帰省した「男の隠れ家」の展示品。玄関には福田豊四郎の額の作品を飾りました。
五彩の壺。
古伊万里色絵の兎香炉。
遼の緑釉の麒麟像。
本家から拝領した大黒天。
男の隠れ家の倉庫から引っ張り出してきて台。
なんという木だっけ・・・・??
こけし用の台にしておきました。
座敷は平野庫太郎氏も一周忌なので平野庫太郎氏の作品を飾ってあります。この杉の棚は小生のお気に入りですが、祖父が作らせたものです。いいでしょう
棚の上の作品は母の実家を郷里の画家「舘岡栗山」の欄間額の作品です。ぼろぼろになりかけの作品、いかにすべきは熟慮中・・・ 捨てるか、修復するか・・・・。
平野庫太郎氏はあらためて「魅力的な作品を作ってた。」と感じますね。
義父が亡くなり、平野庫太郎氏の一周忌に線香をあげに行けませんでした。改めて今度の帰省で訪れてみようと思います。
床は田能村竹田の作品です。
秋らしい作品にしてみました。
父の絵も飾っています。
素人ながら父の作品も気に入っています。
来訪者が下記の作品をほめていくのですが・・・。
小生もよくわからない木工作品です。
裏には「ABS」とありますから、テレビ会社「秋田放送」の記念品? 川連塗かも?
さて、本日の本題です。小生の蒐集作品で手薄なのが茶掛の作品です。そもそも古い字体の作品は読みが難解で、さらに真贋をと問われるとまったくもってお手上げです。それでも未開拓の分野にチャレンジする気概は人並み以上ですので、今回はこの茶掛の作品にチャレンジしてみました。
茶掛一行書 近衛家熙筆 「徳不孤必有隣」
紙本水墨軸装 軸先朱塗 合箱二重箱
全体サイズ:縦201*横308 画サイズ:縦*横
***********************************
近衞家熈:(このえ いえひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。後陽成天皇の男系四世子孫である。
寛文7年(1667年)6月4日に京都で誕生。幼名は増君。延宝元年(1673年)11月に元服し、従五位上に叙せられた。同時に昇殿を許される。延宝4年(1676年)1月に従三位に叙せられる。貞享3年(1686年)3月、20歳で内大臣となる。元禄6年(1693年)8月に右大臣、宝永元年(1704年)1月に左大臣。宝永4年(1707年)11月関白に就任する。宝永6年(1709年)に中御門天皇の摂政となり、更に翌年の宝永7年(1710年)に太政大臣に任ぜられる。正徳元年(1711年)7月太
政大臣辞任。正徳2年(1712年)8月摂政辞任。享保10年(1725年)准三后の宣下。同年12月24日に落飾し、予楽院と号する。
書道は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる空海・小野道風らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は慈胤法親王を師とした。有職故実にも堪能で、礼典儀礼を研究し、『唐六典』の校勘を長年継続して、致仕後の享保9年(1724年)に20年の歳月をかけて完成させ、家熙の没後に刊行された。また、公家茶道に通じた茶人であり、『槐記』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。
なお、家熈の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった山科道安(やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『槐記』11巻により、如実に知ることができる。 『槐記』によれば、家熈は自然科学にも精通し、享保16年(1731年)、雷鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している。 元文元年(1736年)10月3日薨去。享年70。京都市北区の京都大徳寺に葬られる。(1667年~1736年)
補足
