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水墨山水画小点  伝浦上玉堂筆

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最近ちょっと気になっているというか、ずっと気になっている作品が下記の作品です。「大明萬暦年製」の五彩の作品らしき花瓶・・・・。父から伝わる作品ですが、真作ならかなりの価値がありますが、ずっと模倣作品だろうとぞんざいにというか、日常品として扱っている作品です。

ほとんどの骨董品は価値があると思っている作品が実はガラクタですが、価値がないと思っていた作品が実は価値があることがままあるものです。糠喜びもあるのですが、正確な判断力は徐々に地味な努力で身についてくるようでs。



さて、本日はそのような地道なというより、寄り道的な投稿です。

浦上玉堂のような文人画の大家の作品は当方には高嶺の花、真作などとても入手できるものではありませんので、写しのような作品で中で出来の良い作品を飾っては愉しんでしますが、常に一歩でも真作に近づくようにレベルアップするようには努力しています。



本日はそのような作品とご理解頂いてご鑑賞ください。今回で2作品目の紹介となりますが、最初の作品はもちろんどうにも気に入りませんでした。(最初の作品は本ブログに投稿したつもりでしたが、検索できません?でした)

水墨山水画小点  伝浦上玉堂筆
紙本水墨軸装 軸先骨 合箱入
全体サイズ:縦885*横335 画サイズ:縦200*横265

 

雰囲気の良い作品となっています。



掠れた筆致はいいですね。



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浦上玉堂:(うらかみ ぎょくどう)延享2年(1745年)~文政3年9月4日(1820年10月10日))
江戸時代の文人画家、備中鴨方藩士。諱は孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七弦琴を得て「玉堂琴士」と号した。父は宗純。



「玉堂寿像」 浦上春琴筆 紙本墨画淡彩 林原美術館蔵 天保10年(1813)作

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延享2年(1745年)、岡山藩の支藩鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の藩邸に生まれて、玉堂は播磨・備前の戦国大名であった浦上氏の末裔であり、系図上では浦上一族の浦上備後守の曾孫とされるが、実際はさらに代は離れているとされています。
(「浦上家系図」では備後守は宗景の孫とされるが、実際は同時代の人物である)。



若い頃より、学問、詩文、七絃琴などをたしなみ、鴨方藩の大目付などを勤めるなど上級藩士であったが、琴詩書画にふける生活を送っていたことから、周囲の評判は芳しくなかったらしい。

50歳のとき、武士を捨て、2人の子供(著名な画家となっています。春琴と秋琴)を連れて脱藩していますが、妻はその2年ほど前に亡くなっています。以後は絵画と七絃琴を友に諸国を放浪、晩年は京都に落ち着いて、文人画家として風流三昧の生活を送りました。特に60歳以降に佳作が多いとされ、代表作の「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」は川端康成の愛蔵品として著名な作品です。

*浦上春琴の作品は本ブログにて数点紹介されています。



上記の写真は皆さんよくご存知の国宝「 凍雲篩雪図(とううんしせつず)」(川端康成記念会所蔵)です。

国宝と比較するのもかなり気が引けますが、五彩の作品を含めて本作品らは十分に楽しめる作品と現在の当方の審美眼では判断しています。




改装完了 西王母・東方朔図 大西椿年筆

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先週のなんでも鑑定団に加納鉄哉の作品が出品されていました。実に見事な「十一面観音像」でした。彫刻というよりも鉄筆がみごとで、煎茶道具のほか、面やたばこ入れなどの作品が有名です。

下記は番組での説明に部分です。

鑑定団の評:昭和53年に奈良県立美術館で開かれた加納鉄哉展に出品されたことがあるが、個人蔵のためそれ以降はどこにあるか分かっていなかった。鉄哉は姿かたちだけでなく、内側からの木の命というものを勉強し直したいと模刻に励むが作例はそれほど多くない。依頼品はわずかな完成作の一つ。緻密で仏の心が壊されることなくそこに刻み込まれている素晴らしい作品。指の部分はおかしな補修の仕方ではないので全体の価値を損ねるまではいかない。



本ブログにて加納鉄哉の作品は下記の作品が紹介されています。箱書している弟子の市川鉄琅の作品も幾つか紹介されています。

恵比寿大黒面・吉祥額 加納鉄哉作
恵比寿面:高さ175*幅132*厚さ65 大黒面:高さ140*幅128*厚み68
額:口径470~415*厚さ22 共板市川鉄琅鑑定箱

*なお本作品は当方にて人形屋さんに依頼して色彩が修復されています。



さて修復されていた作品ということで本日は修復が完了した掛け軸の作品の紹介です。

本作品は2015年10月9日に投稿された作品ですが、その記事の冒頭に「さて本日の作品も不要なるものの・・?、表具はもはや掛けて飾るには無理があるほど痛んでいる作品です。」と小生自身が記述しています。つまりかなり表具が痛んだ状態での紹介でした。

下記は痛んだこの掛け軸を入手当時に検討した内容です。

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「さて画題の説明が長くなりましたが、ここまで痛んだ掛け軸をどうするかが当方の大問題・・。資金があるなら表具材料をそのまま使う「締め直し」が一番いいと思いますが、意外に費用が嵩むものです。さ~て、このような痛んだ作品ばかり集まるのは痛んだ掛け軸が廉価だからなのですが・・。」 

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痛んだ作品は廉価にていい作品が入手できます。掛け軸はとくに廉価で入手できますが、修復するのに費用が莫大にかかる点から敬遠されるからでしょう。修復がたしかで、良心的な値段で表具してくれる表具師さんとコネクションをとることが肝要かと思います。

最近になってようやく本作品の特に痛んでいた表具の天地を交換しましたので紹介します。天地交換のみすることで全面改装よりも廉価になりますし、古い生地も遺せます。天地も古いものなので遺したかったのですが、さすがに痛みがひどいので交換しました。検討の上、入手から4年以上経過した今になってようやく取り替えました。このような作品がまだまだ当方には山積みになっています。

西王母・東方朔図 大西椿年筆
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横620*縦1990 画サイズ:横510*縦1120



手前は窯印のあるお気に入りの作品のひとつで、何度か紹介している古備前の壺です。



痛んだ状態の写真が下記の写真ですが、なるべく痛んだところは写さないようにしている写真ですので、天の部分以外は痛んでいなように見えますが、実際は痛みがひどく掛けれるような状態にはない作品です。掛け軸の取り扱いをぞんざいにするとこういう状態になることはままありますが、よかったのは天地以外の本紙には痛みが少ない点です。



改装が完了した状態の写真が下記の写真です。料金は一万円ほどですので、全面を絞め直すよりはかなり格安で改装できます。

本作品は東方朔が西王母の桃を盗んで食べ、八百歳もの長寿を得ることができたとして知られる画題を描いた作品で、この画題は吉祥図としてしばしば描かれています。



以下の記事は2015年10月9日に投稿されたものとほぼ同じ内容です。

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描いたのは「大西椿年」という本ブログでは初登場の江戸後期の画家です。大西椿年の来歴は下記のとおりです。

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大西 椿年(おおにし ちんねん):寛政4年(1792年)~嘉永4年11月6日(1851年11月28日))は江戸時代後期の南画家。字は大寿。号は楚南・運霞堂・霞翁など。通称は行之助。江戸の生まれ。

幕府蔵手代を勤め、浅草鳥越橋付近(現・台東区浅草橋3丁目)に住んだ。円山応挙の高弟・渡辺南岳が一時江戸に移り住んだとき入門し円山派の画法を習得。江戸に円山派を広める役割を果たした。南岳の帰京後、谷文晁の画塾写山楼に入り、様々な画派(南画・南蘋派・北宗画・大和絵・狩野派など)の技法を修める。

人物図・花鳥図など画作したが特に亀の戯画に人気があった。渡辺崋山・曲亭馬琴・亀田鵬斎らと交友した。行年60歳。浅草金剛院に葬られたが、現在墓所は熊野山安泰寺(大田区西糀谷)にある。門弟に洋画家・川上冬崖や淡島椿岳がいる。



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画題である「東方朔」の説明は下記のとおりです。

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東方朔(とうほう さく):紀元前154年 - 紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県(現在の山東省陵県神頭鎮、もしくは山東省恵民県)の人。

武帝に「今年22歳になり、勇猛果敢、恐れを知らず、知略に富んでいるので、大臣に向いていると思う」と自ら推薦状を送った。これを武帝が気に入り、常侍郎や太中大夫といった要職につかせた。

後の歴史書などには、彼の知略知己に富む様子がしだいに神格化され始め、ついには下界に住む仙人のように描かれることとなった。唐代の詩人李白は彼のことを「世人不識東方朔、大隐金門是謫仙」と褒め称えている。また、滑稽な行為をすることでも知られ、中国では相声(中国式の漫才のようなもの)などのお笑いの神様として尊敬されている。



斉の出身で古文書や経学を愛し、雑書・史伝を広く読んでいた。初めて長安に入ったときに、3000枚の竹簡に書かれた上書を提出し、武帝は2ヶ月かけて読み終え、朔を郎官に任命した。その後は側近としてしばしば、武帝の話し相手を務めていた。気性の激しい武帝も東方朔と話せば上機嫌となり、金品を賜ったり食事の陪席を命じる事も度々であったという。

武帝に食事を招待されたときには、食べ残しの肉をすべて懐に入れて持ち帰ろうとして服を汚すのが常であり、下賜された銭・帛を浪費して、長安の若い美女を次々と娶り一年もたつと捨てて顧みないという暮らしをしていた。これは、采陰補陽という一種の修身法であったが、それを知らない同僚には狂人扱いされていたという。武帝はそれでも「朔に仕事をさせれば、彼ほどの仕事ぶりを示す者はいないだろう」と評価していた。

博士たちが戦国時代の賢者たちと比較して、朔を非難したことがある。その博聞弁智を抱えて無為に過ごし、官は侍郎で位は執戟にすぎないのはどうしたわけなのか、と。朔は「天下に災害がなければ聖人がいたとしてもその才を施すところがない。上下が和同していれば、賢者がいたとしても功を立てるところはない」という古諺を引いて、戦国と漢代は違うこと、自分が学を修め道を行うのは出世のためではない、という所信を述べている。

