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再考 臥乕之図 大橋翠石筆 明治43年頃

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大橋翆石の作品は贋作が多いので慎重を期しているのですが、判断を保留している作品に下記の作品がありました。以前に「猛虎之図」の作品にて検討して記事を掲載しましたが、本作品も同様な疑問点から真贋の判断を保留していた作品です。

臥乕之図 大橋翠石筆 明治43年頃
絹本着色軸装 軸先本象牙 自署鑑定共箱 
全体サイズ:横640*縦2140 画サイズ:横*縦



以前に「再考」で記述した作品は一緒に本作品と撮影されている下記の作品です。

猛虎図 大橋翠石筆 明治43年頃
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横450*縦1330 画サイズ:横320*縦1260

この両作品には同じ疑問点がありました。つあり落款に「翆石生」と「生」の一字をいれるのは基本的に若い頃の作品です。故に「石」に点のある落款との組み合わせが原則です。

下記の「作品中の落款と印章(左) 箱書題名(中央)箱書の落款と印章(右)」なのですが、作品中の落款に「生」の一字があるのに、落款の「石」に点がないという点が原則に反するのです。 

  

ところがこの原則に反する時期が調べていくとあることが解りました。その記事の内容は要約すると下記の記事です。

「原則から外れて「生」の落款を入れる時期があります。明治35年に結婚後、大垣新町に居を構え、明治36年にはアメリカで開催されたセントルイス万博で再び金牌を得て、長男、次男が相次いで生まれるなど、この時期の大橋翆石は、その長い人生で最も幸福な日々を送っていたと言える。しかし、この時期の大橋翆石に当時、死病と恐れられていた結核という病魔が襲った。積極的に展覧会に出品して大橋翆石だが、罹患以降はほとんど出品が知られていない。母と師の急逝、濃尾大震災と父の圧死に続いて、第3の障害となった。落款の「石」の字の上に付していた点を取るという行動は、あるいは名前の画数を変えることで、病の好転を願ってのことかと思われるが、この試みは奏功せず、大橋翆石の病はいよいよ重くなったようです。明治末年、大橋翆石は数年前に完成したばかりの大垣の邸を離れ、当時の結核治療の先進地域であった神戸の須磨にその身を養うこととなった。この結果として、神戸移住は大橋翆石の画業に大きな転機をもたらすこととなった。当時の神戸では美術を愛好する実業家が、それぞれにその見識と蒐集を競っていたため、大橋翆石は新たな知己と様々な機会を得て自らの画風を変化させるに至った。点の無い落款と「生」の字を同時持つ点で奇異な感じを与えるが、大橋翆石はこの頃に再び「生」の字を用いて、修行中の身であることを示し、初心に帰ろうとしていたのである。」という記事です。

  

つまり結核の症状が悪い時の作品は出品作が見らず、またこの時期は「点の無い落款と「生」の字を同時持つ」作品であるという点です。

 

この時期に描かれた両作品ではないかということです。

 

印章は真印に一致すると判断されます。



描き方もこの前後に一致します。



贋作と捨ておくはたやすいこと・・。




あとは天のみぞ知る・・・。





松鶴亀図 狩野了承筆 天保8年(1837年)

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義父が亡くなって百日を過ぎましたが、家内曰く、そこで百一日詣に大山の茶湯寺へ行くのだそうです。「関東には変わった風習があるなぁ」と東北出身の小生はブツブツ言いながら、ついでに紅葉見物ということで納得し先週末に出かけてきました。



百日で仏の仲間入りをした故人が、百一日めに家族が茶湯寺に詣ると知っていれば、門前の石段で待っているそうで、似た人に会ったり声を聞いたりすることがあるそうです。往きに、246から大山入口を曲がって二の鳥居を過ぎて集落の中の道を駐車場へ向かう途中、民家の密集地で、猿が!! 車の前方を横切りました!



見ると2頭いた模様。ちょうど車を横切った2頭めが、人家のフェンスを歩くのを、家族全員が目撃しました。亡くなった義父は申年で、「猿だから顔が赤いんだよ。」などとふざけてよく言っていたものでした。似た人…ていうか、あの猿だったかー!(笑) 百一日詣に大山の茶湯寺をなめたらあかん!!



境内にはよくできたお地蔵さんもありました。お参りの後は猪の肉を満喫しました。



食後の後は登山電車(ケーブルカー)へ、義母は途中の階段で挫折・・・・。



天気は良くなかったですが、一応紅葉は楽しめました。朝からのあいにくの雨で観光客は少なく行き返りの車中も含めてのんびりとできました。



さて、本日の作品の紹介です。

それほど著名ではない江戸期の狩野派の画家が描いた作品を本ブログにて取り上げていますが、本日は狩野了承賢信の作品の紹介です。本日の作品は二作品目の紹介です。

残念ながら表具や本紙に痛みがあります。



松鶴亀図 狩野了承筆 天保8年(1837年)
絹本水墨軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:縦1570*横470 画サイズ:縦840*横350



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狩野了承(かのうりょうしょう):1768~1846。享年78歳。山形県酒田市に生まれ、江戸に出て狩野派に所属した絵師。実力を認められ、狩野派の最上位である「奥絵師」4家に次ぐ15家の「表絵師」のうちの1つ、深川水場狩野家の当主となる。了承賢信という。



「将軍姫君の御用絵師として活躍」という一文がインターネット上に見受けられ、年代的には第11代~12代将軍ということになりますので、残念ながら篤姫ではないようです。推測ながら、第12代将軍家慶は第11代将軍父家斉の死後に庄内藩などに対する三方領知替えの中止を決断していますが、このことは彼の出身地酒田であることから、将軍に感謝したのではないかと思われます。



日本の題材をやわらかな線で描いたやまと絵を得意とし、他の流派との交流がきびしく禁じられた狩野派の「表絵師」にありながら、華やかでデザイン性のある琳派の影響を強く受けた絵画も制作しているとのことです。



山形県酒田市に生まれた了承は、江戸に上り、画を鍛冶橋狩野家の探信守道に学び、画才を認めた深川水場狩野家梅笑師信の養子となり、その没後家を継ぐ。



初め信川、名を賢信といい、享和二年1802年に了承と改名しています。了承は、画師の狩野探信守道が大和絵に巧みであったせいか、大和絵が多く残されており、装飾的な彼の好みは、琳派の画風を取り入れ狩野派の絵師という範疇からはかなりはみ出た画風のようです。

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「祝寿図」は松、鶴、亀などを用いて吉祥を表すことが多い。よく使われるのは松と鶴、鶴と亀の組み合わせである。例えば「松鶴延年図」「松齢鶴寿図」「亀鶴斉齢図」などは、長寿や気品の高さを表している作品です。

狩野了承賢信の作品はマイナーな画家のせいかよく分かりませんが、市場には作品は少ないように思います。ちなみに贋作はまだ見たことがありません。

狩野了承賢信の作品として当方には下記の作品があり、以前に紹介しています。

他の所蔵作品解説                      
三保の松原富嶽図   狩野了承筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 誂箱二重箱 2013年改装 
全体サイズ:縦1362*横695 画サイズ:縦468*横670



「三保の松原富嶽図」は落款に「狩野了承行年七十六歳筆 印(「賢」「信」の朱文白方印の累印)」(下記写真右)とあり、1844年(天保15年、弘化元年)の頃の作品です。本作品は「狩野了承行年六十九歳筆 印(「藤原」の朱文白丸印)」(下記写真左)とあり、1937年(天保8年)の頃の作と推察されます。

 

狩野了承賢信は実力がありながら、現代では忘れ去られた画家と言えるでしょう。「三保の松原富嶽図」や本作品も軸先が欠損しているなど保存状態の良くない状態で入手しています。これ以上状態が悪いと作品としての価値がなくなる一歩手前という状況で、「三保の松原富嶽図」は当方にて改装して状態を回復しています。



ただ忘れ去られた画家を取り上げてくれる学芸員の方もおられ、この「三保の松原富嶽図」の作品は「富士山絵画のメインストリーム-狩野伊川院栄信・晴川院養信と百花繚乱の江戸画壇」展(2018年9月22日~11月25日)と題されて 静岡世界遺産センターで催された展覧会に出品されたこともあります。



さて本日紹介した打ち捨てられようとしていた作品、改装すべきや否や・・・ 

縁起物の図柄ゆえ、義父のように悔いのない人生をおくる願いを込めて改装しようと考えています。



千匹鯉図 伝黒田稲皐筆 その5 天保5年頃 & 保戸野窯 「平野庫太郎氏作 辰砂葡萄文茶碗」

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陶磁器には保存箱がないままに入手する作品が数多くあります。そのままでは保存するには場所をとるし、破損する恐れもあります。少しずつ大切にしたい作品は保存箱を誂えています。今回は明末赤絵(「天下一の「青絵」)の作品や金城次郎の無銘の作品らに保存箱を誂えました。



新しい作品を購入する費用の半分程度は修復や保存することに費用を充てるべきというのが当方の考えです。野放図に室内や廊下に作品を放置するのは、蒐集する者としては失格です。作品は「自分のお金で購入し、よく調べて勉強し、売り買いをし、また時として蒐集を休みなさい。」というのが蒐集の鉄則ですが、もうひとつ「よりよい保存に注力し、飾る工夫が必要。」ということも基本でしょう。



