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淡水魚図 大野麥風筆 

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当方のコレクションにはまったくの門外漢の刀剣もあります。先祖から伝世品がメインとなっていますが、このたびまとめて研ぎなどのメンテナンスを実施しました。他には漆器、印籠の類もあります。古来からの男性の粋をいうものが伝わる作品群です。

刀剣 その一 南都住金房左衛門尉政定作
長さ:二尺二寸九分0厘 白鞘
反り六分五厘 目釘穴2個



研ぎが完了し、保存袋など記録も完備した刀剣です。保存袋は義母が不要になった帯で作ってくれました。



大和国金房派、左衛門尉政定の作。金房派はどういう流れの刀工かあまりはっきりとは分って居ない。「金房」は一般的に「かなぼう」と読みますが、地元では「かなんぼう」と読む。日本刀名鑑この派には、正次、正真、正実、政長、政定、政貞、政次などが居り、「正」と「政」の字を通り字としている。金房派の作品は刀、槍、薙刀などを多く見ますが短刀は多くない。主に僧兵の需要に応じて作刀していたようで、槍や薙刀など実用刀を多く製作していた。作風は広直刃や腰開きの互の目などで、平高田や末備前に似た物が多くある。祐定や清光風の物が多いため江戸期には奈良備前とも呼ばれて居た。

  

製作年代:古刀 室町時代末期・永禄頃 大和国(鑑定済)

室町末期の作品で、拵えは伝世していません。

本日は「大日本魚類画集」で著名な大野麥風の肉筆画です。なんどか本ブログでも紹介しています

淡水魚図 大野麥風筆 
紙本水墨淡彩額装 タトウ黄袋付
10号 全体サイズ:縦568*横660 画サイズ:縦400*横488



「鮒ニメダカ図」?という題かどうかは不明です。鮒を題材として淡水魚の肉筆画は数多くあるようです。当たり障りのない題として、仮題「淡水魚図」としておきました。



鮒を描いた大野麥風の肉筆画でも出来のよい作品だと思います。



子供の頃は近所の川で鮒は網ですくったり、釣ったりでたくさん採れたものです。



メダカは私の子供の頃にもあまり見かけなくなっていました。泥鰌はいやというほどいましたが・・。



この作品に描かれている小魚はトミヨ? トゲウオ? といった部類のように思いますが・・。



最近ネットオークションに鮒を描いた大野麥風の肉筆画が多々出品されているようですが、やはり大野麥風というと多色摺りの版画が良いですね。



多色摺りの版画が注目されるあまり肉筆画が軽んじられているきらいはあるようです。



基本的に額に納められている作品は、黄袋入りでタトウに収めるのが理想的です。



良く見かけることですが、作品を剥き出しで保存しているのはよくありません。



何事も保存方法をきちんとしておくことが大切です。骨董も精神も・・・。




氏素性の解らぬ作品 七官青磁 陰刻紋盤 & 木葉天目茶碗

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普段の飯茶碗に使用している茶碗を家内が破損・・。一応、河井寛次郎の作?という共箱がついている作なので、自分で簡単に修繕しておきました。代わりに使っている茶碗も欠けているようで・・



破損の酷いものは専門に金繕いしているところに依頼しようと思っています。









いずれも氏素性の解らぬ作品ですが、このまま捨て置くにはもったいないと思い、修理しようかと・・。陶磁器は氏素性の解らない作品がやたらと多いようです。

本日は普段使いには良さそうなのですが、氏素性は?と尋ねらられると「はて?」という作品の紹介です。

七官青磁 陰刻紋盤
合箱入
口径240*高台径*高さ45



中国の浙江省の龍泉窯で焼かれた青磁で日本に舶載された中国の青磁は、ほぼ時代順に砧青磁(南宋~元)、天竜寺青磁(元~明初)、七官青磁の3種に区別されています。



本作品は明時代の龍泉窯青磁陰刻と思われますが、七官青磁に分類され、明代中期から後期に焼かれたもので、淡い青緑色を帯びた透明性の強い青磁釉(ゆう)が特徴です。ただ、本当に氏素性は解りません。



見込みに掻かれた文字はなんという字でしょうか?



江戸時代に茶人が用いた花生(はないけ)、香炉、香合(こうごう)などが伝存していますが、七官青磁は青磁としては粗製に属し、格調に乏しいと言われています。



*七官の名称の由来は、これをもたらした中国人の名前、あるいは位階とする説がありますが、詳しいことは解っていません。

さて、もうひとつ、氏素性の解らぬ作品の紹介です。

本作品はしばし忘却しており、家内がお茶の稽古場から持ち帰った際に、思わず「あれ~、こんな作品があったかな~?」。

木葉天目茶碗
箱入
口径*高台径*高さ



データを検索するとたしかにありました。ところで木葉天目の製法は近代まで謎とされていました。



木葉天目茶碗は日本国内では再現がすでに可能になっています。製法もほぼ解明されていると言っていいでしょう。保戸野窯の平野庫太郎氏もその製作者の一人です。



ある特定の葉に特定の成分をを葉脈に吸収させて焼成する技法のようです。

本作品は木村盛伸の箱に収められていますが、これはなんらかの間違いがあるように思います。木村盛伸氏の長兄である木村盛和氏は中国の天目茶碗の再現に尽力していますので、悪意に?箱を誂えている意図が感じられます。

 

現代中国の建窯で再現された木葉天目なのか、時代がきちんとした木葉天目なのかによって大いに評価が違いますが・・。とはいえ果たして現代の中国で木葉天目茶碗の再現が可能になっているかどうかも不明です。が・・

参考作品
木葉天目茶碗(重要文化財)
大阪市立東洋陶磁美術館所蔵
吉州窯 南宋時代・12世紀
直径:14.7cm 住友グループ寄贈



木葉天目茶碗は主に中国の吉州窯で作れましたが、建窯で作られた天目茶碗とは違い、吉州窯の天目茶碗は胎土が白く、土が緻密であるため、薄作りで、碗形も直線的にひろがっています。



高台が小さいのも特徴の一つですね。



吉州窯では黄褐釉と黒釉の二重がけで、べっこうに似た釉調のものを作っていますが、参考作品の木葉天目も、その手法を応用したものでしょう。参考作品は加賀前田家に伝来したものです。



上記の特徴は本作品も備えています。「胎土が白く、土が緻密であるため、薄作りで、碗形も直線的にひろがっています。高台が小さいのも特徴の一つ。」というのは共通しています。



ま~、当方に宋代の木葉天目茶碗など所持するはずもないのですが・・。

最近、騒がれている「曜変天目茶碗」とはレベルの違う話ですが、お茶の稽古に使う程度には問題ないでしょう。

古伊万里にしても鍋島にしても、また古い中国古陶磁器にしても再現可能になると、ますます氏素性が解らない作品が増えてきますね。

刀剣 その6 脇差(短刀) その3 萬歳安則作

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加島美術さんから本ブログで何度か紹介している渡辺省亭の展示会の案内が届きました。



他の美術館にも展示されているようです。案内の中に展示されている会場の案内も含まれています。切手の図案になるなどしている画家ですが、今までは評価があまりなされていない画家ですが、これから再評価されるかどうか注目してみたい画家です。



本日は研ぎが完了し、保存用の誂えも揃った刀剣のニ作品目の紹介です。なんどか刀剣を紹介していますが、前回に続き本刀剣も男の隠れ家にあった刀剣で前の所蔵者からの伝来作品です。

刀剣 その6 脇差(短刀)その3 萬歳安則作
板目文半太刀拵
長さ:一尺一寸 反り:一分 目釘:二個
銘:萬歳安則作 文政乙酉年二月日
彫名:摩利支尊天 妙見大菩薩
拵え:鞘漆板目文 小柄(金時銘)



