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もっと評価されるべき画家 夏景山水図 楠瓊州筆 その3

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さて年始は皆で着物姿です。息子が着ているのは小生のお下がりの着物です。男の隠れ家にある箪笥から家内が引っ張り出してきました。家内も箪笥から探し出して着ています。小生は父のお下がりでは高級過ぎると家内御用達の綿の着物・・・



まずは初詣・・・。



雪遊び・・・。



男の隠れ家にて祈願・・・・、息子は着物には違和感がなく着ています。



さて本日は本日で3作品目の紹介となる楠瓊州の作品の紹介です。最近の南画家で海外で高い評価を受けているのは本ブログでも作品を取り上げた福田古道人ですが、もっと高い評価を受けてもよいひとりに本日紹介する「楠瓊州」という画家だと思います。

もっと評価されるべき画家 夏景山水図 楠瓊州筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入タトウ 
全体サイズ:横325*縦1935 画サイズ:横205*縦1290

 

楠瓊州の来歴はかきのとおりです。

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楠瓊州:日本画家。広島県生。名は善二郎。田中柏陰の門下。京都に出て、服部五老・江上瓊山に師事し南画を学ぶ。富岡鉄斎・浦上玉堂を研鑽し、晩年梅原龍三郎や中川一政らの影響も受け、油彩や水彩、南画の融合を試みた。また詩書・篆刻・和歌も能くした。昭和31年(1956)歿、64才

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楠瓊州については意外にご存知ない方が多いようです。楠瓊州が一定の評価されるようになった経緯を下記の記事にて再度説明いたします。



美術評論家でもある河北倫明氏の楠瓊州に関する下記の一文は、思わぬ反響を呼び、後に国立近代美術館主催の「近代における文人画展」や、また氏が館長をつとめる京都近代美術館での「異色の水墨画展」への遺作九十余展に発展しています。

「その画家の絵は、これまで何人かの人に売られたが、それもきわめて安いうえにきわめてマレであった。よくそれで生きられたと思うが、晩年は書いた絵を友人のところへ持って来ては、米にかえ、金のかたとし、細々と生き延びて絵をかき続けたという。

もっとも、コレだけのことなら、気の毒とはいってもたいして不思議ではなく不精な絵かきの中にはありそうなことである。またコレという画才もなく、生活の才覚もないのなら、やむおえぬ運命かもしれぬ。しかしこの画家は生活の才覚は無かったかも知れぬが、決してただの無能の画家では無かった。いや、それどころか、この晩年の困窮の中で、しだいに画境を純化し、何のとらわれも無い自然な境地に立ち至り続々と興味ある画作を書き残したのである。

数日前、知人からの話でその晩期の遺作の何十点かを見た私は、このあばら家の画家が晩年の孤独のうちに上りつめていた画の世界の純度に驚いた。困窮生活にかかわらず、少しも貧乏くさいところがなく、甘美な情緒さえたたえ、力まず、気取らず、よごれず、遥々とし美の国に遊んでいる。絵のかき方は南画だが、南画といっても児童画のような自由さをはらみ、香り高い色感をもっている。

よくもこの境地まで行ったものだ。世間に画家は多いし、えらい人も多い。しかし、その中でこの名も無く貧しい画家がひとり静かに実現しているものは、決して見過ごすべきものではない、画家らしい画家のひとりがこんなところにもいたことを私は喜ぶ。その画家の名は楠瓊州である。」



世の中には、満ちあふれた素晴らしい才能を持ちながらも、いつしか時の流れの中に、忘れられ、遂には消えていってしまった画家が何人もいます。本ブログで紹介している南画家、下村為山と楠瓊州もまさにそんな画家で生前はほとんど高い評価を受けていませんでした。ともに己の信念を押し通して、どの画壇、団体にも属さず、いささか、頑なに偏して生きた人達だとも言えましょう。

楠瓊州は明冶25年2月、広島県尾道市に生まれ、高等小学校を卒業後、服部五老の内弟子となって絵の修行に励みましたが、父の急逝により、尾道に戻り家業を継ぎました。その後再び京都に赴き南画家江上瓊山に師事。尾道に戻った後、23歳で画家として立つべく札幌に渡りますが、大正7年には東京に転居。飛鳥山にほど近い北区西ヶ原で、亡くなるまでの約40年間おびただしい画作を続けています。

南画の基調である水墨山水画を出発点としながら、油絵、水彩画、南画の長所もあわせた新日本画の確立を望んでいたようです。昭和31年3月24日、64歳で孤独の内に没し、画室には膨大な画稿が残されたのである。だれ一人身寄りとてなく、あばら家のセンベイ布団にくるまったまま、近所の人にも気づかれず冷たくなっていたそうです。

*元総理の宮沢喜一さんが惚れ、美術評論家の河北倫明氏が褒め、そして有名な 書家上田桑鳩氏が熱愛した画家でもあるそうです。



賛には「首印 讀畫敲詩?論 本之日談山 話水吸真理 □万感興□ 車□□乃 童心以春□ □□□冬日 瓊州□人作 押印」とあります。



描いているのは夏? 落款には冬・・???



下記は本作品に押印されている印章で、右下に遊印もあります。

  

本作品は楠瓊州の代表的な作例で佳作と言っていいでしょうが、本ブログを読まれた皆さんがどう感じられたでしょうか?

近年は掛け軸の人気がありません。ましてや南画などは・・。掛け軸を飾るスペースがない、扱い方が知らないという目先の不理由で放置されているのは忍びないものです。

着物も同じ運命・・・、それでは寂しかろうというもの、なにかが欠けていく・・・。



下記は家族三人で着物姿・・・、自宅にて家内の稽古仲間での初釜の際の撮影です。息子に去年買った袴はもう短いようです。ほかは小生のおさがり・・・。私も親戚のお下がり・・・。

一行書「福寿康寧」 愛新覚羅寿古書

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自宅にて初釜の際に展示室に飾った作品。子の年にちなんで初釜に飾りました。泉米年・・??? 画家の詳細はまったく解りません。



唐辛子を食ってあまりの辛さに仰天した鼠???? 記憶は定かではありませんが、盛岡の骨董市で30年以上前に購入した作品です。おそらくお値段は若輩のサラリーマンが買える数千円程度のものだった思います。

本日は氏素性の解らぬ中国の作品・・・、中国骨董熱が日本に来襲してまだやむ気配がありませんが、当方はその風潮は一切お構いなし・・・。

一行書「福寿康寧」 愛新覚羅寿古書
紙本水墨軸装 中国表装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1740*横430 画サイズ:縦*横(未測定)



字は素直でいい字体、素人受けする書でしょう。



それに日本でおなじみの?「愛新覚羅」の一族の書となれば日本人観光客は飛びつくらしい。中国で愛新覚羅で人気なのは溥烈などの別人の書画・・。



壬午:平成14年「(2002年)?
京華:北京のこと?
愛新覚羅寿古:愛新覚羅溥儀の甥。この人の作品は中国のショップで作品が数多く売られているようです。

 

 

おそらく機械で即時に表具され、作品は数万円なり。



日本などの観光客目当てに店頭販売されていた作品でしょう。本人が居て売られていたこともあるようです。



表具の機械は日本製?



日本でも機械表具なら数千円らしい。



ま~、ともかく愛新覚羅の一族の作品???



中国人が高値で買い取っていく作品は愛新覚羅一族の作品ですが、それはまた別の愛新覚羅の画家や書家です。



手前の壺は辰砂の作品。



これもまた・・・、本日は土曜日、ともかく肩の凝らぬ、ご愛敬の作品の紹介でした。

特別投稿 2020年 初釜 

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初釜前夜になりようやく慌ただしく段取りした支度も終わり、懐石の席の準備も完了・・。



当日(先週の13日)は門の前で皆でお客様を出迎えし、予定通り始まり、懐石も滞りなく終了・・・、ただお酒を飲みすぎて懐石段階の撮影は失念



さて初釜の茶席の始まり・・・。この日はとても暖かく茶席周りのドアを開放して催すことができました。



懐石の後なのでくつろぎながらのお濃茶の茶席から始まりました。



花入は一作年に亡くなった平野庫太郎作、辰砂の一輪挿し。花は息子の幼稚園の友達の家の前日に畑から水仙を頂いてきました。

床の掛物は辻宗範の書・・・。



松下塵 辻宗範筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1125*横527 画サイズ:縦266*横498

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辻 宗範:(つじ そうはん)宝暦8年(1758年)~天保11年(1840年)は、江戸時代中期の茶道家。近江国出身。宝暦8年(1758年)、近江坂田郡国友村(現滋賀県長浜市国友町)に生まれ、幼時から漢学を学び、成人後は小室藩(現長浜市小室町)の茶頭を務めていた冨岡友喜から遠州流茶道の奥義を究め、茶道、華道、礼法、和歌、俳句、絵画、書道、造庭など多方面にわたり豊かな才能を発揮した。

辻家は室町時代の文明年中(15世紀)以来、国友の郷士として活躍し、代々又左衛門を襲名。 宗範は、10代目の名前で、壮年期は、又之進と号し、妻(モン)は浅井町小室の高橋権太友ごんだゆうの娘。小室藩は田沼意次失脚に伴う田沼派大名粛清から天明8年(1788年)に改易となり、遠州流茶道も廃れかかっていた。

文化6年(1809年)、宗範は後に小堀家(旗本として再興)当主となる遠州流8代小堀宗中に奥義を再伝授した。遠州流茶道ではこれを「返し伝授」と呼び、遠州流では今なお宗範を「中興の立役者」と称えている。



茶道、礼法、書道では奥義を極め、多くの門人を養成し、その後、徳川将軍家の茶道師範を務め、晩年は尾張藩から高禄での招聘を受けたが断り、晩年は国友の地にありました。いろいろな人と交わりをもち、浄土真宗の信仰を深めるなどして、天保11年(1840年)に生涯を閉じました。

茶道を始めとして華道・書道・礼法、和歌、俳句、南画、造園など多方面に才能を発揮し、勝元鈍穴の他多くの門人を育てた。現在も、国友町に辻宗範の自宅跡地が残っています。叔父(父の弟)丹治は彫金師の臨川堂充昌、国友藤兵衛一貫斎は甥(姉みわの子)に当たる。