あらかた保存箱の製作は終了してきましたが、作品亡くなった平野庫太郎氏の作品で箱のない作品にも保存箱を誂えました。工房を訪れた際に譲って頂いた作品がメインですが、急遽訪れるので箱のないままにで頂いていました。



辰砂の茶碗は裏千家のお茶会を祈念してで配る作品を依頼された際に作陶したもので、見本品を対で頂いてきたものです。



葡萄文の品格のある作品です。平野庫太郎氏の作品は品格があり、隙を見せない洒落た作品が魅力ですね。

この作品に辰砂の窯変で緑がかった茶碗の作品を所望していたのですが、出来上がる前に他界してしまいました。本人も解っていてこの作品を分けてくれたのではないかと推察しています。元気なうちに頂いた最後の作品で思い出深い作品です。



さて本日の作品の紹介です。本作品は無落款ですが、当方では現段階では黒田稲皐の作ではないかと推察しています。

*インターネットオークションには黒田稲皐の作品と称して多くの贋作が出品されていますので、それだけ多くの贋作が存在するということから判断には慎重を期する必要はあります。

群鯉図 伝黒田稲皐筆 その5
紙本水墨軸装 軸先骨 無落款 合箱
全体サイズ:縦1520*横970 画サイズ:縦560*横850



因幡画壇は土方稲嶺を祖として、後継の黒田稲皐をして鯉の作品を得意とする画家を数多く輩出しました。本作品は無落款により誰が描いた作品かは不明ですが、少なくても因幡画壇の絵師のよるもの、もしくはそれを模写した作品には相違ないでしょう。



変に著名な画家の落款が後で記されてない点がいいですね。とかくこのような無落款の出来の良い作品には著名な画家の落款や印章がある贋作に仕立てられてしますことがあります。



動きのある構図など鳥取博物館蔵である「千匹鯉図」に引けをとりません。



当方では筆致や構図から「黒田稲皐」が描いた作品と考察しています。



黒田稲皐は弓馬、刀槍、水練などの武芸にも長じ、落款には「弓馬余興」の印をしばしば用いたり、更に「因州臣」「因藩臣」と入った作もあり、これらは、自分はあくまで武士であり絵は余興にすぎないという稲皐の矜持を表しているのだそうです。



本作品は節句のための誰からか依頼されて描いた作品かもしれません。かなりの力作で大作ですが、上記の理由で落款を記さなかった可能性は否定できないと思います。



下記の作品は鳥取博物館蔵の「千匹鯉図」は1834年 (天保5年) に描かれた作品で、絵のサイズは縦53.0*横72.5センチと横長の作品で本作品に大きさがほぼ同等となり、驚くほど構図が近似しています。同時期に描かれた作品と推察されます。この作品は府中美術館 「リアル 最大の奇抜」(平成30年3月10日~5月6日)に出品されていましたので、ご存知の方も多いと思います。



本作品を黒田稲皐の作と推察する根拠は下記の点です。

1.上記の作品(鳥取博物館蔵の「千匹鯉図」)と構図が似ている点、

2.微妙な陰影のある鱗の描き方、
  稲皐の描く鯉の鱗はジグソーパズルをはめこんだような描き方をするのが特徴。
  稲皐の鱗は微妙な変化をしている。

「その4」より



「その5」(本作品)より



3.「千匹鯉」と題された作品に必ず描かれている一匹以上のユーモラスな正面を向いている親爺風の人面鯉? 
  これは上記の鳥取博物館蔵の「千匹鯉図」の上部にも描かれています。「その5」には2匹。「その4」には一匹描かれています。

本作品はリアルに描く鱗をもった鯉は通常は一匹しか描かない黒田稲皐の鯉の作品で、数多くの鯉の鱗を丁寧に描いています。



親爺風の人面鯉?が二匹描かれています。意図して描いたか否かは定かではありませんが、調べた3作品すべてにユニークな顔をもった鯉が描かれているの同時期に描かれた作品で、同じ試みをしていたのかもしれません。



まるラグビーのスクラムやモールにおいて下から顔を出している髭面親爺・・・・???

「その4」より  この親爺風の人面鯉は「千匹鯉」と題された多くの鯉を描いた作品にしか描かれていません?



むろん本作品は単なる因幡画壇風の鯉の絵で黒田稲皐の作風を真似たもの、もしくは模写したものというの妥当な評価なのでしょう。鯉の描き方も連続的に同じで、「その4」ほどの変化が見られない点はその指摘の根拠にもなります。

下記の写真は「その4」



落款などが無い故に廉価で購入できましたが、これほどの出来の良い作品を放置しておいてはもったいないですね。箱は素人の誂えですね。



さて表具はくたびれていますので、掛け軸として改装するのか、この際額装に変えるのか迷うところです。



全体では天地交換程度でよさそうですが、絹本自体の痛みを改装時点で直しているのですが、直しが雑ですので、改装してしまう際に額装というのもひとつの考えです。費用との関連で試行中です。

「保存と飾る工夫」と「蒐集欲」と「費用」は三者が対立する関係にあるようです。

源内焼 その129 緑釉草花文銚子 & 平野庫太郎作 竹節向付

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昨日改めて昨年に亡くなった平野庫太郎氏の作品を紹介しましたが、本日は下記の竹節の形をした向付の作品の紹介です。むろん以前に本ブログで紹介したことがあります。



家内は気に入っていて野点用のお稽古の茶碗として使っているようです。



ちょっとした器にもこだわりがあって、瀟洒な品格のある作風が平野庫太郎氏の作品の魅力ですね。裏には「庫」の印銘があります。平野庫太郎氏は寡作であり、今ではもはや入手できないであろう平野庫太郎氏の作品です。



本日紹介する作品は源内焼の作品です。基本的に当方で蒐集している源内焼でまだ入手していないのは「地図の大皿」という認識ですが、源内焼は作品が思いのほか多様で本日紹介する作品のように銚子のような器形をした作品もあります。



上記の写真は、江戸期の織部焼の滑車の上に置いてみました。

源内焼 その129  緑釉草花文銚子
注ぎ口裏面補修跡 合箱入
幅230*奥行120*高さ140

本作品のような銚子の器形は図録にもない作品ですので、おそらく作品数は少なく、注文で作られた可能性があります。



取っ手部分の金属は特注で作られたのでしょう。口先部分は破損して補った可能性もありますね。



祝い事に使われた器でしょうから、もう少し色気のある三彩を使用したような釉薬で色彩豊富な作品があるかもしれません。



源内焼はとくに四国地方で他の窯で似たような三彩や陽刻の作品が作られましたので、本作品を源内焼に断定するのに異論のある方がおられるかもしれませんが、文様、胎土、釉薬から当方では源内焼と判断しています。



陶磁器で共蓋の作品は作ってみると解りますが、意外に厄介なものです。



蓋と受け口が釉薬で張り付いたり、蓋が歪になったりとすることがありますので、おそらく特注以外は生産性が上がらないので、源内焼のような材質や釉薬ではかなり作りにくいこともあり、共蓋の作品数はかなり少ないと推察されます。



補修跡は共色で処理されているようです。



今までの作品の説明で申し述べたように、源内焼の作品は黒い汚れが非常につきやすいものです。胎土が軟質、吸水性が多いので、このようになるのでしょうが汚れを落とすときれいになります。



共色直しが雑なところは削りとって金繕いしておきました。




七福神之図 三幅対 狩野素川筆 & 平野庫太郎作 粉引釉片口 

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今週で3作品目となる平野庫太郎氏作の片口です。



煎茶道具の揃いのひとつで作られた作品です。普段使いとして箱を誂えるほどではないと思われるでしょうが、もはや入手できない作品の保存には箱は必須です。



これもお茶碗として使えそうなくらい品格がありますね。



本日は狩野派のマイナーな画家の作品の紹介です。

江戸期には時が経るにつれて狩野派は粉本主義的な定型的な作風が多くなり、狩野派の評価は低いものになりましたが、近代では評価の低い江戸中期以降の狩野派の画家において、幾人かの狩野派の画家が見直されています。

その一人に本ブログで取りあげている狩野素川が挙げられると思いますが、意外に当時から評価が高く、狩野素川は狩野派にありながら浮世絵美人画にも学び、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評されている画家でした。

本ブログでも幾つかの作品が紹介されていますが、本日は三幅対の作品の紹介です。

七福神之図 三幅対 狩野素川筆 
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
各々全体サイズ:横335*縦1660 画サイズ:横840*横320

 

どなたかに所望されて描いた「めでた図」なのでしょう。「中央蓬僲山図 左右七福神図」と箱書きに題されています。



狩野素川に関する記事は少なく、経歴の概略は下記のとおりです。

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狩野章信:(かのう おさのぶ)明和2年(1765年)~文政9年10月2日(1826年11月1日)。

江戸時代中期から後期に活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師を勤める表絵師浅草猿屋町代地狩野家5代目。幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改めています。

号は大玄齋、素川(そせん)ですが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなった。狩野派にありながら浮世絵美人画にも学び、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評されています。

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少し詳しい記述は下記のとおりです。

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補足

狩野賢信(かたのぶ)の子。父の跡をうけて浅草猿屋町代地狩野家を嗣いでいます。一説では宇多川徳元の子とされます。木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川に匹敵する実力者といわれました。