朔は息子を郎官にしてもらい、その息子は「侍謁者」となり、都を出て使いするようになった。老齢になり死期が近づいたときに武帝に讒言を斥けるように諫めて、まもなく病死した。司馬遷は「鳥がまさに死なんとするときは、その鳴き声は哀しい」と東方朔をたたえ、朝廷の中にいて世を避けたと自認するこの賢人に共感を抱いていたことがわかる。

朔の博学については騶牙という動物を見てその名と遠方の国が漢に帰属しようとする瑞祥であることを言い当てたり(『史記』)、函谷関で武帝の行き先をふさいだ牛に似た怪物を患と見抜き、酒を注いで消す方法を教えた(『捜神記』)などの逸話がある。

怪現象の権威とみなされたせいか、伝奇を集めた『神異録』の著者に擬せられたり、『漢武故事』では「東方國獻短人。帝呼東方朔。朔至、短人指謂上曰、王母種桃、三千歳一子。此子不良。已三過偸之矣」、つまり西王母が植えた三千年に一度しかならない桃の実を三つも盗んだであるとか、張華が撰述した『博物志』でも「西王母七夕降九華殿。以五桃與漢武帝。東方朔從殿東廂朱鳥中窺之。王母曰、此窺小兒。嘗三來盗吾此桃」と同じような荒唐無稽な逸話が東方朔について創作されている。日本の能の演目『東方朔』では、朔は仙人として登場する。


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次に本作品の下に描かれている「西王母」ですが、「西王母」の説明は下記のとおりです。

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西王母(せいおうぼ、さいおうぼ):中国で古くから信仰された女仙、女神。姓は楊、名は回。王母は祖母の謂いであり、西王母とは、西方の崑崙山上に住する女性の尊称である。すべての女仙たちを統率する聖母。東王父に対応する。日本画に描かれた西王母と武帝周の穆王が西に巡符して崑崙に遊び、彼女に会い、帰るのを忘れたという。また前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、三千年に一度咲くという仙桃七顆を与えたという。

現在の西王母のイメージは、道教完成後の理想化された姿である。本来の姿は「天五残(疫病と五種類の刑罰)」を司る鬼神であり、『山海経』の西山経及び大荒西経によると、「人のすがたで豹の尾、虎の歯で、よく唸る。蓬髪(乱れた髪)に玉勝(宝玉の頭飾)をのせていて、穴に住む。」という、半人半獣の姿である。 また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。一方、『荘子』によれば、西王母を得道の真人としているし、『淮南子』では、西王母が持していた不死の薬を、姮娥(恒娥)が盗んで月へと逃げたと記している。



人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という、恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」というイメージに変化していった。やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。

西王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのである。また、西王母の仙桃を食べて寿命が三千年も延びている。漢末の建平4年(紀元前3年)、華北地方一帯に西王母のお告げを記したお札が拡散し、騒擾をもたらしたという記述が、『漢書』の「哀帝紀」や「五行志」に見える。

漢の武帝が天界で桃を賜った話、嫦娥が盗んだのは西王母の不老不死の薬でした。また西遊記のなかで孫悟空は西王母の桃を盗みます。……などなど逸話を数えれば切りがありません。それだけ人気のある神であったということでしょう。古来中国では、桃は魔よけの力があるといわれ、仙人の杖に使われたり、お札に使われたりしてきましたが、崑崙山には王母桃または蟠桃といわれる桃があるといわれています。この桃が不老長寿の桃なのです。この桃はとても小さく、銃の玉ほどの大きさしかないといいます。そして3000年に一度しか実がならないのだそうです。西王母がこの桃が実ったのをお祝いして「蟠桃宴」を開きます。この宴に呼ばれるのは超一流の神様仏様たちだといいます。ちなみに、孫悟空はその宴に乱入に大暴れをしました。このように西王母は長寿の神様としてとても親しまれている神様です。西王母のお誕生日は、三月三日だということです。

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「東方朔」と「西王母」・・、どちらも曲者・・・・??? 絵のかわいらしさの惑わされてはいけませんね。

本日の作品の画題の「東方朔」・・、ともかく「食わせ者」には相違ないようです。

1.武帝に「今年22歳になり、勇猛果敢、恐れを知らず、知略に富んでいるので、大臣に向いていると思う」と自ら推薦状を送った。
2.下賜された銭・帛を浪費して、長安の若い美女を次々と娶り一年もたつと捨てて顧みないという暮らしをしていた。
3.西王母が植えた三千年に一度しかならない桃の実を三つも盗んだ

一方の「西王母」にしても美人?、親しまれている神・・、ただもとはというと

1.半人半獣の姿
2.人間の非業の死を司る死神
3.西王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥

というようにたいした「玉」のようです。

#####################################以上が前回の投稿記事です。

西王母が寝ている隙に不老不死の桃を盗んだ東方朔・・・、家内が寝ている間に骨董をいじっている小生のよう・・、一体「桃」はなにでしょう?? ガラクタから宝物が出てきくるかも?

古い作品は極力古いままで遺すのがベストなのでしょうが、飾るのに支障のある場合は古い部分を極力遺して補修する必要がありますね。



天地交換できるものは本紙部分の多くを遺すことが可能であると思います。



痛めないためには保管をきちんとして、取り扱いに細心の注意を払う必要があるのですが、掛け軸の取り扱い、漆器の取り扱い、さらにはもっとも簡単なはずの陶磁器の取り扱いさえもわきまえない御仁があまりにも多いのが現状でしょう。



温故知新・・・・、古いものの取り扱い方は現代にも通じるものがあります。骨董には真贋、金銭的な価値を学ぶ前に学ぶべき礼儀があるようです。

修復することで粗末な取扱いを詫びることとなり、骨董品はその価値が蘇ります。修復することで御利益が必ずあるもの、幸多かれと祈るばかり・・とくに「福の神」に・・・、そう冒頭の写真にある「恵比寿大黒面・吉祥額」の作品手前の「福の神 市川鉄琅作」もまた当方にて修復しています。

明かりをつけて日々幸あれと祈願しています。


リメイク 三行書 山岡鉄舟筆

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息子は幼稚園に掛け軸を担いで出かけました。掛け軸・・・??? 当方で不要になった掛け軸の箱類(当方で掛け軸を整理した残材)を工作で使うらしい・・ 



さて本日の作品はリメイクの原稿です。作品は男の隠れ家にある書ですが、リンゴ台風に際して屋根が吹き飛ばされた際に天井裏にあった作品を義父が持ち出してきましたが、その中にあった幾つかの書の作品の内のひとつです。幸い台風の被害には遭わなかったのですが、表具の状態が悪く義父の承諾を得て改装しています。

 

リメイク 三行書 山岡鉄舟筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横(未測定 大幅)



改装後、幾度となく床の間に飾っていましたが、義父が掛け軸を掛け変える時に落としてしまいちょっと折れ目が入ってい待った申し訳なさそうにしていた思い出があります。その義父が亡くなってもう30年になるのだろうか? 思い出深い作品のひとつになります。

義母が亡くなった後の法要に際しても床に飾りました。



すでに幾度か本作品は本ブログに紹介されており、その本ブログを見られたBSフジテレビの企画の方からこの作品のテレビでの紹介に話があったのですが、男の隠れ家が遠方にあったのでそれは叶いませんでした。正直なところ残念であった思いと、それはそれでほっとしているところも当方にはあります。蒐集する側は本来そっとしておいてほしい面もありますから・・。



山岡鉄舟は江戸城無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会して、江戸無血開城の功を成して知られていますが、山岡鉄舟の詳しい来歴は他のブログの記事を参考にしてください。



剣・禅・書の達人としても知られており、 一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖でもあります。書では勝海舟、高橋泥舟らと共に「幕末の三舟」のひとりとして有名です。愛刀は粟田口国吉や無名一文字があります。男の隠れ家にある刀剣の手入れの時にも床に飾られますが、あまりの駄刀に笑われているでしょう。



本作品の落款や押印されている印章は下記にとおりです。

  

ところで肝心の書はいったい何が書かれているのでしょうか?



仙台で知り合った書家の友人によると下記のように読むらしい。

「太夫末決意行々 且伍佾昇玲涼汲 釋会王恵音知」
→「太夫の意(こころ)行々と未決なり 且(あす)に佾に昇り伍(つらな)り玲涼を汲む
 王の釋会(解放)恵音知るなり」
→「太夫(舞人)の意(こころ)はそわそわとしえいる 且(明日)には佾(イツ)に昇り伍(つらな)り 玲涼を鳴らし舞に 太夫としてのその務めを果たし 王のおほめと恵みを得ることになるであろう」
→「勝負にあればくいなく通せ 必ずや実りあることある」の訓活らしい

どうも今一つ釈然としないかな?



年末年始の帰省に際して、男の隠れ家から持ち出して真剣に突っ込んだ解読に取り組もうかと思っています。そして調べが終わったら資料を添えてまた義父の元へ戻そうと考えています。



今は冒頭の写真ののように展示室に飾られていますが、やはり本作品は男の隠れ家の座敷がよく似合う・・・・。

(指月)袋和尚図 寺崎廣業筆 明治35年(1902年)頃 

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男の隠れ家から探し出してきて、自宅での初釜に使用した有田焼(伊万里焼)の器です。たいした器ではありませんが、本ブログに幾度か投稿されています。

伊万里 捻八角草花文錦手大小鉢 (大20客揃:小30客揃い)
房右衛門造 合箱入 
大:20客(内4客 2020年1月破損 補修跡有) 幅80*奥行75*高台径38*高さ40
小:30客(24客+6客)    幅80*奥行75*高台径38*高さ40



大小の揃いで大きな鉢が20客揃い、醤油皿のような小さな鉢が30客揃っていますから、もともと30客以上揃っていたのでしょう。今回の運搬でも4客ほど破損し、自分で補修しました。ほとんど補修跡が分からないように修理できました。





おそらく明治期から昭和初期の作と思いますが、伊万里焼というより有田焼と言われる時代の作品かと思います。高台内に銘のある「房右衛門?」については詳細は不明です。



小鉢には銘はありません。





今回の破損には懲りて保存方法を見直しました。







10客ならまだしも20客や30客揃っている器は簡単には入手できませんから、大切に保管しておきたいと思います。

さて本日は寺崎廣業の作品の紹介です。

袋和尚図 寺崎廣業筆 明治35年(1902年)頃 
紙本水墨軸装 軸先 鳥谷幡山鑑定箱
全体サイズ:縦2040*横590 画サイズ:縦1125*横400

描いているのは「指月布袋図」と呼ばれる画題で、禅の根本を説いた教訓「指月布袋」の図でしょう。寺崎廣業の同図の作品が幾点か存在しています。頼まれて描くことが多かったのでしょう。