家熈は,遠く藤原鎌足を祖とし,平安中期にその栄華を誇った藤原道長に代表される藤原北家の流れで,五摂家筆頭の近衛家の第21代当主です。近衛家の歴代当主は,宮中官職の最高位に上り,朝議において指導的立場にありました。歴代の文芸に対する積極的な活動の成果は,近衛家伝来の古記録や古典籍など,約20万点の文化財として陽明文庫に収められています。こうした中で,家熈は幼い頃より書画に卓抜した才能を示し,長じて学問を好んで博学多識,茶道,華道,香道にも精通して多芸多能であり,当時の宮廷文化の第一人者でした。上代様を学んだ独白の書風による仮名や草書,楷書などによって,和歌や漢籍などを流麗にしたためています。また,明治11年に近衛家から献上された古筆の名品の中には,その表装や収納の箱,袋などの取り合わせを家熈が手がけたものもあります。家熈がお抱え絵師とした渡辺始興(わたなべしこう)(1683~1755)の屏風作品などがあり,家熈は絵画への深い関心があった。家熙の作には落ち着いた美しさ,堂々とした気品があります。書にせよ,絵画にせよ,彼が嗜んだ風雅には,常に探求心が宿っている。
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徳不孤必有隣:(とくはこならず かならずとなりあり)」
論語・里仁篇に「子曰。徳不孤。必有鄰。」( 子し曰いわく、徳とくは孤こならず、必かならず隣となりあり。)とあります。「徳のある人(人格者)は孤立することなく、必ず共鳴者、理解者が現れるものである」。これは孔子の言葉です。徳のある人、道徳性の高い人は、孤立することはなく、必ず隣人(同行者、理解者)がいるという意味である。真面目で硬い人は、ややもすると近寄りがたく敬遠されがちである。しかし、その人の信念に本当の徳があれば、自然と周りが支持してくれるはずです。
◦『集解』には「方ほうは類るいを以て聚あつまり、同志相求む。故に必ず鄰有り。是ここを以て孤ならず」(方以類聚、同志相求。故必有鄰。是以不孤)とある。「方は類を以て聚あつまる」(方以類聚)は『易経』繫辞上伝の言葉。
◦『集注』には「鄰は、猶お親のごときなり。徳は孤立せず、必ず類を以て応ず。故に徳有る者は、必ず其の類有りて之に従う。居の鄰有るがごときなり」(鄰、猶親也。德不孤立、必以類應。故有德者、必有其類從之。如居之有鄰也)とある。
◦伊藤仁斎は「人知らずして慍いからざるは、君子の心なり。然れども徳は孤ならず、必ず鄰有るは、必然の理なり。故に夫子徳の既に成りて、必ず孤立無きの理を言いて、以て学者の志を定めたり。亦た禄其の中に在るの意なり。学者惟だ当に徳の成らざるを患いて、饑き渇かつを以て心の害と為すこと無かるなり」(人不知而不慍、君子之心也。然德不孤必有鄰、必然之理也。故夫子言德之既成、必無孤立之理、以定學者之志。亦祿在其中之意。學者惟當患德之不成、而無以饑渇爲心害也)と言っている。
◦荻生徂徠は「鄰は、臣なるかな鄰なるかなの鄰のごとし。必ず助くる有るを謂うなり。易えきに曰く、敬義立ちて徳孤ならずとは、亦た助け多きを謂える者なり。詩に云う、民の彝いを秉とれる、是の懿い徳とくを好む、と。是れ徳の助け多き所以なり。夫れ徳ありて而も助くる有ること莫なき者は、則ち湯とうと文王と、豈に七十里若しくは百里にして興らんや。古註に、方ほうは類るいを以て聚あつまり、同志相求むを引くは、謬あやまれりと謂うべし。仁斎先生、禄ろく其の中に在りを引くは、鄙ひなりと謂うべし」(鄰。如臣哉鄰哉之鄰。謂必有助也。易曰。敬義立而德不孤。亦謂多助者也。詩云。民之秉彝。好是懿德。是德之所以多助也。夫德而莫有助焉者。則湯與文王。豈七十里若百里而興乎哉。古註。引方以類聚。同志相求。可謂謬矣。仁齋先生引祿在其中矣。可謂鄙矣)と記述しています。
茶掛けにするにはちと軸が長い・・。誂は一級品。きちんとした指物師の収納箱の作品は意外に少ないですね。
表具もいい。
大切に保管されてきた嬉しい作品のようですが・・・。
五彩の壺。
古伊万里色絵の兎香炉。
遼の緑釉の麒麟像。
本家から拝領した大黒天。
男の隠れ家の倉庫から引っ張り出してきて台。
なんという木だっけ・・・・??
