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関羽・劉備玄徳図 葛飾北一筆

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最近、年齢とともに同窓会や同級会、務め先に同期会、OB会に参加することが多いのですが、話題は主に孫や病気、そして趣味の内容になることが多いのですが、骨董蒐集の話は極力控えるようにしようと思っています。どうもガラクタ蒐集、贋作ばかりという方向になりがちで当方としては気が削がれる内容になるからです。

さて葛飾北一という葛飾北斎の門人である画家をご存知の方はかなりの日本画通と言えるでしょうが、まずほとんどの人が知らない画家の一人です。

本日は、美術館に数点の作品が所蔵されている以外は、ほとんどその作品は遺っていないという葛飾北一という画家の作品の紹介です。

関羽・劉備玄徳図 葛飾北一筆
紙本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1680*横455 画サイズ:縦920*横310




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葛飾北一(かつしか ほくいつ、生没年不詳):江戸時代の浮世絵師。葛飾北斎の門人。葛飾の画姓を称し紫光斎、形工斎、形工亭と号す。作画期は文化から文政の頃にかけてで、肉筆美人画の作を残している。葛飾応為との合作がある。
*葛飾応為:葛飾北斎の三女。応為は号(画号)で、名は栄(えい)と言い、お栄(おえい、阿栄、應栄とも)、栄女(えいじょ)。

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まず滅多に市場に葛飾北一の作品が出回りことはないでしょう。



インターネットに記事には「北斎の門人であったこと、工形斎とも呼したこと、作画時期が文化・文政期頃とされていること、および、肉筆美人画が1枚程度残っているぐらいで、ほかの事がまった分からない画家」という記述がありますが、下記の作品が知られています。

作品例
「美人図」   :紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵 
※「北一」の落款と朱筆の花押

「遊女立姿図」 :紙本着色 日本浮世絵博物館所蔵 
※「北一」の落款と朱文方印、「水島隠士」の画賛あり

「物思う美人図」:紙本着色 東京国立博物館所蔵 
※「形工亭北一」の落款と白文方印、石川悟堂の画賛あり

「雨乞小町図」 :絹本着色 熊本県立美術館所蔵 
※「紫光斎北一筆」の落款、白文方印あり

「読書美人図」 :紙本着色 摘水軒記念文化振興財団所蔵 
※「北一筆」の落款、朱文楕円印あり

「小松引美人図」: 絹本着色 大英博物館所蔵

本作品は美人画ではなく「関羽」と「劉備玄徳」を描いた作品です。



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劉 備:延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。 明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する。

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葛飾北一の作品で遺っているのは美人画ばかりで本日紹介するような人物画が初めてでしょう。



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関 羽:(かん う)? - 建安24年12月(220年1月))は、中国後漢末期の将軍。字は雲長(うんちょう)。元の字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。子は関平・関興。孫は関統・関彝。蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた。悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神とされた。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。



小説『三国志演義』では、「雲長、関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、『三国志演義』などでは「美髯公」などとも呼ばれる。

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真贋はともかく、稀有な出来の良い作品を掘り出すのは蒐集する者の務めです。本日紹介した作品は葛飾北一の珍しい作品に相違ないと思っていますが、今後機会あるごとに検証してみたいと思います。

このような内容の話題に理解を示してくれる人は周囲に少ないようです。どうせ贋作だろうとか、鑑識眼は難しいとか決めつけられるのは気が滅入るものです。




関羽図賛 伝渡邉崋山筆

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なかなか真作の作品が無い南画家には田能村竹田、高橋草坪、浦上玉堂、池大雅そして渡辺華山がいます。これらの画家の作品の真作を見出すのは至難の業でしょう。さてその渡辺華山に挑戦した本日の作品です。

本日紹介する作品は渡辺崋山が25歳頃に描いたとされる作品です。あくまでも「伝」でありますことを御容赦願います。

関羽図賛 伝渡邉崋山筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 山下青城鑑定書添付 合箱
全体サイズ:縦2210*横700 画サイズ:縦1240*横540



本作品は「丁丑(ひのとうし、ていちゅう)孟冬(初冬。また、陰暦10 月の異称)」とあり、1817年(文化14年)初冬の作と推定されます。渡辺崋山が25歳頃の作で壮年期の作とされています。賛に記された銘は「華山」と記されていますので一致します。この頃に渡辺崋山は谷文晁の師事し、画名を高めていた頃です。

  

*渡辺崋山の号ははじめ「華山」で、35歳ころに「崋山」と改めています。このことを知らない方は意外に多いようです。



描かれているのは「関羽」でしょう。



画中の賛の内容については下記の書付が三枚同封されています。







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関 羽:(かん う)? ~建安24年12月(220年1月))。中国後漢末期の将軍。字は雲長(うんちょう)。元の字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。子は関平・関興。孫は関統・関彝。

蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた。

ご存知のように曹操は孫権と策略により悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神とされた。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。

小説『三国志演義』では、「雲長、関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、『三国志演義』などでは「美髯公」などとも呼ばれる。

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中国偉人を描いた他の渡辺華山の作例と比較してみましょう。

「黄庭堅像 渡辺崋山筆」(1828年(文政11年)35歳の作)という作品です。



この作品は寺崎廣業が晩年この渡辺崋山の作品に倣って描いた作品を投稿した際に取り上げた作品です。

骨董蒐集はいろんな角度でいろんな画家の作品が繋がっていることがあるものです。ただこれは機会あるごとにいろんなことを調べあげて記録していないと解らないことです。

渡辺崋山の作品で傑作は所肖像画ですが、本作品は谷文晁の影響がありますが代表作の肖像画への作風の片鱗を見せる作例と言えるのでしょう。

鑑定書は昭和丙戌初冬:1946年(昭和21年)初冬に山下青城が書したものです。



*渡辺華石、山下青崖、山下青城らの鑑定した作品はかなりたくさん市場にあります。

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山下青城:1884年(明治17)静岡県浜名郡笠井町(現・浜松市笠井町)に生まれる。本名は桂、号は青城、起雲、楽山堂、芙蓉庵。南画家・山下青厓の長男。父青厓に南画を学んだのち、1910年(明治43)田崎草雲門下の小室翠雲に師事する。1912年(大正1)帝国絵画協会会員となる。日本美術協会会員。東海絵画会、また帝展に入選。青厓から渡辺崋山・椿椿山の画系を引く崋椿系の画風を受け継ぎ、花鳥画を得意として繊細な表現に優れた。1962年(昭和37)没す。

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本ブログに投稿されている山下青城による鑑定のある渡辺崋山の作品は下記の2作品があります。「国色天香之図」は真作と判断しています。

国色天香之図 渡辺華山筆 真作
紙本水墨着色緞子装軸 軸先本象牙 青城鑑定箱入二重箱(昭和26年)
全体サイズ:縦1460*横460 画サイズ:縦260*横344



活花図 渡邉崋山筆
紙本水墨着色 軸先陶器 青城鑑定箱(昭和17年)崋山堂鍳蔵
全体サイズ:縦1090*横240 画サイズ:縦230*横140



山下青城の鑑定箱で表には「崋山翁壮年筆」と記され、「崋山堂鑒題」の印が押印されています。

箱裏には「壬午(1942年 昭和17年)□日青城鑑題」(山下青城58歳の時の鑑定)と記され、朱文白方印「青城」(関羽図賛と同印章)が押印されています。



さて出回る作品のほとんどが贋作ばかりの渡辺崋山に作品ですが、当方では解る範囲から真作と判断しておりますが、さて最終的な真贋や如何・・・。



骨董蒐集はロマンばかり追いかけていると贋作の山を築くことになりますが、ロマンを追いかけないとモチベーションが上がらないのも事実でしょう。



大正の頃の入札会には下記の作品らが出品されています。



これらの作品は渡辺華石の鑑定によるものです。

*渡辺華石は渡辺崋山の子小華のもとで学び、その後をついだ画家です。



肖像画の名手である渡辺崋山ですが、そのもととなる壮年期の作品に相違なしや否や?



