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柳下美人図 大林千萬樹筆 その5

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自他ともに認める美人というのは小生には縁遠いというと失礼に当たる人もいる・・・ 絵の世界では近代美人画の大家である上村松園、伊東深水、鏑木清方らの作品は真贋を見極めるのが難しいほど贋作が多く、素人が手を出すのはなかなか度胸にいる分野です。その点、それほど名も知れずにいい作品を遺してくれている画家が当方の蒐集のターゲットになっています。

柳下美人図 大林千萬樹筆
絹本着色軸装 軸先木製朱塗 合箱
全体サイズ:縦1270*横555 画サイズ:縦345*横415

 

大林千萬樹は富岡永洗、川合玉堂に師事した後、鏑木清方に入門しています。



大正末期には関東大震災以後に奈良に移り、その後、名古屋へ移り、昭和10年代には京都に在住、戦後は各地に移り住んだといわれています。



美人画はふくよかなのがいい・・・。



美人画には特有の表具が似合います。



本作品の落款と印章は下記のとおりで、本ブログで紹介した他の所蔵作品「花おぼろ」、「両国橋」の落款と同じ字体です。こういう経験値が掛け軸の知識には必要なのでしょう。



明末の呉須赤絵の作品を手前に飾ってみました。

 

このような床の間にて手前に飾る作品では、小生は壺や大皿が好きですが、皿ならが40センチ前後の大きさがないと見栄えがしない・・・



ともかく自他ともに認める近代美人画は高値の華、蒐集家は美人画そのものの蒐集対象を考え直すか、画家そのものを忘れ去られている画家に絞り直すことも必要になっています。

華精 杉本健吉筆 その7

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週末に骨董品を整理する際についでに?行うのは仏壇の水を取り替えて線香をあげること・・、そのまたついでに飾ってある仏様の水も取り替えます。先祖への感謝を忘れてはいいものは集まりませんからね。



さて本日は藤井達吉と共に当方の蒐集対象の工芸デザイナーの一人「杉本健吉」の日本画の作品の紹介です。息子と近所の図書館で借りてきた本には下記のものがあります。意外に杉本健吉を知らない人がいいようですが・・。



華精 杉本健吉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先練 共箱
全体サイズ:縦1235*横450 画サイズ:縦430*横320



大須観音の鐘楼堂の華精の鐘(女人梵鐘)のデザイン(四面の池の間に、四季の花、梅、牡丹、蓮、菊、その中心に、華の精の姿を描く)を描いたいますが、その作品に関連する作品だと推察されます。



このかわいらしい観音様の絵の作品は数多く描かれていますが、ほとんどが版画の作品で肉筆画は滅多にありません。



本ブログでも似たような作品を2点ほど紹介しています。



現在では杉本健吉の肉筆の作品は市場に見かけることは少ないようです。ましてや共箱の作品や年期の判明する作品は貴重でしょう。

 

落款には「昭和癸卯(みずのと う)健吉□之 押印」とあり、昭和38年(1963年)、杉本健吉が58歳の時に描いた作品と思われます。



晩年に「(やりたいことを)行えばいいんです。私の場合は自然の中でたわむれているうちに絵ができた。それが私の人生だった。」との言葉を残している。また、「長生きするのが目標ではなく、絵を描くのが目的で、そのために長生きしている」とも。100歳になる年の愛知万博に自分の絵を出品して参加することを目標としていたが、その願いはかなわなかったようです。



現代でいうデザイナー的な存在の画家ゆえに、肉筆の作品は遺された作品が少なく入手困難です。



展示室の廊下の一角に飾ってみました。はてさて骨董というものを扱う者には過去への崇拝を無くしてはいけませんね。

古(天啓?南京?)赤絵 唐子文三足香炉

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さて本作品を「呉須赤絵」という作品とすることには誰も異議を唱えませんでしょうが、「明末の赤絵」や「天啓赤絵」か「南京赤絵」となると難しい分類になりますね。

古(天啓?南京?)赤絵 唐子文三足香炉
合箱
口径*胴径90*高台径55*高さ95



絵付けが稚拙である点から後世の作品と思われますが、それなりに趣があります。



男の隠れ家の線香を燃やす香炉にいいかと思い入手しました。



母が亡くなったのですが、仏壇は当方で東京にあるため郷里の仏間には仮の仏壇となっています。母と父の位牌は郷里がよかろうと思い男の隠れ家に遺しています。



一通りの仏具はあるのですが、ありきたりの仏具ではつまらない・・。鋳物や金属製の仏具ばかりでは味気ないと思いませんか?



本尊も含めてひとつひとつ揃えている最中です。



そういうこだわりが骨董蒐集には大切なこと・・???



よく見かけるセットなどの揃いのものでは味気ない・・・。



さてそもそも天啓赤絵や南京赤絵の区別をしっかり解っている人は少ないと思いますので、下記の記事を引用します。

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天啓赤絵:古染付と時同じくして天啓年間(1621~27)にはじまり、中国明末期の天啓・崇禎年間(1621〜1644)に景徳鎮で焼成された色絵磁器に倣った景徳鎮の民窯にて焼かれた赤絵の作品のこと。厳密には明末の天啓年間(1621‐27)から清初にかけてのわずか7年間に製作された作品を俗に「天啓赤絵」と称しています。萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に朱・緑・黄にて上絵付を施している作品です。その特徴は古染付とほぼ同様ですが、古染付と比してその生産量はかなり少ないものです。また天啓赤絵は中国にはほとんど遺品がなく、日本にしかみられないことから、日本からの注文品とみなされています。

粗雑な器皿:福建省あたりでは奔放な絵付の呉須赤絵が焼造されましたが,これらも日本の茶人たちに愛好され,日本の赤絵の発展に大きな影響を与えました。古九谷もまさに影響を大きく受けた作品群です。

天啓赤絵はわりと斬新で大らかな絵柄が多く、絵付けは粗いものの、朱色・緑色・黄色・青色などが使われています。土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用いて絵付を行っています。それまでの型にはまった様式から一歩踏み出し、自由奔放な筆致で明末文人画を例にとった山水や花鳥、羅漢・達磨など描いており、それ以前の景徳鎮ではこのように自由な作例はみられず、民窯であったからこそ陶工の意匠を素直に表した染付や赤絵を生み出すことができたと思われます。

古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られます。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつもそれまでの様式にとらわれることはなかったようです。これら款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていましたが、款記と同じく比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えていたようにも思えます。天啓赤絵もまた同様と考えられますが、一般的には「天啓年製」などの銘を伴うものが多く、無銘であれば清朝初期の品であると言われています。      
天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなく、そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違い、特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれがのこってしまう。本来、技術的には問題となるところを当時の茶人は、虫に食われた跡と見立て鑑賞の対象としました。このことが「虫喰い」と称して、古染付・天啓赤絵に特有の特徴であることも知られています。高台は、当時の通例の如く、細砂の付着した砂高台で、高台内には鉋の跡が見られるのが特徴ですが、必ずしもそうでない作品もあるようです。

南京赤絵は清朝まで続きますが、天啓赤絵は清初までであり、清朝に本格的には入らず、他の赤絵の南京赤絵等、明末窯の注文作品よりも製作期間が短く、圧倒的に数が少なく貴重な作品群となっています。無論、古染付と比してもその生産量はかなり少ないようです。

同時期の天啓赤絵と南京赤絵の区別は、天啓赤絵は古染付の上に色釉を施し、南京赤絵は色釉だけで彩画した赤絵で有ると分類されていますが、例外は勿論有る様です。南京赤絵の染付は銘など一部に限られており、南京赤絵は華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものもあります。同時期の作品群は色絵祥瑞等も含め、少しややこしいですが、それぞれの作風を持っています。

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参考作品
天啓赤絵 唐子文茶入
なんでも鑑定団出品作品 2013年08月15日
茶箱「住吉の松」の一品 中国明時代後期に日本向けに作られたもの








南京赤絵の説明は下記の記事となります。

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南京赤絵:350年くらい前の中国明時代末期から清王朝初期に掛けて景徳鎮の民窯で作られた南京赤絵。17世紀に入ると各地で農民の反乱が相次ぎ明王朝は衰退しその結果景徳鎮の官窯は消滅したが、民窯はしたたかに生き残りむしろ自由闊達な赤絵を作りはじめた。これを南京赤絵という。

