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蘆雁図 橋本雅邦筆 東京美術倶楽部鑑定書添

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狩野芳崖と並ぶ近代日本画の創始者と評される画家の作品の紹介ですが、現在はそれほど手の届かない金額で取引されているということでもありません。

蘆雁図 橋本雅邦筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 橋本秀邦鑑定箱(昭和3年10月)二重箱
東京美術倶楽部鑑定書添(平成31年2月9日) 
全体サイズ:横440*縦2160 画サイズ:横310*縦1230

 

この作品を観て真作であると判断できる方はかなりの目利きでしょう。



とくに橋本雅邦は国画会などの伝統的な技法で描く作品もあり、その作品が模写されているとまったく判別が難しくなります。



この作品はそのような定型的な技法ではないのでまだ見極めが簡単です。



本作品には東京美術倶楽部の鑑定書が添付されていますから真作と判断していい作品です。



当方の所蔵作品には東京美術倶楽部の鑑定書のある作品があります。贋作を真作と素人判断している御仁がものすごく多いのですが、それではひとつも真作は集まりません。贋作の山を築くことになります。

真贋を見極めるには贋作を手元においてはいけません。万人が認める真作を手元に置く必要があります。




問題の多い橋本秀邦の鑑定箱書、そして朱文の「雅邦」の印章ですので、箱書や印章のみで橋本雅邦の真作とは断定しないでください。

残念ながら橋本雅邦の真作と判断できるのは東京美術倶楽部の鑑定書があったり、過去の由緒ある美術本に掲載されている作品のみです。門下生が多く、また著名な画家であったことから数多くの模写が存在し、真作と認められるのにはそれなりの根拠が必要です。

  

ただし下記の作品は鑑定のない作品です当方では真作と判断している作品です。

猿使い 橋本雅邦筆
紙本水墨額装 タトウ 
全体サイズ:横455*縦900 画サイズ:横290*縦650



このような真贋の判断はある程度の経験を積まないと身についてきませんので、単に印章や落款の照合という手順では判らない世界ですね。

以前に知人が鶴を描いた六曲一双の作品を思文閣に処分しようとした時に最初の評価金額が40万円でした。小生が美術本に掲載されていることを指摘すると思文閣にて400万円で引き取られたことがあります。プロでもそんなものです。

真贋は実に奥深く、骨董品の価格は実に魑魅魍魎たる領域です。なお思文閣のオークションでも橋本雅邦の作品は十数万円からスタートしている作品もありますが、これは一応真作、ただ万人が認める真作ではないというお値段です。これを魑魅魍魎たる世界という・・・。

明末呉洲赤絵写 鹿草花文茶碗 古犬山焼

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帰省した際には母の遺品を少しずつ整理していますが、なにしろ女性ものばかりなので、処分は家内にほぼ任せています。ハンドバック類などは象の皮という珍しいものなど3点を遺してあとは処分しました。現在、専門店にてクリーニングしたあとは使う女性陣に渡すことにしています。当然ながら靴はほとんど処分しましたが、遺ったのは状態のよさそうな下駄、草履類ですが、こちらも大部分が処分しました。下駄の中に津軽塗のものがありました。





よく売られている津軽塗の下駄ですが、梨地上(なしじあげ)のものでランクが上のものらしいです。

さて本日の作品ですが、「犬山焼」について知っている人は多いと思います。

本日、本ブログにて登場するのは400年くらい前の明王朝後期から末期にかけて福建省の南部で焼かれた呉州の漳州窯のおける作品との比較においてです。メインの作品として紹介されるのは今回が初めてかもしれません。

明末呉洲赤絵写 鹿草花文茶碗 古犬山焼
合箱
口径110*高台径60*高さ95

この茶碗は出来が非常にいいですね。茶碗としての品格があります。



日本で呉洲赤絵の写しがたくさん製作されていますが、その中で特筆されるのが犬山焼でしょう。時には本歌の呉須赤絵と勘違いされて紹介されることもあるようです。実際に小生も最初に入手した作品を呉須赤絵の皿と勘違いしていました。

ただ当方では犬山焼を今まであまり高くは評価していませんでした。それはやはり呉須赤絵の作品としては他の日本で作られた呉須赤絵の作品同様に野趣溢れた作品としての魅力に乏しいためです。その評価は今も変わりません。

ただこの作品は実に素晴らしいと思います。中国の明末の呉洲赤絵というよりもまさしく日本の茶碗として自立しています。奥田潁川と同じレベルと評価してよいでしょう。



評価されるのはその絵付けの妙と高台の趣です。高台はまるで安南焼を思わせるすばらしいもので、高台内は安南焼の渋釉のような色をしていますね。



本来犬山焼の欠点である貫入が茶碗となって味わいを持せてくれています。



皿の貫入はマイナス評価以外のなにものでもありませんが、茶碗の貫入は使うことによって味わいを持たせるものに変化します。



口縁の繕いも味わいがありますので、前の所有者は茶碗として大いに使ったのでしょう。



箱は下記のとおりです。由来のある古箱などはむやみに写真を直接貼らないようにしましょう。紙カバーだけに貼るのがいいと思います。



犬山焼については当方は全くの門外漢ですので、調べてみました。

まずはなんでも鑑定団にも出品作品があります。

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参考作品
雲錦手大皿 古犬山焼
なんでも鑑定団出品作 2012年6月5日放送
評価金額100万



評:180年くらい前の天保年間に作られた物。扶桑町の隣の犬山市に丸山窯という窯跡があるが、そこで焼かれた物。裏に「乾山」と書かれているが、これは「犬山」を「けんざん」と音読みして、京都の名工尾形乾山の名を持ってきたもの。その銘の部分に化粧土をかけてある(打掛)のが古いものの証拠。表の絵も雲錦模様と呼ばれる良いもので、灰白色の化粧土を薄くかけて、まるで霞がかかったように見せている。

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当方でまだブログを始めたばかりの頃で、同時に明末呉須赤絵の蒐集を開始した頃の作品(冒頭のように犬山焼を明末呉須赤絵として紹介していた作品)には下記の作品があります。

呉州赤絵写 龍二兎花鳥図尺大皿
古犬山焼
口径303*高さ52 合箱



上記の作品は明末呉須赤絵ではなく、胎土、釉薬、形から古犬山焼と思われます。



明末呉須赤絵ではないと判断してから、どっかに収納してしまい現在行方不明の作品です。犬山焼としての価値を見直す必要がありそうです。



犬山焼を調べて整理されたものに下記のような長~い記事があります。下記の記述からどうやら本作品は天保年間の作と推定できるようですが、確実なことではありません。

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犬山焼:江戸元禄年間、今井村(現在の犬山市今井)において、郷士奥村伝三郎が今井窯を焼き、焼物を作ったのが始まりです。その後、犬山城主成瀬正寿が文化7年(1810年)丸山に開窯、文政年間(19世紀)には、犬山藩お庭焼として発展し現在に至ります。作風は、中国明時代の呉州赤絵を手本とする呉州風赤絵・犬山城主成瀬正寿の意匠による光琳風の桜と紅葉を描いた雲錦手が特徴で、素朴で優雅な陶器として愛用されています。

犬山焼の祖は、宝暦年間(1751-1763)から今井村宮ケ洞で「犬」等の窯印を捺して焼き出されていた。美濃焼の陶工による今井窯の時代は安永10年(1781年)3代目窯主、奥村太右衛門が歿してその終わりを告げた。それから約30年後の文化7年(1810年)、当時の犬山城城主第7代成瀬正壽は 今井窯の廃絶を惜しんで犬山焼の再興をはかり、犬山上本町の島屋惣九朗に命じて、犬山白山平の南麓に茶碗焼場2反6畝20歩、土取場3畝10歩を貸し与え 燃料用松材を丸山付近の山林から伐採することを許す等の援助を与え丸山窯を創業させたと言われる 惣九朗はどこから職人を入れ、どのような製品を焼きだしたか等の記録もそれと推測される製品らしき物も全く不明で、その生産が行われたとしても極めて微々たる物であったと思われる。

文化14年(1817年)になって、やはり上本町の住人で 綿屋太兵衛(大島暉意)がこの窯を譲り受け、一宮在の大海道に住む叔父に当たる人の紹介で、京都三条の粟田焼きの陶工であった藤兵衛、久兵衛の両名を雇い入れて粟田焼きに似せた薄手の「大根焼き」なるものを焼いた。しかしひと窯から40両位の揚がりがあるという藤兵衛の布令込みに反して半焼けや疵物ばかりで無事物はようやく2歩止まりということで、到底採算の取れる状態ではなかったようである。そこで太兵衛は瀬戸系の信頼のおける陶工を入れ挽回を図ることとし、文政5年(1822年)3月成瀬家の知行所であった春日井群上師段味村から 加藤清蔵を招いた。清蔵はまだ年は若かったが大物作りを得意としたロクロ挽きの名工でもあり窯焼きにも熟練していたらしく丸山に住んで作陶に専念した為、かなりの成果を収めたようである。

また、同9年(1826年)には同じ師段味から加藤寅蔵が来て 清蔵の窯で染付磁器の製造を始めた しかし窯主の太兵衛は 創業以来10年近い間にかなりの資産を注ぎ込んだが、経営は職人まかせであった為に自分への利益は殆んど還元されなかったようである。天保初年には遂に事業から手を引くこととなった。

