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山湖首夏 福田豊四郎筆 昭和40年頃 その101

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幼稚園最後の運動会は雨で順延、延期日も雨で中止。年長組だけの平日の運動会でしたが、半休をとっての参観となりました。ダンスの苦手の息子はソーラン節の旗振り役。



全員リレーはなんとか完走しました。帰宅後に練習に付き合ったせいか早く走れるようになってきたようです。





本日は福田豊四郎の作品の紹介です。当方ではあまり認識がなかったのですが、福田豊四郎のブルーを基調にした作品は人気が高いようです。この作品のような8号の作品だと30万円強の値段です。



山湖首夏 福田豊四郎筆 昭和40年頃 その101
絹本着色額装 共シール F8号 誂タトウ+黄袋
全体サイズ(額サイズ):横620*縦550 画サイズ:横455*縦380



㈱電通のプレートには昭和44年(1969年)5月とあり、その年の10月に三度目の入院となる福田豊四郎が亡くなる前年ですが、作品の来歴との関係は不詳です。



描いたのは落款と印章から昭和40年頃の作と推定されます。

  

広告代理店の電通の備品であった可能性があります。



共シールにある題名の「首夏」とは夏の初めのことで 秋田では初夏に咲く栃乃花が描かれています。



最晩年には十和田湖を特徴あるブルーを基調として数多く描いていますが、このブルーを基調とした福田豊四郎の作品はとてもファンには人気が高い作品群です。



とくに十和田湖を描いた晩年の作は福田豊四郎にも思い入れがあり、人気の高い画題です。



本作品はネットオークションで15万円ほどでの落札でしたが、郷里では今少し高い価格で取引されています。

初期から通して本ブログにて福田豊四郎が十和田湖を描いた作品を紹介していますが、ブルーを基調とした十和田湖を描いた最晩年の作品には他にもありますが、下記が代表的な作品です。

湖上の岬 その1 福田豊四郎筆
絹本着色額装 共シール F12号 タトウ
全体サイズ(額サイズ):横857*縦751 画サイズ:横606*縦500



この作品は郷里で45万円で購入した作品です。



展示室にもうひとつお気に入りの杉本健吉の油彩の作品と、さらには明末赤絵と一緒に飾って愉しんでいます。



現在も含めていろんな思い出のある十和田湖・・・・、そういう体験を蘇らせてくれる作品です。

李朝刷毛目平盃

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先日の週末には町田市の版画美術館に出かけてきました。



美術館ではいつも飽きてきていた息子もそれなりに気に入った作品を選ぶようになってきたようです。なお下記の作品は町田市でふるさと納税で購入した作品のようで撮影可でした。



さて本日の作品の紹介です。

李朝の盃は盃ファンには不可欠な器のひとつでしょう。一番人気は粉引の盃でしょうが、入手困難ですので手軽に入手できるのは刷毛目の平盃かもしれませんね。時代にこだわらないならいい作品が入手できるのが李朝の盃だと思います。



李朝刷毛目平盃
誂箱
口径127*高さ30~34*高台径43



日本酒の冷酒を美味しく飲むなら平茶碗のように平ための器でしょう。「分とくやま」の主人によると漆器の平たいものが一番だそうですが、色変わりなどを愉しむなら李朝の平茶碗のような盃ですね。



筒状の盃と平茶碗上の盃で冷の日本酒を飲み比べるとその味は各段に違います。日本酒は香りを多少拡散したほうがさっぱりしていて美味しく飲めるようです。



熱燗で飲む以外は平茶碗上の盃、しかも大きめの器がいいと思います。なお男の人が酒を飲む時は盃の上側(向こう側)を持って、下側に唇を付けて豪快に飲むのが恰好いいと言われています。女性は喉を見せないように両手で飲むのが作法とか・・??



この器を茶器の碗として使うにはちょっと小さめですが、野点だったら茶碗として使えるかもしれませんね。



李朝の刷毛目の作品にはよく寄せ継ぎされて補修されている作品が多いのですが、それは発掘品に多いようです。補修を見どころとして唐津なども蒔絵の文様を入れた作品をよく見かけますね。ただこのような作品はやはり人間の欲が隠れ見えてくるような気がします。



いくら金繕いや蒔絵の補修が味わいがあっても、やはりある程度完品のものが良しとされます。完品の刷毛目の作品は意外に少ないかも?



残念ながら接待の会食以外は日本酒を嗜まない小生は、本作品は料理の器か茶器に使おうと思っています。



料理の器にもたしかにいいですね。ひとりで頂く膳にこのような器があると心豊かになり、贅沢な気持ちにさせてくれるでしょう。



繰り返しになりますが、李朝の刷毛目の盃は無傷の完品がいい・・・。

阿蘭陀人之図 長崎絵肉筆 その2  

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母や義父の遺品の整理など郷里でも在京でも、身の回りの整理に追われています。その中に下記の作品があり、改めて整理しておきました。

真塗茶会席膳 五客揃(三十人揃いの内)
杉箱 母旧蔵品
幅360*奥行360*高さ40 杉箱入



日本橋にある漆器店より戦後間もない頃に購入した作品と推定されます。茶道における膳は真塗で脚がないものを基本とします。近年は懐石に使う漆器はその多くが木地ではない樹脂製、漆は日本漆ではく中国産の漆、グレードの高い作品で日本漆使用という表示でも仕上げのみとなり紛い物がグレード別に横行しています。そのような状況で明治期から戦後間もない頃の程度の高い本物の漆器は益々貴重さを増してくるでしょう。



まず本体が木製ではい樹脂製は論外、本体が木製でも漆が中国製では問題外、仕上げのみ日本製漆でも紛い物・・・。現代で木地から本体まで日本の自然産のものを作っているのは会津塗と浄法寺塗だけかもしれません。碗や膳を揃えるなら古いもの画価格的に手ごろでしょう。当方では我が家伝来の作品でほぼ揃います。大切にしたい日常の食器です。



さて浮世絵作品は当方の蒐集対象ではありませんが、時として面白そうな作品へは食指を動かすことがあります。本日はそのような趣旨(面白そうな作品なの)で購入した長崎絵の肉筆?の作品の紹介です。



阿蘭陀人之図 長崎絵肉筆 その2  
紙本着色軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦200*横550 画サイズ:縦1225*横405

 

長崎絵は江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式のひとつ。版画が多く、幕末の鎖国時代に唯一開港されていた長崎出島のオランダ人、中国人などの外国人の風俗や港の風景を描いた浮世絵で、長崎版画ともいいます。



多くが長崎にある版元から出版され、当時オランダ人は出島屋敷に、中国人は唐人屋敷にのみ住んでいたので、主として、唐絵目利きをしている絵師が、オランダ人の実生活を知っており、室内の有様、食卓上の物まで写しています。



江戸絵と異なる点に、中国版画や西洋画から影響を強く受けた独特の雰囲気を持つことが挙げられます。延享(1744年-1748年)頃に始まり、明治時代まで続きました。



原画の主な絵師として川原慶賀が挙げられますが、彼以外の作品は、落款などがないため、作者不詳の場合が多く見られます。肉筆画を描いた絵師として、前述の川原慶賀のほか、慶賀の子、田口廬谷、城義隣、西苦楽、松井元仲らがいます。



長崎絵は当時、長崎にて土産品として売られており、素朴なものであり、長崎における大津絵のようなもので、本作品もそのような類の作品ではないかと推察されます。



素足の従者(植民地現地人)に日傘を持たせている長いキセルを持った異人の絵はよく見かける図柄ですが、定型化しており、版画のごとく簡略化されて描かれています。

本作品はキセルを持った異人のみが描かれていますが、顔の印影の描写のように明らかに西洋画の影響を受けた作行で、時代は江戸期から明治にかけての作と思われます。保存状態は良いほうではありませんが、今となっては貴重な作品です。



本作品を裏から透かしてみると補修の跡が多く見られます。作品の辿ってきた経緯がうかがい知れます。

なおこのように裏から透かして見るのは自分の所有する作品のみに許されます。お店の作品など他人の所蔵作品にこのようなことをするのはたいへん失礼にあたりますよ。



なお当方のブログに投稿されている他の作品には下記の作品があります。

阿蘭陀人之図 長崎絵肉筆 その1 
紙本着色軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1560*横295 画サイズ:縦860*横265



