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富岳 寺崎廣業筆 その53

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民進党の党首にしろ、東京都知事にしろ、人に恨まれる政治手法は日本の将来にはよくありません。過去に「ものから人へ」のスローガンで予算カットをした趣旨はいいのですが、それまで尽力した人をマスコミの前でけちょんけちょんにやっつけた。東京五輪と豊洲もしかり・・、趣旨には賛同を得ても過去に尽力した人から恨みを買う人気とりにしかみられない経緯については本ブログでその当時からなんども批判しましたが、基本的に小生は虫唾が走るほど大嫌いです。

富士のように王道を行く政治、経営をしていくのがトップのありようのように思います。ということで本日は富士山を描いた作品の紹介です。

富岳 寺崎廣業筆 その53
絹本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2020*横545 画サイズ:縦1120*横410



落款の「二本廣業」から明治40年頃の作と推察される作品です。

 

資料の印章「易水離別図」との比較です。あまりこだわってもいけませんが、一応、印章は頭に入っていないと一瞬で判断できないものです。

 

 

寺崎廣業の作品には富士を描いた作品が非常に多いようです。東北の田舎から来た人間が初めて見た富士は忘れられないものです。



小生も上京して始めたのが登山ですが、秩父や南アルプスから見た富士には感動したものです。



晩年に寺崎廣業は信州に頻繁に行き来しますが、富士もその楽しみの一つだったのでしょう。国粋による富士を描いた他の画家らの当時の動機とは違うように思われます。



人の描き方がなんとなくマンガチックで面白い。



寺崎廣業の代表的な作品が美人画と山岳画となったのには頷けるものがあります。







2017年 保戸野窯(平野庫太郎)の作品 その1 

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庭では牡丹の花が咲き始めています。



本日は友人の作品の紹介です。

床に飾った花入は秋田市にある保戸野窯で作られた平野庫太郎氏の作品です。



昨年に平野氏から購入した作品ですが、均窯の釉薬に緑色の発色が見られる独特の味わいのある作品です。



平野氏の作品には釉薬だけではなく形にも品格があります。



大学の教諭を務めた後、現在は県立美術館の館長を務めるかたわら作陶活動をしておりますが、多忙がゆえに非常に寡作です。納得したものしか作らないのでもともと寡作ですが・・。



壷は昨年の展示会に出品された作品です。お値段も手頃で、5万円(箱代金別)ほどです。花入れはもっと値段が手頃です。



この釉薬の茶碗を所望しているのですが、納得のいく作品がまだできていないらしい。家内は水指だったか、花入れを所望しているのですが・・。

もうかれこれ30年以上の付き合いですから、当方の所蔵する作品も増えました。下記の作品は製作の最もむずかしい「釉裏紅」の特大皿・・。



秋田市内にある窯で秋田駅からタクシーで10分ほどの市内のど真ん中にあります。時間のある方、陶磁器に興味にある方は是非、訪ねてみて下さい。ただし本当に寡作ですので事前に電話連絡したほうがいいと思います。

現在手元にある作品をいくつか紹介します。



均窯の水注ぎ。



粉吹の煎茶碗。



練りこみのコーヒー碗、人気の高い作品です。



三島手の抹茶碗。



辰砂の水注ぎと酒杯。



紅白の高杯の菓子皿。

 

油滴の水指。



これまで本ブログで紹介した作品が多くありますが、このほかにも木の葉天目、練りこみの幾何学的な作品などあります。中央に知られなくても地方にはいい仕事をしている人をもっと知るべきでしょう。

後日また紹介します。

御本堅手茶碗 銘「朝日」

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近所に有る家内の本家、猫を飼っているので、猫が好きな息子はときおり遊びに出かけています。先週から幼稚園に入園した息子に「なに組になったの?」と叔母さんが聞いたので、息子は「しゅずらん組」とちゃんと答えたようです。そしたら叔母さんがご褒美に庭に咲いたすずらんをくれたとのこと・・。

小生が帰宅して風呂から上がり、書斎に居ると家内がなにやら離れから戻ってきません、さてはずずらんを生けているなと思っていると、案の定、書斎に顔を出してデジカメのサイン。









「猫のいる家から戴いたすずらんで猫の絵とちょうどよい。」と家内は納得しています



猫の作品には最初は「変な絵ね~」と言っていましたのにね。「あなたの選んだ作品には慣れる時間が必要ね。」だと・・・

ところで我が家で一番の目利きは家内です。小生の作品も家内がいいといったものはたしかに後日、いいものである確率が高いようです。しかも渋ちんなところがありますので評価は厳しい。

スーパーでは安売りしか買わないその家内が、4万円の大枚をはたいて買った茶碗を本日紹介します。

御本堅手茶碗 銘「朝日」
小堀宗中箱
最大口径*高さ*高台径



家内曰く、箱だけでも価値があるとインターネットオークションで落札したらしい。出品の説明は「高麗茶碗」とのみらしい・・。



遠州流らしい箱書。



たしかに口縁は黒柿、底は桑が用いられた上等な作りの箱です。



紐は遠州流のものではありませんが、底に紐のみえない細工、紐を通す小さな丸穴は遠州流のもの。紐は古くなって換えたのでしょう。他の遠州流ゆかりの作品の箱ではこうなっていますが、どうやって真田紐を通すのかな?



さらに箱の底に箱の底ごと虫に喰われた書付が入っていました。底の虫食いの跡と紙の虫食いの跡がまったく同じですので、その当時のままかもしれません。



高麗茶碗 銘 朝日
右茶碗安政二(乙)卯年(1855年 安政元年11月27日 - 安政2年11月23日)於江都
小堀公御釜日ニ持参入御覧候
処重々面白候□□成居候召箱
□□□かき候間早々箱□申
□ねく?所被旨御□と宗中殿
御申間為後証記之置候也        (小堀宗中 69歳頃)
□□□
高原?雲乎
花押
 
*8世小堀宗中:天明6年(1786)生まれ。江戸後期の幕臣・茶人。遠州流八世。政峰の孫。六世政寿の子。名は政優、通称を大膳、別号に和翁・大建庵。茶家小堀家中興と称された。慶応3年(1867)歿、82才。

*安政(あんせい):日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1854年から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。
 
箱の表紙は下記のように書かれていますが、これはさすがに間違いでしょう。



家内曰く、オークションの写真にはこれらの書付類の掲載、説明は一切なかったとのこと・・。ただ「高麗茶碗」とのみ・・。なぜ?



この手の茶碗は高麗の堅手の御本茶碗か・・・。

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御本茶碗(ごほんちゃわん):高麗茶碗の一種で、17~18世紀にかけて、日本からの注文で焼かれたものをいいます。御本の名前は、御手本の意であり、日本で作られた手本(茶碗の下絵や切り形)をもとに朝鮮で焼かれたことが由来です。

また、これらの茶碗には、胎土の成分から淡い紅色の斑点があらわれることが多く、この斑点を御本または御本手(ごほんで)と呼ぶこともあります。

寛永16年(1639)の大福茶に細川三斎の喜寿を祝おうと、小堀遠州が茶碗の形をデザインし、三代将軍家光が下絵を描いた立鶴を型にして、茶碗の前後に押して、白と黒の象嵌を施した茶碗を、対馬藩宗家を取りつぎに、釜山窯で焼かせた茶碗を「御本立鶴茶碗」といい、御手本から始まったことから御本とよばれました。

釜山窯:寛永16年(1639)朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯で、本来の名称は「和館茶碗窯」といい、大浦林斎、中山意三、船橋玄悦、中庭茂三、波多野重右衛門、宮川道二、松村弥平太、平山意春らが燔師(はんし)としておもむき、朝鮮の陶工を指導して注文品を焼かせました。古い高麗茶碗を基として、御本立鶴(たちづる)、御本雲鶴、御本三島、御本堅手、絵御本、御本半使、御本御所丸、御本金海、御本呉器、砂御本など非常に多様なものが焼造され、対馬宗家を通じて徳川家ほかの大名に送られました。しかし、元禄をすぎると、しだいに陶土の集荷が困難になり、享保3年(1718)に閉窯されました。

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日本の茶人による注文品 「御本茶碗」

文禄・慶長の役(1592~1598)後に途絶えていた朝鮮との国交は1609(慶長14)年に回復し、釜山に倭館(朝鮮が日本使節の接待・貿易管理の為に建てた客館)が再設されました。 国交が回復して間もなく、日本から朝鮮には高麗茶碗の注文が行われていたようです。御所丸、金海、彫三島等の茶碗が注文されたのもこの時期と推測されています。1639(寛永16)年には倭館に釜山窯(倭館窯)が開窯されました。釜山窯は日本と朝鮮の外交を担っていた対馬藩が運営を務めましたが、その焼成は年間を通じて継続的に行われたものではなく、

1718(享保3)年の閉窯に至るまで断続的に窯を開いて生産されました。 陶土や燃料等は朝鮮に申し出て購入し、地元の陶工を公的に申し入れて雇いました。対馬藩は開窯ごとに船橋玄悦、中庭茂三、松村弥平太等の陶工頭を釜山に派遣し、朝鮮陶工に指示して注文通りの茶道具を焼成させました。製品は幕府、大名、茶人等の要求に応じて焼成され、それらは対馬藩からの贈答品とされた事が伝えられています。

日本に伝存する作品は茶碗が多く、高麗茶碗の一種として「御本茶碗」と呼ばれています。それらは日本から朝鮮に御手本(切型)を示して発注した注文茶碗として知られており、中でも声価が高い玄悦、茂三、弥平太等は何れも釜山窯に携わった対馬藩士の名前ですが、長く実態が不明であった事から茶碗の種類名称として捉えられるようになりました。

焼成されたものは必ずしも茶碗に限らず、細かな調度品までに至ったとされています。又、御本(鹿子)とは淡紅色の斑文が肌の随所に現れた状態も指し、茶の緑色を引き立てる事から大変喜ばれています。朝鮮政府にとって陶土や燃料等の供給は多大の負担で次第に交渉を厄介視していきます。釜山窯では陶土や燃料等の集荷が困難になり始め、供給が絶たれる事で1718(享保3)年に閉窯となりました。釜山窯の閉鎖後、その特徴は対州(対馬)焼の各窯に引き継がれました。

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釜山周辺で焼かれた「朝鮮茶碗」は、御本との区別は難しいとされ、これらを含め「御本」と言っても差し支えないように思われます。今では伝来を元に分けている様です,「本来の高麗茶碗」を写した「御本三島」「御本呉器」「御本刷毛目」「絵御本」などがあります。殊に江戸時代に入り朝鮮との交易の窓口となった対馬藩では茶碗役人とも呼べる人々を派遣し茶人好みの茶碗を焼かせたものなどは「茂三(もさん)」「玄悦(げんえつ)」などといった名称を「対州御本」として残しています。

*堅手(かたで):堅手は李朝初期頃から焼成されている焼物。 素地や釉や手触りが堅そうなところから名前が付いたと由来される。磁器のように磁質の素地は堅手の特徴。白土で厚作、青白あるいは乳白色の釉がかかり、高台はどっしりとして、割高台が喜ばれる。 釉下に赤味の出たもののほうがよく、その最上品は緋堅手などと呼ばれる。

*御本堅手:土味・釉などが御本にちかいもの

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小生の浅学の範囲内において享保年間以前の「高麗御本堅手茶碗」と判断しました。



