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納涼美人図 梶原緋佐子筆 その2

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雛祭りの片づけを息子が手伝ったようですが、興味は刀・・



男の隠れ家の刀剣は息子にはしばらく見せられないと実感・・・。



きちがいに刃物、無知・眼力なしに骨董、金の亡者に遺産の世界・・・・、すべてを失くすという意味。

さて本日の作品紹介は「まくり」(表具していない)の作品ですが、良さそうなので購入しました。梶原緋佐子の作品は二作品目ですが、一作品目は資金調達に際して手放しています。

納涼美人図(仮題) 梶原緋佐子筆
絹本水墨着色 まくり
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1350*横403

 

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梶原緋佐子:日本画家。京都生。名は久。菊池契月に師事し、木谷千種・和気春光とともに契月塾の三閨秀と称される。官展を中心に活躍。宇田荻邨の白申社結成に参加した。初期には哀感こもる女性像を描き、のち舞妓などをモティーフに独自の美人画を追求した。日展特選・日展白寿賞受賞。京都市文化功労者。昭和63年(1988)歿、91才。

 

大正から昭和を代表する日本画家。大正デモクラシーや大正ロマンといった当時の何気ない女性たちの哀愁漂う画風や戦後は京都祇園の舞妓や芸妓などの気品あふれる作品を描いた。このように特徴ある美人画の名手として才能がうかがえ、日本画家として本格的に活動するために京都府立第二高等女学校在学中にその女学校の美術教師であって日本画家でもあった千種掃雲に学ぶ。そして卒業後には本格的に菊池契月の門に入り、画技を習得したとても努力家の画家です。画家として創作活動を本格化してから、戦前は帝展や新文展などで活躍を示して戦後は日展に出品し、1947年第3回の日展にて特選・白寿賞を受賞し、それ以降は入選・出品を重ね審査員・評議員を務め、76年には京都市文化功労章を受賞。

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彼女の作品の特徴はとても繊細でリアルさがうかがえる画風。彼女の作品はひとりの女性を描いた美人画というジャンルですが、戦前に描いていた作品の多くは社会のどん底で苦しみもがきながら生きる女性をリアルに描いてます。華やかな感じの美人画が多く描かれていた大正時代では彼女の描くような絵はとても異色だったので強烈なインパクトを周囲に与えた画家です。これらの作品の大半は色遣いは暗く、全体的に薄暗い印象が多く感じられます。



しかし戦後になると彼女の絵は一変し正統的な美人画を描くようになります。もともと彼女は菊池契月に美人画を描く教養を十分に指導されていたことからかなりの完成度の高い美人画を描いています。



それまで彼女が戦前に描いていたとても美人画とはいえない絵を描いた彼女の心理は絵が売れない頃の自分との葛藤や戦争前の不安感を照り合わせていたものと推測されます。

本作品は戦後の作品だと推測されます。



なぜ「まくり」の状態なのかは不明であり、表具された跡が一切ありません。「まくり」の状態の作品は模写である可能性が高いのですが、本作品は真作と判断しています。



巻かれた保存されていたためか胡粉に剥落が出始めています。



表具するなら太巻きが望ましいでしょう。



表具するのが望ましい作品がずいぶんと増えてきましたが、刀剣の研ぎ、漆器の修理が優先してる状況です。



表具代金との兼ね合いで逡巡している状況です。



初夏にはいい軸ですので、それまでじっくり考えようと思っています。



骨董に資金をかけすぎると当方もすべてを失くしかねない

ところでWBCは準決勝で敗退。大会前にブログで述べた当初の予想よりは健闘したが、やはり予想通り髯面では勝てない。日本の特性は組織力。その組織力の根源は規律であろう。規律をおろそかにする組織はミスが出る、一瞬のミスがすべてを台無しにする、勝負にはミスは禁物である。

エラー、ミス、大振り、思い上がりが髯面に良く出ている。ミスした選手の多くが髯面の選手だったのは偶然だろうか? 繰り返すが規律を重んじない組織は決定的なミスを犯す、これは万国共通、肝に銘じよう。


扇乃的 小村大雲筆 その6

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昨年、親戚の敷地内に筍採り出かけた際に、クマガイソウが野生する近くで見つけてた貝母・・。



家内が茶花にと思い、親戚にお断りして自宅で植えた根が今年、花をつけました。



鉢にも、庭にも・・・。巧くいかない花もあれば、巧く生きてくれている花もあります。人も同じ、新天地で巧くいく人もいれば、巧くいかない人もいます。野生の逞しさに感心しますが、生かす努力も大切とも痛感する次第です。



さて本日は小村大雲の作品の紹介です。

扇乃的 小村大雲筆 その6
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横537*縦2050 画サイズ:横359*縦1156



落款は「大雲」、印章は作品と共箱がともに「大雲」の白文朱方印、「厳座」の朱文白方印が押印されています。



この印章は本ブログで紹介しました「旭日昇天」と同一印章となっています。
*「旭日昇天」は共箱ではありませんでしたが、本作品によって小村大雲の作と断定されます。

  

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大雲の武者絵については親族の覚書を下記に記します。

「まず博物館陳列品を取材したりし、武具研究はその後高熱化し、全国の知人を動員して古武具の蒐集をし、ついに国宝鎧の模造に着手、原寸どおりに部品を作らせ、2年がかりで大鎧を組立てたエピソードもある。そうして、いかなる史実考証家も突っ込んでくる余地のない武具通となった。」と覚書にあるそうです。



さらに、大雲自らは「学術的な方面よりも、歴史画を契機としてその内に潜む内的なもの、人物の精神生活やある種の思想的なものを表現したいという希望」と述べています。


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*小村大雲の最初の所蔵作品へのコメント(「昇龍」小村大雲筆&北京故宮の展示品見聞)があったことがありました。小村大雲が曾「おじいさん」という方からです。

「小村大雲は私の曾おじいさんです。私が生まれたときはもう死んでいて会ったことないのですが最近母も亡くなり曾おじいさんのことを調べていたらこのブログを見つけました。嬉しくてついコメントしてしまいました。」



そのコメントが励みになったこともあってか、現在では当方で六作品目の所蔵となりました。




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扇の的について

壇ノ浦合戦に最中、夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。

与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。



美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。

怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。

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*本ブログ掲載されている小村大雲の作品へのコメントがインターネット上に掲載されているようです。「雷峰春色」、「昇龍」について記載されています

***リンクしない場合は本ブログ内で検索してみてください。



記事は以下のとおりです。

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小村大雲の作品は、平田本陣記念館・今岡美術館といった地元の美術館などに収蔵されております。「ご覧になった」という方も中にはいらっしゃるでしょう。

例えば、「雷峰春色」という作品には、山元春挙に師事したことがうかがえる色使いが施されております。この作品では、七層からなる塔の、ひさしが重なり合って窓がくっきりしている壮観な様子が描かれております。この塔は、夕日が西に沈むころ、影が伸びる姿も美しいので、「雷峰夕照」と呼ばれるようになったという話です。そのような美しい建物ですが、現在では、エレベーターが設置されています。もちろん、社会の変化もあるでしょう。また、彼の本名は権三郎ですが、字は厳座、子荘と称しました。「雷峰春色」の箱書の印章は白文朱方印で「厳座」となっておりますので、朱文白方印は、その対比として「子荘」となっていることが推察されます。

また、「昇龍」という作品は、小作であり、本来の着色日本画ではないものの、しっかりとした技量が備わっていることを物語っております。この作品は、席画程度のものと思われますが、やはり出来映えは素晴らしいので、一度ご覧になって頂きたい作品です。また、別号には豊文・碧雲湖畔人・赤松子・豊瑞・豊花などがあります。「昇龍」には、「豊文」という別号の印章が用いられております。 小村大雲という名前を聞いたことの無い人も数多くおられるかと思いますが、その作品を見れば、きっと、言い知れない感銘を受けられることでしょう。

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今週のなんでも鑑定団にも小村大雲の作品が出品されていました。最近、なにかと話題になる画家なのでしょうか?



掛け軸を「贋作ばかり」、「カビくさい」という御仁は、毛嫌いせずにもう一度日本画というものを振り返ってみてほしいものです。小村大雲は贋作の少ない、出来にもばらつきの少ない画家であり、日本画を見直す対象には格好の画家のように思います。

さて新天地で巧く生きるのには、否定することを極力控えて好奇心を持ち続けること、転勤で11回も引っ越した小生の処世術・・・・。 

表舞台で指名されても的を外さないこという運も必要ですかね? 新天地で腕試しに指名されることは多いようですが、成功するも失敗するも、生きるも死ぬもこの世は常に残酷な一面を持っているようです。

とにもかくにも地道に生き抜くこと、いつか必ず花開く!