鑑定も信用ならないといって、贋作と決め込まずにしておくことです。本作品は真作の可能性は大いにあると思います。



じっくりと検証してみたい作品です。



なおなにやら巻止にも押印がありますがこちらは不明です。

水郷小趣 酒井三良筆

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酒井三良の作品の作品を数多く所蔵していた叔父の影響なのか、はたまた同じ東北の出身ということなのか、本日は自然と?小生の元に作品が集まってくる酒井三良の作品の紹介です。本ブログで紹介した酒井三良の作品は10作品を超えました。

水郷小趣 酒井三良筆
紙本水墨淡彩額装 三越シール 共板
全体サイズ:横635*縦545 画サイズ:横390*縦300 F6号



酒井三良は福島県に生まれ、名は三郎、別号に梧水といいます。1897年に生まれ、昭和44年(1969)に歿しています。享年は71才です。

  

福島県に生まれた酒井三良は、はじめは坂内青嵐に絵の手ほどきを受けることになりますが、自らの求める画風との違いを感じ、会津に住み込み独学で絵画を描き続けた。院展で活躍する酒井三良は、その出会いを小川芋銭としています。将来的に院展の同人となる重要人物として美術界に名を馳せます。作品の多くはのどかな田園風景を郷土愛に満ちあふれた美しいタッチで情緒的に描く、美しい作品が多数あることで有名となります。



さらに、その淡く白みを基調とした作品はどこか繊細であり、緻密な表現力で描かれる日本人の琴線に触れるような作風が多くあるのが特徴でしょう。院展の結びつきは第31回院展に出品する「寒江」「菱湖爽涼」を出品したことに始まります。その出品の年の7月には銀座松坂屋での酒井三良展を開催と、非常に画家としても精力的に活動を始めたキッカケともなっています。しかし、住居を様々な場所へ移し、決して豊かと言えない生活を妻と一人娘を引き連れて過ごす酒井三良は横山大観の勧めで太平洋側ののどかな場所で暮らします。戦後、生活も徐々に安定していく酒井三良は自然と親しんでいた経験を元に、日本の風景や四季を愛しその風景を中心に描くようになります。



私の好きな作品に酒井三良が描いた「かまくら」という作品があります。雪国暮らしの経験もある酒井三良が描く「かまくら」は優しい灯火の中、かまくらの中で仲睦まじく過ごす家族の姿が描かれる、心温まる作品であり、グレーを基調とし、まさに雪国の温度を感じるかのような、独特の描写が特徴的です。



かまくらの入り口に並べられた、家族の履物がどこか郷愁を誘い、家族の暖かさを思い出させ胸を熱くさせるような郷土愛に満ちあふれた作品となっているのです。苦しい日々をくぐり抜けながら作品を描き続け、文部大臣賞などの受賞することになります。



本日紹介するこの作品はもともと軸装であったのでしょう。共箱の蓋がタトウに組み込まれています。このようなことはもともと軸装であった作品を額装に変える時によく行います。



三越美術部のシールがありますので、銀座の三越で買い求めたもかもしれません。小生の叔父が酒井三良の作品が好きで10点近く所蔵していました。下記の作品は高島屋にて45万で購入した作品です。

江村小趣 酒井三良筆
古紙水墨淡彩軸装共箱軸先木製 高島屋 
全体サイズ:横752*縦1368 画サイズ:横602*縦468



叔父が所蔵していた作品も今は叔父が亡くなり、所蔵していた作品も散逸しています。今では人気も薄れていますが、酒井三良が好きな御仁はまだいるのかもしれませんね。
 


私の蒐集には叔父の影響がかなり色濃くあります。子息らによって酒井三良ら多くの作品を散逸した叔父の収集品を惜しむ気持ちからという面が多々あります。



叔父の蒐集した作品に近づけるように日々努力していきたいものです。



本日紹介した作品などの当方の蒐集した作品はまだまだ叔父の蒐集した作品には足元にも及びません。



郷里の叔父の屋敷で正月や五月の連休、夏季休暇にはいつも叔父と小生、そして時には家内や母を交えて骨董談義やお薄を頂てい話しが盛り上がっていた頃が懐かしいです。



酒井三良の雪景や田園風景を描いた作品には生まれ故郷の福島の風土への回想が基底にあるで、小生の故郷への思いと波長が合うようです。



戦後に住んだ茨城の海浜風景や水郷をテーマにした水墨作品のひとつでしょう。



福田豊四郎、奥村厚一、酒井三良、小川芋銭らは一貫して生まれ住んだ地や自然を独特の筆致で描いている画家です。



日本の自然を描き続けた画家の作品をちょっと部屋に飾ってみたいと思いませんか?



そうすることによって自分の国、日本という国をもっと自然に受け入れることができるように思います。



都会の喧騒に紛れる日常の心を郷里の景色の中に戻してくれることでしょう。

 

今では知る人も少なくなった日本画家、酒井三良ですが見直してもよい画家の一人でしょう。



なお本日紹介した作品は「酒井三良展 ふるさとを描きつづけた画家」(2001年8月4日~2001年9月2日)に出品されています。



この展覧会は喜多方市美術館、やないづ町立斎藤清美術館 三島町交流センターやまびこで開催され、作品集が発刊されています。この当時は軸装であったようです。



この展覧会に出品された酒井三良の作品では当方で所蔵している2作品目の入手作品の紹介となります。









群鯉図 黒田稲皐筆 その3

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「鯉」を題材にした作品を少しずつ蒐集していますのが、その過程で因幡画壇の「鯉」の作品も何点か蒐集しています。因幡画壇の作品はマイナー?ゆえ贋作は少なかろうとたかをくくっていたのですが、例にもれず因幡画壇の作品にも贋作が多くあるようです。そのような事情から鳥取の因幡画壇の鯉の作品を調べているうちにある程度の見識が身についたように思います。

本日紹介する作品は因幡画壇の鯉の作品の中でもかなり大きな作品となります。



なんでも鑑定団出品に「黒田稲皐」の掛軸が出品され(2014年1月21日放送)その作品は贋作と鑑定されていました。本日紹介する作品は当方では真作と判断していますが、まだ見識が甘い点もあろうかと、あくまでも「伝」としておりますのでご了解ください。



「稲皐の描く鯉の鱗はジグソーパズルをはめこんだような描き方をするのが特徴だが、依頼品の鱗は重なり合って描かれている。また鱗の一枚一枚を見ると、根本が黒く先端が白く描かれているが、その対比がはっきりしすぎている。本来の稲皐の鱗はもっと微妙な変化をしている。」との「なんでも鑑定団」における贋作に対する評で、その贋作の作品に対する評価金額は5万円であったと覚えています。

この評はある程度的を得ていますが、すべてにそうではないというのも解ってきました。なお本日の作品は水墨に金彩を絶妙に使っている佳作と言えます。



黒田稲皐は因幡画壇にて鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と呼ばれていたため、贋作も横行しているのでしょう。相変わらず掛け軸などの日本画は「マイナー?な画家」でも油断のならぬものです。



贋作が多いと知るとチャレンジ精神が湧くのが当方の悪い癖です。このたび「黒田稲皐」では「その3」となります。

群鯉図 伝黒田稲皐筆 その3
紙本水墨金彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2140*横1000 画サイズ:縦1600*横850



3点目の作品ですので「黒田稲皐」についてはなんどか説明していますが、あらためての説明は下記のとおりです。

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黒田稲皐:(くろだ とうこう、天明7年(1787年)~弘化3年11月6日(1846年12月23日))。江戸時代後期の絵師、鳥取藩士。本姓は林。名は文祥。通称は六之丞。字は叔奎か。号ははじめ稲葉、のち稲皐。鳥取藩士・林源三郎の弟として生まれています。



文化4年(1807年)から9年(1812年)の間に鳥取新田藩(東館藩)池田家の家臣・黒田家に養子に入りました。藩主池田仲雅の近習となり、しばしば江戸へ赴き公務を勤めたそうです。

幼少の頃から画を好み、藩絵師土方稲嶺(本ブログでも作品を投稿しています。)に写生画法を学びました。

稲嶺は病の床で稲皐を枕元に呼び寄せ、「我が門流中、相当の技量ある者のみ、画号に稲字を冠せしめよ」と語ったとされ(『鳥取藩史』)、師の信頼が厚かったのを見て取れます。また、弓馬、刀槍、水練などの武芸にも長じ、落款には「弓馬余興」の印をしばしば用いたそうです。



更に「因州臣」「因藩臣」と落款に入った作もあり、これらは、自分はあくまで武士であり絵は余興にすぎないという稲皐の矜持を表しているのでしょう。

当主仲雅の没後は役務を退いて画業に専念しました。家には鷹を飼い、池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生したとのことです。人物、花卉、禽獣いずれも巧みであったようですが、特に特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と呼ばれて高く評価されました。



弘化3年(1846年)11月6日死去、享年60歳。墓は鳥取市玄忠寺にあります。跡は甥の黒田稲観が継ぎ山水画を得意としていましたが、稲観は33歳で亡くなっています。他の弟子に小畑稲升(この画家の作品も本ブログに作品を投稿しています。)がおり、稲皐の墓前には稲升が寄進した水盤石が置かれています。

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「稲皐の描く鯉の鱗はジグソーパズルをはめこんだような描き方をするのが特徴であり、稲皐の鱗はも微妙な変化をしている。」という鑑定団の評ですが、晩年には鱗は簡略化されてすっきり描かれている作品もあり、どちらかというと鰓の描き方に注目して真贋を見極めるのがよさそうです。



鯉の鱗を微妙に変化させて描いているのは群鯉の作品でも何匹もの鯉のうち数匹です。



二匹だけ描いている作品には鱗を簡略化して描いている作品もあります。前述のようにとくに晩年の作はその傾向が強いようです。



「なんでも鑑定団」に出品された作品の鱗がどのような描き方のものであるかは画像が鮮明でなく詳しくは知りませんが、鱗の表現だけで真贋を見極めるのは早計なのかもしれません。



真贋は構図、鰓、鱗と総合的な判断が必要なのでしょう。



鯉の作品は円山応挙、内海吉堂、松永天章、そして近代では徳岡神泉、福田平八郎の画家らと著名な画家が多いですが、評価のポイントは作品の品格ですね。



鯉の日本画の作品はひと作品くらいはいいものが手元にあるといいでしょう。



本日紹介した作品は印旛画壇の鯉の作品を語る上でなくてはならない作品のように思えます。



改装したと思われ、作品の状態は抜群にいい状態です。



一匹一匹の鯉の表情がなんともユーモラスで観る側を飽きさせません。



一匹一匹に名前を付けたくなるような描写です。



贋作の多い因幡画壇の作品ですが、本作品は「伝」とはしていますが江戸期の名作と推察しています。



江戸期から幕末の画壇では鳥取には片山楊谷、土方稲嶺、黒田稲皐、小畑稲升らの画家がおり、この4名が注目すべき画家でしょう。



画題では「片山楊谷の虎」、「土方稲嶺、黒田稲皐、小畑稲升の鯉」の評価が高いようです。なかなか出来の良い作品は入手困難なようです・・・・

当方ではあまり詳しくない分野の画家の作品の紹介ですが、さて、本作品をご覧の読者の皆さんの感想や如何?


