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色紙 金曜日の妻たちへより

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日曜美術館に奥田瑛二がゲスト出演していたら、義父が「奥田瑛二は家にきたことがあるよ。」という問題発言。「色紙が遺っているはずだよ。」と・・・。そういえばということになり、家内が書棚から色紙を抱えて来ました。



なにやら台本も一緒。なんと家の前でテレビドラマの撮影に来たことがあるらしい。新興住宅地として開発の進む郊外がロケ現場らしかったのですが、回顧する場面で古い家の画像がほしかったようです。



それではと家族全員で古い家の写真探しが始まりました。物置を片付けた小生は「箪笥の上にあるよ。」とありかを知っていました。

撮影現場は家の門の前。土蔵の落ちかけた壁や瓦の朽ちた感じがよかったようで・・・ 今では改装され、門は扉だけ転用してしている状況です。

番組の内容をインターネットで検索すると下記の記事がありました。

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“金妻(キンツマ)”なる流行語を生み出したヒット作「金曜日の妻たちへ」のパート3。

脚本は前2作と同じ鎌田敏夫が手がける。パート3の舞台は東京郊外の私鉄沿線で“中庭を持つ家”。名門女子校の同窓生で、現在は同じ住宅地に住むヒロイン4人の友情を恋愛も絡めながら描いていく。結ばれるはずだった元恋人同士の二人がある夏の日のパーティーで再会したことから、平凡な日常と長い友情がとめどなく揺れ始める…。キャストはパート1からは古谷一行、いしだあゆみ、小川知子、パート2からは篠ひろ子、板東英二、さらに森山良子、奥田瑛二、原真祐美ら新顔を加えた強力布陣。小林明子の主題歌「恋におちて・FALL IN LOVE」も大ヒットした。

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奥田瑛二の色紙らしい。



これは「いしだあゆみ」らしい。



小川知子・・・??



原真祐美・・・??



森山良子・・・??



篠ひろこ・・、妹さんは小生が仙台赴任の新入社員の頃、同じ会社にいましたが・・。



以下のふたつは「金曜日の妻たちへ」とは関連のない別の機会での色紙ではないだろうか?

毒蝮三太夫・・?



これは? 坂東正敏(八代目坂東彦三郎の次男 初代坂東亀寿)、坂東彦三郎(八代)、中村??、坂東八十助(五代、十代坂東三津五郎)のようですが、坂東英二の代わり・・????



価値の有無は別として、家の歴史のひとこまとして、台本や写真共々とにもかくにも面白い。

ところで奥田瑛二がゲストとして取り上げた画家・・・日曜美術館「グラナダ 魂の画譜 戸嶋靖昌(としまやすまさ)孤高のリアリズム」<と題されていましたが、この画家は同窓生らしい・・・、姉からもメール・・・。

改装 春色(竹小禽図) 平福百穂筆 & 鶏之図 その2 伝伊藤若冲筆

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ノロウイルスで具合の悪いときに助かったのが、郷里の同級生から送られてきたりんごとりんごジュース。脱水症状の緩和に・・、ともかくも郷里の味は美味しかった。



本日は以前に本ブログで紹介した作品で、共箱と作品が同一出品者から、共箱と作品が別々に出品されていた作品です。当方では同一の作品のものと判断し、両者ともに落札した作品です。

 

春色(竹小禽図) 平福百穂筆
紙本水墨着色軸装 軸先陶陶器 共箱 
全体サイズ:縦1390*横775 画サイズ:縦400*横340

  

共箱には元の表具が残っており切り抜いた作品の寸法は、作品と同寸法のことから、表具を改装して箱と作品が別々になっていたのではないかと推察されます。



作品は1万円ほどで、箱は五千円ほどで別々に購入したものであり、真贋や箱と作品が同一なものかは断定しかねるところもあります。



これをなんとか元の鞘に収めるべく、共箱と表具寸法が一致しないので箱を直すべきか、はたまた表具を再度表装すべきか検討した結果、表具を改装することにしました。



ついでにニ重箱としました。表具した作品と共箱が離れて存在することは多々あることです。飾っておいている間に共箱の収納してあるところを忘れたり、共箱を残して作品のみを売却することがあるからです。



共箱を残して作品のみを売却する・・、小生の叔父もそうだったらしいですが、箱があることで放蕩息子が作品をお金に買えたのを親にバレないようにするためだったとか・・。



ともかく元の鞘に納まった作品は、嬉しそうであります。



さてこちらは「まくり」の状態の作品を表装したものです。

鶏之図 その2 伝伊藤若冲筆
紙本水墨 まくり
画サイズ:縦1080*横500



本作品は本ブログにも投稿してありますように真作とは断定できません。



出来が良いので飾っておくための表装です。今年は「酉年」のため・・・。



良く描かれていますが、鑑賞者の眼力を試すのにはもってこい?



数寄者はときおり贋作を飾って愉しむらしい・・。

唐美人図 伝長澤芦雪筆 その1

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休日は子育ての合間を縫って、各人各々の作業に没頭・・。義父は物件の確認に、義母は小生から頼まれた刀剣の保護袋の製作・・。



小生は残っている端材に塗装・・、まずは洗いから。



昔から庭にあったケヤキなどの残り物ですが、作品の敷台や表札などに使う予定です。



さてと塗料を買いに・・・。

本日は長沢芦雪の印章についてなどです。

唐美人図 伝長澤芦雪筆
絹本水墨淡彩絹装軸 軸先 伊藤小坡所蔵印箱入 
全体サイズ:横620*縦1930 画サイズ:横500*横1120



真作なら、印章は「魚」の朱文氷形印で、右上の輪郭部分が欠けていないからすると30代頃の作品と推察されます。この作品の面白いのは箱書が伊藤小坡の箱書とされている点です。真贋は別としてですが・・・。伊藤小坡は本ブログで二作品を投稿してます

  


他の所蔵作品「獅子懸崖投児図(伝長沢芦雪)」に押印されている印章は銅製で、朱肉との相性は良くないらしいです。

本作品に押印されている印章は使用しているうちに右上が欠損して、自由に泳ぎまわれるとされ長らく愛用している、こだわりの朱文氷形印です。氷の形とも、亀甲や花にも、綿菓子にも見える愛らしい落款で、芦雪のお気に入り度が想像できます。現在も長沢芦雪に使用した印章は実在します。



一般には応挙に入門してから長沢芦雪と名乗られたようです。この芦雪という号は、「芦花両岸の雪、煙水一江の秋」という芦も雪も白一色という意味合いである禅語からとった考えられています。



芦雪と号してからは「魚」印を用いており、氷型の枠に入った「魚」字大印は芦雪のシンボルマークともいえる代表的な印章です。



この印章についてはこのような説があります。応挙の元、修業中のある冬の朝、芦雪は寒さで張られた氷の中に閉じ込められている魚を見かけます。その帰り道、氷が溶け先の魚が自由に泳いでいる姿に目を奪われます。その話を応挙にしたところ、「苦しい修業時代も段々と氷が溶けるが如く画の自由を得るものである。」と諭されて以来、この印章を生涯使い続けたといわれています。この印を「氷形印」と称する理由は前述のとおりです。一説には前記述は作り話ではという説、芦雪自ら欠いたのではという説もあるようです。



この印は、芦雪40歳を迎える頃の作品からは右肩部分を欠失しています(寛政4年5月以降寛政6年冬の間)が、果たして自由を得たとの意味合いがあるのでしょうか。

なお本作品の印影は下部が丸みを帯びすぎており、輪郭が薄く、また輪郭が完全な状態では落款の書体が違うなどから、真印とは断定できませんね。



ところで本作品の美人画は右の女性を左の女性が支えていることから、右の女性は「纏足」であろうというのが家内の見解です。「纏足」?・・ご存知の方は少なかろうと思います。



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纏足(てんそく):幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習。具体的には、足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛ることで足の整形(変形)を行うことを指す。纏足の習慣は唐の末期に始まった。清の時代には不健康かつ不衛生でもあることから皇帝がたびたび禁止令を発したが、既に浸透した文化であったために効果はなかった。辛亥革命以降急速に行われなくなった。台湾でも纏足は行われていたが、日本統治時代初期に台湾総督府が辮髪・アヘンとならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため廃れた。なお、客家人の女性は働くことが奨励されていたため纏足をせず、「大足女」と揶揄されていた。

