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牡丹図 寺崎廣業筆

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本ブログは積極的に紹介していませんし、広告目当てやアクセス数稼ぎ?でもありません。単なる作品の整理ボックスですので、駄作や贋作も混在しています。ただ真贋に目くじらをたてることもありませんが、当方で贋作や駄作と断定、もしくは疑いが強くなったと判断された作品はブログから削除されていきます。その点をご理解いただいてブログをご覧ください。

さて寺崎廣業の描いた席画のような水墨系の作品で一番うまいのはおそらく「牡丹」を描いた作品でしょう。寺崎廣業の「牡丹図」の3作品目の紹介です。当方では最近、かなり出来の良い、横山大観と所縁のありそうな作品をもう一点入手しています。その作品はまた後日・・。

本作品は展示室へ繋がる階段前に飾っています。



牡丹図 寺崎廣業筆 頃
絹本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2040*横380 画サイズ:縦1265*横300

 

表具は乱れ、折れ目もあり、状態の悪い作品ですね。改装する必要があります。

 

上記左の落款と印章からも真作と判断されましが、箱にある右写真の落款と印章は本作品と関係ないでしょう。取り合わせの箱に収めたものと思われます。

本作品は再表具したら今一度紹介したいと思います。ただ再表具する価値がありやなしかは審美眼次第というよりお好み次第ですね。

ま免(め) 色紙 川端龍子筆

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本ブログによく投稿されている同郷の画家「福田豊四郎」は祖父母、父や母、そして叔父らと交流があり、祖父や叔父は福田豊四郎氏の紹介で絵画を購入したりし、とくに父は福田豊四郎氏から直接絵の絵ほどきを受けていました。

その福田豊四郎は最初に京都の土田麦僊に師事し、のち川端龍子の門人となっています。その関連かどうかは知りませんが、祖父から父、そして母から叔父に、そして今は小生に川端龍子の作品が伝来しています。子供の頃から床にはその作品を母がときおり床に飾っていました。

そういう関連から機会があると川端龍子の作品を購入し、本ブログにも何点か投稿しています。本日は色紙の作品ですが紹介いたします。



ま免(め) 色紙 川端龍子筆
色紙 共タトウ
画サイズ:横240*縦270



小作品ながら独特の勢いのある筆致で描かれています。



作品中の落款と印章、タトウにある題と印章は下記のとおりです。

 

文献資料の落款と印章は下記のとおりです。

 

同じ時期の描かれたと思われる作品で、色紙に描かれた作品には下記の作品があります。

黎明の富士 色紙 川端龍子筆
色紙 タトウ
画サイズ:横240*縦270



我が家に伝来する作品は下記の作品で、子供の頃からこのようにして床に飾られていました。母が一度手放し、再度当方で引き取った作品です。

*手前は浜田庄司の花入れです。

胡蝶花 川端龍子筆
紙本着色絹装 上表具太巻 共箱二重箱 軸先本象牙
全体サイズ:縦2315*横740 画サイズ:縦1485*横565



叔父は下記の作品を所蔵していたのですが、叔父が亡くなった後に残念ながら子息が手放されました。2008年に思文閣での買取の評価金額は80万円だったと記憶しています。立ち会った際にはその値段で譲るということでしたが、資金不足で断念しましたが、譲っていただけばよかったという悔いが遺っている作品です。

東海第一日 川端龍子筆
紙本着色絹装軸装 軸先象牙 太巻箱二重箱
全体サイズ:横745*縦1795 画サイズ:縦473*横575
第62回鑑賞会出品作品 須磨家旧蔵品



骨董蒐集には輪廻転生もあれば、永劫の別れもあるようですが、どちらかというと輪廻転生を追い求めているようなところがありますね。

錐呉器茶碗 その2

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*昨夜は子供に添い寝してしまい投稿が今朝になってしまいました・・・

茶器の中でも茶碗というのは難しいものです。その難しさはまずは自分で茶碗を作ってみると解ります。ぐい呑みや飯茶碗は意外に誰でも簡単に作れますが、茶器の茶碗はそうはいきません。品格、使いやすさの両方を兼ね備えなくてなりませんから、初めて作る作品は形はまともでも漬物入れになるか、穴を開けて植木鉢になる運命となります。

一口に使いやすいと言っても必要な機能が何点もあり、たとえば「お湯を注いでも熱くならない、お湯を捨てる際に高台が持ちやすい、抹茶が点てやすい、飲み口が飲みやすい」などなど・・・・。それにもまして難しいのが品格でしょうね。

とかく茶器の茶碗というと、萩や唐津、楽といった国焼、井戸や高麗といった唐物などが良いものと頭に浮かび、その範疇にある作品にとびつくのですが、その中でもいいものはごくわずかでしょう。

青井戸、小井戸、蕎麦井戸だとか、御本手、錐だとかという分類された作品をすぐに崇高してしまうのは大きな間違いでしょう。とくに井戸はもともとは飯茶碗であり、井戸茶碗には出来損ないが多いもので、その見極めには大きな意味で審美眼が必要なようです。

さて偉そうな語りはさておいて、本ブログにて呉器茶碗は幾つか紹介してきましたが、本日は呉器の中で「錐呉器」に分類される作品の紹介です。「錐呉器」・・?? 幾つかの作品を本ブログでも紹介してきましたが、一般には馴染みのない名称かもしれませんが、茶碗ひとつをとってもなにかと細かい点で分類されているのが骨董の面倒くさいところです。

錐呉器茶碗
口縁金繕補修跡有 合箱
最大口径135*高さ95*高台径



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呉器茶碗(ごき ちゃわん):高麗茶碗の一種で、御器、五器とも書きます。呉器の名前は、形が椀形で禅院にて用いる飲食用の木椀の御器に似ていることに由来するといわれます。

一般に、大振りで、見込みが深く、丈が高く木椀形で、高台が高く外に開いた「撥高台(ばちこうだい)」が特色とされます。素地は、堅く白茶色で、薄青みがかった半透明の白釉がかかります。

呉器茶碗には、「大徳寺(だいとくじ)呉器」、「紅葉(もみじ)呉器」、「錐(きり)呉器」、「番匠(ばんしょう)呉器」、「尼(あま)呉器」などがあります。「大徳寺呉器」は、室町時代に来日した朝鮮の使臣が大徳寺を宿舎として、帰国の折りに置いていったものを本歌とし、その同類をいいます。形は大振りで、風格があり、高台はあまり高くありませんが、胴は伸びやかで雄大。口辺は端反っていません。「紅葉呉器」は、胴の窯変が赤味の窯変を見せていることからその名があり、呉器茶碗中の最上手とされています。

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呉器の中で「錐呉器」と分類されるのは下記の特徴からです。

錐呉器:薄手で小振りなものが多く、薄柿色の中に魚屋に似て釉色は青みがあり、赤の窯変や雨漏り染みなどの見られるものは少ないようですが、時に赤・黄の火変わりがある作品もあるようです。陶土は青井戸に似て赤味のある鼠色、釉は井戸脇に似た黄色がかったものです。釉立ちの呉器は下記の記述の筋目がなくても一般的に錐呉器と分類されているようです。高台には割高台のものとそうでないものがあります。



「錐呉器」の名の起こりは資料をまとめると下記の説があるようです。

1)見込みが錐でえぐったように深く掘られて見込みの茶溜りが錐で突いたように窪んでいる景色からという説



2)高台の中にも反対に錐の先のように尖った兜巾が見られるのでこの名があるという説



3)胴または高台脇に二筋・三筋のまるで錐でえぐったような筋があるからという説



4)高台と口とをすっきりと切り取った形からという説



5)切高台のものを切呉器といったのが転じたともいわれています。

古くから井戸茶碗などを含めた高麗茶碗は細かく分類されますが、それは多少屁理屈のような、こじつけのような点があります。現代ではあまり細かいことにこだわらに方がいいし、井戸茶碗や高麗茶碗の至高主義的な点はどうも古臭いようにも思えます。

