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Channel: 夜噺骨董談義
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(座像)観音 木村武山筆

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木村武山は明治39年(1906年)、下村観山の推挙により岡倉らの五浦移転に一家をあげて同行しています。武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれていますが、後半期の画業の主流となる仏画も並行して描き始めました。

大正3年(1914年)、大観・観山らと共に日本美術院を再興、経営者、評議員、同人の三役を兼ね、以後中心的存在として院の経営に尽力しています。その直後の1916年(大正5年)、笹川臨風と共に大和・河内巡りをした際、観心寺の如意輪観音坐像に驚嘆したのを切っ掛けに、後年は仏画を多く描いています。昭和12年(1937年)、脳内出血で倒れ郷里・笠間で静養、病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名があります。昭和17年(1942年)、喘息のため死去しています(享年66歳)ので、「左武山」としての作品は数が少ないと推測されます。



本ブログで何度か投稿されている木村武山ですが、その作品の中で最も高く評価されているのが仏画でしょう。この仏画を契機として木村武山は、優れた色彩感覚を持った画家として日本美術院きってのカラリストと評されています。

木村武山の仏画は2011年10月21日放映の「なんでも鑑定団」にも出品されています。



評価金額は相変わらず高いので参考価格と思っていいと思います。











*繧繝彩色(うんげんさいしき):装飾文様の彩色法。「暈繝」とも書く。1つの系統の色を淡い (明るい) ものから濃い (暗い) ものへと変化させて塗る場合,ぼかしによらず,数段階に分けて順次濃淡をつけていく方法。これが色の組合せの基本原則と結びついて,特に中国,唐代に発達し,日本では奈良時代以降,建築,絵画,工芸などの装飾に盛んに用いられた。



当方にても2作品ほど木村武山の作品と思われる作品を所蔵していますので紹介いたします。祖父が同じような作品を所蔵していたどうですが、小生の記憶には残っていません。知っている人は「それはそれはきれいな作品でしたよ。」とのことでした。



(座像)観音 木村武山筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:縦2100*横600 画サイズ:縦1280*横430

 

こちらの観音は座像の作品となっており、上下に仏文様が入っています。



隙のない素晴らしい出来かと思いますすが、「左武山」の時代の作かは定かでありません。









状態もよく、表具も品の良い仏画表具で共箱二重箱に収めらえています。



本作品の落款と印章は下記のとおりです。

  

細部は下記の写真のとおりです。仏画の良しあしは思わず手を合わせたくなる作品がどうかが基本ですね。





















本ブログで紹介した金彩や銀彩一色で描いた作品の描線そのものですね。




蔵の遺物

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蔵のものの大半を処分。処分し難きもののみ遺しておきました。そう「処分し難き」作品です。今回の片付けで処分を逃れた作品です。



今までにも紹介した小作品ですが、数多くあるのです。幕末から明治期、大正期に揃えられた作品でしょう。今では売るに売れない? 使うに使われない作品ですね。



ほんの一部に幕末の伊万里かな?



大半は明治期の食器類。



欠けたり割れたものは以前にも処分しています。



染付では味のある作品だけ残しましたし、錦手のありきたりのものでも遺した作品はあります。



たいていは10人揃いから20人揃いあります。



陶磁器は小皿から中皿、蓋物もあります。



以前は骨董市に所せましと並んでいたものですが、今はどうしているのでしょう?



こちらの作品は明治期の印刷手と呼ばれるもの。



味のある作品は少なくなっているように思います。



こちらは一応手書きの作品ですが時代は明治期から大正期かな?



この色絵は大正期?



蝶の絵が面白い。



九谷風のもののあります。



醤油の小皿。



この徳利は捨てがたい????



漆器は状態のいいもので塗りがしっかりしたものだけを遺しています。



器の種類がたくさんあり、今回の撮影は一種類のみ。



まだまだ使えそうです。



収められている箱も由緒ある???



状態の悪い欄間額、いったい誰の書だろうか?



こちらの欄間額はさすがに廃棄処分・・。



こちらも・・・。



一応誰が書いた書なのかを調べようと思いますが、未だに不明です。



蔵の片付けが終わって、ふと遠くをみると森吉山が雪・・・。



さ~皆で食事。ここに今までの器が並ぶ日が近い。ただ義妹らは骨董に一切興味がない



これ以外に場所をとる膳類は別の場所へ保管。



これらの大きな作品は整理に時間を要しそうです。



「相雲寺什芹蒔絵膳 20人揃内10人揃」・・・・・・???? 芹蒔絵膳は芹(せり)が文様となっている膳のこと。芹(せり)が文様になりデザインされた作品は珍しいらしい。「相雲寺」については不明です。



さてこちらも整理となると時間との勝負か体力との勝負か・・・。



誰にも邪魔されず、そして理解されない小生の至福のひととき。皆は売り払ったらというのですが、それほど高くは売れません。叩き売りするなら自分で楽しむのがいいでしょう。

郷里に日帰り

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今週の郷里への日帰りは墓参りが目的でした。



男の隠れ家は花盛り・・。義妹が一生懸命に手入れしていますが、目標はイギリス式庭園らしい・・・



おかげさまで墓に供える花には苦労しなかったようです。



縁側からは田植えが終わって稲が順調の育っている風景が見られます。



涼しい風に吹かれて居間に寝そべりひと寝入り・・。都会で高層マンションがステイタスになっているように思われますが、年中変わらぬ景色、虫や鳥の音、木々や田園に風の吹く音などの変化の乏しい高層マンションはすぐに飽きてくるように思います。趣味人たるものは田舎で暮らせ・・・



昨日、ブログに取り上げた蔵・・・。リンゴ台風の時に屋根は張り替えています。



中の片付けが終わったので、蔵の修理の検討に入ります。虫の侵入が著しいので主に内部の修理となりそうですが、費用は最低限、修理がメインですので、あまり変わり映えのしない程度のものになりそうです。何しろ収納するものがない

喫茶風にでもするかな

鮒 福田豊四郎筆 昭和18年頃

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さて下書きの記事が満杯で投稿しきれずにおり、気がついたら季節外れの記事となってしまいました。今回の記事は5月にしたためておいたものです