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さて肝心の「松下塵」の意味は・・・、これが意外に判明するの時間がかかりました。調べたところ出典は下記の李白の漢詩からであろうと推察されます。

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李白(唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる)の五言律詩「酒に對して賀監を憶ふ」(壺齋散人注)

  四明有狂客  四明に狂客有り
  風流賀季真  風流なる賀季真
  長安一相見  長安に一たび相ひ見しとき
  呼我謫仙人  我を謫仙人と呼ぶ
  昔好杯中物  昔は杯中の物を好みしが
  今爲松下塵  今は松下の塵と爲れり
  金龜換酒處  金龜 酒に換へし處
  卻憶涙沾巾  卻って憶へば涙巾を沾す

四明山に変わった男がいた、その名を風流なる賀季真といった、長安で初めて出会ったとき、私を謫仙人と呼んだものだ

昔は酒を好んだが、今では松下の塵となってしまった(亡くなって土に帰ったことをいう)、金龜を売って酒を買ったあの場所、それを思い出すと涙が衣を潤すのだ

賀監とは賀知章のこと。高官を勤めながら破天荒な生き様で知られていた。李白がその賀知章と長安で出会った時、賀知章はすでに80歳を超えた老人であったが、李白を見て意気投合し、李白を謫仙人と呼んだ。

若い頃から奇行の多かった彼は、年をとると酒びたりの日々を送るようになった。そして743年の冬に病に倒れ数日の間意識を失った。意識を取り戻したとき、彼は道教の天国に旅をしてきたのだと話した。

744年、賀知章は道士となって故郷に戻ることを願い出、長楽坡で玄宗皇帝以下多くの高官たちの見送りを受けた。そのときに大勢の人々が別れの詩を作り、李白もそれに習ったが、儀礼を重んじた形式的なものだった。

賀知章は745年に高齢で死んでいますが、李白は彼の没後その人柄を偲んで、儀礼を抜きにしてこの詩を作ったと言われています。

この詩の序で、『皇太子の賓客であった賀公は、長安の紫極宮で私の詩を読むなり、私を“謫仙人”と呼んだ。それを機に、金亀を解いて酒に換えて、ご馳走してくれた。賀公が亡くなってからは、お酒に向かうと悲しみがこみ上げてくるのである。そこでこの詩を作った』 と述べています。しみじみとした友情と敬愛の情があふれた作品である。賀知章を思うの念がよほど強かったのだろうと思われます。

賀知章のら来歴は下記の通りです。

*賀知章:玄宗皇帝の頃、長年官界で働き、秘書監の位まで昇りつめ、80歳過ぎて故郷の紹興に帰った。久々に帰って来た故郷では、周りの事情はすっかり変わっていて、胸の奥に大きな空洞を感じている。

晩年、賀知章は、酒に浸り、自ら“四明狂客”とか“秘書外監”などと号して、放縦な生活を送っていたようです。杜甫は、「飲中八仙歌」の中で賀知章を筆頭に挙げています。賀知章は、酔って街を遊び歩く際には、書を書いて道行く人々に上げたという。書の面では、東晋の書家・王義之 (307~365) に喩えられるほどであると評されており、草書、隷書が得意であったという。

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昨年亡くなった義父を偲んでの掛物です。そしてお酒の好きだった平野庫太郎氏をも・・・。故人よ、わが心に永遠なれ。

懐石で飲んでいただいたお酒は「清流」・・、そのお酒の副題は「酒仙在我」。この度は友人や恩人を偲ぶ意図が小生にはあったお茶会です。故人らの願いや仕事は何らかの形でいずれ復興、実現することを祈念しながら・・。

贋作考 流芥老納 釧雲泉筆 文化2年(1805年)頃

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初釜の時に展示室に飾った作品のひとつに松本耳庵の書があります。



この作品は家内の父が亡くなった時と同じ年齢時に書かれた書のようです。



手前は戦時中に満州から私の父が持ち帰った? 五彩の花入れ。父は私が中学校にあがったばかりの頃に亡くなっています。

これらは二人の父を偲ぶ展示です。

初釜の展示作品はこちらの意図がプライベート過ぎるので、申し訳ありませんが来客の方には深くは説明しておりません。



さて、本日はひさかたぶりに釧雲泉の作品の紹介です。南画が盛りし頃の作品群における真贋の判断の度合いは、近代画家の作品の比ではないくらい難しいものです。相も変わらず挑戦するのは当方の懲りない悪い性癖のようです。



流芥老納 釧雲泉筆 文化2年(1805年)頃
水墨淡彩紙本軸装 軸先象牙 鑑定箱入
全体サイズ:縦1940*横600 画サイズ:縦1170*横460
 


箱には「雲泉子書画第□春運?」、「己未法私?月観并題署流芥老納 押印」とあります。「己未」から1919年(大正8年)に箱書きされたと推測されますが、箱書された人物については不明です。

作品中の釧雲泉の落款の書体、印章は真作に非常によく似ているものの、いつもながらあくまでも本作品が真作とは断定できていません。

この印章はこの年間に押印された作品に多いようです。なお真作なら47歳頃の作と推定されます。



享年からから文化年間の釧雲泉の来歴は下記のとおりです。

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享和年間
享和元年(1801年)、蒹葭堂を訪ねる。その後京都に赴き、享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住。儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わる。この頃に結婚したと推測される。

文化年間
文化3年4月(1806年)46歳の頃、大窪詩仏とともに信越に赴く。高崎から安中を抜け碓氷峠を越えて信濃入りし、信濃川を下って越後の柏崎に至る。その途次各地で画の依頼を受けて制作をしている。詩仏は引き返したが、雲泉は旅を続け三条で秋を過ごした。その後一旦、江戸に帰り、妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽くす。この間越後の各地を遍歴し石川侃斎、上田坦山、倉石米山、倉石乾山、行田八海などの門弟を育てている。文化5年(1808年)には燕の素封家の神保家に滞在し画作している。

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*本作品が真作なら享和年間から文化年間にかけて江戸に在住していた頃の作となります。



落款の書体もきちんとしているし、贋作ならよく描けているほうですが、どうも今一つすとんと腹に収まらない作品です。この説明は口下手な当方では言葉での説明は難しい。単純に印章が違うとか、画風がおとなしいとの表現ではすまないものなのでしょう。



脇に真作と置いて模写した・・・??? 



この作品はおそらくお蔵入りか・・>

改装完了 竹 原三渓賛画

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最近は初釜の準備と片付けで写真撮影、ブログの原稿作成がままならぬ状態・・、とうとう今週末には疲労で?風邪でダウン ともかく好きなことはじっくりやるために睡眠第一

家内のお茶の社中にはどうも息子と同年代の女の子が多くなってきたようです。男の子が少ないのが現状なようで、幼稚園でも息子はもてるようです。全くもてなかった小生にはうらやましい限り・・



初釜にに展示した作品のひとつは原三渓の掛け軸です。家内が原三渓の絵が好きで、家内が購入した作品ですが、表具が痛んでいたの改装したので紹介します。

竹 原三渓賛画
紙本水墨軸装 軸先木製 誂箱 
全体サイズ:縦1900*横455 画サイズ:縦2147*横320



賛に「甲戌」とあり、昭和9年の作と推察されます。「三渓先生漫畫竹 是蘆是竹不?誰知 一竿恐不人間種 喚得清風満意吹 昭和甲戌冬於南風村荘寫 三渓 押印」とあり、下記の作品に同様な賛のある作品があります。途中の賛に一部違いはあるもののほぼ同一の意味の賛であろうと推定されます。



*2019年11月に改装し直しています。改装を機にリメイクでの投稿となります。詳細はそちらも参考にして下さい。

本作品と同様な作品が資料にあります。



「三渓先生漫畫竹 蘆耶竹耶自不知 婆娑恐不人間種 喚得清風満意吹」

三渓先生 漫ろに竹を画く 蘆か竹か 自ら知らず 婆娑たるは 人間の種に非るを恐ろしむ 喚び得るか 清風意を満たして吹くを」

意味:「三渓先生が筆に任せてとりとまもなく竹を描く だが蘆なのか竹なのかよく分からない 描かれた竹が風に揺れる様が自由気ままで、この世のものではないと感じるので、果たして清風を心行くまで吹かせることができるだろうか」のようです。

本作品は「三渓先生漫畫竹 是蘆是竹不?誰知 一竿恐不人間種 喚得清風満意吹」 とあり2句目と三句目に多少の違いがあります。

解説
起句で自分自身を「三渓先生」と尊称で呼んだのは、意のままにならない絵を描く自分自身の心理的な屈折を承句と転句で戯画化し、虚構性を仕組んだと考えられます。そこには自分自身の画技に対して謙遜しながら、斜に構えている「三渓先生」がいます。

また三渓先生は水墨画を好みました。白黒で最小限の世界を表わす水墨画は、現実の色彩の世界から超越した精神世界を表わします。三渓は結句で竹という物質の実在感ではなく、清風という目に見えない対象を描くことができるかどうかに苦心しています。つまりここで三渓は絵画の神髄に触れているのです

ご存知の方も多いでしょうが、原三渓の来歴は下記のとおりです。

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原 富太郎(はら とみたろう):慶応4年8月23日(1868年10月8日) ~昭和14年(1939年)8月16日)。実業家、茶人。明治・大正・昭和の前半期にかけて生糸貿易で財を成した実業家にして古美術と近代日本美術のコレクター、新進画家のパトロン、さらに自らも絵筆をとる文人であり茶人、横浜だけでなく日本を代表する文化人として大きな存在感を示した号は三溪。三溪の号は自邸がある本牧三之谷の地名からとった。



美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市)出身。1868年(慶応4年)岐阜県厚見郡佐波村(現岐阜市柳津町)に青木久衛・琴の長男として生まれる。