紅葉梟図 植中直斎筆 その3

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三連休の初日は家内の誕生日のお祝いに家族で近くのホテルのレストランで食事・・。夕方は息子は車中で熟睡・・・。ホテルのロビーで着替えと相成りました。



「お~い、軽量はパスしたかい?」、試合前のボクサーのように精悍な面構えを見せることがあるようになりました。



スープを飲んで「美味しいね~」だと。



なにやら一丁前に・・・。



コブシ咲く庭園。



夜はまたぐっすり・・。



朝はパパさんを押しのけて「ウンチ!」



本日は季節はずれの作品で申し訳ありませんが、植中直斎の三作品目の紹介です。

紅葉梟図 植中直斎筆 その3
絹本着色軸装 軸先陶器 共箱
全体サイズ:縦2030*横400 画サイズ:縦1200*横290





植中直斎の作品については本ブログで紹介しました他の作品には「陶工柿衛門図」、「狩場の曾我」があります。





本作品は上記作品に続いて3作品目の紹介となります。知名度は高くない画家ですが、いずれの作品もしっかりと描かれており、本作品のように力作ではない作品にも特徴が良く出ている画風で描いています。当たり外れのない画家として?注目してよいでしょう。



箱には題名が「梟」となっていますが、正しくは「木菟(みみずく)」でしょうが、一部の梟には羽角があるものもあるので、一概には間違いとも言えないかも。








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植中直斎 (うえなか-ちょくさい):1885-1977 明治-昭和時代の日本画家。明治18年10月1日生まれ。深田直城,橋本雅邦に師事。また田中智学に日蓮(にちれん)宗の教義をまなぶ。大正2年山元春挙に入門。文展,帝展などに仏教画を発表。昭和48年「日蓮聖人絵伝」を完成。昭和52年8月12日死去。91歳。奈良県出身。本名は直治郎。



参考作品:「日蓮聖人絵伝」より



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ところで東京都の豊洲問題、いったいどうなっているだろうか? 新知事はもともと既成政治を粉砕するために五輪施設と豊洲市場を標的にした感があります。当初からその懸念はあったのですが・・。その果てに豊洲市場はどうする気なのだろうか?

*写真は手前の古備前の壷です。(以前に投稿済み?) 



問題を大きくし世論を味方につけるやり方は独裁を生む可能性が高く、風見鶏の多い日本人はすぐにそちらになびく傾向が強い。政治の争いに便乗した今の知事のやり方は大いに不満があります。決してフラットな判断などではないと考えています。



地下水の処理方法など現在の問題点を前向きに検討するほうが現実的だろうと思うのが通常の考え方です。今後は知見ある方の判断に大いに期待したい。



わが展示室にも梟がいますが・・・、常に高所から物事を見ているようです。そういう目線が必要なことも多い。



展示室のエアコンを目隠しするために欄間を取り外し式にして利用・・、梟はその影に隠れています。「都民ファースト」という姿の見えない本性に気がつくべきでしょう。

鮎図 西村五雲筆 その9

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3連休の最後の休日は、先月インフルエンザの流行で会えなかった母のところへ・・。息子も「行く!」と毎回、大乗り気です。



母とは気が合っているようです? 誰とでも気が合うのが長所かな?



母も愉しそうです。母にお茶を点てる?三歳児・・・。今日は90歳の誕生日。



そのうち、姉も合流。3月は14日が姉の誕生日、19日は家内の誕生日。まとめて誕生祝・・



毎回、押して歩いてくれるのですが・・。「ほれ! 前を向いて!」はまだ同じ。



本日はしっかりとした作品を描くことに惹かれるうちに9作品目となった西村五雲の作品の紹介です。

鮎図 西村五雲筆 その9
絹本着色軸装 軸先象牙加工 合箱
全体サイズ:縦1200*横425 画サイズ:縦235*横295



本作品のように共箱もない作品は出来如何によって入手を判断しますが、落款や印章も一応は頭に入っていなくてはなりません。下記の落款と印章は他の所蔵作品「東屋山水図」との比較です。



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西村五雲:1877年(明治10年)11月6日 ~1938年(昭和13年)9月16日)。日本画家。京都出身、本名・源次郎。日本画家の西村卓三は息子(次男)。動物の生態を生き生きと捉える絵を描き、平和でのどかな動物画を得意としていた。

1890年(明治23年)13歳で岸竹堂に入門、ただしこの頃の作品は殆ど現存しない。竹堂没後の1899年(明治32年)に竹内栖鳳に師事。1907年(明治40年)の第1回文展で「咆哮」(山種美術館蔵)が三等賞受賞。1913年(大正2年)に京都美術工芸学校教諭、1924年(大正13年)に京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)教授、1933年(昭和8年)に帝国美術院会員、1937年(昭和12年)に帝国芸術院会員。

晩年の五雲は名声を得たが、生来病弱で、官設展などの大きな展覧会にはあまり出品しておらず、大作や作品数も少ない。画塾・晨鳥社を主宰、門下に山口華楊などがいる。

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鮎を描いた日本画家は多いのですが、当方では福田豊四郎、川合玉堂、宇田荻邨、山元春挙、小泉檀山などの作品があります。季節には早いので、臨時的に展示室に掛けてみました。



小点に近い、小さめの掛け軸は融通が利いて、いろんなところに飾ることができます。



生来病弱な西村五雲は8号程度の作品に秀作が多く、本作品も共箱のない状態ながら、保存状態がいいほうで、良く描けています。




細かい部分にも淡い色彩がのり、日本画の上品さが味わいとなっています。



初夏には皆で鮎を食べたいと思いますね。



祖父が会社設立50周年で製作した記念品が福田豊四郎が描いた「鮎」を描いた輪島塗の盆(福田豊四郎 その13)、なぜこの作品だったのでしょう?



原画は当方で保管しています。



母の実家には郷倉千靭の鮎の作品が初夏には飾っていました。なにかと身近に鮎の日本画の作品があったように思われます。

凧揚(仮題) 福田豊四郎筆 その71

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庭にはカタクリの花が咲いていました。



本日は福田豊四郎の初期の作品の紹介です。

凧揚(仮題) 福田豊四郎筆 その71(真作整理番号)
絹本着色軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦2075*横552 画サイズ:縦1207*横420



昭和の初め頃に描かれた下記の作品と作品の落款と印章から判断して、製作時期が同じだと推察されます。

 

冬木立 福田豊四郎筆 その67(真作整理番号)
絹本着色軸装 軸先 共箱
全体サイズ:縦1960*横470 画サイズ:縦1210*横335

 

福田豊四郎の作品の愛好家は初期のノスタルジックな作品が好きという方と、最盛期のでデフォルメされた抽象的な作品が好きだという方に二分されるようです。小生は両方ともに好きなのですが・・。



ところでなんでも鑑定団に出品されて贋作と判断された福田豊四郎の作品、そのなんでも鑑定団での思文閣の山田社長の見解は下記のとおりでした。



「福田の作品とはいえない。落款に昭和三十年秋とあるが、当時福田は「滝」という作品を展覧会に出品している。この「滝」は線描をデフォルメして模様のように描いた点が評価された。対して依頼品は写実的で、西洋画的な陰影法も用いている。当時福田が依頼品のように写実的に描くという事はありえない。もう一つの問題は印章で、福田の印章によく似たものはあるが、依頼品にあるものはよく見ると押したのではなく描いてある。」とのこと。



稚拙な福田豊四郎の贋作作品は何度か観たことがありますが、この出品作は郷里にて何度か写真で見たことがあり、最盛期の真作とばかり思い込んでいたので驚いています。今でも仕入れ先では真作と考えているようですが・・。



当方での紹介作品は「伝」や「贋作考」と明記しない限りは真作と判断している作品を紹介していますが、改めて細心の注意を払わなくてはいけないと痛感しています。



自分の幼少の頃と重ね合わせることのできる、わが郷里を暖かい眼で描いた福田豊四郎の作品、願わくは贋作とは無縁であってほしいものです。

「かきだて」 「笹飴」 勝平得之作 その2&その3 版画二点

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週末には彼岸の墓参りの片付け・・、息子はその手伝いをしてくれました。地蔵尊らは幼くして亡くなった先祖でお水を・・。



家内の実家の墓石は四国産とか?



中央の石は伊豆産らしい。



ちなみに私に縁のある家々はすべて曹洞宗 これは有り難い・・・。

本日の作品は我が郷里の版画家である勝平得之のふたつの作品の紹介です。もう30年近く前に秋田市内に住んでいた頃に、初めて美術品といえる作品を購入したのが、勝平得之の作品でした。小さめの白黒の地蔵尊の版画が一万円だった覚えています。支払いながらどきどきしして、当時としては大枚をはたいたと覚えています。

「かきだて」 「笹飴」 勝平得之作

「かきだて(雪国)」秋田風俗十題 勝平得之 その2
紙本淡彩額装 版画
画サイズ:縦*横(画の部分のみ)



昭和18年 39歳(1943年)作。「かきだて(雪国)」秋田風俗十題 
昭和14年 35歳〈秋田風俗十題〉に着手。
昭和18年5月、第8回東北美術展(河北新報社主催)に「かきだて」「土に生きる」入選 第12回日本版画協会展に「みづき」「かきだて」出品



「笹飴」 勝平得之 その3
紙本淡彩額装 版画
画サイズ:縦*横(画の部分のみ)