この図柄は「月は円満な悟りの境地を、指し示す指は経典を象徴していますが、月が指の遙か彼方の天空にあるように、「不立文字」を説く禅の悟りは経典学習などでは容易に到達できず、厳しい修行を通して獲得するものであること」を説いています。この画題の意図が解っていないとこの作品の鑑賞はできませんね。

 

寺崎廣業の作品を描いた時期の推定は見慣れてくると判別できるようになりますが、本作品は落款から明治35年初期頃の作と推定しています。印章は朱文白円印でこの当時に数種の円印が押印された作品が存在していますが、本作品の印章は他の所蔵作品「牡丹に蝶」と同一印章であり、描いたのは明治35年頃と思われます。



鑑定箱書には「昭和己巳仲夏」とあり昭和4年(1929年)の鑑定と推定されます。

  

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鳥谷幡山:日本画家。青森県生。名は又蔵、別号に宗山。東美校中退。寺崎広業の下で野田九浦と学び、また橋本雅邦の指導を受ける。広業門下の青年画家を中心に美術研精会を結成し、主任幹事として活躍。昭和41年(1966)歿、90才。

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「禅の悟りは経典学習などでは容易に到達できず、厳しい修行を通して獲得するもの」、これは骨董も同じ教えのよう・・・、鑑識眼などは厳しい修行を通して獲得するもの、悟りは容易に到達できず  つい最近も本ブログを読まれた方から本ブログで紹介した堆朱の作品に「粗悪品」というご指摘を受けました。これもまた修行・・・ その作品の記事は非公開にさせていただきました。



青古備前鶴香合

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帰省した際は男の隠れ家にて愉しみながら整理していた漆の器。明治期はあろうかという器で、しかもここ50年以上は使われていなかった器ですから、痛んだものもあれば不揃いのものもあり、使えそうにないものは処分し、使えそうないいもの作品だけを選んでいます。この作業を愉しいと思う人か、苦痛かと思う人かで、その人が骨董蒐集に向いているか否かの違いだろうと思います。ほとんどの人が面倒くさがるのでしょうね。

帰省先では時間がないのでなかなかうまくメンテや整理ができないので、男の隠れ家から持ち出して再度整理しています。もともと男の隠れ家の蔵に散在していた作品ですが、今回は朱塗の碗類だけ持ち出しました。そう「黒塗」の碗類もあります。これは朱塗の碗だけですが、しかも朱塗の碗の全部ではありません。出所が同じ椀だけの持ち込みですが、その時々で作品を補填していたりして、どの碗にどの蓋かがわかりづらくなっています。再度きちんと解りやすいように本格的に整理することにした次第です。



平椀にはこの蓋、坪碗にはこの蓋、飯碗にはこの蓋、汁椀にはこの蓋・・・・微妙に大きさの違う作品を合わせていきます。



上記の写真二つで作品の光沢が違うと思いますが、しつこい漆器の汚れを落とす最後の手段を知っていますか? サラダオイルと歯磨き粉を混ぜて磨くという方法です。ただし傷つけないように研磨することに気を付けなくてはいけません。



数が数だけに家内が手伝ってくれましたが、家内が手伝うと息子も手伝いだしました。



最初の写真より光沢が出たのが解りますか? 作品は明治30年頃からの作品ですので、味もありますが、だいぶ光沢に陰りがあります。磨くことでこの中古感が全くと言っていいほどなくなりますね。これが日本製の漆を使った漆器の魅力です。

漆器にそこまで手間をかける必要があるのか? 新しい漆器を揃えたほうがいい? ネットオークションか骨董市で古い揃いものを買ったらどうか? と思う方がいるでしょうが、まず近代作の漆器は質の良い日本製の漆ではないこと、木の材質が良く、出来の良い作品はもはや市場には少ないことから、本作品のような作品は手入れする価値があると思っています。 



さて傷ついた作品と無傷の作品と仕分けて五客ずつ分けて収納します。しかも当時の箱を利用して・・・、それはまた後日紹介します。痛んだ作品の修理もあり、ともかく長丁場の仕事です

さて本日は珍しいらしい青備前らしい作品を紹介します。



青古備前鶴香合
誂箱
幅95*奥行43*高さ65



昔は、「青備前」は匣鉢の中や、入れ子になっていた品が、燃料の松の熾(おき)に覆われ 還元焼成にて偶然出来ていたと言われています。



現在では意図的に匣鉢に入れ、焼成終了直前に「炭」を投入して作ります。素地中の鉄分量、焼成温度、冷却還元雰囲気の濃度などによって水灰色から黒に近い濃灰色まで様々な色が出るとのことです。



窯の中で空気があたらない箇所、還元(酸欠状態)で焼かれると青になります。その反対で、酸化になると酸化焼成でオレンジ色になります。酸化焼成では緋襷(ヒダスキ)が分かりやすい例です。

また、この方法とは別に、塩窯による青備前「塩青焼」というのがありますが、この場合は藁の跡がくっきりと発色しなかったり、色の風合いが全く異なります。電気窯など焼成温度の調整ができるようになってからはいろんな焼成が意図的にできるようになってきています。

*備前以外で浜田庄司が考案した塩釉というのがありますが、同じ方法かどうかは不明です。



たしかに焼成温度の調整もたやすくなり、還元焼成も簡単になりましたが、ただコストがかかるため現在では作る窯元も少なく、ご存じない方が多いのが「青備前」です。



この青備前は、必ず意図したとおりの発色になるとは限らず、また、釜の中でも還元状態になる場所が少なく、生産が非常に困難なことから、大変珍重されてきたようです。この涼しげで神秘的な色の備前にはファンも多く、備前焼の中でも青備前をコレクションされている方も多いのですが、本来の酸化焼成が好きな人には抵抗があるかもしれませんね。



徳利や細工物の古備前ではよく見かける青古備前ですが、茶道具では稀な作品群ではないかと思います。



裏には鶴の脚も細工され、推測域を出ませんが、幕末から明治期において備前の細工物を作る窯元にて作られた作品ではないでしょうか? 「古備前」と呼べるほどの時代があるかどうかは定かでありません。



考えてみると当方では備前の香合はなかったように思います。本作品は備前が細工物を盛んに作っていた頃の作品ではなかろうかと推察していますが、備前は細工物が得意な時期があったことを知らないことが多いように思えます。



備前に限らず鶴形の香合は多いのですが、ともかく愉しい作品ですね。香合は朱肉入れに使っても面白いと思います。



ひょうきんな眼の表情がいいですね。本日の記事の紹介は古いものか、貴重なものかという観点はさておいて、還元焼成のよる「青備前」という作品の紹介です。

バラ 奈良岡正夫画

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我が家の畑は大根の収穫期・・、おでんで味をしめた息子は大根は「おいしい!」と判断したらしい。幼稚園から帰宅後には家内と大根の収穫に出かけてきたようです。



大きな大根を2個持って運べるようにもなりました。もうすぐ小学校の入学です。

さて小生の郷里近郊の出身の画家では県を跨ぐと青森県には数多くの著名な画家が存在します。その一人が奈良岡正人です。小生の郷里から一時間ほどの弘前出身の洋画家ですが、著名な画家ですのでご存知の方も多いでしょうが、本ブログで紹介させていただきます。



バラ 奈良岡正夫画
油彩額装 左上サイン 誂黄袋+タトウ
額サイズ:縦640*横560 画サイズ:縦455*横380 P8号



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奈良岡正夫:(ならおか まさお)本名:奈良岡政雄、1903年(明治36年)6月15日~2004年(平成16年)5月5日)。日本の洋画家。女優・奈良岡朋子の父である。 青森県中津軽郡豊田村(現弘前市)出身。』を挙げている。享年100歳。

父は村役場職員と農業を兼業していた。1915(大正4)年中津軽郡外崎尋常小学校を卒業。18年中津軽郡玉成高等小学校を卒業。この頃からねぷた絵の制作に熱中するが、長男として生家の農業を継ぐことを期待されており、19年ころ画家を志して家出する。しかし、一年で連れ戻されて農業に従事。そのかたわら、22年棟方志功らが結成した青光社に参加し、絵画制作を続ける。25年画家を志して上京。本郷絵画研究所に入るが、そこでの指導と環境に満足できず、初日で退学。その後弁護士の書生、青果市場内の製氷問屋などで働き、生計を支えながら、独学で絵を学ぶ。



1940(昭和15)年3月第36回太平洋画会展に「豊秋」で入選。これを皮切りに、特定の団体にこだわらず、数多くの団体展に出品して入選を続けるようになる。
1940年第12回第一美術協会展に「田賀風景」、第14回構造社展に「漁村」を出品。翌年第18回白日会展に「早春ノ山」、第9回旺玄会展に「湖畔晴日」「湖畔の春」「早春の山路」、第13回第一美術協会展に「新緑の里」、また、第3回現代美術協会展に「閑日」、第15回新構造社展に「二人の老人」で入選する。
1942年第19回白日会展に「提灯屋さん」、第38回太平洋画会展に「水に住む」、第29回光風会展に「けしの花」、第12回独立美術協会展に「訊問」「水に住む」、第10回東光会展に「勤労奉仕」、第14回第一美術協会展に「閑日」、第29回二科展に「征途」、第2回創元会展に「驢馬と子供」、第16回新構造社展に「網代風景」が入選。また、同年第6回大日本海洋美術展に「漁夫」、第2回大日本航空美術展に「飛行機ノお話」「防空壕」、第1回大東亜戦争美術展に「北方を護る人々」「弾丸を磨く」で入選する。
1943年第20回白日会展に「子供隣組」「巌峯進軍」を出品して佳作賞を受賞したほか、第39回太平洋画会展に「兎と子供」「古物商」「童心」「地引」で入賞し、褒賞受賞。また、第7回大日本海洋美術展に「漁夫」「地曳」を出品して大臣賞受賞。同年決戦美術展に「アッツ島上陸」で入選する。また、第3回大日本航空美術展に「救護(一)」「救護(二)」を出品し、「救護(一)」によって大日本航空美術協会賞を受賞。第2回大東亜美術戦争美術展に「突撃」を出品する。この年、陸軍省報道部派遣命令により、中支に派遣される。
1944年1月ソヴィエト満州国境に3ヶ月間、北支に3ヶ月間派遣される。同年、第40回太平洋画会展に「工場」を出品して同会会員となる。また、陸軍美術展に「兵隊と良民」「昭和18秋太岳作戦(勝兵団戦闘司令部)」、第8回大日本海洋美術展に「漁期に入る」を出品。45年陸軍作戦記録画展に出品。戦地から帰った際に牛や山羊ののどかな姿に打たれ、以後、これらを描き続ける。