文政9年10月2日死去。62歳。名は彰信。通称は仙次郎,外記。別号に大玄斎。

浅草猿屋町代地狩野家は、狩野永徳の弟子・祖酉秀信を祖とする表絵師の家系です。4代目の寿石賢信から継いでいますが、実父は宇多川徳元だとされています。1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好んだそうです。

吉原の老妓の門弟も多かったという。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信のライバルと言われました。居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もあります。

章信はいつも手ぬぐいを頭に被り脱がなかったという逸話が残りますが、これは田沼候に招かれる際の出来事が元になっていると言われています。自分は寒がりなので頭巾を外せないが、それでも良ければ参上すると答のが認められ、諸人がこれを真似たとい言われています。文政9年(1826年)死去、62歳。

弟子に、6代目の寿石圭信、川越城の杉戸絵を手掛けた舩津蘭山など。また、増上寺の「五百羅漢図」で知られる狩野一信も章信に学んだとされます。

*なお狩野派にはもうひとり「素川」と号する画家がいます。

狩野信政:(かのう-のぶまさ) 1607~1658 江戸時代前期の画家。慶長12年生まれ。狩野祖酉(そゆう)の長男。狩野孝信の娘婿,のち探幽の娘婿となる。東福門院の御用絵師をつとめ,代表作に聖衆来迎寺客殿の障壁画がある。明暦4年4月15日死去。52歳。通称は外記。号は素川。

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狩野素川は50代で章信と改めていますが、それまでは号は大玄齋、素川(そせん)と号していました。本作品には「大玄斎」の朱文八角印が押印されています。当方の他の所蔵作品と落款と印章は一致しています。

  

章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったということから、本作品は50歳前の作品であると推察されます。



箱書に「中央蓬僲山図 左右七福神図 狩野素川 三友堂秘幅」、「慶應三(1867年)丁卯年九月吉日求之 春日天治」とありますが、「三友堂」、「春日天?冶」については不明ですが、幕末に入手した作品と推察されます。

 

狩野派の三幅対のこのような作品は珍しくなく、数多くの作品を目にしますが、多くは狩野派を学んだ門弟が模写した作品が多いようです。

著名な狩野探幽、常信などの大家の作品はすべてが模写された作品と考えたほうがよさそうですね。印章などは師の本物の印章を押印した門弟もいたようで。狩野派の真贋の判断は手に負えない作品もあるようです。



本作品のように著名でない狩野派の作品のほうが真作を入手でき、少なくても真作として愉しめるように思います。



本作品をそれほどいい作品とは思えないという方もおられるでしょうが、狩野素川は「めでたい掛けの絵」を依頼され、自分も楽しんで描いたのかもしれません。ちいさめの作品ですので花街のお店に依頼されたものかもしれませんね。

忘れ去られた狩野素川・・・・、今一度見直してもよい狩野派の絵師かもしれません。



末端の流れの中で忘れら去られた狩野派の画家の作品?とはいえ、浅草猿屋町代地狩野家の当主ですから当時はそれなりのいい表具をしています。

山帰来(土茯苓)図 藤井達吉筆

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今年の落花生は義父が亡くなったことで収穫が遅れ、不作となっていますが、息子も手伝ってようやく殻剥きの段階です。



さて本日は蒐集しいてる藤井達吉の作品の中でお気に入りの作品のひとつの紹介です。

藤井達吉の作品はインターネットオークションにて廉価にて入手できますし、贋作も少ないのである程度真偽について警戒しなくてもいい画家のひとりです。



山帰来(土茯苓)図 藤井達吉筆
和紙淡彩軸装 軸先陶器 共箱
全体サイズ:縦1520*横407 画サイズ:縦683*横240

 

描いているのは「山帰来(土茯苓)」で、それに関する記述は下記のとおりです。

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山帰来:ユリ科の蔓性(つるせい)の落葉低木。全体にサルトリイバラに似るが、とげはない。夏、白い小花を開く。中国・インドシナ・インドに分布。地下の根茎を漢方で利尿・解熱・解毒薬にする。



ドブクリョウ(土茯苓):サルトリイバラ科の植物の一種。学名Smilax glabra[1] (Smilax glabraの和名をサンキライとしドブクリョウを別名とすることもある。塊茎は山帰来(サンキライ)という生薬で日本薬局方に収録されている。吹出物、肌あれなどに効果がある(但し、同属植物のサルトリイバラ(S. china)を山帰来とすることもある)。



古くは梅毒の治療薬(梅毒の治療に水銀が用いられていたが、水銀中毒を防ぐために合わせて服用された)として知られ、梅毒が大きな問題となっていた江戸時代の日本では、国産が不可能なこともあり毎年のように大量に輸入され、安永6年(1777年)には56万斤もの輸入があった。

身近なところでは便秘薬で有名な毒掃丸シリーズ(ドクソウガンE、複方毒掃丸、新ドクソウガンG)に便秘に伴う吹出物、肌あれなどの改善目的で配合されている。

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梅毒? 毒掃丸?? これは新たな知識となりますね

  

作品中には印章のみ、これは藤井達吉の作品ではよくあることです。ただ共箱が希少でさらに箱書きの落款が珍しいです。「達吉?」、「達画??」のどちらかでしょうか。箱に押印された印章も珍しいものです。



本作品は決して贋作ということはなく、れっきとした真作です。表具や軸先は藤井達吉ならではのもの。作品をまくりの状態で差し上げることの多かった藤井達吉ですので、藤井達吉の共箱に収められた作品は非常に貴重ですし、自らのデザインでの表具はさらに愉しめる作品となっています。



この表具は工芸デザイナーならではのもの。手に取ってみないとこの良さは伝えられないものかもしれません。藤井達吉は表具に凝った人なので、後世にて表具したものもそれなりに門下生などが気を使った表具が多いと推察しています。

*最近の「なんでも鑑定団」に出品された藤井達吉の共箱の作品は50万円という評価額でした。ただ実際の売買は一桁違います。通常は数万円の取引価格ですので、勘違いしないほうがいいでしょう。

雨粛々 和田三造筆 その3

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本日は美空ひばりの「雨燦燦」ではなく「雨粛々」という題の作品の紹介です。和田三造については本ブログにて水墨画を2作品を紹介していますが、本日は和田三造が得意とする色彩画の作品の紹介です。



雨粛々 和田三造筆 その3
紙本水彩軸装 軸先象牙 昭和32年春 共箱
全体サイズ:横725*縦1460 画サイズ:横520*縦470



昭和32年には高島屋ギャラリーにて日本画展を開いていますが、本作品が出品作か否かは不明です。

  

「粛粛」は「しゅく しゅく」と読みますが、意味は「しずかなさま。ひっそりとしているさま。」という意味です。

和田三造は1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞し、なお「地獄門」は、同年の第7回カンヌ国際映画祭においても、その色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(グランプリ)を受賞しています。

晩年は油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年(昭和33年)、文化功労者に選ばれています。本作品は昭和32年というこの制作意欲の旺盛な頃の水彩画の佳作と言えるのではないでしょうか。



和田三造というと油彩画「南風」(東京国立近代美術館蔵)が著名な作品で、2018年に新たに国の重要文化財に指定されることになったことは記憶に新しいですね。

「南風」は、1907(明治40)年の第1回文部省美術展覧会で洋画部門の最高賞を受賞した明治後期を代表する作品のひとつです。海の男たちの群像を描いたこの作品は、 とりわけ中央に立つ人物のたくましい筋肉が印象的です。



和田三造の作品はこの「南風」の印象が強く、それでは次の作品はと問われると次の作品が思い浮かびません。ただ三造の作品調査に赴くと、「あの日本画の和田先生ですか」と言われることが多いそうです。日本画の作品のイメージが一般的に強い側面があります。

また文化功労者になった理由は油絵の大家ということではなく、長年の色彩研究への功績を讃えるものであったそうですし、東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授となったのは油画ではなく図案科であったようです。

幻の東京オリンピックのポスターを作成し、パリ万国博覧会に出品する日本の工芸品については制作指導やコーディネートにあたっています。

「南風」は和田三造という「画家」の代名詞であるのは確かかもしれませんが、和田三造という「人物」の代名詞とはいえず、彼を短い言葉で語ることには無理があるようです。和田三造の多彩な業績と才能の全てに眼を配ることは到底できないとしても、その多様な活動の中にこれまで見落していないか再検証する必要はありそうです。

先日BS朝日「百年名家~築100年の家を訪ねる旅~」にて2019年10月6日(日)で放映された下記の番組があました。

伝説的棟梁の造った名旅館~横山大観ゆかりの熱海「大観荘」~



横山大観, 和田三造, 谷崎潤一郎, 品川 清臣による柏書房企画の鼎談(3人による会談)餐 昭和23年(1983年)に「熱海大観荘」にて行われた写真が紹介されていました。



和田三造が当時を代表する画家の重鎮であったことがうかがえます。

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和田三造(わだ さんぞう):1883年(明治16年)3月3日~1967年(昭和42年)8月22日)
明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。玄洋社社員。



旧朽木藩の御典医であり、その後生野銀山鉱業所の勤務医や校医を勤めた和田文碩と秀の四男として、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)に生まれる。兄・宗英が大牟田市の鉱山業に従事したため、1896年(明治29年)、13歳の時に一家をあげて福岡市に転居する。大名尋常小学校を経て、翌1897年(明治30年)、福岡県立尋常中学修猷館に進学するが、1899年(明治32年)、画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京して、長尾建吉の斡旋で黒田清輝邸の住み込み書生となり、白馬会洋画研究所に入所して黒田清輝に師事する。

