のエンガワが発達しているのです。回転寿司でお手頃に食べられるようになったエンガワがありますが、このエンガワ はヒラメのものではありません。回転寿司で、ヒラメより安いエンガワ、あれはカラスガレイという巨大なカレイのエンガワです。



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新春に飾るのには良い作品かと・・。ところで人を食っている奴は怖い顔になるし? 人に優しい人は優しい顔になるのだろうか? 最近、ものづくりの現場に行くときには相手の顔をじっくり見ることにしてます。

息子が最近良く言う言葉「パパ、面白いね。」、「パパ、優しいね。」、「パパ、かわいいね。」・・・・・。「でも怒ると怖いね。」





蓑虫山人 まくり二点 その10 &その11

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しばらく入手できなかった蓑虫山人の作品です。数万円で売買されている作品群であり、蓑虫山人の作品はそれほど高価な作品ではありませんが、なかなかいい作品に出会う機会は少ないようです。

わが郷里と縁の深い蓑虫山人であり、偶然ですが今回も郷里からの入手です。

山水図 蓑虫山人筆 その10
紙本淡彩軸装 合箱 
画サイズ:横310*縦980



以前に紹介した「中野山」を描いた作品と景色が似ております。



本作品は印章その他から蓑虫山人の真作と判断できます。



虎図 蓑虫山人筆 その11 
紙本淡彩軸装 合箱 
画サイズ:横390*縦690



猫? 虎? 画題はインドの話?、「羊の中で育てられたトラがいた。トラは自分が羊だと思って育った。ある時、トラは水面に写った自分の顔を見て恐れおののいたが、実はもともと自分はトラだったのだと気がついた。これは、人間は実は全能の神(真我)なのだが、つまらぬ存在だと思い込んでいるというたとえ話。」

「虎が水面に写る自分の顔」というストーリーの話はいくつかあり、本作品が上記の寓話と関連しているかどうかは解りません。

一方で「仕事に厳しく、自分にも厳しいと思っている人が、気がついてみたら実際はただ怖がられているだけ・・・」というたとえもあります。こういう人が世間に非常に多いということを暗示しているように思います。人徳、人望が備わっていないということ・・・こういう人が多いよね。偉くなっていくから住みずらい世の中になっていく



この印章は珍しく当方の資料では未確認です。なんと読める印章なのかな? 本作品は絵のタッチからして蓑虫山人の真作と判断できます。蓑虫山人は意外と人気があり、贋作も存在しますので、一応入手には気をつける必要があります。

 

次の大河ドラマは西郷隆盛を題材するようですが、蓑虫山人と西郷隆盛の関連を知っている人は少ないようです。蓑虫山人の説明は多岐のわたりすでに本ブログで紹介が済んでいますので、本日は割愛させていただき、詳細はそちらを参考にしていただくことで了解願いますが、西郷隆盛との関連だけを下記に記述します。

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蓑虫山人の本名は「土岐源吾」です。

1856年、安政の大獄の嵐が吹き出した幕末。九州の空の下で日送りをしていた源吾は、すでに18歳。倒幕運動の行方を不安な気持ちで眺めていたに違いない。

幕府追及の手は、京の清水寺・成就院の僧・月照にも伸びてきた。井伊大老免職派の山本貞一郎を近衛家に紹介したためである。

このとき、月照の身の扱いを西郷隆盛が引き受けた。西郷は主君の島津斉彬が死亡したとき、墓前で後追い自殺をしようとしたが月照に引き止められた。命の恩人であろう。西郷は月照を薩摩に身をかくまった。

この潜行に薩摩藩は冷たかった。西郷必死の説得もむなしく、月照を、その途中で切り捨てよとの藩命である。失望した西郷は錦江湾に舟を浮かべて酒宴したのち、月照を相抱いて入水した。まもなく二人は舟に引き上げられたが、月照はすでに絶命していた。この二人を舟に引き上げた寺男・重助が実は源吾であったという説が近年、その後の資料で有力視されている。


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さて、蓑虫山人が大河ドラマに出場なるかどうか? 出たら人気が上がるかも? 人望、人徳のあったという西郷隆盛、死に急いだ若者であったらしい。命の恩人がたくさんいたようです。このような決して立身出世が目的ではない将来を託せる人物を助けていくのが我らの役目・・・。

