Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all 3058 articles
Browse latest View live

行灯七寸皿 二種

$
0
0
最近は日が長くなり、展示室に差し込む光の変化を愉しむ時間が増えてきました。



本日は行灯皿の作品の紹介です。

今まで本ブログにて瀬戸の絵皿系統の作品をいくつか紹介しています。瀬戸の絵皿系統の作品には俗にいう「馬の目皿」、「瀬戸の石(絵)皿」、そして「行灯皿」などがあります。

近代において民芸運動で評価が高くなって、それ以降はデザインを模倣した作品までたくさん出回っていますが、やはりその当時、その用途に使われていた器に敵うものではありませんね。

本日は今まで紹介してきた瀬戸の行灯皿に二作品が加わったので紹介します。手元にあった二作品と一緒に撮影した作品が下記の写真です。



本日紹介します新たに加わった作品が上記写真において下の写真の2作品です。最初の、そのうちのひとつの作品が下記の作品です。

草花ニ蝶図行灯七寸皿
誂箱
口径226*高さ25



そもそも「行灯皿(あんどんざら)」とは言うまでもなく、行燈に用いた油用の受け皿のことで、行燈の中に置かれ、垂れる油を受け止めていた日常の雑器です。

廉価で大量に生産するために、sd原料となる陶土が豊富で、安価で量産が可能な瀬戸焼、美濃焼などで数多くが焼かれ、特に信濃地域が主要産地となり、尾張地域以外でも北陸地方の角皿、「霞晴山」印のものなどがあるもののそれらは生産量は少なく、品質も劣るとされています。



行灯の中で利用されるため本来は鑑賞の対象ではないにもかかわらず、現存する作品には、無地のものが少なく、鉄絵のものが最も多いようです。

この多様性から民衆的絵画「民画」に近い作品が多く、民芸運動などで盛んに収集され人気が高くなりましたが、現在では知る人も徐々に少なくなってきています。



形の特徴は平らで丸い形をしていることですが、この形から四角いものに描かれたものとは異なる独自の絵付けが生まれています。伊万里の猪口のように絵から抜けて模様になりきったものではありません。ともかくスピードを重視した製作が必要で、中には織部風の緑釉を一部に掛けたものや、薄茶色で「ダミ」を入れたものなど多種多様で、末期には吹墨の物も製作されました。

*本作品は簡略化された絵付の洒脱さに魅力がありますね。このような粋で、デザイン性に優れた行灯皿は貴重です。



皿を何枚も何枚も絵付けすることにより、無駄が省かれ、その単純さに冴え、職人達は、のびのびと、大らかに絵を描いたのでしょう。言い換えれば大量に作るところから、大量に作らなければならない必要から、手が勝手に動いているかの様です。

生き生きとした絵柄がこの作品群の真骨頂で、近代の模倣品はこれらの作品には遠く足元にも及ぶものではありません。



描かれた題材は極めて多様で、簡素な組合せの中に日本の風物が端的に捉えられている作品があります。



もう一つは力強い作品です。代表的な絵柄で、行灯皿に月・雲・宿・松・白帆・飛鳥などを取り入れた簡素な海辺山水を描いた作品のひとつです。

山水図(松ニ田舎家)行灯七寸皿
誂箱
口径220*高さ24



一般の人々の間に借り物ではない純日本の絵付けの皿を用いたいという要求がみなぎっていたためのでしょう。単に作る側の気持ちばかりでなく、使う側からの要求があったことを忘れてはいけません。庶民の心意気が伝わる作品です。

行灯皿とはいえ、民衆において数少ない陶磁器が私物とな作品であり、作る人と使う人の気持ちがぴったり合って初めて真に使いたくなるものが生まれたのでしょう。



火を灯す際に、ちらりと見える皿のデザインで少しでも心が豊かになった気持ちを忘れてはいけませんね。このデフォルメされた力強い絵付けは古武雄の甕の作品に相通じるものがあるようです。



この手の作品群は家内が気にっています。ともかく丈夫で使い勝手いいようです。多少重いのが難点でしょう。



行灯皿の優品は意外に見つけにくいものかもしれません。ともかくデザイン、絵付けがのびのびしているものがいいでしょう。

多くの種類の作品がありますが、ひとつとして全く同じ作品がなく、とはいえマニアックにならずいいものだけ数点集めるのが粋ですね。伊万里にしてもなんにしても、蒐集にありがちの、これみよがしに棚にずらりと並べるのは悪趣味で、美的感覚を損ねるものです。



本日紹介した二作品は行灯皿の中でも優れた作品だと思います。入手価格は各々約一万前後です。

似たような山水がデザインされた作品は本ブログに下記の作品が紹介されています。



行灯皿に山水画・・、この発想が面白いですね。



また織部釉のような緑釉を掛けた作品も人気があり、本ブログでは下記の二作品を紹介しています。



当時は行灯の皿のみに用いたのでしょうか? 食器には用いなかったのか疑問ですね。



現代では食器に用いる方が多いと思いますが、神経質な方は行灯皿に食材を載せるのに抵抗があるかもしれません。



そのような神経質な方はもともと失礼ながら骨董蒐集には向いていないのかもしれません。というか洋食器を好むかもしれませんね。



普段は食器棚にあるのですが、整理の段階で箱を誂えました。家内が普段使っている器はそのままですが・・。



ところで皿を飾る時に必要な皿立、これにもこだわりたいものです。武骨な皿立ばかりではつまらない・・。



骨董蒐集はこだわりがエネルギー源のようです。

氏素性の解らぬ作品 紙雛 伝上村松園筆 & 鈴木松年筆

$
0
0
マスクは最近ようやく入手できるようになりましたが、数不足もあって、連休中は家内が家族ひとりひとりのオリジナルマスクを製作してくれました。もともと前にも作ってくれていたのですが、片付けで不要になっハンカチを利用したようです。小生のはバーバリー製・・・???