こちらの修理は研ぎと白鞘、拵えの修理です。修理完了後、保護袋を誂え、鐸を保存箱に入れておきました。



登録証や調べた内容、補修の経緯などを記した内容をファイルに閉じてています。



研ぎなどのメンテナンスが終了した後も、ある程度一定期間は定期的にこまめなメンテナンスが必要です。

 

金銭的な価値からすると、ここまで費用や手間をかける必要がない刀剣ですが、先祖伝来の証として必要なことだと思っています。

 

今までに記述したように、拵えの保存に際しては鐸は外して保存するのが無難だそうです。つけたままでは拵えを痛める危険性が高いからだそうです。



結果として鐸だけ拵えから離れて売買されることもあるようですが・・・。



拵えの保存袋は義母が使わなくなった帯で作ってくれましたし、白鞘の保存袋もまた裏地の絹で作ってくれました。



拵えには小柄や笄がついている場合がありますが、これらも拵えから離れて売買されていることが多いようです。



さらには柄部分の目貫など・・。



刀剣は漆芸、金工の総合芸術のひとつです。



小生としては刀剣にはまったくの門外漢ですが、鐸、小柄、目貫などを個々に手放すのはどうかと思います。



古きものよ、永遠なれ・・、刀剣はちと物騒ですが・・。

色紙 十和田湖 福田豊四郎筆 その70

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息子が最近はまっているのがプラレールの新幹線と自転車・・・。週末には近くの公園に付き合わざる得ません。



坂道を下るのが好きなようで、怪我しない程度の坂を選んでやらせていますが、だんだん危険度が増しています。「お~い、気をつけろよ。」と叫んでいる脇で、家内が滑り台で顔面強打・・
唇に青あざを作っていました。

さて週末ということで気軽に愉しめる作品を・・。以前に紹介した「湖上の岬」と同時期に描かれた作品と同時期の作と思われます。

色紙 十和田湖 福田豊四郎筆 その70
紙本着色 色紙タトウ入 昭和40年頃
3号 画サイズ:縦270*横240



福田豊四郎の晩年の作で、昭和34年、36年に福田豊四郎は十和田湖を訪れており、それ以後の作品と推察されます。



色紙は気軽にいろんな額に入れて愉しむことができるもので、これも日本の文化のひとつだと思うのですが・・。



ただ本作品のように額に入れっぱなしは良くありません。額の後が日に焼けて跡がついてしまっています。



色紙は掛け軸と同じくひと月に一度は入れ替えて、紙タトウに入れて保存しましょう。



色紙の作品は過度に日に焼けたり、カビが発生するとその価値はなくなります。



唐額に入れたり、色紙用の掛け軸に入れてみたり、洋画風の額に入れてみたり、意外に気軽に購入できる色紙はいろんな愉しみ方ができる作品です。

さて子供の頃には十和田湖まで自転車で行ったものでしたが・・、息子は歴史を繰り返してくれるだろうか?

氏素性の解らぬ作品 褐釉花瓶 その6 (整理番号)

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そろそろ作品整理は資料整理のブログ中心でなくなり、週末はブログに時間をとられるより、じっくりと時間をかけて作品を吟味しています。

さて本日もまた氏素性の解らぬ作品は続きます。氏素性の解らぬ作品が続くということはそろそろ本ブログの題材も底を尽いてきたということ・・。

氏素性の解らぬ作品 褐釉花瓶 その6(整理番号)
胴径170*高台径*高さ268



轆轤目が良く出ています。褐釉の流れもいいですが、この形は古来の伝統的な形とは趣が異なります。



日本や中国的な形のものはないものを感じます。



威風堂々・・・。



これを良しとするかどうかは好みによるでしょう。



さて何を生けて飾るか・・・。



花入は時として何も絵付などの無いほうがいい場合が多々あるように思います。

再登場 狗 木島桜谷筆

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狗 木島桜谷筆
絹本着色絹装軸 共箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横268*縦1110



前にも紹介しましたが、掛け軸をかけるのに充分な高さがとれないところで展示する場合、軸先に枕を置く方法があります。完璧な方法とは言えませんが短期間ならこの方法で鑑賞することは可能です。



縦長の掛け軸などの写真を投稿する場合はサイズを工夫する必要がありそうです。



犬を好きで、このような洋犬を飼っている人にはいい作品かもしれまえんね。









 

 

湖畔山家図 伝紀楳亭筆 その8

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家内らは小生が出勤時に「雛祭り茶事」を催したらしい・・。



小生分のお菓子は「残しておいたよ!」と息子・・。茶筅でお茶をたてた??



茶碗は熱いらしく、ティッシュを当てるらしい?



さて本日は手元には印章の資料なども無く、真贋なども不明で、ひと目見たら誰も買う人も無いような作品。それを購入するのはひとえに物好き以外のなにものでもない。

湖畔山家図 伝紀楳亭筆 その8
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1680*横405 画サイズ:縦1120*横270



落款は「湘南九老 押印」とあり、印章は「紀時敏印」の白文朱方印と「楳亭図書之印」の主文朱長方印が押印されています。



この落款は寛政年間(18世紀末)、紀楳亭が大津に移り住んだ時期の制作と考えらます。落款と印章は文献資料と比較しています。(左:本作品 右:文献資料)*以下同じ

 


大津に住んでからは、縁起の良い吉祥物や、温和でのどかな山水画、そして軽妙な俳画を近所の商家のために描いて好評を博していました。



湖南の穏やかな風光や、気さくな人々たちとの交遊が、彼の画風にも影響を与え,コミカルな表情をみせる点で、面白さと斬新さを感じさせる作品が、ほのぼのとした彼のお人柄とともに大津の人々に慕われたそうです。



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紀楳亭:名は時敏、字(あざな)は子恵といい、巌郁(がんいく)、楳亭とも号し、のちに九老と号した。与謝蕪村(1716~83)に師事して、画と俳諧をまなんだ。楳亭は蕪村の画風の忠実な継承者であったので、近江蕪村とよばれた。1788年(天明8)の京都の大火にみまわれ大津に身を寄せ、27年間とどまり、俳画、大津絵写、美人画、道釈人物画、山水画と多様な画題の作品を制作した。大津時代の楳亭の署名は「湖南九老」を冠してもちいた。楳亭は1810年(文化7)7月7日、77歳でその生涯を閉じた。

購入後に印影を掲載している資料を見つけました。本作品の印章は非常に類例の少ない印章を押印しているようで、たくさん掲載されている作品の1,2作品にありました。



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このような風景は現実には存在しないように思います。崖の路を繋ぐように家が建っている異様な景色と山並み・・。



印象に残る風景を自由に描いた作品です。




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補足
山城国鳥羽出身。俗称は立花屋九兵衛。楳亭は画号(当初は画室の号)で、俳号は梅亭。名は時敏、字は子恵、仲文。大津移住以前は、「巖」姓と、名に「郁」を用いて巖郁と称し、移住後は紀姓を名乗った。還暦後は九老という号で署名しており、大津の人々にも「九老さん」と親しまれている。

はじめ蕪村の友人であった文人・岩城藍田に、家僕として働いていた。藍田は楳亭の画才を見抜き、蕪村入門を仲介したという。当初名乗った「巖」姓は、その恩義から岩城を1字に修めた名乗りとも考えられる。蕪村に絵と俳諧を学び、松村月渓(呉春)と共に親しく仕えた。安永7年(1778年)以前に剃髪し、楳亭と称する。楳亭の史料上の初見は、天明2年(1782年)版『平安人物志』で、画家の部の21番目に記載されており(蕪村は4番目)、この時点で師から独立した画人として京で認知されていたことがわかる。翌年の12月に蕪村が亡くなると、追善集『から檜葉』に「夜や昼や 涙にわかぬ 雪くもり」と師を悼む句を寄せている。