こけし用の台にしておきました。
座敷は平野庫太郎氏も一周忌なので平野庫太郎氏の作品を飾ってあります。この杉の棚は小生のお気に入りですが、祖父が作らせたものです。いいでしょう
棚の上の作品は母の実家を郷里の画家「舘岡栗山」の欄間額の作品です。ぼろぼろになりかけの作品、いかにすべきは熟慮中・・・ 捨てるか、修復するか・・・・。
平野庫太郎氏はあらためて「魅力的な作品を作ってた。」と感じますね。
義父が亡くなり、平野庫太郎氏の一周忌に線香をあげに行けませんでした。改めて今度の帰省で訪れてみようと思います。
床は田能村竹田の作品です。
秋らしい作品にしてみました。
父の絵も飾っています。
素人ながら父の作品も気に入っています。
来訪者が下記の作品をほめていくのですが・・・。
小生もよくわからない木工作品です。
裏には「ABS」とありますから、テレビ会社「秋田放送」の記念品? 川連塗かも?
さて、本日の本題です。小生の蒐集作品で手薄なのが茶掛の作品です。そもそも古い字体の作品は読みが難解で、さらに真贋をと問われるとまったくもってお手上げです。それでも未開拓の分野にチャレンジする気概は人並み以上ですので、今回はこの茶掛の作品にチャレンジしてみました。
茶掛一行書 近衛家熙筆 「徳不孤必有隣」
紙本水墨軸装 軸先朱塗 合箱二重箱
全体サイズ:縦201*横308 画サイズ:縦*横
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近衞家熈:(このえ いえひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。後陽成天皇の男系四世子孫である。
寛文7年(1667年)6月4日に京都で誕生。幼名は増君。延宝元年(1673年)11月に元服し、従五位上に叙せられた。同時に昇殿を許される。延宝4年(1676年)1月に従三位に叙せられる。貞享3年(1686年)3月、20歳で内大臣となる。元禄6年(1693年)8月に右大臣、宝永元年(1704年)1月に左大臣。宝永4年(1707年)11月関白に就任する。宝永6年(1709年)に中御門天皇の摂政となり、更に翌年の宝永7年(1710年)に太政大臣に任ぜられる。正徳元年(1711年)7月太
政大臣辞任。正徳2年(1712年)8月摂政辞任。享保10年(1725年)准三后の宣下。同年12月24日に落飾し、予楽院と号する。
書道は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる空海・小野道風らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は慈胤法親王を師とした。有職故実にも堪能で、礼典儀礼を研究し、『唐六典』の校勘を長年継続して、致仕後の享保9年(1724年)に20年の歳月をかけて完成させ、家熙の没後に刊行された。また、公家茶道に通じた茶人であり、『槐記』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。
なお、家熈の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった山科道安(やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『槐記』11巻により、如実に知ることができる。 『槐記』によれば、家熈は自然科学にも精通し、享保16年(1731年)、雷鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している。 元文元年(1736年)10月3日薨去。享年70。京都市北区の京都大徳寺に葬られる。(1667年~1736年)
補足