この図の構図の元は下記の作品にあるように思われます。

参考作品
阿蘭陀人之図
木版筆彩 版元 針屋 43.5×32.4cm 池長孟コレクション



オランダ商館長カピタンに日傘(がさ)をさしかけるジャワ人と思われる従者(くろぼう)、ゴブレットとフラスコボトルが乗った盆をささげ持つ下級船員(またろす)を配する木版画があります。本図は、長崎版画の中でも最初期に位置する版元「針屋」から出版されています。長崎桜町にあった針屋は、長崎の大音寺の過去帳に「宝暦四閏(うるう)二月二十日桜町針屋与兵衛」と記されていることから、1754年以前から開業していたことわかっています。長崎の異国情趣豊かな風俗、文物を題材にした長崎版画は、幕末まで多くの版元から出版され、みやげ絵として長崎を訪れる人々に売りさばかれていました。



本日の作品は展示室の入り口飾って愉しんでします。

真作考? 松石不老図 平福百穂筆 大正13年(1924年)頃

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誠に残念ながら平福百穂の贋作は数多く存在し、素人目にも贋作と解る作品、玄人でも見分けの難しい作品とグレードがあるようで、さらに面倒なことに手彩色を施したものを含めた巧妙な複製が存在し、平福百穂の作品については、富岡鉄斎ほどではありませんが、作品の真贋の判別は困難を極めるようです。



平福一郎、島田柏樹、舟山三郎らの鑑定書が添付されいる作品はある程度信用できますが、それも100%信用できるものではないとされています。

*当方では最近精巧な複製に平福一郎の鑑定箱を誂えた秋田市内の出品者からの作品をネットオークションで落札し、「画像では判断がつかない。」と苦情を申し入れましたが、「模倣」作品で出品しているからと返品を拒絶されました。このような苦情に応じてくれない出品者には要注意ですね。



本日紹介する作品は平福百穂の舟山三郎鑑定書のある作品ですが、この作品は出来、落款や印章から真作と判断できる作品です。

松石不老図 平福百穂筆 大正13年(1924年)頃
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 舟山三郎鑑定書入箱 
全体サイズ:縦1110*横380 画サイズ:縦*横(未測定)



平福百穂独特の晩年の筆致が魅力となっています。



小点ながらきちんとした平福百穂の真作です。



表具なども品のある表具になってるはずです。



当方の他の所蔵作品との比較や画集からの作品を参考とすると、落款と印章から大正末期の作と推定されます。残念ながら共箱ではなく、おそらく小色紙の作品を表装したのではないかと思われます。

印章の「白田舎刀」はおそらく大正8年に創設された画塾の名「白田舎」からと推察され、少なくても本作品は大正8年以降の作と思われます。この「白田舎刀」の印章は長方と楕円の2種類があり、主に大正末期から昭和初めに使用されているようです。

 

舟山三郎鑑定書には「鑑定證 一.松石不老 小色紙 右ハ先師百穂先生 真筆相違なきもの也 昭和二十八年一月□拝 弟 舟山三郎證鑑 押印」と記されています。 

 

「弟」というのは弟子という意味でしょう。

一般に肉筆の贋作は目安が付きやすいですが、精巧な複製は印鑑も真印ですし、落款や筆致も真作と同一ですので要注意です。








氏素性の解らぬ作品 古萬古焼 青磁(天青釉)唐獅子双耳獣足香炉

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義父が亡くなってなにかと気ぜわしく、収穫期を逃していた畑の落花生。配った先では評判が良いと義父が作付けを増やしていたので気になっていました。週末には、誰とはなしに動き出し、近所の方の手伝いもあり、ともかく家族全員で落花生を収穫してみることにしました。



長雨にもたたられ、さらには上記の理由で収穫期を逃したこともあり、さらにネズミによる被害がはなはだしく、収穫は思いのほかひどいものです。それでも採れるだけ収穫しました。



手伝っていた息子はほどなくダウン・・・。秋晴れの下、昼寝とあいなりました。



しまいには畑でバッタ捕りに精を出していました。「晴耕雨読」・・・????



さて本日の昨比紹介は(古)萬古焼らしき作品の紹介です。

正直なところ、当方には(古)萬古焼については知識もなければ、あまり興味もないのですが、本作品はその面白さに惹かれて入手した作品です。

*萬古焼については以前に本ブログで「盃洗」の作品で記述しましたので、詳細は省略いたします。

古萬古焼 青磁(天青釉)唐獅子双耳獣足香炉
底印 古箱入
最大幅145*奥行*高さ134



古萬古焼には色絵だけでなくこのような「天青釉」のような青磁が存在することを初めて知りました。青磁を意識した銅緑釉を萬古青磁あるいは青釉と表現しているとのことです。「萬古青磁(ばんこせいじ)」とよばれる技法が色絵の一種としてあるようです。青い上絵具をかけ低温で焼いたもので青磁のような色を呈します。色絵具の色ムラはあるものの青色の涼やかな趣を意図しているようです。



つまり萬古焼では青磁を意識した銅緑釉をかけて萬古青磁あるいは青釉と呼称しているようです。一般的な青磁とは趣を異にしていますね。

*香炉の蓋部分に金繕いがありますが、窯割れなのか焼成後の傷なのかは不明です。




青磁(天青釉)の色合いは一種独特ですね。一目見た時にはペンキを塗った?という感じです。萬古焼の色絵の作品には他の焼成でもいい作品があるのですが、正直なところ食指があまり動きません。



この作品の面白さは色合いもさることながら、見所は摘みの部分や双耳、脚の部分の獅子などでしょう。



青磁と呼ぶには違和感のある作品ですが、獅子の部分などを眺めていると徐々に親しみの湧く作品ですね。



耳の部分は獅子というより子犬? かわいいですね。



脚は魔除けか? まるで舌を出している獅子??



底には印があります。



二つの印がありますが、ひとつは判読不能?です。これが古萬古の印なのかどうかは小生には分かりません。



収められている古箱には「古萬古」と記されています。



一般的に古箱は痛みやすいので風呂敷など古箱を包んで扱います。外から見てどのような作品か分かるように当方ではネームプレートに写真を付けて保管しています。



骨董蒐集に関わる者はとかく真贋のみにこだわりますが、作品自体を愉しむ姿勢が一番大切と教えてくれる作品のひとつです。

骨董蒐集も野菜の収穫も結果は天のみぞ知る、ともかく楽しめ!


嫦娥弄月図 岡本大更筆

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週末には近所のJAXA(国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構)の展示会へ・・・。



意外にマニアックな展示、子供にとって面白い展示は少ないかも?



月面の世界へ・・・。



ロボットは大人も子供も面白い。



息子はそれなりに愉しかったようです。



さて本ブログにておなじみの岡本大更の作品です。本日は単なる美人画?ではなく、説話上に登場する「嫦娥」を描いた作品です。

嫦娥弄月図 岡本大更筆
絹本着色軸装 軸先骨 共箱 
全体サイズ:縦2170*横475 画サイズ:縦1295*横350



題材は「嫦娥(恒娥または常娥とも書く」)です。

嫦娥(じょうが、こうが)は、中国神話に登場する人物で、月の神とされ、后羿(ゲイ)の妻。姮娥とも表記します。『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇になったと伝えられています。

月宮(広寒宮)で寂しく暮らすことになったという中秋節の故事です。月の表面に見える蝦蟇のような斑点は嫦娥の姿で、嫦娥は月の女神とも言われ、兎とともに描かれることが多い題材です。



嫦娥の補足説明

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帝俊(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を儲けた。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが堯の時代になり、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。これにより地上は灼熱地獄となり、作物も全て枯れてしまった。

これに対して、堯がこの対策を依頼したのが羿(ゲイ)である。嫦娥の夫の後羿は勇敢で戦に長けている戦いの神であり、狙ったものには必ず的中するほどの弓の腕をもつ。当時、人間世界には多くの猛禽や猛獣が現れ、人々に災いをもたらしていた。これを知った天帝は、これらの害を取り除くよう後羿に命じられたりしていました。 



太陽に対する対策を命令された羿は、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが、効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻した。その後も羿は中国各地で数多くの魔物を退治し、人々にその偉業を称えられた。

ところが、子を殺された上帝は羿を疎ましく思うようになり、羿は神籍から外され、不老不死ではなくなってしまった。このときに羿の妻の嫦娥(こうが)も同じく神籍から外され、不老不死を失った。嫦娥から文句を言われた羿は、崑崙山の西に住む西王母の元へ赴き、不老不死の薬をもらった。この薬は2人で分けて飲めば不老不死になるだけであるが、一人で全部飲んでしまえば昇天し再び神になることができるものであった。



羿は神に戻れなくても妻と2人で不老不死であればよいと思っていたのだが、嫦娥は薬を独り占めにしてしまい、羿を置いて逃げてしまった。嫦娥は天に行くことを躊躇して月へ行ったが、羿を裏切った罪のせいかヒキガエルへと変身してしまい、そのまま月で過ごすことになった。

その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、羿を射殺した。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」と言うようになった。



なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった。」という話が付け加えられることもある。別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えられています。