1901年(明治34年)、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科選科に入学。青木繁、熊谷守一、児島虎次郎、山下新太郎らと同期であった。1902年(明治35年)、八丈島への渡航途上、暴風雨に会い漂流ののち伊豆大島へ漂着しており、これが後の『南風』制作の契機となった。

1904年(明治37年)、東京美術学校を卒業し、1905年(明治38年)、白馬会10周年記念展で『牧場の晩帰』、『伊豆大島風景』を出品して、前者で白馬会賞を受賞し注目される。1907年(明治40年)、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞[3]。『南風』は、明治浪漫派の風潮下で生まれた記念碑的な作品とされる。この絵の中で小船の上に立つ逞しい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた玄洋社が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。更に、翌1908年(明治41年)の第2回文展においても、『煒燻』で2等賞(最高賞)を連続受賞し、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。



1909年(明治42年)、文部省美術留学生として渡欧。フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。







その帰途、1914年(大正3年)、インドやビルマ(現・ミャンマー)で東洋美術を研究し、1915年(大正4年)に帰国。



1917年(大正6年)、文展審査員となる。以後、文展や、文展が改称した帝国美術院展覧会(帝展)に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れ、1920年(大正9年)、染色芸術研究所、1925年(大正14年)、日本染色工芸協会をそれぞれ設立している。 この頃、1923年(大正12年)からは、本格的に日本画の制作に取り組んでいる。翌1924年(大正13年)、日本と朝鮮の双方の羽衣伝説を題材とした、朝鮮総督府庁舎の大壁画『羽衣』を制作している。



1927年(昭和2年)、帝国美術院(現・日本芸術院)会員となる。同年、わが国における色彩の標準化の必要性に着目し、日本標準色協会を創立。ここでの和田の色彩研究の成果は、『色名総鑑』(1931年)などに表れている。

その後、1938年(昭和13年)には西宮にあった品川清臣による京都版画院という版元で『昭和職業絵尽』シリーズの第1作として「洋楽師」と「巡礼」という木版画を発表。この『昭和職業絵尽』は第1集、第2集各24枚(合計48枚)を版行しており、以降、戦後に入って1956年(昭和31年)、続編として『続昭和職業絵尽』シリーズ24枚を発表した。なお、これらの作品は新版画に分類されている。

1932年(昭和7年)には東京美術学校図案科教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務めている。1936年(昭和11年)に開催が決まった1940年東京オリンピック(開催中止)のポスターを描いた。1945年(昭和20年)、日本標準色協会を日本色彩研究所に改組し、理事長に就任。1951年(昭和26年)には、ここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。

1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞する。なお、『地獄門』は、同年の第7回カンヌ国際映画祭においても、その色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(グランプリ)を受賞している。

晩年は、油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年(昭和33年)、文化功労者に選ばれている。 1967年(昭和42年)8月22日、誤嚥性肺炎のため東京逓信病院で死去。享年84。

娘は1939年6月23日に有馬大五郎と結婚した。

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茶室の床に本作品を掛けてみました。茶室にも違和感なく見栄えがする作品です。



戦後の色彩に関する活動が注目され、油彩画というより色彩画、日本画というイメージが和田三造に対して強くなったものと推察されます。本作品もまたその色彩の鮮やかさが注目される作品であろうと推察されます。

故郷の川 福田豊四郎筆 その102 昭和24年頃

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足早に日が経ていき、早くも師走です。ブログの記事を週末にまとめて資料を揃えて投稿するのもなかなかままならない気ぜわしい日々です。なかなか天気も晴天が続かない状況ですが、昨日は雨が上がって自宅から虹が見えたようです。



家内からの虹の写真のメールでしたが、息子のシャツもレインボー色だったらしい。



さて蒐集も最終段階?となると、どうしても手頃で気心がしれた作者や画家などの作品群に蒐集が集中しますね。それで本日は本ブログでおなじみの福田豊四郎の昭和20年頃に描かれたと思われる作品の紹介です。

故郷の川 福田豊四郎筆
紙本着色額装 F8号 タトウ+黄袋
全体サイズ:横700*縦625 画サイズ:横445*縦370



同図の作品では以前に当方の所蔵作品で下記の色紙の作品を紹介しています。

故郷の風景 福田豊四郎筆
紙本着色 色紙額装 タトウ入
画サイズ:縦270*横240 



左が本作品の落款と印章で中央が上記の色紙の作品「故郷の風景」の落款と印章、右がは本作品と同時期に描かれたと思われる「田園交響音楽」の落款と印章です。

  

いずれも昭和20年頃に描いた故郷の風景だろうと思われます。

福田豊四郎はわが故郷の隣町で生まれ育ち、当方には本家や父のところに数多く来訪していました。父や叔父は福田豊四郎と交友を深め、よく絵を描いたもらっていました。とくに父は長らく福田豊四郎氏から絵を習っており、祖父母はともに福田豊四郎氏が若い頃よりの支援者でもあったようです。

なお実家から近い街の中央には描かていると思われる米代川の支流である長木川が流れています。



川岸は春には桜が満開となり、夏には大文字焼が行われています。



今ではたくさんの白鳥が飛来しています。



昭和20年頃から白鳥が飛来していたかどうかは定かでありませんが、今では護岸工事が施され、当時のような川岸ではなくなっています。



ただ長木川なのか、福田豊四郎の小坂町の風景なのか、疎開先の風景なのかは実際には分かりません。なお小坂町と長木川は非常に近いです。



ただ昭和20年頃には何度か大館市を訪れていたので、長木川の可能性はあると思われます。



昭和20年頃にはたしかに長木川の風景は絵に描かれているような風景であったろうと思います。



橋もあまり多くなく、橋のほとんどが木製で痛んでおり、橋の真ん中には穴まで開いていました。



鑑賞する側にも過去の原体験の風景があるものかもしれません。



当時描いた作品が状態の良いまま遺っているのは嬉しいものです。本作品は8号と少し小さめの作品ですが、写真ではうまく伝わりませんが、福田豊四郎の佳作といえる作品でしょう。インターネットオークションで5万円強での落札ですが、骨董店で購入したら今少し高めの値段かと推察しています。

ところで作品に描かれているのは原体験が先んじた思い込みで「白鳥だったら」という記事です。描いているのは首が短いので鴨かも・・・???

最近の本ブログのアクセス数は700名程度ですが、当方としてはちょっと多めかなと思っています。ブログは資料整理を目的としていますが、一般に公開される以上、安易に記載できない内容を伴うこともあり、ひと目に触れるのはなるべく少ないほうがいいと思っています。ま~、もうすぐ作品の整理は完了するので・・・・。

郷里も本格的な冬が近づきつつあり、天気予報では雪マークがちらほら・・。虹どころではなさそうですが、帰郷の準備が始まり出しました。なにかと気ぜわしい年末の始まりですね。

金剛山萬物相 平福百穂筆 大正14年頃

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「まくり(未表装)」のままの状態の作品を入手することが多いのですが、保存したい作品は表具したり、額装にしたりしています。



最近額装にした作品は蓑虫山人の作品です。



蓑虫山人の作品は掛け軸に仕立てられている作品が多いのですが、それでは当方では飾るところが限られてしましますので、ときおり額装にすることもあります。



本日は平福百穂の小点の作品の紹介です。平福百穂は現在の韓国から北朝鮮、そして当時の満州で旅したことがあるようで、正確には解りませんが金剛山を訪れた可能性があります。金剛山に韓国側が建てた観光施設の撤去を、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が指示した問題で最近ニュースのなっていますね。



当方にはその金剛山を題材にした作品が2作品ほどありますが、その作品を紹介します。

金剛山萬物相 平福百穂筆 大正14年頃
紙本水墨軸装 軸先象牙 平福一郎鑑定箱+タトウ 
全体サイズ:縦150*横420 画サイズ:縦175*横240



小点(小さな作品)ですが、表具は立派ですし、平福一郎による鑑定もしっかりしています。



北朝鮮の金剛山:本作品の画題は日本の金剛山ではなく、は、昭和初期の朝鮮半島を代表する景勝地を描いた作品です。平福百穂は1925(大正14)年5月、朝鮮美術展審査のため京城に赴き、更に満州に行っています。

  

上記の印章は平福百穂の小さな作品に押印されているもののひとつです。下記の写真は文献に掲載の作品に押印された印章です。

 

郷里の画家で要注意なのは寺崎廣業と平福百穂ですが、この作品は真作に相違ないと判断しています。



金剛山を描いた作品には他に当方には下記の作品があります。平福百穂の最晩年の佳作です。我が家に伝来してきた作品です。


 
金剛集仙峯 羅紋古紙 平福百穂筆 昭和7年(1932年)夏
古紙水墨絹装軸共箱 軸先竹節二重箱本象牙
全体サイズ:横653*縦1335 画サイズ:横523*横395



平福百穂の最晩年の傑作のひとつです。



この筆致が近代南画の代表作とされる由縁でしょう。



今では訪れることもままならない北朝鮮の金剛山ですね。



表具も上等な布地が使用されています。箱蓋のシールは当家にて所蔵されていた作品のシールとなり、祖父の代にて整理されたものらしいです。

 

指物もいいですね。蓋回りには黒柿が使用されています。

 

落款や印章は上記のとおりです。

  

