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茶掛一行書 近衛家熙筆 「徳不孤必有隣」

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帰省した「男の隠れ家」の展示品。玄関には福田豊四郎の額の作品を飾りました。



五彩の壺。



古伊万里色絵の兎香炉。



遼の緑釉の麒麟像。



本家から拝領した大黒天。



男の隠れ家の倉庫から引っ張り出してきて台。



なんという木だっけ・・・・??



こけし用の台にしておきました。



座敷は平野庫太郎氏も一周忌なので平野庫太郎氏の作品を飾ってあります。この杉の棚は小生のお気に入りですが、祖父が作らせたものです。いいでしょう

棚の上の作品は母の実家を郷里の画家「舘岡栗山」の欄間額の作品です。ぼろぼろになりかけの作品、いかにすべきは熟慮中・・・ 捨てるか、修復するか・・・・。



平野庫太郎氏はあらためて「魅力的な作品を作ってた。」と感じますね。



義父が亡くなり、平野庫太郎氏の一周忌に線香をあげに行けませんでした。改めて今度の帰省で訪れてみようと思います。



床は田能村竹田の作品です。



秋らしい作品にしてみました。



父の絵も飾っています。



素人ながら父の作品も気に入っています。



来訪者が下記の作品をほめていくのですが・・・。



小生もよくわからない木工作品です。



裏には「ABS」とありますから、テレビ会社「秋田放送」の記念品? 川連塗かも?



さて、本日の本題です。小生の蒐集作品で手薄なのが茶掛の作品です。そもそも古い字体の作品は読みが難解で、さらに真贋をと問われるとまったくもってお手上げです。それでも未開拓の分野にチャレンジする気概は人並み以上ですので、今回はこの茶掛の作品にチャレンジしてみました。

茶掛一行書 近衛家熙筆 「徳不孤必有隣」
紙本水墨軸装 軸先朱塗 合箱二重箱
全体サイズ:縦201*横308 画サイズ:縦*横



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近衞家熈:(このえ いえひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。後陽成天皇の男系四世子孫である。
寛文7年(1667年)6月4日に京都で誕生。幼名は増君。延宝元年(1673年)11月に元服し、従五位上に叙せられた。同時に昇殿を許される。延宝4年(1676年)1月に従三位に叙せられる。貞享3年(1686年)3月、20歳で内大臣となる。元禄6年(1693年)8月に右大臣、宝永元年(1704年)1月に左大臣。宝永4年(1707年)11月関白に就任する。宝永6年(1709年)に中御門天皇の摂政となり、更に翌年の宝永7年(1710年)に太政大臣に任ぜられる。正徳元年(1711年)7月太
政大臣辞任。正徳2年(1712年)8月摂政辞任。享保10年(1725年)准三后の宣下。同年12月24日に落飾し、予楽院と号する。



書道は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる空海・小野道風らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は慈胤法親王を師とした。有職故実にも堪能で、礼典儀礼を研究し、『唐六典』の校勘を長年継続して、致仕後の享保9年(1724年)に20年の歳月をかけて完成させ、家熙の没後に刊行された。また、公家茶道に通じた茶人であり、『槐記』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。

なお、家熈の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった山科道安(やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『槐記』11巻により、如実に知ることができる。 『槐記』によれば、家熈は自然科学にも精通し、享保16年(1731年)、雷鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している。 元文元年(1736年)10月3日薨去。享年70。京都市北区の京都大徳寺に葬られる。(1667年~1736年)



補足
家熈は,遠く藤原鎌足を祖とし,平安中期にその栄華を誇った藤原道長に代表される藤原北家の流れで,五摂家筆頭の近衛家の第21代当主です。近衛家の歴代当主は,宮中官職の最高位に上り,朝議において指導的立場にありました。歴代の文芸に対する積極的な活動の成果は,近衛家伝来の古記録や古典籍など,約20万点の文化財として陽明文庫に収められています。こうした中で,家熈は幼い頃より書画に卓抜した才能を示し,長じて学問を好んで博学多識,茶道,華道,香道にも精通して多芸多能であり,当時の宮廷文化の第一人者でした。上代様を学んだ独白の書風による仮名や草書,楷書などによって,和歌や漢籍などを流麗にしたためています。また,明治11年に近衛家から献上された古筆の名品の中には,その表装や収納の箱,袋などの取り合わせを家熈が手がけたものもあります。家熈がお抱え絵師とした渡辺始興(わたなべしこう)(1683~1755)の屏風作品などがあり,家熈は絵画への深い関心があった。家熙の作には落ち着いた美しさ,堂々とした気品があります。書にせよ,絵画にせよ,彼が嗜んだ風雅には,常に探求心が宿っている。

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徳不孤必有隣:(とくはこならず かならずとなりあり)」 
論語・里仁篇に「子曰。徳不孤。必有鄰。」( 子し曰いわく、徳とくは孤こならず、必かならず隣となりあり。)とあります。「徳のある人(人格者)は孤立することなく、必ず共鳴者、理解者が現れるものである」。これは孔子の言葉です。徳のある人、道徳性の高い人は、孤立することはなく、必ず隣人(同行者、理解者)がいるという意味である。真面目で硬い人は、ややもすると近寄りがたく敬遠されがちである。しかし、その人の信念に本当の徳があれば、自然と周りが支持してくれるはずです。

◦『集解』には「方ほうは類るいを以て聚あつまり、同志相求む。故に必ず鄰有り。是ここを以て孤ならず」(方以類聚、同志相求。故必有鄰。是以不孤)とある。「方は類を以て聚あつまる」(方以類聚)は『易経』繫辞上伝の言葉。

◦『集注』には「鄰は、猶お親のごときなり。徳は孤立せず、必ず類を以て応ず。故に徳有る者は、必ず其の類有りて之に従う。居の鄰有るがごときなり」(鄰、猶親也。德不孤立、必以類應。故有德者、必有其類從之。如居之有鄰也)とある。



◦伊藤仁斎は「人知らずして慍いからざるは、君子の心なり。然れども徳は孤ならず、必ず鄰有るは、必然の理なり。故に夫子徳の既に成りて、必ず孤立無きの理を言いて、以て学者の志を定めたり。亦た禄其の中に在るの意なり。学者惟だ当に徳の成らざるを患いて、饑き渇かつを以て心の害と為すこと無かるなり」(人不知而不慍、君子之心也。然德不孤必有鄰、必然之理也。故夫子言德之既成、必無孤立之理、以定學者之志。亦祿在其中之意。學者惟當患德之不成、而無以饑渇爲心害也)と言っている。



◦荻生徂徠は「鄰は、臣なるかな鄰なるかなの鄰のごとし。必ず助くる有るを謂うなり。易えきに曰く、敬義立ちて徳孤ならずとは、亦た助け多きを謂える者なり。詩に云う、民の彝いを秉とれる、是の懿い徳とくを好む、と。是れ徳の助け多き所以なり。夫れ徳ありて而も助くる有ること莫なき者は、則ち湯とうと文王と、豈に七十里若しくは百里にして興らんや。古註に、方ほうは類るいを以て聚あつまり、同志相求むを引くは、謬あやまれりと謂うべし。仁斎先生、禄ろく其の中に在りを引くは、鄙ひなりと謂うべし」(鄰。如臣哉鄰哉之鄰。謂必有助也。易曰。敬義立而德不孤。亦謂多助者也。詩云。民之秉彝。好是懿德。是德之所以多助也。夫德而莫有助焉者。則湯與文王。豈七十里若百里而興乎哉。古註。引方以類聚。同志相求。可謂謬矣。仁齋先生引祿在其中矣。可謂鄙矣)と記述しています。



茶掛けにするにはちと軸が長い・・。誂は一級品。きちんとした指物師の収納箱の作品は意外に少ないですね。



表具もいい。



大切に保管されてきた嬉しい作品のようですが・・・。

清暁の富嶽 山元櫻月筆

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郷里では母の一周忌を終えて少し時間があったので、倉庫から漆器の器でめぼしいものを探しだして手入れをしました。



ひとつ目が黒塗りの膳の一対です。「鉢臺貮 島村氏」と箱に記されていいますが、「鉢臺」は大きな膳のことを指すのかもしれませんし、収納している箱と中身は違うかもしれません。



作品に使用感はありますが傷みは少ないです。塗りなおしたり、磨きなおす必要はなさそうです。現在はこのような日本産の漆で作った漆器は貴重品になりつつあります。現在の漆器はほとんどが中国産の漆で、品質の良い日本産の漆で作っている漆器は非常に数が少ないです。新たに作ったらいくらかかるやら・・、そもそも日本産の漆でこのような作品は作れないかもしれません。



漆器は時間と共にカビが発生しますので、ときおり拭いてあげなくてはなりません。おそらく数十年も磨いていないはずですが、作品はきれい状態を保っています。また傷つかないように保存することが不可欠です。



膳の使用例:「黒塗(真塗)膳」、一緒に使う「八十椀(はちじゅうわん)」
「八十椀」は8つの器を重ねたりはずしたりして蓋にも取り皿にも使える機能的な器のことです。黒の漆塗りで、渕には磨き蒔絵による金渕が施してあります。

*飯、汁、坪、平 蓋と身全部合わせて8つあるので、八十椀。これに、猪口、茶津、木皿、大皿 をあわせて12で、百二十椀といわれています。



収納されている箱は杉箱で、ネズミに喰われたか、節があったかで穴があったところは補修されています。先人らはきちんとメンテしていたようです。本家ではまかないのおばさんらが数人で膳などの食器を総出で磨いていたのを思い出します。