月にまつわる伝説は中国にもいろいろありますが、日本の「かぐや姫」伝説にも似た話、その原形では?といわれていて、中国人なら誰でも知っている「嫦娥(じょうが)月に奔(はし)る。」という神話です。なお、中華人民共和国初の月周回衛星は「嫦娥第1号」と命名されました。

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「夫の羿は神に戻れなくても妻と2人で不老不死であればよいと思っていたのだが、嫦娥は薬を独り占めにしてしまい、羿を置いて逃げてしまった。」・・・なんとも古来より美人は自分勝手な面がある

美人と関わらないほうが身のため、これは経験を踏まえた小生の処世訓。



*箱書に「大更簽(鑑)」とあることからある程度期日を経てから箱書された作品と思われます。あくまでも落款の書体からの推定ですが、大正時代(大正時代後半から昭和初め?)に描かれた作品に昭和期に箱書きしたものと思われます。

美人画が多く、他に七福神や仙人の作が多い岡本大更の作品の中で、本作品はちょっとシミがありますが、「嫦娥」という怪しげな女性を描いた岡本大更の秀作のひとつと言ってもよいでしょう。

本ブログで同じ題材の作品は他の所蔵作品「嫦娥図 西田春耕筆」などにて紹介しています。

骨董蒐集もJAXAも同じ、心は月へ、宇宙へ・・・、人間は大したもんだ

張果老 倉田松濤筆

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2019年9月に家内が郷里の骨董店より倉田松濤の作品2点にて5万円で購入した作品。小生が福田豊四郎の作品の購入に迷っている脇で、家内が店主に倉田松濤の作品を所望・・・ 家内は倉田松濤の吉祥の作品が好きだと言って複数の作品を購入しています。

家内が購入した一作品目が下記の作品です。箱書からもとは六曲一双の屏風の作品だったようです。

張果老 倉田松濤筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 鑑定箱
全体サイズ:縦2154*横653 画サイズ:縦1348*横500



描かれているのは「駒仙人」、つまり張果(張果老)のことです。本ブログでも安田靫彦の作品などで取り上げています。



張果(ちょうか、生没年不詳)は、中国の代表的な仙人である「八仙」の一人です。

敬称を込めて、「張果老」と呼ばれていますね。唐の玄宗時期に宮廷に招かれ、様々な方術を見せ、天宝年間に尸解(死んで肉体から解脱し、仙人になる)したといわれていますし、正史にも名を連ね多くの伝承を残しています。



恒州の条山にこもり、近隣には数百歳と自称し、白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動したと伝えられています。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたそうです。 箒に乗る魔法使いのような人です。

則天武后に招かれて山を降りた時に死に、死体は腐敗してしまったそうですが、後日、生き返っているところを発見されたとのこと。

開元22年(734年)、玄宗は通事舎人・裴晤を使わして張果を迎えようとしましたが、また死んでしまったそうです。裴晤が死体に向かって玄宗の意を伝えると、死んでいた張果は息を吹き返し、玄宗は改めて中書舎人・徐嶠を送り、張果は朝廷に出仕することになったそうです。



張果は、玄宗に老いていることを問われ、白髪を抜き、歯をたたき割ったところ、すぐに黒髪、白い歯が生えてきたといいます。また、玄宗が妹の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな法術を行いました。

食事は酒と丸薬だけしかとらず、法術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われています。師夜光や邢和璞という法術を行うものたちにも、正体を見定めることはできませんでした。

玄宗は高力士に相談し、本当の仙人か見定めるため、張果に毒酒を飲ませた。張果は「うまい酒ではない」といい、毒で焦げた歯をたたき落とし、膏薬を歯茎に貼って眠り、目を覚ました時には歯は生えそろっていたとのこと。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光禄大夫と通玄先生の号を与えたそうです。



玄宗は道士の葉法善に張果の正体を問うたところ、葉法善は「正体を話すと、言った瞬間に殺されるので、その後で張果に命乞いを行って欲しい。」と約束をとりつけた上で、張果の正体が渾沌が生まれた時に現れた白蝙蝠の精であると話したそうです。言い終わると、葉法善は体中の穴から血を流して死んだそうです。玄宗は張果に冠を脱ぎ、裸足になって命乞いをし、張果が葉法善の顔に水を吹きかけるとすぐに蘇生したといいます。

なんともいくつか中国らしい恐ろしい逸話・・・



張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。天宝元年(742年)、玄宗は再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された。玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われています。

なんとも奇怪で恐ろしい仙人ですが、一般的には馬に乗る仙人としか思われていません。逸話によるとどうも本作品のような優しそうな人物ではなさそうです。



箱書には下記のよう記されています。



当方で判読できる範囲では下記のような内容のようです。六曲一双の作品ですので、仙人が6人が描かれていたのかもしれませんね。

箱題:百三談画房松濤筆仙人之図 四幅揃之内
   圀手首藤巴涛代は秋田縣百三談□□□画伯倉田松濤代の高弟也。

   巴濤氏所蔵の六曲屏風仙人方□は師松濤画伯の傑作なり。

   余巴濤代息より此六曲半双を譲渡せられ六枚揃巻軸として蔵せるも
   懇望により一を小林達郎氏に又一を田邊一司氏に遣り四幅を蔵す。
   是其壱幅とす。

   昭和十年四月 七□庵□雲題 押印 四幅之内 駒仙人

箱書きに記された六曲一双の屏風の作品が個々にどうなっているのは今では知る由もありませんし、この元の所蔵者の詳細も解りません。ただ瓢箪から駒という御利益を願うのみ・・・

染み抜き挑戦 

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蒐集を続けていると避けても通れないのがシミやヤケのある作品。状態のいいものを思っていてもついつい入手してしまします。捨てるには惜しいとなると染み抜きなどの手入れが必要となります。

本日は日本画の額装2点の作品の染み抜きとヤケの処理への挑戦です。

まずは大橋翆石の晩年の猫を描いた作品です。

華蔭遊猫図 大橋翠石筆 昭和20年(1945年)頃
絹本着色額装 
全体サイズ:横695*縦630 画サイズ:横530*縦446(F10号)
分類C.晩年期 :1940年(昭和15年)-1945年(昭和20年)66歳~81歳







上記の作品を染み抜きした後の作品です。



シミというよりヤケなので、依頼した先ではあまりよくはならないとのことでしたが、ここまできれいになるとは正直思いませんでした。



展示室に飾って心休めて鑑賞できるようになりました。



下記の作品は一度は手彩色の工芸品と判断されましたが、どうみても肉筆と再度判断し、染み抜きの処理をしてみました。ま~所蔵する側は肉筆だろうと売買に損害や嘘がない限り問題にはしていませんが・・。家内が気に入っている作品ですので工芸や否やという論点を除外し、染み抜きの処置をしてみました。

*複製画を「真贋不詳」、「模倣品」としてさも肉筆のようにネットオークションに出品し、写真では判別できずに、作品が届いた後に複製を指摘すると「ノークレーム ノーリターン」として返品に応じない不誠実な出品者がいますので、落札側としは要注意です。ネットオークションで絵画では「ノークレーム ノーリターン」は禁止事項、もしくはそうすべきですが、落札側の泣き寝入りが多いようです。

山邨 堂本印象筆
絹本着色額装
全体サイズ:縦655*横730 画サイズ:縦450*横530





染み抜きが完了した写真は下記のとおりです。





状態の悪い作品は飾る気がしませんが、ようやく展示室に飾ざることができました。



工芸品としての疑いは晴れませんが、シミがある作品よりはましでしょう。













寛政庚申雪景山水図 釧雲泉画・細合半斎賛 寛政12年(1800年)冬一二月

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釧雲泉は若い頃の作品は浦上玉堂、池大雅にも通じるダイナミックな構成の図を描きますが。寛政末から享和、文化と重苦しい風景を描くようになります。若書きの作品の評価が高いのですが、小生はその後の作品も好きですが、好みによるでしょうね。自分の画風を確立したものとも言えますが、性格も影響しているのでしょう。



寛政庚申雪景山水図 釧雲泉画・細合半斎賛 寛政12年(1800年)冬一二月
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨加工 誂箱
全体サイズ:縦1500*横610 画サイズ:縦350*横480



賛には「庚申(かのえさる、こうしん)冬一二月寫 雲泉山人就 押印(「釧就」の白文朱方印、「仲孚」の朱文白累印の累印)」とあり、釧雲泉の生存年代から1800年(寛政12年)陰暦12月、雲泉が42歳頃と推察されます。



釧雲泉は寛政8年以降は主に備前東部を拠点としましたが、寛政10年(1798年)に木村蒹葭堂を訪ねています。そして寛政12年(1800年)、41歳のとき備州を去り大坂に移り住んでいます。そして再び享和元年(1801年)、木村蒹葭堂を訪ねています。