事が煮詰まってくるとなにかと細かく定めるのが終焉の始まりのような気がします。茶器もそうでしょうね。そろそろそういうことから卒業してしまいたいものです。

本題ですが、本作品は最低限の機能は備えて使い勝手はよい茶碗ですが、いい作品かどうかは正直なところ微妙であり、小生にはよく分かりません。井戸や高麗の作品は近代までに膨大な数が製作されています。当方の審美眼はまだまだですね。



とはいえ茶碗はきちんとした保管を心がけています。箱はかなりの上箱に収納されており、箱には「御本」と記されています。当方は形から「錐」としていますが、ここは意見のいろいろあるところであり、箱を誂えた方は「御本」に分類したのでしょう。いずれたいした問題ではないと思います。



茶碗は湿気を避けるために必ず最初に紙で覆います。それからお仕覆か布です。直接仕覆や布はカビが発生しますのでよくありません。



箱は両側5ミリずつの余裕が良しとされてます。



最低限の保管はきちんとしておきましょう。いい加減な保管はよくありません。さて、本作品、当方の所蔵前に使い込んでいるようですが、当方でも使い込まないと審美眼は身につかないでしょう。

ま免(め) 色紙 川端龍子筆

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本ブログによく投稿されている同郷の画家「福田豊四郎」は祖父母、父や母、そして叔父らと交流があり、祖父や叔父は福田豊四郎氏の紹介で絵画を購入したりし、とくに父は福田豊四郎氏から直接絵の絵ほどきを受けていました。

その福田豊四郎は最初に京都の土田麦僊に師事し、のち川端龍子の門人となっています。その関連かどうかは知りませんが、祖父から父、そして母から叔父に、そして今は小生に川端龍子の作品が伝来しています。子供の頃から床にはその作品を母がときおり床に飾っていました。

そういう関連から機会があると川端龍子の作品を購入し、本ブログにも何点か投稿しています。本日は色紙の作品ですが紹介いたします。



ま免(め) 色紙 川端龍子筆
色紙 共タトウ
画サイズ:横240*縦270



小作品ながら独特の勢いのある筆致で描かれています。



作品中の落款と印章、タトウにある題と印章は下記のとおりです。

 

文献資料の落款と印章は下記のとおりです。

 

同じ時期の描かれたと思われる作品で、色紙に描かれた作品には下記の作品があります。

黎明の富士 色紙 川端龍子筆
色紙 タトウ
画サイズ:横240*縦270



我が家に伝来する作品は下記の作品で、子供の頃からこのようにして床に飾られていました。母が一度手放し、再度当方で引き取った作品です。

*手前は浜田庄司の花入れです。

胡蝶花 川端龍子筆
紙本着色絹装 上表具太巻 共箱二重箱 軸先本象牙
全体サイズ:縦2315*横740 画サイズ:縦1485*横565



叔父は下記の作品を所蔵していたのですが、叔父が亡くなった後に残念ながら子息が手放されました。2008年に思文閣での買取の評価金額は80万円だったと記憶しています。立ち会った際にはその値段で譲るということでしたが、資金不足で断念しましたが、譲っていただけばよかったという悔いが遺っている作品です。

東海第一日 川端龍子筆
紙本着色絹装軸装 軸先象牙 太巻箱二重箱
全体サイズ:横745*縦1795 画サイズ:縦473*横575
第62回鑑賞会出品作品 須磨家旧蔵品



骨董蒐集には輪廻転生もあれば、永劫の別れもあるようですが、どちらかというと輪廻転生を追い求めているようなところがありますね。

水墨松図 藤井達吉筆 

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中国陶磁器??? ともかく陶磁器の真贋を含めた陶磁器の判断は日本の陶磁器も含めて魑魅魍魎たるものがあります。当方はあくまでもサラリーマンの趣味ゆえ、それほど深入りしないようにしていますし、真贋には無頓着なほうだと思います。ただある程度の審美眼は身についてきているので過去に蒐集した作品の取捨選択を心がけていますが、基本は気に入ったものは気に入った作品で、法外な値段でなければそれなりに楽しめたらいいという姿勢になってきています。

そのような作品のひとつに下記の作品があります。

青磁輪花碗 
口径156*高台径46*高さ55



おそらく近代の作?



ただこのような青磁の輪花の整った形の焼成は非常に技術の要る作です。



青磁にはみりんをも欠点は許されませんし、厚みも薄めの心地よい厚みが必要です。



迷った挙句、捨てるには惜しいので取っておくことにしました。



とっておくということは後世に遺すということになり、こちらの審美眼を後世で判断されるということです。



それなりの誂えとそれなりの覚悟です。あえて製作年代は記入していません。



さて本日の本題の作品は、もはやいくつもの作品を紹介している藤井達吉の作品の紹介です。

水墨松図 藤井達吉筆 その
紙本水墨軸装 軸先陶器 加藤英一鑑定箱
全体サイズ:縦1550*横340 画サイズ:縦630*横240

 

作品には印章のみでよくある「空」の号の朱文白方印が押印されています。



箱書は「加藤英一」氏によるものです。「達翁 水墨絵 松」と記されています。

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加藤英一:(瀬戸) 明治32年(1899) 愛知県瀬戸市に生まれる。帝展・日展10回入選。瀬戸陶芸界の長老の一人。藤井達吉に師事する。瀬戸陶芸協会会員。昭和62年(1987) 瀬戸市無形文化財に指定される。

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表具は「加藤英一」によるものかは定かでありませんが、藤井達吉の作品に多くある「陶器による軸先」が用いられています。



藤井達吉の作品は多種多様ですが、共通しているのは茶味があるということでしょう。

*手前の作品は道八銘の「柿本人麻呂像」の作品です。



藤井達吉の作品は歌が詠まれて賛のある作品、色彩画、水墨画、どれをとっても茶室に似合う作品ばかりですね。どうして茶席で用いるのが少ないのか疑問に思っています。さて藤井達吉の作品も取捨選択していきます。

氏素性の解らぬ作品 伝磁州窯 白磁鉄絵鳳凰壺 元(14世紀)?

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祖父の我が家の家訓、叔父に伝わり、叔父が書家に書いた頂いた書が叔父に居間にあり、その書を写して、小生が友人の書家に複数枚書いてもらいました。



強く正しくにこやかに
上見てすすめ下見てくらせ
真靭の前に不能なし
論で勝つより行で勝て
長者と交われば悪友なし
話上手より聞き上手
己に勝ちて人に譲れ
急ぐな休むな怠るな
向上一路終点なし
仲良く働け笑って暮らせ



尋常小学校だけの卒業であった祖父ですが、一代で事業を成し遂げ財を成しました。それゆえ説得力がある文句です。

さて中国陶磁器は手を出さぬが安全・・、君子危うきに近寄らず・・。小生は君子ではないのでどんどん近づいています。

氏素性の解らぬ作品 伝磁州窯 白磁鉄絵鳳凰壺 元(14世紀)?
13世紀~14世紀 誂箱
口径*胴径270*高さ270



磁州窯のこの手の作品は、白土を厚く化粧掛けして、さらにその上に黒の化粧掛けを施し、そして一気呵成に素早く削り出しています。文様が実に瑞々しく生命力にあふれているのが特徴です。

高台はどんな名品でもだいたい粗雑で荒々しいものですが、注文品として作られた作品は丁寧に作られています。また見た目の量感よりも軽く作られるのも特徴です。



なで肩で裾が窄まる広口の短頸壺です。口縁の周囲には牡丹を描いており、線彫りした作品よりも後期の特徴が見られます。裾には三重線のみで削りの文様はありません。



中央部はたっぷりと空けた白地に龍と鳳凰の文様が描かれいますが、精緻な描きではなく全体が雑です。作行は下記で紹介されている「白地鉄絵鳳凰文壺 元(14世紀)(東京富士美術館蔵)」に酷似しておりますが、一回り小さめの作品となっています。宋時代の真作は丁寧な仕上げがなされ、精緻な作品ですが元時代になってくるに従い



「白地鉄絵鳳凰文壺 元(14世紀)(東京富士美術館蔵)」に酷似しておりますが、一回り小さめの作品となっています。宋時代の真作は丁寧な仕上げがなされ、精緻な作品ですが元時代になってくるに従い「絵付け」の流行と共に線彫りし文様を施す技法・劃花が雑になった傾向が見られます。宋代の本来の彫り・掻落しという彫刻風の施文技法は精緻で品格と美しさを持つものですが、少しずつ雑記の変遷した可能性がります。