1936年作。「笹飴」
5月、第5回日本版画協会展に「笹飴」「犬コ市」「あねこ」出品



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勝平 得之(かつひら とくし):1904年4月6日~1970年1月4日。(本名・勝平徳治)。秋田県秋田市本町(現在の大町)生まれの版画家。家業である紙漉き業、左官業の傍ら絵を書いていたところ、竹久夢二の絵に惹かれ浮世絵版画を始める。このとき、色刷版画の研究をし、1928年に自画、自刻、自刷の彩色抜法を完成させる。以後、故郷秋田の情景を描き続ける。1929年には日本版画協会展に「外濠夜景」、「八橋街道」が入選。その後数々の展覧会に多数入選し国内に名を轟かせた。1935年、秋田県を訪れたブルーノ・タウトと知り合いになり、作品が世界に紹介された。ケルン東洋美術館には代表作およそ70点が保存されている。秋田県文化功労章、秋田市文化章、河北文化賞。

 

勝平得之は、生涯秋田を離れることなく秋田の自然や風俗を描き続けた木版画家です。小さいころから絵を描くことが好きだった得之は、20歳のころから独学で版画を学びはじめます。その後、浮世絵版画の美しさに出会い、また、当時の美術思潮である創作版画運動(「絵を描く」、「版木を彫る」、「紙に摺る」の3つの工程を一人でおこなおう、という運動)の影響のもと、独自の色摺り技法を探り当てました。 郷土秋田の情景が描かれた勝平の版画は多くの人に親しまれ、海外でも高く評価されています。

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版画には耳の部分に版元や摺師、発行年月日が記されていることがあります。浮世絵版画も含めてこの部分があるのとないのでは評価に大きな違いがあります。本日紹介したもうひとつの作品にもこの部分はしっかり残っています。また裏打ちされた版画作品も大きく評価を下げますので安易に裏打ちしないようにしなくてはいけません。



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補足

勝平が画家となっていった歩みを見ると、当時の美術界の一端を知ることができる。流行画家の竹久夢二への憧れ。浮世絵に影響された多色刷り版画への傾倒。大正の青年たちを魅了した木版画、それも、従来の分業ではなく、下絵・彫刻・刷りを一人で行う「創作版画」に対する思いの強さは、「之(これ)を得た」として、号を「得之」としたと言われているほどである。

さらに、昭和初期に長野の画家山本鼎(かなえ)の提唱した農民美術運動への共感。その運動に加わった木彫家、木村五郎から指導を受けた勝平は秋田の風俗人形を多数制作した。

昭和四年の日本創作版画協会展に入選後、勝平は秋田美術会展・国画会展・日本版画協会展・帝展など、数々の展覧会に出品し、入選する。身近な風景、風俗、伝統行事、四季の農作業などが、作品の主題である

勝平についてよく言われるのは、その交遊の広さである。同人文芸誌「草(叢)園(そうえん)」や北方文化連盟に集結した、郷土の文化人や民俗学・考古学・郷土史の研究家たち、中でも、ドイツから亡命してきた建築家ブルーノ・タウトとの出会いは有名である。三年間の滞日中、各地を旅していたタウトが、旅館で勝平の絵を見たことがきっかけで知り合い、秋田の老舗商店や旧家を案内した勝平に、タウトは町並みや伝統行事、農婦の姿の美しさを賛美した。

秋田県立近代美術館では、平成十六年に「生誕100年知られざる勝平得之-故郷をみつめる新しい眼-」を開催した。小笠原光さん(元同館副館長)は、「勝平は初め、単なる版画家を志したのでしょうが、多くの人々と交流し学ぶことで、秋田の風習・風俗のもつ民俗学的意味を考えるようになり、対象への愛情が膨らんでいったのではないか。社会的な高みを目指すよりも、愚直に自分の道を歩む、秋田人らしい生き方をしたと思う」と語られた。

今、勝平の絵の中のような生活を続けるのは難しい。それは、終戦後二十五年余りを生きた勝平にとっても同じだったのではないだろうか。だが、勝平が若い頃の記憶と調査によって画面に作り上げた、本物のスローライフに私たちは惹かれる。勝平の生涯の仕事に感謝したい。

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インターネット上に掲載作品「かきだて」について下記の説明がありました。

「版画自体は初摺り(昭18)か後摺りかは不明。作品は昭和18年作(作品の左余白に「昭和十八年」の摺り込み有)ではあるが、「アメリカ・シカゴ美術館展覧会」に出品されたもの(勝平による題箋有)で、出品当時の額装と思われます。額裏に、略歴などの解説を貼込有。」

版画は初摺りが貴重というのは定番のようです。復興版などは蒐集家はまったく振り向きもしませんが、極端な言い方をすると、再発行の版は肉筆画の模写と同じ扱いされるようです。

当方の蒐集対象ではない版画の作品ですが、勝平得之は今後もまた高い評価を受けるべき版画家の一人でしょう。

氏素性の解らぬ作品 東方朔像 伝平櫛田中作 その3(整理番号)

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西王母、そしてその桃、漢の武帝、本日の取り上げる東方朔の関係を知らぬ人は多いかも知れませんね。西王母の桃や東方朔については何度か本ブログでも作品を紹介していますので、読書の中にはご承知の方も多いかもしれませんが・・。


氏素性の解らぬ作品 東方朔像 伝平櫛田中作 その3(整理番号)
合箱
高さ315*幅110*奥行168



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東方 朔(とうほう さく):紀元前154年 - 紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県(現在の山東省陵県神頭鎮、もしくは山東省恵民県)の人。武帝に「今年22歳になり、勇猛果敢、恐れを知らず、知略に富んでいるので、大臣に向いていると思う」と自ら推薦状を送った。これを武帝が気に入り、常侍郎や太中大夫といった要職につかせた。

後の歴史書などには、彼の知略知己に富む様子がしだいに神格化され始め、ついには下界に住む仙人のように描かれることとなった。

唐代の詩人李白は彼のことを「世人不識東方朔、大隐金門是謫仙」と褒め称えている。また、滑稽な行為をすることでも知られ、中国では相声(中国式の漫才のようなもの)などのお笑いの神様として尊敬されている。



補足

斉の出身で古文書や経学を愛し、雑書・史伝を広く読んでいた。初めて長安に入ったときに、3000枚の竹簡に書かれた上書を提出し、武帝は2ヶ月かけて読み終え、朔を郎官に任命した。その後は側近としてしばしば、武帝の話し相手を務めていた。



気性の激しい武帝も東方朔と話せば上機嫌となり、金品を賜ったり食事の陪席を命じる事も度々であったという。武帝に食事を招待されたときには、食べ残しの肉をすべて懐に入れて持ち帰ろうとして服を汚すのが常であり、下賜された銭・帛を浪費して、長安の若い美女を次々と娶り一年もたつと捨てて顧みないという暮らしをしていた。これは、采陰補陽という一種の修身法であったが、それを知らない同僚には狂人扱いされていたという。武帝はそれでも「朔に仕事をさせれば、彼ほどの仕事ぶりを示す者はいないだろう」と評価していた。



博士たちが戦国時代の賢者たちと比較して、朔を非難したことがある。その博聞弁智を抱えて無為に過ごし、官は侍郎で位は執戟にすぎないのはどうしたわけなのか、と。朔は「天下に災害がなければ聖人がいたとしてもその才を施すところがない。上下が和同していれば、賢者がいたとしても功を立てるところはない」という古諺を引いて、戦国と漢代は違うこと、自分が学を修め道を行うのは出世のためではない、という所信を述べている。



朔は息子を郎官にしてもらい、その息子は「侍謁者」となり、都を出て使いするようになった。老齢になり死期が近づいたときに武帝に讒言を斥けるように諫めて、まもなく病死した。司馬遷は「鳥がまさに死なんとするときは、その鳴き声は哀しい」と東方朔をたたえ、朝廷の中にいて世を避けたと自認するこの賢人に共感を抱いていたことがわかる。



朔の博学については騶牙という動物を見てその名と遠方の国が漢に帰属しようとする瑞祥であることを言い当てたり(『史記』)、函谷関で武帝の行き先をふさいだ牛に似た怪物を患と見抜き、酒を注いで消す方法を教えた(『捜神記』)などの逸話がある。



怪現象の権威とみなされたせいか、伝奇を集めた『神異録』の著者に擬せられたり、『漢武故事』では「東方國獻短人。帝呼東方朔。朔至、短人指謂上曰、王母種桃、三千歳一子。此子不良。已三過偸之矣」、つまり西王母が植えた三千年に一度しかならない桃の実を三つも盗んだであるとか、張華が撰述した『博物志』でも「西王母七夕降九華殿。以五桃與漢武帝。東方朔從殿東廂朱鳥中窺之。王母曰、此窺小兒。嘗三來盗吾此桃」と同じような荒唐無稽な逸話が東方朔について創作されている。日本の能の演目『東方朔』では、朔は仙人として登場する。

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本作品は箱には納められてはいるものの共箱ではなく彫銘だけであり、出来からも平櫛田中の作という点では信憑性がうすいと思われます。ただなんといっても吉兆の像です。



西王母の桃を盗んで食べ、八百歳もの長寿を得ることができたとして知られるこの仙人は、おめでたい画題として像や画題にしばしば取り上げられています。。



当方の所蔵作品には下記の作品があります。

西王母・東方朔図 大西椿年筆
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横620*縦1990 画サイズ:横510*縦1120



平櫛田中の作品には代表的な作品として下記の作品があります。

参考作品
東方朔(とうぼうさく) 平櫛田中作
木彫彩色 昭和49年(102歳) 高 46.0cm
小平市 平櫛田中彫刻美術館蔵



菜食といい、参考作品はやはり出来がいいですね。

作品の手前の盃は赤絵の作品。



ちょっと品がいいので気に入っています。



箱にはどなたかの署名で「江戸初」とあるのですが・・。



その信憑性は別としてこういう箱は私は嫌いではありません。



明末の呉須赤絵ということか? 京焼の日本製か?



