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氏素性の解らぬ作品 伝李朝染付 牡丹ニ蝶文壺

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男の隠れ家の小さい方の床には下記の作品を掛けてきました。

秋果実 伝田能村竹田筆
絹装軸水墨紙本箱入 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横(未測定)



むろん真贋など当方の関知するところではありませんが、折れ目などかなり補修を目立たないように処置されており、大事にされてきたことがうかがえる作品です。

なお本作品はだいぶ前に本ブログに投稿されており、当時の記事の内容は今よりさらにだいぶ稚拙ですが、理由は良く分かりませんがアクセス件数の多い記事となっているようです。 



賛には「壬午初秋写□竹田荘□居 田憲」とあり、真作なら文政5年(1822年)、田能村竹田が45歳頃の作品となります。

今も竹田市の街並みを見下ろす高台に遺る竹田荘(ちくでんそう)は、1790年(寛政2年)、竹田が画業に専念するために建てた物です。



さて本日の作品も難しい作品、骨董蒐集で難しいのが中国の作品全般、日本の古陶磁器と著名画家、そして李朝の陶磁器・・・。当方はそれらは本格的に蒐集していませんが、ときおり挑戦してみては討ち死に・・・

*なお最近当方にコメントのあった富岡鉄斎と呉昌碩の作品ですが、当方ではすでに予測されているコメントの内容でした。

氏素性の解らぬ作品 伝李朝染付 牡丹ニ蝶文壺
古杉箱入
口径外126*胴径193*高台径113*高さ270



呉須の顔料が高かった時代は呉須をいかに少なくして染付をうまく描けるかがポイントだってようです。



呉須が入手しやすくなると染付がふんだんに描かれるようになります。



ただそれでも呉須を少なくして染付を描く技は脈々とあったのではないでしょうか?



牡丹に「蝶」が描かれています。



李朝でも呉須や鉄釉を使った作品もありますが、肝要なのはその絵付けの洒脱さでしょう。なんでもいいというわけにはいきませんね。



器形にも品格があること、絵付けや釉薬の肌に洒脱さが求められます。



高台内も同じで洒脱さが必要なのでしょう。家内曰く「李朝は難しくよくわからない」・・・、小生も同感です。



この薄めの杉板で作られた箱は気に入っています



陶磁器を収納する箱にはまず作品を紙で覆い、次に黄布、そして周囲をクッション材で囲います。さらに破損しやすい作品には綿を入れます。こうしておくと落とさない限り破損しません。今までに破損したことは一度もありません。



最後に説明書を封筒に入れておきます。この封筒はできれば鳩居堂製・・・。蒐集する者にはこのようなこだわりが必要です。



時代はあっても李朝後期?



時代がないと展示室に飾っていても飽きがくるのが早いようです。



飽きがくる時間で作品の良しあしが決まるようです。骨董蒐集は失敗を糧として挑戦し続けるものだが、あまりにも失敗が多いの駄作の山を築くことになるようです。


四国路 藤井達吉筆 昭和32年頃 

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料亭「分とくやま」のご主人と漆器の話題が弾んだ影響もあり、ちょっと気になっていた漆器を棚から取り出して鑑賞して愉しんでいます。



「男の隠れ家」の蔵に収納されていた作品で、いくつもの種類の揃いの中から数揃い上京に際して持ってきた作品のひとつです。幕末から明治期にかけて作られた作品でしょう。時代的には若いのですが、しっとりとした味わいが出てきています。すっしりとして厚めの木地にひも状に段差が回り、色合いが幕上に変化してきています。鎌倉期などの根来の漆器とはいきませんが、黒めの下地も見え始めています。



底には「男の隠れ家」の屋号であった「山与」の標が朱で書かれています。先祖は明治期に地元の郡会議員(現在の県会議員のようなもの)であったそうで、本家で庄屋でもあったので揃いの漆器があったのでしょう。



素人が磨いても傷やちょっとした跡は消えません。これは工房に依頼して磨けばきれいになりますが、これはこれで魅力的ですね。味わえや! 骨董!! 民芸の味わいを・・・、といったところでしょうか

本日紹介する作品はおなじみの藤井達吉の作品です。これも民芸の部類・・・。

描いた水墨画の多くを関わった人々にあげていたようなので、氏素性のしっかりした藤井達吉の作品は寄贈した作品が多く、市場に出回る作品では意外に少ないのかもしれません。

本作品は共箱に収められて、なおかつ昭和32年開催の喜寿記念展覧会に出品された「氏素性のしっかりした」珍しい作品です。

四国路 藤井達吉筆 昭和32年頃 
紙本水墨金彩軸装 軸先陶器 喜寿記念展覧会出品作 共箱
全体サイズ:縦1340*横625 画サイズ:縦33*横435



藤井達吉の作品は門下の作家らの箱書の作品が非常に多く、またそれらの箱書もない作品が多くありますが、ただ意外に贋作は少ないようです。



一般的には水墨画が多く、歌の添えられた作品も数多くありますが、藤井達吉の作品の和歌などの判読は難解です。



画中の「太都」は「達吉」の「達(たつ)」のこと。これを気がつかないと誰の作品かわからないことになります。



共箱の「無風子」は藤井達吉がよく用いる号です。



「喜寿記念」(展覧会は1957年 昭和32年開催)ということから77歳頃、昭和32年頃の最晩年(83歳で死去)の作と推察されます。



本作品に関わる年譜

1935年 初めての四国遍路。藤井達吉は1935年(昭和10)に初めての四国遍路に出かけてから昭和37年4月~5月には5回目の遍路という記録があり、晩年なってからも含めて幾度となく四国遍路をしている。

1936年 勝利彦、水野双鶴、近田清を伴って四国遍路。

1957年 喜寿記念展を愛知県美術館と名古屋美術倶楽部で開催

1962年 5月 安藤繁和、春日井正義同道、姉篠と四国遍路をする。

1964年 4月 野々山道雄、小沢一同道、姉篠と四国遍路をする。

同年   8月 岡崎市民病院に入院、27日心臓麻痺にて逝去。享年83歳

蒐集してきて気が付くのですが、藤井達吉の共箱の作品は非常に少ないです。共箱の作品は工芸家としてその表具にも凝っている作品が多いですね。



出品作ということですが、藤井達吉のこだわりが凝縮されています。



むろん軸先は陶製です。陶芸を行っていたり、指導していたので軸先には陶磁器を使った作品があります。



こういう作品は茶室に飾りたくなりますね。今回の茶室は夏バージョンになっています。



普段は雪見障子、夏は男の隠れ家からい拝借してきた簀の子状のものです。いつでも両方使えるように戸袋を6本引き用にしてあります。これもまた広い意味での民芸・・。身近にあった民芸はいつのまにか見当たらなくなりましたね。



実は隣の物置もこうすればよかったと後悔しています。「男の隠れ家」まだ夏用の障子がありますので・・。さすがに茶室の入り口は取り替え方式。



はやり藤井達吉の作品は共箱の作品は一味も二味も違いますね。



今年の夏はこの装いで乗り切りました。

唐美人図 寺崎廣業筆 明治20年(1887年)

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寺崎廣業の作品中で入手が最も難しいのが美人画です。晩年の多作の時代にはあまり描かず、画名を挙げた契機になった美人画は若い頃に描いた作品が多いようですが、その作品は圧倒的に数が少なく、人気も高いので極めて入手が難しくなっています。本日紹介する作品はそのような美人画の中でも20歳頃に描いた貴重な作品の紹介です。

唐美人図 寺崎廣業筆 明治20年(1887年)
紙本着色軸装 鳥谷幡山鑑定箱(大正14年仲夏 1925年鑑定)
全体サイズ:縦2230*横665 画サイズ:縦1310*横515

 

画中の落款に「丁亥春日 廣業寫 押印」とあるので、明治20年(1877年)に描かれた作品であると断定されます。作品中の印章は「秀斎」の白文朱方印が押印され、寺崎廣業が狩野派の小室秀俊(怡々斎)の門下であった頃からまだ「秀齋」と号していた20歳頃の初期とされる珍しい作品です。この後には明治25年邨田丹陵の娘「菅子」と結婚。向島三囲神社の前に住み、これを機に義父の邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えられ、この後は「宗山」の印章、号のある作品が明治25年以降の作の主となります。

 

鳥谷幡山の大正14年仲夏 1925年鑑定に相違ないものです。



明治20年に寺崎廣業は秋田県鹿角郡役所に勤務中であり、10月には登記所に勤務することとなります。この後、平福穂庵をたよって上京、足尾銅山、日光、再び上京し、東陽堂にて古画の縮図(ほとんどが火災で焼失したが当方の所蔵の和漢諸名家筆蹟縮図が遺っている)を描き、直後に美人画で名を上げることとなります。