皆で写真を撮りっこ。



さて本日は「紙雛 伝上村松園筆」という作品の紹介です。以前に紹介した「早春花美人」(伝上村松園)や本作品のような作品を経て、真作の入手を実現するためのステップと考えています。実はこれは負け惜しみで、この程度の作品を入手するのが今の当方の実力・・・



また本日の作品入手の理由は、上村松園が門下生、つまり師とした鈴木松年の若い頃に描いた「紙雛」の作品との比較ということもあります。

氏素性の解らぬ作品 紙雛 伝上村松園筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:横485*縦1810 画サイズ:横360*縦890

 

高砂の図が描かれてる部分などは細密で確かにうまい! 全体にうまく描いていますが、ただここまで極彩色で上村松園が描くであろうか? やはりあくまでも「伝」ですね。



紙雛はその言葉通り「紙で作った雛人形」のことで、祓(はらえ)の形代(かたしろ)から起こり、流し雛に用いられていましたが、やがて日常の玩具ともされるようになったそうです。



日本画家の多くが、とくに京都画家はいくつもの作品を遺している画題の作品です。



羽織には松、袴には菊というようにあしらう文様もある程度パターン化されていますが、意外に顔の表情はまちまちであるようです。



本作品は一応、共箱仕立てになっています。



表具の状態はま~ま~かな? 真作なら染み抜きする必要があるようです。



当方には幾つかの紙雛を描いた作品が遺っていますが、上村松園が門下生となった前述の鈴木松年の作品が下記の作品です。

立雛図 鈴木松年筆 その4
絹本着色軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1885*横518 画サイズ:縦1024*横396

 

鈴木松年の初号は百僊(ひゃくせん)であり、32歳頃に松年に改めるため、本作品は落款が「百僊」と記されており、鈴木松年が32歳より前の作品と推察しています。



なお印章は「世」と「賢」の朱文白方印の累印であり、名の賢(一部資料では謙)を用いています。

この鈴木松年の「紙雛」の作品と本作品とを比較してみたいと考えて、本作品を入手してみました。師とする鈴木松年の若い頃の作品ですが、ある程度は共通点が見られることから、あくまでも本作品が真作なら門下生であった上村松園は何らかの影響を受けていたのかもしれません。

部分で比較してみました。上の写真が鈴木松年の「紙雛」で、下の写真が本作品です。

鈴木松年の「紙雛」



「紙雛」の描き方はある程度パターン化していますので、それほど違わず似ているのは当たり前と言えばそれまでですが・・。

本作品



ご存知のように、「上村松園の長男である上村松篁の父親は鈴木松年」と推察されています。



鈴木松年の「紙雛」



松園(本名:津禰・常子=ツネ)は日本最初の画学校に12歳で入学しますが、内弟子で修行する道を選び、翌年画学校を退学して、鈴木松年に師事し、彼女は腕をあげ「松園」の号を与えられます。

本作品



その後、松園は幾度となく師を変え、20歳からは確かに竹内栖鳳に師事をしています。しかし、松年との繋がりは保たれていました。27歳の時(1902年頃 鈴木松年54歳頃)に妊娠しましたが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていません。



鈴木松年の「紙雛」



彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男松篁を出産し、松篁も長じて、日本画家になり文化勲章を受章しています。

本作品



上村松園の厳しい生き方を垣間見るような逸話ですね。



鈴木松年の「紙雛」



あくまでも上村松園の長男松篁の父親は鈴木松年というのは推察のようです。

本作品







作品中の印章の検証は下記のとおりです。

左が本作品、中央が文献資料、右が「早春花美人」(伝上村松園) 似ていますが実は印章の大きさが違います。さてどれがどう違うかは御推察ください。当方の判断ではいずれも「氏素性の解らぬ作品」(贋作)と判断しています。

印章は印影だけの違いだけではなく、大きさが一致することももちろん肝要です。印影集では贋作に模写されることを嫌って、縮尺を変えて印影を掲載していることもありますね。

  

箱書きの検証は下記のとおりです。

左が本作品、中央が真作「清少納言」、右が「早春花美人」(伝上村松園)

箱書の印章は朱文白楕円印「松園常子」? (前述の写真)

この印章は確認できていません。「松園」と「常子」を同一印章内にあるのはやはりおかしい?ので違うかもしれませんね。また「自題」も見かけたことはありませんね。通常は単に「松園題」ですが・・。

  

本作品の落款は独特の書体をしていますが、似ている書体の資料との比較は下記の通りです。右が文献資料の書体ですが、この書体は1907年頃の作品の書体です。

 

さて多くの画家が「紙雛図」を描いていますが、むろん上村松園も例外ではないようです。

思文閣墨蹟資料目録に作品が掲載されています。

参考作品
紙ひな之図
思文閣墨蹟資料 第455号 作品NO2



この参考作品は本作品が真作?だとすると、参考作品は時代的には後の作品でしょう。







本作品は「真作否かはむろん論外の範疇の作品」であることをご了解ください。



初期伊万里 青磁角福文七寸丸皿

$
0
0
5月5日の当方の我が家の床飾りは下記の写真のような組み合わせでした。鎧の飾りは片付けるのが面倒?でついついそのままとなっています。



義父の三回忌が近いのですが、さすがに長々と同じ作品を掛けておくのが良くないので「観音図」は仕舞い込みました。五月ですから、通常は鍾馗様か鯉の掛け軸ですね。鯉の作品を選びましたが、掛け軸は下記の作品です。