南京赤絵の生地の多くは従来の青味が強い白ではなく乳白色を帯びていて、これは色彩を一層際立たせる効果があります。絵付けには基本的に染付けは用いず、色釉だけで彩色され、その色数も初期は赤、緑、黄と少なく作風はきわめて豪放です。その後、紺青、紫、黒、褐色などの色が増えるとこれらの色数を組み合わせ繊細華麗な作風へ変化しました。

当時の主要な輸出品で西欧諸国に売ったものは壷や花生けや蓋ものなど大作が多い。ところが日本に輸出したものは茶道具あるいは鉢や小皿中皿など食器が多い。デザインも日本人好みの余白を十分とった絵画的な構成になっています。これは南京赤絵の手法です。高台内は車輪高台で、砂付高台。評価は寸法によって大いに違い、辺20センチ程度のものはかなり高価で、辺12センチの同じような皿だと30万円程度になると評価されています。

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評価も高かった天啓赤絵や南京赤絵には紛い物も多く、今少し当方も勉強に必要がありそうです。



本作品を箱に収めて郷里に運んで仏間の香炉にしてしばし楽しもうかと思います。















天啓赤絵、南京赤絵と称すると的外れとなる可能性のある作品は古赤絵と称すると罪深くはならない・・???

忘れ去られた画家 はるさめ美人図 三木翆山筆 その6

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三木翆山という美人画を得意とする画家を知っている人は少ないでしょうね。本ブログで紹介する作品は6作品目となりました。



忘れ去られた画家 はるさめ美人図 三木翆山筆 その6
絹本着色金泥軸装 軸先練 共箱
全体サイズ:縦2010*横385 画サイズ:縦1430*横265

 

三木翆山は晩年に京都河原町蛸薬師の繁華街に地上7階、地下2階、総床面積1400坪もの国際的な美術サロン、インターナショナル三木アートサロン設立を計画する。ところが、悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなり、老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後(昭和32年3月25日)失意のうちに急逝している。



享年73歳だったようですが、いつの世も似たような話はあるものです。



翠山は美人画を得意としており大正14年(1925年)から京都の佐藤章太郎商店という版元から、京都風俗を取り上げた新版画「新選京都名所」シリーズを版行、同年吉川観方と創作版画展を開催しています。昭和7年(1932年)第13回帝展からは無鑑査となり、昭和17年(1942年)に師の栖鳳が没した後は画壇を離れ、個展で作品を発表し始め、一方、昭和27年(1952年)から1年余り渡米し、美人画の個展を開催、昭和28年(1953年)メトロポリタン美術館から終世名誉会員の称号を贈られています。



作品略年譜
大正2年 第7回文展「朝顔」初入選。
大正3年 第8回文展「青柿の檐(ノキ)」。
大正10年 第3回帝展「汐沈む女」。
昭和2年 秩父宮家御用画「朝の清見瀉」。第8回帝展「千姫」。
昭和4年 第10回帝展「木蔭」。聖徳太子奉賛展「旅の宿」。高松宮家御用画「春乃野」。
昭和5年 仏蘭西美術展「雪の道」。久迩宮家御用画「愛鳥」(杉戸)。
昭和7年 第13回帝展「嫁ぐ姉」。
昭和8年 第14回帝展「順風」。
昭和9年 第15回帝展「雪の晨」。
昭和14年 第3回文展「これにも月の入りたるや」。
昭和15年 聖徳太子奉賛展「維新の花」。
昭和17年 第5回文展「元禄快挙」。
昭和18年 第6回文展「巴御前」。



力作ではありませんが、着物の絵柄などうまく描けています。



落款からは本ブログで紹介した「狸」を描いた作品と同時期と推定されます。

  

日本画の近代美人画では伊東深水、鏑木清方、上村松園は別格ですが、その三人の跡を継いだ画家として評価してもよいのでしょう。



掛け軸は美術館の展示のようにガラス越しで鑑賞するものではありません。自然の採光にて時として影のある中で、時としてはろうそくの明かりで鑑賞するものです。その光と影の中で掛け軸は一層、魅力的な美を発します。そのような鑑賞するためには自分で所蔵するしかありませんし、そのような場を自分で作るしかありません。

墨松老幹 平福百穂筆

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この作品を観て真作と判断できる方はかなりの日本画通???・・・

墨松老幹 平福百穂筆
絹本水墨軸装 軸先骨 合箱  
全体サイズ:縦1223*横422 画サイズ:縦422*横300



床に射す光の加減の中で床の軸は愉しんでいます。



この作品の描かれている生地はやや縮れているような感じです。おそらく羽織の裏のために描いたように思われます。羽織の裏地用に絵を描いてもらうことは昔はよくあったようです。当方の所蔵品の中にも福田豊四郎氏に羽織の裏地、袱紗、帯などに描いていただいた作品があります。



軸の右側は雨漏りか何かで掛け軸が汚れたのでしょう。昔の家はよく雨漏りしたりして、このように掛け軸が汚れていることがあります。改装すると見違えるほどきれいになります。



印章が縮れたような生地に押印されているため、横に縮小されたようになり、印章の感じが真印と違う感じを与えますが、真作と判断されます。



さて、改装するか否か、また出費が嵩みますね





杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃

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近代美人画の作品の中で気軽に入手できる画家の作品に「岡本大更」の作品がありますが、本日は「その4」の作品の紹介となります。

神童とうたわれた大更の美人画の境地をきりひらいた作風は「近代的な浮世絵」と激賞されましたが、若い頃は貧しさのため師につかず、独学にて文部省美術展覧会などで入選を重ねました。現代では知る人が少ない画家ですが、美人画の大家(近代的な浮世絵師)となった画家です。

杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃
絹本着色軸装 軸先陶器 共箱 
全体サイズ:縦2080*横560 画サイズ:縦1160*横410

 

押印は他の所蔵作品「春のこども」と同一で落款も近似していることから同時期(大正10年 1921年)に描かれた作品と推察されます。

  

杜鵑一聲:ホトトギスは一声を発して谷を渡るため。目的に向かって後を振り返らないところに禅味ある言葉です。

ホトトギスは時鳥、郭公、子規、杜鵑、不如帰とさまざまな字をあてます。ほかに卯月鳥、勧農鳥、田長(たおさ)鳥などの雅名もあり、農耕の季節を迎えた卯月を象徴する美声の主です。



*目には青葉山郭公初松魚 --山口素堂(郭公は「ほととぎす」、松魚は「かつを」と訓する)
江戸の俳人、山口素堂の句に「目には青葉、山郭公、初松魚」があり、ついつい鰹を叩きにでもして食べたくなりますが、本来ホトトギスとカッコウは違う鳥で、ホトトギスを郭公と記することが多いのは、ホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りによるものです。



激情的ともいえるさえずりに仮託して、古今ホトトギスの和歌が数多く詠まれましたが、ほととぎすの鳴き声を街中で聞くことは非常に珍しくなりました。一歩山に近づくと頻繁に耳にしますが、古来よりそれだけ身近な野鳥であったとおもわれます。



「杜鵑・不如帰・時鳥、子規、田鵑、鵊など」70以上にも及ぶ記述があるといいます。時代とともに表記も変化しているそうです。

現代の音の出る『広辞苑』によりますと、杜鵑は「てっぺんかけたか」と鳴き、郭公は「かっこう」と鳴きます。ほととぎすに対して「一声」という表現が、あります。これは「カアー―」と一声なくと、いいます。

時期的にはちょっと気の早い掛け軸の紹介となりました。

明末呉須赤絵 天下一大皿 その3

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週末には親戚からタケノコが届きました。息子はさっそくタケノコの皮むきのお手伝い。



さて家内は屋根裏から大きな鍋を担ぎ出してアク抜きの段取り。アク抜きには大根が要ると義父と息子は畑へ大根と採りに行きました。



運搬は一輪車で・・・。途中で「ふ~疲れた。」だと・・。



夕方にはタケノコご飯となりました。結局大根でのアク抜きはたいへんで米糠を買いに行く羽目になり、次の日の夕ご飯はタケノコご飯に大根入りのカレーライスと相成りました。

