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鬼追い(羅漢図) 倉田松涛筆

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本作品は羅漢を描いたものか、風習としてある「鬼追い」の行事を元に描いた作品かは不明ですが、いずれにしても倉田松濤の作品において佳作のひとつに入る作品だと思います。



家内も好きな倉田松涛の作品ですが、8月末の帰郷では家内が郷里の骨董店にて他の2作品を購入しました。

*この2作品の紹介は後日また・・・。

鬼追い(羅漢図) 倉田松涛筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:横690*縦2040 画サイズ:横560*縦1210

 

鬼の面をかぶった羅漢、そのたいまつの煙には羅漢の姿が描かれています。



本作品は平福穂庵の影響を受け「羅漢図」の作品を数多く描いていた頃の作品ではなかろうかと推察しています。下記の作品のほかにも、本ブログでは倉田松濤が描いた「羅漢図」が2点紹介されています。これらの作品は本ブログの記事を参考にしてください。

羅漢図 小点 倉田松涛筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横365*縦1345 画サイズ:横180*縦205



羅漢図 倉田松涛筆 
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横370*縦2050 画サイズ:横330*縦1260



「鬼追い」という行事は下記のとおりです。

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鬼追い:毎年正月7日の夜、末吉の深川熊野神社領域で鬼追いが行われる。この行事は、光明寺の主宰で行なわれていた仏教行事であったが、明治の廃寺後に中絶していた際、悪疫が付近に流行したため、深川の青年たちが再開したものである。

現在は、鬼神太鼓の奉納演奏が境内の幻想的にライトアップされた竹林の中で行われ、その後、無数の御幣を身に纏った鬼が登場する。鬼には25歳の厄男がなり、この鬼に鬼の手を持った「つけ(付添役)」がつく。

この深川の鬼は招福除災の善鬼で、悪鬼のイメージがない。本来、節分のように追われるべき鬼がここでは歓迎され、強烈なパワーで悪疫を退散させるのが熊野神社の鬼追いの特徴である。いよいよ鬼が鬼堂から飛び出すと、空砲、鐘太鼓が激しく鳴り響く中。鬼が参道を暴れまわる。鬼の御幣を持ち帰ると1年健康であると言われるが、そのためには、闇に紛れた鬼に鬼の手で叩かれるのを覚悟しなければならない。鬼が鬼堂に帰ってからは、神社で煎豆が善男善女に配られ、たいへん混雑する。

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鬼追いの鬼のような人物と煙には羅漢が描かれ、その意図するところは正直解りかねています。



*鬼追いの行事は、仏教行事の修正会(しゅしょうえ)と、日本古層の神思想である来訪神が融合しているとの学説があり、一般には招福除災の性格があると言われています。



少年時代から各地を放浪してまわったらしい倉田松濤が、この行事を伝え聞いたか、実際に観たか不明です。日本の各地の
行事を描いている倉田松濤ですのでその一環として描かれた可能性があることは否定できません。



行事を伝えるとともにその行事の仏教に関わる宗教性も表現しているとすれば、絵の実力が伴った倉田松涛ならではの佳作と言えるのではないでしょうか。



倉田松涛の愛好者はおそらく地元秋田でしかいない画家?、下手をすると郷里でも知っている方が少ない画家ですが、画力は中央画壇の画家に引けをとらない画家だと思っています。



家内が倉田松濤のファンであるように身内に同じ趣向を持つ人がいるのは心強いものです。

また甥が福田豊四郎の作品に興味を示しているようなので、母の一周忌に際しては我が家に伝わる福田豊四郎の作品を甥に譲渡しました。甥はずいぶん前から福田豊四郎の作品を蒐集し始めていたようです。



今はまだライバルになりませんが、そのうち・・・・


再評価されるべき画家 蓬莱山図 山元春挙筆 その10 

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義父の七十七回忌の法要も終えひと段落しました。月も10月となり、決算時期では下期にも突入しましたので、今まで捧げものの手入れができていなかった神棚をきちんとして拝むことにしました。



台所の神棚も・・。荒神様・・・。



我が家に3カ所もある大黒・恵比寿様。



福の神も・・・、買ってきた宝くじをおいておきました。さてひととおり神様に失礼のないようにするのは手間がかかります。おっと庭にはお稲荷さんがあった



さて本日の作品紹介は本作品で本ブログへの投稿が10作品目となる山元春挙の作品です。意外にネットオークションなどで入手しやすい画家ですが、甥の山元櫻月(春汀)と共に蒐集すると面白いですね。

蓬莱山図 山元春挙筆 その10 
紙本水墨軸装 軸先 共箱二重箱
全体サイズ:横490*縦2235 画サイズ:横310*縦1380

 

山元春挙の作品は着色の作品が人気がありますが、わりと水墨画もしっかりしています。



山元春挙の作品はなんといっても画題は山岳画です。雄大な山岳風景を題材に写実的で壮大なスケールの作品を次々と発表し、新時代の到来を感じさせる革新的な画家として当時は人気を博しました



逆に山岳画以外は意外にみるべき作品がないと言って過言ではないでしょう。



春挙は画業50年のうち、40歳前後からの20年間全てを「山岳風景」だけにその画題をしぼったと言われています。



山元春の作品は箱がしっかりしているものがいいですね。描いた当時の人気の高さがうかがわれます。

  

不運にも竹内栖鳳の陰にかくれることの多かった春山元春挙は次第に人気が薄れましたが、最近は再評価されています。

名都美術館(愛知県長久手市にある私立美術館)で2019年4月2日(火)から開催されていた「山元春挙 -大明神と呼ばれた画家-」展があり、好評だったようです。山元春挙自身は意外にルックスがいい男・・・。



大正6年(1917年)6月11日帝室技芸員に任命されるた同年、故郷の近くに別荘・蘆花浅水荘(国の重要文化財)を営み、のち庭内に記恩寺を建立、寛斎と父の像を安置しています。このことから本作品は大正6年頃以降の作で、画風から大正年代末の作ではないかと推察されます。

  

本ブログで紹介したたの所蔵作品の「秋渓早雪図」(上写真中央)、「秋山清影図」(上写真右)にも同じような落款があります。

なお作品中の左下には下記の印章が押印されています。どのような意図なのかは不明です。



いくら雄大で素晴らしい作品でも、その大作を飾るスペースが無ければ広げることさえできません。山元春挙の作品を飾るにはそれなりの大きな床の間が必要なようです。



今回に展示では手前は弓野焼の甕を置いていました。



ところで箱書きの表面に題名とともに、落款と印章を押印することの多い山元春挙の共箱ですが、このような場合は題字カバーが付くべきですが、題字カバーを破損してか、題字カバーがない作品が多くあります。



題字カバーを外そうとして題字カバーを破損する方が多くいますが、題字カバーでも扱いを慎重にしなくていけません。掛け軸の扱いには、落ち着いた所作が肝要です。

どうしても破損して外箱に入らなくなったりしたら、応急的に紙でカバーして保管しておくといいでしょう。紙の挿入にはちょっとしたコツが要りますが・・・。

*題字カバーは数千円でできます。


新冬 平福百穂筆 昭和7年(1932年)冬頃

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最近NHKで放映され始めた「令和版 牡丹灯篭」が面白そうです。さて息子が描いたお化けの絵、曰く「眠いお化け」だそうです。眠いお化けだから「目の下にクマがあるだよ!」???? 「クマ」・・・、「熊」??? 本気でそう解釈しているらしい。家内もとりたてて説明せず黙殺

ともかく小生の机から紙やハサミ、セロテープ、糊などが紛失してはなにやら作っている息子です。ちなみに日本のお化けにも歯があるらしい・・・。



本日の作品の紹介です。

我が郷里の画家で最も贋作が多いのは平福百穂の作品でしょう。出来の良い作品も多く、ようやく最近になって少し判別ができるようになってきました。本日紹介するのはおそらく画帳に描かれていた作品を掛け軸に表装したものでしょう。

新冬 平福百穂筆 昭和7年(1932年)冬頃
紙本水墨淡彩(画帳外し)絹装軸 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横625*縦1280 画サイズ:横418*横280



この作品は出来、落款、印章から最晩年に描かれた真作と判断されます。



表具はキチンとしています。表具からも真作と判断されることはあります。軸先は象牙でしょう。



二重箱の蓋の欠損はよくあることで、おそらく落としたことによる欠損なのでしょう。



平福百穂の作品は一応きちんと印章は確認しておきましょう。というのは印章や落款を非常にうまく似せている贋作が多いからです。この作品の印章は間違いなく真印です。

  

中央に画帳外しと解る折れ目があるような作品には工藝作品は少なく、贋作にも滅多にないことなども真作と判断できる要素ではあります。

平福百穂には工藝作品が多くあるので要注意です。迷うのが下記のような作品です。

工藝色紙 伊豆の峠 平福百穂筆 大正11年(1922年)頃 
紙本水墨淡彩色紙  
画サイズ:縦270*横240



一応額に入れて飾ってはみたものの工藝作品の疑いが払えない作品です。



平福百穂の作品、というより昭和の初めの頃の著名な画家の作品全般に言えることですが、この頃には精巧な工藝作品が出回っていたようです。



この作品は色紙の作品ですが、精巧な掛け軸の作品も肉筆か手彩色(要は印刷作品や版画の工芸品)かの区別が難しい作品があります。



落款と印章はまったく真作と同じです。強いて言うと大きさが違うことがある。大きさまで揃えることを防ぐために古い印章の資料はわざと大きさを変えてある場合もあります。

 

この平福百穂の作品の落款にある「白田草堂」については他の所蔵作品「老松図 平福百穂筆」(大正13年(1924年)頃)の作品にもある落款ですが、他の存在する「伊豆の峠」という題の工藝作品と構図であり、落款、印章が全く同じであることから、本作品もまた工藝品と疑いが高いです。