 

賛は「天寒満山雪 懸桟絶人行 枯林栖隠士文 暗聴凍渓聲 七十五翁半斎明 押印」とあります。この漢詩は雪国で過ごした小生にはすんなりと受け入れられる詩ですね。「暗聴凍渓聲」は雪深い山中で暮らしとことのある人でないと詠めないでしょう。絵の右側の渓谷を表現した部分になっていると思います。



賛は細合半斎によるものと推定され、制作年代、所在地、年齢などすべてが資料と一致します。

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細合半斎:(ほそあい はんさい、享保12年(1727年)~享和3年11月6日(1803年12月19日))。江戸時代中期の儒学者・書家・漢詩人である。 名を離または方明、字を麗王、号は半斎の他に、学半斎・斗南・白雲山樵・太乙・武庫居士、通称は八郎右衛門または次郎三郎。伊勢の人。

書は松花堂昭乗の流れを汲む滝本流に私淑し、のちにこの流派の中興の祖とされた。

京都から大坂に転居し、菅甘谷の門下となる。

詩文結社混沌詩社に加わり、多くの文人墨客と交わった。木村蒹葭堂の婚姻のとき媒酌人を務めている。私塾である学半塾を主催し、門下に篆刻家の曽谷学川、画家の桑山玉洲などが育つ。また半斎は江嶋庄六あるいは細合八郎衛門の名で書肆として活躍。同じく書肆の藤屋弥兵衛と親交する。滝本流の啓蒙の為に『男山栞』・『滝本栞』などの法帖の出版に力を注いだ。 篆刻も嗜み、安永8年(1779年)には息子の長庵の編集により『半斎百信』が出版された。



上記の肖像画は「細合半斎像 桑山玉洲筆」であり、本ブログでおなじみの桑山玉洲によるものです。

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上記の来歴からも大阪に居た時期の釧雲泉と関りがあったことは容易に推測されます。



釧雲泉の作品は、寛政時代の若書きの作品が奔放で出来が良く、人気が高いです。



寛政時代の末から享和年間の画風が確立し、文化年間に成熟期を迎えますが、文化年間の作品は重苦しさがあるとも評されています。

なおこの時期に釧雲泉は比較的多くの冬景色の作品を遺しています。

文化年間の四福対の一部になっている「寒江独釣」ですが、賛否両論はあるでしょうが寛政年間にすでに構図が出来上がっていたと思われ、その作品も例として挙げておきましょう。

寒江独釣 その1 釧雲泉筆 寛政年間頃
水墨淡彩紙本緞子軸装 軸先鹿角 合箱二重箱
全体サイズ:縦2045*横736 画サイズ:縦1497*横606



下記の作品は印章のみの作品ですが、作行は参考となります。

雪景山水図 釧雲泉筆 その20(真作整理番号) 享和2年(1802年)頃
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦970*横465 画サイズ:縦224*横290



真贋はさておいて年記の分かる作品には下記の作品があります。

甲子重陽山水図 釧雲泉筆 その10(贋作処分後の整理NO) 文化元年(1804年)
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1948*横398  画サイズ:縦1152*横317



真贋にこだわるよりもこういう考察に重きを置いて勉強するのが骨董蒐集の本論だと思います。贋作でも学ぶことが大切で、真贋にこだわると意外に真作が寄り付かなくなるという皮肉な結果になっている御仁をたくさん知っています。



「まずはいいと思った作品を自分の資金を投入し手元に置く、そして鑑賞して徹底的に調べる。贋作、気に入らぬものは処分する。そしてたとえ気に入った作品でも時には資金調達のために作品を売る。」蒐集はこの繰り返しで、蒐集作品のレベルを上げていくしかないでしょう。



掛け軸も陶磁器も同じですね。手前の信楽もそういう経緯を乗り越えて辿り着いた作品。

なお一番見苦しいのは知ったかぶり・・・

千(百)匹鯉図 黒田稲皐筆 その4

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先週末は上田まで松茸を食べに家内の親戚有志にて出かけてきました。



下記の写真の左のように店の前の道路は路肩が崖崩れ・・、千曲川の氾濫がニュースになりましたが店の前の路肩も崩れていました。



4時間半もかけて松茸にありつきました。





松茸三昧のコースです。



嫌というほどの松茸・・。



皆の感想は「しばらくは松茸はいいかな?」だと・・・。



息子も上機嫌・・・・。



本日紹介する作品は黒田稲皐の描いた「千(百)鯉之図」の作品です。松茸三昧のあとは鯉三昧の作品です。

千(百)匹鯉図 黒田稲皐筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 菅盾彦鑑定箱 二重箱
全体サイズ:縦2250*横1000 画サイズ:縦1600*横850

 

「千匹鯉図」という同題の作品が鳥取県立博物館(1834年 天保5年)に収められているようです。 この作品はまだ見たことはないのですが、その作品の大きさは「53.0x72.5」とありますので本作品より小さくなります。本作品のような大きな群鯉を描いた黒田稲皐の作品は屏風を除いて他に例がありません。



印章のみの作品ながら作行から真作と断定しています。出来がよいというのが決定的ですね。本ブログでも紹介したことのある黒田稲皐と同郷の画家「菅盾彦」の鑑定された箱という組み合わせも面白いですし、珍しいと思います。



なお当方の他の所蔵作品である「群鯉図 黒田稲皐筆 その3」の香炉印と全く同じ印章で印影も一致しています。



 

*なおマイナーな画家ながら黒田稲皐の作品には贋作がありますので注意が必要です。

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黒田 稲皐:(くろだ とうこう、天明7年(1787年)~弘化3年11月6日(1846年12月23日))。

江戸時代後期の絵師、鳥取藩士。本姓は林。名は文祥。通称は六之丞。字は叔奎か。号ははじめ稲葉、のち稲皐。鳥取藩士・林源三郎の弟として生まれています。



文化4年(1807年)から9年(1812年)の間に鳥取新田藩(東館藩)池田家の家臣・黒田家に養子になっています。藩主池田仲雅の近習となり、しばしば江戸へ赴き公務を勤めました。幼少の頃から画を好み、藩絵師*「土方稲嶺」に写生画法を学んでいます。



稲嶺は病の床で稲皐を枕元に呼び寄せ、「我が門流中、相当の技量ある者のみ、画号に稲字を冠せしめよ」と語ったとされ(『鳥取藩史』)、師からの信頼が厚かったのを見て取れます。



また、弓馬、刀槍、水練などの武芸にも長じ、落款には「弓馬余興」の印をしばしば用いています。

更に「因州臣」「因藩臣」と入った作もあり、これらは、自分はあくまで武士であり絵は余興にすぎないという稲皐の矜持を表しているとされます。



当主仲雅の没後は役務を退いて画業に専念しました。家には鷹を飼い、池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生したそうです。

人物、花卉、禽獣いずれも巧みであったが、特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と呼ばれています。弘化3年(1846年)11月6日死去。60歳。墓は鳥取市玄忠寺にあります。



跡は甥の黒田稲観が継ぎ山水画を得意としましたが、稲観は33歳で亡くなっています。他の弟子に*「小畑稲升」がおり、稲皐の墓前には稲升が寄進した水盤石が置かれているそうです。

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*「土方稲嶺」・「小畑稲升」については本ブログに作品が紹介されていますので参考にしてください。



鑑定は菅楯彦によるもので、略歴は下記のとおりです。

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菅楯彦:(すが たてひこ)明治11年(1878年)3月4日~昭和38年(1963年)9月4日[1])。日本画家。

鳥取県鳥取市出身。本名は藤太郎。号は、初め盛虎、のち静湖、静香。大阪美術会会員。大阪市名誉市民。

浪速の風俗を愛し「浪速御民(なにわみたみ)」と標榜、はんなりとした情趣ある浪速風俗画で「最も大阪らしい画家」と呼ばれました。

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まずは鯉をご覧あれ! 当方では落款はありませんが、現時点では出来から黒田稲皐の真作と判断しています。なかなかの傑作・・。



よく見ると鯉の表情が実に面白いです。



中央の一匹だけ鱗の描きが精密で金彩が使われています。これが黒田稲皐の作品の特徴かもしれません。





「水に合う」というより「鯉の鱗」に合わせた表具となっています。



おそらく改装されています。鑑定箱に収められる前の箱書部分が鑑定箱に収まるように工夫されています。元の題は「千匹鯉」、鑑定された題は「百鯉」・・・???