群鯉図 黒田稲皐筆 その3
紙本水墨金彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2140*横1000 画サイズ:縦1600*横850



黒田稲皐の大幅の作品です。



これほどの大幅で状態の良い黒田稲皐の作品は少ないのではないでしょうか? と少々自慢げに愉しんでいる作品です。

*当方では大幅の黒田稲皐の作品を他に2作品を本ブログにて紹介しています。



鯉の滝登りの定番ではちょっと飽きてきたかな?と言う当方のお気に入りの作品です。



さて本日は初期伊万里の作品の紹介です。

最近まで初期伊万里などは高値の作品でしたが、現在はさほどでもなくなってきたようです。古伊万里の異常な人気も薄れてきており、それに伴って初期伊万里への関心もそれなりになくなってきたようです。それ相応の妥当な価格になってきたようで欲張りな当方にとってはいい傾向です。

「初期伊万里でござい!」という作品があまり好みでない偏屈な小生が気に入った作品で、本日の作品は初期伊万里の中でも珍しいかもしれません。

初期伊万里 青磁角福文七寸丸皿
見込み内「福」銘 誂箱
口径200*高さ35*高台径



初期の伊万里焼は、朝鮮や中国の陶工たちが始めた窯ですので、試行錯誤はあったにせよ、最初からいろんな彼らの地の技法を試していたようです。



その中ではなかなか再現が難しかったのではないかと思われるのが青磁です。初期の青磁の作り方には「壽」や「福」の文字を入れたり、陰刻であったり、あるいは外側には全面鉄釉を掛けて見込みに染付で菊花文を入れたりと、いくつかバリエーションがあるそうです。



本作品のように全面に青磁釉、高台の内側まで総釉掛け、見込み内に高台内によく見られる「角福文」が記された作品は珍しいように思います。

*本作品を「青磁」と分類するのには異論のあるところでしょう。



初期伊万里でも初期の頃の作は、窯のなかで温度が上がりきれなかったのか全体的に甘めな焼成りとなり、青磁の発色を目指しながらも理想通りにはいかなかった推察されます。

しかしこれはこれで柔らかく土もの的なニュアンスを感じられ、約400年前の磁器創出の黎明期の所産のひとつなのでしょう。



初期伊万里には、後の古伊万里に似て、文様がそれなりに粋な文様になってきたり、青磁もそれなりの発色になってきたのでしょうが、その段階よりもその前の作のほうが魅力がある、いわゆる味のある作品も見られます。



ただ一般的には初期伊万里の初期の作品は形が歪であったり、焼きがあまかったり、美的にはあまり評価できませんので、そのような失敗作を過大評価する傾向には賛同できませんね。

初期伊万里には裏面には本作品のように指の跡が残るのが原則だそうですが、例外もあり得るようです。指の跡が残らないように治具をすぐに作ったと考えるのが妥当でしょう。なおなぜかしら三分の一の大きさの高台は必須のようです。

   

破損した跡の補修なのか銀色の繕いも味があってこの作品には似合っています。



ま~、本作品が初期伊万里の青磁かどうかはよくわかりませんが、当方では面白い作品であることには相違ないと思っています。



ともかく古伊万里にしろ、初期伊万里にしろ、見所のある作品を蒐集対象にするのが一番ですね。掛け軸もしかり・・・。家内曰く、「贋作だとか云々するよりそのこのことのほうが大切。」まさしくそのとおり・・。

これが初期伊万里、これが古信楽、という価値観より、贋作という厭らしさがなければ、本来の美的観点だけが評価のポイントなのだろうと思います。日頃から感じていることですが、美的観点は先天的要素が大きいというより、日常が大きく影響するもので、骨董はその人の日常そのものに品格がないといいものは寄り付かないという怖さがあると感じています。

贋作考 享和夏景山水図 伝釧雲泉筆 享和3年

$
0
0
小学校は休校で、期間中は息子と四六時中、一緒にいることになりました。おもちゃ遊びに飽きてくると、既成のおもちゃ遊びでないことが多くなります。今回は、小生の蒐集作品を送ってくる段ボールを使って道路を作る羽目に・・・。「もっと面白く!」と息子はどうもこの道路のデザインが気に入らないらしい

当方は家内共々、手づくりを重視する傾向があります。



さて本ブログで紹介されている作品で難しいのが釧雲泉の作品。良いものと悪いものと打率は5割かな? 厳密にいうともっと低いかもしれません。「厳密」というのは真贋相半ばという作品がどうしても多いからです。「真贋相半ば」という作品は基本的にNG・・。

*最近当方で投稿した「秋渓覚句」という作品と同図の作品がインターネットオークションに真作とされて出品されていましたが、出品された作品は模写作品だと判断しています。ほとんど構図と出来は怖いほど真作と見分けがつかない・・・。

本作品は約款に「癸亥」とあり、真作なら享和3年(1803年)と判断されることから参考作品として入手した作品です。

贋作考 享和夏景山水図 伝釧雲泉筆 享和3年
本水墨淡彩 軸先木製 渡辺華石鑑定箱 帝国書画交換所真蹟保証書在中
全体サイズ:縦2220*横665 画サイズ:縦1380*横520

 

寛政時代の荒々しい奔放な構図から文化時代のどっしりとした構図の作品への移行した頃の作風の時代ですが、さて本作はどうでしょうか? このような作品を「透明感のある作品」と称するなら、釧雲泉の作品には真新しいようなに感じる、透明感のある作品がときおり見かけます。



作品上部の出来はよさそうだが・・。



下部の作品の出来はつまらない・・??。



う~ん



やはりすとんとは腹に収まらない。



こういう時はほどんど駄目、贋作。 



賛には「癸亥(みずのとい)新春十一日 雲泉樵人釧就 押印」とあり、真作なら享和3年(1803年)釧雲泉が43歳の時の作品と推察されます。

  