ところで先週は南麻布にある会席料亭「分とく山」にてお店のご主人と漆器についてちょっとした談義、かなり参考になりました。

さて本日は、最近になって二作品目の山元櫻月の作品の紹介です。山元春挙から櫻月を紹介するにあたって、山元櫻月の「富士」を描いた作品を外すわけにはいきませんね。

清暁の富嶽 山元櫻月筆
紙本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横760*縦1450 画サイズ:横450*横590



山元桜月は叔父である山元春挙に才能を見出され、春挙の元で指導を受け、最終的には富嶽を描く画家として大成した画家です。

経歴の紹介は下記によります。

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山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生した。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙である。治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられ、叔父である春挙は幼い桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられる。

桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めていった。その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から桜月に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断った。

桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭した。

桜月が描く富士山の絵について、
桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈した。

昭和60年(1985年)に死去、享年97才。

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残念なことにシミが多く発生しているので、染み抜き・改装の手入れが必要な掛け軸となります。車や家と同じで定期的に手入れが必要なのは掛け軸の宿命です。



これほどの大幅で富嶽を描いた山元櫻月の肉筆画作品は意外となかなか入手できないと思われます。リトグラフの作品はよくみかけますが、絵画の作品はリトグラフではつまらなく、何と言っても肉筆画の一品ものでしょう。



掛け軸の作品は共箱で二重箱になっていると嬉しいものです。こういう作品は軸先や表具、箱の造りがしっかりしています。

 

ここまでシミが入るのはよほど保存状態が悪いと思われるでしょうが、大切に保管していても湿気の多い押し入れとかだとこうなってしまいます。



大切にしまっておいたのにと久方ぶりに掛け軸を広げて残念がる方も多く。「掛け軸はかび臭い」と嫌悪される方までいます。しかし、あくまでも保存の問題で、またこうなった掛け軸も痛みがひどくない状態ならかなりの確率で数万円の費用できれいに修復できます。





手前は最近紹介した一三代酒井田柿右衛門作の観音像です。

白磁岩上観音像 十三代酒井田柿右衛門作
共箱 
高さ390*幅220*奥行き130



山元桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられています。繰り返しになりますが、日本画の富士を描いた画家として山元櫻月を外しては考えられないのです。

この山元櫻月の作品は、近々染み抜きする予定ですが、染み抜きした出来上りが愉しみな作品です。

繰り返しになりますが、骨董蒐集では保守が労力の大きな比率を占めます。これをおろそかにしては骨董蒐集の資格がありません。



呉州餅花手 その4 藍褐地双龍文大盤

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今回の帰郷でメンテした漆器のふたつ目の作品です。このような杉の自体が小生にとってはなつかしく、かつ貴重です。もともと父や母共々実家が秋田杉の材木業ゆえ・・・。



朱塗の平碗、20人揃いです。この手の朱塗の碗は当方の数多くありますが、木地が厚く、塗りも丁寧で高級感があります。よく骨董市でみかける木地のうすいものや塗が雑なものとは一線を画する作品です。一度すべての上手の朱塗の漆器を並べてみようかと思っています。



さて、本日紹介する「明末呉州餅花手の作品 その4」ですが、同図の作品が東京国立博物館蔵の作品にあります。数が少ない餅花手の中でとくに龍や楼閣文様の作品は数が少なく貴重です。この手の作品は下記に紹介する東京国立博物館蔵以外の作品はみたことがありません。



呉州餅花手 藍褐地双龍文大盤
合杉箱入
口径415*高台径*高さ95



呉須(藍釉)をベースに白、濃い呉須、鉄釉で文様が描かれています。



高台は御多分にもれず思い切った砂付き高台です。



口縁は外側に反り返っています。これ漳州窯の大盤の上等品によくある器形です。



実に豪快な作りになっています。中央部の丸がおそらく太陽・・。基本的に呉須赤絵の図柄を踏襲しているようです。



餅花手ははやり餅花文様が一番面白いのですが、この「双龍文」の餅花手は希少価値では群を抜いているでしょう。他に麒麟図や楼閣図の作品がありますが、数段劣ります。また、文様が明確でない作品はとるに足りない作品です。



釉薬の掛け方も実に豪快・・・。



高台内には色を試したのか、鉄釉か呉須の釉薬が付いています。



東京国立博物館蔵の作品は下記の写真です。



他に岡田美術館に白釉白花双龍文盤(餅花手)があるようですが、他に公開されている同手の作品はないようです。



むろん、東京国立博物館蔵の作品は無傷でしょうが、当方の本日紹介する作品は残念ながら補修跡があります。




なお箱裏には「呉須手大皿(明末)平成8年4月30日 銀座「なかむら」より買い入れ 価 50万也」との書付がありますが、銀座「なかむら」については不詳です。



現在では50万円では到底入手できないほど貴重な作品かもしれません。



呉須赤絵の作品や今での餅花手らと飾って愉しんでいます。



40センチを超える大皿は見ごたえがありますね。



大皿用の皿立も揃いで揃えています。これだけ揃ってくると我ながら壮観だな~と思います。そう蒐集する者は蒐集した作品を一堂に並べたがるものなのです。

巴里 色紙 田村孝之助筆 

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さて短い帰郷でも夜遅く手入れしきて漆器の第3弾です。



箱には「洗朱吸椀 二十人揃」とあります。



この作品は昨日、紹介した朱塗とは違い木地がとても薄くなっています。



蓋の表には飛翔する双鶴が蒔絵で描かれています。



裏には松に旭日が描かれています。



見込みには亀・・・。



結婚式か正月か、いずれ祝い膳用でしょう。



本日の作品紹介です。本格的な作品の入手が難しい画家の作品は色紙の作品だと手頃な値段で入手できることがあります。本日はそのような画家の色紙の作品の紹介です。

巴里 色紙 田村孝之助筆 
紙本水彩 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



資金が不足しているので、色紙の作品で手頃な値段のなにかめぼしい作品がないかと物色してみたら、ネットオークションにて本作品を1万円ほどで落札しました。



戦後、渡欧した頃のパリを描かれた作品と推定されます。

 

おそらく本ブログでは初めて紹介する画家だと思います。田村孝之介に関する来歴は下記のとおりです。

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田村孝之介:(たむら こうのすけ) 1903年9月8日~ 1986年6月30日洋画家、文化功労者。 明治36(1903)年9月8日、大阪市に生まれる。本名大西孝之助。大正9年上京して太平洋画会研究所に学ぶが、翌年大阪に帰り小出楢重に師事。同13年小出らが信濃橋洋画研究所を創立すると同所で修学し、ひき続き小出、鍋井克之の指導を受ける。同年第1回大阪市美術協会展に「静物」を初出品、同15年第7回中央美術展に出品し中央画界に登場する。昭和2年第14回二科展に「裸婦立像」「風景」で初入選。同11年同展に「薄衣」「噴水」「海風」を出品して奨励を受賞。翌12年二科会員に推される。

妻・ふきとともに(昭和29年:1954年)



戦後は二科会再建に参加せず宮本三郎らとともに9人の創立会員をもって二紀会を結成し、以後同会に出品を続ける。27年渡欧しフランス、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインなどを巡って翌年帰国、同37年渡米し、7ケ月滞在の後ヨーロッパをまわって38年10月帰国する。以後たびたび渡欧し、ヨーロッパ風景を多く描く。49年宮本三郎の死去に伴い二紀会理事長に就任。



59年日本芸術院会員となり、60年文化功労者として顕彰された。フォーヴ的な明るい色彩と装飾性を特色とし、主に裸婦、風景画を描き、モダニズムが感じられる風俗画に魅力的な作品を残した。著書に『スケッチの技法』(昭和33年、美術出版社)、『大阪 わがふるさとの……』(藤沢恒夫と共著、同34年、中外書房)があり、52年には『田村孝之介画集』(日動出版)が刊行された。胃かいようのため東京都渋谷区の中央鉄道病院で死去した。享年82歳。

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なんでも鑑定団には下記の作品が出品されたようです。

参考作品
赤富士 田村孝之介画
2013年02月01日 なんでも鑑定団出品作
評価金額:150万

箱根芦ノ湖から見た赤富士の風景だそうです。



なお1970年頃、人形の絵を集中して書いていた時期があり、その頃の人形シリーズは人気作となっており、下記の作品もなんでも鑑定団に出品されています。



評価金額は90万だそうですが、現在ではそれほど売買金額は高くなく、例にもれず「なんでも鑑定団」の評価金額の10分の1が妥当でしょう。



本日紹介した作品は真作と思われますが、こちらの落札した金額は妥当か否かは分かりません。



色紙額は安っぽいものではなく、それなりに高級感のあるものがいいですね。



色紙額はいいものを2~3点あると作品を取り替えて楽しめますね。

贋作考 大津絵 太夫図  

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漆器の手入れの第4弾です。



箱書には「明治三十八年□八月 □□吸椀 二拾人揃入」とあります。ということは1905年の作品です。今から100年以上前の作品です。



蓋には蝶の彫。なんともモダンです。



100年前、正確には114年前の作。50年前の漆器を云々する方もいますが、漆器はやはり明治期でしょう。



内側には蓋と器本体に「ススキ?」の文様があります。



古来よりあるものはあらたに集めたものに対して重みがあります。まだ全部手入れしたわけではありませんが、このような作品が手入れしきれないほどあります。ただ夜更けに口笛を吹くながら楽しみながらできるのは好きだからでしょう。



本日の本題です。

最初に本ブログで「贋作考」と題されて投稿されている作品は、紹介した作品が必ずしも贋作だとは限りませんので、本文の内容を注意深く読んでください。てっきり贋作だと勘違いされて解釈されては困ることもあります。あくまでも100%は真作とは当方では言い切れないという作品であるという意味です。