可愛らしい器です。



ともかく氏素性の解らぬ作品はそろそろ卒業か



伊部七角飾皿 金重道明作

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週末には家内が出かけてので、息子は小生とべったり。外は雨なので家の中で一日中遊び相手。ようやく夕食後に入浴して後に熟睡・・。



息子が寝ている間に刀剣の手入れ、新しく研いだ後は少しの間はこまめに手入れする必要があります。とくに鞘も修繕した後は念入りに行なう必要があるとか。



最近の週末は息子が小生から離れないため、骨董の整理がままならず・・・。これはこれで愉しいのですがね。

さて、骨董を指導していただいた大先輩が、「陶磁器の行き尽くところは備前だよ。」と仰っていました。本日はその備前の大皿の紹介です。

伊部七角飾皿 金重道明作
共箱
全体サイズ:最大幅435*高台最大幅210*高さ50



備前焼は備前市伊部地区で盛んであることから「伊部焼(いんべやき)」との別名も持つことを知らない方も多いようです。



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金重 道明(かねしげ みちあき):1934年 ~ 1995年。岡山県出身の陶芸家。備前焼の陶工。金重陶陽先生の長男として生まれ、伝統の中に独自のセンスを盛り込んだ作風で万人を魅了した。
1934年-岡山県備前市伊部に金重陶陽の長男として生まれる。
1956年 22歳 金沢美大工芸科卒業。
1957年 23歳 朝日現代陶芸展初入選。以後連続入選。
1958年 24歳 日展入選。
1960年 26歳 渡米。
1961年 27歳 2月帰国。
1964年 30歳 日本伝統工芸展入選。以後度々入選する。
1967年 33歳 米国・メキシコで開催の「国際芸術見本市」に出品。
1968年 34歳 京都・東京国立近代美術館開催「現代陶芸の新世代」展出品。
1969年 35歳 日本工芸会正会員となる。
1970年 36歳 第2回ヴァルロス国際陶芸ビエンナーレ出品。
1971年 37歳 第3回金重陶陽賞受賞。
1973年 39歳 一水会陶芸展出品、委員に推挙される。
1975年 41歳 鈴木 蔵と双戌展開催。名古屋松坂屋、日本橋高島屋にて個展開催。東京大丸にて開催の「備前一千年」展に出品。
1976年 42歳 東ドイツにて開催の「日本の陶磁名品」展に出品。
1979年 45歳 第7回中日国際陶芸展審査員。大阪高島屋にて個展開催。
1980年 46歳 日本陶磁協会賞受賞。名古屋松坂屋にて個展開催。
1981年 47歳 岡山、京都高島屋にて作陶25周年記念展開催。
1982年 48歳 第7回アジア芸術祭(香港)「現代日本陶芸」展に招待出品。
1983年 49歳 岡山天満屋にて個展開催。米国スミソニアン美術館「備前の名陶その源流から現代まで」に出品。大阪・岡山・東京高島屋にて個展開催。ビクトリア アンド アルバート美術館にて開催の現代日本陶芸」展に出品。
1984年 50歳 西ドイツ国内巡回開催の「土と炎ー現代日本の伝統陶芸」展に出品。
1985年 51歳 岡山・福山天満屋、東京高島屋にて作陶30年記念展開催。
1986年 52歳 広島天満屋にて個展開催。
1995年 61歳 死去。





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ご存知のように金重道明は本ブログでなんどか紹介している金重陶陽の長男です。



共箱も揃っています。備前焼は作家の彫印ですので、共箱がないと真贋は判断が難しくなります。

 

幾何学的な文様に牡丹餅、火襷(ひだすき)、そしてこの大きさ。製作の難しい作品です。



備前焼の陶工として初めて人間国宝となり、備前焼の中興の祖と称された金重陶陽の技量がきちんと受け継がれています。



40センチを超える大きな皿は備前焼には非常に珍しいものす。収縮率の大きい備前の土で、薄く大皿を焼成する難易度は想像するだけで、難しさが解ります。



裏面は七角の高台となって、火襷(ひだすき)?があることことから、高台中央をなにかに乗せて焼いたのでしょう。「↑」の陶印があります。



箱内には2013年に開催された展示会のパンフレットが同封されています。



同じ作意の作品が出品されていたようです。



掲載の作品より本日紹介の作品のほうが出来がよさそうです。



保存は熟睡している息子が将来でも解るようにしておきます。 



我が長男に伝えるべきものを伝えるときまで・・・。

リメイク 染付陽刻菊波文様香合

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本日は息子の幼稚園の入園式です。おそらく小生より年上の父母はいないでしょうが、朝から出かけてきます。生まれてきた子、産んでくれた家内に感謝・・。

ところで最近読んだ本で面白かったのは「コーヒーが冷めないうちに」(川口俊和著 サンマーク出版)です。20万部突破のベストセラーですので、読んだ方も多いかと思いますが、お勧めの一冊です。生きている意味がまたひとつ理解させてくる本だと思います。

本日の投稿は今年の2017年1月9日に投稿された原稿に追記したものです。リメイクした理由は下記によります。

週末に家内と息子とで図書館に絵本を借りに出かけました。月に一度くらいは付き合うようにしています。息子に絵本を読んであげたり、息子が絵本を選ぶのに付き合っていますが、息子の関心は新幹線・・。どうも最近凝っているようですが、凝り性は小生からの遺伝らしい。家内に息子を任せて、どれ自分の凝り性の本でも探そうかとしていたら、分厚い立派な本で「古美術へのさそいーみるも語るもまた楽し」(工藤吉郎著 里文出版)という本を見つけ、さらっとみたら面白うなので、借りてきました。

偶然目をとうしたその本に下記の作品の紹介がありました。

参考作品
染付陽刻菊波文様香合 出土片
「古美術へのさそいーみるも語るもまた楽し」(工藤吉郎著 里文出版) 2014年12月出版

蓋の最台径:約60

径44mmの中央部には波と菊の陽刻があり、その部分に淡く呉須がけしてあります。この呉須をけしてある外側には細かな花弁様の彫りと*雷門をめぐらしてある。たいへん瀟洒なつくりをなされています。この陶片は25年前に有田内山の猿川で畠の端から発見されたもの。1650年代後半から1660年前半にかけての焼成品であることが推測されます。なおこの猿川窯は磁器のみを焼成した窯で、製品は窯跡発掘の際に発見された陶磁片により碗、皿、鉢等で、文様は山水や草花が描かれたものが多い。このうち草花文様は菊唐草や牡丹文が多く、鳥、蝶、網、波文などもみられるとのこと。

*雷門:中国では大昔から稲妻は天の意志を表す物で、恐れ崇められてきた。日本ではラーメンのドンブリと言うイメージだが中国では色々な物にこの図柄が使われています。この雷の模様は、紀元前16世紀(殷(いん)の時代・紀元前1500~1100年ごろ)に作られた青銅器にも使用されていると言う由緒正しい模様です。古代中国では、雷とは天の意思を表すものとして恐れ崇められてきた。その雷の稲妻をを図案化したものが雷門です。


             
*1650年代は初期伊万里から古伊万里への移行期で古九谷、鍋島焼が発祥した頃



写真1の説明に対して、写真2の出土片をもとに同時期の作品ではないかという推測を記されています。その出土片の説明が上記のものです。



なんと、小生の紹介した作品と瓜二つというか、欠損の無い状態のものが2017年1月9日に紹介された作品そのもののようです。

ということは有田の猿川窯の17世紀の作ということになります。清朝の染付かとも思っていた作品が実は李朝や中国の影響度が高かった古伊万里の発祥時期の作であったということです。



蓋と身が同一に焼成された補修はあるものの大きな欠損のない貴重な作品。しかも紋様がまったく同じということは型からの製作と推察されますが、微妙に違うので型による量産品ではありません。

不明な点が少しずつ解明され、真実に行き着くのが趣味の醍醐味ですね。真贋に古執したり、思い込みで思い違いでいるかもしれないと自覚し、探究心が大切だと改めて思い知りました。

骨董はインターネット上の情報だけでは極めて資料に乏しい状況です。こまめに書籍を見るということが不可欠ですね。


*********以下は「2017年1月9日に投稿された原稿」*********


年末年始の帰郷は新青森まで新幹線です。最初は新幹線で喜んでいた家内と息子ですが、新青森からのローカル線では「雪が多いね」と心配そう?