ようやくにして発展のきざしが見え始めた時機であった為城主はこれを惜しんで清蔵に資金を扶助して窯主とした。清蔵の苦心経営と寅蔵の瀬戸でも見られぬ純白磁器の製造が軌道にのって間もなく、天保2年(1831年)には、師段味から水野吉平が来て清蔵の窯に協力し、瀬戸ではやらぬ赤絵付けを開始した。吉平はどこで赤絵の技術を見に付けたかはわからないが その方法も追々進歩をみたようである この吉平は後に松原仙助の娘と婿養子となり名も惣兵衛と改めた。天保6年(1835年)、松原惣兵衛と懇意な名古屋伝馬町の筆墨商大学堂の紹介で 陶画工逸兵衛を雇い入れた。この人は通称道平と呼ばれており 京都の奥田頴川と並び称される赤絵の名手であった。



*「陶画工逸兵衛を雇い入れた。この人は通称道平と呼ばれており 京都の奥田頴川と並び称される赤絵の名手であった。」という記述が気になりますね。一般的に絵付が洒脱な作品とありきたりな作品とに犬山焼は作品が分かれます。絵付けが洒脱な作品はとくに数が少ないようであり、優品が少ないことが犬山焼の人気がいまいちな理由でしょうが、洒脱な作品は「道平」なる人物による可能性がありますね。上記の作品「呉州赤絵写 龍二兎花鳥図尺大皿」もそうかもしれません。

こうして清蔵の窯で寅蔵の作り出した純白の素地の上に 惣兵衛・道平等が赤絵の筆を振るって 一挙に発展の気運に向かったのを喜んだ城主は この機を逸せず犬山焼を振興するように 天保7年には、更に援助を与えたということである。



天保9年には、7代城主正壽が逝去し、8代正住が封を継いだ この正住は、城郭内の三光寺御殿の庭に絵付窯を築造させ、城主の財力で蒐集した明代の赤絵呉須の大皿や鉢等を手本にして模写させたもので本歌と比べて殆んど遜色のない見事な製品が作られており 実に驚異的な進歩であったと思われる。

*本日紹介する作品はこの頃の作品かもしれません。



また、画家の福本雪潭に春秋に因んで桜ともみじの下絵を描かせ、これに倣って雲錦手の絵付けを命じたと伝えられ 今日まで犬山焼のシンボルとして広く愛好されている。 またこの頃、道平が 犬山八景の図をはじめて酒壺に描いたものも残されている。

*この頃の作品で「雲錦手」と称される作品は大皿などは高い評価で取引されているようです。なんでも鑑定団にもいくつか出品されていますので、ご存知の方も多いでしょう。



同時期に犬山では盛んに土人形が作られており 素焼きした型作りの雛人形や 武者人形等に泥絵の具を塗って彩色を施したものであったがその人形の細工師であった、兼松所助が清蔵の窯に招かれて 陶製や磁器製の香炉、狛犬の細工物を手掛けていた。継鹿尾山寂光院旧蔵の仁王像の香炉には 細工人初助(所助)・窯方清蔵・吉平赤絵師逸平衛の作人一同の銘があり、犬山焼の貴重な名品であったが今は所在不明となっている。

満蔵院へ惣兵衛が寄進した磁製の狛犬も 格調高い作品であってヘラ彫りで兼松助作とある。その他にも 信仰心の篤かったと思われる惣兵衛等の寄進した香鉢 花瓶等に作者銘の入ったものが市内の寺社等に数多く保存されており、当時の工人達の作風を知る上からも貴重な存在である。

また、所助は陶器の絵付けにも秀れた作品を残しており 赤絵に花鳥を配したものが多く、緑の中に若竹色でアクセントを付けた絵付けには 個性的な作風が感じられる。嘉永4年(1851)から犬山焼の絵付けに参加し、明治30年迄の46年間 犬山焼の陶器の絵付一筋に生きた成瀬家家臣の近藤清右衛門は、廃藩後は清九朗秀胤と名乗り二村と号した。 彼は、寺島華溪について狩野派を能くしたといわれる 当時 御目見え以下の同心には勤務の余暇に内職が許されていたので清蔵の職場で天性の画才を生かした人物であった。道平・所助等とともに常に陶画について研究し論じ合って犬山焼の絵付けに改良を加えた。城主の所蔵品の中から、 交趾焼の品々を写したものも残されており、廃藩後は作十郎の窯にあって幾多の業蹟を残した。嘉永6年(1853年)には、素僊堂川本治兵衛が 同じく瀬戸から井上良吾を伴って犬山窯へ来て丸山窯を築き祥瑞写しの染付け磁器を焼いたと伝えられているが、窯の耐火材料の関係からか窯のトラブルが続き、製品は2・3割程度の歩止りであったようである。そのうえ犬山窯の職人との摩擦でもあったのかわずか1年余で瀬戸へ引き上げ その後は江戸へ移ったと伝えられる

犬山焼本窯元 5代 尾関作十郎:今井窯信長・秀吉の安土桃山時代に 可児市久々利の大萱・太平で栄えた美濃焼きの分派として 今井の奥村傳三郎が今井宮ヶ洞で開窯したのが今井窯の始まりである。今井窯の経営は初代傳三郎のあと その子傳三郎(通称源助)が引き継ぎ 21年後の寛延4年(1751年)8月に源助が歿するとその子六右衛門が三代目窯元になり、安永10年正月に亡くなったとされている。

これら三代百年に亘る窯業について紀年銘のある作品を見てみると、次のようなものが遺存している。最も古い作品とされているものは今井石作神社の狛犬である。 その背面に 『奉寄進・尾州丹羽群今井村 林 長兵衛 元禄十弐年卯月吉禅日 吉次代』 とのヘラ書きがある。次に今井光陽寺墓地に立てられた 利他陶製仏像を挙げることができる台座に鉄釉で書かれ 背面に 『幽屋清関庵主享保七寅年十二月、忠右衛門父』 とあり奥村忠右衛門という人が父の菩提を弔うために 元文4年(1739年)に注文作成したことがわかる。今井窯では、こうした特殊用途の作品に専念したのではなくて一般庶民が日常生活で使用する「お勝手物」と呼ばれる生活雑器を主に生産していた。従ってこれら作品に絵付けをしたものは極めて少ないが、それでも、火鉢に松と鶴の絵を鉄釉であっさり描いたものや 皿に中国の風景が北画風に描かれたものがあり、また鉄釉でかくかわりにヘラで絵や模様を削ったものも残っている。

*幕末以降の作品で犬山焼では観るべき作品は少ないと思われます。

幕末・明治期の犬山焼

天保13年(1842年)、 犬山城の南東方にある余坂村の犬山城御用瓦師高山市朗兵衛の株を譲り受けた尾関作十郎信業、その瓦窯から出火した火災は折からの南東風にあおられて余坂・魚屋町を焼き尽くして城内に延焼する大火となった。その責を問われ、一宮の代官所に連衡されたが住民らの嘆願により罪をゆるされ3日ほどで放免となった。作十郎は火災のことを考慮して丸山へ移し、さらに、加藤清蔵や惣兵衛の犬山焼を援助したが、両名の経営が不振となったので、慶応2年(1866年)9月に至って作十郎はこの株を譲り受ける事にした。信業は天性怜悧で学問に親しみ 当地方の殖産を考え自ら養蚕すら試しに手がけたという。隠居後は関平といい、俳句もたしなみ俳名を閑夫と号した(明治12年八月歿)。

明治元年犬山藩が誕生し 同4年4月には犬山藩物産方でも工業振興のため窯業を始め、加藤善治に窯方を担当させたが、翌5年の廃藩と共に廃止された。一方信業のもとでは清蔵・惣兵衛の二人が協力して 明治4年のオーストラリア博覧会に犬山焼を出品したが まもなく両名とも高齢のために廃業した。信業はその間次第に犬山焼の生産量を高める一方で明治10年には内国勧業博覧会へ出品し、さらに各府県博覧会・共進会にも積極的に出品し、技術の革新につとめていた そうした実績を買われて明治11年には愛知県から「陶器製造資本金」として300円の貸与をうけた。信業やその子、信美(二代作十郎)は 独立小資本での将来を思案し、また時の群長松山義根の助言をうけ、明治16年11月に至って町内外から出資者を募って犬山焼会社を設立したが、この際にも愛知県は資本金の一部にと480円を貸与して犬山焼の育成を図った。ところが明治24年の濃尾大地震による被害は甚大で工場のすべてが大破したため、ついに会社を解散して廃業のやむなきに至った。二代目作十郎は廃絶を憂い、窯を復興した。

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陶磁器というのは調べれば調べるほどにいろんなことが解ってきます。ある意味で数学のようなもの・・、数学Ⅰで習ったことが数学Ⅲの微分積分で最後に行き着くものが多いと同じような・・・。この世はいつまでも学ぶことが多い。

氏素性の解らぬ作品 デッサン 兎 伝バーナード・リーチ筆

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民芸作家の作品に贋作が多いのはつきものですが、その代表例が浜田庄司、河井寛次郎、そしてバーナードリーチですが、当方は民芸の力強さが好きなので、そのリスクを冒しても蒐集に取り組んでいます。

本日はそのリスクを冒して入手した作品です。

デッサン 兎 バーナード・リーチ筆
浜田晋作鑑定 タトウ箱・黄袋
額装サイズ:縦255*横305 縦150*横210



バーナード・リーチは1909年、22歳の時の初来日以来13回来日しています。1934(昭和9)年は4回目の来日のときです。濱田庄司や河井寛次郎とはすでに親しく交友していており、1934年にはリーチはイギリスでの陶芸全般の評価に失望し来日し、日本民藝館設立を目指していた柳に協力しています。