今年の5月の帰省時、本ブログでよく取り上げている画家、福田豊四郎や伊勢正義の郷里である小坂では桜が満開・・。



上記の写真の洋館内ではレストランで昼食できます。



帰省先の郷里で連休前半は花見をして、連休後半は小坂まで出向いての花見です。小坂は標高が高いせいか花の満開は弘前より1週間余り遅いようです。



トロッコに乗り花見見物。



康楽館前は人でも少なくゆっくりと散策できます。





疲れたら喫茶店で美味しいソフトクリーム・・。これは美味。



近くには郷土館があって新たに寄贈された福田豊四郎の作品が見られました。



展示は今一つ工夫が足りませんが、福田豊四郎ファンは一度は訪れてみたいところでしょう。



最晩年の昭和40年頃の「小さな作品展」に出品された作品にはいい作品が多くあります。



代表的な作品もあります。





最後は自転車レールに「あけぼの」の寝台列車。



小生が学生の頃は郷里から上京するのはいつも寝台列車でした。



そのうち一度は寝台列車なるもので家族で旅行してみたいもの。



小坂は福田豊四郎や伊勢正義という当方で蒐集対象としてる画家の生誕の地です。

今回の帰省では福田豊四郎のこれぞという作品がなく、下記の作品を入手したのみでした。

鮒 福田豊四郎筆 昭和18年頃
紙本水墨タトウ入 色紙サイズ:3号
画サイズ:縦270*横240



ネットオークションにて4000円弱で落札した作品。痛みがあるので廉価で落札できたと思われますが、福田豊四郎の作品もだいぶ手頃な値段で入手できるようになりました。

落款と印章から昭和18年頃の作と推察されます。戦時中の疎開先の作品? 疎開先は郷里ではなくなぜかしら県南になります。



福田豊四郎の作品はいいものだけと思いながらこのような中途半端?な作品にも食指が動いてしまいます。子供の頃に田んぼの脇の小川で捕った小鮒を思い出したしまうからですね。



子供の頃の思い出は大切なものです。今回の帰省も息子にはいい思い出になるでしょう。「今度のお休みは田舎に帰るよ。」と帰省にたびに言うと「行く、行く!」と喜んでいます。「田舎ってすごいよね! 会いたい人もたくさんいるし、温泉もある!」だと・・・。いつまで続くか

影青刻花碗 宋時代 その5

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日曜日の夜遅く放映されるドラマ「長閑の庭」を家内と愉しんで観ています。小生自身が年齢差のある再婚ということもあり興味深く拝見していますが、さすがにドラマの設定上の40歳の年齢差には抵抗がありました。ただ「愛」というのはいかに相手のために献身的になれるかということだととだろうと素直に感じ入りました。伴侶を選ぶ観点はこの点なのだろうが、単純で大切なこのことを日頃は忘れているのだろうと・・・。

さて中国陶磁器で日本人の心をとらえてはなさない作品に「影青」という一群の作品があります。近代による模倣作品も多く、また近世には発掘品も多くなり、その実態と評価はつかみかねていますが、面白い作品群であることには変わりはありませんね。

本ブログではいくつかの作品を紹介してきましたが、もっとも一般的な「碗形」の作品で本日で「その5」となります。



影青刻花碗 伝宋時代 その5
誂箱
口径156*高さ50*高台径50



鉢が多く、その中からサイズ的には茶碗サイズに適したサイズはあるのですが、その薄さから熱が伝わりやすく茶碗としては敬遠される器でしょう。夏茶碗にはいいかもしれませんが、きれいなものが多いので、菓子鉢や食器のほうが最適でしょう。



透けて見えるなどの器の薄さを強調した作品はほとんどが近代作の模倣作品(贋作)が多いようです。薄いがゆえに北宋の時代の古いもので現存する数はかなり少ないようです。発掘品はほとんどが南宋の時代における大量生産をしていた頃の作品のようです。

北宋と南宋の時代がわかるのは、横から見ると形がはんなりとふっくらしている作品が南宋です。また、南宋の作品は高台がわりと大きく、すべすべしているところでしょう。

*本作品は時代があっても南宋の頃の作か?



なお北宋時代の青白磁は窯道具の台に乗せて、鞘に入れてひとつずつ焼成するため、高台の裏に窯道具の鉄色の跡がありますが、近代の作品も真似ていますので判別はややこしくなります。

作品に見込みには箆か櫛でささっと雲とも水の流れともつかない文様を描いているが常で、その特徴は勢いが出て、実に良い文様になっている点です。ごちゃごちゃ文様があるものはまず近代の作と判断してよいででしょう。近代作の作品を古いものと勘違いしている方が多いようです。

この文様の単純で勢いのあるのが椀型の影青の見所なのでしょう。



お値段は南宋の作品でいいところ10万円程度、通常は数万円と手頃になってきています。北宋の作品はまず市場に出ないと思っていたほうがいいでしょう。なおよく見かける近代作は値段がつかない作品です。



青磁が好きな方、白磁が好きな方、青白磁が好きな方=影青・・? 高温で焼成されるこの磁器群に憑りつかれている御仁は多いでしょうね。



窯の技術の発達によって、古来から難しいとされてきた高温焼成が可能になった現代ではどうしても模倣作品が多くなります。



焼成の発達によって、現実に中国で焼成された模倣作品の古伊万里、古鍋島などは真贋の判断が素人では全くつかない作品が横行しているようです。青磁、白磁の作品でも同様のことがおこっている可能性があります。



愛でる蒐集側にはなんの落ち度もないのですが、オレオレ詐欺のようなことがこの世界でもあるのでは恐れています。

先日、日本の浮世絵のコピー(稚拙なコピー商品ですが、写真では判別つかない)がネットオークションでさもオリジナルのように出品されていました。作品はコピーした浮世絵を中国風の表具したものですが、かんたん決済の期日ぎりぎりまで商品が届かず、「確実に商品が届きます。」と連絡し、受取連絡を催促するような詐欺的なやり方です。ヤフー側で取引停止にしても、別のIDですぐに出品し、値段をつり上げる入札をしています。返送しても日本の発送代理業務に返送され、出品の実態は中国にあるようです。ヤフーのネットオークションは詐欺的な贋作に汚染されているようですので、対策を考える必要がありそうですね。



ともかくお金が否応なしに絡む骨董の世界、あらゆる罠を避けながら、いいものを愉しむ度胸が必要のようです。いずれの世界でも影はあるもの、影を避けて日の当たる王道を歩んで愉しむのが骨董の世界。いかに骨董に献身的になれるか、骨董がいかに献身的に安らぎをくれるかが命題・・・・

萩ニ美人図(少女図) 木谷千種筆 その5 大正5年作

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先週幼稚園から帰った息子は突然「自転車の小さな車を外してみようか?」と家内に言ったようです。家内はこの機会をなくしてなるものかと銀行との打ち合わせが終了次第、自転車を軽ワゴンに積み込んで自転車屋さんに息子と急いで行って補助輪を外したそうです。