*色紙の工藝作品についてはまた後日記事を投稿する予定です。



印刷か否かくらいはルーペでドットをみると解ると言いますが、素人判断では全くわかりません。



色紙から絹本を一回剥がして色紙に張り付けたことから工芸品か否かの判断を難しくしたのかもしれません。ただ肉筆の可能性が全くないとも言い切れません。



最近では「鮎」を描いた扇面の作品は印章が真印と大きさが違うので返品したこともあります。この作品は一応後学のために手元に置いておくことにしました。これらは骨董における一種の「お化け」のようなもの・・・。

本日紹介している「新冬」の作品は肉筆の真作です。このような判断は数多くの平福百穂の作品を扱わないと判断できないようです。



「新冬」の作品を展示室に飾りました。なお手前は柿右衛門の観音像です。



この作品は「新冬」と題されていますので、10月から11月ころでしょうか? 亡くなる前年の秋となりますね。



画帳に描いた作品を掛け軸にし、共箱としたと推察されます。



二重箱の蓋は直せます。



このような筋の良い作品は直しておくことがいい思います。



これもまた蒐集する者の務めですね。

*現在修理中です。

夏菜 福田豊四郎筆

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当方の福田豊四郎の所蔵作品は100作品を超えることになりました。蒐集作品の数が100作品を超えた現在になってようやく製作時期や印章、落款の判別がつくようになりました。呑み込みが悪い蒐集者なのでまったく長~い道のりです。

夏菜 福田豊四郎筆 その100 昭和10年頃
絹本着色軸装 軸先象牙 戦後共箱
全体サイズ:横480*縦1185 画サイズ:横360*縦280



昭和10年頃に描かれた作品に戦後間もない頃に箱書された作品でしょう。



戦前の作品にたいして箱書きされている作品は数が少ないでしょう。「豊四郎生」と「生」という字を落款に記した最後の頃の箱書きでしょう。一般的に落款に「生」の文字があるのは「初心に戻る」という意味があるので、初期の頃の作品に多い落款です。ただ大橋翆石のように途中で「生」と記する落款が復活したり、野口幽谷のように終生「生」を記する落款を使うが画家もいます。



印章と落款は下記のとおりです。

 

当方も近くに畑がありますので日々野菜には親近感がありますが、福田豊四郎の野菜に対する慈しみが溢れている作品だと思います。



展示室の廊下に飾っています。



さ~、この作品をつまらぬ作品と観るか、情緒豊かな作品と観るか…人さまざま・・・。福田豊四郎の100作品目の蒐集作品です。

三彩馬上茶碗 長与三彩

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過去の震災や現在の台風の災害に向き合いながら、世界が互いに友好を図るスポーツの世界大会が日本で行われている脇で、そういう状況でも日本に冷や水を浴びせる隣国はいかなる国か? 本ブログにて再三述べているように、擁護はすでに無用で冷静な判断にてどう付き合うかを考えざる得ないであろう。

さて本日紹介する作品は「盃洗」なのか「馬上杯(茶碗)」なのかよくわかっていません。一応、盃洗なら下手物?なので、欲目にみて茶碗に分類しておきましょう。

三彩馬上茶碗 長与三彩
杉古箱
口径120*底径*高さ107~112



大きさは盃としては大きいのでやはり茶碗か盃洗として作られた作品でしょうが、盃ならかなり大きめのものとなります。ただ実際の馬上杯は大きめに作られたようです。



器を下から支える高台と呼ばれる部分が高くなっているこのお茶碗は「馬上杯(ばしょうはい)」といいます。もともとはモンゴルの騎馬民族の人たちが馬に乗りながらお酒を飲むために使った器からきたもので、高台の所に穴を開けてひもを通し、腰に下げて持ち歩いた騎馬民族のマイカップのようなものだったそうです。

馬上でお酒を飲むときは片手で馬の手綱を持ち、もう片方の手で高台の部分をわしづかみにして飲む器です。それが日本に渡って酒杯として以外に抹茶碗として作られて使われることになりました。

どうも茶道における馬上杯は期間限定のお茶碗のようで、今は2月最初の午(うま)の日の頃の趣向としてだいたい2月限定で使われるのが決まりのようです。



長与焼は寛文7年(1667)の開窯から安政6年(1859)の渡辺窯の終焉までのおよそ200年の間に存在しましたが、次のように三つの操業時期があるとされています。

<第一期操業>寛文7年(1667)~元禄5年(1692)頃
<第二期操業>正徳2年(1712)~文政3年(1820)
<第三期操業>弘化2年(1845)~安政6年(1859)

ただこれらの時期の製作技法や製品についてはまだ不明な部分が多いとのことです。



この作品が幻の焼き物と称される「長与三彩」なのかどうなのかも、長与焼に詳しくない当方にはよくわかっていませんが、幻の焼き物かどうかは別として長与三彩の作品には相違ないものと思っています。



長与三彩の製品は同領内の波佐見焼とよく似た日用品の白磁染付の碗・皿類がほとんどですが、わずかに煎茶道具や上絵製品、あるいは長与焼を代表する三彩製品など特注品と思われるものがあります。

三彩焼には成型された生地にそのまま鉛を媒溶剤として色釉を施して低火度で焼いた軟質陶器と、素焼した生地を半強火釉で彩色して2度焼きしたものがあります。

前者は中国の唐三彩に代表される技法で、日本でも古く奈良時代にその技法を学んで三彩の作品(奈良三彩)が作られたことがありますが、その技法は伝承されないまま途絶えてしまっています。

一方中国では明時代になって2度焼きをする技法が著しく発達し、白色の磁器質の器に直接に透明性の色釉を掛けた三彩(明三彩)が生み出されました。清時代の康煕年間には器に低火度の無色白釉を薄く施し、その上から色釉を掛けるという磁器三彩(素三彩)が作られるようになっています。



伝世品の長与三彩を見ると、三彩の施釉方法には流し掛けのものと、色釉の場所を指定したいわゆる迷彩式のものがありますが、しかし作品によってこれらを使い分けているようには見られません。

また三彩によって器面を装飾する方法には、ただ三彩釉だけが器面に施されたものと、染付と三彩が一体になったものや、あるいは三彩・染付・漆が併用されたものがあります。

そのうちで漆には金箔を散らしているが(金砂子)、これらは蒔絵に用いられる白檀塗りと同様であり、梨子地の漆器を連想させる意図があるようです。

<第一期操業>寛文7年(1667)~元禄5年(1692)頃

このように17世紀末に長与皿山で始まった三彩作品の出現は、明らかに日本の伝統的な文化である漆器をヒントに製作されており、それらを他の材質での製作を試みる写象技法に成功した京焼を手本としたものであろうと考察されています。



<第二期操業>正徳2年(1712)~文政3年(1820)

18世紀中頃には窯の経営も順調となり盛んに藩外にも売りさばかれるようになりましたが、19世紀に入ると焼物の値段が下がったために窯の経営は苦しくなり、文政3年(1820)に生産を中止しました。この時期には大阪で人気があった「お笹紅」の容器を注文で作ったり、安永4年(1775)には伊予大洲藩領の砥部に白磁焼成の指導のために陶工を派遣しています。また長与焼を代表する「長与三彩」の製品もこの時期に作られたとされています。

長与三彩についてはこれまで『郷村記』に寛政4年(1792)に長与村の市次郎が珍しい焼物を焼いたという記載から、これが長与三彩の始まりであると言われてきましたが、平成3年(1991)に熊本県天草の上田家に保管されていた古文書の、『近国焼物大概帳』が紹介されてこのことを裏付けることになったようです。

これは寛政8年(1796)に天草郡高浜村焼物師伝九郎と同村庄屋の上田源作から、島原大横目の大原甚五左衛門に提出されたものの写しですが、その中で長与皿山についての文中に「此所チャンパン焼物師壱人大村より御扶持頂戴帯刀御免之仁有之』とあります。チャンパンとはチャンパあるいはチャボと呼ばれて現在のヴェトナム地方を指す言葉で、そこは16世紀後半から17世紀前半にかけて朱印船貿易で日本にもたらされた「交趾三彩」と呼ばれる焼物と深い関わりがあるところです。この三彩の焼物は日本で好き者に珍重されたため、京焼や四国の源内焼で盛んに模した三彩の製品が作られました。

古文書の年号は『大村郷村記』に記された寛政4年(1792)からわずか4年後に書かれたものであり、これらのことから推察すると長与三彩は、交趾三彩の技術をもとにして出現したことが十分に考えられます。

<第三期操業>弘化2年(1845)~安政6年(1859)

弘化2年(1845)には再興窯を開いた太郎兵衛の子孫になる渡辺作兵衛によって再再興が行われましたが、その操業は小規模で安政6年(1859)には閉窯しています。

製品には白磁染付類や当時長崎で焼かれていた亀山焼(1807~1865操業)や鵬ヶ崎焼(1823~1852操業)、あるいは古いところの現川焼(1691~1749頃操業)などを模したものなどがありました。伝承によれば明治期に土管や水がめ類を焼いたと言われますが、現在までのところではそれらを確証する根拠はまだ無いそうです。



日本で生まれた三彩・・、古くは奈良三彩、近代では本ブログで数多く投稿されている源内焼らがあります。マイナーな作品群がら長与三彩にも注目していきたいと思います。



日本にはマイナーながら優品の作品をときおり見つけます。本ブログで紹介された下記の作品のそれらだろうと考えています。

三彩陽刻双龍文硯屏 伝長与三彩
合箱
最大幅205*奥行66*高さ170



蓮に水鳥置物 伝紀州善妙寺焼
合箱
幅120*奥行き102*高さ75



これらのマイナーな焼き物を愉しむのも陶磁器の骨董の醍醐味であることは確かなようです。

ナザレの海 伊勢正義画 制作年不詳

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我が郷里の画家、「伊勢正義」は五回にわたり欧州各地やアフリカなどへ取材旅行に出かけており、海外を題材にした作品も数多く遺しています。本日は海外の風景を描いた作品の紹介です。