来日した際には各地の窯で精力的に作陶し、多くの作品を日本に遺しています。バーナードリーチの魅力の一つはその絵付けにあります。



バーナードリーチは日本では大きな皿の作品に絵付けした作品を遺していますが、その多くは大皿の成型は日本の陶工が行い、バーナードリーチは絵付けなどのデザインが中心でした。



兎を描いた陶磁器の作品も代表作のひとつです。



本デッサンには下記のような浜田晋作(浜田庄司の子息)の鑑定書が添付されていますが、この鑑定書も含めて真贋は不明です。



浜田庄司、河井寛次郎、金城次郎、新垣栄三郎らの作品はだいたいの真贋の察しはつくようになりましたが、バーナードリーチの陶磁器の作品はともかく、デッサンとなると正直こちらの作品は疑ってかかる必要がありそうです。



蒐集においては作品を盲目的に真作や贋作と決め込まないで、うやむやのままで常に学ぶ姿勢で真贋の霧が晴れるのを待つのが得策ですね。



あまり多くのそのような作品を所持すると精神衛生上よくありませんが・・・。

加賀千代女 中村左洲筆 昭和20年頃

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左洲といえば鯛の専門画家のようにいわれることがあります。それは、左洲が漁師でもあったこと、魚類は円山四条派の重要な写生対象であったこと、鯛の絵は吉祥画として多くの需要があったことなどが主な理由でしょう。確かに、鯛を描いた作品には終生伊勢の海に親しみ、伊勢志摩の自然と一体化したかのような彼の特質を見ることができます。一方、情趣こまやかな人物画の作品には画家中村左洲の技量がより強く現れているように思われます。とくに美人画では根強いファンがいることはあまり知られていません。

加賀千代女 中村左洲筆 昭和20年頃
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱 
全体サイズ:縦2060*横650 画サイズ:縦1150*横510

 

描かれているの「加賀千代女」です。



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加賀千代女(かが の ちよじょ、1703年(元禄16年)~ 1775年10月2日(安永4年9月8日))は、俳人。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。朝顔を多く歌っていることから、出身地の松任市(現白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。 白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。幼い頃から一般の庶民にもかかわらず、この頃から俳諧をたしなんでいたという。12歳の頃岸弥左衛門の弟子となる。17歳の頃、諸国行脚をしていた人に各務支考(かがみしこう)が諸国行脚してちょうどここに来ているというのを聞き、各務支考がいる宿で弟子にさせてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトト
ギスを題にした俳句を詠む様求められる。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に各務支考に才能を認められる。その事から名を一気に全国に広めることになった。1720年(享保5年)18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽福岡弥八に嫁ぐ。このとき、「しぶかろかしらねど柿の初ちぎり」という句を残す。20歳の時夫に死別し松任の実家に帰った。30の時京都で中川乙由にあう。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳には剃髪し、素園と号した。72歳の時蕪村の玉藻集の序文を書く。1775年(安永4年)73歳で没。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。1,700余の句を残したといわれている。

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朝顔を多く歌っていることからか、井戸脇で朝顔と一緒に描かれる構図の作品が多くの画家によって描かれています。



加賀千代女の「あさがおに つるべとられて もらひ<い>みず」という句を念頭に置いて描かれているのでしょう。



*遠目にはわからないですが、胡粉で描かれている着物の文様がなんとも綺麗です。美術館のようにガラス越しの鑑賞ではよくわからないものです。できるなら日本画は決してガラス越しで観るものではありません。



手足のしぐさとふくよかさと着物の文様・・・、なんともいろっぽいね~。



釣瓶(つるべ)とられて=「釣瓶」は縄や竿をつけて井戸の水を汲み上げる桶。釣瓶をとられたというのは、朝顔を擬人化している表現ですね。はむげに朝顔を取り払って釣瓶を使うにしのびず、その気持ちが「もらい水」という下句になっているでしょう。



さらに分かるように説明すると、句は「朝早く、起き出してみると、井戸の釣瓶に朝顔がからみついて咲いており、それをはずして水を汲むには忍びず、そのままにして近所からもらい水をした。」という意味です。この句は「朝顔」に主題性があるように思われますが、実は主眼は「もらい水」の方に置かれているようです。



このような句が背景にあることを知らないとこの美人画は「色気があるかないかなどと鑑賞する羽目」になります。



日本画を鑑賞する方はそのような素養がないと鑑賞する資格がないとも言えますね。



印章は「寸家□読?」の朱文白方印ですが、初めて見る印章で意味は不明です。落款の字体からは晩年の作と推定されます。軸先は美人画によくある塗りの軸先が使われています。

 

加賀千代女を描いた作品は数多くありますが、通常はもっとスマートな女性が多いと思っています。中村左洲の本作品はふくよかに描いていますね。

当方の作品で「千代女」を描いた作品は、古くからある下記の作品を所蔵しています。(2011年3月27日投稿)

千代女 小早川清筆
紙本着色絹装箱入



小早川清は郷里に逗留したことがあるらしく、母の実家には襖絵が遺っています。

千代女は前述のように実在した人物で、画像は小さいのですが下記の像があります。



ふくよかに艶っぽく描かれている作品ですが、このことが中村左洲の美人画の人気の由縁かもしれませんね。



「鯛」を描くことで著名な三重の画家「中村左洲」ですが、実は美人画でも人気があることは意外に知られていません。この画家の描写力は抜きんでたものがありますので、今後注目されてよい画家のひとりでしょう。

古伊万里 山水文初期色絵 

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初期色絵の作品は初期伊万里の染付の延長線上の色絵の作品で、稚拙な感じがする作品であり、以前は古九谷だの初期柿右衛門手などと混同され貴重品とされました。それゆえ高価な作品として扱われてきましたが、今では15センチ程度の皿なら数万円程度の手頃な?値段で取引されています。

古伊万里 山水文初期色絵 
口径195*高台径*高さ33
合箱



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初期伊万里=染付伊万里の誕生

肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まりました。秀吉の朝鮮出兵の際、肥前国鍋島藩主の鍋島直茂が、連れ帰った李参平は、1616年に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われていました。学術調査の進展によって、1610年代前半から、西部の天神森、小溝窯で磁器製造が始まっていたことが明かになっています。この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器を作っていました。17世紀の朝鮮では白磁しか製造されておらず色絵の技法がなかったため、絵具の知識は中国人に学んだと考えられています。この頃までの有田焼を初期伊万里と呼ばれています。

陶石を精製する技術が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く三分の一高台が多いことが特徴です。

初期伊万里の考察は本ブログにて下記の作品を例に投稿してます。
「贋作考 初期伊万里花鳥図染付七寸丸皿」(2018年10月11日記事)

初期伊万里花鳥図染付七寸丸皿
高台内「太□明」銘 合箱
口径203*高さ20*高台径



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本日紹介している作品は初期伊万里の延長線上にて作られた色絵の作品と思われますが、一時期に古九谷や初期柿右衛門手と称されて評価が高かったので贋作も横行したと推定されますので、あくまでも「伝」としておきます。



初期色絵が始まったのは1640年代だそうです。現在では「初期色絵様式」と区分されているようです。



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初期色絵≒初期柿右衛門手の誕生

有田で色絵が始まったのは1640年代。中国人によって有田焼の技術革新が行われ、1次焼成の後に陶磁器用の絵の具で釉薬の上に彩色を施す技法にて上絵付けを行なう色絵磁器が生産されるようになりました。それまでの染付のみの単色の世界から、多彩色になり、当時は画期的なものでした。1640年代から1660年代ごろの初期の色絵は、「初期色絵様式」と称されています。赤・緑・黄・青・紫などを使う「五彩手」や緑・黄・紫・青などで器面を塗って埋める「青手(あおで)」などがあります。

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本作品にはまだ赤色が入っていませんね。



これからすぐに技術が発達して古九谷様式や初期柿右衛門様式が出来上がっていったと推察されます。



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古九谷様式と柿右衛門様式

さらにこの技法が発展した伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品は、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占める事が近年の調査でわかっています。ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩で姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていました。一方有田では17世紀後半に生産が始まった柿右衛門様式の磁器は、濁手と呼ばれる乳白色の生地に、赤を主調とし余白を生かした絵画的な文様を描いたものです。この磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされていますが、窯跡の発掘調査の結果によれば、柿右衛門窯だけでなく、有田のあちこちの窯で焼かれたことがわかっていて、様式の差は生産地の違いではなく、製造時期の違いであることがわかっています。

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初期伊万里の延長線上であるため。素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く三分の一高台が多いことが特徴であるという点は初期伊万里と共通しているかもしれません。



陶石を精製する技術が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていることは顕著ではありませんが、まだ白さに鮮やかさはありませんね。



裏側に手跡がつくという初期伊万里の原則(例外もある)もそのままのようです。



17世紀にはこの色絵が発達して大きめの色鮮やかな作品も生まれているようで、初期柿右衛門手と称されているようです。いずれにしても古伊万里関連は当方の得意とする分野ではありませんのであくまでも参考資料と願います。



遼三彩などの小皿、中皿らと並べて鑑賞しています。

水墨山水図 藤井達吉筆

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藤井達吉の水墨画の魅力はなんなのだろうか? 思わず入手への食指が動いてしまいます。