箱書は小堀宗中のものと判断しています。



決まりごとのひとつである高台は割高台ではありませんが、粗野な竹節高台がかえった実に武士の茶道の遠州流らしくて良いと思います。



家内は遠州流を習っているので、箱書や箱の作りについて知識はあったようなのですが・・・。

贋作の多い高麗茶碗、筋の通った作品は稀有ですが、果たして家内の目利きや皆様の鑑定は如何に。週末にはこの茶碗で一服・・・

山水図 & 羅怙羅尊者像 伝秋月等観筆

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掛け軸を展示する時には息子は脚立を持ってきたり、矢はずを持て来てくれたりして手伝ってくれますが、こちらはひやひやものです。



本日のように古い軸類は痛みが大きいので、外箱の保存箱を製作して保護しています。たしか友人の要らなくなった桐の箪笥を解体した材料で作った外箱です。



本日のような古い軸は表具なども当時そのままにして遺しておくように心がけています。

山水図 伝秋月等観筆
絹本水墨淡彩絹装軸時代箱二重箱(裏より補修跡有)
画サイズ:横450*縦350



この頃の作品は時代を愉しむものでもあります。



表具はいつの時代のものかは解りませんし、この時代の作品は伝来が明確でないと真作とも認められませんが、それなりに古くなっています。



あとは作品の出来が楽しめるものかどうかがポイントで作品を選んでいます。



雪舟の弟子という位置づけの画家ですが、この画家以降の画家は形式的になっていきます。



古い中国のくどい山水画を雪舟が日本画に昇華した作品の面影があります。



次の作品は羅漢を数枚の揃いで描かれた作品のひとつのようです。

羅怙羅尊者像 伝秋月等観筆
紙本水墨淡彩軸装 無落款 古筆鑑定書有
全体サイズ:縦1920*横600 画サイズ:縦1150*横465



無落款ゆえこれらの揃いの作品は秋月等観の作とは断定できないように思われますが、伝来から一応この揃いの作品は秋月等観での作で間違いないでしょう。

 

ずいぶんと汚らしい状態で売っていましたが、「面白いな」と思い購入した作品です。



この揃いは馬鹿にしてはいけません。売買はかなりの高値ゆえ・・。


寺院かどこかで揃いで所蔵されたいた作品がばらばらに散逸されています。



真贋もさることながら、仏画系統の作品は個人で所蔵しているのはどこかうしろめたい気がします。



仏舎利を見ている羅漢の姿ですかね? とぼけた表情がなんともはや・・、あくせくしているのが嫌になるくらいです。



表具はいわゆる仏具表具のようです。古くから仏画などには落款を記入しない、印章を押印しないのは通常であったようです。



古筆鑑定書なるものがありますが、当てにはしていません。さてこちらの作品も古そうな箱に仕舞われていますが外箱がありません。また桐の箪笥でも分解して作ろうかな・・・



さ~、室町期の作品・・・、刀剣と一緒に楽しみましょう。

脚立に乗って掛け軸の掛けかたを調整している小生、「お~い、矢はずを振り回すなよ! 危ないってば・・」

終わると「脚立、片付けようね?」だと・・、手伝ってくれるのはありがたいのだが

塩釉象嵌縄文碗 & 地釉縄文象嵌筒盌 島岡達三作  

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先週末には暖かくなったので家族4人で犬の体洗い。息子もお手伝い、愛犬は「4人がかりかよ、勘弁してくれよ。」と言っているようでした。急激な天候の変化か、幼稚園通園のせいか息子は鼻水に、夜は咳をする症状がありました。



予想したように一昨夜は息子が幼稚園から帰ってきてすぐに熱を出して病院へいったらしい。小生が帰宅すると安心したのかダウン・・。付き添うと寝ましたが、高熱と吐いて薬をもどしていまうということに・・。なんとかその後ぐっすり寝ました。生まれてから3度目の熱ですが、少ないほうと思っていましたが、幼稚園に通うようになるとこういうことが多くなるのでしょう。朝にはまだ熱が少しありますが、本人はいたって元気になりました。

さて前回、島岡達三の大皿の作品紹介にて取り上げましたが、平成天皇が退位を表明された会見に際して後ろに飾られていた作品は「島岡達三の象嵌の大皿」のようです。

その背景には下記のようなことがあると推察されている記事がありました。

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島岡達三の師である濱田庄司の元を天皇陛下が訪問されていたことがあります。詳しくはわかりませんが、そうしたご縁から島岡達三とも交流があったかもしれません。

最終的には島岡達三氏と現在の天皇陛下に直接の交流があったかどうかはわかりませんでしたが、栃木県益子町には、陛下ゆかりの場所「平成館」があります。元々は日光市に建っていた「南間(なんま)ホテル」を移築したもので、太平洋戦争終結を伝える昭和天皇の「玉音放送」を、皇太子だった陛下が聞いた部屋だそうです。朝日新聞によると、「しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、目がしらには涙があふれ光っていた」と、学習院軍事教官として立ち会った高杉善治さんが著書に残しているそうです。

1996年に天皇・皇后両陛下は益子焼などの地方産業視察のために益子町を訪れ、この部屋で昼食をとった際に、天皇陛下は疎開当時を非常に懐かしがったという記録が残っています。

宮内庁総務課によると、退位に触れたビデオメッセージを収録したのは御所の応接室だそうです。大皿などは普段からこの部屋に置かれているものだそうですが、詳細な品名や作者などは「分からない」との回答でした。しかし、読み上げられた「お気持ち」の冒頭は「戦後70年」で始まっています。益子焼は陛下にとって戦争終結と関わりのある思い出の品なのかもしれません。

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骨董と時代・・、いろんなことがあるものです。詳しくは島岡達三の大皿を紹介している本ブログの記事を参考にして下さい。

本日は島岡達三の茶碗二作品の紹介です。

塩釉象嵌縄文碗 島岡達三作
共箱
口径142*高さ75*高台径60



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島岡 達三(しまおか たつぞう):1919年(大正8年)10月27日 - 2007年(平成19年)12月11日)は陶芸家。東京出身。父は、組紐師島岡米吉。師は、浜田庄司。島岡達三は重要無形文化財「民芸陶器(縄文象嵌)」の保持者に認定されており、益子の土と釉薬を用いて、組紐を転がした器面の押し跡に化粧土を埋める縄文象嵌の技法を確立した陶芸家として活躍を見せました。



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栞から昭和40年頃の作品かと思われます。




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1938年(昭和13年) 府立高等学校在学中に日本民藝館を訪れ、民芸の美に目ざめる。
1941年(昭和16年) 東京工業大学窯業学科卒業。
1954年(昭和29年) 益子に築窯。
1964年(昭和39年) 日本民芸館賞受賞。
1980年(昭和55年) 栃木県文化功労章受章。
1994年(平成6年) 日本陶磁協会賞金賞受賞。
1996年(平成8年)5月10日 民芸陶器(縄文象嵌)で国指定の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
1999年(平成11年) 勲四等旭日小綬章受章。
2007年(平成19年) 12月11日没・享年88



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浜田庄司が再興した塩釉の作品ですが、浜田庄司や島岡達三の作品には、高台の畳付の貝殻の跡があるのが特徴です。



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縄文象嵌(じょうもんぞうがん):作品に縄目を施して色の違う土をはめ込む(象嵌する)技法です。その概要は成形した作品が半乾きの状態で縄を転がして模様をつけます。次に縄模様の凹んだ部分を含め、全体に化粧土を塗ります。そして乾燥したら表面を薄く削り取るという工程です。すると縄で凹んだ部分には化粧土が残り、もともと平らな部分は化粧土がはがれて下地があらわれます。本焼きはこれに透明釉をかけて焼成します。

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「塩釉」については本ブログを読まれている方はご存知かと思います。浜田庄司についての説明時に説明していますので、ここでは省略させていただきます。



見込みの釉薬の味わいが茶碗としての趣を深くしています。

もうひとつの共箱がない作品。インターネットで購入した作品で1万5千円程度で落札。手元に真作があると真贋の判断は容易です。島岡達三の茶碗ですと、値段の相場は共箱があっても5万前後、浜田庄司はその2倍から4倍程度です。むろん出来や釉薬、絵付のよって大きく違います。

地釉縄文象嵌筒盌 島岡達三作
合箱
口径120*高さ44*高台径60



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補足説明

島岡達三(しまおか たつぞう1919年~2007年):組紐師である島岡米吉の長男として東京に生まれます。組紐(くみひも)とは複数の紐をより合わせて織った紐のことです。のちの縄模様につながる重要な生い立ちといえます。



東京工業大学に入学した年の19歳のころ島岡氏は目黒区駒場にある「日本民藝館」でみた民芸作品に感銘を受けました。民芸運動の実践者である「濱田庄司」氏らの作品を見て心から感動し、民芸陶器を志そうと決心しました。そして民芸運動の中核メンバーである栃木県益子の濱田庄司を訪ねます。そして大学卒業後の入門を許されます。



戦時を経て復員後の昭和21年(1946年)、両親を伴い益子町に移り住み本格的に陶芸の道を歩み始め、濱田氏の門弟として陶技を磨きます。その後は栃木県窯業指導所に勤務します。そこで古代土器の標本を作るなど縄文土器の知識を深めます。



益子に移住してから7年、1953年に独立して自分の窯を持ちます。34歳のころでした。この時期には縄文象嵌の基本形は出来ていたといわれます。濱田とそっくりな物ばかり作っていたので、濱田氏から自分の個性を発揮した焼物を想像せよと言われた島岡氏。古代土器複製の仕事を手伝った経験や、組み紐師だった父の多種多様な文様、朝鮮李朝陶器の象嵌技術に大きな影響を受け、「縄文象嵌」という、独自の技法を生み出しました。すなわち縄文と象嵌の組合せです。



縄の文様は生家での実体験と、後年の縄文土器の復元で基本は身に付けています。さらに象嵌の技術は民芸に感動したという過去から、李朝の三島手などからヒントを得たものでしょう。こうした縄文象嵌に加えて、白い窓絵を設けて中に赤絵で描画したり、象嵌に青・黒色の土を用いるなど別の技法との組合せを試みています。



釉薬は透明釉である並白(なみじろ)釉が一般的に使われました。灰釉の一種で益子では馴染みの釉薬です。こうした独自の技法のほか、やはり濱田庄司の影響も当然受けていると思います。たとえばロウソクで白抜きした窓絵、釉の流しかけ、柿釉をはじめとする鉄釉・塩釉、赤絵の筆致など濱田氏の作風を範としながらも、島岡氏の作品には独特の世界を持っています。常に登り窯で焼く自身の原点を忘れることなく、その作品はゆったりとしたぬくもりのある温和な雰囲気の世界を表現しています。



師に続いて平成8年(1996年)に重要無形文化財保持者「人間国宝(民芸陶器・縄文象嵌)」に、2002年には、「栃木県名誉県民・第一号」に認定されました。2007年12月に没するまで、旺盛な芸術文化活動に奔走し「益子焼」の名を世界的に広めました。



生家での組紐から体得した技を縄目文様であらわし、象嵌と組み合わせる事で独自の境地を見出し、用の美という命題にしたがって益子における一つの作風を確立した陶芸家といえます。

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こちらの作品は最初の作品に比べると筒茶碗としても高さがあり、見込みが深いので茶碗としては使いづらい部類となります。正式な席での茶碗としては風格に欠けるきらいもあります。

民藝の作品に分類される茶碗はえてして風格という茶碗の持つべき最大の要所を持たないところがあります。このあたりを踏まえて民藝の茶碗は選定しないと、あとあと目が利いてくると飽きがくることになりかねません。

さて浜田庄司の贋作は多々ありますが、島岡達三の作品の贋作は小生はまだ見たことがありません。作品数が多く、また縄文象嵌の贋作が作りにくかったこともあるかもしれませんね。共箱が失われた作品とはいえ、小生にとっては共箱の有無は評価に関係ありません。