最初の作品はスケッチ帖、二つめの作品は本格的に描いた金剛山の作品です。

叭々鳥二梅雪竹図  双幅 天龍道人筆 60歳頃

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年末の全国行脚も最終となってきました。今週は仙台、名古屋、そして横浜・・・。慌ただしい日々ですが、こういう時ほど落ち着いて対処する余裕が大事なようです。

本日は天龍道人の貴重な双幅の作品の紹介です。

叭々鳥二梅雪竹図 双幅 天龍道人筆 60歳頃
紙本水墨軸装 軸先塗木製 誂箱
全体サイズ:縦1890*横300 画サイズ:縦1340*横180



天龍道人の数少ない初期の頃の作と思われる非常に珍しい作品。



天龍道人の絵画学習については享和20年(1735)頃、18歳頃に「長崎で沈南蘋門人熊斐(神代繍江)に学ぶ」とされており、これは「信州仙人床」という史料を典拠とした推測のようです。

天龍道人が描き残した作品のうち、「鯉魚図」には熊斐に同じ題材の作品が知られており、また沈南蘋流に類似の鷹画が遺されています。さらに、天龍道人がよく描いた鷹以外の鳥でも「栗穂に叭々鳥図」(佐賀県立博物館蔵)はくちばしに付け根の毛が逆立った中国に生息する鳥、叭々鳥を描いた作品で、昆虫をくわえて悦に入っている姿ですが、熊斐の門人で南蘋派の画家である森蘭斎という画家の「蘭斎画譜」に一致する構図がみられます。

天龍道人の画風は、沈南蘋から熊斐にと推移し、さらに全国に広まる沈南蘋流の画家の系列に属していることが確認できます。ただし本当に熊斐に天龍道人が直接学んだのか、天龍道人の詳しい絵画学習については今後も検討が必要です。


 

なお絵画制作がはじまる54歳頃まで、20数年のブランクがあり、このブランクについて詳細は不明です。

天龍道人の絵画制作の開始時期は明和8年(1771)54歳頃で、かなり年をとってから、絵画制作を始めたことになります。最も早い年記作品が明和8年の「菊図」で、画面に「辛卯中夏初二/虚庵道人写」と年記と署名があります。もう1点、同じ年の作品として、静岡県立美術館所蔵の「葡萄に栗鼠りす図」が知られています。「辛卯初秋虚庵源義教」と、おなじ「辛卯」の年記があり、初秋は7月で、「虚庵」の署名につづけて「源義教」と署名されています。

 

本作品は右幅に「源義教□?王瑾寫 押印」と落款があり、右幅には「王瑾寫意」と落款があり、押印はともに「王」の白文朱印と「瑾」の朱文白印の累印が押印されています。遅くても60歳頃の作かと推察されますが。さらに若い頃の作かもしれません。

「源義教」の署名について:

天龍道人墓碑銘によると王を姓としが経緯が「昔、源平の」というくだりに記されています。源平合戦は壇ノ浦の戦いで平氏が敗れ、その時の安徳天皇が身を海中に投じて崩御されるという歴史ですが、異なることが墓碑に記されています。

源義経が策略を巡らせて、妾の子を安徳天皇の身代わりとして送り込み、実際に死んだのは義経の妾の子であったという説明です。生き延びた安徳天皇は、「肥後の間」と肥前、肥後、筑前、筑後のどこかは不明確ですが、都落ちして、それを実際に手配をしたのが義経の妾で、この妾は義経の子供を身ごもっていて、やがて男の子が生まれ、安徳天皇から千一丸という名前を賜ります。

千人に一人という豪傑という意味を込めた命名ということです。ある時、旗にその名前を書いたとき、「千一」は両文字を間隔なく縦書きすると「王」と間違えられ、やがて「王」と名乗るようになったということです。「王」を姓とする家は代々続きましたが、ついに男子が生まれず女性だけになり、この女性を妾にしたのが天龍道人の父親の「忠隆」で、生まれた子供が天龍道人であると記されています。

源義教の署名について、「天龍道人墓碑銘」には具体的には記されていませんが、源義経の妾の子を祖先とすることにちなんだものと考えられます。このように鎌足や義経などの人物と天龍道人との関係は、真偽はともかくとして、先祖の優秀さを表明することで、天龍道人が自分の意識を高めようとしたと推測されます。

 

着色された「長崎で沈南蘋門人熊斐(神代繍江)に学ぶ」とうかがわせる作品は、本ブログにて何点か紹介しましたが、墨絵一色で長崎派の影響をうかがわせる作品、もしくは違う龍はの影響を見せている作品は稀有です。



さて本ブログにて紹介されてきた天龍道人ですが、本ブログの読者にとって興味深い画家のひとりとなっていただけると幸いですね。

贋作考 水墨梅図 伝田能村竹田筆 その4

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本日は著名な田能村竹田の作品へのチャレンジです。ま~、結論から言うと今回のチャレンジもどうも無謀であったらしいのですが・・。



田能村竹田の作品は贋作が多く、さらに田能村竹田の後継者とみなされた高橋草坪などは若死にしており、彼の作品は田能村竹田を凌ぐと評されています。当然、高橋草坪の作品にも贋作が多く「高橋草坪の真作と幽霊には出会ったことがない。」と言われるくらい真作が少ないとされています。また帆足杏雨も田能村竹田の作風を引き継いだ画家ですが、帆足杏雨の作品は結構多く市場に出回っており、帆足杏雨の作品に田能村竹田の落款と印章を記されると全く真贋の区別がつかなくなるとも言われています。

そんな魑魅魍魎たる真贋の森に迷い込むのは好き好んでいくべきではないのですが、「虎穴に入らねば虎児を得ず」というのが蒐集の世界の鉄則です。またしても当方のチャレンジです。

贋作考 水墨梅図 伝田能村竹田筆 その4
紙本水墨軸装 軸先象牙 誂箱 
全体サイズ:横750*縦2030 画サイズ:横*縦



良く描けていますが、全体にぼやけた感じが否めません。 



ただそれなりに技量の備わった作行です。



賛には「満枝□玉□□□ □客□行看□家 山裏別無高
    尚事 一生唯不□梅花 題自畫梅渓 
閑□□□□子□田□兄文政   竹田生 押印」

為書のある作品かもしれません。

 

印章にはあまり固執しませんが、下記のような資料は常に手元に必要です。骨董おいてはこのよう資料は登山における地図のようなものです。

*印章は良く似せていますが・・・ 違いますね。

 

日本画の真贋を判断するには最低は代表的な印章の資料は必要で、さらに印章によって描いた時期がある程度推測できますね。手元に資料がなければ少しずつ自分で資料を集めて整理するくらいの姿勢が大切ですね。



出来から本作品は真作に肉薄していますが、他の観点から真作とは断定はできません。。



真偽については当方はまだ浅はかな経験と知識ゆえは読書の皆さんにお任せする?(当方は本作品はよくできている贋作と断定)として、本日の「田能村竹田 その4」でまた少し田能村竹田の知見が増えたように思います。



田能村竹田の贋作といえども出来の良いものはこれまた数が少ないですから、このような作品の入手でもないと、また真作に接する機会の多い学芸員でもないと、真偽に迫った調査はなかなかできないものです。



もちろん田能村竹田にどっぷりとはまった愛好家が別として・・・。まだまだチャレンジが続くか、ここで頓挫するか悩むところですが、贋作も出来の良いものは相応に愉しめるという余裕のある鑑識眼が付くようになりたいものです。骨董の世界では「これは贋作だから」と毛嫌いする潔癖性の強い方は意外に蒐集の眼力、蒐集作品が向上しないのかもしれません。負け惜しみかな




寿老人と亀 倉田松濤筆

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落花生の収穫が終わり、さて亡くなった義父が植えていた里芋の収穫の開始です。



息子もやりたかったようですが、幼稚園での卒園での劇のリハーサルで忙しいようです。



我が家の食卓は今までは蕪と大根のオンパレード、これからは里芋のオンパレード・・・



豊作であることを祈りつつ、豊作でないことを願いつつ・・・  こりゃ喰いきれんぞ!