さて本日紹介するのは、本ブログで幾つもの作品を紹介してきた明末から清朝のかけて中国の漳州窯で生産された呉須赤絵の作品の紹介です。その中から「天下一」という作例に分類される作品です。

明末呉須赤絵 天下一大皿 その3
合箱入
口径337*高台径160*高さ65~73



当時の人気が高い漳州窯で生産されて日本に輸入された呉須赤絵の作品ですが、その作品に戦国武将が好んだ天下一の文字を入れるようにと中国へ日本から発注生産した作品です。



秀吉の死後、裕福な商人が大陸へ発注した呉須赤絵の作品の中で「天下一」と分類される作品です。



その後に徳川幕府は「天下一」の使用を禁止したそうですから、1600年代の一時期に存在した作品で、その後には見込み中央の「天下一」の文字を消したり、無くしたりした作品が混在します。



本作品は中央の見込み部分に朱での「天下一」の文字の跡がうかがえ、意図的に消したものか、擦れて消えたものかは分かりません。



明末呉須赤絵の特徴である虫喰い、砂付高台があり、虫喰い部分に補修はあるもののこの時代の作品としては無傷の完品といえるでしょう。

また見込みのデザインは「呉須赤絵」のうちの「青絵」の文様と「天下一」の文様が混在しています。とくに「天下一」の「八卦」の文を口縁の大きな窓に記されているが印象的な作品です。



明末の漳州窯で生産された作品の中で人気の高い大皿には「呉須赤絵」、「呉須染付」、そして最も希少価値の高い「餅花手」に分類されます。「餅花手」についで評価が高い「呉須赤絵(青絵)」に中に「天下一」の大皿が存在します。



「なんでも鑑定団」にもこの系統の作品が出品され評価されていますが、そのお値段は全くの的外れの高額で一桁安くなります。



本ブログにて紹介した「天下一」の大皿は下記の二作品です。

明末呉須赤絵 天下一大皿 その1
合箱入 
口径350*高台径180*高さ75



これらの皿の文字の原点は八卦(はっけ、はっか)にあります。古代中国から伝わる易における8つの基本図像。 (乾) (兌) (離) (震) (巽) (坎) (艮) (坤)のことで、文字に書く場合と本作品のように図柄をイメージしたものがありますが、この点を理解していないとこの作品群は理解できません。


明末呉須赤絵 天下一大皿 その2
合箱入
口径370*高台径*高さ85



このような大皿を日本において何に使ったのでしょうか? こちらの皿は単純に文字のみです。中央の文字は「天下一」、周囲は八卦に関する文字・・。そして本日紹介した作品は口縁に大きく描いた八卦の文字。これらは何を表すのか? もともと呉須赤絵の大皿は天地を示す絵柄、「天下一」は大宇宙を表す????

さ~、この皿にタケノコご飯のカレーライス、天下一品やで~・・・????? 



梅下美人図 三木翆山筆 

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週末は家内と息子が寝静まってから骨董品と格闘してブログの原稿書き・・。



先週末は屋根裏部屋でごそごそやるうちに汗だくになり、そのままにして寝たら完全に風邪をひいて、のどがひりひり鼻がグズグズ・・。今週はブログの投稿もままならず。かたや連休の帰省の段取りも迫っています。

こんな時は少し美人画でも観て気を休めましょう。

梅下美人図 三木翆山筆 
絹本着色金泥軸装 軸先塗 誂箱
全体サイズ:縦1290*横540 画サイズ:縦400*横430



三木翆山を知っている人は少ないでしょうが、その美人画の人気は高く評価は伊東深水、鏑木清方に次ぐものと言っても過言ではありません。最近では「三木翠山展」を姫路市立美術館にて開催されています。



家内曰く「のっぺりとした美人画ね~」だと・・・、ふむ確かに・・・。



近代美人画というと上村松園、鏑木清方、伊東深水に比べると見劣りするのはやむを得ないゆえなにかしら個性がないといけないようです。




ただ一番大切な品格という点では負けいないように思います。



三木翆山についての経歴は下記のとおりです。

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竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。



明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。

大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。以降、文展や帝展といった官展で活躍した。



大正14年(1925年)から京都の佐藤章太郎商店という版元から、京都風俗を取り上げた新版画「新選京都名所」シリーズを版行、同年吉川観方と創作版画展を開催する。

昭和7年(1932年)第13回帝展からは無鑑査となる。

昭和17年(1942年)に師の栖鳳が没した後は画壇を離れ、個展で作品を発表し始める。

一方、昭和27年(1952年)から1年余り渡米し、美人画の個展を開催、昭和28年(1953年)メトロポリタン美術館から終世名誉会員の称号を贈られた。



晩年は、京都河原町蛸薬師の繁華街に地上7階、地下2階、総床面積1400坪もの国際的な美術サロン、インターナショナル三木アートサロン設立を計画する。ところが、悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなる。老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後失意のうちに急逝。享年73。美人画や風俗画を得意とし、代表作に「嫁ぐ姉」、「元禄快挙」などがある。



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本作品は本ブログで紹介した他の作品、「観桜美人図」や「観紅葉図」に落款が近似しており、その作品らと同時期に描かれた作品と推定しています。



左が本作品の落款と印章で、中央が「観桜美人図」、左が「観紅葉図」です。三木翆山の落款はまだよく解りませんが、製作年代によって大きく変化しているようです。

  

美人画は表具も愉しみのひとつです。



掛け軸については著名な画家の作品の入手は資金に余裕がない限りは遠慮し、著名でない確かな作品を入手するほうがいいでしょう。

ただただ美人は観るに限る。安らかな眠りを奪われるなど関わると碌なことにならぬは世の常・・。





水墨鳥之図 藤井達吉筆 その23

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今週のなんでも鑑定団に珍しく「奥原晴湖」の作品が出品されました。



評は「本物。明治期の女流南画の第一人者。明治36年、晴湖67歳の五月上旬に繍水草堂というアトリエで作ったと書いてある。気持ちのいい朝に晴れやかな気持ちで、庭に小鳥が来て、という情景を描いている。岩に小鳥という題材はけっこう描いている。もっと大幅で勢いある筆で描いたものなら100万円ほど。」ということです。

*なんでも鑑定団の評価金額は12万円、100万円も大げさ・・。一桁違いますのでご承知おきください。

「奥原晴湖」は明治期の関東画壇を代表する南画家ですが、今は知る人は少ないと思います。本ブログには4作品ほど紹介されています。

浅絳山水図 奥原晴湖筆 その1
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1940*横645 画サイズ:縦1360*横495



雲松風之青緑山水図 奥原晴湖筆 その2
絹本着色軸装 軸先木製 渡辺青嵐鑑定箱
全体サイズ:縦2040*横725 画サイズ:縦1300*横505



前赤壁之賦 奥原晴湖筆 その3
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2020*横670 画サイズ:縦1300*横520



冒雪訪友図 奥原晴湖筆 その4
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1890*横423 画サイズ:縦1045*横295

 

関東画壇の女流南画家にはもうひとり忘れてならない画家がいます。本ブログで同じく4点の作品を紹介している「中村餘容」です。奥原晴湖よりひと世代後に活躍した画家です。両者ともに埼玉に住んでいた頃の知った画家ですが、地元でも知っている人は少ないでしょうね。

ん~、鑑定団の値段なら即売ってしまいたいですね

さて本日の作品中には藤井達吉の落款も印章もありませんが、画全体の雰囲気や門下生の栗木伎茶夫鑑定箱という点から真作に相違ないと判断されます。

水墨鳥之図 藤井達吉筆 その23
紙本水墨軸装 軸先木製 栗木伎茶夫鑑定箱
全体サイズ:縦1260*横550 画サイズ:縦455*横428



鳥が巣に座っている? なんだかよくわからない構図の作品ですね?