戦後、46年第1回日展に「牛宿」で入選。47年太平洋画会から分離独立して示現会が結成されるのに際し、創立会員として参加し、以後、日展とともに同会に出品を続ける。
1954年第10回日展に「山羊」を出品し特選を受賞。
1956年第12回日展に「山羊」を出品して再び特選を受賞、
1962年日展会員となる。
1964年から1970年まで隔年で、東京日本橋三越で個展を開催所で個展を開催。
1969年6月渡欧。
1970年6月青森市松木屋で、同年11月弘前市青森銀行記念館で画業50年展を開催。この頃から、郷里の夏祭りねぷたを題材とした作品を多く制作するようになる。
1979年日展参与となり同年青森市民展示館で「画業60年展」、1991(平成3)年東京の銀座松屋で「米寿記念奈良岡正夫展」、青森市松木屋で「画業70年米寿記念展」を開催。
1994年示現会会長となり、同年11月青森市松木屋で「松木屋創立45周年記念特別企画 示現会会長就任記念奈良岡正夫個展」を開催。
1997年、洋画家中村彝を記念し、名利を求めず画業に精進する60歳以上の画家を顕彰する中村彝賞の第5回受賞者となる。
1999年茨城県近代美術館で「中村彝賞記念 変幻自在流 大沢昌助・じょっぱりの画人 奈良岡正夫展」が開催された。年譜、文献目録は同展図録に詳しい。

2000年画業80年展を青森市で開催し、2001年白寿記念展を三越本店にて開催した。「描く対象に対する愛情がなければ絵にはできない」と語り、子供をいつくしむ山羊や幼い頃から親しんだ郷里のねぷた祭を好んで描いた。生涯、納得のできる絵画を目指し、対象の再現的描写を基本とするが、タブローを描くにあたっては構図を知的に組み立てるなど、絵画の自立性を踏まえた制作をつづけた。

社団法人日展参与、社団法人示現会会長を務めた。 初入選が40歳前と遅咲きの作家。戦時中は従軍して戦争記録画を制作したが、戦前の作品は、ほとんどが所在不明となっている。戦後は、放牧されている牛や山羊、青森のねぶた、奥入瀬などを題材に描いた。堅実な描写力と対象への親密なまなざしによって独自の画風を確立した。



略歴
1903年(明治36年) 青森県弘前市生まれ。
1925年(大正14年) 上京。
1941年(昭和16年) 白日会展入選。
1943年(昭和18年) 仁科展、独立展等に入選。
1944年(昭和19年) 文展に入選。
1946年(昭和21年) 第1回日展に初入選。
1947年(昭和22年) 「示現会」の創立会員。
1979年(昭和54年) 日展参与。

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バラを描いた日本洋画家は多く、著名な画家も多い。その良し悪しの判断は当方の及ぶべきもない領域ですが、この作品は当方にとっては好きな作品となりそうです。



伊勢正義や福田豊四郎、そして奈良岡正夫のような画家が郷里の近郊の出身であることは幸いだと感じています。



近年、そのような文化的な香りが郷里でしなくなってきたのが気がかりです。ただ一人、今は故人となってしまった陶芸家の平野庫太郎氏を除いては・・・。

葡萄(マスカット)図 福田豊四郎筆 色紙

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年末年始の帰郷した折に馴染みの骨董店を訪れました。前回帰郷した際にに予算と合わず入手を見合わせた福田豊四郎の作品は売約済となっており、ちょっと落胆した気持ちと、正直なところほっとした気持ちが交錯しました。

しかし福田豊四郎の描いた当方にはない画題の「葡萄図」の色紙の作品があり、値段も手ごろなこともあり購入してきました。ちなみに購入金額は2万5千円です。

本日は週末ということもあり、気軽な作品の紹介ですね。



葡萄(マスカット)図 福田豊四郎筆 色紙
和紙着色 色紙額装タトウ入
色紙サイズ:3号 画サイズ:縦270*横240



落款や印章から推察できる同時期に描かれたと思われる作品は当方にも幾つかあり、参考となる作品として下記の作品をすでに本ブログに掲載しています。

ひめゆり 福田豊四郎筆
紙本着色色紙額装タトウ入 3号 
画サイズ:縦270*横240



この作品は父が生前に福田豊四郎氏から絵の手ほどきを受けていた頃に頂いた作品だと思われます。当時福田豊四郎が父宛てに書いたタトウが遺っています。母からの説明では福田豊四郎の郷里の近くにいる遠方の父に、絵の指導の一環としてときおり作品を贈ってくれたそうです。



下記の作品の印章と落款(下記写真:左)と本作品の落款と印章を比較してみました。落款と書体から昭和30年頃の作と推定しています。

 

福田豊四郎の作品をその都度の懐具合に応じて購入しているのは、ノスタルジックな作行で故郷を描く福田豊四郎の作品が好きなことが一番の理由なのでしょうが、やはり父母と福田豊四郎氏との縁が強く影響しているのだろうと思います。

雲上観音菩薩図 寺崎廣業筆 大正5年(1916年)頃

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男の隠れ家からお祝いに使用する祝膳(銚子と盃)を持ち帰って初釜などにて使いました。使用後は日本産の漆を使った漆器はどんどん貴重になっていくので、手入れを怠らないようにしています。



真塗には鶴と松の蒔絵・・、義母曰く、松は亀の形を象徴しているのだそうです。



盃は亀の群れ・・・、大、中、小の三揃い。



朱塗の作品は母の実家の家紋入りです。銚子と台と盃は別物でしょう。



対の三点揃いの盃に蒔絵は見事です。このような絵を描ける蒔絵の職人がいなくなりましたね。



さて本日紹介する本作品は寺崎廣業の晩年の佳作と判断していますが、箱もなく、表具の天の部分に雨漏りの跡があるなど少し痛んでいたので、現在、改装依頼中の作品です。

本紙部分はきれいなので、仕上がりが楽しみです。よって詳細の説明は仕上がり次第になるでしょう。

雲上観音菩薩図 寺崎廣業筆 大正5年(1916年)頃
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 誂箱
全体サイズ:縦2160*横540 画サイズ:縦*横(未計測)



この印章は当方の所蔵作品中で本ブログで紹介している「達磨之図」(大正5年頃 1916年)頃 「羅漢図」(明治31年 1898年) 「楊柳観音図」(明治36年頃 1903年)の3作品と同一印章です。

ちなみにこの印章はときおり判断の迷う印影が若干違うものが存在しますので要注意です。



寺崎廣業の晩年の作は山水画が多いので、このような仏画の作品は最晩年には珍しいかもしれません。依頼されては数多く描いた多作の寺崎廣業ゆえ現在は人気がありませんが、その筆の確かさが佳作の作品を中心に再評価されるべきでしょう。

麗人 中村大三郎筆 その5

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昨年の12月の「なんでも鑑定団」に中村大三郎の作品が出品されていました。当方でも本ブログにて紹介しているので興味深く拝見させていただきました。下記の作品が「なんでも鑑定団」に出品された中村大三郎の作品です。

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参考作品
舞子図 中村大三郎
なんでも鑑定団出品作:2019年12月10日放送



評価金額:150万円

安河内眞美氏の講評:素晴らしい作品。中村は京都に生まれ、家が染織関係だったことから染めの色彩感覚が身についたのだろう。依頼品は大正13年、26歳の時に開いた個展に出展されたもの。気品のある美しさを流れるような筆で描ききっている。桜の花びらが散っている。女性が差し出した明かりの中のろうそくまで薄く描かれている。明かりの蒔絵も桜の文様で、女性の簪も桜。帯もすばらしく中の半衿も鮮やか。一文字風袋が蝶で花に蝶。共箱は大三郎自身の箱書き。文句のつけようのない作品。

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本日紹介する当方の作品は中村大三郎については5作品目の紹介となりますが、1作品は資金調達のため売却していますので、実際は4作品の所蔵となります。

麗人 中村大三郎筆 その4
絹本着色軸装 軸先骨 共箱二重箱
全体サイズ:縦1250*横550 画サイズ;縦350*横420



展示室に飾ってみましたが、手前は紅安南?花草文の尺皿です。



「なんでも鑑定団」の出品作の評価金額が150万円には恐れ入りましたね。個展に出展されたものという特別な作品という扱いでしょうか? いくらなんでも通常はその10分の1が妥当でしょう。



本作品も共箱二重箱の誂えです。

 

真作は間違いありません。

 

100万円以上なら即売却ですね。おまけに紅安南?の皿をつけても構わないくらいの高値です。



本作品もなんでも鑑定団出品作に劣らぬ出来の良い作品です。



額装にしたほうが飾りやすいのですが、共箱二重箱を尊重するとこのままのほうがいいでしょう。



今は捨値のような掛け軸、いつかは見直される日が来るでしょう。洋画は掛けていてもどこか心安らぐ作品は少なく、日本画はどこにでもすっと馴染む良さがありますね。

刀剣、漆器らはすでに外国の方が技術の後継者が増えています。表具もそうなるでしょう。そしていつかは日本の掛け軸が表具共々に世界から珍重される日が遠くないように思います。そうなればなんでも鑑定団出品作の評価金額も違和感がなくなるかもしれませんね。

中村大三郎の代表作では妻をモデルに描いた「ピアノ (京都市美術館蔵)」が有名ですね。この作品は切手にもなっています。

参考作品
ピアノ
1926年(大正15年) 絹本着色 屏風四曲一双 鷹さ1645*長さ3020 京都市美術館蔵



錐呉器茶碗 その2

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*昨夜は子供に添い寝してしまい投稿が今朝になってしまいました・・・

茶器の中でも茶碗というのは難しいものです。その難しさはまずは自分で茶碗を作ってみると解ります。ぐい呑みや飯茶碗は意外に誰でも簡単に作れますが、茶器の茶碗はそうはいきません。品格、使いやすさの両方を兼ね備えなくてなりませんから、初めて作る作品は形はまともでも漬物入れになるか、穴を開けて植木鉢になる運命となります。