ナザレの海 伊勢正義画 制作年不詳
油彩額装 左下サイン 誂タトウ+黄袋 
画サイズP10号:縦409*横530 全体サイズ:縦595*横713



題名の「ナザレ」は有名なイスラエル北部地区の中心都市のことではなく、海に面していることからポルトガルの首都リスボンから北へ約120kmの位置にあるナザレという海辺の村であろうと思われます。



この村は10年ほどまではほとんど知られていなかった村ですが、冬になると大西洋に吹き荒れる嵐が生み出す壁のようなビッグウェーブが打ち寄せるため、今ではビッグウェーブサーファーたちがこぞって訪れる人気ポイントになっているそうです。



*伊勢正義については「大正14年旧東京美校(藤島武二教室)洋画科に入り卒。昭和11年、猪熊弦一郎、小磯良平らとともに新制作協会の創立に参加、帝展特選、光風会展四回受賞などの画歴を持つ。同協会の重鎮。この間、五回にわたり欧州各地やアフリカなどへ取材旅行に出かけ、丹羽文雄ら著名作家の連載小説の挿絵も手掛けた。」という記事があります。



晩年にはアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた画家ですが、初期の頃の作か晩年の作かも不明です。



少女の肖像で人気の画家で、当時の週刊誌の表紙に何度も採用されている画家でしたが、戦前の混乱期、また画壇の紛糾していた時代に製作活動を続けていた画家でもあります。このような風景画の画家としても改めて見直すべき洋画家のひとりと言えるでしょう。



本ブログでも郷土の画家として紹介してきましたが、郷土の画家としてだけでなく、日本の洋画家として評価してよい画家であろうと思います。



左下のサインは年号? なのかどうかは不明です。



ギャルリーソノリテは現在でも存在する百貨店おろしの店のようです。



展示室の廊下では飾り切れないくらいの数が蒐集できています。



伊勢正義の作品、ひと作品くらいは所蔵してみたらいかがでしょうか?



我が郷里の方々、とくに県北の方、十和田湖に近い方は日本画家なら福田豊四郎、洋画は伊勢正義の作品をお勧めします。

蔵王権現図 田中頼璋筆 

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白丹波の徳利の頂部に接着剤で付けた不釣り合いな金物のある花入れをなんとかまともな形にしようと、頂部の金物部分を石屋さんに頼んで切断し、輪島長屋工房さんに依頼して切り口を金繕いしてもらいました。

元の作品は下記のものでブログにも紹介されています。

白丹波焼 一輪挿し
口部金属 
口径37*最大胴径100*底径*高さ262

 

このままではとても使える代物ではありませんので、首切り・・・。切断はガラス屋さんか石屋さんかと迷いましたが、石の加工している方に依頼しました。



さて首を切ったままでは後味が悪いので、輪島長屋工房さんに依頼して切り口に金繕いしてもらいました。町田のお茶道具店で覆輪にしようと思ったら、厚みがある縁はできないとのこと。最近のお茶道具店は老舗でも技術的なことは不案内なようです。



ここまでして修復?するのが根気が必要です。加工費用は誂えた箱をいれて約2万円なり



固執する理由は、この作品の雨漏り手のような変化する景色ゆえ・・・。とくに正面?にある星のような斑点、徳利ゆえ付いている持ち手のための窪みも景色になっています。



骨董を蒐集する者にはこういう執着心、こだわり大切で、いろんなことにチャレンジすることで技術も人とのつながりも広がります。



さて本題の本日の作品ですが、無落款の作品ゆえ本作品が田中頼章の作であるかどうかは全く解りません。箱書に「小林精一」なる人物がそのように記しているのみが根拠です。

男の隠れ家には田中頼章の山水画の作品が以前からあり、馴染みのある画家ですが、もともと着色された山水画の得意な画家という認識があり、このような神仏を描いた作品は珍しいと思います。

蔵王権現図 田中頼璋筆 
絹本着色軸装 軸先木製 小林精一鑑定箱
全体サイズ:縦2300*横860 画サイズ:縦1370*横700



蔵王権現(ざおうごんげん)は日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊です。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られています。

*神仏を描いた作品に落款や印章を押印しない例は多々あります。落款を入れても「謹画」とか、時には印章のみとか神仏には敬意を払っている所作でしょう。

 

「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意味です。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意味。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。



蔵王権現の像容は密教の明王像と類似しており、激しい忿怒相で、怒髪天を衝き、右手と右脚を高く上げ、左手は腰に当てるのを通例とします。右手には三鈷杵を持ち左手は刀印を結び、左足は大地を力強く踏ん張って、右足は宙高く掲げられています。その背後には火炎が燃え盛っています。

図像上の最も顕著な特色は右足を高く上げていることで、このため、彫像の場合は左脚1本で像全体を支えることになるか、右脚をつっかえ棒で支えています。また単に高く掲げられたように見える右足は、実は虚空を踏んでいるのだという解釈もあります。ただし、京都・広隆寺像のように両足を地に付けている像もあります。

参考作品:蔵王権現(ギメ東洋美術館)



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田中頼璋(たなか らいしょう):1866年(慶応2年)に島根県邑智郡市木村(現・邑南町市木)に生まれた旧派を代表する日本画家です。

生家は幕末までは村を代表するような大庄屋でしたが、明治維新を境に没落したため上京して絵を学びたいという夢はかなわず、かえって家庭の生計をたすけるために頼璋は旅絵師の道を選んだそうです。 当初に拠点としたのは広島の山間の村々であったらしく、揮毫料を稼いで実家に仕送りする時期が長かったようです。 そんな頼璋を助けたのが萩出身の勤王画家・森寛齊でしたが、入門すると言うことではなく師の絵を手本にして独学で技を磨いたようです。



画家として一旗揚げようと上京したのは36歳のときで、画家としては随分遅いスタートとなりました。 上京して四条円山派の大家・川端玉章に入門できたものの、300人もの同門の若い画学生たちには随分いじめられたようで、「田舎者、中年者、駆け出し者」と蔑まれたそうです。 しかしそんな周囲の冷ややかな目の中で、たちまちにして腕をあげ、日本美術協会展や帝展、文展で受賞を重ね、ついに立身出世の夢を果たしました。



その作風は「文人趣味と円山派の写実性の融合を目ざした」と評されました。 やがて絶頂期を迎えますが、革新の息吹にはなじまず、むしろ江戸時代の文人趣味を継承する最後の世代の一人となったと評価されています。 しかしその保守性はまことに頑ななもので、地道に研鑚を重ねた努力型の画家らしく画塾を開いてからの指導法は、師が粗描きをした下絵を弟子が敷き写して同じ絵を描くという旧態依然としたものであったようです。



このような指導法には革新的な弟子たちには不評であったらしく、弟子の一人「丸木位里」によれば「こんなことをやっていてもどうしようもないと一度で思ったもんだ」とまで言われるほどであったと言われています。



そんな絶頂の時期に関東大震災が発生し、東京を離れた頼璋は広島にもどり晩年を迎えることになりましたが、苦労に耐えて築き上げてきたかけがえのない画家人生をまっとうしました。享年73歳。



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田中頼章の作品は当方の所蔵には「緑陰水亭図」という作品がありますが、本ブログではまだ紹介されていません。

またなんでも鑑定団では下記の作品が紹介されています。


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参考作品 なんでも鑑定団出品作
月下虎図
2019年7月23日放送 評価金額:45万



評:迫力のある虎図、絹本の素晴らしい作品。吼える勢い、胸のあたりの描写に柔らかい描写が感じられる。左下に尻尾の先が見えているのが、全体的に動きを与えている。「辛亥初冬 写於山峡客舎」43歳の時、山間の宿で描いたと書かれている。田中の作品はだいたいが山水図で、虎図は珍しい。

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この作品が45万円・・・???? 一桁違いますね。

現在では掛け軸のお値段は暴落しています。特に富岡鉄斎に代表される近代南画は、真贋云々するのが馬鹿馬鹿しいくらいと言っていいでしょう。逆に考えるとお値段に関わらずいい作品を蒐集できるといっても過言ではありません。

頑なに職人気質のように旧態依然とした山水画を描き続けた画家ですが、本作品が田中頼璋の作品なら別の一面を見るようで面白いですね。

奥入瀬 舘岡栗山筆 昭和46年

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男の隠れ家には使われなくなった欄間額がたくさんありました。そう「ありました」です。欄間額の古いものにはガラスやアクリル板など作品を保護するものがなく、カビや破れで状態が悪い作品が多く、費用をかけて修理するには割の合わない作品は多くを破棄しました。それでも2,3作品は修理したのですが、まだ手付かずの作品が多くあります。



その手つかずの作品には上記の「舘岡栗山」の欄間額があります。絵の作品はまだ当方で判断ができるのですが、書の欄間額の作品はまだ書は良し悪しの判断がつくまで放置しておくことにしています。



舘岡栗山が、おそらく「奥入瀬」を描いた作品でしょう。このような郷里の画家の作品は郷里の家には、欄間額、屏風貼り絵などあちこちにあったものです。



今では郷里の秋田でも忘れ去られた画家「舘岡栗山」・・・、こうして鑑賞するると墨絵の腕前は一流です。



さて本日は家に古くからある作品ではなく新たに入手した舘岡栗山の掛け軸の作品の紹介です。

奥入瀬 舘岡栗山筆 昭和46年
絹本水墨淡彩軸装 軸先陶器 共箱
全体サイズ:横650*縦1380 画サイズ:横*縦



終戦の少し前の昭和20年4月に、48歳の栗山は京都から郷里の五城目町に帰郷します。よく年秋には、一日市町(今の八郎潟町)に移り住んでいます。



郷里に住んだ栗山は、秋田の風景と行事と伝承芸能を描きつづけます。わき目もふらず、秋田を日本画の筆で追いつづけ、たくさんのすばらしい作品を生み出しています。

院展特待・無鑑査となったのも、単なる連続入選でなく、郷里に住んで栗山でなければ描けない絵の境地を見つけたからだともいえるのでしょう。



番楽・盆踊り・なまはげ・竿灯などの行事や、芸能、森山・八郎潟・十和田湖などの風景が、栗山の絵の中で特に目を引く作品です。その作品らの多くは本ブログでも紹介されていますが、本日の作品は十和田湖の奥入瀬を描いた作品です。