藤井は転居を繰り返したため住まいこそしばしば変わりましたが、後半生は郷里での後進指導に重きを置いていました。瀬戸の陶芸や小原の和紙工芸の現在の発展の基礎は藤井が築いたと言って良いでしょう。瀬戸や小原(現豊田市)には栗木伎茶夫氏、山内一生氏、加納俊治氏など、直接藤井の教えを受けた方々がいます。



藤井は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住んでいました。市内で藤井に接した方々も故郷での藤井の生活を支えたのは碧南市民をはじめとする藤井を敬愛する方々でした。



「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。



本作品もそのようにして描かれた作品かもしれませんね。後半生の藤井の作品は文人画的性格が強まり、墨一色の作品が多くなります。

 

表具にもそれなりにデザインされた面白い表具の作品も多々あります。



碧南市には藤井達吉現代美術館があります。



実はまだ訪れたことがないので行ってみたいものです。

明末呉須染付 蓮池水禽文様大皿 その3

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本ブログにて「その1」、「その2」として紹介してきた「明末呉須染付 蓮池水禽文様大図」という代表的な明末呉須染付の代表的な作例の作品です。染付の発色がよく、明末呉須染付の中では状態が良いほうですが、なかなか無傷で完品の作品が少なく、本作品についても残念ながら割れの補修跡があります。

明末呉須染付 蓮池水禽文様大皿 その3
割補修跡有 誂箱
全体サイズ:口径360*高台径*高さ72



明末の漳州窯のおける大皿の作品は、呉須染付・呉須赤絵(青絵)・餅花手と大きく3つに分かれますが、その中の「呉須染付」に分類される作品です。



漳州窯のおける大皿の作品は、「呉須染付」、「呉須赤絵(青絵)」、「餅花手」の3種類を紹介してきましたが、圧倒的に「餅花手」の作品が少なく、本ブログにて2作品を紹介するのみです。「呉須赤絵(青絵を含む)」も数多く紹介してきましたが、一番入手しやすいのが本作品のような「呉須染付」に分類される作品です。



「呉須赤絵(青絵)」と同じく「虫喰」や「砂付高台」が特徴ですが、なんといっても絵付けの軽妙さが一番の見所ですね。発色の良い作品を選ぶのがポイントのようです。中央の鳥は鳳凰などが多く、何を描いているか分からない作品も多くあります。



高台が汚いという方が多いと思いますが、当時の人々はこれが趣があると評したとか??



畳は擦れるし、重ねて保管すると下の器の釉薬が擦れるなど問題は多いと思いますが、古来より李朝なども砂付高台を良しとしたようです。

明末の漳州窯のおける大皿の作品で「呉須染付」に分類される「蓮池水禽文様大皿」と題される作品を並べてみました。



さらには下記の作品を加えてみましたが、一回り小さな作品は古染付に分類される作品です。



「古染付」はそれほど大きな作品ではなく、薄造りになっており、芙蓉手と称するようにデザインも少し変化していきます。



大きく重い皿は保管には十分に気を使いましょう。重量のある作品は真田紐は太めの袋紐が基本です。

そういえばこの原稿の下書きを書き終えてから、最近のなんでも鑑定団に同様の作品が出品されていましたのでご存知の方も多いと思います。下記の作品がその作品です。



説明には「漳州窯で焼かれた皿。江戸時代初期に日本にたくさん渡ってきたもので「呉須手」と呼ばれている。景徳鎮のものは真っ白で、綺麗な鮮やかな青で文様が描かれているが、それに比べると土の色が悪いので、白く化粧してスピーディに文様を描く。ちょっと乱暴に見えるがそれが面白い、ということで大事に伝えられてきた。日本人が好きな器。」とごく一般的なことが記されています。出品者は20万円で購入したそうですが、評価金額は40万円だそうです。

どうも現在のレートとなんでも鑑定団のレートは相変わらず一桁違うようですね。

*お呉須赤絵についても「蓮池水禽文様」は数多くあります。後日、作品を紹介する予定です。

菊花 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃

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5月の連休前の休みは帰省の準備で大忙し、普通の帰省より趣味の品々の荷物があるので普通より荷物の発送などで忙しくなります。息子には遊びの相手ができないので、息子はその間、作業している小生の脇で動画や録画を見ていることになります。それでは運動不足と言うことで日曜日には家内が息子を連れて駅前のイベントに連れて行ってくれました。小生は車での歓送迎のみ・・・。



さて本日の作品は、寺崎廣業の作品に中では数少ないきちっと描かれた作品です。

菊花 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:横630*縦2020 画サイズ:横410*縦1100

 

分類:明治第3期(二本廣業)時代

この時期の作品のほうが大正時代の作品よりも丁寧に描かれている作品が多いですね。しかしながらこの時期の作品で共箱を添えらえている作品は極端に少ないです。

  

同じ頃の描かれた作品では展覧会に出品された下記の作品が当方にて所蔵しています。

護良親王図 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃
水墨着色絹本軸装 幡山鑑定箱 布タトウ
全体サイズ:横647*縦2082 画サイズ:横500*縦1147



この作品は昭和24年5月26日に催された「寺崎廣業名作展出品(主催:秋田魁新報社)」に出品された作品です。「秋田魁新報社」は寺崎廣業の出身地の秋田の新聞社です。

落款から上記の作品と同時期に描かれた作品で、寺崎廣業がもっとも制作意欲が盛んであった時期ではないかと推測しています。



挿絵や版画、美人画で名を成したりしながら正統の日本画の道を歩み始めた頃でしょう。



明治末から大正にかけては多作となり、現時点で市場の出回る作品には見るべき作品が極端に少なくなります。



力作ではむろん評価は高いですが、多作の時期の作品は贋作も入り混じり、残念ながらなんとも目の当たられない状況になっているといってもいいでしょう。真作を見定めるためにも本ブログが少しでもお役立てたらと思います。

社頭雪 楠瓊州筆 昭和6年作 その2

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今年も庭に「クマガイソウ」が咲き始めました。



こっそり採ってきて花入れへ・・・。



川合玉堂の作品や不染鉄の作品の前に飾ってどちらが似合うかな? と愉しんでみました。



「クマガイソウ」は以前に本ブログにて紹介したとおり、日本では環境省により、レッドリストの絶滅危惧II類(VU)の指定を受けており、多くの都道府県で、レッドリストの指定を受けている野草です。



ラン科アツモリソウ属に分類される多年草で大きな花をつけ、扇型の特徴的な葉をつけます。和名の由来は、アツモリソウともに、膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣に見立て、源平合戦の熊谷直実と、一ノ谷の戦いで彼に討たれた平敦盛にあてたものだそうです。



熊谷直実の故地である埼玉県熊谷市では、有志が1979年に「くまがい草保存会」を結成。庭園の星溪園などに植栽したが根付かず、鉢植えなどを除いて絶え、保存会は2014年に解散したそうですが、我が家では適地であるらしく地植え栽培2カ所にすくすくと毎年育っています。



さて本日の作品は楠瓊州・・・、孤独のうちに上りつめていた画の世界の純度に驚くものがあります。

困窮生活にかかわらず、少しも貧乏くさいところがなく、甘美な情緒さえたたえ、力まず、気取らず、よごれず、遥々とし美の国に遊んでいます。絵のかき方は南画ですが、南画といっても児童画のような自由さをはらみ、香り高い色感をもっていますが、困窮した生活の状況下でよくもこの境地まで行ったものと感心します。

社頭雪 楠瓊州筆 昭和6年
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入タトウ付 
全体サイズ:横430*縦2030 画サイズ:横290*縦1320

 

賛には「御題 社頭雪 □□□□□天閣 喜□六□□□□ 神域景呪妙画啚 鳥居真赤雪真白 昭和辛未正月□□□寫 瓊州茶人」とあります。昭和6年(1931年)の作。



元総理の宮沢喜一さんが惚れ、美術評論家の河北倫明氏が褒め、そして有名な 書家上田桑鳩氏が熱愛した人画家としても知られています。



名も無く貧しい画家がひとり静かに実現しているものは、決して見過ごすべきものではない、画家らしい画家のひとりがこんなところにもいたことを日本人として喜ぶべきことなのでしょう。そう評価する審美眼を持ち合わせている人が今は少ないのかもしれません。



今こそこのような画境を純化し、何のとらわれも無い自然な境地に立ち至り、そして続々と興味ある画作を書き残した画家を再評価するべきであろう。不染鉄しかり、下村為山しかり・・・。

ただ再評価はなにも大々的に展覧会を催すことではなく、好きな者が彼らの作品を自ら飾ってみることです。

絵の所蔵とは手元に所蔵して、蒐集を育てて楽しむもの、北斎、若冲、芦雪、蕭白のような一般には入手の困難な著名は画家に夢中になるのはあくまでも鑑賞・・・。絶滅危惧種のクマガイソウも同じかな? これはある意味かなりの贅沢です。

松風村雨 渡辺公観筆

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庭に咲き始めたクマガイソウより一足早く庭に彩を添えてくれたのは牡丹の花々。





週末に彩鮮やかだったのは白の牡丹でした。



家内に居ぬ間に一輪採って展示室に飾りました。



活けた花入れは信楽の器ですが、ちょっと窮屈だったかな?