アルハンブラ宮の丘 伝杉本健吉画

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今年のお盆は義父が入院中のため、郷里に帰省するのは見合わせました。ただブログの投稿は盆休み中は休稿とさせていただきます。

本ブログでたびたび紹介している藤井達吉の作品から、同じように工芸デザイナーの杉本健吉の作品に触手を伸ばしていましたが、本日紹介する杉本健吉の油彩の作品を入手しましたので投稿します。

アルハンブラ宮の丘 伝杉本健吉画
油彩額装 右上サイン 誂タトウ+黄袋 
昭和46年(1971年)12月吉日 
日本経営新聞社本社ビル竣工に際し、株式会社産報、産報印刷株式会社より寄贈した作品
全体サイズ:縦620*横520 画サイズ:縦460*横380 F8号



杉本健吉は1962年、インド、中近東、南ヨーロッパに初めて海外旅行しており、以後、世界各地にスケッチ旅行を重ねています。



グラナダの風景



1971年の作だとすると杉本健吉が66歳頃の作となりますが、杉本健吉がいつどこにスケッチ旅行していたかはこちらに資料もなく不詳です。



作品の裏に記されていることから、昭和46年(1971年)12月吉日に「日本経営新聞社本社ビル竣工」に際し、「株式会社産報、産報印刷株式会社より寄贈」した作品らしいです。



杉本健吉の油絵などは無論のこと、単なる肉筆の作品すら滅多に市場に出回りません。版画や印刷、陶板画はよく見かけます。



本作品の真贋はむろん不明ですが、小生の判断では「よさそう」と推察しています。



一部絵の具に剥落があるのが難点ですが、ご愛敬かな?



小生の蒐集の範疇には油彩の作品はあまりありませんが、日本画から進展して油彩の作品を入手することはあります。



本作品もそういう経緯で入手したものですが、描かれているグラナダは小生も訪れており、懐かしくなり飾っています。



寄贈品が何らかの理由で放出されて市場に出てきた作品でしょう。



こういうことはよくあることのようです。



杉本健吉の肉筆の作品は多くが杉本健吉美術館に所蔵されているようです。油彩の作品は杉本健吉は売りに出すことがなかったのか、市場ではあまり見かけませんので数が少なく貴重なようですし、むろん評価も高いようです。

長らく展示室に飾って、林武や梅原龍三郎に劣らぬいい作品だと悦に浸っています。

さて、本ブログをご覧の皆さんの感想や如何?

弔意

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弔意によりしばらくな間、新規の投稿はお休みとさせていただきます。

白馬山花畑図 山元櫻月筆

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本日紹介する作品は小生にとっては思い出深い白馬岳の雪渓を描いた作品です。

白馬山花畑図 山元櫻月筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱(初号春汀銘)
全体サイズ:横537*縦2250 画サイズ:横418*横1335

 

白馬岳は正式には代馬岳ともいいます。故に「はくば」ではなく「しろうま」と呼ぶのが正しいと思います。田んぼにて馬が田植えの段取りに入る(田代)時期に、雪渓の雪が解けて「雪渓が馬の形になる」ので「代馬岳」となったのが、諸説ある中で信頼できるであろうが「しろうま」の語源のようです。



大学生の頃、登山を始めて間もない頃に、友人らと上高地から入って槍ヶ岳を縦走し、縦走後に針ノ木の雪渓を下山し、その日のうち友人らと別れて一人の友人と二人で白馬の雪渓を登ったことがあります。日本三大雪渓のうちの二つ(もうひとつは剣沢)を一日で踏破したのですが、その日に雪渓で間違ってホワイトガソリンを飲み具合が悪くなったのを覚えています。

*雪渓は下りはあっという間ですが登るのは意外に体力が要ります。



運の悪いことにその夜には台風が直撃・・。テントは飛ばされそうになり、一晩中テントを支えてたいのですが、明け方テント場にはテントを出てみると周囲には一張りのテントもなく、お金のない我ら二人以外はは全員山小屋に避難したそうな・・。



それでもめげることなく翌日には、日本海まで突っ走しり縦走したという元気な頃。花畑を愉しむ余裕などとんでもない!



本作品を描いたのは本ブログでお馴染みの山元春挙を叔父とする山元櫻月です。本ブログでも数度作品が投稿されています。

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山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生した。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙である。

治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられ、叔父である春挙は幼ない桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられる。

桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めていった。

その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から桜月に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断った。

桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭した。

桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられる。

桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈した。昭和60年(1985年)に死去した。享年97才。

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日本海に抜ける縦走路は今のように登山道は整備されておらず、悪戦苦闘。とくに夏は高度を下げるに従って猛暑を味わい、沢に降りると沢は蛇だらけ・・、またあわてて突っ走る羽目になるという散々な山行でした。



親知らずの海岸についてお腹の空いた我らは食堂で有り金をはたいてカレーやら親子丼やら注文したのですが、胃袋が小さくなっており食べきれず・・。

 

夏休みだったので郷里へは、お金もないので夜行や鈍行を乗り継いで一人で帰りました。「若いとはこういうことができるということ」と思い出します。ともかくお金がなかった頃でアルバイトはいろんなことをしましたが、すべて登山に使ったという親不孝者でです。

*手前は金城次郎作の大皿です。



学生時代はハイキング部に毛の生えたような6つの大学をまたいだALK(「WALK」,「TALK」,「あるく」をもじった?)という部に入部したのですが、もっと本格的な登山がしたくてワンゲル部の友人らと登山していました。

 

そのALKという集まりは50周年だそうです。私らが7期生ですから月日の経つのは早いものですし、また同好会のような集まりが50年も続いているのもたいしたものです。



合コンのような集まりでしたが、続いている要素として登山の魅力が大きいのだろうと思います。

「鐘渓頌 朝菊の柵」 伝棟方志功画と河井寛次郎

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さて催し物会場ではロボット操作の体験もできました。



サッカーにバスケットのシュート!



簡単すぎて息子はつまらなそう・・、そうこういうのは逆に今の子供は慣れている。

さて棟方志功と陶芸家の河井寛次郎の関係は言わずと知れた民芸運動を契機として仲間です。その棟方志功の版画の戦後第一作「鐘渓頌」24柵は、京都の河井の窯「鐘渓」の名で河井をたたえて作った作品シリーズです。その「鐘渓頌」の「朝菊の柵」を本日紹介いたします。

鐘渓頌 朝菊の柵 伝棟方志功画
紙本淡彩色版画手彩色額装 伝棟方巴里爾鑑シール(第え二千参百六拾壱号) 
1955年(昭和30年)作 誂布タトウ+黄袋 
全体サイズ:縦623*横473 作品サイズ:縦470*横340



疎開先に棟方志功はふるさと青森ではなく、しがらみがなく自由に暮らせる北陸、福光町を選んでいます。棟方は創作活動のかたわら、近くの小学校に呼ばれて、楽しそうに特別授業を行っていたそうです。また、棟方を訪れる人はだれとなく画室に招き入れて、板画の彫り方や摺り方まで教えたという。立山や富山湾などの自然に包まれ、福光町の素朴な子どもたちや人びととのふれあいなど、棟方にとっては居心地の良い、幸福な毎日だったと思われます。



40代の最もあぶらののった時代を福光で過ごしています。福光に疎開してまもなく、民芸運動の仲間で棟方を導いた陶芸家、河井寛次郎に頼まれて、彼の新作展のために6枚の大作を描いています。河井はこの絵に最高の賛辞を贈っています。これに前後して、版画の戦後第一作「鐘渓頌」24柵を創作しました。「鐘渓」とは京都の河井の窯の名で河井をたたえて作った作品シリーズです。この地へ疎開した画家、歌人、文学者など、さまざまな芸術家との交遊の輪も広がり、地域文化の発展にも貢献しています。当時、近隣の町に疎開していたのは版画家織田一麿、歌人の吉井勇、水墨・俳画の下村為山、小説家の岩倉政治、書の大澤雅休、俳人の前田普羅らであり、多くの作家らと親密になった。二女の小泉ちよえは、当時を回想して「鯉雨画斎では水を得た魚のように、それまで以上に制作も進みました」(「青花堂」より)と記しています。福光では豊かな自然風土に囲まれて、自分の描きたい物を存分に描いた時期です。