 

舘岡栗山の作品で共箱に収められている作品は数が少ないように思います。 



現在秋田では舘岡栗山の作品は一万円程度で売られていますが、東京でいざ売ろうとしたら千円にもならかったそうな・・・

骨董とはそういうもの、買った時の半分以下が相場と思ったほうがいいですが、郷里にちなんだ画家は郷里に、またその絵の価値を尊重するところに収まればいい・・・・

骨董の金銭的な価値・真贋ばかり気になる方は骨董蒐集をする資格がない、ただ金銭的な価値・真贋が解らない方は骨董蒐集する素養がない

孤鹿図 渡邉崋山筆 天保9年

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最近は「嫌韓」の風潮が強いようだが、日本人の心情は嫌韓という一言で片づけられないほどもっと強いと思う。政権に起因しているような報道もあるが全く違うと感じます。たとえばスポーツ界においても、優勝カップを足蹴にしたり、グランドに国旗をたてたり、領土を主張したりと世界から目に余る蛮行とされてもなおそれを正当化、許容する国民性はどこからくるのだろうか? 反日教育が要因のひとつだろうが、真因はもっと深そうであり、それに相手が気がつき是正するまで、世界は無視続けることが得策であろう。

さて嫌というほど「伝渡辺崋山」の作品を見てきましたが、これはという作品は少ないものです。渡辺崋山、狩野探幽、伊藤若冲、円山応挙らはやはり蒐集する者にとっては垂涎の作品なのでしょう。

贋作が多いからと食指を動かさないのも不勉強・・・

孤鹿図 渡邉崋山筆 天保9年
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 渡邉華石・山下青城鑑定箱
全体サイズ:縦1155*横392 画サイズ:縦281*横238



現時点では当方では出来や落款と印章から真作の可能性があると判断しています。



渡邊崋山の作品はこれで3作品目の所蔵となりますが、贋作や模倣作品、真贋はなんとも言えない作品が多いのが渡辺崋山の作品ですが、幸いも真作と思われる作品に縁があります。



渡邊崋山の作品は一般的にやはり「うまい」という印象が強い作品が多いようです。



戊戌(1838年 天保9年)八月□□十□六日寫 登 押印」とあり、渡辺華石が亡くなる三年前の45歳頃の作。蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、天保10年(1839年)5月に起きているのでその前年となります。真作なら最晩年に近い貴重な作品となります。

 

渡邉華石と山下青城の鑑定箱書があります。少なくても山下青城の鑑定箱書は本物のようです。

  

落款と印章の資料との対比は下記のとおりです。

  

表具もいいですね。



当方では「時には」著名画家にもチャレンジしています。ただ著名画家「にばかり」チャレンジするのは危険ですね。

小色紙 蛙図 平福百穂筆

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10年間、ほぼ毎日のように記事をブログに投稿していると記事の題材に事欠くことがありますが、そこで本日は休日につき気軽に楽しめる作品、言い方を変えると気軽に投稿できる作品の紹介です。

郷里の画家、平福百穂の小色紙の作品です。

小色紙 蛙図 平福百穂筆
紙本水墨淡彩色紙 タトウ  
画サイズ:縦210*横180



本作品はヤフーオークションより購入したもの。



同様な字体の印章は存在していますが、押印されている印章については資料が不足しており真偽は不明であり、この印章については後学の判断とすることとなります。そこであくまでも絵の雰囲気からですが、描いたのは昭和年間と推定されます。



平福百穂の色紙の作品には精巧な印刷工藝作品が多いのですが、この作品は肉筆に相違ないようです。



小色紙の専用の額というのはなかなかいいものがありません。世界堂さんに依頼して好きな額に入るようにマットを加工してもらいました。こうしておくと小色紙の作品を交換して愉しめます。作品毎に額を誂えるのは画廊の考えること・・。

ところで長らく展示室に飾られている作品に郷里出身の洋画家「伊勢正義」の作品があります。



大学時代に付き合っていた初恋の女性に似ている・・・。



どうも骨董蒐集というのは過去の原体験とリンクしているかもしれません。そこには真贋など超えた好みが存在しているようです。さて桜と蛙もどこかで・・・・




髪を梳く女 木谷千種筆

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廉価ゆえにと掛け軸の作品が多くなると、飾る場所がなくなるので、軸装の作品を額装にすることが多々あります。本日はそのような作品の紹介です。

髪を梳く女 木谷千種筆
紙本着色軸装→額装 軸先木製蒔絵 誂タトウ+黄袋
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



作品の落款、印章は下記のとおりです。共箱ではありませんので、額装には共箱の処理の必要がありません。



木谷千種(きたに-ちぐさ)については本ブログにて何度も紹介していますが、あらためて下記の略歴を紹介しておきます。

*印のある画家は本ブログにて作品を紹介している画家です。

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木谷千種(きたに-ちぐさ):1895-1947 大正-昭和時代の日本画家。明治28年生まれ。木谷蓬吟(ほうぎん)の妻。*池田蕉園,*菊池契月らに師事。

大正元年第6回文展に初入選以来,女性をテーマにした作品で文展,帝展に12回入選する。のち千種会を主宰。昭和22年1月24日死去。53歳。大阪出身。清水谷高女卒。本名は英子。作品に「浄瑠璃(じょうるり)船」「祇園(ぎおん)町の雪」など。



画家 吉岡千種誕生
木谷千種は、旧姓吉岡、本名を英子といい、明治28年に大阪市北区堂島の唐物雑貨商の家に生まれました。大阪府立清水谷高等女学校在学中に、清新な写生で知られた四条派の画家深田直城について絵を学び始め、大正2年同校卒業後、美人画を得意とした東京の女性日本画家*池田蕉園の下で本格的な研鑽に入ります。
 
同4年、大阪に戻り、*北野恒富・*野田九浦に師事し、同年第9回文部省美術展覧会(文展)に「針供養」ではじめて入選を果たします。文展は、当時日本でもっとも権威のあった全国公募展覧会で、画家千種の名が世に広く知られるようになりました。

女性画家 千種飛翔
大正7年、第12回文展に「おんごく」で再び入選を果たす一方で、新たに京都の菊池契月塾に入門し、その筆に磨きをかけました。同9年には浄瑠璃研究の大家、木谷蓬吟と結婚。以後、木谷千種として、文展を受け継いだ帝国美術院展覧会(帝展)を中心に活躍を続け、昭和10年代まで毎年のように入選を重ねていきました。このように、千種は大阪の女性画家興隆の中心的な役割を担いましたが、昭和22年、51歳で亡くなりました。

千種と池田
ところで、千種は、東京からもどった大正4年以降、室町にあった叔父・吉岡重三郎の家に同居していました。ご存じの方も多いかと思いますが、吉岡重三郎は、明治42年、箕面有馬電気軌道に入社し、小林一三を助けて、宝塚少女歌劇の創立に尽力した人物です。また、現阪急電鉄の取締役や宝塚少女歌劇団理事長、さらに東京宝塚劇場の社長などの要職を歴任し、全国高等学校野球選手権大会の生みの親としてもよく知られています。

大正5年正月、室町の家で、当時大阪を代表する女性画家の*島成園・*岡本更園・生田花朝と千種が、吉岡重三郎が招いたタカラジェンヌたちとにぎやかな新年会を催したと当時の新聞は伝えています。千種と池田をつなぐひとつのエピソードです。



千種、池田室町へ
前回、木谷千種の生涯についてその概略を述べましたが、今回は池田時代について詳しく紹介します。

千種は、東京の池田蕉園のもとで約3年間の研さんを積み、池田室町の叔父吉岡重三郎のもとへ戻ってきます。大正4年当初、ひょっとすると、同3年の終わりごろかもしれません。ここで、千種の新たな活動が始まります。大阪の北野恒富や野田九浦の塾に通う傍ら、当面の目標は、目前に迫った第1回大阪美術展覧会への出展でした。

第1回大阪美術展覧会入選
大阪美術展覧会は、大阪にも権威のある展覧会がほしいということで、当時大阪高麗橋三越呉服店の支店長であった梯孝二郎と恒富・九浦・中川和堂によって開設された展覧会です。第1回展は、大正4年2月20日から三越呉服店を会場にして開催されました。応募作品数211点、入選作品数58点、千種は弱冠20歳で出展作品として初めて制作した「新居」で見事入選しました。

この女性のモデルが、当時日銀の大阪支店に勤めていた佐々木五郎の新妻庸子であったと推定されます。庸子は、大正3年10月に結婚、大阪時事新報の「当世美女伝」にも取り上げられたほどの美ぼうの人で、当初新市街と呼ばれた室町に新居を構えていました。千種も同じ室町にいたことから、彼女をモデルにした作品はこれだけではなかったと考えられます。



閨秀画家・吉岡千種
「閨秀」という言葉は現在ではほとんど耳にすることがなくなりましたが、学問や芸術に特に優れた婦人という意味です。現在はやりの「セレブ」に近いニュアンスといっていいかもしれません。

第1回大阪美術展覧会では、千種を含め7人の女性画家が入選を果たしています。当時婦人の絵画熱が高まりをみせていたこともあって、「閨秀画家○○」というさまざまな記事が各新聞紙上に見受けられます。その中にあって、千種は新進の女性画家として、また、前述の「当世美女伝」にも取り上げられたこともあり、とくに注目を集めるようになりました。

さらに、同年10月、全国公募展覧会である第9回文部省美術展覧会に「針供養」ではじめて入選しました。受付作品数2150点、入選作品数218点、大阪の入選画家22人、内女性画家は千種を含め3人というものでした。