小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。

屋寿と結婚。1892年、跡見女学校に通う横浜の豪商・原善三郎の孫・原 屋寿(はら やす)と結婚し、原家に入る。1899年(明治32)善三郎の死去に伴い、横浜で一二を争う生糸売込商「亀屋」の家業を継ぐ。翌年には原商店を原合名会社に改組、富岡製糸場など製糸業にも進出して近代的な事業経営を次々と展開する。

横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。1915年に帝国蚕糸の社長、1920年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。

1923年の関東大震災後には、横浜市復興会、横浜貿易復興会の会長を務め、私財を投じ復興に尽くした。

このように多くの企業や社会福祉関係の要職につくかたわら、院展の画家や彫刻家に対する物心両面の援助を行う。美術品の収集家として知られ、横浜本牧に三溪園を作り、全国の古建築の建物を移築した。

三溪園を一般公開したのが1906年(明治39)、小林古径、安田靫彦や前田青邨ら若手画家への支援を開始するのが1911年(明治44)、臨春閣の移築が完了するのが1917年(大正6)。三溪園にはインドの詩人タゴールをはじめ内外から著名な文化人が多数来訪。1923年(大正12)の関東大震災時には横浜市復興会長として横浜の復興に奮闘、また生糸危機に直面した蚕糸業や銀行の救済に奔走、さらに経済の発達に伴って生じるさまざまな分野の社会事業にも貢献を果たす。

晩年は親しい友人・知人との三溪園での茶会や、自らの書画三昧の生活を楽しむ。1939年(昭和14)逝去、享年70。 .三溪園は、戦後原家より横浜市に譲られ、現在は財団法人三溪園保勝会により保存され、一般公開されている。子に原善一郎、原良三郎らがいる。

横山大観の「山路」(明治44年制作)は原三渓の依頼によって描いた作品です。

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「果たして清風を心行くまで吹かせることができるだろうか?」 誰もが願う人生の究極の境地か・・。私どもとしては、この初釜の席が訪れた方にとっていいものだったかどうかという心配を表したような作品でもあります。



ちょうど茶席の裏になる床に飾りました。手前は伝高橋道八の柿本人麻呂像で、こちらも補修された作品であり、「亡くなった人を偲ぶとともに復興、復活を祈る」という初釜の席の趣旨のあった飾りのつもりです。

さて明日は札幌へ日帰りの出張です。夜遅くブログの原稿を作成していますが、風邪気味になったのと初釜の準備と片付けで忙しく、仕事も慌ただしいため、なかなか原稿を推敲している間もなく雑な文章を投稿していることに恐縮している日々です。

豆花図 福田豊四郎筆

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二階の展示室には庭に咲いた椿の花・・・。



花入れは古上野焼。その下は米にお櫃・・、昔は白米は高級品であったので鍵がかかるような箱に収めれていたようです。これは家内に家にあったもの・・・。

さて本日の作品の紹介です。福田豊四郎の作品については素性のはっきりした作品は市場になかなか出回らなくなり、意外と高い値段になる傾向にあります。ただ本日の作品のように落款の書体が数少ないものだと贋作と疑って入札が少なく、廉価にて入手できる場合もあります。

*福田豊四郎の作品にも贋作はありますので注意してください。若書きにも晩年の作にもありますが、ただ思いのほか贋作の数は少ないです。



豆花図 福田豊四郎筆
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
F10号程度 全体サイズ:縦1480*横713 画サイズ:縦460*横563

福田豊四郎の草花を描いた作品は動物は魚を描いた作品もそうですが、一種独特の雰囲気があります。極端な抽象化ではなく、ユーモアもありますが、なんというか一種の品格があります。

これは作品にとってとても大切なこどです。品格のない作品はいずれ飽きられるものですし、その作風もあまり一定すぎたり、フォーマット化するというのもいけないようです。明治期の四条派の画家はその点に陥ったように推察され、消滅の一途をたどりました。



本作品に押印されている印章はよく使用されるものですが、落款の書体は戦前のごく限られた時期の書体です。この書体から昭和17年頃の作ではないかと推察されます。

当方の所蔵作品においてもいくつかの同じ書体の作品が在ります。下記の写真左が本作品の落款と印章で、中央と右が他の所蔵作品「山湖秋」と「水藻の花」の箱書きからの落款と印章です。

*手元に筋の良い作品が出そろうと真贋の判別は徐々に容易になってきます。



収納箱は残念ながら共箱ではありません。このような場合は飾ることを主体に額装にすることもあります。近年、軸装の作品は飾る場所がないことや扱い方を知らない人が多いので軸装の作品は敬遠されています。まだ染み抜きするほどではありませんが、シミが入り始めているという保存上からも、思い切って額装にしてしまおうとも考えました。



しかし実際に作品が手元に届いて見てみると意外にもいい表具ですし、作品の状態もいいようです。これは額装にしないほうがいい・・・・・

秋山竒峯図 野呂介石筆

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朝起きてきた息子がいきなり朝刊をじーっと睨んでいたそうです。



何やら紙とペンを用意して書き始めました。



どうも新聞記事の見出しにある「国交省」という字を書いているらしい・・。こちらから字を特段教えているわけでないが、書初めの影響か? それにしてもいきなり国交省か

本日は久方ぶりに野呂介石の作品の紹介です。野呂介石の作品は4作品目の紹介となります。

秋山竒峯図 野呂介石筆 その4 1822年 
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 識箱二重箱(箱蓋 枝光氏蔵)
全体サイズ:縦2160*横630 画サイズ:縦1260*横470

野呂介石の来歴を改めて紹介すると下記のとおりです。

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野呂介石:延享4年~文政11年3月14 日。江戸後期の南画家。名は隆。通称九一郎。字は松齢,隆年。介石,矮梅,四碧斎などと号し,また後漢の第五倫を慕い,第五隆とも称した。和歌山の人。

医師の家に生まれ,幼時,藩儒伊藤蘭嵎に師事して儒学を修め,寛政5(1793)年,47歳で紀州(和歌山)藩に仕えた。武芸にも励むまじめな武士であった。

画は少年時,鶴亭,次いで池大雅に師事。仕官以前は画家として生活したらしい。黄公望,伊孚九に私淑して南宗山水を描いています。しばしば「那智滝図」などの真景図を描いたのは大雅の影響かもしれませんが,その画風は極めて穏和で,大雅には似ていない。画論に『介石画話』がある。

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上記の記事から極めて真面目な性格であったと推測されますね。

 

賛には「竒峯倒映青冥立 絶壑高懸白霧開 萬里無雲見秋末 千林有雨向春回 呉仲圭詩」
とあり、さらに「壬午秋晩寫□四碧□七十六歳老人介石第五隆 押印」とあります。1822年(文政5年)野呂介石が76歳の時の作と推定されます。



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野呂介石の詳細

延享4年1月20日(1747年3月1日)~文政11年3月14日(1828年4月27日))江戸時代後期の日本の文人画家である。紀州藩に仕え、祇園南海、桑山玉州とともに紀州三大南画家と呼ばれている。

名ははじめ休逸(きゅういつ)であったが、のちに改名して隆(りゅう)または隆年(りゅうねん)のふたつの名を混用した。字を松齢(しょうれい)、号は介石のほかに班石(はんせき)、十友窩(じゅうゆうか)、澄湖(ちょうこ)、混斎(こんさい)、台嶽樵者(だいがくしょうしゃ)、第五隆(だいごりゅう)、晩年になって矮梅居(わいばいきょ)、四碧斎(しへきさい)、四碧道人(しへきどうじん)、悠然野逸(ゆうぜんやいつ)と号している。通称を弥助(やすけ)、後に九一郎(きゅういちろう)、喜左衛門(きざえもん)と称した。

紀州和歌山城下の湊紺屋町、町医 野呂高紹の三男として生まれる。10歳の頃より藩儒 伊藤長堅(蘭嵎)に儒学を学んだ。

墨竹などの画を好み、中国の画法を独学しようとしたが進まず、14歳にて京都に出て黄檗僧 鶴亭(海眼淨光)について長崎派の画法を修める。一旦郷里に戻るが再び上京し、21歳の時、池大雅について南画の技法を修得した。京都と和歌山を行き来しながらおよそ10年もの間、毎日山水画十景を画くことを日課とした。25歳のときには大雅の妻 玉蘭が和歌山を訪問している。師を深く敬愛したが、28歳の時大雅を失う。このころ清の来舶商・画家 伊孚九に私淑し影響を受けている。大坂の木村蒹葭堂や紀州の先輩 桑山玉州とも親しく交流し画業の研鑽に励み、名を成すようになる。34歳の時再婚したが花嫁は17歳年下の士族の出身であった。

終生を京都で過ごそうとしたが、藩命によって仕官することとなり46歳のとき紀州に戻った。勘定奉行支配小普請として医業を以て藩に仕え、のちに銅山方なって領内各地を踏査している。本草学にも詳しかったようである。江戸には2度赴いた記録があるが、晩年には江戸詩壇の大窪詩仏、菊池五山との交わりがあった。その他に頼山陽、頼杏坪、篠崎小竹、田能村竹田、本居大平などの交友が伝えられる。

1810年、大和多武峰千手院に所蔵される黄公望の「天地石橋図」を臨模したことを大いに喜んでいる。公務で熊野の山中に分け入り、深山幽谷に数十日もあって山水の趣を体得したという。画は人のためでなく己の楽しみのためとし、胸中に真山水を貯えれば、自ずと手が応じるとして、写意のある画を求道した。墨竹図・山水図を得意としたが、特に熊野山中を描いたものが多く那智の瀑布は現在までに十数点確認されている。

兄と慕うひとつ上の桑山玉州とともに南画会の双璧と評されている。また長町竹石、僧愛石とともに「三石」とも称されている。中国の黄公望、伊孚九に私淑した。享年82。法号 四碧院節翁介石居士。和歌山市吹上護念寺に墓碑がある。

・四碧齋の号は、藩侯が彼の那智山図を見て嘆賞し「山色四時碧」の一行物を下賜したことを記念したもの。
•矮梅居の号は、仕官して2年目に賜った居宅に老梅があったことから。
•第五隆の号は、漢の第五倫の人となりを慕ったことから。三男だったが姉二人を入れると五番目の子であった。