それからすぐに息子はチャレンジして、失敗に懲りずになんどかトライして乗れるようになったらしい。うれしくなった息子は帰りがけの小生にすぐに電話連絡、「パパ、今どこ?」・・・。



乗れるようになったのを小生に見せたかったようです。帰宅すると庭先でお待ちかねのご様子。



おかげさまで週末は自転車の練習に付き合う羽目になりました。



小生より先に数日練習に付き合っていた愛犬が音を上げたようです。

最近、木谷千種や岡本大更の作品に縁があるようです。美人画の大家でもなく無理せずにとも思うのですが、ついつい食指が動いてしまいます。反省・・・・

萩ニ美人図(少女図) 木谷千種筆
絹本着色軸装 軸先木製朱塗 合箱
全体サイズ:縦2010*横570 画サイズ:縦1120*横425



描いた時期は落款から大正5年頃と推察されます。下記は本作の落款と印章です。



大正期の前半の落款についての資料は下記の写真のとおりです。



添付されている資料の「少女図」と同一作品ではないでしょうが、落款が非常に近似しており同時期の作と断定してよいでしょう。

*この資料から「千種女」という落款は大正9年までとするという新たな知識を得ることができました。



なんでも鑑定団にも出品(2015年4月7日放送)されており、評価金額は90万円であることなど近年高い評価を受けています。



本作品は状態もよく、色香漂う木谷千種の佳作と言えよう。



この作品を描いたと推察される大正5年(1916年)には島成園、松本華羊、岡本更園とともに「女四人の会」を結成して井原西鶴の『好色五人女』を題材とした展覧会を大阪で開催しているのは注目されます。



大正4年(1915年)の第9回文展入選作「針供養」、大正7年(1918年)の第12回文展入選作「をんごく」などを発表して注目を集め、後に文展無鑑査決定を得ることとなります。



新進気鋭の女流画家としてスタートした頃の作品となります。



島成園に影響されて女流画家を志し、島成園亡き後は島成園に代わって大阪画壇にて女流画家を代表する画家と言えます。



島成園、上村松園に通じる品格のある作品になっているというのは贔屓目の評価でしょうか? どうも色香に弱い 否、最近はどうも息子に弱い・・・

涼風美人図 大林千萬樹筆 その6

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ネットオークションに出品されていた作品ですが、画家の名前はなく「美人画」とのみ記されての出品でした。落札金額も一万円に満たないものでしたが、知られていない画家にはこういうことがあるのでしょうね。こいいう出会いもついつい食指が動いてしまう悪い癖です。

涼風美人図 大林千萬樹筆 その6
絹本着色軸装 軸先木製朱塗 誂箱二重箱
全体サイズ:縦1410*横660イズ:縦398*513



共箱どころか箱もない作品ですが、作品の状態は良い状態ですので、箱を誂えておくことが必要です。















本作品の落款と印章は下記のとおりですが、本ブログに出品されている作品では「両国橋」と同じ印章と落款と書体です。。



今回は余計な?説明は省いた投稿です。というより何度か投稿している画家の作品ゆえ、乏しい知識や感性では述べることがなくなってしまったようです。

キュウセン 色紙 大野麥風筆 

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義父が肺炎のため、今週の月曜日から長期?入院となりました。病気の回復度合いが気になりながら、なんやかんやと気ぜわしい日々となりました。畑を面倒見る人がいなくなり、掘りかけの芋が散乱したまま・・。家内と息子が畑でとりあえずジャガイモを収穫してきました。息子は農家の息子が似合うようで・・・。



幼稚園から帰ったばかりで畑仕事はきつかったようで、畑の脇で休んでしまったらしい



さて大野麥風について有名なのは『大日本魚類画集』・・、その作品に興味を持つうちに版画だけでなく肉筆画もいくつか手元に遺るようになりました。当然、大野麥風の作品は版画が魅力的ですが、肉筆にも版画に迫る作品があります。

キュウセン 色紙 大野麥風筆 
紙本水墨着色 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



大野麥風について有名なのは『大日本魚類画集』(昭和12年から19年まで6期に分け発行 500部限定)で、全72セットといわれていますが詳細は不明です。本ブログでもいくつかの作品を紹介したように『大日本魚類画集』は昭和十年代に部数限定&解説つきで毎月一枚ずつ販売されました。当初は水族館で魚を観察していましたが、やがて海の中で泳ぐ魚を求め潜水艇に乗り込み、間近で観察し始めたそうです。鱗の模様などを細やかに描写するとともに、生息環境をも正確に描き出しています。海水魚だけではなくドジョウやメダカといった川魚も、色鮮やかに生き生きと描写しています。

近年では2010年に姫路市立美術館でそのすべてが公開されたのが初めてで、2013年に東京ステーションギャラリーで公開されています。驚くことは「原色木版二百度手摺」と、この木版画集のうたい文句があるように、200回も重ねて摺って1枚が完成するという手法であり、一般的な浮世絵なら10回ほどだからいかに特異であるかがうかがい知れます。それは彫師や摺(すり)師ら優秀な職人がいたからこそ可能であって、今では到底無理な版画の技術でしょう。

本作品は以前に紹介した下記の所蔵作品と同時期の作品でしょう。

カサゴ 色紙 大野麥風筆 
紙本水墨淡彩 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



「カサゴ」の落款と印章が左下の写真で本作品の落款と印章が右下の写真ですが、同一印章と推察されます。

 

「キュウセン」について

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メスは体長20cm ほど。体色は黄褐色で、背面中央と体側に黒色の太い縦帯が入り、黒帯の内外に点線状の赤い縦線がある。「キュウセン」という和名は、この線の数を計9本とみたことに由来する。元々「キュウセン」は神奈川県三浦半島で使われていた呼称で、これが全国に定着する形となった。 一方、オスは体長30cm、稀にそれ以上に達するものがいる。体色は鮮やかな黄緑色で、体側の縦帯がメスより広く不明瞭になる。胸びれの後方に大きな藍色の斑点が1つある。この体色の違いからメスは「アカベラ」、オスは「アオベラ」とも呼ばれる。極端な性的二形のため、別種と思われることもある。 メスの一部は、成長するとオスへ性転換する(雌性先熟)。アオベラは全てメスが性転換したオスであり、体長9–15cm位の頃にメスの大きい物がオスへ性転換を図る。このグループを二次オスとよび区別している。二次オスは、複数のメスを抱えハーレムを形成する。 一方で生まれながらのオスもおり、一次オスと呼ばれるが、姿形はメスと同じである。見た目だけではオス、メスの区別ができないため、一次オスをイニシャル・フェーズ (initial phase)、二次オスをターミナル・フェーズ(terminal phase) と呼び、頭文字からそれぞれIP、TPと表記される。一次オスについては、メスのふりをして他のオスのハーレムで生活し、産卵行動に紛れて自分の精子をかけ子孫を残すという行動も報告されている。 表皮にぬめりがあり、うろこは魚体に対して大きいが、非常にはがれにくい。また鰓蓋があまり開かないため、調理には技術を要する。