女性画家の活躍「浪花花壇」

ところで、大正時代の大阪画壇の特徴は、女性画家の活躍にあるといわれています。千種をはじめ、その代表格である島成園、岡本更園や東京から移った松本華羊、生田花朝らの女性画家たちは、画壇をもじって「浪花花壇」と表されていました。また、大正5年には、千種・成園・更園・華羊らは「女四人の会」を結成し、西鶴の「好色五人女」を題材にとった展覧会を開催しています。この作品研究のために千種らは、近松研究の第一人者であった木谷蓬吟に助言を求めています。千種と後の夫となる蓬吟との最初の出会いであったかもしれません。

大正8年正月、京都に住む千種を蓬吟が訪ねています。現在のところ、池田を離れた時期を正確に特定することはできていません。しかし、千種にとって画壇に鮮烈なデビューを果たし、また、蓬吟と出会った池田時代は、ごくわずかな期間ではありましたが、その生涯を決した時代であったといえます。

大阪を代表する女性画家

大正9年春、千種は近松研究の第一人者といわれた木谷蓬吟と結婚、京都から大阪天下茶屋に移ります。翌年、長男吟一が誕生し、充実した家庭生活のもと、千種の精力的な活動が始まりました。

文展の後を引き継いだ帝展へ毎年のように大作を出品し、数々の入選を果たします。第2回帝展「女人堂」(大正9年)、第4回帝展「近松戯曲の女二題」(同11年)、第5回帝展「女人形部屋」(同13年)、第6回帝展「眉の名残」(同14年)、第7回帝展「浄瑠璃船」(同15年=写真=)、 第9回帝展「母と娘」(昭和3年)、第10回帝展「祇園町の雪」(同4年)と入選が続き、大正から昭和にかけての大阪画壇を代表する女性画家としての地位を不動のものとしていきました。

一方で、岡本更園や生田花朝らとともに「向日葵会」という組織を設立し、女性画家の活躍の場を創出することにも腐心しています。また、自宅に女性だけを対象とした画塾(後に研究所組織に改変)「八千草会」を開き、後進の育成にも強い意欲をみせています。

千種の主眼は、裕福な家庭の子女が身につける教養としての絵ではなく、本格的な女性画家の育成に置かれていたようです。八千草会からは、原田千里・狩野千彩・三露千鈴・石田千春などを輩出し、中には、千種とともに帝展に入選する活躍をみせるものも現れました。



千種が目指した世界

千種の作品は、当初師である焦園や恒富の強い影響の下にありましたが、大正末年から昭和初年ごろを境に、その画風に千種流ともいうべき独自の形式化がみられるようになります。優艶流麗といわれた千種の世界が確立されたといっていいのかもしれません。また、美人画だけではなく、浄瑠璃や歌舞伎などに題材を求めた作品も多く手掛けるようになり、千種の世界がさらに広がりをもつようにもなりました。

大正末年、江戸時代末期から明治初年ごろの女性風俗を描きたいと、千種はある美術雑誌の中で述べています。この時代は、明治維新による混乱もあって、当時の社会風俗を伝える資料が欠落した時代でもあります。千種が目指した世界は、単なる美人画というものではなく、新たな時代の胎動を予感させる社会、その中の女性風俗をさまざまな資料を駆使して復元し、絵を介して描き出そうとするより高い次元にあったのかもしれません。

能才型の千種

ところで、千種を能才型の画家であると評した方がいました。少し抽象的な表現ですが、地道に確実に積み上げられた画題研究の上に作品が成り立っているということを意味しています。確かに、こまやかな表情に描き込まれた情感に、ついつい目を奪われてしまいますが、たとえば、衣装の表現一つを取り上げても、絵入小説である草双紙や戯作者たちが書いた赤本といった資料などから十分な裏付けをとるなど細心の注意が払われています。

千種と蓬吟

蓬吟は、本名を木谷正之助といい、明治10年4月4日、五世竹本弥太夫、キタの次男として大阪市西区北堀江で生まれました。父の影響もあり、幼年から芝居に大変興味を持ちましたが、11歳の時、大病を患ったこともあり、実業家の道を進むことになりました。明治29年大阪市立商業学校を卒業と同時に、神戸の日本貿易銀行に就職します。

しかし、文楽や芝居に対するつのる思いを断ち切れず、父が亡くなった30歳を機に、近松研究に専心することになりました。ちなみに、号である蓬吟は、貿易銀行の「貿」と「銀」をもじったものだそうです。

このような中で、以前紹介したように、千種と出会うことになりました。蓬吟が16巻にもおよぶ大著『大近松全集』の刊行を決意したころです。ふたりの仲は、大正8年前後から急速に深まり、同9年4月8日、京都平安神宮での挙式に至りました。

千種は大正末年から昭和初年を境に大きな転機を迎え、美人画だけではなく、浄瑠璃や歌舞伎などに題材を求めた作品も多く手掛けるようになります。このような作品の広がりや作品研究の深まりに、蓬吟の存在がみてとれます。

蓬吟の著書と千種の装丁

蓬吟は生涯に数多くの著書や論文を残しましたが、千種はその装丁や主宰誌の表紙の制作などにもかかわっています。『大近松全集』に付けられた、富田溪仙や上村松園ら著名な画家16人による近松戯曲中の人物の木版画の制作にも作品を寄せています。

また、蓬吟が編者となって昭和4年に創刊した雑誌『郷土趣味大阪人』の表紙を飾ったのも千種です。「彼岸の天王寺の蛸々踊」にはじまり、「せいもん拂」、「神農さんの虎」、「事はじめ」など、雑誌の内容にふさわしい、浪花の歳時記でもあります。昭和16年発刊の『浄瑠璃研究書』も千種の装丁です。シックで深く渋みをたたえた、いかにも千種のという作品です。



木谷千種 その終焉に向かって

改組第1回帝展「附け紅」(昭和11年)・第1回新文展「義太夫芸妓」(同12年)、紀元二千五百年奉祝展「陰膳」(同15年)、第6回新文展「花譜」(同18年)の入選、出品と、千種の活躍は昭和10年代以降も継続しています。

しかし、円熟期を迎えようとする千種とは裏腹に、日増しに濃くなる戦時体制は、千種も例外ではありませんでした。昭和17年、長男吟一が招集され、さらに、戦局の悪化にともない、昭和19年、南河内郡高鷲村東大塚(現羽曳野市)へ転居、生活は困難を極めることになりました。その後、無事終戦を迎えましたが、昭和21年がんに侵されていることが判明。昭和22年1月24日、画家としては短い51年の生涯を閉じました。



同年2月、千種を失った蓬吟のために、「千種を偲び蓬吟を慰むる会」が友人、関係者らによって開かれました。その時の様子を牧村史陽は、「蓬吟氏の『比翼の鳥の片羽をもがれた想ひ』という述懐には泣かされた」とその日記につづっています。蓬吟の妻・千種への深い思いと、哀切が伝わってきます。

第6回新文展に入選した「花譜」を、ある美術評論家がただ一言、「温藉な画境」と評しています。聞き慣れない言葉ですが、心広くやさしく、しとやかなことを言うそうです。千種が到達した世界を表すのにもっともふさわしい言葉であるかもしれません。

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額装にするにあたっては掛け軸を切り取ったまま額にマットを誂えて嵌め込みました。



表具の生地を生かした?額装への改装です。



既成の額のサイズにぴったりということは滅多にありませんが、「元々は掛け軸でしたよ。」というメッセージが伝わるような改装が理想的です。



共箱なら共箱の題字や落款を仕込むので伝わりますが、そのようなものがない場合は遺すに値する生地のまま改装するのも面白いと思います。

再考 猛虎図 大橋翠石筆 明治末年頃

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大橋翆石の席画のように簡便に描いた作? 墨一色で描かれている作品ですが、共箱に収められています。実はこの作品は真贋の判断を躊躇していましたが、調査の結果、真作と判断している作品です。

贋作考 猛虎図 大橋翠石筆 明治末年頃
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横450*縦1330 画サイズ:横320*縦1260



墨一色描く虎の作品は大橋翆石は良く描いています。「狸」なども多く描いていますね。



きちんとした共箱に収められている作品です。



本作品の落款と印章(左)を文献資料の落款と印章(右)と比較してみましょう。

落款に「翆石生」と「生」の一字をいれるのは基本的に若い頃の作品ですので、原則的には「石」に点のある落款との組み合わせが原則です。文献資料の落款にはすでに「生」の字がありません。点の無い落款は明治43年夏以降のことですから、この作品は壮年期以降の須磨時代に描かれた作と判断されます。

通常は「生」の字の加わる落款は「石」に点のある落款で若い頃の作でなくてはならないという原則ですが、本作品の「石」にはすでに点がないのです。このことに違和感を覚える方はこの時点で贋作を疑うかもしれません。

 

また本作品中の印章である白文朱方印の「翆石(寿)」は文献に掲載されている作品では「雪中餓狼之図」、「睡眠虎之図」になど須磨時代以降に押印されています。

この落款と印章については下記の推察ができます。原則から外れて「生」の落款を入れる時期があります。以下は大橋翆石の資料からの抜粋を元に作成した推察です。

「明治35年に結婚後、大垣新町に居を構え、明治36年にはアメリカで開催されたセントルイス万博で再び金牌を得て、長男、次男が相次いで生まれるなど、この時期の大橋翆石は、その長い人生で最も幸福な日々を送っていたと言えます。しかし、この時期の大橋翆石に当時、死病と恐れられていた結核という病魔が襲います。積極的に展覧会に出品して大橋翆石でしたが、罹患以降はほとんど出品が知られていません。母と師の急逝、濃尾大震災と父の圧死に続いて、人生で第3の障害を迎えました。

この時期に落款の「石」の字の上に付していた点を取るという行動は、あるいは名前の画数を変えることで、病の好転を願ってのことかと思われますが、この試みは奏功せず、大橋翆石の病はいよいよ重くなったようです。

明治末年、大橋翆石は数年前に完成したばかりの大垣の邸を離れ、当時の結核治療の先進地域であった神戸の須磨にその身を養うこととなります。この結果として、神戸移住は大橋翆石の画業に大きな転機をもたらすこととなりました。当時の神戸では美術を愛好する実業家が、それぞれにその見識と蒐集を競っていたため、大橋翆石は新たな知己と様々な機会を得て自らの画風を変化させるに至ります。



