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Channel: 夜噺骨董談義
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失敗談 両作品ともに工藝作品 松 平福百穂筆 

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義父が亡くなり、不要なものの片付けが徐々に本格的になってきました。畑の手入れをする人もいなくなり、使わない道具類の処分です。廃棄物の処理運搬車を手配し、まずは庭や車庫にあった不要物の整理です。庭のあちこちからの運搬を幼稚園から帰宅した息子は遊び相手がいないので手伝いに没頭?しています。

雨水のストック用のドラム缶を転がして集積のお手伝い・・・。朝は小生を見送るので朝6時起きゆえくたくたになるようです。おかげで小生が帰宅する頃には息子は熟睡・・・・。



インターネットオークションへの出品作品において精巧な印刷作品はパソコンの画面拡大でも判断がつかず、蒐集家には一番の難敵です。印章・落款、筆致は本物ですから下手な贋作よりも騙されるのは筋がよいという方もいますが・・・。

左の作品は下記の作品です。

工藝作品 松 平福百穂筆 (大正10年頃)
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 平福一郎鑑定二重箱 
全体サイズ:縦1370*横705 画サイズ:縦*横



本作品は工藝印刷による複製に鑑定箱は贋作という悪意のある作品です。落札して作品をよくみると複製ですが、出品者は「模倣作品」、「真贋不詳」と説明しているので返品は受け付けないとの一点張りです。印刷作品は表面がすべすべした感触になっています。



落款に「三宿草堂」とあることや印章から真作は大正年間(大正10年頃)の作と推定されます。印章にも作品のどこにも「工藝」とはありませんから始末に悪い作品です。画像からでは全く肉筆か印刷かは区別つきません。



平福百穂は「老松」、「松石」(両作品ともに真作)など本ブログでも紹介されている作品があるように、松を題材に多くの作品を描いているようです。



近代南画ともいうべきかどうかは別として、平福百穂は非常に繊細で独特の風趣ある作品を描きます。真作は平福百穂の真骨頂と言える作品でしょう。



真作はよくできていますから、原画は本物でしょう。



この作品が印刷か否か画面では全く解りません。出品者は印刷と解っていても、模写作品として出品し、返品・返金には応じませんし、ヤフーも関与しませんので支払う側の泣き寝入りになります。



印章はまったくの真作と同一です。落款部分も滲みなどの表現も非常にわかりにくいほどよく似ています。



なお鑑定箱書は子息の平福一郎氏によるものとしてていますが、今までの所蔵作品にはない印章が押印されてます。つまり中身は印刷作品、箱は偽造した鑑定箱です。秋田市からの出品で平福百穂の郷里近くからの出品ですが、同じ出品者から複数の贋作が出品されています。地元ほど需要があるので、贋作や印刷作品が多くなります。



鑑定書きの書体もまた平福一郎によく似せています。印章は未確認ですが、箱のサイズが合わないです。複写作品に鑑定箱・・、これは騙されますね。その旨を出品者に伝えたら「脅迫」、とか「嫌がらせ」という暴力的なメッセージが返答されました。

 

印刷や工芸品をきちんと明記する出品者が多くなりましたが、未だに多くの工藝作品、印刷作品を模写作品、もしくは真贋不明で出品されいます。入札側も欲にかられてひっかかるのがよくないでしょうが、出品者は返品には一切応じませんので、高い金額での入札は控えたほうがいいようです。むろん主催者(ヤフー側)にも責任がないとも言えないでしょう。

下記の作品も同様に複製の作品です。

工藝作品 墨松老幹 平福百穂筆 (大正11年(1922年)頃)
絹本水墨軸装 軸先骨 合箱 
全体サイズ:縦1220*横425 画サイズ:縦*横



こちらも画像からは肉筆か印刷かの判別はまったくつきません。



印章は上記作品と同一ですが、やや細長くなっている点から真作とは違うと判断されます。



「複製(工藝)作品は明記する」とか、「返品に応じる」という明確なルール作りがネットオークションには必要ですね。「模写」という主張ですべてが片付けられるのは落札者側には嫌な思いしか残りません。

失敗を恐れては骨董蒐集はできません。このような失敗を乗り越えていいものを蒐集するしかないのでしょう。ただ平福百穂の作品には精巧な工藝品が多く、鑑定箱書きを巧妙に誂えていることがあるので要注意です。

さて上記のような作品はいずれドラム缶と同じ運命を辿るのでしょう。



富楼那像 杉本健吉筆

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今年の我が家の畑からの落花生は義父が亡くなったので、収穫が遅れ、多くが野鼠の被害に遭いました。それでも家族総出で収穫して少ない落花生を天日干しにし、殻をむき、選定して炒るところまで完了し、お世話になった方に配るため袋詰めまでこぎつけました。祖母に一番お手伝いしたのは息子のようです。ちなみに家内はつまみ食いして鼻の下にニキビができました。息子に「にきび、さんきび、よんびき、ごびき・・??・」とからかわれてています。



野鼠のささげた落花生・・・・、来年の干支はネズミ、なにやら来年はいいことが盛りだくさんなような気がします。

本日は杉本健吉の作品の紹介です。

杉本健吉の肉筆画は入手が意外に困難であり、特に油彩画は難しいと思います。工芸家、デザイン家であったことから肉筆画を売りに出すことがなかったからでしょう。そのほとんどが美術館に寄贈されています。

本日はその数少ない杉本健吉による肉筆作品において、興福寺の富楼那像を描いた作品の紹介です。



富楼那像 杉本健吉筆
コンテ 左下印章 裏共シール 誂タトウ+黄袋
全体サイズ:縦600*横470 画サイズ:縦375*横250 P6号程度



作品中の落款はなく、押印のみです。なお額裏にあるシールは書体から本人によるものでしょう。出来から真作と判断しています。

 

杉本健吉と奈良の関りは大きく、44歳の時に一念発起し、家族を名古屋に残し単身奈良に移り、絵の制作に徹する決心をしています。瑞々しく生命感あふれる奈良の風景画は次第に評価され「奈良の杉本か杉本の奈良か」と言われるようになりました。杉本健吉が生涯にわたって愛した奈良大和路の風景と、その地を丹念に歩き真摯に描いた杉本健吉の写生から生まれた数々の作品は高い評価を受けています。



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富楼那:インドの僧。サンスクリット語 Pūrṇamaitrāyaṇīputraの音訳である富楼那弥多羅尼子の略です。釈尊の十大弟子の一で、説法することがきわめて上手であったことから説法第一の阿羅漢と称されました。像はこまやかな折り目を造り、老人の顔にし、左肩を引き右肩を出し、右方を見まています。

興福寺の富楼那像 奈良・興福寺の国宝十大弟子像
興福寺 国宝館所蔵
国宝
彩色 乾漆造 奈良時代 像高:1487mm



十大弟子像は釈迦の高弟10人の肖像彫刻で、興福寺には舎利弗像など6体が現存。奈良時代の天平6(734)年に西金堂(さいこんどう)が建立された際、聖武天皇(在位724~749)の皇后で、仏教の信仰があつかった光明皇(701~760)の発願で、粘土の原型に麻布をかぶせ、漆を重ねながら整える「脱活乾漆造」の技法でつくられました。

2009年に東京と福岡で開かれた「国宝 阿修羅展」に合わせ、十大弟子4体と阿修羅などの八部衆5体がCTスキャンにかけられています。奈良大学の今津節生(せつお)教授(保存科学)らのチームが解析した結果、舎利弗像(高152・7センチ)の表情が、原型では開いていた口を、閉じた形に変えて仕上げられていたことが新たに分かっています。

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杉本健吉が奈良・興福寺の国宝十大弟子像を描いた作品は何点かあるようですが、いずれにしても貴重な作品には相違ないでしょう。

飛瀑図 山元春挙筆

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幼稚園から帰宅しても家内は家事に、義母は畑関連の仕事で忙しいので、息子は必然的にそれらの手伝いを遊びの延長上で行っているようです。



昨日は頂き物の鮭で調理した「石狩鍋」のお手伝い、小生が帰宅したらネギを刻んでいました。



「包丁、大丈夫かい?」と息子に聞いたら「なんどもやっているから大丈夫!」とこちらを向いて返事・・・、「おっと! わき見したらあぶないてば!!」と家内・・・。

さて本日は本ブログでいくつかの作品を紹介している山元春挙の作品の紹介です。作品の手前の壺は信楽です。

飛瀑図 山元春挙筆
絹本水墨着色軸装 軸先骨 高橋秋華極二重箱
全体サイズ:横545*縦1940 画サイズ:横400*縦1220

 

雄大な山岳風景を題材に写実的で壮大なスケールの作品を次々と発表、新時代の到来を感じさせる革新的な画家として人気を博しました山元春挙の代表的な作例と言えるでしょう。



さてどこの瀧を描いた作品でしょうか?



それほどの力作ではありませんが、見ごたえのある作品です。



「恩師山元春挙先生見飛瀑図是先生壮年溌剌時代之作 而筆力豪健賦彩之妙如看其真境後学秋華識 押印」と門下生であった高橋秋華の箱書きがあります。

 

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高橋秋華:日本画家。明治10年(1877年)に邑久郡幸島村(現在の岡山市西大寺)に生まれる。本名、敏太。別号に半香、聴鴬居がある。

はじめ同郷の石井金陵に南画を学び、後に京都へ出て都路華香、ついで山元春挙に師事し、春挙の画塾早苗会に所属する。

内国勧業博覧会の出品作や日露戦捷博会で一等金牌の褒状を受賞し、文展においても四回入選を重ねる。さらに大正11(1922)年にパリで開かれた日仏交換美術展に出品した《牡丹図》は、フランス政府買上げとなった。

昭和5(1930)年に完成した明治神宮聖徳記念絵画館の壁画《御降誕図》は、皇后陛下からの拝命を受けて制作・奉納した代表作である。

師春挙の円山派に近代味を加えた色彩豊かな画風と、私淑した岡本秋暉の得意とする花鳥画の世界に強く影響を受け、清雅で格調高い画風となっている。55歳頃京都から宝塚へ居を移し、戦後帰岡して亡くなるまでの7年間を岡山で過ごす。昭和27年(1952)歿、75才。

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落款、印章は下記のとおりです。壮年期の作とすると明治末期から大正初期にかけての作と推定されます。

 

キチンとした二重箱に収められています。このような指物師のよると思われる箱には贋作は滅多にありませんね。



似た構図の作品には下記の作品があります。描かれた対象の瀑布が「白糸の滝」か否かは別として同時期の作と考察されます。

参考作品 「初夏白糸の滝図」明治40年代 滋賀県立近代美術館蔵



当方でブログに投稿している白糸の滝の写真。当日は曇っていて富士山が見えませんでした。



富士山が見えると下記の写真のように見えたようです。



また落款から同時期の作とされる当方の所蔵作品には下記の作品があります。

*手前の作品は古武雄の大皿です。

瀑布之図 山元春挙筆
絹本水墨軸装 軸先練 共箱
全体サイズ:横700*縦2290 画サイズ:横510*縦1430



当時は人気を誇り、明治天皇冴えも春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったとされています。今は忘れ去られた画家??? 