当初、磁州窯では褐色の生地に白い化粧土を施し、その上に透明釉をかけて焼き上げる生活雑器を製作していました。これはもちろん当時の高級品であった白磁に、一歩でも近づきたいとの思いから生まれたものでしょう。時を経るとこの白い化粧土が乾かないうちに、細い竹などで線彫りし文様を施す技法・劃花(かっか)が考案されました。さらに劃花が発展し生まれたのが、剔花(てきか)すなわち掻き落としです。これは生地に白い化粧土をかけた後、文様に沿ってヘラで削り取るもので、こうすると生地の褐色と化粧土の白色との対比で、文様がくっきりと浮かび上がる。そしてこの色の対比をより強調したものが「白地黒剔花」ですこれは白い化粧土の上に、さらに黒い化粧土を薄くかけ、文様に沿って黒土だけをヘラで掻き落としたもので極めて高度な技法です。当時はまだ絵付けが存在しなかったため、これらは人々に大きな衝撃を与えました。隆盛を極めたのは北宋時代の12世紀初頭で、文様はより複雑で精緻になり名品が次々と生み出されました。器に直接絵付けを施す「白地黒花」すなわち鉄絵が生まれたのは、それから100年程後です。鉄分を多く含む顔料を用いて、筆で文様を描くため、表現の幅が広がり焼物の装飾に大きな変革をもたらしました。その結果、手間ひまのかかる掻き落としの技法を姿を消しましたが、本作品はその変遷期にあたる14世紀頃の作品とか推察されます。



ま~、真作とは考えず、近代の模倣品として鑑賞するには支障はありますまい。

磁州窯の著名な作品に下記の作品らがあるようです。

参考作品
白地鉄絵鳳凰文壺 元(14世紀)
東京富士美術館蔵
高34.2cm、口径12.9cm、胴径35.6cm、底径13.9cm



参考作品
白地黒掻落牡丹文壺
時代: 北宋時代(12世紀)  サイズ: 高さ 28cm×径 25cm



参考作品
磁州窯 白磁黒剔花瓶
2014年06月11日出品 評価金額2500万円



さすがにこの評価金額は異常でしょうね。



本ブログでも何点か磁州窯の作品、磁州窯に絡んだ作品を紹介してます。

他の所蔵作品解説                      守
磁州窯 白地鉄絵兎文壺
13世紀~14世紀 誂箱
口径178*胴幅270*高さ270



他の所蔵作品解説                      
磁州窯白地鉄絵梅瓶
合箱
胴幅165*高さ292



他の所蔵作品解説                      
磁州窯 白地鉄絵草・福文水指
元時代以降 合箱入
口径110*胴径165*高さ115



他の所蔵作品解説
鉄絵草紋筒茶碗 磁州窯 
合箱
口径90*胴径100*高台径69*高さ125



日本画にも取り上げられています。

壺と花 小谷津任牛筆
紙本着色軸装 共箱太巻二重箱
全体サイズ:縦1320*横500 画サイズ:縦450*横360



氏素性の解らぬ作品は玄関に飾るはもってこい・・・。







緑風 福田豊四郎筆 昭和18年(1943年)頃

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来週には勤め先の事務所が移転するため、引っ越しの準備で仕事場は大わらわ。引っ越し先では氏子が変わるため、そのような中でも神棚への10年間の感謝の儀式。赤坂の日枝神社から神主さんに来ていただいてお祓いです。最後に日枝神社で蔵する月岡芳年の絵馬(重要文化財らしい)の写しの絵馬を神主さんからいただきました。なにかと蒐集品の画家と縁のある日々です。

さて初釜に際して幾つか使用するために取り出した自分で作った皿の器を並べてみました。作品というのはおこがましいので器ですが、30代から40代にかけて作った思い出深い作品です。

中央と右の作品は友人の平野庫太郎氏の秋田市の保戸野窯で製作し、左の作品は盛岡の木村氏の南部窯で製作したものです。中央の作品は平野先生の家の庭に生えていた蕗の葉を採って、皿の上に載せて吹き墨のようにして文様にしたもの・・。

先生の指導や窯のおかげでまとも?そうな作品になっていますが、素人の作品はなかなか紹介するのも恥ずかしいものです。でもその時に関連した人々、とくに故人を偲ぶことが多いなど各々思い出深いの作品です。自分で作ったモノは遺る、思い出と共に・・・、そこは骨董品とは違うところかもしれません。



本日は父の友人であった福田豊四郎の作品の紹介ですが、父は福田豊四郎から絵を習っており、福田豊四郎の筆が入った父の作品も遺っています。父と息子、絵と陶磁器の違いはあれど、同じような道を辿っているのかもしれません。

趣味がないという人が多いけれど、それは人生の楽しみをひとつ失っているのかもしれませんよ。とくにモノづくりに関わるのは大切だと思います。



本日紹介するような戦前・戦中の福田豊四郎の作品は数がそれほど多く遺っていませんが、福田豊四郎が戦後著名になるに従い、戦後には当時の贋作が出ていることもあり、ある程度の真贋の判断には注意を要する頃の作品群でしょう。

緑風 福田豊四郎筆 昭和18年(1943年)頃
紙絹本着色額装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1460*横670 画サイズ:縦445*520



一見すると福田豊四郎の作品と判断するには躊躇する作品ですが、当方では真作と判断しました。もともと純粋な花鳥画は描いた作品が少ない福田豊四郎ですが、とくに鳥を描いた作品は少ないでしょう。



どこか漫画チックな作行ですが、それが福田豊四郎の持ち味でもあります。



昭和13年から翌年にかけ、陸軍従軍画家として中支・北支を巡歴し、翌14年1月帰国しています。さらに、同17年4月4日から9月3日まで、陸軍従軍画家として東南アジアを巡ぐっています。昭和20年2月には、秋田県由利郡に疎開し、翌21年2月東京に戻り、本格的に画業に専念しています。



この作品は落款などから戦時中の作と推察されますが、この頃の作品は落款の書体が変遷する頃と思われ、この書体の作品は少ないと推察しています。

なにしろ戦時中であり、上記のように福田豊四郎自身が画家として戦地に赴いており、現在遺っている作品は少ないこともあり、判断は難しくなります。押印されている印章は数多く押印されている印章です。

*他の所蔵作品(ブログで紹介投稿されています)「秋海棠」(下右)の落款と印章の比較 



「秋海棠」らの作品と描いた時期は同時期でしょう。終戦直後からは落款の正体は洗練された書体となります。共箱に押印されていないのは何らかの理由があるのでしょうが、詳細は不明です。



本ブログで紹介した福田豊四郎の作品は100作品を超えました。むろん大きな作品などはありませんが、未だにじっくりと整理できていないので、時間があればよく吟味して作品を整理したいものです。


春景山水 その2 寺崎廣業筆 明治末年(1912年)頃

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寺崎廣業の人気作品を画題にて2分するなら、「美人画」と「山水画」と言ってよいでしょう。晩年によく描かれたとされる山岳を描いた「山水図」には「〇景山水」と題された共箱の作品が多々あり、当方の蒐集作品においても下記の作品があります。

本ブログにて紹介した作品
「四季山水図四幅対 寺崎廣業筆  大正5年(1916年)頃」から始まり、
春景山水図 寺崎廣業筆 大正2年(1913年)頃
夏景山水図 寺崎廣業筆 明治43年(1910年)頃
秋景山水図 寺崎廣業筆 大正6年(1917年)頃
雪中山水図 寺崎廣業筆 大正3年(1914年)頃
などの四季の山水画を紹介してきました。

本日は最近入手した作品の紹介です。

春景山水 その2 寺崎廣業筆 明治末年(1912年)頃
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2020*横615 画サイズ:縦1175*横420

 

さらりとした山水画に物足りなさを感じる方もいるでしょうが、これが寺崎廣業の画風です。この作品でも書き込みは多い方でしょう。



だいぶ飾られていた機会が多かったのでしょう。表具に痛みが出始めていいますが、改装するかどうか迷うところですが、そろそろ改装が必要な段階です。



現在の寺崎廣業の評価価格を鑑みると通常は改装しないでしょう。ただ小生の評価価格は独自・・・????