点の無い落款と「生」の字を同時にある点で奇異な感じを与える作品ですが、大橋翆石はこの頃に再び「生」の字を用いて、修行中の身であることを示し、初心に帰ろうとしていたようです。この須磨時代の初期、明治末年のいくつかの作品の落款に「生」に一字をいれているのです。むろん「石」の字に点はありません。」

神戸時代の款記、印章に「生」の字を伴う作品は「夏雲猛虎之図」、「猫児午睡之図」(いずれも個人蔵)が知られるのみですが、2008年に開催された大橋翆石展「大橋翆石 日本一の虎の画家」に出品された「双豹之図」も神戸時代の款記、印章に「生」の字を伴う作品です。



上記の理由で本作品は「点」のない「石」の落款と「生」という組み合わせのみで贋作とは判断できません。あり得ることですので、単純にこの落款と印章からは明治末年の神戸須磨初期の作と分類されることになります。

ただ当方で判断亥迷ったのは
1.虎の描きと「翆」の落款の書体に違和感があることと
2.印章の「翆」の「ヨヨ」が角ばっているなど印章が完全に合致していないこと

などから、最終的に本作品が真筆かどうかというと残念ながら真贋不明に分類していました。つまり落款の字体は初期の頃、点のない「石」の落款は明治43年夏以降の須磨時代、この矛盾を解決するほどよく似てはいるが、印章は一致していないとの判断をしたのです。

ところがこの印章は当方の所蔵作品「華蔭遊猫図」と年代の差こそあれ、それを加味して上で一致することが判明しました。つまり上記の理由のひとつ「2」が解決されました。

 

あとは問題は落款の書体と出来ですが・・・、どうもこの作品は真作と判断されるように思われてきました。真贋の判断は幾度か逆転することがありますが、それは事実に基づいた根拠に沿うことが大切です。そのためにはいろんな方面から検討して調べ上げることが必要なようです。

文献のみ、思い込みのみで真贋の判断をして真作を贋作とするほど罪なことはありません。贋作を真作とする罪などはかわいいものでしょう。こういう思いのある方は真贋の判断を求められても、面と向かっては決して他人の作品を贋作と口にすることなどはしないそうです。

源内焼 その128  緑釉娥眉山図四方角皿

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しばらくぶりに「源内焼」の作品の登場です。正確には源内焼らしき作品「その128」です。源内焼に似た作品には紛らわしい作品が混在しますので、きちんと整理する必要があります。それでも純然たる源内焼は当方では100種は超えたでしょう。

源内焼 その128  緑釉娥眉山図四方角皿
合箱入
縦125*横205*高さ25



作品の見込み部分左に「娥眉山」と記されていますが、峨眉山(がびさん、峨嵋山)のことで中国・四川省にある山のことでしょう。



賛には「□輪秋影□号□江水流」の漢詩が添えられている。読み、意味は解読中です。



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峨眉山:道教や中国の仏教で言うところの聖地で、中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)や中国四大仏教名山(五台山、九華山、普陀山、峨眉山)の一つである。26の寺院を有し、普賢菩薩の霊場とされる。一帯は聖地となっていたために自然が護られ、約3,000種の植物と、絶滅危惧種を含む約2,000種の動物の宝庫でもある。1996年12月6日には文化面、環境面両方が考慮され、楽山大仏と共に「峨眉山と楽山大仏」としてユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録された。一番高い峰が万仏頂(標高3,098メートル)で、頂まで32の名刹が続いている。後漢時代から仏教施設の建設が始まり、南宋時代に最盛期を迎えた。 現代最大の寺院は、登山口にあたる報国寺で、明代1615年(万暦43年)に明光道人が創建したとされている。

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*なお芥川龍之介の「杜子春」は峨眉山の仙人になるために教えを乞うたことは有名ですね。

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峨眉山一帯は峨眉山トラップと呼ばれる巨大火成岩岩石区である。これは2億6千5百年前から2億5千9百万年前までの巨大噴火で噴出した50万立方kmの洪水玄武岩が起源である。この時期は顕生代(多細胞生物の化石が本格的に残っている年代である、5億4千万年前から現在まで)で最大の大量絶滅であるP-T境界に近いこともあり、P-T境界は峨眉山トラップが原因であるとする説が、2010年6月3日発表のサイエンス誌に掲載された。浅瀬で起きた噴火のため、証拠となる化石が残った。

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杜子春のあらすじ:唐王朝の洛陽[8]の都。ある春の日の日暮れ、西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は金持ちの息子だったが、親の遺産で遊び暮らして散財し、今は乞食同然になっていた。



そんな彼を哀れんだ片眼眇(すがめ、斜視)の不思議な老人が、「この場所を掘る様に」と杜子春に言い含める。その場所からは荷車一輌分の黄金が掘り出され、たちまち杜子春は大富豪になる。しかし財産を浪費するうちに、3年後には一文無しになってしまうが、杜子春はまた西門の下で老人に出会っては黄金を掘り出し、再び大金持ちになっても遊び暮らして蕩尽する。3度目、西門の下に来た杜子春の心境には変化があった。金持ちの自分は周囲からちやほやされるが、一文無しになれば手を返したように冷たくあしらわれる。人間というものに愛想を尽かした杜子春は老人が仙人であることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願する。そこで老人は自分が鉄冠子という仙人であることを明かし、自分の住むという峨眉山へ連れて行く。



峨眉山の頂上に一人残された杜子春は試練を受ける。鉄冠子が帰ってくるまで、何があっても口をきいてはならないのというのだ。虎や大蛇に襲われても、彼の姿を怪しんだ神に突き殺されても、地獄に落ちて責め苦を加えられても、杜子春は一言も発しなかった。怒った閻魔大王は、畜生道に落ちた杜子春の両親を連れて来させると、彼の前で鬼たちにめった打ちにさせる。無言を貫いていた杜子春だったが、苦しみながらも杜子春を思う母親の心を知り、耐え切れずに「お母さん」と一声叫んでしまった。



叫ぶと同時に杜子春は現実に戻される。洛陽の門の下、春の日暮れ、すべては仙人が見せていた幻だった。これからは人間らしい暮らしをすると言う杜子春に、仙人は泰山の麓にある一軒の家と畑を与えて去っていった。

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芥川龍之介の「杜子春」は小学校の頃に母から読むように勧めらた本のひとつです。

源内焼など、ひとつの作品からいろいろと調べて知識を得るのが骨董蒐集の面白味ですね。

さて源内焼における長方形の角皿は揃いの実用的な作品がメインですが、それでも装飾的で魅力的な作品が数多くあります。

下記の作品は「参考作品」で五彩を使った作品。縁の文様は唐草というより蔦草を表した大柄な文様です。木型ならではの鋭い造形美といえるでしょう。2003年源内焼展の出展作品です。



以下は当方所蔵作品の源内焼の長皿です。詳細はブログに投稿されている記事をご覧ください。

源内焼 その45 三彩山水図長皿
合箱
長さ191*奥行141*高さ35



源内焼 その77 緑釉羅漢虎図長皿
合箱
幅210*奥行135*高さ34



源内焼 その114 三彩菊花紋様陽刻長皿
合箱
幅235*奥行115*高さ23



源内焼 その71 三彩菊花紋様陽刻長皿
合箱
幅223*奥行108*高さ25



下記の作品は一番当方で気に入っている作品です。近代的な粋なデザインの作品です。

源内焼 その14 三彩花図長方皿
合箱
長さ235*幅110*高さ28



下記の作品はこの手の作品でもっともポピュラーで数が多い作品かもしれません。

源内焼 その9 三彩天橋立長方皿 
合箱
長さ233*奥行き128*高さ27



蒐集するだけでは蒐集家とは言えません。整理して系統立てて、作品の周囲の知識も得て、そして作品の本質を見抜いて、最終的に鑑識眼を身に付けるのが骨董における仙人の道・・・・



源内焼の長皿だけでもいろいろと愉しめるますね。



三彩の作品で、源内焼から波及した種々の彩の器もまた愉しいものです。

贋作考 戊辰四幅のうち秋冬双幅 釧雲泉筆 文化5年(1808年)頃など

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今まで蒐集してきた釧雲泉の作品の中に「寒江独釣」・「秋渓覚句」という作品があります。この2作品はその作品らの本ブログでの記事に掲載のとおり「大正七年十月の當市高田氏及某家所蔵入札目録(東京美術倶楽部開催)」に掲載されている作品と同題、同図の作品です。

下記の写真がその目録です。

 

作品NO28として、夏と秋の双幅の作品が掲載され、「夏山聴雨」と「秋渓覚句」と題されています。



また作品NO42として、冬と春の双幅の作品が掲載され、雪景の冬の作品に「寒江独釣」とあります。



この4幅はもともと四幅対であったと指摘されているようですが、定かではありません。

二幅ずつになって掲載されているのは表具サイズが二幅ずつになっているからでしょう。もともと四幅であったというのも推測が入っておりますが、ただ確証はありませんが高い確率で四幅対を意図して描かれたように推測しています。

この作品らは有名であったようで、特に雪景山水図の「寒江独釣」と浅絳山水図の「秋渓覚句」には依頼されての複数の作品が実際に描かれ、そして他者による模写(または贋作)があると推測しています。

当方ではこの作品で「寒江独釣」を二幅、「秋渓覚句」を一幅所蔵しています。他にも似たような構図の作品をときおり見かけましたが、それらは明らかに落款などを含めて明らかに贋作のようでした。

その「寒江独釣」を二幅においては表装が痛んでいたので改装しました。そこで両幅を改めて並べて比較してみました。

寒江独釣 釧雲泉筆 その1 寛政年間 & その2 文化5年(1808年)頃
水墨淡彩紙本緞子軸装 軸先鹿角 合箱二重箱
全体サイズ:縦2045*横736 画サイズ:縦1497*横606