水墨山水図 藤井達吉筆
紙本水墨軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1150*横510 画サイズ:縦*横



共箱でもなく鑑定の箱書もありませんが、これは真作・・。代表的な号の「空庵」が記されています。印章も朱文白方印の「空」が押印されています。

藤井達吉は独学であり、昭和に入った頃から軸足は次第に中央から離れていきます。また大きな展覧会に作品を出品することもほとんどなく、画商に作品を売り込みもしませんでした。以上の理由から藤井達吉については記録が少なく、活発な活動に反して日本近代美術史で取り上げられる機会が昭和以降は減っていきました。

*藤井達吉の得意とする山水画を家具に描いた作品があります。



また藤井達吉は転居を繰り返したため住まいがしばしば変わりましたが、後半生は郷里での後進指導に重きを置いていました。瀬戸の陶芸や小原の和紙工芸の現在の発展の基礎は藤井が築いたと言って良いでしょう。瀬戸や小原(現豊田市)には栗木伎茶夫氏、山内一生氏、加納俊治氏など、直接藤井の教えを受けた方々の幾人かがいました。



藤井は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住んでいました。故郷での藤井の生活を支えたのは藤井達吉を敬愛する人々であり、「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた。」というようなエピソードがあります。このような状況で後半生の藤井達吉の作品は文人画的趣の色濃い作風となっていきます。本作品もこの頃の作品だろうと推察しています。



近年、藤井達吉の業績が見直されるようになってきました。平成3(1991)年に愛知県美術館で開催された「藤井達吉の芸術-生活空間に美を求めて」展以来、近代日本工芸が揺籃期にあった頃、即ち中央で活躍していた時の藤井の先駆的作品が評価されるようになったきました。



学生時代に登山していたせいでしょうか? 藤井達吉の水墨画の山水図には共感を覚えるところがあります。



3000メートルを超える山は数えるほどで日本の山々は基本的に低山です。



岩山も基本的に少なく、緑深い山並みで霧があり、日本に日本の水墨画があるという思いがありましたが、その思いと同じ感じが藤井達吉の作品には感じます。













表具は渋い・・・。



渋いというかシック・・、年配の方のお洒落はこうありたい。



工藝デザインをしていた藤井達吉の表具はその趣を備えています。



軸先に陶磁器を使用するのは、藤井達吉が陶芸を指導していたことによるのでしょう。



「空」という白文朱方印の印章は他の作品に同じものがあります。



白梅 伝平福百穂筆 大正10年(1921年)頃?

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当方の郷里出身の画家である平福百穂は「梅」を題材にした作品を数多く描いています。当方でも3点か4点ほど作品を所蔵してますが、本日紹介するには「白梅」と題された作品です。

白梅 平福百穂筆 大正10年(1921年)頃
紙本水墨布装軸 軸先 共箱 
全体サイズ:横440*縦1990 画サイズ:横300*縦1280

 

水墨で勢いよく描かれて枝に僅かな着色で描かれた梅・・。日本画家は桜より梅を描くことが多いようです。



そもそも本作品が真作かどうか? 贋作の多い平福百穂ですので本作品を真作と判断するのに躊躇する方もおられると思いますが、総合的に判断して当方では真作と判断しました。一番疑問と思われるのが箱書きの落款でしょう。印章については数多くの印章があり、統一された資料の少ない平福百穂ですので当方での判断は難しいですが、真贋の判断で迷うのが箱書きの落款でしょう。字のうまい平福百穂にしてはぎこちない?

  

ただ実際の落款や作行きをみると真作と判断してもいいという当方の見解です。



描いたのは大正10年頃と推察しました。異論のある方もおられるとも考えられますので、あくまでも「伝」としておきましょう。



ただ平福百穂の真贋は平福穂庵、寺崎廣業らに比べて数段難しいのが現状です。



季節は過ぎた題材ですが、ちょっと掛けてみて様子をみることに・・・。



もっと評価されるべき画家 涼風 現代美人之図 岡本大更筆 その5 大正11年(1922年)

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本日は岡本大更に作品ですが、前回に紹介した「杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃」に続く作品です。描かれた年代が共箱に書かれている貴重な作品でもあります。

涼風 現代美人之図 岡本大更筆 その5 大正11年(1922年)
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:縦2120*横560 画サイズ:縦1253*横422



本ブログでは「もっと評価されるべき画家」として紹介してきましたが、「杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃」とこの度紹介している「涼風 現代美人之図 岡本大更筆 その5 大正11年(1922年)」の作品を観ると改めてそう感じます。



夏の涼しげな雰囲気がよく出ている佳作だと思います。



頭上の枝に風を感じ、団扇、夏の着物に涼しさが漂う作品です。



決して力作という作品ではありませんが、孟夏の時期には掛けてみたい作品だと思います。でも「菊」の帯? 初秋??



襟足や素足の描きに色香が感じるのもまた一興かと・・。



「杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃」が「時代美人画」と題し、「涼風 現代美人之図 岡本大更筆 その5 大正11年(1922年)」が「現代美人之図」と題しているのは面白いですね。印章も同一の印章が押印され、「杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃」を「大正10年(1921年)頃」としましたが、ほぼ同一時期に描かれた作品の可能性が高いと思います。



岡本大更の作品は数万円でいい作品が入手できますし、まだインターネットオークションにもときおりいい作品が出品されています。いい作品は今のうちに?



たださすがにインターネットオークションも品薄になってきているように感じます。欲しいと思う作品がだんだんなくなっています。

氏素性の解らぬ作品 信楽壷 蹲 時代不詳

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表具の具合が悪かった下記の作品が修理を終え、少し乾燥させるために展示室に飾りました。

観桜二美人図 松村梅叟筆
絹本着色軸装 軸先骨 誂太巻二重箱
全体サイズ:縦2185*横510 画サイズ:縦1290*横360



天地が痛んでいたので交換しました。表具が痛むのは天地からですので、早めに天地交換しておくのはいいことだと思います。ほとんど元の表具のままで改装の半額程度(一万円以下で可能)でできます。ついでに箱は太巻きの二重箱を誂えました。

*美人画の良い作品は太巻二重箱が原則です。



さてその脇に置いてある作品は何度か挑戦してものの見事に期待を裏切られている信楽の作品。

当方にては一作品の壺と北大路魯山人の信楽の作品のみが現在氏素性がしっかりしているある作品として評価していますが、なかなか信楽の壺は難敵です。ただいつでも挑戦する意欲がないと趣味も仕事もまともに過ごせないの小生の性分。今回もちょっと挑戦・・。

氏素性の解らぬ作品 信楽壷 蹲 時代不詳
誂箱入
外口径*胴径130*底径*高さ158



蹲(うずくまる)について復讐、もとい復習してみましょう。

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蹲(うずくまる):花入に転用された壺です。

古信楽や古伊賀のものが有名ですが、備前や唐津にも蹲の小壺が伝世します。名の由来は人が膝をかかえてうずくまるような姿からきています。

もともとは穀物の種壺や油壺として使われた雑器を、茶人が花入に見立てたものです。文献によれば江戸時代に入ると蹲という呼称が定着しています。なお信楽の蹲は古いもので鎌倉末~室町時代から伝世しています。

おおむね20cm前後の小壺で、掛け花入れ用の鐶(かん:環状の金具)の穴があいているものもあります。そこに金具を入れて壁に掛けて使われるわけです。

形は背が低くずんぐりとしており、胴が張り出しています。丈の詰まったものが一般的に見られる形となります。作品の表面は、紐作りの段によって微妙に波打っています。灰のかぶったところには焦げと自然釉が、灰のない部分には緋色が出ています。選ぶさいには焼き締めならではの肌の表情、全体の形を見るとよい。侘びた風情と愛嬌のあるずんぐりした姿が蹲の魅力といえます。肩から丸みをもって膨らみ胴が張ったもの、高さと胴の径が同じくらいの長さで丸みのある器形がよい。

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本作品には桧垣文や窯印もなく、自然釉薬の掛かり少ない端正な小壺です。



ただ信楽の「蹲」の特徴は備わっているようです。

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形の特徴:信楽の作品の大きな魅力に形の力強さがあります。横から見ますと胴が幾つかに分けて継がれながら出来ている痕跡を見る事ができます。胴が側面で段をなしているように継ぎ目の角度が違って、遠くから見ると非常に力強い造形を楽 しませてくれます。

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時代はよくわかりませんが、よくある模倣作品(いわゆる贋作)の可能性はあるでしょう。贔屓目にみるとなんとなく現代の作ではないように思います。

内側は丁寧に仕上げられているのが信楽の特徴とか?