箱書きは下記の写真の通りですが、右の写真は「春景山水 その1」の箱書きです。同時期に描かれた作品と推察されます。

 

箱の印章は下記の通りです、明治末から大正期まで箱の書体、印章はほとんどが下記のものと同一です。ただ本作品中の「廣業」と朱印白方印は珍しい印章です。

*寺崎廣業の作品は席画のような書き込み少ない作品が多いですが、そのような作品には共箱が少なく、鳥谷幡山らの鑑定箱になることが多々あります。本作品のように共箱で書き込みのある程度きちんとしている作品は少なくなります。

 

寺崎廣業の山水画というと1912年(大正元年)の文展に「瀟湘八景」を出品し、図らずも同名の横山大観の作品とならび評判作となったことはあまりにも有名です。



大正期には長野方面によく出向き山岳画を好んで描きました。下記の作品はその中でも特に有名な作品ですね。

『高山清秋』大正3年(1914年 秋田県立近代美術館蔵)

 

「高山清秋」は寺崎廣業芸術の最高点と評されています。これは、上林で取材したもので、遠く日本アルプス連山、中景に飯綱・黒姫・妙高山、近景に白根山を望む壮観を、南画と大和絵をミックスした手法で描いたもので、前の作の「渓四題」の完結点とされ評価が非常に高い作品です。

大正6年7月に寺崎廣業は川合玉堂、富岡鉄斎、下村観山らとともに帝室技芸員に任じられており、これは、当時の芸術家にとっては最高の栄誉でしたが、その直後から咽喉ガンの症状が現れました。豪胆な広業はそれにもひるまず、第12回文展出品のため大作「杜甫」に取りかかった。広業の意図は左右風景の三連作であったらしいが、中央の人物だけで絶筆となっています。

なお当方では弟子の高橋萬年の「杜甫」の模作が所蔵作品として出品されています。

杜甫 寺崎廣業作模作 高橋万年筆
絹本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1880*横650 画サイズ:縦1150*横500



諸流派を総合した画格をもち、制作意欲が旺盛で、画壇の主導的存在であった広業は、江戸時代の谷文晃に擬せられことがあります。しかし、78歳という長寿に恵まれた文晃より20年以上も若くして亡くなっています。

大正8年2月21日、最期まで意識のしっかりしていた広業は、家人、知人、門人たちにそれぞれ別れのことばや訓戒を与え、大勢の絵画ファンに惜しまれながら不帰の客となりましたが、享年53歳という若さでした。



同時期に描かれたと思われる作品(後日紹介予定)と並べて展示しています。



牡丹図 その4 寺崎廣業筆  大正3年(1914年)頃

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振り返ると本ブログを始めてら4000日以上経過したようです。ということは11年以上・・。日曜日や帰省した日は休稿していいますが、それでも10年、ひと昔。まだ整理が終わらないというのは自分でも驚きです。小生はよほど要領が悪い人物らしい。それでもあと一息・・・、その後は気に入ったものだけにして処分にかかります。

さて100点前後となる寺崎廣業の作品を本ブログで紹介していますが、さらに牡丹を描いた作品は本日紹介する作品で四点目となります。



本ブログを読まれている方は同じような作品の紹介で辟易としているでしょうが、当方は寺崎廣業が描いた「牡丹図」の作品が好きなので、ご容赦で願います。

牡丹図 寺崎廣業筆  大正3年(1914年)頃
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱+タトウ
全体サイズ:縦1510*横710 画サイズ:縦480*横510



墨絵で描いた「牡丹図」で著名なのは村上華岳の作品です。その著名な作品は下記の作品でしょうか。

参考作品
墨牡丹之図
昭和5頃 絹本墨画・軸 34.5×42.0
京都国立近代美術館 蔵



むろん近代巨匠と比べるべくもない作品ですが、寺崎廣業が長い期間描いてきた水墨画の「牡丹図」の中で本作品は最晩年にあたる大正3年頃に描いた作品です。

 

牡丹の派手さが和らいで、すっきりと仕上がっています。今までの牡丹の作品は長条幅の作品でしたが、この作品は大きめの大幅の作品となっています。



近代作品の「牡丹図」のようなくどさがなく、数える程度の筆数で描いた朦朧体のような描き方は寺崎廣業の水墨画の真骨頂と言えるでしょう。

なお本作品には下記の書付が同封されています。要は羽織のような衣服に横山大観、山岡米華らとともに描いた作品のようです。このようなことはよくあったようで、当方でも祖母が福田豊四郎氏に羽織の裏地の描いていただいた作品や帯に描いた作品、袱紗に描いた作品など数々の作品が遺っています。

横山大観、山岡米華らが描いた作品も一緒に遺っていると面白かったですね。なお後日堅山南風に観ていただいたと書付にありますが、堅山南風は横山大観を師としており、戦時中には山梨県山中湖湖畔に一緒に疎開しています。



ちなみに明治43年(1910) に寺崎廣業は横山大観、山岡米華とともに6月7日に新橋駅を出発し、同月11日に日本郵船加茂丸で神戸港を出港、上海、蘇州、南京、洞庭湖、万里の長城、北京などを訪問し、長江の舟行も体験して、7月25日に帰京しています。各地でスケッチを残し、この旅行は寺崎廣業、横山大観の画業に多大な影響を与え。共に帰京後にはみずみずしく雄大な山水画を制作しています。

さらには横山大観や山岡米華と共作した「草花」の作品は最近、秋田県立美術館にて開催された展覧会で公開されています。なお記述にある長野の渋温泉の近くには角間温泉の安代館別館(旧横山大観別荘)、上林温泉の寺崎廣業の別荘があります。

*これらの記録からこの書付の信憑性は高いものと判断されます。



この後の大正元年に寺崎廣業と横山大観は偶然にも共に「瀟湘八景」という同題の作品を文展に出品し。大きな話題になりましたが、本作品は横山大観との関連を示す重要な作品のひとつでもありましょう。



*なお手前の作品は「ちがい輪窯」の福島善三作と思われる小鹿田焼の大皿です。



ともに大輪の作・・・。

氏素性の解らぬ作品 伝古萩(松本萩)御本写茶碗

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息子は今年から小学校ですが、椅子が小さくなってきたので新たな椅子を家内が購入したようです。むろん組み立ては自分で・・。



パパさんが工具にていろんなことをしているので、自然に覚えたようです。息子のものづくり?での真剣な眼は小生は大好きです。



にっこりとして完成・・・・、勉強部屋はまだ先。ものづくりは完成の喜びと使う愉しみがありますが、実はいつまで満足したものができないという怖い深みがある・・・・



息子の学習塾(もっぱら遊びにようなもの)は英語のみ。家での勉強・・・、写真は図形問題? ときおり家内となんかしらの問題と取り組んでいますが、現在は家内と金銭勘定を勉強中らしい。これが意外に苦手?? まずい

ただ負けず嫌いで解るまでやると頑張る、さすがに血は争えない



さて今までに本ブログにて萩焼の作品を投稿したのは数点のみかもしれません。本ブログには「鬼萩手?」、「吉賀大眉作 茶碗」、「一三代三輪休雪作 杓立」が検索するとありましたが、基本的に「萩焼」の作品は少ないようです。

近代から現代までの数人の陶工以外の作品は萩焼に当方ではあまり魅力が感じていないというのが正直な理由です。「古萩」と称される茶碗にも優品は少ないと思っています。

なお時代の古い「古萩茶碗」と称される作品は基本的に高麗茶碗や井戸茶碗の写しを目指した作風となっており、膚、竹節高台、割高台、目跡など井戸茶碗や高麗茶碗にとても似た造りや釉薬となっています。これらを井戸茶碗、高麗茶碗と称すると贋作と言われることがありますが、古来日本の多くの作品が高麗や井戸を志向したので、土が違うからと贋作扱いすることには慎重を期す必要があるでしょう。