改装されて二重箱に収められたのでしょう。

 

黒田稲皐が描いたとされる「群鯉」の作品は本ブログでは下記の作品があります。やはり黒田稲皐の鯉は群鯉ですね。数匹の鯉の作品ではちょっとつまらない・・。

群鯉図 黒田稲皐筆 その3
紙本水墨金彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2140*横1000 画サイズ:縦1600*横850



群鯉図 伝黒田稲皐筆 その1
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1650*横550 画サイズ:縦1205*横505



マイナーな画家ですが、意外に人気があるがゆえに入手の難しい黒田稲皐の群鯉の作品です。



一匹顔を出しているのは画家本人か?



ともかくこの作品は鯉の表情が面白い。



中央の一匹だけ鱗を丁寧に描き、他の鯉は省略されて描くのが黒田稲皐の群鯉の作品の特徴か?  

いずれにしてもこれ以上の出来は稀有な黒田稲皐の傑作かも・・・。松茸も鯉もしばらくはいいかも

左甚五郎京人形図 中村左洲筆 昭和20年頃

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松茸三昧の後は上田城へ・・。紅葉の始まりの景色を堪能しながらの旅でした。



本日は本ブログでたびたび取り上げている中村左洲の作品です。中村左洲は「鯛」を描いた作品で有名で、左洲といえば鯛の専門画家と称されています。逆を言うと「鯛」以外の作品はたいして評価されていないということになります。たしかに中村左洲の作品には駄作も多く、「鯛」を描いた作品以外は観るべき作品がないと評される方もいます。

風景画においては秀作もありますが、いい作品の数はかなり少ないでしょう。さらりと描いた席画程度の作品が下手なことも評価が下がっている原因ですし、左洲が漁師でもあったことや弟子に有名な画家がいないことも評価が低い原因でしょう。中村左洲の最も得意な作品は「鯛」とともに実は「美人画」でしょう。意外にファンが多く、評価も高いです。

本日はそのような作品の紹介です。



左甚五郎京人形図 中村左洲筆 昭和20年頃
絹本水墨着色軸装 軸先塗 共箱 
全体サイズ:縦1960*横560 画サイズ:縦1100*横410

 

左甚五郎は、江戸時代の彫刻の名人で、日光東照宮の眠り猫や東京上野東照宮の竜で有名です。この竜の彫刻には、毎夜動き出して不忍池の水を飲んだという伝説もあります。本作品はこうした伝説を背景に、左甚五郎が作った人形に魂が入って動き出すという内容を基にした作品です。



歌舞伎舞踊曲の舞台は甚五郎の家です。甚五郎は、ある傾城の美女「位の高い遊女」に恋い焦がれ、その傾城に生き写しの等身大の人形を作りました。すると甚五郎の一途な思いが人形に乗り移り、人形が動き出します。けれども人形は作り主である甚五郎を真似て、男の無骨な動きをしてしまいます。そこで女の魂ともいわれる鏡を人形の懐に入れると、たちまち優しい女の動作になります。そして鏡が落ちるとまた男の動きに戻り、甚五郎と2人で同じ振りを早いテンポで踊っていきます。人形が見せる男と女の動きの変化が見どころです。



その後、甚五郎がかくまっている姫を敵が捕まえに来ます。甚五郎はその敵の1人に右腕を切られ、左腕だけで大工道具を使った所作ダテをします。元は長いお話の1コマでしたが、今ではこの舞踊の部分だけが残っているため、後半の展開が急なものになっています。美しい人形が動き出し、男の身振りをする楽しい舞踊です。



いずれにしも「左甚五郎」は職人、傾城の美女「位の高い遊女」になど手に負えるものではありません。美人にかかわると碌なことにならないという見本のような話です。



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左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう):江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。講談や浪曲、落語、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。 日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代 - 江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。



逸話などでその存在さえも疑われているが、実在の人物として記述している文献も見られる。 それらによると足利家臣・伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)に播磨国明石に生まれた。父親の亡き後、叔父である飛騨高山藩士・河合忠左衛門宅に寄寓。慶長11年(1606年)、京伏見禁裏大工棟梁・遊左法橋与平次の弟子となった。元和5年(1619年)に江戸へ下り、将軍家大工頭・甲良宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げた。 江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者である老中・土井利勝の女婿で讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに亡命。その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)に高松藩の客文頭領となったが、慶安4年(1651年)頃に逝去。享年58歳。
また名工・左甚五郎のモデル、岸上一族の一人である初代・岸上甚五郎左義信は永正元年(1504年)に誕生し、66歳で没したとされている。



16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。」「それでは甚五郎は左である。」「左を号すべし。」と言わしめた。そのお達しにより、位(号)として“左”を名乗ったといわれている。 実在の人物であり貝塚生まれであるということを実証する資料として西光寺 (香芝市)鳳凰の欄間がある。

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本作品は中村左洲の作品において秀作のひとつと言えるでしょう。



箱書の印章は他の当方の所蔵作品「藤娘」・「昇龍」と同一印章であり、落款は同じく当方の他の所蔵作品「加賀千代女」と同一書体であることから、昭和初期から昭和20年頃の最晩年に描かれた作品であると推定されます。

  

左甚五郎を題材として描いた作品はときおり見かけます。当方のブログではよく取り上げている渡辺省亭の作品に下記の作品があります。

銘作左小刀 渡辺省亭筆
絹本水墨淡彩 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1850*横440 画サイズ:縦1045*横415



同じ時期に描いたと思わる作品に当方の所蔵作品では下記の作品があります。

加賀千代女 中村左洲筆 昭和20年頃
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱 
全体サイズ:縦2060*横650 画サイズ:縦1150*横510



加賀千代女の作品の美人画の描きに共通点がありますね。「才女」と「傾城の美女」・・・・・。

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中村左洲
日本画家。三重県生。名は作十。磯部百鱗に師事、四条派を学ぶ。山水や魚の絵を能くする。巽画会会員。岐阜絵画展一等賞受賞。文展入選。昭和28年(1953)歿、80才。

中村左洲といえば、 伊勢地方では 「鯛の左洲さん」 として広く親しまれている画家です。 左洲は明治6年(1873)に生まれ、現在の二見町の出身。昭和28年に81歳で没するまで、終生二見の地にあって鯛の絵をはじめとする多くの作品を残しました。

10歳で父を亡くした左洲は、生業の漁業に従事するかたわら、伊勢在住であった四条派の画家磯部百鱗から絵の手ほどきを受けます。明治28年の第4回内国勧業博覧会に出品した「製塩図」が褒状を受け、以後東京で開催される展覧会にも出品するようになりました。大正6年(1917)の第11回文展では、入選した「群れる鯛」が御木本幸吉翁の眼にとまり、買い上げられたという逸話が伝えられています。左洲が師事した百鱗は、江戸時代後期以降、全国的に流行した四条派の画家でしたから、左洲の作品も温雅な写実表現を基調とするようになりました。伊勢では、左洲といえば鯛の専門画家のようにいわれることがあります。それは、左洲が漁師でもあったこと、魚類は円山四条派の重要な写生対象であったこと、鯛の絵は吉祥画として多くの需要があったことなどが主な理由でしょう。確かに、鯛を描いた作品には終生伊勢の海に親しみ、伊勢志摩の自然と一体化したかのような彼の特質を見ることができます。一方、内宮や外宮、山岳風景を主題とした情趣こまやかな風景作品には画家中村左洲の技量がより強く現れているように思われます。伊勢神宮が近くにあり、皇族や宮司からの依頼や招待が多く、作品を献上することもあったとのこと。

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「鯛」の作品以外では世間一般ではあまり注目されていない画家「中村左洲」・・、美人画の作品は読者の皆さんはいかがでしたでしょうか?