帰宅した家内に自慢してやろうとクマガイソウともども観てもらったら、花より脇の掛け軸の作品に描かれている着物の柄に興味があるようです

「あら、なんて書いたあるのかしら?」・・・?? 「君 ?? さく(咲く)?」・・



家内は「牡丹は水上げが弱いから早く花びらが落ちるからね。」だと・・、幸いまだ数日は花びらがついたままです。

さて、本日の作品の紹介です。

日本画を愉しむにはその故事の知識が不足していると何を描いているのか全く理解できないことがありますが、本日はそのような事例の作品です。

松風村雨 渡辺公観筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2035*横570 画サイズ:縦1265*横415

 

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渡辺公観:(わたなべ こうかん)明治11年(1877年)1月20日~ 昭和13年(1938年)7月20日)。文展(現日展)を中心に活動し、後に(日本)自由画壇を同士と創設した日本画家。渡辺公観は、明治11年(1877年)1月20日に滋賀県大津(現大津市)の円満院門跡の侍医渡辺宣と歌人で円満院の侍講を務める服部春樹の娘田鶴の子として生まれ、耕平と名付けられた。明治25年(1891年)大津尋常小学校を卒業後彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)に進み、明治27年(1893年)京都美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に転校後、明治28年(1894年)学校を辞し森川曽文に入門した。 師である森川曽文は明治36年(1902年)に没し、公観は以降独自に画業を研鑽し、明治40年(1906年)第1回文展に「進言」で初入選し、以後大正3年から7年迄の間に4回入選したが、大正8年(1919年)帝展(現日展)が開設されると官展から離れ、井口華秋、池田桂仙、上田萬秋、林文塘中堅画家らと自由な日本画制作を目指し日本自由画壇を結成した。日本自由画壇活動に励む中与謝蕪村に私淑したと伝えられる。昭和13年(1938年)7月20日61歳で死去した。公観は画号で若年の頃は春泉と称し、また別号に遊漁洞、太湖州人を用いた。

 
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共箱に題されている「松風村雨」を知っていないとこの絵がなにを描いたか分かりませんね。



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松風・村雨:(まつかぜ・むらさめ) 平安時代、須磨に暮らしていたという伝承上の姉妹。姉が松風、妹が村雨。地元である須磨で語られる伝説によれば、姉妹は多井畑の村長の娘たちで、本来の名は「もしほ」と「こふじ」であった。須磨に汐汲みに出たところ、天皇の勘気を蒙り須磨に流されていた在原行平と出会い、「松風」「村雨」と名づけられて愛された。のちに行平は赦されて都に帰る際、松の木に形見の烏帽子と狩衣を掛けて残した。また『古今和歌集』にある「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む」(巻第八・離別 在原行平)の歌も、この離別の際に詠んだものとされる。松風・村雨姉妹は尼となって行平の旧居に庵を結び、彼を偲んだという。 須磨に配流された行平が海女と歌を交わす短い説話は『撰集抄』(13世紀中葉成立)に現れるが、海女の名は記されておらず、姉妹でもない。行平が心通わせる相手を、無名の海女に代えて松風・村雨とした謡曲『松風』(室町時代成立)は、『撰集抄』に加え、平安時代に成立して散逸した物語『あま人』や、『源氏物語』の影響を受けて成立したと考えられる。
謡曲『松風』以後、松風・村雨の悲恋の物語は広く知られることとなり、浄瑠璃や歌舞伎、近代には映画などにも取り入れられた。須磨には衣掛松や松風村雨堂など、彼女たちの伝承に基づく遺跡がいくつかあり、須磨区内には村雨町・松風町・行平町・衣掛町と名付けられた地名もある。

「中納言行平朝臣、須磨の浦に左遷され村雨・松風二(ふたり)の蜑(あま)に逢ひ、戯れるの図」月岡芳年画



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在原行平が愛したという二美人を描いた作品・・・、ゆっくり鑑賞してください。



松風・村雨姉妹は尼となって行平の旧居に庵を結び、彼を偲んだと伝えられますが、むろん後日の伝承という可能性が高いものと思います。



「行平が心通わせる相手を、無名の海女に代えて松風・村雨とした謡曲『松風』(室町時代成立)は、『撰集抄』に加え、平安時代に成立して散逸した物語『あま人』や、『源氏物語』の影響を受けて成立したと考えられる。」というのが本当のところでしょう。



女性は男よりだいたいがドライです。去っていった男のことなどすぐに忘れていくもの・・。前述の家内も同じ??



ともかく太古?のロマン・・。男のほうがロマンチックなのさ

葡萄図-26 天龍道人筆 その37 84歳

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五月の連休は郷里へ帰省です。夕食のテーブルで息子に「さ~、連休は帰るぞ!」と言ったら、義父・母のいる前で「パパ、本当のお家はどっち?」だと

今回の整理が終わった作品で郷里は持ち帰るのを玄関に段取り。今回は額の作品がメインで、次回は掛け軸、陶磁器がメインで送ろうと思っていますが、荷物が多くなると家財便だと安くなります。ただ、量はこの程度、これで送料が8000円程度でした。



久方ぶりに天龍道人の作品の紹介となります。本ブログで同一画家のシリーズなるとアクセス件数が減りますが、当方は一向にお構いなし・・・

葡萄図-26 天龍道人筆 その37 84歳
紙本水墨軸装 軸先骨加工 誂箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横

なんといっても「葡萄図」だけで「その 26」の作品数になりますので、ブログは飽きられるでしょうし、こちらも書く記事のネタがなくなっています。



天龍道人の葡萄を描いた作品は数多くありますが、たま~に贋作? もしくは別人の「天龍」という号のサインの作品を見かけます。

 

本ブログにても2点ほど混乱して紹介した作品があったようです。



天龍道人の作品の面白いのは彩色された南蘋派の作品から、山水画、鷹の作品などの派生された作品が多いということです。

*近日中に南蘋派の影響を受けた面白い作品を紹介できそうです。



鷹の絵は最後まで南蘋派の影響をうかがわせる痕跡があり、葡萄図は逆の昇華された独自の画風に到達しています。

  

ありとあらゆる画家がほぼ研究されつくされている現代では、新たな発見は少ないですが、意外に知られていない画家を注目すると面白いようです。

牡丹に蝶 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃

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今日の男の隠れ家から持ち帰った作品は基本的に男の隠れ家に戻していますが、氏素性の判明していない作品はまだ数点手元に置いて引き続き調べています。なかなか分からないものというのは解らないものですが、ちょっとした契機で糸口が見つかるものです。



さて郷里の画家の寺崎廣業の作品はある一定のレベルに達していない作品は蒐集を制限する蒐集となっています。寺崎廣業の作品は依頼されて描かれた作品が数多く、そのほどんどが駄作と言って過言でもないものが多々あります。よって、蒐集する側はよくその点を見極めないと寺崎廣業の駄作の山を築きかねないからです。

本日紹介する作品も実は依頼されて描かれた作品である可能性は高いのですが、絵の品格に、そしてこの絵ともう一点同じ構図の義父となった邨田丹陵との合作の作品(この作品は後日紹介します。)との関連から入手に踏み切った作品です。

牡丹に蝶 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃
水墨絹本軸装 帝国美術鑑定局鑑定書添付 合箱
全体サイズ:横410*縦1680 画サイズ:横850*縦320

 