贋作考 大津絵 太夫図  
紙本着色軸装 軸先 合箱 
全体サイズ:縦1485*横325 画サイズ:縦690*横240

 

大津絵は民芸運動もあって人気が出たために、昭和に入ってから贋作が作られるようになり、紙自体に茶などで古色をつけており、古く見せるためにさらに折っていくため、折り目が均等に入っているようなものは割に贋作が多い。本作品もそのような贋作の可能性を購入時には疑ってかかったが、実物をよくみるとそのような小細工をした形跡はみられない。



大津絵は最盛期の江戸期かどうかで大きく評価が違う点を肝に銘じておく必要がある作品群であり、古く見せるための贋作や時代の下がった作品が数多く出回っているようです。



本作品は改装されており表具はそれなりに気を使った表具となっています。



箱もそれなりにいい箱になっています。贋作はこのようなところが粗末になっているものです。



大津絵に資料には下記の本があります。



「太夫図」の作品も掲載されています。



これらの作品は江戸期の最盛期における作品で古さも十分にあるものです。



本日紹介する作品は少なくてもやはり時代は下がる作品でしょう。



本作品は時代が少し下がっているでしょう。



下記の作品は「文読む女」に分類される作品ですが、女性の描き方には共通するものがあります。



大津絵はその種類は多いのですが、ただ実は大津絵の代表作の10種すらそろえるのはたやすくありません。人気が高く、市場に江戸期の作品が出回ることが少ないからです。



ましてや元禄期の作品は市場に出回ることはなくなったように思います。



なにはともあれ、民芸運動で再評価された大津絵、展示室に飾って愉しんでします。



 

民芸作品は親しみがあっていいものです。大津絵のひと作品くらいはないと民芸ファンとは言えないでしょう それと日本産の漆を使用した古い漆器の揃いを使ってみることも民芸ファンには必須ですね。


面白きもの 白丹波焼 徳利(一輪挿し)

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母の一周忌を終えて短い帰郷は終わりに近づき、郷里はいい天気でした。



空港まで時間があったのでちょっと男の隠れ家にて休息・・・、ついでに次ぎまた帰郷するまでしばらく来ないので刀剣の手入れをしました。



木漏れ日射す座敷でのんびりと・・、口笛を吹きながら、ある程度の緊張感を持って刀剣と向かい合います。

作品の詳細は下記のとおりです。詳しくは掲載ブログ記事をご覧ください。

刀剣 その6 脇差(短刀)その3 萬歳安則作
板目文半太刀拵
長さ:一尺一寸 反り:一分 目釘:二個
銘:萬歳安則作 文政乙酉年二月日
彫名:摩利支尊天 妙見大菩薩
拵え:鞘漆板目文 小柄(金時銘)



床の掛け軸は剣の達人、山岡鉄舟の書です。



銀座の「刀剣柴田」に依頼して研いでもらった刀剣で、ついでに簡単な鑑定もされています。



それほど価値のある刀剣ではありませんが、なにしろ「男の隠れ家」に代々伝来してきたものです。「文政乙酉年」と刻されていることから1825年、文政8年の作で今から200年前のものです。



目跡から長さを短くしている可能性がありますね。



痛んでいた拵えも修復されています。



鍔は痛むので刀剣や拵えからは外して保管します。



ついでに脇差も手入れしておきました。

刀剣 その7 脇差 その3 無銘
長さ:一尺七寸 反り:四分 目釘:一個
無銘 刀 白鞘 拵え共
拵え:鞘螺鈿



大したものではありませんが、こちらも先人からの伝来です。金銭より重いものがそこにはあります。



なんといっても200年の歴史がある伝来作品です。そこには蒐集作品とは一線を画す大切さがあるのです。



小一時間過ごすうちに慌てて空港へ・・、その前に掛け軸を変えていこう・・・・。

さて本日の作品の紹介です。

正直なところ、白丹波はむろんのことあまり丹波焼に興味のない当方ですが、本日は雨漏手のような趣が気に入り入手した白丹波焼の作品です。

白丹波焼 一輪挿し
口部金属 合箱入
口径37*最大胴径100*底径*高さ262

 

丹波において江戸時代末期には、立杭周辺で白土薬が採取されたこともあって、「白丹波」と呼ばれる白釉を使用した製品が多くなり、徳利・壷類をはじめ飯碗・鉢・湯呑など多種の製品が作られたようです。



最近のネットオークションでは下記の蝋燭徳利の作品が40万円で落札しています。

蝋燭徳利 江戸後期。
高さ106*胴径64

 

高さのある本作品と同型のコンディションの良い丹波徳利の例では下記の作品があります。
*ただ景色の面白味には欠けるようです。

丹波白徳利 江戸後期
高さ約250*胴径67高 販売価格:12万円



本作品は上記のような高さのある徳利であったのでしょう。口部分が欠損していたので、金属製のものを取り付けたようです。



入手時の釉の感じです。





底は下記の写真のようになっています。





この作品に水を入れて一晩すると下記の写真のようになりました。





釉薬の抜けた穴部分が星のような丸くなるので、まるで星空のような景色になります。









このような雨漏り手の文様が汚らしくなるか、味わいのあるものになるかがいい作品かどうかの決め手になるのでしょう。



どうみてもこの仏具のような金属製の口は不自然なので切り取ってしまうことにしました。



切断は石材店の方に依頼しました。サンダーにて慎重にカットしてもらいました。伝来の作品でないと気楽に処置できますね。



さて、この切断部を覆輪にて処置しようと町田の駅前のお茶道具店を訪れたところ、やれる職人がいなくなったとのこと。それでは漆で金繕いのように処置することを検討中です。

*町田の駅前の老舗のお茶道具店では無理だということで、輪島の長屋工房に依頼して金繕いで覆輪のように処置してもらっています。

仮題 炭焼小屋 福田豊四郎筆 

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空港に行く前に「男の隠れ家」の床の掛け軸を山岡鉄舟の書から徳富蘇峰の書に変えてきました。



居住している義妹は何ら興味がないので、こちらは好き勝手に展示品を変えています。

 

空港に行く時間が迫っている中、蔵に入って物色してきました。何がどこにあるか分かっているので我ながら実に手早い。

 

リンゴ台風で屋根裏から出てきた掛け軸のひとつ・・。さて、何とか書いてあるのか?

本日の作品は福田豊四郎の作品の紹介です。

正直なところこの作品を最初に観た時はすぐには真作と判断できませんでした。まず落款が珍しいこととこの印章は観たことがないことからでした。しかしながら作行は戦前の作と推定され、出来がよいので購入することにしました。価格は5万円強でした。当方の所蔵する作品のファイルや資料を調べると徐々に判明したきたのが、この落款の書体と印章は昭和15年頃の短期間に用いられていたということです。



*上記写真の左の「聖観音像」は平櫛田中作です。「聖観音像」の手前のお猪口は明末赤絵・・。

多くの画家がそうであるように安定した落款の書体や印章を用いるのは作風が安定する晩年になってからのようで、壮年期には落款も印章も数多く変遷する傾向にありますね。



*上記写真の手前は河井寛次郎の花瓶です。花台は庭にあった欅の根を加工したもの。

仮題 炭焼小屋 福田豊四郎筆 昭和15年頃
絹本着色額装(改装が必要) 誂:タトウ+黄袋
全体サイズ:縦720*横810 画サイズ:縦485*横575 F12号



10号程度の作品は福田豊四郎の作品には多くありますが、12号のサイズとなると極端に作品の数が少なくなります。



本作品は共シールなどなく、作品中の落款と印章のみです。額も古く当時のままのものでしょう。



当方の他の所蔵作品「山湖秋」の落款と書体は同じ(下記写真中央が作品中の落款、右が共箱の落款)であり、本作品は昭和15年頃の作と推定されます。

  

さらに昭和16年発刊の画集「福田豊四郎画集」(他の所蔵作品「月と小魚」昭和11年5月作が掲載されている)に掲載されている作品「初夏水槽」(昭和13年6月作)に若干の縦横比に違いがありますが同一印章と判断されます。

 

なお印章の縦横比の若干の違いは絹本裏打ち、貼り付けや写真撮影の際に生じるものとそうでないものとがあり、縦横比の違いにて一概に贋作とは決め込まないほうがいいでしょう。



下記の写真において左が本作品の印章、右が「初夏水槽」の印章です。よく用いている印章は白文朱方印なので、本作品に押印されている朱文白方印は使用期間が短く非常に珍しい印章です。

 

*ただインターネットオークションに出品されている福田豊四郎の作品には贋作が多くありますので要注意です。印章や落款まで真作に酷似しているものは少ないようです。作行も福田豊四郎らしさは真似できていませんので容易に真贋の判別はできます。



戦後の抽象化された福田豊四郎の作品が人気が高いですが、戦前、戦時中のノスタルジック趣向の作品にも根強い人気があります。



下記の作品は上記の落款の参考にした「山湖秋」という作品です。ほぼ同時期に描いた作品です。

山湖秋 福田豊四郎筆 その87
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横(未測定)

 

