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Channel: 夜噺骨董談義
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リメイク 忘筌 小堀卓厳筆

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以前から頼んでいた収納庫の棚がようやく出来上がりました。これでようやく東京の分の掛け軸類は収まるスペースが整いました。この棚は未整理や展示中の作品の空き箱類を置くもので、要る作品と要らない作品を整理しやすくなりました。



額類の作品も収めやすくなり、漆器類も下にして取り出しやすくしました。これに収まる範囲内に蒐集作品を限定していくことになります。



刀剣類は専用の棚を作りました。掛け軸類と同じ棚内では防臭剤が悪さをする? 作品の整理はハード面でも最終段階です。後は陶磁器類の棚の作成・・・。



さてときおり、家内が所持している作品を整理することがありますが、本日はその家内が所持する作品の紹介です。

忘筌 小堀卓厳筆
紙本水墨軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1655*横311 本紙サイズ:縦905*横280



書かれている「忘筌」の意味は下記のとおりです。

忘筌:魚を捕ってしまうと、その道具の筌やなのことなど忘れてしまうということ。 転じて、目的を達すると、それまでに役立ったものを忘れてしまうことのたとえ。



忘筌 補足
中国の古典、『荘子』外物編にあります。
「筌せんは魚うおに在ある
所以ゆえん、魚を得て筌を忘る。蹄ていは兎うさぎに在る
所以、兎を得て蹄を忘る。言げんは意に在る所以、意を得て言を忘る。吾われ、安いづくにか夫その忘言ぼうげんの人を得て、之これと与ともに言わんや。」

注釈:「筌」は「うえ」といい、細い割竹で作った魚を捕らえる道具。「蹄」は兎などを捕らえる「わな」の事。即ち、川に仕掛ける筌は、魚をとるための道具であり、魚をとってしまえば、もはや用のないものです。また、山に仕掛けておく蹄は、兎を生けどりにするための道具であり、兎をとってしまえば、無用の長物となります。また、今の学者は、言葉や文字は、意、即ち心のあり方を説明する手段道具でしかないはずなのに、言葉や文字を余りに重用しすぎて、「意」をないがしろにしている……というわけです。

あくまでも筌は魚をとるための道具であり、蹄は兎をとるための道具であり、言は意を伝える手段でしかないのです。「何が目的で、何が手段なのか、間違いのないように注意せよ」というわけです。

*「忘筌(ぼうせん)」と名づけた茶室があります。孤篷庵(こほうあん)は小堀遠州を開基に、江月和尚を開祖とする大徳寺において方丈の側にある茶室を「忘筌」と名づけたのも遠州だといわれています。遠州は大切な茶室を「忘筌」と命名して、目的と手段を取り違えることなく、茶道の原点に返る事を教えたのではないでしょうか。

茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事を知るべし
                            千利休



小堀卓厳:1931年、愛知県に生まれる。福岡県久留米の梅林寺および僧堂で修行。1966年、大徳寺孤篷庵第18世住職となる。大徳寺宗務総長などを経て、大徳寺顧問。2017年没、享年87歳。茶の開祖の一人「小堀遠州」の伝統を正統に継承した和尚であり、沢庵宗彭もそこに遊んだ大徳寺孤篷庵の現住職であり、現代の大燈國師の位にある大徳寺 525世の大和尚と評されています。

「□□狐狸宗翁 押印(「□□□□」の白文朱方印 「卓厳」の朱文白方印)
遊印「□□」の朱文白長方印」

ところで孤篷庵というと国宝のお茶碗を所蔵していることで著名ですが、国宝のお茶碗は8個しかないということはご存知でしょうか? その8種をすべてそらんじられる方はかなりの陶磁器通ですね。その中で日本で作られたのは2個しかなく、他は唐物が5種、高麗物が1種です。

本日の主題は「何が目的で、何が手段なのか、間違いのないように注意せよ」ということで、収納庫はあくまでも手段。目的は・・・・???




寿老 寺崎廣業筆 明治40年(1907年)頃

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息子の小学校は休校、小生は在宅勤務。家にこもっているとストレスが互いにたまるので、息子は週末は畑にて収穫へ・・。小生は家に居てもしたいことは山ほどある。



サヤエンドウ? スナップエンドウ? 両方混じったらしい・・・。



男の隠れ家に避難も感がらますが、そうもいかず・・・。ともかく互いにストレスが溜まらぬように・・・。




本日紹介する寺崎廣業「寿老」は後述にもあるように、知人の依頼で同題の寺崎廣業の作品を手放していることからトラウマ的に咄嗟に入手した作品です。



寿老 寺崎廣業筆 明治35年(1902年)頃
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 誂箱 
全体サイズ:横622*縦2095 画サイズ:横500*縦1275

 

後述の作品よりこちらの作品のほうが年代的に若いのですが、この当時の寺崎廣業の作品は出来が良いものが多くあります。



とくに人物画、とくに美人画には佳作が多いようです。



鍛錬した水墨画の技術、朦朧体への発展を思わせる輪郭を省略した描き方はこの当時から見られますね。



本作品の落款と印章は下の写真左です。文献資料の印章は下の写真右ですが、拡大写真のぼやけていますが印章が一致します。この印章が押印された作品は明治35年前後から大正期まで押印され、意外に数は少ない方かもしれません。期間が長い時期にわたって押印され、なぜかしら少し印影が違うものもあり、要注意な印章でもあり得ます。落款は当方の所有する「護良親王図(明治33年1900年頃)」の落款の書体と同じことから同時期の作と推定されます。

 

表具もしっかりしていますので、おそらく共箱であった作品と推定されます。なんらかの理由で共箱がなくなったものではないでしょうか?

現在、収納箱は誂え中です。



なお「寿老」の参考作品には下記の作品が在ります。

寿老 寺崎廣業筆
水墨着色絹本共箱 
画サイズ:横416*縦1146



この作品は10年以上前に友人からの依頼で思文閣に売却されましたが、当時で10万円の引き取り価格でした。



思文閣からの売却価格は当方で知る由もありませんが、残念ながら掛け軸の評価の下がった今ではもっと安い価格でしょう。



下記の写真が作品中の落款と印章で、「三本廣業」になっている字体から明治末年頃から大正期かけての作品と推定されます。真作には相違ありませんが、印章は本日紹介した作品とは違う印章です。

 

共箱もきちんとしている作品でした。共箱の印章はほぼ一貫して下記の印章です。意外に共箱へ押印されている印章は種類が少ないようですが、これは横山大観も同じです。なお横山大観は一部の丸印(変形)を除き、共箱の印章は原則として朱文長方印です。

 

いろいろと記しましたが、本作品ほど出来の良い作品は寺崎廣業の作品については市場の出回ることはかなり少なくなってきています。



席画程度の作品を多作したために市場では非常に低い評価を受けていますので、きちんとした作品の入手に心がける必要のある画家です。

さてサヤエンドウとスナップエンドウのごとく、玉石混合?の当方の蒐集作品、ともかくストレスの溜まらない収穫が一番・・、もとい蒐集。





掛け軸 改装などのメンテ完了作品 野口幽谷

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最近のテレビ放送は再放送が多いのですが、再度録画で観たのがNHKのBS放映の「江戸あばんぎゃるど アメリカ人が愛した日本美術」の番組です。海外の蒐集家が日本の作品を蒐集し、それらを特集してまとめたものです。日本人より日本の美を理解している人が海外に多いことを改めて痛感しました。



さらにはガラス越しの鑑賞を乗り越えて自然の光の下で作品を鑑賞する観点からの特集は日本人が忘れていた美を改めて感じました。美術館でのガラス越しの鑑賞では日本画の作品のいい点はほとんど解りません。日本の美術館ではガラスに近づくとすぐの注意されるのが落ちです。日本画の作品は直に触れなくて良さは解りません。その点が私は蒐集に食指が動く大きな理由です。



屏風を飾るスペースもなくなり、さらには掛け軸さえも飾るところが無くなっています。外国人のほうが日本の作品をより多く愉しんでいる様が奇異に感じられました。本来は日本人のほうが感性が豊なはずなのですが・・。

番組に出ているような名品ばかりを相手にする必要はまったくありません。いい作品はそこら中にごろごろしています。今こそその美を見直す時期のように思いますが、まずは住居環境を変える必要があります。都会のマンションから飛び出る必要があるでしょう。一律化された高級マンションなどくそくらえという気概が必要ですね。



さて最近改修した掛け軸の作品の第2作品目の紹介です。今までに幾つの作品の表具を修正したかもはやわかりませんが、まだ道半ば・・・。

今回の作品は簡便な紙表具の状態で入手した作品で、下記の写真が入手した状態です。千円、二千円の価格だったと思います。

狼聲野月図 野口幽谷筆 
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 益頭峻南所蔵 箱なし 
全体サイズ:横820*縦1930 画サイズ:横630*縦1370



なんとも不気味な作品・・・、そもそも所蔵しておくかどうかさえ迷う作品ですね。きちんと表具すると作品が蘇ります。



大きな作品ですから、表具をやり替えるにしても費用が結構かかりますし、印章のみの作品ですので評価をそれほど高くはないかもしれませんが、特異な雰囲気を持った作品なので思い切って表具し直しました。



虫喰いもきれいに補修され、見ごたえの作品となりました。不気味ですが・・。



所蔵者が巻止に記されてあることなどから、依頼して即興的に描かれたものかもしれません。巻止にあった書付は箱の蓋の裏に張り付けておきます。



収納する箱も誂えておきます。

 

同時に入手した作品が下記の作品ですが、本作品との関連瀬は解っていません。サイズから双幅ではないようです。

月鴉図 野口幽谷筆 
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 益頭峻南所蔵 なし 
全体サイズ:横502*縦2000 画サイズ:横306*縦1360



この作品も表具し直すかどうかは保留中です。前述の番組の作品とは比べようがありませんが、この程度の作品は市場にごろごろと打ち捨てるような値段でたくさんありますよ。

リメイク 管公像 伝高村光雲作 台座伝前田南斎作 木彫共箱

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先週の金曜日は在宅勤務。そんな日に展示室の収納スペースの棚造りやらセキュリテイのNTT配線工事が自宅で始まりました。



とうとう配線工事は高所作業者まで出てきて、作業される方もどんどん増えてきて19時までかかりました。不要不急? 自粛? なにやら慌ただしい一日でした。



さて本日は子供の健やかな成長を祈って「天神様」の作品・・、「管公像 伝高村光雲作 台座伝前田南斎作 木彫共箱」のリメイク版の投稿です。



*欄間額は平福百穂筆の「富士」

管公像 伝高村光雲作
台座伝前田南斎作 木彫共箱 
木像サイズ:高さ323*幅395*奥行き240
台座サイズ:高さ33*横425*奥行き272  箱サイズ:横470*縦480*奥行き47



箱書には「大正十二年(1923年)癸亥(みずのとい、きがい)年十一月吉日 帝室技芸員(押印) 正四位高村光雲刻之 押印(白文朱方印「高村」 黒文白方印「高村光雲刻印」)」とあり、本体には「光雲 押印(朱文白方印「高村光雲」)」とあります。高村光雲が70歳頃の作品ということらしい。あくまで真作なら・・。



台座には「大正十二年初夏 指物師 南斎作 押印」とあります。台座は正真作のようですが、当方は指物には全く知識がないので最終的な判断ができません。前田南斎の作品は数が少なく貴重であると聞いています。



まずは箱の題が「官公像」、これには字の間違いで正しくは「菅公像」。贋作づくりでこんな字の間違いがあるかな??? ここまで凝るなら間違えないで欲しいものです。これは工房作品からの間違い?