この二幅は大きさが若干違います。掛けている状態は作品自体の上を合わせていますので、右の作品が短めになっていることがお分かりいただけると思います。



どちらかを模写したかもしれませんが、明らかに落款の書体が違います。この落款や印章で贋作や模写とは断定できません。まずはこの違いは製作した年代の違いだろうと推測するのが妥当のようです。



左の大きめの作品(その2)がその落款から文化5年(1808年)頃と断定でき、右の写真の小さい方の作品は落款の書体からそれからだいぶ前、おそらく寛政の頃に描いた作品だろうと推測されますね。

たとえば贋作や模作だとしたら、ここまで構図をすっかり似せて落款だけ別の書体というのも不自然です。

 

真作なら製作時期は掛けている右の作品(NO1)が早く寛政年間、左の作品(NO2)は文化5年(1808年)と推測されます。



ほとんど同図の作品で、模写作品とするにしても、脇に写真か作品本体ががないと描けないかもしれません。僅かに「寒江独釣 その2」のほうが白黒の対比を明確に強調されている色調です。所蔵者か所蔵する団体が理由があって模写作品を作成したかもしれませんね。



推測ですが釧雲泉は早くからこの四幅の作品の構想をもっていたように思います。他の三幅に先駆けて雪景山水図の「寒江独釣」の構図を煮詰めていたのでしょう。



この図はおそらく複数存在し、さらに模写が多数存在するようです。他者による模写の作品は落款や印章、出来がいい加減な作品が多いですが、中には稀にいい出来の作品があるようです。



当方では上記の右の作品「寒江独釣 その1」は寛政年間に描かれた単品での作だろうと推測しました。

寒江独釣 その1 釧雲泉筆 寛政年間頃
水墨淡彩紙本緞子軸装 軸先鹿角 合箱二重箱
全体サイズ:縦2045*横736 画サイズ:縦1497*横606



この作品は模写(贋作)というには落款の説明ができないので、これは真作と判断しました。

そこで次に「寒江独釣」(NO2)ともうひとつの作品で所蔵する「秋渓覚句」との双幅としてみました。これらは入札目録では別々の双幅となっていたようですが、それは後世の表具によってサイズが違っていたからと推測されます。この両作品の入手時もそのようになっていました。ただ作品自体のサイズはほぼ同サイズであったので、表具も痛んでおり、当方にて改装して双幅仕立てにしました。

戊辰四幅のうち秋冬双幅
寒江独釣・秋渓覚句 釧雲泉筆 文化5年(1808年)頃



「寒江独釣(NO2」)と「秋渓覚句」はほぼ目録の作品と同図ですが、同一作品とは判断していません。「秋渓覚句」もまたかなりの数の同図の作品が存在します。ただ見かけた「秋渓覚句」も他の作品は稚拙なものが多かったですが、これも同じ「寒江独釣」と理由でしょう。

 

入札目録の作品が何らかの理由で市場に出てきた可能性があるとは言えないでしょう。



もともと入札目録の作品が真作という保証はありません。



両作品の落款は上記のとおりです。

*なお印章は釧雲泉の作品にはよくあると当方では考えていますが、印影に違いのある印が多々あります。神経質に判断すると過ちを起こす可能性があります。

本ブログの記事の内容が理解できない方もおられるでしょうが、意外にマニアックな内容でしょうから致し方ありませんね。

 

模写と考えるのが妥当と思う方がいるでしょうね。当方もその考えは捨ていません。なにしろ当時はかなり高価な作品だったのでしょうから・・・。今はお小遣い程度?の値段です。当方はいたって気軽に考えていますが・・・ 


たんなる模写として、贋作として処理するは簡単ですが、それはそれでおしまいです。ともかくここまで整理するのには多大な労力が必要でした。

*愛好者の「すぎぴい」さんのコメントはたいへん参考になりました。本当にありがとうございました。この場を借りました改めて深く御礼申し上げます。

真贋の判断に迷った作品ですが、迷った末にあげくに行き着いたのは、贋作という思いもありながら、この作品は双幅で飾って愉しむこと、「笑わば笑え」ということでしょうが、本日はここまで・・・・。





葡萄図 天龍道人筆 68歳

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天龍道人の作品を蒐集し始めた当初は、なんでもかんでも見境なく作品を買い集めたものですが、現在はかなり選別して購入しています。蒐集当時は天龍道人の作品は廉価であったこともあり、かなりの数が集まりましたが、その経過とともに作品の出来不出来、保存状態、描いている対象・時期などからその作品の良しあしがだんだんと解るようになったきたと感じています。

本日の作品は天龍道人としては初期の頃の68歳作の葡萄図です。

葡萄図 天龍道人筆 68歳
紙本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1990*横580 画サイズ:縦1280*横470

 

落款に「六十八翁 鵞湖王瑾写 押印」とあります。「鵞湖」とはむろん諏訪湖のことです。「天龍道人」と落款に記するようになったのは70歳頃からであり、それ以前の作品で現在遺っている作品数は非常に少ないと思われます。

 

天龍道人は姓は王、名は瑾であり、60歳代の作品では本作品のように「鵞湖王瑾」と落款に記していることが多いようです。

本作品に押印されている印章は「王瑾印」、「王公瑜」の白文朱方印であり、他の着色された所蔵作品「関羽(関羽周倉)図 天龍道人筆 70歳」と同一印章であり、印影もまったく同一です。

この頃の作品は葡萄の葉の墨の暈ぼかしが効いて潤いがあり、蔓やつるについても曲線がより流麗に仕上がっています。この頃の作品は「みずみずしい出来」と評され、渋味のある晩年の「枯淡の味のある作」と評される作品と好みの分かれるところです。



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天龍道人について

天龍道人の絵画制作の開始時期は明和8年(1771)54歳頃で、かなり年をとってから、絵画制作を始めたことになります。最も早い年記作品が明和8年の「菊図」で、画面に「辛卯中夏初二/虚庵道人写」と年記と署名があります。もう1点、同じ年の作品として、静岡県立美術館所蔵の「葡萄に栗鼠りす図」が知られています。「辛卯初秋虚庵源義教」と、おなじ「辛卯」の年記があり、初秋は7月で、「虚庵」の署名につづけて「源義教」と署名されています。

天龍道人の絵画学習については享和20年(1735)頃、18歳頃に「長崎で沈南蘋門人熊斐(神代繍江)に学ぶ」とされており、「信州仙人床」という史料を典拠とした推測のようです。絵画制作がはじまる54歳頃まで、20数年のブランクがあり、このブランクについて詳細については現在は不明です。



天龍道人の絵画制作は、54歳頃から死去する93歳近くまで、およそ40年間で、その期間をとおして葡萄画を描いています。その間の画風の変化をみてみますと、80歳代の作品に比して、50歳~60歳代の作品の方が葉の墨の暈ぼかしが効いて潤いがあり、蔓つるについても曲線がより流麗に仕上がっています。30年間の変化としては、それほど大きくはないとしても、細かくみると違いが観察されます。



署名は「天龍道人」が一般的ですが、天龍道人は姓が王で、名が瑾、字が公瑜と自ら名乗っており、「天龍道人」と記する前の署名には「王瑾」をはじめ、「王乙翁」、「乙翁王瑾」、「王瑾公瑜」、「王公瑜」などの署名がみられます。また、初期に「虚庵」、「虚庵道人」のほか「草龍子」や「源義教」という署名もみられます。「源義教」の署名については源義経の妾の子を祖先とすることにちなんだものと考えられます。晩年には足を折って不自由になった時期から「折脚仙」という号を使っています。

名の「瑾」については、「固くて美しい玉」という意味で「瑾瑜」も同じような意味で使われているようです。「王瑾」というのは、ひっくり返すと「瑾王」で、勤王思想の「勤王」と音通するところから、天皇親政を理想としていた道人が自らの名前にしたのではないかと想像されます。ほかに姓名や号に冠して「長門」や「錦水」、「錦水漁叟」の文字を添えた署名をもつ作品が残されています。「錦水」から岩国の錦帯橋が架かる「錦川」が連想され、長門や周防岩国あたりに滞在していた時期があった可能性が考えられています。また「鵞湖」、「鵞湖漁叟」、「鵞湖逸士」などが用いられます。鵞湖というのは諏訪湖の別称で、61歳で下諏訪に家屋敷を購入すると年譜にあり、それ以降の作品に、たとえば「鵞湖王瑾」という組み合わせの署名がみられます。

なお「天龍道人」という署名は、70歳頃からのようです。諏訪湖を源流とするのが天龍川で、浜松辺りに流れ下って太平洋に注ぐのですが、この天龍川にちなんで「天龍道人」と称しました。「天龍道人」と署名をした作品で、制作時期が判明する一番早い作品は「天龍道人王瑾七十三歳筆」と署名された「鯉魚図」のようで、寛政2年(1790)作になります。「天龍道人」を名乗るのは、安永7年(1778)61歳にして下諏訪に家屋敷を購入して住みはじめてから約10年後のことになります。天龍道人は鯉を題材とした作品があり、諏訪湖の鯉を写したと画面に記された作品も残されています。鯉という題材も天龍道人が住んだ、諏訪湖にちなんだ題材です。

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60歳代のみずみずしい天龍道人の葡萄図は意外に希少価値もあり、入手しづらい作品群です。希少価値とともに作成時期の違う作品と比較して並べると冒頭の記述のように作風が違うのがよくわかります。

氏素性の解らぬ作品 赤絵幾何学文方面取香合 

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本日は週末ということもあり、肩に力の入らぬ気軽な作品の紹介です。

香合という小さな器、小さいがゆえに出来不出来を見透かされやすい器です。要はごまかしがきかない・・・。それゆえ近代にて作った作品には味わいが乏しく、どうしても多少は時代を経た作品のほうが面白味があるように思います。

氏素性の解らぬ作品 赤絵幾何学文方面取香合 
誂箱
幅53*高さ52



インターネットオークションにて「タイ・メソートと国境を接するミャンマー領内パコダ遺跡基壇から出土。その際に中国景徳鎮製染付、合子などと共に出土している。17世紀から18世紀?」との「ふれこみ」にて購入・・・。



さらに紹介には「従来、南京赤絵、呉須赤絵と称されている角形面取り合子で、安南赤絵のように出土されているが、明末、清初の福建省漳州窯作品と考えられる。」・・・むむ、納得?? しかし無難なところで京焼?