一口に使いやすいと言っても必要な機能が何点もあり、たとえば「お湯を注いでも熱くならない、お湯を捨てる際に高台が持ちやすい、抹茶が点てやすい、飲み口が飲みやすい」などなど・・・・。それにもまして難しいのが品格でしょうね。

とかく茶器の茶碗というと、萩や唐津、楽といった国焼、井戸や高麗といった唐物などが良いものと頭に浮かび、その範疇にある作品にとびつくのですが、その中でもいいものはごくわずかでしょう。

青井戸、小井戸、蕎麦井戸だとか、御本手、錐だとかという分類された作品をすぐに崇高してしまうのは大きな間違いでしょう。とくに井戸はもともとは飯茶碗であり、井戸茶碗には出来損ないが多いもので、その見極めには大きな意味で審美眼が必要なようです。

さて偉そうな語りはさておいて、本ブログにて呉器茶碗は幾つか紹介してきましたが、本日は呉器の中で「錐呉器」に分類される作品の紹介です。「錐呉器」・・?? 幾つかの作品を本ブログでも紹介してきましたが、一般には馴染みのない名称かもしれませんが、茶碗ひとつをとってもなにかと細かい点で分類されているのが骨董の面倒くさいところです。

錐呉器茶碗
口縁金繕補修跡有 合箱
最大口径135*高さ95*高台径



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呉器茶碗(ごき ちゃわん):高麗茶碗の一種で、御器、五器とも書きます。呉器の名前は、形が椀形で禅院にて用いる飲食用の木椀の御器に似ていることに由来するといわれます。

一般に、大振りで、見込みが深く、丈が高く木椀形で、高台が高く外に開いた「撥高台(ばちこうだい)」が特色とされます。素地は、堅く白茶色で、薄青みがかった半透明の白釉がかかります。

呉器茶碗には、「大徳寺(だいとくじ)呉器」、「紅葉(もみじ)呉器」、「錐(きり)呉器」、「番匠(ばんしょう)呉器」、「尼(あま)呉器」などがあります。「大徳寺呉器」は、室町時代に来日した朝鮮の使臣が大徳寺を宿舎として、帰国の折りに置いていったものを本歌とし、その同類をいいます。形は大振りで、風格があり、高台はあまり高くありませんが、胴は伸びやかで雄大。口辺は端反っていません。「紅葉呉器」は、胴の窯変が赤味の窯変を見せていることからその名があり、呉器茶碗中の最上手とされています。

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呉器の中で「錐呉器」と分類されるのは下記の特徴からです。

錐呉器:薄手で小振りなものが多く、薄柿色の中に魚屋に似て釉色は青みがあり、赤の窯変や雨漏り染みなどの見られるものは少ないようですが、時に赤・黄の火変わりがある作品もあるようです。陶土は青井戸に似て赤味のある鼠色、釉は井戸脇に似た黄色がかったものです。釉立ちの呉器は下記の記述の筋目がなくても一般的に錐呉器と分類されているようです。高台には割高台のものとそうでないものがあります。



「錐呉器」の名の起こりは資料をまとめると下記の説があるようです。

1)見込みが錐でえぐったように深く掘られて見込みの茶溜りが錐で突いたように窪んでいる景色からという説



2)高台の中にも反対に錐の先のように尖った兜巾が見られるのでこの名があるという説



3)胴または高台脇に二筋・三筋のまるで錐でえぐったような筋があるからという説



4)高台と口とをすっきりと切り取った形からという説



5)切高台のものを切呉器といったのが転じたともいわれています。

古くから井戸茶碗などを含めた高麗茶碗は細かく分類されますが、それは多少屁理屈のような、こじつけのような点があります。現代ではあまり細かいことにこだわらに方がいいし、井戸茶碗や高麗茶碗の至高主義的な点はどうも古臭いようにも思えます。

事が煮詰まってくるとなにかと細かく定めるのが終焉の始まりのような気がします。茶器もそうでしょうね。そろそろそういうことから卒業してしまいたいものです。

本題ですが、本作品は最低限の機能は備えて使い勝手はよい茶碗ですが、いい作品かどうかは正直なところ微妙であり、小生にはよく分かりません。井戸や高麗の作品は近代までに膨大な数が製作されています。当方の審美眼はまだまだですね。



とはいえ茶碗はきちんとした保管を心がけています。箱はかなりの上箱に収納されており、箱には「御本」と記されています。当方は形から「錐」としていますが、ここは意見のいろいろあるところであり、箱を誂えた方は「御本」に分類したのでしょう。いずれたいした問題ではないと思います。



茶碗は湿気を避けるために必ず最初に紙で覆います。それからお仕覆か布です。直接仕覆や布はカビが発生しますのでよくありません。



箱は両側5ミリずつの余裕が良しとされてます。



最低限の保管はきちんとしておきましょう。いい加減な保管はよくありません。さて、本作品、当方の所蔵前に使い込んでいるようですが、当方でも使い込まないと審美眼は身につかないでしょう。

大津絵 その13 為朝(矢の根)   

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本日は久方ぶりに大津絵の作品の紹介です。



大津絵 その13 為朝(矢の根)   
紙本着色軸装 軸先木製塗 合箱 売り札有 
全体サイズ:縦1325*横300  画サイズ:縦718*横246

 

大津絵の矢の根:もともとは「為朝」と題された作品で、為朝とは源為朝のことで、強弓で有名な平安末期の武者です。義経にとっては叔父にあたる人物です。矢を持ち仁王立ちするその姿は、歌舞伎の「矢の根五郎」と類似するため、江戸後期には「矢の根」としてこの図が流布するようになりました。そのため、今ではこの絵を大津絵では「為朝」、「矢の根」両方の呼称で扱っています。

矢の根(五郎):歌舞伎狂言。時代物。1幕。歌舞伎十八番の一つ。2世市川団十郎の創演で,享保 14 (1729) 年『扇恵方曾我 (すえひろえほうそが) 』の1番目として上演され,大当りをとった演目です。原拠は幸若舞曲および土佐浄瑠璃の『和田酒盛』。その後中絶するが9世団十郎によって復活され,今日の形式となったそうです。



矢の根五郎とは、父の仇討ちに18年の短い生涯のすべてを尽くした曽我十郎・五郎兄弟の物語のひとつで、矢の根を磨いていた曾我五郎が夢で兄十郎の危難を告げられ,工藤祐経の館へはせ向うという筋で,荒事の様式美と伴奏の大薩摩がよく調和し,おおらかで夢幻的な一幕となっています。

*江戸期の大津絵は2枚つづりが原則です。



この絵は五郎が元日に鏃(やじり)を砥く場面ですが、「矢の根」とはこの鏃(矢尻、矢先)のことです。どちらかというと関東の方がより人気のあったお芝居のようですが、大津絵でも人気を博し、江戸後期には大津絵十種にも選ばれています。同じく大きな矢を持つ絵 『為朝』と混同されるようになり、矢の根というとそちらの方が一般に広まってしまいました。歌舞伎でも五郎が矢を手にして見栄を切る場面が印象に残るのか、「為朝」を「曽我五郎」と置き換えてもあまり違和感がないようです。



本作品は「為朝」というより「矢の根」と題する作品であり、江戸後期と推定していますし、構図も面白く出来の良い作品だと思います。

「為朝」にしても「矢の根」にしても古い大津絵の作品は非常の珍しい作品です。下記のMIHO MUSEUM蔵や大津美術館蔵の作品が著名です。

参考作品 
大津絵 為朝 江戸時代
MIHO MUSEUM蔵 17-19c
紙本著色 H-72 W-33.2



源為朝は、為義の子で、義経にとっては叔父にあたる人物で鎮西八郎とも称します。強弓で鳴らし、勇猛を誇った平安時代後期の武将ですが、あまりの粗暴さにより、父に疎まれて九州に流され、当地で一大勢力を築くものの、保元の乱で敗北し、流罪先の伊豆で討たれてしまいます。

その勇猛さの象徴として、もしくは病魔退治の人物として大津絵に描かれたようです。大津絵としては、「疱瘡(天然痘)除け」として人気がありました。なお不遇な人生のためか、判官贔屓の庶民には人気が高かったようですので、大津絵としても人気があったのでしょう。

売り札にある中野書店(立川市)の詳細は不明です。



大津絵は民芸運動の高まりと共に人気が高まり、つい最近まで高嶺が続き、この値札程度の値段は通常の値段でした。とくに仏画は希少価値が高く今でも高値が続いています。

30年前には当方でも時代の若い「外法の梯子剃り」の購入価格が10万円でした。人気の高まりとともに時代を古く見せた贋作も多くあり、大津絵は時代の判断が難しい作品群です。



ただ大津絵は当時はお土産品であり、世相を反映した民衆の思いが込められた愛すべき作品群に変わりはありません。

十和田湖 福田豊四郎筆

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初釜後に整理している朱塗の漆器椀。多数あったのですが、おおどころ下記の写真の5種類にまとまりました。



本作品を所持していた亡くなった家内の実家では明治時代から揃えていたようですが、その都度補完していたので、いくつかの種類が混在していたようです。古びていた膳も碗類も磨き上げるときれいになりました。





蔵にあった品を時間をかけて取捨選択して状態のいいものだけを遺したつもりでしたが、今回まだあった何点か欠けや漆の剥落した作品は自分で補修しました。



最初は金繕いしてみましたが、結局朱漆で補修しました。仕上げまで今少し手間がかかりそうです。



明治期の作品かと思いますが、使用されたことと時間経過とともに、下地の黒漆や布、木目がのぞくなど味わいが出ていきています。



根来風となり、新品には見られない味わいがありますね。



真塗や朱塗のみの器が漆器の真骨頂でしょう。下手な絵付けや文様などないほうがいいように思います。



さて本題の本日の作品の紹介です。インターネットオークションの功は画家の初期の作品を発掘できることであろうと思います。福田豊四郎の作品は戦後の作品が脚光を浴び、その様な作例が福田豊四郎の作品と思い込んだのか、初期の作品が埋もれてしまっていたように思います。骨董店で一年かけて数例の作品しか入手できない作品がこれまで数多くインターネットオークションで探しされてていており、多くの作品が入手できました。本日はそのような戦前の福田豊四郎の作品の紹介です。

