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津軽塗の下駄 & パリの少女 近岡善次郎画

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母が亡くなってもうすぐ一年。母が住んでいた男の隠れ家、遺品を整理し始めています。5月の連休時に帰省した際には靴を整理しました。着物を好んで着て歩いていた母は草履や下駄がやたら多く、数足家内が履くというもの以外はそのほとんどは処分しました。処分し難ったのは津軽塗の下駄二足です。



だいぶ使い込んでいます。草履で下駄? 郷里は道も悪く、雪道でもあるし、さらには前にカバーもついていませせんので痛みが早かったのでしょう。



弘前に近いので、食器類にも津軽塗を母は好んで使用していましたが、さすがに下駄までとは・・。母はお茶を教えていましたが茶事にこの下駄は向いていないと思いますが・・。



津軽塗の下駄や草履は珍しいものではありません。数千円から数万円で買えるものですが、草履類をほとんど処分するのは忍びなかったので、食器類と同じく修理できないかと思いました。



もう一足のほうがまだ状態がいいようです。



本ブログで紹介したお櫃や碗類を修理してくれた弘前の漆器店に頼んでみることにしました。



この二足を東京に持ち帰り、これらの写真類を漆器店に送ったところ、食器専門で下駄は扱っていなかったのか「きれいには修理できない。」との返事でした。



「きれいに直らないのは致し方ないが、保存するだけでも・・・。」と頼み込んだら「やるだけやってみましょう。」という返事を頂きました。約二か月後に修理されてきたのが下記の写真です。



塗りの剥がれた部分は黒くし、金具類を新しくしたようですが、全体にだいぶきれいになっています。



塗りは津軽塗の中では上等の部類のもののようです。下駄や草履に通常ある塗とは違うようです。



塗を磨くだけでもきれいになるのが漆器のすごいところです。



このように直そうと思うのが蒐集する者の義務でしょう。この二足の修理代金は1万円也、さて二束(足)三文は津軽塗の下駄か、修理代金か・・??



さて本日紹介する作品は、25年ほど前に姉から譲り受けた作品です。こちらも母が旧蔵していた作品で、母が嫁に行く姉に渡した作品ですが、姉が小生にくれた作品です。

パリの少女 近岡善次郎画
本人裏書 タトウ+黄袋
油彩10~12号 額装 画サイズ:縦*横(未測定)



当方の家にあった作品でおそらく祖父が購入した作品でしょう。祖父から父に、父が亡くなり母に、母から姉に、姉から小生に・・・・。



近岡善次郎が39歳頃(1957年 昭和32年)にパリで描いた作品と思われます。



隣県の山形出身の画家です。



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近岡善次郎:大正3年、現在の新庄市大町に生まれる。

東京の川端画学校に学び、昭和16年に一水会賞を受賞、名実ともに日本の画壇の一線に躍進した。昭和38年には安井賞を受賞し、作品には国立近代美術館の買上げとなった。また、全国の西洋館の姿を描き残し、その後それらは近代洋風建築シリーズ切手のもととなった。

郷里においては、児童文化の向上と美術教育の振興を願い、昭和24年、最上学童展を創設。昭和52年には学童展キャラバン隊を結成し、交流活動などを通し地域住民の情操面を大いに高めた。郷土愛あふれる作品や地域文化振興に対する指導は、広く敬愛を受けている。この功績により、平成11年、新庄市名誉市民の称号を贈られる。平成19年、92歳で逝去。(1914~2007)

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郷里の画家福田豊四郎と懇意にしていたのは祖父母、父母、そして叔父と姉ですが、その福田豊四郎と川端龍子も浅からぬ縁のある画家です。その関係からか男の隠れ家には川端龍子の作品も遺されています。



おなじ東北出身の画家ということで購入したかもしれませんが、先人のセンスの良い絵の選び方に感服せざる得ません。



近岡善次郎の作品は他にも1点ありましたが、今は手元にありません。本日紹介する本作品は小生が好きな作品のひとつです。母が亡くなり、甥っ子たちに姉はあげなさいというのですが・・・。

友人からの預かりもの 色絵菊之図茶碗 八代道八造

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本日紹介する作品は亡くなった大切な友人からの預った作品です。友人が京都で陶工としての修業時代に八代道八から頂いた作品だそうですが、当方にて預かってもらいたいと言われて預かっている作品です。友人にとって思いで深い大切な作品をこのまま預かっていいものやら迷うところです。

色絵菊之図茶碗 八代道八造
共布・共箱
口径*高台径*高さ



京焼特有の色絵の作品です。



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高橋道八:京焼(清水焼)の窯元の一つで、陶芸家の名跡。江戸時代後期より作陶に携わり、特に茶道具、煎茶器の名品を輩出し続けてきた。初代 道八(元文5年(1740年)~文化元年4月26日(1804年6月4日))奥田頴川に師事して興し、現在の九代 道八(昭和48年(1973年)12月 - )まで続いている。特に二代道八(天明3年(1783年)~ 安政2年5月26日(1855年7月9日)二代は、1812年に仁和寺宮より法橋に叙せられ、「仁」の一字を、また醍醐三宝院宮より「阿弥」「土師」の号を許され、石山御庭焼・紀州偕楽園御庭焼・讃窯御用窯など各地の御庭焼きや御用窯に尽力し、高橋法橋土師 「仁阿弥」道八と称し、名工として名高い。




仁阿弥道八の作品には法螺貝の印がありますが、これは薩摩の島津公が道八を訪ねたときに、法螺貝の置物を下賜したことにちなんで作られた印。高橋道八という名では活動をしていなかった事はよく知られていますが、恐らく高橋道八の中でも一番に名を挙げた大人物だったと言われています。



その後の三代は、青花や白磁の制作に成功し名を挙げます。そして、青磁を始めとした雲鶴模様、三島手、刷毛目などの技法を用いて数々の名作を世に送り出します。

四代は、京都府勧業場の御用係で活躍をします。

その後の五代目なのですが、一時的に名を継ぐ結果となります。そして、六代目になってからは染付煎茶器で名声を獲得します。そして、七代目。こちらも活躍をします。さらに、その七代目の長男であった八代。伝統を守り続けるために、京都府訓練校にて轆轤成形を学び、さらには京都市工業試験場でも釉薬を学んでいます。八代目に師事をしたのが、二女であり、現在では九代目となっています。

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本ブログにはその他に高橋道八の作品らしきもの?が投稿されていますので、そちらの記事も参考にしてください。



高台内には彫銘があります。



作品の共箱の落款と印章、共布の印章と文献からの印章の比較です。

  

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八代道八:1938年、宝暦年間より続く京都の名門、高橋家に生まれる。市立 日吉ヶ丘高校 陶芸科卒。高校卒業後、京都府訓練校にてロクロ、成形を、京都市工業試験場にて釉薬を学ぶ。その後、父 七代道八のもとで修業を積み、1983年、八代道八を襲名。翌84年、京都高島屋にて、また86年には日本橋三越にて襲名記念個展を開催。京焼屈指の名工とうたわれた二代仁阿弥道八の雅趣あふれる仁清風、乾山風を受け継ぎながら、常に新しい感覚を追求。黒釉を主とした色絵、金彩画は特に評価が高い。京都 伝統工芸家協会 所属。
昭和13年~平成23年(1938年~2011年)

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*本作品は昭和63年(1988年)の作? 厳密には1983年に八代を襲名しているので昭和58年~昭和63年までの作と推定されます。

もうすぐ友人の一周忌です。大切な人を偲ぶのは切ないものですが、近々線香を上げに行こうかと思います。

氏素性の解らぬ作品 伝イズニク陶器 草花文花瓶

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我が家はいつも何かしらの実験場・・・、本日はアイスクリームに付いてきたドライアイスの実験。蝋燭に火をつけて消える実験までしたようです。小生は燃えるに必要な三要素を息子に説明・・・・???



さて本ブログで紹介した作品はガラクタが多いのですが、すでに2500点弱となりました。酸いも甘いも噛分ける考察が必要な骨董の世界でよくぞここまで続けてこられたのはよほど面の皮が厚いのだろうと思っています。作品の整理があと少しで整理が終わると思いながら、また探し出し続けているという始末、極力ガラクタは紹介しないようにしているのですが・・。

ところで当方のメインの蒐集に源内焼があり、源内焼から三彩の陶磁器に興味を持ち、さらには波斯陶器にまで波及して知ることが多くなります。今回は蒐集の主流ではない陶磁器ですが、「イズニク陶器」なる作品群について調べてみました。きっかけは下記のような氏素性の解らぬ作品を調べていることから始まりました。

氏素性の解らぬ作品 伝イズニク陶器 草花文花瓶
合箱
口径*胴径*底径*高さ(未測定)



本作品が「イズニク陶器」か否かはさておいて、「イズニク陶器」なるものについて調べてみましたので記述しています。まずは「イズニク」とは下記の都市の名前です。

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イズニク:トルコ、ブルサ県イズニク郡に属する都市。アナトリア半島北西部のイズニク湖西岸に位置する。1997年の統計で人口約18,600人の地方都市だが、古代の大都市ニカイアの後身であり、旧市街地区を取り囲む城壁をはじめ、古代ローマ時代以来の遺跡が数多く残っています。

イズニクの前身ニカイアは紀元前4世紀に建設されたヘレニズム都市で、マケドニア、ビチュニア、ローマ、ビザンツの手を経て1077年にトルコ人のセルジューク朝が奪取し、ルーム・セルジューク朝の最初の首都となりました。その後、1097年には第1回十字軍の協力を得たビザンツ帝国が奪還し、13世紀にはコンスタンティノポリスを第4回十字軍に奪われたビザンツ人の亡命政権であるニカイア帝国があります。

ニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還してビザンツ帝国を再興した後、ニカイアは再びその地方都市となりましたが、1331年にオスマン朝の第2代オルハンが占領、ムスリム(イスラム教徒)支配下の都市となっています。1333年にイズニク最初のモスクとして建設されたハジュ・オズベク・モスクは、オスマン帝国のもとで建設されたモスクの中でも現存最古と言われています。

トルコ人によってイズニクと呼ばれるようになったこの都市は、オスマン帝国時代の初期には実質上の首都である近隣のブルサなどと並び、帝国領内の重要な都市のひとつでした。第3代ムラト1世の宰相チャンダルル・カラ・ハリルの建設したイェシル・モスクや、現在博物館として使われているムラトの母ニルフェル・ハトゥンの救貧施設(イマーレト)など、オスマン帝国時代にイズニクに建設された建築物の主要なものは15世紀以前のものです。1453年にコンスタンティノポリス(イスタンブール)がオスマン帝国に征服されて以降は政治的な重要性は後退しましたが、アナトリア北西部の文化的センターとしての役割は持ちつづけ、多くのウラマー(知識人)や詩人がこの町から輩出されました。

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「イズニク陶器」の出現

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16世紀にムガル帝国では陶芸が衰退した一方で、オスマン帝国ではイズニク陶器(英語版)が出現しました。

イズニク陶器は胎土は珪土質ですが、焼成温度を下げ燃料を節約するために鉛が混合されています。また、これらの陶器は胎土と同じ組成のスリップで覆われています。これは初の珪土質のスリップといえるでしょう。

無色の釉の下に装飾が描かれ、1度だけで焼成されていました。初期には青が用いられ、それから青緑、緑、ピンク、灰、黒、紫、褐色なども現れるようになってきました。しかしながら、イズニクの陶器を有名にしたのは酸化鉄によって実現されたトマトのような赤です。

ペルシア人による自治を回復したサファヴィー朝では美術が再興し、シャーたちの求めにより中国の磁器の再現が再び試みられたが実を結びませんでした。この時代に特徴的な陶器として、イズニク陶器に様式的には類似した釉下彩陶器であるクバチ陶器があります。ダゲスタンのクバチ地方で多くが発見されたためにこの名がありますが、生産はタブリーズ周辺で行われていたと見られています。

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本作品がイズニク陶器の初期の青によるものかどうかは明らかに疑問です。




近代における模倣品としてとらえるべきかもしれません。



今少し「イズニク陶器」について調べてみました。

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イズニク陶器:オスマン帝国時代のイズニクが歴史にもっとも名を残した点は、イズニク陶器の生産地としてことでしょう。イズニクの陶器は胎土の表面に白土の化粧土を施し、下絵を着彩したうえに透明の釉薬を塗り焼成したもので、14世紀頃から作られるようになりました。

模様はこの頃モンゴル帝国を通じて西アジアに盛んに輸入されるようになった中国の染付の影響を受け、最初は白地の美しさを生かしたコバルトブルーで描かれるのが主流でした。



15世紀以降はターコイズブルーや緑、紫、赤などの多色着彩を行うようになって、模倣を越えた独自の発展を遂げています。

参考作品
イズニク陶器の水差
16世紀 ルーヴル美術館収蔵



イズニク陶器は16世紀に最盛期を迎え、様式化された独特の植物模様や花の模様が描かれてイスタンブールを中心とするオスマン帝国宮廷社会でもてはやされました。トプカプ宮殿をはじめ、この時代にイスタンブールで建設された宮廷やモスクは壁面をイズニク製のタイルで美しく飾られ、都市の景観に彩りを与えています。

  

発展したイズニク陶器も、続く17世紀には急激に品質の低下をきたし、衰亡していきます。その原因は、16世紀には宮廷の注文で高品質の製品をつくり、タイルも首都のモスクやトプカプ宮殿の内装などに用いられていたのですが、17世紀には制作者が宮廷への納入だけで生活を成り立たせることが困難になり、ひろく市民一般の注文に応る製品をつくるうちに、品質の低下が進んだとういことがあげられます。

そしてイズニクよりもその近郊にあるキュタヒヤが、原材料の入手などの面で大量の製品をさばくのに有利となり、18世紀にはすっかりそこへ生産の中心地が移りました。しかし、キュタヒヤの製陶業も、19世紀には陶器やタイルの需要が減ると同時に、食器や建物の内装にもヨーロッパのスタイルが流入し、さらには安価な工業製品に押されて、消え入ることになります。

近代では最盛期のイズニク製品はいまやきわめて貴重であり、現代の技術をもってしても二度と再現できない高品質の作品にあこがれが向けられています。イズニク陶器は19世紀以来ヨーロッパでブームとなり、現地で製品を買い付けたり、建物から剥がしたタイルが輸入されて、欧米に大きなコレクションができました。ヨーロッパでも模倣品がたくさん作られたし、オリエンタリズムの風潮とともに、東方のエキゾチックなデザインが、ヨーロッパのさまざまな芸術運動に影響を及ぼしました。 20世紀後半にはトルコ全体の人口増加にともない人口が漸増し、地元出身の若い陶芸家によって新しいイズニク陶器を作り出してゆこうとする運動も試みられ始めています。

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本作品が近代に作られた模倣品なのかもしれません。ただ明末のように中国陶磁器のように虫喰いがあること、元の中国陶磁器のような染付の影響が見られるのは面白いですね。

またバーナード・リーチやさらには浜田庄司と関連するスリップウエアとの関連も面白いですね。

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スリップウェア:化粧土と泥漿(でいしょう)で装飾した陶器のことです。釉薬は基本的に鉛釉(えんゆう)を施します。
化粧土と泥漿:粘土を水で熔いたもので筆で描いたり、スポイトで絞り出せる状態のもの。ともにスリップといいます。スリップウェアのはじまりは古代メソポタミア文明まで遡るといわれています。古代中国・中東・欧米諸国など世界各国で焼かれた陶器ですが、中でも17世紀のイギリスで作られた作品が広く知られます。

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未知の陶磁器を調べて知識を吸収することは蒐集とはまた別の角度で作品を観ることができる第一歩でしょうね。伊万里なら伊万里ばかり、鍋島なら鍋島ばかり、古九谷なら古九谷ばかりからステップアップするのが必要なのでしょう。

ということを記述しながら本日はまたガラクタ作品の紹介になったようです。ガラクタを集める三要素とは・・??? ガラクタを集めない三要素は・・・・・?????

ujisujounowakaranusakuhin 伝黒唐津 瓢箪型花入

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三連休の初日は幼稚園の催し物への参加。



息子は昆虫に興味津々、クラスで飼っている虫の説明に一生懸命、これも遺伝らしい。



幼稚園で作ったゼリーの売店では売り子の役目。



園庭でアゲハチョウの幼虫を見つけたようです。我が家の庭の山椒の木にもたくさんいます。

さて本日紹介する作品は陶磁器を蒐集して間もない頃に購入した作品です。しばらく使っていなかったのでたまには使おうかと男の隠れ家から持ち出してきました。

氏素性の解らぬ作品 伝黒唐津 瓢箪型花入
時代箱入
径85*高さ125*底径65~66



本作品は黒唐津といわれるものらしい・・??



鉄釉が黒く発色したもので、鉄の含有量が少なければ褐色や飴色を呈しますが、この種の鉄分の多い唐津は藤の川内、飯洞甓下、飯洞甓上、道納屋谷、阿房谷、道園などの諸窯で焼かれ、黒唐津の鉄釉の上からさらに長石釉を掛けて白濁させた蛇蝎唐津は、猪ノ古場、祥古谷などで焼かれたとのこと。



黒唐津の残存数は少なく、壷、徳利が多いようですが、他に茶碗、皿があるようです。この花入れは本来、徳利として製作されたものでしょうね。変形し、釉薬も飛んだため失敗作として放置された可能性があり、おそらく発掘品を、上部の口部分を切断し花入れに見立てたのではないかと推察されます。

底は糸切底で茶味があり、花入の小品としては最適だろうと考えています。「達磨」とでも銘するのも一興かな?



黒唐津については下記の記述があります。

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黒唐津(くろがらつ):黒~茶褐色に発色した唐津焼の一種です。この黒色は鉄分を含んだ鉄釉(てつゆう)が用いられますがその色調はさまざまです。

その黒色は朝鮮唐津で使われる飴釉(あめゆう:褐色に発色する鉄釉の一種)の例が分かりやすいでしょう。黒色の中に茶褐色・黄褐色を呈する複雑な色彩があります。

一概に「黒」と言い切れない深い色調が黒唐津の特徴です。ただ組成上は釉薬の中に含まれる鉄分が10%前後であれば黒く発色します。これは鉄釉の成分の含有量で発色が基本的に違ってきます。仮に鉄の含有量が少なく1%~2%だったとします。これは酸化焼成で黄瀬戸のような淡い黄色(黄唐津)、還元焼成で緑~青磁色(青唐津)という分類にもなります。

逆に鉄分量が10%を超えれば柿釉や鉄砂(てっしゃ)のように赤褐色にも発色します。これらはみな鉄分量による発色の違いです。黒唐津は鉄分量が10%前後の黒系の発色で、黄褐色(黄唐津)・飴色・柿色を含むこともあります。しかし鉄分が少なく発色も異なる青唐津とは明確に区別している場合がほとんどです。鉄分の比較的多い作品は飴色から褐色、深い黒までと発色はさまざまですが、これらを総称して黒唐津と呼びます。

参考作品
黒唐津茶碗 八咫烏
高さ:7.6cm 口径:13.5cm 底径:5.6cm 



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梅花皮質な様子もみられる作品があり、均一の焼成されていない作品が古唐津では多々あります。近代の作品のように均一的な釉薬より偶然性の高い古唐津の作品のほうが格段の趣があります。それに比して近代から現代の黒唐津の作品はとるに足らない作品ばかりといっていいでしょう。



どこで趣のある作品と評されるの解らないところがあるのが陶器の世界です。



信楽と並べて寸暇を愉しみました。骨董と息子の幼稚園、似たようなもの・・・。さて成虫になったらどう化けるか


色紙短冊四季蒔絵手付盆 一対

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我が家では義父が入院中・・。見舞いやら何やらで義母、家内共々ないかと気ぜわしい。義父がやってくれていた仕事を四人で分担しなくてはいけません。息子はお風呂掃除の役目となります。5歳ですがなにかと手伝いをしてくれるのは助かります。



本日の作品は蒔絵が施された瀟洒な手付きの盆です。何に使われたものでしょうか?