ただの「猫」の絵と見るか、上記の逸話まで理解できるかで、作品を観る眼が問われる 

まくりの状態での作品は、表装に資金を使うかどうか悩みますので、まくりの状態の作品はたまる一方です

家紋入輪島塗菊紋重箱 

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男の隠れ家の器の中に家紋入の外箱に入れられた重箱があります。



中は鮮やかな朱色です。秋に使うのにいかにももってこいです。



家紋入りの器はいくつかありますが、外箱のみに入っているのは珍しいです。中は梨地です。これだけの紋様が描ける漆職人は数が少ないでしょう。



漆器は撮影が難しいですね。



真塗や蒔絵のありきたりの重箱ではやはりつまらないものですが、これいけてますね。蓋も見事な絵が描かれています。



各段も愉しめます。



家紋もまた愉しめます。



保存状態は実に良好です。禿や傷は一切ありません。当時の包装紙をそのままとっておくことが肝要です。母から受け継がれてきた丁寧な取り扱いをしています。

 

乱暴に扱わず、順番に包装する仕方を知っていないとすぐに痛みます。



さてそろそろ漆器の手入れを始めていますが、これが膨大なる量・・・・。

峻嶺静處図 釧雲泉筆 その18

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偶然に見つけたのですが、加島美術出版「美祭」(BISAI)19号に掲載されている作品NO.054&055のうちNO.55が本作品と同一作品のようです。ただし「美祭」では鑑定を「渡辺南岳」と誤記されています。(このような基本的な間違いを加島美術がしているのは意外ですが・・。)

*渡辺南岳(わたなべ なんがく)は明和4年(1767年)~文化10年1月4日(1813年2月4日))。江戸時代後期の画家。京都の人。名は巌、字は維石、号は南岳、通称小左衛門。円山応挙の高弟で応門十哲に数えられており、江戸に円山派を広めた画家です。渡辺南岳がほぼ同時代の画風の違う釧雲泉の鑑定をすることはあり得ません。

峻嶺静處図 釧雲泉筆 その18
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 渡辺南岳鑑定箱
全体サイズ:縦2150*横620 画サイズ:縦1350*横470



落款には「岱就」と記されており、この落款は寛政4年頃(1792年)の作品に多く、この時期の作品に散見される独特の絵の激しいタッチが全面に出ています。



本ブログに投稿されたコメントには「寛政4,5年の頃は、三備地方に居たと見えて、当時の作が今尚岡山県地方に遺っている。」とある事も踏まえると、本作品もこの時期の作と推察されます。事実、箱の西村南岳の鑑定にも「32歳頃の作」と記されています。

  

書付が収められ、なにかの展示会に出品された作品と伺われます。また箱は作り直され元の書付部分が嵌め込まれています。これは前にも述べましたようによくあることです。

  

*西村南岳:渡辺崋山など南画作品の鑑定家。早稲田大学卒業後、大日本茶道会の田中仙樵の秘書となり、その後貴族議員佐々木嘉太郎の秘書をし、その間に古書画の勉強をした人。














参考資料:加島美術出版「美祭」(BISAI)19号 作品NO054&055
鑑定を渡辺南岳と誤記されています。(このような基本的な間違いを加島美術がする?)
NO055(寛政4年頃)          NO54(寛政5年)



同ページに掲載されているNO.054の作品は賛にあるように同時期の寛政5年の作品です。こちらの作品は釧雲泉としての魅力は乏しいかと・・。



販売価格が30万とありますが、当方での入手はその5分の1程度です。買い得か否かは小生の知る由もありませんが、現在の南画の売買価格の現状はその程度です。

本作品と同時期に描かれたと思われる作品が本ブログにも投稿しています。

そのひとつがこちらの作品です。寛政5年の作で、当方では真筆判断している数少ない作品のひとつです。

寛政浅絳山水図 釧雲泉筆紙本水墨淡彩軸装 軸先木製加工 合箱
全体サイズ:縦1850*横568 画サイズ:縦1413*横461

本作品と同年となる寛政4年の作となると下記の作品があります。

寛政壬子浅絳山水図 釧雲泉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製加工 合箱
全体サイズ:縦1820*横420 画サイズ:縦1060*横360