贋作の多い棟方志功ですので、当方には真贋を見極めるだけの見識がないのであくまでも「伝」であることをご承知おきください。



上記のようなサイン、並びに下記のような鑑定シールまで贋作の疑いがあるようです。



このような版画の鑑定はとても難しいように思います。



ただ縁あって所蔵している作品ですので、河井寛次郎の作品と一緒に飾ってみました。



鉄薬丸紋壺 河井寛次郎作
共箱 
高さ255*胴幅190*奥行き130 高台径105



この河井寛次郎の作品はむろん真作で昭和13年の作です。当方にある浜田庄司、河井寛次郎らの民芸陶芸家の作品はほぼすべて真作です。



版画と違って、陶磁器はその雰囲気と釉薬などで意外に真贋は解りやすいものです。



浜田庄司や河井寛次郎の贋作はインターネットオークションに溢れかえっていますが、ほぼ画像を観ただけで真贋はほぼ判明できますね。



河井寛次郎の作行はやはり品格が違います。



絵の出来も違います。



また民芸としての力強さもあります。



河井寛次郎、浜田庄司、バーナードリーチ、金城次郎などの作品を理解していないと近代陶芸は語れないものと思います。



それらをまず手元に置くことから始めましょう。



河井寛次郎の作品は浜田庄司ほどではありませんが、いくつかの作品を所蔵していますし、普段使っている茶碗は河井寛次郎の初期の作品です。



棟方志功、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチ、金城次郎らの作品は民芸運動に限らず、近代工芸を語る上では切っても切り離せない作品群です。

北国の漁村 葛西四雄画

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8月14日に義父が永眠しました。昨年の8月には亡くなった家内の母、友人、そして小生の母とここのところ身近の人がどんどん亡くなっており寂しい限りです。

父は一度自宅に手ゆっくりしてもらいました。床には木村武山の「聖観音 立像」の軸を掛けました。



さて今年のお盆休みには帰省できなかったので、本日は望郷の作品の紹介です。ここからは父の亡くなる前からの原稿となります。なにかと家内共々慌ただしくゆっくり原稿を仕上げている間もありませんので、粗雑な原稿あることはご容赦願いたいと思います。

我が郷里の近い出身地の画家である葛西四雄の作品の紹介です。最近でこそ少しは入手しやすくなりましたが、前は評価が高くなかなか入手しづらい画家でした。いつも高嶺の花と指をくわえて観ていた画家です。

北国の漁村 葛西四雄画
油彩額装 右下サイン 誂タトウ+黄袋
全体サイズ:縦550*横630 画サイズ:縦375*横450 F8号



葛西四雄は大正14(1925)年に小生と郷里が近い青森県南津軽郡に生まれています。県立青森師範学校を中退、昭和28年から同36年まで小学校助教諭をつとめ、この間、同32年奈良岡正夫につき、同年の第10回示現会展に初入選しています。



昭和37年第5回日展に「滞船」が初入選、翌年示現会会員となり、同44年から安井賞候補展へもしばしば出品しています。同46年改組第3回日展に「北の漁村」で特選を受け、翌年日展無鑑査。同53年、第10回日展に「北の浜」で再度特選となり、同60年には日展会員に推挙されました。



昭和57年新宿小田急で葛西四雄油絵展を行ったのをはじめ、翌年には奈良岡正夫らとの四人展を銀座松屋で開催、同展は以後6回続きました。示現会理事をつとめ、日本美術家連盟会員でもありました。



北国の海を題材に力強い写実の作風で知られ、特選受賞後の日展への出品作には他に、「北の海辺」(14回)、「岬」(16回)、「北の漁村」(17回)などがあります。



更なる活躍が期待されていましたが、'90年に64歳の若さで惜しまれつつ他界しています。



北国の漁村をモチーフに、暗い鈍色の海と白銀の雪、そして赤い屋根のある風景が特徴で、人気を博した画家です。



青森に仕事で赴任していた頃にぜひ欲しいと思っていた作品を描く画家のひとりでしたので、今回入手に踏み切りました。もうひとりの画家、向井潤吉もまたぜひ入手したい画家の一人です。

*向井潤吉の作品は本ブログで色紙に描かれた人物画を紹介しています。



念願の画家の作品を入手して展示室に飾って悦に入っています。

*今週末には母の一周忌のため帰郷の予定です。



さ~、次は向井潤吉・・・、望郷の画家らの作品、入手はいつになることやら、欲望は尽きない・・・・

潮来乃夕 川瀬巴水画

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最近の版画では近代の版画家の作品が話題を呼んでいるようです。

とくに小原古邨や川瀬巴水がその代表的な版画家ですが、以前は浮世絵版画が注目を集めていた頃には日本ではあまり注目されていなかった版画家です。今では人気が高まり、評価もそれにつれて上がり、ちょとやそっとでは手の届かない価格になりつつあります。

本日紹介する作品は川瀬巴水の焼け跡のある作品ですので、それほど無理のない値段で入手できた作品ですが、たしかに魅力のある版画を制作した画家と見直しています。

郷里の母が亡くなって遺品を整理している中で、父が使っていたと思われる旅行鞄は以前に本ブログで紹介しました。この旅行鞄の修理を依頼していたのですが、この度修理が出来上がってきました。



外部と内部はクリーニングされてきました。鞄を絞めた際の金具部分を通す皮の部分が修復されています。



内部の止めるための皮バンドが一部欠損していましたが、修復されてきました。全体に古さが失われように気を使わられています。



仕上がりると一層豪華になりました。修理先でも「一種の芸術品ですね。」とほめていただき、長らく修理に出していたのでお店の方が「なんだか寂しくなりますね。」と言われたのが印象的でした。皮の製品がよほど好きなのでしょう。



息子も興味津々ですが、「これからは君が大切にするんだよ。」と言ってもピンときていないようです。今はまだおもちゃのようです。そう、これも大切な骨董品です。

さて、本日は気まぐれで購入した川瀬巴水の版画の作品です。川瀬巴水、小原古邨ら最近、日曜美術館で取り上げられたこともあり、たいへんな人気です。本作品はやけ跡があり、廉価で入手できた作品です。

潮来乃夕 川瀬巴水画
紙本着色版画額装 焼け有 誂:布タトウ+黄袋
昭和5年5月作 画サイズ:横300*縦425



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川瀬巴水:(かわせ はすい)1883年(明治16年)5月18日 ~1957年(昭和32年)11月7日)。日本の大正・昭和期の浮世絵師、版画家。本名は川瀬 文治郎(かわせ ぶんじろう)。



衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく吉田博らとともに新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られています。近代風景版画の第一人者であり、日本各地を旅行し旅先で写生した絵を原画とした版画作品を数多く発表、日本的な美しい風景を叙情豊かに表現し「旅情詩人」「旅の版画家」「昭和の広重」などと呼ばれています。



アメリカの鑑定家ロバート・ミューラーの紹介によって欧米で広く知られ、国内よりもむしろ海外での評価が高く、浮世絵師の葛飾北斎・歌川広重等と並び称される程の人気があります。



1883年(明治16年)、東京府芝区(現港区)に糸組物(組紐)職人・庄兵衛の長男として生まれています。本名は文治郎。

10代から画家を志し14歳の時、川端玉章門下の青柳墨川に日本画を学んでいます。次いで荒木寛友にも学び、25歳で父親の家業を継ぐが画家になる夢を諦めきれず、妹夫婦に商売を任せ、25歳で日本画家・鏑木清方の門を叩きましたが、20代も半ばを過ぎた遅い始まりに難色を示され洋画家の道を進められました。その為当時、洋画家の集まりとして知られた白馬会葵橋洋画研究所に入り岡田三郎助から洋画を学びました。しかし洋画の世界では挫折を経験し27歳の時、一度は入門を断られた清方に再度入門を申し出て許されると2年の修行を経て1910年(明治43年)に「巴水」の画号を与えられました。



1918年(大正7年)、師の清方が得意とした美人画で行き詰まりを感じ始め、同門・伊東深水の版画「近江八景」に影響を受けて版画家に転向。当時浮世絵版画は衰退の一途を辿っていましたが、幼い頃によく滞在した栃木県塩原を描いた風景版画「塩原おかね路」、「塩原畑下り」を製作、数々の作品を新版画に力を入れていた渡辺版画店より発表し始めました。

これらを第一作として終生、夜、雪などといった詩情的な風景版画を貫いています。始めは伊東深水の影響が大きかったのですが、次第に歌川広重や小林清親の風景版画を研究していき、技法的な工夫も見られるようになります。