作行が似通っています。戦争になる直前か戦争に突入した頃の作となります。



本日の作品にも実は啄木鳥が描かれています。



当方にて福田豊四郎の作品はほぼ100点ほど蒐集となりましたが、小品ばかりながらサラリーマンの割にしてはいい作品が蒐集できたと思っています。



蒐集は止めた訳ではありません。



資料や見識が揃ってきたのでこれからが蒐集の本番です。

*本作品の額装は昭和初期のそのままの状態なので痛みがあり、周囲のマットも汚れているので取り替えることにしました。

2019年7月 額 マット新調、一部布タトウ、黄袋新調
依頼先:世界堂 費用は5万円ほど

額の痛み、周囲のマットの汚れがあり、2018年7月に額と周囲のマットを新調した。その際に絹本に裏打ちがなく不安定であることから画本体の絹本への裏打ちを検討したが、絹本が経年劣化により、マットからの切り離しに際して破損の恐れがあるため、マットの張り替えが無理であるとの判断から絹本自体には手を加えてはいない。額装は既存の額を取り払い、炭焼小屋をイメージしてくすんだ黒っぽい額に新調し、マットは現状のマットから画本体の絹本と切り離せないため、既存のマットに新しいマットを被せた方法とし、斜めの部分にギリギリで新たな見切り縁を回しています。



修理が完成した作品が下記の写真です。どうです? 元々いい作品でしたが、既存額の汚れを隠すことで立派になったでしょう



額縁などは「炭焼小屋」のイメージに合う額装にしました。



山中の朝に霧のかかった炭焼小屋のある木立の情景を描き、啄木鳥を描くことで啄木鳥の音がまるで聞こえてくるような情景を描いています。描いたのは戦時中の昭和15年頃と推察されます。戦前の代表作となりうる佳作のひとつであろうと思います。作品そのものはインターネットオークションで3万円ほどにて落札した作品です。

さてこの作品、まともに購入したらいくらか? そうですね、戦前の作なので30万~40万円といったところでしょうか? その値段でも買って損はない買い物でしょう。先日郷里の骨董店でいい出来の8号の額装の作品が35万円でした。

松 平福百穂筆 大正14年(1925年)頃

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義父の葬儀を終えて、休む間もなく母の一周忌で郷里へ。夜遅くの帰京の羽田空港ではさすがに疲れた親子・・・。



でも意外に息子は元気、頼もしくなってきた。



極力自分でやらせるようにしている。



さて本日の作品の紹介です。

資料を整理してみて真贋の判断が最も難しい画家の一人が平福百穂でしょう。まず肉筆と区別が難しい工藝作品がたくさんあります。落款と印章が真作と同じですから、どのような工芸品が出回っているかを知らないと肉筆の真作と思い込んでしまいます。またかなり似た筆致の作品で鑑定があり、印章もかなり似せた作品が数多くありますので、慎重な判断を要します。

松 平福百穂筆 大正14年(1925年)頃
絹本着色軸装 軸先 島田柏樹鑑定箱 二重箱
全体サイズ:横480*縦2220 画サイズ:横335*縦1290

 

平福百穂の作品においては目の粗い絹本に描かれた作品は精巧な工藝作品を疑ってかかって方が無難です。明らかな紙本の印刷作品は解りやすいのですが、絹本の工藝作品は印刷か否かは非常に解りにくいです。むろん紙本でも精巧な作品があります。ただ真印と印章の大きさが違うようです。よって印章の大きさまで比較する必要があります。当方でも二作品ほど工芸品が入り混じっていました。印章の大きさが違うことや印章に若干の違いがあり判断がつきました。肉筆か否かは素人では判らないくらいよくできています。



鑑定箱のある平福百穂の作品でも鑑定を信用しないことです。また共箱でも怪しく、共箱ではないものはもっと怪しいと思ってください。当方では再整理した段階で5作品ほど真作とは断定できない作品がありました。真贋藍半ばというものまであります。贋作に使われる印章は朱文白方印「百穂」が多い傾向がみられます。



この朱文白方印「百穂」には幾つかの種類がありますので、年代との照合や印影の確認が不可欠です。ただあくまでも作行が真贋のポイントです。贋作には怪しい?雰囲気というものがありますが、筆致はよく似ていますので、ちょっと見た感じでは真作と判断しがちです。



以上の経験から踏まえて本作品はきちんとした真作に相違ありません。こういう筋の通った作品は一目で真贋が解るものです。



真作はその箱の誂えですぐ解ることがあります。



記述したくても書いたのでは理解できないと思いますが、まず箱の作りが違います。

ところで防虫剤いれるところまで作っている箱は意外に少ないです。これは防虫剤を入れるところに防虫剤をいれると意外に効能が少なくなるからでしょう。



表具もまったく出来が違います。当時はいい作品は箱や表具の誂えをきちんとした指物師や表具師に依頼したのでしょう。



ところで本作品を購入した理由は「奇跡の一本松(岩手県陸前高田市気仙町の高田松原跡地にある)」にそっくりだからです。

 

津波被害において松原の7万本の木の中で一本松だけが唯一生き残った松です。下左の写真が震災後ですが、この木を保護する活動が続けられたものの、根が腐り枯死と判断された状況が下右の写真です。

 

小生も震災直後の陸前高田を訪れており、この作品を観るたびに「奇跡の一本松」を思い出します。

作品には門下生の島田柏樹の鑑定があり、しっかりした鑑定です。平福一郎、舟山三郎の鑑定が一般的ですが、こちらもよく似せた鑑定書きや箱書きがあります。

 

下右の1925年(大正14年)作の「青岱」(図集掲載)の落款と印章と本作品は一致します。この印章が押印された作品は意外に数が少ないです。

 

虚実に惑わされず、きちんとした方向に震災復興は向いていくべきでしょう。骨董蒐集も同じで、日々のお努力と研鑽が必要なのでしょう。



すっきりと立った古備前の壺を手前に置きました。人生はこの一本松のようにひとりで強く生きていかないくてはならない局面が多い。息子にはそういう生き方ができるようになってほしい。

立美人図 岡本大更筆 大正10年(1921年)頃

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母に遺品にハンドバックが大量にありましたが、長らく放っておいたのでほとんどがカビなどがあり処分しました。いくつか使えそうな品物は皮の修理店にてクリーニングしてもらいました。



珍しい? 象の皮のハンドバック。今では動物愛護の観点から総すかんでしょうね。なんと桐箱に収まっています。



あとは大したものはないのですが、使用感のないハンドバックはクリーニングしておきました。



シミなども思いのほかきれいになりました。



さてハンドバックを紹介したので、本日は美人画の紹介です。なお明日は郷里で母の一周忌ですので本日から帰省します。

立美人図 岡本大更筆 大正10年(1921年)頃
絹本着色軸装 軸先蒔絵 誂箱 
全体サイズ:縦1930*横565 画サイズ:縦1290*横415

 

本ブログでいくつかの「岡本大更」の作品を紹介していますので、詳細はそちらのブログに記事を参考にしてください。



岡本大更の略歴は下記のとおりです。

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岡本大更(たいこう):日本画家。三重県生。名は直道。明治12年(1879)9月14日、名張郡滝之原村(現・名張市滝之原)で、父・多吉、母・まさの二男として生まれています。

明治12年三重県名張市滝大更8歳の時、一家を上げて上京。神童とうたわれた大更の美人画の境地をきりひらいた作風は当時「近代的な浮世絵」と激賞されたそうです。



若い頃は貧しさのため師につかず、独学にて文部省美術展覧会などで入選を重ね、美人画の大家(近代的な浮世絵師)になっています。明治・大正・昭和初期に大阪画壇をリードした画家のひとりです。



大更は、若くして名張の地を離れたため、伊賀地方では全く忘れ去られた存在となってるようです。

第八・九回文展、第一回院展に入選。人物画を得意とします。また音楽・演劇を好む。戦争が激しくなった同19年(1944)、後妻の郷里、香川県豊島に疎開しています。

翌20年12月、疎開先で死去、満66歳でした。主に大阪に住していました。



*妻の妹だった更園(こうえん・本名、星野延子)は、20歳で義兄大更の私塾「更彩画塾」で、日本画の手ほどきを受け、2年後の大正5年(1916)の文部省美術展覧会で初出品初入選に輝きました。のちに上京し、鏑木清方の門を叩き、女流画家として活躍しました。更園の作品も本ブログにて紹介されています。



上記写真:左から岡本更園、吉岡(木谷)千種、島成園、松本華羊(「女性画家の大家展」より)

*大更の長男・富久馬は更生(こうせい)と号して、京都絵画専門学校を卒業後、土田麦僊に師事し、大阪美術展覧会
などに出品しました。戦後、当時の名張町で「桔梗ヶ丘学園」が開校されるや、日本画講師に就任し、名張地方の画家仲間で結成した「コンパル画会」に参画するなど活躍しましたが、昭和55年(1980)、74歳で没しています。

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本作品の表具は天地の長さが不自然です。天地交換で処置しようと思っています。



詳しくは「日本画家岡本大更―その画業と更生・更園(山田 一生著, 編集)」という画集がありますので参考にするといいでしょう。



さて鏑木清方、上村松園、島成園、池田焦園、伊東深水らは高値の美人画の作品ですが、本ブログで紹介している三木翆山、木谷千種、岡本大更らはまだ手頃な値段で入手できる美人画家の作品が市場にたくさんあるようです。



有名画家らの作品を愉しむには複製画や版画、シルククリーンなど多々ありますが、肉筆画1点でそれら1000点にも相当する魅力があるものです。蒐集は著名な画家ではなくてもマイナーな画家の肉筆画にすべきというの私の考えです。

白馬山花畑図 山元櫻月筆

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母の遺品整理から今回は下駄の第2弾です。前回は津軽塗の下駄の修理でしたが、今回は木地そのものの下駄の修理です。