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無理やり足を小さくする風習ですが、これは男のエゴが生み出しています。



中国の美人である代表格、世界三大美人と称されている楊貴妃もそうであったらしく、歩く姿が美しいというのを下記の理由によるようです。

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纏足文化ができた原因は、小さい足の女性の方が美しいと考えられたからである。当時の文化人は纏足を「金のハス」とも呼称し、セクシャリティーの象徴として高められていた。小さく美しく施された靴を纏足の女性に履かせ、その美しさや歩き方などの仕草を楽しんだようである。纏足の女性はうまく歩けないことから、女性支配の手段にもなっていたと考えられる。また、バランスをとるために、内股の筋肉が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると考えられていた。纏足は男性の性欲を駆り立てるものであり、女性は夫や恋人以外の男性には纏足を決して見せることはなかった。男性は纏足女性の足の指の間にアーモンドをはさんで食べたり、足の指の間にはさんだ器の酒を飲んだりした。このようなことから、蒙昧な時代には纏足を施していない女性には嫁の貰い手がなかったという。中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。

女の子が3歳から4歳になると木綿の布で足を縛り、発達を抑えるようになる。発熱するため、施術は秋に行われるのが多かった。親指を除く4本の指は内側に曲がり夜も寝られないほどの苦痛を伴いながらも、縛りなおすときを除き、ほとんど縛りっぱなしで決して親はそれを緩めようとはせず、足のサイズは10cm前後が金蓮と呼ばれた。第1段階では親指以外の4本の指を内側に曲げ、第2段階で足の甲を前に伸ばさず縦に曲げていく。約2年かけるので、足のやわらかい幼少の頃に変形させるのである。その後も縛り続け、3日に1度消毒することなどが生涯にわたって行われ、その形状はハイヒールによく似た形となった。

纏足の流行の理由には、足の小さいのが女性の魅力、女性美、との考えがあったことは間違いない。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱々しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと、足が小さいがために踏ん張らなければならず、そこに足の魅力を性的に感じさせやすくした、など多くのことが考えられる。しかし、いずれも決定的にこれと言えるほどの理由ではなく、やはり習慣の一つとして続けられていたと言えよう。

纏足ほど極端なものではないが、ヨーロッパでも、大きな足は労働者階級のものという認識があり、貴族階級では小さな足が好まれた。特に17世紀、ヨーロッパでバレエが流行・定着して以降は、きついバレエシューズによって小さくなった足は、貴族の証となっていく。人によっては、冷水に足を浸けて小さい靴に無理矢理足を入れていた。


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中国という文化は恐ろしいというひとつの側面です。足を不自由にし、色気と貞操の証か・・。完全な男のエゴですね。

本作品は良く描けておりますが、骨董というものは出来や真贋だけではないなにかを学ぶものです。趣味とはそういうもの・・・・。

刀匠 酒井三良筆 その5(整理番号)

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今年に入り、ノロウイルスにインフルエンザと立て続けに罹患してしまいました。今週の日曜の夜から喉の痛みから水っぽい鼻水となり、月曜日は出勤したのですが、午後から病院へ。ところが会社の近くは休診、さらにべつの病院は一時間半の立ち待ちの状態。熱が出てきたので、即時帰宅を決断し、自宅近くの病院に駆け込みました。診断結果はインフルエンザA型・・。五日間の外出禁止。

家族は皆予防接種のおかげか今のところ無事のようです。小生は自宅内で隔離されています。けがのせいで破傷風の抗体接種でインフルエンザの予防接種を受け損ねたのが災いとなったようです。罹患したことのない病気で、結構体力を消耗しました。土日は体を休めるようにしていたのですが、育児疲れか・・。子供は隔離された小生などおかまいなく元気に遊んでいます それでも絵本を読んあげれないと言うとべそをかいていますが・・。

さて男の隠れ家にある刀剣の研ぎが銀座の刀剣店から連絡があり、このたび完了したとのこと。鞘も直し、義母に保存袋も作ってもらいました。五振り完了し、残りは二振りを残すのみ・・。



登録証、このたびの研ぎの記録、鑑定内容など刀剣の保存はきちんとしておく必要があります。鞘と拵えは一緒にしておかないと後世において別々になってしまう恐れもあります。

本作は登録証には「短刀」と記されていますが、わずかに一尺を超えますので、脇差に分類されます。

脇差(短刀) 萬歳安則作
板目文半太刀拵
長さ:一尺一寸 反り:一分 目釘:二個
銘:萬歳安則作 文政乙酉年二月日
彫名:摩利支尊天 妙見大菩薩
漆塗小柄(金時銘)付拵え



研ぎ終了後から少なくても一年間はこまめに手入れをする必要があるそうです。乾燥しやすいこの時期の柄の部分は抜けにくく、取り出すための道具も要ります。柄を抜いて、柄の部分にも油をひく必要がありますから・・・。柄の部分に油をひかないのは手入れ上は手抜きとなります。ひどくなるとあとでどうしても柄が抜けない原因になります。



銘に「文政乙酉(きのととり、いつゆう)二月日」とあり、文政8年(1825年)の作と推察されます。「萬歳安則」の「萬歳」は水戸や会津の刀工が使うことのある冠称のようですが、「安則」という名は文政年間では薩州に存在するのみですが 薩州の刀工の作かは断定はできねるそうです。作者、製作地が特定できないことは評価を下げることとなりますが、彫名のあることや全体にすっきりとした姿は非常にきれいだそうです。以上の鑑定は銀座の骨董店で見ていただきました。骨董はいずれも一流どころで鑑定してもらうのがいいようです。

 

彫名に「摩利支尊天」と「妙見大菩薩」とあり、嫁入りの際の守り刀かもしれません。江戸末期の刀は刀としては新しい部類となり「新々刀」と称されています。

 

刀剣というものは家に伝わるもの。このように保存袋に入れて、子供の手の届かないところに仕舞って置いておくもの。基本的に盗難防止用に登録証は別に保管しています。



刀剣は売買によって蒐集するものとは一線を当方では画しておりますが、いいものは欲しくなって当たり前とは思います。ただ、いかにも刀は物騒、僧侶が刀を持ち出すのはどうかと思いますね。



拵えはそれほどいいものではないようです。なんといっても田舎の隠れ家にあるものですから・・。



帯刀は許されていたのでしょうが、男の隠れ家の先祖は庄屋のような地主であったようです。この作品は手入れが終了したら収まるべきところの戻る予定です。これは所有していた故人との約束事のひとつでもあります。

さて、本日の作品は酒井三良の「刀匠」という作品です。酒井三良の作品としては珍しい画題の作品でしょう。どこの刀匠を描いたかは定かではありませんが・・。

刀匠 酒井三良筆 その5
紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿 共箱 
全体サイズ:横505*縦1153 画サイズ:横382*縦301



「三良子」という賛や淡い色調から、晩年になった頃の作品と推察されます。

  


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酒井三良:生年明治30(1897)年2月16日~没年昭和44(1969)年6月8日 享年71才。
出生地福島県大沼郡三島街 名は三郎。別号に梧水 別名=酒井 三良子(サカイ サンリョウシ)
主な受賞名:院展文部大臣賞(第47回)〔昭和37年〕「かまくら」
経歴:大正4年同郷の画家坂内青嵐に師事。8年第2回国展に「雪に埋れつつ正月はゆく」が初入選。坂内青嵐とは結果的に自らの求める画風との違いを感じてしまい、会津に住み込み独学で絵画を描き続けることになる。



大正10年、小川芋銭を知り、その勧めで院展に出品し認められる。10年第8回院展で「災神を焼く残雪の夜」が入選。13年日本美術院同人となるが、住居を様々な場所へ移し、決して豊かと言えない生活を妻と一人娘を引き連れて過ごすこととなる。

昭和21年、横山大観の勧めで茨城県五浦の大観別荘に移り、昭和29年、東京都杉並久我山に転居するまで暮らす。戦後、生活も徐々に安定していく酒井三良は自然と親しんでいた経験を元に、日本の風景や四季を愛しその風景を中心に描くようになる。自然に包まれながら生きる人々を素朴な筆致で詩情豊かに描いた画風で知られる。その淡く白みを基調とした作品はどこか繊細であり、緻密な表現力で描かれる日本人の琴線に触れるような作風が特徴。