支那急須(豫豊款大茂銘梅陽刻木節文紫砂急須壺) 清朝末期

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急須のひとつでも欲しいと思って購入した作品が下記の作品です。当方には全く門外漢の中国の急須の作品ですが、調べた限りの範囲で紹介します。

支那急須(豫豊款大茂銘梅陽刻木節文紫砂急須壺) 清朝末期?
合箱
最大幅170*奥行70*高さ70



作られた窯は「宜興窯」らしい・・。

宜興窯:(読み:ギコウヨウ)。中国江蘇省宜興近郊の陶窯。明代以降に栄え、鈞窯(きんよう)系の雑器や朱泥(しゅでい)・紫泥(しでい)などの茶器を産する。

宜興窯は景徳鎮窯と並び「磁都景徳、陶都宜興」と呼ばれる陶器製造の主要窯です。



特に宜興の土地特有の紫紺色の土を使った「紫砂」と呼ばれる焼き物は有名で、朱泥の急須のような上品な質感を持った茶道具は、中国のお茶の文化を支えています。

また、この紫砂は日本にも大きく関わりがあり、日本の朱泥の急須はこの宜興窯の紫砂を手本に作られたそうです。明治時代初期、愛知県の常滑窯に宜興窯の陶工であった金士垣という人物が招かれ、常滑窯の職人たちにその技法を伝授したことから、日本には朱泥の急須が広く伝わったようです。



宜興窯での紫砂の生産には、少なくとも1000年以上の歴史があるとのことです。

茶器で使われる紫砂は特に「紫砂壺」(日本ではしさこ、しさへい)と呼ばれ、これを使ってお茶を淹れると地の表面の微細な穴が、お茶の成分を蓄え、香りを豊かにし、茶器自体も経年によって光沢を増し、保温性にも優れています。

中国で急須を用いてお茶を淹れる文化が確立されたのと同じ頃に、この紫砂壺も出来上がったと考えられており、古来から茶道具の1つとして親しまれてきました。日本には19世紀末に伝えられましたが、20世紀には国外の博覧会で賞を受賞し世界的に名を広まりました。それ以後も技術の研究を進め養成所を開設するなどして、作品の改良に努めています。日中戦争などの戦乱後は、一時衰退の傾向もありましたが、国営の工場の設立や地域の尽力によって、現在でも伝統は受け継がれています。



中国では偽物(レプリカ)製作が盛んで、本当の意味では作家本人から購入した紫砂壺以外はレプリカの可能性も疑わなくてはならないとのことです。また一般の観光で宜興を訪れて商店で購入される紫砂壺は、そのほとんどが本物ではないばかりか、宜興産でない可能性があるそうです。宜興紫砂壺は近年、中国の物価の上昇と共に異常な値上がりが続いているとのこと。これは紫砂材料産地である黄龍山の紫砂の鉱脈の枯渇が現実問題となってきたことと、宜興紫砂壺までもが投機の対象となっている事が主な原因です。人気作家や有名作家の作品は常に値上がりが続いています。

紫砂器をコレクションする楽しみの一つは,作者の款識(落款)があることだと思います。落款とは,壺の底等に字を刻むか印を押すもので,紫砂器は特に景徳鎮の官窯などのような年款(製作年代を入れたもの)でなく,作者個人の名前や字(号)が入っています。



景徳鎮の磁器は昔から,分業による流れ作業で製作していたのに対し,宜興紫砂は,土の配合から装飾までほとんど作家個人が行うため,作者銘があるそうです。この作者の名款があるために,そのコレクション的な価値を増していると思います。

無冠のものや,晩清の輸出ものに多い「宜興紫砂」款がありましたが,文革時に個人名を入れず番号で表わすようになり,文革後も80年末くらいまでは単に「中国宜興」款だけになったことがあります。

これを,香港の大コレクターである羅奇祥先生が提案して再び作家の名款が入るようになったのだそうです。「中国宜興」のままでしたら,現代の作家ものというカテゴリは存在せず,コレクターもこれほど増えてはこなかったのではないかと言われています。

ただし,落款は真贋の判定には使えても決定的なものではありません。つまり,落款は本物である証拠にはなないから面倒ですね。



本作品の底に銘のある「豫豊」は清朝末期から民国にかけて天津で開業した茶壺店の名前のようです。マーケットが北京など北方であったため,漢字と満州文字が入るのだそうです。蓋に銘のある「大茂」は人の名前でしょうが残念ながら詳細は不明です。



昔は写真がなかった?ので箱に絵を入れて保管したのでしょう。



ともかく当方には門外漢の作品、よく分かっていない作品です


色紙 秋馬図 平福百穂筆 昭和7年頃

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色紙の作品がだいぶ多くなってきたので、画家ごとなどに色紙の保存箱に入れて整理しています。



今回は郷土出身の平福百穂の作品の整理です。



色紙の保存箱の多くは色紙タトウ抜きでの寸法が多く、タトウのまま保存するには大きめの色紙保存箱が必要ですが、その大きさの保存箱は意外に少ないものです。とはいえ注文して作るほどのものでもないので、適当な大きさの保存箱が見つかるまで根気よく待つしかありません。




ところで平福百穂の作品蒐集には問題が二つあります。

ひとつは模写も含めた贋作が多いこと。
ふたつめは手彩色された工芸品が多いということです。

両者ともに精巧に作られており、工芸品は判断の難しさは大塚工藝社の作品どころではなく、よく見ても分かりませんし、印章も真印をそのまま押印したように精巧に作られています。

*大塚工藝社の作品はすぐに解ります。印も「工藝印」が押印されていますので・・。

たとえば下記の作品です。牛の乗った童子の作品と同様にこの「峠超え」の作品は代表的な工藝作品だと思われます。



両作品ともに絹本に描かれ、印章は両方ともに真印にそのものです。「工藝作品」だと思う・・、そうですね、まったく肉筆と区別できません

 

出回っている作品の色付けも同じものではないものがありますので、比較しても分かりませんし、色の部分は手彩色ですから肉筆そのものです。

 

左側の作品はなんとか工藝品と判別できますが、右側の作品は正直なところ印刷かどうか未だによくわかりません。おそらく工藝作品でしょう。解りにくくするためか、剥がして再度色紙に絹本の作品を貼り付けられています。こうなると判別は工藝作品がリストになっていないと解らないくらいです。

 

このような分かりにくい作品が平福百穂の作品には多々あります。軸装や額装の作品にもありますが、戦後すぐの頃?に著名な画家の精巧な複製がたくさん作られたと推測されます。工芸品の疑いのぬぐい切れない作品は当方ではタトウに所蔵印を押印しないという区分をしています。工藝作品と断定されると同時に工芸品と明記しています。



本日はそのような平福百穂の作品で真筆と断定した作品の紹介です。

色紙 秋馬図 平福百穂筆 昭和7年頃
紙本水墨淡彩色紙 タトウ  
画サイズ:縦270*横240



白文朱方印「三宿草堂」の印章は昭和6年~8年頃に多く用いられており、このことや落款の書体から昭和初期に描かれたと推測される色紙の作品です。

*「三宿草堂」の印章は工藝作品にも押印されている作品がありますので要注意です。

 

放牧されている草にすすきが多描かれており、秋の風景と推察され「秋馬図(仮題)」としております。簡単な肉筆との判断方法として、色紙の縁に墨の跡が見られることから肉筆と判断することがありますが、これは100%ではありません。



色紙の作品はその作品毎に額を誂えるのは保存場所が多く要ることとなりますので、色紙専用の額をいくつか用意しておくとよいでしょう。普段使いではないいい額を用意しましょう。



いい作品はいい額に・・・・・  



真贋にこだわるよりもこのような飾りつけにこだわるほうが精神衛生上は健全?です。

リメイク 柿下牛之図 須田珙中筆 その1

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休日につき気楽に愉しめる?作品を投稿します。

本日紹介する作品はずいぶんと前に購入した作品ですが、すでに投稿したはずなのですが、ブログを検索しても投稿された記事が見つかりません。なにか別の作品と一緒に投稿している可能性がありますので、一応「リメイク」としています。

リメイク 柿下牛之図 須田珙中筆 その2
絹装軸水墨淡彩紙本箱入 
画サイズ:横508*縦357



須田珙中については下記の作品も本ブログで紹介されています。

ばら図 須田珙中筆 その2
絹本着色軸装 軸先象牙 太巻二重共箱入 
全体サイズ:横725*縦1390 画サイズ:横505*縦430



この作品は牛の目がハート形・・。
 


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須田珙中:日本画家。福島県生。東美校卒。名は善二。松岡映丘・前田青邨に師事。帝展・文展審査展・新文展・日展で活躍し、瑠爽画社に参加。のち日展を脱退して院展で活躍。日本美術員賞受賞。東京芸大助教授。日本美術院同人。昭和39年(1964)歿、56才。

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須田珙中という画家をご存知の方は今では数少ないと思いますが、実は下記の記事にありますように「長い院展の歴史の中でも「大観賞」を四度受賞した作家は他にはおりません。」というほどに戦後を代表する日本画家の一人と評されています。



須田珙中についての記事は意外に少なく、まとめると下記の記事のようになります。資料によっては生年、死亡理由が異なっていますのでご了解ください。

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須田珙中は戦後を代表する日本画家の一人です。日本美術院同人で、多くの名画を残している。本名は善二といい明治40年1月、福島県須賀川市の雑貨商の三男として生まれました。当時の三丁目は、奥州街道・南口の商店街として栄えており、珙中は、近郷近在からの買い物客で繁盛するにぎやかな環境のなかで、幼少時代を過ごしていました。

大正11年、須賀川町立商業学校を卒業後、私立石川中学校の4年に編入しました。このころから、珙中は、画家の道への志を強くし、この石川中学校で2年間学んだ後、東京美術学校本科日本画科に入学しました。