色紙短冊四季蒔絵手付盆 一対
箱入
幅275・290*奥行180・195*高さ195・145



もともとは香盆を見立てて、盆として小皿やぐい飲みを入れる盆のように使ったのでしょうか?



莨盆というには華奢ですし、現代は煙草を吸う人も少なく、菓子器に使うのでしょうか?



ひとつでは足りないので対にして、さらに収納しやすいように大きさを変えて重ねられるようにしものかと・・。



柄の部分が打抜かれており、とても華奢ですね。



箱に収められています。



この器形の作品はよく見かけますが、ここまで蒔絵の出来がいいのは珍しいと思います。



おそらく明治の頃作でしょう。



ん~、明治から少し下るかもしれませんね。



骨董というのは生活道具が基本ですが、このような華奢で繊細な作品は使いづらい?



当方のように慣れてくるとそうでもなくなります。



漆器そのものの扱いは現代人はなじみが薄いかもしれません。



洗い場の水に器をつけておくというのは最悪です。



少し濡れた布で拭く? 乾いた布で拭くのが原則ですが・・。手の油も禁物ですよ。浴槽を洗うようなわけにはいきません。こういう作品の扱いも徐々に教えていこうかな? 父は早くに亡くなったので小生は掛け軸を始め、骨董の扱いを母から教わったものです。



蒔絵も盛り立てて描いては風情がありません。このくらいが菓子器にはちょうど良いのでしょう。



短冊を描き四季を表現しているようです。裏面に少し傷がありますが、状態はいいほうでしょう。



収納箱もきちんとしていることは必須ですね。ところで息子は小生の骨董品を自分の「おもちゃ」と同等にみているようで、息子に「おもちゃは片付けなさい!」というと「パパのおもちゃもね!」と最近言われます。なんでも鑑定団によると「おもちゃ」には箱が重要らしい・・・。



このような蒔絵が描ける蒔絵師はもう数少ないでしょう。明治の頃は蒔絵師になるためには日本画家に弟子入りして絵を学んだそうですが・・。

柴田コレクションより 古伊万里色絵皿 寿字唐草花繋文六角皿

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展示室に飾られている作品は基本的に収納箱のない作品が優先されています。順次、収納箱に収める価値があると判断した作品には収納箱を依頼して作ってもらっていますが、資金のある場合に限られますので、収納箱が用意できるまではしばらく時間がかかります。



収納箱がないと作品を整理するのにスペースをとることとなり、また作品がどこに収納されているか分からなくなるので、収納箱は陶磁器や掛け軸、漆器などの骨董品には必須です。やたら部屋に並べたり、積み上げたりしておくのは感心しませんね。

さて本日紹介する作品はずいぶん前に入手した古伊万里の作品です。原稿はもしかしたら以前に紹介しているかもしれませんので、その場合は「リメイク」の投稿となります。

古伊万里色絵皿 寿字唐草花繋文六角皿
合箱入
最大幅192*奥行128*高さ31 高台径101



この古伊万里色絵皿は、同一作品が柴田コレクションⅣに掲載(P68 No100)されています。

盛岡の古陶庵の御主人が九州で、柴田コレクションを整理して資金調達するために放出する際に落札した作品とのことでその品を当方で購入した作品です。信憑性はともかく柴田コレクションの本に掲載されているというよりもその作品そのものの可能性があります。

1700年~30年代の作。高台内の寿の字が面白く、縁起の良い品である。上品に絵柄もまとまっており、佳品といえるでしょう。

柴田コレクションは著名ですのでご存知の方も多いでしょうが、あらためて下記の記事にて紹介します。

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柴田夫妻コレクション:柴田明彦(1940~2004)・祐子(1944~ )御夫妻から佐賀県立九州陶磁文化館に寄贈されたものです。

平成2年(1990)に2,476点、平成3年(1991)に299点が寄贈され、平成5年(1993)には柴田夫妻コレクション展示室のオープンを記念して627点が寄贈されました。その後も平成15年まで、19回にわたって寄贈され、14年の間に合わせて10,311点の一大コレクションになりました。

平成18年(2006)には、有田の磁器を網羅的・体系的に収集した磁器のコレクションで、世界的に見ても類例が無く、学術的にも極めて貴重な資料として認められ、「有田磁器(柴田夫妻コレクション)」の名称で国の登録有形文化財(美術工芸品)に工芸部門の第1号として登録されました。このコレクションの特徴は、江戸時代の初めから幕末までの有田磁器の歴史的変遷がわかるように、様々な種類の作品がそろえられていることです。展示室ではいくつかのテーマを設け、有田磁器の各年代の様式の特徴、技術の変化などを紹介しています。



柴田明彦氏:昭和15年(1940)東京に生まれる。昭和38年(1963)慶応義塾大学を卒業し食品会社を経営。20代から有田焼にひかれ、江戸時代の有田焼の歴史的な変遷と、消費地の生活文化の歴史を照合しながら体系的に収集を行う。生産地有田の歴史文化の遺産として末永く保存されるよう、収集品を佐賀県立九州陶磁文化館と大英博物館に寄贈された。平成16年(2004)5月21日逝去(享年64)。



柴田祐子氏:昭和19年(1944)東京に生まれる。昭和42年(1967)清泉女子大学を卒業、同年柴田明彦氏と結婚。昭和48年(1973)より貿易会社経営。10代より古美術にひかれ、江戸時代を中心に有田焼の収集を明彦氏とともに続け、すべてを佐賀県立九州陶磁文化館へ寄贈された。

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手元には一作品も残さずに後世に伝えるべくすべて寄贈されてようです。会社経営者ですが、普段の生活は質素でありながら、蒐集には大いに投資したようです。蒐集家の手本となる蒐集家といえるのでしょう。

氏素性の解らぬ作品 呉州赤絵写五角鉢 伝奥田潁川作

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知識のない方には陶磁器というのはその多くは氏素性の解らぬ作品とされるのだろうけれども、ある程度の知識があると割合はどんどん低くなるものです。ただいくら知識と経験を積んでもどうにもその産地や時代が特定できない作品があり、そこに欲が絡むと妄想が生まれるものです。たとえば仁清、古九谷、そして潁川などどいうものではないかと思い込み始めるようなことです。本日はそのような作品の紹介です。

氏素性の解らぬ作品 呉州赤絵写五角鉢 伝奥田潁川作 
時代箱(菓子鉢 唐絵鉢)入 
全体サイズ:幅155*155*高さ70



本作品は仙台の東照宮の骨董市にて入手したものです。売っていた骨董店のご主人はかなりの年配の方でしたが、箱書きには「唐赤絵」となっており、当時はこのような赤絵の作品は唐物として扱っていたので「唐絵鉢」という箱書きがあっても不思議ではありません。思いのほか、廉価で購入できた。3万円ほどであったと思う。



このような五角形の鉢は中国において生産された例はなくはないのだろうが、今までに見たことはない。もちろん日本からの特注であった可能性は捨てきれないのだが、日本で作られた可能性を探ると奥田潁川にたどり着くことになる。



頴川の作と推定するためには、明の呉州赤絵の写しとは思えないほどの萎縮したところが全く無く、むしろ本歌を圧倒する豪快な雰囲気があることが必要です。また奥田潁川特有の麒麟のような獣の絵付け、そして本作品の見込み中央に描かれている幼獣の化身ののような図柄が特徴です。



頴川には魚、兎、鳥、変形した龍、鳳凰をスピード溢れるタッチで描く才があります。末呉須赤絵の作品を忠実に再現しており、土などは中国から取り寄せていたそうです。作品の底には砂が着いていることが多く、なすりつけられたようなドロドロした釉薬の特徴があり、やや青灰色を帯びた白磁釉はドロリと厚めに掛けられ、たまりが見られ、また一部掛け外しが見られます。さらに一部ではカイラギになっていることもあります。当然のように口縁には虫喰があります。



頴川特有の筆の走りはあたかもその人だけのサインのように他人には真似ができないものです。頴川は作品には殆ど銘を入れず、よほどの力作でないかぎり落款はありません。なお箱書は皆無です。

*奥田潁川の銘は「潁」の字に特徴があり、つくりの上部「ヒ」の部分が「止」になっています。

ただし、その特徴を掴んだ贋作が数多く存在しています。村田寿九郎や頴川の門人の楽只亭嘉助らがうまく再現していますが、完全には摸作できていないとのことです。奥田潁川の作品には火入れの作品が多くはあったようですが、現在の市場ではほとんど見かけなくなりました。