年号約款が明確な同年の作では下記の作品が本ブログにて紹介されています。この作品は真作と判断しています。

秋渓蕭散 釧雲泉筆 享和3年(1803年)
水墨金地紙本 「まくり」→「額装 タトウ」に改装 
画サイズ:縦220*横370*2枚



賛には「秋渓蕭(ものさびしい)散」とあり、さらに癸亥(みずのとい)重陽写寫干波懐楼 雲泉樵人就 押印」とあり、享和3年(1803年)の作であり、釧雲泉が43歳の時の作品と推察しています。

享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住しており、儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わり、この頃に結婚したと推測されています。



本作品には「帝国書画交換所 真蹟保証書」なるものが在中していますが、このようなものはまったくあてになりませんね。



また渡邊華石の鑑定箱書ですが、箱書きがたとえ本物であっても、作品が真作か否かにはあまりあてにはなりませんね。市場には「渡邊華石の鑑定箱書」なりものがたくさんありますね。「渡邊華石の鑑定箱書」は本物でも、作品は偽物というのは多いです。

  

よく見るとよいと思った款記の書体も稚拙かな。むろん印章もダメ。

このような作品を参考作品としてでも、入手しているようならまだまだ道は遠い。ま~、だから面白いのさ!!と開き直り。おもちゃは既成品だけじゃつまらない、「ばったもん」で遊ぶのさ。

 「ばったもん」とは・・・。下記の記事があります。

****************************************

バッタもん:「正規の流通ルートで仕入れたものではない正規品」あるいは「偽物の商品」のこと。 元来「バッタもん」には「偽物の商品」という意味は無かった。 商品自体は正規品であるが、期限切れもしくは期限切れ間近の商品、使用に支障はないが包装の外観が劣化したB級品や棚崩れ品、企業倒産により流れる倒産品など、正規の流通ルートでは売りさばきにくい商品が多く、格安で売られることが多い。主に近畿地方で言われる。関西以外の地方ではバッタ品と言う。この場合の「もん」とは「物」(もの、物品)のことを指す。 販売者、製造者が安売りを意図して特別な販売方法を取る場合は「バッタもん」とは呼ばない。特別な日だけに放出する「クリアランスセール」、「バーゲン」や別の場所や通販で販売する「アウトレット」などと呼ばれる。 現在では、「偽物の商品」も「バッタもん」と呼ばれる。 なお、近畿地方では「偽物の商品」を「パチもん」、あるいは「パッチもん」(一部主婦層では「イミテーション」)とも呼ぶ。

もともとは、古道具などを売買する商人の隠語だったといわれる。「バッタ」の語源はいくつかの説がある。
1.不況などでバタバタと倒産した商店の物品を、一括で大量に安く買う業者を「バッタ屋」といい、その商品を売ることから「バッタもん」と言うようになった。
2.バナナ売りなどの露天商が、ハリセンで商板(棚)を「バシバシ」と叩く擬音から。
3.道端で拾ってきたような物を売ることから。
4.場当たり的に手に入れた物を売る事から。
5.バタバタと勢いよく落ちる様子を「バッタ」、「ばったり」といい、その擬態語から。
6.戦後、昆虫のバッタの様にあちこちに店を移転する、もしくは商品を他の店へ次々と移動させる様から、倒産品等を扱うお店を「バッタ屋」と呼び、そのお店が扱う商品だから「バッタもん」と呼ぶ。

****************************************

今回の一番の勉強は「ばったもん」かも・・。

(仮題)文豪 平福百穂筆 大正末年(1925年)頃

$
0
0
今年の五月の連休は「男の隠れ家」に帰省も出来ず、自宅でゴロゴロ・・。とはいえやりたいことはたくさんあるので、時間は持て余すことは全くない。マスコミで自粛の際の自宅での時間の過ごし方などを取り上げていますが、趣味にある人間には全く耳を貸す必要のない話題です。

さてそれでも気分転換の必要が出てくるとたまには読書となります。息子はそういう時も小生から離れませんが、聞き分けのいい子?でおとなしく自分の趣味?に没頭しています。

小生がこの度、夢中で読んでいたのは「流浪の月」(風良ゆう著)ですが、この本は面白くてあっという間に読んでしまいました。主人公らの心情が小生には痛いほど解る内容でした。興味にある方はどうぞ・・・。骨董とは無縁の内容ですが・・・。



本日は最近、ながらく挑戦している平福百穂の作品の紹介です。筋の良い作品であり、真作と判断しています。読書にちなんで「文豪」という仮題・・。



(仮題)文豪 平福百穂筆 大正末年(1925年)頃
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱二重箱 
全体サイズ:縦1520*横560 画サイズ:縦275*横270



本作品は仮題として「文豪」としてあります。描かれたのは容貌から伊藤左千夫なのか自画像なのか、はたまた全くの別人かは不明です。平福百穂には徳富蘇峰らのスケッチもありますね。印章は真印で大正半ばから末年まで押印されていると思われる印章です。



作品が貼られている周囲の和紙も品、センスのあるものが使用されています。



このような品のある表具の凝り方は贋作にはないものです。



贋作にも表具を念入りに凝ったものはありますが、贋作にはなぜかしら厭らしさが滲み出るものです。この表具だけでも鑑賞に値します。



1903年(明治36年)頃から平福百穂は伊藤左千夫と親しくなりアララギ派の歌人としても活動し、歌集「寒竹」を残しています。

写真:平福百穂               



写真:伊藤左千夫



平福百穂の贋作は非常に多いのですが、贋作の多くが押印されている印章の印影が真印と違っていたり、資料に印章が押印されています。

当方では所蔵作品や資料から印章はある程度記憶されていますので、印章は真贋の判断のポイントになります。

左:画集作品より印章(真印) 1925年(大正14年)「青岱」
右:本作品の印章

 