さて本日は休日ということで気楽に愉しめる作品の紹介です。倉田松濤のめでた掛けの作品はなにかしらの愛嬌がありますね。



寿老人と亀 倉田松濤筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:縦2053*横717 画サイズ:縦1192*横591

 

倉田松濤の作品は本ブログにて数多く紹介してきましたが、鍾馗様の作品などめでたい図柄には単にめでたい時に掛ける作品としてだけでない「なにかがある画家」です。



寿老人の描き方についても狩野派の作品のような味気無さとはちょっと違いますね。



亀の目がかわいい・・・。



倉田松濤の作品を入手するに際しても、よく作品を吟味したほうがいいでしょう。贋作もありますが、面白味のある作品を選んだらいいと思います。



落款と印章は下記のとおりです。



当方にとっては倉田松濤、天龍道人、蓑虫山人、藤井達吉は同じライン上にある蒐集対象となっています。これぞ芋づる式蒐集方・・・・





秋花白鷺図 野口幽谷筆 その3 

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渡邊崋山、椿椿山と続く画家に野口幽谷という画家が存在します。本日はその野口幽谷の3作品目の紹介となります。



秋花白鷺図 野口幽谷筆 その3 
絹本水墨着色軸装 軸先木製 松林桂月鑑定箱 
全体サイズ:横645*縦1920 画サイズ:横505*縦1300

 

落款には「戌子□冬日寫於和禾堂中 幽谷生 押印」とあり、これから明治21年(1888年)、63歳の時の作と推察されます。箱書きには門下の松林桂月による鑑定があります。



本作品中に「幽谷生」という落款が記されていますが、大家になった後も落款や印章に「幽谷生写」と修学中を意味する「生」の字を使い続けています。

画商に「生」の字があると絵の値段が落ちるからやめるように言われると、「自分は未だ崋山先生や椿山先生を超える絵を描けていない、両先生以上の絵を描けるまで「生」の字をつけるのをやめる気はない。」と答えたという逸話が伝えられています。

 

野口幽谷の略歴は下記のとおりです。

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野口幽谷:文政8年(1825年)~明治31年(1898年)6月26日。享年74歳。幕末から明治期の南画家。名は續、通称を巳之助。幽谷、画室を和楽堂と号した。江戸神田町の生まれ。



上記作品:「野口幽谷之像画稿」 椿二山筆 田原市博物館蔵

大工の棟梁源四郎の次男として江戸に生まれる。しかし、幼年時に患った天然痘からくる虚弱体質のため大工を継がなかった。15歳で父を失ったのがきっかけで、宮大工の鉄砲弥八に図面製作を学ぶ。弥八から技能を磨くためにまず絵画を学ぶようにいわれ、知人の紹介で椿椿山の画塾琢華堂に入門。また、漢学を大黒梅陰に学ぶ。生活は苦しく母の生活を支えるため日中は製図を描いて働き、夜になって書と画を学んだ。



あるとき師椿山から「画は何のために描くのか?」と問われ、「気ままに自分の心を画き、気ままに生活したい」と答えたところ、「幽谷に咲く恵蘭のような心」と評されて幽谷の画号を贈られたという。



5年後の1854年(嘉永7年)、師椿山が没すると、寺子屋を開き子供たちを教えながら渡辺崋山に私淑して画を独学。明・清の画家の画法を修めて花鳥画・山水画に秀で、特に菊の絵が多い。渡辺崋山、椿椿山と続く、謹直な画風で花鳥図、人物図などを得意とした。

1872年(明治5年)の欧州の博覧会をはじめ内国勧業博覧会・絵画共進会などに出品し、画才を認められる。宮中で障壁画制作を任され、各会の審査委員を歴任。帝室技芸員の制度ができると1893年(明治26年)9月25日には橋本雅邦らと共に帝室技芸員に任命される。



「菊花激潭」 野口幽谷筆 明治19年 東京国立博物館蔵

1855年(安政2年)の安政の大地震で自分の家が半壊したにもかかわらず、師椿山の家の被害がひどく位牌が水に浸かってしまったことを聞くに及んで、自分の家の修復を後回しにして、師の家の修復を大工出身の幽谷自ら行なったというエピソードが伝わっている。また明治を迎えても生涯、丁髷で通したことでも知られる。

大家になった後も落款や印章に「幽谷生写」と修学中を意味する「生」の字を使い続け、画商に「生」の字があると絵の値段が落ちるからやめるように言われると、「自分は未だ崋山先生や椿山先生を超える絵を描けていない。両先生以上の絵を描けるまで「生」の字をつけるのをやめる気はない」と答えたという。

安政の初年頃、横山氏の娘と結婚し嗣子をもうけた。この息子は長じて松山と号して優れた作品を残しているがなぜか記録や資料が伝わっていない。

門弟:松林桂月・椿二山・益頭峻南・的馬白峰などがいる。

主な作品
1872年:ウイーン万博「雌雄軍鶏」、
77年:第1回内国勧業博覧会展「竹石図」(褒状)、
82年:内国絵画共進会「菊花図」、
88年:日本美術協会展「矮竹子母鶴図」(銀牌)など
印名:「幽谷畫印」(「幽谷之印」) 「輪樂」(「和楽」) 「臣読之印」 「東京之人」 「読之印」 「読印幽谷」 「米墨水神仙」 など

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本作品で野口幽谷の作品は本ブログで紹介した3作品目と記述しましたが、本ブログで投稿された野口幽谷の他の2作品は下記の作品です。

狼聲野月図 野口幽谷筆 その1 
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 益頭峻南所蔵 合箱入 
全体サイズ:横820*縦1930 画サイズ:横630*縦1370

印章のみの作品。印章は「續印」の白文朱方印と「幽谷」の朱文白方印の累印が押印されています。



益頭峻南:南画家。江戸生。名は尚志、字は示徳、通称を銓太郎。野口幽谷に師事し、花鳥を得意とした。東京勧業博覧会二等賞牌受賞。文展審査員。大正5年(1916)歿、66才。

「狼聲野月図」はやせ細った狼?、もしくは猟犬のようなちょっと気味の悪い作品ですが、小生のお気に入りの作品のひとつです。

月鴉図 野口幽谷筆 その2 
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 益頭峻南鑑定 合箱入 
全体サイズ:横502*縦2000 画サイズ:横306*縦1360

これらは印章のみの作品で、印章は「續印」の白文朱方印と「幽谷」の朱文白方印の累印が押印されています。



この2作品は本日の作品のような本格的な作品と違い、いずれも粗雑な紙表具の作品で表具に痛みがあるのでいつか改装しようと考えていますが、いまだに手付かずです。

白磁青華唐草文二段燭台 李朝後期(18世紀初め)

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本日紹介する作品は大ぶりな燭台です。夜噺骨董談義を催す夜噺茶会に必要な作品に燭台があります。なにかいい作品はないかと物色していましたら、本作品が目につきましたので購入しました。



白磁青華唐草文二段燭台 李朝後期(18世紀初め)
2012年7月21日 慶尚南道文化財 李容?鑑定書 誂箱
上部口径*上部円台155*高台径240*高さ420



李朝における燭台は、日本もそうであるが木製が多い。木製の燭台は李朝の家具がそうであるように、民芸色豊かな魅力的な作品が多い。その次に金属製も多いが、陶磁器で作られたものは当時としてはかなりの高級品であったものと推察される。一目見ると伊万里の作品かと思われるほど、明らかに日本の伊万里と共通する文様があしらわれている作品です。一対であった作品の可能性が高い。



李朝1392年に李成桂が樹立した朝鮮王朝は、儒教を統治理念とし、その後500年の長きに渡り栄華を誇りました。この朝鮮王朝で最も好まれた焼物が白磁です。その理由は白磁特有の気品溢れる白が、清廉潔白・質素倹約を旨とする儒教思想に相通じるからであったと言われています。



当初、主に作られたのは、国王が用いるための器でいわゆる御器でした。そのため胎土は、民間では使えぬよう厳しく管理されました。まだ中国での白磁の影響を色濃く受けており、胎土の精選・形の端整さ・釉薬の美しさ・仕上げの丁寧さなど全てにおいて最高のものを目指そうとした製作態度が伺えます。



しかし17世紀の中頃に儒教が一般に広く普及し、その儀式に用いられる祭器が数多く作られるようになると、それに従い美的基準も変化したようです。胎土や釉薬を精選しないことにより、肌はやや青みを帯びるようになり、わずかなひずみや歪みなどは全く気にしなくなってしまいます。施釉にムラがあってもそのままで、これはおそらく上辺を取り繕うことを嫌う儒教の潔癖性が影響しているからでしょう。しかしこの不完全さこそがなによりの魅力で、今なお多くの日本人が朝鮮白磁を好むのもこの理由によるのでしょう。



李朝時代を時期区分すれば,

初期(1392‐1469)=支配体制の確立期,
中期(1470‐1607)=支配体制の動揺期,
後期(1608‐1860)=支配体制の解体期(再編期),
末期(1860‐1910)=朝鮮近代の4期 に区分することができます。

作品には下記のような鑑定書?らしきものが同封されていますが、真偽のほどはよくわかりません。



慶尚南道(有形・無形)文化財:(경산남도유형문화재)慶尚南道は、大韓民国の南東部(朝鮮半島南東部)に位置する行政区で、慶尚南道で定める有形文化財は、大韓民国の文化遺産保護制度で、市道指定文化財の一つになている。上位の国家指定文化財に指定されていない有形文化財の中で保存価値が認められるものを対象として慶尚南道が条例により指定している。本作品がその行政区の文化財委員?「李容?」なる人物の鑑定を受けた作品か否かの真偽は定かではない。

実用性を求める当方にとっては、「李朝でありやなしや」はどうでもいいこと。作品が燭台として面白いかどうかが問題です。さて早速使ってみることにしようと思っています。秋の夜長にはちょうど良いかな?

