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大日本魚類画集 NO55 伊勢海老 大野麥風画 

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本日も最初に紹介するのは片付けていた食器棚にあった作品で、三代徳田八十吉の窯元で製作された「旭光色絵皿」と称されている皿の紹介です。なにかの記念品として数多く製作されたものでしょう。これもどこかの骨董市での購入かと思います。

この手の大きな皿は数十万円? とても当方に手の届くような値段ではありません。このような記念品のような作品でも買取値段は数万円するようです。三代徳田八十吉の作品は相変わらず人気が高いようです。本作品はしばらく当方の本棚でネクタイピンの置き皿に使っていました。



さてひさかたぶりに大野麥風による大日本魚類画集の作品の紹介ですが、なかなか大日本魚類画集の作品は数が少なく(500部限定)入手が思うに任せない状況です。ま~、じっくりと・・。

大日本魚類画集 NO55 伊勢海老 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1937年10月第3回
画サイズ:縦400*横279

「大日本魚類画集」は大野麦風が原画を担当し、1937年に西宮書院から出版されています。会員制度で頒布されたこの500部限定の木版画集は、1944年まで各回12点、6期に分けて断続的に刊行され、1944年まで合計72点を発行した作品です。そう7年がかり・・・。この72枚の揃いはなかなか市場にあらわれませんので、一遍には揃えられません。そして当時のタトウも揃ったものは稀有のようです。



この「伊勢海老」の作品は最初に出版された1期目の作品中で10作品目で、1937年10月発刊で発刊してまもない頃の作品です。



彫師は「藤川象斎」、摺師は「彌宜田萬年」と画集の掲載作品にはありますが、本作品の彫師は「藤川象斎」、摺師は「光本丞甫」です。摺師の違いは不明ですが、摺師はこの二人以外にも存在しているようで、三人ほどの複数の摺師がおられるようです。

 

残念なことに、版木はすべて戦災で焼失していて、このシリーズに後摺の作という記録はありませんし、200回摺という製作自体が手間がかかり非常に難しいので、同時期の発刊と推察していますが定かではありません。

なお大日本魚類画集としてこの「伊勢海老図」には本作品と同様に彫師「藤川象斎」、摺師「光本丞甫」の組み合わせの作品も画集に散見されていますので、摺師が違う模倣品という可能性は低いと推定しています。

なお販売価格は当時3円、現在の貨幣価値ではどれくらいしょうか?



なお題材の「伊勢海老(イセエビ)」という名の語源としては、伊勢がイセエビの主産地の一つとされていたことに加え、磯に多くいることから「イソエビ」からイセエビになったという説があるそうです。

また、兜の前頭部に位置する前立(まえだて)にイセエビを模したものがあるように、イセエビが太く長い触角を振り立てる容姿が鎧をまとった勇猛果敢な武士を連想させ、「威勢がいい」を意味する縁起物として武家に好まれており、語呂合わせから定着していったとも考えられているそうです。



イセエビを正月飾りとして用いる風習は現在も残っていますが、地方によっては正月の鏡餅の上に載せるなど、祝い事の飾りつけのほか、神饌としても用いられています。

海老自体が「髭長く腰曲がるめで」という長寿の吉祥であり、いろいろな意味で縁起物の捧げものに使用されているのでしょう。よって当方も神棚の近くに展示しています。



普段使いの古染付

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片付けていた食器棚にあった作品・・・。本日紹介する古染付の作品らと一緒に食器棚に積み上げられていました。どうも高橋道八の作品らしい・・・。何代目かな?



息子が今年から小学校ですので、息子のプライベートルームの準備にかかり出しました。まだ早いのでしょうが、雑置き場の部屋の片付けがたくさんあるので、少しずつ片付けて明け渡しの準備です。

家内や義母は自分の洋服類の整理、小生はたいして服類はないので亡くなった義父の箪笥へ移動。問題は小生の蒐集品・・。以前に蒐集した普段使いの食器類を整理しています。蒐集当時の作品には収納箱もないのでまず取捨選択していますが、まず目についたので古染付らしい食器類や(古)伊万里類です。



亡くなった家内と一緒の頃に骨董市で購入したりした作品でペアの額品が多い。というか当時から10客や5客よりペアで売っている作品のほうが多かったし、こちらも財布の事情からもそのほうが購入しやすかったのですね。

最初に紹介するのは下記の作品です。

染付花籠図鉢 一対

明末の天啓古染付・・??  ま~、氏素性の解らぬ作品といったところか? 蒐集を初めてばかりの頃のガラクタ・・。



古染付の条件は

1.虫喰い・・・・・・これは簡単に作れます
2.高台内の鉋跡・・・これも簡単にできますが、そもそも古染付は高台内に釉薬が掛かっているはずだか?
3.砂付高台・・・・・これも簡単にできます。

当方はこの作品は古染付に分類していい作品だと判断しました。そもそも古染付の分類なんてあやふやなもの。

古染付の概略定義:中国,明代末期に民窯で作られた日本向けの染付磁器。古染ともいう。在来の中国磁器に比べると器形も絵付けや文様も自由自在で,型にはまらず,茶人に珍重される。



もっと広義では「古染付とは、中国景徳鎮窯で焼かれた焼き物の総称のことで、江戸時代初期(1621年~1644年)より作られていた古染付。」

もともとは、中国の染付ということから「染付南京」と呼ばれていたのが始まりです。江戸時代後期に、新渡と呼ばれる「清朝染付」が現れたのをきっかけに、初期からの染付南京は「古染付」と呼ばれるようになりました。



古染付の裏底には、一般的に「大明天啓年製」、「天啓年製」、「天啓年造」、「天啓佳器」、「大明天啓元年」などの銘が書かれてますが、ないものもあれば、同じ銘の古伊万里などの日本製もたくさんあります。もちろん銘と製作年代の関連性は希薄です。たとえば年号銘として「成化年製」、「宣徳年製」などの偽銘を書いた作品もあります。



優れた過去作品に敬意を払いながらも、作られた様式に捕らわれない、自由で素直な古染付の特徴が表れています。デザインは、高砂手や桜川水指、羅漢手の反鉢に、魚形の向付など様々ですが、基本的に円形が多い。古染付には、焼き物と釉薬が合わずに釉薬が薄い部分が剥がれ、虫喰いのように見える箇所があります。また、あえて線をぼかし染色を薄くすることで、今までと異なり自由で豊かな手法の焼き物にしたのです。その後、「拙さこそが味である」と、日本の茶人たちに称賛され、その後も好まれ続けました。

判別の基本は染付の洒脱さ、軽妙さ、茶味の有無・・・。



手軽に楽しめる古染付の器・・。しばらくの間食器棚に仕舞われ、当方の忘却の彼方にあった作品たちです。



財布の事情が許すなら100円ショップの器は止めましょう。今はネットオークションにおいて古染付、古伊万里のいい作品を見つけることができます。



これらは骨董市で見つけ出した作品ですが、財布の事情が苦しかった時代でしたので清水の舞台から飛び降りる覚悟で買った思い出があります。



今でも古染付はときおり購入していますが、フランス料理のフルコースに出てくる食器の「味気ない華やかさ」とは違い、どの料理にも合う日本独特の美的感性を表わす食器群です。古伊万里よりの美的価値は優れているでしょう。中国製の作品ながら日本で評価され、すでに中国には作品が皆無なのも面白いですね。

集めよ! がらくた!! 集まれガラクタ!!! 半分やけくその時代の蒐集品です。







大日本魚類画集 NO53 鯛 大野麥風画 

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子供への部屋の明け渡しで整理している食器棚には幾つか氏素性の解らぬ作品があります。下記の作品もそのひとつ・・・。いつ購入したかさえ解りませんが、安南の初期の色絵? ん~、結局わけの分からない作品として食器棚に仕舞い込んだか



今週の投稿は版画の作品が多くなりそうです。本日は引き続き「大日本魚類画集 NO53 鯛 大野麥風画」の作品の投稿です。

*本ブログにある「大日本魚類画集 NO・・」の「NO」は東京ステーションギャラリーでの展覧会に際して刊行された画集のナンバーリングです。

**「NO53」は大日本魚類画集の最初の作品になります。



大日本魚類画集 NO53 鯛 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1937年10月第1回
画サイズ:縦400*横279



最初の作品はなじみのある魚から出版されました。本作品は第一作品目で「めでたい鯛」の作品からのスタートでしたが、大野麥風は観察した鯛の色彩の美しさに大いに感動していたということです。大野麥風はこの画集の制作に熱心で、水族館の観察意外にも時には潜水艇で潜り観察したりしたともいいます。



*彫師は「藤川象斎」、摺師は「今井某氏(裕司?)」と本の掲載作品にはありますが、本作品の彫師は「藤川象斎」、摺師は「光本丞甫」です。摺師の違いはまたしても不明ですが、他のブログに記事に記述したように摺師が複数いたことに相違ありません。

彌宜田萬年と光本丞甫は名人摺師と評価されています。むろん彫師「藤川象斎」も名人彫師と称えられています。彼らは浮世絵の衰退で職を失い、当時は仲仕のような肉体労働に就いていた状況で、この画集の仕事にとりかかったという背景があったようです。このような状況下でないと「大日本魚類画集」は刊行しなかったとさえ言われています。



この最初に刊行した「鯛」については食文化の最高峰に位置する魚として重視すると同時に、「潜水艇から間近にその生態を観察した際の真鯛の群れの魚鱗の模様の動く麗色に心底から神秘的な美を感じた。」と大野麥風自身が述べていますように、泳ぐ鯛の美しさへの感動から最初に描いた意図があるようです。

「海底に浮かぶ天然の脅威と美観こそどんな巨匠名人の手に依ってするとも、到底筆紙に顕せきれまい。」と大野麥風は述べています。

魚の生きる「真剣さ」を究めてこそ真の「生態画」であり、魚類が水中で見せる多様な美しさを、繊細で日本特有の伝統を匂わせる手摺木版の技により表現することこそが、この画集の「畢生の事業」の狙いであったのだろうと思われます。

大日本魚類画集は決して博物学的な見地から描かれた魚類図集ではなく、見栄えと普段から親しみのある魚類が描かれています。そして無地の背景に魚姿のみを描いた博物画ではなく、また絵画的な構成ばかりに配慮する芸術作品とも一線を画している画集です。一貫した作風ではないのですが、生き生きと、そして親しみを込めて描いた大野麥風の思いが伝わってくる画集と評価されています。

ところで少し寄り道してみましょう。

鯛の絵というと最近の「なんでも鑑定団」に竹内栖鳳の鯛を描いた贋作が出品されていました。当方にても「伝」で竹内栖鳳の「鯛」を描いた作品を投稿したことがあるので思わず身を乗り出して観てしまいました。

下記は投稿して作品です。鑑定箱書と落款と印章は確かなもの・・??

海幸 伝竹内栖鳳筆
絹本着色軸装 軸先象牙 二重箱竹内四郎鑑定箱
全体サイズ:縦1280*横500 画サイズ:縦350*横360

昭和12年前後の頃の作品と思われます。



作品中の落款と印章は下記の写真のとおりです。



箱は子息の竹内四郎による鑑定箱書のようです。

 

箱は真田紐による二重箱、昭和20年代以降にはこのような誂えの作品が多くあります。



このような誂え、印章、落款は真贋の根拠としては希薄でしょう。また有名な百貨店、画廊のシールは二次的なものと考えたほうがいいのはむろんです。あくまでも目の前にある作品そのものの真贋が大切なのは言うまでもありません。

 

さて問題のなんでも鑑定団出品作は下記の作品です。出品者には申し訳ないですが、明らかに絵がうまくないですね。そこがポイントでしょう。

参考作品 なんでも鑑定団出品作より
海幸
2020年2月18日放送



評価金額5万円:竹内栖鳳ではない。

鑑定団での評:昭和17年に描かれた最晩年の作品が元になっている。依頼品は色彩がくすんでいて目の上の群青が黒すぎる。黒目の部分も大きすぎる。栖鳳は線の作家でリズム感がある。それに比べ依頼品は見ながら描いたためか遅い。線が色彩と喧嘩して目立ち過ぎている。鱗は機械的。落款は良く書けている。

参考作品との比較ですが、上記の講評にある「昭和17年に描かれた最晩年の作品」とは下記の写真の作品です。



これは代表作なので、おそらく一瞬で描いた当方の席画的な作品とは比較しようもないので、比較できそうな席画的な作品例としては下記の作品があるようです。上の代表作の作品より前の頃の作かな?



下記の写真が当方の作品・・・・、はてさて・・・・。ともかく鯛を二匹描いた竹内栖鳳の作品は贋作を含めて数が多いようです。竹内栖鳳などの著名な画家の真贋の判断は難しいですね。あくまで当方の作品は「伝」です。



一度は屋根裏部屋に放り込んだ作品ですが、今一度検証してみようかと展示室に掛けてみました。



めでたい吉祥の図柄ゆえ「福の神」の脇に飾りました。



「色彩がくすんでいて目の上の群青が黒すぎる。黒目の部分も大きすぎる。栖鳳は線の作家でリズム感がある。それに比べ依頼品は見ながら描いたためか遅い。線が色彩と喧嘩して目立ち過ぎている。鱗は機械的。落款は良く書けている。」という「なんでも鑑定団」の評を読んでも実際は自分の作品の真贋における判断にはほとんど役に立たないものです。



繰り返し作品と向き合うことしか目利きへの道はないのかも? 

*嘲笑される方がおるかもしれませんが、現時点では本作品は真作と判断しています。 

本日紹介した「大日本魚類画集」の作品のように、一方で「絵画的な構成ばかりに配慮する芸術作品とも一線を画している作品群」という存在意義のある作品もある・・・・、限定された分野での蒐集ではそれが見えないところに広く蒐集することで新たな発見もありえそうです。

版画と日本画・・、どちらがお好みかは見解の相違?