山岳を愛好していた小生には大好きな画家のひとりです。雄大なスケールを持つ画家、読書の皆さん、一幅如何でしょうか? 
*ネットオークションで3万円ほどですが、今では掛け軸のお値段はそんなもの、筋の良い作品を選びましょう。骨董蒐集もわき見をしていると危ない

掛け軸の染み抜き完了 

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義父が亡くなり、畑仕事での不要になった材料の処分、産業廃棄物処理用の4トン車を手配して外回りの片付け・・・、息子もお手伝い。



車庫内に既にめぼしいものはないと思っていたら、なにやら段ボール箱が一個・・。中を覗いたら重ね箱が入っていました。



溜塗の木目の美しいものなので、一応捨てるのは止めてとっておくことにしましたが、ネズミなどに食われてだいぶ痛んでいます。



昔はどこの家でも台所に一セットはあったもので、古道具屋で数千円で今でも売っています。さて修理すると云万円かかりそうなので、そのままにしておくか・・・。



さて本日は掛け軸の修理した作品の紹介です。

掛け軸の作品は額装よりもシミが発生しやすく、また表具も痛みやすいものです。湿度管理や取り扱いをきちんとしていればそれほど痛まないのですが、扱いが粗雑になると取り返しがつかなくなります。

本日はシミにて作品が見苦しくなっていたので、染み抜きの処置をして掛け軸の事例を紹介します。

清暁の富嶽 山元櫻月筆
紙本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横760*縦1450 画サイズ:横450*横590

処置する前



処置後。



処置する前



処置後。



掛け軸は改装費用もかかりますので、費用はこの大きさで4万程度です。



染み抜き改装には多大な費用がかかるものですが、上記の金額は日頃から依頼している方なので格安と思っていいでしょう。このような費用を費やすか否かは所蔵者の価値観の問題ですね。

それと掛け軸でよく痛んでいるのが軸先が取れてなくなっている作品ですが、これは軸先部分を他の表具に誂えたり、軸先部分の接着剤が剥がれることに起因しています。表具が痛んでいなければ軸先を新たに付けるのはさほど費用の掛かるものではありません。また二重箱の蓋の部分が欠落している作品もよく見かけますが、これは掛け軸を落としたりして欠損したり、不注意な扱いで蓋を無くしてしまうことに起因しています。



上記の作品もまた蓋がなくなり、蓋受け部分が痛んでいましたが、蓋の部分のみを補修した例です。あまり費用が掛からずに修理できます。

なにやら修理専門の骨董蒐集になってきました。






リメイク 氏素性の解らぬ作品 鯉 川合玉堂筆 昭和30年頃

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本日は休日ということもあり、気軽に楽しめる作品??の紹介と思ったら、休日ではなくなっていましたね。

落花生の収穫は今年もなんとか終えました。義父が亡くなって収穫が遅れ、だいぶ野鼠に食われて少ない収穫量です。ただ来年は庚子・・・、そう庚は「金」、子(鼠)は「大黒様のお使い」・・・。野鼠に捧げものをしたことになり、収穫、天日干し、皮むき、選別、炒りと家族で行い、今年は金運に恵ままれるかも・・。今年の落花生は貴重なものとなりました

作品を整理していたら、下記の作品が出てきました。ずいぶん前に入手した作品で、本ブログでも紹介されていますが、あらためて調べてみましたので紹介します。

リメイク 氏素性の解らぬ作品 鯉 伝川合玉堂筆 昭和30年頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1802*横603 画サイズ:縦390*横458



いわゆる鯉の滝登り、登龍門という縁起物の画題ですね。



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登龍門(とうりゅうもん):成功へといたる難しい関門を突破したことをいうことわざ。 特に立身出世のための関門、あるいはただ単にその糸口という意味で用いられる。鯉の滝登りともいわれ、鯉幟という風習の元になっている。

壁画に描かれた李膺
「膺は声明をもって自らを高しとす。士有り、その容接を被る者は、名付けて登龍門となす」。

この諺は『後漢書』李膺伝に語られた故事に由来する。それによると、李膺は宦官の横暴に憤りこれを粛正しようと試みるなど公明正大な人物であり、司隷校尉に任じられるなど宮廷の実力者でもあった。もし若い官吏の中で彼に才能を認められた者があったならば、それはすなわち将来の出世が約束されたということであった。このため彼に選ばれた人のことを、流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説になぞらえて、「龍門に登った」と形容したという。 なお「龍門」とは夏朝の君主禹がその治水事業において山西省の黄河上流にある龍門山を切り開いてできた急流のことである。

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当時当方での記録には「入手先の説明では「出品前に改装した。」とのことで、前所有者が書家ということもあり、書の表装のように改装したと思われます。」とあります。なかなかの上表具のようです。



作品中の落款と印章、共箱の箱書きは下記のとおりです。

  

「隋軒」の号の印章は川合玉堂の晩年の作品によく押印されています。



川合玉堂の書体は年によって大きな特徴があり、書体も晩年の頃、昭和30年前後のものと思われます。





本作品と構図が同様の作品では、無落款で印章もありませんが、「川合玉堂の遺族(親族)より出た?」とされている下記の作品があります。よく似ている作品があるものです・・・??

本日紹介する作品が真作なら、男子の誕生などを機会にどなたかに依頼されて描いたものかもしれませんね。



鯉の図柄を川合玉堂はよく描かいており、昭和24年76歳の作品が玉堂美術館に所蔵されています。

 

下記のような作品も描いています。

参考作品
鯉仙人
紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法29.7 ×105 全体寸法431×192.5㎝

 

本日紹介した作品は鯉のユーモラスさと軽快なタッチが面白く、滝の流れの表現と昇りきろうとする鯉の表現がよいと思いますが、あくまでも真贋は不明です。表具や登竜門を愉しむ吉兆図ですね。

庚子は新たなことが始まる年、今年は仕事では近々事務所の移転、今年も新たな投資をしますが、今年の落花生は心して食べるようにしましょう。本作品を眺めながら落花生をボリボリ・・・。

少し早いですが、よいお年を・・・。



大日本魚類画集 NO64 カレイ図  & NO87 ウグヒ図 & NO98 ニシン図 大野麥風画

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収穫量の少なかった落花生ですが、義母を中心に息子も手伝ってなんとか今年も挨拶廻りに配られる最低限の量は確保できました。



野鼠の被害にあった落花生ですが、来年は「庚子」の干支。「庚」は金を表わし、「子」は初めてのことと増えるの象徴で、大黒様のお使い。落花生は鼠に捧げものとした縁起物・・・。

本日は大日本魚類画集の作品の紹介です。

ネットオークションにてかなりの数(30種以上)の大日本魚類画集に掲載されている作品が出品されました。その作品の中から3作品を入手できましたので紹介します。



大日本魚類画集 NO64 カレイ図 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1938年6月第11回
画サイズ:縦380*横275



このカレイの作品は大日本魚類画集の作品中でも佳作だと思います。



茶色をベースとした色彩が綺麗です。額もそれに合わせて選んでいます。



版画を額装にするのは基本的には飾る時だけにしたほうがいいのでしょう。



本日紹介する3作品の彫師はすべて「藤川象斎」、摺師は「光本丞甫」です。

 

大日本魚類画集 NO87 ウグヒ図 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1940年4月第8回
画サイズ:縦380*横275



ウグイは小生が子供の頃から馴染みのある淡水魚で、全国の河川でもっとも普通に見られた魚ですが、関東地方などの河川ではオイカワやカワムツが増えウグイの生息域がだんだん上流に追いやられ個体数が減少傾向にあるようです。



上記に淡水魚と記しましたが、一生を河川で過ごす淡水型と一旦海に出る降海型がいるようです。降海型は北へ行くほどその比率が増すとのことです。

 

雑食性である為、生息域内の別な魚種の卵や稚魚を捕食するため、この性質を利用しブルーギルの増殖抑制に有効である可能性が示されているようです。



大日本魚類画集の作品は個々の額装を選んでいます。その作品にあった額を選定するのも愉しみのひとつですね。



最後の作品は東京ステーションギャラリーで展覧会「大野麥風展」が開催された際に出版された画集の表紙になっていた作品です。

大日本魚類画集 NO98 ニシン図 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1941年1月第5回
画サイズ:縦380*横275



ニシンといったら「鰊御殿」・・・1910年以降急激に漁獲量が増えた北海道沿岸(小樽から稚内にかけて)の漁は明治末期から大正期の最盛期には春先の産卵期に回遊する北海道・サハリン系を主対象として100万t近くの漁獲高があり、北海道ではニシン漁で財を成した網元による「鰊御殿」が建ち並ぶほどになりました。



しかし小生が生まれた1953年(昭和28年)から減少が始まり、1955年には5万tにまで激減し衰退しました。その後はロシアやカナダやアメリカからの輸入品が大半を占めるようになりました。激減の原因としては海流あるいは海水温の上昇、乱獲、森林破壊などとする諸説があるが解明されていないとのことです。1890年代から2000年代までの海水温と漁獲量の変化を分析したところ、北海道-サハリン系ニシンの資源量変動と、海水温の長期変動には強い相関があり、乱獲だけが資源量減少の理由ではないとする研究者もいます。

 

主に刺網漁や巻網漁によって漁獲されています。1890年頃から1917年頃までの漁場は富山県沿岸から秋田県沿岸であったどうですが、年々漁場が北上し、1920年頃には青森県沖から北海道まで北上し、1923年には青森県沖の漁場も不漁となり、本州日本海側の漁は消滅しています。



激減以降、減少した漁獲を増加させるために人工孵化や稚魚放流も行われていますが、2002年から2011年間の10年間のニシンの平均水揚げ数量は4千tに留まり、根本的な解決に至っていないようです。卵の塩蔵品は数の子(かずのこ)をはじめ、日本人にはなじみの深い魚ですね。



大日本魚類画集の作品を少しずつ集めていますが、まだ手始めですがなかなか楽しいですね。「子」は増えるの象徴、果たして来年は如何・・・。



鮒 福田豊四郎筆

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年末は帰省もあり、なにかと慌ただしいので先週末のうちにクリスマス会と息子の六歳の誕生会を行いました。誕生日のプレゼントは息子の要望でLEGO・・。



年齢の少し高めのもの、それでもほとんど自分で組み立て説明書をみながらできるようです。一心不乱・・・?? 数時間で組み立てが完了しました。



さて、本日は郷里の画家「福田豊四郎」の作品の紹介です。

福田豊四郎の作品には淡水の魚を描いた作品がたくさんあります。それは郷里が山国であったことが関係しているのでしょう。それは小生も同じで鯉や鮎、鮒を描いた作品が大好きです。

鮒 福田豊四郎筆 昭和18年頃?
紙本着色額装(仁科一恵堂装丁) 福田文鑑定シール 誂:布タトウ+黄袋
F10号程度 全体サイズ:縦625*横690 画サイズ:縦425*横490