 

高村光雲が「従四位」、「従三位」の箱書はありますが「正四位」があるかどうかは・・・?? 当方の少ない資料ではよくわかりませんがあってもおかしくはない・・。



「菅公」すなわち菅原道真(845~903)は「宇多、醍醐の両帝に仕え、国風文化興隆につくしたが、藤原時平の讒言によって太宰権師に左遷され失意の中に歿し、死後天神として各地天満宮に祀られ、天神信仰を普及滲透させ今日に至っている」というのは周知のことですね。



「天神」は、詩歌、学問の神あるいは禅宗と結びついて渡唐天神説話としての画や像を飾るのは古くから行なわれています。学問の神様(文武両道)ということで、子供の成長を願って年末から一月の天神講まで祀る風習がまだ日本にも残っています。我が息子のためということで家では祀っています。

このような造形の天神像は出来のよいまったく同じ作品が数多く存在します。典型的な「官公象」なのでしょう。もとい「菅公像」・・。

当方に縁があった真作の高村光雲の作品は下記の作品です。

観音像 高村光雲刀
木彫共箱 
高さ320*幅62*奥行き60*台150(六角)

 

親戚の方が所蔵していましたが、子息が手放しています。箱書きなどは下の写真です。



ところで高村光雲について下記のような記事がありました。

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観音像に代表される仏教彫刻は初期から晩年まで生涯を通して造像されていたこと、
光雲が開拓したと言われる近代的な動物彫刻は絶対数が少なく、大正末年以降にはほとんどないこと、
古典や歴史上の人物を主題にした作品は大正期以降多くなること等が一つの傾向として窺える。

光雲の作品は、その全てが注文制作であったが、光雲の名声が上がるにつれて、作品の製作依頼が多くなり、吉祥的な主題の彫刻や現世利益的な観音など仏教彫刻の制作が増加していった可能性は考えられる。

木彫の技術と表現に着目して、複数の作例がある仁王像、観音立像、翁舞、壽老舞などを見ると、「光雲」刻銘や光雲自身の箱書など真作である条件が揃っていても、同一作家の手になるとは思えないほどの大きな差異が認められる場合がある。

光雲が、光太郎や門弟たちの生活費を得る目的で、また善光寺の仁王像など大作造像のために、工房制作や代作を行っていたことは、門下の豊周の文章にも紹介されている。

光太郎が伝えるところによると、門弟が光雲に無断で光雲作として世に出した作品もあるという。そのようなことがあっても、大らかな性格の光雲は、作品の善し悪しは歴史が判断するだろうと大様に構えていたという。光雲にはこのように制作された作品の方がむしろ多く、最初から最後まで光雲一人の手になった作品は、光太郎によれば「一生涯かかって五十點位なものであらう」(「回想録」)という。

現在となっては、多くの場合光雲個人の作品と門弟たちの手が加わっている作品とを厳密に区別するのは非常に困難であり、出品作の中にも、明らかに光雲門人の手が入っていると思われる作品も見受けられるが、それらも光雲の刻銘と箱書を有している。

光雲の刻銘、あるいは箱書には、「高村光雲」と「高邨光雲」の二例がある。「村」と「邨」とがどのように使い分けられていたのか、現時点では断定できないが、「邨」は個人制作の作品、「村」は門弟の手が加わった作品である可能性もあるという(高村規氏の示教)。光雲の作風展開を検討する上でも、刻銘・箱書の検討は、今後の研究課題となろう。

江戸時代以前には、彫刻だけでなく絵画等でもこうしたことは当然のこととして、研究者は個人制作と工房制作との峻別に研究者は精力を注ぐのだが、作家個人の存在が確立したいわゆる近代作家と光雲を位置づけて研究しようとすると、工房制作・共同制作の問題の前で大きな違和感を私たちは感ぜざるをえない。しかし、前近代的な世界で生まれ育ち、前近代的な職人であることを否定しなかったと同時に、近代的な作家でもあろうとしたのが高村光雲ではなかったかと思われる。光雲自身の中に「前近代」と「近代」とが分かち難く存在していると考えられる。

個人の創造を第一義に反抗を続けた長男光太郎に晩年まで並々ならぬ愛情を注ぎ続け、また西洋彫刻の制作法を木彫に取り入れようとした門人米原雲海らにも寛容な態度をとり続けたという光雲のありようからは、西洋画の写実表現を彫刻にも取り入れようとして実物写生に励み、また工部美術学校で行われていた西洋彫刻を憧れた光雲、米原雲海らとともに善光寺山門の丈六仁王像を共同制作した駒込吉祥寺境内の工場にモダンなデザイン椅子を持ち込んだ近代人高村光雲の姿が浮かび上がってくる。

一方で、門弟たちの生活を支えるために毎日注文仕事をこなす光雲、パリから帰国した光太郎に銅像会社設立を持ちかける光雲、肖像彫刻の原型を光太郎に制作させる光雲、門弟との合作に「光雲刻之」の銘を入れる光雲、これらは前近代的な世界を生きる光雲の姿である。このどちらか一方のみが光雲の実像ではない。相矛盾して見える二面性をあわせ持った存在、それが高村光雲という人物ではないだろうか。このことを私たちは一度素直に受け入れた上で、大きな振幅を見せる光雲銘の作品を改めて見直すことが必要ではないだろうか。

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真贋を見極めるうえでもかなり興味深い内容の記事ですね。ともかく真贋、工房製作云々はあるにせよ作品は「天神様」・・・、お祀りして置いています。



台座の作者の前田南斎の略歴は下記のとおりです。

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前田南斎(1880-1956):江戸指物(さしもの)の伝統を受け継ぐ木工作家、指物師。大正期に国内外の展覧会で受賞を重ね、日本美術協会の理事として審査委員も務めた。竹の竹斎、桐の留斉、桑の南斎と指物師の名人を称しています。

伊豆七島 御蔵島産の桑を扱う指物名人のみに許される「桑樹匠(そうじゅしょう)」(くわのきのたくみ)の呼称を名乗っている。漢学・書・茶道・書画骨董に通じた金沢の文人で魯山人の美的感性を引き出し、泉鏡花、犬養木堂、松永安左ヱ門など、多くの人との交遊あり、東京の京橋に工房を構え、近代の大数寄者 益田鈍翁らの注文を受けて、大正、昭和前期に活躍した。

江戸指物を語る上で、欠かせる事の出来ない指物師の一人であり、また日興証券の創立者の遠山元一氏の母の邸宅(現遠山記念館)の家具をすべてあつらえた事はあまりにも有名です。

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木彫の巨人と指物師の名人の組み合わせ、実に大胆・・・



高村光雲の生存期間は嘉永5年2月18日(1852年3月8日)~1934年(昭和9年)10月10日ですから、少なくても1824年以前。しかも「正四位」時代となるとそれより前の作となり、大正時代の作となります。

本ブログではいつもどおり「伝」・・、真贋の気中で遊び回るのが骨董の醍醐味



本作品は「高村光雲作ですよ」や「贋作ですよ」というより、工房作品ではないかと最近は推測しています。



敷いている布は義母が着物の帯で作ってくれたものです。燭台は源内焼、徳利は古伊万里の油壷、榊入れはスペイン風・・・。

ともかく慌ただし中でコロナウイルス禍が一日も早く終息するとを願わざる得ません。







   

古備前波状文壷 その4 室町中期

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コロナウイルスの影響で息子は学校が休校、小生は在宅勤務は多くなりました。

家に居ても小生は退屈しませんが、息子は「パパはおもちゃが多いね、いつもひとりで遊んでばかり!」と不満げ。パパのおもちゃを当然蒐集品のガラクタのことです。そこで今週の水曜日は天気が良く、暖かだってので息子は「外でご飯食べよう!」と言い出しました。



義母が「それで庭にシートを敷こうか?」と言うと息子が「風が強くてシートは駄目だよ!」と主張。車庫から折りたたみ式のテーブルとイスを運び出しました。「ん~、考えるようになった・・・。」と小生は感心しきり・・。



食事は緊急時用の食事の試食・・・。それでも息子は空を見上げて「気持ちいい~!」だってさ。



庭のクマガイソウもたくさん咲いてきました。絶滅危惧種が庭ではどんどん多くなっていました・・。



牡丹もあちこちで咲き、彩を添えています。



もう庭にはアゲハチョウが舞っています。網を構えて待っていたら網に入ったのですが逃げられました。そう・・、捕るのはまだ早い!