箱の題名の「楚蓮香」は唐の玄宗皇帝の時代に長安一の美女と言われた女性の名です。その美しさは、彼女が外に出ると香りに胡蝶が誘われ、付き添いながら周りを翔び遊ぶほどであったという故事があり、画中に必ず蝶が描かれるはずですが、本作品には蝶が描かれていませんので画題は単に「唐美人図」とするのが正解でしょう。「楚蓮香」を描いた作品は上村松園の作品が名作として知られていますが、円山応挙、長澤芦雪ら多くの画家が描いています。



当方の所蔵に「楚蓮香 寺崎廣業筆 明治40年(1907年)頃」の作品があります。



寺崎廣業の作品は当方では100点近くの蒐集となりましたが、主な作品は風景画、山岳画、日露戦争画、そして美人画です。一番評価が高く、入手が難しいのが美人画です。ましてやこのような画名を上げ始めた頃の秀歳斎時代の美人画の力作にはなかなかお目にかかれません。



寺崎廣業は最初に美人画で名を成した画家です。座敷の床の間に飾っています。他にも当方には幾つかの寺崎廣業の美人画の作品がありますので、展示室に飾ってみました。







ほんの少しずつ、蒐集作品のレベルが上がってきているように思います。

リメイク 南蛮手焼締四耳花入 江戸前期 

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時には前に所蔵した作品を見直して、気に入らないもの、要らないものは屋根裏部屋に区分して蒐集の品のレベルを上げていこうとするのですが、時として「これは意外にいい!」という作品も見直すと出てきます。本日はそんな作品のひとつの紹介です。

南蛮手焼締四耳花入 江戸前期 
合箱
口径55*胴径130*底径75*高さ275



本作品の入手時の説明には「江戸前期」とあり、箱に収められていました。この箱は高さを足していますので後で誂えたものでしょう。



古来より黒褐色をした焼締陶器を、茶人の間では南蛮と総称します。南蛮焼とは本来は中国南部・ルソン・安南などから輸入された炻器(せつき)の総称です。



紫黒色で無釉(むゆう)のものが多く,日本では茶入れ・茶壺・水指・建水などに用いられてきましたが、各国産のものが混在しており,作風は一定していません。産地はベトナムを始めとする東南アジア産とする可能性が高いようです。



本作品の製作年代、生産地は不明ですが、耳があり形がこのようの整った作品は珍しく、沖縄(琉球)や備前などの国内で作られた可能性が高いと思われます。耳付の作品は沖縄で多く作られています。なお口縁と底に補修跡が見られます。作風の品格のあるもので良しあしが決まるものです。



茶室にしばらく飾っていたのですが、趣がいいので気に入りました。



こうやって以前にブログでも紹介している作品を見直していると意外に処分できないものです。

桜下京美人図 無銘

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江戸末期頃の作か?円山派の美人画の影響が多い画風で、山口素絢の画風に似ているのですが、無銘ですので贋作云々と騒ぎ立てる必要がない作品です。また表具が刺繍の施された友禅染を使った粋な作品です。

桜下京美人図 無銘
絹本着色刺繍軸装 軸先朱塗 合箱
全体サイズ:縦1640*横375 画サイズ:縦830*横275

 

有名な作品の模写かもしれませんが、余計な銘などはいらずに無銘で遺っているのがいいですね。



こういう作品を担当は当方は蒐集しようとしているのですが、無銘や無名でいい作品は最も入手が難しいようです。



有名な画家の作品を追い回すのは金銭的に余裕のある方以外は基本的に避けたほうがいいようです。



なぜなら贋作の山、もしくは真贋不詳の作品の巣窟となります。陶磁器もそうですが、蒐集家の99%がその部類に属します。当方の蒐集作品などはまだましな部類です。



なんでも鑑定団の鑑定される方は「あまり有名でない方の作品でよい作品を集めるのがいいと思います。」と仰っていましたがまさしくその通りなのでしょう。



一般の蒐集家の方に、通常揃えるべき資料すらないで蒐集を続けてるいる方が多いのですが、作品を蒐集する初期の段階でまずは資料が必要になります。その資料なしに、学習なしに蒐集するのは暴挙に近いものです。



そういうある画家の蒐集の過程を踏まないと無名や無銘の作品の良しあし、ありがたみが解らないものだと思います。



陶磁器も同じです。無名の名もなき陶工の作品の良しあしはすぐには解らないものです。白洲正子氏が最初からいいものの目利きができたわけではなく、かなり苦い思いをしてからのようです。



さて作品は美人画の描きといい、表具の刺繍といい、出来の良いものです。表具は友禅染の生地を使ったのでしょう。葵の文様ですね。美人画や所謂京美人画に分類される円山応挙風の画風です。応挙の「楚蓮香」の作品に通じる画風です。帯には龍の文様、着物の下は雲錦文様が描かれています。



一般的ですが時代のある美人画の表具の誂えになっています。



節度のある、出来の良い、状態の良い、無銘の作品は繰り返しになりますが意外に少ない。



友禅染の作品を工夫して表具していますね。



展示では湖東焼の作品や古伊万里と並べてみました。

最近の展示室から

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本日は風邪気味で連休のブログ原稿がままならず、展示作品のスナップ写真の紹介です。

最近投稿した作品が多いですが、相変わらずのガラクタ揃いの展示作品? 



影青の作品。



湖東焼?



古九谷・・??



古信楽・・・???



酒井田柿右衛門・・・????。



漳州窯の大皿、餅花手と赤絵。





杉本健吉の油絵。



川瀬巴水の版画、



さて一目見て誰の、もしくはどこの分類の作か分かるようなら骨董の基本知識はだいぶ高い方・・・・・・・・??????

首尾一貫していない作品群のように見えますが、当方の頭の中では首尾一貫しています


古武雄焼(弓野焼) 二彩松絵大皿

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「男の隠れ家」から漆器を何点か持ってきています。揃いの中で傷を補修すると使えるものなどです。ペアを基本として、一部を5客揃いで持ってきました。これが何種類もいくつ揃いもある・・・



明治中期頃の作品でしょうがいい味が出てます。一般に朱塗りのほうが色合いも変化し、朱の下の黒が見えたりして味わい深い根来風の漆器になります。日本の民芸の原点がここにある・・・・



さて何とはなしに好きで蒐集している民芸作品に「古武雄焼(弓野焼)」の作品群があります。主に甕や大皿がメインですが、本日は中皿というには少し大きめの松の文様が描かれた作品の紹介です。

古武雄焼(弓野焼) 二彩松絵大皿
誂箱
口径315*高台径170*高さ55



内側の口縁に松の絵を勢いよく描かれている弓野焼の作品。弓野焼は唐津焼の一系統で、江戸時代前期頃から作陶が始められたとされますが、現在は主に甕に対する評価が高いようです。

*古武雄焼やそれに類する弓野焼は本ブログの記事に詳細は記述されているので詳しくはそちらを参考にしてください。



本作品は全体に白い化粧釉を掛けた後に、大胆な筆使いの鉄絵で口縁に一本の松が描かれています。白い釉の部分は朝鮮の刷毛目の白にも似ており、経年により何とも言えない味わいとなっているのが魅力となっています。 若干の傷はありますがが、それでも鑑賞に価する作品でしょう。







古武雄の作品では人間国宝となった陶芸家の中島宏氏のコレクションが有名で現在は佐賀県立九州陶磁文化館に寄贈されています。



下の写真は県重要文化財の「鉄絵緑彩松樹文大平鉢」は鉄絵緑彩と呼ばれる古武雄の代表的な作品です。口径49・2センチで、褐色の素地に白の化粧土を施し、鉄絵の具で松樹文を線書きして緑釉(りょくゆう)で彩色している見事な作品です。



中島宏氏の蒐集した作品には下記の見事な作品がありますが、当方の所蔵作品*と比較してみました。

鉄絵緑彩岩松樹文甕 肥前 武雄 小田志・弓野 1630~1670代



*松の描かれた蒐集作品は下記の作品があります。



下記の徳利は雑誌に掲載されたこともある作品らしいです。(詳細は不明)




緑褐彩櫛目文大皿 肥前 武雄 小田志・庭木 1650~1690代



*同手の蒐集作品は下記の作品があります。



緑褐釉櫛目草文大皿 肥前 武雄 小田志 1650~1690年代



*同手の作品はありませんので、下記の大徳利を比較してみました。



象嵌鶴文大皿 肥前 武雄 小田志・庭木 1630~1650代



*蒐集作品で象嵌のある作品は下記の作品です。





中島宏氏の蒐集作品には到底数段及ばない作品ですが、最近でもまだこの程度の作品ならそれほど高値でもなく入手できるということです。



日本の陶磁器にはたくさんの種類の陶磁器があって、そういう作品に恵まれている環境に日本人は感謝しなくてはならないと思います。













それほどの大枚を使わずとも楽しめる民芸作品は日本には数多くあると思います。100円ショップで食器を買うのはよしましょう。

雪景山水図 伝中林竹洞筆

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息子はもうすぐ小学生。そろそろ子供部屋を考えなくてはいけなくなってきました。そこで家内はスペースを作るために自分の本の整理を始めたようですが、一向に整理が進まないように感じていました。見ているとなにやら書棚に張り紙が・・・。細かく分ける一冊ずつまた本を吟味することになりそう・・・・これや整理が進まないわけだわさ