昭和33年同評議員、36年監事。風景画に優れた作品を残したが、代表作「かまくら」はじめ農村の生活や自然を詩情豊かに描いた。雪景や田園風景を描いた作品は生まれ故郷の福島の風土への回想が基底にある。また戦後住んだ茨城の海浜風景や水郷をテーマにした水墨作品も多い。ほかの代表作に「萱刈」「雪」「渚」など。日本美術院監事。

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叔父が酒井三良の作品を蒐集しており、ときおり見せていただいていたのですが、次の代になってすべて散出されたようです。作品より現金が良いようで・・・、いかにも残念。



子孫には美田を残すなかれ・・・、骨董に金銭的な価値を見出してはいけないようです。子々孫々に伝わるべきものが放逐されるようです。ただし、今では骨董はかなり安くなっていますので美田にはならないようですが・・。おそらく上記の刀剣は修理代金のほうが高いと思います


2017年1月 保戸野窯 平野庫太郎氏

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週末は茶室の前の縁側で皆で昼食。その最中になにやら宅急便・・・、秋田市の保戸野窯の平野庫太郎氏から正月に依頼していた作品が、箱も出来上がり到着したようです。

縁側の左にある箱がその作品の梱包です。



庭では福寿草が蕾になっています。春は確実に近くなっています。



梱包の中の作品は、2017年1月に保戸窯を訪問した際に「辰砂釉壷」を選んで購入しましたものですが、桐箱を制作していただいたので、作品はあとで宅急便で送っていただきました。

辰砂釉壷 平野庫太郎作
共箱共布
口径103*最大胴径210*高台径100*高さ268

実は家内はこの釉薬で家内は一輪挿しを、焼成は茶碗を依頼していたのですが、いつになるやら・・。平野庫太郎氏はともかく寡作です。作品を購入したい方は事前に連絡する必要があるでしょう。





共布もしっかりしています。



栞が新しくなっているようです。



平成26年からは作陶のかたわら?秋田県立美術館の館長を続けておられます。



郷里の画家、福田豊四郎の素描作品とともに展示しております。



平野庫太郎氏の辰砂の発色の美しさはもともと定評のあるものですが、今回はさらに緑色になり銀化が見られる作品です。



ひとつ間違うと品が無くなる危険な取り合わせですが、抑え込んで品格のある作品となっています。



現代のガス窯は中国の官窯の作品を凌ぐ作品ができてきています。



平野庫太郎氏とは縁があり、お付き合いさせていただいており、すでに30年が経過しました。多くの作品が手元に集まってきており、郷土の陶磁器の作品を将来に伝えていきたいと思います。



今回の購入の際に少し傷があるからと「一輪挿し」を付け加えていただきました。秋田市での展覧会では作品が売れたようで、現在手元にある作品は出品しなかった作品がメインのようです。
 
辰砂釉一輪挿 平野庫太郎作
合箱 共布
口径53*最大胴径90*高台径70*高さ298



どこに傷がありるかなどはまったく当方には解りませんが、完璧?を常とする平野氏は妥協を許さないようです。



当方は友人付き合いのようなこともあって、このような作品をいただけるのですが、少しでも傷の有る作品は通常は売りに出しません。



むろん、共箱を要求してはいけません。今までも平野庫太郎氏の一輪挿しの作品は辰砂釉のきれいな作品を制作していましたが、今回はこの作品らには緑色に発色する釉薬が掛けられています。



この発色の頃合が難しそうですね。

以前に紹介しました釉裏紅の作品は下記の作品ですが、なかなかこの赤い発色は難しいようです。

釉裏紅唐草文鉢
口径476*高台径292*高さ98



現代の中国ではどぎつい赤の発色の作品が多く、味わいのある発色はできていないとか?



保戸野窯の作品に興味のある方は是非、購入をお勧めします。陶磁器はどこまでいっても作り手の人間性の問題に尽きます。

南方美人図 素描 福田豊四郎筆 その69

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節分は我が家でも豆まき・・。



鬼の面をかぶるのは嫌がったそうです。



展示室にも豆まき・・、後で歩くと拾い切れなかった豆がたくさん散らばったいました。



会社から帰宅した小生に向けても「鬼は外!」 おかげでその直後にインフルエンザに罹患

本日は福田豊四郎の素描作品の紹介です。二作品続けて、別なルートからの購入です。

南方美人図 素描 福田豊四郎筆 その69
紙本水彩額装 プレート付 昭和31年頃
4号 額サイズ:縦530*横410 画サイズ:縦340*横230



1956年4月に、アジア諸国会議の決定にもとづき、各国にアジア連帯委員会が設けられたが、印度、ソ聯、中国等の招請により日本文化使節団の民間代表20数名が、4月24日羽田を出発した。



一行は谷川徹三を団長とし、芸術を通じ相互理解と交流を推進することを目的とし、印度、エジプト、ソ聯、中国、ベトナム、北鮮の各国を訪問した。






美術関係団員では、本郷新、福田豊四郎、加藤唐九郎、菊池一雄、渡辺義雄、今泉篤男がいたそうです。加藤唐九郎は有名ですね。



最近紹介した下記の作品もまた上記と同じようないきさつで描いた作品と思われます。

他の所蔵作品                   
馬来婦人正装 素描 福田豊四郎筆
紙本水彩額装 プレート付 昭和31年頃
10号 額サイズ:縦685*横457 画サイズ:縦515*横285

本ブログでも最近紹介しました下記の作品(上記写真 右側)も上記の日本文化使節団との同行にて描かれた作品です。

スフィンクス 福田豊四郎筆
紙本着色額装 共シール 
画サイズ:横415*縦515

 

この作品は「わがうたはふるさとのうた」(P260)の著書のなかにスケッチが掲載(下写真参照)されています。




大半の書籍は男の隠れ家にあるのですが、この本は手元にありました。



この本は福田豊四郎の奥様から拝領した本です。いくつかの本を当方では奥様から戴いています。

須恵器 長頸瓶 

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週末にはいい天気・・、庭の梅も嬉しそうです。



さらに嬉しそうなのは小生のインフルエンザが完治し、遊べるようになったと喜んでいる息子です。



本日は破損していて、とても使える作品ではないように思いましたが、その面白さに惹かれている作品です。

須恵器 長頸瓶 
合箱
最大胴径153*高さ165



須恵器(すえき):日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。

平安時代には「陶器」と書いて「すえもの」「すえうつわもの」と読まれていたが、それが古墳時代に遡るかは未詳である。陶器(とうき)と混乱を避けるため、現代の考古学用語としては須恵器が一般化している。20世紀前半までは祝部土器(いわいべどき)と呼ばれることがあった。



須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん)焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。


土師器までの土器が日本列島固有の特徴(紐状の粘土を積み上げる)を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術(ろくろ技術)を用い、登窯と呼ばれる地下式・半地下式の窯を用いて還元炎により焼いて製作された。それまでの土器は野焼きで作られていた。このため焼成温度(800~900度)が低く、強度があまりなかった。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となったため、表面の色は赤みを帯びた。それに対し、須恵器は窖窯(あながま)を用い1100度以上の高温で還元焔焼成する。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足するが、高熱によって燃焼が進む。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素と水素が発生する。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまりは還元することで二酸化炭素と水になる。特徴的な色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる。



古墳時代
高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作した記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期、5世紀中頃とされる。日本列島で最古の窯は大阪府堺市大庭寺窯跡であるが、最初に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として大阪府堺市南部、和泉市、大阪狭山市、岸和田市、にまたがる丘陵地帯に分布する陶邑窯跡群、福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群が知られている。また、吹田市吹田32号窯、岡山県奥ヶ谷窯跡、香川県宮山1号窯・三谷三郎池西岸窯跡、福岡県夜須町山隈窯跡などの初現期の窯跡も日本各地に造られる。これらの系譜は、いずれも伽耶系である。



このうち大阪府の陶邑窯跡群は日本列島最大であり、天皇陵を含むと考えられている百舌鳥古墳群と地理的に近接しており、やがてヤマト王権の管理のもとで、同じ規格の製品を生産するよう統御されるようになったと考えられる。そのような「品質管理」の状況を物語る遺跡として堺市の深田遺跡や小角田遺跡が挙げられる。