食後は鉢植えにあった椿を庭に植えました。



メダカは義母が飼育係です。



近所から頂いたメダカも一年近く生存していますが、数十匹いたのが現在は5匹のみ。この大きさだとそのくらいが妥当だったのかもしれません。

このメダカ飼育用に使っている甕を観て思い出したのが古備前の壺・・。

古備前という言い方は室町から桃山時代までに作られた作品を指すので、厳密には江戸時代以降の作品は古備前には当たらないようです。ただ一般的には混同されているようですが、評価は大きく変わります。また評価に大きく影響するのはその姿、形と持ち味によって違うようです。



本日紹介する作品は室町時代中期の作と判断しました。

古備前波状文壷 その4 室町中期
誂箱
口径約113*胴径240*底径約148*高さ295



600年くらい前に作られた古備前の作品における口の作りは玉縁と呼ばれる作りが多いでしすが、この時代の玉縁が最も力があり、そして姿、形では肩が張っているのが特徴です。



これより古い物は肩がもっとすんなりしているようです。また室町期の作品は一般的に縦長で、丸い形状の作品は時代が下がります。



備前の陶印はその大部分が共同窯に於いてその所属を明らかにするための窯印であって、その窯印には家号を用いており、丹波では共同窯の場合には各窯の部屋のよって区別しているため窯印の必要がなく、主として作者名が彫ってあるものとなります。



備前焼に、彫られた窯印が見られる様になったのは、一般的には、室町時代中期以降であると言われています。即ち、大窯を共同で焚くようになって、各自の製品がわかる様に手印を入れたのが始まりであろうと思われます。



窯印も後代になっては、その様な目的だけではなく、自己の製品の優秀性を表示する商標の如きものに変わってきたのでしょう。窯印の書かれた場所、大きさなども多様で、本作品のように室町時代のものは大きく、肩、胴部に彫っているものですが、時代が下がってくるに従って小さく、底部に彫られるようになります。

押印も桃山時代から見られるようになって、江戸中期以降は押印の方が彫印より多くなります。特殊なものに古備前大瓶の肩に彫られた窯印があります。



口から肩にかけての波状の文様は、日常使うものでもデザインは魔除けの意味で彫られたものでしょう。これがある作品とない作品でh古信楽の作品のように大きく評価に差が出ます。



古備前で下駄印があるのは極めて数が少ないようです。胴と底を別に作っているので、それをはめ込んだ跡が高台に残っている。



古備前で下駄底の形状は室町初期~中期の古い手のものとなります。



さて本作品は傷というかいわゆるニュウが入っていて水が沁みて漏れてきます。



これを直すのはたやすいですが、実際当方で少し処理して沁みだす水を少なくしています。目いっぱい水を入れるとじんわりと上部にも・・・。



これは賛否両論あるでしょうが、古備前では涼しげな景色と捉えることもできます。水をスプレーでわざわざかけるのは興ざめですが、自然に染み出してくるのほうがまだいいでしょう。



むろん壺は見所があるや無しやが価値の分かれ目であり、形、焼け具合、自然釉薬の掛かり具合、文様の具合・・。



本作品は大きさも30センチ程度と手ごろです。これ以上大きいと飾るにも邪魔になることがあります。

壺は空間にすとんと似合うことが大切で、ひと部屋にひと作品が肝要です。部屋の空間の大きさにあった大きさの壺が大事であり、所狭しと並べるのは愚の骨頂です。

焼け具合は火表と火裏で明確な違いがあることが面白味になります。また自然釉があったほうが景色は面白くなりますね。さらに文様は本作品のように肩にある波状の文様が二度掻かれていることでいい景色を成しています。



石はぜもあったほうがいいですね。古信楽に負けない見所が多く、これほどの壺は珍しいと思います。



壺にはほとんど素人ですが、少しずつ分かってきたような気がします。時代的な価値より美的感覚を大事にしたいですね。

古備前は夏が似合う。水をいっぱい満たして入れてど~んと置くのがいい。床の間に飾るのはなんか抵抗がある。メダカを泳がせ、ど~んと玄関に置いて四方から眺めるのがいい!!








忘れ去られた画家 かや刈リ 酒井三良筆 その13

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30年近く前ですが、叔父の家を訪ねた時に床の間に掛けられていた作品が酒井三良の作品でした。当時は骨董蒐集を始めたばかりで「知っている?」と叔父に聞かれても「知らないです。」と答えるしかありませんでした。

「同じ東北の出身なのにね。」と寂しそうに叔父がつぶやいたのを今でも覚えています。訪問したのが正月だったのか、お盆だったのか、今では記憶が定かでありません。



*上記写真の手前の作品は「呉州餅花手 その6 青磁白花草花花立文大盤」という珍しい作品です。

叔父に見せていただいた時の作品はおそらく冬だったら下記の作品でしょう。

湖畔の雪 酒井三良筆
和紙水墨淡彩軸装酒井澄鑑定箱 
全体サイズ:横665*縦1380 画サイズ:横524*縦422



夏だったら下記の作品でしょうね。

汀 酒井三良筆
紙本水墨淡彩軸装共箱 
全体サイズ:横682*縦1375 画サイズ:横533*縦430



ともかく酒井三良の作品だけでなく、叔父からいろんな作品を見せていただいて骨董については様々なことを教わりました。横山大観、片岡球子、棟方志功、浜田庄司、河井寛次郎、高村光雲・・・・云々、すべて真作。今ではすべての作品が亡き叔父のもとから雲散霧消、当方に写真が遺るのみ・・・・、寂しい限りです。

叔父との骨董蒐集談義がトラウマとなり、当方の蒐集は叔父の蒐集作品の後を追いかけているのかもしれません。本日の紹介する作品は下記の作品です。本作品はようやく叔父が蒐集した作品にレベルが追いついてきた作品かもしれません。



かや刈リ 酒井三良筆
紙本水墨額装 黄袋+タトウ 酒井澄鑑定シール 
全体サイズ:横830*縦720 画サイズ:横590*縦485 F12号



昭和21年、横山大観の勧めで酒井三良は茨城県五浦の大観別荘に移り、昭和29年、東京都杉並久我山に転居するまで暮らしています。戦後、困窮した生活から徐々に安定してきた酒井三良は自然と親しんでいた経験を元に、日本の風景や四季を愛しその風景を中心に描くようになります。



自然に包まれながら生きる人々を素朴な筆致で詩情豊かに描いた画風で好まれていますが、その淡く白みを基調とした作品はどこか繊細であり、緻密な表現力で描かれる日本人の琴線に触れるような作風が特徴です。



小川芋銭、小杉放庵と共にその作風は一種独特ですが、現代の日本人には馴染みが薄いように思います。というより現代ではあまり知られていない画家、作品群ではないでしょうか? 30年前の小生のようなもの・・・。



日本の美術に対する一般人の知識、見識と言い換えてもいいでしょうが、その点は先進国の中でもかなり劣っているかもしれません。浮世絵、漆器、水墨画・・・一つでもその歴史、良さをちゃんと海外の方に説明できるのでしょうか? 海外の方のほうが数段詳しかもしれません。



自然に対する日本人の琴線とはもはや消滅しかけているのかもしれませんね。小川芋銭、小杉放庵、そして福田豊四郎、奥村厚一、田中以知庵らの近代日本画のノスタルジックな作品の良さを見直してみませんか?



本作品は共シールや共板ではありませんが、酒井三良の奥さんの鑑定シールがあります。

 

当方では所蔵作品の他に叔父が酒井三良の作品を数多く所蔵していたので、その作品には奥さんの酒井澄による鑑定などが多々ありました。

左写真が叔父が所蔵していた作品である「春暖」の落款と印章で、右写真が同じく叔父が所蔵していた「雨上がり」の鑑定の落款と印章です。共に一致しています。

このような落款と印章は真贋の二次的な根拠でありますが、ただ最低限の知識として持ち合わせている必要はあるのでしょう。叔父のおかげでいろんなことが役立っています。

 

当方の酒井三良の作品蒐集も一段レベルが上がってきました。意外に「忘れ去られた画家」の感があるため、入手しやすいお値段になってきているおかげもありますね。






リフォーム完了 虎図 渡辺秀詮筆

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陶磁器に箱を誂える時には真田紐は自分で手配します。そのほうが安上がりですが、気に入った真田紐は意外に少ないこともその理由です。作品にあった柄や太さの紐を選びますが、できれば平紐より袋紐のほうが紐の締め具合がいいですし丈夫です。

また袋紐のほうが紐の端部処理もやりやすいようです。真田紐の端部処理の方法を知らない方が多いようですが、これは基本的なことですので、覚えていたほうがいいでしょう。

 

ところで保管用の桐箱には向きがあるのをご存知でしょうか? 底の側面が二重になっているほうが蓋を上から見たときに上下です。そうでない方が左右です。

さらに蓋の柾目の細かいほうが右側です。このような桐箱の扱い方を知らない方があまりに多いのは教える人、知っている人が身近にいなくなったからでしょうか? 私は母や陶芸の平野先生に教わりましたが・・・。

真田紐の掛け方は茶道の流派でも様々ですが、肩掛けになるほうが上にくるほうが締めやすいでしょう。ともかく保管箱ひとつとってみても、蒐集する人は覚えておくことは多々あるものです。扱い方でひとつで、箱の中の作品、蒐集する人間の素性が解るものです。



さて本日は古画を修復した作品の紹介です。古画に類する作品で痛みのある作品は多々あります。当方では気に入った作品から改装していますが、今回は下記の作品の改装が完了しましたので投稿します。古画といっても江戸後期ですからそれほど古くはありません。

虎図 渡辺秀詮筆
紙本着色軸装 軸先木製
全体サイズ:縦1950*横717 画サイズ:縦1240*横581



渡辺秀詮は江戸後期の画家。秀彩の子。字は元瑜、号は自適斎。猛虎を能くした画家です。文政7年(1824)歿、89才。同じく虎の絵を得意とする著名な片山楊谷との師弟関係は明確ではありません。

 

マイナーな画家ですが、渡辺秀詮の虎の作品は人気があります。当方でのブログの記事でもこの作品へのアクセス数は多い方です。



掛け軸を蒐集するならマイナーな画家に焦点を当てたほうがいい作品が揃うものようです。



贋作は少ない方ですし、購入費用も割と抑えられます。著名な画家に手を出すのは筋のしっかりした画商や骨董店を通して入手したほうがいいでしょう。



掘り出し物を狙うマイナーな画家の作品蒐集には審美眼が大いに必要です。



また愉しめる眼を持たねばなりませんね。ただ古伊万里ばかり、古九谷ばかり、特定の画家ばかりと視野の狭い蒐集は意外に掘り出し物にはあたらないようです。



作品中には「秀詮元瑜写」と落款が記されており、印章は白文朱方印「?」朱文白方印が押印され、遊印「画間□□□」が押印されています。

  

「渡辺秀詮者長崎之人也就沈南蘋学画殊能虎鳥取藩画師楊谷之師也 □井書屋蔵」と巻止めに記されていましたが、改装の際して箱の蓋の裏側に貼り付けておきました。詳細は不明であり、前述のように虎の絵を得意とする片山楊谷との師弟関係は明確ではありません



「渡辺秀詮」を知っている人は少ないでしょうが、昨年の「なんでも鑑定団」に作品が出品されており、記憶にある方も多いかもしれません。

参考作品
なんでも鑑定団出品作 2019年7月29日



安河内眞美氏評:江戸時代前期に中国から長崎に沈南蘋が来て、写実的な極彩色の絵を広める。沈南蘋から直接学んだ熊代熊斐という人の影響を受けたのが渡辺秀詮。残っている作品はだいたい虎図。当時は虎を見たことがないので、猫に原型を求めて描いている。猫のようにかわいらしいが、毛描きや肢体など虎の凄さは出ている。これほど迫力ある大幅の虎図は秀詮でもなかなか見かけない。                  評価金額:120万円