本来版画は額に入れて長期間飾るのはよくありません。マット部分に日焼けの跡が付いたりするからですので、鑑賞したら陽や照明に当たらないように箱に入れてしまっておきます。

御厩橋之図 小林清親画

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先週末は息子の卒園式。



コロナウイルスの影響で当然、かなり縮小された形式での卒園式でしたが、小学校に進学すると小学校が別々な友達も多いので、この日でお別れをきちんとできたのは幸いでした。ママ友らは特にそうかも・・。



息子が頂いたチューリップは茶室に飾りました。



息子も大喜びでした。さ~、4月からは小学校です。



さて本日は小林清親の版画の紹介です。

近代版画には江戸時代以前の浮世絵にはない作風の作品があり、根強いファンも多いでしょう。本日紹介する小林清親もそのひとりでしょうが、他に川瀬巴水、小原古邨、吉田博らの著名な版画家がいます。

最近これらの版画は人気が高く、入手するにはかなりの高額な値段となりますね。江戸期末期の歌川派のような退廃的な画風は当方ではまったく評価しません(一般的にも江戸期末期の歌川派の作品は評価が低い)が、近代版画革命というか、近代ではこれらの版画家によって版画は蘇ったといっていいのでしょう。



御厩橋之図 小林清親画
紙本着色版画額装 後摺 誂:布タトウ+黄袋
1879-81年頃作 画サイズ:横340*縦230



この作品は小林清親の作品の中では有名な作品ですね。



この図柄は、厩橋の上空で炸裂する稲妻の閃光を描いたもの。橋の傾斜はフラットに近い木橋ですが、手前の岸が隅田川のどちら側かわからりません。いづれにしても今とは違って田舎びた感じです。

夜空は雲に隠れ真っ暗ですが、雲間から月の光が覗き、手前では、道行く人の提灯の光だけが輝いて、ほとんどのものが闇夜に隠れています。



小林清親の作品は本ブログに肉筆画を含めて幾つかの作品が投稿されていますが、「光線の版画家」と称せられるように夜の光を描くのが得意の版画家です。



厩橋(おんまやばしのず)は、明治7年(1874)に架けられ、当時はまだ新しい橋でした。名前の由来は、幕府の厩があった西岸を御厩河岸と呼んだことから来ているようで、民間の橋でありながら渡り賃をとったことから賃取り橋と呼ばれていたそうです。

架けられたのは、駒形橋の下流で、ここに以前は御厩の渡しがあったので、当初は御厩橋と呼ばれていました。この橋が出来たことで、東京の幹線道路の一つである春日通りが、この橋を挟んで東京の東西を一本に貫くようになりました。厩橋はその後、二度改修され今日の姿に至っており、今日の三連式アーチ型鉄橋は、昭和4年に、震災復興事業の一環として架けられたものです。

 

本作品が属する「東京名所図」シリーズは、明治9年 から14年まで5年間で全93景描かれ、明治初めの東京を知る大切な資料と言われています。

「東京名所図」が当時圧倒的な人気を呼んだのは、西洋画のようにリアルな光景が、 夕陽や月光や雪などが醸し出す風情とともに描き出されていたからです。 蒸気機関車や西洋 建築の新橋駅、人力車など、文明開化を象徴しています。最先端の風物を描いても、江戸伝来の風景版画とは違う新しさがありました。 広重のようなデフォルメもなく、写実で景色を切り取る技量と視点は確かなもので、現代の東京とは思えない景色となっており、現在では懐かしさを覚える作品となっています。



「光線の版画家」と異名のある小林清親の真骨頂の代表作と言えるでしょう。

*なおオリジナルか復刻版かについては当方ではよく解りませんし、それはマニアックなことと判断しており、それなりの作品を選択しますが、当方は実に無頓着ですのでご了解下さい。



作品に似合った額を選ぶのも蒐集の楽しみにひとつですね。




五柳図 その2 倉田松濤筆 

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コロナウイルスの影響で家にこもってばかりいると息が詰まると家族全員で畑に夏ミカンを採りに出かけました。ついでに愛犬も・・。この柴犬は「もも」という雌犬が、外で野放し状態で飼われてすでに15年は過ぎていますが、至って元気です。



息子は背丈が小さいので下回りの収穫で、皆で採ったらあっという間に複数の籠が満杯になりました。



収穫が終わり、庭を散策するとカタクリの花が咲いています。



さらには絶滅種のクマガイソウが芽を出し、男の隠れ家から持ってきた植物も3年がかりで花が咲きそうになってきました。やはり外へ出るのは生命力を感じられていいことです。



さて本日は倉田松濤が「陶淵明」を描いた作品の2作品目の紹介です。倉田松濤が敬愛する陶淵明を描いた作品にはさすがに手抜きは見られません。



五柳図 その2 倉田松濤筆 
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横598*縦2062 画サイズ:横466*縦1388



題名の「五柳図」とは「五柳先生」、すなわち「陶淵明の号」のことで、自身が自分のことを託して書いた「五柳先生伝」という文章に基づく号で、家の前に5本の柳があったところからのこの名をとったそうです。

寺崎廣業などが描いた「五柳図」と題された作品は本ブログでも作品が紹介されていまますし、他の画家の作品にも「五柳図」と題された作品は多いですね。「五柳先生」すなわち「陶淵明の号」、このことを知らない人が実に多いのですが・・・。



陶淵明の略歴は言わずもがなですが、簡略すると下記のとおりです。

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陶 淵明:365年(興寧3年)~ 427年(元嘉3年)11月)は、中国魏晋南北朝時代、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字は淵明。

死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。

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「琴を弾く姿」や「琴を携えた姿」を描いた作品も陶淵明を描いた作品として著名ですが、無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだという逸話があることからでしょう。

この「無弦の琴」については、『菜根譚』にも記述が見られ、意味を要約すると、存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできないと記しており、無弦の琴とは、中国文化における一種の極致といった意味合いが含まれているそうです。



本作品、なんとも味わい深い作品となっています。



倉田松濤の面目躍如たる作品と言えるでしょう。

自然と触れることからすべての悟りは始まるのかも・・・。

最後に陶 淵明の漢詩の代表作「飲酒」其の五を記しておきましょう。

結廬在人境 (廬を結びて人境に在り)   粗末な家を人里の中に構えているが、
而無車馬喧 (而も車馬の喧しき無し)   にもかかわらず訪問客の車馬の騒がしさがない。
問君何能爾 (君に問ふ 何ぞ能く爾ると)  なぜそんなことができるのか。
心遠地自偏 (心遠ければ 地 自ら偏なり) 心が遠く俗界を離れていると住む土地も自然と辺鄙な場所になるのだ。
採菊東籬下 (菊を採る 東籬の下)     東の垣根のあたりで菊の花を摘み、
悠然見南山 (悠然として南山を見る)    ゆったりと南山(廬山)を眺める。
山気日夕佳 (山気 日夕に佳し)      山の光景は夕方が特に素晴らしい。
飛鳥相与還 (飛鳥 相ひ与に還る)     鳥たちが連れ立って山の巣に帰っていく。
此中有真意 (此の中に真意有り)      この光景に内にこそ、真実の境地が存在する。
欲弁已忘言 (弁ぜんと欲して已に言を忘る)しかし、それをつぶさ説き明かそうとすると、言葉を忘れてしまうのだ














香焚美人図 渡辺南岳筆 その3

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義父が亡くなり、さらに息子は自立のために子供部屋を誂えなくてはいけなくなり、家中が片付けでおおわらわ・・。義母が箪笥を片付けていると1964年のオリンピックの時の思い出の品が出てきました。



義父の父が1964年の東京オリンピックでサッカーの試合の解説?をしたそうで、サッカーを通じてオリンピックに関与していたようで、東京オリンピックのブレザーのワッペンとボタンが遺っていました。ブレザー本体は残念ながらぼろぼろで捨てたようです。

*1964年のオリンピックでは日本はアルゼンチンに勝っていますが、惜しくも準々決勝敗退でした。その4年後に銅メダルに輝いています。この大会には釜本、杉山、そして川渕らが出場していました。

さて、本日は円山応挙の高弟であり、俗にいう「応門十哲」に数えられる画家である渡辺南岳の作品の紹介です。渡辺南岳の作品については他にも幾つかの作品を本ブログで紹介しています。



香焚美人図 渡辺南岳筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1790*横526 画サイズ:縦1154*横419

 

応挙十哲の駒井源琦や山口素絢が比較的理想化された唐美人や遊女を多く描いたのに対して、南岳は市井の風俗に取材した女性像を描いています。



卵型の顔立ちと豊満な体つきは、南岳の描く美人画の特徴ですが、祇園井特との共通点が多いと指摘されています。

*駒井源琦、山口素絢、祇園井特の作品については本ブログの他の記事を参考にしてください。

 

作品中には「厳之」と「維山」の白文朱方印の累印が押印されており、印章の確認は未了ですが、作行から真作と判断しています。



だいぶ痛んでいた作品であったのでしょう。かなり裏打ちの補強など補修して再表具した跡があります。



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渡辺南岳:明和4年(1767年)~文化10年1月4日(1813年2月4日)は江戸時代後期の画家。京都の人。名は巌、字は維石、号は南岳、通称小左衛門。

円山応挙の高弟で応門十哲に数えられる。江戸に円山派を広めた。画をはじめ源琦に師事し、ついで円山応挙に学ぶ。入門時期は不明だが、30代に入って年期を記した作品では既に円山派の技法を完全に身に付けている事から、20代には弟子入りしていることが推定される。二十代後半になって俳諧を中心とした版本の挿図(挿絵)を手がけている。このころ、三河吉田の恩田石峰が門人となっている。



三十代前半の3年間、江戸に遊歴。谷文晁・亀田鵬斎・酒井抱一・鈴木芙蓉・釧雲泉・浦上春琴・鍬形蕙斎・雲室・横田汝圭・長町竹石・広瀬台山・夏目成美・亀井東渓など当代一流の文人と交流した。

文晁の娘婿文一や大西椿年、鈴木南嶺が入門。渡辺崋山も南岳画の模写を熱心に行っている。このように南岳は江戸において「京派」・「京伝」と称され、文晁派を中心に円山派の画法を広めた。



京都に戻ると、円山派(奥文鳴・森徹山)・四条派(長山孔寅・柴田義董・岡本豊彦)の画家と交友し画作に励む。皆川淇園からは画の依頼を受けている。また国学者の上田秋成との交流が知られる。

南岳は大明国師像の模写を依頼されたとき、秋成の容貌が国師に似ている気づき、顔の写生を行ったという。文化10年正月、突如病に倒れ死没。享年48。戒名は「釈南岳信士」。京都双林寺に葬られた。



京都の門人に中島来章・松井南居がいる。南岳は、流麗な筆致で美人図・鱗魚図を得意とした。なお、尾形光琳を敬慕したとされるが、その画風に琳派のあまり影響を見ることはできない。しかし、装飾的な画面構成にその影響を見る向きもあり、江戸琳派の絵師酒井抱一は、南岳死去の報を聞いて「春雨に うちしめりけり 京の昆布」とその死を惜しむ句を詠んでいる。

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下唇を緑に、上唇は赤く塗っているのは、当時流行した化粧方法のようで、上方浮世絵の特徴であり、30代後半以降に江戸から京都に戻ってからの作と推定されます。



妖艶な女性の色香を表現した佳作と言えるでしょう。



香を焚いて髪の毛に香を移す仕草は香りまで匂い立つ色香があります。



享年が48歳ですので、祇園井特との共通点から脱却した晩年における佳作と判断しています。見るべき作品のない三畠上龍、吉原真龍らの退廃的な上方肉筆浮世絵にあって、抜きんでた作品と言えるでしょう。



本日は「ぼろぼろにならないように保存しておくのが得策」・・・という作品ですね。




屋根裏の展示

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展示室は現在、「気に入ったものを飾るという本来の目的」と「氏素性の解らぬ作品を尋問する?ために飾る」というふたつの目的が交錯した使い方になっています。



しばし飾ってみて、気に入らぬと判断した作品は処分,「いいね」と判断した作品は保管・・・。言うのは簡単だが、踏ん切りがつかない作品が多いもので、そうなら最初から胡散臭い作品は入手しないほうがいいという考えに至ります。.



判断はその都度見た時によって違うこともあります。経験や知識で違った見識になるようです。一番怖いのは「真作を贋作と判断すること。」でしょうが、これは「贋作を真作と判断する。」はまだ許せますが、真作を贋作とするのは罪なことになります。ただしいて言えるのは最後は「いい作品かどうかは、気に入ったか、気に入らないか」という観点が大切ということでした。



さてその展示室に他人には滅多に案内しない収納スペースとしての目的の屋根裏がありますが、初釜を機に屋根裏の作品を整理して改めてほんの一部の作品ですが展示作品を並べてみました。



家内の実家にあった長持の中も所蔵作品の整理ボックスになっていますが、長持にキャスター付きの簀の子を付けて動かせるようにして、さらに壊れないようない鉄板で長持ちの胴部分を補強しています。

*隅に置くと長持ちの蓋が天井がつっかえて開かないので、重くても簡単に動かせるようにキャスターが付いています。



小さ目の長持ちも同様にしてあります。こういう工夫?が骨董蒐集では面白い。

**そのまま引きずると床が傷つくので、キャスターが付いています。



屋根裏の展示室はじっくりと作品の良否を判断する場所でもあります。作品を眺めながら勉強する場でもあります。



ちなみに屋根裏には備前の二宮尊徳像が祭られています。そう勉学の神・・・・。手前の可愛い図柄のお猪口は明治頃かな? 小生のお気に入りのお猪口のひとつ。



「骨董は自腹で買うべし、(資金調達、他人の評価の如何を知るために)売るべし、(蒐集は一時期休んで)勉強すべし」の原則にのっとり、この屋根裏はごろんと寝転んで勉強する場・・・ 

ただ10分もしないうちに「パパ、どこ?」とお猪口のような人物がやってきますが・・・

朱塗漆器椀類 整理完了

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蒐集の初期に集めた何気ない作品まで本ブログに投稿できるようになったのは作品の整理がかなり進んだということでしょう。そろそろブログの終点が見えてきましたね。

本日の序章は古伊万里の染付の一対の小鉢の作品の紹介です。



ペアで買っていた頃の作品で、江戸末期頃の古伊万里か? 傷があったのでサラリーマンの小生でも買えたのでしょう。龍の絵は可愛らしく、染付に蝋抜の技法が使われています。



疵は自分で補修していますが、素人ですのでしっかりした補修ではなく、使ってくるうちに金繕いが剥がれてきています。



裏には古伊万里の定型句「成化年製」と記されています。ちなみに古伊万里の定型句は中国の古染付の影響でしょう。中国の古染付の年号もいい加減です。

さて、本日の本題は古くからある朱塗の一部の整理が完了したのでその報告です。男の隠れ家にあった漆器類に整理状況については都度、本ブログにて投稿していましたが、この度遺されていた作品群の整理が終了しました。

*今回は朱塗の漆器で、まだ黒塗(真塗)の作品が遺っています。



当方で「遺すべき作品」として選んだ作品は厳選しており、しっかりとした木地に漆黒を下塗し、補強に布張りをして日本製の朱漆を仕上げに塗ってるものとしています。

まずは「朱塗胴紐平椀」です。



いつか「根来」のような味が出てこないかと楽しみです。高台の脇や口縁には下地の黒漆が現れ始めています。

朱塗の漆器はもともと「モノを赤くする」と邪気を払う、保存のための防腐剤的な役割等、様々な解釈があるようですが、その朱塗の技法のひとつに「根来」は原始からの多様な技法と、様々な表現を生み出してきた漆芸の歴史の中で異色の存在であったようです。