なぜ印章だけの作品なのでしょうか? 百穂の席画程度の作品には手書きの印章のみの作品もありますが、本作品は「相手に敬意を表した」か、あるいは「自画像」故か? いずれなにゆえかは解りかねていますが、実に品がよく、面白くていい作品だと思います。しばらく展示室に飾っていますが、当方の平福百穂の所蔵作品の中でもかなりいい出来の作品と悦に入っています。

読書も骨董の無我夢中で我を忘れるものがいい・・、ちなみに読書が趣味というのはいただけない。息子の動画鑑賞と同じレベル・・・。

大日本魚類画集 NO75 ホウボウ 大野麥風画 

$
0
0
さすがにバーバリーとブランド名の入ったハンカチ製の自家製マスクは勤務先には装着するのは抵抗があると思っていたら、家内が小生の意を汲んだのか、別のマスクを作ってくれました。



ちょっと小ぶりなマスクです。ちなみに文様は蝶・・、ちょっぴりマスクから香水の香り。香水の香りは自分が愉しむもの、男は対外的に無味無臭がいい、もとい、対人に無臭がいい。

さて本日はじっくり蒐集している大日本魚類画集からの作品の紹介です。

大日本魚類画集 NO75 ホウボウ 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1939年6月第10回
画サイズ:縦288*横408



本作品で稀有なのは摺師・彫師の銘がない作品であることです。このようなことは見本刷りの作品にはありますが、通常は見本刷りには「麥風 押印(印章)」もありませんから、まったく謎です。
 


原画にはこのようなことはあり得ますが、「後摺」ではないかという推測が正しいかと思います。500部限定ですが、ひとつの版木ですべて摺るには無理がありますので、スペアの版木があったのかもしれません。画集にもひと作品だけ摺師・彫師の銘がない作品が掲載されています。



印章も画集の作品とは別の印章ですが、本作品の印章は他の作品に多用されている作品です。よって贋作ということではないようです。

  

画集の作品においては彫師は「藤川象斎」摺師は「中村匠□」とあります。



シリーズひとつをとってみても世の中にはいろんなことが起こる、もとい骨董品にはいろんなものがある・・・・ 調べる手間が休まる暇がないですね。

マットを誂えていましたが、どうもコロナウイルスの影響で出来上がるのはしばらくかかりそうです

お猪口ら

$
0
0
整理している食器棚から出てきたお猪口・・・。骨董市で数千円でときおり買っていた作品です。まずは菊形をした白磁の古伊万里・・。いつのまにか数が増えましたが、コレクションといえる数や質ではありません。



蕎麦猪口にも盃にも向付にも・・・。気軽に多種な用途に使える器です。



古伊万里というか、骨董蒐集の入門編に位置するのがお猪口かもしれません。



明治期の眼鏡底に作品から初期伊万里まで実に幅広い分野ですね。



蕎麦猪口、向付、盃と用途も広いので愉しめる作品群です。



それとひとつ気軽に楽しめる作品は印判手と呼ばれる作品群です。



市中に陶磁器が日用品として出回ると大量生産が必要となり、手書きではなく印刷のような製作方法が流行りました。



素早く作るので、ミスもある作品もありますので蒐集するほうは面白くなります。



これに準じて手描きの作品もパターン化してきています。



この印判手も大正期になると少なくなります。



現代ではプリントの作品として多くありますが、味があるのはやはり明治期の作品ですね。



こちらはイギリス製・・。



いち早くプリントが広まった感があります。



今は100円ショップにとってかわったのかな・・??? 









俊寛僧都於鬼界嶋遇康頼之赦免羨慕帰都之図 月岡芳年作

$
0
0
これからの季節の利用度を考えて休日には縁側のガラス掃除・・・。同年代の人には「縁側での思い出」はたくさんあるのでしょうが、徐々に失われていくひとつに「縁側での思い出」があるかもしれませんね。

景色と風通しの良さ、障子と畳の文化の景色、日本独特の空間を日本人は手放してはならないものと思います。空間は自分で作ってみて、手入れしてみて、よりいいものを作ってみたい、そこで学ぶことは多々ありました。



この日は急遽、皆でこの縁側で昼食と相成りました。高級らしきマンションに住むことは失うことのほうがいかに多いことか、マンションのような便利な?場所は老いてからでいいと思うのですが・・。

さて本日の本題です。本日の作品は最後の浮世絵師と称される月岡芳年の作品です。

月岡芳年は、明治18年から同22年にかけて、月岡芳年の傑作と言われている縦二枚続きの細長い作品を15図ほど制作しています。本日はそのひとつである「俊寛僧都於鬼界嶋遇康頼之赦免羨慕帰都之図(しゅんかんそうずきかいがしまにおいてたまたまやすよりのしゃめんせんぼきとのず)」の作品の紹介です。

本ブログではすでにそのシリーズの作品では「平維茂戸隠山鬼女退治之画」(下写真:左)を投稿しています。またもっともこのシリーズで著名な作品は「奥州安達原ひとつ家の図」(下写真:右)でしょう。この作品は黒塚の鬼婆伝説を題材にした一図で、気狂いして食人鬼と化した老女が今宵もまた捕らえてきた身重の女を吊るして今まさに解体しようとしている場面で、1885年(明治18年)に刊行されましたが、明治政府は風紀を乱すとしてこれを発禁にしています。

 