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蹲の口作り:蹲の口は特徴的なものといえる。段が入り二重口といいます。

現代作品ならば装飾かもしれませんが、当時はこの二重口が必要だった理由があります。蹲はもともと日用雑器であり、ゆえに乾燥させた穀物を貯蔵したら首に縄を巻き付け、そのまま背負って運ぶこともあれば、吊るして天日干ししたとも言われます。

縛ればまとめて小壺を運ぶことも出来たでしょうし、吊るせば穀物を狙う鼠などの害を避けられます。または木蓋をして縄をくくり付けるためのものという説もあります。しかしその用途であれば、四耳壺(しじこ)や茶入に見られるような「耳」の方が縄をくくり付けやすいでしょう。縄を締めずとも二重口が取手になって持ちやすいです。いずれにせよ実用性を重視した作りになっているのは確かです。そして実用的な二重口は、口縁部の装飾としても美しく口縁部にメリハリが出ます。紐をしめて運び、また壺を吊るしている中世の人々を想像しながら選ぶのも楽しい器です。

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贋作によくあるべたべた感はさすがに今回はないものを選びました。



信楽の作品を簡単に言うと下記にポイントがあるようです。

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蹲の特徴
・内側は驚くほどなめらかに仕上げられている。(本歌の証?)
・高台は下駄をはいているものがある。
・桧垣文のあるものは評価が高い。
・口は二重口

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以上のような記述は資料には多々あるのですが、実際の判別は非常に難しそう・・。



口造りは力強さのあるものがポイントらしいです。縄を掛けても落ちないもの・・。贋作は実用的に考えられていないとか・・。



実際に縄を掛けてみようかな?



信楽などの古壺には下駄印と呼ばれるものがあります。本作品にもありますが、明確ではない? 明確でないものは贋作が多いらしい?



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下駄印:蹲は高台を持たずベタ底ですが、中には凹凸のある作例があります。これは下駄の歯に見えることから下駄印(げたいん)と呼ばれます。

下駄印が凹んだものを「入り下駄」、凸のものを「出下駄」といいます。これは作品をロクロ引きするさいに、中心がずれないよう固定した跡といわれます。こうするとロクロからの離れもよく、焼成しても底に隙間ができるのでくっつきにくくなります。

下駄印も二重口と同様、実用的な作りが装飾として見どころになった一例といえます。信楽や伊賀の作品をはじめ、備前や唐津などそれぞれの土味を活かした作品が作られています。その独特の形と表情を楽しめることでしょう。

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模倣作品にも窯印や下駄印をわざとつけている作品もありますので、あるからといって時代のあるものとは限ららないようです。



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長石が全面に出ている:これは信楽のもっとも代表的な鑑定ポイントです。つぶつぶの大きな白い長石 が肌から全面に吹き出ているように出ています。

壷ならかなりの確率で信楽ですし、花入れ、水差しなどの茶道具でしたら伊賀を思い浮かべるべきでしょう。

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記事の内容ななんども本ブログに投稿している内容です。繰り返し繰り返し読み、実物との比較して、さらには真作と見比べて現在勉強中です。

家内曰く、「現代作の贋作でも面白いものは面白いわよ!」だと・・。この割り切りは小生には嫌味かエールか?



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ウニ:信楽の土は荒めの風化花崗岩で粘土の中に風化しきってない木の節が混ざっているものがあります。これを木節粘土(きぶしねんど)といいます。この節が粘土の中に入りますと、燃焼したときに高温で燃えてしまいます。するとその節があったところは空洞になります。これを語源はわかりませんが「ウニ」といいます。ですから大きな「ウニ」になりますと中から外へと穴が抜けてしまっているものがあります。

壷ですと穴があいていては、役に立たないので破棄されてきました。多くの信楽のやきものにはこのウニが表面や裏側に見ることができます。この木節粘土が高 温で焼かれると、マニアの間で「ビスケット肌」ともいわて愛玩されます。あたかも割れたビスケットの肌を見たような感じになります。

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これくらいはまともな信楽の土を使って入れば再現できしょうですね。



本作品はとのもかくにもそれららしいのだが、家内の言い分が正しいようで・・・。



それらしいものを購入する、それが今の自分の実力ということでしょう。



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信楽には茶道の「侘び・寂び」の雰囲気があります。飛び出ている長石、木節によって穴のあいた地肌、ビスケット肌。淡いグリーンの自然釉。その素朴でいて力強い造形を持つ信楽は日本人を魅了して止まないやきものだと思います。

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小生の最後の難関は信楽と李朝と刀剣・・・。ここを乗り切るのはお金をかけるしかないかもしれません。

さて、箱もなにもない、氏素性の解らぬ作品、以下に処すべきや 家内の言うところが真なりやいなや・?・?

横笛を吹く娘 伝鏑木清方筆

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普段は食指を動かさない大家の作品ですが、これぞ掘り出し物と思い込むとチャレンジします。趣味も仕事もチャレンジしないところに発展はないのですから・・。

とくに仕事でチャレンジ精神が最近希薄になっていると感じていたので、趣味だけはチャレンジをしてみました。浜田庄司もチャレンジから、源内焼もチャレンジから・・、趣味はチャレンジそのもの。



横笛を吹く娘 鏑木清方筆
絹本水墨着色軸装 軸先 太巻共箱二重箱(内箱の下箱がない状態での入手) 
全体サイズ:縦19850*横647 画サイズ:縦1342*横525

 

実に雰囲気のよい作品です。「まんさく?」 初春の作品ですね。



作品が太巻、共箱、二重箱に誂えているのは嬉しいですね。これだけで入手金額の元がとれます。



落款や印章の確認は後回し?、これは基本です。作品が気にいったかどうかが蒐集の基本です・・・
ただよって「伝」ですからご了解ください。

  

展示室にしばらく掛けてじっくりと鑑賞です。



家内は「全体に印象が弱いが、意外にこんなもんかも。」と生意気な評を申し述べております。



ただ「意外にこんなもんかも?」というのは的を得ていると思います。



横山大観にしても、片岡球子にしても、本物を手に取ったときも意外にそう思いました。唯一違ったのが上村松園の逸品・・、手に取った時に背筋が寒くなるような感動を覚えましたが、このような作品は実に稀有なものです。

明末呉須赤絵 蓮池水禽文様大皿 

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当方のコメント欄は公開されていないコメントのやり取りが最近多くなりつつあります。テレビ番組(一応ゴールデンタイムの番組)への画像の依頼や展覧会の出展依頼などであり、一応個人情報がありますのでコメントは公開されいません。最近は「不躾な」コメントは皆無になりましたが、このようなコメントが多くなり、個人情報のあるコメントは公開しておりません。主に非公開のコメント欄にて情報交換後、メールにてのやり取りになります。

さて明末の漳州窯のおける大皿の作品は、呉須染付・呉須赤絵(青絵)・餅花手と大きく3つに分かれますが、一番入手が難しい作品が餅花手のようです。

先日、インターネットオークションで「呉州餅花手 瑠璃地白花花卉文盤」を競り合ったのですが、20万ほどで競り負けました。大きな傷があったのでそこまでは・・・というお値段でしょう。もっと入手しづらいのが「呉州餅花手 茶褐地白花花卉文盤」、要は青い餅花手は数があるようですが、茶色の作品は数が少ないようで、市場に出回わらないようです。ただ発色の悪いもの、図柄の淡白なもの、傷のあるものは基本的に入手を避けたようがいいですが、傷のあるもので図柄の発色の良いものは迷うところですね。餅花手の作品については本ブログの記事を参考にしてください。

さて本日の作品は残りの呉須染付と呉須赤絵にほぼ同一の図柄があるという作品の紹介です。

明末呉須赤絵 蓮池水禽文様大皿 
誂箱
口径386*高さ90*高台径195



一応「明末」としていますが、清朝に入るかもしれません。根拠は虫喰いの状況ですが、虫喰いが少ないと時代が下がるのかもしれません。



綺麗な発色ですが、虫喰いもほとんどなく、高台内も砂が綺麗ふきとられれ釉薬が掛かってきれいなっています。



明末赤絵にも時代による差があります。



図柄にもちょっと勢いが少なくなっています。



このちょっとした時代の差が評価に大きく影響するようです。



図柄は染付によくみられる蓮池水禽文様です。



とはいえまだまだ面白味のある作品にはなっているようです。



あまりにきれいになると日本による模倣作品を疑う必要があります。



ただ時代の古い明末赤絵より、きれいな清朝の作品が好きだという方はあまり明末赤絵の蒐集には向いていないと言わざるえませんね。

ところで明末呉須赤絵の作品はいろんな資料で見かけますが、下記は「小さな蕾」に掲載された記事です。



このように掲載記事があったり、美術館に陳列されているからといって、明末呉須赤絵の作品は大仰な作品群ではありません。ましてやなんでも鑑定団に出品されたた作品は売買取引価格の10倍でまったくあてになりません。中国に作られた日本だけにある陶磁器。もう少し気軽に楽しんだらいいと思います。

座敷に遊ぶ

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昨日の誕生日で小生は66歳・・・。

さて義母の一周忌に帰郷したのですが、前の晩は家族が集まるので皆で夕食を共にすることになりました。



息子はいつものように食事の支度の手伝いです。



古くからあった天井を壊して吹き抜けにした居間です。もとは天井裏は蚕を飼っていた部屋です。埃がすごかった・・。



縁側のサッシュは雨戸を取り払い、木目調のサッシュに入れ替えました。結構いい値段しましたが、古い材に狂いはほとんどなかったのは驚きでした。



その縁側には雰囲気に合うように照明やロールスクリーンの簾を付けています。ひとつひとつに気を使っていますが、新しいものに変えていくと文化財の指定対象にならなります。文化財の指定などにはならないほうがいいですよ。住めなくなります!



壁は塗り直されています。これは義父が退職金で直したものです。



庭には外灯がついています。冬の雪景色は絶品です。



居間の大きな囲炉裏は今は危ないので塞いでいますが、玄関前には板金工の職人さんが直してくれました炉があります。これは腕の良いお爺さんが丁寧に直してくれました。



床の間から真正面の庭には社があります。この軸線がこの座敷の生命線・・・??