家熈は,遠く藤原鎌足を祖とし,平安中期にその栄華を誇った藤原道長に代表される藤原北家の流れで,五摂家筆頭の近衛家の第21代当主です。近衛家の歴代当主は,宮中官職の最高位に上り,朝議において指導的立場にありました。歴代の文芸に対する積極的な活動の成果は,近衛家伝来の古記録や古典籍など,約20万点の文化財として陽明文庫に収められています。こうした中で,家熈は幼い頃より書画に卓抜した才能を示し,長じて学問を好んで博学多識,茶道,華道,香道にも精通して多芸多能であり,当時の宮廷文化の第一人者でした。上代様を学んだ独白の書風による仮名や草書,楷書などによって,和歌や漢籍などを流麗にしたためています。また,明治11年に近衛家から献上された古筆の名品の中には,その表装や収納の箱,袋などの取り合わせを家熈が手がけたものもあります。家熈がお抱え絵師とした渡辺始興(わたなべしこう)(1683~1755)の屏風作品などがあり,家熈は絵画への深い関心があった。家熙の作には落ち着いた美しさ,堂々とした気品があります。書にせよ,絵画にせよ,彼が嗜んだ風雅には,常に探求心が宿っている。
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徳不孤必有隣:(とくはこならず かならずとなりあり)」
論語・里仁篇に「子曰。徳不孤。必有鄰。」( 子し曰いわく、徳とくは孤こならず、必かならず隣となりあり。)とあります。「徳のある人(人格者)は孤立することなく、必ず共鳴者、理解者が現れるものである」。これは孔子の言葉です。徳のある人、道徳性の高い人は、孤立することはなく、必ず隣人(同行者、理解者)がいるという意味である。真面目で硬い人は、ややもすると近寄りがたく敬遠されがちである。しかし、その人の信念に本当の徳があれば、自然と周りが支持してくれるはずです。
◦『集解』には「方ほうは類るいを以て聚あつまり、同志相求む。故に必ず鄰有り。是ここを以て孤ならず」(方以類聚、同志相求。故必有鄰。是以不孤)とある。「方は類を以て聚あつまる」(方以類聚)は『易経』繫辞上伝の言葉。
◦『集注』には「鄰は、猶お親のごときなり。徳は孤立せず、必ず類を以て応ず。故に徳有る者は、必ず其の類有りて之に従う。居の鄰有るがごときなり」(鄰、猶親也。德不孤立、必以類應。故有德者、必有其類從之。如居之有鄰也)とある。
◦伊藤仁斎は「人知らずして慍いからざるは、君子の心なり。然れども徳は孤ならず、必ず鄰有るは、必然の理なり。故に夫子徳の既に成りて、必ず孤立無きの理を言いて、以て学者の志を定めたり。亦た禄其の中に在るの意なり。学者惟だ当に徳の成らざるを患いて、饑き渇かつを以て心の害と為すこと無かるなり」(人不知而不慍、君子之心也。然德不孤必有鄰、必然之理也。故夫子言德之既成、必無孤立之理、以定學者之志。亦祿在其中之意。學者惟當患德之不成、而無以饑渇爲心害也)と言っている。
◦荻生徂徠は「鄰は、臣なるかな鄰なるかなの鄰のごとし。必ず助くる有るを謂うなり。易えきに曰く、敬義立ちて徳孤ならずとは、亦た助け多きを謂える者なり。詩に云う、民の彝いを秉とれる、是の懿い徳とくを好む、と。是れ徳の助け多き所以なり。夫れ徳ありて而も助くる有ること莫なき者は、則ち湯とうと文王と、豈に七十里若しくは百里にして興らんや。古註に、方ほうは類るいを以て聚あつまり、同志相求むを引くは、謬あやまれりと謂うべし。仁斎先生、禄ろく其の中に在りを引くは、鄙ひなりと謂うべし」(鄰。如臣哉鄰哉之鄰。謂必有助也。易曰。敬義立而德不孤。亦謂多助者也。詩云。民之秉彝。好是懿德。是德之所以多助也。夫德而莫有助焉者。則湯與文王。豈七十里若百里而興乎哉。古註。引方以類聚。同志相求。可謂謬矣。仁齋先生引祿在其中矣。可謂鄙矣)と記述しています。
茶掛けにするにはちと軸が長い・・。誂は一級品。きちんとした指物師の収納箱の作品は意外に少ないですね。
表具もいい。
大切に保管されてきた嬉しい作品のようですが・・・。