十和田湖 福田豊四郎筆
紙本着色軸装 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:縦1990*横570 画サイズ:縦1250*横420

 

福田豊四郎は郷里のすぐ近くの十和田湖の作品を数多く描いていますが、このような初期の作品は珍しい作品でしょう。



初期の作風がよく出ている作品です。晩年の抽象的な作風を評価する人が多い一方で、このような福田豊四郎のノスタルジックな作行を好む人も多くいます。



落款と印章から昭和10年頃の作と推定されます。当方の所蔵作品で本ブログにて紹介した「春萌」の印影と一致し、真作と判断されます。

 

描いた時期の判断を含めた真贋の判断は蒐集を通して身につくもののようです。



掛けてみると意外に大きな作品です。十和田湖周辺の当時の様子がうかがいしれます。





渡船 伝平福百穂筆 大正頃

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本日は迷った挙句真作と判断しました平福百穂の作品の紹介です。当方では手に余るほど判断が難しい郷里出身の画家です。



渡船 平福百穂筆 大正年間
絹本水墨淡彩軸装 軸先 共箱二重箱 
全体サイズ:縦1490*横710 画サイズ:縦505*横510

 

郷里の画家で平福百穂ほど審美眼を悩ます画家はいません。それほど贋作が多い画家であり、中には実にうまく模写した作品もあります。さらに混乱させるには精巧な複製が出回っている点でしょう。これらは本ブログに他の記事に記述しています。



作品中の落款と印章、共箱の箱書きと落款と印章は下記の写真のとおりですが、未確認の印章が多いのでこれでけでの真贋は後学とさせていただきます。

  

平福百穂は「正統派の近代最後の南画家」と私は評価しています。実に品の良い作品を遺しています。



いかにも大正の頃のような二重箱に収まっていますね。



正直なところ、真贋はまだ迷っています。このような迷いのない作品だけを揃えるのは非常に難しいものですが、取捨選択していく必要があるでしょう。

秋江満帆 寺崎廣業筆 

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本日は休日ということもあり、数多く投稿されている寺崎廣業の作品の紹介です。寺崎廣業の晩年の作を最近何点か入手した作品のひとつの紹介です。席画の多い寺崎廣業の中では書き込みの多い部類に入る作品です。

秋江満帆 寺崎廣業筆 
絹本水墨軸装 軸先 鳥谷幡山鑑定箱
全体サイズ:縦2170*横560 画サイズ:縦1230*横410

 

舞子の浜などこのような画風の作品は寺崎廣業の作品には多くあります。



美人画で名を挙げた寺崎廣業ですが、大正期には山岳画などの風景画に傾倒しています。



同時期に活躍した横山大観、山元春挙らと刺激し合ったものと思われます。



落款からは明治末年頃から大正初期の作品と推定されます。門下の鳥谷幡山の鑑定のある箱に収納されています。

  

出来の良い作品に集約しつつある寺崎廣業の作品蒐集ですが、なかなかいいものが見当たらず、この程度の作にも触手を伸ばしているのが正直なところです。



80作品を超えた寺崎廣業の作品の蒐集ですが、そろそろ一息つくべき段階のようです。


白馬雪渓 寺崎廣業筆 大正6年(1917年)頃

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近くのスーパーで息子が戴いてきたシャボン玉のオモチャ。さっそく庭で皆で試してみました。



最近のオモチャは当然我々の頃から格段の進歩・・・。



祖母と息子・・・無心で。。。。。。



福寿草が今年も咲いています、



さて蒐集した作品が学生時代の思い出と重なることがあります。

白馬雪渓 寺崎廣業筆 大正6年(1917年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先 共箱二重箱
全体サイズ:縦2130*横510 画サイズ:縦1320*横330

 

長野県下高井郡上林温泉に別荘「養神山房」をしつらえ、大正三年七月に完成するが、時どきここに滞在しているうちに寺崎廣業は次第に山水画を多く描くようになり、日本の山水画に新機軸を開いていくことになりました。

  

参考作品
白馬山八題のうち2作品 「雲海曙色」・「山頭団雲」
1917年(大正6年) 秋田県立近代美術館蔵





本作品は上記と同時期の作の作品でしょう。



学生時代に針ノ木雪渓でホワイトガソリンを誤飲したのち、その日のうちにテント内で台風と過ごした白馬岳の山頂・・、翌日には日本海へと駆け抜けた思い出深い山です。



淡い恋心を打ち捨てて打ち込んだ登山、一両日で針ノ木雪渓、白馬の雪渓、そして親不知海岸へ・・・、若い頃には情熱と体力があったのだろうが無茶でもあった 

今思うと登山で学んだ一番のことは、目の前の足元を一歩一歩確実に進むということ。頂上を観たり、急いではいけないということ。地道な努力が時間を経て事を成す、目先の派手さや欲に目がくらむと碌なことはない・・・、祖父の家訓通り「急ぐな、休むな、怠るな!」・・・・。

さて三連休は適度な休息となりました。



松双鳥図 狩野素川筆

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息子にひと部屋を明け渡す準備中です。日常使っていた食器棚を整理してると平野庫太郎氏のコーヒーカップのお皿が出てきました。カップだけ使用していたので皿を失念していたようです。



平野庫太郎氏のこの作品はとても人気が高いものでした。まとめて注文しても五客揃えるのが大変でした。こだわりのある先生はちょっとでも不揃いだと売ってくれませんでした。使用後に出る貫入が気に入らず、貫入の入らないこのコーヒーカップを製作していましたが、小生には入手できないうちに亡くなってしまいました。



上記は亡くなった家内と30年ほど使った津軽塗の椀です。さすがに磨いてもそれほどきれいにはなりませんでした。



上記の作品は敷用の津軽塗・・・。



きれいに磨いて再利用・・。


本日は本ブログで何度か取り上げてきた狩野素川の作品の紹介です。

松双鳥図 狩野素川筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横435*縦1460 画サイズ:横325*縦540

 

狩野素川は正式には「狩野章信」というのが本式の名称でしょう。改めて「狩野章信」の来歴を記すると下記のようになります。

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狩野章信:(かのう おさのぶ)明和2年(1765年)~文政9年10月2日(1826年11月1日)。江戸時代中期から後期に活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師を勤める表絵師浅草猿屋町代地狩野家5代目。

浅草猿屋町代地狩野家は、狩野永徳の弟子・祖酉秀信を祖とする表絵師の家系である。狩野章信は4代目の狩野賢信(かたのぶ)の子。一説では宇多川徳元の子とされる。4代目の(寿石)賢信から浅草猿屋町代地狩野家を継いだ。

木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川に匹敵する実力者といわれた。文政9年10月2日死去。62歳。名は彰信。通称は仙次郎,外記。別号に大玄斎。

文献資料には下記のものがあります。



1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好んだ。吉原の老妓の門弟も多かったという。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信のライバルと言われた。居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もある。

号について
幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改める。号は大玄齋、素川(そせん)だが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったという。

狩野派にありながら浮世絵美人画にも学んだ、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評された。章信はいつも手ぬぐいを頭に被り脱がなかったという逸話が残りますが、これは田沼候に招かれる際の出来事が元になっているという。自分は寒がりなので頭巾を外せないが、それでも良ければ参上すると答のが認められ、諸人がこれを真似たという。文政9年(1826年)死去、62歳。

弟子に、6代目の寿石圭信、川越城の杉戸絵を手掛けた舩津蘭山など。また、増上寺の「五百羅漢図」で知られる狩野一信も章信に学んだと言われる。

*なお狩野派にはもうひとり「素川」と号する画家がいます。全くの別人です。
狩野信政:(かのう-のぶまさ) 1607~1658 江戸時代前期の画家。慶長12年生まれ。狩野祖酉(そゆう)の長男。狩野孝信の娘婿,のち探幽の娘婿となる。東福門院の御用絵師をつとめ,代表作に聖衆来迎寺客殿の障壁画がある。明暦4年4月15日死去。52歳。通称は外記。号は素川。

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幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改めており、号は大玄齋、素川(そせん)ですが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったとされています。狩野素川の作品は50歳代からは「狩野彰信」として覚えておく必要がありますね。

本作品は落款に「狩野素川」とあることから、50歳代で「章信」となる前の作と推定されます。下記の写真左が本作品の落款と印章で、中央と右の写真は上記資料の落款と印章です。印章は一致すると推定して間違いないでしょう。

  

生存中には木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川(狩野栄信)に匹敵する実力者といわれたそうです。本ブログにも狩野栄信の作品は紹介されていますが、概略の来歴は下記のとおりです。狩野栄信が10歳年上になりますが、活躍した時期はほぼ重複しており、互いにライバル意識はあったのでしょう。

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狩野栄信:(かのう ながのぶ)安永4年8月30日(1775年9月24日)~文政11年7月4日(1828年8月14日)。

江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師である。幼名は英二郎。号については法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。

父は狩野惟信。子に木挽町を継いだ長男狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいる。

狩野養川院惟信の子として江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。

こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品は秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。

弟子に菊田伊洲、菊田伊徳など。

本ブログにて紹介した作品には下記の作品があります。

夏景山水図双幅 狩野伊川院筆 その2
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1720*横481 画サイズ:縦904*横363



住吉図 狩野栄信筆 その1
絹本着色淡軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1980*横480 画サイズ:縦1070*横340



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狩野素川(章信)と狩野栄信(栄川院)・・・、二人の画風は当時の狩野派を代表する画家ですが、一般的にはまったく違う画風のように評価されるようですが、狩野派の画風という観点からすると共通する事項が多くあり、今まで取り上げてきた狩野素川の作品を改めて振り返ってみましょう。

一番最初に紹介した作品は少し大きめの横幅の作品ですが、狩野素川としては真面目?に描いている作品であり、狩野派らしい作品と言えましょう。「夏景山水図双幅 狩野伊川院筆 その2」と共通する点が多いですね。

瀟相八景図 狩野素川筆 その1 
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:横940*縦1520 画サイズ:横750*横505



下記の作品は橘千蔭による賛のある珍しい作品ですが、即興的に描かれています。洒脱で機知に富んだ独特の画風と言えましょう。

雪松図 狩野素川筆・橘千蔭賛 その2
紙本水墨軸装 軸先木製 所蔵識箱
横310*縦1710 画サイズ:横288*縦960



以下の3作品は依頼されて描いた吉祥図的な作品と思われ、粉本に依らない軽妙洒脱な画風の典型と言えましょう。ただ「住吉図 狩野栄信筆 その1」と似ている構図をとっています。