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奥田頴川:宝暦3年生まれ~文化8年に没しています(1753年~1811年)。本名を頴川庸徳といい,通称茂右衛門。

縁あって質商奥田家を継承。ちなみに頴川は自分の旧姓です。祖先は頴川郡(現中華人民共和国河南省)の出身。京都で代々質屋を営んだ家柄です。頴川は三十代まで家業を営みましたがその後作陶を志し,建仁寺内に開窯しています。

研究の末、青華白磁(天啓染付)呉須赤絵、交趾焼等の焼成に成功します。京都に於いて不可能だった磁器を開発しました。その作行きは中国民窯の自由奔放、豪放磊落さを写しだし完成の域にしています。門下や影響を与えた陶工は、木米、仁阿弥、周平、欽古堂亀祐、三文字屋嘉介らと多岐にわたります。当時の煎茶趣味に合致するところから大いに作品が受け入れられました。

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多くの陶磁器の蒐集家が潁川や木米、仁清の作品を所蔵していると自慢しますが、その多くは的外れなものが多いようです。



本作品もそのような可能性が大いにありますが、冒頭に述べたように「欲が絡むと妄想が生まれるものです。」です。ただ蒐集家はその妄想を大いに愉しむことも必要なようです。

五彩手(伝南京赤絵) 鶴雲文平茶碗

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明末の中国の民窯の作品は実に多彩で、呉須赤絵の作品群には「赤絵」、「青絵」、「染付」、「餅花手」、「五彩」、「天啓赤絵」、「南京赤絵」、「古染付」らが存在し、その特徴を理解していないと、混同することになります。ただ各々その移行期や誕生期があるので、一概にそれらに分類できないもののあるように思われます。本日はそのような作品の可能性の合う作品の紹介です。

まだ陶磁器の蒐集をして間もない頃に購入した作品で、当時は「天啓赤絵」という売り込みで購入したように記憶しています。これは明らかな誤りでしょう。「天啓赤絵」は製作期間が短く貴重で高価なためそのような売り込み方をしたと思われます。

五彩手(伝南京赤絵) 鶴雲文平茶碗
高台内「福」銘 古箱入
口径185*高台径70*高さ54



いったん高温で焼きあげた白磁や染付に上絵具で絵付けし、再び錦窯(きんがま)とよばれる小型の窯に入れて 焼きつける技法を、中国では五彩といいます。



本ブログでいくつかの作品を取り上げているように、中国の景徳鎮窯などの民窯では、明末清初の時期に天啓赤絵、色絵祥瑞、南京赤絵といった多種多彩な五彩磁器が焼かれ、さかんに輸出されました。民窯は官窯とともに当初より存在し、官窯に対しての技術的遅れを自由な発想で補っていました。



初期の段階に民窯五彩についてはまだ分かっていない部分が多く、民窯がその活動の範囲を広げた嘉靖期の研究が現在までに進んでいます。その多くが味わいある趣で茶道の世界と合致していたために、日本では大変持てはやされ、多くの遺品が伝わっています。



*五彩手:中国,明・清代に盛んに焼かれた磁器で、白地に、藍・緑・黄・紫・赤などの絵の具をフルに活用して絵付けをする技法です。器の中央に、作品のモチーフを絵画的・写実的に描くことが特徴です。日本では、色絵・赤絵などともよばれます。

本作品は高台が砂付高台とするにはきれいで、高台内の鉋の跡がなく、口縁には虫喰いが少ないなどの特徴があります。これは平茶碗として日本から特注された作品によるもので丁寧に作られいるためと推測されます。



本作品を五彩手に分類するのはやぶさかではなく、さらに南京赤絵として分類すべきかどうかは迷うところです。また本作品は皿などの多い五彩手の作品群なのですが、本作品は皿と言うより鉢、平茶碗に使える器形であり、さらに吉祥文のあるとても使い勝手のよい珍しい作品です。


分類に迷う作品 呉州赤絵(写?) 龍二兎花鳥図輪花尺大皿 古犬山焼?(天保年間)

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先週の金曜日は大阪まで先週に続き日帰りの出張です。先週から新大阪で新幹線に乗る前に気になったのが、行列がで買っているチーズケーキ・・。少し時間に余裕があったのでお土産に買って帰りました。息子は幼稚園で初めてのお泊りなので、帰宅した土曜日の夜に食べました。温めて食べると美味しいようです。



さて本日の作品の紹介ですがリメイクの作品となります。

明末の漳州窯のおける大皿の作品は、呉須染付・呉須赤絵(青絵)・餅花手と大きく3つに分かれます。これらの作品群は作品個々には傷の有無がありますが、本ブログでほぼ全容の作品らが随時投稿され、ほぞその違いが解りつつあります。



たまに展示室に展示して、ときおり資料を調べたりしています。



明末呉須赤絵の作品を蒐集し始めた頃にはまだ知識は今ほどなく、いろんな誤った作品を入手したこともありました。明らかにおかしな作品?はすべて処分したのですが、まだ迷うところのある作品は手元に遺しています。本日はそのような作品からそのひとつを紹介します。

分類に迷う作品 呉州赤絵(写?) 龍二兎花鳥図輪花尺大皿 古犬山焼?(天保年間)
口径303*高台径*高さ52
誂箱



絵付けは勢いもあり洒脱で明末赤絵の傑作にも劣らないものです。



鶴? 見込み描かれた絵は見事です。



ひょうきんな表情いいですね。



太鼓石?



芙蓉? 向日葵? 牡丹?



口縁は龍?



兎でしょうね。絵付けは満足のいく作品です。



惜しむらくは大きく割れた補修跡があります。貫入が多くあり、焼が甘いようです。輪花型の作品が漳州窯に果たしてあるのだろうか?



明末呉須赤絵か? 日本の犬山で焼かれた写しか? 隣花型の作品は中国には数多くありますが、 漳州窯の皿には珍しい?



漳州窯の作品に分類するのは幾つかの疑問があるようです。判断が難しい時は評価の低いほうを採用すべき・・・??



最終判断は後世に任せましょう。

赤絵の作品では迷うものはいつかありますね。



下記の写真、これは犬山焼の茶碗。



基本的に例外を除いて日本製はきれい・・。日本の赤絵の作品は味わいがないのでよほどのことがないかぎり当方の蒐集対象とはなりえませんが、ときおり迷うものが作例としてあるのは事実です。



綺麗美な赤絵は味気の無い美人に同じく三日で飽きる、奥田潁川を除き、赤絵は漳州窯に始まり漳州窯で終わる??? 



当方はいつになっても迷路に迷い込んでばかりです。なにやら作品がチーズケーキに見えてきたので、温めてみたら新たな発見があるかもしれません

分類に迷う作品 明末呉州赤絵? 龍文手持皿

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日曜日には蒐集作品の整理で忙しい小生は自宅で、息子は公園に流しソーメンを家内と食べに行きました。小生の昼ご飯は畑で採れたトウモロコシが三本・・・。



さて本日紹介する作品は昨日に続き赤絵の作品です。

若い頃にぶらりと入店した骨董店、目についた手頃な値段の作品を購入するのが愉しみでした。いまはすっかりいい作品が店頭にはなくなり寂しい限りですね。それともこちらの目が肥えたか???

明末呉州赤絵? 龍文手持皿
箱入 
幅142*奥行142*高さ94



本作品は弘前の骨董店で購入したと記憶しています。手持ち部分に補修があり、お値段はたしか1万円であったと思います。龍の絵に勢いがあり、心惹かれるものがあり購入した作品です。



呉須赤絵・・・??? 豪放なつくり、青白色を帯びた釉薬、自然な虫喰い(明時代の官窯の統制がゆるくなると釉薬と胎土の収縮が合わない粗悪なものが出て、部分的に釉薬が剥がれた粗悪な作品でしたが、それが市場にでて日本ではそれを景色として茶人が好んだ)から、明の呉州赤絵と推定していますが、明末呉洲赤絵には手持ちのついた皿など見たことがないのでなんとも解りません。ただ日本からの注文品が多かった呉洲赤絵ですので、可能性がないことはないかもしれません。



欲を言えば頴川の作品、また京焼の赤絵、九谷焼、伊万里焼等も考えられます。いずれ、それほど高価な買い物ではなかった作品ですから、自由に使って楽しみたい器ですね。

骨董品は流しソーメンのようなもの、箸が空いたら目の前のソーメンを食べるように、資金があったら目の前の気に入った作品を買うもの・・・。ただ多少無理して買うほうがいい作品が揃うようですが 
でも資金があるから必ずしもいい作品が揃うわけでもなく、一番大事なのは目利き・・・。

染み抜き&贋作考 爽涼 伊東深水筆

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たまには息子と洒落たところでツーショット。



爽涼 伝伊東深水筆
絹本着色額装 浜田台児鑑定シール タトウ+誂黄袋
全体サイズ:横830*縦735 画サイズ:横600*縦500



このような著名な画家の作品でまず疑うのは複製品。

不鮮明な写真ですが、下記の作品は大塚工藝社で工芸作品として出版している作品で同題、同図のものですが、僅かに団扇の文様、印章が違う作品です。本作品は専門家にみてもらったら肉筆に相違なく、その「爽涼」の原画か、これをもとに注文された作品か、はたまた模写された作品かということになるでしょう。

画面寸法:51×59cm 
工芸品の作品もそれなりのお値段です。(価格:軸 350,000円  額 350,000円)



贋作にもついていることのある浜田台児の鑑定シールがあります。



浜田台児の鑑定シールはあまり信用しないほうがいいでしょう。



タトウ内には「覚書 伊藤(東)深水夏美人 東京松坂屋にてオプションで求む。金六百三拾万円にて 昭和57年十二月吉日」の書付があります。はたして??? どうも胡散臭い・・・・。