それでは朱塗りの「根来」とは何かというと、その定義は「器の下地の黒漆の上に、朱漆を塗り重ねたものですが、毎日のように使われ、拭いては仕舞い、また使っているうちに、上塗りの朱色が使ううちに剥げてくる。そうするうちに下地の漆黒が滲むように現れる。」であり、この経年変化を「根来」といいますが、一般的には盆や瓶子のような器で、室町期からの寺院などの伝世品を指します。



現在では「根来塗」という作品が販売されていますが、経年変化をはしょって、赤と黒の抽象文様を作為的に作ったものであり、まったく別物です。

**なお「根来に根来なし」と言われるように、「根来もの」の語源である和歌山県根来寺は秀吉の根来攻めにより焼失しています。根来寺では、朱漆器はむろん生産されていましたが、現在での「根来塗」の通称は地名ではありません。



「根来」の作品は有名な映画監督、黒澤明監督が蒐集していたことで有名で、黒澤明監督の映画にも登場しています。むろんそれらの作品らは13世紀頃の作で、お値段も当方もなく高値の作品です。当方の明治初年頃の作品とは経過した年数があまりにも違い、比べるべくもありませんことはご了解ください。

こちらは母の実家からの伝わった作品です。



まったく同じ大きさ、形状の「朱塗胴紐平椀」ですが、高台内は黒漆で仕上がっています。



昔からの庄屋や本家のような由緒ある家では50人揃いくらいの漆器が揃えられていたのでしょう。



当方には本家から別家として独立する時に20人揃い分が分け与えられたのでしょう。



箱のままでは畳が傷むので風呂敷で包んでいます。



こちらは朱塗の大椀です。

漆器は漆が定着し硬化して安定すると、抜群の耐久性を発揮します。近代になって日本製の漆が高価となり、漆に混ぜ物をしたり、中国製の漆を使用したために多くの粗悪品が出回り、バリバリに剥がれたりして漆器は扱いが面倒というイメージが出来上がったように思われます。よいものは防虫効果があり、熱や漆器、酸やアルカリに対しても強いものです。

*現在では会津塗、浄法寺塗以外のほとんどの漆器が中国製の漆を使用しています。日本製の漆使用といっても、仕上げだけのものが多いようです。



飯碗のようですが、蓋がついているようです。むろん盃用の器もありますが、蓋は盃にも使えます。内蓋は用途が広く、別の容器の蓋にもなります。

**少子高齢化が進み、冠婚葬祭は催事場に移り、自宅では揃いの器を使わなくなりました。漆器は保管が大切ですが、遺っていた器もきちんと拭いていないとネズミにかじられたり、シミになって汚れが目立ったり、宴席で乱雑に扱って欠けたりして傷があるなど古くていいものがどんどん少なくなっています。



この同型のタイプの漆器は「中」、「小」とあり坪椀も揃いで2種あります。なお椀類を載せているお盆も明治期のものでしょう。

親が亡くなり実家の整理に際して漆器類を処分してしまう人も多いのでしょう。朱塗のみや真塗の器以外に蒔絵を施したものは手入れや修繕がままなりませんし、残念ながら捨てるような値段で道具屋に引き取ってもらうのが手っ取り早い処分の仕方なのでしょう。



保存するスペースもなく、使うこともなく、消えゆく運命の漆器を手入れしている当方のような人間は稀有なのかもしれません。

扱いやすいように保存には100円ショップで購入した袋に5客ずつ分けて収納しています。むろん色写りを恐れて一椀ずつ紙で包装しています。漆器の手入れはよく磨いおくことです。しつこい汚れはサラダオイルと歯磨材を混ぜて傷つかない程度の磨きをかけます。最後はクッション材として綿を入れておきましょう。エアクッション材はNGです。



ときおり使う程度で明治期の箱もそのままに次世代に委ねることになりそうです。



まだ?150年の経過の漆器、。「根来」とは大げさでしょうが、いつか重宝がられる時代がくるでしょう。



箱や高台内に記されている昔ながらの庄屋や本家にあった屋号に気がつくでしょうか?



こういう秋田杉の箱さえ珍しくなるでしょう。懐石のためには一式揃ったセットが手っ取り早いでしょうが、そういうのは骨董蒐集する側には味気がないもので、私には年代のあるこれらがすべて愛おしい





幾山河 大林千萬樹筆 その7

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食器棚の整理によって蒐集を初めたばかりの頃に蒐集した作品がひさかたぶりに出てきましたが、その中に下記の山茶碗がありました。

山茶碗 その1
一部補修跡有 誂箱
口径132~135*底径50~60*高47



いかにもガラクタという風貌・・。「山茶碗」という名称は、丘陵地の斜面など、山の中(かつてこれを焼成していた窖窯のある場所)で採取されることに由来すると言われています。

山茶碗の来歴と特徴は下記のとおりです。

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薄手の茶碗ですが土は荒々しく石英の粒が吹き出しています。一説には、窯で焼いた壷や瓶等に被せておく為に作られた蓋であったという説があります。

山茶碗と呼ばれているものは、平安時代の末ごろから鎌倉時代全般ごろまでの間にかけて、瀬戸をはじめその近郊の常滑や猿投の製陶地で焼かれた簡単な形状の皿や浅い碗を呼びます。極めてシンプルで無駄なく形作られ、粗暴とも見えるこの焼き物の中には力強い存在感がある作品が稀に存在します。反面雅味深い静かな美しさが備わるものが最上とされます。昔はそれほど人気がなかった様ですが近頃では良品を見つけるのはなかなか難しくなったようです。

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「昔はそれほど人気がなかった様ですが近頃では良品を見つけるのはなかなか難しくなったようです。」・・・・、そうですね。ひとつ間違うと本当のガラクタという代物でしょう。



本作品も窯割れしていて補修も素人(小生)・・。高台も後付けにて素人くさい・・・。山茶碗は重なってたくさん出土していますね。



でもこれはこれで食器には面白いかも・・。山茶碗は当方の蒐集対象ではありませんが、この作品を入れて二作品あったと思います。



もう一つの作品はかなり洗練されています。なにしろ山茶碗は12世紀から15世紀までのおよそ400年にわたりながらく生産されていました。時代が下るにつれて碗の胴部の立ち上がりが直線的になり、小皿は扁平化し、多くの器種で高台が省略されるなど簡略化していく傾向が見られています。

山茶碗 その2
合箱
口径135~165*底径*高30



復習の意味で、改めて山茶碗の詳細は下記のとおりです。

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山茶碗は、本来は無釉の状態で焼かれたもので、20個から30個の器を積み重ねて焼いたようです。不思議な事はそれを焼いた窯跡からは,破片だけでなく完器のままで多く出土します。重ねたそのままで焼き付いてしまって発掘されるものもあります。

須恵器窯の高温状態で焼かれた為に、器のまわりには燃料に使った松木の灰が窯の中に舞って降りかかっています。その木灰は高温の為に溶け、降りかかった器の土に含まれている鉄分と化学反応を生じ、偶然にガラス質の釉薬となります。その“自然の釉”は、灰緑色や時にブルーの色となり器に美しい景色をもたらします。

器肌の色は灰白色のものが多く、いくぶん褐色を帯びた灰黄色をしているものもあり須恵器系窯で焼かれた事は間違いありません。中には瀬戸の様に穴窯でやかれたと見えるものもある様です。

胎土には石英や長石などの小砂粒が混じっていて、古い時代のものほど雅な味わいが深く、端正で均衡のとれた形をしています。作りも薄くかなり堅く焼き締まっていて、古い時代のもの程自然釉も多くかかっていますが、時代が下がってくるにつれて作も粗雑になり、素地も粗く自然釉もあまりかからなくなる傾向にあります。

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山茶碗のポイントは使えるかどうか? その姿に美的価値があるや否や?? やたらと数多く集めるものではなさそうですが、食卓に揃いでいいものだけ並んだら面白い思います。

さて本題ですが、本日紹介する作品は本ブログでおなじみの近代美人画の中堅画家として名高い「大林千萬樹」の作品です。



幾山河 大林千萬樹筆
絹本着色軸装 軸先木製蒔絵 共箱二重箱
全体サイズ:縦1300*横620 画サイズ:縦350*横425



あらためて大林千萬樹の画歴を記述します。

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大林千萬樹:(おおばやし ちまき)1887年(明治20年)1月~1959年(昭和34年)4月26日)は大正時代から昭和時代の日本画家。1887年1月、岡山県岡山市平野町に生まれる。名は頼憲。まず富岡永洗、川合玉堂に師事した後、鏑木清方に入門した。

1906年(明治39年)の日本絵画協会日本美術院絵画展覧会に「のべの土産」を出品、翌年、東京勧業博覧会に「歌舞」という作品を出品して居る。

その後、1913年(大正2年)の第13回巽画会展に「胡笳の声」を出品、褒状1等を獲得、また、同年4月の美術研精会第12回展に出品した「涼味」が賞状を得ている。

翌1914年(大正3年)3月、東京大正博覧会には「真堤我意中の人」、「廓の宵」を出品、10月の第1回再興院展に「編笠茶屋」を出品すると、これが初入選を果たす。

以降、1915年(大正4年)第2回展に「手牡丹」、1916年(大正5年)第3回展に「いねむり」、1917年(大正6年)第4回展に「口三味線」、1922年(大正11年)第9回展に「紅粧」と出品を続けている。

さらに1934年(昭和9年)に開催の大礼記念京都美術館美術展覧会に「新粧」を出品している。この間、1916年、第2回郷土会展に「通い廓」を、翌1917年、第3回郷土会展に作品を出品したことが知られている。

大正末期には関東大震災以後に奈良に移り、その後、名古屋へ移り、昭和10年代には京都に在住、戦後は各地に移り住んだといわれる。昭和34年4月26日、静岡県熱海市で病に倒れ、最後は京都で72年の生涯を閉じています。

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大林千萬樹は江戸期の歴史風俗に取材した美人画を多く描いていますが、その綿密な歴史考証にもとづく華麗な画風については、残念ながら充分に認知されているとは言えないでしょう。



本作品は落款から円熟期の作と思われます。



多少に薄シミがあるものの致命的な欠陥にはまだなっていません。



*作品の襟元の銀彩がとてもきれいですが、写真では解りにくいです。



本作品の面白いのは題の「幾山河」・・・。「この題からすぐに著名な下記の歌が連想されますね。」とは家内の弁。

幾山河   <若山牧水>
幾山河 越えさり行かば 寂しさの
終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく

若山牧水は言わずとしれた有名な歌人ですね。

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若山牧水:1885-1928明治18年ー昭和3年。歌人。宮崎県東臼杵(うすき)郡東郷村の生まれ。代々医者の家系。早稲田大学卒。本名繁。明治37年尾上柴舟の門に入る。

初期の恋愛歌で広く知られる。歌人太田喜志子は妻。旅と酒と桜を生涯の友とし、揮毫(きごう)旅行もしばしば行った。牧水調といわれる愛唱歌では他の追随を許さない。「若山牧水全集」その他がある。沼津で没す。年44。



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意味は「これから先、いったい幾つの山や川を越えて行ったら、寂しさが尽き果ててしまうような国に至るのであろうか。その思いを胸に、今日も旅を続ける。」と解釈されています。



この歌には下記のような説明があります。

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この歌は明治40年、牧水23歳の作。

若山牧水は大学の夏休暇を利用して病身の父の見舞いも兼ねて帰郷し、その時にはじめて中国山脈沿いの道をあえて選んだようです。このころから牧水は人生・芸術に懐疑的で、自分はこの世に生きてよいのかという根源的な悩みに捉われていました。そこで旅をしながら、寂しさの果てる国を夢見て歩き続け、その夢はあのカール・ブッセの「山のあなたの空遠く幸い住むと人の言う」国とイメージが重なると言われていますが、現実にはそういう国は存在しないと認識せざるを得ないから苦悩や寂しさが続くのであろうと・・・。

歌碑について…作者が晩年をすごした沼津市千本松原にこの「幾山河…」の歌碑がありますが、岡山県・広島県・島根県が県境を接するあたりの山中にもこの歌の歌碑が妻喜志子のものと共に建立されているそうです。

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この作品はおそらくこの若山牧水の歌を意識して描かれた作品でしょう。そうすると少なくとも明治40年以降に描かれたものになります。年代的には問題ありません。



表具もお洒落ていますが、単なるある美人画をしての鑑賞ではなくこの歌とともに鑑賞する作品ですね。人生そのもか、画題から恋愛に特定するのかは鑑賞する人次第ですが・・・。

旅と酒と桜を生涯の友か・・・・、刹那的かも・・・、しかしそもそも人生そのものが刹那的か



人生は常に寂しさや苦悩が続くものであり、その寂しさと苦悩に向き合う強さを女性美として表現している作品でしょう。ま~、一般的には寂しさには女性のほうが強いものです。逆に男はかっらきりだらしがない


鬼萩茶碗 月形那比古作

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整理している食器棚に赤絵の作品がありました。五寸程度の中皿です。



俗にいう南京・天啓赤絵という分類の作品ですが、「胡散臭い」作品と判断して普段使いにしていました。



裏にはこれ見よがしに「天啓佳器」とありますね。虫喰、砂付高台など天啓赤絵の特徴を備えてありますが、これは後世でも模倣できますので、真作の決定打にはなりませんね。



この作品は南京赤絵の中でも五彩家鶏文盤と称される作品の図柄です。



改めて南京赤絵の概略を記すと下記の通りです。

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赤絵は「宋赤絵」に始まり、この技法をさらに発展させ次々と名品を生み出したのが明時代の景徳鎮で、例えば青花の淡い青緑を主色とする「豆彩」に発展しました。「嘉靖赤絵」、「万暦赤絵」という官窯の名品を経て、17世紀に入ると各地で農民の反乱が相次ぎ明王朝は衰退しその結果景徳鎮の官窯は消滅します。しかし民窯はしたたかに生き残りむしろ自由闊達な赤絵を作りはじめた。これが南京赤絵という作品群です。

南京赤絵の生地の多くは従来の青味が強い白ではなく乳白色を帯びていますが、これは色彩を一層際立たせるのが目的です。絵付けには基本的に染付けは用いず、色釉だけで彩色されており、染付を用いたものは「天啓赤絵」に分類されます。色数は初期は赤、緑、黄と少なく作風はきわめて豪放でした。しかしその後、紺青、紫、黒、褐色などの色が増えるとこれらの色数を組み合わせ繊細華麗な作風へ変化していきます。絵柄は文人画に基づいた花鳥図や山水図が多くこれも従来の赤絵とは全く趣が異なる。通常山水図には五言または七言絶句の賛が花鳥図や草花図には賛に代わって蝶や蜂などが書き添えられている図柄が多い。
裏には鉋の跡が残っています。