筒茶碗の浜田庄司と島岡達三の作品を並べてみたものです。やはり浜田庄司の茶碗には風格があります。



さて浜田庄司の作品と称するものには非常に贋作が多いようです。また窯作品、工房作品の作品も個人作として売られていますので要注意です。



何度も記述していますが、共箱の印に使われる朱肉は特殊なもので、この色がどす黒い朱であることがひとつの判断基準になります。ただこのことは大概の愛好家は知っているので、朱肉の色を変えたり、箱は本物、中身は偽物というややこしい作品が出回ることになります。

またこの印以外の印は工房作品か贋作です。ただ初期の作品はこの印でないこともあるかもしれません。花押のみというのは見たことがなく、本来は花押と印章はセットです。印章のかわりの花押だけの作品も疑ってかかる必要があります。



どのような本やインターネット記事にも真贋の見分け方など決め手になるよう記事は見当たりません。このブログがなんらかの参考になればと思いますが、インターネットオークションが広まる今こそ、真贋の区分をきちんとすべきでしょうね。



(月下)葡萄図-20 天龍道人筆 その32

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昨日に投稿をしていないのは、北陸方面に出張に出かけたり、また息子が熱を出したりで慌てて夜遅くの原稿の取り纏めをしたせいで、予約投稿の設定を一日間違えていたようです。

さて先週末には暖かい陽気となり、そろそろクマガイソウが咲くと思い観察していたら、土曜日にはまず一輪咲き、その後は続々と咲き始めました。



週末には各々、洗濯したり、布団を干したり、雑草を抜いたり、木の剪定したり、畑を耕したり、犬の体を洗ったり、各々の仕事をしていた手を休め、縁側で一服することにしました。



小生は息子とクマガイソウの観察・・、息子は「パパ、こっちも咲いたよ!」と嬉しそう。二群のクマガイソウがあり、立ち木が枯れてしまったので、クマガイソウは日陰に自生するので、人工的に日陰を作っておいたほうももうすぐ咲きそうです。



庭の隅には石楠花が咲いています。



椿も彩りを添えています。



ミツマタツツジも咲いています。



牡丹はピンク色のボタンから咲き始めました。



ヒメリンゴもまた・・。木の片側だけ咲かなくなったのが気がかりです。



貝母は意外に長く花をつけてくれています。



本日は寝室から眺める月が最近きれいなので、月の下にある葡萄を描いた天龍道人の作品の紹介です。天龍道人の作品は当方の蒐集対象の画家ですが、なかなか最近見かけなくなりました。

(月下)葡萄図-20 天龍道人筆 その32
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2015*横597 画サイズ:縦1341*横508



葡萄の画家と言われた天龍道人の作品です。




「天龍道人筆」とあり、印章には「天龍道人」と「萬座鎮東□庫之□□」の白文朱方印が押印されています。この累印は他の所蔵作品である「葡萄図-14 天龍道人筆 その25」と「葡萄図-16(三幅対) 天龍道人筆 その27」と同一印章です。

 

80歳前後の作と推察され、月を描いた葡萄図は非常に珍しいと思います。



天龍道人の作品については、先週届いた加島美術のカタログには一作品掲載されていましたが、葡萄を描いた作品ではありませんでした。



なおこの累印は2種類存在する可能性があり、「葡萄図-15(双幅) 天龍道人筆 その26」とは別印と思われます。天龍道人の作品にも贋作と思われるものが存在するでしょうからこの件はさらに検証する必要がありますが、おそらく今回の作品は82歳頃で、印章の違う作品は88歳という違いによるものかと推察されます。



本紙にはかなりの痛みがありますでの、再表具したようです。



幕末の作品ですが、それほど当時は著名ではなかった画家ですので、粗末に扱われていたのでしょう。



墨の滲み、勢いは鑑賞に値する作品です。「道人の名を不朽にしたのは、勤王の志ではなく葡萄(ぶどう)と鷹の絵事による。特に葡萄は絶品で、肉筆の大作も多く伝世する。画業にいそしむのは50歳を過ぎてから。道人は10代で郷里を離れ、二度と戻ることはなかった。時代や理由を思えば、帰郷は許されることではなかったのだろう。今やその名を知る人は地元でも少ない。」という評価が頷けます。



根津美術館でも展覧会が催されたことのある天龍道人、今一度再評価されるべき画家の一人には相違ありません。

四季図 色紙 川合玉堂筆

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週末には畑で大根の花を観賞・・。「えっ、これ大根・・。」「そうそう、実のなるものには意外にきれいな花が咲くのさ。」



前にもブログに投稿したように色紙の作品はいろんな飾り方があって愉しめるものと記述してありますが、掛け軸や額入りの日本画などは大げさで嫌だという方には色紙などが良いと思います。ちょっとお気に入りにものがあるといいですね。



本日は「四季図」(色紙四点)の作品の紹介で、四作品がひとつの色紙収納箱に納められている作品ですが、各々制作時期が異なることから、蒐集家が各々個別に蒐集した作品と推察されます。

A.「梅ニ鶯」  :印章「柿井軒」(朱文白方印) 落款:昭和20年~22年頃
B.「山邨」   :印章「玉堂」(白文朱変形印) 落款:昭和29年以降
C.「秋山行旅」 :印章「玉堂」 (朱文白方印) 落款:大正9年~昭和20年
D.「雪朝」   :印章「随軒」 (朱文白方印) 落款:昭和32年頃(最晩年)



色紙 A 梅ニ鶯 川合玉堂筆
絹本水墨淡彩 色紙タトウ
画サイズ:縦273*横242





 



色紙 B 山邨 川合玉堂筆
絹本水墨淡彩 色紙タトウ
画サイズ:縦273*横242









 


色紙 C 秋山行旅 川合玉堂筆
絹本水墨淡彩 色紙タトウ 川合修二鑑定
画サイズ:縦273*横242







 

 




色紙 D 雪朝 川合玉堂筆
絹本水墨淡彩 色紙タトウ
画サイズ:縦273*横242







 



右は他の登録番号のある真作の作品からの川合修二の落款と印章の写真です。なお鑑定の時期は多少ずれています。

*「秋の□ 川合玉堂画 清水比庵賛」(登録NOあり)との比較

 

むろん出来から真作と判断しています。印章や落款はある程度の知識として覚えておく必要がありますが、最終的な判断は絵の出来ですね。少し離れて観たときの品格があるかないかの差です。こればかりは現物を直に観ないと解りません。

古染付 楼閣文図皿

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本ブログのランキングはだいたい1500位のようですが、対象ブログ数は270万もあるそうです。その中でのランキングがどの程度のものかは知る由もありませんが・・。

さて古染付、明末赤絵、南京赤絵、天啓赤絵というほぼ同時代に日本からの注文で当時の中国で焼成され、現在はほぼ日本にしか存在しない陶磁器群です。当方の蒐集の本流ではありませんが、面白そうな作品に出会い、懐が許す場合にのみ都度購入しています。



左の鶏の作品の図柄は今年の年賀状に使わさせていただきました。



虫食い、砂高台、高台内の鉋跡は趣を愉しむ古染付の必須条件です。

今回もそういう作品のひとつです。一万か二万程度はしますが、インターネットオークションにより数多く出回っているようです。ただ、やはり本物の数はそれなりのようです。

古染付 楼閣文図皿
合箱
口径153*高台径77*高さ25













この歪みがまたいい・・。















写真がくどいくらい掲載しましたが、この洒脱な図柄は古伊万里にも古九谷にもない魅力です。

麦穂 平福百穂筆

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パパさんと同じジーパンをはいてベルトをしてご機嫌な息子。





ついつい羽目を外して、玄関に砂利を放りなげて小生に大目玉! 「しょげている図」であります。



本日は平福百穂の作品の紹介ですが、平福百穂の子息の鑑定箱書のある作品です。

麦穂 平福百穂筆 その
絹本金彩軸装 軸先鹿角 平福一郎極箱 
全体サイズ:縦1490*横490 画サイズ:縦400*横310









  

 

平福一郎の鑑定作品は数多くあり、舟山三郎氏の鑑定より信憑性が高いものと評価されています。下記の作品もまた平福一郎の鑑定があります。

菊に赤蜻蛉 平福百穂筆
紙本水墨淡彩絹装軸 平福一郎鑑定書付 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦260*横238





こちらの作品は箱書ではなく、鑑定書です。



鑑定箱書より鑑定書のほうが多いですし、鑑定箱書は珍しいと思います。



書体、印章は上記の箱の鑑定と一致すると考えていいのでしょう。

 

平福百穂は小品にも品格の高さがにじみ出ているものです。









息子が小生の鑑定をする時期がくるのでしょうか? 

源内焼 その91 三彩唐草文中皿五客揃

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男の隠れ家にあった祖父が依頼で製作させたと思われる御櫃・・。自宅での席で使用していたものでしょう。昭和57年に本家から戴いたものですが、漆が痩せてきて銀粉が剥がれてきていたので輪島の工房に修理を依頼していました。3月経過しこのたびなんとかもとのように使用できる状態になりました。

輪島塗銀吹御櫃揃 
御櫃:口径238*底径246*高さ110
台(膳):幅288*奥行289*高さ90
杓子:長さ247*幅62*高さ20



箱を誂えて保存もきちんとできるようにしていただきました。



修理前より少し銀粉の数、輝きは減少したようですが、漆が馴染むに従って少しは元の輝きには戻るかと期待しています。



梨地のような金粉の地の作品はよくありますが、銀粉による「銀吹」の作品は非常に珍しいと思われます。



この御櫃以外に膳、碗類がありますが、こちらも銀粉が剥がれてきたいるので少しずつ修復が必要です。



ムクの木で重厚な感じのする作品ですが、昭和の初めには各所の自宅にたくさんあったものです。



他に津軽塗、真塗など・・。



裏側に祖父が興した会社名が記されているのもきちんと書き直してくれています。



漆器の保存は傷つかないようにきちんとまず紙に包み、その上で布に包み、クッションで保護し箱に入れます。器が何であるか外から見て解るようにしておきます。いちいち箱を開けないと何が入っているか解らないというと漆器を傷つける原因になりますから・・。母は荷札を付けていました。



本日は久方ぶりに源内焼の作品の紹介です。

源内焼 その91 三彩唐草文中皿五客揃
合箱入
口径160~165*底径118*高さ35~38



五客別々にインターネットオークションに出品されていました。別々になるのが忍びなくてすべてを落札した作品です。



重ねて保存していたのでしょう。口縁の部分に釉薬の剥離がわずかに見られます。見込みの絵が健全なので保存状態は良いほうです。



源内焼は繊細な型のよる作品であり、また胎土が軟らかいので重ねて保存するのはよくありません。



釉薬の剥がれている部分は漆で補修しておきましたが、釉薬の剥がれの多い作品は補修跡が興ざめしますので、剥がれの多い作品は評価が大きく下がります。



揃いの作品を個別に売ったほうが、捌けやすいのでしょうが、揃いは揃いでが小生の蒐集のポリシーです。源内焼の小皿は揃いの作品は良く見かけますが、本作品にような中皿程度の大きさの揃いの作品は滅多に見かけなくなりました。もともと大名家や大きな商家に収めた源内焼ですので揃いの器が多かったはずなのですが・・。



今回の作品は保存用の箱がないのでまた誂える必要がありますが、費用が嵩みますがこれもまた蒐集のひとつの愉しみでもあります。



さてと何に使おうかな?