鑑識眼のない骨董屋では高麗茶碗の鑑定に「土が違うから偽物だよ。」という方がいますが、それは日本でも高麗や井戸茶碗を志向していたので、真贋だけをみていて、茶碗としての美を観ていない傾向があり得るので「本来の鑑識眼」ではない可能性があります。

伝古萩(松本萩)御本写茶碗
合箱
口径140*高さ90*高台径



ちなみに「萩焼」と呼ばれるようになったのは実は明治時代以降で江戸期には松本焼、深川萩と呼ばれていたようです。「古萩」とは初期の萩焼を指します。



萩焼は大阪に来ていた朝鮮の陶工・李勺光を、豊臣秀吉が毛利輝元に預けたことに始まります。毛利家はその後、長州・萩に改易されたので、李勺光もこれに従って萩に移り、城下の松本村字中ノ倉に開窯します。その後、弟李敬を朝鮮から呼び寄せ協力し萩焼の原点を作りました。

なお李敬は帰化して初め坂倉の姓を名乗りましたが、後に坂の姓に改め、寛永二年に毛利家から「高麗左衛門」の日本名を賜わり、藩の御抱窯として代々この名前を世襲して現在に及んでいます。現在の坂倉の窯の発祥ですね。



毛利家では長府藩初代藩主毛利秀元が優れた茶の才能を持ち、長州本藩主毛利秀就の後見役を務め、武将としては剛勇の誉れ高く、古田織部の高弟でもあり、名だたる茶人大名でした。徳川家光の御伽衆に加えられ、1640年には品川御殿に徳川家光以下幕閣諸大名を招いて大茶会を催しています。初期萩焼に見受けられる作風はその毛利秀元の茶人としての指向、影響が深く関係していたと考えられています。



萩焼は和物焼窯のなかで最も朝鮮茶碗に近い風貌を持ち、使い込むうちに風景が変化に富んだ渋い色彩、茶味を持ちはじめる俗に「萩の七化け」と称されています。全体の色彩は主に淡い琵琶色や乳白色の色彩です。日本の茶道の美意識を最も端的に表現した焼物であるとされ、古来から慧眼の茶人達に愛玩されてきましたが、「真に質が高く品位ある古萩茶碗は少ないとされます。」と文献に記述があります。



本歌の朝鮮茶碗に比べて和みのある佇まい、柔い雰囲気も特徴でしょう。ぼそっとしたやわらかい土がいわゆる古萩と言われるもので、このあと1700年代に入るとよりきめの細かな土で焼かれるようになります。 一般的にはそれ以前のぼそっとした土のものを古萩と分類するようです。



前述のように古萩茶碗は基本的に高麗茶碗や井戸茶碗の写しを目指したような作風となり、膚、竹節高台、割高台、目跡など井戸茶碗にとても似た造りとなっています。



本作品も兜巾上の高台内高台の形状が三日月状となり、肌は雨漏りを醸し出し、見込み内には目跡があります。造りは李朝に、作風は高麗茶碗になっているのでしょう。



本作品の茶碗は高麗の御本茶碗の写しであると思われます。このような作風や釉薬は古来の見所を盛り込んだために嫌味になることが多いのですが、当方はこの作品は嫌いではありません。

気取った茶碗より野武士のような荒々しさが好きです。逆にながらく李朝の井戸茶碗や高麗茶碗を至高としている現在の趣向にはうんざりしているところです。李朝にも高麗にも出来の悪い作品は多い、というより出来の良い作品は萩焼と同じく数が少ないと思います。さも金繕いして「いいでしょう。」という凡作の李朝の作品にはどこか抵抗があります。



変わった仕覆を誂えました。「瓢箪から駒」・・・?? 箱もみすぼらしく、使い込んだ茶碗・・。



当方のようなサラリーマンにとって、茶碗の氏素性はどうでもいいもの、仕込むのはこちら、人も骨董も同じようところがあるようです。

*仕覆は本来は古裂などがいいのでしょうが、凝ると時間と費用が当方では許しません。これは専門屋のやること・・・

本作品と比較するのもおこがましいのですが、「古萩」の名品には下記の作品らがあるようです。

参考作品
萩茶碗 銘「普賢」 
江戸前期 正木美術館蔵 



古萩茶碗
二代坂高麗左衛門作



贋作を恐れては骨董蒐集は無理、常に挑戦あるのみ。はてさて古萩か写しかは神のみぞ知る、ただ必ずいつか神のお告げがあるはず・・・

色紙作品 三美人図 三木翆山と勝田哲

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休日はコロナウイルス騒ぎでどこにも出かけられず、息子も幼稚園が休みで二人で体力を持て余し気味。自転車で駆け巡ってものの、日曜日は雨・・・。そばを離れない息子と展示室でごろ寝。天井が高くて気持ちがいい・・・。



さて工芸品などの模写に注意してさえいれば、色紙の作品は実に手頃な値段で買えるのがうれしいですね。本日はまとめて美人画の3作品を入手しましたので紹介します。

本ブログで繰り返し記述していますが、色紙の「額」は数点あれが十分です。何しろ縦と横の作品の違いはあれど、サイズが同じなので数点の気に入った額さえあれば、その洒落た?額に飾ると作品が見栄えするものです。本日は額ではなく色紙掛けに飾ってみました。



このような色紙掛は珍しいかもしれません、刺繍が施され、明治期頃作? 

舞妓 勝田哲筆
絹本着色色紙
画サイズ:縦270*横240



色紙掛けも中途半端なものではつまりません。やはりちょっと古いものを用意しています。



色紙の作品ながら細かい点までよく描写されている作品です。指の動きなどさすがにうまいですね。



同じく勝田哲の作品です。

大原女 勝田哲筆
絹本着色色紙
画サイズ:縦270*横240



日展会員の日本画家勝田哲は、1896(明治29)年7月8日京都市に生まれています。本名は哲三。

1920年東京美術学校西洋画科を卒業後、日本画に転じ、京都市立絵画専門学校に入学、30年同校研究科を卒業しました。この間、平等院・法界寺の壁画模写を行ない、25年山元春挙に入門、26年「お夏」が帝展に初入選しています。山元春挙は本ブログでおなじみの画家です。



29年第10回帝展出品作「天草四郎」、31年第12回帝展「征旅(ジャンヌ・ダルク)」がそれぞれ特選となり、翌年から無鑑査となりました。36年京都市立美術工芸学校に勤務、戦後京都市立日吉ケ丘高校で教鞭をとっています。



60年日展審査員をつとめ翌年会員となあり、77年京都府美術工芸功労者、80年に京都市美術工芸功労者の表彰を受けています。主な作品は上記のほか「雨」(40年)「葵上」(49年)「舞女」(60年)など。享年84。



最後は本ブログで幾点かの作品が紹介されている美人画の達人と言われた三木翆山の作品です。

七夕美人図 三木翆山筆
絹本着色色紙
画サイズ:縦270*横240



三木翆山は竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれ、幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習っています。

明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積んでいます。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたります。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚しています。



大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。以降、文展や帝展といった官展で活躍しました。

大正14年(1925年)から京都の佐藤章太郎商店という版元から、京都風俗を取り上げた新版画「新選京都名所」シリーズを版行、同年吉川観方と創作版画展を開催しています。昭和7年(1932年)第13回帝展からは無鑑査となりました。



昭和17年(1942年)に師の栖鳳が没した後は画壇を離れ、個展で作品を発表し始めています。

一方、昭和27年(1952年)から1年余り渡米し、美人画の個展を開催、昭和28年(1953年)メトロポリタン美術館から終世名誉会員の称号を贈られました。

晩年は、京都河原町蛸薬師の繁華街に地上7階、地下2階、総床面積1400坪もの国際的な美術サロン、インターナショナル三木アートサロン設立を計画しますが、悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなりました。老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後失意のうちに急逝。享年73。美人画や風俗画を得意とし、代表作に「嫁ぐ姉」、「元禄快挙」などがあります。

自分の得意分野外には罠が多いものですね。



さて二人の画家については掛け軸、額装の作品などが本ブログに紹介されていますが、ちょっとマイナーな画家ながら、よく描けている色紙の作品だと思います。

*マイナーな画家と記述していますが、「ジャパンビューテイ」などの美人画家の中堅を特集する画集には作品が必ず掲載されている画家でもあります。










引舟形水指 四代大樋長左衛門作

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江戸期の作品、いわゆる古画に類する作品で痛みにある作品は随時改装しています。今回は渡辺秀詮の虎を描いた作品が改装完了しました。詳細は後日また・・・。



本日は大樋焼の水指の作品の紹介です。



引舟形水指 四代大樋長左衛門作
九代大樋長左衛門鑑定箱 
口径135*胴径150*高さ180*高台径52



大樋焼というと飴釉薬ですね。



四代大樋長左衛門については詳しくはありませんが、資料に下記の記述があります。



幕末頃の作というこでしょうか? 直しや傷があるようです。



このような形を引舟形というらしい。



変形した口に特注であろう蓋が付いています。



大樋焼は基本的に楽系統というイメージですね。楽焼と同じく手捏ねと削りが作成の基本のようです。



四代から大樋焼は飴釉が本格化したのでしょうか?