どこにもありそうな下駄ですが、家内曰くは最近は「木地そのものの下駄」はあまりないらしい。



鼻緒が粋です。男物の下駄は蛇の皮です。小生も息子も巳年ゆえ早速修理しておきました。



手を付けたばかりの母の遺品ですが、これではいつまでかかるかわかりませんね。今日は母の一周忌ですので、帰郷しています。

さて本日紹介する作品は小生にとっては思い出深い白馬岳の雪渓を描いた作品です。

白馬山花畑図 山元櫻月筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱(初号春汀銘)
全体サイズ:横537*縦2250 画サイズ:横418*横1335

 

白馬岳は正式には「代馬岳」ともいいます。故に「はくば」ではなく「しろうま」と呼ぶのが正しいと思います。田んぼにて馬が田植えの段取りに入る(田代)時期に、雪渓の雪が解けて「雪渓が馬の形になる」ので「代馬岳」と呼称したのが、諸説ある中で信頼できるであろう「しろうま」の語源のようです。



大学生の頃、登山を始めて間もない頃に、友人らと上高地から入って槍ヶ岳を縦走し、北アルプスの表銀座を縦走後に針ノ木の雪渓を下山し、その日のうち他の友人らと別れて一人の友人と二人で白馬の雪渓を登ったことがあります。日本三大雪渓のうちの二つ(もうひとつは剣沢)を一日で踏破したのですが、その日に雪渓で間違ってホワイトガソリンを飲み具合が悪くなったのを覚えています。

*雪渓は下りはあっという間ですが登るのは意外に体力が要ります。



運の悪いことにその夜には白馬岳を台風が直撃・・。設営したテントは飛ばされそうになり、一晩中テントを支えてたいのですが、明け方テント場にはテントを出てみると周囲には一張りのテントもなく、お金のない我ら二人以外はは全員山小屋に避難したそうな・・。



それでもめげることなく翌日には、日本海の親知海岸まで突っ走しり縦走したという元気な頃、花畑を愉しむ余裕などとんでもない!



本作品を描いたのは本ブログでお馴染みの山元春挙を叔父とする山元櫻月です。本ブログでも数度作品が投稿されています。

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山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生しています。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙です。

治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられました。叔父である春挙は幼ない桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられています。

桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めています。

その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から「桜月」に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断ったそうです。

桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭しました。

桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられています。

桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈したそうです。

昭和60年(1985年)に死去しました。享年97才。

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日本海に抜ける縦走路は今のように登山道は整備されておらず、悪戦苦闘。とくに夏は高度を下げるに従って猛暑を味わい、沢に降りると沢は蛇だらけ・・、またあわてて突っ走る羽目になるという散々な山行でした。



親不知海岸についてお腹の空いた我らは食堂で有り金をはたいてカレーやら親子丼やら注文したのですが、胃袋が小さくなっており食べきれず・・。

 

夏休みだったので親不知海岸から郷里へ帰省したのですが、お金もないので夜行や鈍行を乗り継いで帰りました。「若いとはこういうことができるということ」と思い出します。ともかくお金がなかった頃でアルバイトはいろんなことをしましたが、すべて登山に使ったという親不孝者でです。

*手前は金城次郎作の大皿です。



学生時代はハイキング部に毛の生えたような6つの大学をまたいだメンバーで構成されたALK(「WALK」,「TALK」,「あるく」をもじった?)という部に入部したのですが、もっと本格的な登山がしたくてワンゲル部の友人らと登山していました。

 

そのALKという集まりは今年で50周年だそうです。私らは7期生ですから月日の経つのは早いものですし、また同好会のような集まりが50年も続いているのもたいしたものです。



合コンのような集まりでしたが、続いている要素として登山の魅力が大きいのだろうと思います。

山岳画に魅力を感じるのは登山の経験からだろうし、一度も登ったことのない富士山が魅力的と感じるのは、南北アルプスから見る富士山が感動的だったからでしょう。

閑山斧音 酒井三良筆

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子供の夏休みは長い・・・。



義父が亡くなり何かと忙しく、また息子が愉しみにしていた帰郷もかなわず、家に閉じこもっていたのでは精神衛生上よくないので、家内と代わる代わるで遊んでいます。小生の休日には犬のシャンプー・・・。なにかと男は段取りから凝るもの、シャワーから道具を揃えます。



我が家の愛犬は柴犬で14歳、「モモ」です。飼い主の義父が亡くなり、新たなご主人様に可愛がられています。完全に外で飼われていますが、30メートルほど自由に動き回れるようになっています。

さて本日はまたまた酒井三良の作品の紹介です。

閑山斧音 酒井三良筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横655*縦1565 画サイズ:横530*縦465



酒井三良は画家修行としてはじめは坂内青嵐に絵の手ほどきを受けることになりますが、結果的に自らの求める画風との違いを感じてしまい、会津に住み込み独学で絵画を描き続けることになります。

坂内青嵐:(1881-1936) 福島県大沼郡会津高田町生まれ、本名は滝之助。東京美術学校日本画科本科で寺崎広業に学び、明治41(1908)年卒業。文展及び帝展に入選し、歴史画家として著名になる。この作品は、附属高等女学校に通う娘(房江)をモデルに描いたものである。

本ブログでおなじみの寺崎廣業に学び、歴史画家として名を成した坂内青嵐と酒井三良の描きかった絵とは大きく異なったのことは容易に予測できます。



酒井三良の作品の多くはのどかな田園風景を郷土愛に満ちあふれた美しいタッチで情緒的に描く、美しい作品を描きます。

その淡く白みを基調としいた作品はどこか繊細であり、緻密な表現力で描かれる日本人の琴線に触れるような作風が多くあるのが特徴と言えます。



銀座松坂屋で個展を開催したりと、非常に画家としても精力的に活動をしていましたが、私生活では住居を様々な場所へ移し、決して豊かと言えない生活を妻と一人娘を引き連れて過ごしていました。



横山大観の勧めで太平洋側ののどかな場所で暮らすことができるようになりました。戦後、生活も徐々に安定していく酒井三良は自然と親しんでいた経験をもとに、日本の風景や四季を愛しその風景を中心に描くようになり、多くの作品を遺すこととなります。



家族の暖かさを思い出させ胸を熱くさせるような郷土愛に満ちあふれた作品多くあり。苦しい日々をくぐり抜けながら作品を描き続けた酒井三良です。

 

愛らしい彼の作品から、情愛を感じ取れる感受性を大切にしたいものです。敵わぬことながら「家族よ永遠なれ」と願わずにはいられません。

リメイク「訂正」 面白き作品 背の高い女・背の低い男 伝川端龍子筆→前田青邨

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今年のお盆には義父が亡くなり、告別式が終わって一息つく間もなく母の一周忌と慌ただしく、ブログの投稿記事は相変わらず推敲している時間もなく、拙文だらけですが、この度描いた画家の記述の間違いの投稿を見つけた次第です。

本作品は表具が痛んでいたので改装しましたが、どうも間違って「川端龍子筆」として投稿していたようです。



本作品は前田青邨の作です。



以下は前回投稿したままの記事です。

思わす面白い作品なので入手しましたが、前田青邨の作品かどうかは二の次です。

背の高い女・背の低い男 伝前田青邨筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先樹脂 誂箱タトウ
全体サイズ:縦1720*横1017  画サイズ:縦931*横867



一見するとどのような情景を描いた作品かわかりませんね。



絵の脇に書かれたセリフを読んでいくと解ります。



背の高い女性と背の低い男性のお見合いのようです。



一人一人の描き方が実にユニークそのもの。余計な説明抜きで愉しんでください。





















前田青邨が描いた作品かどうかは小生にとっては関知するところではありません。当方は愉しめる作品を蒐集するのみ。



洒脱な作品・・・?? 箱もなく紙表具のまま・・・。ということで表具をきちんとして、箱も誂えました。

氏素性の解らぬ作品 伝古九谷青手 葡萄文鉢

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今回の帰省では法事が終了後、夕刻に御住職の自宅に呼ばれて骨董談義・・。



御住職の蒐集は陶磁器で中国陶磁器や李朝がメインのようですが、非常に難しい分野に挑戦しているようです。

陶磁器を蒐集する者の垂涎の作品群に青手古九谷というものがありますが、これもまた判断の難しい作品群で、いくらか解ってきて、明らかに明治以降の模倣作品である作品には当方では食指が動かなくなりましたが、まだ真作の領域には程遠いものと感じています。

手の届かぬ作品なら指をくわえていみていてもつまらない、資金が足りなくてもチャレンジするのが小生の懲りないいところ・・・。

氏素性の解らぬ作品 古九谷青手 葡萄文鉢
合箱
口径290*高台径*高さ70



このような作品は青手古九谷と称されています。青手古九谷は緑釉を多く用いて赤を使用しないことからこう呼ばれ、緑・黄・紫の三彩古九谷、緑・黄の二彩古九谷があります。 素地も良質の磁石を使用したものと鉄分の多いやや質の悪い素地のものの二手があります。交趾古九谷・ペルシャ手九谷ともいわれています。また白抜きが珍重されています。



本作品は緑・黄色・紫の三彩古九谷様式で、胎土は鉄分の多いやや質の悪い素地のものに分類されるのでしょう。高台には目跡がなく、高台内は角ばった「福」の字があります。

本作品は焼成中に高台部分から少し下がったのでしょう。愛嬌のある?ゆがんだ器形になっています。



青手は、色使いは五彩手と似ていますが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶしているのが特徴です。

要は古九谷は胎土の汚さを隠すために、口縁に鉄釉薬のようなものを含めて全体に釉薬を掛けているというこです。



「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめました。有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である。」との説が有力となっています。



従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640~1650年代の肥前産と考えられていますが、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もあります。



青手九谷とは九谷焼のうち、見込み(表面の模様)に青色を多く使った磁器のことです。青九谷ともいいます。青色といっても実際は緑色を呈しているし、磁器といっても一般に“半陶半磁”と呼ばれるように陶器のように見えるのが特徴です。