我が家の家族も調度五人、普段使いにも使えそうです。御櫃に中皿・・、ちょっぴり贅沢な食器ですかね

高麗期 呉器茶碗

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庭ではますますボタンが真っ盛り・・・。



ピンクも・・。



ホワイトも・・・。



そしてボタン色・・・。



それに加えてクマガイソウもまたますます満開。



ご存知かと思いますが、庭に自生するクマガイソウですが、日本では環境省により、レッドリストの絶滅危惧II類(VU)の指定を受けていて、多くの都道府県で、レッドリストの指定を受けています。園芸用の採取は控えるべきものです。



本日もまた高麗茶碗にチャレンジ・・・。

高麗期 呉器茶碗
合箱
最大口径129~132*高さ101*高台径55~56



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呉器茶碗(ごき ちゃわん):高麗茶碗の一種で、御器、五器とも書きます。呉器の名前は、形が椀形で禅院で用いる飲食用の木椀の御器に似ていることに由来するといわれます。

一般に、大振りで、見込みが深く、丈が高く木椀形で、高台が高く外に開いた「撥高台(ばちこうだい)」が特色とされます。素地は、堅く白茶色で、薄青みがかった半透明の白釉がかかります。呉器茶碗には、「大徳寺(だいとくじ)呉器」、「紅葉(もみじ)呉器」、「錐(きり)呉器」、「番匠(ばんしょう)呉器」、「尼(あま)呉器」などがあります。

「大徳寺呉器」は、室町時代に来日した朝鮮の使臣が大徳寺を宿舎として、帰国の折りに置いていったものを本歌とし、その同類をいいます。形は大振りで、風格があり、高台はあまり高くありませんが、胴は伸びやかで雄大。口辺は端反っていません。

「紅葉呉器」は、胴の窯変が赤味の窯変を見せていることからその名があり、呉器茶碗中の最上手とされています。

参考作品:呉器茶碗 銘「紅葉」 三井記念美術館蔵



「錐呉器」は、見込みが錐でえぐったように深く掘られて、高台の中にも反対に錐の先のように尖った兜巾が見られるのでこの名があります。

「番匠呉器」は、形が粗野で釉調に潤いがなく番匠(大工)の使う木椀のようだということでこの名があります。

「尼呉器」は、呉器の中では小ぶりで丈が低く、ややかかえ口なのを尼に譬えたものといいます。

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高台が反っている点などから呉器の特徴を備えています。



完全な兜巾高台ではありませんが、その趣はありますね。高台内の胎土が縮緬状になっているのが高麗期という決め手にもなるようです。磁器っぽい李朝とは一線を画しています。轆轤目がしっかり出ているのにも味わいがあります。



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呉器茶碗:「整った」「優雅な」茶碗というイメージがあります。「御器」や「五器」とも・・。
高麗物というと井戸茶碗や三島茶碗、ととや茶碗、御本茶碗などが相対的に数が多く(とは言ってもさほどではない)、呉器茶碗のようにより少数のものはあまり知られない傾向にあります。

この呉器茶碗は分類はいくつもあるのに対して伝来している数は非常に少ないようです。しかもどこでいつ何の用途で用いられたのかもあまりわかっておらず、謎多き茶碗であると言えます。それにも関わらず通常の高麗物に無い気品を持ち合わせているため茶人には珍重されました。

扱いとしては徳川将軍家の逸話も残る御本茶碗と似たところがありますが、御本茶碗は立鶴の茶碗など多くが出回ったのに対し、呉器茶碗は少数にとどまりました。呉器茶碗でも古いと言われ原点となっているのが、大徳寺呉器。謂れによると室町時代に大徳寺に逗留した朝鮮の使節が置いて行った茶碗であったのが由来してると伝えられています。林屋晴三氏は禅寺で使われていた根来塗りの御器に形が似ていたからつけられた名だろうと推察しています。

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本作品は御本の分類からすると、高麗期の「錐呉器」と推察されます。その根拠は錐呉器茶碗は特徴がはっきりしており、内部の見込みが深い茶碗を錐呉器に分類しているからです。。

高台の中にも反対に錐の先のように尖った兜巾が見られたり、高台に切り込みが入っているものが多いようです。高台の形は金海茶碗と似ており、関連性がある可能性もあります。本作品は切り込みが入っていませんが、その風情は却って趣が出ています。



高台は狭く小さいという特徴があります。釉薬に面白味があり、独特の斑点模様が出ていたりする呉器が多いようです。

ただこのような分類は後世に決められたもので、決まりごとで作品自体をああだこうだと分類するのにはおおいに抵抗がありますね。

結論は「基本的に高麗茶碗の錐呉器の雰囲気を持つ茶碗」ということでしょう。箱には「呉器」とのみ・・・。



如何せん、箱が小さくぎりぎり・・。基本的に通常の箱は左右5mmの余裕があるのが普通です。茶碗などをなんどか扱ううちに箱のサイズがきちんと決まっていないことが解るようになりますが、本作品は中身を入れ替えた?とはちょっと思い難いものがあります。


参考までにいくつか錐呉器茶碗の写真を投稿しておきました。

錐呉器茶碗 銘「山井」 



錐呉器茶碗 銘「張木手」 根津美術館蔵



錐呉器茶碗



参考で掲載した作品はすべて伝来の一級品ですので本作品と比べること自体が恐れ多いことですが、いずれにしても使う側の目利きにより評価は大いに変わるということ・・。使い込むと変化しそうな愉しみが多い茶碗のようです。

さて、ご覧の皆様は本作品を使ってみたいと思うかどうか・・。


晩秋新雪図 寺崎廣業筆 その54

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週末は家族の大半が風邪ですので、家の中でお遊び。息子と小生はプラレールにはまっております。ブロックのおもちゃも利用・・・。



童心に帰り過ぎて、三歳の息子とおもちゃのとりっこで大喧嘩・・。

さて本日は50作品を越えた寺崎廣業の作品の紹介です。

晩秋新雪図 寺崎廣業筆 その54(真作整理番号)
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 川合玉堂鑑定箱
全体サイズ:縦2120*横560 画サイズ:縦1260*横420

 

本作品は寺崎廣業の作品の中でも佳作の部類に入ります。





製作時期は大正になってから山水を中心に描いた頃ではないかと思われます。早くても明治40年頃から大正にかけての頃に制作された作品と推察されます。





多作の寺崎廣業ですが、このような出来のよい作品にはなかなか市場ではお目にかかれません。



表具も上等、箱の誂えも上細工です。



このような箱や表具の出来不出来もすぐに解るようになっておくといい作品と縁が出来やすくなります。



本作品は川合玉堂の鑑定箱書のある非常に珍しい寺崎廣業の佳作です。川合玉堂の鑑定は昭和20年頃と推察されます。横山大観、川合玉堂という巨匠の寺崎廣業の作品の鑑定箱書はあることはありますが、非常に珍しいものです。

 

このような代表的な落款や印章は頭に叩き込んでおく必要があります。資料を照査しているチャンスなど購入する機会にはまずありませんから・・。

 

参考資料
海邊之朝
加島美術出版 美彩21掲載 作品NO102
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 東美鑑定証書 廣業偉観所載
全体サイズ:縦2520*横1010 画サイズ:縦1510*横820



印章は他の当方の所蔵作品「竹石図」、「大黒天」と同一印章が押印されています。

 

最近、寺崎廣業の出来のよい作品を3作品ほど入手し損ねています。昭和24年の秋田魁新報社主催の展覧会に出品された「唐美人図」は横山大観による鑑定付でしたが、ネットオークションで100万を超えました。また展覧会に出品された「五柳先生」は20万を超えていました。「着物美人図」は状態や真作の度合いが低かったので見送りましたが・・・。

大人になっても、骨董品で取り合いで夢中になる・・・・??

富士山桜 茶碗 小林和作絵

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原三渓の作品を家内が物色しているらしい。そこで家内が「以前に購入した耳庵の色紙程度の作品はどこにいったかしら・」だと・・・

さ~、家捜し。記憶にはあるのだが、どこへ仕舞ったやら・・・。ようやく色紙専用の額の箱の中から出てきました



「玄妙」という未表装の作品。



ついでにおかげさまで中村餘容の色紙も出てきました。



色紙はタトウに入れて題名を描いておくのをなにやら忘れていたらしい。

 

このように整理が悪いとひとつ探すのに上から順番に額などを降ろして探さなくてはいけないことになります。

さて本日は小林和作という画家の絵付の茶碗の紹介です。

多作の風景画家と揶揄された小林和作という画家をご存知の方は多いと思います。ともかくあちこちで作品を見かけます。多作ゆえに評価が低いかというと、現在でもそこそこのファンは多く、評価が高い画家です。私も好きな画家の一人ですが、なかなか絵画作品を入手できないでいます。

富士山桜 茶碗 小林和作絵
窯 南大坊 共箱
最大口径125*高さ80*高台径



横山大観「霊峰富士」の作品と・・。



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小林 和作(こばやし わさく):1888年8月14日 ~ 1974年11月4日)は、日本の洋画家。作品は主に風景画。

1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。京都市立美術工芸学校卒。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒。同校在学中、弟四回文部省展覧会(文展)に初入選。1918年(大正7年)、日本画から洋画に転向し、1920年(大正9年)鹿子木孟郎の画塾に通う。



大きな転機が訪れたのは33歳のとき、郷里の父が急逝し当時の金額で500万円もの莫大な金額を相続した。これを機に洋画への転向を決意し上京。 梅原龍三郎、中川一政、林武の作品に感銘を受け、経済的援助を申し出る。その交換条件は彼らの指導を仰ぐことであった。



上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。多くの画家が貧困にあえぐ中、和作は富豪画家と呼ばれた。



1924年(大正13年)、第2回春陽会に「夏の果実」を出品し初入選。1927年(昭和2年)、春陽会会員となる。1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)まで渡欧。43歳のとき小林家の全財産を管理していた弟が事業に失敗、一夜にしてすってんてんになった。1934年(昭和9年)春陽会を脱会し独立美術協会会員となり、友人のつてで広島県尾道市に移り住む。



以後亡くなるまで40年間尾道にあって創作活動を続ける一方、地方美術界に於いて指導的役割を果たす。また文化の振興にも意を注ぎ、物心両面から援助した。これらの功績から1952年(昭和27年)中国文化賞、1953年(昭和28年)芸術選奨文部大臣賞、1971年(昭和46年)勲三等旭日中綬章などを受けた。尾道市名誉市民、秋穂町名誉町民。





広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、訪れていた郷里の山口から午前4時の汽車で尾道に帰る予定だったが、急用ができたため午前8時に乗車。その15分後に原爆が投下され汽車が緊急停車し、被爆の難を逃れている。





1974年(昭和49年)、広島での写生旅行中に誤って転倒し、頭を強打して死去。享年86。命日の11月4日には毎年、西國寺で和作忌が開かれている。「天地豊麗」という言葉を好んで使った。

 

 

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和作にとって絵とは構図が全てであった。『私は構図という青い鳥をいつまでも捜し廻る一人のさ迷える日本人である』という文を遺しています。



経歴から陶磁器への絵付けの記録は下記のものがあります。

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昭和32年3月東京日本橋・高島屋美術部開設五十周年記念展に「野尻湖」を出品。その秋、長門市の深川萩焼の坂田泥華をたずね、三十数枚の皿などに絵付けし、香月泰男と二枚の大皿に絵付けする。