四代大樋長左衛門作とされ九代大樋長左衛門による鑑定箱に収められています。印章は真印のようですね。

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九代大樋長左衛門:(1901〜1986)。金沢生。昭和9年に大樋焼本家窯元九代目を襲名。九代はあえて伝統を打ち破るということに挑戦し、艶の良い黒を作った。一回黒い釉薬をかけて、その上からさらに分厚い黒をかけると、腰のあたりに幕のように波が出る。これが九代の特徴。中興の祖である五代勘兵衛に匹敵する名工といわれた。日本工芸会正会員。十五世裏千家鵬雲斎宗室より陶土斎の号を受ける。昭和61年(1986)、84才。

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痛みやすい共箱などは丁寧に風呂敷に包んでおきましょう。



紐や箱に経年による痛みがあることからも直接触ることを防ぐことができます。



水指を鑑賞するには茶室が一番ですね。



ま~正直なところ水指の出来の良さは小生にはよくわかりませんが・・・。



取り合わせは茶碗・・・。



大樋焼は茶碗の形にも奇抜なアイデアがある作品があります。なんといっても「引舟形?」という形が面白い。一般的な形では楽焼の北陸版になってしまいますね。


織部緑釉 のらくろ

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「北の国から」を手掛けた演出家の杉田成道さん、50歳でがんで奥さんを亡くし、57歳で30歳下の女性と再婚し、子供が3人生まれたそうですが、ここまでは「57歳でがんで家内を亡くし、再婚して60歳で初めての子供ができた。」小生と似た境遇です。ただ最近、72歳で4人目のお子さんが生まれているらしい。なんともすごいというか、たいへんそう・・。



さて本日はたわいのない?作品の紹介です。「のらくろ」はよくご存じの田河水泡の漫画作品でその主人公である野良犬のことです。黒の織部の「のらくろ兵隊さん」という人形の作品を見かけたことはあるのですが、戦闘機に乗った「のらくろ」の作品は数多くあるのかどうかしりませんが初めて見ました。

織部緑釉 のらくろ
誂箱
幅80*奥行90*高さ70



売り物??? 誰か個人的に作った作品???



ともかく懐かしいので一万円で入手、高いのかや安いのかと問われたら、やはり高いのでしょう。



ただ愛嬌があっていいですね。手を挙げて「よっ!」という感じ。



決して丁寧な作りではありません。型に入れた量産品・・??



子供のおもちゃで陶器は壊す可能性が高い・・?



現代では陶磁器ではおもちゃは作らないかもしれませんね。



粗雑さが逆に魅力なっているよう・・・。



これは玩具と骨董蒐集家は捨ておく人もいるでしょう。ただ置いた時にピタと落ち着きがいい?ので置物として魅力を感じます。



以前にブリキの自転車の形をしたオルゴール付きの手作りの動くおもちゃがあったのですが、資金調達で処分して後悔したことがありました。義妹から「え~、欲しかったのに!」と嘆かれた・・、人の価値観は千差万別・・。



ただ所詮、骨董などは金のかかる大人のおもちゃ。



悪意さえなければ遊び心が骨董の原点! 手に持って「ぶ~ん・・・」てっね。いい大人が・・。

息子にとられる?のを恐れて息子には見せていません でも高い棚に置かれた作品をみてはときおりチラリ、チラリと・・・「パパのおもちゃ?」だと・・・。



展示室の米櫃の上に飾っています。





線刻草花文花入 石黒宗麿作

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本日は石黒宗麿の4作品目の紹介です。



線刻草花文花入 石黒宗麿作
共箱
口径55*最大胴径140*高さ255*底



たっぷりと掛けられた粉引の白には手早く掻き落としで描かれた線刻は他の作例から「ねぎ坊主の花」と思われます。春の息吹を感じられる作行で、ちょっと傾いだ口作りも面白いです。




風に揺れるように描かれた線刻は、白釉と相まって柔らかく、温かく、清楚で品格があり、微笑ませてくれる美しい作行となっています。



高台内に印があったかもしれません。あるなら「栩」の印であった可能性が高いかもしれませんが、釉薬で消えた可能性もあります。なお石黒宗麿の作品には刻印や刻銘のない作品もあります。



作品に銘がないと、作者を証明するものはないのですが、この作品は幸いなことに共箱となっています。

箱書:「白瓷刻花小壷 栩庵(翁?)製 朱文「栩」白菱形印」」



この印章は昭和25年に同時に作った銅製の4種の印章のひとつ。この印章は「八瀬窯宗麿」印に次いで使用された作品が多く、緑釉壺などの箱書に押印されていることから、本作品は1950年から1952年頃の作と推測されます。

 

同時期に活躍した同じ人間国宝となった陶芸家の中では意外に著名でないのが石黒宗麿ですが、その陶歴はいささか奇異なものがあります。



国宝の天目茶碗に魅せられ、木葉天目の焼成に初めて成功し、古陶磁器の再現に取り組むなど正統派の陶芸家とも言えましょう。



その苦労の陶歴が紛れもない品格さの高さのベースになっているように思います。奇抜さやアイデアだけではこの品の良さは生まれませんね。厳しい鍛錬の賜物でしかない美です。すべての仕事は厳しい鍛錬に通じているものです。一時的な華やかな仕事や楽な仕事に大きな恵はないと思います。働き方改革はそのことを忘れていませんか?

*この陶歴は保戸野窯の平野庫太郎氏と通じるものがあります。



さて箱の保存はきちんとしておきます。風呂敷もそれなりのものを用意しておきましょう。

古い共箱は箱書きが擦れたり、真田紐が切れそうになったりと扱いに注意が必要です。お金のかかる外箱を用意するのもひとつの手ですが、風呂敷で包んでおくのも安価な対策のひとつです。ただ野暮ったい風呂敷は趣がないですね。

収納の仕方ひとつが蒐集への姿勢を問うことになります。作品を鑑定者の手前に持ってくるまでに、鑑定者は真贋が解るそうです。所蔵者の扱い方、保管方法で真贋が作品を観る前に解るそうです。ある意味で真贋云々よりも保管、メンテは大切なことで、それがしっかりしている人には贋作は寄り付かない、寄り付かせないということなのでしょうか? 