*師鏑木清方より生地深川の「深」を清方の清から偏の「 水」をとって 「深水」の号を与えられています。
*号は此君亭(比君汀)。『此君』とは「竹」のことで、「此君亭」は文字通り竹林を控え緑に囲まれた閑静なところという意味です。



本作品に押印されている印章は当方の所蔵の他の作品に押印されいるものがあり、比較すると下記のようになります。

  

正直なところ真贋はどうにもわかりません。



全体にシミがあり、染み抜きは可能なようです。



見た目には肉筆のようですが、手彩色の工芸品として認識するのがよさそうです。



飾って愉しむには問題ありませんが、はてさていかにすべきか。



染み抜きにいくらかかるか・・・。



背景にシミが発生しており、絵の具部分にはシミがほどんどない状態ですので処置はしやすいかもしれません。



*この原稿作成後に染み抜きを依頼しました。それほど高価ではないようです。



**掛け軸もそうですが、染み抜き後に改装も必要になります。



***染み抜きが一万円強、改装がその倍で三万円程度が目安ですが、表具師によっては数十万という方がいますので要注意です。



****特に大家の画家というと値段を高く言う表具師さんが多いので注意してください。



*****むろん一流の表具師は値段も一流です。



******思文閣さんに上村松園の作品を染みが心配なので相談したら、掛け軸を額装にするとよいと40万円の値段を言われたことがあります。



*******それが高いか安いかはその作品次第という考えがありますね。さて本作品の染み抜きが高いか安いかは出来上がり次第・・・・

美人画の生命線の顔にシミがないのは救いです。たまには洒落た作品を背景にして息子か家内とツーショットしたいものです。



氏素性の解らぬ作品 伝交趾焼 OR 源内焼 三彩霊獣文水注

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先週NHKのテレビを観ていたら、クラゲを中心に展示している水族館が人気があり、そのクラゲを中心とした水族館になるまでの館長の苦労話を興味深く拝聴しました。成功するには人の真似ではだめ、自分がやりたい、見せたいと思うものではなくてならない、意外に身近にヒントがあるものということでした。思わず「なるほど!」と思いましたが、小生の本ブログは「自分がやりたい!」だけは共通しています・・??

さて当方の陶磁器の蒐集対象のメインである源内焼について絶対に外せない研究対象に「交趾焼」があります。京焼や近代の作家作の「交趾焼」もどきは星の数ほどありますが、本来の「交趾焼」は滅多に入手できません。本日紹介する作品は「交趾焼」であることを願いながらの投稿する作品です。以前は同様の作品を源内焼に分類して投稿しましたが、実はどちらなのか迷っています。

氏素性の解らぬ作品 伝交趾焼 OR 源内焼 三彩霊獣文水注
合箱
幅144*奥行*高さ135



江戸時代に中国から交趾焼が頻繁に日本に輸入され大いに中国は外貨を稼いだそうです。貿易の不均衡を憂いた平賀源内がそれに代わる陶器として「源内焼」を興したと言われています。



本ブログで多くの作品を取り上げている源内焼ですが、源内焼自身は交趾焼を目標にしていましたので、その特徴は共通する部分が多くあります。そのひとつが胎土そのものの性質です。



楽焼のような胎土で吸水性が高いので、作品は汚れやすくなっています。上記の写真は洗う前で下記の写真は汚れを落とした後の写真です。



汚れの落とす時には釉薬などを痛めないように気を使うことが肝要です。落とし方は源内焼のブログで説明したやり方と同じです。



なお本作品の胴の部分にある陽刻は「四神」とされる文様です。中国では青龍・朱雀・玄武・白虎らを四神とされています。四神(ししん)は、中国の神話、天の四方の方角を司る霊獣(天之四霊)です。



四獣(しじゅう)、四象(ししょう)ともいいいます。四象と四神・四獣は同義であり、実体のない概念である四象に実体を持たせたものが四神・四獣とされるそうです。



東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武。五行説に照らし合わせて中央に麒麟や黄竜を加え数を合わせた上で取り入れられています。



淮南子などによると、方角には四獣と共に季節神として五帝を補佐する五佐のうち四佐が割り当てられているとのことです。これらの四佐のほうを四神と呼ぶこともあります。また、瑞獣の四霊(応竜・麒麟・霊亀・鳳凰)を四神と呼ぶこともあるようです。



取っ手の部分や底は下記の写真のとおりです。汚れを落とす前の写真です。



とても華奢で水注ぎとしては使いにくいようですが、中国茶や煎茶を対象にして作られているのでしょう。



交趾焼についての概略は下記のとおりです。

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交趾焼(こうちやき):中国南部で生産された陶磁器の一種。名称はベトナムのコーチシナ(交趾支那)との貿易で交趾船によりもたらされたことに由来しています。

正倉院三彩などの低火度釉による三彩、法花と呼ばれる中国の元時代の焼き物、黄南京と呼ばれる中国の焼き物や清の時代の龍や鳳凰が描かれた焼き物も広い意味では交趾焼に分類されています。総じて黄、紫、緑、青、白、などの細かい貫入の入る釉薬のかかった焼き物の事をさします。

*中国,明末~清代に交趾地方で生産された陶器の総称でもあり。交趾は中国の南方の地域で,漢代には交趾郡がおかれたことが知られ,早くから開けていました。この地方の窯,すなわち広東省の諸窯,浙江省の宜興 (ぎこう) ,蜀山などの窯で交趾手のものが制作されたようで,青,黄,緑,紫などの釉 (うわぐすり) を用いて三彩釉に似たやわらかみのある色調が特徴です。胎土は暗色で三彩釉が施されています。茶人の間で香合が珍重されています。

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同じような陽刻の交趾焼の作品をネット上で探したら下記の作品があります。これらの作品は源内焼と同じように型に入れられて成型し、中央で合わされて作られています。



非常の脆い作品群なので、綿などを入れて保管箱に収納する必要があります。



箱内には下記のような書付が同封されていますが、詳細はよく解っていません。



当方の主たる蒐集作品群の源内焼から派生して、参考として入手している作品群にはこのような交趾焼や三彩の作品がありますが、いろいろと新たに理解することが多く飽きることがありません。



ちなみに上記写真は「源内焼」として本ブログにて紹介した作品です。こちらの作品は四神ではなく、裏表が同じで「東の青龍」、「西の白虎」のようです。



どちらの作品もよくできています。さてもとに焦点を戻しますが、このような作品は交趾焼? それとも源内焼? 迷うところです。正直なところ、どちらでもいい・・・・・ そう「自分がやりたい!」という蒐集だから・・

少女 その3 伊勢正義画 1960年頃

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日本が打ち出した輸出規制で紛糾している韓国、その騒動を契機に改めて「付き合う国」としていかがかなと感じざる得ないし、感情が先行して行動に出る人が多い国、それを政治的に利用する国として感じざる得ません。

相手国、とくに日本が嫌がることを政治的に煽情し、いわゆる「傍若無人のいじわる」を法と道義を盾に自分が正しいとする複数の行動に日本側が堪忍袋の緒が切れたというのが本音でしょう。文大統領が人権派の弁護士出身というのも災いしているようです。

日本人として毅然とした態度をとることが大切ですし、韓国を見てこうはなりたくないということを学ぶべきで、本ブログで再三記述しているようにこれを機会に中国とともに冷静に時間をかけて付き合い方を考えるべきだろうと思います。

さて本作品で所蔵作品が16作品目となり、伊勢正義の作品の紹介です。

少女 その3 伊勢正義画 1960年頃
油彩額装 右下サイン タトウ+黄袋 
画サイズF3号:縦430*横380 全体サイズ:縦273*横220
制作年代は不詳 1960年前後と推定



インターネットオークションより2019年7月に10万円ほどで落札した作品です。今では福田豊四郎、伊勢正義らの真作の作品は滅多にインターネットオークションには出品されません。



画風から1960年前後(伊勢正義50歳代)頃の作品と推察されますが、特定できていません。



*他の所蔵作品「少女像(仮題) その2」(制作年不詳)、「ゆき」(1951年 昭26年)、「編み物をする婦人」 1965年(昭和40年)作らを参考としました。



我が郷里の画家である伊勢正義ですが、作品では女性を描いた作品にいい作品があるようです。小品ながら本作品はその中でも佳作と言えるでしょう。洋画で女性を描いた作品で名を成した画家は多いのですが、画家の個性的な作風というより、女性の内面からの美しさを描いた画家として突出している趣がありますね。

学生時代に交際していた女性に似ているのが入手した大きな理由です・・・ 国対国と同じく、付き合う女性とも相性が合うかどうかじっくり冷静に考えることが大事ですね。

瀑布之図 山元春挙筆 その9

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先週末は息子と家内と下記のような催し物へ参加・・。



息子と家内は去年にウイークデイに訪れたようですから、息子は2回目の参加です。まずは高所作業車へ・・。



「安全帯よし!」と小生が指差喚呼!



通常は4.5メートルまでですが、「もうちょっと高くしてよ。」とオペレーターさんに頼み込み6.0メートルまで・・。



二人でピース!



さて本日は出来の良い作品の入手の難しい山元春挙の作品です。

瀑布之図 山元春挙筆
絹本水墨軸装 軸先練 共箱
全体サイズ:横700*縦2290 画サイズ:横510*縦1430



自然の雄大さを描かせたら、山元春挙の右に出る日本画家はいないでしょう。

 

山元春挙は掛け軸の特性を生かした構図で作品を描きます。



在来の日本画の構図である作品もありますが、その多くは実に雄大な作風で構図によって作品を生かしています。



このような作品の見方はいくつもの掛け軸の良い作品を観て解ってくることです。



落款と印章は下記のとおりです。

 

明治天皇もファンだったという山元春挙の作品、読者の皆さんも一幅いかがでしょうか?