天明8年(1788年)1月に天明の大火で焼き出されると、同門で南画をよくした大津石川町長寿寺の住職・龍賀の元に身を寄せる。近隣の両替商で俳諧を嗜む中村愈鄂に借家を世話してもらい、以後大津に居を定めた。

翌年、同じく大津に移ってきた娘さとを、大家の罹災が原因と推察されますが、亡くしてしまいます。楳亭作品は寛政年間前期以前の現存作品が少ないですが、大火以前に手掛けた作品の焼失と、移住後まもなくの身内の不幸が原因だと考えらています。

大きな「楳亭図書之印」の主文朱長方印はこれも類例を探しても、資料には下記の2作品しかありませんでした。印が全体に太いのが気になりますが・・。



移住は、楳亭の画人としてのあり方に少なからず影響を与えたようで、例えば、それまで画号を中国風の「巖郁(がんいく)」としていましたが、移住後は姓を「紀」とし、名に「楳亭」、「槑美(ばいび)」を用いるようになります。これは当時の京を席巻していた漢学や中国文化から少し距離を置いて、移住地・大津に溶け込んでいったためと考えられています。

「楳亭図書之印」の主文朱長方印が押印された参考作品、この作品を知っている方は多いと思います。



さらに還暦後の作品には、俗名の立花屋九兵衛によってか、「九老」と署名するようになります。

その後、大津の人々との交流を通じて立ち直り、多くの作品を残しています。大津移住後の作品を概観すると、福禄寿や恵比須などといった神仙(仙人)を描いた、いわゆる縁起物の作品が多いことに気づかされます。これは大津町人から長寿や商売繁盛を願った作品の注文を受けていたためと思われます。

また楳亭が思う存分才能を発揮できたのもこの大津町人の経済的基盤があったためともいえます。

享年77歳。墓は小関町の共同墓地。大津鍵屋町の借家跡には、「紀楳亭居住之地」の標石が建っている。

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当然保存箱もなく、シミもあり、痛んだ本作品・・、黴臭くて嫌だという御仁もおられるでしょうが、打ち捨てることには逡巡する私のような物好きもこの世にはいるのです。

さて、残ったお菓子でお茶でも飲もうかな?

赤絵皿果実 青木大乗筆 その4

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野球のWBCが始まりましたが、日本はどうも勝てそうにないように思います。戦術面で監督の確かな戦略が見えていない点もありますが、まず選手のみっともない髯面が気に入りません。王監督の頃はそのようなことはありませんでしたが、これは規律がなっていない証でしょう。組織、チームプレーは規律を重んじていないと組織の秩序が崩壊します。普段の会社生活も同じです。髯を生やしたり、スリッパ履きしたり、上着や襟元のだらしない社員は仕事もできない社員とみなしていいでしょう。ある人曰く、「朝のラジオ体操に参加しない人やラジオ体操のだらしない社員は仕事もできない奴が多い。」とか・・・、御説ごもっとも・・・

さて本日はなんどか投稿されている青木大乗の作品です。

赤絵皿果実 青木大乗筆 その4
紙本着色額装 10号 共シール クロスタトウ付
全体サイズ:縦570*横720 画サイズ:縦360*横510



それほど作品が高価な画家ではありませんが、なかなか人気のある画家の一人であろうと思います。



当方の蒐集対象の呉須赤絵の鉢が描かれている点と背景の鮮やかな青が気に入っています。



描かれている呉須赤絵の作品は、中国のものではなく、雰囲気は日本の犬山焼?



描かれた対象まで調べるのは骨董が趣味な者の性・・。







 

本ブログでは4回目の投稿となります。詳細は下記の思文閣墨蹟資料目録「和の美」にて2回ほど小特集がありましたので、参考にして下さい。

参考資料              
思文閣墨蹟資料目録「和の美」第485号&490号
小特集 青木大乗













掲載されている作品で参考となり印影や落款は下記のもののようです。





現代の日本画ではオーソドックスな日本画を愉しむ機会が少なくなっているように思います。たまにみかけても、あまりにも稚拙な描法さに故人となっている日本画家の確かさが際立つことが多いようです。

普段の鍛錬、規律正しさがいずれきちんと差となって出てくるもの・・・。




本郷前田家伝来? 黒塗縁金菊折枝蒔絵五重

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修理が終了した黒柿の煙草盆、家では煙草盆などは無用の長物。展示室の小物入れにでも使うしかないか



お茶のお稽古用に使っていたというので家内が持ち帰ってきたお盆・・、これもすっかり忘れていました。改めて見てみるとこれは堆朱? 良く見ると木彫堆朱・・・、そういえば以前に仙台堆朱という結論を出した気がします。



製作したのは戦前戦後の頃か・・・、男の隠れ家に数点あったのを思い出しましたが・・。

ところで日本の伝統工芸はどんどん衰退していきますが、その中のひとつが重箱・・・。

本郷前田家伝来 黒塗縁金菊折枝蒔絵五重
本郷前田家銘有外箱
全体サイズ:幅*奥行*高さ



近代の日本の漆器はその芸術性で、はるかに江戸期中期、幕末期、明治期の足元にも及ばぬものとなっています。



漆器は需要と供給のバランスが崩れ、職人の絵を描く能力も無くなり、漆は中国産に凌駕され、品質も良くなくなっています。



加賀前田藩にて振興された輪島塗は今はどうなのでしょうか?



見事な金蒔絵の技法は今でも息づいているのでしょうか? 修理に注文していますので、技術は息づいているのでしょうが・・。



金や銀のあでやかな工芸品は今となっては美術館でしか見れないのでしょうか?



本作品は少し痛みが出てきています。乾燥しすぎる保存は良くないようですし、重箱は互いに傷つかないように保管しておかないと痛みます。



素手で触ってもいけません。油やカビの発生にも要注意です。



昔の人は手入れもきちんとしていたのでしょう。この作品ひとつでさえ開けて仕舞い直すのにかなり労力がかかります。漆器を痛めないように保管するのはかなり神経を使います。

世知辛い現代、時間をかける、お金をかける、そして手間をかけるという大切なことを忘れかけているように思います。とくに都会に住む人々は・・・。

「重箱なんていまどき、なにに使うの?」という質問がある方はすでに世知辛い人物の範疇に入っていますね。

明末呉須赤絵鳳凰文七寸皿

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雑な作りが魅力となっている明末の呉須赤絵の皿、もしくは鉢です。本ブログでは何度か投稿されている作品群です。

明末呉須赤絵鳳凰文七寸皿
杉古箱入
全体サイズ:口径230*高台径*高さ



もともとは珍しい作品群ですが、ネットオークションによって、数多くの作品が掘り起こされているように感じます。



ただ、呉須赤絵にも時代によって出来に大きな差があるようです。

明末の作品は虫喰いがあり、粗雑ですが、絵に勢いがあって面白い出来になっています。ただし時代が下がって、清朝期になった頃の作品はきれいに仕上がっていますが、面白味に欠ける作品になっています。

高台が粗雑であること、虫喰いがあること、歪んでいることなどが見分け方です。



この時代の差は大きく、清朝期の作品はとるに足らないもので当方では蒐集対象外です。一般に絵の出来不出来で判別できますが、まず虫喰いのない作品は時代が下がったものと判別してよいようです。