また全国各地に取材しており、作品の数量も多くあります。新版画家中、織田一磨による石版画の風景画に対抗するかのように、木版風景画で良く知られた存在です。



1920年(大正9年)、「旅みやげ第一集」完成。1921年(大正10年)、「東京十二題」、「旅みやげ第二集」完成。精力的に活動をしていた矢先1923年(大正12年)、関東大震災で被災、多くのスケッチを失い一時失意の底に沈んだそうです。

1926年(大正15年)、「日本風景選集」完成。1929年(昭和4年)、「旅みやげ第三集」完成。1930年(昭和5年)、「東京二十景」完成。同年、東京府荏原郡馬込町平張975番地(現大田区南馬込3丁目17番地)に洋館づくりの家を建てています。1936年(昭和11年)、「日本風景集東日本編」完成。



1939年(昭和14年)、朝鮮へ旅行、「朝鮮八景」完成。1944年(昭和19年)、栃木県塩原市に疎開。1948年(昭和23年)、東京都大田区内に引越しています。1952年(昭和27年)、「増上寺の雪」が無形文化財技術保存記録の作品に認定されました。これが代表作となっています。

1957年(昭和32年)、自宅において胃癌のため死去。享年74歳。墓所は世田谷区北烏山の万福寺。法名は釈明巴水信士。「旅情の版画家川瀬巴水を偲び」の碑があります。



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描かれたのは潮来(いたこ)の水郷。川瀬巴水は全国各地を取材し描いており、その作品量は膨大です。



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潮来:(いたこ)茨城県南東部,利根川下流域の水郷にある地域。 1889年町制。 1955年津知 ,延方 ,大生原 (おおうはら) の3村と合体。 2001年牛堀町と合体し,市制 (潮来市 ) 。

古代から鹿島,香取,国府 (石岡) へ通じる交通の要地。近世,水戸藩の飛地で,東北諸藩と江戸を結ぶ奥州航路と利根川,江戸川水運の中継港として栄えた。明治以後は水郷観光の中心として復活。アヤメ園,潮来十二橋めぐりなどが有名で,釣り,カモ猟なども盛ん。



第2次世界大戦後,内浪逆浦 (うちなさかうら) を干拓し,水田が開かれたが,住宅団地に変容した。行方 (なめかた) 台地上の稲荷山公園からは,水郷の景勝を一望できる。水郷筑波国定公園に属する。 JR鹿島線,国道 51号線が通り,東関東自動車道と結ばれる。

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作品は好みによりますが、その作品数の多さから蒐集する側には悩ましい版画家でしょう。



本来浮世絵版画は額に入れて飾ってはいけません。日に焼けるからですが・・。



骨董は本来消耗品と考えている小生はそこまでこだわる必要はないと、額を選んで額装にしました。

30年ほど前、小生が若かりし頃、骨董店の店先で浮世絵版画を買い漁って?いた頃、見向きもしなった版画の作品ですが、今になっては「買っておけばよかったかな。」と後悔しています。ただ、一般的には当時からそれほど廉価ではなかったようにも覚えています。

いずれにしても当方の主流ではない作品群ですので、雰囲気だけを愉しんでいます。

瀑布図 その2 平福穂庵筆 明治8年(1875年)頃

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隣国との対立については今回ばかりは日本政府のスタンスが正しい。冷静な判断のもと日本人は自信を持って毅然とすべきでしょう。マスコミや旧民主党などの政治家の愚かな言動には揺るがないことが必要です。明らかに隣国政府や国民意識レベルの愚かさからきている対立ですから、挑発には乗らないことです。時間がかかっても日本の毅然とした態度が対立を結果的になくすことになると思います。

さて子供らは夏休み・・・、近所の同じ幼稚園の子らが集まって庭先で花火をやりました。まだ義父が亡くなる前です。



本日の作品ですが、掛け軸において水墨のコントラストがはっきりとした作品の狙いは、当時の照明事情があるようにも思います。

さて暑い夏には花火と共に、掛け軸にはつきものの「瀑布」を描いた作品・・・、有名なのは円山応挙の作品ですが、むろん涼気を味わう目的で多くの画家が描いています。

瀑布図 その2 平福穂庵筆 明治8年(1875年)頃
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横655*縦1940 画サイズ:横524*縦1300
*分類第2期:職業画家をめざして(明治1年~10年)



思文閣墨蹟資料目録に掲載されている第427号 作品NO72「白梅文鳥図」(掲載省略)の印章と同一印章であり、白文朱二重方印「穂庵」、朱文白方印「平芸画印」が押印されています。



落款の「庵」の最後のハネが極端に上に上がっていることから「瀑布図 その1」と同時期の明治8年頃の作と推定されます。

平福穂庵が押印した印章は年代によってある程度数が限られており、初期以外の作品で平福穂庵において未確認の印章が押印されている作品はほぼ贋作と考えていいでしょう。子息の平福百穂に比べて父の平福穂庵の作品に押印されている印章は種類が少ないようです。



このような水墨画のコントラストが明確な作品は当時の鑑賞時の照度に関係しているように思います。座敷の障子側は昼は明るくても床の間側は昼でも暗いものです。このように水墨のコントラストを明確にすることで、瀑布が浮き上がるように見える工夫のひとつだと推察しています。



掛け軸を鑑賞するには当時は照度が低かった(暗かった)と思って鑑賞する必要がありますね。スポットライトで鑑賞するなどは当時はなかったのですから・・。

暗いところでこの作品を鑑賞してみるとよくわかりますね。

なお冒頭の円山応挙の「大瀑布図」ですが、美術館に収蔵されているその絵は、門外不出です。その大きさは幅1メートル44センチ、長さ3メートル62センチの巨大な絵であり、この「瀑布図」は床の間に掛けるのではなく円山応挙は、この作品によって実物大の滝を庭に出現させたと伝えられています。

 

古い伝統に縛られない自由奔放で親しみやすい円山応挙の画風が、当時の三井家をはじめとする富裕な町人層に好まれたのでしょう。いつの時代も今のままでいいという発想では新たな時代を築けないものです。

さて本作品は表具に痛みがありますので、できれば改装するといいかもしれませんね。

*花火をした数日後に義父が亡くなりました。近隣の皆と約束していた花火なので、「やれるうちにやってしまおう。」という家内の考えでした。暗い中での鮮やかな花火、私どもにとってもいい思い出になるでしょう・・・。暗さの中に明るさを、暑さの中に涼しさを求めるのはいつの世も同じなのでしょう。

明末呉須赤絵 獅子文八寸皿 

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最近になって見つけた家内の実家の車庫に放ってあった昔の一対の鏡・・・。そういえば以前に本ブログで紹介した印籠もこの車庫からの発見でした。



緑青などの錆を落として、簡単に磨きなおして食品の入っていた桐の箱に収めておきました。



骨董店でよく見かける代物です。郷里では三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣の総称=鏡・玉・刀)として大切にしているところもありますが、今では不要の品物でしょう。



通常は作った人の銘があります。



このような鏡でよく映ったのでしょうかね?



刀など製作していた鍛冶工が幕末や明治に盛んに作ったのではないでしょうか?



家内の実家のものですので、家具などの収納庫に仕舞っておきましたが、家人は全く興味を示していません



さて本日の作品の紹介です。

明末呉須赤絵の作品群は一尺を超える大皿ばかりがもてはやされますが、実は七寸皿前後の大きさの作品にも優品が多いようです。当方では大皿をメインとして蒐集していますが、さすがに無傷で出来の良い呉須赤絵の大皿の作品は値段的にハードルが高いので、ときおり中皿程度の作品を購入して気を静めています。



本日紹介する作品は見込みの絵は青を中心として描かれている作品です。時には「呉須青絵」と称される作品です。

明末呉須赤絵 獅子文八寸皿 
合箱入
口径240*高台径124*高さ50



絵付けの面白さがこの作品群の生命線です。



大皿や大鉢と中皿の作品の特徴は同じで砂付き高台、虫喰いなどがあることです。



意外に虫喰いの状態は少ないかもしれません。



呉須赤絵の作品群はいずれにしても絵の洒脱さが評価の分かれ目です。

本ブログに紹介されている同様の作品群は下記の作品です。

明末呉須赤絵 楼閣紋様青手九寸皿
合箱
口径274*高台径165*高さ68



呉須赤絵 五彩牡丹鳳凰文八寸皿
古箱入
径248*高台径*高さ41



呉須赤絵 牡丹鳳凰文七寸皿 
合箱入
全体サイズ:口径209*高台径123*高さ36



明末呉須赤絵 牡丹鳥文七寸皿 
合箱入
全体サイズ:口径225*高台径128*高さ45



明末呉須赤絵 鳳凰文七寸皿  
合箱
全体サイズ:口径228*高台径110*高さ47



明末呉須赤絵 鳳凰文七寸皿
杉古箱入
全体サイズ:口径230*高台径120*高さ45



明末呉須赤絵 湖畔楼閣文六寸皿
合箱
全体サイズ:口径182*高台径93*高さ27



明末呉須赤絵 福の字花草紋六寸皿 清朝期
窯割れ補修跡 合箱
全体サイズ:口径182*高台径103*高さ44



明末呉須赤絵 鳥花文五寸皿
合箱
全体サイズ:口径169*高台径85*高さ28



これらの作品も呉須赤絵を語る上では欠かせない作品群です。



さ~て、一つの分野を極まめるのはなんとも気長な蒐集が必要なようです。

立美人図 岡本大更筆 大正10年(1921年)頃

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母に遺品にハンドバックが大量にありましたが、長らく放っておいたのでほとんどがカビなどがあり処分しました。いくつか使えそうな品物は皮の修理店にてクリーニングしてもらいました。