少しずつ迷路から抜け出せてきている釧雲泉の作品ですが、気がつくとずいぶんと回り道をしています。

贋作考 夏景山水図 伝橋本雅邦筆 番外編

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以前に美術商と橋本雅邦の屏風の売買の交渉をしたことがあります。互いに真作とは認めての交渉ですが、当初はあまりにも安すかったのですが、何度か交渉した後に納得のいく金額で引き取っていただきました。

橋本雅邦は真作だと売買の両当事者が認めていても、万人が認めるもの(証拠)が必要で、その屏風の作品も最終的に橋本雅邦の図鑑に掲載されていることが判明して引き取り価格が高くなったようです。骨董に詳しい方なら誰でも知っている美術商ですが、一流だからこそ、そこまで調べられたのでしょう。美術に関する本を扱う美術商であり、二流どころでは調べがつくものではありません。

何度も記述しているように、掛け軸類の日本画は現在非常に廉価となっており、たとえ橋本雅邦といえども真作の小作品なら10万を少し超える程度で売られています。東京美術倶楽部の鑑定証や由来の解る書付、図鑑掲載があると少しは値段が上がるかもしれませんが・・・。

橋本雅邦の作品は出来、落款、印章がしっかりしていても真贋は保証できないというスタンスのように思われます。つまりそれだけ出来の良い贋作が存在するということでしょう。

今回はそこまで出来の良い贋作ではありませんが、当方での資料として手元にある作品で検証してみました。

贋作考 夏景夏山水図 伝橋本雅邦筆 番外編
絹本水墨軸装 橋本秀邦鑑定箱 
全体サイズ:横380*縦1780 画サイズ:横240*縦270



橋本雅邦の子息である橋本秀邦の鑑定のある作品は最近紹介した作品にもあります。橋本雅邦の鑑定は東京美術倶楽部以外に、川合玉堂、子息の橋本秀邦が行なっていますが、その鑑定にも贋作が存在するので話はややこしくなりますし、さらにややこしいのは橋本秀邦の鑑定が正しいかどうかも疑う必要があるようです。

椿鶯図 橋本雅邦筆
絹装軸紙本水墨 軸先象牙 橋本秀邦昭和16年鑑定極箱入
全体サイズ:横400*縦1080 画サイズ:横260*縦190



これらの小点の二作を比較してみましょう。



ちなみに同一印章が押印されている加島美術出版の「美祭」に掲載されている「春景山水草藁」の印章を参考にしています。



「夏景夏山水図」と「椿鶯図」と「春景山水草藁」の印章の比較

一番右が真作の印章。中央「椿鶯図」は真作と同じく印章のみ。左が本作品で、落款とともに押印されている印章には違いがあります。

  

「夏景夏山水図」と「椿鶯図」の橋本秀邦鑑定箱の比較

 

左の「夏景夏山水図」は「誌」、右の「椿鶯図」は「鑑」とあり、鑑定した日付が記されています。これは「夏景夏山水図」は「真作と思えないこともない」、「観たことは観てみた」という程度の鑑定の書付と受けとれます。



「夏景夏山水図」はそれなりの外箱に納められています。どうも旧蔵者は真作と判断していたふしがあります。参考資料が乏しい時代、参考となる出版物や情報の乏しい時代は所蔵者が真贋を見極めるのは非常に難しかったのでしょう。

鑑定、収納箱などは当てにしないで好きな作品を愉しむことです。



作品に力は弱いですが、飾っておくのには支障はありません。実に安心して飾っておけます



真贋に目くじらをたてるのは、真作として売買しようとした時です。子供がいたずらをする恐れのある年齢である時、盗難の恐れがある時、煙草を吸われる人の饗応、夏の虫が入ってくる時、税金対策?などはこういう作品が重宝します。むろん、子々孫々のため真贋が解るようにしておく必要がありますし、数はそれほど必要ではありません。数多くの作品は処分しますが、活用性のある作品は違った意味で遺すことがあります。

ところで屏風の真作などは扱いがたいへんですよ。扱ったことのある人は良く解ると思いますが・・、まず女性では無理。

さて冒頭の写真の一輪挿しは誰の作品か?・・・・これはむろん真作・・・、後日また。


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