ま~、小生の骨董品のスペースのほうが格段に広いので、文句は言えませんが・・。

さてちょっと見で「贋作かな?」と感じた本日の作品ですが、よく見て真作と判断しました。その根拠はいつものように経験からくる「感」ですね。

雪景山水図 伝中林竹洞筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:縦1790*横450 画サイズ:縦980*横370

 

本作品を真作と判断しましたが、その根拠は使われている絹本の生地です。



竹洞は晩年には、京都西陣の織工に命じて自ら好む絵絹を織らせ、これを「竹洞裂(きれ)」と呼んでいます。



この絵絹は独自のもので、目が粗く、光沢があり、竹洞はその絵絹に上品に色彩画を描きました。この絵絹が真贋の大きなポイントとなりますが、本作品はその竹洞裂に描かれた作品に相違ありません。



*「竹洞裂(きれ)」については当方での紹介作品「秋草」(中林竹洞筆)を参照してください。



印章の「伯」部分に若干の違いあるように思えますが、誤差の範囲内ととらえるのが妥当と思われます。印章をあまり神経質に考える必要は小生はないと思います。画家は朱肉がつまるとよく直して使用していたようです。



10年近く前に赤坂の料亭の玄関に中林竹洞の掛け軸が飾っていました。いい作品でしたが、ほとんどの人が中林竹洞の作品だと気がつくまいと思いました。ま~中林竹洞を知っている御仁すら少ないでしょうから・・。

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中林竹洞:(なかばやし ちくとう)安永5年(1776年)~嘉永6年3月20日(1853年4月27日)。江戸時代後期の文人画家。

幕末における文人画の理論的指導者、尊王家として知られる。尾張国の生まれ。名は成昌、字を伯明、通称大助。竹洞は画号。別号に融斎・冲澹・大原庵・東山隠士、痴翁などがある。

竹洞は、名古屋の産科医・中林玄棟の子として生まれた。幼い時から画を好み、14歳で沈南蘋風の花鳥画を得意とする絵師・山田宮常に学ぶ。翌年、尾張画壇のパトロンとして知られた豪商・神谷天遊に才覚を見込まれると同家に引き取られ、ひたすら古画の臨模を行って画法を会得した。

天遊に連れられ万松寺に出向いたとき李衎(リカン・元代)の「竹石図」を見て深く感銘したことから竹洞の号を授けられたといわれる。このとき弟弟子の山本梅逸は王冕の「墨梅図」に感銘したことからその号を与えられた。19歳の時には絵画をもって生計を立てるにいたった。

享和2年(1802年)、恩人の天遊が病没すると梅逸と共に上洛。寺院などに伝わる古書画の臨模を行い、京都の文人墨客と交流した。天遊の友人・内田蘭著に仕事の依頼を受けて生計を立てた。30代後半には画家として認められ、以後40年にわたり文人画家の重鎮として知られた。墓所は京都府の黒谷の真如堂。墓碑に「竹洞隠士」とある。

竹洞は『画道金剛杵』などの画論書を著し、著作は30種類を超える。中国南宗画の臨模を勧め、清逸深遠の趣きを表すべきであると文人としての精神性の重要さを強調している。また室町時代からの画人47人を品等付けし、その上で池大雅を最高位に置いている。

その画風は清代文人画正統派の繊細な表現スタイルを踏し、幕末日本文人画の定型といえる。中国絵画を規範に自らの型を作って作画するため構図や趣向がパターン化し、多作なことも手伝い、変化に乏しくどの作品も似たような印象を受けると評されています。

ただし、70歳前後から亡くなるまでの最晩年は、筆数が少なくなり、素直に自身の心情を吐露した作品へ変化するのが認められる。

長男・中林竹渓、三女・中林清淑も南画家。門人に大倉笠山、今大路悠山、勾田台嶺、斎藤畸庵、高橋李村、玉井鵞溪、梁川紅蘭がいる。

*なお斎藤畸庵は本ブログでも取り上げている画家です。

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一般的に禄をはむ武士であったため、放浪を基本とする南画家としての趣には限界があったと評されています。ただその悪品は年々評価が上がり、弟弟子の山本梅逸、子息の中林竹渓らと共に、この名古屋に居した三人を外して日本の文人画を語ることはできないでしょう。



展示室の廊下に飾りました。蒐集していくと「竹洞裂(きれ)」などの生地の知識も蓄えられていきます。

ま~、もともと掛け軸の真贋など価値の下がった現代にはそれほど重要ではない、例えるなら骨董品は一品は一冊の本のようなもの。どれだけの血となり肉となる知識が得られるか、どれだけ愉しめるか肝要。ともかく家内の整理している本棚を連想させる作品です

猛虎図 竹内栖鳳筆 明治34年頃

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小生の掛け軸の画題に多いのが「鍾馗様」、「鯉」、そして「虎」です。かなりの数が各々蒐集されましたので、この三題で展示して整理する時期かもしれません。本日はその三題のうちの「虎」を描いた作品の紹介です。

猛虎図 竹内栖鳳筆 明治34年頃
絹本水墨絹装軸紙本水墨 軸先象牙 共箱(明治43年2月)二重箱 
全体サイズ:横538*縦1810 画サイズ:横415*縦1150

 

共箱(明治43年2月記)の二重箱で、箱書きは絵を描いた10年後ほどに書かれたものと推測されます。竹内栖鳳の作品は共箱が必須で、鑑定箱などの鑑定も必要であり、それらがないと真作と認められないほどです。それほど贋作が多く、かt真贋の判定が難しい画家のひとりなのでしょう。なお箱書きのない真作も多いのも事実のようです。



作中の落款の書体から描かれたのは明治34年頃と推察されます。印章である白文朱方印「高幹之印」については、作中と箱書は同一印章であり、この印章はすでに明治27年頃から使われています。

 

竹内栖鳳が使用した印章は200種を超えていますので、全部を覚えるのは不可能です。資料を常備しておく必要がありますし、さらに画風からの判断だけでなく落款と印章を使用した年代を照合する必要もあります。



下記の資料と同時期の落款の書体であり、明治34年頃の作と推定されます。このようなことは作品の数を観ていくと徐々に分かるようになります。

*竹内栖鳳は非常に贋作が多いのですが、ただ意外にも初期の頃の贋作、精密な印刷工藝作品は少ないようです。

 

箱書は「庚戌(かのえいぬ、こうじゅつ)二月」とあり、明治43年2月に書かれたもののようです。箱書の書体は変化する時期ですが、この頃のもので間違いないと推察されます。

*この当時の作品は少なく、全く同じ書体の資料はどうしても見つかりませんでした。(下記資料参照)

 

竹内栖鳳は、最初は「棲鳳」と号しましたが、1900年(明治33年)、36歳の時に、パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受け、その際の視察をきっかけとして7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受け、帰国後、西洋の「西」にちなんで号を「栖鳳」と改めています。



当時の作品で遺っている作品が少なくこの作品は貴重な作品です。なお虎や岩山の描き方は明治34年頃の画風と一致します。



水墨だけで虎の毛並みや表情まで描ききっていることは、動物を描けばその匂いまで描くといわれた達人の技を垣間見る作品です。



この作品で特筆すべきは描かれた時期が落款の資料から判断すると明治34年頃ということです。上記のヨーロッパ旅行から帰ってきてすぐの時期です。



この頃に描かれた作品に有名な下記の作品があります。

「虎・獅子図」
三重県立美術館所蔵品
1901(明治34)年 紙本墨画淡彩 166×371cm





虎や獅子は、室内を荘厳する屏風絵や襖絵の好画題として、桃山時代以降、多くの画家たちによって描かれてきました。虎と豹をペアで描いた作品も残っていますが、これは、実際の虎をよく理解していない当時の絵師たちが、豹を虎の雌であると考えたためであろうと思われます。

竹内栖鳳のこの「虎・獅子図」の作品は、向かって右隻に、静かに横たわる虎、左隻には、岩に前脚をかけて背を伸ばした雄ライオンの姿が金地の上に描かれています。栖鳳は、上記の経緯で1900年から翌年にかけてヨーロッパを旅行し、帰国後、渡欧体験に基づく新作を次々に発表しています。余白を強調した大画面に静かに横たわる虎は、写実にもとづくリアリティーがあり、セピア色を基調とした色彩とともに西洋での学習の成果があらわれている言われています。アントワープやロンドンの動物園で初めて見たライオンの写生をもとにした作品であり、発表当時大きな評判を取ったと伝えられています。



背景の描き方に共通点があり素人の考察ながら、本日紹介している作品と上記の「虎・獅子図」の屏風の作品はなんらかの関連性があると推察して間違いないと思っています。

 