珍しい? 象の皮のハンドバック。今では動物愛護の観点から総すかんでしょうね。なんと桐箱に収まっています。



あとは大したものはないのですが、使用感のないハンドバックはクリーニングしておきました。



シミなども思いのほかきれいになりました。



さてハンドバックを紹介したので、本日は美人画の紹介です。なお明日は郷里で母の一周忌ですので本日から帰省します。

立美人図 岡本大更筆 大正10年(1921年)頃
絹本着色軸装 軸先蒔絵 誂箱 
全体サイズ:縦1930*横565 画サイズ:縦1290*横415

 

本ブログでいくつかの「岡本大更」の作品を紹介していますので、詳細はそちらのブログに記事を参考にしてください。



岡本大更の略歴は下記のとおりです。

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岡本大更(たいこう):日本画家。三重県生。名は直道。明治12年(1879)9月14日、名張郡滝之原村(現・名張市滝之原)で、父・多吉、母・まさの二男として生まれています。

明治12年三重県名張市滝大更8歳の時、一家を上げて上京。神童とうたわれた大更の美人画の境地をきりひらいた作風は当時「近代的な浮世絵」と激賞されたそうです。



若い頃は貧しさのため師につかず、独学にて文部省美術展覧会などで入選を重ね、美人画の大家(近代的な浮世絵師)になっています。明治・大正・昭和初期に大阪画壇をリードした画家のひとりです。



大更は、若くして名張の地を離れたため、伊賀地方では全く忘れ去られた存在となってるようです。

第八・九回文展、第一回院展に入選。人物画を得意とします。また音楽・演劇を好む。戦争が激しくなった同19年(1944)、後妻の郷里、香川県豊島に疎開しています。

翌20年12月、疎開先で死去、満66歳でした。主に大阪に住していました。



*妻の妹だった更園(こうえん・本名、星野延子)は、20歳で義兄大更の私塾「更彩画塾」で、日本画の手ほどきを受け、2年後の大正5年(1916)の文部省美術展覧会で初出品初入選に輝きました。のちに上京し、鏑木清方の門を叩き、女流画家として活躍しました。更園の作品も本ブログにて紹介されています。



上記写真:左から岡本更園、吉岡(木谷)千種、島成園、松本華羊(「女性画家の大家展」より)

*大更の長男・富久馬は更生(こうせい)と号して、京都絵画専門学校を卒業後、土田麦僊に師事し、大阪美術展覧会
などに出品しました。戦後、当時の名張町で「桔梗ヶ丘学園」が開校されるや、日本画講師に就任し、名張地方の画家仲間で結成した「コンパル画会」に参画するなど活躍しましたが、昭和55年(1980)、74歳で没しています。

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本作品の表具は天地の長さが不自然です。天地交換で処置しようと思っています。



詳しくは「日本画家岡本大更―その画業と更生・更園(山田 一生著, 編集)」という画集がありますので参考にするといいでしょう。



さて鏑木清方、上村松園、島成園、池田焦園、伊東深水らは高値の美人画の作品ですが、本ブログで紹介している三木翆山、木谷千種、岡本大更らはまだ手頃な値段で入手できる美人画家の作品が市場にたくさんあるようです。



有名画家らの作品を愉しむには複製画や版画、シルククリーンなど多々ありますが、肉筆画1点でそれら1000点にも相当する魅力があるものです。蒐集は著名な画家ではなくてもマイナーな画家の肉筆画にすべきというの私の考えです。

白馬山花畑図 山元櫻月筆

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母の遺品整理から今回は下駄の第2弾です。前回は津軽塗の下駄の修理でしたが、今回は木地そのものの下駄の修理です。



どこにもありそうな下駄ですが、家内曰くは最近は「木地そのものの下駄」はあまりないらしい。



鼻緒が粋です。男物の下駄は蛇の皮です。小生も息子も巳年ゆえ早速修理しておきました。



手を付けたばかりの母の遺品ですが、これではいつまでかかるかわかりませんね。今日は母の一周忌ですので、帰郷しています。

さて本日紹介する作品は小生にとっては思い出深い白馬岳の雪渓を描いた作品です。

白馬山花畑図 山元櫻月筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱(初号春汀銘)
全体サイズ:横537*縦2250 画サイズ:横418*横1335

 

白馬岳は正式には「代馬岳」ともいいます。故に「はくば」ではなく「しろうま」と呼ぶのが正しいと思います。田んぼにて馬が田植えの段取りに入る(田代)時期に、雪渓の雪が解けて「雪渓が馬の形になる」ので「代馬岳」と呼称したのが、諸説ある中で信頼できるであろう「しろうま」の語源のようです。



大学生の頃、登山を始めて間もない頃に、友人らと上高地から入って槍ヶ岳を縦走し、北アルプスの表銀座を縦走後に針ノ木の雪渓を下山し、その日のうち他の友人らと別れて一人の友人と二人で白馬の雪渓を登ったことがあります。日本三大雪渓のうちの二つ(もうひとつは剣沢)を一日で踏破したのですが、その日に雪渓で間違ってホワイトガソリンを飲み具合が悪くなったのを覚えています。

*雪渓は下りはあっという間ですが登るのは意外に体力が要ります。



運の悪いことにその夜には白馬岳を台風が直撃・・。設営したテントは飛ばされそうになり、一晩中テントを支えてたいのですが、明け方テント場にはテントを出てみると周囲には一張りのテントもなく、お金のない我ら二人以外はは全員山小屋に避難したそうな・・。



それでもめげることなく翌日には、日本海の親知海岸まで突っ走しり縦走したという元気な頃、花畑を愉しむ余裕などとんでもない!



本作品を描いたのは本ブログでお馴染みの山元春挙を叔父とする山元櫻月です。本ブログでも数度作品が投稿されています。

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山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生しています。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙です。

治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられました。叔父である春挙は幼ない桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられています。

桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めています。

その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から「桜月」に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断ったそうです。

桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭しました。

桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられています。

桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈したそうです。

昭和60年(1985年)に死去しました。享年97才。

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日本海に抜ける縦走路は今のように登山道は整備されておらず、悪戦苦闘。とくに夏は高度を下げるに従って猛暑を味わい、沢に降りると沢は蛇だらけ・・、またあわてて突っ走る羽目になるという散々な山行でした。



親不知海岸についてお腹の空いた我らは食堂で有り金をはたいてカレーやら親子丼やら注文したのですが、胃袋が小さくなっており食べきれず・・。

 

夏休みだったので親不知海岸から郷里へ帰省したのですが、お金もないので夜行や鈍行を乗り継いで帰りました。「若いとはこういうことができるということ」と思い出します。ともかくお金がなかった頃でアルバイトはいろんなことをしましたが、すべて登山に使ったという親不孝者でです。

*手前は金城次郎作の大皿です。



学生時代はハイキング部に毛の生えたような6つの大学をまたいだメンバーで構成されたALK(「WALK」,「TALK」,「あるく」をもじった?)という部に入部したのですが、もっと本格的な登山がしたくてワンゲル部の友人らと登山していました。

 

そのALKという集まりは今年で50周年だそうです。私らは7期生ですから月日の経つのは早いものですし、また同好会のような集まりが50年も続いているのもたいしたものです。



合コンのような集まりでしたが、続いている要素として登山の魅力が大きいのだろうと思います。

山岳画に魅力を感じるのは登山の経験からだろうし、一度も登ったことのない富士山が魅力的と感じるのは、南北アルプスから見る富士山が感動的だったからでしょう。

閑山斧音 酒井三良筆

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子供の夏休みは長い・・・。



義父が亡くなり何かと忙しく、また息子が愉しみにしていた帰郷もかなわず、家に閉じこもっていたのでは精神衛生上よくないので、家内と代わる代わるで遊んでいます。小生の休日には犬のシャンプー・・・。なにかと男は段取りから凝るもの、シャワーから道具を揃えます。



我が家の愛犬は柴犬で14歳、「モモ」です。飼い主の義父が亡くなり、新たなご主人様に可愛がられています。完全に外で飼われていますが、30メートルほど自由に動き回れるようになっています。

さて本日はまたまた酒井三良の作品の紹介です。

閑山斧音 酒井三良筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横655*縦1565 画サイズ:横530*縦465



酒井三良は画家修行としてはじめは坂内青嵐に絵の手ほどきを受けることになりますが、結果的に自らの求める画風との違いを感じてしまい、会津に住み込み独学で絵画を描き続けることになります。