また上記写真左の作品は本ブログに投稿されており、その「平維茂戸隠山鬼女退治之画」は平たく言うと「戸隠山へ紅葉狩り、鬼女退治の図」のことです。



「信州の戸隠山に更科姫という姫が住んでいましたが性悪しく人々に難澁を与えていて、或る秋、平維茂が紅葉狩りをしようとして戸隠山に登った折、姫は酒肴をもてなし、大いに之を歓待して誘惑せんとしたが平維茂の帯びていた小烏丸の太刀の功徳に依り姫は本性を顕わし、鬼女の姿となったので維茂は小烏丸を振い鬼女を遂に退治した。」という伝説に基づく作品です。この伝説は長唄や歌舞伎にもなっているおり、図にした作品がこの作品です。



さて本日の作品の紹介です。

俊寛僧都於鬼界嶋遇康頼之赦免羨慕帰都之図 月岡芳年作
版画額装 作品サイズ:縦738*横255



あらためて月岡芳年の画歴は下記のとおりです。

*************************************

月岡芳年:本名吉岡米次郎、のち、画家月岡雪斎の家を継ぐ。号は玉桜、魁斎、一魁斎藤、大蘇など。芳年は、天保10年(1839)3月17日、商家吉岡家の次男として生まれ、本名吉岡米次郎、のち、画家月岡雪斎の家を継ぐ。号は玉桜、魁斎、一魁斎藤、大蘇など。



12歳で歌川国芳(1797~1861)に入門したと伝えられる。はじめ役者絵を中心に描くも、文久3年(1864)から幕末にかけては武者絵を描くようになり、殺伐とした世相を反映した残酷絵、血みどろ絵と呼ばれる一連の作品で一躍有名絵師の仲間入りを果たす。

明治5年(1873)に神経を病むが翌年快復し、後「大蘇」の号を用いて精力的に作品を刊行。新聞錦絵、怪奇画、美人画などのジャンルで人気を呼ぶが、とりわけ歴史画は芳年の独壇場だった。

晩年、再度神経を病んで発狂し、明治25年6月9日、54歳で没した。そして芳年の死とともに浮世絵は終焉を迎えたといわれる。

*************************************

描いているのは「俊寛」という平安時代後期の真言宗の僧の逸話です。



「俊寛」の略歴は下記のとおりです。

*************************************

俊寛:康治2年(1143年)~治承3年3月2日(1179年4月10日))。平安時代後期の真言宗の僧。

僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。 村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院暲子内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。

後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。安元3年(1177年)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた(ただし、『愚管抄』によれば、信西の子・静賢の山荘で密談が行われたとされている)。だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。(鹿ケ谷の陰謀)

『源平盛衰記』によると、藤原成親は松の前・鶴の前という二人の殿上童を使って、俊寛を鹿ケ谷の陰謀に加担させたという事になっている。松の前は美人だが愛情の足りない女で、鶴の前は不美人だが愛情に溢れた女であった。成親がこの二人に俊寛の酒の相手をさせた所、鶴の前に心をよせて女児を生ませた。すっかり鶴の前に心を奪われた俊寛は、謀反に加担する事を同意したのだ、という。

『平家物語』によると、鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は望郷の日々を過ごし、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心するが、俊寛はこれに加わらなかった。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着く。 これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮となっている娘の徳子の安産祈願の恩赦を行う。

翌治承2年(1178年)に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の張本人という理由から赦されず島に一人とり残された。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。 翌治承3年(1179年)、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して、食を断ち自害した。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰った。

俊寛が流された鬼界ヶ島の場所については、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島と、鹿児島県大島郡喜界町の喜界島には俊寛の墓と銅像、長崎県長崎市の伊王島に墓があり、諸説ありはっきりしていない。なお、硫黄島にはかつて俊寛旧邸宅跡の碑が残されていた。

また、ひそかに島を脱出したという説も多く、鹿児島県阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。

*************************************

「翌治承2年(1178年)に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の張本人という理由から赦されず島に一人とり残された。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。」の説明にあるとおり、本作品は島に一人とり残された俊寛が、絶望して悲嘆に暮れる様子を描いた作品です。



月岡芳年については補足をしておきましょう。

*************************************

補足
月岡芳年(つきおか よしとし):1839年4月30日(天保10年3月17日)~1892年(明治25年)6月9日)。幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師。姓は吉岡のちに月岡。本名は米次郎。画号は、一魁斎芳年、魁斎、玉桜楼、咀華亭、子英、そして最後に大蘇芳年を用いた。

河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手であった。また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねている。

歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がけ、各分野において独特の画風を見せる絵師である。多数の作品がある周囲の中で、決して多いとは言えない点数でありながら、衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。

浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師であり、門下からは日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」と評価されることもある。

昭和時代などは、陰惨な場面を好んで描く絵師というイメージが勝って、一般的人気(専門家の評価とは別)の振るわないところがあったが、その後、画業全般が広く知られるようになるに連れて、一般にも再評価される絵師の一人となっている。

*月岡芳年は「血みどろ絵」の作者という印象が強いのだろうが、本来は縦2枚続き、横3枚綴りの作品が最高傑作に位置する作品だと思います。



天保10年3月17日(1839年4月30日)、江戸新橋南大坂町(武蔵国豊島郡新橋南大坂町[現・東京都中央区銀座八丁目6番]。他説では、武蔵国豊島郡大久保[現・東京都新宿区大久保])の商家である吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる。のちに、京都の画家の家である月岡家・月岡雪斎の養子となる(自称の説有り、他に父の従兄弟であった薬種京屋織三郎の養子となったのち、初めに松月という四条派の絵師についていたが、これでは売れないと見限って歌川国芳に入門したという話もある)。