富岳図 狩野素川筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:横350*縦1677 画サイズ:横318*縦905



このような作品は武士階級よりも花街で知り合った人に依頼されて描いたのかもしれません。

宝舟図 狩野素川筆 その4 
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横430*縦1620 画サイズ:横805*横315



これらの作品は依頼されて描いた吉祥図のように思われますね。

七福神之図 三幅対 狩野素川筆 その5 
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
各々全体サイズ:横335*縦1660 画サイズ:横840*横320



上記の狩野栄信と狩野素川の両方の作品を観比べてみても共通した狩野派の当時の画風がうかがえます。

また本日の作品は狩野栄信の来歴にあるように当時流行していた「長崎派や南蘋派の影響」の見られる作風です。



互いにライバル心があって、お互いに同じ画風を持っている点が多いと思います。



素人の考えですが、狩野素川(章信)と狩野栄信(栄川院)のライバルという観点から特集してみたら面白いかもしれません。



狩野派の古いしきたりに生きた画家ですが、常に新しいものを取り入れて飛躍を目指す葛藤があったのでしょう。



本作品は狩野素川の作品の中でも傑出した作品だと思います。しばし展示室にて鑑賞中・・・。

バラ 奈良岡正夫画

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我が家の畑は大根の収穫期・・、おでんで味をしめた息子は大根は「おいしい!」と判断したらしい。幼稚園から帰宅後には家内と大根の収穫に出かけてきたようです。



大きな大根を2個持って運べるようにもなりました。もうすぐ小学校の入学です。

さて小生の郷里近郊の出身の画家では県を跨ぐと青森県には数多くの著名な画家が存在します。その一人が奈良岡正人です。小生の郷里から一時間ほどの弘前出身の洋画家ですが、著名な画家ですのでご存知の方も多いでしょうが、本ブログで紹介させていただきます。



バラ 奈良岡正夫画
油彩額装 左上サイン 誂黄袋+タトウ
額サイズ:縦640*横560 画サイズ:縦455*横380 P8号



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奈良岡正夫:(ならおか まさお)本名:奈良岡政雄、1903年(明治36年)6月15日~2004年(平成16年)5月5日)。日本の洋画家。女優・奈良岡朋子の父である。 青森県中津軽郡豊田村(現弘前市)出身。』を挙げている。享年100歳。

父は村役場職員と農業を兼業していた。1915(大正4)年中津軽郡外崎尋常小学校を卒業。18年中津軽郡玉成高等小学校を卒業。この頃からねぷた絵の制作に熱中するが、長男として生家の農業を継ぐことを期待されており、19年ころ画家を志して家出する。しかし、一年で連れ戻されて農業に従事。そのかたわら、22年棟方志功らが結成した青光社に参加し、絵画制作を続ける。25年画家を志して上京。本郷絵画研究所に入るが、そこでの指導と環境に満足できず、初日で退学。その後弁護士の書生、青果市場内の製氷問屋などで働き、生計を支えながら、独学で絵を学ぶ。



1940(昭和15)年3月第36回太平洋画会展に「豊秋」で入選。これを皮切りに、特定の団体にこだわらず、数多くの団体展に出品して入選を続けるようになる。
1940年第12回第一美術協会展に「田賀風景」、第14回構造社展に「漁村」を出品。翌年第18回白日会展に「早春ノ山」、第9回旺玄会展に「湖畔晴日」「湖畔の春」「早春の山路」、第13回第一美術協会展に「新緑の里」、また、第3回現代美術協会展に「閑日」、第15回新構造社展に「二人の老人」で入選する。
1942年第19回白日会展に「提灯屋さん」、第38回太平洋画会展に「水に住む」、第29回光風会展に「けしの花」、第12回独立美術協会展に「訊問」「水に住む」、第10回東光会展に「勤労奉仕」、第14回第一美術協会展に「閑日」、第29回二科展に「征途」、第2回創元会展に「驢馬と子供」、第16回新構造社展に「網代風景」が入選。また、同年第6回大日本海洋美術展に「漁夫」、第2回大日本航空美術展に「飛行機ノお話」「防空壕」、第1回大東亜戦争美術展に「北方を護る人々」「弾丸を磨く」で入選する。
1943年第20回白日会展に「子供隣組」「巌峯進軍」を出品して佳作賞を受賞したほか、第39回太平洋画会展に「兎と子供」「古物商」「童心」「地引」で入賞し、褒賞受賞。また、第7回大日本海洋美術展に「漁夫」「地曳」を出品して大臣賞受賞。同年決戦美術展に「アッツ島上陸」で入選する。また、第3回大日本航空美術展に「救護(一)」「救護(二)」を出品し、「救護(一)」によって大日本航空美術協会賞を受賞。第2回大東亜美術戦争美術展に「突撃」を出品する。この年、陸軍省報道部派遣命令により、中支に派遣される。
1944年1月ソヴィエト満州国境に3ヶ月間、北支に3ヶ月間派遣される。同年、第40回太平洋画会展に「工場」を出品して同会会員となる。また、陸軍美術展に「兵隊と良民」「昭和18秋太岳作戦(勝兵団戦闘司令部)」、第8回大日本海洋美術展に「漁期に入る」を出品。45年陸軍作戦記録画展に出品。戦地から帰った際に牛や山羊ののどかな姿に打たれ、以後、これらを描き続ける。




戦後、46年第1回日展に「牛宿」で入選。47年太平洋画会から分離独立して示現会が結成されるのに際し、創立会員として参加し、以後、日展とともに同会に出品を続ける。
1954年第10回日展に「山羊」を出品し特選を受賞。
1956年第12回日展に「山羊」を出品して再び特選を受賞、
1962年日展会員となる。
1964年から1970年まで隔年で、東京日本橋三越で個展を開催所で個展を開催。
1969年6月渡欧。
1970年6月青森市松木屋で、同年11月弘前市青森銀行記念館で画業50年展を開催。この頃から、郷里の夏祭りねぷたを題材とした作品を多く制作するようになる。
1979年日展参与となり同年青森市民展示館で「画業60年展」、1991(平成3)年東京の銀座松屋で「米寿記念奈良岡正夫展」、青森市松木屋で「画業70年米寿記念展」を開催。
1994年示現会会長となり、同年11月青森市松木屋で「松木屋創立45周年記念特別企画 示現会会長就任記念奈良岡正夫個展」を開催。
1997年、洋画家中村彝を記念し、名利を求めず画業に精進する60歳以上の画家を顕彰する中村彝賞の第5回受賞者となる。
1999年茨城県近代美術館で「中村彝賞記念 変幻自在流 大沢昌助・じょっぱりの画人 奈良岡正夫展」が開催された。年譜、文献目録は同展図録に詳しい。

2000年画業80年展を青森市で開催し、2001年白寿記念展を三越本店にて開催した。「描く対象に対する愛情がなければ絵にはできない」と語り、子供をいつくしむ山羊や幼い頃から親しんだ郷里のねぷた祭を好んで描いた。生涯、納得のできる絵画を目指し、対象の再現的描写を基本とするが、タブローを描くにあたっては構図を知的に組み立てるなど、絵画の自立性を踏まえた制作をつづけた。

社団法人日展参与、社団法人示現会会長を務めた。 初入選が40歳前と遅咲きの作家。戦時中は従軍して戦争記録画を制作したが、戦前の作品は、ほとんどが所在不明となっている。戦後は、放牧されている牛や山羊、青森のねぶた、奥入瀬などを題材に描いた。堅実な描写力と対象への親密なまなざしによって独自の画風を確立した。



略歴
1903年(明治36年) 青森県弘前市生まれ。
1925年(大正14年) 上京。
1941年(昭和16年) 白日会展入選。
1943年(昭和18年) 仁科展、独立展等に入選。
1944年(昭和19年) 文展に入選。
1946年(昭和21年) 第1回日展に初入選。
1947年(昭和22年) 「示現会」の創立会員。
1979年(昭和54年) 日展参与。

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バラを描いた日本洋画家は多く、著名な画家も多い。その良し悪しの判断は当方の及ぶべきもない領域ですが、この作品は当方にとっては好きな作品となりそうです。



伊勢正義や福田豊四郎、そして奈良岡正夫のような画家が郷里の近郊の出身であることは幸いだと感じています。



近年、そのような文化的な香りが郷里でしなくなってきたのが気がかりです。ただ一人、今は故人となってしまった陶芸家の平野庫太郎氏を除いては・・・。

松双鳥図 狩野素川筆

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息子にひと部屋を明け渡す準備中です。日常使っていた食器棚を整理してると平野庫太郎氏のコーヒーカップのお皿が出てきました。カップだけ使用していたので皿だけを失念していたようです。



平野庫太郎氏のこの作品はとても人気が高いものでしたが、まとめて注文しても五客揃えるのが大変でした。こだわりのある先生はちょっとでも不揃いだと売ってくれませんでした。さらには使用後に目立ってくる貫入が気に入らず、貫入の入らない同じような練り込みのコーヒーカップを製作していましたが、小生には入手できないうちに先生は亡くなってしまいました。



上記は亡くなった家内と30年ほど使った津軽塗の椀ですが、これも食器棚から出てきたものです。さすがに磨いてもそれほどきれいにはなりませんでした。



上記の作品は敷用の津軽塗・・・。



きれいに磨いて再利用・・。整理するということは思い出に踏ん切りをつけることでもあり、寂しい感じがするものです。


本日は本ブログで何度か取り上げてきた狩野素川の作品の紹介です。

松双鳥図 狩野素川筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横435*縦1460 画サイズ:横325*縦540

 

狩野素川は正式には「狩野章信」というのが本式の名称でしょう。いくつかの作品を本ブログで紹介していますが、久方ぶりの紹介ですので、改めて「狩野章信」の来歴を記すると下記のようになります。

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狩野章信:(かのう おさのぶ)明和2年(1765年)~文政9年10月2日(1826年11月1日)。江戸時代中期から後期に活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師を勤める表絵師浅草猿屋町代地狩野家5代目。

浅草猿屋町代地狩野家は、狩野永徳の弟子・祖酉秀信を祖とする表絵師の家系である。狩野章信は4代目の狩野賢信(かたのぶ)の子。一説では宇多川徳元の子とされる。4代目の(寿石)賢信から浅草猿屋町代地狩野家を継いだ。