なお片山楊谷の参考作品には下記のものがあります。
鳥取市鹿野町 池田政綱の菩提寺「凌泰山雲龍寺」蔵



下記の屏風は、2010年9月28日に放送された「なんでも鑑定団」に出されて、1200万円の評価が付けられたようです。片山楊谷は、17歳で鳥取に居着き、鳥取藩士・片山家の養子になっています。

「渡辺秀詮」より「片山楊谷」の作品のほうが評価は高いようですが、たまにともに贋作がありますので注意が必要です。「なんでも鑑定団」には「片山楊谷」の贋作が出品されたことがあり、安河内眞美氏が片山楊谷にも贋作があるのですねと意外そうな感じでした。

蒐集する者は作品を大切に扱うことが肝要で、そのための正しい知識、扱い方は身に付けておかないといい作品は寄り付かないようです。


平野庫太郎作 油滴天目茶碗 & 辰砂天目茶碗

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ブログには「本ブログの人気記事」というランキングが表示されるようですが、当方のブログはその記事が日替わりで変わるようです。「なんでも鑑定団」にある画家の作品が出品されるとその画家の作品へのアクセスが増えたりするようです。ただ当方はアクセスランキングという部類には無頓着です。あくまでも本ブログは自分の作品整理のためと資料のどこでもできる検索の引き出しを増やすことです。アクセスランキングを増やすなら癒し系や著名な作家の作品を並べることになるのでしょう。

さて本日は友人であった平野庫太郎氏の作品の紹介です。平野庫太郎氏とは亡くなった家内と工房で陶芸を習い始めてからのお付き合いですが、何年付き合ったのでしょうか? 30年は超えているでしょう。

秋田市内の保戸野に窯を構えており、小生が秋田に転勤になってからがお付き合いに始めです。その後、八戸市、青森市、水沢市、仙台市、さいたま新都心、そして東京都内に転勤しても行き来は続いていました。

付き合いが長い分、先生の作品も所持する数が増えてきましたが、最近整理している作品に下記の天目茶碗2作品がありました。

まずは油滴天目茶碗ですが、この作品は小生が郷里に男の隠れ家を新築したときに祝いに頂いた作品です。もう25年も前のことです。

油滴天目茶碗
平野庫太郎作 共箱
口径*高さ*高台径(未策定)



写真は反射してうまく撮影できませんが、みごとな釉薬の変化です。



祝いの品なので箱書き、共布付きです。いつもは失敗作などを頂戴していたので、共箱はの作品と共箱のない作品と半々ずつかな?

 

天目茶碗で一番肝心なのが品格でしょう。



奇をてらった作品はまず駄目です。高台の作り、轆轤の技術も確かなものが必要です。近代の陶芸家に作品はこの点がなっていない・・・。



下記の作品は共箱ではないので、おそらく無心して頂いた作品・・。

辰砂天目茶碗
平野庫太郎作 共箱
口径*高さ*高台径(未測定)



瀑布のような釉薬の垂れがいいですね。わざとらしくない点がいい・・・。



高台の作りもいいですね。



もはや平野庫太郎氏の作品は入手しようにも市場に出ることはないでしょう。当方で一番多く作品を所蔵している可能性があります。

今年で三回忌、我が郷里に燦然と光を放つ陶芸家の作品です。生きている限り大切にしたい・・・。


リメイク 月下江上笛吹図 東東洋筆

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整理していた食器棚から大量?に出てきているのは古伊万里系統の作品・・。



若い頃に各地に赴任している頃に赴任地の骨董市にて購入した作品が多く、お小遣いから少しずつ購入した作品ですから、購入金額が1万円を超える作品はなかったと思います。それゆえ単体か、せいぜいペアでの作品が多くなりました。

これは明治以降の平戸系の作品かな? 幕末以降のこの頃の平戸焼は出来がいいのが多いですね。



絵柄が気に入って選んでいます。



まだ当時は古伊万里は高値の作品でしたので、蒐集した作品は時代が下がったものやお猪口などが多くなりました。



今なら購入しない焼の甘い作品もあります。



古伊万里至上主義的な時期もあり、すでに当時から贋作が多く流通していました。「高台脇の呉須の丸い線が高台に近い作品」は贋作と言われていましたが、本当だったのでしょうか?



さて本日は痛んでいた掛け軸の作品をリフォームした作品です。下記の写真は写りが悪いのですが、入手時の改装する前の状態の写真です。



月下江上笛吹図 東東洋筆
絹本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



東東洋は当方がながらく居住していた仙台の画家で、有名な「仙台四大画家」(東東洋(あずま とうよう・1755~1839)・小池曲江(きょっこう・1758~1847)・菅井梅関(1784~1844)・菊田伊洲(1791~1852)の4人の画家)の一人です。

本ブログでは菅井梅関、菊田伊洲の作品が紹介されています。残念ながら小池曲江の作品は当方にはまだ手元にありません。



菅井梅関とは親交が深く、菅井梅関は京都に滞在中は、郷里の先輩画家・東東洋のもとに身を寄せ、古画の鑑賞と模写に明け暮れたそうです。

略歴などは改装前の投稿記事と重複しますが、下記のとおりです。

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東 東洋(あずま とうよう):宝暦5年(1755年)~天保10年11月23日(1839年12月28日))。江戸時代中期から後期の絵師。幼名は俊太郎、のち儀蔵。姓・氏は東、名・通称は洋。よって本来は単に「東洋」とするべきだが、一般的な表記である「東東洋」を採用している。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。

仙台藩御用絵師を勤めた近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。東洋自身は、自作に「東洋」とだけ署名しており、「東東洋」と記した例は知られていない。

東洋が生きていた時代に刊行された『平安人物誌』での表記法から、本姓・氏が「東」で、名・通称が「洋」だと分かる。こうした表記法は、江戸時代後期の文人にしばしば見られる、中国風に二字の姓名の名乗ったのと同じ趣向とも考えられる。なお、「東東洋」と呼ばれたのは存外に早く、画を好み東洋とも交流のあった仙台藩の儒者・桜田澹斎の著作に既に見受けられる。



補足
生い立ち:現在の登米市石越町で、岩渕元方の長男として生まれる。ただし、東洋が5,6歳の時、一家は近隣の金成(現在の栗原市金成町)に移住した。父・元方の数点の絵画作品が確認されている。

14,15歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑(1728-1807年)から本格的に絵を学ぶ。梅笑は江戸幕府の表絵師深川水場町狩野家の三代目当主ですが、宝歴13年(1763年)から寛政5年(1793年)の30年間一族から義絶され、越後や奥州を遊歴しています。

東洋18歳の時、梅笑の婿となり江戸へ出ます。姓の「東」は梅笑の姓を継いだものであり、最初の号玉河(玉峨)も梅笑の別号「玉元」から「玉」の一字から取っています。

上京と各地遊歴:19,20歳の頃、今度は京に上り、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受けます。以後半世紀、京都を中心に活動しました。

20代の東洋は、中国の古画を模写のより古典を学び東洋の姿勢が伺えます。20代の終わりから30代初めにかけて、東洋は長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされ、同時に南蘋派も学んでいます。

円山応挙の影響:円山応挙の活躍が目覚ましく、各地を遊歴して帰洛した頃には、東洋は狩野派を離れ、東洋もその影響を受けています。寛政7年(1795年)東洋41歳の作「花鳥図」(個人蔵)における枝の書き方には、応挙が創始した付立技法が顕著に現れている作品です。また、この作品は年期のある作品では初めて「法眼」落款を伴っており、この少し前に東洋は法眼位を得たと推測できます。これは東洋と親交のあった妙法院真仁法親王の助力があったと考えられています。真仁法親王の周りには、応挙や呉春といった絵師だけでなく、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らが出入りしており、東洋もその中に混じりしばしば合作もしている作品が遺っています。



仙台藩御用絵師:こうした活躍が認められ、東洋は仙台藩の絵画制作に携わるようになっていきます。寛政8年(1796年)正月、東洋42歳の時、藩の番外士として画工を命じられました。翌月には藩主・伊達斉村に召され、以後しばしば斉村の前で席画をしています。江戸屋敷の屛風や衝立を多数手がけた記録が残っています。

文政8年(1825年)71歳で仙台に帰郷。仙台藩の御用を勤める一方、藩の重臣の肖像画を制作しています。

天保10年(1839年)11月23日死去。享年85。墓は、若林区荒町にある昌傳庵。

周囲:長男・東東寅、次男・東東莱も絵師。弟子に村田俊、伊藤東駿など。

画風は、全体に角がなく丸みを帯び、親しみやすい。別号に白鹿洞とあるように、鹿の絵が多い。また、東洋は農村の風景を好んで描いているが、これは東洋が高く評価していた江戸時代前期の絵師・久隅守景の影響だと考えられています。

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興味深いことに、これと同じ題材で、似た構図の作品が仙台市博物館所に所蔵されています。

その作品は「仙台市博物館所蔵資料図録 NO7(仙台四大画家 作品NO27 絹本淡彩 画サイズ:縦1098*横423)」に掲載されています。掲載されている作品は天保期の晩年の作品と推察され、笛を吹く子どもは後姿が描かれています。



笛を吹く子どもの姿は本作品は前向きでこちらの作品のほうが上出来と思っていますがいかがでしょか?