古備前櫛描波状文壷 室町時代

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本日は朝から九州へ・・・。

最近いろいろと考える契機になっているの後藤新平の言葉です。後藤新平の名言にはいくつかありますが、それらの代表的な例は下記の三例があります。

金を残して死ぬのは下だ。事業を残して死ぬのは中だ。人を残して死ぬのが上だ。

人は日本の歴史に50ページ書いてもらうより、世界の歴史に1ページ書いてもらうことを心掛けねばならぬ。

妄想するよりは活動せよ。疑惑するよりは活動せよ。

一番有名なのは最初の言葉ですが、企業は存続していくために、当たり前ですがこれからの人を育まななくてはならないと思います。そうすることで企業はより良き企業文化を醸成するようになると思っています。そのためには失敗の本質を共有し、新たなことに取り組み、個人や自部署の利益だけではない夢を持ち・・・・、そうすることで人は育つ・・・・。

さて本日の作品の紹介です。

至って難しいのが所謂「壺」の世界・・。本日紹介するのは「古備前(室町時代)」と推定している作品の紹介です。

古備前櫛描波状文壷 室町時代
(協同組合)岡山県備前焼陶友会 古備前鑑定委員会 鑑定(平成7年10月7日)箱
口径113*胴径244*底径約162*高さ320



古備前という言い方は「室町から桃山時代までの頃の作品」を指し、江戸時代に入った作品は評価が格段に下がるのが一般的のようです。よって、蒐集家は古備前というと桃山期以前のものとしたがる傾向?にあります。



古備前の作品は肩が張っている作品というイメージがありますが、古い物はすんなりしている形状で非常に美しい肩を形成しているようです。



田んぼの土で、ねっとりとしたきめの細かい土を岡山では「ひよせ」と呼んでいますが、この「ひよせ」を縄のようにしてグルグル積み上げ、中と外で、手のひらで成形して作っていくいわゆる「手づくね」による作りが古備前の壺です。



この壺の良さは窯の中でふった自然釉、黄色い胡麻が備前の赤い肌に作用して実に良い調和をしているいい作品だと思います。



古備前に限らず、備前焼は基本的に焼き締めで釉薬は掛けません(胎土の収縮率が大きいため釉薬は付着しにくいのが理由)が、焼成中に掛かった灰が釉薬のようになって見所になります。ただこのような自然釉がなくても、基本は土が焼成を経て味わい深くなっているのが勘所だと思います。これは焼成の偶然の産物なので作為的には難しいようです。



本作品は室町時代の中期から後期にかけて作られた古備前の壺と思われますが。この時代の壺は丹波と古備前で見分けがつきにくいと言われています。



古備前の壺は口造りは玉縁になっており、備前は一度立ち上げた口を折り返して玉縁にしているのが特徴です。本作品は玉縁はちょっと弱い感じですが、一般的には古備前の口は玉縁になっており、力強いのが魅力です。



室町時代に焼かれた備前焼の壺には肩の所に波状紋の櫛目がある作品があり、それがこの時代の特徴と言われています。



室町時代の後期に作られた作品の特徴かと思われますが定かではありません。本作品では勢いよく描かれ、単調になりがちな古備前の作行に変化を与えており、肩に掛かった自然釉とともに見所となっています。



窯印:胴に「|+」あり。備前焼に、彫られた窯印が見られる様になったのは、一般的には、室町時代中期以降であると言われています。



備前の陶印はその大部分が共同窯に於いてその所属を明らかにするための窯印であり、その窯印には家号を用いており、丹波では共同窯の場合には各窯の部屋のよって区別しているため窯印の必要がなく、主として作者名が彫ってあるようです。



備前焼に彫られた窯印が見られる様になったのは、室町時代中期以降であると言われていますが、これは大窯を共同で焚くようになって、各自の製品がわかる様に手印を入れたのが始まりであろうと思われます。

窯印も後代になっては、その様な目的だけではなく、自己の製品の優秀性を表示する商標の如きものに変わってきたようです。窯印の書かれた場所、大きさなども多様で、室町時代後期のものは大きく、肩、胴部に彫っていますが、時代が下がってくるに従って小さく、底部に彫られるようになりました。押印は桃山時代から見られるようになって、江戸中期以降は押印の方が彫印より多くなります。特殊なものに古備前大瓶の肩に彫られた窯印があります。



本作品は通常の底ですが、高台を返すと底に二本の線があるような信楽焼などによくある下駄印は古備前では極めて珍しいようです。「古備前にも珍しくない」と言われる方もいますが、他の窯の作品も含めて鑑賞に堪えうる作品の中での比率で判断すると、つまり比較という観点からは「少ない」というほうが正しいと当方では判断しています。

また胴と底を別に作り、それをはめ込んだ跡が高台に残っている作品は室町初期~中期の古い手とされていますが、本作品は室町前期までは時代が下がらないと判断しています。



「古備前櫛描波状文壷」と題された箱に収められています。



「(協同組合)岡山県備前焼陶友会 古備前鑑定委員会 鑑定(平成7年10月7日)」という箱書からも室町時代と鑑定されているようですが、当方では「岡山県備前焼陶友会」については詳しくは知りませんので正しいかどうかは解りませんが、ひとつの根拠にはなります。



箱の内部には鑑定書らしきものと領収書が同封されています。



壺というのはいいものが鑑賞に堪えうる作品が数個あればいいと思います。蒐集家らが家のあちこちに壺がごろごろと飾ってあるのは興ざめしますね。人も同じか・・・・。



当方も少しずつ理解が増してきた壺の作品ですが、それとともに不要なものが増え、紛い物は庭や屋根裏に放置され、使えるものでもメダカ専用の水槽替わりになっていきます



備前などの無釉の焼き締めに味のある作品に、故意にスプレーで水を掛けて風趣のある作品に見せるのはいいのですが、どこかの骨董店主のように脇で水スプレーを構えらえるとこれもまた興ざめですね。上記の写真には水で濡らしたものと全く乾いた状態の写真をとりまぜてあります。

理屈ばかりこねたり、よく見せようと取り繕うのもみっともないもの、骨董も人も同じ・・・。さて本作品は鑑賞に堪え得る作品か否か、しばし鑑賞することとしましょう。美を後世に伝えるのも我々先輩の年齢になったものの役目・・・・。




葡萄図 双幅 天龍道人筆 92歳

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本日紹介する作品は天龍道人の枯淡の域と評される最晩年の92歳の時に描いた葡萄図です。

葡萄図 双幅 天龍道人筆 92歳
紙本水墨軸装 まくり状態で入手 軸先木製 誂箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦960*横287



佐賀県立博物館の所蔵されている「葡萄図」には「鵞湖折脚仙九十一歳天龍道人王瑾」の署名があり、最晩年の91歳の作品と判明している作品です。晩年に脚を折って不自由になったから「折脚仙人」という号を用いています。




「一顯又□□□□ 旦一房一□年培 □□□食□□香 鵞湖折脚仙九十二歳 天龍道人筆」
押印



「自画自題□ □□上工本是□ □□□自寫清風 折脚道人九十二歳 王墐寫」 押印



「松竹梅図 天龍道人筆 92歳」に押印されている「天龍」、「王墐」(白文朱印)と同一の累印の印章が押印されています。



なお「葡図画賛 91歳」に押印されている「三国一家」と同一印の朱文白方印は下の写真中央のように逆さに押印されています。回転された写真が右です。このような間違いは印章を見慣れていないと気が付かない事象かもしれませんね。



天龍道人の60前後の作から90歳を超えるまでの作品、みずみずしい葡萄図から枯淡の域の葡萄図まで・・・。



天龍道人の葡萄図、おそらく双幅や三幅対の作品でないと物足りないでしょう。読者の皆さんもひと作品飾ってみたらいかがでしょうか?



天龍道人の作品が単幅の作品の入手からこのような数多くの蒐集に発展してくるとは当方でも予測できませんでした。

さて本作品は「まくり」の状態での入手。入手価格は1300円 表具代金のほうがはるかに高い



「折脚仙人」という号という号の落款は晩年にしかなく、珍しいからと双幅に表具して箱を誂えると結構な値段になります。

ところでそもそもこれは双幅? 右幅はどっち?? 二作品を同時に入手したのですが・・・・ 
おそらく屏風か襖絵の外しの作品だろうかと推測されます。状態のいいものだけを遺したか・・・

各々単独で表具するか、双幅とするか・・・、やはり双幅仕立てにするのがいいのだろう。

蛙と蜘蛛 倉田松濤筆

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65歳を過ぎてくると、骨董だけではなく身の回りのものを片付けだす年齢です。服、本、書類・・・、捨て切る勇気が必要なようです。逡巡しているとなかなか整理できませんね。骨董品よりは割り切って捨てられていますが・・・。

さて本日の作品は、おなじみの倉田松濤の作品、倉田松濤の作品は面白い・・、よって家内もファンになっています。

蛙と蜘蛛 倉田松濤筆
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2035*横550 画サイズ:縦1120*横397

 

蛙と蜘蛛というと下記の文部省唱歌があります。

一、しだれ柳に飛とびつく蛙、飛とんでは落おち、落おちては飛び、落ちても、落ちても、また飛ぶほどにとうとう柳に飛とびついた。

ニ、風吹ふく小枝に巣を張る小蜘蛛、張つてはきれ、きれては張り、きれても、きれても、また張るほどに、とうとう小枝に巣を張はつた。



息子と作品鑑賞・・・、「この蜘蛛は蛙に食べられるのかな?」。 



そうですね、なにか意図するものがありそうな作品です。

蛙は小さい時には蜘蛛に食べられ、蛙が大きくなると蜘蛛は食べられる。ともに一生懸命に生きてきているが、生きるものには性がある。

人間も同じ、上から目線で見ているといつか逆の立場になることがある。立場が逆転することは往々にしてあるので、常に謙虚に生きていないといけないという教えか????