30センチを超える尺皿が魅力的です。下記の作品は以前に紹介した作品の一部です。



もちろん割れやニュウのない作品がベストですが、絵の出来によって捨てがたい出来のものがあります。また赤絵を主体としない青っぽい絵付けの作品にも秀作があります。



形にもバリーションがあるようです。上は宋赤絵?の小碗、下は呉須赤絵の盃台。盃台は珍しい。



呉須赤絵には京焼、犬山焼、作家物など日本で精巧に写された作品もあり、意外に見分けは難しい面もあります。いずれある一定の作品の数が出尽くすと本来の明末呉須赤絵の作品は、また入手困難になる作品群と推察されます。

再登場 柿右衛門手?色絵山鳥像

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休日ということで気軽に「再登場」の作品です。

さて、なにか飾るものはないかな?と棚や長持ちをひっくり返していたら、懐かしい作品が出てきました。以前に投稿した作品ですが、入手してからもう30年ほどになります。

柿右衛門手?色絵山鳥像
箱入 全体サイズ:幅160*奥行130*高さ305

 

もうひとつと一緒に骨董店に持ち込まれたそうで、その作品は「梟」であったように記憶しています。実物は見ていませんが、雑誌に掲載されているのを見せられました。



柿右衛門風に作品ですが、いつ頃作られた作品かは不明です。値段もサラリーマンの小生には高かったのですが、良く出来ていましたので思い切って購入した記憶があります。



骨董はその場が「出会いの場」、二度と購入するチャンスが来ないという脅迫めいた面があります。購入を諦めると巡り合えないような・・。そういう面は確かにありますが、あまり深刻考えると「作品が語りかけてきた」などという訳の解らない自己説得の口実が生じます。



作品の購入チャンスはそんなに無い訳ではありません。資金の調達が可能かどうかが鍵になりますが、そのときの審美眼のレベルで自分では「すごく良いもの」と思ったら、資金調達可能なら購入したほうがいいと思います。



その後、その作品がだんだんつまらなく見えてきたら、審美眼のレベルが上がってた授業料と考え直せばいいことのようです。



何事もこの世は授業料がかかるもので、骨董では決して素人では儲かりません。これは何事も同じ・・。



ただし、授業料をかけて愉しめる時を過ごせるかどうかが肝心なのでしょう。あれから30年、少しは審美眼のレベルが上がったかどうかは自分でも良く解りませんが・・・

氏素性の解らぬ作品 魚紋茶碗四点 伝金城次郎作 

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雛壇を飾ったので、掛け軸も変えてみました。



昨年は下記の土佐光孚の作品でしたので、今年は別の作品としました。

立雛之繪 土佐光孚筆 改装完了
絹本水墨着色軸装 軸先塗 太巻二重箱タトウ
全体サイズ:縦1770*横468 画サイズ:縦947*横343

今年は本ブログで幾つかの作品を紹介している鈴木松年の作品です。上村松園との間に上村松篁が生まれたと言われている画家です。

立雛図 鈴木松年筆 その4
絹本着色軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1885*横518 画サイズ:縦1024*横396











掛け軸を変えていると、息子が小生がいない間に茶事をしたようなので、改めて茶事をしようと言い出しました。「パパのお菓子あるよ。半分こしようね。」だと・・。





さて本日はこういう時の軽い茶事に使える「数茶碗」にと思い購入した作品です。

白化粧地呉須魚海老文茶碗 伝金城次郎作 
共箱
口径120*高さ75*高台径



代表的な金城次郎の絵柄の作品ですが、茶碗としてはどうかな? 絵付がうるさいように思います。金城次郎の作品ならなんでもいいという訳にはいきません。やはり茶碗として大事なのは品格です。



本来、数茶碗の定義は下記のようです。

1 大寄せの茶会のとき、主茶碗(おもぢゃわん)・替え茶碗のほかに、水屋から茶をたてて出すのに使う茶碗。
2 数寄者(すきしゃ)あるいは宗匠が、数を限って焼かせる好みの茶碗。数の内茶碗。

一般には主茶碗、替え茶碗以外に、客人の多い時に使う揃いの茶碗のことですが、あまりに揃いの茶碗ばかりでは興ざめするので、同じような茶碗を揃えておくのも使い勝手がありそうです。



見込みの出来は良いですね。高台の出来も良し・・。



白刷目魚紋茶碗 その1 伝金城次郎作
共箱
口径148*高さ65*高台径



この作品は飯茶碗としてのマカイに分類されるかもしませんが、重ねて焼いた跡がありません。見込みの魚文が一匹で良かったように思われますが・・。見込みの中央に絵を描いてはいけませんが。



外側の刷毛目は家内も小生も感心する素晴らしい出来です。こればかりは実物を見ないと解りませんが、轆轤目と無造作に掛けた白釉、そして焼成時の釉薬の流れが見事です。



これほどの出来はなかなか金城次郎の作品の中には無いです。特に人間国宝の認定を受けた後の作品で共箱のある作品には無いように思います。これはきっと窯が変わったせいや脳梗塞の影響があるのでしょう。



金城次郎氏を柳宗悦は下記のように評しています。ただし昭和15年の評です。

柳宗悦談:壺屋の新垣榮徳氏の窯で次郎が繪附をしてゐる所である。次郎の技は大いにいい。「まかい」と呼ぶ茶碗であるが、之に呉州で内と外とに繪附をする。其の繪が自由で活々していて實にうまい。繪の系統を見ると南方支那のものに一脈通じるが、それ等のものに少しも負けていない。實は之だけ繪を描きこなせる陶工を有っている窯はもう本土には殆どない。(『工藝』第130号(昭和15年)

白刷目魚紋茶碗 その2 伝金城次郎作 
合箱
口径125*高さ77*高台径



外側に魚が一匹、かわいらしい魚が描かれた金城次郎の作ならでは佳作です。

内部は刷毛目の見込みであり、茶碗として用いるのには金城次郎の作品中では珍しく及第点の作品と言えるでしょう。



白釉に入った細かいニュウはそれほど気になりません。



ニュウによって却って味わいが出ています。



白刷目魚紋茶碗 その3 伝金城次郎作
共箱
口径120*高さ76*高台径



こちらもまた代表的な金城次郎の絵柄です。でもやはり絵柄がうるさい・・。



見込みの刷毛目はいいですね。人間国宝になった後の作品には窯が変わったせいもあって、妙に表面に艶がありすぎますし、釉薬の流れが少なくなって味わいが薄れてしまっています。



「次」の掻き銘や共箱がないと金城次郎の作と認められないそうですので、そういう観点から本作品らは「氏素性の解らぬ作品」に分類されます。

金城次郎は人間国宝に認定前は滅多に共箱は誂えていませんし、掻き銘もあまり入れなかった陶芸家です。また、共箱に字も自分では書いていなかったことも多く、掻き銘すらその兆候があります。要は字を書くのが苦手だったのでしょう。自分で書かずに他人に書かせたと思われます。

そして一番の問題は共箱の作品群の出来が決して良くないことです。繰り返しますが金城次郎の作品は人間国宝になる前に見るべき作品があります。

ともすれば真贋や共箱が優先する売買の世界ですが、蒐集する側や鑑賞する側にとっては本来は二次的な問題です。

美味しいお菓子は分け合って食べるものです。美しいか美味しいかどうかが評価のポイントです。

瀑布図 平福穂庵筆 その15(真作 整理番号)

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休日は皆、大忙し。小生は掃除、家内は食事の支度、義母は庭の草取り、義父は昼寝? 息子はそのどれかに参加することになります。