他にもう一点改装の必要のある東東洋の作品があります。

政黄牛図 東東洋筆 雲慧澤賛
紙本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1870*横455 画サイズ:縦1000*横345

この作品は落款には「法眼東洋」と署され、1795年頃以降、法眼に叙されて以降の作品と推察されます。また画中に「雲慧澤(福井県永福庵第9代住職、鳥取県善福寺第10代住職 文化13年(1816年)寂)」と思われる賛があり、各地を遊歴して帰洛した頃の作と推定しています。

この作品はまだ未改装なので、後日改装後に投稿します。修復作品、食器棚の普段使いの作品がブログに投稿されるようになってきたのは、そろそろ本ブログも末期状態かも・・。

ともかくコロナウイルスの影響で在宅勤務が多くなり自宅での時間を過ごす方も多いでしょうが、自宅でこなせる趣味のあるのはこういう時に真価?が発揮されますね。ともかく当方は時間を持て余すことはありませんから・・、ただ息子の相手のほうが時間を費やす時間が多い


呉州餅花手 その6 青磁白花草花花立文大盤 

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陶磁器に次いで、食器棚から出てきたのはガラスの作品・・。



デキャンタ? 藤田喬平の作品です。



枕元での寝酒用? 寝惚けていると重さが堪えますね。そう満杯にすると片手では持てない重さになります。デキャンタとはそういうものかな

 

こちらは日本酒用の酒器。



工房の量産品?? 藤田喬平の作品の中では一般的な作品です。作品の裏にサインのないものもあります。

当方には他に藤田喬平の作品は夏用の平茶碗、花瓶などがあります。



次は岩田久利の盃・・。

 

五種揃いの作品です。



当方には岩田久利の父の岩田藤七の大きな作品もありますが、このような盃もいいものです。



冷酒か? 冷酒は漆器が基本なので、食前酒用でしょうね。五種の作品の趣が違うのがいいですね。











季節で愉しむもよし、懐石膳で愉しむもよし・・。いずれもまだ未使用の作品です。

さて本日の本題の作品は呉州餅花手の作品です。本ブログにて呉州餅花手の分類される作品は「その6」となりました。

本日の作品は呉州餅花手の作品中では非常に珍しい作品と思われます。呉州餅花手の作品で一般的(一般的といっても呉州餅花手の作品そのものが珍しい)なのは藍釉の作品であり、他には褐釉がありますが、白釉や青磁の作品は非常に稀有です。

もともと明末の漳州窯のおける大皿の作品は、呉須染付・呉須赤絵(青絵)・餅花手と大きく3つに分かれています。餅花手は白地、藍地、柿地に細分化され、胎土は白くありませんので、そのため失透質の白釉を、高台を除く全面に掛けて(一部には高台まで掛けられている作品もあります)、その上に藍釉や茶褐釉、白釉をかけてあります。当時は高級な釉薬を大量に使用した餅花手は、まだ伊万里磁器が登場する前の陶磁器の黎明期において、日本にて大いに所望された作品群です。

餅花手の作品は東京国立博物館蔵に各種の作品にあります。下記の写真は東京国立博物館蔵の「青磁白花草花文大皿」ですが、餅花手の中で青磁の作品はこのひと作品しか今のところ当方には資料がありません。非常に珍しい作品です。

青磁白花草花文大皿
東京国立博物館蔵 明時代_17c
形状: 高8.9*径33.2*底径12.6



さて本日の作品は下記の作品ですが、色合いから東京国立博物館蔵の「青磁白花草花文大皿」と同類に分類される作品です。

呉州餅花手 その6 青磁白花草花花立文大盤
誂箱入
口径327*高台径*高さ81



繰り返しになりますが、本作品は非常に珍しい青磁による餅花手の作品です。



形状は明時代の明代龍泉窯の青磁(七官青磁)に近くその影響を受けていると推測されますが、産地は漳州窯と推定され、青磁の発色の餅花手を作ろうとしたのでしょう。製法は不明ですが、数が少ないのは製法が難しいのかもしれません。ただし当時、人気がないので少ないのかもしれませんね。



文様は一般的な餅花ではなく、花入に入れた花の文様です。花台に置かれた花入の絵で、品格のある文様となっています。



高台内には釉薬が掛かっています。裏面の釉薬の収縮は漳州窯の特徴そのものですし、高台の作りも龍泉窯というより漳州窯の特徴に近いものです。



砂付高台となっています。



湾曲した形状は漳州窯の特徴ですね。



補修の跡がありますが、漳州窯の特徴である虫喰いがみられます。



ただでさえ赤絵や青絵の漳州窯の作品に比して数が圧倒的に数が少ない餅花手ですが、その中でさらに青磁の餅花手の作品は珍しいでしょう。



正直なところそれほど見栄えのする作品ではありませんね。



裏面は明末の漳州窯特有のものです。



青磁色が失敗作なのか、はたまた貴重な作品なのかはよく分かりませんが、なんといっても本作品は文様がいいですね。



当方では餅花手においては白釉の作品さえそろえばすべての作品が揃ったことになります。餅花手抜きには明末の漳州窯は語れないものでしょう。そしてその餅花手を語るに青磁の餅花手抜きには語れないかもしれません。

ただ要は飾って美しいかどうかでしょうが、正直なところマニアックな作品なのか、貴重な作品なのか、非常にきわどい作品ですね。





改装完了 美人図 3作品 岡本大更 大林千萬樹 三木翆山 

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本日もまた冒頭は整理している食器棚からの作品の紹介です。



なんどか引っ越しているうちに、ガラクタは処分し、使わないものは男の隠れ家に収納され、手元に遺っているのは気に入った普段使いの皿・・。



図柄の良い作品など要は本当に気に入ったものだけが遺ったのですが、家内の家族と住むようになり、息子が生まれて家族が増え、数が多い揃いの作品を食器として使うようになってきたので、だんだん使わなくなりました。



その間には、実家の会社をたたんで整理した際に抵当で住む家を失い、また多くの身内を失ったことなどの悲しい思い出もありますが、それでも購入した時から現在までの思い出の作品です。



普段使いの作品にはいいにつけ、悪いにつけ、思い出が蓄積されていくものです。せっかくの思い出が蓄積されるなら、金銭的許せる範囲で気に入った作品を使うのがいいのでしょう。



悲しい思い出が多いなら捨てるのも思いきりが必要ですので、もったいない作品のほうが捨てたら悲しい思いから振り切れるものです。



蒐集作品とはそういうものです。



蒐集作品を金銭に変える時もそんなものです。もう二度も蒐集はすまいと思うか、もっといいものを次は集めてやると思うか・・。



今は古伊万里の作品は値段が下がり、いいものも安く入手できるようになったようです。



古伊万里を蒐集している人はたくさんいたのですが、今はどうなのでしょう?



骨董市ではいい作品はみかけなくなりましたが、ネットオークションには「おっ」と思う作品が出品されています。



初期伊万里、藍九谷なども見る眼さえきちんとしていれば、今では蒐集は昔ほどたいへんではないでしょう。



ただ家族が少なくなった分、揃いで集める必要はないもしれませんね。



寿命が長くなった分、気に入った作品を食器には使いたいものです。



さて本日は修復された作品の紹介です。表具が痛んでいたり、シミがあったりすると台無しなのが美人画・・。日頃からの手入れが大切なので随時補修したりしています。

まずは表具のバランスが悪かったので作品の天地を寸法直しした作品です。

立美人図 岡本大更筆 大正10年(1921年)頃 
絹本着色軸装 軸先蒔絵 誂箱 →天地交換 
全体サイズ:縦1930*横565 画サイズ:縦1290*横415
2020年1月天地改装→全体サイズ:縦2060*横565 画サイズ:縦1290*横415

この作品は表具の「天」の部分が極端に短い。これは自分の家の床の間に高さがないためにこのような寸法に表具したのではないかと推測されます。



上下の写真は天地交換する前の写真です。撮影はそれ相応に撮影していますので目立ちませんが、明らかに表具のサイズがおかしい・・。これは掛け軸を見慣れている人には分かるものです。



天の部分を標準的な長さに直した後です。



このような直しはこだわりかもしれませんが、ちょうど天の部分が痛んできていたので痛みの観点からもタイミング的によかったかもしれません。



床の間は高さがあるほうがいいのです。マンションはむろん一戸建てでも昔の家に比べて階高が低いのが難点です。天井を高くするとか、極端でありますが天井をなくすくらいの計画が必要でしょう。



保存箱もきちんとしておきましょう。太巻きにするかどうかは使われている画材によりますが、本作品は太巻きまでする必要はないでしょう。



そこで次は保存箱のない作品への太巻きの保存箱の対応です。

涼風美人図 大林千萬樹筆
絹本着色軸装 軸先木製朱塗 誂箱
全体サイズ:縦1410*横660イズ:縦398*513



キチンとした優品でも保存箱のない作品はたくさんあります。箱が無くなった作品もあれば、もともと箱など無かった作品もあります。



ただ美人画にはとくに保存箱は必要です。



絵の具が痛まないように太巻きにすると巻きシワも防げて、絵の具の剥落もある程度防止できます。



次はちょっとして表具の浮きへの対応です。

梅下美人図 三木翆山筆 
絹本着色金泥軸装 軸先塗 誂箱
全体サイズ:縦1290*横540 画サイズ:縦400*横430



基本的に表具の糊は将来剥がすことが前提ですので、化学糊は使用していませんので、接着力は時間とともに弱くなります。巻によって特に一文字部分などが浮いてきます。この状態で少し糊を挿して浮きを直しておきましょう。くせがつくとなかなか治らなくなります。



掛け軸は虫干しもさることながらときおり飾ってみることです。空調管理して湿気を抜いてあげることも必要ですし、巻きシワを直してあげる効果もあります。



本作品は太巻きの保存箱を誂えました。太巻きはなにも無理して二重箱にする必要はありません。タトウを誂えるだけで充分でしょう。



掛け軸の飾る時間は長くても一か月・・・。それ以上は長く掛けて置いてはいけません。


虎渓山之図 蓑虫山人筆

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家内の親戚から筍が届きました。とにかくデカい! 家内のスーパーへの買い出しは10日に1回らしい。畑から採れる野菜と親戚・知人からの頂き物で間に合うらしい・・。



息子は大喜びです。小さい時には山に筍を採りに出かけたものですが、義父が亡くなってからは行かなくなりました。



本日の作品は久方ぶりに蓑虫山人の作品です。蓑虫山人は日曜美術館で特集で放映されて以降、人気が高まったのかもしれません。しかしもともと根強い人気があった画家(紀行家)でしたので、いい作品の入手はもともと難しい画家でありました。



席画程度の作品はインターネットオークションで入手可能ですが、一時期人気が高かったこともあり、贋作もありますので購入には注意を要します。



本日の作品は大幅の山水画です。このような出来の良い大きな作品は現在は入手は難しいでしょう。

虎渓山之図 蓑虫山人筆
紙本淡彩軸装 誂箱 
全体サイズ:横820*縦1960 画サイズ:横710*縦1430

天地部分は虫食いの跡が痛々しく、箱もありませんので、改装して箱を誂える必要がありそうです。



「松聲」とある印章は当方の他の所蔵作品「中野山浅絳山水図 その3」と「芭蕉下家鴨図」にも押印されています。これらの作品は入手時において「青森に8年余り長逗留し、某家の襖・戸板等々に描いた家より譲り受けた作品」と説明がありましたので、同時期の作ではないかと推測されますが、実写なら虎渓山という賛から放浪を終えて郷里に戻ってからの作となります。

入手先が大阪ですので、当方の入手経緯においては、一概には判断できませんが、この作品は青森で描いた作品ではない可能性が高くなります。

 