漆器の碗類の整理

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帰宅すると居住空間の室内の家事が待っています。まず帰宅するとベットメイキング、掃除、片付け・・・。それから食事して家族でお風呂、基本的に息子は小生が入浴しないと入浴したがりません。息子が就寝するまでお相手しています

それからようやく骨董の整理やらブログの原稿づくり・・・、すべて一人で作業するので、ある意味で仕事より繁忙です 寝るのは12時過ぎ、起きるのは朝の5時、おかげで週末の朝は爆睡、ただ息子が小生を起こします

さて本日の作品は休日につき軽めの作品の紹介で、漆器の普段使いの作品です。郷里の蔵や納戸に山とあった漆器の碗類、一個一個選別して、状態の悪いものはだいぶ廃棄したのですが、状態の良いもの、ちょっと直せば使えるものはまだ保管しています。

これは膳類も同じく選別したのですが、膳類は先祖がかなりグレードの高い?ものばかり集めたようで、今となっては使い道の少ない?膳類もかなりの種類と数が保管されています。膳類は修理に費用が嵩むので、よほど思い出の深い作品以外は破棄しました。

碗類は使い道もあり、ちょっとした補修なら自分でもできるのでと整理しようと思って遺しています。その中から状態のちょっと悪いもの、つまり口縁の直せそうな欠け、磨き直しで直るくすみのある作品などを郷里から持ってきて修理を検討しています。



そのために気軽に運送できるように保存箱を誂えました。保存袋は100円ショップで買ったものです。5客ずつ入れるのには便利ですね。現代は使用ユニットがせいぜい5人揃いで十分かと思います。



碗類は蒔絵のように文様のついた作品を評価する人が多いのですが、メンテしやすく、長持ちするのは文様のない無地の作品です。根来のように朱塗だと下の漆の黒い色が見えてきたり、ちょっと磨くと艶が出たりと扱いやすく、味が出やすいものです。



上記のようなちょっとした傷は数千円で直りますが、その数千円が高いとするか否かですね。新品を購入するよりも下手をすると高くなることがあります。



基本的に碗は蓋付の漆器がいいです。蓋付の無地の器だ長方ですね。蒔絵のように文様のついた作品は季節や使い道が限定されることが多いし、傷の補修が難しいですね。ただ鶴や亀、菊などの草花文の蒔絵などの文様のある作品がやたら多いです。



膳に置いたままで漆器の蓋を開けるのは道理にかなっていないそうです。口元まで持ってきて初めて蓋を開けるのだそうです。漆器の中に蓋をして閉じ込められていた香りを楽しむのが日本料理の道理というのが「分とく山」のご主人からの説明でした。



蓋付の漆器は蓋を色々使えるのも魅力ですね。なお日本酒は平たい蓋のような漆器で飲むものだそうです。ワイングラスでは日本酒の香がこもりすぎて強すぎるようです。

このことに気が付いていない方は本当に多いようですが、たしかに飲み比べると漆器のほうがさっぱりしていて日本酒が美味しく飲めます。日本酒は平状の漆器、陶磁器で飲むほうがおいしいようです。ぐい飲みの筒状の作品もそういう意味では漆器に敵わないようです。

ちなみに日本酒の飲み方は、女性は両手で喉を見せずに飲む、男性は片手で相手側に手の甲を見せるように豪快に飲むのが本来の日本酒の飲み方だそうです。



ずっしり重いのが朱塗だとすると、薄いのが真塗の黒碗。朱塗りの漆器は根来のように下地の黒が見えてきた味わいがでてきますし、木地の文様が徐々に見えて味わいが出るのは真塗の黒碗でしょう。



日本製の漆が高価となり、中国産の漆が使われている日本製の漆器(ただし会津と浄法寺だけが日本製の漆100%らしい・・・)は漆がゴム状でやせやすく、使ううちに判別がつくとか・・・。

漆がもったいから使用料の少ない溜塗(透明な漆)の作品が横行しいてますし、もしくは仕上げの漆のみ日本製の漆の作品も「日本の漆使用」と表示されているようです。

いずれ古い漆器は漆が純日本製という点でも貴重です。まだ五客揃いで千円程度で骨董市などやインターネットオークションで売られていますが、古くて状態のいいもの、塗りのいいものは今では入手困難になっています。

漆器を扱いこなせる人、もしくは使う人は少なくなりましたね。寂しい限りです。漆器はイコール「JAPAN」と海外では高く評価されているのですが、徐々に漆器を扱う人が少なくなっているように思います。古来の純粋のJAPANN(漆器)は多少コストがかかっても修繕していきたいと思っています。また寝不足、もとい資金不足に陥りそうです。







牡丹図 平福穂庵筆 明治17年(1884年)頃

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NHKで放映された「令和版 怪談牡丹灯篭」は面白かったですね。民放の多くの稚拙なドラマ作りに比べたら比でない面白さがありました。



本日はその「牡丹」を描いた作品の紹介です。

牡丹図 平福穂庵筆 明治17年(1884年)頃
絹本水墨淡彩額装
全体サイズ:縦1240*縦490 画サイズ:縦280*横360
*分類第3期:画壇へのデビュー (明治11年~17年)



我が郷里の画家、平福穂庵の描いた作品ですが、自由奔放な筆遣いと共に平福穂庵はきちんとした四条派の筆致にも優れた作品を遺しています。

 

茶室裏手の展示室の廊下に飾ってみました。

*なお手前の作品は「倣李朝」としておきましょう。



何気ない作品にも平福穂庵の画力が溢れています。



平福穂庵の製作時期は落款の「庵」の最後の画のハネ具合や伸び具合である程度解ります。



この印章の押印された作品は数が少ないのですが、即興的に描かれた作品に使用されている例が多いようです。

*本ブログでは再三警鐘を鳴らしているように、平福父子の作品には贋作が多いので注意してください。インターネットオークションの作品にはいいものもありますが、贋作も多くあります。とくに平福百穂は要注意ですね。

真作考 梅花ニ雀 平福百穂筆 昭和5年(1930年)頃 & 贋作考 菊二小禽図 平福百穂筆 贋作

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先週のなんでも鑑定団には本ブログで何点か紹介されている「中村大三郎」の掛け軸の作品が出品されていました。

参考作品
舞子図 中村大三郎
なんでも鑑定団出品作:2019年12月10日放送 評価金額:150万円



安河内眞美氏の講評:素晴らしい作品。中村は京都に生まれ、家が染織関係だったことから染めの色彩感覚が身についたのだろう。依頼品は大正13年、26歳の時に開いた個展に出展されたもの。気品のある美しさを流れるような筆で描ききっている。桜の花びらが散っている。女性が差し出した明かりの中のろうそくまで薄く描かれている。明かりの蒔絵も桜の文様で、女性の簪も桜。帯もすばらしく中の半衿も鮮やか。一文字風袋が蝶で花に蝶。共箱は大三郎自身の箱書き。文句のつけようがない作品。

本ブログで紹介した作品には下記の作品があります。

納涼美人図 中村大三郎筆
絹本着色軸装 軸先木製 誂箱+タトウ
全体サイズ:縦12400*横500 画サイズ;縦347*横393

 

行燈の蝋燭までは描かれていませんし、共箱ではありませんが、中村大三郎の真作です。評価金額はなんでも鑑定団の評価は高すぎますね。なお中村大三郎の作品は意外に共箱のない作品が数多くあります。そして贋作は非常に少ないようです。7



さて本日は真作と贋作の比較です。

同じような構図で描かれた作品ですが、床の左の作品が真作「梅花ニ雀 平福百穂筆 昭和5年(1930年)頃」で、右の作品が贋作「菊小禽図 平福百穂筆」です。

真作考 梅花ニ雀 平福百穂筆 昭和5年(1930年)頃
絖本水墨淡彩 共箱二重箱 軸先本象牙
(元秋田県知事 旧蔵)
全体サイズ:縦2270*横498 画サイズ:縦1328*横361



この作品は家に古くから伝わる作品です。

 

平福百穂には珍しく「絖本」という目の細かい絹本に描かれた作品です。



さらりと描かれた中にも品格があります。



その違いは下記の贋作と見比べると一一目瞭然でしょう。



箱書きと作品中の落款と印章は下記のとおりです。この作品は平福百穂の作品で佳作に類する作品です。

  

下記の作品は贋作でしょう。単品で見ると解りにくいかもしれませんが、上記の作品と比較すると出来の違いがはっきりしています。

贋作考 菊小禽図 平福百穂筆 
絹本金泥水墨軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:縦2020*横370 画サイズ:縦*横(未測定)

 

かなり出来の良い?贋作の部類かもしれませんが、この「小禽」の鳥はなんという鳥でしょうか? 表現が稚拙ですね。



菊はよく平福百穂が描く画題ですが、このような生気のない菊は描かないでしょう。



題は「菊小禽」?? 「菊二小禽」とかにすべき?? 作品中の落款はまだよいが、共箱の落款は下手。印章は非常によくできていますが、違うものと思われます。印章にこだわるとだまされますよ。

  

枝や葉の描きは良いのですが、何といっても鳥と菊の部分が下手な作品ですので、落款や印章を問題にする以前の作品でしょう。



一丁前のいい作りの共箱らしく収められています。ここにも悪意が感じられますね。この作品は参考で購入しましたが、ゴミ箱送りです。

ネットオークションからの出品ですが、この出品者は秋田市からの出品で、他に複製作品を偽の鑑定箱に収めた作品も出品していました。画家と郷里が同じだから始末に悪いですね。このような作品が「ノークレーム ノーリターン」で「模写」として多数ネットオークションに出品されているが現状で、返品を受け付けません。

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