昭和44年2月、東京国立近代美術館へ「アマルフィ風景」「人形を持つ娘」「「伯耆大山の秋」「入海」「秋山」「北国の春」「海」の7点を寄贈。その四月、三十年ぶりに上京し、梅原龍三郎、中川一政、林武、高畠達四郎、鳥海青児、野口弥太郎、里見勝蔵らを訪問した。帰途、木曽へまわってスケッチし、京都で絵付けをする。

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なお昭和18年頃より和作はサインをローマ字から漢字に変えています。

 

箱はきちんと開けなくても中の作品がどのようなものか解るようにしておきます。収納する棚から取り出す時や箱を開ける回数を少なくすることが、蒐集作品を傷めないようにする最上の策です。

さて、家内は原三渓の作品を入手したようです。軸先はなく、紐も短く、状態の悪い掛け軸でしたが、さてその出来栄えは・・・、後日また。


粉引風茶碗 虎渓山水月窯(荒川豊蔵作) 二点

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*明日から連休は帰郷しますので、ブログはしばし休稿です。予定では5月6日に帰京・・。

あらたな骨董との出会いがあるのか愉しみですが、いまのところそのような予定はありません。男の隠れ家であらたな物色をしようかと・・・。

ブログに投稿する新たな作品も少なくなりましたが、当ブログは作品の整理と継承を目的としており整理が進んでいる証でしょうか。

ところで豊洲問題・・、心配したとおりになってきていますが、地下水の処理対策を先行し移転すべきところを、責任追及ばかりを優先し対応が遅れた大きな責任は現知事にあります。素早い対応が求められます。

さて荒川豊蔵の品というとなんといっても志野焼の作品ですが、こちらは高嶺の花の作品です。日本を代表する志野焼の陶芸家というと加藤唐九郎、荒川豊蔵がなんといっても第一人者でありますが、続くのは北大路魯山人、加藤孝造でしょうか? 現在では鈴木蔵が著名です。

今回は荒川豊蔵の作品の紹介ですが、残念ながら主流の作品である志野焼の作品ではなく、荒川豊蔵が晩年に子息と興した水月窯で焼成した「粉吹風茶碗」の二作品の紹介です。冒頭の写真の一作品目(写真左)は真作と断定していますが、二作品目(写真右)はまだ断定には至っていませんのでご了解ください。

一作品目については下記の作品です。

粉吹風茶碗 虎渓山水月窯(荒川豊蔵作)その2
共箱
高さ88*口径122*高台径57

友人がこの作品とほぼ同様の作品(この作品との違いは出来は同等で箱書に「水月窯」という書き込みあったことくらいの違い)を思文閣に20万で売却したのに立ち会ったことがあります。

その時の思文閣の担当の方の弁によると、豊蔵が晩年の作で、轆轤は自分でひいていない可能性のある時期の作とのことでした。20万という引取り値段が高いのか安いのか当方では判断がつきかねましたが、後日本作品を入手した際には同じ作品かと思うくらいに同様な作でした。


 
前述のように轆轤は荒川豊蔵自身では行なっていなかったのではないかという思文閣の方の見解でしたが、あらためて作品を良く見ると、この作品は自分で轆轤を引いた可能性のある作品と当方では推察しています。その理由はやはりその作の洒脱さにあります。胎土からでた石はぜの跡などは実に趣があります。志野焼の最盛期の頃の荒々しさは控えられ、茶味が良く出ています。



少なくとも釉薬は自分で掛けているのでしょう。このような茶碗は経験の成せる技、ベテランの味というものでしょう。



ふたつの茶碗の描き銘は下記の写真のようになっています。



人気の志野茶碗もいいでしょうが、その対極にあるこのような茶碗は年齢や経験を経た人間にはたまらない魅力があります。人に優しいという表現が良いのかもしれません。一つ目のこの作品は荒川豊蔵の作品に相違ないでしょう。

さてもうひとつの水月窯で造られたと思われる作品は下記の作品です。

こ引き(粉引)風茶碗 虎渓山水月窯(荒川豊蔵作) その3
共箱
口径130*高台径*高さ80



共箱の比較は下記の写真です。ちょっと製作時期はずれているのでしょうか? 箱書に差異が感じれます。



見込みの比較は下記の写真のとおりです。



胎土に違いがあるのか手取りの重さも少し重く、釉薬の下地処理にも違いがあるようです。釉薬を透明釉薬で下地処理していない作りの違いが「粉吹風」と「こ引き風」の違いなのもしれません。

*「こ引き風」という茶碗の真作は実在します。むろん箱書は同一のものです。



釉薬を掛けた時の持ち手は下記の写真のようだったのでしょう。違和感はありません。



釉薬そのものには大きな差異はないように思います。



轆轤は荒川豊蔵の自身によるものかどうかはちょっと解りません。



水月窯で制作した荒川豊蔵の作品は、本作品で三作品目となりますが、最盛期の志野焼の逸品はいつか入手してひかくしてみたいものです。水月窯での作品は出来不出来はありますが、意外に手頃な値段で入手できます。ただし、荒川豊蔵の銘がないと水月窯の作品は評価が格段に下がりますので要注意です。



荒川豊蔵以外の水月窯の作品は良きのつけ悪しにつけ、荒川豊蔵のコピーの域を脱しきれていません。紅梅の絵付の茶碗がさも荒川豊蔵の作品のごときに売られているのはどうかと思うこともあります。



家内曰くこのふたつの作品を比較して、ふたつ目の作品を「いいね。」だと・・・。たしかにそういう見方もある・・・



小生は見た目より少し重く感じるのが気になりますが、こればかりはふたつを手にとってみての比較であり、ひとつだけ持ったときには違和感がないものです。ほんの僅かの差、こればかりは手に持ってみないと解らない感触です。茶碗は見て、持って、使わないと良否は判断がつかないのはこういうところかもしれませんね。茶碗の良否を問うことですが、これは真贋とは無縁のところ・・・。



ふたつ目の作品しか所有していないと真作と完全に思い込むのでしょうが、ふたつを比較することで判断できることが多々あるものです。

比較すると真贋について良く解るかというと決してそうではく、ますます迷路に入り込むものです。結果としてプロとして売買するなら一つ目の作品は売買対象とはしないでしょう。ただふたつ目の作品を贋作とは断定はしていません。というかおそらくふたつ目の作品もほぼ真作に相違ないだろうと思っています。


ただしこちらはアマチュアですので、大いに愉しみます。このふたつを使っての茶事もまた一興・・・、ただし目利きの方のみの席

荒川豊藏については万人の知るところですが、下記の記事を紹介しておきます。

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荒川 豊藏(あらかわ とよぞう):1894年3月21日 ~ 1985年8月11日)。昭和を代表する美濃焼の陶芸家。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。斗出庵、無田陶人と号す。

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戦後すぐの昭和21年、52歳で水月窯を興しています。

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出生から修業時代
1894年(明治27年)(0歳)3月17日 - 岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれる。豊蔵の母方は多治見市高田で製陶業を営む 陶祖・加藤与左衛門景一の直系で、豊蔵は桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いで生まれた。
1906年(明治39年)(12歳) - 多治見尋常高等小学校高等科卒業。神戸の貿易商能勢商店で働く。
1907年(明治40年)(13歳) - 多治見に戻り、地元の陶磁器貿易商木塚商店で働く。
1911年(明治44年)(17歳) - 従妹(父の弟の次女)の志づ(14歳)と結婚。
1912年(明治45年)(18歳) - 神戸の親戚のもとで陶器商を手伝う。
1913年(大正2年)(19歳) - 長男武夫生まれる。
1915年(大正4年)(21歳) - 以前多治見で小僧として働いた木塚商店が名古屋で商売を始めたことを聞き、名古屋に移り住んで働く。

宮永東山と東山窯時代

1919年(大正8年)(25歳) - 名古屋の教育者鈴木勲太郎と知り合い、彼の研究による特殊絵の具で手描きの上絵付き高級コーヒー茶碗をプロデュースする。生地は瀬戸の菱松から購入し、絵付けは名古屋出身の日本画家近藤紫雲に依頼した。このコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛に持ち込んだところ高価で買い取ってくれ、更に「この品をもっと作ってみなさい。引き受けます。」と言われたため、独立して上絵磁器製作の事業を起こすことを決意。この時錦光山の顧問をしていた宮永東山に引き合わされる。

1922年(大正11年)(28歳) - 上絵磁器の事業に失敗して、心機一転、子供のころから得意であった絵描きを志す。宮永東山を頼って手紙を出すと「すぐこい」との返事をもらって京都に行くと、いきなり東山窯の工場長を任される。京都では旧大名家や名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得る。

北大路魯山人と星岡窯時代

1925年(大正14年)(31歳) - 東京の星岡茶寮で使う食器を研究するために東山窯に訪れた北大路魯山人と会う。魯山人は約1年間逗留し、その間親交を深める。
1926年(大正15年)(32歳) - 次男達生まれる。
1927年(昭和2年)(33歳) - 北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ。魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かした。(星岡窯では自分専用の轆轤を持ったが、東山窯、星岡窯時代の豊蔵は陶工というよりはプロデューサー/マネージャーで、本格的に作陶を始めるのは大萱に窯を築いてから後のことである)

古志野との出会い

1930年(昭和5年)(36歳)4月6日~10日 - 魯山人が名古屋の松阪屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日、魯山人と豊蔵は古美術商の横山五郎から名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらう。茶わんの高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持つ。その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った大平、大萱の古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野が美濃で焼かれたことを確信する。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の全貌を明らかにし、いつかは志野を自分の手で作ることを決意した。

大萱窯

1933年(昭和8年)(39歳) - 星岡窯をやめて多治見の大萱古窯跡近くに穴窯をつくる。作陶は豊蔵と長男の武夫、弟子の吉村義雄の三人で行った。最初の窯は初窯で豊蔵自身意識を失って倒れるまで三晩四日かけて焚き続けたが温度が上がらず、瀬戸黒が一碗焼けただけで失敗に終わる。
1934年(昭和9年)(40歳) - 最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作する。
1935年(昭和10年)(41歳) - ようやく満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促すが、豊蔵はこれを辞退し以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶する。

戦中・戦後

1941年(昭和16年)(47歳) - 大阪梅田の阪急百貨店で初個展を開催。
1946年(昭和21年)(52歳) - 多治見市にある虎渓山永保寺所有の山を借り受け水月窯を作る。水月窯は大萱窯とは異なる連房式登り窯で、染付、色絵、粉引や、生活のため日用食器の量産を行った。
1955年(昭和30年)(61歳) - 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される。日本橋三越百貨店で戦後初の個展を開催。大成功に終わる。
1960年(昭和35年)(66歳) - 宗達画・光悦筆 鶴図下絵三十六歌仙和歌巻(重要文化財:現京都国立博物館蔵)を発見し入手する。
1968年(昭和43年)(74歳) - 妻志づ死去。
1971年(昭和46年)(77歳) - 文化勲章受章。
1975年(昭和50年)(81歳) - 唐津の西岡小十窯、有田の今泉今右衛門窯で作陶・絵付け。
1976年(昭和51年)(82歳) - 萩の三輪休和窯他で作陶。
1977年(昭和52年)(83歳) - 信楽、備前、丹波の各窯で作陶。
1978年(昭和53年)(84歳) - 萩、唐津、備前の各窯で作陶。
1984年(昭和59年)(90歳) - 大萱窯の地に豊蔵資料館(現・荒川豊蔵資料館)開館。
1985年(昭和60年)(91歳) - 8月11日 死去。

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北大路路山人以外にも荒川豊蔵は関わりを持った人が大勢いるようです。