在学中に、頭角を表し始め、1年生時には、作品「ぶどう畑」が日本画会展で入選しています。2年生時にも、第2回聖徳太子奉讃展で入選しますが、「在学中、許可なく官展への出品を禁ず」の学則に触れ、1週間の停学処分を受けるといったエピソードを残しています。在学中は、松岡映丘に師事し、昭和9年の卒業まで、帝展への連続入選を果たすなど、大いに活躍し、まさに日本画界の将来を担う若きホープとして期待されました。



卒業後は、杉山寧、山本岳人、高山辰雄、といった松岡映丘の門下生で作る瑠爽画社に参画し、それまでの日本画とは全く違った新しい現代感覚の日本画を目指します。松岡映丘の没後は前田青邨に師事し、文展から院展に移ります。前田青邨の薫陶を受け、昭和26年からは、母校である東京芸術大学美術学部に教官として迎えられました。この学生たちへの指導により、珙中自身もまた学び、作風の変化した、多くの優れた作品を残しています。具体的には、日本美術院展に出品するようになった昭和27年を機に、それまでの古典的な作風が、変わり始めたと言われています。

次々と作品を発表し「大観賞」や「白寿賞」などを受賞しています。長い院展の歴史の中でも「大観賞」を四度受賞した作家は他にはおりません。41回展「山水石組」、42回展「念持仏」、44回展「篝火」、45回展「正倉院」などの実績からもわかる通り、須田珙中は近代日本画の中で大きな功績を残していきます。

また晩年にかけても多くの作品を残します。代表として水戸偕楽園の好文亭の襖絵があります。好文亭は十室あり、八十二面の襖絵があります。珙中は松の間、梅の間、萩の間、紅葉の間の襖絵を担当します。しかし珙中は完成を見届けることなく、昭和39年7月、心筋梗塞のため、57歳の若さで急逝。その早過ぎる才能の喪失は、日本画界への大きな打撃となりました。特に昭和37年の出品作品「吹雪」は、近代的な表現の可能性を探求し続けた珙中の大きな成果の一つと言われ、今もなお人々に愛されています。



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もともと牛の目はハート形? そんなことはない??



「猪目」というのはハート形をいいますが、それでは猪の目はハート形?? でもいずれ縁結びではなく魔除けですね。



ロマンチックな話ではありませんが、「猪目」については諸説あるので真相は分かりませんが、「魔除けのため」というのは間違いないと思います。



ま~、なぜにハート形かは画家に聞いてみないとわかりませんね。



蒐集を初めて間もない頃に入手した作品、ひさかたぶりに飾ってみました。

山村新春 倉田松濤筆

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2019年9月に家内が郷里の骨董店より倉田松濤の作品2点にて5万円で購入した作品。小生が福田豊四郎の作品の購入に迷っている脇で、家内が店主に倉田松濤の作品を所望・・・

二作品目が下記の作品です。

山村新春 倉田松濤筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 鑑定箱
全体サイズ:縦2154*横653 画サイズ:縦1348*横500

 

義父が亡くなったばかりで、この作品にて孫を抱いて凧揚げする姿に家内は思うところがあって購入したようです。



亡くなった義父と息子・・・、また倉田松濤は凧揚を題材にした作品が数多くあります。



相変わらず倉田松濤の賛は読めない? 大正10年の時の作か?  



箱には下記のように記されています。昭和10年の冬に記された箱書のようですが、ちなみに倉田松濤は昭和3年、63歳にて亡くなっています。

箱題:倉田松濤筆山村新春圖
倉田松涛翁秋田縣新屋住人凪師事平福穂庵刻苦遂成一□此幅□想奇□□行□□其特意之作成。大嶋兄翁之同郷而百□□昨夏与余
散策銀座街頭偶□之縁而仕余画面題 昭和乙亥季冬 松雪生記 (1935年 昭和10年)


  

銀座で購入した作品? 倉田松濤は東京に居た際には牛込に居たようですからあり得ないことではない?

ちなみに当方の義父は享年、86歳。

氏素性の解らぬ作品 伝李朝期 三島手平茶碗

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週末は天気が良いので収穫した落花生の天日干しです。今年は義父が亡くなり、収穫期を逃しており、ネズミの被害もあって実は少なくなっています。 

それでも息子は収穫から洗いと毎日義母を手伝っています。



さて本日は懲りずに李朝らしき作品の紹介です。

李朝期の平盃や平茶碗はよく見かけますね。意外に真作や完品が少ないもののようです。

氏素性の解らぬ作品 伝李朝期 三島手平茶碗
古箱
口径185*高さ60*高台径45



本作品は外側に釉薬が掛かっていない部分があります。



盃に適した大きさの作品は数が多いのですが、茶器としての大きさが適した平茶碗は意外に数が少ないものです。



三島手より井戸茶碗が重宝されるのか、三島手の平茶碗はあまりみかけないようの思います。



李朝期のいつ頃か、ましては李朝期かどうかも当方では判断しきれていません。



やはり見所は唐津と共通した感じですね。



夏の普段使いの茶碗や食器には適しているようです。



古いそうな古箱に入っていますが、このような箱もあてがわれたか否かが問題ですね。

茶器に対する箱の内側の大きさは片側の余裕が5ミリというのが基本。これより大きかったり、小さくてぎりぎりなのはもともと違った器が入っていた可能性が高いと言われています。



一応、紐が切れていますので取り替えておきました。こういう処置は大切です。

ところで紐の端末処理の仕方をご存知ですか? 基本中の基本ですが、これを意外と知らない方が多いらしい・・・。



ともかく李朝は難しい・・・



織部滑車 江戸後期

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土曜日に出張から帰ると玄関先はたいへんなことになっています。



そういえば植木屋さんが来るといっていた・・・。安全対策は大丈夫??? 見て向ぬふり・・・



さて本日の作品です。これは実際に滑車として使用していた織部焼の作品です。織部は桃山期から江戸初期までの作品が珍重され、江戸期の作品は意外に評価が低いのですが、本日の作品のようにちょっと面白いものもあります。

織部滑車 江戸後期
誂箱
径245*高さ52



織部釉のほどこされた瀬戸焼きの滑車。



実用向きのものとして多くは江戸末期に制作されたもので、今でも京都の大徳寺、下賀茂神社にある井戸に織部の滑車が掛かっています。



後年、茶人に飾りものなどとして好まれたようです。



実際に井戸などで水を汲み上げるためにロープをかけて使われていたことにより、あちこちに擦り傷があるなど使用した跡がみられます。



調べてみると織部の滑車はかなり数多くあるようです。



む~、こういう作品もあったのかと我ながら新発見! 



まさか陶磁器を実際の井戸に滑車として使っていたとは・・・



当然、出来不出来はあるようですが、意外に市場に廉価で数多く流通しているようです。



主に江戸末期時代に作られた織部焼であり、後年にその釉薬や文様のデザインが茶人に好まれ、位に高い寺院やお屋敷で、茶室に近い傍らの江戸に飾りとして用いられてたようです。



織部以外にも御深井焼などもあったようです。



実用品としての評価でしょうか?

参考作品
織部滑車
愛知県一宮市立博物館蔵
サイズ:高5.3cm 径29.5cm



骨董店で販売されていますが、釉薬や絵付けが一般的な作品(要は出来のよくない作行の作品)は市販品で5万円程度かな?



織部釉が最後にただ漬けて掛けられている作品(このような作品がほどんど)より、流して掛けられている作品のほうが味がありますね。ちょっとした差が作行に大きく影響しています。



初期伊万里のお猪口で一杯・・・



展示室には亜流の陶磁器?が並べられています。この4種がそこのような陶磁器かを答えられる人はそうはいないでしょう

骨董は日常の用いられたもの、ただ時代ともに変遷しているので現代を生きる人には分からなくなるようですね。今の100円均一の器しか使わなくなる? 