今まで亡くなった家内や義父や義母らと30年近くにわたり座敷を直し続けた思い出に浸っている間に食事の支度ができてきました。



さあ~、乾杯じゃ!



ところで座敷にある骨董類は盗まれてもいいようにたいしたものは置いてありませんがここで改めて紹介します。

幕末の古伊万里大皿。蔵からいくつかある大皿から持ち出してきました。















前にもブログで紹介した山岡鉄舟の書。

この書のブログを観てBSフジテレビの企画から骨董に関する番組への出演の依頼がきましたが丁重にお断りしました。その前には鉄腕ダッシュから別の絵画の画像の引用依頼が・・・。ともかくテレビの企画の誘いは性急過ぎるようで・・・。





  





磁州窯の壺・・?? これは小生が若かりし頃に購入した作品。













座敷の書院棚には古くから三種の神器があります。玉に剣に鏡・・・。座敷にはその家にあったものを飾るのがよい。どの家の座敷でもそうですがともかく飾りすぎないことです。



この座敷はいかにも田舎の座敷らしくいいではありませんか。

飲みに従い、この家を将来どうするかという話になり、甥に「おい、お前はぜひ田舎で住みたいという嫁を貰え!」という小生の意見・・・。小生は思い出だけでもう十分。

さて田んぼの蛙の音がちょうどよい子守歌になりました。 



能登半島 不染鉄筆 その4

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帰宅後、夕食は久方ぶりのステーキで小生の誕生祝いをしてもらい。その後はケーキで誕生会。



家内からはジャケット、息子からお手紙。



5歳の息子は少しずつ字が書けるようになっています。



さて本日の作品紹介です。一枚目の写真の手前の花は庭に咲いた絶滅危惧種「クマガイソウ」です。

不染鉄、その画業をまとめて観ることのできる大規模な展覧会は、1976年に奈良県立美術館で回顧展が開催されて以来、長らく開催されず、「幻の画家」などと評される所以となっていました。2017年、絵画のほか晩年の絵はがきや陶器など約120点を展示する回顧展が東京ステーションギャラリーで開催され、奈良県立美術館にも巡回しました。 展示会の図録などを除けば初の本格的な画集である『不染鉄之画集』(求龍堂)が2018年に刊行されるなど、今や再評価されている注目の画家の一人でしょう。

能登半島 不染鉄筆
絹本水墨着色軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1640*横380 画サイズ:縦540*横265

 

写真では判りにくいですがきれいに描かれています。



日本海の能登の暗さとともに漁村の明るさがうまく表現されています。



素朴な絵の中に生活する人々の力強さが感じられます。



印章は思文閣から購入した色紙の作品と同一印章です。

  

不染鉄と能登半島
言わずと知れた不染鉄の代表作「山海図絵(伊豆の追憶)」。実はその絵の奥のほうに能登半島が描かれているはあまり知られていません。



この主として富士を題材にした摩訶不思議な作品は縦1メートル86センチ、横2メートル10センチの大作です。手前には伊豆半島沖の太平洋、真ん中上部には霊峰富士が構え、裾には農村があります。富士の背後には雪の降り積もる村とよく見るとその奥に能登半島があり、さらに日本海が霞んで見えます。

宇宙からみたような壮大な視点で、画に近づくと裾のまちに汽車が走っており乗客が乗っています。農村では洗濯物を、漁師は網の手入れをしている様子が描かれています。太平洋から日本海の構図の中に人々の営みが散らばっている作品です。さらに海や村は俯瞰で描かれているのに富士山は真正面を向いている不思議な作品です。さらには海の中を覗いたように三重のいくつもの視点から見えます。そして作品に副題「伊豆の記憶」の意味とは? 



不染鉄は幻の画家としても有名で、点々と住処を変えて放浪しながら絵は描いていました。この作品は34歳の時の作品である。この世界観はどこから生まれてきたのか? 幻の画家のユニークな生き方が見え隠れしているようです。



展示室で東京ステーションギャラリーでの強烈な印象とはちょっと違う不染鉄の世界を愉しんでいます。



今週の「なんだも鑑定団」には九谷庄三や渡辺省亭の作品が登場し、本ブログに投稿されている九谷庄三や渡辺省亭のブログにアクセスが増えました。「なんでも鑑定団」に出品された作品は「九谷庄三」ブランド作品、渡辺省亭の屏風は贋作でしたが、このような真贋の取り違えは往々にしてあり得ることです。くわばらくわばら・・・。

改装 染み抜きなど

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今までに蒐集した作品においてシミなどの表具の痛みのある作品を幾作品も補修してきました。かけ軸に限らず、陶磁器、木彫、塗り、刀剣についても補修してきましたが、これらを補修する技術がまだ日本の存在するからできるものです。費用が結構かかりますが、美術品を健全なものとして遺すこと、補修の技術を存続させるためには必要なことなのだと思っています。

今回は再び掛け軸を中心として補修した作品を紹介します。

下記の作品は以前にブログにて紹介しましたが、美人画でありながら、顔に致命的なシミがあるため何とかしたいと思っていた作品です。

早春 寺島紫明筆 その2
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横660*縦1425 画サイズ:横510*縦430



この作品をいつも頼んでいる表具師さんに依頼したところ、最初はうまくシミが抜けない、もしくは絵を痛めるという理由で断られました。

そこを無理に頼んで、最終的に描いたんだ場合は表具師さんの娘さんが美術をやっているので補修できるということで思い切って染み抜きに挑戦することにしました。

染み抜きの結果は写真のとおりです。



掛け軸は痛むものです、それは浮世絵しかり、油絵もしかりですが、掛け軸はまず表具が痛みます。掛け軸の扱い方を知らない人が多いのが主な原因ですが、シワがよる、表具が破れる、紐が切れる、糊が剥がれる、シミが出る、その各々に原因があり、ならないように対処することと、なった場合は早めに処置することが肝要で、人間の病気と同じですね。



まずならないためには紐を絞めすぎない、箱にむりくり入れない、虫干しをする、湿度を一定に保つ、扱いを丁寧にかつ慎重に行うと注意が必要です。なお防虫剤にナフタリンなどは禁物です。



一般的に表具の上下が最初に痛みますので、その場合は早めに天地(掛け軸の上下部分)を交換します。紐だけの交換も可能で2000円程度でできます。天地交換も通常は一万円程度からできます。

額装にすることも可能ですが、基本的に痛みは少なくなりますが、表具の趣がなくなるので、ケースバイケースですね。

今回いくつかの作品を直しましたので紹介します。

痛んだ表具を改装した例。



表具が剥離していたり、シミがあったり、シワがよっていると表具の全面改装が必要となります。



表具がいいので、そのまま使いたい時は「締め直し」で依頼します。お値段は全面表具直しと同じです。



染み抜きで一万円、全面表具直しで二万円程度が良心的なお値段ですが、表具師によってはその10倍することがあります。それはよほどの一流の表具師か表具に凝った場合のみです。



まくりを額装にした例



額を選んで、マットと縁取りを選んで額装にした例です。もっとコストを掛けるならマットを表具する例もありますが、これは意外に高くなります。額に段ボールのタトウならそれほど高くなりません。最低段ボールのタトウくらいは必要でしょう。さらに一部布タトウ、全面布タトウとグレードがあります。



天地交換した例

きちんとしておくと扱いも逆に丁寧になりますし、扱いやすくなります。ただやみくもに表具をいじるのではなく、その表具を遺したい場合は締め直しか、そのまま遺すという判断が必要となります。



天地のみの交換ですので、絵そのものやその周囲はそのままです。ただだいたい掛け軸の痛みの当初は天地なのです半数は天地交換で済みます。お値段は一万円程度でしょう。



天地交換しないと掛け軸がどんどん扱いにくくなり、傷みも進行して全面改装の憂き目になりますので、早い段階合で天地交換するといいでしょう。



こられの補修はさらに箱代金などが加算されると意外に費用がかかりますね。


蒔絵貝合わせ 二組十個

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男の隠れ家で作品を漁っていたら出てきた「貝合わせ」・・・・。どうも祖母が叔母の嫁入りのために作らせたものらしいですが定かではありません。家内が帰郷の際に持ち帰ってきました。

本日はちょっと道を外れた作品?の紹介です。

蒔絵貝合わせ 二組十個
合箱 伝来
最大幅90*最大奥行65*高さ45



大きな蛤が二個に小さな浅蜊?が五個ずつ入っています。

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貝合わせ(かいあわせ):平安時代から伝わる日本の遊び。本来の貝合わせは、合わせものの一つとして貝殻の色合いや形の美しさ、珍しさを競ったり、その貝を題材にした歌を詠んでその優劣を競い合ったりする貴族たちの遊びであった。一方、地貝と合致する出貝を探し出す遊戯としての貝合わせは元来貝覆いと呼ばれていたが、殻を合わせる所作から後に混同されて、同じく貝合わせと呼ばれるようになった。

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家内が気に入ったらしく、あり合わせの箱に入れて持ち帰ってきました。



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貝覆いの貝は女性の掌中に握るのに適した大きさの、伊勢国二見産ハマグリを用いた。殻の内面には紙を貼り、源氏などの絵をかき、金箔などで極彩色に仕上げ、左右一対の殻には同じ絵を描いた。