寒江獨釣図 伝釧雲泉筆 文化2年(1805年)頃

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作品の整理を進めている釧雲泉の作品ですが、まだまだ迷路は深いようです。以前に同題の「寒江獨釣図」という構図が同図で製作年代が違うと思われる作品を紹介しましたが、本日は構図の違う同図の作品の紹介です。

寒江獨釣図 伝釧雲泉筆 文化2年(1805年)頃
水墨淡彩絹本軸装 軸先象牙加工 鑑定上箱入二重箱
全体サイズ:縦1990*横470 画サイズ:縦1090*横300

 

当方の数少ない所蔵作品でさらに少ない製作年が解る作品と比較して調べると、落款は「秋渓蕭散」(享和3年 1803年)という作品の書体に近いようです。「江山肅雨」(文化3年7月 1806年)になると少し違うようになるので、文化初年頃の作と推定されます。

*一応文化2年頃としておきました。

下の印章である朱文白方印「仲孚」は掠れていて断定できませんが真印と思われます。



*その上の6文字?からなる「□聲□□□聲」の白文朱方印は初めての印章で詳細は不明です。むろん他の作品で見かける「嬾生就」の印章とも違う印章です。



享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住しており、文化3年(1806年)には江戸から大窪詩仏と共に越後に出かけた年ですので、本作品を描いた時期にはまだ江戸に居た頃の作ではないかと推測しています。



当方の所蔵作品に「甲子重陽山水図 釧雲泉筆 文化元年(1804年)」がありますが、この作品より非常に透明度の高いすっきりとした作風となっています。



晩年新潟で描かれた作品になると透明感のある作品を多く描いています。



若年時は荒々しい構図で、晩年は重々しい雰囲気の作風と評されている釧雲泉の作風ですが、すっきりと透明感のあるこのような作品も釧雲泉の魅力でしょう。



表具から箱の誂えまで、かなりの腕の良い指物師に依頼して作ったものでしょう。



残念ながら箱書きした方の由来は不詳です。

*当方ではまだ真作と断定していません。目下調査中の作品となります。



軸先も象牙の加工したものを使っています。この象牙軸だけで本作品の購入費用を超えますね



このような上等な誂えするということが蒐集の者の楽しみでもあったのでしょう。



真贋のこだわりさえなければ、いろいろと楽しめる作品です。

気楽坊 伝平櫛田中作 その5

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本日は彩色された木造の作で平櫛田中の作品の五作品目の紹介となります。

気楽坊 伝平櫛田中作 その5
共箱
高さ445*幅448*奥行240



「気楽坊」とは、後水尾天皇が常にそばにおいて愛玩されたと伝えられる指人形にちなみます。



後水尾天皇は寛永四年(1627年)、紫衣事件を不満に思い退位を決意、のち四代にわたって院政をしきます。気楽坊と名づけたのは、「世の中は気楽に暮せ何ごとも思へば思ふ思はねばこそ」という御製の歌意によって作られたことによります。



指人形の作品は近衛家に伝わり、現在は陽明文庫に所蔵されています。平櫛田中が制作した気楽坊は恰好や彩色に様々な変化を加えて数多く制作したようです。 

                   

共箱の箱書からは昭和41年(1971年)頃、百歳の作と推察されます。

 

この彩色が平野富山(敬吉)によるものかどうかは不明ですが、彩色の出来からや年代からその可能性が高い作品です。



着ているものの質感まで表現したという平野富山の技のすごさ・・・。



平櫛田中作の「気楽坊」は数多く作られていますが、このだけ大きい作品は当方では初めてです。



100歳の頃の作とは思えない出来ですし、隙の無い出来は見事です。



本作品は他の比べて大きさはとても大きく、他の同題の作品で恰好や色彩が似ている作品には有名な下記の作品があります。

参考作品:小平市平櫛田中彫刻美術館所蔵
気楽坊(きらくぼう)平櫛田中作 89歳
1961(S36)年 木彫 高19.5cm



当方で所蔵作品として紹介した幾つかの平櫛田中の作品で100歳にて作ったと思われる作品には下記の作品があります。

聖観音 伝平櫛田中作 その2
共箱
高さ327*幅113*奥行115



ともかく収納は傷つかないようにしておきましょう。



このよな繊細な作品の保存には細心の注意が必要ですし、カビによるシミなどの発生も出ないように高湿に注意し、また湿度が低いのも木彫が割れてきますので、温湿度の管理が徹底された空調管理が保存に必要です。



なお最近の「なんでも鑑定団」に平野富山(敬吉)による木彫彩色の作品が出品されていましたので紹介します。

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参考作品

2019年9月17日「なんでも鑑定団」出品作



なんでも鑑定団の評             評価金額250万円

珍品。富山にしては珍しいモチーフ。依頼品は戦争末期、昭和19年の作品だが、戦時体制を賛美するような作品ではなく、純粋に祖父と孫の純愛をモチーフとしていて、日本彫刻史の中でも珍しい。昭和7、8年から40年代にかけては敬吉という号を使っている。作品の祖父の方はデフォルメされている。指なども角ばっていて、平櫛田中が戦前作っていた作風が映っている。富山は官展や戦後の日展に出品している作品は斎藤素巖ゆずりのブロンズ像で、写生味が勝っている日展調だが、その雰囲気が孫の方にある。孫と祖父で作風を使い分けながら融合している。

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作品としては彩色がまだ稚拙であるし、カビによるシミも発生している作品ですが、鑑定評価金額は驚きの250万円・・

めずららしい・・・???、珍品ということなのでしょう。同じ彫刻作品をいくつも制作した平野富山ですが、さすがに残存数がこれだけしかないというのが評価金額に反映されたものと推察されます。



修理完了 柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造

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20年以上前に入手した作品で男の隠れ家に放置していた作品ですが、飾るにしては痛みの部分の修繕が粗雑で気になっていた作品です。直せるところ、修繕の依頼先を探していましたが、今まで修繕した作品の出来からここならというところの目星がついたので修繕を依頼しました。

修理完了 柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造
塗古保存箱
幅230*高さ250*奥行き135

本(ノート)の部分がかなり破損しとみえて補修していますが、補修が雑でした。修繕する前の写真が下記のものです。



金繕いの跡もみられますが、破損の部品も足りずなんとか本の形を作ったのでしょう。



ちょっと醜い補修跡ですね。入手時当時は「伝仁阿弥道八造」に正直惹かれましたが、今でも蒐集作品として残っているのは、作品の人物の表情の面白さゆえですね。



修繕後が下記の写真です。修繕費用は2万円也! 高いか安いかは各々の価値観でしょうが、当方は安いものと思っています。



歌を推敲しているで、補修では赤くしていたかもしれませんが、今回はそこまで細かくは直していません。原型は赤くしていた可能性はあるかもしれません。



少なくてもこれで安心して?飾ることができるようになりました。



柿本人麻呂像については歌聖として掛け軸や像の作品が多く、一般に大半の作品が表情の固い(暗い)顔ですが、この作品は愛嬌のある表情の作品となっています。



展示室の廊下に飾っておくと家内も通りしなに思わず声をかけたくなるそうです。



古い塗り箱に収められており、底はくりぬかれて固定できるようになっています。修繕といい、箱の誂えといい前の所蔵者はそれなりに大切にしていたのでしょう。



いつものような手順で収納しますが、このような細工物の作品には念入りに綿を詰めます。



箱が古くて痛みやすい場合は風呂敷で箱を包んでおくのが原則です。古い箱を引っ張り出したり、古い箱の紐だけを持つのは禁物ですから、こういう場合に備えて大きめの風呂敷は日頃から入手しておく必要があります。



仁阿弥道八の真作かどうかはさておき、修理によって当方のお気に入りの作品のひとつとなっています。

漁村春暁 中村左洲筆 その10 大正7年春

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「鯛の左洲」と称される中村左洲、決して鯛を描いた作品だけではなく、美人画に代表される人物画、地元の風景画にも秀でた画家です。本日はその中村左洲の風景を描いた作品を紹介します。

漁村春暁 中村左洲筆 その7 大正7年春
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 共箱 
全体サイズ:縦1960*横550 画サイズ:縦1110*横415

 

中村左洲の評価がそれほど上がらない理由は駄作も多いということでしょうか? 