6世紀代に列島各地に須恵器窯が造られた。これらの須恵器窯で陶邑様式の須恵器が生産された。このことを陶邑工人の地方拡散とみる説、在地工人が陶邑様式を受容して生産したとみる説とがある。微妙な地域差が見出せるものの、列島的規模での規格化の力が働いていることは確かである。このことから、須恵器生産においてヤマト王権が主導的役割を果たしていたと考えられる。
古墳時代の須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられた。初めのうち古墳からの出土に限られるが、普及が進んだ後期になると西日本で集落からも出土し、西日本では須恵器、東日本では土師器が優勢という違いが現れた。



奈良時代
奈良時代以降になると、各地方で国分寺の瓦を焼成するために、瓦窯とともに須恵器焼成窯が造られるようになった。国や郡の官衙での使用が柱にあったが、それだけに留まらず日常の器としても盛んに用いられるようになった。埼玉県鳩山町及びその周辺に分布する南比企窯跡群は、その代表例である。須恵器生産は蝦夷に対峙する城柵の設置にともなって東北地方に達した。



平安時代
平安時代には、これまで須恵器生産が盛んだった西日本で一郡一窯の体制から一国一窯への収斂がみられ、産地の数が減る傾向がでてきた。地方統治における郡の役割の低下と、国の役割の向上が背景にあるとも言われる。しかし辺境域の東日本では逆に生産地拡散の傾向がみられ、関東地方では新規の窯が増えた。東北地方中部・南部でも奈良時代には少なかった須恵器が9世紀には盛んに製作された。それも9世紀末には衰退し、土師器系の土器にとってかわられる形で須恵器生産は10世紀に絶える。

拡散の最遠は、9世紀末から10世紀にかけて操業した五所川原窯で、津軽平野にある。当時日本の支配領域の外か外縁にあった五所川原窯からは、地元の津軽半島だけでなく、北海道まで製品が送り出された。

参考作品 これほどの完全な作品で、容姿の美しい作品は稀有なのでしょう。

東京国立博物館蔵
須恵器 台付長頸瓶
古墳時代 7c



さて、いかにも不完全な?わが瓶になにを生けようかな?

(再興)源内焼 その90 如意

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週末に家内がなにやら急がしそうにしています。



早くも雛壇の設置。息子もお手伝い・・、そのうち人形の刀に興味を持ち、家内とちゃんばらごっこが始まる始末・・。これは当方の真剣を見せるわけにはいかなくなりました



本日は再興された源内焼に珍しい作品を見つけたので投稿します。

(再興)源内焼 その90 如意
鳩渓銘 古箱入
幅97*長さ355*高さ75



再興された源内焼や四国などの源内焼の影響を受けた陶磁器が数多くありますが、それらは本来の源内焼とは一線を画すべきもので、出来も遠く源内焼の及ぶものではありません。



再興された源内焼にほんの少しですが、面白い出来の作品があります。本作品もその中のひとつでしょう。



「鳩渓」は平賀源内のことををさしますが、平賀源内はむろん作陶はしておらず、「鳩渓」の銘のある作品は源内焼が再興された作品に用いられた銘です。本人作という誤った記述がインターネット上で掲載されているようですが、明らかな間違いです。

 

如意(にょい):僧が読経や説法の際などに手に持つ道具。孫の手のような形状をしており、笏と同様に権威や威儀を正すために用いられるようになった。「如意」とは「思いのまま」の意味。



上の写真は18世紀に清で作られた如意です。

ちゃんばらごっこばかりしていると如意棒が振り下ろされるぞ~


美人観桜之図 渡辺省亭筆 その14

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平成29年4月2日は、明治期の日本画家で、本ブログでもときおり紹介している渡辺省亭の100回忌にあたります。それに先立ち初の回顧展が今年、開催されるようです

美人観桜之図 渡辺省亭筆 その14
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



五つの傘を真丸に描き、グラフィックな印象を与えるデザイン性が豊かな作品になっています。傘を真円で描くのはたいそうな技術らしいですが・・。



人物画にあまり注目されていない渡辺省亭ですが、改めに観るとなかなかいいものがあります。



正直なところ出来不出来が極端とも思える渡辺省亭の作品ですが、本作品は数少ない佳作のひとつかと思います。



最近、注目されている渡辺省亭の作品ですが、それほど大騒ぎするほどの画家ではないと思います。



海外では非常に評価が高いというふれこみですが、その真偽は解りません。



やはり全体に弱弱しい感じがする絵ですので、好みがはっきりする作品かもしれませんね。



印章は相変わらず数多くがあるようで、一致する印章を見つけるのに苦労します。



なお、本作品と似た構図の作品が存在します。画題は「観紅葉美人図」とでも題されるような紅葉を愛でる女性を描いた作品です。



どちらの作品がいいのか・・・・。





氏素性の解らぬ作品 伝蹄斎北馬

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夜遅く、家内を迎えに駅前で待っていると車の硝子を叩く音。40歳代と思しき人物が「私が見えますか?」と問いかけてきています。どうも小生の車が狭い小路を通った時に、当方の見落としの不注意で、車の前方部が手に当たったのだとの主張しているようです。

かなりの徐行運転しましたし、身に覚えがありませんが、降車して謝罪しろと言うので、降車して丁重に主張を聞いて、「病院にこれから行きましょう。」、「交番が近いので届けてしましょう。」と言うと「時間がかる。」、「保険証がない。」と応じてくれません。「寿司職人で右は利き腕」、「あなたの態度や言い方に謝罪の意図がない。」、「名古屋から来て立川のホテルに泊まっている。」という言い分。

寒い中、30分以上の主張を聞きましたが、どうもおかしいと思っているうちに家内も合流しました。一向に病院や警察への届出に納得しないので、「じゃ、ここで待っていようがいまいが、私は交番に行きます。」と強引に交番に向かいました。少し歩いて振り返るともういなくなっていました。見かけは普通の人の良さそうな中年男性ですが、言い方は普通ではないように思いました。

正論をかざし、こちらの非を認めさせるまで追い込む口上はその場での金銭での解決に持ち込む手口のようです。決して自らは金銭での解決を口に出しませんから、延々とこちらから金銭的な示談を持ち出すまでの非難の向上は続くようです。気の弱い人や警察沙汰を嫌う人は応じてしまう可能性は高いのではないでしょうか?

事が終えて車での帰宅途中で、最近同様の嫌な思いをしたことを思い出しました。現場でのトラブルでの相手側への謝罪にときに同様な思いをしたことです。どうも正論をかざしてやり込めるタイプの人が多くなっているようです。

さて、本日の作品紹介です。

インターネットオークションにはむろん贋作が数多くあり、真作はその5%程度。しかも最近は駄作が多くなったようで、要するに市場に品不足と値段が高くならないというジレンマが起きているように思えます。

そんな中で面白い作品を入手しました。絵が面白いので購入した作品ですが、むろん箱も無ければ由来もなく、捨て値同然の掛け軸ですが・・。

「蹄斎北馬」という画家を知っている方も数は少ないと思いますが北斎の弟子の中では筆頭にあげられ、本ブログでも投稿されている魚屋北渓と共に双璧とされる画家です。

観月蛙之図 伝蹄斎北馬筆
紙本水墨軸装紙表装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1340*横350 画サイズ:縦640*横280




蹄斎北馬にこのような洒脱な作品があるとは意外ですが、好きな作品のひとつです。「指月布袋図」の見立てのような味わいあり、蛙の見上げた先には「指月布袋図」と同様に描いてはいませんが中秋の月を想像させる愉しい作品です。



購入時は作品に対する信憑性はほぼなく、ただ単に作品が面白いので、保存箱などを揃えておいた作品です。

落款と印章は下記のような珍しいものです。



調べていくうちにボストン美術館に下記の作品が所蔵されているとの情報がありました。



また下記のような作品を見つけました。



このような作品は何気なく見ていると気がつかないものですし、この落款や印章を覚えておかないと目の前の作品を見過ごします。真贋を見極めるためだけに傍らに落款・印章の書物を置いておくだけではなんの役にもたちませんね。作品をまず購入することから始めないといけません。

 

偉そうに言っても失敗はつきもの。下記の作品は30年以上前に購入した作品です。

賢木? 伝有坂北馬筆
絹本着色軸装箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横441*縦1095