落款から明治30年初期頃の作と推定しています。印章は朱文白円印でこの当時に数種の円印が押印された作品が存在していますが。そのうちのひとつの考えられます。



牡丹を水墨のみで描いた作品は村上華岳の作品などが著名ですね。



「帝国美術鑑定局」の鑑定は昭和2年7月31日に鑑定されたものですが、「帝国美術鑑定局」については記録はあるものの現在では詳細は不明です。



昭和2年というと寺崎廣業が大正8年に亡くなっていますので、亡くなって間もないころの鑑定となりますね。ま~あってもなくてもよい鑑定書です。



寺崎廣業の作品については大体の整理は目途がつきました。落款や印章、作風から年代別に分け整理してあります。かなりの数の作品が画家別に、そして年代別に整理され、それと共に真贋の判断もつきやすくなってきています。



このような整理をしないと蒐集のレベルは上がませんね、「自分の金で買い、そして売り、休んで勉強しなさい。」という骨董の格言の「勉強」のうちです。



展示室に飾ってしばし鑑賞・・。



寺崎廣業はやっぱりうまいな~と思います。



多作になったこと、早世したことが悔やまれますね。



さ~、帰郷したら寺崎廣業のいい作品にお目にかかれるかな? ただ意外に郷里にいい作品はないようですが・・。




備前の器ら

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昨日の夕刻は日本橋の三越へ・・。目的はフォーマル用の紳士靴を購入するためです。紳士用の靴にはフォームと色によってフォーマル、ビジネス、カジュアルに使い分けるのが基本のように思います。使い分けを知らない方が多いようですが、マナーを見る人は見ていますので要注意です。

散々迷って靴は日本製にしました。フォーマル用の靴はストレートチップ、皮は艶消し、色は黒、これは最低限の基本ですね。靴の製品名は人の名のような製品ですが、ここまで言うとどこの製品かはお分かりいただけるでしょう。

骨董にこだわる人は靴、着物、スーツ、ネクタイなどや紳士用の小物にまでこだわりましょう。スーツはやはり・・・ですね。スーツやフォーマル用の靴は使う期間はもう限られてきたので身丈に合う程度に贅沢しています。なお最近不要になってきたスーツは廃棄しました。

さて明日から連休中は郷里の男の隠れ家に隠遁します。よって本ブログは不定期的に?投稿します。

本日は男の隠れ家から引っ張り出してきて整理した作品で、元の鞘に納めるために郷里に持ち帰る作品の紹介です。(今回は陶磁器は段ボールで一個分のみと少ないです。)

郷里の作品はまだ整理されていない雑もの?がたくさんあり、暇をつくっては片付けて整理しています。まだまだこのような作品がありましが、ある一定のレベルに達していない作品は廃棄処分とします。

備前花入 柴岡紘一作
共箱
口径*最大胴幅*高さ*底径



共箱でもない限り後世に遺された場合、そう簡単には遺された人には氏素性が判るものではありません。



そういうことのなきように小生は資料と共に遺そうとしています。



小生はインターネットのなき時代、美術年鑑からすべてが始まり、ひとつの作品の氏素性の調べるのに多大な労力を費やしました。



柴岡紘一:昭和16年備前市生まれ。備前陶芸センター終了後伊勢崎満・淳兄弟に師事。昭和46年に窯を築いて独立。日本伝統工芸展他入賞多数。備前市無形文化財。日本工芸会正会員。備前市無形文化財。





こちらは備前の徳利で高原敏の作品です。

備前徳利 高原敏作
共箱
口幅約26*最大胴幅約90*高さ120*底径55



星の数ほどの陶芸作家の作品がありますが、思い出以外を評価対象とすると遺すべき作品は意外に少ないものです。



打ち捨てるのが惜しいと思っていると押し入れから作品が溢れ出す・・。



最近の備前の作品は残念ながらほとんど見るべきものがないように感じます。



備前一輪生 木村素静作
母旧蔵(****から寄贈) 共箱
口径38*最大胴径135*高さ165*底径84



百貨店からの購入品のようですが、書付から母が母の友人から頂戴した作品のようです。



お茶の稽古の時になど母は花を飾るのによく使っていました。華道も習得していた母が生ける花は、主に庭に植えていた花が多く、実に品がよく楽しいものでした。





木村 素静(きむら そじょう):昭和49年岡山県備前焼重要無形文化財伊勢崎淳氏に従事し、昭和54年に独立し長船町に窯を築いた。同年から3年連続で岡山県展入選、57年からは6年連続で女流陶芸展に入賞、また、58年から6年連続で一水会陶芸展に入選、昭和63年には牛窓に窯を築き創作活動を続け、多数の個展を開催するなど長年にわたり岡山備前焼の女流作家として活躍している。





これらも記録として共箱に同封し、次の世代へ・・・。



備前花入 木村陶峰作
共箱
口径32□*最大胴幅110*高さ245*高台53□
 
 

母から昭和60年頃に結婚に際して頂いた作品で思い出のある作品です。



この花入れは捻じれ具合が見どころ。捻じれているので備前の焼成による肌の違いがよく見れます。家内もこれは気に入ったようです。



陶正園:備前窯元六姓の名門、木村総本家興楽園12代目木村長十郎友明の子木村正二により1913年に設立された。現代表の木村陶峰は、戦後中央大学法学部に学び、1962年に2代目に就任。戦後のきびしく長かった不況時代を乗り越え、今日の近代的大窯元に発展させた手腕は、大きく評価されている。「良い品を喜ばれる値段で」をモットーに、伝統を生かしながら現代生活にもマッチした作品づくりを目指しているとのこと。







以上の備前の作品ら・・、当時は新進気鋭の作家? 金重陶陽、藤原啓、藤原建、藤原雄らの作品を経て、現代の作家の良き作品を見出そうとして男の隠れ家の先人の思いが伝わる作品です。その思いを記した記録を添付して保存箱に遺しておきましょう。



以上が昨年、男の隠れ家から漁ってきた備前の作品ですが、現在ではそれほど高い評価を受けている作家ではありませんが、作品ひとつひとつは魅力的です。まだいいものがあるかもしれません。

ついでにこちらは古染付の茶巾筒・・、線香入れに使用しています。

古染付 茶巾入
誂箱
幅約26*胴幅26*高さ70*底径26



 

 



家内が購入した薄茶器・・。



共箱もありますが、詳細はよくわかりません。



いろんな作品がありますが、今では出来の良しあしである一定のレベルの作品は否かが判断できるようになりました。



これは祭器に使用している対の瑠璃釉の作品です。



本日は数多くの作品の紹介となりましたが、ひとつひとつをブログに投稿するほどの作品ではありませんので、まとめて投稿してみました。

作品はよく勉強して整理することが必要ですが、そのためには勉強となる作品を入手しなくてはなりません。勉強にもならない作品を集めて放置するのでは、これは骨董蒐集とは言えないのでしょう。目につくところに骨董品が山積になっていたり、職場に作品を持ち込むのは言語道断です。あくまでも趣味はスマートに、そして品よく・・。

さ~、郷里の作品ももうすぐ片付きます。今回の帰省では人を頼んで男の隠れ家の骨董類の大処分?の予定です。まだなにか掘り出し物がないかなと密かな期待もありますが、さすがにもうないと踏んでいます。

人間、年を経ると要るものと要らないものが解るようにならないといけないようですね。どんどん衣類も骨董も含めて大処分・・・。男は65歳、女は70歳で身の回りを最低限に整理すべきだそうです。

双鯉之図 内海吉堂筆 その8(鯉之図 その3)

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小生の衣服のボタン付けは息子の役目になりました。道具を使って遊ぶ、仕事するはこの世の基本、鉄は熱いうちに打て!