坂内青嵐:(1881-1936) 福島県大沼郡会津高田町生まれ、本名は滝之助。東京美術学校日本画科本科で寺崎広業に学び、明治41(1908)年卒業。文展及び帝展に入選し、歴史画家として著名になる。この作品は、附属高等女学校に通う娘(房江)をモデルに描いたものである。

本ブログでおなじみの寺崎廣業に学び、歴史画家として名を成した坂内青嵐と酒井三良の描きかった絵とは大きく異なったのことは容易に予測できます。



酒井三良の作品の多くはのどかな田園風景を郷土愛に満ちあふれた美しいタッチで情緒的に描く、美しい作品を描きます。

その淡く白みを基調としいた作品はどこか繊細であり、緻密な表現力で描かれる日本人の琴線に触れるような作風が多くあるのが特徴と言えます。



銀座松坂屋で個展を開催したりと、非常に画家としても精力的に活動をしていましたが、私生活では住居を様々な場所へ移し、決して豊かと言えない生活を妻と一人娘を引き連れて過ごしていました。



横山大観の勧めで太平洋側ののどかな場所で暮らすことができるようになりました。戦後、生活も徐々に安定していく酒井三良は自然と親しんでいた経験をもとに、日本の風景や四季を愛しその風景を中心に描くようになり、多くの作品を遺すこととなります。



家族の暖かさを思い出させ胸を熱くさせるような郷土愛に満ちあふれた作品多くあり。苦しい日々をくぐり抜けながら作品を描き続けた酒井三良です。

 

愛らしい彼の作品から、情愛を感じ取れる感受性を大切にしたいものです。敵わぬことながら「家族よ永遠なれ」と願わずにはいられません。


リメイク「訂正」 面白き作品 背の高い女・背の低い男 伝川端龍子筆→前田青邨

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今年のお盆には義父が亡くなり、告別式が終わって一息つく間もなく母の一周忌と慌ただしく、ブログの投稿記事は相変わらず推敲している時間もなく、拙文だらけですが、この度描いた画家の記述の間違いの投稿を見つけた次第です。

本作品は表具が痛んでいたので改装しましたが、どうも間違って「川端龍子筆」として投稿していたようです。



本作品は前田青邨の作です。



以下は前回投稿したままの記事です。

思わす面白い作品なので入手しましたが、前田青邨の作品かどうかは二の次です。

背の高い女・背の低い男 伝前田青邨筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先樹脂 誂箱タトウ
全体サイズ:縦1720*横1017  画サイズ:縦931*横867



一見するとどのような情景を描いた作品かわかりませんね。



絵の脇に書かれたセリフを読んでいくと解ります。



背の高い女性と背の低い男性のお見合いのようです。



一人一人の描き方が実にユニークそのもの。余計な説明抜きで愉しんでください。





















前田青邨が描いた作品かどうかは小生にとっては関知するところではありません。当方は愉しめる作品を蒐集するのみ。



洒脱な作品・・・?? 箱もなく紙表具のまま・・・。ということで表具をきちんとして、箱も誂えました。

氏素性の解らぬ作品 伝古九谷青手 葡萄文鉢

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今回の帰省では法事が終了後、夕刻に御住職の自宅に呼ばれて骨董談義・・。



御住職の蒐集は陶磁器で中国陶磁器や李朝がメインのようですが、非常に難しい分野に挑戦しているようです。

陶磁器を蒐集する者の垂涎の作品群に青手古九谷というものがありますが、これもまた判断の難しい作品群で、いくらか解ってきて、明らかに明治以降の模倣作品である作品には当方では食指が動かなくなりましたが、まだ真作の領域には程遠いものと感じています。

手の届かぬ作品なら指をくわえていみていてもつまらない、資金が足りなくてもチャレンジするのが小生の懲りないいところ・・・。

氏素性の解らぬ作品 古九谷青手 葡萄文鉢
合箱
口径290*高台径*高さ70



このような作品は青手古九谷と称されています。青手古九谷は緑釉を多く用いて赤を使用しないことからこう呼ばれ、緑・黄・紫の三彩古九谷、緑・黄の二彩古九谷があります。 素地も良質の磁石を使用したものと鉄分の多いやや質の悪い素地のものの二手があります。交趾古九谷・ペルシャ手九谷ともいわれています。また白抜きが珍重されています。



本作品は緑・黄色・紫の三彩古九谷様式で、胎土は鉄分の多いやや質の悪い素地のものに分類されるのでしょう。高台には目跡がなく、高台内は角ばった「福」の字があります。

本作品は焼成中に高台部分から少し下がったのでしょう。愛嬌のある?ゆがんだ器形になっています。



青手は、色使いは五彩手と似ていますが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶしているのが特徴です。

要は古九谷は胎土の汚さを隠すために、口縁に鉄釉薬のようなものを含めて全体に釉薬を掛けているというこです。



「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめました。有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である。」との説が有力となっています。



従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640~1650年代の肥前産と考えられていますが、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もあります。



青手九谷とは九谷焼のうち、見込み(表面の模様)に青色を多く使った磁器のことです。青九谷ともいいます。青色といっても実際は緑色を呈しているし、磁器といっても一般に“半陶半磁”と呼ばれるように陶器のように見えるのが特徴です。



高台(こうだい、底の脚)の中に、「角福」と呼ばれる二重四角の中に福の吉祥字のある銘を持つものが多いですが、ないものもありますので、真贋の決定打にはなりません。



肥前で作られたとする古九谷には目跡(窯の中で器同士の溶着を防ぐスペースサーの跡)があり、九谷村で作られたものには全くないなどから、古九谷は九谷村で作られたものではなく、有田(伊万里)で作られたものとする説(古九谷伊万里説)が出されていますが、目跡の有無も真贋の確証になるものではないようです。



再興九谷では一番の名声を博した「吉田屋窯」が古九谷窯跡地に作られています。大聖寺の豪商豊田伝右衛門が開窯しその屋号から命名されたものです。この吉田屋窯では日用品が多く量産されましたが、古九谷同様高台に角福の入った青手九谷も多く作られています。

赤を使わず塗埋手の技法を使うという青手古九谷の技法を用いたものですが、青手古九谷より落ち着いた濃さをもっています。全体として青く見えるため、青九谷と呼ばれ、後世これに倣った絵付けが多く行われるようになったのですが、吉田屋窯はわずか8年で閉じられています。



残念ながら伝世の青手九谷の真贋は決めがたいとされ、市場でこれらが取引される多くが、次の明治以降のものである可能性が高いと考えられています。



要はこの手の作品は古九谷、再興九谷、明治以降の模倣作品という三種の可能性があり、その多くは明治以降の模倣作品ということ・・。



当方の資料としている雑誌「別冊太陽」に「やきものの真贋と鑑定」という本がありますが、その中に古九谷の真作と判断された作品が掲載されています。



むろん当方で所蔵している作品ではありませんが、この鑑定結果は非常に参考になります。



実物を観ていないので何ともわかりませんが、本来「古九谷」は一見小汚く見えるもののようです。



本日紹介する作品は家内と二人で「全体が暗いよね~、なんか小汚い?」、「でもありうるよね、古九谷かも?」



石の上にも三年・・・??? 少しづつ本物に近づきつつあるように感じています。

さ~、読者の皆さんの感想や如何? 真贋の迷路に入ったら一度抜け出して、明らかな真作のみに世界に戻るといいようですが、迷路に嵌る込むと深みに嵌るは世の常・・・、仏道でも救いようがない???


立美人図 星野(岡本)更園筆

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義父の葬儀、そして母の一周忌と忙しい中、息子はきちんと付き合ってくれました。



葬儀を終えて母の一周忌のために飛行機で短期間での郷里への旅、「田舎は愉しいね!」と郷里の雰囲気と人々の温かさに息子は惹かれているようです。



郷里は過ごしやすい気候となり、秋の収穫が間地かであることが実感されます。



さて、本日の作品の紹介です。

1916年(大正5年)5月、かねてから親交のあった同年代の女性日本画家島成園、木谷千種、岡本更園、松本華羊と結成した「女四人の会」の第一回展が大阪で開催され、ともに井原西鶴の『好色一代女』に取材した諸作を出品、妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼んだそうです。本日はその中の画家の一人、岡本更園の作品の第2作品目の紹介です。

いつ世の世も美人は話題になりやすいものです。

立美人図(少女図) 星野(岡本)更園筆
絹本着色軸装 軸先木製 昭和11年「林石」鑑定箱 
全体サイズ:縦1770*横505 画サイズ:縦1115*横380

 

共箱ではなく、また鑑定されている「林石」なる人物についても詳細は解っていません。箱には「立美人図」となっていますが、当方では「少女図」のほうがいいように思います。



襖を開けて見ている先は何なのでしょうか?



大正ロマンというべきか? 品のある美人画に仕上がっています。



「髪飾りの眼差し」という題も面白いかな? 岡本(星野)更園は本ブログで取り上げている岡本大更の義妹ですが、このような落款は初期の頃か?