虎渓とは中国江西省の廬山(ろざん)にある川のことですが、慧遠法師の虎渓三笑(こけいさんしょう)の故事の場所として名高いです。絵画では啓孫筆 の「虎渓三笑・山水図・三幅対」は有名ですね。



日本における虎渓山とは岐阜県多治見市にある虎渓山で、夢窓国師が開創され、仏徳禅師を開山とする臨済宗南禅寺派の寺院(永保寺)で、本作品はこの風景を描いた作品と推察されます。



もともと蓑虫山人は岐阜県の生まれで、1836年(天保 7年)に美濃国(岐阜県)安八郡結村に生まれています。ちなみに本名土岐源吾と言います。1849年(嘉永2年)、14歳で生母「なか」死亡し、その年に郷里を出奔して放浪の旅に出始めました。

1856年(安政3年)21歳のこの年から蓑虫の号を用いています。
1858年(安政5年)23歳に投身自殺を企てた西郷隆盛を助けたという逸話があります。



最晩年略歴
1896年 明治29年 61歳 1月秋田県扇田の麓家を最後に東北地方における長年の旅を終わり、名古屋の嫡兄左金吾宅を訪ねます。4月羽島郡下羽栗村円城寺に滞在し、この年に美濃地方に大洪水起きています。
1897年 明治30年 62歳 1月円城寺に滞在。10月円城寺地区の人々の援助を受けて「篭庵」なるものを作っています。
1899年 明治32年 64歳  7月丹羽郡北小渕村の大慈寺(姉の寺)に招かれ、聴衆に国体の趣旨を説いています。長母寺に蒐集した古器物出土品等を運びこみました。
1900年 明治33年 65歳 2月名古屋市東区矢田町長母寺にて永眠。法号蓑虫庵遍照源吾居士。



岐阜県多治見市にある虎渓山を最晩年に訪れて描いたのかもしれませんね。



蓑虫山人の作品は稚拙なように見えますが、なかなかの作品を描きます。これは南画に見慣れた鑑識眼がありながらも実際に作品を観ないと解らないものかもしれません。


2020年4月 平野庫太郎作品

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整理している食器棚に最後の残ったのは安南染付のガラクタ・・・??



古伊万里や中国の染付の影響の作品が多いようです。



ともかく取り皿にと購入した下手の小皿類です。



どこか日本の「くらわんか」風・・。













裏に記された文字も意味不明・・??

 

 

三田青磁もありました。



近年の色絵の小皿も・・。





さて食器棚を整理していると平野庫太郎氏との思い出の作品がまた出てきました。食器棚にあったものですから普段使っていた作品です。

こちらは煎茶碗、三客揃いです。あり合わせの箱に入れておきました。



辰砂釉と油滴の高坏の器です。ちょっとリッチになれる、そんな器が得意な平野庫太郎氏の作風です。



一対でペア、ペアで一対・・・・??



油滴にしても辰砂にしても、釉薬を追求した平野庫太郎氏の綺麗な作品です。



こちらは箱を誂えました。



こちらは粉引釉の高坏・・。普段使っていて破損していおり補修跡があります。



ちょっと小さ目の油滴の高坏。



よく使った急須の宝瓶タイプの器。



湯冷まし・・・。



整理しているうちに平野先生の下記の作品が出てきました。家内との結婚に際して、家内側の親族との会食で親族の方に配った作品です。



平野先生に作って頂いた作品です。平野先生に作って頂いた最後の箱書きのある作品かもしれません。



本日のブログの記事の冒頭の作品を工房で見た時に、家内と二人で記念品は「これにしよう」と決めた記憶が蘇りました。







配った先では使ってくれているのでしょうか?



毎回そうですが、人に差し上げるものというのは難しいものです。



むろんこちらが要らないものではなく、最高に気に入っているものを差し上げるのが肝要なのでしょうが、それも難しい・・・。当方は以上の経験から骨董品が欲しいという方には差し上げないようにしています。



平野庫太郎氏の代表作は下記の写真のコーヒーカップ。これも練り込みのすべて手作りですので、揃いものを作るとなると難儀するようです。ほとんどがペアか単体の作品で、おそらく5客以上の揃いは当方で所持している以外は数がほとんどないでしょう。



使い込むと貫入にコーヒーが沁み込んでしまうのが欠点でしたが、これを解決する方法を先生は考えついて成し遂げたようです。上記の写真はその方法で作った作品です。このコーヒー椀は幾つか当方にはあるのですが、使い込んだものばかりでしたが、幸い二作品ほど未使用の作品がありましたので、箱を誂えて保管しておくことにしました。



当方にとっては、今ではどの作品をとっても懐かしいものばかりです。30年来の友人ですから・・。







源内焼 その130 三彩樹下人物(春告鳥 初音)図輪花八寸皿

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整理している食器棚にはもうひとつの作品群がありました。いわゆる古伊万里錦手と称される作品群などです。



使用中での多少の損傷は自分で直してしまうので、保有している作品の数は減りません。



錦手は上品な作行のものが良いようです。



裏には銘はありません。



この手の図柄はよくありますが、品のあるものがいいでしょう。



高台内には「富」に字が見られます。



こちらは同じような作品ですが、明治期の下手な作品となります。



こちらは大正期? の色絵。



この作品は明末の染付でしょうが、古伊万里にもこの手の作品があります。



本体が薄いのが特徴です。



絵付けが洒脱な点がいいですね。



本日は久方ぶりに源内焼の作品ですが、4月上旬のなんでも鑑定に源内焼の作品が出品されていました。いずれも珍しい図柄の作品でした。

参考作品
源内焼の皿4点
なんでも鑑定団出品作 2020年4月7日放送



鑑定団の評価:18世紀後半から19世紀中頃にかけて香川県さぬき市志度で作られた源内焼。平賀源内は志度で生まれ、源内の指導によって作られたことは間違いない。柔らかい土の軟質陶器で、緑、黄色、茶、紫などの三彩釉を主体としたもの。デザインは型で作っている。輪花型の丸皿は竹林七賢人。次の鉢が鳳凰の文様。松に鷹、花クルスの文様といずれも状態が良い。見込が赤の文様というのはおそらく漆絵で描いたからだろう。100年以上の間飾ったりしている間に剥落してちょっと擦れているが傷には入らない。評価金額:120万円

本ブログにてもひさかたぶりの源内焼の作品の紹介です。

源内焼の蒐集のポイントは
1.再興源内焼や源内焼から派生した作品は一部を除き除外すること
2.汚れ、割れ補修、釉薬の剥がれなど鑑賞上支障のある作品は除外すること
3.型の抜けのよい文様の綺麗な作品、釉薬の種類の多い作品、印のある作品などを中心に蒐集すること
4.大きさは八寸以上、手持ちのあるもの、デザインの独自性のあるものなどを中心に蒐集すること
などでしょう。

当方ではほぼ地図皿を除く100点を超える作品を蒐集できましたが、ときおり図柄が面白い作品をまだ見かけます。八寸から九寸くらいの皿で三万円から五万円くらいが入手の目安でしょう。



本日の作品は当方にない図柄で状態がしっかりしていたので入手した作品です。

源内焼 三彩樹下人物(春告鳥 初音)図輪花八寸皿
口径245*高さ60 合箱入


 
いつも源内焼の作品名を付ける時には悩むものです。作品図集にある作品はその題名に倣うのでいいのですが、そもそも皿なのか、鉢なのかから悩むことになりますね。



図柄もどこかに出典参考資料があるもので、なかなかそれを見つけるのもたいへんです。本図に描かれている人物の頭上の鳥は春告鳥(ウグイス)かな? よく日本画にある「初音」という画題のようですが、太鼓石が描かれていますので 唐物版? 



「初音」はウグイスの春に鳴く最初の声のことですね。このようなことを知らないと何を描いた作品かさっぱり分からないということになり、=(イコール)教養のないことと反省する羽目になりますね。



源内焼では軟陶ゆえ人物、口縁の文様などがきちんとした型の抜けの良い、保存状態のよいものは意外に少ないものです。本作品は多少の釉薬の剥離はあるものの状態は良い方で、しかもこの図柄の作品は実に珍しい作品です。



裏面はいつもどおりの形ですね。



美術館蔵より個人蔵の多い源内焼ですので、蒐集活動はまだ続くでしょう。

ところでこの作品の箱にはTOBUの伝票が同封されており、25万円で購入されていたようです。この値段は決して法外なお値段ではありません。正規のルートで買うとこのお値段になります。

 

源内焼は認知度は低いのですが、希少価値が高く八寸以上の状態の良い大型の作品になるとこの程度で売買されているのは珍しくありません。



本作品で130作品近くの作品が当方で蒐集されましたが、蒐集対象で遺っているのは「地図大皿」のみですが、文様によって違うようですが、現在は数枚程度しか残存数がないらしい・・・

水草と小魚図 福田豊四郎筆

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在宅勤務中は息子が小生を放っておいてはくれません。庭で自転車遊びの相手をしていると家内は外の流しで里芋洗い・・。さて夕飯はカレー!と言い出したら、当然里芋カレーということになり、息子と私はタマネギの段取り・・・。



息子は筍の皮むき、ネギ採りから処理と最近は野菜との関りが多く、好きなようです。



「はい、あっという間に出来上がり!」



また遊びの続きが始まります・・・・、一応在宅勤務なのでそうそうに打ち上げ>

本日の作品は入手先が山形県飽海郡遊佐町であり、昭和20年の終戦間際に福田豊四郎はそこに近い秋田県由利郡に疎開していることと関連性があるかもしれません。



水草と小魚図 福田豊四郎筆 昭和15年頃
絹本着色軸装→額装 軸先象牙 合箱→黄袋+タトウ
全体サイズ:縦1270*562 画サイズ:縦300*横415→額装F6号



この作品を描いた頃に福田豊四郎は小魚と水草を主題とした作品を多く描いています。当方での所蔵作品でも同時期の作品には「月と魚」、「水藻の花」などがあります。



福田豊四郎は同じ主題の作品を徹底して描くことを心掛けていたようです。



描いている水草は「菱」と呼ばるもんでしょう。



魚は鮎? ちょっと違うかな??



この書体の落款は珍しいものです。似たような書体の作品は当方で所蔵している「山湖秋」という昭和15年頃に描かれた作品に近い書体です。

 

共箱ではないので額装に誂えようと思っていましたが、意外に写真で見るより額装の状態いいのでそのまま軸装で保管することにしました。



掛け軸は現在の住居環境では本当の飾る場所が無くなってきました。



よって掛け軸を額装にした飾る方が増えているようですが、果たしてそれでいいものかどうか?