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他の陶芸家や画家との関わり

加藤土師萌
豊蔵が古志野筍絵陶片を発見した当時多治見陶磁試験場に勤務していた土師萌は、豊蔵が古志野の破片を発掘した話を聞いて、豊蔵の投宿先に破片を見に来る。また、1924年(大正13年)、豊蔵と共に久尻清安寺境内の古窯跡を発掘。

小山冨士夫
豊蔵が東山窯にいたころ、京都の真清水蔵六のもとで陶芸を学ぶ。京都の愛陶家が集まって開催した古陶研究会に参加し豊蔵と知り合う。後年豊蔵が大萱に築窯した後は頻繁に大萱を訪れ、1972年(昭和47年)には近くの五斗蒔に自分の窯(花ノ木窯)を築いた。

川喜田半泥子
1940年(昭和15年)、豊蔵と共に京都鳴滝の尾形乾山窯跡を調査した。

川合玉堂
少年期を岐阜で過ごす。東山窯時代、豊蔵は宮永東山の命により玉堂に絵付けを依頼する。1951年(昭和26年)再会し、その後茶わんの絵付けを何回か依頼した。

前田青邨
豊蔵と同じ岐阜県、中津川の出身。青邨が手なぐさみに作った手びねりの香合を百点近く豊蔵が焼いた。また、1961年(昭和36年)大萱を訪れ、瀬戸黒茶碗に梅の絵の絵付けをする。1962年(昭和37年)には再度大萱を訪れ、陶画を制作。鶴図下絵三十六歌仙和歌巻の写真を見せた際、「荒川さん、あんた、こんなもの持っとったら、一生仕事せんでええことになるなあ」と冗談を言って笑い合った。 1962年(昭和37年) 日本橋三越にて香合60点と茶碗の絵付け数点、豊蔵の志野焼、瀬戸黒20余点を賛助出品として展示した「荒川豊蔵先生賛助 前田青邨先生喜寿記念陶展」が開催された。

熊谷守一
豊蔵と同じ岐阜県、恵那郡付知村(現在の中津川市付知地区)出身。豊蔵は守一の絵、人柄、生活態度に引かれ、守一の東京の自宅を訪問したことがある。1967年(昭和42年)には志野茶碗に絵付けをする。
奥村土牛
1935年(昭和10年)頃豊蔵と知り合う(わかもと社長:長尾欽弥宅?)。その後もしばしば顔を合わせ、昭和41年には豊蔵と共に岐阜県根尾村(現在の本巣市根尾地区)の淡墨桜を写生した。

平櫛田中
1964年(昭和39年)に東京日本橋の三越百貨店で開かれた豊蔵の大萱築窯三十年記念展に展示された黄瀬戸花入を、茨城県五浦の岡倉天心像の前に備える花入にしたいと懇望したところ、豊蔵はこれを茨城大学五浦美術研究所に寄贈した。
細川護立
肥後熊本藩細川家第16代当主で旧侯爵、美術コレクションは「永青文庫」で著名。豊蔵が京都東山の南禅寺を訪れた際に知遇を得る。南禅寺は、豊蔵の家の菩提寺である虎渓山永保寺の本山で、また細川家の祖先細川幽斎の墓がある寺でもあり、近くに細川別邸がある。1964年(昭和39年)に東京日本橋の三越百貨店で豊蔵の大萱築窯三十年記念展が開かれた際、その案内に「初期魯山人の作品は豊蔵に負うところが多大である。魯山人は豊蔵から技術を学び、豊蔵は魯山人の不覇奔放の気概を自分の物にした」と書いている。

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水月窯についての詳細は下記によります。幾つかの記事を列挙しています。

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水月窯

荒川豊蔵氏が、昭和21 年に多治見市虎渓山町に開いた窯。開窯から現在に至るまで、荒川豊蔵氏と豊蔵氏の二人のご子息が中心になり、全工程を手作りで行う伝統的窯業生産を守り続けてきた。水月窯は、平成22 年2月、唯一の美濃窯伝統的窯業生産を行う窯であるとして、多治見市無形文化財に指定された。

荒川豊蔵は、昭和5年に可児市大萱牟田洞で筍絵の志野陶片を発見した後、昭和8年に牟田洞に窯を築き、志野、瀬戸黒、黄瀬戸など桃山陶の再現を試みた。その一方で、牟田洞の窯とは別に、美濃の伝統を生かしながらも、一般家庭向けの陶器を提供したいという思いで水月窯を築いた。

水月窯の運営は、二人の子息が中心になって行われ、豊蔵は、たまにやってきては、牟田洞の窯では焼くことのできない染付、粉引、赤絵などの作品を制作した。これまで一般的に、「志野を復興した荒川豊蔵」というイメージが強かったが、水月窯の姿から、志野や桃山陶にとどまらず、美濃窯の伝統を技術的な面から追求し現在に伝え残した。

昭和21(1946) 年、豊蔵は、虎渓山永保寺から土地を借り受け、虎渓山町に新たな窯を築く。それは、志野や瀬戸黒を焼く牟田洞の窯とは別に、一般の家庭において日常生活で使われるための食器を作るという目的で、なおかつ、2人の息子が中心となって運営するようにと考えての開窯だった。窯は、国宝・永保寺観音堂が別名水月場といわれることにちなみ、当時の永保寺老師・嶋田菊僊によって「水月窯」と命名された。

昭和21 年、家族が協力して整地を始め、モロや連房式登り窯などからなる美濃窯の伝統的な窯場を作りあげ、翌22(1947) 年に初窯を迎える。息子の武夫・達兄弟とロクロの職人1名で、水月窯の運営が始められた。

水月窯は、このときから現在に至るまで、全く方法を変えず、土作りから上絵付焼成にいたる全行程をいっさい手作りで行う美濃窯の伝統的窯業生産を守り続けている。豊蔵の牟田洞の窯は、半地上式単室の穴窯(大窯)で、志野や瀬戸黒を焼成するための窯であった。それに対する水月の窯は、連房式登り窯という複数の焼成室が連なる地上式の窯で、江戸時代以降に美濃に広まる種類である。穴窯(大窯)と連房式登り窯とでは、焼成できるやきものの種類が異なり、水月の連房式登り窯では、粉引、染付、唐津風、赤絵素地が焼成された。

水月窯の運営は、豊蔵の2人の息子たちによって行われていたため、豊蔵は、たまに水月窯にやってきては、牟田洞の穴窯では焼成できない染付や赤絵などの作品を、気の向くままに作っていた。自らロクロをひいて作る場合もあり、職人がロクロびきした器の中に、気に入ったものがあるとそれに絵付けをする、また、新たに水月窯の製品として作られたものには見本として絵付けをするといったことも行った。

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安土桃山期の志野焼を復興したというイメージの強い荒川豊蔵ですが、本来の日常使う美濃焼の器を広めたという役割を果たしということも忘れてならないでしょう。

そして力強い志野焼から最終的には枯淡に器を製作したということも・・。

さて明日から帰郷・・、のんびりしようかと思っています。「東北でよかった」を満喫するつもりです。投稿の復活はゆっくり静養したあと・・。

贋作考 青磁茶碗 伝板谷波山作

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贋作考

青磁茶碗 伝板谷波山作
共箱
口径135~136*高台径60*高さ79





  

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板谷 波山(いたや はざん):1872年4月10日〈明治5年3月3日〉~1963年〈昭和38年〉10月10日)。明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷嘉七。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本におけるのちの最も初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。

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板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。

上京して2年後の1889年(明治22年)9月、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、1898年(明治31年)もしくは翌1899年(明治32年)には最初の号である「勤川」を名乗り始めた。

1903年(明治36年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年11月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と窯場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。1906年(明治39年)4月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。

波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞している。その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)12月3日には帝室技芸員になっている。

第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。波山の「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負が辞退の理由であったと言われている。

1963年(昭和38年)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師(ろくろし)・現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院する。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。享年92、満91歳。絶作(最後の作品)となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。墓所はJR山手線田端駅近くの大龍寺境内にある。

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轆轤(ろくろ)師・現田市松

波山の作品には青磁、白磁、彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という釉(うわぐすり)がある。これは、器の表面に様々な色の顔料で絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉で被うものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表した後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。

波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤師を使っていた。初窯制作期の1903年(明治36年)から中国に招聘される1910年(大正9年)まで勤めた佐賀県有田出身の深海三次郎(ふかみ みつじろう)と、その後任に当たった石川県小松出身の現田市松がそれで、とりわけ現田は波山の晩年に至るまで半世紀以上にわたるパートナーであった。

「珍果文花瓶」は2002年(平成14年)、国の重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品と共に、明治以降の陶磁器としては初めての国の重要文化財指定物件となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定史跡として板谷波山記念館内で保存公開されている。

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観音像・香炉と鳩杖

波山は、東京田端で長きにわたり陶芸品の制作活動に打ち込みながら、生まれ故郷の下館にも想いを寄せ続けていた。故郷に帰省した際には、文化財の修復や保存、工芸展や観能会の開催、小学校の運動会への寄付をしたり、祇園祭のお囃子の伝授を行ったりもしていた。

1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、下館の町で戦死者が出始めた(下館から出征した最初の戦死者は波山の実家「板善」の縁者であったといわれる)。波山は各遺族宅へ自ら弔問に訪れ、「忠勇義士」の文字を刻んだ自作の白磁香炉を霊前に供えた(その数は42点にものぼるといわれる)。

その後戦死者はさらに増え続けていったため、波山は香炉の贈呈について中断し、あらためて戦後に自作の白磁観音像を贈ることとし、1951年(昭和26年)4月29日と1956年(昭和31年)7月10日の2回にわたり、故人の名前と波山の銘が記された桐箱に収められた観音坐像が、計271名の遺族へ贈られた。

また1933年(昭和8年)、実家「板善」を継いだ義兄が82才となり、自作の鳩杖を祝物として贈ろうと考えたことをきっかけとして「兄だけでなく故郷旧知の方々にも同じく祝物を」と考え、下館町の80才以上すべての高齢者に自作の鳩杖が贈呈された。こちらも、絹の袋に入れてから桐箱へ収め、さらに熨斗付きの奉書でつつみ水引で結んだものを、自らが一軒一軒を回り、直接本人に手渡している。鳩の部分には鋳物と白磁の2種類あるが「最初は私得意の焼物で鳩を作ろうかと思いましたが疵(きず)でも出来るといけぬと(思い)、合金の鋳物にしました。杖は狂いの出ぬよう南洋産の木を用い、女の方には赤みのところ、男の方には黒味を使いました」と波山は語っている(太平洋戦争中、鋳物から白磁に、桐箱から和紙の袋に変わった)。以来、自らの住まいと窯が東京大空襲で破壊され、故郷へ疎開していたあいだも含めて休むことなく、自らが80才となる1951年(昭和26年)まで私費で毎年続けた。

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良く出来ている青磁のお茶碗ですが、このようなピンホールのある作品を板谷波山が後世に遺したか否かがひっかかります。



ただ伝世の一級の青磁といえどもこのようなピンホールや釉薬の垂れ幕状のものはつきものですが・・。作品への印も見慣れた印とは違う印のようですが、当方ではこの印は確認できていません。



茶碗の参考作品としては下記の作品があります。

参考作品
黒飴釉茶碗 黒飴瓷
2013年01月10日「なんでも鑑定団」出品



「妥協を一切許さず、わずかな傷やムラがあれば打ち壊した。その為1年に発表できる作品はわずか20点ほどであった。波山が目指したものは焼物における絵画性を確立することで、すなわち江戸時代から脈々と受け継がれてきた伝統的な色絵では、明確な輪郭線で絢爛豪華な絵付けを施してきたが、波山はこれを否定し色彩の微妙な変化やグラデーションによる可能性を模索した。」と説明されています。

さらには「昭和10年代の前半、60代半ごろの最も円熟した時期の作品。波山はこの時期になると形を際立たせる為に、ほとんど装飾というものをやめてしまう。箱の表には「黒飴瓷・こくたいじ」とある。飴釉は大変不安定でムラが出来やすい。」と説明されています。

紹介されている記事には下記の天目茶碗がありました。



「形を際立たせる」とはまさに言いえて妙なる作品です。完全無比なる轆轤形成と釉薬の仕上がりです。 



作品の表の箱書と本作品と同時期の青磁香炉の落款と印章は下記のとおりです。

 

上記の箱の写真と比較しても・・・・、 ここまでの贋作ならお見事!