*月岡雪斎の作品、さらには月岡雪斎の父である月岡雪鼎の作品は本ブログにも投稿されています。

嘉永3年(1850年)、12歳で歌川国芳に入門。武者絵や役者絵などを手掛ける。
嘉永6年(1853年)、15歳のときに『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く。同年錦絵初作品『文治元年平家一門海中落入図』(大判3枚続)を一魁斎芳年の号で発表。
慶応元年(1865年)に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承、中橋に居住した。

慶応2年(1866年)には橘町2丁目に住し、同年12月から慶応3年(1867年)6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。一連の血なまぐさい作品のなかでも、殊に凄まじいものであった。

明治元年(1868年)、『魁題百撰相』を描く。これは、彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の旭斎年景とともに取材した後に描いた作品である。続いて、
明治2年(1869年)頃までに『東錦浮世稿談』などを発表する。この頃、桶町、日吉町に住む。

明治3年(1870年)頃から神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。
1872年(明治4年/明治5年)、自信作であった『一魁随筆』のシリーズが人気かんばしくないことに心を傷め、やがて強度の神経衰弱に罹ってしまう。

翌1873年(明治6年)には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を大蘇芳年に変える。また、従来の浮世絵に飽き足らずに菊池容斎の画風や洋風画などを研究し、本格的な画技を伸ばすことに努め、歴史的な事件に取材した作品を多く描いた。
1874年(明治7年)、6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表。芳幾の新聞錦絵に刺激を受け、同年には『名誉新聞』を開始、
1875年(明治8年)、『郵便報知新聞錦絵』を開始。これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。1
876年(明治9年)、南金六町に住む。
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発し、この戦争を題材とした錦絵の需要が高まると、芳年自身が取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。
1878年(明治11年)には丸屋町に住んでおり、天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。
1879年(明治12年)に再び南金六町に戻り、さらに宮永町へ転居しているが、この時期、手伝いにきていた坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会っている。
1882年(明治15年)、絵入自由新聞に月給百円の高給で入社するが、1884年(明治17年)に『自由燈』に挿絵を描いたことで絵入自由新聞と問題になる。また、『読売新聞』にも挿絵を描く。
1883年(明治16年)、『根津花やしき大松楼』に描かれている幻太夫との関係も生じるが、別れています。
1884年(明治17年)、坂巻泰と正式に結婚する。

1885年(明治18年)、代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって『東京流行細見記』(当時の東京府における人気番付)明治18年版の「浮世屋絵工部」、すなわち「浮世絵師部門」で、落合芳幾・小林永濯・豊原国周らを押さえて筆頭に挙げられ、名実共に明治浮世絵界の第一人者となる。この頃から、縦2枚続の歴史画、物語絵などの旺盛な制作によって新風を起こし、門人も80名を超していた。この年、浅草須賀町に移る。
1886年(明治19年)10月、やまと新聞社に入社、錦絵『近世人物誌』を2年継続して掲載する。 1888年(明治21年)、「近世人物誌」を20でやめ、錦絵新聞附録とする。この時期までに200人余りの弟子がいたといわれる。
その後、『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』などを出し、自己の世界を広げて浮世絵色の脱した作品を作るが、それに危機を覚えてか、本画家としても活躍し始める。『月百姿』のシリーズは芳年の歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作に挙げられる。また、弟子たちを他の画家に送り込んでさまざまな分野で活躍させた。

晩年にあたる1891年(明治24年)、ファンタジックで怪異な作品『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれていき、再び神経を病んで眼も悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続く。
1892年(明治25年)、新富座の絵看板を右田年英を助手にして製作するものの、病状が悪化し、巣鴨病院に入院する。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放されて退院。6月9日、東京市本所区藤代町(現・東京都墨田区両国)の仮寓(仮の住まい)で脳充血のために死亡した(享年54、満53歳没)。しかし、『やまと新聞』では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。

芳年の墓は新宿区新宿の専福寺にある。法名は大蘇院釈芳年居士。1898年(明治31年)には岡倉天心を中心とする人々によって向島百花園内に記念碑(月岡芳年翁之碑)が建てられた。

*************************************

画中にあるのは描いた状況を説明したものです。



月岡芳年の幾つかの評価をまとめたものが下記の記述です。

*************************************

江戸川乱歩や三島由紀夫などの偏愛のために、「芳年といえば無惨絵」と思われがちであるが、その画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画にわたる。近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきている。師匠・歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。

もともと四条派の画家に弟子入りしたためか、本人の曰く「四条派の影響を強く受けた」肉筆画も手がけている。彼自身、浮世絵だけを学ぶことをよしとしなかったため、様々な画風を学んでいる。写生を重要視している。 芳年の絵には師の国芳から受け継いだ華麗な色遣い、自在な技法が見える。しかし、師匠以上に構図や技法の点で工夫が見られる。動きの瞬間をストップモーションのように止めて見せる技法は、昭和期以降に発展してきた漫画や劇画にも通じるものがあり、劇画の先駆者との評もある。

『大日本史略図会』中の日本武尊や、1883年(明治16年)の大判3枚続『藤原保昌月下弄笛図』(千葉市美術館所蔵)など、芳年には歴史絵の傑作がある。明治という時代のせいか、彼の描く歴史上の人物は型どおりに納まらず、近代の自意識を感じさせるものとなっている。美人画・風俗画も手がけており、『風俗三十二相』でみずみずしい女性たちを描いた。

初期の作品『英名二十八衆句』(落合芳幾との競作)では、血を表現するにあたって、染料に膠を混ぜて光らすなどの工夫をしている。この作品は歌川国芳(一勇斎国芳)の『鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)』に触発されて作られた。これは芝居小屋の中の血みどろを参考にしている。当時はこのような見世物が流行っていた。