やたら大きいものや高いところが好きな家族です??? 少しは涼しくなるでしょう

菊慈童 岡本大更筆 

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催しもの会場での職業体験の続きは鉄筋の組み立てや圧接。さらには鳶さんの指導により転がし・・・。



なんとラジエットを使っての単管クランプ締、小生が就職して初めに覚えたことです。



小生は慣れていますが、息子は初めてです。



さて本日は美人画で名高い画家、岡本大更が描いた「菊慈童」の作品の紹介です。



菊慈童 岡本大更筆 
絹本着色軸装 軸先骨 合箱 
全体サイズ:縦1980*横550 画サイズ:縦1290*横420

 

「菊慈童」についてはご存知の方も多いと思いますが、説明に記事を下記に投稿します。

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菊慈童:周の穆王の時代、慈童と言う少年がおりました。穆王の寵愛を受けていましたので、常に帝の傍らに侍っておりましたが、ある時、帝が居ない時、誤って帝の枕の上を越えてしまいました。群臣は議して、罪科は浅くないが、誤りから起こった事なので、死罪一等をゆるめて縣山(れっけんざん)への流刑と決まりました。

この縣山は、山深く、鳥も鳴かず、雲暗く、虎狼の住む所で、仮にもこの山へ入って生きて帰る人はないと言う所です。穆王は慈童を哀れみ普門品にある二句の偈「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を密かに慈童へ授け、毎朝に十方を一礼して、この文を唱えるように言いました。



慈童は、忘れないように側の菊の下葉に書きつけました。それよりこの菊の下葉の露が僅かに谷の水に滴り、天の霊薬となり、その味わいは天の甘露のようでした。



慈童はこれを飲み仙人となり、又、この谷の流れの末を飲んだ民、三百余家、皆病気が治り長寿を保ちました。



時代が移り、八百余年後、慈童はなお少年のように見えました。



魏の文帝の時、彭祖(ほうそ)と名を替え、この術を文帝に授けました。文帝はこれを受け菊花の盃を伝え、万年の寿をされたのが重陽の宴です。これより能「菊慈童」が作られました。能では七百年となっていますが、魏の文帝に仕える臣下が縣山でこの慈童に会い、帝に七百歳の寿命を授けられます。

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*菱田春草が描いた「菊慈童」は著名な作品です。
飯田市美術博物館蔵 明治33年(1900年)作 縦181.1cm、横110.7cm、絹本著色軸装



鈴木春信の浮世絵には下記の見立て絵があります。 
見立菊慈童



さて染み抜きして表具をきれいにしてあげようと思います。いつの時代も不老不死への願いは変わらぬようです。

そういえば冒頭の催し物形会場には表具師のコーナーもありました。年配の方ばかりでさすがに子供は皆無・・・・





贋作考 海辺 平福百穂筆

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さらに催し会場で息子が体験したのがタイル張りです。



パターン化した作り方が多いする子供らの中で息子は行き当たりばったりでどんどん張っていきます。さて、職人さんに目地詰めしてもらってその場でほぼ完成です。計画性がないのが幸いしたのか、これが「意外にいいじゃん」



さて画家の印章の種類というのは多いものです。一番多いのは竹内栖鳳で200種以上ですが、一般には画家一人につき20種くらいはあるものと覚悟しておく必要があり、そのすべてが整理されている書物はおそらく皆無です。

あるようで全くない・・・。有名画家ごとにはありますが、それでも一部不完全なものであったり、印章の大きさまで揃えてあるのはプロ以外にはまずないと思っていいでしょう。

贋作考 海辺 伝平福百穂筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:縦2230*横465 画サイズ:縦1340*横330

 

画の雰囲気は平福百穂そのもの・・。



贋作とい迷路は自ら嵌るもの、中途半端な作品を真作と判断すると同じような作行も真作とせざる得なくなるので慎重な判断が必要です。それより怖いのは真作を贋作と判断すること、これほど罪なことはない。



この作品の印章がまだ確認できておらず、共箱ですが一応は贋作と分類せざる得ない作品だと思っています。作行も弱い・・。落款はいい、一概に贋作として割り切れない点も多々あります。やはり中途半端ながら分類は真贋不詳か? 難しい・・・

こういう作品は基本的に入手しないほうが無難なのでしょうが、こういう作品を契機に新たに調べることも多くなるのも事実です。

  

平福百穂の稚拙な贋作は非常に解りやすいのですが、一応の画力のある贋作は難しくなります。息子のように行き当たりばったりの勝負が一番か・・・・

郷里の画家で平福父子の贋作にはそれほど難しくないものと極端に難しいものとありますが、それゆえに筋の良い作品に出会うとほっとすることがあります。

「鐘渓頌 朝菊の柵」 伝棟方志功画と河井寛次郎

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さて催し物会場ではロボット操作の体験もできました。



サッカーにバスケットのシュート!



簡単すぎて息子はつまらなそう・・、そうこういうのは逆に今の子供は慣れている。

さて棟方志功と陶芸家の河井寛次郎の関係は言わずと知れた民芸運動を契機として仲間です。その棟方志功の版画の戦後第一作「鐘渓頌」24柵は、京都の河井の窯「鐘渓」の名で河井をたたえて作った作品シリーズです。その「鐘渓頌」の「朝菊の柵」を本日紹介いたします。

鐘渓頌 朝菊の柵 伝棟方志功画
紙本淡彩色版画手彩色額装 伝棟方巴里爾鑑シール(第え二千参百六拾壱号) 
1955年(昭和30年)作 誂布タトウ+黄袋 
全体サイズ:縦623*横473 作品サイズ:縦470*横340



疎開先に棟方志功はふるさと青森ではなく、しがらみがなく自由に暮らせる北陸、福光町を選んでいます。棟方は創作活動のかたわら、近くの小学校に呼ばれて、楽しそうに特別授業を行っていたそうです。また、棟方を訪れる人はだれとなく画室に招き入れて、板画の彫り方や摺り方まで教えたという。立山や富山湾などの自然に包まれ、福光町の素朴な子どもたちや人びととのふれあいなど、棟方にとっては居心地の良い、幸福な毎日だったと思われます。



40代の最もあぶらののった時代を福光で過ごしています。福光に疎開してまもなく、民芸運動の仲間で棟方を導いた陶芸家、河井寛次郎に頼まれて、彼の新作展のために6枚の大作を描いています。河井はこの絵に最高の賛辞を贈っています。これに前後して、版画の戦後第一作「鐘渓頌」24柵を創作しました。「鐘渓」とは京都の河井の窯の名で河井をたたえて作った作品シリーズです。この地へ疎開した画家、歌人、文学者など、さまざまな芸術家との交遊の輪も広がり、地域文化の発展にも貢献しています。当時、近隣の町に疎開していたのは版画家織田一麿、歌人の吉井勇、水墨・俳画の下村為山、小説家の岩倉政治、書の大澤雅休、俳人の前田普羅らであり、多くの作家らと親密になった。二女の小泉ちよえは、当時を回想して「鯉雨画斎では水を得た魚のように、それまで以上に制作も進みました」(「青花堂」より)と記しています。福光では豊かな自然風土に囲まれて、自分の描きたい物を存分に描いた時期です。



贋作の多い棟方志功ですので、当方には真贋を見極めるだけの見識がないのであくまでも「伝」であることをご承知おきください。



上記のようなサイン、並びに下記のような鑑定シールまで贋作の疑いがあるようです。



このような版画の鑑定はとても難しいように思います。



ただ縁あって所蔵している作品ですので、河井寛次郎の作品と一緒に飾ってみました。



鉄薬丸紋壺 河井寛次郎作
共箱 
高さ255*胴幅190*奥行き130 高台径105



この河井寛次郎の作品はむろん真作で昭和13年の作です。当方にある浜田庄司、河井寛次郎らの民芸陶芸家の作品はほぼすべて真作です。



版画と違って、陶磁器はその雰囲気と釉薬などで意外に真贋は解りやすいものです。



浜田庄司や河井寛次郎の贋作はインターネットオークションに溢れかえっていますが、ほぼ画像を観ただけで真贋はほぼ判明できますね。



河井寛次郎の作行はやはり品格が違います。



絵の出来も違います。



また民芸としての力強さもあります。



河井寛次郎、浜田庄司、バーナードリーチ、金城次郎などの作品を理解していないと近代陶芸は語れないものと思います。



それらをまず手元に置くことから始めましょう。



河井寛次郎の作品は浜田庄司ほどではありませんが、いくつかの作品を所蔵していますし、普段使っている茶碗は河井寛次郎の初期の作品です。



棟方志功、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチ、金城次郎らの作品は民芸運動に限らず、近代工芸を語る上では切っても切り離せない作品群です。

氏素性の解らぬ作品 伝高麗青磁双耳花入 14世紀頃

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先週のなんでも鑑定団に渡辺秀詮の描いた虎の作品が出品されていました。



なんでも鑑定団での評価金額は驚きの120万円。コメントは下記のとおりです。

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コメント:江戸時代前期に中国から長崎に沈南蘋が来て、写実的な極彩色の絵を広める。沈南蘋から直接学んだ熊代熊斐という人の影響を受けたのが渡辺秀詮。残っている作品はだいたい虎図。当時は虎を見たことがないので、猫に原型を求めて描いている。猫のようにかわいらしいが、毛描きや肢体など虎の凄さは出ている。これほど迫力ある大幅の虎図は秀詮でもなかなか見かけない。上部に出る尾で絵に動きがある効果を出している。