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この作品は文献から参考にされた図柄です。



この手の図柄の作品はなんでも鑑定団情報局に資料があります。



本歌はさすがに絵が洒脱ですね。



さて注目したのは次の作品です。天啓赤絵の作品の可能性ありと推定しました。



高台内にはそれなりの雰囲気があります。



絵付けも洒脱です。



本歌であろうとなかろうと、普段使いにもってこいの作品。ただ天啓赤絵の作品は貴重です・・・

さて本日の本題の作品は鬼志野茶碗の創始者とされる月形那比古の作品の紹介ですが、本日の作品は「志野」ではなく「萩」です。どうも面倒臭い・・・・。

鬼萩茶碗 月形那比古作
共箱・共布
口径139*高さ89*高台径



月形那比古の陶歴の概略は下記のとおりです。

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月形那比古:(つきがた なひこ) 1923年(大正12年)5月22日~ 2006年(平成18年)8月16日)。日本の陶芸家。鬼志野創始者、鬼志野宗家。昭和中期から平成中期にかけ、現代美濃陶芸界における志野焼黎明期〜発展期〜成熟期で活躍した日本を代表する陶工作家。「炎の陶工」「炎の陶人」「沙門の陶工」と言われた。代表作は陶芸の他に、絵画、書、彫刻、篆刻作品などにも秀作を手掛けた。志野焼誕生地の美濃・岐阜県土岐市にて没。享年84(満83歳没)。

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陶歴というか月形那比古の説明にはかなりの説明を要します。




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1923年(大正12年)新潟県糸魚川市に生まれ、荒川豊蔵の作陶創作精神に傾倒しました。

新潟県立長岡工業学校卒業後、早稲田大学在学中の1941年に学徒出陣、一年早く志願して第二次世界大戦(1939年〜1945年。史上二度目の世界大戦)へ参戦。元陸軍技術将校となり、最終階級は中尉に昇進しています。戦後復学し日本大学芸術学部卒業。

志野は桃山時代に発祥、その後衰退し昭和中期に荒川豊蔵に再現されるまで、焼成方法など志野には不明な点が多かったのですが、永年の天命創作居住を美濃に構え、昭和30年代中頃に研究を基に半地下式穴窯を築き、薪を燃料とする独自焼成方法を発見研究、志野をさらに極端なまでの長時間焼成する火陶「鬼志野」を発表し、昭和陶芸界に衝撃を与えました。

また1970年代には鬼志野作品がアメリカを中心とした海外にも紹介され、国際的に鬼志野が「oni-shino、devil-shino、damon-shino」と紹介され、日本国内のみならず直接的、または間接的に海外の陶芸家などにも影響を与えることとなりました。

また得度及び出家し、一千日の托鉢修行から受けた禅の精神を反映させた作品群は「禅の陶芸」「禅陶」とも称されています。陶芸創作活動の他に並行して、絵画、映画、写真、建築、篆刻、書、彫刻、モダンバレーの舞台監督などにも、ジャンルを超えた多彩な創作の足跡を残したことでも知られています。

主な受賞は文部大臣賞受賞。パリ芸術大賞受賞、現代文化賞など他多。美濃の陶工がパリで初めて単独個展をした先駆者として知られています。「炎の陶人」「東洋のピカソ」の異名を持っています。陶芸代表作に鬼志野、志野の他に、鬼黄瀬戸などの鬼シリーズがあり、彫刻代表作品は長野市善光寺(国宝の本堂で知られる)にある「善光寺御縁起・如来奉遷本田善光尊像」(本体高さ3メートル60センチ)などがあります。

絵画代表作品は富士シリーズ、龍神(日大所蔵)などや書や篆刻作品には禅をテーマにした作品が多くあります。一貫した創作活動のテーマは「生存への畏敬」です。彼のその風貌に圧倒される面があったり、マスメディアなどでイメージが先行する時もあったようですが、彼の長島茂雄風に良く似たしゃべり方から受ける印象は、実に人間味あふれる人物でした。

2006年(平成18年)8月16日急性心筋梗塞にて急逝。享年84(満83歳没)。



初期の活動

月形那比古は終戦後、かねてから崇拝する荒川豊蔵に傾倒していったのですが、昭和20年代から昭和30年代前半の岐阜県の美濃の陶工は志野焼の故郷、東濃でも著名な陶芸作家は荒川豊蔵を筆頭に、加藤十右衛門、初代加藤幸兵衛ぐらいしかいなく、東京オリンピック景気前の日本の地方はまだまだ昔の佇まいを残す典型的な田舎でした。美濃における当時は個人作家というスタイルは都市部などでは個展発表で認められるスタイルとなりつつあったようですが、陶芸作家という言葉は一般的認知度が低かったと思われます。

当然陶芸並びに創作活動だけでは食べていくことは出来にくい状況だったでしょうが、日本における現代舞踊の第一人者の石井漠の一番弟子である石井みどり芸術バレー団の舞台監督を任されることになり、創作活動の一環として、舞台監督を約5年ほど挑戦しています。

挑戦するも食い足りなく、求めている今の心境は満たされないと感じるようになっていったようで、若き日の月形那比古は第二次世界大戦での悲惨な体験を元に、今以上に国境のない世界で生きて行きたいと考えるようになります。彼らのためにも自分は出家し、一千日の托鉢修行を普化宗京都明暗寺虚無僧になり、全国行脚を発願することになります。尺八を法器とし一千日の托鉢修行を行いました。簡単に言えば虚無僧として尺八を吹くことが読経することと同じと考える普化宗宗派の本山で、禅宗の一つとなる明暗寺に出会ったということと、自らの模索期と重なり、自己を見つめることになったのだろうと推測されます。また秋葉山曹洞宗に帰依、火防ならびに炎を祈り拝みながら、昭和35年ごろに自分の陶工スタイルが確立しつつ、それまでにも描いた絵画よりも早く全国縦断展にて鬼志野を発表していくようになりました。



中期の活動

昭和35年(1960年)から昭和39年(1964年)になると、美濃の陶芸作家は前出の荒川、加藤、初代加藤以外に月形那比古、奥磯栄麓、松山祐利らが個人作家として台頭してきました。特にこの三人に言えることは、荒川豊蔵についで美濃でもっとも早く半地下式穴窯を再現し、その極限とも言える焼成方法を自分のものにしたことが言えるのでしょう。

昭和40年代の全国的な第一次陶芸ブームの波がおこり始まるのもこのころで、彼らは全国展開を個々にするようになっていきました。月形那比古は黒田領治(初代黒田陶々庵 明治38年1905年生〜昭和62年1987年没)から陶工ならぬ、焼工と言われたりしたのもこの頃です。

仮に志野の第一世代が荒川、加藤十右衛門とすると志野の第二世代の陶工は月形、奥磯でしょう。

昭和40年(1965年)から45年(1970年)には鈴木蔵、玉置保男、若尾利貞、加藤孝造らが独立、ますます美濃の陶芸界は活発になってきます。また志野再興第一世代の荒川豊蔵の、個人作家としての内弟子である吉田喜彦、中山直樹らが独立、加藤十右衛門内弟子の滝口らが独立し、志野並びに美濃陶芸の都(下記の※1参照)は不動の「陶都」として一般大衆にも認知されるてきます。

この頃、月形那比古は内一番弟子となる加藤芳比古が入門し、個人作家としての責任が大きくなり、同時にテレビ出演や、雑誌マスコミなどの取材も増え、昭和48年(1973年)に昭和30年代からの名品集である鬼志野図鑑を発行するなど、今まで以上に独自の路線とともに、「燃ゆる炎の造形想念」を開眼していきます。



後期

昭和50年(1975年)から昭和63年(1988年)までを後期とすると、日本の高度経済成長期とあいまって、自由に創作活動ができた時期であると言えるでしょう。確かに月形那比古は陶芸作家であるが、洋画家という一面も持っていた人物です。定例個展タイトルである「月形那比古の全貌展」は壮大なスケールの総合芸術活動を行い陶芸、絵画、彫刻、篆刻、書など日本縦断ツアーで発表し衆目を集めました。また芸術の都フランス・パリでの全貌個展を連続2回をやり遂げ、美濃の陶工芸術家の中で初めて前人未到の単独個展をパリにて行っています。このことは後進を導く例になります。



晩期

平成元年(1988年)から平成18年(2006年)を晩期とするならば、彼自身の芸術創作活動の一つのまとめの時期にあたると時期と言るでしょう。同時に現代美濃陶芸における巨匠の地位を築いた時期にあたります。日本国内における凱旋個展を成功させ、全国ツアーでの月形那比古の創作作品「表現手段は違っても芸術はひとつ」の思想と発表スタイルはジャンルを超えたファンに恵まれ、また良い環境と良いスタッフに恵まれたラッキーボーイです。また、新世紀を前に時代が素直にこの作家を受け入れた時代でした。多彩なジャンルの作品はそれぞれのジャンルをクロスオーバーさせて、一つの那比古「燃ゆる想念」の世界を作り上げ「炎の陶人・心象作家(画家)」として親しました。



*茶碗は飲むだけではなく立て易いという役割においても使いやすいという点が重要です。高台がつかみにくいと逆さにしにくくて不便なものです。

この時代の代表作品は長野市の善光寺に収蔵されている、「善光寺御縁起・如来奉遷本田善光尊像」(本体高さ3メートル60センチ)が1996年作にあります。土岐市の織部の日記念事業として定着した「織部の心」展に招待出品や、金沢の大樋長左衛門が中心となって盛り上がった、国際ティーボールコレクション(国際茶碗コレクション)などに招待出品などながあります。また彫刻作品においては、初期はオブジェ風な作品が多かったのですが(月形那比古のオブジェ彫刻は非形象彫刻・ひけしょうちょうこくと呼ばれた。)、晩年は具象彫刻に移り、武将列伝シリーズや、高僧列伝シリーズなど手がけています。

晩期には「炎の極限を禅」と想定した造形想念をより強調させた作品が多い。ひとえに陶芸作家というジャンルを超えたその創作活動は他の作家にも影響を与え、特に鬼志野は亜流を発生させるなど、その月形那比古の創作活動の考え方に傾倒する作家は多い。現在、彼のその足跡並びに、思想は長男の陶芸作家・洋画家として活躍している月形明比古に美濃でもすたれゆく貴重な伝統的半地下式穴窯の特殊焼成技法とともに受け継がれました。彼も「美濃における炎の魔術師」などの異名を持っています。



月形那比古の作品の特色は、多重面の交錯というキーワードと、スパイラルなムーブメントというキーワードに置き換えられるでしょう。

特に鬼志野作品はうねるような窯変景色と志野とのバランスが、その独特の造型をより強調させ、烈しい美を求めたところにあります。また、桃山時代に栄えた、半地下式穴窯を再現し古式技法である薪を使用して、自らコントロールし、火炎の強弱を作品に反映させ焼きぬいたところが特徴です。これにはいくつか作家自身の工夫や研究、窯など、また窯のあるところの地形や風や湿度、気候などにも影響を受ける焼成技法ですが、それを逆手に技法として生かしています。これは古作志野焼成をベースとしながらも鬼志野という、荒川豊蔵にも、加藤唐九郎にもない月形独自の焼成技法が創作される作品にはあると言えるでしょう。よって、近代陶芸における独創的な志野、すなわち鬼志野の第一人者として、一つの作風を確立したところにあります。

今日我々が“志野”と呼ばれるとイメージする、白い釉がかかった志野において、月形那比古の志野シリーズにおいては、特に那比古の作風として、自身が傾倒、そして崇拝した志野中興の祖人間国宝・荒川豊蔵の人物と作品に多大な影響を受け、造形的にもさることながら、発色、肌合い、削り味、質感、高台作りなどの見所において、荒川豊蔵作品をリスペクトした作風もあるのが特色です。リスペクトとと言っても、そこには那比古のオリジナル性が同居し、晩期に至るまで作品の特色として独特の造型が展開されています。



*茶碗は飲むに従い、見込み部分に見どころがなくてはなりません。この茶碗は見込みが片身代わりのような自然の釉薬の変化がいいですね。雨漏手のような変化を尊ぶ御仁が多いのですが、どこかえげつない感じを与えます。

余談として、那比古作品の壺シリーズの造形や、花生シリーズの造形含め、那比古陶芸作品群は後進の美濃の志野作家に制作の上でも直接的、間接的に多大な影響を及ぼしています。また作品のネーミングにおいても、それまで志野伝統技法そのままの技法をそのまま箱書にしていた作家達にも影響を与え、○○志野や○○○志野(○○はその作家独自のネーミング)などの作家オリジナル性を強調した志野ネーミングのパイオニアでもあります。

絵画においては、赤系統をふんだんに使った絵画が多く見られるのが特色で、「燃える赤」と言われる色彩使いが特徴です。この赤い色は彼の思う「燃ゆる炎の想念」を表していると思われる穴窯の炎を表現しているのでしょう。またマチエールにおいては、鬼志野的なうねる表面の動きが筆の動きに置き換えられ、多重な面の構成によって、二次元の世界が三次元的な表層をなしているのが特徴です。スパイラル(渦を巻く)ムーヴメント(動き)は陶芸絵画の両方に共通する言葉であり、陶芸作品で言えばその重厚で、あぐらをかいたような造型、絵画で言えばその画面からは、作者の人格や心象的旅情、心の眼で映した残像もが、強烈に反映されているイメージがあります。

月形那比古をあえてカテゴリー分けすると陶芸作家ということになるのでしょうが、絵画、篆刻、書、彫刻分野にも優品を残しています。現代風にいうならば「アーティスト」と言う言葉が適切なのでしょう。これら作品群には自身が良く述べていた「表現は違っても芸術はひとつ」の信念が表されています。

余談として、展覧会会場などでいち早くエンターテーメント性を露出した作家である。これは、自らの尺八吹奏を会場でし、鑑賞者(リスナー)に聞かせ独自の那比古ワールドを醸し出し、これは自身の発奮や個展を托鉢と考える思考からきています。