朝一番は義母の手伝いで庭の剪定の手伝い・・。



ひと段落してから、昼からは近くのリス公園へ・・、モルモットもいます。



リスは餌が豊富で午後はもはや満腹状態のようでした。



「瀑布図」という作品はちょっと季節はずれですが、本日は郷土出身の画家の平福穂庵の作品を紹介します。以前に知人が所蔵していた「護良親王図 寺崎廣業筆」は昭和24年に開催された秋田魁新報社主催の「寺崎廣業名作展覧会」に出品された作品でしたが、本作品も昭和20年~30年代に郷土で催された展覧会への出品作です。

瀑布図 平福穂庵筆 その15(真作 整理番号)
紙本水墨軸装 軸先ガラス 鳥谷播山鑑定箱
平福百穂鑑定書付添付 昭和33年秋田市美術館展示作品
全体サイズ:横650*縦2080 画サイズ:横500*縦1220



本作品は「耕□□雨」(白文朱長方印)、「穂庵」(朱文白長方印)の印章を用いています。
この「耕□□雨」は「鐘馗図」と、「穂庵」の印章は「雪中鴛鴦図」(慶応3年 1867年 明治元年前年 仲夏の作)の印章(下右写真参照)と同一印章で印影は一致します。

  

巻き止め、箱には「昭和甲午夏日 幡道人鑑題」とあり、1954年(昭和29年)の鑑定があります。

*箱及び巻止・鳥谷播山の鑑定
「平福穂庵先生筆 瀑布図 幡山道人 昭和甲午夏日」とあり、1954年(昭和29年)の鑑定

また出陳の札も添付されています。「秋田市美術館 昭和33年8月16日~9月7日開催 本館納涼画展出陳 押印 穂庵瀑布図」とあります。

  

秋田市立千秋美術館:平成元年、秋田総合生活文化会館(愛称・アトリオン)内に開館しました。前身は、昭和33年設立の秋田市美術館で、秋田市街地にある美術館として、多くの美術愛好者に親しまれています。佐竹曙山、小田野直武らの秋田蘭画や、平福穂庵・百穂父子、寺崎廣業、木村伊兵衛など、秋田ゆかりの作家作品を収蔵し、国内外の優れた作品による企画展を開催しています。

同時にネットオークションに出品されて寺崎廣業の「唐美人図」もまた昭和35年4月19日の寺崎廣業展にて秋田市美術館にて出陳されていたようです。

平福穂庵の子息である平福百穂の鑑定書状もまた同封されています。

平福百穂 鑑定書状
石井某氏宛 「墨畫瀑布図(紙本半切)一見此□□先考穂庵翁真筆相違無候 十二月十日 平福百穂 押印 石井様 □□」

 

平福百穂の平福穂庵についての添え状は非常に珍しいといえます。前述の寺崎廣業の「唐美人図」には横山大観の鑑定箱書ありましたが、これもまた非常に珍しいものでした。寺崎廣業の「唐美人図」はさらに冒頭の昭和24年に開催された秋田魁新報社主催の「寺崎廣業名作展覧会」にも出陳されています。



平福穂庵の水墨画は非常に出来のよいものがありますが、本作品もそのひとつといっていいでしょう。

 

画面では伝わりにくいですが、墨には五色ありと言われるよう色が感じられる作品です。

 

わが郷里の画家の出来のよい作品を入手できるのは嬉しいものです。だんだんと平福父子の筋のよい作品は入手しずらくなっていますが・・。










今朝の晴れ 伝伊東深水筆

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以前に紹介した普段使いの漆の食器が修理から出来上がってきました。輪島塗と津軽塗です。



輪島塗は輪島工房長屋に依頼しました。現在は銀吹の御櫃や刀剣の鞘、金継などを依頼しています。



職人によって分担して作業しているようです。メールで連絡でやりとりし、概算を聞いて、作品を送ってみてもらい、最終的な補修方法を決め、値段を決定します。



津軽塗の椀は津軽塗協同組会に依頼しました。



古い漆器は基本的には艶をきれいに出す作業で蘇ります。



欠けなどもきれいに補修できますが、費用との兼ね合いの判断が必要となります。



今回はよくある唐塗ですが、蓋付きの吸い物椀はなかなかないので、費用をかけることにしました。



100%の仕上がりにはなりませんが、古くからあるものを大切にすることと新たに購入するよりはずっと安くなります。



元の箱に収めて保存はきちんとしておく必要があるのは今までの記述のとおりです。収納されている中身がわからないといらない作業とその開封の際に傷つけるので中身はいつでも解るようにしておきます。



さて漆器と一緒に男の隠れ家から持参してきた作品です。しばらく飾ることもしていなかったので虫干し・・、本来は初秋に飾る作品です。

今朝の晴れ 伝伊東深水筆
絹本着色絹装軸太巻共箱
画サイズ:横557*縦410



手前は古備前の壷(本ブログで紹介済み)です。









 

基本的に掛け軸は太巻きにて保存するのがいいでしょう。「太巻き」を知らない方は掛け軸の基本から学んでくださいね

 

真贋?? 野暮な質問はなし。鑑定はしていないので「伝」。「伝」のない作品は当方ではなんらかの根拠で真作と判断している作品ですが、本作品はその根拠は今のところはありません。

伝古波佐見焼 青磁陰刻糸瓜図水指

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源内焼など保存箱のない作品が増えてきたので、桐箱をまとめて注文しまいした。保存箱ですのでそれほど高級な箱は必要ありませんが、源内焼など壊れやすい作品は保存箱を誂える必要があります。



さて本日の作品も家内のお茶の稽古場からの里帰り?の作品です。ずいぶん前に入手した作品で、どこで買ったのかも失念しております。

伝古波佐見焼 青磁陰刻糸瓜図水指
合箱入
胴径約135*口径外寸約110*高さ148*高台径90



製作年代も不明ですが、製作地も伊万里という確証はありません。中国で作られたものではないように思いますが、国内とすると伊万里、鍋島、波佐見、湖東など多々の生産地があります。



当方の浅学の範囲で考察するに国内の製作作品には間違いはないでしょうが、上記以外では三田青磁・は陽刻ですし、京都でもないように思います。



すると鍋島か伊万里か・・・、当方の推察では波佐見焼の可能性を捨て切れません。



掻いた陰刻の文様はなかなかの出来のように思います。陰刻というより「印花」という呼び名がありますが、こちらの呼び名のほうが私は好きです。



製作は昭和初期以前・・、あまりにも曖昧かな



塗蓋は購入時から付いていました。



お茶の稽古場ではときおり使われていたようです。使っていただけるのはありがたいことです。

「古波佐見焼 青磁陰刻糸瓜図水差」に対する考察

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本作品は古伊万里ではなく、伊万里を焼いた佐賀県有田町の隣にある、長崎県波佐見町で江戸時代に焼かれた波佐見青磁(木場山窯)の可能性があります。波佐見で生産された青磁は「波佐見青磁」もしくは「三股青磁」とも呼ばれます。17世紀前期のものが美しい色合いやシャープな彫りでかなり高い評価がされています。1630~50年代に作られた古波佐見焼の青磁の水指かもしれません。当時国内唯一の品質の高さを誇った窯で、その優美さから日本を代表する青磁の一つと言う事が出来ます。

参考作品
古波佐見焼 青磁香炉
なんでも鑑定団出品作 評価金額150万(相変わらず一桁違う金額 なんでも鑑定団の評価金額を真に受けてはいけません)



青磁の釉薬は、水色に近い透き通った色合いを基調とし、器の表面に草花の模様を流れるように彫り出したものが多く見られます。また、牡丹や梅樹の形を貼り付けた製品も作られていました。技術的に、肥前でトップレベルの青磁であり、この窯で生産されたと考えられる青磁は、滋賀県彦根城家老屋敷跡、東京都汐留遺跡 龍野藩脇坂家屋敷跡、新潟県高田城跡、宮城県仙台城跡など、主に富裕な人々の住居跡から出土しており、当時、かなりの高級品だったことが推測されます。

なお後期のものは高台の部分が広く茶色く釉薬がはがしてある。そこの真ん中に一本筋が通っている。これはチャツと呼ばれる碗型をした窯道具で持ち上げて窯の中に入れた跡。この技法が中国から伝わったのが17世紀半ばで後期の作品は彫にシャープさがなくなり評価は低くなります。

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製作時期な上記にあてはまる17世紀の作品かどうかは解りませんが、その流れにある作品のように推察します。なんといって流れるように彫り出した陰刻の出来が良い!