*申し訳ありませんが本日の作品は当方では真作とは断定していない作品です。

圓能斎好桑莨盆 象彦(八代西村彦兵衛)作

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今回の帰省に際して男の隠れ家から物色した作品。代々家に伝わる漆器の品々のひとつ・・。

圓能斎好桑莨盆 象彦(八代西村彦兵衛)作
十客揃いのうち八客 
作品寸法:縦*横*高さ

 

箱書にある「圓能斎」は茶道裏千家十三代家元のことでしょう。

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圓能斎:13代円能斎鉄中宗室のこと。1872年~1924年8月5日。

圓能斎:又玅斎の長男。幼名は駒吉。北白川宮・小松宮両親王より円能斎・鉄中の号を賜る。衰微した茶道の復興に努め、門弟の指導・講習・月報の発刊と軌道興隆に尽した。大正13年(1924)歿、53才。

裏千家11代玄々斎精中は10代認得斎柏叟の女婿として10歳のときに奥殿藩大給松平家から養子に入った人である。それまでの歴代が禅的消極的であったのに対し、茶道以外にも華道、香道、謡曲などに通じていて、茶箱点や立礼式の創始、和巾点の復興など、明朗で積極的な人であった。立礼式は明治5年(1872年)の博覧会に際して外国人を迎えるための創案であり、また同じ年に『茶道の源意』を著して茶道は遊芸とする風潮を批判するなど、幕末から明治の変動の時代に合わせた茶道の近代化の先駆として評価されている。明治4年、京角倉家から養子に入ったのが、12代又玅斎直叟である。明治の混乱期の中、新しい裏千家の基礎固めに努め、34歳で家督を長男駒吉(後の13代円能斎鉄中)に譲ったのちも側面から流儀の伸長をはかった。円能斎は明治29年まで6年にわたって東京に居を移して協力者を求め、京都に戻ってからも教本の出版や機関誌 「今日庵月報」などの発行を通して一般への茶道普及に尽力した。また女学校教育の中に茶道を取り入れ、かつ教授方針の一致をはかる講習会を催すなど裏千家茶道の組織化にも力を注いだ。その他、三友式の創始や、流し点や大円点の復興などの功績がある。

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桑でできている煙草盆ですが、莨(たばこ)という漢字を用いています。莨という漢字はチカラシバも表すようです。この「良」の部分は、「富」が変化したという説、穀物を精製したことを表すという説があるようです。

他の投稿にもあります黒柿の煙草盆の底に用いられた桑やもうひとつの桑製の煙草盆などでも記述していますが、この底板に用いられている桑の木の板は現在はかなりの貴重品ですし、当時でも珍しかったと思います。

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象彦:寛文元年(1661年)、象彦の前身である象牙屋が開舗、漆器道具商としての道を歩み始めます。朝廷より蒔絵司の称号を拝受した名匠・三代目彦兵衛が晩年「白象と普賢菩薩」を描いた蒔絵額が洛中で評判となり、人々はこの額を象牙屋の「象」と彦兵衛の「彦」の二文字をとり、「象彦の額」と呼びました。それ以来の通り名が時を経て、また、信頼を深めて今日に至っています。四代目彦兵衛は仙洞御所の御用商人をつとめ、六代目は風流の道に通じ数々のお好み道具を制作しました。八代目は漆器の輸出を行漆器貿易の先駆者と呼ばれ、京都蒔絵美術学校なども設立しました。現在も当主をつなぎ、蒔絵の高級品だけでなく、日常使いの食器やインテリアなど幅広く展開、新たな可能性を広げるべく海外企業やクリエイターとのコラボレーションも積極的に行い、京漆器の語りつくせぬ魅力を世界に広げていく歩みを続けています。

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「圓能斎」と関わりのあった象彦作というと・・。八代西村彦兵衛とぴうことになります。


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1910年八代西村彦兵衛が象牙屋を継承。継承当初は7世代目の当主として「七世 象彦」と箱書をしていた。皇室関係の御用関係では大正天皇御大典に際し御料車内の蒔絵装飾、大宮御所、二条城、御饗宴場の塗り・蒔絵工事の奉仕を行う。昭和天皇御大典に際し京都御所塗替工事を行う。そのほか皇族からの下賜品の製作、皇族・国賓への献上品の製作など数々の名品を製作。




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持ち手の部分の細工や四隅の光の入る細工は見事です。蒔絵のような派手さはないですので、この渋さが大切なのでしょう。



十客揃いの共箱に八客しか納まっていません。ま~、宴会の席で気に入った方が持っていったのかもしれません。大概の揃い物は20客~30客揃いが多いので、まだ男の隠れ家は未整理ですから出てくるかもしれませんが・・。

ところで八代西村彦兵衛の作品というと、2012年07月18日 なんでも鑑定団出品作に歌手の石川さゆり所蔵の象彦の手箱があります。石川さゆりさんは実は骨董好きでたびたび骨董店を訪ねては色々な品を購入しているとのこと。親近感が湧きますね。

骨董の魅力は品物との出会いと昔の職人の思いを感じることだ仰っておられます。コレクションの中でも自慢の品を持って登場したという解説がありました。



蒔絵の高度な技法を駆使し、梨地も質のいい金粉を使っています。



作風からすると昭和の戦前期の作とのこと。八代目が最も力のあった時代の作品だそうです。大きさ(容積)が特殊なので誰かが特注したものだろうとのこと。状態も良く、ほとんど傷がついていないので評価が高いらしい。



蓋の裏に落款があり、八代目象彦の作品と断定できるようです。



上記の本作品も戦前の作ですし、落款・印章は同一と判断してよろしいでしょう。むろん600万は蒔絵でも高いほうですので、本作品はいかほどもしないでしょうが手元において何に使うか愉しみな作品ですし、八客もあるといろいろと使い道がますますありそうですね。。

蓬莱掛合花盌 清水卯一作 その2

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今回のゴールデンウイークでの帰省は、帰省直前から息子が嘔吐と下痢。元気なことは元気なので東京駅から新幹線で新青森へ・・。プラレールの好きな息子は「はやぶさ!」といって大喜びですが、下痢との闘い・・。なんとか新青森に到着後、レンタカーにて三内丸山遺跡へ向かいました。



遺跡調査中は建設工事現場に従事していたので経緯や遺跡の具合はかなり知っています。



物見櫓の発見当時の経緯も無論知っていますが、もう220年も前のこと、感慨ひとしおです。



当時の遺跡調査状況は今は想像できない状況ですが、ともかく埋設物の量はすごかった。県立野球場の建設予定でしたが、工事が中断後、中止となり、その処理がたいへんでしたので、ゆっくり遺跡を見ている時間がなかったのが、今では残念に思えてきます。



遺跡の中から土偶が発見されたのは知っていましたが、大きなものは少なかったと思います。貴重なのは泥炭層にあった食料、舟、そして物見櫓であったと記憶しています。当時はこの地方は暖かく海水面が高く、近くまで海であり多くの縄文人が長きにわたり居住し、寒くなるしたがって南下していったようです。



改めて遺跡からの発掘品を見てみると、土器よりやはり土偶に眼を奪われます。



実に芸術性が高く、小さいながらすばらしいものばかりですね。



息子の体調を気にしながら抱いての見学でしたのでゆっくり見てこられませんでしたが、ひととおり楽しめました。



予定では次は弘前公園の予定でしたが、弘前公園周辺は渋滞という情報ゆえ、高速道路で帰省しましたがこれが正解でした。



車中では元気だった息子は到着後、少しして嘔吐。熱が出て朝まで辛そうだったので、早朝には病院の緊急診療に駆け込みました。

幼稚園疲れなのか、悪い病気でないとのことで大事には至りませんでしたが、その後連休後半には小生が感染、ただし家内は元気。伴侶は丈夫がなによりを実感しました。

本日はまだ連休中に関わった作品の整理ができていないので、連休前の原稿から投稿します。

蓬莱掛合花盌 清水卯一作 その2
共箱・共布
口径125*高さ83*高台径



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 1926年、清水卯一は五条坂の陶器卸問屋、清水卯之助商店の長男として誕生。当時、陶工は分業体制で、成形するロクロ師、絵付け師、窯焚き師などの専門職人がおり、その職人を束ねてたのが卸売問屋であった。親は卯一が小学生の頃から、ロクロ師に成ることを夢見ているのに気づき、商業学校に入れたが、学校へは行かず近所のロクロ師の家に行っていた。困った親は、伝手を頼って石黒宗磨先生のもとで弟子入りさせることにした。卯一が14歳のときのことである。終戦の1945年、卯一は五条坂の自宅に仕事場を設け、陶工としての道を歩みだした。



 五条坂には2代目、3代目の陶芸家が多く、駆け出しでキャリアのない卯一は肩身の狭い思いもしたようである。1947年には、長男・保孝が誕生。また同年、宇野三吾らと四耕会を結成。終戦後の陶芸に新たな価値を作るべく作品を生み出していった。1949年、まだ戦後まもなく人々は食べることに精いっぱいであった時代。温かみのある陶器を見て心を癒してほしいと思った卯一は、心やすまる器づくりに力を注いだ。そんな精神から生まれた釉薬が、柚子肌釉だった。以降、柿釉・鉄釉の作品で受賞を重ね、国内外からの評価を高めていった。



 1970年、土と釉薬にこだわる卯一は滋賀県滋賀郡志賀町の蓬莱山麓に開窯し、五条坂より移り住んだ。湖西地方から湖北まで土や石を探し求め、出土した土を自ら製錬した。磁土も同じように自分で造る。石もスタンパーで粉砕して振るいにかけ釉薬として用いた。土から釉薬まで全て蓬莱で取れた原料を用いた作品には、卯一は「蓬莱何々」と好んで使用している。

 

 1971年、保孝が卯一に師事。陶芸家としての道を歩き出した。卯一より「自分の特徴を出す何かを」と言われた保孝は、幼少の頃より飼育し、身近な存在であった亀を文様に「亀遊文」として自らの作品に使っている。 1979年、志郎が誕生。



1 955年、第2回日本伝統工芸展に初出品し、2003年まで連続出品を続けた。その間、日本工芸会・副理事長、陶芸部会長の要職を務めた。1985年、卯一は鉄釉陶器により重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。1986年には紫綬褒章を受章。その後も蓬莱にて作品を作り続け、2002年には孫である志郎が卯一のもとで制作をはじめた。晩年には、お気に入りであった蓬莱の仕事場から見る日の出を見立て、好んで赤色の釉薬を用いた。 清水卯一、2004年2月18日 逝去。77歳。 最期まで作陶意欲がなくなることはなかった。

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まさに郷里の春は百花繚乱。梅もあれば桜はむろん、水芭蕉、推薦、木蓮、山吹などがいっぺんに咲き誇ります。