木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川に匹敵する実力者といわれた。文政9年10月2日死去。62歳。名は彰信。通称は仙次郎,外記。別号に大玄斎。

文献資料には下記のものがあります。



1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好んだ。吉原の老妓の門弟も多かったという。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信のライバルと言われた。居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もある。

号について
幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改める。号は大玄齋、素川(そせん)だが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったという。

狩野派にありながら浮世絵美人画にも学んだ、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評された。章信はいつも手ぬぐいを頭に被り脱がなかったという逸話が残りますが、これは田沼候に招かれる際の出来事が元になっているという。自分は寒がりなので頭巾を外せないが、それでも良ければ参上すると答のが認められ、諸人がこれを真似たという。文政9年(1826年)死去、62歳。

弟子に、6代目の寿石圭信、川越城の杉戸絵を手掛けた舩津蘭山など。また、増上寺の「五百羅漢図」で知られる狩野一信も章信に学んだと言われる。

*なお狩野派にはもうひとり「素川」と号する画家がいます。全くの別人です。
狩野信政:(かのう-のぶまさ) 1607~1658 江戸時代前期の画家。慶長12年生まれ。狩野祖酉(そゆう)の長男。狩野孝信の娘婿,のち探幽の娘婿となる。東福門院の御用絵師をつとめ,代表作に聖衆来迎寺客殿の障壁画がある。明暦4年4月15日死去。52歳。通称は外記。号は素川。

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幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改めており、号は大玄齋、素川(そせん)ですが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったとされています。狩野素川の作品は50歳代からは「狩野彰信」として覚えておく必要がありますね。

本作品は落款に「狩野素川」とあることから、50歳代で「章信」となる前の作と推定されます。下記の写真左が本作品の落款と印章で、中央と右の写真は上記資料の落款と印章です。印章は一致すると推定して間違いないでしょう。

  

生存中には著名な画家である木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川(狩野栄信)に匹敵する実力者といわれたそうです。本ブログにも狩野栄信の作品は紹介されていますが、概略の来歴は下記のとおりです。狩野栄信が10歳年上になりますが、活躍した時期はほぼ重複しており、互いにライバル意識はあったのでしょう。

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狩野栄信:(かのう ながのぶ)安永4年8月30日(1775年9月24日)~文政11年7月4日(1828年8月14日)。

江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師である。幼名は英二郎。号については法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。

父は狩野惟信。子に木挽町を継いだ長男狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいる。

狩野養川院惟信の子として江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。

こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品は秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。

弟子に菊田伊洲、菊田伊徳など。

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本ブログにて狩野栄信として紹介した作品には下記の作品があります。

夏景山水図双幅 狩野伊川院筆 その2
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1720*横481 画サイズ:縦904*横363



住吉図 狩野栄信筆 その1
絹本着色淡軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1980*横480 画サイズ:縦1070*横340



狩野素川(章信)と狩野栄信(栄川院)・・・、二人の画風は当時の狩野派を代表する画家ですが、一般的にはまったく違う画風のように評価されるようです。ただ狩野派の画風という観点からすると共通する事項が多くあり、今まで取り上げてきた狩野素川の作品を改めて振り返ってみましょう。

一番最初に紹介した作品は少し大きめの横幅の作品ですが、狩野素川としては真面目?に描いている作品であり、狩野派らしい作品と言えましょう。「夏景山水図双幅 狩野伊川院筆 その2」と共通する点が多いですね。

瀟相八景図 狩野素川筆 その1 
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:横940*縦1520 画サイズ:横750*横505



下記の作品は橘千蔭による賛のある珍しい作品ですが、即興的に描かれています。洒脱で機知に富んだ独特の画風と言えましょう。

雪松図 狩野素川筆・橘千蔭賛 その2
紙本水墨軸装 軸先木製 所蔵識箱
横310*縦1710 画サイズ:横288*縦960



以下の3作品は依頼されて描いた吉祥図的な作品と思われ、粉本に依らない軽妙洒脱な画風の典型と言えましょう。ただ「住吉図 狩野栄信筆 その1」と似ている構図をとっています。

富岳図 狩野素川筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:横350*縦1677 画サイズ:横318*縦905



このような作品は武士階級よりも花街で知り合った人々に依頼されて描いたのかもしれません。

宝舟図 狩野素川筆 その4 
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横430*縦1620 画サイズ:横805*横315



これらの作品は依頼されて描いた吉祥図のように思われますね。

七福神之図 三幅対 狩野素川筆 その5 
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
各々全体サイズ:横335*縦1660 画サイズ:横840*横320



上記の狩野栄信と狩野素川の両方の作品を観比べてみても共通した狩野派の当時の画風がうかがえます。

また本日の作品は狩野栄信の来歴にあるように当時流行していた「長崎派や南蘋派の影響」の見られる作風です。



互いにライバル心があって、お互いに同じ作行を持っている点が多いと思います。



素人の考えですが、狩野素川(章信)と狩野栄信(栄川院)のライバルという観点から特集してみたら面白いかもしれません。



狩野派の古いしきたりに生きた画家の側面と、常に新しいものを取り入れて飛躍を目指す葛藤があったのでしょう。



本作品は狩野素川の作品の中でも傑出した作品だと思います。しばし展示室にて鑑賞中・・・。

黄瀬戸向付 五客揃い

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夜更けに原稿作成に忙しいと投稿の予定日が重複した原稿を作成してしまい、朝になって家内から「今日はふたつ?」と寝惚けままに耳元で囁かれます。慌てて飛びおきて原稿の訂正をする始末・・・

最近は新たな入手や購入は避けていますので、現在は蒐集は「休むべし、勉強すべし」のタイミング・・、というのは負け惜しみで資金不足により、しばし整理重視というところ。そこで原稿作成には少し余裕のあるはずですが、次から次へと調べたいことが山積みになっていきます。ただ調べてみたら、以前に調査済であったりしていますので、無駄な手間が増えたりして、一番は記憶の混乱かと危惧する始末、記憶力の低下が著しいのか? それでも2000件を超える作品の所在と概略はまだ理解しているのは我ながら感心・・・

さて本日は黄瀬戸の向付の作品の紹介です。雰囲気の良い作品だと判断し入手した作品です。古瀬戸という判断ではないことをご理解ください。

黄瀬戸向付 五客揃い
古杉箱入
幅90*高さ70



珍重されるのは桃山期の黄瀬戸の作品ですが、新しい工芸品の黄瀬戸の作品に加工して汚し、偽物に仕立てた作品がよくあります。



近代作品は肌がまったく違うようで、本物は砂地に油を流したようなしっとりとした照りがあり、近代作品はざらついた感じがします。



胆礬(たんぱん)釉については本物はもっとほのかに染み込んでいる。近代作品は絵具で描いたようにべたついているとされています。



本物には高台まですべて釉薬がかけてあるものですが、近代作品は土が丸出しの作品が多いようです。桃山期の作品では向付を茶碗に見立てている作品が多くあります。



本作品では見込みに陰刻の花文様があります。全体が刻印ではなく、各々若干違います。ただ手書きではなく花の印、葉と茎の印を別々に押印した作りではないかと推定されます



黄瀬戸は、志野、織部、瀬戸黒とともに、桃山時代、盛んに美濃一帯で作られた焼きものです。黄瀬戸の釉色は、釉薬に含有するわずかな鉄分が酸化焔焼成のために出た色ですが、渋いくすんだ黄色に言い難い親しみがあるとして珍重されています。



よく焼けて釉薬が透明になり、ピカピカと光る黄瀬戸を俗に「ぐいのみ手」と呼び、しっとりとして滋味がありじわじわとした肌をしているのを、「油揚手」と呼んでいます。



一般的にきわめて薄い作りで、内面に梅などの彫りと鉄絵、胆礬の緑彩で表したり、口縁の内側に網代文をめぐらし、鉄彩と緑彩を点じている作品が多くあります。



高台は低く薄い作りで、高台内に置き台の跡が茶褐色に焦げて輪形に残っていることがあります。これは近代でも真似しているので決定的な古瀬戸の判断材料にはならないかもしれません。



約束事はほぼ備えている作品ですが、本作品は桃山期とするには恐れ多いですね。見込みの草花が愛らしくて普段使いの向付としての食器には十分鑑賞に堪え得る作品でしょう。



古い杉箱に収められていました。このような箱では互いに衝突して破損しないように保存しておく必要があります。



食器の保存には今はいい道具がたくさんあります。クッション材、綿材などが廉価でありますが、劣化していく材料は避けたほうがいいでしょう。空気の入ったプチプチなどはすぐに劣化してしまい、よくないようです。



野点の小ぶりな茶碗としても重宝しそうな作品です。古瀬戸などと悩むより、蒐集の基本であろう愉しめる器ですね。



山水清音 不染鉄筆

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幼稚園で息子が粘土で作った器・・。展示会で見てきたのですが、展示会が終わって本人の元に戻ってきたようです。早速実際に使えるかどうかを試してみたようです。

我が家の食卓には小生が作った器が使用されるので、息子のライバル心が燃えた???



さて本日は最近?人気が出てきた不染鉄の水墨画らしい?作品の紹介です。

山水清音 伝不染鉄筆
和紙水墨軸装 軸先象牙 共箱太巻二重箱
全体サイズ:縦1765*横590 画サイズ:縦950*横450



太巻きの共箱に収められています。落款や印章は以前に紹介した「能登半島」という作品と共箱、作品ともに同一印章です。ただこの落款と印章は真似しやすいかも・・・??

  

ただシミが出てきており「染み抜き改装」が必要だと思われます。戦争中画材が乏しくなる中、不染が水墨画に打ち込んでいたそうですが、その頃の作品でしょうか?

 

独特の画風ではありませんが、独特の画風です・・・・ 



「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」を信条とし、「きれいでなくても小さくても。立派でなくても。淋しいんだから淋しい一人で眺める画を描こうと思った…野心作だの大努力作よりも小さな真実をかこう」という芸術観をもち、「いヽ人になりたい」という言葉を残しています。



そう、「人生は淋しい」ということを自覚して初めて幸福が得ようと努力するもの、そして得られるもの・・・。そしてさらには「一人では何もできない。」という認識を持つことから幸福はスタートする。

そういう思いが伝わる作品、そういう思いにさせてくる作品に出会いたい。そういう意味では息子の作品は意義深い・・・・

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