弟子に有名な画家が輩出されていない点も評価が高くならない理由のひとつでしょうが、本ブログでも数多くの作品が投稿されている寺崎廣業と同じく、依頼されて描いた数多くの凡作が、将来的には仇になったようです。

席画のようの瞬時に描いた作品ははっきり言って下手です。この画家は腰を据えて描かかないといい作品ならないらしい・・・・



漁師として、画家として郷里で生活した中村左洲は風景を主題とした情趣こまやかな風景作品に画家中村左洲の技量が より強く現れているように思われます。



なお中村左洲の鯛の作品にも駄作が多いのも欠点になっていると当方では判断しています。鯉を描いた作品も腰を据えていない作品は駄作ばかりです。最低3匹以上の作品でないとダメ・・・



箱書に描いた時期が解る年記が記されていますが、このように年記が解るのは蒐集する側にはありがたいことです。

  

大正期、昭和期のある程度力の入った作品によい作品があるようですね。

 

中村左洲のように無名に近い?日本画家の掛け軸の作品は、今のように掛け軸を飾る文化が希薄になっている現代において、非常に蒐集しやすい作品群になっています。なんといっても入手する費用が安くてすみます。



墨を滲ませた特徴的な画法で描いた「漁村春暁」と題された本作品、小生は好きな作品です。漁村風景のもっている独特の荒々しい雰囲気が伝わってきます。



現代はなにも床の間だけでなく、掛け軸を飾る場をもっと増やしたらいい。階段の踊り場に展示する欠き込みのようにした棚を作るとか・・・。日本人はもっと日本文化の汎用性を考えて暮らすできだろうと思います。

唐美人図 寺崎廣業筆 明治20年(1887年)

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寺崎廣業の作品中で入手が最も難しいのが美人画だと考えています。晩年の多作の時代には美人画はあまり描かず、画名を挙げた契機になった美人画は若い頃に描いた作品が多いようですが、その作品の数は圧倒的に少なく、人気も高いので極めて入手が難しくなっています。本日紹介する作品はそのような美人画の中でも20歳頃に描いた貴重な作品です。

唐美人図 寺崎廣業筆 明治20年(1887年)
紙本着色軸装 鳥谷幡山鑑定箱(大正14年仲夏 1925年鑑定)
全体サイズ:縦2230*横665 画サイズ:縦1310*横515

 

画中の落款に「丁亥春日 廣業寫 押印」とあるので、明治20年(1877年)に描かれた作品であると断定されます。作品中の印章は「秀斎」の白文朱方印が押印され、寺崎廣業が狩野派の小室秀俊(怡々斎)の門下であった頃からまだ「秀齋」と号していた20歳頃の初期とされる珍しい作品です。

この後には明治25年邨田丹陵の娘「菅子」と結婚。向島三囲神社の前に住み、これを機に義父の邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えられ、この後は「宗山」の印章、号のある作品が明治25年以降の作の主となります。

 

鳥谷幡山の大正14年仲夏 1925年鑑定に相違ないものです。



描いた時期の明治20年に寺崎廣業は秋田県鹿角郡役所へ勤務中であり、10月には登記所に勤務することとなります。この後、平福穂庵をたよって上京、足尾銅山、日光、再び上京し、東陽堂にて古画の縮図(ほとんどが火災で焼失したが当方の所蔵の和漢諸名家筆蹟縮図が遺っている)を描き、直後に美人画で名を上げることとなります。



箱の題名の「楚蓮香」は唐の玄宗皇帝の時代に長安一の美女と言われた女性の名です。その美しさは、彼女が外に出ると香りに胡蝶が誘われ、付き添いながら周りを翔び遊ぶほどであったという故事があり、画中に必ず蝶が描かれるはずですが、本作品には蝶が描かれていませんので、画題は単に「唐美人図」とするのが正解でしょう。「楚蓮香」を描いた作品は上村松園の作品が名作として知られていますが、円山応挙、長澤芦雪ら多くの画家も描いています。



当方の所蔵に「楚蓮香 寺崎廣業筆 明治40年(1907年)頃」の作品があります。



寺崎廣業の作品は当方では100点近くの蒐集となりましたが、その主な作品は風景画、山岳画、日露戦争画、そして美人画です。

一番評価が高く、入手が難しいのが美人画でしょう。ましてやこのような画名を上げ始めた頃(もしくは始める前)の秀斎時代の美人画の力作にはなかなかお目にかかれません。



寺崎廣業は最初に美人画で名を成した画家です。座敷の床の間に飾っています。他にも当方には幾つかの寺崎廣業の美人画の作品がありますので、展示室に飾ってみました。



唐美人図。



同題である楚連香、「楚蓮香 寺崎廣業筆 明治40年(1907年)頃」。寺崎廣業の美人画はたまに骨董商のカタログに出品されていますが、高値の作品となっています。ネットオークション上の出品でも高値となっていますが、双方ともにまず作品が市場に滅多に出てきません。 



当方の蒐集は手前味噌ながら、ほんの少しずつ蒐集作品のレベルが上がってきているように思います

渓山積雪是図 高久靄崖筆 天保九年(1938年)その3

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先週の週末は義父に七十七回忌の法事でした。今年は郷里の義母、母の一周忌、そして東京の義父の葬儀となにかと忙しかったのですが、これでひと段落・・・。



息子のよく頑張りましたが、なんといっても各々臨席いただいた方々の温かい気持ちがうれしいものです。



さて本日紹介する高久靄崖は赤貧の画家、「貧乏神」とまで称された画家(本ブログでも紹介されています)ですが、その晩年の作は号を「疎林外史」と称し、独自の画風を確立したものと評価が高い画家です。

本日の作品で高久靄崖の作品は三作品目の紹介となります。

渓山積雪是図 高久靄崖筆 天保九年(1938年)その3
紙本水墨軸装 軸先木製 鑑蔵箱 
全体サイズ:横2180*縦750 画サイズ:横1610*縦595

 

高久靄崖の「画風の変遷」は一般的に下記のように分類されています。つまり画業は画風によって年別に大きく3期に分類されています。

第1期 27歳以前 号:如樵 池大雅の影響大きい時期
第2期 27歳以降 号:靄厓樵者 中国文人画の模写
第3期 42歳以降 号:疎林外史 独自の画風を確立

上記に倣うと当方のブログで紹介されている他の所蔵作品は大まかに下記に分類されます。

第1期:「山水画」   高久靄崖筆
第2期:「青緑山水図」 高久靄崖筆 大窪詩仏賛

そして本日紹介している本作品は第3期の作品となります。



あらためて下記に高久靄厓の略歴を紹介します。

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高久靄厓(たかく あいがい):寛政8年(1796年) ~天保14年4月8日(1843年5月7日))江戸時代後期の文人画家。下野那須郡杉渡戸(現 栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。諱は徴、字は遠々のちに子遠、通称秋輔。号は靄厓のほかに石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史、学梅斎、晩成山房など。



靄厓は、幼少の頃より画才の片鱗を示し8歳頃に画いた天神像の板木が残されている。馬方や煙草職人をする傍ら、18歳で黒羽藩画員の小泉斐に入門。続いて郷里の壬生藩御用絵師平出雪耕に就いて書画を学ぶ。その後、下野鹿沼に移り、池大雅や伊孚九に私淑し文人画を独学した。やがて鹿沼の儒医松本松亭に画才を認められ、その親族である鈴木水雲、大谷渓雲、山口安良、柿沼廣運らの庇護を受ける。

*小泉斐:本ブログでおなじみの「鮎」を描いた作品で有名な画家です。

支援者に勧められて仙台に遊歴すると、ここでも仙台藩士一条正道の庇護を受ける。このほかにも葛生の吉澤松堂・佐野の須藤蘭圃、古賀志の北條翠峨らが支援者となっている。 文政6年(1823年)27歳のときついに江戸に出ると、鹿沼の支援者たちの縁戚にあたる菊池淡雅から惜しみない援助を得られた。淡雅とは豪商佐野屋のことで、文雅を好み、書画の大コレクターで、谷文晁・立原杏所・渡辺崋山・巻菱湖・大窪詩仏らと交友し、江戸の文人のパトロンとして聞こえていた。

*谷文晁・立原杏所・渡辺崋山・巻菱湖・大窪詩仏らも本ブログで紹介しています。



江戸では画家として評判が高かったが、気位が高く、儲けのために画くことがなかったので生活は貧窮した。淡雅のはからいで谷文晁の画塾写山楼の門下となり、文晁が弟子の靄厓の絵を売り出したという。弟子思いの文晁らしい行動だが、それほど画の力量があった。

同門の安西雲烟(書画商和泉屋虎吉)、相沢石湖、大竹将塘らと借家を「梁山泊」として画業を続けた。 文晁高弟のひとりと目されたが南北合派と肌が合わず、山本梅逸に花鳥画を学び、池大雅に傾倒する。さらに中国元明の南宗画家である沈石田や呉鎮を深く研究した。南宗画の探求のために北陸や東北など各地を盛んに旅し、古書画の調査や模写を盛んに行っている。特に仙台は三度訪ねている。

*山本梅逸についても本ブログの記事を参考にしてください。

40歳で念願の京阪に向かい、細川林谷や岡田半江らと交友、その後伊勢、桑名を旅する。 天保8年(1837年)42歳のとき、それまで鹿沼に拠点をもって行き来を繰り返したが、江戸に永住を決意する。同門の渡辺崋山が蛮社の獄で投獄されたとき、椿椿山らとともに救出に尽力したという。

*岡田半江、椿椿山もまた江戸後期の画家をとして忘れてはいけない画家ですね。

天保14年(1843年)4月8日、江戸両国薬研堀のアトリエ晩成山房で急逝。享年48。死因は脳溢血か肺病とされる。葬儀は菊池淡雅と大橋訥庵が取り仕切り未亡人を助けた。養子の高久隆古が後継となった。谷中(台東区谷中4)の天龍院に靄厓の墓がある。