貝は耳の短い方を前にして、頂を自分の方に向けると、右が出し貝すなわち陰、左が地貝すなわち陽であり、これを天地に象(かたど)り、男女に付会し、別々の貝桶におさめ、天文暦学等に関連せしめて、遊びの方法が定められた。天にかたどった地貝の伏せ方は、まず中央に12ヶ月にかたどって12個を伏せ、7曜日にかたどってしだいに7個をくわえ、1年の日数にかたどった360個のハマグリ殻を過不足無く9列にならべる。9列であるのは昔の天文学で天を九重と考えたからであるという。すなわち口が12、次が19とある。この19という数は暦学上重要な数であり陽暦も陰暦も19箇年で一循環するという。

地貝を立て終ると、出役の女房が出貝桶から出貝1個を取り出し、中央に伏せる。周囲に並んだ20人以上の姫君方が、360の地貝に斑紋や形状等の出貝と全く同じものを見定め、おもむろに1対のハマグリ殻を掌中に取り上げ、片手で合わせ、よくあったならば、2つにわけて膝の前に伏せる。出役が出貝を中心に伏せると、また同じことを繰り返し、最も多く取った者が勝である。

幾度も間違えることは恥辱であるとされ、おのずと修身の具ともなり、明治維新前までは貝桶が上流社会の嫁入り道具の一であったというが、近代以降は遊ばれることもなく、実物の貝覆いの道具一式は博物館などで見られる程度であるが、雛道具にはミニチュアの貝桶などが今なお残っているのを見ることがある。

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あり合わせの箱ではかわいそうなので、それなりに誂えて中身が分かるようにしておきました。



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江戸時代の貝合わせは、内側を蒔絵や金箔で装飾されたハマグリの貝殻を使用する。ハマグリなどの二枚貝は、対となる貝殻としか組み合わせることができないので、裏返した貝殻のペアを選ぶようにして遊んだ。

また、対になる貝を違えないところから夫婦和合の象徴として、公家や大名家の嫁入り道具の美しい貝桶や貝が作られた。貝の内側に描かれるのは自然の風物や土佐一門風の公家の男女が多く、対になる貝には同じく対になる絵が描かれた。美しく装飾された合貝を納めた貝桶は八角形の形をしており二個一対であった。大名家の姫の婚礼調度の中で最も重要な意味を持ち、婚礼行列の際には先頭で運ばれた。婚礼行列が婚家に到着すると、まず初めに貝桶を新婦側から婚家側に引き渡す「貝桶渡し」の儀式が行われた。貝桶渡しは家老などの重臣が担当し、大名家の婚礼に置いて重要な儀式であった。現在では人前式のセレモニー「貝合わせの儀」として使用されるようになった。

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田舎で作ったものですから、武家や庄屋にある蒔絵のあるような立派なものではありませんが、家に伝わるものとして大切にしておきましょう。

息子は珍しそうにしていましたが、女の子が「遊ぶものだよ。」と言ったら納得しているようです。

雲錦手鉢 古犬山焼(時代不詳)

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明末呉須赤絵を調べるうちに波及した犬山焼の作品。奥田潁川らとともに日本で明末呉須赤絵の模写を探求した陶工を調べている分野の焼き物です。当方の蒐集の本流ではありませんが、本日はその3作品目?の紹介です。

雲錦手鉢 古犬山焼(時代不詳)
合箱
口径175*高台径65*高さ63



家内曰く「青楓の作品は好き!」だと・・。どうも琳派の影響強いらしい・・・



天保9年に犬山藩7代城主正壽が逝去し、8代正住が封を継いだ正住は、城郭内の三光寺御殿の庭に絵付窯を築造させ、城主の財力で蒐集した明代の赤絵呉須の大皿や鉢等を手本にして模写させ本歌と比べて殆んど遜色のない見事な製品が作られれ驚異的な進歩を遂げました。また、画家の福本雪潭に春秋に因んで桜ともみじの下絵を描かせ、これに倣って雲錦手の絵付けを命じたと伝えられ 今日まで犬山焼のシンボルとして広く愛好されています。



むろん上記の説明と同じ頃の作品かどうかわかりません。



再興された窯まで選択肢はあるように思いますが、詳細は後学とさせていただきます。



近代の作品ではなく天保から明治期までに作られた作品だと思います。



釉薬は明末呉須赤絵のごとく剥離していて味わいがあるものですが、これを毛嫌いする方もいます。



気泡の跡、貫入・・これも同様ですね。



本歌の明末呉須赤絵には意外に虫喰以外は意外にないものです。焼が甘い作品以外は本歌には貫入がないものです。



これを味わいとするか、きれいなものを良しとするかは好み次第でしょう。



当方はこの作品を観る限り、犬山焼を見直しました、趣と味わいがあると思います。



あまり京焼のように完璧になるとつまらない・・・。



高台は明末のような風格?があります。



箱は合わせ箱・・??

 

箱には「犬山焼赤絵鉢 □ □□□」とあります。



保存方法はいつもどおり・・。




本日の作品と同じ図柄の作品は以前にも紹介しましたが、下記の作品があります。

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参考作品
雲錦手大皿 古犬山焼
なんでも鑑定団出品作 2012年6月5日放送
評価金額100万



評:180年くらい前の天保年間に作られた物。扶桑町の隣の犬山市に丸山窯という窯跡があるが、そこで焼かれた物。裏に「乾山」と書かれているが、これは「犬山」を「けんざん」と音読みして、京都の名工尾形乾山の名を持ってきたもの。その銘の部分に化粧土をかけてある(打掛)のが古いものの証拠。表の絵も雲錦模様と呼ばれる良いもので、灰白色の化粧土を薄くかけて、まるで霞がかかったように見せている。

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少人数の時の菓子鉢にはもってこいですね。



この作品を「犬山焼」の作品と解る方は多いのでしょうか?

「画家の福本雪潭に春秋に因んで桜ともみじの下絵を描かせ、これに倣って雲錦手の絵付けを命じたと伝えられ 今日まで犬山焼のシンボルとして広く愛好されています。」だと・・、当方はこの作品について調べるまで知りませんでした。

*なお「画家の福本雪潭(せったん)」については詳細は不明です。



明末呉須赤絵の作品から派生して調べるうちにいろんなことが解ってきました。物覚えの悪い、勉強癖のない当方は実際に購入して、調べていくうちに骨董の知識を肉とし、血としていくしかないようです。

リメイク 柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造

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本日はずいぶん前に購入した作品で、また以前に本ブログにて紹介した作品です。一部に補修跡があるので、あらためて補修しようかと思い、男の隠れ家から持ち出してきた作品です。改めていろいろと考察してみましたので投稿します。

リメイク 柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造
塗古保存箱
幅230*高さ250*奥行き135

「柿本人麻呂」は古くから歌聖と称され、多くの画家が描き、また塑像も多くの陶工が製作していますが、本作品は塑像で有名な仁阿弥道八の作と銘が入っています。有名が故に真贋は不明ですので「伝」としておりますので、ご了解ください。



柿本人麻呂についてはあまりに有名ですが、下記に記事を記述しておきます。

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柿本人麻呂:(かきのもとのひとまろ、660年頃~720年頃)。飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ称えられている。

彼の経歴は定かではないところが多く、史書にも書かれていないため万葉集が唯一の資料である。草壁皇子の舎人として仕え、石見国の官人となって各地転々とし最後に石見国でなくなったとされている。

彼は万葉集第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。

人麻呂について史書に記載がなく、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたとされ、以降現在現在に至るまで歴史学上の通説となっている。

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ご存知のように「仁阿弥道八」は「二代 高橋道八」のことですが、歴代の高橋道八については下記の記事のとおりです。

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高橋道八:京焼(清水焼)の窯元の一つで、陶芸家の名跡。江戸時代後期より作陶に携わり、特に茶道具、煎茶器の名品を輩出し続けてきた。

初代 道八(元文5年(1740年)- 文化元年4月26日(1804年6月4日)) 伊勢亀山藩出身。字「周平」名「光重」。号は「松風亭空中」とも称する。次男のため士分を離れ、京に出て陶器職人となる。後独立し粟田口に開窯。活躍期は煎茶隆盛期でもあり、数多くの煎茶器の名品を制作した。自らも池大雅、上田秋成、売茶翁らの文人と交際。南画を趣味とする。

初代 尾形周平(1788年?1800年?-1829年?1830年?) 初代三男、仁阿弥道八の弟。幼名「熊蔵」名「光吉」。奥田頴川や兄・仁阿弥道八の元で修行の後独立した。尾形乾山にあやかり「尾形」姓を名乗る。青華、色絵、青磁を得意とし、煎茶器(特に急須、湯沸、茶碗)に名品が多い。

二代 道八(天明3年(1783年) - 安政2年5月26日(1855年7月9日)) 初代の次男。「仁阿弥道八」の名で著名である。
奥田頴川、宝山文蔵らのもとで修行を積み、青木木米らと共に京焼の名手として知られる。仁和寺宮より「仁」、醍醐寺三宝院宮より「阿弥」の号を賜り、出家名「仁阿弥」を称する。45歳の時に紀州藩御庭焼(偕楽園焼)立ち上げに参画、以後、高松藩御庭焼(賛窯)、薩摩藩御庭焼(磯御庭焼)、角倉家御庭焼(一方堂焼)、西本願寺御庭焼(露山焼)などの立ち上げに参画、京焼技法の全国頒布に助力。天保13年(1842年)、伏見に隠居するも、以後も「桃山窯」を開窯、作陶を続けた。
同時代の同じ京焼の名手である青木木米とは全く対照的な作風で、多種多彩で癖がない作品を大量に製作した。作品の中には全く対照的な焼き物である楽焼も色絵もある。特に色絵は「尾形乾山、野々村仁清の再来」とまで称された名手であった。また茶碗などの食器や容器ばかりではなく、人物や動物などの陶像や磁器像の製作も行い、名品が多いと言われる。更に李朝磁器や青花磁器の製作も行っている。