本作品は盛岡の古陶庵より購入。

月夜の晩に芸姑と思える女性が三味線を奏して、役者風の男が笛を吹き、恋のやりとりをしている粋な画ですが、なにかの見立てのようです。題は「嵯峨野」とするかどうか迷いましたが、「賢木」としておきました。



美人画に長じた北馬の才能を充分に発揮している作品・・・。男女の服装は入念に描き対照的な美しさを描出していますが・・。



落款の「蹄斎朱文方印」と「北馬画印」一顆を押印しています。表具に浮き等がみられたことから改装しています。締め直しでの表具ですのでうぶのままの生地を使っています。



落款、出来、特徴(人物の目や口元の癖のある個性的な特徴と厚みのある人物表現)から真作の可能性がありますが、美人画は信用しないことにしています。



美人画よりは上記の蛙の作品のほうが数段優れていますね。

歌川派以降の浮世絵美人画には見るべき作品が皆無でしょう。そもそも浮世絵美人画はプロマイド・・、それ以下でもそれ以上でもありえない。昨今の歌手や女優のプロマイドに見るべきがないのと同じことです。



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蹄斎 北馬:(ていさい ほくば)明和7年(1770年)~弘化元年8月6日(1844年9月17日)。江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の門人。北斎の弟子の中では筆頭にあげられ、魚屋北渓と共に双璧とされる。姓は有坂、本姓星野、俗称五郎八。諱は光陰。蹄斎、駿々斎、駿々亭、秋園などと号す。

江戸の生まれで、下谷御徒町(現台東区台東)に住む貧しい御家人の家に生まれた。しかし武家務めを窮屈に思い、文政元年(1818年)までに家督を弟に譲って隠居・出家し、画で家計を助けるため北斎に入門したという。入門時期は不明だが、北馬最初の版本『狂歌花鳥集』は寛政12年(1800年)出版のため、入門はこの数年前だと推測される。文化・文政期の美人画を代表する絵師の一人。

初期の寛政から文化期にかけては制作した制作した狂歌本や読本、摺物には北斎の影響が顕著である。滝沢馬琴、高井蘭山、振鷺亭らの読本の挿絵を、文化9年(1812年)までに少なくとも60種類発表し、同門の北鵞と合作で、黄表紙の挿絵も描いた。一方で浅草庵市人に狂歌を習い、狂歌摺物などを多数制作している。しかし、一枚刷りの錦絵は殆ど手掛けていない。



文化10年(1813年)頃の刊行と見られる戯作者と浮世絵師の見立相撲番付では歌川豊国、国貞についで第三位の小結の位置を占めており、名声を博していたことが窺える。文政期からは肉筆画にほぼ専念し、天保期に入ると北斎風から離れ独自の画風を確立した。特に彩色に長じ、左筆を良くし、また肉筆美人画に秀作が多い。風俗描写に秀でた北馬の持ち味が随所に発揮されている作品が多い。ただし全体的に作品の筆致そのものがあまり芳しくなく、手元の描写や衣紋の線などに描写の拙さが目立ちます。喜多川歌麿の弟子である藤麿(ふじまろ)同様、その時々で作品の出来にはかなりムラがある。

肉筆画の数は多く、200点、或いは300点を超えるとも言われる。師風に追随せず、歌川派の作風をも取入れて独自の画風を創出しており、「春風美人図」(絹本着色 東京国立博物館所蔵)「北馬」落款などに見られる玉子形の顔に細い顎、両目の間がやや離れて下唇が突き出した容貌は、北馬の美人画の画風を良く示している。この作品には「北馬」という落款があるが、通常は「蹄斎」と款している場合が多いので、「浅妻船図」(大英博物館所蔵)など比較的少数の作品に見られるものである。



北馬は資性孝順で、老親に仕えることに最も篤かった。当時、盛名の高かった谷文晁は、北馬の至孝に感じ入りその生計を援助し、安心して親に仕えさせている。そうして文晁は自ら描く密画の模様などを、北馬に手伝わせたりした。伝えるところによれば北馬は、この右手は師の用にのみ供すべきものであるからといって、文晁の作品の手伝いをする時には、師の北斎の許可を得た後、左筆のみでその用事を済ませたといわれる。

49歳で剃髪し、弘化元年(1844年)75才(74才とも)で没した。菩提寺は不明。北馬の子は二代目北馬を称している。門人には逸馬、叢斎遊馬らがいた。



主な美術館所蔵作品
「見立桃園三傑図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵
「三都三美人図」  絹本三幅対 浮世絵 太田記念美術館所蔵
「蛍狩美人図」双幅 絹本着色 出光美術館所蔵 菊池五山賛 
「遊女図」     紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵
「向島風景図屏風」 紙本着色 二曲一隻 ボストン美術館所蔵
「墨堤春遊図」   絹本着色 心遠館(プライス・コレクション)所蔵 滝沢馬琴賛 

参考作品
春風美人図
絹本着色 東京国立博物館蔵 
款記「北馬」/「北馬之印号蹄齋」朱白文方印



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当たりやのようにイチャモンをつけて、あぶく銭をとろうという輩は一刀両断、いずれ天罰下ろう!



怒りを鎮めて、まあまあと蛙が言ってくれているようです。

ところで刀剣は室町期の作、説明は後日。

袋は義母が使わなくなった帯で作ってくれたものです。気に入ったコレクションはただ雑然と並べておいたり、飾っておいてはいけません。きちんとした保存方法にて未来に伝達すべきでしょう。その費用は購入費用より高くなることがあります。

最近の展示

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作品の保存は目に付く場所に積み上げては興ざめするものです。自宅に所狭しと作品を置いてあるのは収集家としてするべきことではありません。作品が死んでしまいます。











捨てがたき一作。処分するものは処分していますが、どこか捨てがたき・・。





軸が痛んでいたので天地交換した作品です。改装するより格段に廉価にて作品が蘇ります。



写真の作品はいずれも本ブログに投稿されている作品ですので説明は割愛させていただきます。









獅子頭 横山一夢作

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雪が降ってきて、息子が離れでお茶会をやろうと言い出したので、家内と急遽段取り開始です。



茶室から庭を眺めての茶会です。



展示品はそのまま・・。



寒いときのでエアコンをつけます。エアコンは目につかないよう工夫し、吸い込み口や吹き出し口の風も茶事に影響のないように配慮されています。



釜は家内が釣り釜用に購入したもの、なかなか姿がいい。



道具類は有り合わせ、水指は酉・・、こういう時にしか使えそうにない。



菓子鉢は源内焼。



本日の作品は展示されている横山一夢の作品です。

獅子頭 横山一夢作
共箱 共布 共栞
幅175*奥行き185*高さ185



金を全面に塗った俗っぽい作品より、木地の見える作品のほうが好きですね。









横山一夢の作品は共箱が不可欠です。



共箱の無い作品はせんぜい数万円、へたをすると値段がつかないほどです。



もうひとつ、栞と共布もないと価値がないとか・・・。



茶事は終始、息子は熟睡のまま終了しました。こちらの置物のほうがよほど大切・・。



雪は思いのほか積もりませんた。



起きたら息子はなんというやら・・・、「一夢」・・。



いずれ起きるのは明朝・・・。



氏素性の解らぬ作品 茶鐵砂大壺 その61(整理番号)

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お~い、何を覗いているのかな? 壷より上の欄間額を良く見てよ!



小生にとってはかなりの大枚をはたいて購入した作品です。

氏素性の解らぬ作品 茶鐵砂大壺 その61(整理番号) 
共箱 花押サイン入
高さ570*口径340*胴径520*底径215



民藝館や展覧会でもこれほど大きな作品は観たことはありません。単なる?大きな壷は見たことはありますが・・。



大きな壷はおそらくかなり現存数は少ないし、これほど出来のよいものはみたことがありません。



大人一人の力では持ち上げられません。



下地につけた文様と釉薬の流れが相俟って、えもしれぬ景色をなしています。



近代陶芸の傑作です。ともかくお楽しみあれ。











花押のある共箱(掲載しておりません)が会心の作を物語っているのでしょう。ただし当方では「氏素性の解らぬ作品」・・・、それでも大枚を出すのは好きな者の性。

一世一代の傑作! 誰の作か解るかな? 