秋田県の県南に疎開していた頃の作品かもしれません。



この作品は3万円ほどで入手した作品です。

義母に「いい絵でしょう。」と自慢げに作品を見せたら「鯉?」・・、「鯉は髭があるでしょう。これは鮒!」、家内は「そうね、鯰は髭があるし・・」だと。「鯉の髭は何本? 鯰は? 泥鰌は?」ということになり、調べてみると鯉は一対(2本)、鯰は2対(4本)、泥鰌は5対でした。小生曰く「ん? 鯉は2対((4本)じゃないの?」

さらに義母は「なんで6匹なの? 吉祥は奇数が縁起がいいのにね~」。各々観点が様々・・・。



鮒 福田豊四郎筆 昭和18年頃?
紙本水墨タトウ入 色紙サイズ:3号
画サイズ:縦270*横240



色紙で痛みのある作品で、4000円ほどで入手した作品です。



福田豊四郎の奥様の「福田文」の鑑定シールのある作品は珍しいと思います。なおこの「豊四郎」の落款の書体は非常に短期間であろうと推測しています。当方にもいくつかのこの書体の落款のある作品を所蔵しています。

 

*「仁科一恵堂」は昭和初期に創業した額縁メーカーで、横山大観の作品の多くを手掛けていました。日本画の額縁の先駆けであり、額のシャープさと重厚さに人気があります。本作品の額も実際に取り扱うと解りますが、非常にいい額です。

「福田文」の書体は当方で奥様本人から福田豊四郎氏が亡くなった時に頂戴した画集や他の「対岸の村」という作品の鑑定シールが参考になります。

 

福田豊四郎の作品にもむろん贋作がありますので、蒐集の過程で集まるこのような資料は真贋の判断を含めて貴重なものとなります。

福田豊四郎は淡水に住む魚の作品を数多く描いていますが、意外に少ないのが海に住む魚・・。

まずは鯉。誕生日のお祝いに描かれた作品です。これは個人蔵の中でも傑作中の傑作でしょう。



三作品を所蔵していますが、いずれも力作です。



鯉は当時多くの画家によって描かれていますが、福田豊四郎の描く鯉には望郷の念があるように思います。



やはり鯉の髭は2対(4本)のような・・。インターネット上には一対と二対の両論?があるようです。



鮎は漆盆で数多く輪島で製作された作品の貴重な原画です。



淡水魚の多くも描かれていますが、これは山里で育った福田豊四郎の鑑賞が影響しいるのでしょう。



小生もそうですが、川や沼で採った魚遊びは思い出深いものがあります。下記の作品は画集に掲載されている作品です。



大きな魚を捕まえることが少年の夢だった時代、魚に望郷の念が表現されているものと小生はとらえています。



同郷の画家という観点以外にも小生は福田豊四郎の作品に魅せられている部分があります。息子曰く、「パパのおもちゃだね!」・・・・

鶏 倉田松濤筆 明治42年

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家内の息子へのプレゼントはカメラ・・・。年齢と共にだんだん実用的なものにおもちゃが変わっていきます。性能は小生が使うにも十分らしい・・・。



さて倉田松濤の作品は蒐集作品がいくつになったのでしょうか? 郷里の画家ということもあり、数多く蒐集しましたが、これほど多くの倉田松濤の作品が蒐集できるとは思ってもいませんでした。

本日は亡くなった家内も現在の家内も酉年なので入手に踏み切った作品でもあります。そして本日は息子の6歳の誕生日・・・。 

鶏 倉田松濤筆 明治42年
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2035*横550 画サイズ:縦1120*横397

 

賛には「可謂□絶哉□明治□□己酉□□□堂 余□観此図華山外史渡辺先生遺□也集家所蔵 松濤倣其意 押印」とあるようです。
描いたのは明治の酉年という推定から1909年明治42年(己酉)の作と思われ、倉田松濤が42歳頃の作と推定されます。



賛のその他の詳細は不明ですが、渡辺崋山の作品を観て感化されて得難いのかもしれません。

芭蕉に鶏・・・、ちょっと変わった構図ですね。

  

落款と印章は上記の写真のとおりですが、珍しく右下に遊印が押印されています。出来の良いものや力作にはときおり遊印が押印された作品があります。



家内は酉年、亡くなった家内もまた酉年であり、徐々に酉にちなんだ作品が増えてきています。



この作品も入手するか否か迷っていたところ、家内が「いいじゃないの。」という一言が後押しで入手に踏み切った作品です。



倉田松濤の作品は郷里出身ということもあり蒐集している画家のひとりですが、その作品は出来も含めて注目すべき画家だろうと思っています。



寺崎廣業と同じく多作なため、注目に値する作品とあまり出来の良くない作品とが混在しています。また一時期地元で評判が上がり、贋作も出回ったのが災いして人気が今一であることに起因しているようでしょう。



出来の良い作品でも2万円から3万円前後で入手できる画家です。

参考作品として「なんでも鑑定団」の出品された下記の作品があります。おそらく本日紹介された作品と同時期の作品でしょうが、評価金額が20万円だそうです。



なんでも鑑定団では「鴨は、四条派の手法で輪郭線を用いず立体的に描いている。それに対して岸辺の描き方は、長崎派の手法で牧歌的に描いている。」という評がなされています。本日の作品のほうが彩色画である点からも賛からも評価は高いと推測されますが、それほど高い値段では売買されていないと思います。息子のカメラと同じほど・・・・

月夜の江の嶋 川瀬巴水画

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年末ということで家にある飾り棚の作品の模様替え・・、友人の平野庫太郎氏の作った秋田犬の置物も飾りました。



本日は最近、根強い人気のある川瀬巴水の作品の紹介です。残念なことに後摺りの範疇の作品のようです。

月夜の江の嶋 川瀬巴水画
紙本着色版画額装 後摺 土井版画 誂:布タトウ+黄袋
昭和8年8月作 画サイズ:横270*縦400



版画には初摺り、初期版、そして生存中版(ライフエデイション):作者が生存中に関わった作品、後摺という順があって、一般的には評価もそれに従うようです。さらには摺りではなく印刷による複製もあるので、版画の評価は非常に難しいようです。本作品は後摺りの範疇の作品のようですが、年代の特定は判読しにくいようです。



江の島は下記の記載のとおりですが、本作品に描かれたような景色が現在も遺っているかどうかは不明です。

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江の島(えのしま):神奈川県藤沢市にある湘南海岸から相模湾へと突き出た陸繋島であり、一般的に使用される周囲360度が海に囲まれた島では無い特性を有する地名および町名である。片瀬地区(旧片瀬町地域)に属する。江の島一丁目及び江の島二丁目があり、全域で住居表示が実施されている。湘南を代表する景勝地であり、古くから観光名所となっている。神奈川県指定史跡・名勝、日本百景の地である。交通機関の駅名などでは江ノ島と表記することも多いが、町名や公文書等では「江の島」と表記する。古くは江島神社(日本三大弁天の一つ)に代表されるように「江島」と表記されていたこともある。この項では、陸繋島および地名の江の島について記すが、一般的には対岸の片瀬、鵠沼地区南部を含む一帯の観光地として認識されることが多い。



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版画の耳の部分は下記の通りです。版元は土井版画(下記の記事に記載のとおりです)の二代目土井英一が版元になっています。

 

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土井版画店(どいはんがてん):大正時代に創業した新版画の版元。
関東大震災後の1924年にまず土井貞一によって上野御成道(現・神田末広町10番地)に「エス・ドヰ版画店」が開店された。これが土井版画店の始まりであった。当時、この界隈には酒井好古堂、尚美社、江戸屋、西楽堂などの浮世絵商、版元が1930年代にかけて続々と店を構えていた。最初、貞一は浮世絵版画とそれに関する版本などを取り扱っていたようであるが、浮世絵販売の衰退、過当競争により木版画出版と輸出のための新しい分野を模索しなければならず、既に先行して成功を収めていた渡辺版画店の新版画ビジネスという新しい波に乗り遅れまいと、有望な絵師との連携を求め、まずは1931年12月から1932年6月までの間に川瀬巴水の版画を12枚出版することとなった。しかし、この巴水は既に渡辺版画店における売れっ子絵師であったため、土井版画店専属の絵師を見つける必要性があった。ここで、遂に土屋光逸と出会って1933年1月から1944年7月までに80点に及ぶ傑作を世に送り出すこととなった。さらに石渡東江や大耕といった絵師の版画も何点か戦前の時期に出版している。また、貞一は浮世絵商や版元の協会などとの様々な会合に出席していたが、1941年12月の太平洋戦争突入に伴い、米国への版画輸出が完全に停止、東京の店を閉店、千葉県千葉市稲毛へ疎開せざるを得なくなった。また第二次世界大戦激化により土井版画店は1944年に一旦廃業となり、創業者の貞一も1945年4月14日に死去する。



その後1948年、貞一の次男土井英一が中国から帰還、文京区菊坂町82番地に店を構えて土井版画店を再開する。英一は理工系の出身で版画の知識も経験もなかったが、1950年代にはアメリカ駐留軍からのクリスマスカードを含む大量注文や、1960年代の外国人観光客による注文によって未曾有の売上を享受することができた。英一は健康上の理由により、1963年には事業を中断せざるを得なくなり、妻のすずゑに相談の上、義兄の山内某氏に事業を当面譲渡、浜松堂という商号に改名することになった。この浜松堂は1981年まで事業を継続している。
その後、健康を回復した英一は新たに港区赤坂6丁目4-15に店を構え「土井版画店」の名称を復活、事業拡大を図った。この間、1971年1月には山王ホテル内に外国人観光客用にギフトショップを開業していたが、こちらはホテル側の事情によって1983年1月に閉店となった。1990年代までは土井版画店の事業は順調であったが、英一が1996年4月に78歳で急死すると、すずゑは事業閉鎖を考慮する。しかし、販売店から老舗の版元として継続してほしいという強い要請があったため、赤坂の店舗は閉鎖して千葉県市川市に転居して娘の英子とともにビジネスを継続してきた。なお、2008年6月に株式会社化、土井すずゑが代表取締役社長に就任して、現在も盛業中である。

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*本作品は1933年(昭和8年)の作のようですが、版元が土井英一であることから後摺で「土井版画」と称される版画群であり、1950年代以降の出版と推察されますが、後摺の年代の特定は難しいかもしれません。版画は小生の蒐集範囲外であり、詳しいことは解りませんが・・。

織部(緑)釉無地行灯皿

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本日から郷里に帰郷しますので、本ブログは1月5日まで休稿とさせていただきます。

本日は緑釉一色の行灯皿の紹介です。

このような江戸末にかけての織部釉(緑釉)は意外に濃い発色になります。江戸前期や桃山期の織部釉は一般的にもっと明るい発色になります。よく贋作で見かける南蛮人燭台などは真作と比較するとその傾向がよくわかります。

*真作の南蛮人燭台はまず市場に出回ることはありません。



それでもこの緑の発色は魅力です。緑一色の無地の行灯皿は希少でもありますから・・・。

織部(緑)釉無地行灯皿
誂箱
口径215~217*高さ18



行灯皿(あんどんざら)は行燈に用いた油用の受け皿のことで、行燈の中に置かれ、垂れる油を受け止めていた日常の雑器です。下記の写真にあるように行灯の中に置かれて使われていたようです。