「大丈夫、今年は少ないよ!」という小生の返事に息子は半信半疑・・・。



準備万端での降車・・。帰郷後の昼飯は当然、鶏飯。



やはり帰郷した前夜に雪が降った程度の積雪のようで今年は大したことはないようです。



息子も除雪の洗礼。



雪だるまつくりはむろんのこと・・。



本日は郷里の男の隠れ家から持参した香合です。

染付陽刻菊波文様香合
合箱二重箱
最大口径60*高さ33



製作地・製作年代は不詳です。



購入した当時は「清朝」の作品としていましたが、現在はよくわかっていません。



なかなかいい出来の古いものという判断です。



金繕いが丁寧に施され、大切に保存していたことがうかがえます。



玄関の竹篭に飾っていましたが、このたび調査や整理のために持ち帰りました。



現在の本作品緒名称は「染付陽刻菊波文様香合」としております。



非常に気品にある作品で、他の所蔵作品の香合とも引ひけをとりません。



誂えの箱に外箱、所蔵印の布で説明書きを同封しておきます。
(*当然「清朝」という記載は訂正されます。)

 

整理している机の脇で息子が「パパ、何してるの?。」「作品の整理だよ。」

「どうして整理するの?」「息子よ、お前に分かるようにしているのさ、どうするかはお前次第だよ。」



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息子よ! 本はできるかぎりたくさん読め! (本嫌いのパパさんより・・・)

二見浦図 田中訥言筆 その2

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母に抹茶を点てる三歳の息子・・。



90歳を過ぎた母も満面の笑顔・・。



さて本日は知る人ぞ知る、復古大和絵の祖「田中訥言」の作品の紹介です。家内は時折、小生の好みそうな本を買ってきてくれますが、最近、本棚においてあったのは「とつげん・いっけい」(津木林洋著 森村記念館発行 中日新聞社発売)という本です。むろん田中訥言と宇喜多一恵のことを題材にした作品です。



二見浦図 田中訥言筆
絹本着色絹装軸 軸先象牙 合箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横318*縦937



落款「訥言」、「癡翁」白文朱方印、「訥言陳人」白文朱方印が押印されており、これは「日月図屏風」(名古屋市博物館蔵)と同一と推察され、この作品は1821-23年(文政4-6年)に制作されており、最晩年の作と思われます。



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田中訥言(とつげん):明和4年(1767)に尾張清洲田中(現在の清洲城趾のすぐ南の地)に生まれたとされる。名は“痴”もしくは敏、字は虎頭、別号は痴翁、得中、過不及子。幼少の時に家を出て、比叡山延暦寺で僧侶としての修行をした。

修法の余暇に画を京都の狩野派の石田幽汀に学んだが、後に還俗して土佐派の土佐光貞の門に入って大和絵を習った。

しかし当時の土佐派の綺麗ごとに終始して形式化した画風に飽き足らず、「古土佐」の旺盛な写実的描法を取り入れ、大和絵本来の姿の復古を唱え、平安・鎌倉時代の絵巻物などに見られる優れた大和絵の伝統の復活をめざした。



有職故実に精通し、「復古大和絵」派という一派を形成し世に名をなした。京都の大火で灰じんに帰した内裏が、寛政2年(1790)再建されることになった時、訥言は御用絵師の一人に若くして選ばれた(23歳)。このときの絵が評判となり、その実力が認められることとなる。京都には「賀茂祭礼図」などの訥言の多くの作品が残されている。

最高傑作とされるのは、現在徳川美術館に所蔵されている「百花百草図屏風」(国重文)である。この作品は、尾張の豪商岡谷家の六世惣助(二珪)が訥言に描かせたものである。代々岡谷家に伝えられたが、昭和41年(1966)岡谷家から徳川美術館に寄贈された数多くのコレクション(80余点)の中の逸品である。春秋の花卉約百種を二双に、それぞれの特徴を捉えて写実的に描き分けている。訥言は、文政6年(1823)両眼を失明してしまい、絶望の中で自ら食を断ち、最後は舌を噛み切って命を絶ったという。57歳の生涯であった。

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病気で亡くなった家内と最期の旅行は家内が希望した伊勢神宮・・・。そこから足を運んで二見浦で夫婦岩を眺めてきました。そういう思い出から「二見浦」の作品には思い入れがあり、どうしても欲しかった作品です。



ゴルフのジェイソンデイが途中で試合を欠場した原因が母親ががんの病気と手術のためという心情は良く理解できます。母と息子の貴重な時間を1分1秒でも長く一緒に過ごしたいのでしょう。この世で一番大切なのは自分の命の次に家族なのです。残された時間をどのように過ごすかはのちのち本当に大切なこととなります。

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補足資料

田中 訥言(たなか とつげん、明和4年(1767年) - 文政6年3月21日(1823年5月1日))は、江戸時代後期の絵師。名は敏、字は虎頭。別号は痴翁、得中、過不及子、晦存、求明など。復古大和絵の祖として知られる。

尾張国名古屋の出身(『鑑定便覧』)。幼少時、日蓮宗の寺に入門し、のちに比叡山延暦寺で天台宗を修める。画を狩野派の石田幽汀に学び、幽汀死後は還俗して土佐派の土佐光貞の門に入る。土佐派内部での訥言の評価は高かったらしく、天明8年(1788年)に22歳で早くも法橋位を得る。寛政2年(1790年)寛政度内裏障壁画の制作に、光貞、狩野典信、岸駒等と共に参加し、杉戸絵を描く。文化3年(1806年)光貞が没した後も土佐派に留まり、光貞の遺児土佐光孚を支えて活躍した。



文化14年(1817年)には尾張藩奥医師林良益の尽力で二百幅画会を開催する。これは、単に生活のためだけでなく、眼病の治療のための上洛費用と医療費を捻出するためと考えられる。有職故実に精通し、当時の土佐派の形式的画風よりも平安時代の大和絵への復古を目指し、『伴大納言絵詞』や『佐竹本三十六歌仙絵巻』を始めとする古絵巻を熱心に模写、のちに復古大和絵の祖として知られるようになった。



文政6年(1823年)、視力を失ったため舌を噛んで命を絶ったと伝えられ、別号の晦存・求明は眼病を暗示する号と言われる。享年57。戒名は安祥院訥言居士。墓所は京都市東山区の日體寺。

現在確認される作品数は300点以上、有年紀作品は少ないものの落款の「訥」字の旁である「内」の一画目・二画目の変遷からおおよその画風展開を知ることが出来る。



門人に浮田(宇喜多一蕙)、渡辺清、土佐光孚。また、弟子ではないが冷泉為恭も訥言に私淑していたという。彼らの作品には、訥言に倣ったと思われるものが複数残っており、訥言の影響力の大きさを見ることが出来る。

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維新の原動力となった国学を心の支えにした絵師、その志はのちの弟子に引き継がれていくこととなります。眼の病気はおそらく緑内障であったと推察されます。



まだ家内の買って来てくれた本を読みきれていませんが、頼山陽との関わりなど面白そうな本なので読んでみたいと思っています。



田中訥言と石田幽汀、その弟子だった円山応挙、狩野派、和蘭画、そこから大和絵に方向に向かい、土佐光貞を師とすることになります。それを契機に還俗し、法橋となり、天明の大火で消失した内裏障壁画を土佐光孚とともに描く。円山応挙との確執なども面白い。岸駒との関わりは薄いようで記述はなく、同世代の谷文晃、歌川豊国、東洲斎写楽、北斎、中林竹洞、山本梅逸、浦上春琴、そして頼山陽との関わりが興味深く記述されています。興味のある方はどうぞ・・・。

二雀 竹内栖鳳筆 その7(再整理番号)

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先週末は息子の幼稚園の入園式でした。式の最中も離れません・・・・、さて少しずつ一人立ち。



入園式の後には皆で食事・・。



本日は竹内栖鳳の作品の紹介です。

二雀 竹内栖鳳筆 その7(再整理番号)
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ縦2015*横340 画サイズ縦1120*横223



竹内栖鳳の雀はことに評価が高く「雀一羽家一軒」と称されていました。家一軒はさすがに大げさで、昭和初期頃の当時の売買評価では現在の価格で1000万近い値段であったようです。現在はそこまで評価は高くなく、一匹100万弱で評価されているところもありますが、現実にはそこまで高くはありません。ただ愛好家が多いので竹内栖鳳の「雀」の作品はそう容易には入手できないようです。



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栖鳳が生涯をかけて描きたいと願った「雀(すずめ)」

知恩院の宝物「抜け雀」。ふすまに描かれたそのスズメ、じつはもうそこに姿はない。長い歳月を経て、輪郭だけになってしまっている。かつて雀がいたであろうその場所は、日焼けのあとのように残されているばかり。それを人々は囃し立てた。「ここから雀が飛び出したのだ」と。自分の雀も、絵画から抜け出るくらいの真実に迫りたい。そう希った栖鳳は、幾枚も幾枚も雀を描いていたという。しかしそれは叶わなかった。栖鳳はこんな言葉を残している。
「私の雀は未だ、画面から飛び出したことは聞かない。やはり古人のほうが私よりも上手なわけである」と。愛好家が愛した竹内栖鳳の雀、「栖鳳雀」という言葉があるほどです。

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本作品は70歳を過ぎた昭和9年以降の湯河原時代の作と推察されます。



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参考作品
野雀
思文閣墨蹟資料目録 第489号 作品NO7



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竹内栖鳳の印章は数が多く、当方の資料からだけで414種類あり、400を超える印章の種類が存在しています。その中には北大路魯山人が作った印章が多くあり、資料には★が付いています。