*上記写真は雄

北海道・函館市以南、朝鮮半島、東シナ海、南シナ海沿岸まで分布するが、南西諸島には分布しない。ベラの仲間としては低温に強く、温帯域に分布できる数少ないベラの1種である。 やや内湾性で、岩礁の点在する砂礫底や砂底に生息する。若魚は干潮線付近の大きなタイドプールで見られることもある。昼間に海底付近や海藻の間をゆっくりと泳ぎ、甲殻類、貝類、多毛類など様々な小動物を捕食する。夜と冬は砂に潜って休眠する。まれに潮の引いた後にも砂に潜っていることがあり、潮干狩りなどで見つけることがある。産卵期は6月下旬から9月頃までで、地方により差異がある。



関西圏では夏季にキスとともに好んで釣りの対象にされ、専用の釣り船も出るほど人気がある。夜や冬は休眠するため、釣りは夏の日中に行われる。波打ち際の駆け上がりから沖まで生息域も幅広く、海岸からの投げ釣りもできる。フグ類のような「餌取り名人」としても知られ、小さな口と牙状の歯でうまく餌をちぎる。そのためあたりは小さく、コツコツという小さなあたりを見逃さず釣竿を小さくしゃくるように合わせる。釣り人の経験や腕の差が現れやすく、釣趣がある。

皮膚はぬめりがあるが、白身で癖がない。新鮮な大型個体は刺身が美味で、ワサビ、シソなどの薬味を添える。他に煮付け、塩焼き、唐揚げ、南蛮漬けなど様々な料理に利用される。

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なになに???「メスの一部は、成長するとオスへ性転換する(雌性先熟)。アオベラは全てメスが性転換したオスであり、体長9–15cm位の頃にメスの大きい物がオスへ性転換を図る。このグループを二次オスとよび区別している。二次オスは、複数のメスを抱えハーレムを形成する。 一方で生まれながらのオスもおり、一次オスと呼ばれるが、姿形はメスと同じである。一次オスについては、メスのふりをして他のオスのハーレムで生活し、産卵行動に紛れて自分の精子をかけ子孫を残すという行動も報告されている。 」だと・・・・。魚の世界もたいへんだ。絵というものは本当にいろんな知己が得られるものです。


なお「キュウセン」については「大日本魚類画集 NO56 ベラ図」として取り上げられています。 

大日本魚類画集 NO56 ベラ図 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1937年11月第4回
画サイズ:縦370*横275



上記作品は本ブログにて投稿済の作品ですのでそちらを参考にしてください。



ないやら展示室にやたらと魚の作品が増えてきました。



我が家には自然の幸が満ち溢れている?? 義父の回復を祈るばかり・・。


海の幸(仮題) 中村左洲筆 大正期

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日本のサッカーの国際試合は残念な結果になりましたが、特に小生が疑問を呈したいには女子ワールドカップにおける日本女子とオランダのハンドによるPKです。あのハンドは日本の監督に責任が大いにあるのではないという点です。VAR判定も含めてハンドに対する規定は厳しくなっており、立った状態での守備は手を体につけて守るが必要となってきていることを選手に監督が指示していたかどうかです。他国では選手が手を後ろに回して守っている姿が往々にてあります。監督が指示していて思わず両手を広げていたなら明確に選手に責任があるものですが、指示すら出していないなら監督の責任です。時間帯を考慮しての指示もキチンとすべきだったと思います。相手選手に慰められる以前にガバナンスの問題があるように思います。勝負は厳しいものですが、マネジメントする側にはもっと厳しい認識が必要だろうと感じています。引き分けに終わった日本男子サッカーも最悪の引き分けはないだろうと感じざる得ませんね。

さて鯛を描いた作品、美人画を描いた作品が主に蒐集対象の中村左洲ですが、下記の席画のような作品を入手したので投稿します。

海の幸(仮題) 中村左洲筆 大正期
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 誂箱 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横

 





落款が参考作品(大正15年頃の作品)と同一書体であることから同時期の作品と推察されます。



やはり鯛や美人画の力作には見劣りする・・・・ 我が骨董蒐集も厳しさが必要なようです。

疑わしきもの 伝朝鮮唐津茶碗

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古い朝鮮唐津の作品は茶陶ファンの垂涎の的でそれはそれは高価なものです。本作品は「江戸期」という触れ込みですが、そこまで時代があるかそうか・・・。

正直なところ「朝鮮唐津」の古い作品で茶碗は当方では見たことはありません。また見込みまで掛け分けになっている作例もありません。花入れなどは内部は白い釉薬が施されているのが通常です。よってこの作品は時代のある作品かどうかは疑わしく、近年による朝鮮唐津風の茶碗と思い購入した作品です。

ただ家内が「茶碗としては面白いじゃないの?」と小生と同意見の感想を言うので、恥ずかしながら本ブログに投稿することにしました。

うたがわしきもの 伝朝鮮唐津茶碗
合箱
口径125*高台径*高さ80



朝鮮唐津の説明は下記の記事のよります。

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朝鮮唐津:絵唐津・斑唐津など、代表的な唐津の装飾の一つで、黒飴釉の上に海鼠釉を掛けたりまたその逆海鼠釉の上に黒飴釉を掛けたりしたものです。この技法は全国の諸窯などに数多くありますが、朝鮮唐津は、黒飴釉の部分と海鼠釉の部分とを別々に掛け分けて、やや重なり合った部分が高温でガラス化し黒の部分と白の部分が溶け合い、絶妙な色と流れ具合の変化が特徴になります。



その名称の由来として、一説によりますと当時外国と言えば朝鮮が一番身近のようで、外国と言えば朝鮮という意味合いから来て、異国の所産のような唐津焼、朝鮮唐津と伝えるようになったようです。でも朝鮮半島には朝鮮唐津のルーツになるような品々は少なく、日本に渡ってきてから発展したと解釈した方が良いと思います。