さて久方ぶりに先週は日本橋の三越に行き、美術品コーナーを覗いてきました。昔から日本橋の三越に行った際には観るようにしているのですが、なにか今回の展示作品はすべて綺麗!と感じました。こぎれいなマンションの部屋に合う作品というイメージです。これも時代かな?と思って観てきました。気に入ったは鈴木蔵のお茶碗、牛島憲之の絵、これは良かった。当然お値段もかわいくない・・・。

*連休中はまた5月の節句が近く、また令和の新時代に向けて「鯉」の作品を書き溜めていた原稿からいくつか投稿します。

さらに久方ぶりに内海吉堂の作品の紹介となります。本作品で8作品目の所蔵となりますが、とくに鯉を描いた作品は人気が高く、こちらは本作品で3作品目です。日本橋三越もまた五月の節句の品々が多々ありました。

双鯉之図 内海吉堂筆 その8(鯉之図 その3)
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横

 

賛は「癸卯(みずのとう、きぼう 1903年 明治36年)之小春吉堂海復寫於蒹葭楊柳室 押印(白文朱方印「内□復印」、朱文白方印「吉堂」」とあり、内海吉堂が52歳頃の作。

  


中国では向かい合う一対の鯉は「相思相愛」の象徴であり、結婚式の贈り物などでも欠かせないアイテムです。鯉はたくさん子供を産む、ということから、子孫繁栄や子宝に恵まれるように、との願いも込められています。『水を得た魚のよう』という例えは新婚夫婦の幸せな生活の様子を表したとされます



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内海吉堂:1849~1925。嘉永2年(1849)12月3日福井県敦賀生まれ。父は内海元紀。本名は復、字は休郷、通称は鹿六。滋賀県湖東の医師・小菅兎峰について漢学を、のち京都に出て四条派の塩川文麟に師事する。花鳥画、特に鯉画を得意とする。明治初年中国に遊学すること2回、各地の旧跡名画に接して研鑚、南画家の道に進む。明治21年京都府画学校に出仕。明治30年第1回全国絵画共進会に『武陵桃源』、明治32年第2回に『東坡遊石鐘山』で銅牌、明治40年『松巒瀑布』で三等銅牌となるなど日本美術協会展で受賞を重ね活躍する。大正元年第6回文展に『船過孟浪梯図』で、翌年第7回文展に『江南春靄』で入選する。大正14年(1925)10月9日京都市で歿、75歳。

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これだけきちんと表具の状態がよいのは珍しいですが、内海吉堂の「鯉」を描いた作品は評価が高いので再表具したのかもしれません。

*塩川文麟のホタル、内海吉堂の鯉の作品は出来不出来はありますが、出来の良い作品は見逃さないほうがいいでしょう。



二重箱に誂えられています。



笑ったような擬人化されて魚の表現は陶芸の金城次郎に通じるものがあると感じるのは小生だけでしょうか?



こういう作品は広々としたところに飾るのがたのしいですね。



金城次郎の作品と対比させてみました。中国では向かい合う一対の鯉は「相思相愛」の象徴・・・・



展示室に光と影を作り出して水の中にいるような演出をしてみても面白いです。。『水を得た魚のよう』という例えは新婚夫婦の幸せな生活の様子を表したということを踏まえての展示です。



鯉はたくさん子供を産む、ということから、子孫繁栄や子宝に恵まれるようにとの願い・・・、もともかく大幅です。



表具も水を現す表具になっています。結婚式の贈り物?? 新婚の新居には大きすぎるでしょうね



鯉の愉しい作品は飾っていてもめでたくていいものです。



我が家の今年の五月の節句の飾り床です。高層マンションが増え最近はこのような床を構えることが少ない住居環境となりましたが、どうも高層マンションの眺めはすぐに飽きがくると思うのですが・・・。きれいはすぐに飽きる、骨董も女性も同じ・・・・

きれいなものを人に自慢できるものだが飽きがくるもの、味のあるものは人には理解できないが自分では面白いもの、いずれどちらが大切かは時間が裁量してくれますね。物も人間も同じこと・・・、さて周囲にあるものはきれいなものもより道具を使って時間を過ごすものが大切。

鯉の滝登図 天龍道人筆 70歳頃 

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5月の節句前にお風呂には菖蒲の葉。菖蒲には邪気払い・魔除けの効果があると信じられおり、そして古くから行われていた五月忌み(中国では5月には病気が流行しやすく悪月と呼び忌み嫌っていました)と呼ばれる習慣です。

身を清める為に邪気払いの効果のある菖蒲を浮かべた菖蒲湯に入浴し身を清めます。息子が大きく育ってくれた事への感謝とこれからも健康にすくすくと育って立派になってほしいという願いを込めての菖蒲湯です。菖蒲は古くから解毒作用がある薬草として人々から重宝されていることもありますが、妊婦さんにはNGとされています。

このような習慣が無くなっているようですが寂しい限りですね。信心深い者に幸多かれ・・・・・・・



*連休中はまた5月の節句が近く、また令和の新時代に向けて「鯉」の作品を書き溜めていた原稿からいくつか投稿します。

本日紹介する天龍道人が「天龍道人」と名乗ったのは70歳頃からですが、それ以前に描かれてた本日紹介するような沈南蘋風の作品は数が少なくとても貴重な作品となります。

鯉の滝登図 天龍道人筆 70歳頃 
絹本水墨着色軸装 軸先塗 所蔵箱
全体サイズ:縦1798*横408 画サイズ:縦997*横329

床に明末呉須赤絵の大皿と一緒に飾ってみました。



天龍道人はもともとは沈南蘋派に属し、熊斐を師とする資料からすると熊斐の描いた絵を参考にして当初は描かれた可能性があり、長崎派の画風を持っている作品があります。

*こちらは金城次郎の魚の大皿と風鎮は魚・・・。



沈南蘋派風の作品は根強い人気があります。



落款には「鵞湖(諏訪湖のこと)逸士王瑾公瑜冩 押印」とあります。印章は白文朱方印「王瑾之印」、朱文白方印「公瑜」が押印されています。



天龍道人の作品には「鵞湖(がこ)」、「鵞湖漁叟」、「鵞湖逸士」などが70歳前後前の作品の落款にありますが、鵞湖というのは諏訪湖の別称で、61歳で下諏訪に家屋敷を購入すると年譜にあり、それ以降の作品にはたとえば「鵞湖王瑾」という組み合わせの署名がみられます。「天龍道人」という署名は、70歳頃からのようです。この当時は長崎派の影響が画風に色濃く残っています。所蔵者であった思われる「環碧山房蔵」についての詳細は不明です。



この当時に描かれた思われる作品は本ブログでも紹介していますが、主だった作品は下記の3作品です。

関羽(関羽周倉)図 天龍道人筆 70歳
絹本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1830*横460 画サイズ:縦980*横330



虎図 天龍道人筆 71歳
絹本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1488*横396 画サイズ:縦690*横281



鷹図 天龍道人筆 70歳
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1810*横492 画サイズ:縦940*横360



繰り返しになりますが、この頃の南蘋派の影響が顕著な色彩画は非常に数が少なく貴重な作品となっています。



天龍道人を鑑賞するならこの頃の作品抜きでは語れないでしょう。この頃の作品にこそ価値があるとまでは評価しないまでもこの頃の画と90歳後の葡萄図や鷹図の作品があるからこそ天龍道人は評価されてよい画家となるのだと思います。



まともな作品が遺っているのは70歳過ぎてからの作品がほとんど・・・。



90歳過ぎて枯淡の粋に達した作品を数多く残しているこの画家は高齢化社会の我々に大きな刺激を遺してくれました。



これからの時代は職業を二度味わえる、60歳を過ぎたら本当に自分の好きなことに打ち込める時代になりました。60歳、70歳を過ぎて老け込んではいられません。その年齢になっても健康で打ち込めるものがある必要がありますね。



さてこの箱の所蔵印?については詳細は解りません。

群鯉 菊池容齋筆

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テレビ局から本ブログの画像を使用したいと申し込みがありました。以前は本に記載されたり、美術館に展示されたりと作品が見ていただける機会が増えるのは大歓迎です。予定の画像は鯉の作品・・・。

*連休中はまた5月の節句が近く、また令和の新時代に向けて「鯉」の作品を書き溜めていた原稿からいくつか投稿します。
(現在は休暇中・・・)

本日紹介する作品はかれこれ20年以上前に入手した菊池容齋の作品です。本ブログでは渡辺省亭の師として取りあげていましたが、この画家の作品そのものの紹介は初めてとなります。

群鯉 菊池容齋筆
絹本淡彩絹装軸 合箱 
全体サイズ:横1937*縦493 画サイズ:横367*縦1008

 

本作品は晩年の88歳の作品。この年、明治8年(1875年)2月に明治天皇より「日本畫士」の称号を受け、本作品にもその印章を使用しています。これ以降の作品にはこの印章を押印しており、91歳で他界するまでの作品の特徴であり作品数は少ない作品です。