骨董蒐集のおいて扱い方にも鍛錬が必要で、厳しい鍛錬のもとに美が寄り付くものでしょう。鍛錬なしには美は寄り付いてこないものです。風呂敷にも扱い方がありますが、昔は両親から教わったものですが、今では教える方も少ないのでしょうね。



掛け軸を立ったまま巻き上げる御仁、腕時計をしたまま陶磁器を扱る御仁、真田紐の扱いを知らない御仁、収納の基本的な扱いを知らない人は骨董蒐集の入り口で失格なのでしょう。


秋の馬 福田豊四郎筆

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本日は本ブログにてもはや100作品を超えた福田豊四郎の作品です。読者の方はまたかとお思いでしょうが、お付き合いください。

秋の馬 福田豊四郎筆
絹本着色淡彩軸装 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:縦1470*横660 画サイズ:縦433*横510



落款と印章から戦前の作と判断されます。

故郷を同じくする福田豊四郎、わが故郷では馬は身近にいましたね。林業が盛んであったこともあり、道路に馬糞がたくさんあったり、学校の帰りに馬ぞりにのって遊んだり・・・。



本作品では福田豊四郎のノスタルジックな初期の作風をともかく愉しみあれ! 自分の原風景、経験のフラッシュバックのない方は楽しめないかも・・・。



ところで下記の落款の書体の時期は意外に短い・・。



休日、嫌なことは忘れて美術の本(画集)でもゆっくり開いてみたいと思っています。むろん隣では動画に夢中な息子がいるでしょうが・・・。


旭松図 寺崎廣業筆 大正元年(1912年)頃

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作品を放出する前に一度寺崎廣業の作品はすべて展示してみたいものです。福田豊四郎、天龍道人、平福父子しかり・・。いずれも大した作品は所蔵していないのですが、蒐集の歴史?を辿ってみたい衝動にかられるこの頃です。



旭松図 寺崎廣業筆 大正元年(1912年)頃
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1140*横410

 

印章は叔父の所蔵であった「寿老 寺崎廣業筆」と同一の印章を用いています。他に所蔵作品の「富嶽図」も同一印章です。落款から判断すると明治45年の作か大正元年の作と推察されます。

*このような比較はデジタルな資料よりアナログな資料が断然早い・・。よってプリントアウトしたファイルを常備しています。

 

印譜を見ないで真贋の判断ができるようでないと鑑識力が付いたとは言えませんが、こかいことはさておき、まずはめでたい正月飾り・・・。

*郷里の画家で寺崎廣業、平福穂庵、福田豊四郎の印章は資料を見ないで判断できるようになりました。平福百穂は未だ・・。



依頼されて描いた作品でしょうか? 丁寧に描かれています。

りんご 板絵 芹沢銈介筆

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今週末には息子の卒園式、4月からは小学校です。時間の経つのは早いものですが、この時期の息子との時間は遅くあって欲しい気もします。それでも自立?に向けて息子の部屋づくりを始めていますが、義父が昨年亡くなったこのも重なり、意外に大仕事となっています。要らなくなったものは処分していますが、その結果として要らなくなった家具も処分することしました。先週末には箪笥・・・、二階から降ろすのに息子も手伝っています。このようなことも手伝えるようになってきたのかと感心・・・・・。疲れてのか、日曜の夜には片付けをしている小生の膝枕であっというまに眠りに落ちていました。



さて民芸と総括される陶磁器の作品については本ブログで浜田庄司、河井寛次郎、バーナードリーチ、金城次郎らを紹介しており、絵画もまたデザイナーでもあった藤井達吉や杉本健吉を紹介してきましたが、意外にも染色工芸家の芹沢銈介の作品紹介は今回が初めてでしょう。好き嫌いがあったわけではありませんが、染色工芸家というのが当方の不得意な分野であることに起因していると思われます。

りんご 板絵 芹沢銈介筆
紙本着色額装 板絵 共シール 誂:布タトウ+黄袋
F0号 全体サイズ:縦290*横330 画サイズ:縦140*横177



芹沢銈介は東北地方、ことに仙台の街や鳴子温泉と縁があったようですが、今回改めて調べるまで知りませんでした。



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芹沢銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭):1895年(明治28年)5月13日 ~1984年(昭和59年)4月5日)。日本の染色工芸家。静岡県静岡市(現葵区)生まれで、静岡市名誉市民。文化功労者。重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)。

20世紀日本の代表的な工芸家として内外から高く評価されており、民芸運動の主要な参加者でもありました。オリジナリティあふれる作品群を生み出したほか、本の装丁など商業デザインも手がけ、また、その選美眼によって世界各地の民芸品を蒐集しています。

東北地方、ことに仙台の街や鳴子温泉を愛したことでも知られています。息子の芹沢長介は考古学者として活躍し、晩年は東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館の館長を務めました。

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経歴をみていくと、小生が仕事で赴任していた地域と大きく重複します。



1931年に静岡から東北地方へ旅立ち、仙台の堤窯を皮きりに岩手県久慈窯までの行程を「東北窯めぐり」と題する作品として発表しています。さらに青森県八戸では江戸中期から伝えられた「南部小絵馬」の美しさを見出していますが、その古格ある重厚な筆の運びは、秀衡椀と並んで東北の誇りうる文化遺産であると柳宗悦が絶讃したことでも有名です。



東北地方の風土を、そして古い伝統の息づく雪国の人と文化をこよなく愛し、銈介は東北のひなびた温泉場を好み、晩年になっても骨休みのためにしばしば鳴子温泉に逗留し、そのたびに多くのスケッチを残しているそうです。

また仙台の定禅寺通りと青葉通りにうっそうと茂った欅並木も、銈介の心を和ませる風景の一つであったようで、ホテルから出てステッキをつきながら青葉の下を散歩し、付近の骨董店などをのぞくのが楽しみであったようです。小生もながらく仙台に住していたのですが、今では骨董店はまったくといっていいほど存在していません。

終戦直後に次女を仙台に嫁がせ、3人の孫が生まれたということも、銈介の東北好きに拍車をかけたにちがいないようです。東北地方を題材とした銈介作品だけでも、おそらく一つの展示室を満たすに足りるであろうと言われています。

芹沢銈介は1945年から80年までに収集した内外の染織品・木彫・絵画・陶器・装身具など約4500点を作品約200点と共に静岡市に寄贈し、静岡市によって「芹沢銈介美術館」が81年に完成し、それらは常時一般に公開展示されています。



また1963年には倉敷の大原美術館の中の工芸館として「芹沢館」が開館し、常時作品の展示が見られるようになっています。したがって、西日本から中部地方にかけての人たちには銈介の作品と収集品とを見るための施設が提供されたのですが、東北地方の人にとってはやはりそれらは遠い存在でした。



銈介が病いにたおれ、虎ノ門病院で治療を続けていたある日、「仙台にも陳列館を一つ作ってくれよ。」という本人の願いで、アンデスやアフリカの染織品を中心にした作品を、残っていた作品と収集品を一括して寄贈し、1989年に完成した「芹沢銈介美術工芸館」が開館しています。仙台の人たち、東北の人たちに見てほしいという願いがかなった施設です。



*残念ながら上記の3施設をまだ当方では訪れたことはありません。否、ずいぶん前に大原美術館を訪れており、見たかもしれませんが、興味が当時なかったせいか、よく覚えていません。

 

当方での蒐集作品はやはり肉筆画となりました。小作品ながらいい作品だと思います。

さて裏には下記のシールがありますが、「□□の板絵 五0八刊」というのはどのような意味でしょうか?

片付けついでに小生のガラクタもどこかに寄贈してしまおうか?と考えています。









色紙 春の花 伊勢正義筆 

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現在展示室は下の写真のような状況です。要る作品と要らない作品を仕分けしながら、収蔵スペースの棚を作る作業に取り掛かるためです。



本日は本ブログで幾点か紹介している同郷の洋画家である伊勢正義の作品の紹介です。なお伊勢正義の色紙の作品は初めて見ました。



春の花 伊勢正義筆 
紙本着色色紙 
画サイズ:横240*縦270



描いているのはパンジーでしょうね。

 

描かれた年代は不詳です。以前に紹介した掛け軸に仕立てられた「群鯉」は落款から1932年(昭和7年)、伊勢正義25歳頃の作でしたが、本作品は同一印章が押印されていますが、印章の欠けからもっと晩年になってからの作と推定されます。油絵以外にはこの印章が押印されています。



色紙の裏に記されている「恵存(けいそん けいぞん)」の意味は「お手元に保存していただければ幸い」の意味のようですが、自分の著書などを贈るときに、相手の名のわきや下に書き添える語句だそうです。

 

部屋の飾りというものは、茶室に限らず品よくありたいものです。だんだんと頂き物などが増えてくると飾りすぎになりますが、飾り過ぎは過ぎたるもの及ばざるがごとき也・・。