そもそも今の人に磁器と陶器の違いが判る人が何人いるだろうか? 伊万里、備前、瀬戸、益子の違いすら分からないのだろう。マンションに住んでしまうと庭木を剪定することもなかろう・・。それはある意味で寂しいことだが、今の都会では骨董も剪定もかなりの贅沢・・。

氏素性の解らぬ作品 古上野焼 藁灰釉花生

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購入費用がない時には時として氏素性の解らない作品に食指を動かすものです。ともかく少ない予算で好きで気に入った作品をと・・。本日もそのような作品の紹介です。



上記の写真は家内の家にあった米櫃の上にのせてみました。昔は米櫃には鍵がかかっていたようです。

古上野焼 藁灰釉花生
合塗箱
口径28*胴径123*高さ113



刻銘はなく江戸前期の古上野焼(こあがのやき)と推察されます。アイボリーホワイトの藁灰釉のところどころに青っぽい窯変が現れ、口元にはほのかな緑色を呈する緑釉が掛けられています。直線と曲線のバランスの美しさはどこか西洋的、近代的でもあります。

上野焼を興した細川忠興は茶人でもあり、小堀遠州の指導を受けて茶器を焼かせた上野焼ですが、茶陶らしく本作品はセンスの良さが際立っています。後年、装飾的になっていく上野焼において、江戸期の佳作と言えるかもしれません。



上野焼はご存知のように遠州七窯のひとつです。慶長7年(1602)、細川忠興(斎三)が、朝鮮陶工「尊諧」に命じ窯を上野の福智山の麓に窯を移しました。細川忠興は、茶事の師でもある小堀遠州の指導を受け、上野焼にて茶器を焼かせました。寛永9年(1632)、細川氏が肥後に転封になると、「尊諧」は長男と次男を連れて肥後に移り高田焼を起こしました。三男の十時孫左衛門と婿の渡久左衛門を上野の地に残し、新藩主となった小笠原氏に仕えさせています。



上野焼は江戸中期以後の作品には上野焼の証である「巴」の印がつけられるようになり、茶陶に限ら、置物類や雑器類も作られるようになります。



後期には、一般的に知られる銅を含んだ緑青釉を始め、紫蘇手、上野三彩などが作られ、作品を特徴づけることになります。江戸末期には作品の底に「巴印」と「釜印」が押印されています。特徴の銅呈色による緑色の釉の掛かったものは全て皿山本窯のもので、窯印の「左巴に甫」「右巴に高」は幕末天保頃で、古い上野焼には印がありません。



*本作品には印はなく、なにやら文字らしきものが記されていますが、詳細は不明です。印のない古い上野焼と断定するのは早計なのかもしれません。



時代によって作風は異なり、上野焼は藩窯として保護を受けましたが、明治20年に完全に廃絶した。明治35年(1902), 廃窯を惜しんだ有志が、高鶴 熊谷両家を押し立てて上野焼の再興をはかりましたが、高鶴家は経営難ら手を引き、熊谷八郎の熊谷家のみが上野焼を守っています。昭和13年(1938)になり、高鶴家が再び窯を持ち、大戦後は青柳家も加わって3家の時代がしばらく続きます。



1960年代からの陶芸ブームによって、十時家も復活し、窯元も増加しました。現在では通産省の伝統工芸品に指定されています。



当初は地味な釉薬が多かったのですが、緑の鮮やかな釉薬も使われるようになりました。象眼、玉子手、上野木目、上野そうめん流などといった変わった技法も使われています。



上野焼については「なんでも鑑定団」に下記の作品が出品されています。

参考作品
一輪生花瓶
なんでも鑑定団「2011年02月19日 」出品作
鑑定金額:35万円



200年前位に九州で作られた江戸後期頃の上野焼(あがのやき)とのことです。肩の部分に上野特有のグリーンの薬がかかっています。



全体を陰刻で蔓をめぐらせて菊の花を鉄絵で描いていますが、茶味の作風からは距離のある作行ですね。なお無論のことですが、野々村仁清の箱書きは偽物です。



幕末頃の上野焼の作品は本ブログに下記の作品が投稿されています。

古上野焼 緑釉花弁壷(上野砂金形水指)
合箱
高さ145*最大幅184



砂金袋をイメージして作られた水指のようです。時代は幕末前後。吉田窯、又は、熊谷窯と思われ、印の感じでは熊谷窯のように思われるとのコメントがありました。



遠州七窯のひとつという茶器というより、民芸色の強い作品群のように思うのは小生だけではないように思います。



民芸作品として飾ると面白味が増すように思います。


普段使いの日本の壺

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本日は本ブログで取り上げてきた備前と信楽の壺の紹介で、最近展示室の置かれている作品です。

古備前舟徳利 江戸中期
杉箱入
口径50~55*胴径190*底径175*高さ380



自画自賛ですが、これほど大きな舟徳利で出来の良いものは観たことがありません。



故意ではない緋襷の文様がみごとです。現代の壺の緋襷は故意につけたものばかりです。



世界ラグビーが日本で開催され、ラグビーの面白さが改めて実感できるのですが、この器を観てなぜラグビーボールは楕円形なのでしょうか?という疑問が湧きました。

そこで検索してみると下記のような問題をインターネットで見つけました。

古代ローマ時代、頭蓋骨をボール代わりにしていたから
持って走るとき真ん丸のボールより楕円の方が持ちやすいから
アフリカ原住民がダチョウの卵をボール代わりにしていた
ブタの膀胱に空気を入れてボール代わりにしていたから
ポリネシアの人たちが椰子の実をボール代わりにしていたから



どうも全部正解だとのこと



ただラグビーというスポーツは起源や歴史がはっきりとしたスポーツで、1823年、当時のサッカー(フットボール)は手でボールを持つことが許されていました。そしてイングランドのエリスと言う少年が、ボールを持ったまま走ってゴールしたことがラグビーの起源とされています。

そのエリスが通っていた学校でラグビーボールは豚の膀胱を縫い合わせたボールを使っていたため、直接的なラグビーボールが楕円になった理由は「豚の膀胱」なのかもしれませんとのことです。なおNHKのチコチャンは知っているでもそのような解説だったと記憶しています。

さて次は古備前の壺です。

古備前壷 室町中期
口径約130*胴径300*底径約170*高さ360



この作品は首周りに複数の線が入っていること、窯印があることが見どころになっています。よく備前の壺や花入れに水をスプレーでかけて景色を際立たせる御仁がいますが、あれは品がなく、みっともないですね。自然のままがいい・・。



窯印が「of]に見えるのがいいですね。「of]は「の所有する、…に属する」という意味ですから、共有の窯で作った人の所有を示したのがもともとこの窯の印ですから、つまり「of]なのです。



無論この作品を作って時代には英語など知らないで、印を付けたものですが、そう考えると壺の景色とともにこの印は面白い作品として味わえますね。



次は古信楽の壺です。

信楽古壷 桃山期
杉箱入
口径107*胴径230*底径133*高さ295



これほど景色豊かな信楽の壺も見たことがありません。



壺というとなんとはなく成金趣味的な感じがして、大きなことはいいことというイメージがあります。



この壺は大きさもちょうどよく、茶室にも使えます。



しかも完品です。



ごろんごろんと手で転がして景色を愉しめる作品です。



蒐集を進めるうちにこのような景色の良い古信楽の作品はもはや市場にはないということを知りました。



底は下駄底・・・。



さて、広いスペースのなくなった現代、壺が飾られる場所を探して市場に出始めるかもしれません。でも自宅のあちこちに壺を飾る御仁はいかがなものかな? センスを疑うことがたまにある




支那急須(松亭款書大銘漢詩泉石刻銘草花陰刻黒泥紫壺) 清朝末期

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中国で作られたと思われる?急須の2作品目の紹介です。

支那急須(松亭款書大銘漢詩泉石刻銘草花陰刻黒泥紫壺) 清朝末期?
合箱
最大幅170*奥行*高さ130



「支那急須」の急須としてひと作品目で述べたように。中国では偽物(レプリカ)製作が盛んで、本当の意味では作家本人から購入した紫砂壺以外はレプリカの可能性も疑わなくてはならないそうです。一般の観光で宜興を訪れて商店で購入される紫砂壺は、そのほとんどが本物ではないばかりか、宜興産でない可能性があるというから中国のレプリカは恐ろしい。



その背景には宜興紫砂壺は近年、中国の物価の上昇と共に異常な値上がりが続いていることがあります。これは紫砂材料産地である黄龍山の紫砂の鉱脈の枯渇が現実問題となってきたことと、宜興紫砂壺までもが投機の対象となっていることが主な原因です。人気作家や有名作家の作品は常に値上がりが続いているようです。



本作品は使い勝手がよさそうなので入手したものですが、レプリカとなると興ざめですね。これも入手して調べるから分かってくることです。



底にある銘「宜興紫砂」である「宜興款」は民国時代と中国建国後文革前までに良く使われていたようです。無冠のものや,晩清の輸出ものにこの「宜興紫砂」款が多くありましたが,文革時には個人名を入れず番号で表わすようになり,文革後も80年末くらいまでは単に「中国宜興」款だけになったことがあるそうです。この作品は晩清の輸出ものと推察されますがよくわかりません。

 

なお蓋にある銘「松亭」は人の名前でしょうが、詳細は不明です。宜興紫砂は,土の配合から装飾までほとんど作家個人が行うため作者銘があるのですが、中国作品は例に洩れずレプリカが多いので本作品も氏素性はよくわかりません。

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