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箱には「介石翁畫山巒法山水妙品」、「明治丙申(1896年 明治29年)菊月(旧暦9月 長月の異称 10月、神無月の異称とも)下浣□於三松庵中 題鑑本□人□□ 押印」とあります。

 

賛にある「呉仲圭」は黄公望、倪瓚、王蒙と並ぶ元末四大家のひとりのことです。

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呉仲圭:呉鎮。1280年8月12日(至元17年7月16日)~1354年(至正14年))。元時代の文人画家。字は仲圭、号を梅花道人(梅道人)、梅花和尚。嘉興(現在の浙江省)の魏塘鎮出身。黄公望、倪瓚、王蒙と並ぶ元末四大家の一人で、元の山水画様式を確立した。

漢詩や書にも通じたが、終生仕官せず易卜や売画をしたり、村塾を開くなどしながら終生清貧と孤高の隠遁生活を楽しんだ。巨然の点描法を学び、墨竹は文同に学んだ。明時代刊行の「梅花道人遺墨」がある。元末四大家のうち、他の3人は互いに交流したが、呉鎮との間に交流はなかったようである。池大雅など日本の文人にも影響を与えた。

代表作品は下記の作品があります。

左:洞庭漁隠 右:漁父図

 

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本ブログに投稿されている野呂介石の作品には下記の3作品があります。詳細はそちらをご覧ください。

秋景山水図 野呂介石筆 その1 1817年
絹本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2050*横610 画サイズ:縦1300*横465



山水図 野呂介石筆 その2
紙本水墨
画サイズ:縦290*横360



青緑山水図 野呂介石筆 その3 1817年頃
紙本着色 軸先象牙 鑑定箱
全体サイズ:縦2280*横770 画サイズ:縦1590*横620



「画は人のためでなく己の楽しみのためとし、胸中に真山水を貯えれば、自ずと手が応じるとして、写意のある画を求道した。」とありますが、我に置き換えると「骨董は人のためでなく己の楽しみのためとし、胸中に真物を貯えれば、自ずと手が応じる。」 さらには我が息子が新聞を見て突然漢字を書きだしたようなものか? 父子は似たらしい・・・

影青刻花碗 伝宋時代 その6 & その7

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本ブログで紹介した作品を数えてみたら2,500作品を超えていました。継続は力なり・・・・???? 

ガラクタもこれだけ揃うと「仕事を退職後には骨董市で売り払いなさい。」とは家内の弁・・。「はっは~、でも売るよりまた買ってくる来るほうが多くなるよ!」と反論しています

さて本日は影青刻花碗と称される作品群の紹介です。本来の影青刻花碗は北宋、南宋時代に区分され、特に北宋時代の作品は数が少なく珍重されています。本作品は北宋から南宋時代にかけての作品ではないかと推察していますが、どちらかというと量産された南宋時代と判断しています。

影青刻花碗 伝宋時代 その6
誂箱
口径175*高さ60*高台径



影青は13世紀、中国南宋時代の後期に江西省景徳鎮窯で焼成された青白磁を総称しています。市場に出回る影青の作品は南宋時代の作で、これより古い12世紀前半までの数が少ない北宋時代の影青が格段に評価が高くなります。



南宋の時代になると大量生産をしており、形が南宋時代に比べて横から見ると形がはんなりとふっくらし、高台がわりと大きく、すべすべしているところが判別のポイントとなるそうです。南宋時代の作品は本作品よりさらにはんなり状になっています。



北宋時代の青白磁は窯道具の台に乗せて、鞘に入れてひとつずつ焼成するため、高台の裏に窯道具の鉄色の跡がどうしても遺っています。本作品もそのような跡が高台内に遺っています。



見込みには箆か櫛でささっと雲とも水の流れともつかない文様を描いており、勢いが出て、実に良い文様が特徴です。文様が過度に混み入っているものは近代の模作に多いようです。



全体に基本的には薄作なので割れてしまうため、南宋、北宋に関わらす宋時代の状態の良い青白磁が遺っているは極めて少なくなっていると言われています。

下記の作品「その7」はほぼ南宋時代に量産された作品のひとつでしょう。

影青刻花碗 伝宋(南宋)時代 その7
誂箱
口径170*高さ67*高台径



全体にふっくらしている感じが南宋時代の作品の特徴と言われています。



南宋時代のものでしょうが、さっと描かれた陰刻は魅力的ですね。



掠れた感じは故意による薬品のものか、発掘作品によるものかは素人では判断が難しく、小生ではまだ判別できていません。



見込みの陰刻はお茶碗として、また食器としても飲したり、食した後の楽しみにもなりますね。高台が思いのほか浅いのでお茶碗としては使いにくいものになりますし、また薄手なのでお茶が熱く感じてしまうのでこれもまた茶碗としては使いづらいことになりそうです。



高台は南宋時代の作品はすべすべしたものとなっているのが特徴のようで、時代が下がると徐々に窯道具の跡が無くなっていきます。



高台の脇には補修の跡があります。この補修跡は口縁にもありますが、いったいどのような補修方法なのでしょうか?



以前に口縁の痛みの激しい作品には覆輪のように金繕いを施しましたが、そこまでの必要はこの作品には必要ないようです。



影青刻花碗は今回の紹介で「その6」&「その7」となりましたが、10客揃いで向付のような使い方が小生の狙いです  骨董市に並ぶかも・・・





青呉須雲龍文花入

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神棚の榊入や仏壇の線香入などなんでも骨董品を使う当方では、榊入がなにかいいのはないかと探していたら本作品を見つけました。

青呉須雲龍文花入
誂箱入
径75*高さ229

 

本作品は非常に珍しい形状で、確かではありませんが、明末から清初めにかけての漳州窯で作られた作品と推察しています。

 

のびのびとした龍の絵付けが魅力で、日本からの花入か茶杓立として特注であった可能性があります。



骨董品は収納しておくと忘却の彼方に作品が置かれ、どこに仕舞ったのかも分からなくなる傾向にあります。ともかく使うことが大切です。



洗面所の歯ブラシ入れ、タオル置き、石鹸入れなども骨董品です。当然破損しても大きな損失にならないものがいいでしょう。



古伊万里、瀬戸の絵皿など何でも使います。既成のものを購入してきてもつまらないでしょう・・。とりあえず100円ショップやホームセンターで揃えたら、徐々に気に入った作品に取り替えていきましょう。



ペン立て、名刺入れ、印鑑立て・・、なんでもいいから使いましょう。



骨董は廊下や室内に所狭しと置いたら蒐集する者として失格です。



いくら本物を集める目利きでも集める資格はありません。



整理して飾ることが亥の一番に大切なことです。



現在は榊入・・・・・・

釣人 酒井三良筆

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酒井三良の作品で共箱以外に酒井澄氏(奥さん)、と息女の中谷智子氏による鑑定箱の作品がよく見かけます。本日の作品はその「中谷智子」による鑑定箱に収められている作品の紹介です。

酒井三良の作品は叔父が多くの作品を所持していたので、叔父の所蔵作品で勉強させていただきました。その作品のすべてが子息によって手放されていますので、現在当方で所蔵してる作品はすべて当方で蒐集した作品です。

釣人 酒井三良筆
紙本水墨軸装 軸先木製 息女中谷智子鑑定箱 
全体サイズ:横600*縦1230 画サイズ:横400*縦310



酒井三良の作品の多くはのどかな田舎の風景を郷土愛に満ちあふれた美しいタッチで情緒的に描いており、美しい作品が多数あることで有名となります。さらに、その淡く白みを基調としいた作品はどこか繊細であり、緻密な表現力で描かれる日本人の琴線に触れるような作風が多くあるのが特徴でしょう。



酒井三良は住居を様々な場所へ移し、決して豊かと言えない生活を妻(酒井澄)と一人娘(中谷智子)を引き連れて過ごしていましたが、昭和21年、横山大観のすすめで茨 城県五浦の大観別荘に移り住み、ようやく太平洋側ののどかな場所で落ち着いて暮らせるようになります。本作品はその当時になったからの作品ではないかと推察しています。

本作品は落款はなく印章のみが押印されています。この「三良画印」はよく見かける印章です。



下記の写真は箱書きの鑑定の落款と印章です。

 

決してうまいとか派手さのある作風ではありませんが、郷土愛に満ちあふれた彼の作品は飾って置いてほっとする優しさがあります。これが日本画の良さでしょう。



洋間に飾っても、応接室に飾っても似合う作品と言えましょう。



小生は書斎の片隅の床に飾っています。見るたびに叔父のことを思い出します。

群鮎之図 伝小泉檀山筆 その4 1813年(文化10年)

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初釜の際の展示室には展示作品のひとつに下記の作品を展示しておきました。

恵比寿大黒図 柴田是真筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先本象牙 合箱二重箱入
全体サイズ:縦1935*横633 画サイズ:縦992*横541

*手前は金城次郎作の魚文の壺です。



めでたい(鯛)図柄で干支の鼠が描かれています。



さて本日は小泉檀山(斐)が描いた「群鮎図」の「その4」の作品の紹介となります。小泉檀山生前から小泉檀山の描いた鮎を描いた作品の評価が高く、生前から?贋作があったようですので、あくまでも「伝」の作品とご承知ください。



脇に展示の作品は古備前の壺です。

小泉檀山の作品に詳しい方の説によると「必ず群れで描いた鮎のうち一匹は跳びはね、他の一匹は極端に背びれが強調されている。」とか・・・。

さらに文献を整理すると下記ようになります。

小泉斐(あやる)の作品の特徴
・鮎が一匹だけ跳ねている
・上ひれが大きく一匹だけ描かれる
・色彩が直接書き込まれ、ひれに色が二重に書き込まれる(本作品では色が淡い)
・草花の描き方は初期や晩年には雑なようです。



ただこのような決まり事にこだわりすぎるといけないのも事実です。

本日は本ブログにて紹介している「群鮎之図 小泉檀山筆」の「その4」となる作品の紹介です。

群鮎之図 小泉檀山筆 その4 1813年(文化10年)
絹本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1730*横455 画サイズ:縦985*横335

 

賛には「癸酉夏雨後於臨川亭 檀山人小泉斐寫 押印」とあり、1813年(文化10年)、小泉斐が43歳の作と推定されます。「臨川亭」の詳細は不明です。「小泉斐印」と「子章□」の白文朱方印と朱文二重方印が押印されています。

 

30歳頃に那須郡両郷村(現在の栃木県那須郡黒羽町)温泉神社の小泉光秀の養子となり同社の神官を継ぎ、立原翠軒に就いて経学や詩文を修め、その子でのちに大成した画家である立原杏所に画を教えています。また和歌、音楽を嗜んだとも伝えられています。

享和元年(1801年)に、甲斐守に任ぜられ従五位に叙され、本作品はそれから10年後ほど後の作となります。同時期の1813年(文化10年)に鮎を描いた作品が栃木県指定文化財になっており、この当時から鮎を描いていたことが推定されます。



なんでも鑑定団の解説によると「鮎が(11匹描かれているので)一匹20万円。70歳を越えたあたりから、自らの健康を祝い長寿を願って、5歳加算して年齢を入れている。そのため「九十」と落款に書かれている場合は実際はは85歳となる。小泉斐といえばやはり鮎図で、制作依頼も大変多かったと思う。高齢になると若い頃はもっと葦の葉などきれいに描かれているのが、いわば雑になるが、これはこれで味になっている作品が多い。」とあります。



本作品は鮎が7匹ですから140万円・・・???