*小泉斐・谷文晁・立原杏所・渡辺崋山・巻菱湖・大窪詩仏・谷文晁・山本梅逸・池大雅・渡辺崋山・椿椿山らは本ブログで作品もいくつか紹介されており、馴染みのある画家らと関わりの画家です。

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賛は「天保九年(1938年)歳次戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)夏閏四月上澣(上旬)李□煕筆意於□□書屋南窓是山 疎林外史高久微 押印」とあり、高久靄厓が42歳の作で、彼としては晩年の作と推されます。

*李□煕筆意は李郭派(りかくは)の李成と郭煕のことではないかと思われます。李郭派(りかくは)は、中国山水画の画法の一つで五代、北宋の画家、李成と郭煕によって大成された画法。その名をとって李郭派と呼ばれています。董源、巨然を中心とする董巨派を文人画、南宗画の系譜とすると、李郭派は北宗画ともよばれる宮廷様式を中心とする画法の系譜に属します。 李郭派は大観的構図と蟹爪樹、雲頭皴の画法を特徴とし、その画法は東アジア山水の古典様式として、浙派や朝鮮半島の山水画、清代の袁派にまで大きな影響を与え、永い命脈にて中国や日本に多大な影響を与えています。

 

箱に所蔵記のある「及川亮三」なる人物については不詳です。

 

展示して愉しんでします。



当方は休日以外は子供の寝静まった夜更けに作品を展示して愉しんでいますので、作品の写真撮影は夜中になることが多いです。



水墨画は照明の暗いところで愉しむの一興ですね。



やたら明るくなった現代では興覚めすること多いのですが、ファジーなところが水墨画の魅力でもあります。



ところで冬の景色を夏に描いています・・・・・・。



出来不出来の多い幕末から明治にかけての南画の作品ですが、本作品は高久靄厓の作品の中でもかなりの出来栄えの良い作品だと思っています。



現代では少数の数寄者だけがこのような作品を高く評価しますが、この作品の良さを分かる人はまず少ないでしょう。南画は過小評価され見過ごされることが多い現代ですが、豊かな境地にさせてくれる作品が市場に粗雑に扱かわれ、もてあまされています。さ~捨て去られる前に入手しましょう・・・・



絵志野水指

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今まで蒐集してきた作品数が多くなったので整理していますが、「これは要らない」と思った作品を改めて見なすと「いい作」と改めて再評価してしまう作品があります。

下記の作品もそのような作品で杉の古箱に収まっていましたが、遺しておく作品にしょうと判断したのですが、水指として使うには合う蓋がありませんでした。

*この備前の水指は以前に本ブログで紹介されています。細工物でない武骨なところが見どころでしょう。備前の細工物の水指はわざとらしい点があって小生の好みではありません。



むろんお茶道具店で用意する既成の蓋ではガタついてうまく合いません。そういう場合は特注で輪島長屋工房に依頼します。



面倒なのは水指の正面を決めて、蓋の取っ手の向きを決めなくてはなくていけません。作品の正面は輪島工房さんが、どうやらでお茶を教えている方に教わって正面を決めていたようなのですが、この作品からは当方でここが正面という標を付けて依頼しました。このような歪な器形には蓋は一定方向にしか合いませんので・・・



本日紹介する作品は出来が気に入ったので一万円で購入した絵志野の水指です。誰がいつ作ったのかは全く分かりませんが、それほど古いものではなさそうです。「本ブログはガラクタ」の見本のような作品かもしれませんが・・・・

*こちらには入手時より水指用の蓋が付いていました。これだけで購入費用分になってしまいますね。

絵志野水指
合箱
内口径113*外口径*胴径180*底径*高さ170



口に蓋受けの段をもつ形状の水指を矢筈口水指と言います。



志野焼の胎土は桃山時代の美濃の志野のように、柔らかい粘土が基本となります。磁器質が強く近い固いすべすべした土をした作品はどうしても茶味に欠けるようです。



江戸期の絵志野や桃山期の作品を模倣した作品にみられますが、釉薬が硬すぎてガラス質のように透明感が強いものは、鉄絵が、いわゆる古志野に使われた鬼板のようなソフトな紅色ではなく、通常の鉄絵になりすぎています。不透明な釉薬によって鉄絵の部分が見えそうで見える、見えそうで見えない感じが絵志野には肝要だと言われています。



この作品のように底まで釉薬が掛かっている作品は稀有です。この作品は底に剥離用の目跡?が見えます。



志野の釉薬はどっぷりと掛かっているのが基本で、焼が甘くなくきちんと高温度でパリっと焼けていて、貫入がある感じがいいものです。



人間国宝の鈴木蔵の作品のような趣のある志野の作品です。



本日の作品は桃山期の作品を目指して作られた近代の作と推察されますが、その元となっている桃山期の名品には代表的な下記の作品があります。

参考作品 その1
絵志野水指
日本・桃山時代 16~17世紀 根津美術館蔵
高18.5cm 口径18.5cm 底径17.8cm~18.5cm



本日紹介した作品も同様ですが、口に蓋受けの段をもつ矢筈口水指は、志野を代表する茶陶の形です。「参考作品 その1」の作品の水指は桶形を陶器で力強く写した作品でさらに箆目を加えることで、重厚な姿を生み出しています。

胴に葦1株を、他面には三連の山並を描いていますが、伸びやかでたっぷりとした筆使いによって、志野独特の味わいを生み出しています。

参考作品 その2
志野水指 銘 古岸
桃山時代 畠山美術館蔵
サイズ(cm):高17.5 口径18.3~19.2 底径17.4~19.0



桃山時代の志野水指の中でも、これも代表的な作品で、器形・釉調・絵文様などすべてにおいて、最も優れた作行の作品と評価されています。

肩と胴下部に段をつけて箆で整えており、力強く堂々とした姿を成しています。腰のゆったりとしたふくらみに対して頸のしばりは強く、これが外側に開き気味の厚い口縁と矢筈口を強調しています。作為を超えた茶陶の美と言えるのでしょう。

どっぷりと掛かった志野釉が、よく溶けて貫入を生じており、口縁と裾には赤い火色が現れています。胴の周囲には鉄釉で葦と檜垣文が下絵付けされており、まるで水墨画のようなその風情が、冬枯れた岸辺を思わせることから「古岸」の銘が与えられたのでしょう。

以上は古志野の作品の名品の紹介です。

これらの参考作品とは、恐れ多くも本作品は見比べる作品ではありませんが、本作品を家内も気に入っているの使ってくれそうです。銘もなく、気軽に使えそうな水指ですね。



桃山期の古志野を超える作を目指して多くの陶工が心血を注いできましたが、加藤唐九朗、岡部嶺男、荒川豊蔵、鈴木蔵ら数人しかその領域には達していませんね。



そういう意味ではこの作品は銘もなく、気負いもなく、そして近代的な志野の釉薬を効果的に使ってそれらにつぐ味わいを醸し出しています。



形は古志野、釉薬は近代・・・、志野の水指、いいものがあるようで実は意外に品のある作品は少ないように思います。男が使う重みのある水指、志野にしろ備前にしろ水を入れたらちょっと重い



器形ではさすがに古志野の名品の足元にも及びませんが、その趣は十二分にあります。



荒川豊蔵氏や鈴木蔵氏の作品に見られる志野の釉薬のパリっとした感じがよく出ています。



これがないと近代の志野の感じが出ない?



さて箱仕舞もきちんとして家内に購入した金額で進呈・・・???



骨董は売買が基本、たとえ身内でも売るのはたいへんな労力が必要です

修理完了 柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造

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当方に数碗の宋時代のものと思われる影青の作品がありますが、この作品は薄造りでなかなか完品の入手は難しく、5作品めの入手の作品は口縁が一部補修され、またザラザラした感触が口縁にありました。

そこで試しに覆輪を口縁周囲に施してみようと思いましたが、歪な器形には「覆輪は無理です。」と地元のお茶道具屋さんに断られました。代わりに金繕いで行うことは可能ですが、かなり高額になるということでした。それではと自分で今まで金繕いや漆器の修理を依頼していた「輪島長屋工房」に連絡し、金繕いで覆輪のように見せる修理を依頼しました。

一か月ほどで仕上がったようで、輪島長屋工房さんから下記のような写真が届きました。まだ仕上がった作品は手元に届いていませんが、満足のいく出来かと思います。



覆輪のように金にて口縁を回すのは賛両論あろうかと思いますが、要は骨董蒐集は遊び、いろんなことにチャレンジあるのみ・・・。茶室作り、蔵改修、古民家再生などもやってみましたが、そのすべての骨董の再生には共通するものがあります。それがなにかはこれから先の人が評価するものでしょう。



ところで本日の作品も補修(再生)に絡む作品です。骨董を蒐集していると必ずつきまとうのが補修だと思います。掛け軸の表具の痛み、油彩の絵の具の剥落、陶磁器の欠け・破損、漆器の漆の剥げなどが代表的な補修の対象です。