本作品は淡彩で描かれた品格のある作品・・・。翌年の明治10年にフィラデルフィア万博に「躍鯉ノ図」(1875年作)を出品して褒状を受けています。「菊池容斎遺作展覧会図録」掲載と同作時期と思われ、図録は1937年に出版されていますが、その図録には鯉を題材にした「鯉之図」が掲載されています。



もちろん出来、落款、印章から判断して真作と判断されます。表具の状態が少し痛んでいるがこの程度はうぶなままが良いと考えています。



*容斎の作品は以前には席画程度のものを所蔵していましたが、痛みがひどかったこともあり手放しています。菊池容齋の作品は数多くの作品を描いているためか市場にたくさんあります。大和絵復古の趣向が強く、その線の繊細さ故か当方の趣向に合わず今まで紹介していませんでしたし、新たな入手には食指が動きませんでした。

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菊池容齋:(きくち ようさい) 天明8年11月1日(1788年11月28日) ~明治11年(1878年)6月16日)。享年91歳。幕末から明治時代初期にかけての絵師。旧姓は河原。本名は量平または武保、別号に雲水无尽庵など。『前賢故実』の作者として広く知られている。徳川幕府の与力の家に生まれ、狩野派を学んで画家になり、さらに有識故実と大和絵を研究して歴史画に新画風を創め、時代性描写にも特色を持ち込み、多くの遺作がある。広義の復古大和絵派に入る。



補足

幕府西丸の御徒・河原専蔵武吉の次男として、江戸下谷長者町で生まれた。父は菊池家から養子に来た人であったが、系図によると南朝遺臣の菊池武時の後裔であるという。15歳の時に早世した兄に代わって河原家を嗣でいたが、28歳の時に父の生家が断絶し、量平はこの名家が廃されるのを惜しみ、妹に婿養子を迎えて河原家を嗣がせたのち38歳で致仕し、菊池武長の後を継いで菊池家を再興した。菊池武保と名乗るのはそれからである。「容斎」という号は、厳格さのあまり他人を容赦しない自分の性質を戒めるためにつけたという。

幼いときから絵を描くのが好きだったが、画を学ぶことを父から許されなかった。16歳の時に描いた両親の肖像画を見て初めてその伎倆を認められ、許しが出たという。文化2年(1805年)から高田円乗に師事し、狩野派や南蘋風の絵を学ぶ。円乗の死後は師につかず、その教えを守り流派にこだわらずにその長所をとることに努めた。生活は楽ではなかったが、画を認めてくれた旗本・久貝正典の財政援助を得て「阿房宮兵燹の図」「呂后斬戚夫人図」などの大作を描いた。学問上の知己として羽倉簡堂がいる。


 
文政8年(1825年)西丸御徒勤めを辞して作画が本格化したとみられる。文政10年(1827年)から京や大和に5年ほど滞在して円山四条派や土佐派、浮世絵を学び、有職故実や古器物の研究を行う。この成果が職を辞した年から取り掛かり、天保7年(1836年)に完成させた『前賢故実』である。これは10巻より成り、神武天皇の時代から、後亀山朝にいたる日本史を代表する500人を選び、画の上にそれぞれ小伝を加えるか、または詩歌を掲げたものである。この著は容斎の歴史趣味と尊皇愛国の精神を遺憾なく伝えた代表作である。明治元年(1868年)9月に刊行。明治天皇が東京に遷るときにあたって推薦する人があり、右大臣・三条実美と左中将・東久世通禧の働きによって天皇の目に留まり、容斎は天皇より「日本画師」の号を賜られた。一説によると刊行前に孝明天皇に献上され、天皇を動かして和気清麻呂に神号を追贈させるきっかけとなったという。明治7年(1874年)「土佐日記絵巻」2巻を描く。明治10年(1877年)の内国勧業博覧会に出品し、最高の竜紋褒賞を授与された。翌明治11年(1878年)、神田お玉が池の自宅において逝去。

『前賢故実』は明治36年(1903年)、孫の菊池武九によって、有職故実の考証1巻を加えて『考証前賢故実』全11巻として東陽堂から刊行された。『前賢故実』は国家意識の高まりの中で歴史画が盛んに描かれ出すと、そのバイブルとしての役割を果たした。日本画家のみならず、洋画家や生人形師、写真家、果ては講釈師まで参考にしており、その影響力の大きさが伺える。
容斎の門人として、松本楓湖、渡辺省亭、鈴木華邨、三島蕉窓、中島亨斎、小磯崎雪窓などがいる。とりわけ松本楓湖の門からは、速水御舟、今村紫紅、小茂田青樹など、次代を担う画家が輩出された。容斎に私淑していた画家としては、尾形月耕が風俗画で名を成し、梶田半古は弟子に『前賢故実』を書写させ、その中から小林古径や前田青邨といった歴史画家が育っていった。なお、心理学者多湖輝は容斎の子孫にあたる。

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「容斎の門人として、松本楓湖、渡辺省亭、鈴木華邨、三島蕉窓、中島亨斎、小磯崎雪窓などがいます。とりわけ松本楓湖の門からは、速水御舟、今村紫紅、小茂田青樹など、次代を担う画家が輩出されています。容斎に私淑していた画家としては、尾形月耕が風俗画で名を成し、梶田半古は弟子に『前賢故実』を書写させ、その中から小林古径や前田青邨といった歴史画家が育っていきました。」と経歴に記述があるように、近代画家の系譜を育てた指導者的な画家と言えます。

本ブログにて投稿されている「松本楓湖、渡辺省亭、今村紫紅、小茂田青樹」らの画家も名を連ねていますね。

明末呉須赤絵 羅針盤龍鳳凰馬文盤

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当時の人気が高い漳州窯で生産され日本に輸入されていた呉須赤絵の作品ですが、本ブログでも多くの作品を紹介しています。この漳州窯の大皿の作品には貴重価値、美的価値が非常の高い「餅花手」を筆頭に、「呉須赤絵(青絵も含む)」、「呉須染付」の大きく分けて三種類ありますが、「呉須赤絵」の中には「天下一」と称されて分類される作品群があります。本日はその作品の中で非常にレアで、価値の高い作品を紹介します。

明末呉須赤絵 羅針盤龍鳳凰馬文盤
合箱入
口径385*高台径*高さ85



まず完品の状態で発色の良い作品ですが、これだけでおそらく明末呉須赤絵の90%以上の作品が該当しません。明末呉須赤絵の作品は数多くありますが、まず発色の良い作品が少なく、かつ傷のない作品となると非常の数が少なくなります。



呉須赤絵の作品には、戦国武将が好んだ天下一の文字を入れるようにと中国へ日本から発注生産した作品を「天下一」と称し、呉須赤絵の中で分類される作品があります。それは 秀吉の死後、裕福な商人が大陸へ発注した呉須赤絵の作品と言われています。



その後に徳川幕府は「天下一」の使用を禁止したそうですから、1600年代の一時期のみに存在した作品で、その後には見込み中央の「天下一」の文字を消したり、無くしたりした作品が混在するようになります。



本作品は中央の見込み部分に朱での「天下一」の代わりに「中極」と記されています。周囲に記されている文字には八卦のいくつかの文字と干支の文字が記されている非常にまずらしい図柄です。



宇宙を意図した図柄???



周囲の図柄も格段に趣のあるものとなっています。



虫喰いも少なく、高台はその手のものとしては丁寧に作られています。



呉須赤絵の作品は本ブログで紹介したように当方ではかなりの数になりましたが、本作品は格段の出来の部類に入るでしょう。



箱に記されてた説明はよく解っている御仁が記されたものだと思います。こちらの入手金額も呉須赤絵としてはかなり高額の作品となりましたが、それでも30万弱の費用です。これが高いか安いかは当方では判断しかねますが、個人的な見解では今しか入手できないタイミングでした。





展示室ではでは上記のように展示してみました。



当方のブログで紹介されている呉須赤絵大皿を並べてみましたが、一言で「呉須赤絵」といってもいろんな種類の絵付けがあります。



保管もきちんとしておきましょう。



ともかく重いので保管場所の下の梁が落ちないか心配ですので、大皿が多くなり荷重を分散させる置き場所を考える必要があるようになってきました。



明末呉須赤絵の作品は意外にバリエーションが広いようです。
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