原料となる陶土が豊富で、安価で量産が可能な瀬戸焼、美濃焼などで数多くが焼かれ、特に信濃地域が主要産地となり、尾張地域以外でも北陸地方の角皿、「霞晴山」印のものなどがあるものの、生産量は少なく、品質も劣るとされています。



行灯の中で利用されるため、鑑賞の対象ではないにもかかわらず、現存するものには、無地のものが少なく、鉄絵のものが最も多いようです。他人に対する鑑賞の対象ではないものの、行灯を開けた時に密かに愉しむ器であったように思います。

他の所蔵作品(本ブログ掲載作品) 「絵瀬戸行灯皿」
口径190*高台径130*高さ20



皿を何枚も何枚も絵付けすることにより、無駄が省かれ、その単純さに冴え、職人達は、のびのびと、大らかに絵を描いていきました。大量に作るところから、手が勝手に動いているかの様です。描かれた題材は極めて多様でした。代表的なものは、月・雲・宿・松・白帆・飛鳥などを取り入れた簡素な海辺山水です。

他の所蔵作品(本ブログ掲載作品) 「海辺山水図行灯七寸皿」
口径215*高台径*高さ30



簡素な組合せの中に日本の風物が端的に捉えられています。一般の人々の間に借り物ではない純日本の絵付けの皿を用いたいという要求がみなぎっていたためと考えられます。単に作る側の気持ちばかりでなく、一方で使う側からの要求があり、作る人と使う人の気持ちがぴったり合って初めて真に使いたくなるものが生まれた作品群なのでしょう。鉄絵の洒脱さなどのこの多様性から民衆的絵画「民画」に近い作品が多く、民芸運動などで盛んに収集され、その時期には瀬戸絵皿とともに人気の高い作品群たったのでしょう。

下記の作品は本ブログに掲載されている瀬戸絵の作品ですが、これほど大きな作品は稀有です。

他の所蔵作品(本ブログ掲載作品) 「舟乗人物文瀬戸絵大皿 江戸期」
口径375*高さ65



形の特徴は平らで丸い形をしていることですが、この形から四角いものに描かれたものとは異なる独自の絵付けが生まれました。伊万里の猪口のように絵から抜けて模様になりきったものではありません。織部風の緑釉を一部に掛けたものや、薄茶色で「ダミ」を入れたものなど多種多様で、末期には吹墨の物も製作されました。

下記の作品は本ブログに掲載されている織部風の緑釉が掛けられている作品には下記の作品があります。

他の所蔵作品(本ブログ掲載作品) 「灯火紋様行燈織部六寸皿」  
口径190*底径150*高さ18



江戸時代寛永年間に真鍮製が出現しましたが、この頃は行灯油が高価で一部に限られており、真鍮製は普及しませんでした。文化、文政年間以降、富裕層の拡大とともに陶製が広範囲にわたって急速に広がり、江戸時代後期から明治時代初期頃には、壊れず軽く安価で量産が可能になった真鍮製が普及し、照明の電化とともに、完全に消滅しました。



明治初期以降は作られなくなった作品です。瀬戸の絵皿の作品群もやがて伊万里の綺麗な磁器の作品に凌駕されていったのでしょう。無地の作品はもともと少ない故に本作品のように緑釉一色の作品は数が少ないようです。



底は高台作りではなく、車輪上になっていますが、安定性か油の汚れか、何らかの理由があるのでしょう。



行灯皿は現在は非常に廉価で買い求めることができます。高くてもせいぜい一万円程度でしょうか?



油のかかった受け皿の器ゆえ、食器に使うのには抵抗のある方がいるかもしれませんね。


時代考 古?清水焼 色絵龍鳳凰青海波文七宝繋透彫灯篭形香炉

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本日より仕事始めで6時前には出勤です。一昨日帰京したばかりでブログの原稿に手を付ける時間もなく、昨年末に書き上げた原稿そのままにとりあえず本日は投稿します。帰省も慌ただしく、今年もなんやかんやと忙しい日々になりそうです。

古そうな京焼の作品には香炉が意外多いように感じます。香を焚く習慣が広く見られるからなのでしょうか? その代表例が京焼の香炉なのですが、時代が遡ると「古清水焼」と単に「清水焼」という分類に突き当たります。その違いは微妙かと思いますが、それはそれで根拠のあるもののようです。

このあたりをテーマにした作品は本ブログでもいくつかの作品を紹介しましたが、改めて本日はそのような話題をもとに作品を紹介します。



古?清水焼 色絵龍鳳凰青海波文七宝繋透彫灯篭形香炉
合箱入
幅155*奥行150*高さ195



本日紹介するこの作品は江戸後期頃から明治にかけての頃の作か? 古清水焼か清水焼かの境目に位置する作品のように思えますが。基本的には古清水焼に分類するのには抵抗のある方が多かろうと思います。



そもそも「古清水」という名称は、制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。

一般的には、野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称します。

なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。

野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造しましたが、その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されたと言っていいでしょう。 

野々村仁清の作品は色絵ではありませんが、本ブログのでは「さび絵」(野々村仁清は色絵より下記の作品のような「さび絵」の作品に真髄があるという評価もあります。)の作品を紹介しています。

瀬戸写菖蒲錆絵茶入 伝野々村仁清作
仕覆付 金森宗和箱書 二重箱
高さ105*最大胴径55*口径31*底径34



粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(生没年未詳)によって大きく開花します。仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。


それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。

町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。

江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。そんな中,京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(1753~1811)です。

氏素性の解らぬ作品 呉州赤絵写五角鉢 伝奥田潁川作 
時代箱(菓子鉢 唐絵鉢)入 
全体サイズ:幅155*155*高さ70



頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。

柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造
塗古保存箱
幅230*高さ250*奥行き135



幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(1824~84)によって制作された「京薩摩」が海外で大きく評価されました。しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。しかし,その後は,伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的・作家的な性格を強めながら生産を継続し,六代目清水六兵衛など多くの陶芸家を輩出しました。

角花紋花瓶 伝高橋道八作
共箱
口径角*胴幅60角*底径角*高さ220



第2次大戦後には清水焼団地(山科区川田清水焼団地町)などへと生産の地を広げ,走泥社(そうでいしゃ)が新しい陶芸運動を行うなど陶芸の地として世界的に知られるようになり,昭和52年3月に「京焼・清水焼」として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っています。

清水焼と古清水焼の見分け方は当方では明確には解りませんが、経験上は下記のことが言えると思います。

近現代の清水焼の釉薬は大変透明感が強くさらさらしているようです。文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えている作品が多いようです。

下記の作品は「古清水焼」として入手した作品ですが、おそらく近代に近い作でしょう。古清水には分類されない作品のように思います。

清水焼 扇面菊花紋様図 番鹿細工香炉
合箱
幅100*奥行き90*高さ163



「古清水」に確実に分類されている作品は青の釉薬などが透けて見えることはなく、ねっとりとした不透明で盛り上がり感がある釉薬が使われています。とくに古い赤はよりどす黒さに近い濃い赤と言われています。

土は硬くてすべすべしていますが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするもののようです。基本的に高台の裏などに窯印はまずありません。窯印のあるものは古清水焼より若い物と明確に区別されています。

本ブログでは下記の作品群が「古清水焼」として紹介されています。

古清水焼(栗田焼) 色絵布袋唐子香炉
合箱入
幅170*奥行130*高さ146



松竹梅図茶巾筒 古清水焼
口径48*底径65*高さ75



伝古清水焼(堆朱手) 色絵草花文三足香炉など
合箱入
径80*高さ75



さて本日の作品の紹介写真の戻ります。



上記の作品群に比べて釉薬に透明感があることから時代は下がるように思えます。



瀟洒で華麗な感じのする作品には相違ないですが・・・。



明治以降の作ではないかと推定していますが、入手時の説明では「古清水焼」、「江戸期」でした。



時代が下がる可能性があるとはいえ、このような手の込んだ作品で完品は意外に少ないと思います。よく虫籠の形をした「七宝繋透彫」の作品を見かけますね。



龍と鳳凰文がいいですね。鳳凰なのか朱雀なのかは不明ですが、四方神が描かれる場合は朱雀として鳳凰とは区別して呼ばれているはずですから・・。



ちなみに朱雀は鳳凰であるとも言われていますが、朱雀は多種多様な鳥類の特徴を併せ持った伝説上の生物です。伝説の中での鳳凰の鳳には5彩があり、赤を朱雀・黄を鵷雛・青を鸞・紫を鸑鷟・白を鴻鵠ということから、朱雀は鳳凰から派生したものと考えられているようです。そして、炎から生まれたといわれるフェニックスも同じ要素を持つようです。



各種の言い伝えがあるようですが、龍と鳳凰がともにあらわれると龍鳳呈祥といって、とても縁起が良くおめでたい吉兆だといわれています。食器や中国の縁起物では、よくこの龍と鳳凰の共柄を目にします。



古清水焼の作品で代表的な作例には下記の作品があります。

色絵七宝透文手焙
高:19.8×幅:25.8×奥:17.7㎝
江戸時代中期(18世紀)
京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品



木瓜型に菊唐草を配し,胴と蓋に七宝繋ぎ文の透かし彫りを入れた手焙ですが、竹耳や竹脚をあしらい,内側全面に金箔を押すなど装飾性を高め,高い技巧とともに優雅な趣味を見せています。仁清以来透かし彫りの手法は,京焼の得意とするところですが,本作品の意匠は京都で培われてきた独特のものです。

やはり古清水焼の釉薬は濃い色合いがベースとなっています。さて、本作品が古清水焼と称していいかどうかですが、厳密には呼ばないほうがいいでしょう。ただかなり古清水焼に似通ったデザインになっていることには相違ない作品でしょう。

考察:作品の分類やルーツというのは具体的な作品を例にとると意外に個人では無理があるように思います。個人所有の作品は贔屓目の目線になったり、手近に見本となる作品が少ないせいもあるのでしょう。謙虚に謙虚に後学を積んでいきたいと思います。

今年は謙虚に謙虚に・・・????

道行旅路嫁行 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃

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年末のなるとテレビをにぎわせる忠臣蔵ですが、本日は歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」にちなんだ作品の紹介です。

道行旅路嫁行 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱 
全体サイズ:縦2155*横575 画サイズ:縦1300*横460

 

この作品を味わうには下記のことを知っていなくてはなりません。「仮名手本忠臣蔵 道行旅路嫁行之段」のストーリーを知っておく必要があります。絵の真贋より本日はその画題に重き置いています。

この作品と同図の作品は他の日本画かも描いています。鏑木清方にもあったかも・・・??