本日は陶磁器の補修ですが、陶磁器の人形の補修は特別な補修が必要です。本日の作品は20年以上前に入手した作品で男の隠れ家に放置していた作品ですが、飾るにしては痛みの部分の修繕が粗雑で気になっていた作品です。直せるところ、修繕の依頼先を探していましたが、今まで修繕した作品の出来からここならというところの目星がついたので修繕を依頼しました。輪島ではなく京都の人形店です。

修理完了 柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造
塗古保存箱
幅230*高さ250*奥行き135

作品の本(ノート)の部分がかなり破損していたとみえて、入手時には補修していましたが補修が雑でした。今回の修繕する前の写真が下記のものです。



金繕いの跡もみられますが、破損の部品のもりあげも足りずになんとか本の形を作ったのでしょう。



ちょっと醜い補修跡ですね。入手時当時は「伝仁阿弥道八造」に正直惹かれましたが、今でも蒐集作品として手元に残っている理由は、作品の人物の表情の面白さですね。



修繕後が下記の写真です。修繕費用は2万円也! 高いか安いかは各々の価値観でしょうが、当方は安いものと思っています。



手帳の部分は歌を推敲している様子なので、補修では赤くしていたかもしれませんが、今回はそこまで細かくは直していません。原型は赤くしていた可能性があるのかもしれません。



少なくてもこれで安心して?飾ることができるようになりました。



柿本人麻呂像については歌聖としての掛け軸や像の作品が多く、一般に大半の作品が表情の固い(暗い)顔ですが、この作品は愛嬌のある表情の作品となっています。



展示室の廊下に飾って置いているのですが、家内も通りしなに思わず声をかけたくなるそうです。



古い塗り箱に収められており、底はくりぬかれて固定できるようになっています。修繕といい、箱の誂えといい前の所蔵者はそれなりに大切にしていたのでしょう。



いつものような手順で収納しますが、このような細工物の作品は念入りに綿を詰めておきます。



箱が古くて痛みやすい場合は風呂敷で箱を包んでおくのが原則です。古い箱をそのまま引っ張り出したり、古い箱の紐だけを持つのは落としたりの危険があり禁物ですから、こういう場合に備えて大きめの風呂敷は日頃から用意しておく必要があります。



仁阿弥道八の真作かどうかはさておき、修理によって当方のお気に入りの作品のひとつとなっています。

氏素性の解らぬ作品 唐人物文堆朱香合

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さて先日のなんでも鑑定団に明時代の堆朱の香合が出品され、当方では興味深く番組を拝聴しました。



下記が番組での講評です。評価金額はなんと350万円・・・・

「明時代に作られた堆朱の香合。現存している堆朱の良い物はほとんど明時代のもので、依頼品も明時代の特徴がよく出ている。この手のものでは特に深く彫られている。背景にある花菱文がとても細かく綺麗に彫られている。肌が良い。活き活きとしている。中国やヨーロッパで見つかったものは、乾燥してひび割れていたりするが、日本は湿気があるので漆を保存するにはいい環境。裏の銘は残念ながら後世に日本で彫られたものだろう。銘の「張成」は伝説的な名工なので、その名にあやかってあえて書いたもの。偽物を造ろうと思ったものではない。」

この番組終了後に当方のブログにも堆朱の香合の作品が投稿されているので、この作品へのアクセスが増えました。その作品とは下記のものです。

鳳凰唐草文様堆朱香合
合箱
幅70*奥行き70*高さ28



本ブログにても紹介しましたように、この作品は父が戦時中に満州に兵隊として徴兵されていた頃に入手したものと母から聞いていますが、父母が結婚する前から父が所有していたは事実でしょうが、真偽も含めて入手経緯について定かなことは判明していません。



なんでも鑑定団に出品された作品ほど出来の良いものではないのでしょうが、父からの作品という上記の理由により大切に保管している作品です。



なんでも鑑定団に出品された作品は堆朱が厚く塗りあげられており、彫の文様が細かいのでかなりの上作なのに比して、当方の作品は彫が浅いようです。ただ文様は日本人の好みに合うものでしょう。



実はもうひとつの堆朱の作品がありますが、こちらは引き出しにしまったまま放っておいた作品で、小生が何らかの機会に入手した作品と記憶しています。入手経緯は失念してしまいました。

唐人物文堆朱香合
誂箱
口径51*高さ23



彫が雑で縁に欠損がありますが、味わいがあると判断して入手した作品です。



堆朱は日本人の好みとしてはどうなのでしょうか? どうしても唐物というイメージが強く、香合としては最上の部類の作品群なのでしょうが、香合においては、現代では陶磁器や日本人好みの漆器がどうしても主流になっているように思います。



なんでも鑑定団に出品されたような最上作ならいいのでしょうが、当方は「氏素性の解らぬ作品」の域を出ないもの・・

堆朱については下記の説明文を掲載しておきます。

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堆朱:彫漆技法の一種。器胎の上に朱漆を何層にも塗り重ね、その上に文様を浮彫りしたもの。黒漆を用いる場合は堆黒、ほかに堆黄、堆緑などがある。

鎌倉時代に宋から舶載されたが、中国での名称は剔紅、剔黒、剔黄、剔緑という。また、塗り重ねた各色の漆の色を彫り表したものを彫彩、花を朱、葉を緑で表したものは紅花緑葉ともよばれる。

文献上では唐代が起源とされ、また明代に著された『清秘閣』には、剔紅の多くは金銀を素地とし、文様が人物楼閣花草であったことが記されている。

制作の盛行は宋代以降であるが、元代末(14世紀中ごろ)の作と思われる江蘇省青浦県元墓出土の踏雪尋梅図剔紅円盒が制作年代のほぼ明らかな初期の作例で、蓋表に、一老人が童子を従え、雪を踏んで梅を訪ねる図をかなり写生的に表している。この時代の堆朱器はわが国にもかなり遺例が多く、代表的なものにはいずれも重要文化財の紫萼文香盆(滋賀県・聖衆来迎寺)、椿尾長鳥文香盆(興臨院)、牡丹孔雀文香盆(京都・大仙院)などがある。これらの図様はきわめて写生的で、肉どりによる浮彫りにも写実的配慮がうかがわれる。

またこの時期の優れた作家に浙江省嘉興府西塘楊匯出身の張成と楊茂がおり、15世紀初頭には張成の子の徳剛が官営工房の果園廠で剔紅に活躍した。その後は文様の構成が一段と複雑になり、細部にわたって意が用いられ、変わった器形や着想のもとで鑑賞性に富む装飾的なものが出現、17世紀以降の清代にはさらに鑑賞性を目ざす造形へと進んだ。わが国では鎌倉・室町期に盛んに輸入され唐物(からもの)として珍重されたが、初めて模作したのは南北朝時代の延文年間(1356~61)に堆朱楊成の初代長充であるとする説、室町中期の文明年間(1469~87)に京都の堆朱工門入であるとする説がある。なお、漆を塗り重ねる手間を省くため素地に図柄を加工した上に朱漆を塗る模造法として、新潟の村上堆朱や仙台市の東華堆朱などがある。

*宋代から発達,元代には張成・楊茂が名匠として知られ,清代には俗に〈はしか彫〉という繊細な技巧を用いたものが出現。日本では室町時代に明の作品が多数輸入され,同時に技術も伝来,堆朱楊成,あるいは京都の漆工門入が始めたと伝える。

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堆朱は当方では極端に蒐集数が少ない作品群ですが、今回の「なんでも鑑定団」の放映を契機に上記を調べみました。



一応、保管用のは箱に入れて大切に保管しておきましょう。中国産ではたとえば「根付は象牙に見せたプラスチック製が多い」などまがい品だらけなので、堆朱などもおいそれと手を出してはいけない領域だと思います。



現代では中国産の漆が日本の漆器でほとんど使われていますが、中国産の漆はゴム質で品質が悪いと聞いていますが、古いものの中国産の堆朱の漆は品質に問題はないのでしょうか?