小泉檀山の描いたアユの絵は、猫やキツネが爪を立てたり、飛びついたりしたという記録や、描くアユの数で絵の値段が決まったという言い伝えがあります。なお最近では油絵にベロ藍を使用して挑戦していたことが判明するなどしているそうです。

評価金額は別にして、小泉檀山の「鮎」、黒田稲皐ら因幡画壇の「鯉」など意外に知られていない得意の分野の画題の作品の蒐集は愉しいものです。決して器用ではない画家らが得意な分野に打ち込んで一芸を成したいるのは心を打つものがあります。

呉州餅花手 その5 瑠璃地白花花卉文盤 その3 & 素性の解らぬ作品 藍釉花文鉢

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初釜の際の展示室において、一階の廊下は伊勢正義の少女像、二階の廊下は福田豊四郎の魚をモチーフにした作品を展示しました。ともに郷里出身の画家です。二人共に一昨年亡くなった母に縁のあったが画家です。廊下の展示の様子は下記の写真の通りです。福田豊四郎が描いた魚をモチーフにした作品はまだありますが・・。



2階スペースには福田豊四郎が父母の結婚祝いのために描いた「鶴汀」を展示しました。この作品は当方の蒐集作品の中でもかなり出来の良い作品です。実際は母方と父方の両方の実家で描かれ、父方の作品は行方が分かっていません。本作品は母方の作品を譲っていただいたものです。母は当然、父と母が譲り受けるものと思っていたようですが、あまりの出来の良さに双方の実家で手放さなかったそうです。母は常々不満そうにしていました 代わりに小生が入手したようなものです



さて本日は明末の漳州窯のおける大皿の作品ですが、漳州窯のおける大皿の作品は呉須染付・呉須赤絵(青絵)・餅花手と大きく3つに分かれ、本ブログにてそれぞれの作品を紹介していますが、その3分類において「餅花手」は最も作品数が少なく、希少価値が高い作品群です。御存じない方も多いようですが「なんでも鑑定団」に二回ほど紹介されている作品群ですので徐々に知られるようになっているように思われます。

さらにその作品群において白地、藍地、柿地に細分化されています。この頃の作品は胎土は白くありませんので、そのため失透質の白釉を、高台を除く全面に掛けて、その上に藍釉や茶褐釉をかけてあります。いずれにおいても当時は呉須などの高級な釉薬を大量に使用した餅花手は、まだ伊万里磁器が登場する前の陶磁器の黎明期において、日本にて大いに所望された高級品として評価されていた作品です。

藍釉の作品が一番多いようで、柿地(茶褐地)は少なく、白地になるともっと数は少なく市場では滅多に見ることはありません。さらに麒麟や龍の文様の作品(ブログ掲載済:下記の作品参照)はさらに貴重となります。ちなみに当方の蒐集作品では「白地」のみが未蒐集となっています。

下写真:呉州餅花手 その4 藍褐地双龍文大盤 なおこのような作品はなかなかありませんので、当方にて所蔵できたことは運がよかったと思います。



本日紹介するのは下記の作品で「呉州餅花手 瑠璃地白花花卉文盤」の3作品目の紹介です。呉州餅花手でもっともポピュラーな瑠璃釉の作品ですが、最もポピュラーな作品群でさえなかなか入手できませんし、完品や完品に近い作品、さらには発色の良い作品は稀有です。呉州餅花手は明末から清初にかけて漳州窯にて焼成された呉須赤絵、染付の作品に対して圧倒的に数が少ない作品群です。

呉州餅花手 その5 瑠璃地白花花卉文盤 その3
合箱入
口径385*高台径*高さ100



インターネットオークションにて12万円ほどにて落札した作品です。なんでも鑑定団ではこの20倍の値段の評価をしていますが、決してそれは大げさではないでしょう。

当方では「藍釉」の作品では3作品目の入手となります。状態としてはいい方ですが、全体にアマ手で貫入があり、中央付近に窯傷のニュウ等が一本あり、表から裏に通っています。



当方の所蔵作品「呉州餅花手 その2 瑠璃地白花花卉文盤 その1」(下写真:左)は状態が抜群にいい状態です。
本日紹介する作品は「呉州餅花手 その3 瑠璃地白花花卉文盤 その2」(下写真:右)と同等程度以上の状態と判断されます。いずれこれらは発色の良い方で、保存状態もかなりいい方です。

*下写真:中央は「呉州餅花手 その1 茶褐地白花花卉文盤」です。



精緻で上手で貴重な作品は、たいてい口縁が額縁のように立っていますが、本作品も(鍔縁)口縁の立っている作品で、評価は他の作品に比して数倍すると言われています。口縁には最盛期の特徴である虫喰が見られます。呉州餅花手の作品もそうですが漳州窯の作品のいい作品という条件には「口縁が額縁のように立っている」ことが必須のようです。



当方で蒐集できた瑠璃地白花花卉文盤の3作品、「瑠璃地白花花卉文盤 その1(右) その2(中央) その3(左)」を並べてみたのが下記の写真です。中央の「その2」の作品が発色が淡くなっていますが、これでも状態はいい方で、発色が淡い作品は焼き上がりがよくないものと評価されます。なお貫入、釉薬の剥がれ、窯傷はある程度許容されます。



下記の作品のように口縁の立っていない作品は一般に明末の漳州窯の作品の中では評価は低くなります。量産された作品なのでしょうか、文様が簡略化されています。

口縁の立っていない作品例:参考作品 瑠璃地草花文大皿 関西大学博物館



他の呼び名としては褐色地のものを「柿南京」、藍地のものを「瑠璃南京」があるようです。 



高台の作りはこの時期の漳州窯(汕頭(すわとう)(中国広東省)磁器)の作りに共通しているように荒々しい高台となっています。



基本的に釉薬は高台には掛けていませんが、ついでに釉薬が掛かってしまったという感じです。砂付き高台が基本であり、高台内が綺麗なっているのは時代の下がった作品か、日本から特注で注文のあった作品に限られているようです。



焼き上がりは中程度と思われます。漳州窯の焼き上がりのよい作品は貫入はあるものの貫入は少なくなり、発色は「その1」のようにもっと鮮やかになります。ただ釉薬の剥がれは焼き上がりのいい作品でもあります。呉須赤絵などにおいて釉薬の剥がれが少なく、虫喰いのない作品は絵付けに面白味が少なくなった時代の下がった作品に多いようです。



傷のある作品は敬遠されがちですが、漳州窯の作品は大きさゆえに発生する窯傷、運搬時の擦り傷などが多く、また使用したことによる多少の割れは許容してもいいでしょう。



漳州窯の作品や古染付などのこのような無頓着さが日本の茶人たちの侘び寂びを愛する気持ちに通じ、日本では人気があったのでしょう。中国には残存しているこれらの作品は皆無で日本にてほとんどの作品が所蔵されています。



荒々しさ、無頓着さは民芸作品にも通じるところがありますが、今の女性中心の茶の世界は残念ながらこのような無頓着さに美を見出す余裕がないように思われます。端正さ、綺麗美が中心で実につまらない・・・・。日本におけるこのような美的感性は世界に類をみないものです。許容する精神性というのは、韓国や中国の精神性と大きく違います。とくに韓国の反日運動は儒教の潔癖性に基づくところが大きいですが、日本とは相容れない点であることは理解しておくべきでしょう。

さて近代では餅花手の作品は手間のかかるせいか、同様の図柄の作品は見当たりませんが、技法が同等の作品はあるようです。

本日紹介するもうひとつ作品は「呉州餅花手」の作品に対する参考作品程度と考えてください。この作品は漳州で焼かれた「呉州餅花手」の大皿のような代表的な作例ではなく、文様も違い、器形も鉢になっているため、その産地、時代は不明で、近代作の可能性もあります。特定の作品群の蒐集には必ずこのような寄り道的な蒐集作品が入り込むものですが、それによって知識の幅が増すことは多々ありますので、参考作品としてご覧ください。

氏素性の解らぬ作品 呉州餅花手? 藍釉花文鉢
口径280*高台径*高さ93



製作年代はせいぜいあったとしても、明末より時代の下がった清朝の頃と推定していますがあくまでも制作年代は不詳です。



参考作品として入手しましたが、見込みの擦れから推察すると「ある程度時代はあるのかな?」と思っています。



餅花手の語源は「柳の細長い若枝に小さく丸めた餅や米粉のだんごを刺したもので、五穀豊穣や繁栄を祈願して小正月に神棚に飾り付けるもの。」に文様が似ていると言われています。

ただ「モチャハブ:朝鮮語で母子貪のこと。人形の蓋物で、粉食・粉楳匙・粉証・粉水器などの化粧用具一式を納めたもの。」とする説もあり、餅花手の餅花は当て字?とされるのでしょうか?  当方ではよくわかりませんね。



本作品は底には釉薬は一切なく、清朝の一般的な作品のようなきれいな高台となっています。



ただ見込みには擦れがあるなどそれなりの使用感はあります。



「藍釉をベースとした白釉の文様の作品」に分類されるかもしれませんね。



時代はあっても清朝から近代?