骨董で重要なのは審美眼と並行して知識(教養)というものが伴わなくていけないようです。真贋を論じるのはそれより次元が落ちるはなし・・・・。

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仮名手本忠臣蔵 八段目 道行旅路嫁行之段

桃井若狭助(もものいわかさのすけ)の家老・加古川本蔵(かこがわほんぞう)の娘・小浪(こなみ)と塩谷判官(えんやはんがん)の国家老・大星由良助(おおぼしゆらのすけ)の息子・力弥(りきや)は許婚でした。

判官が御殿の中で高師直(こうのもろのう)に刃傷に及んだ時、本蔵が抱きとめたことから、判官は本望を遂げられませんでした。それ以来、加古川家と大星家は疎遠となっています。

大星一家が京・山科でひっそりと暮らしていることがわかり、本蔵の後妻・戸無瀬(となせ)は娘・小浪を嫁入りさせようと、親子2人で旅立ちました。街道を通る行列と比べ、乗物もない寂しい道中ですが、京が近づくにつれ、許婚に会えるうれしさに心浮き立ち、母娘は山科をさして急ぎます。華やかな中にも、憂いと哀愁がこもるのが演技の理想とされます。

続き 九段目

ようやく到着した戸無瀬と小浪は、出迎えた由良之助の妻お石(いし)から、嫁入りを拒絶される。戸無瀬は夫への申しわけに死のうと思い詰め、小浪も操を守って死ぬ決意をする。

戸無瀬が小浪を斬ろうと刀をふりあげると、門の外から虚無僧の吹く尺八の『鶴の巣籠(すごもり)』が聞こえてくる。そこへお石が「御無用」と声をかけて現れ、戸無瀬に向かい、主君塩冶判官が殿中で師直を討ち漏らしたのは本蔵が抱き留めたためだから、嫁入りを許す代わりに本蔵の首をもらいたいという。

驚く母娘の前に先ほどの虚無僧が入ってきて、天蓋をとると本蔵その人だった。本蔵がお石を踏みつけ、由良之助を罵るので、力弥が飛び出して槍で突く。

由良之助が現れ、本蔵がわざと刺されたと見抜き、小浪の嫁入りを許す。そして雪で作った五輪塔を見せて、敵討ちの本懐をとげて死ぬ覚悟を明かす。

それを聞いて喜ぶ瀕死の本蔵から師直邸の絵図面を受け取ると、由良之助は力弥と小浪に一夜の契りを許して、旅立っていく。あとに残った本蔵も、戸無瀬と小浪にみとられて、あの世へと旅立って行くのだった。

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なんともやるせない話の内容なのですが、むろん後日談として作られた話のようです。

さて本作品に押印されている印章はまだ当方では確認できていない印章ですが、落款は明治30年頃の作品の書体と一致し、作風もその頃かと推察されますが、確証はありません。

落款の書体に一番近い作品で当方で所蔵している作品は「護良親王図」(真作)を描いた作品です。

 

また後学とする知識、そして作品が増えました・・・・




柳ニ五位鷺 池上秀畝筆 その5

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年始に亡くなった妻の郷里の菩提寺を訪ねると位牌堂が新しく建て直されており、住職に新しくなった位牌堂を案内していただきました。その位牌堂の天井絵を描いた画家のひとりに池上秀畝がいます。時間がなくどの絵を池上秀畝が描いたかまではしっかり見られませんでしたが、今度の休暇にはしっかり見てこようかと思っています。

位牌堂にては亡くなった妻の実家が地元の本家ということもあり、位牌堂の中で場所はいいところに位牌が安置されています。天井絵はうまく撮影できなかったので後日改めて撮影させていただこうと思います。



さてそこで本日は池上秀畝の作品の紹介です。

柳ニ五位鷺 池上秀畝筆 その5
絹本水墨淡彩 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2210*横663 画サイズ:縦1370*横522

五位鷺の名は「平家物語」(巻第五 朝敵揃)の作中において、醍醐天皇の宣旨に従い捕らえられたため正五位を与えられたという故事が和名の由来になっています。

 

『平家物語』(巻五 朝敵揃):昔は宣旨を向かって読みければ、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なり、飛ぶ鳥も従ひき。近頃のことぞかし。延喜の帝神泉苑へ行幸なつて、池の汀に鷺の居たりけるを、六位を召して、「あの鷺捕ってまゐれ」と仰せければ、いかんが捕らるべきとは思へども、綸言なれば歩み向かふ。鷺羽づくろひして立たんとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらんで飛び去らず。すなはちこれを捕ってまゐらせたりければ、「汝が宣旨に従ひてまゐりたるこそ神妙なれ。やがて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされける。今日より後、鷺の中の王たるべしといふ御札を、みづから遊ばいて、頸かけてぞ放たせたまふ。まつたくこれは鷺の御料にはあらず、ただ王威の程を知ろ示さんがためなり。

意味:天皇が御所の南に造営された神泉苑に行幸されたとき、水際に鷺がいたので、六位の側近に捕らえるように命じられました。鷺は飛び立とうとしたのですが、天皇の御命令であるぞと言うと、畏まって捕らえられたので、天皇はお喜びになり、五位の位を授けられました。そして鷺の中の王という札を頸にかけて放したというのです。この逸話は王威の盛んなことを示すためであったと思われます。自然さえ王威に靡く程に勢いがあったことを物語るものとして、挿入されたものと推察sれています。延喜の帝とは醍醐天皇のことで、古来、天皇親政が行われた理想的な時代と理解されてきました。たしかに政務を代行する摂政官爆破空位でしたから、形式的には天皇親政に見えますが、実際には左大臣藤原時平が右大臣菅原道真を大宰府に左遷して、実権を握っていました。それでも最後の班田が行われたり、『延喜式』の編纂が行われたり、銭貨の鋳造をするなど、律令体制債権のための最後の努力がなされた時期でもありましたから、後世にはそのように王威を美化して伝えられたのでしょう。

ちなみに「六位」と呼ばれた側近は、おそらく「六位の蔵人」のことでしょう。普通は五位以上が昇殿を許される、所謂貴族なのですが、天皇の側近を務める六位の蔵人は、六位ではあっても特別に昇殿が許されました。ですから六位の蔵人は特例ですが、一般には六位と五位とでは、単に一ランク違うということではなく、昇殿を許されるか否かという、大変大きな差異がありました。その五位に鷺が与えられたと言うことは、特別なことだったのでしょう。そして鷺を捕らえた六位の蔵人が五位に昇進するというおまけまで付きました。



優雅という点では、ゴイサギは白鷺に劣るかもしれません。夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方があります。昼も夜も周回飛翔をして、水辺の茂みに潜んでいます。

池上秀畝の鷺を描いた本作品は代表作といっていいでしょう。

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池上秀畝:長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。

父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っている。

明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。瀧和亭、川辺御楯を訪ねるが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となり文人画を学ぶ。

明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられるが、秀畝はその中心人物となる。

1916年から3年連続で文展特選となるも、1918年同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切る。1919年、発足したばかりの帝展で無鑑査となる。1933年、帝展審査員。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力した。

晩年になっても力作を次々と発表したが、第二次世界大戦のさなか狭心症にて70歳で没する。戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられた。

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秀畝が描いた鷺は極めて写実的です。あえて例えるなら「鷺の肖像画」とでも言えば良いでしょうか、その写実力の精度の高さには唸らされるばかりです。



当方で現在所蔵している作品には下記の作品があります。

鵜 池上秀畝筆
紙本水墨淡彩 軸先象牙 堀田秀叢鑑定箱
全体サイズ:縦2145*横405 画サイズ:縦1250*横270



月下双雁 池上秀畝筆
絹本着色絹装軸 合箱 
画サイズ:横413*縦1117



白衣大士像 池上秀畝筆
紙本水墨淡彩 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2060*横420 画サイズ:縦1250*横300



展示室に飾られた写真は下記の写真です。
手前は古信楽壷(室町時代)です。









春景帰農図 倉田松濤筆

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郷里に帰省しましたが、喪中が続き「男の隠れ家」の神棚を新たにすることがおろそかになっていたので、一応しめ縄の交換などは行いました。





ついでに本年は大黒様のお使いの子の年でもらい玄関の大黒天も・・・。





長寿健康を祈念して廊下の突き当りの寿老人も・・・。






さて本日の作品紹介は郷里出身の画家、倉田松濤の作品です。もっと評価されていい画家なのですが、今では郷里でも忘れ去られた画家になっています。平福穂庵から受け継いだ奔放な筆致と当時の四条派からの影響がある作風は独特なものがあります。

春景帰農図 倉田松濤筆
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1880*横565 画サイズ:縦1130*横412



本作品は濃厚な宗教画を描く前の頃の作ではないかと思われます。平福穂庵の着色画の雰囲気に似たところがあります。

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倉田松濤:明治~大正期の日本画家。慶応3年(1867)生~昭和3年(1928)歿。秋田県出身。巽画会・日本美術協会会員。 幼い時から平福穂庵に師事。

特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。

落款「百三談画房」、雅号は「百三談主人」など。

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倉田松濤の作品には難読の賛が多く記されますが、主に後半生の作品に多いように思われます。本作品には落款と印章のみでそのような賛はありません。



風景の描き方には滲みなど四条派の影響がみられますね。



画力には定評のある画家の力量が伝わる作品です。



さらりと描いた俳画のような仏画にはそれほど魅力は感じませんが、濃厚な色合いで異様な雰囲気のある特異な画風の作品はもっと評価されていいと思います。

本ブログではおそらく読者の皆さんが飽きられるほど倉田松濤の作品が紹介されいますが、この度の帰省で家内の勧めもあって他に二作品を地元の骨董店から購入しました。その作品の紹介はいずれまた・・

東京名所図 高輪牛町朧月景 小林清親画

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年末年始に帰省しましたが、息子は郷里には雪があると帰省前から大はしゃぎです。今年は雪が少なくて心配しましたが、案の定例年の半分以下でした。それでも屋根から落雪して堆積した雪の山で「そり滑り」を帰省早々に始めました。



家内は滑るところを作ったりしていましたが、そのうちに案の定風邪気味になりました。小生は高みの見物でしたが、滑るところに水を撒いてあげて滑るようにしてあげ、そりの滑り方息子に伝授・・・。帰京するまでともかく雪を満喫したようです。スキー場に行こうかと思いましたが、時間がなくそれはまた来年かな? 来年はそろそろスキーを教えてあげようかと思います。



さて本日本日は小林清親の版画の作品の紹介ですが、他に小林清親の肉筆画などは本ブログで紹介されています。小林清親は夜の光線を描く「光線画」の版画家として高く評価されていますね。



*左下に飾られている花入は古上野焼です。

東京名所図 高輪牛町朧月景 小林清親画
紙本着色版画額装 復刻摺 誂:布タトウ+黄袋
明治12年 画サイズ:横340*縦230



旧暦明治5年9月12日、今の西洋暦にすると1872年10月14日に、新橋駅と横浜駅を結んだ日本最初の鉄道が開業し,大正10年10月14日に鉄道開業50周年を記念して丸の内北口に鉄道博物館が開館し、その翌年からこの日が鉄道記念日と制定されました。国鉄の分割民営化後も10月14日のこの日は「鉄道の日」とされています。



本作品は夕暮れの中を走る蒸気機関車で、ヘッドライトがついています。煙突からは炎まで見え、煙ももくもくとあがっています。客車の中にもライトがついており、光と陰、そのゆらぎ、色の移ろいなどを巧みに表現され、一般に光線画と通称されたジャンルを確立した小林清親の作品です。



西洋画から学んだとされる写実的な表現が特徴で、江戸から東京へと変わっていくこの時代の風景を清親は数多く描いています。これらの一連の作品は東京名所図と一般に呼ばれますが、東海道五十三次のような続き物ではないようです。