刀剣 その7 脇差 無銘

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週末には母を訪ねましたが、インフルエンザ蔓延防止につき、面会は禁止とのこと・・。家内は抹茶道具を持参、息子は自慢のおもちゃの新幹線を見せたくて持参したのですが、がっかりした様子・・。



昼食を腹いっぱいにして張り切っていたのですが・・。インフルエンザは猛威をふるっているようですね。

さて男の隠れ家にあった脇差、前の所蔵者は研ぎに費用がかかるので、なんとヤスリで錆を落としていた代物。引き継ぎ時に「なんとかならないかな?」ということで引き継いでいました。当方は刀剣に関してはまったくの素人ですので、前の所蔵者が故人となられてから、20年近くそのままにしていました。

そろそろ、刀剣も後世に伝えるためにきちんとしておこうと思い、銀座の刀剣店に数振りの刀剣を研ぎを含めて修理に出す際に、この刀剣も研ぎなどの修理を依頼しました。拵えと一緒になっていた刀剣も白鞘を拵えて保存するようにしました。拵えに直接刀剣を収めて保存するのは、良くないようで、刀剣は白鞘に収めておくべきものらしいです。。

刀剣 その7 脇差 その3 無銘
長さ:一尺七寸 反り:四分 目釘:一個
無銘 刀 白鞘 拵え共
拵え:鞘螺鈿



保存袋の誂えてようやく保存の道具が揃いました。拵えと刀剣本体は通常は別々に保存するのですが、拵えを痛めないようにして一緒に保存することにしています。知識の無い人が刀剣と拵えを別々にしないようにするためです。



鍔には正阿弥包作という銘があります。「正阿弥」とは金工の苗字で、埋忠派とともに鍔などの刀装具を製作した 金工の二代流派です。室町時代から江戸時代末期まで繁栄し、慶長以前の作を「古正 阿弥」と汎称し、それ以降の作を「正阿弥」と汎称しています。 京都を中心として伊予 、阿波、会津など各地に分派が生じ、鉄地に金象眼や色絵を施した作品が多く、「正阿弥包作」は江戸末期会津正阿弥の名工だそうです。



鐸は拵えから外して保管するの常識らしいです。保存中に拵えを傷めないにするためとか・・。鐸も拵えから別々にならないようにすることが肝要です。ただ現在は拵えはだいぶ痛んでいます。



幸い柄の部分は補修せずに済むようですが・・・。



全体に螺鈿が施されていますが、鞘の部分は鯉口も含めて塗りの補修が必要なようです。こちらの補修はいずれまた・・・。



「研ぎを含めて費用をかけて、この刀剣に保存する価値があるでしょうか? 」という野暮な質問はなしですね。現在は刀剣は人気がなく、コスト換算では価値はマイナスというのが結論でしょう。

 

銀座柴田刀剣によるとこの刀剣は新刀(新刀(しんとう):慶長元年(1596)以降~安永末年(1781)までに作刀された日本刀を新 刀と呼ぶ。)に分類されるとのこと。もしくは少し時代が下がって新々刀に分類される18世後半の作品らしいとのこと。作行は美濃の関氏のものに近いとか。

 

ここまで手入れに手間をかけるのは、前の所有者との依頼であり、先祖伝来伝えわる物を伝え残すため。ちなみに小生はこの刀剣の現在の所有者ではありません。伝えるべき家系の者が持つべきもの、むろん、所有者の了解を得ての修理であり、登録証もきちんとしています。

掛け軸と刀剣は飾ると見栄えがしますが、いかにも物騒・・。

氏素性の解らぬ作品 白釉黒流掛大鉢 その62(整理番号)

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この手の大きな鉢がなんといっても代表作です。清水の舞台から飛び降りる覚悟?で購入した作品です。

氏素性の解らぬ作品 白釉黒流掛大鉢 その62(整理番号)
共箱 花押サイン有 
径550*高さ150*高台径245



福田豊四郎筆の「十和田湖」を飾り、床の間で撮影しています。本ブログにたびたび投稿されているようにこの二人の作者は小生のメインになっている蒐集対象です。



花押まである箱書きは自信作なのでしょうか? あまり見かけない箱書きです。当方では幾つかの共箱に花押があります。もともと展示用に作られていた皿立も共箱に中に入れられております。



魅力はその釉薬にあるといっても過言ではありませんが、大きな鉢になるとより一層その魅力が引き立つものです。



釉薬を掛けるのに15秒、それを評して「たったの15秒で出来るのにずいぶんとお高いですね。」と評したという御仁に「15秒+60年」ですと答えた話は有名です。



むろん尾ひれがついた逸話でしょうが、釉薬を掛けた経験のある方はご存知のように、釉薬の掛けは一瞬の勝負で、時間をかけると釉薬の剥がれなどが生じます。



あっというまに胎土の強い吸水力で釉薬が乾いてしまいますから・・・。



釉薬の量、掛け損ないのないように皿を扱う手立て、掛け合わせの具合、まったくの一瞬の勝負です。



体力も要ることですから、本当の大きな作品が出来るのは一時期だけでしょう。金城次郎も脳梗塞の後は大きな壷は制作していても、50センチ近い皿は制作できていません。



震災で失われた大きな作品もあります。この大皿は納まるべきところに納まっているようです。50センチを超える作品が市場に流通することは機会が少なくなるでしょう。



現代の陶工にもこのようなおおらかな作品は見かけなくなりました。さて、どなたの作品か?



「氏素性の解らぬ作品」? 骨董というのは常にそういうものかもしれません。気に入った作品は将来や子々孫々に大切に伝えてゆきたいものです。

2017年1月 保戸野窯 平野庫太郎氏

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週末は茶室の前の縁側で皆で昼食。その最中になにやら宅急便・・・、秋田市の保戸野窯の平野庫太郎氏から正月に依頼していた作品が、箱も出来上がり到着したようです。

縁側の左にある箱がその作品の梱包です。



庭では福寿草が蕾になっています。春は確実に近くなっています。



梱包の中の作品は、2017年1月に保戸窯を訪問した際に「辰砂釉壷」を選んで購入しましたものですが、桐箱を制作していただいたので、作品はあとで宅急便で送っていただきました。

辰砂釉壷 平野庫太郎作
共箱共布
口径103*最大胴径210*高台径100*高さ268

実は家内はこの釉薬で家内は一輪挿しを、焼成は茶碗を依頼していたのですが、いつになるやら・・。平野庫太郎氏はともかく寡作です。作品を購入したい方は事前に連絡する必要があるでしょう。





共布もしっかりしています。



栞が新しくなっているようです。



平成26年からは作陶のかたわら?秋田県立美術館の館長を続けておられます。



郷里の画家、福田豊四郎の素描作品とともに展示しております。



平野庫太郎氏の辰砂の発色の美しさはもともと定評のあるものですが、今回はさらに緑色になり銀化が見られる作品です。



ひとつ間違うと品が無くなる危険な取り合わせですが、抑え込んで品格のある作品となっています。



現代のガス窯は中国の官窯の作品を凌ぐ作品ができてきています。



平野庫太郎氏とは縁があり、お付き合いさせていただいており、すでに30年が経過しました。多くの作品が手元に集まってきており、郷土の陶磁器の作品を将来に伝えていきたいと思います。



今回の購入の際に少し傷があるからと「一輪挿し」を付け加えていただきました。秋田市での展覧会では作品が売れたようで、現在手元にある作品は出品しなかった作品がメインのようです。
 
辰砂釉一輪挿 平野庫太郎作
合箱 共布
口径53*最大胴径90*高台径70*高さ298



どこに傷がありるかなどはまったく当方には解りませんが、完璧?を常とする平野氏は妥協を許さないようです。



当方は友人付き合いのようなこともあって、このような作品をいただけるのですが、少しでも傷の有る作品は通常は売りに出しません。



むろん、共箱を要求してはいけません。今までも平野庫太郎氏の一輪挿しの作品は辰砂釉のきれいな作品を制作していましたが、今回はこの作品らには緑色に発色する釉薬が掛けられています。



この発色の頃合が難しそうですね。

以前に紹介しました釉裏紅の作品は下記の作品ですが、なかなかこの赤い発色は難しいようです。

釉裏紅唐草文鉢
口径476*高台径292*高さ98



現代の中国ではどぎつい赤の発色の作品が多く、味わいのある発色はできていないとか?