下手をしたらお土産品程度の作品?



当方では洗面所の洗面道具入れになっています。



明末の漳州窯の作品では呉須を使用したたんなる藍釉一色の作品まで珍重されるようですが、それはマニアックな世界。マニアックな世界は本来の美意識に基づいた骨董の世界とは別世界だと思います。当方では丁寧にひとつひとつ蒐集していきます。

表具完了 芭蕉下家鴨図 蓑虫山人筆 その16 & 中野山浅絳山水図 その3 蓑虫山人筆 その15

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家内と義母は週末は法事で留守・・、息子はLEGOに夢中ですが、小生がいなくなると寂しくなって、LEGOを止めて骨董を扱う小生の元を離れようとしません。「パパはいいよね、おもちゃがすぐ買えて・・。」・・、そう骨董は小生のおもちゃそのもの。ばれているらしい。「お前が引き継ぐんだよ。」と言ったら「うん!」だと・・・



普段はなかなか入手しづらい作品が、突然にインターネットオークションに数を纏めて出品されることがあります。日曜美術館やなんでも鑑定団などのテレビで放映されたことに触発される場合もありますが、基本的には旧家所蔵品、コレクターなどの所蔵家などがまとめて手放されたことによるようです。

本日は蓑虫山人の作品がインターネットオークションに2018年4月に8作品ほど「まくり」の状態でまとめて出品され、そのうち2作品を入手した作品です。出来の良いものが多く、意外に高値での落札となりました。それから一年半経過しましたが、このたび表具が完了したのでブログに投稿いたします。

芭蕉下家鴨図 蓑虫山人筆 その16
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横530*縦1910 画サイズ:横410*縦1265



手前の作品はバーナードリーチの大皿です。



青森の南部美術(八戸)からの入手。こちらの作品はまくりの状態で14万円にて入手。この手の作品ではインターネットオークションでは高い方であり、蓑虫山人の作品でもかなり高額の値段です。

「青森に8年余り長逗留し、某家の襖・戸板等々に描いた家より譲り受けた作品」という説明でした。
*2019年11月 表具完了

 

山水画や風俗絵の多い蓑虫山人の作品の中では珍しい図柄であり、かつ佳作のひとつであろうと思います。



印章は代表的なものですね。

 

左下の印章(朱文白楕円印)については不明です。



表具はそれほど高価なものにはしていません。



表具代金は箱共で3万円くらいです。



表具の依頼先では箱書きもしてくれます。



この作品を描いた頃の前後における青森県内の蓑虫山人の来歴は下記の通りです。

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1878年 明治11年 43歳 秋田・岩手・青森への旅に出る。田名部の徳玄寺、佐井の箭の根八幡宮・長福寺に滞在。
1879年 明治12年 44歳 青森に滞在する。
1880年 明治13年 45歳下北半島に滞在する。
1881年 明治14年 46歳 深浦の白崎家・広田家、追良瀬の今家・黒滝家、秋田小池村千田家などに滞在する。

1882年 明治15年 47歳 
1月舞戸の一戸家に滞在。
2月鰺ヶ沢の戸沼家に滞在。
4月鰺ヶ沢の高沢寺に滞在。
5月相野(現森田村)の盛家に滞在。
6月宮川(現中里町)の古川家、筒木坂(現木造町)の三橋家に滞在。この月、浪岡で書画会開催。
7月弘前で侫武多を観る。
8月宮川の古川家に滞在。
9月五所川原の石井家に滞在。佐々木嘉太郎と会う。油川の西田家・津幡家に滞在。
10月小泊の秋元家に滞在(~翌年5月)。

1884年 明治17年 49歳 
枝川(現田舎館村)の工藤家に滞在。秋大鰐の加賀助旅館滞留、中野(現黒石市)中野神社に遊ぶ。
十和田湖を経て三沢に至り広沢安任と会う。

1885年 明治18年 50歳 青森に滞在する。

1886年 明治19年 51歳 8月弘前で佐藤蔀と会う。9月浪岡町の平野家・木村家に滞在。日本考古学の先駆者神田孝平氏と会う。

1887年 明治20年 52歳 4月青森県に滞在。亀ヶ岡遺跡の発掘調査をおこなう。5月青森で奥村準作と書画会を開く。6月三沢で古代器物展覧会を開く。会記を広沢安任が記す。

8月上京し、文部技官・神田孝平と会う。10月秋田へ行く。

*****************************************

同時に入手したもうひとつの作品は下記の作品です。

中野山浅絳山水図 その3 蓑虫山人筆
紙本淡彩軸装 誂箱 
全体サイズ:横535*縦1907 画サイズ:横408*縦1280

手前の作品は明末の餅花手の大皿です。



こちらの作品はまくりの状態で7万円にて入手。「青森に8年余り長逗留し、某家の襖・戸板等々に描いた家より譲り受けた作品」という説明でした。



青森の中野山を描いた作品は数多く地元に遺っているようです。描いたのは1884年(明治17年)頃と推察されます。中野山を描いた作品はこの作品でおそらく本ブログに紹介したのは5作品目と思われます。

 

この当時はよい出来の山水画が多いようです。本作品は蓑虫山人の作品の山水画のなかでも出来の良い出来の良いものです。

*出来の良しあしの見極めは感性が大切ですが、経験も積まないと判断がつきませんね。



蓑虫山人の画業の大半が東北地方で描かれた作品といっても過言ではないでしょう。



本日紹介した作品は同じ印章が押印されています。左下の印章(朱文白楕円印)については上記の作品と同じですが、詳細は不明でもしかしたら所蔵印かもしれません。

 

表具は軸先など依頼先(広島県呉市の方)に任せていますが、きれいに仕上げてくれます。



蒐集した作品はその都度ファイルに整理しています。資料はデジタル化されていますが、アナログ的に見れないとやはり不便ですね。資料を自分でまとめていかないと小生のように記憶が苦手な人間には身につくことができないようです。



当方の蓑虫山人の作品の多くは小生の地元周辺で描かれた作品がメインになっていますが、現在では20弱の作品が蒐集できています。おもちゃでも整理しておかないと引く継ぐ者には理解できない・・・。

五羅漢図 伝平福穂庵筆 明治初年頃

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昨年は義父をはじめ多くの訃報があり、そこで「羅漢図」を購入しました。



本日紹介する作品は平福穂庵の作と思われる「五羅漢図」ですが、本作品中に描かれている椀を挙げている羅漢を描いた作品は本ブログにて2作品が紹介されています。



落款からは同時期の作と推定され非常に興味深い作品かと思われます。

羅漢図 その1 平福穂庵筆 明治初年頃
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2030*横485 画サイズ:縦1120*横380
*分類第2期:職業画家をめざして (明治1年~明治10年)

 

羅漢図 その2 平福穂庵筆 明治初年(1870年代)頃
紙本水墨着色軸装軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2120*横650 画サイズ:縦1280*横440
*分類第2期:職業画家をめざして (明治1年~明治10年)



五羅漢図 平福穂庵筆 明治初年頃
紙本水墨一部彩色軸装 軸先仏具 合箱
全体サイズ:縦1805*横620 画サイズ:縦1105*横525
*分類第2期:職業画家をめざして (明治1年~明治10年)



仕上がり程度から何かの下絵かと思われるが、仕上った本図が見当たらないので確証はないし、真贋の確証も得られていない。



落款からは明治初年頃と推察されます。

 

印章は朱文白方印「穂庵」が押印されており、当方の所蔵作品「暫図」に近似していますが、同一印とは断定できません。



この朱文白方印「穂庵」が押印されている作品は明治初期頃で作品数が少ないので、参考資料が極端に少ないものです。







平福穂庵の初期に近い作品か? 平福穂庵の蒐集の経験からは「筋のよさそうな作品」と判断しています。


氏素性の解らぬ作品 紅安南?花草文大皿

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安南焼の呉須の染付の作品が多い中で色絵のいわゆる「紅安南」の作品は数が少なく、とても高価で、蒐集する者からは垂涎の作品と聞いています。本日の作品は近代の模倣品?の確率が高い思われますが、考察するには「いい教材」かと思い投稿しました。



氏素性の解らぬ作品 伝紅安南?花草文大皿
合箱 
口径337~340*高台径156*高さ68~72



安南焼、紅安南のついても何度か本ブログに投稿していますが、あらためて本ブログに掲載されている記事を整理してみました。

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安南焼とは、現在のベトナムで作られた焼物の総称である。その名は679年に中国の唐王朝がベトナム統治の為に、現在のハノイに置いた軍事期間・安南都御符に由来する。その為常に中国の影響を受けてきたが、大きな発展を遂げたのは12世紀頃のベトナム李王朝の時代であった。

その形は唐や宋の陶磁器を模しており、白磁と青磁を中心に褐釉、鉄絵、緑釉などが幅広く作られ、東南アジアでは圧倒的な規模を誇った。その後14世紀後半になると、中国の景徳鎮に倣い青花磁器が作られるようになった。しかしその色は景徳鎮に比べるとやや暗くくすんでいる。これは中国がイスラム圏から輸入した質の高い呉須を使っていたのに対し、安南は国産の質の低い呉須を使っていたからである。

また絵付けの線は土と釉薬のせいでそのほとんどが滲んでいる。ベトナムでは良質のカオリンが取れず、これでは青花の色が映えないために、生地に白土を化粧がけしていたのである。しかしその白土は粒子が粗く、いくら繊細な絵付けを施しても呉須がすぐに白土に吸収されてしまう。また釉薬は不純物を多く含んでいるため、透明度が低く結果的に絵付けがぼやけてしまう。