更園は明治44年、16歳から独学で絵を学び、義兄の岡本大更から絵の手ほどきを受けたのは大正3年からです。大正7年に鏑木清方の門下生となるも短期間で終えています。

本作品は落款の書体から明治末から大正時代にかけての初期の頃の作と推定しています。この落款の書体の作品は非常に珍しいと思います。印章は当方の他の所蔵作品である「桔梗と童女図」ら他の参考作品と共に同一印章が押印されています。

出来、印章などから真作と断定できますね。



大正期頃にかけて数多くの女流美人画家が活躍しましたが、そのほとんどが忘れ去られています。その中で島成園、木谷千種、池田焦園らは上村松園とは比べるべくもありませんが、本日の岡本更園も含めて出来の良い見るべき作品が多いと思います。



展示室に飾ってほくそ笑んでいる小生は変態か、ロリコンか・・・??? 家内は美人が脇にいるのにと不平を露わにしています



表具は染み抜きして改装するときれいになるでしょうが、まだ改装する一歩手前か???



岡本更園に関する資料は少ないですが、詳細は上記の図録である程度は解ります。



いずれにしても岡本更園の現存する遺作の数は少ないかもしれません。展覧会への出品作についてはモノクロの写真のみが遺っている作品が多いようです。

額装の日本画の染み抜き

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郷里で空港でレンタカーの手続きをして、まずは男の隠れ家へ・・・。



義妹が庭の手入れをしていて、だんだん洋風の庭? 家の中は過ごしやすいこの季節、襖を全部取り払い、座敷は広々としています。



これだけのスペースを自由に使えるのはとても贅沢なことです。このような空間はどんどん過疎化の進む田舎ではなくなっています。



さて仏壇を拝んで、まずは亡くなった人への帰郷の報告です。



休む間もなく復元された蔵の確認です。



庫の扉は隙間のないように手直ししました。既存の扉を直しています。いい感じに直っています。



窓は細かい防虫網を取り付けました。枯れ葉や虫の侵入を抑えるための処置です。



外装はクラックの処理、換気口からの虫の侵入防止をしてあります。



入り口にも防虫網をやり直しています。これもほぼ既存のまま・・・。なにしろ予算内ですべてまとめるように手配しましたので・・・。



クリーニング、不要なものの処分、一部塗装など新築当時のままを極力よみがえらせています。座敷に置いていた屏風類は蔵に収納しました。これから収納の準備をするか、今少し改修に手を加えるか熟慮が必要なようです。



2階も同様です。空調などの野暮な設置はもう少し考えてからにしています。



片付けは作業する方に指示して、あとはお任せしたのでまだ処分するものが多々残っているようです。処分するか否かの判断は古いものへの価値観が大切です。



さて、本日は近代絵画作品の修復です。

額の作品で下記の2作品がシミがひどいので染み抜きの補修を依頼しておりました。染み抜きをする前に手彩色の工芸品ではないかどうかを観てもらっています。

爽涼 伊東深水筆
絹本着色額装 浜田台児鑑定シール タトウ+誂黄袋
全体サイズ:横830*縦735 画サイズ:横600*縦500



この作品は以前にブログで紹介した作品です。



表具師さんでは工芸作品ではないとの判断でした、



下記の作品も染み抜きしようとしたのですが、下記の作品は手彩色の工芸品とのこと

山邨(すすき) 堂本印象筆
絹本着色額装 段ボールタトウ+黄袋
全体サイズ:縦655*横730 画サイズ:縦450*横530



こちらの作品も随分と前に本ブログで紹介した作品です。



肉筆画として紹介したように記憶していますが、当方では工芸品ではなく肉筆画という判断をまだ捨てきれていません。



工芸品ですと同じ作品が存在するはずなのですが、調べて同じ作品を突き止めるにはかなりの資料と時間が必要となりそうです。



以前から工藝作品ではと疑ってはいたのですが、あらためて手彩色の工芸品と言われても、素人目には判断のつかない作品ですね。この作品は染み抜きの依頼をとりあえず取りやめました。

最初の作品「爽涼 伊東深水筆」は染み抜きの処置を施しました。2か月ほどかかってようやく修復が完了しました。費用は二万円強です。



ものの見事にきれいにシミ、カビがとれました。



やはり美人画にはシミは禁物で、見違えるようにきれいになりました。



しばし展示室で鑑賞することとしました。人生のシミはどうあがいても消えないですが、日本画のシミは意外に消える・・・・。新しいものをとかく欲しがる都会の暮らしですが、人生はリセットはできないものです。

過去を踏まえてどう乗り越えていくかが肝要です。現在の隣の国との関係も同じで、歴史を踏まえて大人げない行動は互いに慎むべきですが、相手側にも今回はその必要が多いにあります。打開策はそこからすべてが始まるのでしょう。

蔵も近代絵画も修復の指示はすべてこちら側・・・、古いものを蘇らせるには、蘇えさせる側の鑑識眼と蘇えさせる技術を持つ人との連携が必要です。骨董蒐集や仕事で積み上げた経験、人との伝手は意外にも最終的にこのような局面で役に立っています。

額装の作品ら

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さて盆の休暇には帰省できず、母の一周忌で帰省しました。



周囲の方々の好意で家はメンテされています。30年前に新築時に自然に生えてきた松も手入れされて一丁前の格好になってきました。



今回は隣人が剪定してくれたようです。



庭は除草剤を撒いていますので閑散としています・・・????



紅葉は色づき始めています。石臼の石は実家からの移設です。



家内が大きくなったので切ると言って処置した楓は芽が生えてきました。



購入した隣家もまだ大丈夫で、現在は作品の倉庫になっています。



また購入した近隣の除雪用の裏の敷地もきれいになっています。この敷地は除雪用に近所で使うため積雪期間は税金が免除になります



市全体が過疎化なのに意外にも我が「男の隠れ家」周囲だけは新築ラッシュです。わずかに隣地が畑になって残っています。

新築ラッシュの理由は地盤が強固で、地震の被害がほとんどなく、高台で水害が全くないなどが魅力らしいです。小生も新築時は土地選定の理由が同じですから・・。



さて本日の本題です。

現在は新たな蒐集は控えていて、作品の保守に努めていますが、蒐集して遺しておこうと思った額の作品は必ずタトウを誂えて保存するようにしています。取り出しやすいように黄袋も必須ですね。



ガラスやアクリルを割ったりして絵を傷つける恐れがあるのでタトウと黄袋は額装の蒐集作品には必須です。タトウがあっても作品を積み上げたり、たんに立てかけておくのも厳禁ですね。タトウのない作品は保存に困るものです。



額装の大きな作品は落としたりしないように床面と同じ高さの収納スペースを確保しておくべきです。逆に掛け軸は床面に置かず腰より上に置いたほうが便利です。

なお収納スペースに扉はあったほうがいいですが、収納スペースの壁は外壁に面していないのが基本です。結露する恐れがあるからです。外壁面に面する置き場では桐の箪笥などに入れて、なおかつ掛け軸なら桐箱に収納しておきましょう。



タトウのフックを破損しないように仕舞う方向の一定にします。背表紙にて作品が解るようにするのも必須です。



本日は新たにタトウを誂えた作品を展示室に展示しましたので紹介しますが、個々の作品はすでに投稿されていますので説明は省略させていただきます。



桜島 伝田崎廣助作
油絵額装 裏書サイン共シール 
画サイズ:縦230*横320 F4号







裸婦(小) 伊勢正義画
油彩額装 黄袋タトウ
額サイズ:横255*縦215 画サイズ:横90*縦50





鯉之登龍 堅山南風筆
紙本水墨淡彩額装 作品裏共シール 誂布タトウ+黄袋 
画サイズ:縦317*横407 全体サイズ:縦441*横536



作品が同封されていた包装紙も保存してあります。



苺 福田平八郎筆
紙本着色額装 誂:布タトウ+黄袋
画サイズ:横220*縦180 SM





対岸の村 福田豊四郎筆
紙本着色額装  福田文鑑定シール タトウ+黄袋
F6号程度 全体サイズ:縦516*横581 画サイズ:縦340*横410







額は12号を超えた作品では扱いに不便です。高齢になると一人では扱えなくなります。額を扱うには作業台があるといいでしょう。なお掛け軸は床面において巻き付けるのが原則ですから、畳やきれいな床面を確保しておきましょう。立ったままで掛け軸を巻き付けるのは禁物です。

ところで最近は作品、所蔵場所の保守をメインにしていますので、そちらに資金を投入しますので目の前をいい作品が通り過ぎていきます。これも仕方のないこと 

小生の考えは資金投入は好きなものへ・・・、貯金してもあの世までは持っていけない。老後に困ったら、趣味でも売れるものへの投資、趣味と実益の兼用できる骨董趣味はありがたい???

本日紹介した作品は蒐集初期の作品で、男の隠れ家の元の所蔵場所に今回の帰省で保管されました。鑑識眼の低い頃の蒐集作品、これは売れまい


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