作品概要

鬼志野の命名者はまぎれもなく月形那比古である。(このことは出版物である月形那比古作品集 鬼志野図鑑末尾を参照)作者自身の活動として、昭和における新陶と論評された事実もさることながら、従来の「志野」と区別するために頭に鬼という字をつけたのである。鬼の意味としては、烈しい、激しい、荒々しい、景色が多彩、見所が多いなどの要素も表している。また、半地下式穴窯における炎の軌跡が鬼という字に表現されている。現代のファインアートや美術界においては「鬼志野と言えば月形」と愛陶家や数寄者、茶道家、華道家や絵画コレクターなどにも認知されている。特にこの鬼志野とは(鬼シリーズ含め、那比古陶芸作品)、志野をさらに極端までの長時間焼成することによって、古式半地下式窖窯の美を追求した炎と技と作家の創作想念との結集として存在する最高峰傑作作品である。また鬼シリーズも含め、鬼志野作品などは、那比古自身が言う言葉を借りて言えば、「炎を絵の具にした心象的絵画(景色)」と述べている。これは簡潔に表すとすれば、作品焼成過程において近代油絵の技法の考え方(多重な面の構成)を灼熱の炎を巧みに利用し表現している所も特徴である。
普通の志野シリーズも月形志野らしく豪快な戦国武将風の趣を残しながら、伝統を踏襲した要素と、作者の個性が同居する作風で、志野茶碗制作の上で見所になる高台には、独自の削り味をのこしながらも、志野釉を施す際のさりげない手跡にさえ絵心があるところに特徴がある。この施釉技法も伝統古作志野の技法を考察熟知し、独自の施釉技法によって景色を表現している。絵志野などにおいては、素朴で簡素な絵を一筆でさりげなく描いたところが、見え隠れする志野釉との対比とコントラストに味わいがある。またそれぞれの長石の違いを焼成技法によって巧みに引き出している所も特徴である。
元々、志野は “桃山時代に日本ではじめて生まれ焼かれた画期的な白い焼物”と言われるように、日本独自の白い焼物である。(それまで、白い器は日本では生まれていなかったため、白い器を作る技法は大陸から伝来した技法をそのまま使用していた。白い器は当時の貴族社会に非常に珍重されたため。)生まれた時代背景が戦国時代である桃山時代の武将サムライ達に愛された言わば、“サムライの陶芸”であったため、俗に言う「戦で茶を嗜む茶碗」「本陣で戦勝祈願の茶を呑む」「男の茶碗」、「大振りで豪快」な作が中心となって伝世、現代に存在しているが、那比古作品もそうした志野の生まれた時代背景をもさえ、志野作品シリーズの器の大きさにも表現している。あえてここでは、鬼志野、志野だけに限って言えば上記のことが言えるが、他のシリーズ作品含め、陶芸作品群にもそうした強烈な作家の個性が表現されている。

 

一般的な陶芸作家、洋画作家などの生涯創作点数よりも寡作な作家で、長時間焼成が特徴の陶芸はもちろんのこと、厚塗筆法技の絵画も時間がかかる技法から、月形那比古の生涯創作作品の点数は総じて少ない作家と言える。

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なが~い説明となりました。

月形那比古は陶芸代表作に鬼志野のほかに鬼黄瀬戸などの鬼シリーズがあり、この作品は「鬼萩」シリーズとも呼ばれるのでしょうか? 「鬼萩」と称されている月形那比古の作品は意外に多くあります。



保存箱で意外と無頓着な人が多いのが真田紐・・。やはり袋状に真田紐がいいですね。平紐だと絞めにくい感じがします。



さてそのうちにこの茶碗を使ってみようと思っています。







海老之図 福田豊四郎筆

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冒頭は、申し訳りませんが、最近投稿が続いている「整理している食器」の投稿です。横長の古伊万里?の食器です。普段使っていたので、割れてしまい、その部分を自分で補修しています。自分で補修してしまうのでさっぱり食器の数が減らない



簡単な染付の渋い作品?と、あでやかなめの作品、各々一対で使っていました。



本日の主題の作品は蒐集した作品数が100点を超える数となった福田豊四郎の作品の紹介です。福田豊四郎の作品は厳選して蒐集していますが、数は増える一方・・。

昭和10年頃の作品と推察されますが、共箱でこのような出来の良い大きめの作品はこの頃の作では非常に珍しく貴重な作品のようです。

*福田豊四郎の作品は地元の骨董店を中心に入手してきたり、インターネットオークションにて落札して入手していましたが、最近はいい作品が出回らなくなりました。当方で厳選していることもあるでしょうが、福田豊四郎の作品には掛け軸が多いので掛け軸の人気が落ちたせいか、作品が収まるところに収まって流通作品数が少なくなったせいかはよくわかりませんが、骨董店ではいい作品が少なくなり、インターネットなども含めたオークションではいい作品が少なくなりました。

そんな状況でこのような作品が入手できたのは



*階段正面に古備前の緋襷大船徳利とともに飾っています。

海老之図 福田豊四郎筆
絹本着色淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2360*645 画サイズ:縦1420*横505

 

福田豊四郎は「海老」を題材にした作品は初期から晩年まで数多く描かれ、その多くは伊勢海老の作品です。



昭和10年頃の作で共箱に収められている前述のように作品数は非常に少ないようです。



落款と印章から昭和10年以前の作と推察されます。落款と印章はだいたい当方にて記憶されるようになりました。

  

本作品は福田豊四郎初期の佳作のひとつと言えるでしょう。めでたい図柄ゆえ、海老の作品のひとつくらいは所持していたいものですね。

達磨図賛 盆栽梅図 布袋と唐子図 倉田松濤筆 NO38~40 3点 

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先週末には都内は雪・・・。



北国の郷里では見慣れている雪なので、息子はすぐに雪合戦の申し出・・。コロナウイルスで自粛気分の静まり返った近所の中で、大はしゃぎの声が庭に響きわたりました・・・・



本日紹介する作品は倉田松濤の作品3点です。昨年からの年末年始休暇にて帰省の際に、郷里の骨董店で小生が一点、家内が一点ずつ、計2点の倉田松濤が描いた作品を購入し、さらに最近は一点をインターネットオークションにて購入しました。さて本日は、それらの倉田松濤の3点の作品をまとめて紹介します。

なお購入金額は骨董店では数万円程度の購入で、インターネットオークションでは1万円以下で落札となりました。倉田松濤の作品は市場にたくさんありますが、当方では出来の良いものに限定して蒐集しています。今回のような出来の良い作品の入手は郷里出身の小生にとっては喜ばしいことですが、廉価であることは郷里の人でさえ興味を示さなくなり、知名度、人気がいまひとつということで、とても残念な状況であります。



*手前は古備前火襷舟大徳利です。

倉田松濤の作品は本ブログに厭き厭きするほど数多くの作品が紹介されていますので、詳細はそちらの記事を参考にしてください。

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倉田 松濤(くらた しょうとう)は秋田出身の画家。

慶応元年、秋田市生まれ。父祖は大仙市太田町の出身。本名は斧太郎。幼い頃から角館(現在の仙北市角館)の平福穂庵に師事する。少年時代から各地を放浪してまわったらしい。帝展(現在の日展)にも数回入選した。重厚な存在感のある仏画・俳画を多く残している。巽画会・日本美術協会会員。昭和3年7月11日死去。



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まずは家内が気に入って購入した鉢に植えられた梅(盆栽)を描いた作品です。

盆栽梅図 倉田松濤筆 
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:横383*縦2030 画サイズ:横340*縦1305

 

賛の中に「羽陰」という師である平福穂庵が用いた号がありますが、倉田松濤の賛は難解で関連性は不明です。



平福穂庵の「羽陰」という号は平福穂庵が北海道に渡った時期と重なります。「羽陰」・・。出羽、羽後、もしくはその陰という意味? 

倉田松濤が少年時代から各地を放浪してまわったという記録はありますが、具体的に倉田松濤が北海道に渡ったという記録はなく、単に当時の東北が「羽陰」と称し、自らの出身地の秋田をなぞらえたものかもしれせんね。



倉田松濤は、秋田県民歌の作詞者である倉田政嗣の伯父にあたり、倉田政嗣の郷里の秋田県太田町(合併後に大仙市となった。合併後も大仙市太田町 として地名が残る)出身ではありませんが倉田家のルーツは太田町であることから、太田町ほか周辺地域にたくさんの作品が残っているそうです。



次に本作品で目を引くのが賛の書体ですが、この書体は珍しいもので篆刻の知識が倉田松濤にあったのかもしれませんね。



次の作品は小生が気に入って購入した作品です。

布袋と唐子図 倉田松濤筆 
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横445*縦1995 画サイズ:横330*縦1260

 

倉田松濤は大正の初めには東京に住んでおり、当時描いた多くの作品の賛に「東都(東京)」という字句がある賛が多数あります。

 

東京に在住の頃は尾崎紅葉と親交があったという記録があります。



布袋は、室町時代から水墨画の画題として好まれ、その福々しい姿から、ご存知のように七福神のひとつに数えられるようになっています。

どういう訳か布袋は弥勒菩薩の化身として信仰されるようになりますが、弥勒菩薩は、兜率天という場所におり、仏陀が死んでから五十六億七千万年たったとき、地上に降りてきて人々を救済するとされています。このことから中国では、早くから弥勒菩薩の信仰があり、しばしば政治の道具として利用されてきました。たとえば、中国で唯一の女帝となった則天武后(624?~705)は僧たちにニセのお経を作らせ、自分が弥勒菩薩の生まれ変わりであると主張した例があります。布袋もそのような政治の道具として利用されたのであろうと思われます。



その後、さまざまなテーマで布袋は描かれていますが、興味深い作品は、本作品のように唐子と布袋を取り合わせた絵で、数人の唐子が布袋の大きなおなかに乗ったりして戯れる図柄です。



この布袋図は、室町時代から江戸時代を通じて数多く描かれていますが、それがなんと、単に子孫は繁栄だけではなく安産の祈願やお守りに使われていたらしいです。



おそらく、布袋の大きなおなかと唐子という図が、妊婦と子供にたとえられたと思われます。



ただし、中国には布袋と唐子という取り合わせはないようです。 このように布袋の場合、実在の人物がさまざまな形で描かれていくにつれ、もともと持っていたユーモラスな部分がどんどん広がっていき、最後には福神にまでなってしまったのであり、人々の願望と想像力の産物といえるのでしょう。



ところで布袋は七福神の中で唯一実在の人物なのです。中国の唐末期(九~十世紀)に実在した禅僧契此(?~917)がモデルになっていると言われています。この僧は、大きくふくれた腹をしており、いつも手に杖を持ち、大きな布袋を背負い、施しを求めて市中を歩いており、布施を受けた物は何でも袋の中に入れて歩いたといいます。この布の袋から布袋という名がついたと考えられているのです。



本作品はなんとも愛らしく描かれています。いかにも愛でたい・・。

倉田松濤の作品には「匂い立つような宗教画」という言い当てて妙の解説がありますが、次の作品はその本領を発揮している作品と言えましょう。

達磨図 倉田松濤筆 
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:横500*縦2200 画サイズ:横330*縦1300



俳画に興味を持ち、永平寺や総持寺の賛助を得て、自ら俳画禅寺を建立する計画を立てていたようですが、目的を果たせずに他界しています。永平寺や総持寺と関連があったらしいということは曹洞宗になんらかの関係があったのかもしれません。

 

賛に「昭和歳年」とあり、倉田松濤の没年が昭和3年であることから最晩年の作と推定されます。

 

当方の宗派は曹洞宗で、亡くなった家内も現在の家内も実家は曹洞宗に属していますので、同郷ということ以外にも縁のある画家です。



これらの3作品はいずれの倉田松濤の秀作で、この画家の尋常ならざる筆法の見事さ、異色の画面構成がうかがい知ることができる作品だと思います。当方の一番好きな作品は「布袋と唐子図」・・・。子供の笑い声が聞こえてくるようです。雪合戦で布袋役は小生?、否、お腹の出具合から家内 いやいや女帝故・・・。

薔薇 伝秋野不矩画

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義父が亡くなり、息子も小学校ということで、家の中をあれこれと片付けをしながら息子の部屋を準備していますが、家具を処分した際に運びに来てもらった人に義父のベットを息子の部屋に予定されている二階の部屋に運び込んでもらいました。



まだ行き場のない見つからない客用の布団類は息子のベットからの落下防止に使っています。まだまだ片付いていないのにランドセルやら息子の所持品が持ち込まれてきています。



そんな中に持ち込まれたので息子のおもちゃ。しかも日本刀と印籠、飾る道具も自分で誂えていました。当方では関与していませんが、どこで覚えたやら? ドラマ? 動画?? 末恐ろしい・・・



さて本日は、額が良さそうなので、数千円で入手した作品ですので、むろん「伝」秋野不矩としての投稿作品です。当方では初めて取り上げる画家ですので、勉強のつもりです。休日ですので気軽に愉しんでください。

秋野不矩は戦後の1948年、新しい日本画を創造しようと決意し、それまでいた日展を脱退し、上村松篁、福田豊四郎、吉岡堅二らとともに在野の日本画団体「創造美術」(現在の創画会)の結成に参加しますので、当方の蒐集対象である福田豊四郎とも縁のある画家です。



薔薇 伝秋野不矩画
油彩額装 左上サイン 誂:黄袋+タトウ
額サイズ:縦425*横355 画サイズ:縦158*横228 F1号



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秋野不矩:(あきの ふく、1908年(明治41年)7月25日 ~ 2001年(平成13年)10月11日)。静岡県出身の女流日本画家。本名はひらがなでふく。

日本画家「沢宏靱」との間に6人の子を儲けた。絵本画家の秋野亥左牟は次男。

昭和初期より西山翠嶂門下で官展の入選・特選などを重ねた。戦後は画塾を出て「創造美術」(現創画会)の結成に参画する一方、美術学校(現京都市立芸術大学)にて後進を指導。50代で赴任したインドの風景に魅せられ、以後インドの材料を使った新しい境地を開拓する。

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*本ブログでも取り上げている「沢宏靱」とは夫婦です。



補足

神主の父惣吉と母かつの五女として静岡県に生まれ、貧乏な田舎暮らしで玩具も絵本もなかったため、天竜川を写生するなど、好きな絵を描いて育ちました。小学六年の時、東京の美術学校出身の教師と親しく接し、ゴッホやゴーギャンの絵画を知ることとなります。

静岡県二俣高等女学校から静岡県女子師範学校二部へ進学し、卒業後、龍川村の横山尋常高等小学校に赴任するも、生徒らの扱いにてこずり、翌年教職を辞して千葉県大綱町の画家石井林響の内弟子となりました。

*本ブログでは石井林響の作品は紹介していません。

画室の掃除や庭の草むしりのほか、五十種類以上飼われていた鳥の世話などで絵を描く暇はなかったようですが、師匠の作画の手伝いなどで蘊蓄の深い教えを受けたそうです。



この間、師範学校時代の恩師の知人福田恵一 (日本画家)から、自身が入門していた本ブログでお馴染みの西山翠嶂の画塾に誘われたため、脳溢血後小康状態にあった師・林響に「もっと絵を描きたい」と打ち明け、師の没後京都へ出ました。