それらの作品に共通する特徴を挙げると品の良い「高貴性」が感じられる点である。それ故に日本各地の名家から招かれ、御庭焼の師として仰がれたと考えられる。

三代 道八(文化8年(1811年) - 明治12年(1879年)8月2日) 二代の長男。幼名「道三」、名「光英(みちふさ)」。号「華中亭」「道翁」。嘉永3年(1850年)、高松藩に招かれ「讃岐窯」を開窯した。明治2年(1869年)、佐賀藩の招聘により伊万里焼技術指導。仁和寺宮より法橋に任じられる。青花、白磁の製作にも成功。晩年は祖父の桃山窯に引退。技法としては青磁、雲鶴模様、三島手、刷毛目を得意とし、煎茶器の名品を多数製作した。

四代 道八(弘化2年(1845年)5月 - 明治30年(1897年)7月26日) 三代の息子。名「光頼」号「華中亭」。明治7年(1874年)襲名。京都府勧業場の御用係として活躍。青花磁・彫刻・白磁を得意とする。

五代 道八(明治2年(1869年)- 大正4年(1914年)) 本名「小川勇之助」。滋賀県甲賀郡出身。四代死去時に子息幼少のため、一時的に名跡を嗣ぐ。

六代 道八(明治14年(1881年)- 昭和16年(1941年)) 四代次男。本名「英光」、号「華中亭」。先代、及び四代の陶法をつぎ、染付煎茶器に名品がある。

七代 道八(明治43年(1910年)11月21日 - 昭和58年(1983年)) 本名「光一」。

八代 道八(昭和13年(1938年)12月6日 - 平成23年(2011年)9月16日) 七代長男。京都市立日吉ヶ丘高等学校美術科卒業、京都府訓練校にて轆轤成形、京都市工業試験場にて釉薬を学ぶ。父・七代道八に師事。昭和58年(1983年)に襲名。京都市出身。2011年9月16日肝臓ガンのため、京都市内の病院にて逝去。73歳。

九代 道八(昭和48年(1973年)12月 - ) 八代次女。京都文教短期大学服飾意匠学科デザイン専攻卒。京都府立陶工高等技術専門校成形科、研究科卒。京都工業試験場本科卒。平成元年(1989年)、父・八代道八に師事。平成24年(2012年)、九代 高橋道八を襲名。

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道八については他の作品でも紹介しています。



仁阿弥道八は塑像を得意としておりますが、贋作も多く存在します。なんでも鑑定団にも稚拙な贋作が出品されたことがあります。また「道八」がブランド名になっていて、一般の京焼において色絵にも染付の香炉などにも「道八」と記された作品は星の数ほどあります。



一般的には「道八」という銘は京焼の代名詞? 京焼でないものにも銘が記されていることが多いので話はややこしくなります。



本作品は出来の良いほうでしょうが、仁阿弥道八の作とすると物議を醸し出すことになるでしょう。



冊子を持っていますが、この冊子部分が破損しており、稚拙な補修がされています。この部分は京都の人形などの専門店に補修を依頼中ですので、仕上がったらまた投稿してみたいと思っています。



底から中が空洞となっており、その内側に銘が記されています。



この銘がいいかどうかは後学とします。



仁阿弥道八の作品は塑像では下記のような作品が知られています。





この狸の像はかなりの数が模倣されています。





陶磁器にはやたらと「仁清」、「道八」、「潁川」などの大家の銘を入れた作品が多くありますが、一番多いのが「道八」の銘の作品です。一種のブランド名だと思ったほうが無難なようです。

当方では八代高橋道八の茶碗の作品を友人から譲り受けています。友人は八代高橋道八から指導を受けており、直接本人から頂いた作品だそうです。友人から小生に持っていて欲しいと頼まれた作品ですが、機会がありましたら本ブログでも紹介したいと思っていますが、なにかと縁のある道八の作品です。







アルハンブラ宮の丘 伝杉本健吉画

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藤井達吉から杉本健吉の作品に触手を伸ばしていましたが、本日のような作品を入手しましたので投稿します。

アルハンブラ宮の丘 伝杉本健吉画
油彩額装 右上サイン 誂タトウ+黄袋 
昭和46年(1971年)12月吉日 
日本経営新聞社本社ビル竣工に際し、株式会社産報、産報印刷株式会社より寄贈した作品
全体サイズ:縦620*横520 画サイズ:縦460*横380 F8号



杉本健吉は1962年、インド、中近東、南ヨーロッパに初めて海外旅行しており、以後、世界各地にスケッチ旅行を重ねています。



グラナダの風景



1971年の作だとすると杉本健吉が66歳頃の作となりますが、杉本健吉がいつどこにスケッチ旅行していたかはこちらに資料もなく不詳です。



昭和46年(1971年)12月吉日に日本経営新聞社本社ビル竣工に際し、株式会社産報、産報印刷株式会社より寄贈した作品らしいです。



杉本健吉の油絵などは無論のこと肉筆の作品すら滅多に市場に出回りません。



真贋はむろん不明ですが、小生の判断では「よさそう」です。



一部絵の具に剥落があるのが難点ですが、ご愛敬かな?



小生の蒐集に範疇に油彩の作品はあまりありませんが、日本画から進展して入手することはあります。



本作品もそういう経緯で入手したものですが、グラナダは小生も訪れており懐かしくなり飾っています。



寄贈品が何らかの理由で放出されて市場に出てきた作品でしょう。



こういうことはよくあることのようです。



杉本健吉の肉筆の作品はほとんど杉本健吉美術館に所蔵されているようです。

もっと評価されるべき画家 涼風 現代美人之図 岡本大更筆 その5 大正11年(1922年)

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本日は岡本大更に作品ですが、前回に紹介した「杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃」に続く作品です。描かれた年代が共箱に書かれている貴重な作品でもあります。

涼風 現代美人之図 岡本大更筆 その5 大正11年(1922年)
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:縦2120*横560 画サイズ:縦1253*横422



本ブログでは「もっと評価されるべき画家」として紹介してきましたが、「杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃」とこの度紹介している「涼風 現代美人之図 岡本大更筆 その5 大正11年(1922年)」の作品を観ると改めてそう感じます。



夏の涼しげな雰囲気がよく出ている佳作だと思います。



頭上の枝に風を感じ、団扇、夏の着物に涼しさが漂う作品です。



決して力作という作品ではありませんが、孟夏の時期には掛けてみたい作品だと思います。でも「菊」の帯? 初秋??



襟足や素足の描きに色香が感じるのもまた一興かと・・。



「杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃」が「時代美人画」と題し、「涼風 現代美人之図 岡本大更筆 その5 大正11年(1922年)」が「現代美人之図」と題しているのは面白いですね。印章も同一の印章が押印され、「杜鵑一聲 時代美人図 岡本大更筆 その4 大正10年(1921年)頃」を「大正10年(1921年)頃」としましたが、ほぼ同一時期に描かれた作品の可能性が高いと思います。



岡本大更の作品は数万円でいい作品が入手できますし、まだインターネットオークションにもときおりいい作品が出品されています。いい作品は今のうちに?



たださすがにインターネットオークションも品薄になってきているように感じます。欲しいと思う作品がだんだんなくなっています。

葡萄ニ鷹図 天龍道人筆 82歳

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天龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。

葡萄ニ鷹図 天龍道人筆 82歳
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1695*横450 画サイズ:縦1020*横330



鷹を描いた作品で製作時期がもっと早いのは安永5年(1776年)59歳作の「鷹鶉図」と思われます。鷹を描いた作品は水墨で描いた作品との濃密な色彩でもって描いたものとあります。



鷹画は、葡萄図と同じように絵画制作時期の早い時期から晩年まで描いていますが、葡萄よりは綿密で手の込んだ描写になりますので、晩年になるにつれて作品は少なくなっていきます。

天龍道人は、鷹を飼っている鷹匠の家で生態を観察して、様々な鷹の姿を描いたと言われていますが、その詳細は確認できていません。ただし、天龍道人が描いた鷹には線の文様が縦方向のものと横方向のものが見られ、若鳥では縦方向に縞模様となり、成鳥になると羽が生え変わって横方向になるようです。天龍道人は、若鳥と成鳥を描き分けていることが確認できます。

 

天龍道人は沈南蘋門人の熊斐に学ぶとされますが、作品にもその影響が見られます。熊斐は天龍道人より6歳年下ですが、熊斐と天龍道人の作品を比べると天龍道人の鷹画は、明らかに写実性が低くなり、装飾化が進み整えられた鷹画になっています。70歳頃の鷹画のようが南蘋派の傾向の強い画風となっています。

 

落款には「天龍之道人八十有之二歳筆 押印」とあり、印章は白文朱方印「王墐」、「不明」の印章が押印されています。

 

当方にはかなりの数の天龍道人の作品がありますが、80歳代の鷹の作品は現在はこの作品のみです。ただ90歳代になるとまた作品の数が増えてきますし、この最晩年の作品は70歳頃の作品に見劣りしない優品が多くあります。



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