唐津焼とは、初期の頃は壺・皿・碗等の一般民衆が使う器を生産していたのですが、桃山時代の豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592)頃より秀吉をはじめ千利休・古田織部等の中央の武人茶人達の影響を受け、お茶の文化が入ってき来たようです。そのような時代的な背景で形状や装飾等に変化が現れてきたように思われます。



装飾の面では、初期の唐津には単独の顔料で絵を描き一種類の釉薬を掛けているだけが多かったのですが、時がたつにつれ絵唐津や青唐津などもそうですが、朝鮮唐津は特に、織部焼がペルシャの陶器に影響を受けたように唐津もそのようで、それぞれ違う釉薬を使い分けた装飾法が発展したと思います。



今でこそ流れ具合を重要視しますが、昔は、ただ掛け分けたという感じが強いようです。朝鮮唐津は徳利のほか壺、水指、花生などがあり見所として藁灰釉と鉄釉が交錯して生じる釉調を数奇者たちはとりわけ賞玩してきた。釉薬がそれぞれ溶け合い、変化に富んだ趣が朝鮮唐津の見所といえる。古美術での唐津焼の中でもトップクラスに人気のある焼物です。

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上記の記事に述べられているように、「朝鮮唐津」は朝鮮半島には朝鮮唐津のルーツになるような品々は少なく、日本に渡ってきてから発展したと解釈した方が良いという作品群です。



土見の部分からも古唐津というのは疑問ですが、掛け分けの朝鮮唐津風のお茶碗としてはよくできています。



全体に表面がかせた感じが少し時代があるようにも思われます。



若干、虹彩が発しているのも見込み内に見どころを感じます。




おそらく朝鮮唐津の再現で一番難しいのは藁灰釉と鉄釉が交錯して生じる釉調に嫌味のないところだと思っています。



これはかえって見込み内も釉薬が交錯しているこの茶碗のような作品ではより難しくなっています。



ただの朝鮮唐津の模写の近代作とみるかどうかは使うもの見識次第ですね。



当方では面白き茶碗としましたが、何百万もの大枚を使って朝鮮唐津の作品を所蔵するより精神衛生上はいいかと思います。



さて読まれた皆様のご意見や如何・・。



一茶句意名月 酒井三良筆

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当方のブログにて作品を紹介している趣旨には売買目的は一切ありません。またアクセス件数も目的でありません。あくまでも作品整理の一環ですのでその点はご了解ください。

さて茶味?のある日本画というと小杉放庵、小川芋銭、そして酒井三良の三人の画家を上げる方が多いと思います。南画的でありながら、山水画ということはなく素朴な題材で日本人の気風にあった作風の絵を描いた画家と言えるのでしょう。

一茶句意名月 酒井三良筆
古紙水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横670*縦1330 画サイズ:横*縦



「一茶句意名月」という題名から小林一茶「名月をとってくれろと泣く子かな」という句を基に描いた作品と推察されます。



子どもの無邪気な願い、そして親子の情愛がほほえましく表現された句であり、理屈抜きで忘れられない句ですね。



ま~実際にそのようなことを言う子供はいないと思いますが、禅画にもある「水面に映った月に手を伸ばす猿の作品」が背景にあるのでしょう。こちらは実際にないものへの欲というものを示していますので、子供の無邪気さとは違う示唆の作品ですが、共通して考えられるのは「人間とは生まれながらにそのような欲や願いがある」ということでしょう。



人の成長とはある意味で己の欲との闘いでもあり、欲とは生きているものの性なのでしょうね。



和紙に描かれ趣のある作品に仕上がっています。



人は寿命が延びているぶんだけ生き方の幅が広がっていますが、その分だけ生き方も難しくなっているように思います。

 

働けるだけ働いて残りの余生を愉しんで死するという生き方ではなく、働く期間と死する間に何かができる時代になっていますが、そこに生きがいを見出せるか否かがどうもポイントのようです。どうもそれが現代を生きる者の「名月をとってくれろと泣く子かな」ということかと・・・。



夏用の扉に入れ替えた茶室に飾ってみました。



手前は南蛮焼の双耳花入れです。

なお本作品は「酒井三良展 ふるさとを描きつづけた画家」(2001年8月4日~2001年9月2日)に出品されています。



喜多方市美術館、やないづ町立斎藤清美術館 三島町交流センターやまびこで開催された際にこの作品集が発刊されています。



筋の良い作品に絞って蒐集しているとこのように由緒ある作品が集まるようになるようです。



裸婦(小) 伊勢正義画

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我が郷里出身の洋画家「伊勢正義」の作品をいくつか(本日の作品で15作品目)本ブログで紹介し、資料も整理していますが、下記の作品「ゆき」について判明したことがあります。

ゆき 伊勢正義画 1951年(昭和31年)頃作
油彩額装 左下サイン 日動画廊シール タトウ+黄袋
画サイズP10号:横410*縦530 全体サイズ:縦750*横630



この作品は1951年(昭和31年)1月29日に発売された「サンデー毎日」の表紙に掲載された「母と子」という題名の作品の原画と推察されます。



この雑誌の内容は当時の皇太子の妃選びのこと・・・。この時は題名は「母と子」という題で雑誌には掲載されています。日動画廊では「ゆき」となっています。この経緯については詳細は不明です。



このような後日になって判明した郷里に関連することを資料と共に遺すのが、郷里と行き来している者、地元に関連する作品を蒐集する者の役目だろうと思っています。推測ですが、地元では過疎化が進み、このような記録を遺す算段をする人材も不足していることが懸念されますので少しでもお役に立てればと思います。



資料は作品と共に紛失しないように整えておきます。



さて他の雑誌では1944年(昭和24年)9月30日に発売された「週刊朝日」に「夜」という伊勢正義の作品が表紙になっています。。



当時は人気のある画家として伊勢正義が評価されていたことがうかがわれます。



これらの資料や各作品のサインなどを調べていくと徐々に描かれた年代を自ら特定できるようになってきます。



作品の資料整理を自分でやると少しづつ蒐集した作品が血となり肉となって鑑識眼が上がるのが実感されます。



さて本日は伊勢正義の小作品です。

裸婦(小) 伊勢正義画
油彩額装 黄袋タトウ
額サイズ:横255*縦215 画サイズ:横90*縦50





この作品は掛けるよりも置き式にして飾るほうがいいかもしれません。



伊勢正義の作品では「裸婦」の作品は少ないのですが、興味深い作品が当方の手元にあります。

裸婦 伊勢正義画
油彩額装
額サイズ:横*縦(未測定) 画サイズ:横360*縦690

郷里の伊勢正義のアトリエ(小坂町のアトリエを解体し、処分するときに発見されてもの)にあった作品。この作品はサインもない作品ですが、同じところから発見された他の作品には1937年作か?(29歳頃?)と推測されるサインのある作品がありますので、この作品も伊勢正義の作品と推測され、同時期以前の習作と考えています。