絵柄は蓮の花びらを簡略化したものがほとんどで、これが安南焼の青花かどうかを見極める決め手のひとつとなっている。15世紀になると、赤や緑や黄色の顔料を用いた赤絵が作られるようになったが、中国に比べ低い温度で焼き付けるために釉薬が剥がれやすく、すぐに色が褪せてしまう。しかし室町時代の茶人たちは、その素朴さの中に詫び茶に通じる簡素な美を見出した。なかでも呉須が滲んで流れるような景色になった青花は、藍染の絞りに似ていることから絞手と呼ばれ珍重されている。

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総論は上記のようになりますが、詳細の来歴は下記のようになります。



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第一期:初期安南焼

元の時代に中東あたりから優質呉須が輸入され、初めて景徳鎮で染付け器の製作が始まりました。呉須の輸入は2つルートがあります。海上ルートは南シナ海経由、陸上ルートの雲南省経由でした。いずれも安南に近い。元軍の侵入の繰り返しおよび、明初期の占領により、景徳鎮の染付器が安南人に認識され、かつ呉須が入手しやすいため、安南焼の始まりである。
初期の安南焼は主に元青花、明早期青花の様式と模様を安南風にアレンジしたもので、自備自用なので、生産量はそれほど多くはありません。民用品は安南特色の絵付けが多いですが、現地王府用に仕上げの良い、中国明宮廷風のものも作られています。この時期のものは輸出がないため、あまり認識が薄いので、現在日本で言う”安南焼”は基本的に第二期のものです。

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第二期:貿易期安南焼

明軍が安南を撤退した大きな理由は東海上の不穏です。明初めから中国福建沿岸を晒す倭賊がありまして、時々”海禁令”が発された(出海及び入港禁止)。永楽年に鄭和が大艦隊を連れて南洋を巡歴したから、一時海が穏やかになり、明軍が安南侵攻が出来た理由でもあった。しかし、永楽以降および倭賊が倡厥したため、再度海禁令が発され、厳しい時期では、沿岸住民が内陸へ遷移され、海上貿易も禁止された。こんな状態が明の後期の始まりの隆慶年まで続いた。

明中期の厳しい海禁令が安南焼に貿易のチャンスを与えた。中国陶磁貿易の代わりとして、安南焼が発展した。現在日本、琉球群島、台湾、東南アジアなどで発見された安南焼と呼ばれるものはこの貿易期の物です。特徴として、明の民窯物や、福建、雲南あたりの様式を基本にした安南風アレンジ絵付けです。呉須は雲南省から持ち込んだやつで、第一期より明快な色をしています。

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安南焼の終結

明隆慶年に海禁解消した。広東にて貿易司を開設し、海上貿易を再開した。明正徳年雲南から優良呉須が入手した景徳鎮が祥瑞焼を生み出した。日本へ少量に輸出されたが、南方へはほとんど輸出されていません。隆慶年は4年間だけで短いが、時代が萬暦、天啓など明末へ移行しています。

明末期、輸出量を答えるため、景徳鎮が染付大量製造しています。古染付と呼ばれるものはほとんど海外貿易用です。東インド会社からの注文された欧羅巴への輸出品は、日本では”芙蓉手”と呼ばれます。品質のよい景徳鎮ものが解禁されたため、安南焼きが瞬く市場が失われ、その歴史の幕が下ろした。

ちなみに、中国広東、福建沿岸は明末の海上貿易期の刺激で、多くの窯を開いた、徳化窯白磁、彰州窯呉須手などが生まれました。安南地方は明末~清初に及び台湾福建あたりの色絵器(交趾焼)を目に付け、安南色絵(交趾焼に含まれる)が始まった。

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ベトナムには中国の安南都護府が置かれていたことがあり、かくてベトナム古陶器を「安南」(英語でアンナミーズ)と呼び慣わしている。その歴史からみても中国の直接的な影響下にあり、15,6世紀の染付けなど中国の元末から明朝へかけての器形・文様を直模している。磁器土としてはやや軟質な灰白色を帯びた胎土と、そこから必然的に出る微細な貫入がなければ(すなわち遠目には)中国の景徳鎮磁器そのものと言ってよいものである。

17世紀以降になると作風は崩れ、染付けも黒っぽく、しかも文様が流れたものが増えたが、日本ではかえってこれが「安南絞り手」と称して茶人が珍重した。中国のものと比して総じて土が軟質なためか、きびしさがなく、ややくだけていて親しみやすい。発掘品の多い真作は使用され続けたために入る貫入の汚れがほとんどない。

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贋作もあり、贋作のほとんどが染付で茶碗・合子(香合)・花入・水指・酒盃などの日本向けのものが多い。

贋作は黒っぽい呉州の色・文様の描き方・灰青色を帯びた冴えない磁肌・粗い貫入にしみ込んだ汚れ、贋作には古色蒼然とした趣のある作品もあるが、文様は15世紀、釉色・呉州の色・にじみ方が17世紀ものに近いなどの矛盾がみつかる。

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安南の色絵は明末~清初に及び、当時の台湾福建あたりの色絵器(交趾焼)を目に付け、安南色絵(交趾焼に含まれる)が始まっており、意外に時代は下がった時期のようです。



ただ本作品は高台周りからさらに時代が下がったもののように感じられますが、確証はありません。



参考作品
安南赤絵大皿
なんでも鑑定団出品作 評価金額:250万



説明文より:16世紀室町時代頃にベトナム北部で焼かれた安南赤絵の皿。 現存する安南赤絵で、色が残っているものは極めて珍しい。数も少なく同時に焼かれた安南染付が100枚あると、赤絵はその内の1枚ぐらいという。

当方で紹介した安南焼と思わる作品の代表的な作品に下記の2作品があります。

安南染付鳥草花文様茶碗
合箱杉製
口径110*高さ78*高台径60


古呉須安南染付 青花蓮花文八寸皿
合箱入 
口径240*高台径150*高さ57


はてもさても陶磁器は魑魅魍魎たる世界、ちょっとやそっとでは解り切れるものではないようです。



とりあえず後学の作品としておきましょう。



暫く見ていると時代が解ってくるようです。

扇面鶉之図 平福穂庵筆 慶応2年(1866年)

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痛んでいた表具を改装した作品を正月には飾りました。

婦久女之図 その2 綾岡有真筆
絹本着色 軸先鹿角 古箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横(未測定)



下記の写真は痛んでいた状態で投稿した時の写真です。詳細はそちらの記事を参考にしていただきたいのですが、柴田是真の弟子の綾岡有真が還暦時に100枚描いた作品のひとつです。



さて本日は当方の地元出身の画家の平福穂庵の若い時、18歳の時の作品の紹介です。平福穂庵の初号「文池」と号していた時代の作で非常に珍しい作品です。

扇面鶉之図 平福穂庵筆 慶応2年(1866年)
紙本淡彩額装 タトウ+黄袋
作品サイズ:幅455*縦190
*分類第1期:文池から穂庵へ (安政5年~慶応3年)



平福穂庵は秋田県の角館で生まれ、この地からは平福穂庵の90年前に同じ角館の武家の息子の小野賀直武が輩出されており、絵の盛んな地であったろうと思われます。

平福穂庵の父は平福文浪として画家で知られており、平福穂庵は父のもとで若い頃は南部藩の御用絵師「川口月嶺」や上方で活躍した長山孔寅(本ブログにて作品が紹介されています)らの絵手本で絵画を習得したと言われています。川口月嶺は京都の四条派の画家鈴木南嶺に学び、長山孔寅は京都の四条派の祖、松村呉春の高弟であったので、当然のように平福穂庵の作風は四条派の影響が大きい。幕末に平福穂庵は京都に遊学し、平福穂庵の作品の基礎は四条派にあるといってよいでしょう。のちに文人画や海外の影響を受けるなど幾つかの流派を取り入れた個性的な画法を習得しますが、本作品はそのベースを示す貴重な作品です。



款記に「庚申冬」とあり、1860年(安政6年・7年~万延元年)の冬の作で、平福穂庵が18歳の頃の作。最初の知られている平福穂庵の作品は7歳の作で、平福穂庵は教育環境に恵まれ、早熟な画家であったとして知られています。



印章は朱文楕円印「文池」(文池は初号)であり、この印章は本作品の前年の1859年作の「田植図」に2種目の「文地号」印として初めて押印されている。



まくりの状態の作品を簡単な額装にしてみました。



まくりの状態のままでは保存にて痛めることがあるからです。



資料として価値のある作品のように判断しています。

游鯉図 鈴木華邨筆 

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初釜のために幾つかの道具類を男の隠れ家から輸送しましたが、下記の写真の「(古)伊万里錦手草花文染付捻八角鉢(20客揃)」が3個ほど破損しました。自分で補修できる範囲の破損でしたので現在修理中です。骨董の整理はモノづくりにて自分でできるものは自分ですることは大いに必要なようです。



本日は初めて本ブログで紹介される画家の紹介です。逸翁こと小林一三氏が高く評価していた画家でもあります「鈴木華邨」の作品の紹介です。

游鯉図 鈴木華邨筆 
絹本水墨軸装 軸先 岡田華筵識箱
全体サイズ:縦1990*横500 画サイズ:縦1080*横380



展示室に飾っていますが、鯉の作品も多くなりました。ちょっと太めの鯉ですね。



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鈴木 華邨(すずき かそん):安政7年2月17日(1860年3月9日) ~大正8年(1919年)1月3日)。明治から大正にかけて活躍した日本画家。名は茂雄、通称は惣太郎。

華邨は号で、しばしば華村とも表記されるています。別号として「魚友」、「忍青」を用いています。はじめ容斎派の人物画を学びましたが、のちに四条派から土佐派や浮世絵の要素を加えた独自の画法を立ち上げ、特に花鳥画に優れた作品を遺しています。20世紀初頭ヨーロッパで北斎以来の日本画家とされ、もっとも知られた日本画家と称されました。逸翁こと小林一三が評価していたため、大阪府池田市の逸翁美術館にまとまって収蔵されています。