郷里の百花繚乱にちなんで本作品を投稿しますが、真贋は小生の知識の及ぶところではありません。



白釉を掻いて「花」という文字。言われないと気がつきかないほどですが、さらに黒い掛け残り部分は花びらを表しているようです。



清水卯一の作品はまだあった筈なので、所蔵リストを検索すると下記の作品がありました。

釉流茶碗 清水卯一作
共箱入共布
口径138*高さ91*高台径66



こちらは正真の作品ですが、印章、落款、共布ともに違いがあり、製作年代に大きな違いがあるのかもしれません。



私はこの「釉流茶碗」茶碗がお気に入りですが、意外にこの手の茶碗は少ないようです。



まるで雪や氷が積み重なったようなきれいな釉薬の変化がとても魅力的です。





ここに抹茶が入ると抹茶の緑とこの青とのコントラストはまるで宇宙世界のようです。



ともに使いやすそうな茶碗です。おっと本日の作品は茶碗ではなく「花碗」ですね。



たかが茶碗、されど茶碗。

贋作考 平白斗々屋茶碗→李朝堅手茶碗

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帰省した翌日は朝から息子を連れて病院に緊急診察やら薬局やらと忙しかったのですが、隣地の立会いも予定されていました。



自宅の裏側は畑であったのですが、宅地になるとのことで一区画を購入することになり、その立会いです。



道路も広く新設されることになり、勝手口の正面が道路になるようです。



小生の購入理由は屋根の落雪処理のためがメインですが、これは除雪用のスペースにもなり近隣が皆喜んでくれて、宅地造成の社長も造成がスムースに行くようになり三方良しの計画となりました。



なんといっても田舎は土地の値段、税金が安いので大きな負担にはならないのがいいことです。



近所になる方が良い方だとよりいいのですが・・。息子はバックホーに興味深々・・、元気は元気。



さて高麗茶碗には贋作も多く、時代の下がった李朝期の作品を高麗期の作として売られていることもあります。本日はそのような意図の見られると思われる作品の紹介です。

平斗々屋茶碗
仕覆付古箱
口径127~129*高さ601~62*高台径52



姿は均整のとれた良い姿の小振りの茶碗です。問題は黄ばんだその「汚さ」にあります。



箱には「白ととや」と書かれていますが・・? 白ととや? そのような分類はあったかな? 白い「斗々屋茶碗」ということでしょうか? 下記の写真は売られている時の写真です。













実際の手にとってみると変色部分が汚れであることが解ります。つまり高麗の本手斗々屋が胎土も含めて褐色であり、本作品は灰色に近いので故意に茶渋のような色を付けているのではないかと推察されます。



家内は「いい茶碗だと思う。」ということで相談して購入しましたが、どうにも汚い。



骨董屋と称される方々は古いまま商品とするようですが、それは使う側には有り難くないこと。骨董は本来、きちんとメンテすべきもの。汚れは汚れ・・。使う側にたたない骨董商は骨董商として失格です。

さて、家内と小生で洗ってその汚れを落としました。その結果や如何・・・。

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斗々屋茶碗(ととやちゃわん) :高麗茶碗の一種で、魚屋とも書きます。斗々屋の名前の由来は、利休が泉州の魚問屋からこの手の茶碗が発見されたとも、「とと」は渡唐(ととう)の転訛で、堺の貿易商の家にあったとも、またその家の屋号をとった(堺の商人・斗々屋所持の茶碗から)ともいい、諸説があります。朝鮮南方の産らしく、伊羅保とともに日本から注文した製品という説もあります。

斗々屋茶碗は、本手斗々屋と平斗々屋があります。

本手斗々屋は、椀形で、褐色の胎土に半透明の釉がごく薄くかかり、俗に「こし土の斗々屋」というように、土が細かく、肌には細かく鮮やかな轆轤目があり、腰の荒い削り跡腰に段がつき、竹節高台で、高台辺に箆削(へらけずり)による縮緬皺(ちりめんじわ)があり、削り残しの兜巾(ときん)が立っていて、その様子が椎茸の裏側に似ているので「椎茸高台」と呼び、特徴となっています。素地は鉄分が多く、赤褐色にあがったものが多いですが、青みがかかったものは「青斗々屋」として上作とされています。

平斗々屋は、盞(さかずき)形で、高台は低く、胴は浅く、朝顔形に開いていて、平茶碗のような形をしています。

利休斗々屋は、一般の斗々屋とは作法や釉調が異なり、最古作と考えられていて、腰が少し張り、口縁は端反り、全体に薄作りで、高台脇は切り箆で面取りし、高台とその周辺の一部が土見せになっています。かつて利休が所持し、織部、遠州へと伝わり、現在は藤田美術館の所蔵となっています。

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白っぽい斗々屋茶盌には下記のものがあります。

参考作品:斗々屋茶盌「霞」





汚れを落とした結果は下記の写真です。外側にあるひっつきや穴が明確となり、趣の有る景色になりました。



内側が赤味がある「堅手」のいいお茶碗です。本来「堅手」もまた高麗茶碗に分類されるのですが、時代は下がります。



家内も「ようやく使う気になった。」と・・・。



李朝の茶碗がもてはやされた頃、トラックに詰まれた李朝末期の茶碗が大量に持ち込まれたとか・・。



そのような経緯の作品か否かは当方の知る由もありませんが、結論は「堅手の斗々屋風茶碗」とし「李朝堅手」(李朝末期)かな? 



高麗期とは胎土が違いますが、外側の景色も面白く、小振りで使いやすそうな茶碗です。高台内は僅かに「兜巾(ときん)」になっています。



作品自体には贋作という悪意はまったく見られません。李朝末期の茶碗を高麗期にしようとするから贋作となりますが、李朝末期の大量の茶碗にも秀作がありますので、見る側の考えにひとつでしょう。

骨董市で高麗期の茶碗と称する作品を鑑定していただいたら、「贋作!」とけちょんけちょんにやられたことがありますが、小生は今でも李朝期の良いお茶碗だと思っています。これは品物そのもの価値を見出せず、分類だけの目利きを持つ骨董商の性ですね。



箱も仕覆も似合います。

布目地四方入角溜塗五段替蓋付一箱

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帰省してみて旅先の車中でじっくり人を観察しているといかにスマホばかりつまらなそうな顔でいじっている人が多いか・・。表現はよくありませんが、「ばかか? こいつらは!」と思わざる得ません。景色や旅行の醍醐味を味わうことを忘れていますね。「通勤中の電車と旅行中の車中が同じかよ!」・・・。

さて一週間の休みがあっても骨董に埋没できる時間はほんの数時間。早々にサラリーマンをリタイヤして、好きな骨董やイクメンに徹したいとこころです。本日の作品も時間に合間に目に付いた箱を納戸から引っ張り出してきた男の隠れ家にある作品です。

布目地四方入角溜塗五段替蓋付一箱
塗師 利玄勝作
共箱 作品寸法:縦*横*高さ(未計測)



この作品はそれよりも前の頃の作品ですが、昭和の40年代前後の工芸品は本物であったと再認識します。というのは納戸からお祝いなどの記念品で戴いた品々がたくさんあったのですが、いいものは本物を使っていますね。たとえば下地は天然木、塗りは漆という基本がしっかりしています。



ところが廉価なものや時代が下がるとすべてが下地が樹脂、塗はカシューなどの本漆でない代用品に作られているようです。しかも使っているとしても漆は中国産がほとんど。



「ジャパン」イコール「漆器」と称せられる工芸品は姿を隠しています。偽物が我が物顔でのさばっているようです。いいものは出来が違うようです。下地の木は丈夫で、漆は十二分に塗り重ねられていて手に持つとしっとりとした重さが伝わってきます。



「塗師 利玄勝?」という人物については詳細は不明ですが、当時はそれなりに有名だったのかもしれません。

 

「布目地四方入角溜塗五段替蓋付一箱」・・・そのまんまの複雑な名称ですが、「溜塗」という技法が記されています。「溜塗」という技法をご存知の方は少ないかもしれません。

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溜塗:表層に透明な漆(=透き漆)を塗って仕上げたものをすべて溜塗といいます。透き通った漆なので、下の層の色が見えています。漆は元々茶褐色のため、透明といっても茶色がかった透明となります。そのため、下層の色そのままではなく、少しにぶく落ち着いた色になります。

下層の色によってさまざまな溜塗が存在します。朱溜と同じくらいよく見るのが「木地溜(きじだめ)」です。木地に漆を染み込ませて固めた後、下地などで木の肌を隠してしまわず、木地の上にすぐ透き漆を塗る方法です。表面から木目を楽しめるのが木地溜一番の特徴です。また、漆を吸った木の色がほのかに透けて、新鮮な醤油か黒蜜かバルサミコ酢を光にかざしたような色をたたえます。なんとも美しい塗り方です。

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溜塗の素敵なところは、2層の重なりが奥行きのある色を作り出すところです。濃い色ガラスの奥行き感に少し似ているかもしれません。これは、少し残念なのですが新品のときにはわかりにくいなっていますが、使ううちに透き漆の透け感がどんどん進みます。

新品の溜塗の例では、縁などに赤が透けていますが、まだ黒塗と間違えるくらい透明感がないものとなっています。 購入後1年くらいから下層の色が明るく見え始め、数年後には顕著に、奥深くてとろっとした色合いになります。

漆の良さはその技法によって経年によって味わいが出てくることでしょう、根来塗などはその代表的な例ですね。経年劣化の恐れが出てきたら、磨き直しや塗り直しができることも特徴のひとつです。ある意味で金蒔絵のように直しのできないものは扱いにくい作品となります。



上記の作品もまた男の隠れ家からの作品ですが「盃洗」のひとつです。五客揃いでありますので、食器にも使えそうです。おまけに台付きですので、より一層豪華な仕上がりです。



根来塗りのような下地処理、このような表現が正しいかどうかは解りませんが、黒の漆の下地を残しながら朱塗りを施し(もしくはその逆?)、透明漆で光沢を出しています。

内側は銀塗り・・、銀は酸化してきますので当時の豪華さは失せてきていますが、盃洗には水を入れてきれいだったのでしょう。これは直すか直さないかというとこのままがよさそうです。

このような幾つかの技法の漆器が日常食器として身近にあったものなのですが、今は需要不足と供給側の技量不足でほとんど流通していません。骨董でも保存状態の良い高級漆器は見かけなくなりました。旅先で大いに景色を愉しんだり、物思いに耽る人が少なくなり、スマホに夢中になる人ばかりと同じ様相を呈しています。

日本人よ! ジャパンを愉しめ! 外国人がいくら漆器を味わっても味わえない感性が日本人にはあるのです。その感性を鈍らせずに大いに磨くことです。

雑感

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郷里の自宅に帰省したら、手入れが行き届いていない庭を家内と息子が手を入れていました。母が老いてからの手作りの庭ですのでたいした庭ではないのですが茶席で使う茶花を中心に植えていたようです。茶花は草刈で一掃されてしまいますので、留守にしていると心が痛みます。



むろん息子はそのうち飽きてきて庭で遊び始めました。



家内と息子で花を摘んできて生けてくれました。秋海棠と山吹・・。



どこに飾ろうかな・・・、という役目は小生。



椿もまた・・・。



ご覧のように多くはつぼみの状態で家内が摘んできています。帰京する際には花が開いているというのを息子に見せる家内の配慮のようです。



「きれいだね~」と・・。こういう情緒のある教育が大切なのかな~と・・。



対のお人形は郷土玩具、母はこけしなどの郷土玩具が好きで集めていたようです。



ひと仕事の後には郷土名物の酒饅頭・・、「ウメ~!」



お茶を一服・・・。



楽しめや楽しめや、我が郷里、お腹の調子も良くなったようです。


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