ところでこの絵はアメリカ製の蒸気機関車が描かれているのですが、実際に走ったのはイギリス製で、煙突の形も違ったとのことです。清親は実際に走っている姿を見て書いたのではなく、なにかの絵などを参考にして、この絵を描いたと推察されています。



こちらの作品は復刻されてたものと推察されます。



本作品は復刻版で初版は下記の写真のものです。



初版には左の耳の部分に発行元が記されています。



前にも紹介しましたが、小林清親の来歴は下記のとおりです。

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小林清親(こばやし きよちか):弘化4年8月1日〈1847年9月10日〉~大正4年〈1915年〉11月28日)。明治時代の版画家、浮世絵師。月岡芳年、豊原国周と共に明治浮世絵界の三傑の一人に数えられ、しばしば「最後の浮世絵師」、「明治の広重」と評されます。



生い立ち ─浮世絵師となるまで

方円舎、真生、真生楼と号す。清親は、江戸本所の御蔵屋敷で生まれた。父・小林茂兵衛が年貢米の陸揚げを管理する小揚頭(こあげがしら)という、御蔵屋敷では端役の小揚人夫の頭取だったからである。清親は七人兄弟の末子で、幼名は勝之助といった。兄弟のうち三人は既に亡く、兄3人姉2人がいた。
文久2年(1862年)10月14日、15歳の時に父が死に、兄達は既に別居していたため同居して最も信頼を得ていた勝之助が元服し家督を継ぎ、清親と名乗った。その後勘定所に配属され、慶応元年(1865年)の徳川家茂上洛の際には勘定所下役としてこれに随行し、しばらく大坂で生活している。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いや上野戦争に幕府軍として参加した武士の一人であった。

江戸幕府崩壊後、清親は他の幕臣たちと共に静岡に下り、一時三保に住んだ。後に浜名湖鷲津に移った。明治6年(1873年)頃東京に戻り、180cmを超える体格を買われ剣豪榊原鍵吉の率いる剣術興行団員として、大坂、静岡などを転々とする。しかし生活は苦しく、明治7年(1874年)絵描きを志すようになった。清親はこの頃、西洋画をチャールズ・ワーグマンに学ぶが、すぐにワーグマンの不興を買って足蹴にされたらしい。怒った清親は上京し、日本画を河鍋暁斎や柴田是真、淡島椿岳に学んだ。さらにこの時期に、下岡蓮杖に写真の手ほどきも受けていたという。現存する写生帳(個人蔵)では、明治10年代の時点で高い水彩画の技術を身に付けていることがわかる。



「明治の広重」
それから二年後の明治9年(1876年)、清親は大黒屋(四代目松木平吉)より洋風木版画の「東京江戸橋之真景」「東京五代橋之一両国真景」でデビュー、同年8月31日から「光線画」と称して昭和初年以来『東京名所図』と総称される風景画シリーズ(計95種)を出版し始める。清親は、その西洋画風を取り入れたそれまでの浮世絵にはなかった新しい空間表現、水や光の描写と郷愁を誘う感傷が同居した独自の画風が人気を博し、浮世絵版画に文明開化をもたらした。
しかし明治14年(1881年)の両国の大火後、清親は光線画から遠ざかり、翌年から『團團珍聞』などに「清親ポンチ」なるポンチ絵を描くようになった。また『日本外史之内』などの歴史画や、広重に回帰する『武蔵百景之内』(明治17-18年、全34図)、『東京名勝図会』(明治29-30年、全28図[5])、新聞や雑誌の挿絵など画域を広げていく。日清、日露戦争では戦争画を数多く描くが、その後錦絵の衰退により肉筆浮世絵を多く描くようになった。浅草小島町、山ノ宿、下谷車坂町に住み、上野、浅草を描いた絵も多い。清親は明治27年(1894年)から明治29年(1896年)までの間、「清親画塾」を開いている。明治31年(1898年)ころには錦絵版画が衰退期になって版画の仕事はほとんどなくなる。明治33年(1900年)夏、三女の奈津と福山、明石へ旅行し、秋に金沢へ赴き肉筆画を描くとともに、陶器に絵付けをする。明治34年(1901年)、『二六新報』社の主催した労働者懇親会に関連したため当局から注視され、後に同紙の新聞記事問題に関係して一時未決監に入れられた。同年、諏訪、岡谷へ旅行、肉筆画などを描いた。明治36年(1903年)、浅草、山の宿河岸52番地に転居した。

 明治37年(1904年) 清親の妻が浅草花屋敷に店を借りて絵葉書、扇子絵を販売する。清親は日露戦争を題材とした戦争絵を翌年にかけて描く。明治39年(1906年)の日露戦争後は錦絵界は全く不振となり、同年7月から翌年5月まで弘前に滞在、肉筆画を描いた。また、麹町区富士見町5の16に転居した。明治40年(1907年)、60歳で東京府主催の東京勧業博覧会に「大火の図」を出品する。明治41年(1908年)自らの還暦を祝した千画会では、両国美術クラブで「福神の手踊」、「雷神の酒店」など1000点以上の絵を描き健筆ぶりを示している。明治42年(1909年)、牛込界隈の図を描く。明治44年(1911年)9月、清親は平塚雷鳥らが創刊した雑誌『青鞜』の編集委員を務めた。のちに持病のリウマチが高じ、清親は1914年(大正3年)に没した。享年68。法名は真生院泰岳清親居士。墓は台東区元浅草の竜福院にあり、清親画伯之碑もある。清親の弟子に同じく光線画を描いた井上安治、ポンチ絵や戦争画を描いた田口米作、また詩人として知られる金子光晴、30年間に渡って師事した土屋光逸、珍品収集家として知られる三田平凡寺、武田広親、篠原清興、吉田美芳、高橋芝山、牧野昌広らがいる。
清親は江戸から東京への絵画の変遷を体現した画家として注目され、浮世絵の歴史は清親の死によって終わったともいえる。清親は、生前から現在まで常に研究対象として常に一定以上の関心を払われており、近年ようやく本格的な研究が進みつつある明治期の浮世絵師のなかでは異例のことであった。

親族

最初の妻きぬは鷲津村の農家の次女で、明治3年4月に清親と結婚、明治9年の4月に正式に結婚した。明治11年11月11日に長女の銀子が、明治14年に次女の鶴子が生まれている。明治16年にきぬと離婚し、明治17年に田島芳子と結婚する。明治19年8月15日に三女の奈津子が生まれ、明治23年に四女のせい子が生まれた。明治27年11月14日には五女の哥津子が生まれている。五女の哥津は仏英和高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)に在学中に平塚雷鳥の『青鞜』の同人となり、伊藤野枝、尾竹紅吉(尾竹越堂娘)らと同誌の編集に携わった。

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本来浮世絵らの版画作品はあまり額に入れて保存しません。それは額に入れて飾っておくと日焼した部分にマットの跡がついたりするからです。版画の顔料は変色しやすく、シミ抜きなどの修復も難しいからです。

また裏打ちなどしては評価が下がるのでしないものです。額に入れて飾る場合は短期間しか飾らないということが必要でしょう。版画はタトウに入れてそのまま保管しておくのが一番でしょう。



当方ではそのような理由から額には入れますが、飾る期間は短期間のみとしています。



額に入れるのはあくまで保管上の理由からですが、額には黄袋と中身の解るようにしておくことが必要です。タトウは誤って作品を落とさないため、黄袋はタトウから作品を取り出しやすくするためです。タイトルは一定方向に行い、必ず棚に収納する場合は縦横2方向から作品が解るようにすることです。



スキーもそりも同じ、物事にはコツというものが必ずあります。コンスタントに継続的に行うことが必要ですね。

氏素性の解らぬ作品 御妃尊図(仮題) 棟方志功筆

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いくら雪が少ないといっても正月はそれなりに積雪しました。社を庭内に抱える男の隠れ家は今年も風情のある景色になりました。



座敷はそれぞれ近郊のある社の方向に毎年のようにお供えがされています。



時間がなかったので床の誂えはいじりませんでした。



昨年少し直した蔵・・・・。



扉もきれいになって、開けやすくなりました。



内部には緊急時の扉もあります。火災の際にはここが開けられます。古い蔵には必ずこのような細工のされた隠し扉があったものです。



扉や窓をメインに修復し、密閉度が高まり、虫などが入りこまなくなり、さらに内部にあった多くの未整理の作品は別の場所を移動し、本来の蔵の姿に戻ってきました。



ここで残っている未整理の作品は会食で使う食器類のみ・・・、とはいえまだまだかなりの量があります。



元旦は皆で吹き抜けの下で郷土料理をいただきました。



ときおり、雪が落雪する音でびっくりしていますが・・・。



出てくる食器は意外にほどんどが自作や家族が作った作品です。ただ中には大正期のものも・・・、一応縁起物を選んだようです。女性陣は蔵にあった埃を被った作品を使うには抵抗があるようです



さて本日の作品は棟方志功らしきもの、棟方志功の作品は当方の手の届かぬ高嶺の花ですが、母方の叔父がいくつかの作品を所蔵していた頃に見せて頂いたことがありました。

下記の作品は叔父が亡くなった後に手放されたようです。

肉筆画 棟方志功画
紙本着色額装タトウ入 
画サイズ:縦340*横490



他の色紙の菩薩を描いた作品もありましたが、同じく同時期に手放されたと聞いています。有名な「二菩薩釈迦十大弟子」も全揃いであったそうですが、蔵整理時に他人にあげたそうです。価値も解らぬ若い時に惜しいことをしたと叔父が悔やんでいました。戦後のすぐの頃に生活の苦しかった棟方志功が木材で潤っていた郷里で売りに来たのを叔父の父が購入していたそうです。



叔父は叔父の父が亡くなった際に蔵を整理した際に春画がたくさん出てきて、それらと一緒に処分したとのこと、惜しいことをしたものですね。

当方では下記の作品を本ブログで紹介しているのが唯一の棟方志功の作品です。

乞使 棟方志功版画
紙本淡彩版画 額装 
額サイズ:縦390*横300 作品サイズ:縦185*横135



乞使は「愛染□・金槐板畫の内」と説明されています。昭和22年の初の版画集の作品です。

本日紹介する作品はなにやら氏素性の解らぬ作品です。色紙に描いた作品の裏に描かれた肉筆の作品ですが、むろん真贋は不明です。

御妃尊図(仮題) 棟方志功筆
紙本淡彩色紙 額装 
作品サイズ:縦270*横240



拾い物のようなお値段ですが、なんとなく気に入って展示室に飾っています。



絵が描かれた色紙の裏の描かれた作品。誰の描いた昨比でしょうか? 「□畝」と落款が読めるので、荒木寛畝一門の画家かもしれません。賛には「入舟の うしろについて 泳ぎいく」かな? 「うしほ句」とサインがありますが詳細は不明です。 



色紙の裏面に画描く?