保戸野窯の作品に興味のある方は是非、購入をお勧めします。陶磁器はどこまでいっても作り手の人間性の問題に尽きます。

忘れさられた画家 正面之虎図 御船綱手筆 その2

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以前に紹介した「御船網手」の作品です。その作品に「綱手は曾祖父です (稲田八穂)」というコメントを戴き、驚きましたが、本ブログには作者の親族の方からのコメントが幾つか投稿されています。

忘れ去られた画家 正面之虎図 御船網手筆 その2
絹本水墨着色 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



「御船綱手」に関する資料は乏しいらしく、当方では下記の資料しか入手できていません。とくに植物画が有名なのか、動物画に関する記述は見当たりません。



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御船綱手:(みふね つなて)。1876(明治9)-1941(昭和16)。日本画家。

明治9年(1876)岡山県倉敷市に生まれる。東美校卒。明治43年欧米各国を漫遊。植物画の研究に専念する。画室の周囲に内外の植物千余種を栽培し、その写生に努める。大阪に住した。14歳の時、画家を志して、初め円山派の木村応春に、ついで大阪の渡辺祥益に学ぶ。その後上京し、川端玉章に師事する。1896年、東京美術学校に編入、橋本雅邦に師事する。



1897年、日本絵画協会第2回共進会で「山櫻鷲」が2等褒賞を受ける。1899年に東京美術学校日本画科を卒業した後は、大阪で画業に励む。1910年、日英博覧会に際して欧米を旅行。ハワイからアメリカ合衆国を横断してヨーロッパに渡り、イギリス、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、オランダ、ノルウェーを経て、ロシアからシベリア鉄道で帰国した様子を、1913年、「世界周遊実写 欧山米水帖」として描いた。



晩年は、自宅に植物園を造り、植物の研究を深めて週刊朝日に「百花画譜」を発表するなどした。昭和16年(1941)歿、65才。

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コミカルな作品ですがなかなか魅力の有る作品だと思います。



同時期の画家の大橋翆石の虎の作品(「正面之虎」)と対峙すると面白いですね。



どちらの作品も正面から虎を描いています。大橋翆石は虎を描くことで当時から著名な画家ですから関西に在住していた同時代の御船綱手はなんらかの意識はしていたはずです。



描いている配色に大橋翆石の影響がうかがわれます。



ところで正面之虎と御船綱手の一作品目の「猛虎図」・・、双幅にならないかなと思いましたが、作品の大きさが違うようです。



本作品は残念ながら共箱ではありませんが、いい作品だと思います。



両作品共々意外に大きな作品です。作品の資料の少ない御船綱手ですが、海外を描いた風景画などに秀作があり、今後は大いに再評価されるべき画家だろうと思います。

氏素性の解らぬ作品 白化粧彫山水図大皿 その (未整理)

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夕方帰宅すると、洗面台のガラス瓶に菜の花がありました。これは家内がお茶の稽古場に持っていた花の残りですが、ガラスの瓶はないだろうと思い、展示室の一輪挿しに入れておきました。



一輪挿しは最近紹介した平野庫太郎氏の作品です。

さて本日も氏素性の解らぬ作品です。

白化粧彫山水図大皿 その (未整理)
口径480*高台径*高さ90



呉須で絵を描き、それから掻いて文様をつけ、白土を掛けて焼成する技法で作られているようです。







この図柄は絵付にときおり見かける図柄です。当方で知る得る作品では下記の二作品があります。

鉄絵色差山水文陶板(日本民藝館蔵)    
セント・アイヴス 1952年 幅9.9cm



色絵山水文角皿 (日本民芸館蔵)
1954年(九谷?富本憲吉?)



ともに1950年代の作品です。この時期には来日した来歴を調べてみました。

1950年(63歳)3月―米国に4ヵ月旅行、ワシントンの現代美術協会による巡回展を行う。4月―米国陶磁協会から「ビンズ賞」を受賞。

1951年(64歳)世界中の陶磁器から選んだ名品図録ともいえる、『A Potter's Portfolio』を刊行。

1952年(65歳)ロンドンのボザール・ギャラリーで濱田庄司と二人展。7月―ダーティントン・ホールで国際工芸会議を開く。柳宗悦、濱田庄司も参加。10月―柳、濱田と米国へ渡る。

1953年(66歳)2月―米国を経て来日。上野松坂屋で個展。翌年まで日本に滞在する。5月―布志名と湯町で制作。7月―益子の濱田窯で制作。8月―柳、濱田、河井寛次郎と信州に滞在し、琳派の研究を開始。10月―九谷で制作。 11月―大阪で河井、濱田と三人展を開催。

1954年(67歳)2月―柳と房州に滞在。4月―河井、濱田と小鹿田を訪れ制作。神戸で河井、濱田と三人展、東京で富本憲吉を加えて四人展を開催。夏は松本に滞在する。9月―三越で「滞日作品展」を開催 11月―英国帰国途中に、イスラエルの「バハイ教世界センター」を訪問。

1955年(68歳)4月―大阪で「現代民芸展」。6月―神戸で「家具陳列即売会」開催。さらに『A Potter's Book』が『陶工の本』として邦訳出版される。

注目されるのは1953年(昭和28年)~1954年(昭和29年)の来日です。特に小鹿田窯の来歴に注目してみました。

小鹿田窯で絵付をする 1954年



坂本正美窯の縁側で過ごす写真は、小鹿田窯の皿山に滞在中、運転手を務めたという「小鹿田古陶館」の亡きご主人が撮影したとのこと。



ここで制作された作例としては下記の作品が知られています。

鹿文大皿(昭和29年 1954年)



晩年は轆轤を自分で轢いて制作したかどうかは不明です。晩年は奥さんが轆轤を轢いていたようで、轆轤は苦手であったという記述があります。

本作品が真作かどうかは知る由もありませんが、雰囲気が好きです。


 
淡い絵付がいいですね。雪の降る北国のよう・・・。



日本人より日本的な叙情のある作品を作りあげているは驚きです。

水郷 近藤浩一路筆 その4

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展示室の掃除をしていると、息子もお手伝いしてくれました。屋根裏部屋の掃除には階段も・・。子供の危険防止はいまのところ功を奏しているようです。



本日は本ブログで何度か紹介している近藤浩一路の作品です。

水郷 近藤浩一路筆 その4
絹本水墨軸装 軸先鹿骨 共箱
全体サイズ:縦1445*横620 画サイズ:縦455*横450



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近藤 浩一路:本名:浩、明治17年(1884年)3月20日 ~ 昭和37年(1962年)4月27日)。日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家・教育者である近藤喜則は祖父にあたる。

 


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補足説明
出生から美術学校・漫画記者時代:山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。

父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、富士川小学校を経て1902年(明治35年)に韮山中学(静岡県立韮山高校)を卒業すると上京する。祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年(明治37年)には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。

在学中には白馬会へ出展しており、この頃の画風には外光派の影響が見られる。同級生の影響で水墨画をはじめたほか、文芸活動も行っている。また、同級生には親友となった藤田嗣治らがいる。美術学校では一年落第し、1910年(明治43年)に卒業する。卒業制作は連作「五十三駅」。卒業後は白馬会や文展への出展を行い入選もしており、京都で女子の絵画指導も行っているほか、藤田らと水墨画や漫画の展覧会を主催している。この頃には結婚もしていたため、1915年(大正4年)に読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。漫画記者としては美術学校時代の同級生で朝日新聞記者であった岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評され、漫画記者の団結のため結成された東京漫画会へも所属し作品を出展しているほか、赤甕会や珊瑚会などの活動にも参加し日本画家としても注目される。

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日本美術院時代と洋行:大正前期の美術界では珊瑚会を中心に新南画が流行していたが、近藤も1919年(大正8年)に日本美術院第6回展で初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、本格的に日本画へ転向する。

近藤の画風は第六回入選作では浦上玉堂や川端龍子の色彩表現、群青派などの影響を受けており、同時代に流行していた写実主義的手法や光線表現など洋画手法取り入れ、「カラリスト浩一路」と評された。1921年(大正10年)には日本美術院(院展)に入会し、横山大観らに評価される。