高台(こうだい、底の脚)の中に、「角福」と呼ばれる二重四角の中に福の吉祥字のある銘を持つものが多いですが、ないものもありますので、真贋の決定打にはなりません。



肥前で作られたとする古九谷には目跡(窯の中で器同士の溶着を防ぐスペースサーの跡)があり、九谷村で作られたものには全くないなどから、古九谷は九谷村で作られたものではなく、有田(伊万里)で作られたものとする説(古九谷伊万里説)が出されていますが、目跡の有無も真贋の確証になるものではないようです。



再興九谷では一番の名声を博した「吉田屋窯」が古九谷窯跡地に作られています。大聖寺の豪商豊田伝右衛門が開窯しその屋号から命名されたものです。この吉田屋窯では日用品が多く量産されましたが、古九谷同様高台に角福の入った青手九谷も多く作られています。

赤を使わず塗埋手の技法を使うという青手古九谷の技法を用いたものですが、青手古九谷より落ち着いた濃さをもっています。全体として青く見えるため、青九谷と呼ばれ、後世これに倣った絵付けが多く行われるようになったのですが、吉田屋窯はわずか8年で閉じられています。



残念ながら伝世の青手九谷の真贋は決めがたいとされ、市場でこれらが取引される多くが、次の明治以降のものである可能性が高いと考えられています。



要はこの手の作品は古九谷、再興九谷、明治以降の模倣作品という三種の可能性があり、その多くは明治以降の模倣作品ということ・・。



当方の資料としている雑誌「別冊太陽」に「やきものの真贋と鑑定」という本がありますが、その中に古九谷の真作と判断された作品が掲載されています。



むろん当方で所蔵している作品ではありませんが、この鑑定結果は非常に参考になります。



実物を観ていないので何ともわかりませんが、本来「古九谷」は一見小汚く見えるもののようです。



本日紹介する作品は家内と二人で「全体が暗いよね~、なんか小汚い?」、「でもありうるよね、古九谷かも?」



石の上にも三年・・・??? 少しづつ本物に近づきつつあるように感じています。

さ~、読者の皆さんの感想や如何? 真贋の迷路に入ったら一度抜け出して、明らかな真作のみに世界に戻るといいようですが、迷路に嵌る込むと深みに嵌るは世の常・・・、仏道でも救いようがない???


立美人図 星野(岡本)更園筆

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義父の葬儀、そして母の一周忌と忙しい中、息子はきちんと付き合ってくれました。



葬儀を終えて母の一周忌のために飛行機で短期間での郷里への旅、「田舎は愉しいね!」と郷里の雰囲気と人々の温かさに息子は惹かれているようです。



郷里は過ごしやすい気候となり、秋の収穫が間地かであることが実感されます。



さて、本日の作品の紹介です。

1916年(大正5年)5月、かねてから親交のあった同年代の女性日本画家島成園、木谷千種、岡本更園、松本華羊と結成した「女四人の会」の第一回展が大阪で開催され、ともに井原西鶴の『好色一代女』に取材した諸作を出品、妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼んだそうです。本日はその中の画家の一人、岡本更園の作品の第2作品目の紹介です。

いつ世の世も美人は話題になりやすいものです。

立美人図(少女図) 星野(岡本)更園筆
絹本着色軸装 軸先木製 昭和11年「林石」鑑定箱 
全体サイズ:縦1770*横505 画サイズ:縦1115*横380

 

共箱ではなく、また鑑定されている「林石」なる人物についても詳細は解っていません。箱には「立美人図」となっていますが、当方では「少女図」のほうがいいように思います。



襖を開けて見ている先は何なのでしょうか?



大正ロマンというべきか? 品のある美人画に仕上がっています。



「髪飾りの眼差し」という題も面白いかな? 岡本(星野)更園は本ブログで取り上げている岡本大更の義妹ですが、このような落款は初期の頃か?

更園は明治44年、16歳から独学で絵を学び、義兄の岡本大更から絵の手ほどきを受けたのは大正3年からです。大正7年に鏑木清方の門下生となるも短期間で終えています。

本作品は落款の書体から明治末から大正時代にかけての初期の頃の作と推定しています。この落款の書体の作品は非常に珍しいと思います。印章は当方の他の所蔵作品である「桔梗と童女図」ら他の参考作品と共に同一印章が押印されています。

出来、印章などから真作と断定できますね。



大正期頃にかけて数多くの女流美人画家が活躍しましたが、そのほとんどが忘れ去られています。その中で島成園、木谷千種、池田焦園らは上村松園とは比べるべくもありませんが、本日の岡本更園も含めて出来の良い見るべき作品が多いと思います。



展示室に飾ってほくそ笑んでいる小生は変態か、ロリコンか・・・??? 家内は美人が脇にいるのにと不平を露わにしています



表具は染み抜きして改装するときれいになるでしょうが、まだ改装する一歩手前か???



岡本更園に関する資料は少ないですが、詳細は上記の図録である程度は解ります。



いずれにしても岡本更園の現存する遺作の数は少ないかもしれません。展覧会への出品作についてはモノクロの写真のみが遺っている作品が多いようです。

呉州餅花手 その4 藍褐地双龍文大盤

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今回の帰郷でメンテした漆器のふたつ目の作品です。このような杉の自体が小生にとってはなつかしく、かつ貴重です。もともと父や母共々実家が秋田杉の材木業ゆえ・・・。



朱塗の平碗、20人揃いです。この手の朱塗の碗は当方の数多くありますが、木地が厚く、塗りも丁寧で高級感があります。よく骨董市でみかける木地のうすいものや塗が雑なものとは一線を画する作品です。一度すべての上手の朱塗の漆器を並べてみようかと思っています。



さて、本日紹介する「明末呉州餅花手の作品 その4」ですが、同図の作品が東京国立博物館蔵の作品にあります。数が少ない餅花手の中でとくに龍や楼閣文様の作品は数が少なく貴重です。この手の作品は下記に紹介する東京国立博物館蔵以外の作品はみたことがありません。



呉州餅花手 藍褐地双龍文大盤
合杉箱入
口径415*高台径*高さ95



呉須(藍釉)をベースに白、濃い呉須、鉄釉で文様が描かれています。



高台は御多分にもれず思い切った砂付き高台です。



口縁は外側に反り返っています。これ漳州窯の大盤の上等品によくある器形です。



実に豪快な作りになっています。中央部の丸がおそらく太陽・・。基本的に呉須赤絵の図柄を踏襲しているようです。



餅花手ははやり餅花文様が一番面白いのですが、この「双龍文」の餅花手は希少価値では群を抜いているでしょう。他に麒麟図や楼閣図の作品がありますが、数段劣ります。また、文様が明確でない作品はとるに足りない作品です。



釉薬の掛け方も実に豪快・・・。



高台内には色を試したのか、鉄釉か呉須の釉薬が付いています。



東京国立博物館蔵の作品は下記の写真です。



他に岡田美術館に白釉白花双龍文盤(餅花手)があるようですが、他に公開されている同手の作品はないようです。



むろん、東京国立博物館蔵の作品は無傷でしょうが、当方の本日紹介する作品は残念ながら補修跡があります。




なお箱裏には「呉須手大皿(明末)平成8年4月30日 銀座「なかむら」より買い入れ 価 50万也」との書付がありますが、銀座「なかむら」については不詳です。



現在では50万円では到底入手できないほど貴重な作品かもしれません。



呉須赤絵の作品や今での餅花手らと飾って愉しんでいます。



40センチを超える大皿は見ごたえがありますね。



大皿用の皿立も揃いで揃えています。これだけ揃ってくると我ながら壮観だな~と思います。そう蒐集する者は蒐集した作品を一堂に並べたがるものなのです。

巴里 色紙 田村孝之助筆 

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忙しく短い帰郷でも、郷里の男の隠れ家にて息子が寝静まった夜遅く手入れしきた漆器の第3弾です。



箱には「洗朱吸椀 二十人揃」とあります。



この作品は昨日、紹介した朱塗とは違い木地がとても薄くなっています。蒔絵の漆器は一般に木地は薄いのが原則でしょう。華奢にして華麗さが強調されています。



蓋の表には飛翔する双鶴が蒔絵で描かれています。



裏には松に旭日が描かれています。旭日部分の銀が酸化して黒くなっています。



見込みには亀・・・。軽~い蒔絵、出来は良いようです。漆の塗りが丁寧ですね。



結婚式か正月か、いずれ祝い膳用でしょう。どこにでもあった祝い用の漆器ですが、このような完品の揃いで遺っていることが珍しくなりました。出来の良い、丁寧な作りの作品だから完品で遺っているのでしょう。



本日の作品紹介です。本格的な作品の入手が難しい画家の作品は色紙の作品だと手頃な値段で入手できることがあります。本日はそのような画家の色紙の作品の紹介です。

巴里 色紙 田村孝之助筆 
紙本水彩 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



資金が不足しているので、色紙の作品で手頃な値段のなにかめぼしい作品がないかと物色してみたら、ネットオークションにて本作品を1万円ほどで落札しました。



戦後、渡欧した頃のパリを描かれた作品と推定されます。

 