色紙の表面には別の跡もありますが下書きではないようです。



題名は「御妃尊図」としましたが、仮題です。棟方志功の描く菩薩の題名はよく解りませんね。



筆には勢いがあります。



すべて肉筆のようですが、模写もたくさんあるでしょうから模写と考察するのが無難でしょう。絵を描いた裏面に描いているので意図的な贋作とは考えづらいのですが、よくわかりませんね。



落款と印章は下記のとおりです。

 

縁があってもすれ違いの多い棟方志功の作品ですし、棟方志功の作品は高値でもあり小生には無縁の画家なのかもしれないと覚悟しています。

月白風清 小杉放庵筆

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帰省した先では年始恒例の亡くなった母の道具を使っての書初め・・・・。家内も小生も書きます。



なんと息子は「ポツンと一軒家」を書きたかったようです。



仏壇の前でお披露目、母は字がうまかったので「まじめの書け!」と怒られそう



さて戦後に新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した根強い人気のある小杉放庵・・、よって贋作には要注意ですが、思いのほかに売買されている価格は高くはない・・・・



月白風清 小杉放庵筆
和紙本水墨淡彩 軸先 旧題共箱
全体サイズ:縦1340*横570 画サイズ:縦340*横430



作品中には「未醒絵」とあり、印章は資料と同一印。



箱には「月白風清」と題され。裏には「題旧作」とあり描いた後の後年による箱書きされた作品であろうと推察されます。

 

箱には「湖山指黙」と同一印章の「放庵」(朱文白長方印)が押印されています。

 

小杉放庵については本ブログにて何点か作品を紹介していますが、改めて略歴は下記のとおりです。

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小杉放庵(こすぎ ほうあん):1881年(明治14年)12月30日 ~1964年(昭和39年)4月16日)。明治・大正・昭和時代の洋画家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。 長男は東洋美術研究者の小杉一雄で、放庵の著作を多数編さんしている。二男はインダストリアルデザイナーの小杉二郎。俳優の小杉義男は甥になります。

栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていたそうです。 少年時代を日光の山中で過し、父に国学の素読を習い、中学は一年で退学していmす。

*出身地の日光には小杉放庵記念日光美術館があり、小杉放庵の日本画、油彩画、水彩画などの作品が展示されています。小杉放庵をいう画家の多彩な才能と日本の近代美術史上における広範な影響関係を紹介しています。

1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となり、西洋名画の図版などを手本に模写をし、或は風景写生を試み、油絵、水彩を自由気儘な作画をみてもらっていました。その後に4年ほど五百城文哉の許で学んでから五百城に無断で出奔し、白馬会洋画研究所に入りますが、これに馴染めず、肺尖カタルをも患ったため帰郷。再び五百城の元に戻っています。

1900年(明治33年)に今度は許可を得て再度上京し、小山正太郎の不同舎に入門する。1902年(明治35年)に太平洋画会に入会し1904年(明治37年)に未醒の号で出品する。

1903年(明治36年)からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。

1904年から始まった日露戦争には、『近事画報』誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画や、ユーモラスな漫画的な絵などで、雑誌の人気に大きく貢献した。

1905年には美術雑誌『平旦』を石井柏亭、鹿子木孟郎らと創刊した。

1908年(明治41年)に美術誌『方寸』の同人に加わり、この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回展で『水郷』、第6回展で『豆の秋』と題した作品が続けて2等賞となる。

1913年(大正2年)にフランスに留学しますが、当地で池大雅の「十便図」を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒し、油絵と同時に日本画にも筆をとる様になり、翌年の帰国後は墨絵も描き始めた。油絵もまた、油気を抜いた絵具を渇筆風に画布にすり込んでゆく技法で、画面の肌は日本画を思わせるようなマチュールを好んだ。同年、再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰する。また、二科会にも同時に籍を置いていた。

*なお小杉放庵の油絵は決して評価の低いものではなく、希少価値もありかなり評価が高い。

1917年(大正6年)に二科会を、1920年(大正9年)には日本美術院を絵に対する考え方の違いから脱退。

1922年(大正11年)に森田恒友、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎らとともに春陽会を創立する。

1924年(大正13年)に号を放庵と改めたが、これは親友である倉田白羊が一時期使っていた「放居」という雅号から「放」の字を貰って付けたものである。なお、雅号は後に放菴と更に改めているが、その時期や理由については不明。

*ちなみに本ブログで取りあげている平福穂庵は「 菴」から「庵」に逆に改めています。

1925年(大正14年)、東京大学安田講堂の壁画を手がける。

1927年(昭和2年)には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインを手がけた。

1929年(昭和4年)に中国へ旅行。

1935年(昭和10年)に帝国美術院会員。第二次世界大戦中に疎開のため新潟県赤倉に住居を移し、東京の家が空襲で失われたため戦後もそのまま暮らす。ここで、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した。 題材は古事記、奥の細道、歌人、孫悟空、おとぎ話など古典によるものが多く、次で花鳥、風景に及んでいる。油絵より日本画に移り、新文人画とでもいうべき水墨の、気品に富んだ作品を多くのこしている。又歌人としても知られる歌集が出版され「山居」、或は隨筆集「帰去来」などの著書がある。戦後の水墨画が小杉放庵の代表作となっている。

下記の写真は1955年(昭和30年)に撮影されたものです。



1958年(昭和33年)、日本芸術院会員を辞任。

1964年(昭和39年)、肺炎のため死去。墓所は日光市所野字丸美。

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1924年(大正13年)に号を放庵と改めたことは年代の解るひとつのターニングポイントであり、別号の未醒も記憶しておく必要があります。

ところで10年以上前に下記の作品「湖山指黙」という友人所有の作品を依頼されて思文閣に査定額にて12万で売却しましたが、思文閣の販売開始価格(大交換会)は25万でした。売買というのはそのようなもので、売る時には意外に安いものですが、現在ではもっと安くなっています。

湖山指黙 小杉放庵筆
古紙水墨指墨淡彩軸装 共箱 軸先本象牙 
全体サイズ:縦1268*横438 画サイズ:横288*縦394



小杉放庵の画は洋画からスタートしており、その画風の変遷は知っていないと同じ画家の作品とは予想のつかないものもあります。

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文典に入選した初期の画は、東洋的ロマン主義の傾向を示す。未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えている。

安田講堂壁画は、フランス画、特にピエール・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させ、日本的な志向もあらわしている。

フランス帰国後から東洋趣味に傾き、油絵をやめ墨画が多くなる。こうした洋画からの転向は「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」という認識に支えられていた。

代表作は『山幸彦』(1917年)、『老子出関』(1919年)、『炎帝神農採薬図』(1924年)など多数。晩年には『放庵画集』(藤本韶三編、三彩社、1960年)、『奥のほそみち画冊』(龍星閣、1962年)が刊行した。

画文集『絵本 新訳西遊記』(左久良書房、1910年/新版・中公文庫、1993年)、また画担当した田山花袋『耶馬溪紀行』(図書出版のぶ工房、2018年)が改訂刊行されている。

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当方でまだ紹介していない小杉放庵の作品に下記の作品があります。

啄木 小杉放庵筆
紙本着色絹装軸共箱二重箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横511*縦431



小杉放庵の代表的な作品のひとつと言える作品ですが、詳細の紹介はいずれまた・・・・・

李朝 刷毛目三島手平盃

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生前から30年間、懇意にしていて、一昨年に亡くなった平野庫太郎氏が、平成30年秋田県文化功労者に表彰されています。昨年の一周忌には義父がお盆に亡くなったので線香をあげられなかったので、昨年末に自宅を訪れていましたが、その受賞を知らずにいて失礼してしまいました。



男の隠れ家にはいつも平野庫太郎氏の作品を飾っています。確かな轆轤の技術と追及し続けてきた釉薬の魅力は評価を高め続けることでしょう。



昨日、家内が稽古仲間と自宅で初釜を催す際には床に花入れに生前に最後に頂いた花入れを飾りました。



床の掛け軸は遠州流の初釜にふさわしいものとして選択しながら、昨年亡くなったの義父を偲ぶ会であり、一周忌を迎えた母や平野庫太郎氏を偲ぶ会でもあります。
 
松下塵 辻宗範筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1125*横527 画サイズ:縦266*横498



「松下塵」は李白の下記の漢詩の一部を書にしたものです。

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李白(唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる)の五言律詩「酒に對して賀監を憶ふ」(壺齋散人注)
  四明有狂客  四明に狂客有り
  風流賀季真  風流なる賀季真
  長安一相見  長安に一たび相ひ見しとき
  呼我謫仙人  我を謫仙人と呼ぶ
  昔好杯中物  昔は杯中の物を好みしが
  今爲松下塵  今は松下の塵と爲れり
  金龜換酒處  金龜 酒に換へし處
  卻憶涙沾巾  卻って憶へば涙巾を沾す

四明山に変わった男がいた、その名を風流なる賀季真といった、長安で初めて出会ったとき、私を謫仙人と呼んだものだ

昔は酒を好んだが、今では松下の塵となってしまった(亡くなって土に帰ったことをいう)、金龜を売って酒を買ったあの場所、それを思い出すと涙が衣を潤すのだ

賀監とは賀知章のこと。高官を勤めながら破天荒な生き様で知られていた。李白がその賀知章と長安で出会った時、賀知章はすでに80歳を超えた老人であったが、李白を見て意気投合し、李白を謫仙人と呼んだ。

若い頃から奇行の多かった彼は、年をとると酒びたりの日々を送るようになった。そして743年の冬に病に倒れ数日の間意識を失った。意識を取り戻したとき、彼は道教の天国に旅をしてきたのだと話した。

744年、賀知章は道士となって故郷に戻ることを願い出、長楽坡で玄宗皇帝以下多くの高官たちの見送りを受けた。そのときに大勢の人々が別れの詩を作り、李白もそれに習ったが、儀礼を重んじた形式的なものだった。

賀知章は745年に高齢で死んだ。李白は彼の没後その人柄を偲んで、儀礼を抜きにしてこの詩を作った。

この詩の序で、『皇太子の賓客であった賀公は、長安の紫極宮で私の詩を読むなり、私を“謫仙人”と呼んだ。それを機に、金亀を解いて酒に換えて、ご馳走してくれた。賀公が亡くなってからは、お酒に向かうと悲しみがこみ上げてくるのである。そこでこの詩を作った』 と述べています。しみじみとした友情と敬愛の情があふれた作品である。賀知章を思うの念がよほど強かったのだろう。

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亡き義父、亡き友人を偲ぶ床の軸です。

書を書いた辻 宗範は遠州流の「中興の立役者」と称えらられ、遠州流8代小堀宗中に奥義を再伝授し、遠州流茶道ではこれを「返し伝授」と称しています。よってお濃茶の茶碗は宗中に縁のある茶碗にしています。



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辻 宗範:(つじ そうはん)宝暦8年(1758年)~天保11年(1840年)は、江戸時代中期の茶道家。近江国出身。宝暦8年(1758年)、近江坂田郡国友村(現滋賀県長浜市国友町)に生まれ、幼時から漢学を学び、成人後は小室藩(現長浜市小室町)の茶頭を務めていた冨岡友喜から遠州流茶道の奥義を究め、茶道、華道、礼法、和歌、俳句、絵画、書道、造庭など多方面にわたり豊かな才能を発揮した。