1922年(大正11年)には岡本や小寺健吉や鈴木良治らの画家友人とヨーロッパ各国を旅行する。この旅ではフランスを拠点にスペインやイタリアへも足を伸ばし和田や藤田らを訪ね、各国の名所や美術サロン、美術館を訪ねる物見遊山的なものであるが、帰国後には旅行記を美術誌に寄稿し後に『異国膝栗毛』としてまとめている。『膝栗毛』ではスペインでのゴヤやエル・グレゴの作品観賞が一番の目的であったとし、最も印象深いものとして記している。


浩一路はこの旅で伝統的な西洋美術を絶賛する一方で、同時代の前衛美術に対しては批判的見解を示しており、日本画壇が同時代の西洋美術に強い影響を受ける中で、自身の日本人意識を強めるものであったと記している。同年には中国へも旅行しているが、ヨーロッパ旅行が作品に反映されていなのに対し、中国旅行では帰国後に中国風景を描いており、近藤がこの時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている。


1923年(大正12年)の第10回院展では「鵜飼六題」を出展し、これは近藤の代表作と評されている。同年には関東大震災で自宅を失い、一時静岡へ滞在したのちに妻の故郷であった京都市へ移住する。京都時代には「炭心庵」と名付けたアトリエで「京洛十題」「京洛百題」などの風景画を手がけている。また、茨木衫風ら門弟たちの育成にも務め、山本有三や吉川英治、芥川龍之介らの文人や俳人らとも交遊している。

画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷していることが指摘されている。1931年(昭和6年)には個展開催のためフランスのパリへ渡る。パリでは小松清の助力を得て個展を開催し、小松を通じて美術批評家であるアンドレ・マルローと親交を結ぶ。

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美術院脱退から晩年:1936年(昭和11年)には日本美術院を脱退。東京府下久留米村(東久留米市)で「土筆居」と名付けたアトリエで捜索を続け、百貨店での個展開催や画集の刊行などを行っている。

戦時中には静岡県や故郷山梨の山中湖の別荘などに疎開している。戦後は再び東京都豊島区巣鴨(北大塚)でアトリエを構え、墨心会に所属しながら日展に出展するなど創作活動を行い、院展脱退後の戦前から戦後にかけても画風の変化が指摘されている。



晩年は俳句や三味線などの趣味やゴルフ、スキーなどのスポーツも嗜み余生を過しており、脳炎により78歳で死去。墓所は上野寛永寺。

 

漫画や新南画、水墨画など日本美術史における浩一路の画業に対する位置づけは未だ不確定であるが、「孤高の画家」「異色の水墨画」といった異端的評価がなされている。作品は東京国立近代美術館、山梨県立美術館、近藤浩一路記念南部町立美術館などに所蔵されている。

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雪中訪友図 木下逸雲筆 その4

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週末は祖父は会合で留守・・、「さて昼飯は鰻だ!」息子と意見が一致。



危機に瀕する鰻を今のうちに愉しめ! 最近は食事に際しても膝の上・・・



南画を愉しむ文化が日本において永きにわたり衰退していますが、この文化はもはや復興することはないのでしょうか?

雪中訪友図 木下逸雲筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1930*横660 画サイズ:縦1250*横500



賛の字体から当方の他の所蔵作品と同時期の作ではないかと推察されます。



元の画家のどの作品を参考にして描いたのかは定かではありませんが、長崎にしかない職業で江戸時代中期に長崎奉行所内に設けられた「唐絵目利(からえめきき)」としての職業から、中国から船載されてきた書画や器物の鑑定と価値の評価をしており、数多くの中国渡来の作品を見ていたことには相違がなく、その中のひとつの作品の筆致を模倣した作品であろうかと推察されます。



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木下逸雲:寛政12年8月1日(1800年9月19日)~慶応2年8月4日(1866年9月12日)。江戸時代後期の長崎の南画家。鉄翁祖門・三浦梧門と共に長崎三大家とされる。幼名弥四郎といい、のちに通称を志賀之介とした。諱を相宰。逸雲は号、ほかに如螺山人・物々子。室号を養竹山房・荷香深処とした。



長崎八幡町、木下勝茂の3男に生まれる。文化14年(1817年)、18歳で木下家代々の乙名(名主)の役を引き継ぐも、文政12年(1829年)にその役を兄の子に譲り、自身は元来関心のあった医師を生業とし、医門名を得生堂と称した。蘭医オットー・モーニケによって伝えられた種痘術の普及に努めている。

画は、はじめ唐絵目利の石崎融思に学び、来舶清人の江稼圃・張秋谷からは南画の技法を修めた。その後も清人陳逸舟、徐雨亭にその画風を学んだ。さらに雪舟、狩野派・大和絵・円山四条派などの諸派や西洋画の画法を熱心に研究し、様々な技法を取り入れた。画僧鉄翁祖門と画を共に学び生涯の友となった。逸雲は筆が早く、遅筆の鉄翁と対極をなした。田能村竹田・頼山陽・広瀬淡窓など文人と交わった。

門人に、河村雨谷・津田南竹・池島邨泉・長井雲坪など。また姉の小蘭、甥の秋塘も画家である。逸雲は多芸多才で知られ、書・篆刻を能くし、琵琶の演奏・制作に巧みで、煎茶をたしなみ、藤原相宰の名で優れた和歌を詠んだ。また白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、自ら絵付けも行っている。長崎円山花月楼清譚会の世話役を務め、日中文化交流を促した。



慶応2年(1866年)4月、京阪・江戸に漫遊し、同年8月横浜から長崎行きのイギリス船黒龍号に乗船するも、玄界灘で海難事故に遭い、帰らぬ人となった。享年68。

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補足
江戸時代、日本で唯一外国に門戸を開いていた港町長崎には中国・オランダなどからさまざまな“もの”が入ってきた。その中には、書籍・絵画なども多く、またあわせて中国より文人画家 も来舶し、彼らのもとで長崎の画人たちが画を学び、その指導のもと多くの文人画家たちが育っている。文人画は文字通り、中国において専門画家ではない、学者・医者・官吏などの文人が描いた 絵であり、わが国の文人画家たちの経歴もまた、武士・儒者・医者・商家など多種にわたっている。

鎖国体制下にあって、長崎という特殊な環境で生まれた職業に乙名職がある。「おとな」と読む長崎奉行に属する町役人のことで、町の支配を任され、市政をはじめ出島管理などを行った。この乙 名職を代々勤める家に生まれ、自らもこの職を勤めた経歴をもつ木下逸雲は、後に長崎を代表する文人画家となる。

逸雲は、寛政11年(1799)、木下清左衛門勝茂の四男として、長崎八幡町(長崎市)で生まれた。木下家は本姓藤原氏で、代々八幡町の乙名を勤める家柄で、逸雲も兄の隠居後、18歳でその役を 継ぐが、若年より医学の勉強をしたいという志しがあり、職を兄の子に譲り、本格的に医学の勉強を始め、内科・外科の二科を兼ねた医師となり、医門名を得生堂と称した。



ところで、逸雲は多芸多才な人で、絵画はもとより、書・篆刻を能くし、琵琶の演奏・制作に巧みで煎茶をたしなみ、藤原相宰の名で和歌を詠むなど、それぞれに一家をなすほど精通するが、その中でも特に画家として著名である。



絵は初め地元の石崎融思(いしざきゆうし)(1768~1846)に学ぶ。石崎家は「唐絵目利(からえめきき)」四家のうちの一つで、この唐絵目利というの も、長崎にしかない職業で江戸時代中期に長崎奉行所内に設けられた。中国から船載されてきた書画や器物の鑑定と価値の評価、さらに輸出入の交易品や鳥獣類などの写図の作成が主な職務であった。また長崎奉行所の御用絵師を兼務することが多かった。



融思の元で学んだ後、逸雲はさらに雪舟、狩野派、大和絵、円山四条派などの諸流派の研究にも専心し、水墨、淡彩、著色の技法を駆使して、細密画から大津絵に至るまで実に様々な絵を描いた。西洋画法にも関心を持ち、西洋絵の具の研究も熱心 に行った。また、白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、自ら絵付けも行っているが、文人画風の雅味のある焼物と評判となった。長崎画壇興隆の基礎を築いた逸雲の自信はたいしたもので、 慶応2年(1866)4月、諸国の名勝を探ろうと京阪・江戸に漫遊した際、江戸から長崎の門人に送った書簡には「長崎の南画、当時日本第一、他に見るべきものなし」と書いている。

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衰退していくものには、なにか愛着が湧くことがある。



鰻も南画も同じ・・・


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