修復完了 リメイク 高士観瀑図 金井烏洲筆 その3

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陶磁器を蒐集していると古い箱に収められた作品を入手することがあります。古い箱のまま保管するにしても扱いに注意しないと箱ごと破損しかねません。そこでお勧めするのが風呂敷で包んで保管する方法です。ただ箱の中の作品がひと目でわかるような工夫が必要です。当方で実施しているのですが、100円ショップで売っている名札に写真を入れておくとよいでしょう。風呂敷は粋なものでも使い古しでもよいと思います。現代の人は風呂敷を使わなくなったのでしょう、インターネットオークションにて風呂敷は様々な作品が安値で売られています。

こうすることで古い箱を積み重ねるて置くことはできなくなり、ちょっと場所をとることになり、保管は一段ずつ作品が置ける棚ということになります。



当方の蒐集した作品の整理の最終段階として痛んだ掛け軸の修復に少しずつ取り掛かっています。まずは費用のかかる大幅の作品の修復などから手を付けています。その修復を手掛けている作品のひとつが完成したので紹介します。

高士観瀑図 金井烏洲筆 その3
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2290*横760 画サイズ:縦1320*横630

 

この作品を紹介した本ブログの記事は2016年10月ですので、3年近く前に最初に紹介した作品です。



入手時には本作品は収納箱も無く、折れ皺がひどくて、鑑賞するにも気になっていた作品です。下記の写真が改装する前の状態です。



ブログの記事で記述したように金井烏洲の晩年の作を「風後の作」と称して特別な評価がされています。

本作品は60歳頃の作品と思われ、この年の春には持病の中風がやや小康を得た金井烏洲はさかんに筆を揮ったらしく、この年「江山雪眺図」など稀有の名作を数多く残し、「風后一種の宏逸酒脱の気格を加えた作品」と後日に評される作品を描いています。このような経緯から、この頃の作品は「風後の作」と称され、特別な評価がされているようです。



金井烏洲については詳しくは本ブログの上記の本作品の紹介記事を参考にしていただきたいと思いますが、その記事にも紹介したように「なんでも鑑定団」にも出品された金井烏洲の作品があります。

その作品への安河内眞美氏の寸評は下記のとおりです。

「金井烏洲は江戸時代末期に江戸に出て谷文晁について勉強した。墨を使って大画面をこれだけうまくまとめあげ、重さを感じさせない。力があった絵師なのだろうと感じる。右下に遊印が押してあるが、杜甫の詩で「名垂萬古知何用」とある。色々な想いがこもった印であろう。いずれにしてもこれだけの大作はなかなかない。」

「なんでも鑑定団」に出品さられた作品は本作品とほぼ同程度の大きさの作品であろうと推察されます。



「費用をかけて改装する価値がありや否や?」が改装の大きなポイントですが、むろん出来、評価がその判断要素として重要ですが、何と言っても蒐集している本人が作品を気に入っているかどうかでしょうね。



写真では伝わりにくいでしょうが、この作品は出来が素晴らしく、改装して改めてよかったと実感しています。

修繕の終了した作品 鏑木清方 & 釧雲泉 & 寺崎廣業

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10年以上続いた本ブログに投稿されている作品整理もそろそろ終了が見えてきました。

作品を調べて整理してきましたが、前にも記述したとおり並行して痛んだ作品の修復など保存するための処置を行っています。陶磁器、漆器、彫刻などがほぼ完了し、整理する作品数が多く残っていた掛け軸の修復や保存の処置を残すのみとなってきました。

作品はまず手元に遺すべき作品か否かを判断し、遺すべきと判断した作品には下記のような処置をしています。

陶磁器:破損している作品は修理、保存箱の誂え。
漆器 :破損している作品は修理、保存箱の誂え。
額作品:染み抜きの必要な場合は染み抜き、額が痛んでいる場合は額交換→タトウ+黄袋の誂え。
軸作品:染み抜きの必要な場合は染み抜き、痛んでいる場合は表具の改装→保存箱の無い場合は保存箱の誂え。
彫刻類:傷の補修、保存箱の誂え。シミのある場合はシミの処置。

共通しているのは「作品の説明書の作成、その電子データ化(アナログデータ化共)」です。それを検索しやすくするための本ブログの作成です。修理もさることながら、修理する価値の有無についてひとつの作品の調査に幾日も費やすこともありますし、何度も資料を推敲することも度々です。真贋、当方における価値さえなんども覆ることもあります。

本日は補修していた大幅の掛け軸の修復が完了したので、いくつかの作品を紹介します。

下記の作品は「太巻共箱二重箱」の内箱の下箱が欠損していた作品です。

横笛を吹く娘 鏑木清方筆
絹本水墨着色軸装 軸先 太巻共箱二重箱 
全体サイズ:縦1980*横640 画サイズ:縦*横



このような欠損はあまりないのですが、内箱が欠損しているため湿気によるシミが発生し始めている状態でした。なんらかの理由で太巻の内箱の下箱を欠損したのでしょう。



鏑木清方の初期の真作と判断しましたので、すぐに内箱の修復をしました。

 

この作品はもともと太巻きではなかったと判断されます。



共箱の作品を後日、太巻き収納箱に作り替えたのでしょう。

 

このような処置は結構あります。普通の保存方法では巻皺ができたり、絵の具の剥落が発現しそうな出来の良い作品には後日に太巻きの処置がされます。



今回の処置ではさらに題字のカバーを作っておきました。二重箱は出し入れで題字が擦れて損なわれることがあるので題字カバーは共箱には必須です。



こうすることで長く作品が健全な状態で保たれるようになり、作品も喜ぶでしょう。ただむろんのことですが、作品を扱う方の扱い方、保管方法が大切です。

次の作品は下記の作品です。



寒江独釣 その1 釧雲泉筆 寛政12年(1800年)頃
水墨淡彩紙本緞子軸装 軸先鹿角 合箱二重箱 2019年7月改装
全体サイズ:縦2045*横736 画サイズ:縦1497*横606



この作品は真贋の判断に時間を要した作品です。



真贋を疑ったのはまず同図の作品が存在することです。大正7年10月の當市高田氏及某家所蔵品入札(東京美術倶楽部開催)に掲載の作品NO42「春冬山水」双幅の冬の作品と構図が同一です。この作品の賛には「寒江独釣 戊辰(1808年)□□月以下不明」とあり、文化5年(釧雲泉)の作で、亡くなる3年前の作となりますが、本作品もそれと前後して描かれたものであろうと最初は推察していました。



この文化年間の「寒江独釣」は有名な作品であり、たしかに同図の作品が複数存在するようです。



ただ本作品は文化年間の作品と落款の書体が違い、作風からももっと前に書かれて作品と推察されます。



当方の作品の落款は「雲泉写」とあるのみで、印章は「釧就之印」の白方印と「丹青三昧(絵画の道一筋であるという)」朱方印です。印章も文化年間の印と違いが見られます。

*同図の作品の賛に「寒江独釣」とあることから、これに倣って仮題としていました。



以上から当初は文化年間の模倣作品の疑いが払拭されませんでしたが、調査を深めていくとその作風、落款から文化年間の四幅対の作品(文化年間の作品は「寒江獨釣」を含めて4幅対の構成になっている)より前の作ではないかと推察されます。

また4幅対として構想された画題の作品を、求めに応じそれぞれ複数描いたのでそれぞれ複数の作品が存在するのではと推測されます。順序からすると作風から本作品が4幅対の作品の元となっているように断定されると思います。(本作品への「すぎぴいさん」からのコメント通り)

以上から寛政末期から享和初年頃(1800年頃)の真作ではないかと判断しました。

*江戸期の作品は照明を極力暗くして鑑賞するのがいいようです。



よって、今回は痛んでいた表具を改装し、保存箱も修復してきちんと保存することにしました。



作品の題は「寒江獨釣」と区分するために「雪景山水図」としておきました。

*なお複数存在する文化年間の4幅の作品中の「寒江獨釣」と「秋渓覚句」の画題の二幅については、手元に同題の作品が所蔵しており、現在双幅仕立てにしています。

さらに釧雲泉の作品についてはもう一点作品があります。こちらは収納箱がない状態の作品です。



文化丁卯 浅絳山水図 釧雲泉筆 文化4年(1807年)頃
紙本水墨軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:縦2017*横686 画サイズ:縦1303*横556



落款は「雲泉釧就 押印」とあり、他の作品「文化丁卯山水図」と同時期の1807年(文化4年)頃の作と推定していますが、こちらは真贋の判断はしかねています。



ただ保存箱もなにもない状態の作品ですので、とりあえず収納箱を誂えました。



この作品も贋作として処分するには早計でじっくり調査中です。



本腰を入れた調査には時間というものを味方に引き入れる必要があるようです。



同様の作品は下記の作品です。こちらも収納箱がない状態です。いずれも幅の大きい作品ですので、収納箱は特注となります。

朝陽松ニ鶴図 寺崎廣業筆 明治37年(1904年)
絹本着色軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:縦2130*横815 画サイズ:縦1385*横670



賛には「明治甲辰正月八日於白井□□ 廣業写 押印」とあり、明治37年(1904年)の作の大幅の作品です。



明治37年は廣業が39歳の頃で各種展覧会にて入選を果たすなど活発に制作活動を始めた頃です。新年を迎えて興にのって描いた作品ではなかろうかと思われます。



描いた年号まで記した寺崎廣業の作品は非常に珍しいです。こちらは真作との判断になります。



落款は「二本廣業」の字体が次の字体に移る頃です。明治38年からは「業」の5画目が直線上になります。印章は「秀斎廣業」と落款を押印していた頃の作品にも押印されている印章です。



このように少しずつ調べていくうちに解ってきた作品を保存すべきか否かを考慮して振り分け、保存すべき作品は保存の処置をしている段階です。これが終了すると当方の蒐集はひとつの区切りを迎えることになります。


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