資料からの印影は下記の写真のとおりです。



共箱に押印されている印章は、他の作品の共箱にも数多く押印されていますが、魯山人によって作られた印章とのことです。



大切に保管されていた作品のようで、箱内には軸先や軸が動かないように当て物がされています。

今では忘れ去られた栖鳳雀、さて真贋はなどという野趣な質問はなしで愉しめる作品です。

「にわとり」で今年の干支作品と家内には説明・・

渇墨山之図 藤井達吉筆 その16

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週末には五月の節句にむけてのお飾りです。息子は兜がお気に入り??? というより付属でついているオルゴールに興味津々・・・。



ちなみに後部に掛けられている軸は寺崎廣業筆の「鐘軌図」で、脇の棚は平野富山作の「桃太郎」、田村耕一作の壷です。いずれも吉祥を現す作品です。

さて本日は藤井達吉の作品を紹介します。

渇墨山之図 藤井達吉筆 その16
紙本水墨軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1490*横345 画サイズ:縦690*横250

 

以下はいままで15作品の紹介記事の繰り返しになりますが、藤井達吉についての紹介からの抜粋です。

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藤井達吉:藤井達吉は明治14(1881)年、愛知県碧海郡棚尾村に生まれました。現在の碧南市棚尾地区です。幼い頃から手先が器用で、“針吉”“凧吉”とも呼ばれていたそうです。

明治25(1892)年に棚尾小学校を卒業すると、木綿問屋の尾白商会に奉公に出ました。この会社では朝鮮半島で砂金を金塊へ鋳造する仕事などもしました。帰国後美術学校への進学希望を父親に伝えますが許されず、名古屋の服部七宝店に入社します。ここでは米国でも有数の美術館であるボストン美術館で東西の美術作品を目にする機会を得ました。セントルイス万博で仕事をするために明治37(1904)年に渡米したからです。米国でみた美術作品に触発されたのか、日本に帰った藤井は服部七宝店を退職し、上京します。ここから美術工芸家としてのキャリアが始まりました。明治38(1905)年のことでした。



明治の終わりから大正時代にかけての藤井は、吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型などの前衛的なグループに参加して当時の気鋭の画家・彫刻家・工芸家と親しく交わりました。制作でも古い型にとらわれない斬新な作品を生みました。木を彫り込み、螺鈿や七宝、鉛を用いた《草木図屏風》やアップリケや刺繍を施した《大島風物図屏風》などはこの時代の藤井の代表作といえるでしょう(両者とも個人蔵)。藤井の全業績の中でも大正時代を中心とした時期に制作された作品は強い魅力を発しています。



当時の藤井は家庭婦人向けの工芸の手引書を執筆し、雑誌『工芸時代』の創刊に協力するなど幅広い活動をしていました。更に官展に工芸部門を加えるための運動を友人たちと行いました。この運動は大正12年の帝国美術院への美術工芸部門設置という形で実を結びました。しかし昭和に入った頃から軸足は次第に中央から離れていきます。

藤井は独学でした。また大きな展覧会に作品を出品することもほとんどなく、画商に作品を売り込みもしませんでした。その分記録が少なく、活発な活動に反して日本近代美術史で取り上げられる機会が減っていったのです。

最近では藤井の業績が見直されるようになってきました。平成3(1991)年に愛知県美術館で開催された「藤井達吉の芸術-生活空間に美を求めて」展以来、近代日本工芸が揺籃期にあった頃、即ち中央で活躍していた時の藤井の先駆的作品が評価されるようになったからです。



藤井は転居を繰り返したため住まいこそしばしば変わりましたが、後半生は郷里での後進指導に重きを置いていました。瀬戸の陶芸や小原の和紙工芸の現在の発展の基礎は藤井が築いたと言って良いでしょう。瀬戸や小原(現豊田市)には栗木伎茶夫氏、山内一生氏、加納俊治氏など、直接藤井の教えを受けた方々の幾人かがご健在です。

藤井は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住んでいました。市内で藤井に接した方々も、西山町の岡島良平氏を最長老として、何人もいらっしゃいます。故郷での藤井の生活を支えたのは碧南市民をはじめとする藤井を敬愛する方々でした。「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。



後半生の藤井の作品は文人画的性格が強まりました。平安時代の継紙を現代に蘇らせ、独自の工夫で《継色紙風蓋物》(1947年;愛知県美術館所蔵)などの制作を多く行いました。そして昭和39(1964)年、岡崎で亡くなりました。83歳でした。

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『「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。』という前述があるように、そのような経緯のある作品のひとつでなないかと推察される本作品です。畳の上で筆の勢いにまかせて描いたかのように紙の跡が残る渇筆の優品、福田豊四郎の「冬木立」に替えて書斎の脇の床に飾りました。晩年の藤井達吉はこういう水墨画を自由な身で描いていたかったのだろうと思います。


贋作考 色紙 葡萄図 伝平福百穂筆 その25

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庭で息子と遊んでいると鳥が一羽・・、「パパ、おいで」と息子。



なにの実をついばんでいるのでしょうか? なんという鳥でしょうか? 



さて、本日は「贋作考」です。地元の画家、平福父子、寺崎廣業の作品には贋作が多いということは繰り返し述べておりますが、本日はその一例です。

贋作考 色紙 葡萄図 平福百穂筆 その25
紙本水墨淡彩 色紙 布タトウ   
画サイズ:縦270*横240



肉筆には相違ないようです。



印章・落款は下記の写真のとおりですが・・。



平福百穂の絶筆となった最後の作品「五位鷺」が下記の作品ですが、同じ印章を用いています。ただ、どうも完全に一致しているようには思えません。



印章が違うとも言い切れない? 幾つかの他の作品の同一印章と比較しての小生の判断は真作と言い切れませんということになります。

真作と同様の印章を使っている贋作は、それなりにかなり巧妙です。まったく真作と違う印章の作品は作品も雑なことが多いようですが、印章まで念入りに作る贋作は、作品にもそれなりの信憑性のある作品を用いています。ただ印章をすっかり模倣することは無理があるようで、そこから真贋が解ることも多いです。それゆえに印影が第一という考えが定着しているのでしょう。



この布タトウはもったいないので他の作品に転用してしまいたいくらいです。というか入手した理由はこのタトウに狙いがあった・・・



平福百穂は非常に贋作が多く、とくに郷里の地元に最も多いようです。

真贋も自然の中のひとつの営みか?

最近の展示室

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週末はなにかと忙しく、投稿する原稿を記述する時間がとれなくなってきました。むろん整理する作品も少なくなってきており、今後はずいぶん前に整理した作品の中で原稿の修正のあるものとなり、リメイクの投稿が多くなりそうです。

お茶の稽古の方々がお見えになるというので、家内と息子とで掃除・・。



爺と孫にビールを勧める鶏君・・、展示は鳥を中心にと思いながらも、実際の展示は最近整理している作品を中心に支離滅裂。



稽古は釣り釜?



普段は洗濯物干し場、昼寝場所、子供の遊び場です。



この縁側は水屋と直結する計画があったのですが、使ってみてそれは意外に不要であったようです。



円窓が意外に良かった・・。



このスペースは息子のレース場・・。



2階は整理中の作品がメインです。



コーヒードリップでも設けようかと・・。



ブラインドの取り付けは資金に余裕ができてから・・。



廊下は広くとってあり、必要になったら片側に収納棚と展示棚を設けられるようにしてあります。今のところ必要はありません。



屋根裏スペースは陶磁器の収納場所。温湿度の影響を受けても大丈夫なもの・・。



長持ちは補強し、キャスターをつけて非常に便利な収納ボックスとなっています。



頭をぶつけやすい屋根裏スペースはゴムを取り付けています。



ライテイングは意外に思うようにいかないものです。



整理もすすんで、要らないものも処分し、収納が巧くなってきました。どこに何があるかもだいたい解るように整理ができてきました。

来客歓迎、興味のある方はどうぞ。





得たいの知れぬ器達

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お茶の稽古の日ということで家内が茶室にお花を生けてくれました。



家内からは写真のメール、利休梅に杏かな? 