明末赤絵ならとても珍しい図柄の作品となりますが、ちょっとそれはないかな~



明末呉須赤絵の作品にこのような図柄の作品はないと判断しますが、清に入ってからの作と推定するなら・・・、確証はありません。やはり明治期から昭和期の京焼かもしれせんね。



それほど綿密に描かれた幾何学文様ではなく、雑な点からは安南周辺で焼成された可能性・・・それもないでしょう



本作品が呉須赤絵の作か安南方面の作の可能性はない? 日本からの特注??



実際のところ京焼にて作られたかは定かでありませんが、味わいがあって面白いことに変わりはありません。薬味でも入れて食卓に置くといいかも・・。

ま~、香合としては実によい作品だと思います。正直なところ「ふれこみ」に惑わされ、ふりこみ詐欺にあったみたいですが、作品の良しあしを決めるのは己の美的感覚のみ・・・

及ぶべくもないのですが、尊敬する白洲正子、高峰秀子らもそのような感性を大切にした骨董愛好家ですね。

観音 富田渓仙筆

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本日紹介する作品は、最近では人気がなくなった?富田渓仙の作品ですが、私の好きな画家のひとりです。

観音 富田渓仙筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 池田遥邨鑑題 二重箱入 
全体サイズ:横455*縦2105 画サイズ:横330*縦1308

 

富田渓仙は初め狩野派、四条派に学びながらも、それだけでは飽き足ることはありませんでした。京都で学んでいた富田渓仙は、仏画であったり洋画、南画などの新しい世界に心が惹かれて行き、次第に仙厓義梵、富岡鉄斎の独創的な世界観に傾倒をしていきます。

本作品は「楊柳観音」?を描いた作品でしょう。



富田渓仙の作品は独創的であり、繊細さが特徴です。自然のモチーフを愛していながらも、そのままの描写ではなく敢えて、形を歪ませていったり、中にはあり得ないようなものを加えていたりと、とにかくその独創性には驚かされることがあります。



現在は京都国立近代美術館、福岡市美術館、 高島屋史料館などに、富田渓仙の作品が数多く所蔵されています。



箱書は下記のとおりですが、池田遥邨の鑑定箱入は珍しいでしょう。池田遙邨は、初め洋画を学びますが、その後竹内栖鳳に師事し日本画に転じています。当初は、洋画風の写実表現を基調とした日本画を描いていたのですが、大和絵をベースとした作風へと移り、その後富田渓仙の画風に共鳴した作品を描いています。

  

賛はなんと読むのでしょう?

 

箱などの誂えはいいものになっています。



富田渓仙、今では忘れ去られてしまった画家のひとりになりつつありますね。現代の気質と南画や仏画の気風とが一致しなくなってせいかもしれません。



富岡鉄斎、富田渓仙、そして池田遙邨と並べて作品を鑑賞したら面白いかもしれないと思っています。





瀑布図 川村曼舟筆

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さて本ブログを家内に勧められて始めてから10年を経過し、トータルのアクセス件数は730万件を超え、延べの訪問者は110万人を超えました。

この数字がいかなるものかは当方の知るところでありませんが、紹介した作品数が約2500点になっているようです。もちろん所蔵している作品は大した作品ではありませんが、中には末永く保管しておいてもいい作品は何点かあるように記憶しています。

本ブログが継続している大きな理由として、ブログの便利なのが手元に作品や資料がなくてもいつでもパソコンやiPadで検索できることが挙げられます。これは意外に便利ですし、出先での作品への考察や骨董談義にも使えています。今少し本ブログは継続しそうです。

さて以前は好んで作品を蒐集していた川村曼舟の作品ですが、最近はとんと入手することがなくなりました、本日は久方ぶりに入手した川村曼舟の作品の紹介です。

瀑布図 川村曼舟筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1220*横410

 

展示室に飾ると瀧の音まで聞こえそうな写実的な作品です。



これほど出来の良い瀑布の作品は珍しいと思います。



川村曼舟自身の納得のいく作品なのでしょう。



表具、箱の誂えもいいものです。めずらしく「自題」と箱書きされています。

  

当方の所蔵作品には川村曼舟の師にあたる山元春挙の「瀑布之図」があります。

瀑布之図 山元春挙筆
絹本水墨軸装 軸先練 共箱
全体サイズ:横700*縦2290 画サイズ:横510*縦1430

 

また郷里出身の画家、平福穂庵の作品にもあります。

瀑布図 平福穂庵筆 その15(真作 整理番号)
紙本水墨軸装 軸先ガラス 鳥谷播山鑑定箱
平福百穂鑑定書付添付 昭和33年秋田市美術館展示作品
全体サイズ:横650*縦2080 画サイズ:横500*縦1220

 

他にも「瀑布」の作品はありますが、夏の暑い日にはもってこいの画題ですね。



展示室に寝っ転がって観て楽しんでします。

宝舟図 狩野素川筆 

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影青の茶碗の口縁に補修の跡があり口当たりに支障がありそうでしたので、覆輪では口縁が薄く歪で出来ませんでしたので、輪島長屋工房さんに依頼して、覆輪のように口縁の周囲を金繕いするように依頼していた作品が出来上がりました。



このような処置に賛否はあろうかと思いますが、同様な作品の完品がある当方としては、どうなるか楽しみであり思い切って処置を施しました。



口縁が歪なところが味が出て面白くなったと思っています。



影青のこの作品は北宋までの時代はないでしょうが、南宋くらいの時代はありそうです。輪島長屋工房さんに丁寧にやってもらってよかったです。



いつものように栞まで添付していただいております。



さて本日の作品の紹介です。

家内が「そういえば、うちには宝船の作品がないね~」と言い出しました。小生も「たしかに・・」と思いながら「それで宝くじが当たらないのかな?」と感じており、いつかは宝舟を描いた作品が欲しいと思っていたのですが、なかなか入手できずにいました。

本日の作品は欲しいと思っていた「宝舟図」の作品の紹介です。

宝舟図 狩野素川筆 
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横430*縦1620 画サイズ:横805*横315

ネットオークションにもチャレンジしていましたが、意外に「宝舟図」の作品は値が上がるものです。きっと他の皆さんも考えることは同じなのかもしれませんね

 

本日の作品はあきらめていた作品が、落札した方の辞退でネットオークションの繰り上げで入手できました。画家の狩野素川の作風は好きで、いろいろと縁がありましたので入手することにしました。



狩野派にしては贋作が少ない画家のように思います。つまりそれほど高名ではない画家らしい・・。

 

狩野素川は当方の好きな画家のひとりです。

この画家は1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好み、吉原の老妓の門弟も多かったとされています。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信(木挽町家狩野派8代目の絵師)のライバルと言われたくらいです。



また居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もありますので、既成路線の狩野派にあってかなりの識人であったように思います。



浅草猿屋町代地狩野家の当主の作品ですので、表具はそれなりにいい表具のようです。さてこの作品から御利益はありや否や・・・

大日本魚類画集 NO68 ナマズ図 大野麥風画

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昨日紹介した影青の作品と同時に越前の水指に合う蓋を輪島長屋工房さんに依頼していたのですが、同時に作品が届きましたので紹介します。歪な水指には特注で蓋を製作することになりますが、その際には水指の正面に合うように水指の蓋を製作しなくてはいけません。



輪島長屋工房さんではそのような難しい注文にも応じてくれます。また作って頂いた栞も添付されていますので記念になりますね。



真新しい輪島塗の蓋は気持ちがいいですね。



影青の作品と並べてみました。



箱仕舞は下記の写真のとおりです。



さて本日の作品の紹介です。

大日本魚類画集の版画作品は購入機会があると食指が動くのですが、如何せん東京ステーションギャラリーで展覧会が近年にあったこともあり、人気が高くなったようで、おいそれとは入手できなくなりました。

それでも今回8点目になりますが、「ナマズ」の作品が入手できましたので紹介します。全部で72作品ですから揃うのはまだまだ・・。

大日本魚類画集 NO68 ナマズ図 大野麥風画
紙本淡彩額装 版画 1938年11月第3回 
彫師:藤川象斎 摺師:光本丞甫 画サイズ:縦403*横282



息子が「電気ナマズ」ごっこが好きなので、「ナマズ図」の入手と相成りました。

 

大野麥風の肉筆画や版画の魚類以外に作品にはあまり魅力を感じませんが、「大日本魚類画集」の作品はとても魅力的ですね。



『大日本魚類画集』は大野麦風が原画を担当し、1937年に西宮書院から出版されています。会員制度で頒布されたこの500部限定の木版画集は、1944年まで各回12点、6期に分けて断続的に刊行され、1944年まで合計72点を発行されたそうです。

*単品でも出版されていると記事で読んだように思いますが、さだかではありません。



この版画の魅力は鮮やかな魚体の色を木版で表現するために版木を数多く使用し何十にも色を重ねて摺るという「原色木版二百度手摺り」といわれる方法で製作されている点であり、原画作成の麦風のみならず彫師、摺師の熱意と努力も凝縮されているとのことです。なお彫師、摺師には複数名いるようです。



版画は基本的にあまり長くは飾っておけないというのは近代版画も同じなのでしょうか? よく江戸期の浮世絵版画は色が変色するので長く飾るのは禁物で、日に当たらないように仕舞っておくのが原則らしいですが・・。



当方では『大日本魚類画集』シリーズはひと作品ずつじっくり蒐集しているので、入手するたびに同じようなサイズの額を探して、基本的な傾向は変わらないようにしながら額やマットと作品が合うように額選びするのを愉しんでいます。



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