辻家は室町時代の文明年中(15世紀)以来、国友の郷士として活躍し、代々又左衛門を襲名。 宗範は、10代目の名前で、壮年期は、又之進と号し、妻(モン)は浅井町小室の高橋権太友ごんだゆうの娘。小室藩は田沼意次失脚に伴う田沼派大名粛清から天明8年(1788年)に改易となり、遠州流茶道も廃れかかっていた。

文化6年(1809年)、宗範は後に小堀家(旗本として再興)当主となる遠州流8代小堀宗中に奥義を再伝授した。遠州流茶道ではこれを「返し伝授」と呼び、遠州流では今なお宗範を「中興の立役者」と称えている。

茶道、礼法、書道では奥義を極め、多くの門人を養成し、その後、徳川将軍家の茶道師範を務め、晩年は尾張藩から高禄での招聘を受けたが断り、晩年は国友の地にありました。

いろいろな人と交わりをもち、浄土真宗の信仰を深めるなどして、天保11年(1840年)に生涯を閉じました。茶道を始めとして華道・書道・礼法、和歌、俳句、南画、造園など多方面に才能を発揮し、勝元鈍穴の他多くの門人を育てた。現在も、国友町に辻宗範の自宅跡地が残っています。叔父(父の弟)丹治は彫金師の臨川堂充昌、国友藤兵衛一貫斎は甥(姉みわの子)に当たる。   

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さて手元にある作品で酒器を・・・・。冷酒の酒器は陶磁器なら李朝か唐津か、漆器なら朱椀かな? 前にも話したように日本酒の冷酒は平な酒器が一番です。決してワイングラスや猪口などで飲むのはとは一味違います。



さて本日は機会があって値ごろな値段なら入手している李朝の酒器の紹介です。すぐに茶器にみたてる御仁多いですが、このような形状は茶碗にするには平すぎるし、ちょっと小さすぎる器です。

李朝 刷毛目三島手平盃
合箱
口径118*高さ35*高台径



李朝は復刻品や贋作が多いのですが、この程度の作品に真贋で目くじらを立てる必要のありますまい。



食器にも当然手頃な作品ですね。



発掘した作品で破損している作品を金繕いした作品もいいのですが、やはり完璧な作品がいいですね。



本作品も欠けの部分を補修された古い跡があります。



唐津を李朝は共通した特徴が高台にあるようで、兜巾や三日月型は共通しているようです。平野庫太郎氏はお酒が好きでした・・・・・。



富士山の図 平福百穂筆 昭和初期頃

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我が家は拝む神様がたくさんいます。一般的な神棚、庚申様の台所の神棚、大黒・恵比寿様のふたつの神棚、そして応接には天神様・・・。今年は上に富嶽の欄間額の作品を飾りました。



男の隠れ家から探し出してきた祝膳、源内焼の蝋燭立て、波斯風の榊入れ、伊万里の油壷などお供えする器もまた骨董品がいいでしょう。少しずつ特色のあるものにしていくのも楽しいものです。

展示室には平櫛田中作の大黒天の神棚があります。こちらは琉球の榊入れ・・。



市川鉄琅の福の神、加納鉄哉の恵比寿・大黒の面の神棚もあります。こちらは伊万里の瑠璃の徳利、明末呉須青絵の榊入れ・・、普通の市販品であは神様もつまらないでしょう。



他にも二宮尊徳像、利休像、弁財天、毘沙門天・・・・、骨董蒐集は崇める神が増えるということか・・・・

本日の作品は応接の天神様の上に飾った欄間額の作品の紹介です。

富士山の図 平福百穂筆 昭和初期頃
絹本水墨淡彩欄間額装 誂タトウ+黄袋 
全体サイズ:縦480*横1390 画サイズ:縦380*横1170



真作ならば、落款と印章から大正末期から昭和初期にかけて描かれた作品ではないかと推測されます。



印章は最も判別が難しい印章が押印されています。「難しい印章」と称する由縁は贋作に多く用いられている印章でもあり、また真作でも印影が違う場合が存在している可能性があるからです。

*右が本作品の落款と印章で左が図集に掲載されている「清江」1931年(昭和6年)作の作品に記されている落款と印章です。若干の違いがあるので「ほぼ一致」というところ、・・・・真贋の断定には不十分ですね。



富士山を描いた平福百穂の作品は少なく、下記の2点「富士山の図」が東京近代美術館に所蔵されています。

 

上記の両作品はほぼ同サイズです。(左:横535*縦765 右:横535*縦725)

ともかく人の眼につくもの、人の手につくところに飾るものとしては神棚と言わず適度な作品が一番都合の良いものです。なくなっても、破損しも大した被害が及ばないものがいいということでしょう

水墨風景図 藤井達吉画賛

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帰省した男の隠れ家は今年は少ない積雪量でした。それでも大晦日から元旦にかけては積雪し、年始は除雪で始まりました。



帰省先は家族3人だけですのでおせちは簡単に済ませます。



さて本日の作品の紹介ですが、今までに本ブログで紹介したきた藤井達吉の作品数はいったい幾つになったかさえ当方でも分からないほど作品を紹介してきました。それはその作品の魅力は尽きないものがあるからです。

現代の日本人には水墨画の良さが分からなくなっているかもしれないという危惧があります。小生のように水墨画の世界を抵抗なく好きになれるのは雪の埋まる北国に育った環境が関係あるのでしょうか? 都会の色とりどりの世界、喧騒の世界に育った人々には今一つぴんとこない画風かもしれませんね。

本ブログでは水墨画の良さを藤井達吉の作品以外にも、天龍道人、釧雲泉らの作品を通してしつこいくらいに引き続き紹介していく所存です。

水墨風景図 藤井達吉画賛
紙本水墨軸装 軸先陶器 栗木伎茶夫鑑定箱
全体サイズ:縦1550*横390 画サイズ:縦290*横600

*下の写真の左に飾っているのは荒川豊蔵氏の箱書きのある箱に収まっている魯山人の備前手付桶です。この作品の紹介は後日また・・・。



本作品の表具は藤井達吉本人の見立てかもしれませんし、または鑑定箱書きをしている栗木伎茶夫によるものかもしれません。藤井達吉は近所から頂いた野菜などの御礼に絵を描いてあげたようで、共箱のない作品、「まくり」の状態から表具は後で誂えた作品などもたくさん存在します。ただ意外に明らかな贋作はあまりみたことがありません。



決して何を描いたかは一見では解らず、藤井達吉の水墨画の世界は決して写実的ではありません。そこにあるのは精神性のあり方です。自然を観て底に何を感じ、そして今ある道具で簡潔にどう表現したらいいのかが藤井達吉の水墨画の世界であろうと思います。

工芸作家、デザイナー、和紙作家というスタンスから晩年は文人画としての色合いが強くなった藤井達吉ですが、それは画を深い学問教養を積んだ人が描くものとし、これは職業的画工の作品から区別するものという文人画の定義そのものなのであろう。

作品中には右下に「達」の朱文白丸印の印章のみの作品ですが、箱は栗木伎茶夫氏による鑑定がなされていおります。

栗木伎茶夫氏の来歴は下記のとおりで、藤井達吉の鑑定している作品は数多くあります。

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栗木伎茶夫:(くりき ぎさお)陶芸家。明治41年(1908)生。藤井達吉に師事する。半世紀を超える陶歴で瀬戸陶芸界の長老と呼ばれ、土ものの赤絵の技法を用いた。文展・日展等入選多数。瀬戸市無形文化財保持者(陶芸・赤絵技法)。氏は「藤井先生の座右の一言『ロクロは自分で挽け、文様は自分で考えよ。』は、陶芸の規範であり、形と線により出来たものを科学的に処理して生まれる物が陶芸である。」と述べています。

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本作品中の印章、箱書きは下の写真のとおりです。

  

本作品と同様の栗木伎茶夫の鑑定箱付の作品は本ブログにて何点か紹介されていますが、下記の作品のように賛のある作品もあります。

水墨山之図 藤井達吉画賛 その14
紙本水墨軸装 軸先陶器 栗木伎茶夫鑑定箱
全体サイズ:縦1280*横590 画サイズ:縦310*横450



箱書には「八十の 口ひげそりて 筆つくり よきすみつけて 山をかきぬかも 伎生誌 押印」とあり、賛には「空庵」と落款が記されています。年齢から昭和36年頃の作と推察されますが、注目に値するのは藤井達吉の賛にもあるように「口ひげで筆を作って絵を描いた。」という点です。



2019年10月29日放送の「なんでも鑑定団」に藤井達吉の作品が出品され、出品者が「髭で筆を作って絵を描いた作品かもしれない。」と話されていました。



その出品作を鑑定された安河内眞美氏の評は下記のとおりです。

「藤井は絵も描く、焼き物もできる、七宝焼もあるなどありとあらゆる作品を残していて総合芸術家と言える人物。依頼品と似たタッチのものが何点かある。髭で描かれたかどうかは断定できないが、普通の筆ではないと思う。がさがさした藁のようなもので描いたのだろう。共箱になっているのが良い。「筑紫路にて 愚翁」の愚翁とは藤井達吉の別号。表具は達吉自身が取り合わせたのではないか。渋好みで軸先が焼き物(陶磁器)になっており、総合的に一つの作品を作り上げている。」

評価金額の50万円はともかく、髭で描いた作品が存在する可能性があるというのは興味深いですね。「水墨山之図 藤井達吉画賛 その14」は賛にあるように本当に本人の髭で作った筆で描いたのでしょう。本作品も髭で作って絵筆で描いたかもしれませんね。

ところで掛け軸は収納する際に棚に小口側を見せて収納するのが常でしょう。よって小口に作品名を表示するのが一般的です。



当方では所蔵作品が2000作品を超えており、その中で掛け軸が最も多く1000作品を超えています。作品を効率的に探し出すにはいちいち作品の中身など見ておられません。収納してみると解りますが、作者別に収納するのは掛け軸の横幅の長さが同じ作者でも多々あり、棚に作者ごとに収納するのには無理があります。掛け軸の長さ別に管理し、その上で作者別に収納するのが作品の整理には効率的です。

  

当方では小口に作品が解るよう作品の題名と作者を表示しています。番号を付けてその際に写真と説明付きのリストを作るのが一番いいでしょう。ただそれはある程度の蒐集の目途がついた段階の算段です。

通常は作品をデータ化してパソコン上で検索できるようにしておくと便利ですし、さらに当方のようにブログにて管理しておくとデータが手元になくても検索できるようになります。

解りやすいように作品の写真を貼り付ける方法もありますが、陶磁器はともかく掛け軸の小口では狭くて無理がありますし、美的センスもありません。当方では小口に貼る表題は改装の際に処分されてしまう既存の表具材をベースにして表示しいています。

ほかにもいい方法があるでしょうが、当方では今のところ1000作品を超える作品がこの方法ですべて管理できています。

好きこそものの上手なれ、また好きなことは記憶力が落ちることは遅いようです。ボケ防止に骨董蒐集の整理は有効なようです。あくまでも整理してですよ、集めっぱなしはまったくよくありません。整理は除雪のようなもので整理していないと真白な世界で水墨画どころか何も区別がつかなくなります。
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