軸は伊東若冲、花入は保戸野窯の平野庫太郎氏作。風鎮(扉を開放するので付けています)は染付け。 



ついつい得体は知れないのだが、面白そうなので購入する作品というものがあります。これはある意味で知らぬうちに自分の目利きの度合いが試されていることになるので、あまり公開したくない作品とも言えます。むろんお値段は格安の範囲での購入作品に限られます。

一定の目利きの利く人は資金があれば、良い物が入手できるのは当たり前のことですが、これができない蒐集家が99%らしい

白釉茶碗 無銘
合箱
最大口径*高さ*高台径



家内も濃茶に使えそうと喜んでいます。私は形が気に入りました。



何気ない茶碗ですが、めずらしい茶碗でもあります。というのは畳付きから高台内まで釉薬が掛けられている茶碗は数が少ないからです。



お値段は2000円なり。無銘? 胎土も見えないので余計に産地が特定できませんが、実に存在感のある茶碗です。



次もまた何気ない平茶碗です。

灰釉茶碗 伝川喜田半泥子作
合箱
最大口径150*高さ45*高台径



むろん銘も共箱もなく、「川喜田半泥子作」というメモのみ・・・。



いいと思うのは形以外に作り方・・・。白い泥土に灰釉が掛けられているようです。普通の作り方ではありません。



見込みの釉薬の流れ、腰の轆轤目などから、実に品の良い茶碗です。お値段はたしか一万円くらいかな。



次も「伝石黒宗麿作」の根拠はメモのみ・・。

白濁釉小壷 伝石黒宗麿作
合箱
口径*最大胴径90*高さ98*底径



均窯のようなずっしりと厚い釉薬です。



なんとも素朴な小さな壷です。茶入には大きいし、香炉にいいかもしれません。むろん蓋が必要ですが・・。



線香立て、筆立てなどと思い悩んだ末に、息子の歯ブラシ入れとして使っています。



お値段はこちらも一万円ほど。決して安くない買い物ですが、作者や産地、製作時期のこだわらない骨董の蒐集は非常に愉しいものですね。


稽古日一景

色紙 猫 フジコ・ヘミング筆 & 鮎 宇田荻邨筆

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畑から発掘されたような須恵器に実際に畑から採ってきた小松菜と紫大根の花・・。



本日の作品はちょっと変わった趣向の作品です。


色紙 猫 フジコ・ヘミング筆 
紙本水彩 色紙   
画サイズ:縦270*横240


 
添付の説明には「猫十態 ニャンスキー」とあります。制作年は2005年で、希少な水彩による肉筆画のようです。



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フジコ・ヘミング:本名ゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコ(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko[1])は、日本とヨーロッパ・アメリカで活躍するピアニストである。父親がロシア系スウェーデン人(画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミング(Gösta Georgii-Hemming))で母親が日本人(ピアニストの大月投網子)。ベルリンで生まれる。スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。俳優の大月ウルフは実弟。歌手の橋本潮は従姪にあたる。




幼少時代
5歳の時に日本に移住したが、父は日本に馴染めず、家族3人を残し一人スウェーデンに帰国してしまう。以来、母と弟と共に東京で暮らし、母・投網子の手ほどきでピアノを始める。また10歳から、父の友人であり、ドイツで母がピアノを師事したロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事する。以後、芸大在学時を含め、長年の間クロイツァーの薫陶を受ける。

学生時代
青山学院緑岡尋常小学校(現・青山学院初等部)3年生の時にラジオに生出演し、天才少女と騒がれる。1945年2月、家族と共に岡山に疎開する。同年4月、岡山の高等女学校に入学し、そのまま学徒動員される。終戦後、青山学院高等女学部(現・青山学院中等部)に転校。青山高女5年修了で、新制・青山学院高等部3年に進級する。高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たす。東京芸術大学音楽学部在学中の1953年には新人音楽家の登竜門である、第22回NHK毎日コンクールに入賞をはたし、さらに文化放送音楽賞など、多数の賞を受賞した。東京藝術大学卒業後、本格的な音楽活動に入り、日本フィルハーモニー交響楽団など多数のオーケストラと共演。かねてよりピアノ留学を望んでいたフジコだったが、パスポート申請時に無国籍であったことが発覚する。
その後、留学の機会を伺いつつピアニストとして音楽活動を行っていたが、1961年に、駐日ドイツ大使の助力により、赤十字に認定された難民として国立ベルリン音楽大学(現ベルリン芸術大学)へ留学を果たした。卒業後、ヨーロッパに残って各地で音楽活動を行うも、生活面では母からのわずかな仕送りと奨学金で何とか凌いでいたという、大変貧しく苦しい状況が長らく続いた。フジコは「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたと話している。

ヨーロッパでのピアニスト時代
その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ=スコダに師事した。また、作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約した。しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に暖房をつけることができなかったためとしている)、聴力を失うというアクシデントに見舞われ、やっとの思いで掴んだ大きなチャンスを逃すという憂き目を見た。
既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、この時に左耳の聴力も失ってしまい、フジコは演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなった。失意の中、フジコはストックホルムに移住する。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続ける。現在、左耳は40%回復している。

日本への帰国後のブレイク
母の死後、1995年に日本へ帰国し、母校東京芸大の旧奏楽堂などでコンサート活動を行う。1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大きな反響を呼び、フジコブームが起こった。その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、発売後3ヶ月で30万枚のセールスを記録し、日本のクラシック界では異例の大ヒットとなった。第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞したやがて、1999年10月15日の東京オペラシティ大ホールでの復活リサイタルを皮切りに、本格的な音楽活動を再開し、国内外で活躍することとなる。2001年6月7日にはカーネギー・ホールでのリサイタルを披露する。現在、ソロ活動に加え、海外の有名オーケストラ、室内楽奏者との共演と活躍は続く。また、2003年10月17日に、フジテレビ系で波瀾万丈の半生がテレビドラマ化された。スペシャルドラマ『フジ子・ヘミングの軌跡』はフジ子役を菅野美穂が演じて、20.1%の高視聴率を記録した。2013年に自身のCDレーベル「ダギーレーベル」を発足。アルバム第1作「フジコヘミング スペインカメラータ21オーケストラ」を国内外でリリース。

人物
フジコは菜食主義者、クリスチャンとして知られている。食物の中で特に好むのはじゃがいもであるとされる。20歳からずっと愛煙家であるピアノ演奏以外の趣味は絵画、裁縫、読書、水泳などで、バレエや映画の鑑賞も好んでいる。絵に関しては幼少時から得意としており、現在までに書き溜めた絵は本やCDのジャケットで使われている。個展を開くこともある(2001年2月5日 - 2001年2月24日「幻の素描展」より)。また愛猫家、愛犬家の動物愛護家である。東京育ちであるが、母の影響で言葉の端々に関西弁が出ることがある。



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「猫十態 ニャンスキー」として版画やリトグラフで出回っている作品は下記の作品です。



こちらの作品のほうが面白そう・・、猫が好きだという息子へ・・・。色紙額に飾るのはちと面白くないので、江戸期はあろうかという古い刺繍の色紙掛けに入れて飾ってみました。



大はしゃぎの息子は家内のイアリングをして「かわいい?」だと・・、大丈夫かな?



掛け軸は飾っておく期間はひと月まで・・。展示室の床には唐物の額に入れて色紙を飾りました。

鮎 宇田荻邨筆
金彩色紙水墨淡彩 色紙



ブログを検索すると見当たらないので投稿していないかもしれません。



「荻邨」という画号ですが、 彼自身によると、 その由来は伊勢の海岸地帯に多く見られる浜荻にヒントを得て考えた号であると言う。伊勢の浜荻は和歌や俳諧を通じて古くから広く知られていたものですが、「荻邨」という画号には、京都という異郷にありながらも、幼少年時代を伊勢地方で過したこの画家の懐郷の思いが込められていると考えられます。



魚の絵を荻邨が得意とし、荻邨が親しく目にした海の幸を克明に描いた「魚類写生帖」は、魚の特徴を巧みにとらえた達者な筆使いを示しています。



メールにて売り先から連絡があり、『大変良く書かれた「鮎」でこれは 宇田荻邨の前作に間違いないと思います。落款は「印」ではなく肉筆です。「印」を持ってない席で書いたと思われます。』とありました。

いずれの作品も出来からの購入判断です。

脇差 銘国?(以下不明)

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相変わらず週末は小生から離れない息子です。作業スペースまでプラレールを持ち込んで電車遊びにつき合わされます。

こちらが作業していると脇ではおもちゃのカタログを熱心に見ています。くちゃくちゃになるまでカタログの細かい写真まで見込んで覚えています。三歳児ながらこういうマニアックなところは早くも蒐集癖の血筋の兆候か・・・



展示室を走り回り、棒を振り回し、接着剤を片手に遊び呆けているのですが、不思議に作品にはまだ悪さはしません。

今週から息子は一人で幼稚園に通いだしました。帰宅すると小生がいつものように着替えている脇で息子から逐次、一日の報告があります。

本日は男の隠れ家に所蔵されている最後の刀剣の研ぎが完了した作品紹介です。

脇差 銘国?(以下不明)
長さ455(一尺五寸)*反り13(四分) 目釘4個
銘「国?以下不明」 室町時代末期以前 古刀

 

本家の祖母が別家である小生の父母に預けた(譲った)作品です。もともと本家の知人が借金の代償に本家に預けたものですが、跡継ぎの放蕩?息子ではなにをするか危ないし、また換金してしまう可能性もあるということで、本家には置いてはおけず次男である父のもとに譲るという祖母の判断があったと思われます。



そのまま我が家の蔵の箪笥に長きにわたり隠され、前の所蔵者が好かない人物ということで母が登録証を処分したため、平成3年の引越しに際して、小生が新規に登録しなおした刀剣です。

専門店の所見によると鎌倉末期から室町時代にかけての作だそうで、実際の戦に使われたものだそうです。

もともとの既存の白鞘には有名な「国俊作」と記されていますが、信憑性は少ないと思われます。当方も信憑性はないので、古い鞘を削ってこの記述を消してくださいと申し出ましたが、お店の方の判断では消さないほうがいいということで鞘は新規の製作しております。

  

2016年9月から2017年4月にかけて銀座の「刀剣柴田」に研ぎを依頼し、所見も受けています。、銘は「国行?」かもしれないそうです。何度か研いでいるので、細身になっているらしく、目釘の4個ととなっており、もともと現在より少し長めの脇差であったようです。時代の経過の割には状態が良好な作品のようです。