茶碗考 金城次郎と浜田庄司

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今年の4月から幼稚園に入園する息子のために、家内が机を購入しました。



L型ドライバーで組み立てを手伝ったようです。最近は一緒におもちゃで遊ぶときに「ドライバー」というと工具を置いてあるところからドライバーを持ってくるし、「乾電池」というと乾電池をまとめて入れてある籠を持ってくるようになりました。いろいろと役に立つようになってきましたが、自分の興味にあることしか・・・

先日紹介した金城次郎氏の茶碗ですが、金城次郎氏の作品はあくまでも民藝作品ですので、「公の場での茶碗としてはいかがなものか?」という思いはあります。



そもそも金城次郎の碗は日常雑器の椀としての「*マカイ」と考えて製作していたきらいがあります。
*「マカイ」については他の記事を参考にして下さい。



今回の金城次郎氏の茶碗は男の人が使う茶碗としては小振りです。浜田庄司の鉄絵茶碗と比較してみました。実際の作品を比べないとお解りにはならないと思いますが、同じ民藝作品でありながら茶碗としての風格に違いがあります。やはり浜田庄司が数段上・・。



こちらの平茶碗はマカイとして作られたものだそうですが・・・。



重ね焼きの跡がないことから、一番上でやかれたものか、マカイとしてではなく茶碗として焼かれたものかは判別はできかねますが、おそらく*茶碗として作られた作品でしょう。重ね焼きの跡のある作品は基本的に数茶碗とはなりえても本来の茶碗としては使えません。



前にも述べたように外側の刷毛目に味わいがあります。

*高台跡からマカイの重ね焼きではなく、単独で茶碗として製作したように思われます。金城次郎氏もマカイの椀とマカイ以外の茶碗サイズでは作りが違います。やはり茶碗としての風格を意識しているでしょう。



単独で鑑賞すると良さばかり目立つのですが、浜田庄司の作品と比較すると優劣の違いが解ります。



骨董作品は単独で作品を見るとよくありません。自己陶酔的に「これはいいものだ。」と思い込む傾向が生まれます。今回の金城次郎氏の茶碗はせめて数茶碗として捉えるのが正解のように思います。

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浜田庄司談:沖縄壺屋の陶工、金城次郎君ほど、まちがいの少ない仕事をしてきた陶工を私は知らない。それも、ほとんど意識していない点を高く認めたい。縁あって君が十三、四才の頃から、私が壺屋の仕事場に滞在するたびに、手伝ってもらってすでに五〇年、君が魚の模様を彫っている一筋の姿を見つづけてきた。君は天から恵まれた自分の根の上に、たくましい幹を育てて、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たしてきた。次郎君の仕事は、すべて目に見えない地下の根で勝負している。これは、一番正しい仕事ぶりなので、いつも、何をしても安心して見ていられるが、こうした当然の仕事を果たしている陶工が、現在何人いるであろうか。本土での会はもちろん、海外での会の場合を想っても少しの不安もない、えがたい陶工と思う。濱田庄司 「安心して見守れる仕事-金城次郎・個展開催に寄せて推薦文(1971)」~『琉球陶器の最高峰 人間国宝 金城次郎のわざ』(1988・朝日新聞社)

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美辞麗句を並べて自分の業績を自慢する御仁が多い世この頃ですが、寡黙で自分の道を歩む人ほど尊いものです。

息子の出来も比較論ではいけませんが・・・。親ばかや所蔵作品に陶酔するのは危険で、あくまで作行きは健全であることが大切

伝紅緑彩鳳凰魚文碗

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休日は毎週、朝から掃除ですが息子はいつもお手伝い。



雑巾絞りにはまだ力不足ですが、なんとか格好はついてきました。ご褒美に遊園地へ・・。



大好きな電車などには大乗り気。



ついでに馬にも一緒に乗り、次は一人でポニーに乗ると言い出した。



動物との触れ合いは意外にいい効果があるかも・・。



ウサギは意外に大きかったようで「パパ。抱っこして」だと・・・ モルモットは2回目でしたので大丈夫そうでした。



小生は少々疲れて最後の車の自転車こぎ?は家内にバトンタッチ。



帰りはクタクタになりながら「新幹線、買いに良く!」 

そういう息子は車中で熟睡で小生がおもちゃ売り場に・・・

さて本日は薄汚い?薄い色の赤絵茶碗です。赤絵のこの手の作品は後絵付もありますので要注意です。荒っぽい方法として、煮沸して確かめる方法もあります。

伝紅緑彩鳳凰魚文碗
塗箱
全体サイズ:口径145*高台径*高さ35



胎土から安南赤絵とは言いがたく、僅かながら黄色の釉薬も使われている可能性もあり、中国本土、もしくは華南で作られた宋赤絵の技法で作られた赤絵ではないかと推察されます。明時代の下がった頃の作かもしれません。時代考証は別として分類は「宋赤絵」に分類されるかもしれません。



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宋赤絵:中国、宋代(金代)に作られた上絵付け陶器。化粧掛けした素地(きじ)に透明な釉(うわぐすり)をかけ、その上から赤・緑・黄などの顔料で花鳥などを描いたもので、赤絵の先駆をなす作品群です。



日本で”古赤絵”と言えば、明の時代景徳鎮釉上彩絵器のことですが、その前の中国における赤絵の作品群はおおよそ”宋赤絵”に帰属してします。ちなみに、宋赤絵は紅緑だけを使われていることから中国では”紅緑彩”と呼び、明以降の彩色は豊富な色使いになったため、その赤絵を”五彩”と呼びます。



小山富士夫が発見した”宋赤絵”の窯元は中国北方の修武窯です。今世紀になってから分かったことですから、その後で中国もいろいろ発掘したので、分かったことは修武窯の近くの磁州窯系も赤絵器を作っていたことです。このことから宋赤絵と言いますと、ほとんど中国北方面の製作と考えられています。

日本には大正時代に将来されて以来親しまれてきており、花文・魚文のほか、鳥文や文字を記したものなどが知られています。

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色が褪せてきている点から低温度焼成の色絵かと推察されます。



むろん宋時代なら発掘作品の可能性がありますが、胎土から時代の下がった作ではないかと思われます。



絵付けは勢いがあり悪くはないですが、宋赤絵に鳳凰文?