*本作品に鑑定書している「岡田華莚」は、鈴木華邨の作品の鑑定によく出てくる画家ですが、詳しい来歴は不詳です。

岡田華莚(おかだ かえん);1864年(元治元年)生まれ。東京の画家。本名・直次郎。光琳、梅逸、容斎等を研究した。

小林 一三(こばやし いちぞう):1873年(明治6年)1月3日~1957年(昭和32年)1月25日)。日本の実業家、政治家。阪急電鉄・宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。美術蒐集家。号は逸翁、別号に靄渓学人、靄渓山人。旧邸雅俗山荘は逸翁美術館。
 日露戦争後に大阪に出て、鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致など、日本最初の田園都市構想実現と共に、それらを電鉄に連動させ相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた人物。

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本作品は墨一色で描かれた作品ながら、その卓越した描写力は並々ならぬ力量が感じられる作品です。



綿密な描写で絵画を描き、写実的な繊細な筆遣いで美しい作品を描いています。



鈴木華邨は日本画の大家として高名でいながら、美術界の発展のため教育者としても大きく貢献しています。1898年に日本画界の結成に参画し、日本美術院の創設で評議員となったり、自ら門下を集い、数々の画家を美術界に輩出している教育者としても一流であったと評されています。著名な門下には梶田半古がおり、鈴木華邨とは最も親しく、梶田半古の長男光雲を弟子入りさせています。



日本の美術界をけん引し続けた鈴木華邨であり、彼の功績は今の美術界の発展には欠かせない重要な実績なのですが、惜しむらくは現在は忘れ去られて画家のひとりと言えるかもしれません。



上下の作品は版画ですが、人物画も基礎から学んでいる鈴木華邨だけに、その一人一人の表情から個々の心情が伺い知れるような描写力は抜きんでています。

とくに上の作品は木版口絵で描かれている作品「春のや主人」ですが、怨霊に怯える物が茶坊主を刺殺する場所が描かれる大胆な作品で、その繊細ながら大胆な色彩の鮮やかさが、悲惨な状況でありながらも華やかな印象を与える秀作のひとつです。



最近の関連する展覧会には下記のものがあったようです。チラシの左下の犬の描写もかわいらしくていいですね。



鈴木華邨・・・、渡辺省亭が再評価されたように、今後再評価されることを願わざる得ません。



菊池容斎、渡辺省亭、松本楓湖、そして鈴木華邨・・・、菊池容斎の門下の画家が本ブログに揃いました。

ピンクのドレス 木下孝則画 その3

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木下孝則の作品は本ブログでの紹介は3作品目となります。父が「裸婦」の作品を所蔵しており、母が上京の際に銀座の日動画廊にて作品を観てきたという話を聴いていたので当方にもなじみのある画家です。



左に置かれているのは古信楽の壺です。NHKの朝ドラで古い信楽の破片がときおり映し出されますが、それと同じ時代の作品でしょう。釉薬のビードロ上の緑の発色の綺麗な作品はそうそうにあるものではありません。



ピンクのドレス 木下孝則画 その3
油彩額装 右上サイン
額サイズ:縦415*横365 画サイズ:横273*縦220 F3号



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木下孝則 :1894年2月24日東京生まれ。1906年叔父の児島喜久雄より名画の複製を見せられ、フランス印象派に魅力を感じた。
1919年小島善太郎、林倭衛、佐伯裕三、前田寛治、里見勝蔵、中山巍らと交友。
1921年第8回二科会展に初入選する。渡仏。
1923年イタリア、ローマ、フローレンス、ベニス、ミラノの美術館を廻り帰国。
1924年第11回二科会展に出品し、樗牛賞受賞。
1925年第12回二科会展に出品し、二科会賞受賞。
1928年渡仏。
1933年サロン・ドートンヌに出品する。
1935年帰国。
1936年二科会会員に推挙され第23回二科会展に滞欧作19点を特別陳列。
1937年木下孝則帰朝展(銀座日動画廊)に第2回滞欧作を出品。
1941年第4回文展に審査員として出品。
1948年第10回一水会に出品、委員となる。
1952年 第8回日展に参事、審査員として出品。
1955年木下孝則自薦展(神奈川県立近代美術館)を開催する。木下孝則油絵展(日動画廊)が開催される。
1962年「週間朝日」の表紙絵を翌年3月まで担当。
1973年3月29日歿。享年79歳。勲四等旭日小綬章叙勲。

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額の裏面にはシールとが貼られていますが詳細は不明です。



右上のサインには描かれた年号は記載されていません。



裏面のシールには一水会、日展参事とあることから1952年以降の作と推察されます。



F3号という小さな作品ですが、インパクトのある作品です。



冒頭の「裸婦」の作品は亡くなった母の寝室に生前と変わらず今でも飾っています。

裸婦 木下孝則画
油彩額装 左下サイン
画サイズ:横435*縦515 F10号



裏面のシールから銀座の日動画廊からの購入品と思われます。1955作の画であり、その年には日動画廊で木下孝則油絵展が開催されていたようです。



本作も居つく展示箇所があるといいですが・・・。



今は展示室の2階に飾っています。



木下孝則の描いた女性像・・・、品があっていいですね。

海老 色紙 福田豊四郎筆

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男の隠れ家にある現在整理中の漆器類に下記の作品があります。今回持ち帰ってきちんと保存しておく算段をしました。

小盆一対(二箱の内)
保存古箱 縁・裏面梨地
幅*奥行*高さ



箱には下記の写真のような張り紙があります。右の文字は判読不能・・・???



「二箱の内」とありますが、現在は一箱しかありません。もうちょっと探してみたらあるのかな? なお古そうな小裂が一つ同封されています。



縁と裏面は梨地になっていてちょっとだけ豪華です。見込み内の真塗部分がちょっとやけていますが修復せずこのままで保存することにしました。




さて本日は福田豊四郎の海老を描いた色紙の作品の紹介です。同郷の画家、福田豊四郎は若い頃から海老(伊勢海老)をよく描いており、色紙の作品はよく見かけます。展示室に幕末の古伊万里の錦手大皿とともに飾ってみました。



海老 色紙 福田豊四郎筆
和紙着色 色紙額装タトウ入
色紙サイズ:3号 画サイズ:縦270*横240



本作品の書体の落款は戦時中の昭和18年頃から昭和24年頃までのもので、朱文白方印「豊」の印章もこの頃からその後ながらく押印されているようです。印の欠けから昭和20年以降の作と推定しています。



本ブログにても幾つかの福田豊四郎の描いた「海老(イセエビ)」の作品を紹介していますが、先日も地元の骨董店を訪れた骨董店にて色紙の作品が展示されていました。販売価格は3万円ほどでしたが、本作品はネットオークションで数千円にて落札しています。多少焼け、シミのある点が落札金額を押し下げたものと推察されます。

ネットオークションを批判される方も多いですが、きちんとした鑑識眼と出品側が誠意ある対応してくれているのならネットオークションは廉価でいい作品が入手できる有効な手段と言えるでしょう。



「海老(伊勢海老)図」は「髭長く、腰曲がるまで」という長寿の吉祥図として依頼されて描かれた作品も多いのでしょう。



本ブログで紹介した福田豊四郎の描いた「海老(伊勢海老)」の作品には下記の掛け軸の作品があります。

伊勢海老 福田豊四郎筆(昭和38年)
紙本着色軸装 軸先象牙 太巻合箱入
全体サイズ:横460*縦1260 画サイズ:横*縦



福田豊四郎は「海老」を単体で描くことが多く、下記の作品のように群れで描いた作品は非常に希少です。

海老之図 福田豊四郎筆(昭和10年頃)
絹本着色淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2360*645 画サイズ:縦1420*横505



昭和38年の作品は本日紹介した作品と同一印章(下記写真:左)ですが、落款と同封されている「覚書」から昭和38年の作と断定されます。またもうひとつの作品は落款と印章から昭和10年頃に描いた作品と推定されます。



海老を描いた作品はひとつくらいは長寿の祈願としてひと作品くらいは所蔵しておくといいかもしれませんね。かくいう小生もまだ福田豊四郎の「海老」を描いた作品を所蔵していなかった頃には、親戚の家に飾っていた福田豊四郎の描いた伊勢海老の作品を欲しかったものです。



色紙の作品でも額をいいものにすると見栄えがするものです。



色紙は額をいくつか「いいもの」を用意すると場所をとらずに入れ替えして楽しめます。そう「いいもの」・・・、近所の額縁屋で買うような額はいけませんよ。

まくりから額装へ 美人図 伝島成園筆

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初釜には懐石の席に印籠にちなむ作品を飾りました。印籠入、印籠掛けに原羊斎、古満、梶川、また家内の実家にあった印籠(すべて真作)を掛けてみました。



左の印籠入れは鍵がかかり、持ち運びできる津軽塗のような質感のある優れもの。江戸期から明治期のかけての数寄者の旧蔵作品と思われます。



本日はまくりの状態で入手した作品があり、それを裏打ち、染み抜き処理後、あり合わせの額にて額装したので紹介します。

氏素性の解らぬ作品 美人図 伝島成園筆
絹本着色額装 タトウ+黄袋
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦470*横545

処置する前は下記の写真のような状態でした。



所謂まくりの状態ですが、シミもあり状態はよくありませんし、作品の真贋を含めた氏素性の解らない作品です。



美人画にシミは禁物です。



真贋の根拠は落款と印章と筆使いのみ・・・。



ただでさえ難しい美人画の真贋・・、打ち捨てるか迷った末、裏打ちと染み抜きはそれほど費用はかかりませんので
あり合わせの額に入れることにしました。額は伝伊東深水の作品の収められていた額ですが、贋作と判断して処分しました。



似たような島成園の作品として思文閣の作品を参考にしました。



ただ島成園の作品数は少なく、そうそうたやすくは島成園の作品は入手できないようです。



染み抜きして、裏打ちして、手元にあった額に入れてしばし真贋を含めて出来の判断・・。入手した作品を手間をかけてからじっくり判断することのみが鑑識眼向上への早道と信じています。この額にいつか真作の収まる時が来るのを祈るのみ・・・
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