京都では姉の嫁ぎ先に寄食しつつ西山翠嶂の画塾「青甲社」に通い、出品画の制作の際は永観堂に部屋を借りました。

*福田恵一の作品は本ブログには投稿されていませんが、西山翠嶂の作品は幾つかの作品が投稿されています。



入塾翌年の1930年(昭和5年)、帝展にて初出品・初入選して以来入選を重ね、続く新文展で選奨(昭和11年)、特選(昭和13年)を受賞して無鑑査者となっています。

戦後は、国の補助を受けず在野にて立ちたいとの思いから、同門の上村松篁・沢宏靱らとともに画塾を離れ、新組織「創造美術」(現創画会)を結成、以後官展への出品を止め、いわゆる近代日本画家の主流コース(官展会員→官展審査員→日本芸術院会員→文化勲章)を外れることになります。その傍ら、京都市立美術専門学校(のち京都市立美術大学、現京都市立芸術大学)において後進の指導に当り、助教授・教授職を25年勤続して定年まで勤めあげました。

 

この間、50歳で離婚を経験し、その4年後には、佐和隆研教授が持ち帰ったインド赴任の話に真っ先に手を挙げ、ビスバ・バーラティー大学の客員教授として約一年間当地で日本画を描き、帰国した翌年、インドを描いた作品にて個展を開催しています。

その後も忘れ難い経験となったインドへの再渡航を願いながら、職務上なかなかその機会に恵まれなかったのですが、定年を迎えて以降インド滞在を重ねるようになり、当地を題材にした諸作品で新たな画境を開きました。

京都府の美山町で三男一家と暮らしながら隣接するアトリエにて制作を続け、その作品は80歳を超えてさらに大作を描くようになります。



亡くなる2年前、91歳で文化勲章を受章していますが、所属した創画会の方針により、弟子はいません。

本作は小点の作品であり、息子と寝室が別になったので寝室に飾って愉しんでいます。ま~、まだときおり明け方には小生の寝床に潜り込んでくるのですが・・・。

平野庫太郎作 木葉天目茶碗

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茶事に欠かせないのが「四つ碗」というものらしい・・・。本来「四つ椀(よつわん)」は、懐石家具のうち、「飯椀」、「汁椀」、「平椀」、「壺椀」の四つ揃えの塗椀のことをいいます。(下写真:左) 一般的に「平椀」、「壺椀」は胴紐のある外蓋になります。

ただ「飯椀」と「汁椀」の両椀で引入(内蓋)になっていて、身を重ね、蓋をその中へ重ねると四つ重ねに収まる「四重椀」も「四つ椀」と呼ばれています。(下写真:右)

 

当方ではこの手の四つ揃えの塗椀は朱塗の椀のところで数多く説明しましたが、真塗(黒塗)にても出来れば揃えておくのもいいでしょう。どちらかというと朱塗より真塗(黒塗)のほうが主流のようです。

下記の写真は6客揃いの状態です。通常は最近はこのような器類は10客揃いが多いようですのが、当方では各々スペアを確保して12客(6客2セット)を用意してあります。



この手の漆器の椀揃いは現在でも懐石セットなども含めて多数販売されていますが、やはり国産漆の古いものがいいでしょう。間違っても樹脂製のものは使いたくないですね。



さて本日は郷里の友人であり、大学の先輩であり、そして陶芸の師匠でもあった平野庫太郎氏の作品の紹介です。

小生が東北で転勤族であった頃に幾度となく秋田市内の自宅兼窯元に通ううちに親しくなり、時間の経過とともに作品を入手するようになりました。

本ブログでは平野庫太郎氏の幾つかの作品を紹介していますが、本日は「木葉天目茶碗」にフォーカスして紹介したいと思います。

下記の作品は一番最初に先生から頂いた作品です。見込みの木葉天目は写真より実物のほうがはるかに美しい発色となっています。ただ本作品は高台まで釉薬が垂れて失敗作だと先生は言っていました。捨てるには惜しいので小生が譲り受けた作品です。むろん平野庫太郎氏は箱書などはしないと言っており、あくまでも失敗作であるため小生が使うためだけにとしてくれた作品です。

失敗作は味があっていい・・・

木葉天目茶碗 平野庫太郎作 その1



もともと木葉天目茶碗は中国から伝来した作品で、南宋時代の吉州窯の木葉天目茶碗は我が国にも十数点あり、多くは出土品です。代表とされる木葉天目茶碗は前田家の宝として古くから伝来したもので、文様表現や形姿、釉調など、木葉天目茶碗中の絶品として定評があります。




現在は東洋陶磁美術館収蔵で重要文化財に指定されており、*曜変天目に次ぐものとして、油滴天目とともに中国伝来の唐物茶碗の最上品とされています。

*曜変天目茶碗は世界に3点しかない(静嘉堂文庫美術館蔵、藤田美術館蔵、大徳寺龍光院蔵)とされ、すべて日本にて国宝に指定されている曜変天目茶碗ですが、実は本能寺の変で消えた幻の曜変天目茶碗があったことは一般にあまり知られていないようです。織田信長と共に消えた曜変天目茶碗のナンバーワンがあったようです。「君台観左右帳記」に「無上也。世上になき物也。」、「万疋の物也」と記されており、一説には足利義政が所持しており、織田信長に伝わった作品とされ、この曜変天目茶碗こそ世に屈指の作とされています。

**さらには国宝にされてませんが、重要文化財に指定されている曜変天目茶碗があり、「君台観左右帳記」には「建さんの内で無上なり」とされています。

***なんでも鑑定団に出品された作品が「曜変天目茶碗」と判断されましたが、これについては当方では実物を観ていないので評価のしようがない・・・・。



吉州窯は鉄釉の上に灰釉を重ねることによる鼈甲の発色が美しい玳玻天目茶碗を産んだ窯であり、木葉天目もこの玳玻天目の技術の延長線上にあることは想像に難くありません。

*なお「曜変天目茶碗」は建窯の作とされています。



数多の陶芸家が木葉天目の再現に挑戦し、石黒宗麿、清水卯一といった人間国宝の陶芸家らが焼成に成功しています。他の陶芸家の制法は有機溶媒に溶かしたセルロースを増膜剤として使って葉の灰が明瞭に残るようにする、あるいは金液と転写紙で葉脈を写し取るといった方法が多いかもしれません。非常に卓越したメソッドと評価するかもしれませんが、再現という点では愚策であろうと思います。



古来から偶然窯の中に一枚の枯れ葉が落ちて、それが焼成されたら木葉天目の作品となったとされています。つまり偶然の産物・・。

この作品は高台周りの釉薬の垂れが左右対称で面白いですね、、まるで猪の牙? 銘は「猪突」・・??? 



「木葉天目茶碗」の制法は徐々に解明され、現在は「葉脈に珪酸系の化学物質を吸わせた葉を、釉薬との相性で形成されたもの」と解ってきているようです。平野先生からは詳しくは教えてもらえませんでしたが、成分と葉の種類にも苦心されていました。



高台周り以外は非常に美しい発色で玳玻天目を超えて、窯変天目のような美しい世界を成しています。



その後に頂いた次の作品も失敗作らしい・・・??? 

木葉天目茶碗 平野庫太郎作 その2



どこが失敗作なのかは先生は言いませんでしたが、素人目には完品にしか見えません。



木葉の発色は素晴らしくよくできています。



なんども試行錯誤して出来上がった作品です。



現在は多くの陶芸家が木葉天目の焼成に成功していますが、確かな轆轤の技術と作品の品格の高さ、釉薬の発色を兼ね備えた作品は平野庫太郎氏の作品を凌ぐ作品はたやすくは見当たりません。



作品を整理しながら保管方法は入念にしておきます。



無論頂いた作品だけではなく、個展などで購入した作品もあります。

木葉天目茶碗 平野庫太郎作 その3



釉薬は鉄釉の作品です。というより「玳玻天目茶碗」に近い発色ですね。



木葉の葉脈が鉄釉だと褐色にきれいに焼成されます。



明らかな失敗作を頂戴したこともあります。葉の葉脈がうまく出なかった作品ですが、かえって面白い!と思い、懇願して頂いた作品です。平野庫太郎氏は「玳玻天目茶碗」より「曜変天目茶碗」や「油滴天目茶碗」に近い釉薬の発色にて「木葉天目」の焼成を目指していたようです。

木葉天目茶碗 平野庫太郎作 その3



平野庫太郎氏は木葉天目茶碗だけではなく、中国古来の釉薬の研究を続け、近代風にその釉薬を使いこなした稀有の地方の陶芸家です。



例として上の写真のような盃の作品がありますが、むろん茶碗、水指、水注などの作品にも生かされています。



このような盃で一献・・・、先生との愉しい時間が思い出されます。



平野先生に記念品として配る盃の製作を依頼し、友人、諸先輩に配ったことがありましたが、最初はありきたりの「盃」かと思った方もいたようですが、実際に使った方には非常に好評でした。

器は使う人の心を豊かにするものでなくてはなりません。そしてそこにこだわる人こそが文化人と言えるのでしょう。作る側の人も使う側も人も・・・。

現在でさえ寡作な平野庫太郎氏の作品はますます希少となっていきます。これからは平野庫太郎氏の作品が市場に出ることは少ないでしょう。 友よ! 永遠なれ!! 作品とともに!!!



















わびすけ椿 藤井達吉画歌

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本ブログで作品を紹介している藤井達吉の作品ですが、正直なところ「どこがいいのだろう」と思いの方は多いと思います。小生も理解しているとは言い難いのですが、そこが理解できていないと藤井達吉の茶味は理解できないのでしょう。



わびすけ椿 藤井達吉画歌
紙本水墨淡彩軸装 軸先陶器 栗木伎茶夫鑑定箱
全体サイズ:縦1230*横640 画サイズ:縦330*横440



落款は「空庵」、印章は「藤井達吉」(白文朱方印)という珍しい印章です。鑑定箱書は弟子の「栗木伎茶夫」氏によるものです。

 

栗木伎茶夫:(くりき ぎさお)陶芸家。明治41年(1908)生。藤井達吉に師事する。半世紀を超える陶歴で瀬戸陶芸界の長老と呼ばれ、土ものの赤絵の技法を用いた。文展・日展等入選多数。瀬戸市無形文化財保持者(陶芸・赤絵技法)。氏は「藤井先生の座右の一言『ロクロは自分で挽け、文様は自分で考えよ。』は、陶芸の規範であり、形と線により出来たものを科学的に処理して生まれる物が陶芸である。」と述べています。

 

わびすけ(侘助)椿の呼び名は茶人笠原侘助が好んだからそう呼ばれるらしいです。 ツバキ科の常緑高木。葉は普通のツバキより細く、晩秋から寒中にかけて、一重の白・赤、また赤地に白斑の小さい花をつけ。茶花として愛好されています。唐椿(からつばき)とも称されます。



さて和歌は何と詠むのでしょう。箱書きからは下記のように読めるようですが・・。

藤井達吉先生筆 水墨淡彩
わびすけ椿
わびすけつばき よくもさきて
くれしかな なれのその しづけさよ

画中には下記のように記されているように思えます。

「和非春計都婆支 与九も 散岐呈(?)
 久礼しの那 な礼乃そ能 志川希佐与」

「昭和37年4月四国遍路に出立に際し 椿の花」との書付が同封されています。

1935年(昭和10)に初めての四国遍路に出かけてから昭和37年4月~5月には5回目の遍路という記録があり、晩年なってからも含めて幾度となく四国遍路をしています。


 

藤井達吉は、昭和37年(1962年) 5月 安藤繁和、春日井正義、姉篠(未婚で独身)と四国遍路をしたという記録があります。藤井達吉がなにゆえに幾度となく四国遍路の旅に出かけたのかを記した資料は当方の少ない資料には見当たりません。画家では川端龍子の四国遍路が有名ですが、川端龍子は息子を戦地で、妻を病で亡くしていたことから、供養のために四国遍路に赴いていますが、藤井達吉は生涯独身で、後継に考えていた姪を亡くしますが、そのことの関連して四国遍路に赴いたかなどの明確な理由は当方では把握していません。

*姉・篠(すず)子は3歳年上で、1878(明治11)年生まれ。未婚で、その生涯を達吉とともに過ごしており、達吉の死の翌年、1965(昭和40)年に死亡しています。

*姪・悦子は長兄・安二郎の娘で、母の死に伴い藤井家で暮らすこととなっています。染色に優れていたといわれ、未婚であり達吉が自分の跡を継ぐものと期待していたようですが、1953(昭和28)年、死去しています。達吉は絶家を決意し、1,400件近い作品及び所蔵品を、旧愛知県文化会館に寄贈することにしました。

*姪・当子は、次兄・重二郎の娘で、彼女もまた藤井家に引き取られました。篠たち姉妹や悦子とともに刺繍にとりくむ写真は残されていますが、彼女は工芸作家の道を歩まず、結婚し佐藤姓となっています。



ただこの歌に詠まれているように、なにか思いがあっての四国遍路でしょう。後継に考えていた姪の死因は何であったのでしょう? 姉との四国遍路・・・、「なれのその しづけさよ」に凝縮されたなんらかの感慨が伝わります。

少なくても本ブログで何度か記述しているように、日本の文化、伝統工芸にこだわった藤井達吉の作品は茶掛としていいものだと思います。まだまだ当方では理解不足でしょうが、本作品は茶味の深い作品だと思います。



影青花入 鈴木治作

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亡くなった義父の遺品を整理していると出てきたのが電話機、回転する置台も付いていました



昔はどこの家にでもあったのですが、これも骨董品??? とりあえず展示室へ飾っておきました。



防止型老眼用ルーペ、照明付きなどというものもでてきました。すべて子供のおもちゃになりそうです。こちらは早速息子が自分の部屋の宝物用の引き出しに仕舞い込んでいました。



さて本日は近年流行りの近代の陶磁器群・・、八木一夫、隠崎隆一らの作品。近年流行りとはいえもうひと昔前の陶芸家でしょうか? 現代の鍛錬のない陶芸家達とは違い、一連の修業を積んだ陶芸家ですね。そのような陶芸家の作品の中で本日は鈴木治の小作品を紹介します。



影青花入 鈴木治作
共箱
幅105*奥行92*高さ114*底径



近代から現代にかけての陶芸に関しては当方はあまり詳しくは知りませんが、最近の陶芸家の作品において、当方では観るに値する作品に出会った記憶があまりありません。何故かな?と思うとまずは鍛錬の跡がない、目先の新しさだけが目につく、茶心がないためかともかく使えない、日常も使いにくいなどが理由にように思います。



温故知新ということより、陶芸の基本がなっていないと感じる作品が現代の陶芸に多いようです。



現代の作品においては僅かの陶芸家にしか興味が湧かないのが実情ですが、いつの時代でもそうであったのかもしれませんね。



実はこの作品も使いににくい・・・。口の部分を持つと滑って落とす・・・。これは意外に大事なこと、大きな欠点かな?