口縁には小さな欠けが見られます。下手な金繕いが施されていたので、これは剥がしました。



鯉の絵柄が見込みにあり、実にいいですね。お茶を飲むときに愉しめます。



胎土は磁器で白い。明、清時代に呉須赤絵と同時期に派生した華南の赤絵の可能性もあるかと・・。



呉須赤絵と安南焼の中間・・、ついでに安南焼の説明を書きに記しておきます。

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安南赤絵:安南焼とは、現在のベトナムで作られた焼物の総称ですが、その名は679年に中国の唐王朝がベトナム統治の為に、現在のハノイに置いた軍事期間・安南都御符に由来しています。その為常に中国の影響を受けてきましたが、大きな発展を遂げたのは12世紀頃のベトナム李王朝の時代です。その形は唐や宋の陶磁器を模しており、白磁と青磁を中心に褐釉、鉄絵、緑釉などが幅広く作られ、東南アジアでは圧倒的な規模を誇っていました。



その後14世紀後半になると、中国の景徳鎮に倣い青花磁器が作られるようになりました。しかしその色は景徳鎮に比べるとやや暗くくすんでいます。これは中国がイスラム圏から輸入した質の高い呉須を使っていたのに対し、安南は国産の質の低い呉須を使っていたからです。また絵付けの線は土と釉薬のせいでそのほとんどが滲んでいる。ベトナムでは良質のカオリンが取れず、これでは青花の色が映えないために、生地に白土を化粧がけしていたのです。しかしその白土は粒子が粗く、いくら繊細な絵付けを施しても呉須がすぐに白土に吸収されてしまい、また釉薬は不純物を多く含んでいるため、透明度が低く結果的に絵付けがぼやけてしまいます。絵柄は蓮の花びらを簡略化したものがほとんどで、これが安南焼の青花かどうかを見極める決め手のひとつとなっています。



15世紀になると、赤や緑や黄色の顔料を用いた赤絵が作られるようになりましたが、中国に比べ低い温度で焼き付けるために釉薬が剥がれやすく、すぐに色が褪せてしまいます。しかし室町時代の茶人たちは、その素朴さの中に詫び茶に通じる簡素な美を見出しました。なかでも呉須が滲んで流れるような景色になった青花は、藍染の絞りに似ていることから絞手と呼ばれ珍重されました。そのような染付の中での色絵の作品は安南赤絵と称しますが、現存する安南赤絵で、色が残っているものは極めて珍しいようです。数も少なく同時に焼かれた安南染付が100枚あると、赤絵はその内の1枚ぐらいとも言われています。

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さてと本作品は鑑賞したり、使ってみて、飽きが繰るかどうかがポイントです。すべてがそうですが、その時々の鑑賞する眼のレベルで・・。



お茶碗として使うには、薄手の磁器の茶碗ですからお茶を点てたり、漱ぐ時に熱くて持てるかどうかですね。



後日、中国の近代のまがい物と判明するのも愉しからずや 所詮素人の骨董蒐集は遊園地でまがい物と遊ぶ子供のようなもの、塗り箱に収めた御仁もその一人かも・・・。いずれ本物に近づく。

さて、今週の3連休はなにして遊ぼうか? 「ゴルフなんざ、つまらないぜ。」


水郷初夏 伝小川芋銭筆 その3

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南画では釧雲泉の作品、浮世絵では肉筆の美人画など真贋に悩まされることが多かったのですが、近代画家に贋作の多い画家はたくさんいます。本ブログで紹介しています平福父子、寺崎廣業、福田豊四郎にも贋作は多く、ネットオークションなどは贋作の宝庫?といっていいほどです。

本日紹介する小川芋銭はもっとも贋作の多い画家に一人のようです。ただ贋作に尻込みしていると、骨董集など止めたほうがよくなるので、鍛錬しかありません。これはなにも骨董の世界だけでなく、日常の生活・業務も同じで、魑魅魍魎たる中で、真実を見極め、妥当なる処置をしていくのは同じです。

水郷初夏 小川芋銭筆 その3
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:横550*縦2130 画サイズ:横360*縦1360



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小川芋銭:慶応4年、江戸赤坂の牛久藩邸大目付小川伝右衛門賢勝の長男として生まれ。幼名は不動太郎、のち茂吉(しげきち)。

若い頃は画塾彰技堂に入り洋画を学ぶとともに南画にも興味を示し独自の画風を身につける。スケッチ漫画を新聞に発表。俳雑「ホトトギス」などに挿絵や表紙を描き、やがて横山大観に認められ日本画壇に入る。

「河童の芋銭か芋銭の河童」と言われるぐらい、小川芋銭にとって、河童の絵は代名詞の如く思われているが、芋銭は松尾芭蕉の旅心への憧れから生涯旅を愛し、各地の山水や農村風景を描き、「仙境の画人」・「俗中の仙人」などともいわれている。

昭和13年永眠、享年70才。



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小生の好きな田舎の風景です。



「国家の基本は農に在り」か・・・。



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補足

小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付でしたが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り農家を営むようになります。

芋銭は最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となっています。



父に命により、生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らしました。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれています。牛久で、妻の農事に支えられて絵筆をとっていた芋銭は、農村に暮らす人々の様子や田園風景を多く描きました。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによります。



身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表しましたが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われています。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られています。



芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動しました。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残しています。

芋銭の墓は1943年(昭和18年)、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院(牛久市城中町258)に建てられました。

雲魚亭:芋銭が自宅敷地に建てたアトリエ。完成してまもなく芋銭が脳溢血で倒れたため、ほとんど病室として使われた。現在は牛久市の管理の下、小川芋銭記念館として公開され、複製画や芋銭の愛用品が展示されている。



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小川芋銭できちんと共箱になっている作品は少ないようです。



贋作の記事には下記のような内容の掲載があります。

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贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄と意見から購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる。

小川芋銭の作品について、小川芋銭研究センターの首席学芸員が『小川芋銭全作品集』(挿絵編)で近年こう書いている記述があります。

「芋銭は贋作の非常に多い画家でもある。市中に出回っている作品の七~八割は、真筆と認めがたいと囁かれているほどである。「小川芋銭研究センター」を立ち上げてから、多くの芋銭作品が持ち込まれたが、総てと言っても良いほど一顧に値しないものばかりで、気持ちの晴れ晴れする作品に巡り合う機会には恵まれなかった。」

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*共箱の印章:「河童百図<白藤源太>」昭和12年ら多くの昭和になってからの作品に使用されており、印影は一致します。

*「作品の印章:狐隊行」(昭和5年)と同一印章か? 作品に押印されている印章は当方ではまだ未確認です。



贋作については富岡鉄斎と双璧か・・。

蛙 小川芋銭筆
水墨淡彩紙本 額装アクリル板 
全体サイズ:横337*縦377 画サイズ:横135*縦172




鍾馗斬河童之図 小川芋銭筆
紙本水墨淡彩軸装箱入 画サイズ:横485*縦1350



東天紅図 小川芋銭筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:横452*縦1895 画サイズ:横337*縦1285



これらの作品は購入機会には厳選していますが、税金での購入ではないので実におおらかな判断です。意外にいい線いっているかもね。

贋作考 黒楽茶碗 伝十ニ代弘入作

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祖母から伝ったという知人が所持していた弘入の赤楽茶碗を見たことがあります。そのときからいつか楽焼の茶碗が欲しいと思っていたのですが、いつ頃からか楽茶碗がいいものとは思わなくなっています。現代の楽焼もしかり・・・、今でも正直なところ楽焼には魅力を感じません。

陶磁器で一家相伝のものにいいものは存在し続けないというのは原則です。陶磁器には人格がでますし、人格が優先で技量などは二次的なものであると考えています。それが家伝になるはずはないのです。

こういう天邪鬼の小生がひょんなことから楽茶碗を購入しました。

贋作考 黒楽茶碗 伝十ニ代弘入作
共箱入
口径100*高台径*高さ70



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十二代 弘入:(こうにゅう、1857年(安政4)~1932年(昭和7))11代慶入の長男。本名は、小三郎、惣次郎(幼名)のち吉左衛門、喜長、12代楽吉左衛門 1871年家督を継ぎ吉左衛門を襲名。



黒楽茶碗、赤楽茶碗共に、色彩表現に優れ、釉薬を二重にかけることにより色の変化を演出。また、箆(へら)使いにおいては、9代了入を基礎としながらも独自に研究。 独特の穏やかな胴の丸み、男性的で豪放的な作品を残す。

  