おそらく本ブログでは初めて紹介する画家だと思います。田村孝之介に関する来歴は下記のとおりです。

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田村孝之介:(たむら こうのすけ) 1903年9月8日~ 1986年6月30日洋画家、文化功労者。 明治36(1903)年9月8日、大阪市に生まれる。本名大西孝之助。大正9年上京して太平洋画会研究所に学ぶが、翌年大阪に帰り小出楢重に師事。同13年小出らが信濃橋洋画研究所を創立すると同所で修学し、ひき続き小出、鍋井克之の指導を受ける。同年第1回大阪市美術協会展に「静物」を初出品、同15年第7回中央美術展に出品し中央画界に登場する。昭和2年第14回二科展に「裸婦立像」「風景」で初入選。同11年同展に「薄衣」「噴水」「海風」を出品して奨励を受賞。翌12年二科会員に推される。

妻・ふきとともに(昭和29年:1954年)



戦後は二科会再建に参加せず宮本三郎らとともに9人の創立会員をもって二紀会を結成し、以後同会に出品を続ける。27年渡欧しフランス、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインなどを巡って翌年帰国、同37年渡米し、7ケ月滞在の後ヨーロッパをまわって38年10月帰国する。以後たびたび渡欧し、ヨーロッパ風景を多く描く。49年宮本三郎の死去に伴い二紀会理事長に就任。



59年日本芸術院会員となり、60年文化功労者として顕彰された。フォーヴ的な明るい色彩と装飾性を特色とし、主に裸婦、風景画を描き、モダニズムが感じられる風俗画に魅力的な作品を残した。著書に『スケッチの技法』(昭和33年、美術出版社)、『大阪 わがふるさとの……』(藤沢恒夫と共著、同34年、中外書房)があり、52年には『田村孝之介画集』(日動出版)が刊行された。胃かいようのため東京都渋谷区の中央鉄道病院で死去した。享年82歳。

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なんでも鑑定団には下記の作品が出品されたようです。

参考作品
赤富士 田村孝之介画
2013年02月01日 なんでも鑑定団出品作
評価金額:150万

箱根芦ノ湖から見た赤富士の風景だそうです。



なお1970年頃、人形の絵を集中して書いていた時期があり、その頃の人形シリーズは人気作となっており、下記の作品もなんでも鑑定団に出品されています。



評価金額は90万だそうですが、現在ではそれほど売買金額は高くなく、例にもれず「なんでも鑑定団」の評価金額の10分の1が妥当でしょう。



本日紹介した作品は真作と思われますが、こちらの落札した金額は妥当か否かは分かりません。



色紙額は安っぽいものではなく、それなりに高級感のあるものがいいですね。



色紙額はいいものを2~3点あると作品を取り替えて楽しめますね。

贋作考 大津絵 太夫図  

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漆器の手入れの第4弾です。



箱書には「明治三十八年□八月 □□吸椀 二拾人揃入」とあります。ということは1905年の作品です。今から100年以上前の作品です。



蓋には蝶の彫。なんともモダンです。



100年前、正確には114年前の作。50年前の漆器を云々する方もいますが、漆器はやはり明治期でしょう。



内側には蓋と器本体に「ススキ?」の文様があります。



古来よりあるものはあらたに集めたものに対して重みがあります。まだ全部手入れしたわけではありませんが、このような作品が手入れしきれないほどあります。ただ夜更けに口笛を吹くながら楽しみながらできるのは好きだからでしょう。



本日の本題です。

最初に本ブログで「贋作考」と題されて投稿されている作品は、紹介した作品が必ずしも贋作だとは限りませんので、本文の内容を注意深く読んでください。てっきり贋作だと勘違いされて解釈されては困ることもあります。あくまでも100%は真作とは当方では言い切れないという作品であるという意味です。

贋作考 大津絵 太夫図  
紙本着色軸装 軸先 合箱 
全体サイズ:縦1485*横325 画サイズ:縦690*横240

 

大津絵は民芸運動もあって人気が出たために、昭和に入ってから贋作が作られるようになり、紙自体に茶などで古色をつけており、古く見せるためにさらに折っていくため、折り目が均等に入っているようなものは割に贋作が多い。本作品もそのような贋作の可能性を購入時には疑ってかかったが、実物をよくみるとそのような小細工をした形跡はみられない。



大津絵は最盛期の江戸期かどうかで大きく評価が違う点を肝に銘じておく必要がある作品群であり、古く見せるための贋作や時代の下がった作品が数多く出回っているようです。



本作品は改装されており表具はそれなりに気を使った表具となっています。



箱もそれなりにいい箱になっています。贋作はこのようなところが粗末になっているものです。



大津絵に資料には下記の本があります。



「太夫図」の作品も掲載されています。



これらの作品は江戸期の最盛期における作品で古さも十分にあるものです。



本日紹介する作品は少なくてもやはり時代は下がる作品でしょう。



本作品は時代が少し下がっているでしょう。



下記の作品は「文読む女」に分類される作品ですが、女性の描き方には共通するものがあります。



大津絵はその種類は多いのですが、ただ実は大津絵の代表作の10種すらそろえるのはたやすくありません。人気が高く、市場に江戸期の作品が出回ることが少ないからです。



ましてや元禄期の作品は市場に出回ることはなくなったように思います。



なにはともあれ、民芸運動で再評価された大津絵、展示室に飾って愉しんでします。



 

民芸作品は親しみがあっていいものです。大津絵のひと作品くらいはないと民芸ファンとは言えないでしょう それと日本産の漆を使用した古い漆器の揃いを使ってみることも民芸ファンには必須ですね。


面白きもの 白丹波焼 徳利(一輪挿し)

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母の一周忌をのための今年の8月末の夏の短い帰郷は終わりに近づき、帰京しようとする郷里はいい天気でした。



飛行機に乗るまで時間があったのでちょっと空港近くの「男の隠れ家」にて休息・・・、ついでに次に帰郷するまでしばらく日にちがあるので「男の隠れ家」にて刀剣の手入れをしました。



木漏れ日射す座敷でのんびりと・・、口笛を吹きながら、ある程度の緊張感を持って刀剣と向かい合いました。

作品の詳細は下記のとおりです。詳しくは掲載ブログ記事をご覧ください。

刀剣 その6 脇差(短刀)その3 萬歳安則作
板目文半太刀拵
長さ:一尺一寸 反り:一分 目釘:二個
銘:萬歳安則作 文政乙酉年二月日
彫名:摩利支尊天 妙見大菩薩
拵え:鞘漆板目文 小柄(金時銘)



床の掛け軸は剣の達人、山岡鉄舟の書です。

*BSフジテレビから出品の依頼のあった作品ですが、出品は遠隔地ということで中止になりましたが・・・。



銀座の「刀剣柴田」に依頼して研いでもらった刀剣で、ついでに簡単な鑑定もされています。



それほど価値のある刀剣ではありませんが、なにしろ「男の隠れ家」に代々伝来してきたものです。「文政乙酉年」と刻されていることから1825年、文政8年の作で今から200年前のものです。



目跡から長さを短くしている可能性がありますね。



痛んでいた拵えも修復されています。



鍔は痛むので刀剣や拵えからは外して保管します。



ついでに脇差も手入れしておきました。

刀剣 その7 脇差 その3 無銘
長さ:一尺七寸 反り:四分 目釘:一個
無銘 刀 白鞘 拵え共
拵え:鞘螺鈿



大したものではありませんが、こちらも先人からの伝来です。蒐集作品とは違い、金銭より重いものがそこにはあります。



なんといっても200年の歴史がある伝来作品です。そこには蒐集作品とは一線を画す歴史があるのです。



またたくまに小一時間が過ぎ、慌てて空港へ・・、おっとその前に掛け軸を変えていこう、忙しい

さて本日の作品の紹介です。本日紹介する作品は丹波焼らしいのですが、正直なところ、「白丹波」はむろんのことあまり丹波焼に興味、知識のない当方ですが、本日は「雨漏手のような趣」が気に入り入手した白丹波焼の作品の紹介です。

白丹波焼 一輪挿し
口部金属 合箱入
口径37*最大胴径100*底径*高さ262

 

丹波において江戸時代末期においては、立杭周辺で白土薬が採取されたこともあって、「白丹波」と呼ばれる白釉を使用した製品が多くなり、徳利・壷類をはじめ飯碗・鉢・湯呑など多種の製品が作られたようです。



最近のネットオークションでは下記の蝋燭徳利の作品が40万円で落札しています。高いですね!

蝋燭徳利 江戸後期。
高さ106*胴径64

 

高さのある本作品と同型のコンディションの良い丹波徳利の例では下記の作品があります。
*ただ景色の面白味には欠けるようです。

丹波白徳利 江戸後期
高さ約250*胴径67高 販売価格:12万円



本作品は上記のような高さのある徳利であったのでしょう。口部分が欠損していたので、金属製のものを取り付けたようです。



入手時の釉の感じです。





底は下記の写真のようになっています。





この作品に水を入れて一晩すると下記の写真のようになりました。





釉薬の抜けた穴部分が星のような丸くなるので、まるで星空のような景色になります。









このような雨漏り手の文様が汚らしくなるか、味わいのあるものになるかがいい作品かどうかの決め手になるのでしょう。



どうみてもこの仏具のような金属製の口は不自然なので切り取ってしまうことにしました。



切断は石材店の方に依頼しました。サンダーにて慎重にカットしてもらいました。伝来の作品でないと気楽に処置できますね。



さて、この切断部を覆輪にて処置しようと町田の駅前のお茶道具店を訪れたところ、やれる職人がいなくなったとのこと。それでは漆で金繕いのように処置することを輪島の長屋工房に依頼して検討しました。



切断した部分を金繕いで隠すのみとしました。



賛否両論?はあろうかと思いますが、どうみても金属製の金物ではダサかった・・・



すっきりしたので花入れに使えそうになりました。いろんなことを試すのも骨董蒐集の愉しみ?