当方では使い方の基本を備えていないと判断しています。そのような欠点の作品は古来の名品には意外に一点もない。



ま~、胴の部分を持つと持ちやすいですが、大きさからすると首の部分を掴みたくなる?

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鈴木治:大正15(1926)年11月15日生まれ、平成13(2001)年4月9日没、享年73歳。京都府京都市生まれ。京都市立第二工窯業科卒。

経歴:父は永楽善五郎工房のろくろ職人で、幼少の頃から陶土と親しむ。昭和21年青年作陶集団に参加、翌年日展に初入選。23年八木一夫、山田光らと前衛陶芸家集団・走泥社(平成10年解散)を結成、先駆的な活躍をし、陶芸界に新風を巻き起こした。

用途にこだわらない純粋造形作品“オブジェ焼”を創作、自身の陶磁オブジェを“泥象(でいしょう)”と呼び、馬、鳥などの生物や、雲、風といった自然現象をモチーフに信楽の赤土や青白磁で半抽象作品として表現。モダンな感覚と技術力で、柔らかく詩的な作風で知られた。



昭和37年プラハ国際陶芸展金賞、45年ヴァロリス国際陶芸ビエンナーレ展金賞、平成10年日本芸術大賞、11年朝日賞を受賞するなど国内外で高い評価を受けた。また、昭和54年京都市立芸術大学教授に就任。平成4年定年退官するまでの間に美術学部長を務めるなど後進の指導にも尽力した。

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古陶磁器も近代巨匠の陶芸家も使えないもの、使いにくいものは作らないものです。もちろん鑑賞を主眼とする作品も使える作行がベースです。陶磁器は用途を忘れては元も子もないというのが小生の考え・・・。ただしこの陶芸家は必要以上に用の美より飾る美に徹する方向性であったので致しかたないかもしれません。



ま~、一作品は鈴木治や八木一夫の作品が欲しかったので、いい経験ですね。小作品ながらこれはこれで実は意外と満足していますが・・・。



ところで共箱は痛むことがあるので、上等の作品は外箱に収まることが多いですが、痛めない簡単な方法は風呂敷で包み込むことです。箱を積み重ねていると箱がいつかは痛んでいますから・・。



風呂敷で包み込むとなんの作品か分からなくなるのでプレートを付けますが、古来から木札を付けることが多かったようです。小生が工夫?したのは100円ショップで売っているネームプレート(写真を入れる)と風呂敷です。茶碗程度の大きさならこのような風呂敷が使えますね。

本日のまとめとしては用の美、飾る美は電話機にしろ、陶磁器にしろ、ある意味で時代が経てから美が備わるような気がします。




霜葉 堅山南風筆 その6

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掛け軸の修理は改装だけではありません。箱の修理や誂え、時には掛け紐の交換という小事のこともあります。こちらは箱を誂えて天龍道人の84歳の時の作品、今では貴重です。



掛け軸は表具、保存箱らが三位一体となった美術品と言えるでしょうが、本日紹介する作品もそのひとつと評価できる作品だと思います。



霜葉 堅山南風筆 その6 
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横450*縦2120 画サイズ:横275*縦1285

 

本作品は長さは2メートルを優に超えます。通常の床の間では飾れないかもしれませんね。

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堅山南風の略歴

上京まで

1887年9月12日、熊本県熊本市に三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された。1898年、熊本市立壺川小学校卒業を経て高木高等小学校に入学、1年時に写生した「ざくろ」が図画教師に称賛された。この頃、地元で鯉を描く画家として著名であった雲林院蘇山に傾倒していた。

1904年、生家破産により家を閉じ、西子飼町の源空寺に居候した。同年9月には養育を受けていた祖父が死去している。翌1905年より図書館に通い木版印刷書籍口絵を模写するなどしていた。翌々年1906年より地元画家福島峰雲に師事。

1909年、同郷の山中神風に連れられて上京した。このとき、上京する電車の車中にて「南風」の画号を自ら選んだ。号は『十八史略・尭舜篇』のうち「南風之詩」から取ったものだった。上京後、神風の紹介により高橋広湖門下となった。

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登龍門 堅山南風筆
紙本着色額装 共シール 
画サイズ:縦317*横407 全体サイズ:縦441*横536



鯉之瀧登 高橋廣湖筆
絹本水墨淡彩軸装箱入 
画サイズ:横420*縦1050



*高橋広湖については本ブログでも作品が紹介されています。さらに堅山南風は花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた画家ですが、本ブログにて堅山南風(上記の上の写真)、高橋広湖が共に鯉(上記の下の写真)を描いた作品が紹介されていますので、興味にある方は本ブログから検索してみてください。



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文展初入選まで

高橋門下となって3年後の1911年まで第3回・第4回文展、第11回巽画会などに出品を続けるがいずれも落選し、生活困窮に陥っていた。これを見かねた師高橋が自身の職であった報知新聞連載小説「徳川栄華物語」の挿絵の画を代筆させたことで月額30円の手当を得ることとなった。またこの年、巽画会出品作「弓矢神」が三等銅牌受賞している。しかし高橋は翌1912年に急逝した。

師高橋死後の1913年にも巽画会、勧業展、日本画会展などに出品するが二等褒賞や落選を繰り返し、南風はスランプに陥っていた。この年に開催された第7回文展に出品した「霜月頃」が文展初入選、最高賞である二等賞を獲得、後に師事することとなる横山大観の激賞を受けた。また出品作「霜月頃」は旧熊本藩主、細川護立の買い上げとなったほか、南風自身も細川の庇護を受けた。

熊本県立美術館蔵 「霜月頃」



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上記の作品と本作品は似通った題ですね。描いた季節は同時期でしょう。作品中の落款と印章、共箱に題の書き付けは下記のとおりです。

  

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横山大観門下から関東大震災まで

1914年、前述の横山大観に師事した。この年日本美術院が再興されると文展出品を取りやめ、以後院展を作品出品先と定めた。翌1915年には妻を娶っている。

1915年に出品した第2回院展「作業」は労働者を群像を描いたものだったが、師横山により題材の品について叱責を受けた。

翌1916年11月25日より絵画修業を目的として荒井寛方のインド旅行に便乗、カルカッタ周辺で2か月間、翌1917年2月よりブッダガヤ、デリー、またこれらの帰路にボンベイに立ち寄って周辺写生を行った。特にボンベイではエレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘を受けた。しかし同年9月の第4回院展にインドの印象を作品として出品した「熱国の夕べ」は赤、緑など強い色彩を用いたことで色盲と酷評された。

1918年より健康を害し、また極度のスランプに陥っている。1920年には健康回復および気分転換のために弓道を開始した。またこの頃より花鳥画の制作を目的として東京近郊から山梨県にかけての写生旅行を行っている。これらのスランプ脱却活動は1922年第9回院展「桃と柘榴」にて横山に好評を受けるまで続いた。1923年9月1日、関東大震災発生。当日は院展開催日だった。このときの震災の様子を南風は1925年作の「大震災絵巻」3巻に描いた。

日本美術院同人から初個展開催まで

1924年、日本芸術院同人に推挙される。1926年には東京府美術院評議員に任命された。同年12月には巣鴨から小石川区(現文京区)の細川邸内の一画に居を移した。1927年頃より民謡踊りに熱中、同題材を求めて日本各地を旅行した。1928年には兄の借金返済のため郷里熊本にて画会を行うなどしている。

1929年9月、新築された日光東照宮朝陽閣の障壁画を揮毫するため、横山大観の推薦により中村岳陵、荒井寛方らと共に同年12月30日まで現地滞在し制作に携わった。 1930年4月にはイタリアのローマで開催された日本美術展覧会(ローマ展またはローマ日本美術展)に南風作「水温」「朝顔」「巣籠」が選ばれ出品された。 1931年には「美術新論」10月号に「苦難時代を語る」と題して寄稿している。また1936年頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入社している。 1938年3月、東京と京都の画家広島晃甫、奥村土牛、小野竹喬、宇田荻邨、金島桂華、山口華楊、徳岡神泉などが集って結成された丼丼会に南風も結成メンバーとして参加、第1回展に出品した。同年9月より第2回文展に審査員として参加している。また1940年4月には自身初の個展を開催、自身の画塾「南風塾」を「翠風塾」と改称した。

日展出品時代

戦時中の1945年6月には横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開した。同年終戦後11月、南風の所属する帝国美術院が文部省主催の日本美術展覧会への参加要請を日本美術院が受諾したことで翌1946年3月開催の第1回日展に南風も作品を出品し、以降、日展と院展の双方に作品を出品するようになる。

日展出品は1957年まで続けられた。 1951年、日展運営会参事に就任。1954年7月には奥村土牛、酒井三良などと箱根旅行に赴いた。1955年第40回院展に出品した武者小路実篤をモデルとした「M先生」は代表作に数えられる。 1956年3月、南風門と郷倉千靭門の門下生合同による塾展旦生会が結成された。またこの年、熊本県文化功労者に推挙された。

横山大観死去から妻死去まで

1958年、長年師事した横山大観が死去。同年4月、伊東深水と共に日本芸術院会員に推挙。また5月には日本美術院が財団法人となり、南風は当初監事に就任、のち理事となった。

1962年2月23日に発刊されたアメリカ合衆国のニュース誌タイムの表紙に、同誌依嘱により制作した南風の「松下幸之助像」が使用された。1968年10月には文化功労者に選出されている。 1969年、同郷の俳人中村汀女をモデルとした「新涼の客」が完成、第54回院展出品。同年熊本市名誉市民。1971年、妻死去。翌1972年、静岡県韮山町(現伊豆の国市)に別荘を購入したが、手狭であったため田方郡に別荘を新築し以後こちらによく滞在するようになった。

米寿以降

1975年、米寿を迎え熊本で「堅山南風米寿記念展」が開催、「霜月頃」以下南風作品50点が展示された。この年ポリネシアのタヒチ島へ写生旅行に趣き、以降の作品は色彩が更に鮮明になった。 1978年1月4日より読売新聞紙上で自伝抄「思い出のままに」連載開始。

1980年12月30日、肺炎のため静岡県田方郡の別荘で死去。

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さて下の写真のように共箱の題字カバーに「表具師岡村辰雄」とあります。これは意外に重要なことです。

 

岡村辰雄は額装店岡村多聞堂の創業者です。御存じの方は少ないかもしれませんが、掛け軸や額を扱う方には知っている方は多いと思います。



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岡村辰雄:額装店岡村多聞堂の創業者。全国額縁組合連合会初代会長。

明治37年10月31日長野県上田市に生まれる。大正元(1912)年、一家で上田から上京、深川門前仲町で時計屋を営むが、書画の売買を業としていた伯父の影響もあって表具師の仕事に惹かれていき、同6年伯父の仲介で表具店の原清廣堂に入門。

昭和5(1930)年5月、多門堂を港区南佐久間町に創業。同11年、表装について記した『表装備考』を上梓、これを機に多く聞くことの尊さを知り従来の堂号“多門堂”を“多聞堂”に改める。

同25年、表具の仕事を一切放棄し額装の製作に専念、とくに日本画額装の嚆矢となり、ステンレスなど新素材を積極的に取り入れ、建築様式の変化に対応した展示方法を開拓した。27年有限会社岡村多聞堂を設立。以後、東宮御所、新宮殿、吹上御所、国立劇場の装飾画の額装を手がける。

30年、額に関する記録をまとめた『額装の話』を出版し、同年にブリヂストン美術館で「多聞堂額装展覧会」を開催、また全国額縁組合を創立。同42年より法隆寺金堂壁画再現に従事。同57年、自らの回想を綴った『如是多聞』を出版。同63年、額縁研究と製作による建築、美術界に対する功績に対し、第13回吉田五十八賞特別賞を受賞した。

1997年没、享年92。

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本作品を鑑賞するには季節外れですが、虫干しを兼ねて展示しています。



本作品はあくまでも推定ですが、昭和10年頃に描かれた作品ではないかと推測しています。「表具師岡村辰雄」とあり、岡村辰雄が額装の製作に専念する以前のもの? 表具、作品共々、貴重な作品と言えるでしょう。三位一体・・・。このような作品を鑑賞できるにはありがたいことです。

氏素性の解らぬ浅絳山水図 伝風外本高筆

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今週初めには息子は小学校に無事入学となりました。コロナウイルスの影響で簡略化された入学式でしたが、担任の先生や幼稚園が一緒だった友達もいて当方もひと安心・・・・。



近所の公立の学校ですので、通学も歩いていけますし、何と言っても校庭が広いのがいい!



さて本日紹介する作品は風外本高らしき作品・・、風外本高の作品は仙厓の作品とともに当方では蒐集は避けてきたように思います。洋画でいうと鈴木信太郎みたいなもの・・。どこがいいのか分からない・・・。しかも贋作が多い・・・。逆にこのような作品を直感で購入するようになったということは我ながら進歩したのかもしれません?