印には糸偏が8を模る「8楽」が主流、そのほか徳川頼倫候筆の「楽」、碌々斎宗左筆の草書「楽」、「十二代喜長」の角印を使用。西本願寺用に瓢箪型の中に「澆花」とされた印もある。印名は「樂」(「楽」)「十二代喜長」



調べていくうちに本資料だけで判別できない作品も多々あるようです。本作品は小ぶりな黒楽碗で高台脇に「楽」の押印があります。



十二代 弘入は大人しい人柄であったそうで、少年時代は明治維新前夜で茶道は衰退して困苦を味わいました。当時は茶盌の注文は少なく、ひと月の茶盌の注文が一箱という時もあったようです。その後 茶道も隆盛となって 明治の終わり頃には注文に応じきれないほどとなりました。茶道には熱心でしたが、水屋の苦労を知りすぎていたので自分では茶会は全くしなかったそうです。



本作品の箱の印章は石川丈山による「8楽印」や徳川頼倫候筆の「楽」の印章と近似しているが、一致せず真作とは断定できません。ただし、作品字体と作品に押印されている印章はいいようです。作品は真作、箱が?といったところかな。



大正8年(1919)までは「8楽印」、白の右の字が8の字になっている印でこの字は石川丈山の字です(大小二つがあります)。大正8年より以降は の字に変わります。楽の字の白の左右の字が不動明王の炎のようになっています。



真作なら作品が「8楽印」、箱が「徳川頼倫(よりみち)侯印」・・・???



普通に楽焼としては使えそうなお茶碗です。



今は解らなくていつか解る時が来る・・・、そんなものも許容することが必要なようです。


贋作と決め込んで魯山人の志野徳利を手放したのですが、あとで残した写真を見るとどうも真作であったような、また河鍋暁斎と柴田是真実の合作の扇面もまたしかり・・、いずれも思いのほか高額で引き取られたので喜んでいたのでいましたが・・・・。

氏素性の解らぬ作品 壷と大皿 伝金城次郎作

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家内のブログは12年目を迎えたようですが、家内に勧められて初めて小生のブログは8年を過ぎました。延べで400万回の閲覧、65万人の訪問を超えましたが、その数の多い少ないは当方ではあまり問題ではなく、たしかに第三者を交えるというリスクはありますが、検索性は高いので非常に記録として便利なものです。当方の記録にない場合は、ブログを検索したようが早いくらいです。ときおり投稿済みの原稿を修正できるのも利点です。

家内とのコミュニケーションも骨董が契機のように思いますが、その家内が作るお弁当の箸袋はどうも手作りらしく、毎日違うらしい・・



とはいえ毎日作るのはお弁当で、箸袋はまとめて作るようです。



何事も手作り、リサイクルは骨董に通じるようです。

さて、本日の作品ですが、そろそろ最後となる金城次郎氏と思われる作品の紹介です。

金城次郎氏の作品の醍醐味は大きさのある大皿と大きな壷にあります。そのほとんどが1978年に高血圧で倒れれる前の作品ではないかと思います。

壺屋焼 小鹿田風呉須魚文大皿 金城次郎作
口径415*高台径*高さ74



外側には窯割れと思われるひびが入っています。

金城次郎は高台部に傷がついたもの、あるいは焼成中にゆがみが生じたものも、注文主に渡したり、一般に販売したりしていたそうです。

琉球王府時代に窯業関係を所管した行政組織、瓦奉行所には多くの職人たちの中に「洩壺修補細工」という職人が配属されており、焼成で生じた傷・ひびを補修して市場に出すことは一般的だったようです。



近代期でも壺屋の製品は、通常は東町の焼物市場で売買されますが、歪みや傷が生じた製品は別の専門の市場で売買されていたそうです。中国の官窯、鍋島焼、伊万里焼のように厳しく出荷管理は行なわれていなかったのでしょう。

金城次郎にとっても、焼成による失敗品でも売買することに抵抗感はなかったでしょう。むしろ窯の中で生じる変化に、積極的意義を見出そうとしているかのように思われます。

むろん当方もこういう窯割れは無頓着ですし、かえって好きなくらいです。



裏側には掻き銘があります。



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河井寛次郎談:次郎は珍らしい位よくできた人で、氣立てのよい素晴らしい仕事師である。轆轤ならばどんなものでもやってのける。彫ったり描いたりする模樣もうまく、 陶器の仕事で出來ないものはない。中折の古帽子を此節流行する戰鬪帽風に切り取ったのを冠つて、池の縁の轆轤場に坐つて、向ふの道行く人に毎日素晴らしい景色を作つてくれて居る。(『工藝』第99号)

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人間国宝になる前の金城次郎はたんなる陶工で、せいぜい一作品が数百円から千円単位で売買していたとのことです。そしてこの頃の作品に秀作が多く、とくに大きな皿や壷に優れた作品があると思います。



以前にも記述したように金城次郎は1978年に高血圧で倒れ入院後はリハビジに励みながら作陶に向かつていたために、その後には大きな皿や壷の作品は製作に支障があったのか数が多くありません。



共箱のある作品には以前に製作した作品に共箱を誂えたり、製作時期が以前の作品に依頼されて共箱を作ったり、銘を書いたりはしているものもあり、共箱があるからといって秀作ではないとは限らないないでしょう。



作品の判断として皿や壷なども含めて釉薬に「てかり」のある作品は味わいが落ちます。渋い発色、釉薬や呉須に滲みのあるもの、彫りに勢いのある作品が味わい深い作品となっています。皿なら大きさは40センチ以上がいいでしょう。




壺屋焼 刷毛目白化粧地呉須線彫魚海老文大壺
金城次郎作
口径*最大胴径198*高台径*高さ290



金城次郎の壷は大きいほど良く、30センチを超えるものにいい作品があるようです。本作品は30センチを超えていませんが、釉薬に味わいがあります。



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浜田庄司談:沖縄壺屋の陶工、金城次郎君ほど、まちがいの少ない仕事をしてきた陶工を私は知らない。それも、ほとんど意識していない点を高く認めたい。縁あって君が十三、四才の頃から、私が壺屋の仕事場に滞在するたびに、手伝ってもらってすでに五〇年、君が魚の模様を彫っている一筋の姿を見つづけてきた。君は天から恵まれた自分の根の上に、たくましい幹を育てて、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たしてきた。次郎君の仕事は、すべて目に見えない地下の根で勝負している。これは、一番正しい仕事ぶりなので、いつも、何をしても安心して見ていられるが、こうした当然の仕事を果たしている陶工が、現在何人いるであろうか。本土での会はもちろん、海外での会の場合を想っても少しの不安もない、えがたい陶工と思う。濱田庄司 「安心して見守れる仕事-金城次郎・個展開催に寄せて推薦文(1971)」~『琉球陶器の最高峰 人間国宝 金城次郎のわざ』(1988・朝日新聞社)

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刷毛目の白釉薬が筋上になっている作品は珍しいと思います。本作品は高台内に掻き銘が入っています。



彫りは奔放・・・・。



共箱や銘で作品を判断しない、評価金額で判断しないと建前では言えますが、これが非常に難しい

思い悩みながら「氏素性の解らぬ作品」が増えてきました。



壷は30センチを越える大きさが良いようです。



皿は40センチを越えるもの・・。



繰り返すようですが、純粋に蒐集するなら銘や共箱は二の次としないといいものが集まらないようです。



窯割れはかえってあったほうがいい作品があるようです。



最後の作品、この大皿が小生のお気に入り・・・。銘もなく、氏素性の解らぬ作品ですがね 

妻の箸袋にも当然、銘はない。ましてや、弁当の料理にも。食べたら賞味は終わり、骨董も同じこと。

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