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そのせいか当方のブログに投稿している渡辺秀詮の描いた「虎」の作品へのアクセス件数が急に増えるという現象がおきました。同日に出品された田中頼璋筆の描いた虎の作品もあり、当方の田中頼璋の作品へのアクセスも増えました。

本ブログで紹介された渡辺秀詮の描いた「虎」の作品は下記の作品です。

虎図 渡辺秀詮筆
紙本着色軸装 軸先木製
全体サイズ:縦1950*横717 画サイズ:縦1240*横581

「秀詮元瑜写」と落款が記されており、印章は白文朱方印「秀詮之印」朱文白方印「弌字元瑜」が押印され、遊印「?」も押印されています。なお「渡辺秀詮者長崎之人也就沈南蘋学画殊能虎鳥取藩画師楊谷之師也 □井書屋蔵」と巻止めに記されています。

*痛みがあったので2013年7月に改装してあります。



当方の作品はおそらくなんでも鑑定団で紹介された作品と大きさではひけをとりません。しかもなんでも鑑定団の作品は墨一色ですが本作品は着色されている点は評価が高いと思われます。墨一色の作品でさすがに120万円は高すぎると思います。マイナーな画家ですのでいつもどおり評価金額の10分の1が妥当な値段というのが当方の推察です。

下の写真は他の渡辺秀詮の作例です。やはり評価の高いのは少なくても着色された作品です。







さて本日紹介する作品は「伝高麗青磁双耳花入」の作品です。

氏素性の解らぬ作品 伝高麗青磁双耳花入 14世紀頃
合箱
口径約115*胴径165*高さ260*底径47



*本作品は黄色がかっており青磁としての発色が悪く、14世紀頃の作品と推察され量産化とともに作風や質の低下した頃の作と思われます。



高麗青磁に当方は詳しくないので資料を整理してみました。

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高麗青磁(こうらいせいじ):朝鮮半島の高麗時代(918年 - 1391年)に製作された青磁釉を施した陶磁器と、20世紀になり復活した高麗時代の製法による青磁釉を施した陶磁器。

中国・呉越(907年~)の餞州窯(現江西省、越州窯現浙江省とする説もある)の青磁の技術を導入して焼き始められたものであるが、その出現時期には諸説ある。最も早い説は10世紀前半(918年建国)、最も遅い説で11世紀後半である。 主な製作地は全羅南道の康津と全羅北道の扶安。宋の越州窯の青磁は中国で「秘色」と呼ばれたが、高麗では12世紀前半に粉青色の陶器が生産出来る様に成ると粉青色を「翡色」と呼んだ。

元明の時代になると量産品が朝鮮半島だけでなく中国へも輸出される様に成ったが、明朝では量産品を評して廉価ではあるが品質は雑窯の後(日用品を作る国内民間窯に見劣る)とした。その造形は、手の込んだ良品は宋の竜泉窯の物とよく似ていて色は粉青である、一般品は餞州府の物と似る。

品質上の全盛期は一般に12世紀と言われ、元明の時代に輸出された品は中国では評判が芳しくなかった、高麗の高級品と廉価品は共に南方より北方で好まれたようである。13世紀以降に評価が低くなったとする説が複数あり、モンゴル帝国の侵入による社会の混乱だと主張する者もいれば、大量生産による品質低下ではないかと主張する者もいる。14世紀で流行は止み、粉青沙器に交替した。

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創成期:中国に接する朝鮮半島では中国文化の影響を常に受け、強い文化的、技術的な影響を受けてきた。陶磁器の分野もその例外ではなく青磁もまた同様であり、中国餞州窯(伝世では越州窯だが造形は餞州窯の物に類似する)青磁の技術が伝来し生産が始められた。



高麗青磁の最盛期は朝鮮半島では12世紀とされ、10 - 11世紀はその前段階にあたる。高麗の焼き物には白磁や黒磁もあるが、主要な製品は青磁であった。青磁の胎土は焼成前は褐色を呈しており、これを素焼きすると灰色がかった色に変化する。これに鉄分を含んだ釉を掛けて還元炎焼成(窯内に酸素を十分に供給せずに焼く)すると青磁になり、釉薬中のチタニウム、マンガン等の微量元素の含有割合によって、緑に近い釉色から「雨過天晴」と称されるような澄んだ青色などさまざまな色に発色する。



朝鮮半島においては、三国時代から統一新羅時代の焼き物は素焼きの土器である(日本と同様韓国では無釉のものを「土器」と呼び、「陶器」とは呼ばない慣例)。統一新羅時代後期(9世紀)になると、墳墓から中国製の越州窯青磁や唐三彩の器が骨壺として出土する例があり、こうした中国陶磁の影響を受けて高麗においても青磁の焼造が始まった。その時期は9世紀とする説もあるが、一般には高麗王朝成立後の10世紀がその初源とされており、明州(寧波)から海路運ばれてきた餞州青磁(越州窯青磁とする主張もあるが越州窯の陶磁は薄手の作りであり高麗の青磁とは模様の流行も異っている、越州窯の評判に仮託したものだろう。



厚手の作りと花を多用する模様付けは景徳鎮など餞州窯の物に近い)と同じルートで技術が伝来し生産が始まったものである。 10世紀の窯跡は京畿道始興芳山洞(シフンパンサンドン)、黄海南道ペチョン郡ウォンサン里などで発掘されている。これらは塼(土を焼締めて板状にしたもの)で築いた塼築窯である。10世紀に属する遺品としては淳化3年(992年)銘の青磁長足祭器、淳化4年(993年)銘の壺(梨花女子大学博物館蔵)などがある。淳化4年銘壺の釉色は黄色がかっており、釉も流下して斑状になるなど、青磁の技術は発展途上であったことがうかがえる。 11世紀になると、高麗の国力の増大と中央集権体制の確立に伴い、青磁焼成の窯は全羅南道の康津(カンジン)に集中し、官窯的性格を強めていった。この時期の窯は、10世紀に用いられた塼築窯に代わって土築窯となっている。



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最盛期:12世紀は高麗が在った地域の人々の間では高麗青磁の最盛期だとされている。器形や作風に中国・宋で評判の高かった耀州窯、定窯、汝窯などの影響を受けつつ、量産品として日用品の青磁を生産した。また、高級品としては高麗特有の象嵌青磁を施された物が制作され、江南よりも華北で好まれた。器種としては瓶(へい)、梅瓶(メイピン、口が狭く肩の張った形態の瓶)、鉢、水注、香炉、水滴など様々あり、香炉や水滴には人物、動物、器物などの具象的形態を器形とした彫塑的なものもある。宋の徐兢は、1123年、宋の使節として高麗に滞在した時の見聞記『宣和奉使高麗図経』を著わしたが、その中で高麗青磁の釉色について青色の事を高麗人は翡色と呼び近年この色を出せるように成ったと記録している。当時の青磁は、官窯で王族や上流階級向けに製作され、大量に生産し流通する製品ではない一品制作であった。



1170年の武臣の乱を契機とする社会状況の変化とともに磁器の作風も変わり、それまでの単色磁に加えて象嵌青磁が盛んに作られるようになる。象嵌とは、元は金属工芸の用語で、素地土に文様の形を彫り、色違いの土を埋め込んで仕上げるものである。それまでの高麗の磁器は、無文のものも多く、透彫、陰刻などの加飾があっても基本的に単色のものであったが、12 - 13世紀には、土色の違いによって図柄を表す象嵌青磁が盛行し、青磁に銅呈色の赤色系統の文様が加わった銅画(日本語では「辰砂」という)も使用された。14世紀の青磁について、量産化とともに作風や質の低下を主張する者も居る、次の朝鮮王朝時代には粉青沙器がやきもの界の主流となった。



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いつものごとく氏素性の解らぬ作品と戯れています。



天気の良い時は骨董品をいじって部屋にこもるより庭に出ることにしています。



陶磁器は陽に当ててみるのが一番・・・。



どのような贋作であろうが、氏素性の解らぬ作品であろうが、太陽に下では輝いて見える



なかなかいいではありませんか?