浅絳山水図 伝風外本高筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1950*横420 画サイズ:縦1320*横298



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風外本高:(ふうがい ほんこう)俗名:東泰二、安永8年(1779年)~弘化4年6月22日(1847年8月2日))。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶。

安永8年(1779年)に伊勢国度会穂原村押渕(現在の三重県南伊勢町)に、東孝助の次男として生まれる。幼名は泰二。別号、好幽。

天明6年(1786年)に地元の圓珠院で安山泰穏につき出家し、ついで松坂にある薬師寺の大愚霊智に学ぶ。19歳のとき峻烈な禅風で「狼玄楼」として名高い但馬国龍満寺の玄樓奥龍に師事して、その法嗣となる。風外本高の名前も、この時市から与えられた。

興聖寺(宇治市)にも従って移動。 34歳で出雲国徳林寺開山となり、文政元年(1819年)に摂津国圓通院も開き、次いで54歳のとき三河国香積寺25世となった。諸岳奕堂、原坦山、環溪密雲など、洞門の俊英を輩出した。後に摂津国烏鵲楼に引退した。

一方で画を月僊、池大雅に学び、画僧としても知られ、池大雅の書画に私淑し、落款が蛸に似ていたため「たこ風外」と呼ばれた。弘化4年(1847年)6月22日に遷化。安永8年(1779)~弘化4年(1847) 著作に「碧巌録耳林鈔」など。

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風外和尚は説法が上手だったことで人々から慕われたようですが、歴史的にはむしろ画僧としての評価のほうが名高いのはご存知の通りです。



仏画を描くことで、仏に込められた想い、言葉では表現できない想いを人々に伝えたいとの願いがあったとも言われています。



風外本高の説法にひとつに下記の著名なものがあります。

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説法のひとつ:虻と障子の話

風外和尚がまだ大阪に住していたころ、寺院はだいぶ荒廃が進んでいた。障子もところどころ破れており、すきま風が入ってくるような状況だった。そんなある日、部屋のなかに一匹の虻が迷い込んできた。虻は外に出ようと障子へ頭をぶつけるのだが、なかなか障子を通り抜けることができない。すぐ隣に破れた箇所がいくつもあるのだが、よりによって破れていないところばかりに頭をぶつけて外に出られないでいる。



風外和尚はしばらくその虻を眺めた。そして思った。ちょっと身を引いて、一歩後ろに下がって、広い眼で辺りを見渡してみれば、外へ出る道をすぐに見つけることができるにも関わらず、虻にはそれができない。自分の目の前のことしか見えておらず、視野が極端に狭いのだと。何度も障子に頭をぶつけ続けて、出口がわからずにひたすらもがいている。



これは何も虻に限った話ではない。人間だって同じだ。怒りで頭に血が上っているときや、思い込みで視野が狭まっているときなど、人もこの虻と同じように出口を見つけることができずにもがくことがある。 一歩だけでいいから下がって、冷静に辺りを見渡すだけでいいのに。それから風外和尚は、悩み事を相談されたときや喧嘩の仲裁に入ったときなど、様々な場でこの虻と障子の話を例えに解決の道を示した。

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自分のことしか考えない御仁は 一歩下がって、冷静に辺りを見渡すことができないようです。よくいますね、最近も会いました。上から目線の御仁・・・、こういう御仁は相手にしないことです。

風外本高は例え話によって当人が、自分で自分の過ちと正しい道とに気付けるよう、そっと導いてきたのでしょう。



資料の印章や落款には下記の写真があります。簡単な印章や落款ですが、一致していると判断していいでしょう。



ま~、ともかく美術館や画集以外では初めてお目にかかる画家の作品です。ともかく勉強、勉強・・・。

掛け軸 改装などのメンテ完了作品 葛飾北一

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今週のなんでも鑑定団に本ブログで幾つかの作品を紹介しています「市川銕琅」の作品が出品されました。

参考作品
皿廻人物 市川銕琅作
なんでも鑑定団出品作 2020年4月7日放送



「なんでも鑑定団」の評価:銕琅の木彫彩色の中でも出来の良いもの。箱裏に「南都興福寺北円堂裏」と書いてあるが、制作の工房を構えていたところ。おそらく戦前の作品で、個展の出品作ではないか。非常に写生的だがちょっと顔がデフォルメされている。これはいろいろな表情を見せる伎楽面を模刻したことから学んだもの。彩色も確か。戦後になると同じタイプのものを繰り返し作っていくので評価額が下がってしまう。依頼品は紛れもなく1点もの。非常に珍しい作品。評価金額:100万円

本番組では本ブログにて紹介されている「狂言福ノ神」、「楠木彫聖観音菩薩尊像」、「親王雛」?の画像が作品紹介として放映されていました。当方の作品は「戦後のなっての同じタイプのものを繰り返し作った作品」と思われ、評価金額が下がると説明されている対象の作品だろうと思われますが、今まで知名度の低かった市川銕琅が注目されるのは当方としては嬉しいことです。

木彫極彩色 狂言福ノ神 市川鉄琅作 その1
極彩色 共箱
幅148*奥行き132*高さ220



後方の作品は市川鉄琅鑑定箱のよる師の加納鉄哉の作品です。加納鉄哉の作品も「なんでも鑑定団」に出品されたことがありました。

恵比寿大黒天面・吉祥額 加納鉄哉作
恵比寿面:高さ175*幅132*厚さ65 大黒面:高さ140*幅128*厚み68
額:口径470~415*厚さ22 共板市川鉄琅鑑定箱



楠木彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作 その2
楠木 金彩色 共箱
幅136*高さ315



市川鉄琅は温厚でありながらその高い造形力や芸術的センスにより、世界的にも評価の高い彫刻家として知られています。作品の特徴はその写生力であり、師である加納銕哉によって徹底的に鍛え上げられた事から開花していきます。



木彫極彩色 親王雛 市川鉄琅作 その3
応需作品 極彩色 台座付 共箱
男雛単体:幅115*奥行110*高さ110 女雛:幅115*奥行78*高さ110
台座:幅350*奥行き175*高さ68



素晴らしい腕を持ち合わせていますが、大展覧会には出品を一切しないというのがポリシーなようです。ただ、愛好者も多く、皇族までもが市川銕琅の作品を好まれています。なお旭日章勲七等青色桐葉章を受賞しています。



骨董蒐集は好きな作品を蒐集するということですが、ただその美的感覚は独りよがり的なものではなく、評価されるべきレベルのものでなくてはいけません。これが骨董蒐集の目利きとなるための最大のハードル??

さて蒐集を休息しながら、今までの作品のメンテをしてきました。額装類の日本画、刀剣、漆器、木彫類、陶磁器などはほぼ終了し、現時点で修理などのメンテが必要な作品で数多く残っているのは掛け軸です。

掛け軸のメンテは難しく、費用がかかります。現在ではきちんとした温湿度管理が行き届いていれば、半永久的にメンテの必要はなくなっていますが、過去の状況においては湿気、虫喰い、雨漏りなどにより掛け軸は100年に一度は改装などのメンテが必要だと言われています。

掛け軸の改装はおそらく一番費用のかかる蒐集作品で、しかも現在は評価が低いので対費用効果上も判断が難しいものです。むろん、最初から状態の良い作品を入手していれば問題ないでしょうが、痛んでいるから廉価で気に入った作品が入手できるという側面もあります。

年に何度か気に入った作品や状態の悪さにしのびないと感じる作品を思い切って改装しています。

今回そのような作品が幾つか改装されましたので、その中から作品をいくつか紹介します。作品そのものはブログですでに投稿されている作品ですので、詳細の作品の内容についてはそちらを参考にしてください。

まず本日は下記の作品です。「葛飾北一」という葛飾北斎の門人である画家は「美術館に数点の作品が所蔵されている以外は、ほとんどその作品は遺っていない」という画家で、肉筆画はかなり貴重ですので染み抜きのうえ、再表具して保存箱を誂えました。

関羽・劉備玄徳図 葛飾北一筆
紙本着色軸装 軸先骨 合箱→合箱二重箱
全体サイズ:縦1680*横455 画サイズ:縦920*横310

下記の写真は改装する前です。写真では無難な状態に見えますが、表具は浮きやシミが目立つ状態であり、保存箱もありませんでした。

 

改装後の写真です。表具の生地などは表具師にある程度任せています。



表具がしっかりしているとある程度安心して扱えます。

*手前は古備前の壺です。

シミもすっかりきれいになります。現在はかなりの確率でシミは消せます。



箱も誂えました。表具師さんのところで必要に応じて箱書もしてくれています。



真贋云々もあるでしょうが、所蔵者の審美眼にかなったなら、作品を補修してみるという経験も大切だと思います。この作品が貴重だと考えたことが誤りなのかもしれませんが、蒐集したならそれっきりで状態の悪いまま放っておくのは蒐集する者として失格であろうというスタンスが小生の考えです。最初に紹介して、「市川鉄琅」と「加納鉄哉」の作品もまた補修されています。きちんとした京都の人形店の指導によって画学生が補修しています。

「葛飾北一」といい、「市川鉄琅」といい一般的にはマイナーなところに小生は眼が行くようです。玄関や応接間に横山大観や伊東深水、梅原龍三郎、林武、陶磁器なら李朝などという一流どころの作品が飾ってあるのはただうらやましいなと感じるのみ・・・・。







富嶽 西山翠嶂筆 その9

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庭にはいつもより早く花が彩(いろどり)始めました。



冬の間は色気のない庭もだんだんと見所が増えてきました。



最初に咲く牡丹はいつも通りピンク色の花。



牡丹は散るのが早い・・。



次に咲いたのが紅色の牡丹。



次に咲くのは白? 義母のお気に入りの牡丹です。



庭のアクセントになっている楓の下にはバイモの花。



クマガイソウのあったところからに移植です。



例年より早いのがクマガイソウです。



長らく居ついています。



陽を浴びるとまるでラリックのランプのような透明な美しさです。



絶滅危惧種のクマガイソウは我が家の庭では増えています。



影になっていた木が枯れたので心配したのですが、今年は元気に増えています。



日本の庭は出しゃばらずが良しか・・・。これはなかなか難しいものです。ついつい花を植えすぎたり、岩などを配置しすぎたり、過ぎたるは及ばざるがごとし。



男の隠れ家から持ち込んだクロモジも元気に育っています。僅かで小さいながら花が咲きました。



さて本日の作品紹介は西山翠嶂の作品です。西山翠嶂は本ブログで幾度か投稿されている画家で、あまり知られていませんが、その功績から昭和32年には文化勲章を受章している画家です。



富嶽 西山翠嶂筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦1450*横663 画サイズ:縦420*横512



本ブログでは西山翠嶂に関連する画家として竹内栖鳳、橋本関雪、西村五雲、門人としては堂本印象、中村大三郎らが投稿されています。

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西山翠嶂:(1879―1958) 日本画家。京都に生まれる。本名卯三郎(うさぶろう)。

1892年(明治25)から竹内栖鳳(せいほう)に師事、西村五雲、橋本関雪と並び称された俊秀で、のちにその女婿となる。

99年に京都市立絵画専門学校を卒業。1907年(明治40)の第1回文展の『広寒宮』で三等賞を受け、16年(大正5)の第10回展から『朱笄の女』『短夜』『落梅』で3年連続特選。19年の第1回帝展で審査員となる。この間、02年に京都市立美術工芸学校教諭、19年からは京都市立絵画専門学校教授となる。



29年(昭和4)帝国美術院会員、37年には帝国芸術院会員、44年に帝室技芸員となる。また33年から36年まで京都市立絵画専門学校、同美術工芸学校の校長を務め、57年(昭和32)には文化勲章を受章。代表作に『槿花』『牛買』『黒豹』などがあり、その画塾青甲社からは堂本印象、上村松篁らが出ている。

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共箱の裏には「梅軒画廊」のシールが貼られています。

梅軒画廊は大正初期、佐藤梅軒(本名・梅吉)が日本画家である故竹内栖鳳より「梅軒画廊」の屋号を命名され、創業している画廊です。昭和3年には京都市中京区烏丸通に店舗を構えた老舗の画廊です。

定期的に日本画新作展「梅軒展」(現在の祇園会展)を始めており、昭和8年には徳岡神泉の初めての個展を開催し、以降は村上華岳・福田平八郎等の有名画家の個展やグループ展を数多く開催しています。

 

西山翠嶂は竹内栖鳳の一番弟子と称され、さらには竹内栖鳳の娘婿でもあります。竹内栖鳳との関連から西山翠嶂が梅軒画廊と縁のあることは疑いもない事実であり、このシールの信憑性は高いと推測されます。

西山翠嶂の作域は人物、花鳥、動物、風景と多岐にわたりますが、中でも西山翠嶂の得意とするところは人物、動物です。京都伝統の円山、四条派の写生を根底として作風を西山翠嶂は展開しました。動物画の作品は他に投稿されている作品を参考にして下さい。

駿馬扇面図 西山翠嶂筆 その7
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦1130*横640 画サイズ:縦160*横520



もともと当方では「西村五雲」の作品を蒐集するうちに西山翠嶂の作品にも惹かれて蒐集を始めた経緯があります。

月下猛虎図 西山翠嶂筆 その6
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1910*横560 画サイズ:縦1070*横410



当方の蒐集はじっくりと構えたスピード感で行われ、財布に事情にあった手頃な作品ばかり蒐集していますので、それほどの佳作はないかもしれませんが、本当に気に入った作品ばかり蒐集したつもりです。

牡丹図 西山翠嶂筆 その5
紙本淡彩軸装 軸先朱塗 共箱
全体サイズ:縦1220*横552 画サイズ:縦315*横422



西山翠嶂は、早期には歴史人物画が多いのですが、次第に抒情味にあふれる人物画に移り、晩年は動物画や山水に洗練された技法を示しています。

晩涼 西山翠嶂筆 その4
絹本水墨着色色紙 共箱入
画サイズ:縦272*横242



資金が豊富な時ほど碌な作品が集まらないという格言がありますが、贋作をつかむという側面とともに身の丈に合った作品を入手しなさいということでしょう。財布の事情に合った、それでも多少はちょっと無理をした購入が後日、いい作品であったと感じることができるということを改めて感じます。

寒雀 西山翠嶂筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2040*横420 画サイズ:縦1250*横290



このような改めて蒐集した作品を眺めていると、自分の趣向がよくわかるような気がします。

秋野 西山翠嶂筆 その2
絹本軸装淡彩 共箱二重箱
全体サイズ:縦2055*横480
画サイズ:縦1255*横320



下記の作品は小生が蒐集し始めた初期の頃の作品で、もう30年以上前に購入した作品です。

双燕 西山翠嶂筆 その1
3号(色紙)額装絹本着色タトウ



西山翠嶂の描く作品の特徴は、師匠である竹内栖鳳から受け継いだ軽妙洒脱な、とてもモダンで洗練された作風で知られ、そのどこか艶やかさも感じる作風で評価を高めています。

多くの画家が描いた「富嶽」・・・、京都画壇で「富士」を描くというのは珍しいかもしれませんが、師である竹内栖鳳も描いています。

夏富士 竹内栖鳳筆
絹本着色軸装 共箱二重箱 画サイズ240*263



上記の作品は叔父が所蔵していた作品ですが、子息らが売却して手放したようです。価値の解らぬ者は常に目先の金銭に欲がくらむ者と蒐集する者としては嘆くしかありません。同時に手放したのが片岡球子、上村松園、高村光雲、棟方志功・・・。

とある大物俳優の娘さんがテレビで親の所蔵していた中国古画の名品を売り飛ばしていた映像がありましたが、とくに昔美形?の女性は骨董品をお金に換金したがるようです。ちやほやされるにはお金が必要なようで、美形の先には守銭奴の形相があると知るべし・・・。

下記の作品は当方で購入した「夏富士 竹内栖鳳筆」です。

夏富士 竹内栖鳳筆
紙本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:縦2130*横432 画サイズ:縦1260*横300



さて常に蒐集は過去の作品を振り返りつつ、今の蒐集のレベルを上げていくもの。そのためには過去の蒐集作品を愉しめる気持ちが大切でしょう。そのことが蒐集の継続を促すものですね。仕舞いっぱなしは蒐集のレベルの向上なし・・



骨董蒐集の作品は庭に咲く花のごとし。手入れをし、勉強し、愛しむ、そして飾る場所は誂えが大切。草ぼうぼうの庭には花は映えぬもの。多すぎては過ぎたるものは美観を損ねるもの、骨董も数が多ければいいというものではない
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