昨日は父が入院中に急変し東京での会食を急遽中止した仙台在住の先輩と、仕切り直しの仙台での会食。会食前に時間が少しあったので、仙台に赴任時代に縁のあった方々へ表敬訪問、時の経るの早いもの、もう20年前のこと。

松 平福百穂筆 大正14年(1925年)頃

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義父の葬儀を終えて、休む間もなく母の一周忌で郷里へ。夜遅くの帰京の羽田空港ではさすがに疲れた親子・・・。



でも意外に息子は元気、頼もしくなってきた。



極力自分でやらせるようにしている。



さて本日の作品の紹介です。

資料を整理してみて真贋の判断が最も難しい画家の一人が平福百穂でしょう。まず肉筆と区別が難しい工藝作品がたくさんあります。落款と印章が真作と同じですから、どのような工芸品が出回っているかを知らないと肉筆の真作と思い込んでしまいます。またかなり似た筆致の作品で鑑定があり、印章もかなり似せた作品が数多くありますので、慎重な判断を要します。

松 平福百穂筆 大正14年(1925年)頃
絹本着色軸装 軸先 島田柏樹鑑定箱 二重箱
全体サイズ:横480*縦2220 画サイズ:横335*縦1290

 

平福百穂の作品においては目の粗い絹本に描かれた作品は精巧な工藝作品を疑ってかかって方が無難です。明らかな紙本の印刷作品は解りやすいのですが、絹本の工藝作品は印刷か否かは非常に解りにくいです。むろん紙本でも精巧な作品があります。ただ真印と印章の大きさが違うようです。よって印章の大きさまで比較する必要があります。当方でも二作品ほど工芸品が入り混じっていました。印章の大きさが違うことや印章に若干の違いがあり判断がつきました。肉筆か否かは素人では判らないくらいよくできています。



鑑定箱のある平福百穂の作品でも鑑定を信用しないことです。また共箱でも怪しく、共箱ではないものはもっと怪しいと思ってください。当方では再整理した段階で5作品ほど真作とは断定できない作品がありました。真贋藍半ばというものまであります。贋作に使われる印章は朱文白方印「百穂」が多い傾向がみられます。



この朱文白方印「百穂」には幾つかの種類がありますので、年代との照合や印影の確認が不可欠です。ただあくまでも作行が真贋のポイントです。贋作には怪しい?雰囲気というものがありますが、筆致はよく似ていますので、ちょっと見た感じでは真作と判断しがちです。



以上の経験から踏まえて本作品はきちんとした真作に相違ありません。こういう筋の通った作品は一目で真贋が解るものです。



真作はその箱の誂えですぐ解ることがあります。



記述したくても書いたのでは理解できないと思いますが、まず箱の作りが違います。

ところで防虫剤いれるところまで作っている箱は意外に少ないです。これは防虫剤を入れるところに防虫剤をいれると意外に効能が少なくなるからでしょう。



表具もまったく出来が違います。当時はいい作品は箱や表具の誂えをきちんとした指物師や表具師に依頼したのでしょう。



ところで本作品を購入した理由は「奇跡の一本松(岩手県陸前高田市気仙町の高田松原跡地にある)」にそっくりだからです。

 

津波被害において松原の7万本の木の中で一本松だけが唯一生き残った松です。下左の写真が震災後ですが、この木を保護する活動が続けられたものの、根が腐り枯死と判断された状況が下右の写真です。

 

小生も震災直後の陸前高田を訪れており、この作品を観るたびに「奇跡の一本松」を思い出します。

作品には門下生の島田柏樹の鑑定があり、しっかりした鑑定です。平福一郎、舟山三郎の鑑定が一般的ですが、こちらもよく似せた鑑定書きや箱書きがあります。

 

下右の1925年(大正14年)作の「青岱」(図集掲載)の落款と印章と本作品は一致します。この印章が押印された作品は意外に数が少ないです。

 

虚実に惑わされず、きちんとした方向に震災復興は向いていくべきでしょう。骨董蒐集も同じで、日々のお努力と研鑽が必要なのでしょう。



すっきりと立った古備前の壺を手前に置きました。人生はこの一本松のようにひとりで強く生きていかないくてはならない局面が多い。息子にはそういう生き方ができるようになってほしい。

仮題 炭焼小屋 福田豊四郎筆 

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空港に行く前に「男の隠れ家」の床の掛け軸を山岡鉄舟の書から徳富蘇峰の書に変えてきました。



居住している義妹は何ら興味がないので、こちらは好き勝手に展示品を変えています。

 

空港に行く時間が迫っている中、蔵に入って物色してきました。何がどこにあるか分かっているので我ながら実に手早い。

 

リンゴ台風で屋根裏から出てきた掛け軸のひとつ・・。さて、何とか書いてあるのか?

本日の作品は福田豊四郎の作品の紹介です。

正直なところこの作品を最初に観た時はすぐには真作と判断できませんでした。まず落款が珍しいこととこの印章は観たことがないことからでした。しかしながら作行は戦前の作と推定され、出来がよいので購入することにしました。価格は5万円強でした。当方の所蔵する作品のファイルや資料を調べると徐々に判明したきたのが、この落款の書体と印章は昭和15年頃の短期間に用いられていたということです。



*上記写真の左の「聖観音像」は平櫛田中作です。「聖観音像」の手前のお猪口は明末赤絵・・。

多くの画家がそうであるように安定した落款の書体や印章を用いるのは作風が安定する晩年になってからのようで、壮年期には落款も印章も数多く変遷する傾向にありますね。



*上記写真の手前は河井寛次郎の花瓶です。花台は庭にあった欅の根を加工したもの。

仮題 炭焼小屋 福田豊四郎筆 昭和15年頃
絹本着色額装(改装が必要) 誂:タトウ+黄袋
全体サイズ:縦720*横810 画サイズ:縦485*横575 F12号



10号程度の作品は福田豊四郎の作品には多くありますが、12号のサイズとなると極端に作品の数が少なくなります。



本作品は共シールなどなく、作品中の落款と印章のみです。額も古く当時のままのものでしょう。



当方の他の所蔵作品「山湖秋」の落款と書体は同じ(下記写真中央が作品中の落款、右が共箱の落款)であり、本作品は昭和15年頃の作と推定されます。

  

さらに昭和16年発刊の画集「福田豊四郎画集」(他の所蔵作品「月と小魚」昭和11年5月作が掲載されている)に掲載されている作品「初夏水槽」(昭和13年6月作)に若干の縦横比に違いがありますが同一印章と判断されます。

 

なお印章の縦横比の若干の違いは絹本裏打ち、貼り付けや写真撮影の際に生じるものとそうでないものとがあり、縦横比の違いにて一概に贋作とは決め込まないほうがいいでしょう。



下記の写真において左が本作品の印章、右が「初夏水槽」の印章です。よく用いている印章は白文朱方印なので、本作品に押印されている朱文白方印は使用期間が短く非常に珍しい印章です。

 

*ただインターネットオークションに出品されている福田豊四郎の作品には贋作が多くありますので要注意です。印章や落款まで真作に酷似しているものは少ないようです。作行も福田豊四郎らしさは真似できていませんので容易に真贋の判別はできます。



戦後の抽象化された福田豊四郎の作品が人気が高いですが、戦前、戦時中のノスタルジック趣向の作品にも根強い人気があります。



下記の作品は上記の落款の参考にした「山湖秋」という作品です。ほぼ同時期に描いた作品です。

山湖秋 福田豊四郎筆 その87
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横(未測定)

 

作行が似通っています。戦争になる直前か戦争に突入した頃の作となります。



本日の作品にも実は啄木鳥が描かれています。



当方にて福田豊四郎の作品はほぼ100点ほど蒐集となりましたが、小品ばかりながらサラリーマンの割にしてはいい作品が蒐集できたと思っています。



蒐集は止めた訳ではありません。



資料や見識が揃ってきたのでこれからが蒐集の本番です。

*本作品の額装は昭和初期のそのままの状態なので痛みがあり、周囲のマットも汚れているので取り替えることにしました。

2019年7月 額 マット新調、一部布タトウ、黄袋新調
依頼先:世界堂 費用は5万円ほど

額の痛み、周囲のマットの汚れがあり、2018年7月に額と周囲のマットを新調した。その際に絹本に裏打ちがなく不安定であることから画本体の絹本への裏打ちを検討したが、絹本が経年劣化により、マットからの切り離しに際して破損の恐れがあるため、マットの張り替えが無理であるとの判断から絹本自体には手を加えてはいない。額装は既存の額を取り払い、炭焼小屋をイメージしてくすんだ黒っぽい額に新調し、マットは現状のマットから画本体の絹本と切り離せないため、既存のマットに新しいマットを被せた方法とし、斜めの部分にギリギリで新たな見切り縁を回しています。



修理が完成した作品が下記の写真です。どうです? 元々いい作品でしたが、既存額の汚れを隠すことで立派になったでしょう



額縁などは「炭焼小屋」のイメージに合う額装にしました。



山中の朝に霧のかかった炭焼小屋のある木立の情景を描き、啄木鳥を描くことで啄木鳥の音がまるで聞こえてくるような情景を描いています。描いたのは戦時中の昭和15年頃と推察されます。戦前の代表作となりうる佳作のひとつであろうと思います。作品そのものはインターネットオークションで3万円ほどにて落札した作品です。

さてこの作品、まともに購入したらいくらか? そうですね、戦前の作なので30万~40万円といったところでしょうか? その値段でも買って損はない買い物でしょう。先日郷里の骨董店でいい出来の8号の額装の作品が35万円でした。

福田豊四郎の蒐集した作品は小作品を含めると100点は越えました。ようやく厳選した作品のみに絞って蒐集できる段階になってと思います。

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