休稿のお知らせ

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4月30日から5月6日まで本ブログは休稿とさせていただきます。

秋の野 安田靭彦筆

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在宅勤務中はどうしても運動不足となりがちで体がなまってきます。そこで休憩時間を利用して、縁側の汚くなったガラス掃除。小生が滅多に行わないガラス拭き・・、愛犬も息子もなにごとかと興味津々・・。



この縁側は茶室や食堂に直結しているので、近所の方々の憩いの場? 宅急便や工事において玄関替わりに使うこともあります。今までは落花生の皮むき場所??? 日当たりが良く、眺めもいいのでこれからは小生が休憩の場として使おうとしていまます。



さて本日の作品、展示室の茶室には季節外れの作品・・??? 「秋の野 安田靭彦筆」を飾って愉しんでいます。



手前の床には石黒宗麿の作品。

線刻草花文花入 石黒宗麿作
共箱
口径55*最大胴径140*高さ255

掻き文様は「葱坊主」・・。季節は4月中旬から5月上旬の頃で「ねぎ」に花が咲きますが、作品の季節感は支離滅裂のようです。



棚には青古備前の鶴、季節は正月か・・・。



飾り棚にはお雛様、当然3月・・・。

木彫極彩色 親王雛 市川鉄琅作 その3
応需作品 極彩色 台座付 共箱
男雛単体:幅115*奥行110*高さ110 女雛:幅115*奥行78*高さ110
台座:幅350*奥行き175*高さ68



本日の主題は掛け軸・・・。

秋の野 安田靭彦筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 安田健一識箱二重箱
全体サイズ:1455*横655 画サイズ:縦415*横500



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安田 靫彦(やすだ ゆきひこ、本名:安田 新三郎):1884年(明治17年)2月16日 ~1978年(昭和53年)4月29日)は、大正~昭和期の日本画家、能書家。東京美術学校教授。東京府出身。芸術院会員。文化勲章受章。文化功労者。



靫彦は前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わっています。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられたことは有名ですね。



良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。また靫彦自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫しています。



靫彦は1884年、東京日本橋の料亭「百尺」の四男として生まれています。1897年、帝室博物館で法隆寺金堂壁画等の模写を見、日本絵画協会絵画共進会にて横山大観、菱田春草、小堀鞆音らの作品に感動し、画業を決意しました。

1898年より小堀鞆音に師事し、前田青邨らと共に紫紅会(後、偶々同じ「紫紅」を名乗っていた今村紫紅も参加し紅児会)を結成、東京美術学校に進むも中退しています。

後に岡倉覚三(天心)に認められ、1907年に日本美術院に招かれました。院展の初回より作品を出品し、再興院展にても尽力。肺病に悩まされながらも晩年まで制作を続けています。1974年の『鞍馬寺参籠の牛若』が靫彦の院展出品の最後の作品です。 1978年神奈川県大磯町にて没し、墓所は大磯の大運寺にあります。



1934年12月3日帝室技芸員、1935年から多摩美術大学美術学部で教授、顧問として教えました。1944年東京美術学校教授となり、1948年に文化勲章を受章。1958年、財団法人となった日本美術院の初代理事長となっています。1959年宮中歌会始の召人(勅題「窓」を詠進)。1965年東京芸術大学名誉教授。東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、国立近代美術館設立準備員も歴任しました。なお靫彦の門下に小倉遊亀、森田曠平、益井三重子、岩橋英遠らがいます。 初代中村吉右衛門とは同年で親しく、実兄に吉右衛門一座に在籍した五代目中村七三郎がいました。



上品でありながらも力強い芯の通った作品を多く残しています。本作品もその一端とうかがわせる作品です。歴史画の大家と謳われた安田靭彦は日本を代表する画家のひとりです。

 

箱書きは安田建一氏のよるもので、安田靫彦の所定鑑定人です。

 

当方に縁のあった安田靫彦の作品には他に下記の作品があります。

仲国訪小督図 安田靭彦筆
水墨着色絹本共箱二重箱 画サイズ:横425*縦1136



良寛之図 安田靭彦筆
絹本水墨軸装 共箱 軸先本象牙 
全体サイズ:縦1455*横335 画サイズ:縦580*横337



繒御本鉢「狗」 六代清水六兵衛作 安田靭彦画
清水六兵衛作・共箱・共布
口径219*高さ97*高台径100



安田靭彦といえば、良寛の書の研究意外に陶磁器に対する関心も深く、東洋古陶、土偶などの蒐集も行ってたことでも有名です。



骨董蒐集については当方の師匠にあたる・・・???? 

とにもかくにも安田靭彦は実に品の高い作風を愉しませてくれる今では稀有な画家です。床に飾ると背筋がピンと伸びる作品、「これぞ日本人! 粋な心!!」と感じさせてくる作風です。本作品もその片鱗のある作品で、このような作品が今では少なくなりました。

さてきれいになった縁側、次は座敷の縁側、その次は水屋の前の縁側、その次は茶室の縁側と掃除していこうかなと・・・。

郷里では男の隠れ家に縁側がありますが、日本の縁側は他の国には類を見ない日本のくつろぎの場なのですが、意外にそのことを意識している人は少ないようです。縁側は風通しと日当たりが良く、なおかつ眺めがよい事が必須条件です。しかも片側は必ず障子で床に横になれることであること、鳥と虫の音が聞こえるなどの視覚以外の聴覚、嗅覚にも楽しみがあること。マンションのベランダとは次元の違う楽しみです。

豌花小禽図 平福百穂筆 明治末頃

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テレビドラマの「70才、初めて産みますセブンティウイザン。」ほどではありませんが、当方は還暦を過ぎてからの初めての息子です。老化する人間に対して、すさまじい勢いで成長しく人間はまぶしくて、なおかつたくましいものです。

時が経つのは早く、今年小学校に入学した息子ですが、入学式のみであとは休校・・、在宅勤務の小生を放っておくはずもなく遊びの相手をせがまれています。そこで押し入れのプラレールなどの玩具をひっぱりだしてきて「一緒に遊ぼう!」、どうせなら「こちらも楽しんでやれ!」と覚悟を決めて食堂中に街をつくりました。



やがて息子が「ヘリポートが欲しい!」と言い出して、ヘリコプターの発着場所を作ると今度は「パトカーが入るところがない!」と言い出し、さらに「たくさんパトカーの入るやつ」と要求・・。よく聞いてみると「ヘリポート付の警察署」を作って欲しかったらしい。

ちょうど骨董の作品が届いた段ボールで要望通りのものを作ると、「ヘリコプターの運転手はどうやって屋上から降りるの?」ということになり、タラップを作る羽目になりました。「お~い、串の棒を持ってこい、それと爪楊枝!!」と息子とワイワイ・・。

またたくまに半日が潰れます。子供の体力と好奇心は実に旺盛です。次から次への要求をこなすと息子は「パパは天才だね!!」だと・・・。これを見て息子も自らいろいろなことを考えるようになっていくようです。

さすがに疲れた~、ところがさらにこの遊びは続き、この日のうちにレールは延長され食堂から居間まで広がることになります。最後は体力と根負けし、子どもは一人で遊んでします。さすがに小生の息子、遊び好きは遺伝らしい。



さて本日は若い頃に平福百穂が描いた作品の紹介です。門下の島田柏樹の鑑定箱ですが、島田柏樹もまだ若い頃の鑑定箱書のようです。いつもながら平福百穂のこのような作品において真贋の判断は非常に難しいですね。

豌花小禽図 平福百穂筆 明治末頃
紙本水墨着色 軸先象牙 島田柏樹鑑定箱
全体サイズ:横483*縦1465 画サイズ:横352*横463

 

本作品は落款の書体から明治年間の作と推定されます。ひと目見た感じは「贋作?」というイメージですが、よく見ていくに従い若い頃の作品と判断しました。

  

島田柏樹:日本画家。東京生。平福百穂の門人。花鳥画を能くする。帝展・文展・日展入選。昭和33年(1958)歿、66才。



描かれている小禽はおそらく雀でしょう。当方の所蔵作品である「梅花二雀」は最晩年の昭和年間の作であり、描かれている「雀」を比較すると面白いですね。

梅花ニ雀 平福百穂筆 昭和5年(1930年)頃
絖本水墨淡彩 共箱二重箱 軸先本象牙
小畑家(小畑勇二郎:元秋田県知事旧蔵)
全体サイズ:縦2270*横498 画サイズ:縦1328*横361



やはり晩年に描かれた「雀」はうまい・・・。省筆で描かれた「雀」は竹内栖鳳の「雀」の劣らないものがあります。



なおこの作品は共箱ですが、共箱の印章と本作品の印章が同一の印章と判断されます。平福百穂の印章は多くあり、贋作も精巧な印章もあり、さらには工芸品も紛らわしい印章の作品があり、最終的な真贋の判断は素人には無理がありますね。

 

描いている花は鑑定の題に「豌花」とあり、エンドウの花でしょう。

豌:えんどう マメ科の二年草。ヨーロッパ原産。茎は高さ1~3メートルほどに伸び、先端に巻きひげのある羽状複葉を互生。花は腋生(えきせい)で、赤紫色または白色の蝶形花。豆果は長楕円体で数個の種子がある。蜜豆に入れるアカエンドウやサヤエンドウ・グリーンピースなど、いくつかの系統がある。野良豆。 [季] 夏。



我が郷里の画家、ますます勉強の余地がありそうです。

PS.「おもちゃを片づけろ! 多すぎるぞ!!」という小生に対して、息子曰く「パパのおもちゃはたくさんあるね~」

古清水焼 竹透三段丸段重

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先日紹介した手頃な大きさの壺(古備前壷 その4)に庭で咲いていた紅白の牡丹を活けてみました。

*家内曰く「牡丹は水の吸い上げが弱いのですぐ枯れる」そうです。しかも大きな花びらがボタンボタンと落ちる



この壺は「ひび」から沁み出してくる水が涼を呼びます。ただ手頃な染み出し具合でないといけませんね。あまり沁みる量が多いと「漏れている」ということになります。



そして徐々に沁みだしてくる水が少なくなってくる加減が大切なようです。脇に雑巾など用意しておくのは興ざめですから・・。

*不思議と3日後には沁みだしくる水がほぼ止まりました。水の量はほとんど変わらないのに・・????