ところで床や飾り棚には一作品か二作品まで・・・。蒐集作品をグダグダたくさん並べるには愚の骨頂といつも反省しています。そのための作品整理と蒐集棚の改装・・・・

影青刻花碗 伝宋(北宋?)時代 その8

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陶磁器の歴史において、中国陶磁器に比して日本の陶磁器が敵わない点はいくつかありますが、その中で最たるものは青磁の分野でしょう。

*下の写真は青磁の輪花茶碗。製作された時代は当方の知識では不明としか言いようがありません。



近代作の模倣品と思われる作品においても青磁の中国の技術の高さには驚かされます。やはり磁器の轆轤の技術が高いのでしょう。



さて青磁に分類されるのでしょうが、本日は影青についての考察です。影青の宋時代の作品は「北宋時代がいい」という人と「南宋時代がいい」という人がいるようです。文献でも意見は多様のようです。本当かどうか分かりませんが、発掘によって多くの作品が出回ることで北宋時代の希少価値が下がったことという記事もあります。影青の作品において北宋時代の作を崇めた時代は過ぎたのかもしれません。

そもそも影青の語源は、白磁に印花や刻花で文様を表し、その上から薄青色の釉薬を施した際に凹んだ”影”の部分に釉薬が深く溜まり、澄んだ深みのある美しい”青”色を呈することから付けられたようです。

文献には「影青の技法は北宋時代に生まれ、南宋時代に完成します。北宋時代は胎も釉も薄く、まるで紙のように軽く、触ると手が切れそうなほどシャープです。南宋時代になると、胎も釉も少し厚みが出て、優しさと艶やかさと瑞々しさが出ます。時代の好みと、技術の向上により影青は南宋時代に最盛期を迎えました。」という記事があります。

本日の作品は北宋時代の特徴を模倣したおそらく近代作かもしれませんが、そういう前提で本ブログは参考資料としてお読みください。

影青刻花碗 宋(北宋?)時代 その8
合箱
口径175*高さ63*高台径



宋代の影青というと「なんでも鑑定団」に出品された下記の作品が思い浮かびますね。

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参考資料
なんでも鑑定団より
2017年10月17日放送



評価金額40万円
評:13世紀、中国南宋時代の後期に江西省景徳鎮窯で焼成された青白磁。これより古い12世紀前半までの北宋時代の影青が市場にでれば最低でも500万円、高ければ2000万円。ただ、それは数が少ない。南宋の時代になると大量生産をした。

時代がわかるのは、本作品は横から見ると形がはんなりとふっくらしている。また、高台がわりと大きく、すべすべしているところ。北宋時代の青白磁は窯道具の台に乗せて、鞘に入れてひとつずつ焼成するため、高台の裏に窯道具の鉄色の跡がある。

本作品の見込みを見ると、箆か櫛でささっと雲とも水の流れともつかない文様を描いている。勢いが出て、実に良い文様。薄作なので割れてしまうため、依頼品のような状態の良い青白磁が出るのは極めて少ない。

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北宋時代の影青が市場にでれば最低でも500万円、高ければ2000万円・・・・????? 北宋時代の希少価値が南宋時代の作を上回るという評価です。

一方で下記ような興味深い記事があります。

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北宋影青の作品だが、これほど数多く優品がマーケットに出回るとは思いもよらなかった。35年ほど前、フィリピンのマニラで素晴らしい影青の鉢を見つけた。値段を聞くと350万くらいだった。その頃そこそこの家が1軒買えるような値だったように思う。粘って250万くらいにネゴをした。

現金の持ち合わせがなかったので、会社の代理店から金を出してもらおうと交渉に行った。セキュリティー上の理由で手持ちのキャッシュがないのでちょっと待ってくれと言われた。半日ほどかかってキャッシュを集め、段ボール箱に入れた。当時フィリピンペソは高額紙幣がなく、かなり大きな箱に金を詰め込んだのを覚えている。

ガードマンを雇って骨董屋へ引き返したら、シンガポールのローさんという業者に先に買われてしまっていた。ワーワー言っていると、「アンタ売り先があるの?」とローさんに聞かれ「こんな高価なもの売り先もないのに仕入をしたらだめだよ。」と逆に説教食らったことが昨日のように思い出される。

その時の青白磁の鉢と殆ど同じものが今10~20万くらいで入手できるのだ。しかし香港ではもうそろそろ値上がり気味だ。「日本でいい物があれば買いますよ」と香港の親しいディーラーが、時々言うようになった。今この種の中国陶磁が世界で一番安いのが日本のようです。

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いつの頃の記事かは不明ですが、北宋の作品が現在数多く出回っていることは事実のようで、「なんでも鑑定団」の値段はとんでもなく高いと思っている御仁は多いようです。



南宋の作品となる数万円、目くじら立てる価格ではなくなっているようです。



たしかに徐々に出回る作品が少なくなってきている気配があります。これは明末赤絵、天龍道人、蓑虫山人らの作品と同じで、インターネットオークションで出回り尽くした感が出始めているのかもしれません。



紛い物も多いので要注意ですが、今回はそのような考察はさておきましょう。



ただ影青、定窯を模様した近代作は一般に「これは近代作だよ!」と明らかに解るものが多いです。



模倣作品でいつも感心するのが、透き通るようなその薄さです。本歌よりおそらく薄いでしょう。近代中国の薄く作る轆轤の技術は素晴らしいものがありましたが、行き過ぎた薄さ、それが近代作の特徴でもあります。



発掘品は時間経過による黄ばみのような色もあり、かせたところのある作品が多いようです。



一般に北宋時代は大きさが小さいかな? 真作ならこのような南宋時代のような大きさの作品は珍しいかもしれません。



はてさて・・・・。



朝日生命と記された風呂敷に包んでおきました・・・・。この手の作品がいいものも怪しいものも含めて8作品となりましたので、なにはともあれあと2作品で10客揃いの食器として使えそうです。



忘れ去られた画家 朝陽 田中以知庵筆

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整理していた食器棚から下記の作品を見つけました。本ブログでおなじみの同郷の画家であり、父母と友人のように付き合っていた福田豊四郎氏の描いた薔薇を原画にした中皿です。



原画はおそらく昭和40年前後の最晩年の作。この皿はどこかの骨董市で買いだしてきた記憶があります。普段台所で石鹸置きに使っていたので多少汚れがあります

さて本日は本ブログでおなじみの田中以知庵の作品の紹介です。とはいえ田中以知庵の作品はひさかたぶりの投稿のように思います。



*手前は古備前の壺です。

忘れ去られた画家 朝陽 田中以知庵筆
紙本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦1820*横905 画サイズ:縦615*横725



横大幅の作品ですね。

  

本作品と関連するのは田中以知庵が描いた昭和15年の文展で高い評価を得た大作「淨光」の風景画のようです。この作品は墨色を基調とした山肌を重厚な筆使いで表現し、稜線に現れたばかりの太陽とその柔らかな日差しのみに淡い色を使っていて、見るものに静謐な感動を与えてくれる作品です。



本作品は「淨光」と同じく、平原の池塘群での日の出を描いた作品です。朝陽の激しいまでの色合いが印象的です。



どこの池塘群でしょうか? 昭和21年に号を以知庵と改めていますので、昭和15年に描かれた「淨光」よりかなり後の作品でしょう。



昭和23年には第4回日展に「冬の陽」という作品が出品されています。

  

大幅で立派な共箱二重箱に収められています。展覧会か個展に出品された作品であることをうかがえます。

本ブログには田中以知庵の下記の作品らを紹介しています。興味のある方は検索してみてください。

雨蛙之図 田中以知庵筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1020*横380 画サイズ:縦255*横230



閑日 田中以知庵筆 その5
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1690*横450 画サイズ:縦800*横300



露朝 田中以知庵筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1500*横630 画サイズ:縦470*横480



水郷図 田中以知庵筆
紙本淡彩軸装軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1260*横530 画サイズ:縦330*横400



この他にも作品がありますが、田中以知庵の作品には心温まる作品が多いですね。それほど著名な画家ではなく「忘れ去られた画家」として本ブログでは紹介しましたが、田中以知庵のファンは意外に多いのではないでしょうか?

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