庭には今のところ適当な生ける花がないので後日花を活けてみることにします。


呉州餅花手 その3 瑠璃地白花花卉文盤 その2

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今年は長雨の影響、鳥害の影響、義父の入院で思うに任せないブルーベリーの収穫となりました。それでも義母が朝早くから頑張って同僚らに少しですが配ることができました、



さて本日は呉州餅花手の作品の3作品目の紹介です。幸運にも数少ない呉州餅花手の作品において3作品目を入手できています。

明代から清朝にかけて中国の漳州窯で焼成された作品は大きく呉須赤絵(青絵)・呉須染付・餅花手の3種に分類されますが、その中では餅花手が圧倒的に数が少なく、インターネットオークションにも滅多に出品されませんし、骨董店でも見かけたことは未だにありません。もし見かけたら多少無理しても購入したほうがいいでしょう。無傷の作品はその中でもかなり少ないと思われます。



*上記写真左と中央は無傷の完品で発色も申し分のない作品。すでに本ブログで投稿されている作品です。本日は左側の作品の紹介となります。

本ブログでは今までに無傷の作品を2点紹介しましたが、本日紹介する作品は残念ながら口縁周りに補修跡のある作品です。これでも状態のいいほうかもしれません。傷のあるせいか購入金額は8万円なり、安いか高いかは小生にはよくわかりませんが、餅花手のいいつくりの作品は入手困難です。

呉州餅花手 その3 瑠璃地白花花卉文盤 その2
口縁に補修跡有 合箱(その1と同箱)
口径382~388*高台径190~193*高さ84~88



この手の作品について興味ある記事を見つけましたので紹介します。

北陸の小松の蔵から「呉州餅花手 瑠璃地白花花卉文盤」が発見される。(2009年11月)
「餅花手」と「古九谷」の関連性への考察



上記写真:餅花手の作品を見る北出不二雄さん(左)(北国新聞から)

下記の記事の内容は今までの「餅花手」で繰り返された内容もありますが、引用しておきます。

*なお作品の写真は本日紹介している作品です。

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江戸時代には多くの中国陶磁器が日本に輸入されたが、「餅花手」(もちはなて)に関しては現存するものが少ないといわれています。その作品の中でこれまでのところ数多くの美術品を所蔵していた加賀藩にかかわる「餅花手」には、「前田育徳会所蔵品」と、「金沢の広坂遺跡(武家屋敷跡)で、寛永8年(1631)、元禄3年(1690)、宝暦9年(1759)に起きた金沢城下の大火で焼け捨てられたとみられる陶磁器の中に含まれる餅花手の破片」が、また、「加賀藩や大聖寺藩の江戸藩邸があった東京本郷の東大構内遺跡の少ない中国陶磁器の中に餅花手の破片が見つかっている。」だけです。見つかった「餅花手」はとても貴重な作品といえるでしょう。



前田家が、高級で貴重な美術工芸品を将軍家、公卿、諸侯、寺社との交際のために、また、家臣及び領内寺社への下賜、寄進などに使わったことがわかっており、今回発見された作品が“下賜”された品ということは大いに有りうることであろうと推察されます。詳しくは寛永16年(1639)に小松に隠居した加賀藩第3代藩主 前田利常(1593-1658)によって、「餅花手」の大皿が旅館の主人に下賜された可能性があるということです。

*「餅花手」:中国・明時代末期の呉須手の一種であり、粗い胎土の上に白濁釉をかけ、さらに器全体へ瑠璃釉(藍地)あるいは茶褐釉(柿地)をかけて素地を覆い、その表面に白濁釉やコバルト顔料で絵付し、白泥で点を連ねて表現された文様が特徴で、その独特の文様が正月飾りの餅花のように見えることから日本で名付けられた呼称で、藍呉須とも呼ばれています。

*餅花:柳の細長い若枝に小さく丸めた餅や米粉のだんごを刺したもので、五穀豊穣や繁栄を祈願して小正月に神棚に飾り付けるもの。



日本には、16世紀から17世紀に中国・漳州で焼かれた「餅花手」が輸入されましたが、製品にするまで手間もかかり、高値な呉須も大量に使用され、独特の藍色の陶磁器であったことから、まだ伊万里が登場したばかりのころに茶人や支配層の武士に大いに所望されました。

前田利常が、当時海外よりもたらされる貴重な文物を収集するため、肥前鍋島藩の肥前平戸や長崎に家臣を常駐させ、陶磁器(中国、朝鮮の陶磁器のほか、東インド会社を通じオランダのデルフト陶器も含まれる)などを買い集めています。利常は、藩主にあったときと同様に小松に隠居した後も、貴重な美術工芸品を収集しましたが、単に収集のためだけに買い集めたのでなく、加賀の地に伝統工芸文化を終生希求したために収集を続け、同じく、美術工芸を中心に当時の名人・名工を数多く小松城に招いたと言われています。特に“やきもの”についても、越中瀬戸焼を保護し続け、また仁清を育てたとされる宗和流の金森宗和、小堀遠州などの茶人と交流をもつなど、茶陶を求める一方で、当時有名となっていた肥前鍋島藩の伊万里を知り、至高の美と高度な技術を形に表現する彩色磁器を求めたと考えられています。

「餅花手」盤の高台裏の写真では、高台を除く全面に白釉をかけ、さらにその上に瑠璃釉をかけていて、高台裏の釉薬のかかっていない素地が真っ白でないのを見ると、素地全体に釉をかけ絵付けして仕上げた、塗埋手の青手古九谷の作風を連想させます。明暦元年(1655)に、前田利常の隠居領に隣接する大聖寺藩で彩色磁器の至高の美を表現したとされる古九谷が、利常の探求心から肥前長崎で集められた「餅花手」の作風も手本にして焼かれたという可能性が十分にあるように推察されるでしょう。



呉須手には、呉須手赤絵・呉須手青絵・餅花手などの独特な作風があり、特に日本の茶席で重宝されたこともあり、必ずしも二級品の扱いとは言えず、むしろ後の日本の陶磁器に大きな影響を与えた陶磁器として評価されています。ちなみに特に赤絵は、京焼の奥田頴川、永楽和全、九谷焼の春日山焼等、日本の陶磁器に多大な影響を与えたとされています。

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古九谷と餅花手の作品の関連性を推察していますが、なかなか面白い記事だと思います。

数の少ない餅花手の大皿ですが、なんでも鑑定団には2回ほど出品されています。

主に所蔵している博物館は東京国立博物館などです。



他には京都国立博物館や九州国立博物館などにも同類の作品が所蔵されています。

文様については楼閣が描かれているなど各種の文様があります。釉薬については藍釉や褐釉以外に白釉薬をベースとした作品もあり、さらに同じ瑠璃釉や柿釉でも濃いものや薄いものなど色合いについても多様の作品があります。

下記の作品は東京国立博物館所蔵の柿釉薬の餅花手の作品です。



こちらの作品は京都国立博物館所蔵の瑠璃釉の餅花手の作品です。



類品が江戸の信州高遠藩四谷屋敷跡から出土しています。「餅花手」の初期の頃はその文様は餅花を描いたものが主流で、その後に雲龍や楼閣など文様が多様化したように推察されます。

*本日紹介している作品以外に後日、龍の文様の餅花手の貴重な作品を入手しましたので近日投稿する予定です。

下記の作品は九州国立博物館で所蔵している作品です。



やはり餅花の文様の作の出来が群を抜いているようです。他の文様や器形の違う作品はどうも性に合わない?? 



上記は無傷の完品。発色がいいものはさらに希少ですね。



上記は本日紹介した作品。



裏側のこってり感がなんともいい。



あらためて本日の作品の細部をご覧ください。



餅花手の白の勢いのある描き方が餅花手の真骨頂でしょう。



ひとつとして同じものがない・・・。



この傷が惜しいのですが、共色できちんと直っているよりいいかもしれません。



三作品揃うと壮観です。



明末呉須赤絵の作品の蒐集には欠かせない餅花手の作品です。



赤絵と共に根強いファンもいることでしょう。



餅花手もまた奥が深い・・・。

梅二鷹図 天龍道人筆 70歳頃

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今年の夏季休暇の帰省は義父が入院中につき取りやめとしました。今年から同級会が夏季休暇に合わせて開催することにしたのに参加できずにとても残念ですし、地元の骨董店巡りや線香をあげたい方々にもお会いできないのはとても残念ですが、いずれ月末には母の一周忌で帰省しますので、その時に少しでも・・・。

それと男の隠れ家の蔵の補修工事も完了しましたので、その確認しに行かなくてはなりません。

さて本日紹介する作品は、多くの作品を本ブログで紹介した天龍道人の作品ですが、70歳頃の作と推定される作品です。

天龍道人の作で70歳頃の作品は長崎派の影響が見られたり、「天龍道人」と名乗る前であったりと80歳頃の作品が数多くある中でまだ初期の作とされます。本作品はその頃の作の佳作と言える作品です。

梅二鷹図 天龍道人筆 70歳頃
絹本着色軸装 軸先細工骨 合箱
全体サイズ:縦1770*横460 画サイズ:縦925*横335



他の所蔵作品「牡丹ニ鷹図」と同一印章が押印され、同じく70歳頃に描いた作品と推察されます。



「鵞湖(諏訪湖のこと)隠士王瑾公瑜畫」と落款があり、白文朱方印「吊二山房」、朱文白方印「公瑜氏」の累印が押印され、右下には「□□鎮東□□□□」の遊印が押印されています。



天龍道人の着色された作品の佳作と言えるでしょう。なかなかこれだけの出来で天龍道人の着色された70歳頃の作品はそうそうあるものではありません。当方にも「鷹図」、「虎図」、「鯉の滝登り」などの数点があるのみです。  

本作品の落款と印章



*天地交換の処置が必要であろうと推測されます。



当初は葡萄を描いた作品を中心に買い漁っていましたが、ここ数年は出来の良い作品に蒐集対象を絞っています。

 

天龍道人、葡萄の作品だけが注目される作品ではありませんね。



長崎派の影響のある色彩画にも多くの佳作がありますが、数が少ないのでなかなか入手が難しい作品群です。



天龍道人の作品は初期の頃(70歳前後)の色彩画が一番評価が高いでしょう。次に葡萄図、鷹図、そして山水画に続くでしょう。



葡萄図の作品では屏風から剥がされた作品も多く、印章のみも珍しくない天龍道人の作品です。出来で評価する鑑識眼が必要です。



たまに贋作、また同名の作品があるくらいが要注意というところでしょう。



手頃なお値段で入手できるのが天龍道人の作品の気軽なところです。



本ブログをご覧の皆さんもおすすめの画家の一人です。



紅梅に降る雪、厳しい目をした鷹・・・、日本人の趣向が凝縮されているように思います。



近年とみに少なくなった床の間、失われていく日本の床の間の文化を大切にしたいものです。床の間に既成の工芸品の作品や模倣品を掛けるくらいなら一品ものの少し出来の良い作品と思うのは小生だけでないと思いたいこの頃です。






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