素人の推測ですが両作品は共通した描き方があるように思います。



かたや若年の習作、かたや晩年の小作品、伊勢正義の数少ない裸婦図を鑑賞しての愉しい考察となります。



こういう考察ができるのが骨董の楽しみのひとつですが、時には邪推も生まれるし、妄想も生まれるものですが、それを防いで現実的に考察するのは作品と資料を蒐集し整理することから始まるようです。





達磨面壁九年図 倉田松濤筆  その29

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本日はいい作品に的を絞って蒐集している倉田松濤の作品の紹介です。

達磨面壁九年図 倉田松濤筆 その29
紙本水墨軸装 軸先塗 壺中老人識箱
全体サイズ:縦1310*横695 画サイズ:縦460*横660



「維□大正十一年歳次□黙 
□□□晩□其夜九□□□
寫於東都生□□ 百三談畫□□□□ 
来世座菩薩 松濤 押印」



大正11年(1922年)、倉田松濤が55歳に描いた作品であると推察されます。



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菩提達磨(ぼだいだるま):中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるが、「洛陽伽藍記」や、いわゆる中国禅の典籍「続高僧伝 」など唐代以前のものは達摩と表記している。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる「坐禅の定義」などに継承されている。



*作品の手前は瀬戸絵の大皿です。これほどの大きさで、出来の良い瀬戸の絵皿は滅多にありません。

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倉田松濤:明治~大正期の日本画家。慶応3年(1867)生~昭和3年(1928)歿。秋田県出身。巽画会・日本美術協会会員。 幼い時から平福穂庵に師事。特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。落款「百三談画房」、雅号は「百三談主人」など。



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箱書きにある「壺中老人識」については不明です。



昭和21年に記された箱書きのようです。



倉田松濤の作品の割には? 良い表具となっています。



本作品は良く描かれている倉田松濤の仏画の中では出来の良いものでしょう。よくみかけるありきたりな布袋図や達磨図はとるにたりないものですが・・・。



本作品で倉田松濤の作品は「その29」となり、これを契機にファイリングしてみました。30作品ほど揃いましたが着色画や亡くなった年の作品など貴重で出来の良い作品に絞って蒐集してきました。郷里の骨董店で購入することも多く、ほぼネットオークションと同等の値段で購入することができます。ネットオークションではあまり出来の良い作品が少ないのと贋作がたまにありますので要注意ですね。



このようなファイリングすることでデジタルだけではなく、アナログで即時に資料となるものとなります。購入の判断には実に有効ですが、骨董店にこのような資料を持ち込んではいけませんよ。これは礼儀というか道義的なことです。常に真剣勝負をしてきた骨董店主に失礼でしょう。

最近のビジネスでも礼儀や道義をわきまえない人が多いです。相手を疑ってほとんど了解なしに仕入れ先と直にネゴする輩も同じような輩です。積み上げてきたプロセスをないがしろにし、ビジネスの対等で勝負する相手としては失格でしょう。「コストカットならなんでも」というお金の亡者という輩です。

さてこれらの知見を元にいよいよ当方の蒐集は本格的になります。

リメイク 古伊万里 鯉之図染付大皿 & 富士ニ龍図染付大皿

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下記の作品は窯割れと地震のときに割れた跡があり補修されています。幕末から明治期にかけての作品でしょうが、古伊万里に分類してもよろしいかと思います。所蔵しているのは江戸期から続く地主であった家柄の旧家であり、他の古伊万里の食器からも同時期であろうと推察しています。

古伊万里 富士ニ龍文図染付大皿
杉古箱入
口径475~477*高台径280*高さ53~55



亡くなった家内の父によると、元々窯割れがあったようですが、地震の際にら落下して割れたようです。補修はとりあえず小生にて行いましたが、いずれきちんと補修する必要がありそうです。



見事な染付の器だと思います。



幕末の古伊万里の大皿は数と種類は多いもののこれほどの絵付の優品は珍しいでしょう。



染付の発色もきれいであり、それゆえ多少の窯傷があっても市場に出たのでしょう。



幕末から明治にかけての器を「古伊万里」と分類するには抵抗のある方もいるでしょうが、最盛期にはなかった大皿はやはあり貴重です。



裏面に書き銘がありますが、これは古伊万里からの決まり事・・。



もう一点は鯉の図柄の大きな幕末頃の古伊万里の大皿です。大きさは40CM強あります。裏にある「成化年製」は伊万里にて1730年以降に使用されたものであり、もともとは「大明成化年製」の略であり、小さなところに記入するのに約されたものであるという。その後、1790年まで盛んに使用されたそうです。

古伊万里 鯉之図染付大皿
杉古箱入
口径426~432*高台径約255*高さ62~67



これらの作品は冒頭に「リメイク」とあるように本ブログではなんどか紹介している作品ですが、いつも見ても飽きない作品です。



今回は男の隠れ家に飾ってあったこのに作品を古くからあった箱に収納するために持ち帰っています。



男の隠れ家を古くから知る近所の方々は「見事な大皿があったわよね~」と5月の帰省での法事の食事の席で問われました。



これらの作品のことだろうと推測されます。義父も自慢そうに座敷の床に飾っていましたから・・。



裏面の高台内の銘はおきまりの「成化年製」・・・。



納めていた箱は、所蔵している旧家の蔵にあった箱ですが古来からこの2作品が入っていた箱かどうかは不明です。箱表には「大沙(大皿?)鉢入 但斗枚(二枚?)之内 高橋氏」とあります。



箱裏には「安政六年 未又?月政 高橋八郎蔵」とあり、現在所蔵している旧家での所蔵ではなかったようです。こういうことはよくあり、江戸期に入手した作品を幕末や明治期に所蔵が移転することはよくあります。

幕末にはこのような色絵や染付の伊万里の大皿が大いに売れたようです。陶磁器の食器が庶民にもようや出回った頃なのでしょう。地方の庄屋や商家ではこぞって揃えたようですが、このような出来の面白い作品は意外に少ないかもしれません。