さて本日紹介する作品は古清水焼と思われる作品です。古清水焼は古九谷と同様に入手が難しい作品群のひとつと思われます。同様な焼き物でも時代の下がった磁器の作品らは単に清水焼を称され、古清水焼とは一線を画しています。たとえの良しあしはありますが、ちょうど古九谷焼が再興九谷と一線を画すと同じように感じます。



清水焼と古清水焼の区別の判断は難しく、多くが混同されているように思います。これも古九谷、再興九谷と同じですね。

*古清水焼は入手の難しい作品群ですので、今回の作品もあくまでもガラクタ好きの蒐集家のチャレンジだと思ってお読みください。



古清水焼 竹透三段丸段重
底窯傷色絵補修跡有 時代箱入
直径163*高さ235



そもそも「古清水」という名称は、制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられるものだそうです。



野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称しています。



野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造し、その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世に「古清水」と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されたと思われます。  



なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。

近現代の清水焼の釉薬は透明感が強くさらさらしており、文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えます。古いものはそのようなことはなく、ねっとりとした不透明で盛り上がり感があるのが特徴です。古い赤はもっとどす黒さに近い濃い赤。

土は硬くてすべすべしていますが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするものです。

高台の裏などにむろん窯印はなく、窯印のあるものは古清水焼より若い物と区別されます。



さらに京焼の歴史を振り返ってみましょう。

粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(生没年未詳)によって大きく開花します。

仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。



それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。

乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。

町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。

これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。



江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。

そんな中,京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(1753~1811)です。頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。



幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(1824~84)によって制作された「京薩摩」が海外で大きく評価されました。しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。

一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。しかし,その後は,伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的・作家的な性格を強めながら生産を継続し,六代目清水六兵衛など多くの陶芸家を輩出しました。第2次大戦後には清水焼団地(山科区川田清水焼団地町)などへと生産の地を広げ,走泥社(そうでいしゃ)が新しい陶芸運動を行うなど陶芸の地として世界的に知られるようになり,昭和52年3月に「京焼・清水焼」として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っています。



以上が京焼の近代陶磁器の歴史の概略ですが、さて本作品は上記の京焼の歴史の流れのどの位置にいたのかは後学とさせていただきます。つまり本作品が「古清水」に類するか否かも含めてどのような位置づけの作品かは現段階では確定できる段階ではありません。

*古い箱に収められているので、痛まないように風呂敷にて梱包しておきます。



ただ正直なところ贔屓目のみると華やかな色絵の陶器として「古清水」に類するものではないかと考えています。



*古箱には売り立て目録かなにかの文献に掲載された可能性のある写真が貼られています。



三段重の一番下の器には窯疵(カマヒ)があり、窯疵(カマヒ)を裏表に絵付けをして隠してあります。このような補修は古清水焼にはときおり見かけますね。



製作当時の補修なのか、後になったからの補修なのかは不明ですね。



本ブログではいくつかの清水焼の作品を投稿しておりますが、その中から数点の作品の写真を掲載してみました。

古清水焼(栗田焼) 色絵布袋唐子香炉
合箱入
幅170*奥行130*高さ146



下記の作品は「古清水」よりは時代が下がるものかもしれません。

古い清水焼 色絵龍鳳凰青海波文七宝繋透彫灯篭形香炉
合箱入
幅155*奥行150*高さ195



下記の作品は近代の清水焼と思われる作品です。

扇面菊花紋様図 番鹿細工香炉(本ブログでは誤って「古清水焼」として紹介されています。)
合箱
幅100*奥行き90*高さ163



上記に記述した恐れ多くも「奥田潁川と野々村仁清とおぼしき?作品」は下記の写真です。

氏素性の解らぬ作品 呉州赤絵写五角鉢 伝奥田潁川作 
時代箱(菓子鉢 唐絵鉢)入 
全体サイズ:幅155*155*高さ70



瀬戸写菖蒲錆絵茶入 伝野々村仁清作
仕覆付 金森宗和箱書 二重箱
高さ105*最大胴径55*口径31*底径34



当方は研究者でもなければ学芸員でもなく、一介の蒐集好きな者ゆえ、さらに数少ない作品からの投稿ですので、的外れな作品であってもご容赦願います。



骨董蒐集はどの分野にしろ。迷路や迷宮に入り込むもののようです。そこから抜け出すにはまず「そのことを自覚する」ということですが、さて当方はその自覚ができているのでしょうか? 同じレベルを堂々巡りしている感もあります。

牡丹のごとく吸い込みが悪く枯れ果てるか・・・、ひびの入った壺のごとく水が沁み出すか・・・・

栗鼠図 平福百穂筆 昭和初期(昭和6年頃)

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壊れた作品を自ら直すこともしばしば・・。



錠剤入れに使っていた器に上から物を落として破損・・・・。確かではありませんが、宋時代作られた影青の作品を模倣した近代(清朝の頃?)の作品だろうと推定している作品です。薄造りによくできていた作品で、「宋時代作られた影青の作品」と勘違いされる方もいるかません。



参考作品としており、たいした作品ではないのでこの際に捨てようと思ったのですが、家内が割れた部品を拾って集めておいたので、あらかたの破片が揃っていたので、急遽、二液性の接着剤でくっつけてみました。



裏面もま~ま~の修理です。小生の習性上?、どうでもいいような作品まで修理してしまうのでなかなか身の回りの作品の数が減りません。



さて本日は平福百穂の昭和年間の作(晩年の作)と推定している作品の紹介です。



栗鼠図 平福百穂筆 昭和初期(昭和6年頃)
絹本水墨淡彩 絹装軸 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横560*縦2050 画サイズ:横410*横1320

 

*平福百穂の詳細の来歴は当方の他のブログ記事を参考にしていただくことにします。

平福百穂は画家「平福穂庵」の第4子として明治10年(1877)角館に生まれています。本名を貞蔵といいます。13歳の頃に父から運筆を習っていたそうです。父、穂庵は常に旅に出て留守勝ちでしたが,明治22年,平福穂庵は身体をこわして帰郷し,しばらく家にいることになり、その時に平福百穂に筆の持ち方,座り方,墨の擦り方まで教えたそうです。

しかし翌年,父、穂庵が47才のとき,脳溢血のために急逝し,その教えを受けることはかなわなくなり、百穂は「上の兄3人が絵とは違う道を志していたため『一人ぐらいは父の跡を継いだらよかろう』という周囲の勧めもあって,絵を学ぶことになった」と述懐しています。

*当方も父が49歳で亡くなっており、父を亡くした年齢も小生とほぼ同じで、平福百穂と同じ境遇を感じます。結果的に職業的には私も父と同じような道を歩むことになってように思っています。当方で平福百穂の作品を蒐集する動機は、このあたりの境遇が似ている点にもあります。



14歳の時,穂庵追悼秋田絵画品評会に出品した半切が激賞されるなど,父の画才を色濃く受け継いでいたようです。つまり才に恵まれていたのでしょう。16歳で父の後援者・瀬川安五郎の支援の下,絵の修行のため上京,川端玉章の門人となりました。

玉章は穂庵と旧知の中であり,そのころ,四条派の第一人者で,東京美術学校日本画科の教授をしていていました。ここで,後に盟友となる結城素明を知ることになります。

*結城素明の作品は本ブログでも紹介されています。



東京美術学校で学び,画家としての地歩を築いた百穂は22歳の時,いったん郷里に帰り,郷里にあって絵の勉強をするかたわら,友人達と中尊寺などに遊んでいます。素明の勧めもあって,2年後の明治34年(1901)に再び上京し,やがて中央画壇で頭角を現すことになります。

活躍の主舞台は素明らと結成した「无声会(むせいかい)」でした。自然や人間を清新な感覚でとらえた作品を発表して注目された。明治36年ころから伊藤左千夫,正岡子規,長塚節,斉藤茂吉らと交友するようになり,アララギ派の歌人としても活躍している。



大正期(1912-1925)に入ると百穂の画風はさらに多彩となり,文展に代表作となる「七面鳥」「豫譲」(第11回特選),「牛」を出品しています。昭和7年に母校・東京美術学校の教授に任じられていますが、翌年10月,横手市に住んでいた次兄の葬儀の準備中,脳溢血で倒れ,同月30日に享年57才で亡くなりました。



この作品は昭和6年前後に描かれた作品と思われ、昭和8年に亡くなる数年前の作と推定しています。四条派の影響を超えた独特の画風を醸し出している作品です。



本作品に押印されている印章は偽の印章の多いものです。判断には慎重を要する印章のひとつと考えています。ただ偽印章は出来の悪いものが多いようで、贋作にはそっくり同じものは確認できていません。

画集にある作品「清江」(1931年 昭和6年)の印章と比較しています。若干違うように見えますが、この印章には多少年代の差によって、印影が違うように見えるものがあります。当方の作品と完全に一致するのは「富士山の図」に押印されている印章など複数あります。

 

箱書の写真は下記の通りですが、箱裏に押印された印章は不鮮明であり、まだ同一印章を確認できていません。→本ブログの原稿作成後、この箱の印章を調べたのですが、当方の所蔵作品の「渡船」という作品の印章と一致しました。

 

本作品と一致したと判断した印章の写真は下記の写真を掲載しました。このような資料は蒐集を続けた経験から把握できるもので、決して画集や印譜資料からだけでは判断できないものでしょう。

 

以上の経緯を経て、現時点で本作品は真作と判断しています。

最後に平福百穂描いた栗鼠の作品をあげてみましょう。平福百穂の故郷である秋田(ふるさと村)県立近代美術館収蔵品の作品で、平福百穂の代表作のひとつです。    

百穂の父・穂庵も日本画家として活躍しましたが、穂庵はより写実的な表現を追求したのに比べると、百穂は女性的ともいえるやわらかい色彩を持ち味にしています。 また、百穂はリスや鳥などの小動物を愛してよく絵に描いており、本作品は昭和初期の作と推定されますが、百穂が得意とした「たらしこみ」の技法で大胆に幹と葉を表現し、リスの尾は毛の1本1本まで精緻に描いている。百穂の古典への深い造詣と、卓抜した画技を見ることができます。

参考作品「古柏栗鼠」
絹本著色軸装 縦1355センチ*横450



本日紹介した作品と大きさもほぼ同じであり、筆致にも共通点が多く、ほぼ同時期の作と推定されます。動物を描いた平福百穂の佳作と言えましょう。

ふ~、ひとつの作品を長々と考察する気長さが骨董蒐集には必要なようです。ひとつのジャンルに、特定の画家に集中しているとこれは継続性と蓄積があり、意外にたやすいことでしょうが、それでは当方では飽きがくる・・・  しかも日本画、洋画、陶磁器、漆器、刀剣となんでもござれでは益々気長さが必要になるようです・・・。




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