刀剣は何十年かに一度は研ぐことになりますが、極力保存を良くして研ぎの回数を減らすのが長きにわたり刀剣が存続できるもののようです。

*研ぎ費用は約18万円(新たに白鞘を製作しています。)

この作品とは別に飾っておいた刀剣を見た義母が、「家に古くからあった刀剣類は跡継ぎが所蔵しているが、刀掛けはあったはず。」というのですが、小生は覚えがありません。どうも鹿の角でできたもので分解されて保管されていたようです。



納戸の棚にあったそれらしきものを組み立てるとよくある見かける鹿の刀掛けになりました。鹿の以外は木部は欅のようです。

研いで鞘を新規に製作したので、刀は鞘にはきっちり差し込んでは入れてません。鞘の収縮が落ち着くまではそのようにしておくのが基本のようです。



いつのものように登録証や手入れの経緯などを記したフォルダーとともに保存します。刀剣と登録証は別々に保管します。(一緒に保管する人もいますが、盗難対策上は別々がいいと思います。)

刀剣を刀掛けに長く置きっ放しはよくありません。なお蒔絵の刀掛けも陽の当たるところに長く飾っておくのはよくなく、箱に入れて保存するのも基本です。



室町末期はあるという古い刀剣で、実際の戦で使われ、何らかの縁で本作品もまた小生に伝来した刀剣です。今までに七振りを研ぎ直しましたが、重要貴重刀剣に認定されている作品もありますが、金銭的な価値より古(いにしえ)からの縁を感じる刀剣類です。

息子が放蕩息子、危険人物とみなしたらまたどこかへ・・・

李朝後期 瑠璃釉魚形水滴など 

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週末に書斎で趣味の作品を整理しているといつも机にのっかり、小物を弄り回す息子です。小生がはさみ、カッターなどを使っているのをじっと見ていることもあります



はさみ、ホチキス、スケール、定規、糊・・、ともかくなんでも遊び道具となります。基本的にこちらが面白そうにしていると手伝いたくなるようです

さて本日は水滴の作品です。

李朝後期 瑠璃釉魚形水滴 
合箱入
幅67*奥行き65*高さ27



朝鮮の李朝時代の19世紀頃、分院里窯で多く作れた魚の形をした水滴。李朝末期には薄い瑠璃釉や極端に色濃い下卑た作品が多いのですが、本作品は鮮やかな発色の呉須で染められ優品のひとつかと思います。



細かな陽刻の造形に映える青と白のコントラストは青花とも称するように美しいものです。銀繕いがされていますが、これがかえって景色となり趣があります。この手の作品は数が多いのでせいぜい高くても数万円程度で売買されています。




李氏朝鮮時代(李朝時代)は粉青沙器と白磁が主流でしたが、 15世紀頃に中国の影響を受け染付の焼成が始まります。焼成当初は染付の原料であるコバルト顔料が国内では採れず、輸入品も高価だったため生産量も少なく王宮などでしか使われていなかったと言われています。これにより李朝染付の魅力である、余白と簡素な文様で効率的に絵付けしてある味わいと温かみが生まれたとされています。



18世紀に入ると李朝官窯はそれまでの金沙里から分院に移され分院窯が創業、この頃の上質な高級磁器を分院手と呼ぶそうです。その後、まとまったコバルト顔料が入るようになると染付の量産が始まり、 一般庶民の日用雑貨、文人達が使う文房具などが数多く作られました。



李朝の作品には初心者の当方にはちょうどよい入門者向けの作品のようです。



この手の李朝末期の作品には赤みを帯びた胎土のものが多く、コバルト顔料による下卑た作品が多くなり、呉須も薄くなったり、濃い色になったりしていますが、本作品はそうなる少し前の製作時期と思われます。



義母が振り帯で作ってくれた刀剣の収納袋、その端材で作った袱紗を敷いてみました。



ありふれた水滴の作品ながら、なかなかいい出来・・。



他の小物の作品も改めて飾ってみました。



最近紹介した初期伊万里から古伊万里に移行する作品に属する香合・・。



源内焼の野菜の盛り合わせの水滴。



獅子の水滴、これらは源内焼の珍品と言えます。



家内の家の墓に使われた香川産の庵治石の見本があったので、「石材の単価としては世界一」の貴重品なので石材店に頼んで磨きにかけました。磨き代金は3000円弱也。



古備前?の水滴・・。



こういう文具や香合の小物類、現代は何に使うかが愉しみのひとつです。


*「庵治石」を知らない方は下記を参考にして下さい。

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庵治石:日本三大花崗岩の一つとしても知られ、今では、世界でも花崗岩のダイヤと呼ばれて高く評価されている石材です。きめ細かな地肌であるがゆえに風化に強く、磨けば磨くほど艶を増していきます。正式名称は「黒雲母細粒花崗閃緑岩」で、主成分は石英と長石、そこに少しの黒雲母が含まれているため、庵治石には「フ(斑)」と呼ばれる珍しい表情が現れてきます。石材という観点から花崗岩は細目(こまめ)、中目(ちゅうめ)、荒目(あらめ)と分類され、庵治石は細目と中目に分類されており、きめ細かな模様の細目(こまめ)になるほど貴重品として扱われています。また、水晶に近い硬度を持つことも庵治石の特徴です。二百年は彫られた字が崩れたり、赤茶色に変色したり、艶が無くなったりしないといわれているのもこの硬さのおかげです。

ひとつ一つの結晶が小さく、緻密であることから他の花崗岩とは比較にならないほど細かな細工を施すことが可能です。故に、庵治石は丈夫で美しく、文字や模様がいつまでも崩れたり変質したりしないのです。

「斑」とは、よく研磨した石表面に黒雲母が特に緻密に入り、「指先で押さえたような湿り気または潤いを与えたような」まだら模様に濃淡が出ることで、斑が浮くとは石の表面が二重の絣模様(かすりもよう)のように見えることをいいます。この現象は世界の石材の中でも他に類がないとされており、庵治石特有の現象とされています。この希少性、特質から、石材の単価としては世界一と評価されています。

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夏の宵 山川秀峰筆 その2

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展示室は小生と息子でかけっこの練習場・・・



さてどうしても日本画の蒐集で避けて通れないのが美人画の作品です。本日はそのひとつを紹介します。

夏の宵 山川秀峰筆 その2
紙本水墨淡彩軸装 軸先 共箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦

 

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山川秀峰(やまかわ しゅうほう):明治31年〈1898年〉4月3日 ~ 昭和19年〈1944年〉12月29日)。日本画家、版画家。美人画で知られる。鏑木清方及び池上秀畝の門人。本名山川嘉雄、京都に生まれる。

  

まず秀畝に師事し花鳥画を学んだ後、大正2年(1913年)に清方に入門し美人画を学ぶ。昭和2年(1927年)長沢小輔の美術社より新版画「婦女四題」連作4点を随時出版、翌昭和3年(1928年)には『新興版画選』と題して「美人八佳選」の第1回分を川瀬巴水の「日本新八景」とともに出版している。



また同年の第9回帝展には「安倍野」(培広庵コレクション)を出品して特選となり、昭和5年(1930年)第11回帝展には「大谷武子姫」を出品してこれも特選に入選した。ほかに渡辺版画店からも新版画の美人画作品を発表しており、これらは当時の時代模様を写したモダンな美人画であった。

秀峰は伊東深水、寺島紫明と共に、清方門下三羽烏と呼ばれた。昭和11年(1936年)には私刊により「をどり十題」を制作する。昭和14年(1939年)伊東深水たちと共に青衿会を設立、美人画家として活動している。



版画の作品は少ないが気品のある美人画を残した。代表作に「素踊」、「序の舞」、「羽根の禿」などがあげられる。木版画では「舞踊シリーズ」があり、そのうち、「さらし女」の構図が卓抜で印象的である。他には「赤い襟」、「東京駅」、「信濃路の女」なども優れている。また、雑誌『講談倶楽部』や『キング』の挿絵を描いている。享年47。門人に志村立美、武藤嘉亭がいる。作家の山川方夫は息子。

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子供の頃、自分の寝室に蚊帳を吊るのは小生の役目でした。蚊のほかにカブトムシ、カワゲラなどの虫が舞い込んできては捕まえるのが楽しみでした。現代はそんな風情はなくなってしまいましたね。

お金を出して虫を買う? そんな状況がいいのかどうか・・。さて、今年も5月の連休は里帰りです。田舎は過疎化が進み、山も田も荒れてきて、昔の環境が戻りつつありますが・・。これもいいのやら悪いのやら・・。

日本の人口は40数年後には3割減少するそうです。過疎化は歯止めがかからず、高齢化はどんどん進みます。日本の未来はどうなるのでしょうか? もはや政治に期待するのはナンセンスのように思われます。個人個人が自己防衛する準備が必要のようです。息子よ、強くなれ!

今週から通い始めた幼稚園、「寂しいな。」と言うようになりました。胸がきゅんとしますが家内がいろいろと寂しくないように工夫してくれているようですが、なにはともあれ独り立ちの第一歩です。

「今日はいい子にしてたかい?」と帰宅して尋ねると「ひとりでいってきたよ。ちょっと泣いた。」といつもの報告。
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