ついでに最近紹介した色絵の伊万里の大皿は下記のものです。



色絵の幕末の皿はある程度パターン化されていますが、完品で遺っている皿は数が少ないようです。



庶民に出回った皿は雑な絵付けが多くなり、また明治期になると海外受けする作品が多いのですが、このような染付様式を踏襲している皿は小生は好きです。



以前は骨董店の欄間にたくさん並んでいたのですが、最近はあまり見かけなくなりました。



自宅で大勢で会食したりしなくなり、個人では使用用途が少なくあったこともあるのでしょう。







今はこうして飾皿として愉しませていただいています。



大きな皿は見栄えがしていいと思います。



古い箱を修理して大切に元の所に戻しておきます。箱を積み重ねる可能性があるので強度が弱いままでは危険です。



このように保存をきちんとしておくには箱意外にいくつかの材料がいります。まずは白の包装紙、黄色の布、周囲に回すクッション材、隙を埋める綿、いくつかの幅の種類の真田紐、箱の表面を保護する紙、中身の解る写真の貼り付け、そして大きさのいくつかの種類の風呂敷、風呂敷の外に付ける名札・・・。



蒐集して整理するにはこれだけの材料を用意して加工する手間をかける必要があります。これが苦にならずに鼻歌交じりに作業するもの好きさが一番大切でしょうね。さてこれらをどう扱うか、それは将来に託すしかありません。小生はただひたすら整理していくのみ・・・・

  
                               


                             

源内焼 その117 褐釉竜宮文脚付鉢

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帰宅して愛犬に餌をあげているとワイシャツにカミキリ虫が飛んできました。早速捕まえて虫かごへ・・。夕食前に背広のまま息子と昆虫図鑑とにらめっこ・・・。「これだな、ゴママダラカミキリ!」



さて源内焼の作品はめぼしい作品がインターネットオークションにも見られなくなりましたが、源内焼の作品の中でも欲しかった作品が入手できたので、本日はその作品を紹介します。

源内焼 その117 褐釉竜宮文脚付鉢
共色補修跡有 台付 誂箱
幅280*奥行225*高さ50



残念ながら割れを共色で補修した跡があります。



源内焼の作品は当方では100種を超えましたが、蒐集目的の残りは地図皿など非常に入手の難しいものばかりになりました。本日紹介している本作品も非常に珍しい作品です。



保管時に破損しないように板が備え付けらえています。中央部に支柱があり、脚部分にはほぞがあります。



大切に保管されていたのでしょうが、保存箱ありません。



補修跡が気になる作品ですが、稀有な作品ですので当方で保存箱を誂て大切に保存しておきたいと思います。



図集によると本作品は台と鍋で一対の作品のようです。



本来の一対のまま完品で遺っている作品は稀有かもしれません。



当方も写真でしたこの作品を観たことがありません。



型も明確で色も見事な作品ですね。



源内焼の真骨頂ともいうべき作品です。



ただ単品で台だけ紹介されている図録もあります。



単品で傷のある作品でも十二分に鑑賞に堪えうる作品です。虹彩が綺麗です。



虹彩を人工的に作れるというに御仁もいますが、コールタールなどで人口的に作ったものと釉薬で発色してもの違いくらいは当方でもわかるつもりです。



贋作を疑う人はどこまでも贋作を疑うものですが、それを超えた知見と度量がないと骨董蒐集は出来ないようです。



もちろん間違って贋作や模倣作品、時には工芸品を真作と思い込むこともたびたびありますが、それは蒐集の肥やしのようなものです


面白き作品 背の高い女・背の低い男 伝川端龍子筆

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思わす面白い作品なので入手しましたが、前田青邨の作品かどうかは二の次です。

背の高い女・背の低い男 伝前田青邨筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先樹脂 誂箱タトウ
全体サイズ:縦1720*横1017  画サイズ:縦931*横867



一見するとどのような情景を描いた作品かわかりませんね。



絵の脇に書かれたセリフを読んでいくと解ります。



背の高い女性と背の低い男性のお見合いのようです。



一人一人の描き方が実にユニークそのもの。余計な説明抜きで愉しんでください。





















前田青邨が描いた作品かどうかは小生にとっては関知するところではありません。愉しめる作品を蒐集するのみ。



洒脱な作品・・・?? 箱もなく紙表具のまま・・・。

柳陰山水図 天野方壷筆 その6

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富岡鉄斎も一目置いた流浪の画家「天野方壺」、その出来の良い作品はなかなか入手困難です。それでも本日の作品で6作品目となりました。

柳陰山水図 天野方壷筆 その6
絖本水墨淡彩軸装 軸先木製加工 合箱
全体サイズ:縦2011*横561 画サイズ:縦1422*横419



明治13年。天野方壷は1824年生まれであるから57歳の頃に作となります。



賛は下記のように読めますが、意味はちんぷんかんぷん・・。「開先瀑布」という〈宋〉蘇 轍による漢詩を引用しているのでしょう。

山上流泉自作谿 行逢石缺瀉虹霓 定知雲外波瀾濶
飛到峰前本末齊 入海明河驚照曜 倚天長劒失提攜
誰來卧枕莓苔石 一洗塵心萬斛泥           

明治十三年歳在庚辰三月春□□寫於方壷仙史 押印

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蘇轍:(そ てつ、1039年3月17日(宝元2年2月20日) - 1112年10月25日(政和2年10月3日))。中国・北宋の文人で官僚。蘇洵の次子、蘇軾の弟にあたる。字は子由。潁浜遺老と号す。唐宋八大家の一人に数えられる。

眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の出身。1057年、19歳の時に兄とともに進士に及第し、商州軍事推官となるが父・蘇洵を首都で養うこととし、兄・蘇軾が任地(鳳翔府)から帰ってきてはじめて大名(河北省大名県)推官となる。神宗の時に三司條例司の属官となったが、王安石の青苗法に反対して河南推官に転出させられ、斉州掌書記をへて著作佐郎となる。いわゆる「烏台の詩案」で兄の蘇軾が罪を得たときに連座して、監筠州塩酒税・知績渓県に落とされる。

哲宗が即位して召されて秘書省校書郎となり、右司諫・起居郎・中書舎人・戸部侍郎と累進し、翰林学士となり権吏部尚書・御史中丞・尚書右丞をへて門下侍郎まで昇進した。しばしば上書直言したが、帝の意にかなわず知汝州(河南省)に左遷される。袁州の知とされたが赴任先に着く前に朝議大夫に落とされ、南京をへて筠州に到る。化州別駕・雷州安置・循州安置(広東省)、徽宗に代が替わっても永州・岳州(湖南省)と地方回りをさせられていたが、大中大夫に復帰させられ、提挙鳳翔上清・太平宮として許州に移った。崇寧年間(1102年-1106年)に官を辞め、許州に室を築き、潁浜遺老と称し交友を絶ち、終日黙座して経史諸子を研究すること十年にして74歳で没する。端明殿学士を追贈され、南宋の淳熙年間に文定と諡される。

**************************************

落款と印章の拡大は下記の写真です。



画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。



休みなく全国を旅し画道修行を続けた彼が明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住していた頃です。



京都に定住した後は、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しています。



天野方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを 「画匠」と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。鉄斎といえば「萬巻の書を読み万里の路を行く」を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この「万里を行く]ことに関しては方壷が鉄斎を凌駕しているかもしれません。



近年評価されているのか、平成16年に方壷生誕180年に当たり。これに因んで愛媛県美術館において展覧会が開催され作品20点が展示されました。また、平成15年には福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されています。



「天野方壺」という画家は廃れいく日本画の近代山水画の中で見直すべき画家の一人です。大きな床に飾ってそのおおらかさを愉しんでいます。





(立像)観音 木村武山筆

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本日は先日紹介しました木村武山の「観音」の2作品のうちの「(立像)観音」を紹介いたします。最近「(座像)観音」を紹介していますので、二部作のひと作品となります。



(立像)観音 木村武山筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:縦2230*横570 画サイズ:縦1360*横405



木村武山の色絵の「観音」は著名な作品群であり、「(座像)観音」を取り上げたばかりなので、詳細な説明は省き、写真で鑑賞してください。











状態は表具裏面に若干のカビがあるものの作品そのものは状態はきれいですし、太巻の共箱二重箱に収めれている仏具表具の作品です。



本作品の落款と印章は下記のとおりです。

  

詳細は下記の写真のとおりです。

















本日は説明はほとんどない投稿となります。

おもしろき作品 虎図 伝佐伯岸礼筆

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本ブログでもたびたび紹介している佐伯岸駒に始まる岸派の作品では、なんといっても虎の絵が群を抜いて出来の良いものがあります。本日紹介する作品は当初「岸岱」作として出品されていましたが、当方の判断では岸派の二代目岸岱の次男「岸礼」(岸駒の孫、岸岱の次男)の作であろうと推察しています。

虎図 伝佐伯岸礼筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 杉箱
全体サイズ:横610*縦1880 画サイズ:横470*縦1305

佐伯岸駒の作例に近い珍しい作品だと思いますが、あくまでも「伝」としておきます。



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岸礼:(がんれい)文化13年(1816年)~明治16年(1883年)5月24日)。江戸時代後期から明治時代の岸派の絵師、日本画家。姓は佐伯、名は持豊、持礼。字を士(子、仕)弟、号に雪峰、化鵬、北鵬、白雲館など。官名から岸大路左近将監と称した。

岸派の二代目岸岱の次男(岸駒の孫、岸岱の次男)。として現在の京都市内で生れる。父について岸派の絵を学び、安政度京都御所の障壁画製作のため禁裏絵所に出仕して近衛府官人となり、左近衛府下野守に任じられ、さらに左近将監に昇進した。『平安画家評判記』には「何も角にも出来升」とあり、一定の評価を得ていたことが窺える。明治維新後に東京に移住し、当地で没した。墓所は本禅寺。

画風は、岸派の個性的な筆法を更に力強くし、濃墨をふんだんに使った強い調子の作品と、四条派風の温雅な草花図などが残っており、画域に幅があったと見られる。

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岸礼の「虎」を描いた参考作品は下記の作品があります。



落款の比較は下記のとおりですが、朱文白長方印「枕流」については不明です。この印章の詳細が不明なことも「伝」の理由のひとつです。

 

虎で有名な岸派の創始者は言わずと知れた佐伯岸駒ですが、岸礼はその3代目ということになります。やはり歴代の岸派の画家は虎を描いています。



代が下ると画力は低下しているようですが、明らかに岸駒の影響を受けている画風を遺しており、岸派の虎の作品の中では佳作と言えるでしょう。



しかも少しながらありますが着色されている作品は貴重と言えるでしょう。



改装すると見栄えが格段に良くなりそうです。また費用が嵩む

達磨図 山田真山筆 その2

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小生に似て慎重派の息子、危ない?遊びには他人がやっているのをみてから取り組むようです。そんな息子が苦手なのがブランコ。5歳になってようやく自分で漕ぎ始めるようになってきたようです。それでいい・・多少慎重なほうがいい時代なのかかもしれません。



本日紹介する作品は根強いファンを持つ山田真山の2作品目の紹介です。

達磨図 山田真山筆
絹本淡彩軸装 軸先鹿角 共箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦(未測定)

 

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山田真山 :(やまだ-しんざん)。明治18年(1885年)~昭和52年(1977年)。大正から昭和時代の彫刻家,日本画家。沖縄を代表する芸術家の一人。明治18年10月27日、壺屋に生まれる。童名・真山戸(まやまと)。

父は士族であったが、世替わりの時代に一家で八重山に移住し、苦しい生活を送った。真山は幼少時から手先が器用なことで知られ、その才に着目した大工に引き取られ、十代前半に東京へ移り住みました。大工仕事を通じて造形に目覚めた真山は、苦労の末、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学し、彫刻と日本画を学んだ。彫刻を高村光雲,山田泰雲に学び、泰雲の養子となる。

画は小堀鞆音(ともと)に学ぶ。高名な芸術家たちに師事した真山は才能を開花させ、1914年に文展に入賞したことを皮切りに数々の絵画・彫刻作品が入選。

昭和初期には明治神宮聖徳記念絵画館に「琉球藩設置」を奉納するという栄誉も得た。1940年に沖縄に帰郷した真山は悲惨な沖縄戦を体験し、息子二人が戦死したことも相まって世界平和への想いが強まり、1957年、72才にして平和祈念像の制作にとりかかった。しかし、その完成を見ずして197年、92才で亡くなる。像は真山の制作した原型をもとに、翌年完成し、糸満の平和祈念堂に安置されている。

  
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山田真山は数多くの達磨図を描いています。



本作品の落款と印章は下記のとおりです。

  

山田真山の作品は「なんでも鑑定団」にたびたび出品され、高い評価を受けています。





とはいえ意外に知られていない「山田真山」、骨董蒐集にも慎重な小生はよく見てから蒐集にとりかかる?? これは遺伝のよう??? 

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