芳年は写生を大切にしており、幕末の動乱期には斬首された生首を、明治元年(1868年)の戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生している。しかし、想像力を駆使して描くこともあり、1885年(明治18年)に刊行された代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』など、その一例と言える。責め絵(主に女性を縛った絵)で有名な伊藤晴雨は、この絵を見た後、芳年が多くの作品で実践するのと同じく実際に妊婦を吊るして写生したのか気になり、妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験したという。そうして撮った写真を分析したところ、おかしな点があったため、モデルを仕立てての写生ではなく想像によって描かれたという結論に達した。その後、芳年の弟子にこのことを話すと、弟子は「師匠がその写真を見たら大変喜ぶだろう」と答えたという。

月岡芳年と言えば、凄惨(せいさん)な殺戮(さつりく)の場面をどぎついほどの強烈な表現で描き出した「血みどろ絵」の作者という印象が強い。事実、幕末から明治維新にかけての動乱の時代に、歌舞伎の「夏祭浪花鑑」や「東海道四谷怪談」、あるいは講談や軍記物の講釈などの大衆娯楽の世界から特に「殺し」の場面を選び出して絵画化した「英名二十八衆句」や「魁題(かいだい)百撰相」などのシリーズが芳年の名前を「血みどろ絵」と結びつけてしまったことは確かであろう。

月岡芳年『英名二十八衆句:直助権兵衛』



 しかし、芳年の画境はそれだけではない。同じ頃、師の歌川国芳から学んだ壮麗な源平合戦図や、当時の人気俳優を主題にした役者絵、さらには有名呉服店が軒を連ねる華やかな「東京尾張町之図」、蒸気鉄道車が煙をあげる文明開化期の東京の姿を残している。

月岡芳年の代表作「藤原保昌月下弄笛図」大判錦絵
絵三枚続、1883年



月に対しては名前のせいもあって思い入れがあるようで、月の出てくる作品が多く、『月百姿』という100枚にもおよぶ連作も手がけている。これは芳年晩年の傑作とされる。

月岡芳年「月百姿 吼噦」



幽霊画も『幽霊之図』『宿場女郎図』などを描いており、芳年自身が女郎の幽霊を見たといわれている。

月岡芳年の画家としての活躍は21歳から54歳までの33年間で、晩年の弟子山中古洞の分析では、芳年の作品のテーマは約500ほどであり、同じテーマの作品を複数製作することも多く、なかには同じテーマで100点もの作品を作った例もある。そのために芳年の生涯での製作作数は1万にも及ぶと見られている。またそれ以外にも本、雑誌、新聞などの挿絵が無数にあり、多くの浮世絵作家の中でも三代豊国や葛飾北斎に次ぐ多作家であろうとされている。

*************************************

長々と記述しましたが、幕末の歌川派に代表されるように形骸化した浮世絵に反発してか、明治期の版画は活況を呈します。その橋渡しに一人に月岡芳年が位置しているようにも思えます。



孤島に置き去りにされた俊寛・・・、意識次第では幸福感を味わえたろうに・・。出世欲、地位欲、金銭欲、そして淫欲から離れてみれば、もっと違う景色を感じることもあったろうにと縁側でひとり考えてしまいます。欲に流される人間は結局、その欲の対象から裏切られることになることを意外に知らない方が多い。

「コロナウイルスの状況下で外食・外車・海外旅行と書いて、害食・害車・海害旅行と書き直してみればよい。」とはどなたかの弁・・。普段できることができなくなっても、人生の楽しみがいろいろとほかにある方は幸せであり、コロナウイルスの状況下で「違う景色が見えたこと、そして学んだこと」が多々ある方は人生経験が豊かな方かもしれません。

アッシーヂの寺 原精一画

$
0
0
最近、お気に入りのマスクです。解りにくいですが上の文様は蝶です。家内が作ってくれたもので、不要になったハンカチで作っています。



さて絵画については日本画の作品の多い本ブログでの投稿記事ですが、時には洋画を紹介したいと思っています。そこで本日は高いデッサン力で、裸婦画や人物画を数多く描いた画家「原精一」の作品の紹介です。本日は人物画ではなく風景画の作品です。

アッシーヂの寺 原精一画
油彩額装 誂タトウ+黄袋
画サイズ:縦227*横158 未測定



アッシージとは下記の場所のようです。

**********************************

アッシ―ヂ:アッシジ イタリア共和国ウンブリア州ペルージャ県にある都市。 フランシスコ会の創設者である聖フランチェスコの出身地として知られており、キリスト教の巡礼地としての性格を持つ都市でもある。

**********************************



フランチェスコの名を冠した聖堂やフランシスコ会関連施設は「アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群」として世界遺産に登録されているそうです。



改めてまして原精一の画歴は下記の通りです。

********************************************

原精一:1908年に生まれた昭和期に活躍した洋画家。原精一は高いデッサン力で裸婦画や人物画を多く描き、独特のタッチに繊細な写実力が特徴。

画家を志した原精一は万鉄五郎に師事し、高い絵画技術とその精神を、その後の作品に活かしています。また、戦中画家で2度の招集を受け、戦場をさまよっていた記録があります。しかし、そんな状況の中スケッチを描き続け、その数は数百枚に及び、個展が開かれる程の高いクオリティを保っています。

そんな原精一は師事していた鉄五郎の唯一の弟子と言って良いほど個性的な画家でした。通常、師事する画家の影響を受けることが一般的なのですが、原精一の場合、作風はまったく別です。鉄五郎の特徴あるフォ–ビスム、キュビスムとした作風とは違い、独特な油彩独特のタッチを写実的に描く原精一はこの師弟関係を精神的なつながりと表現しています。

強い精神力を宿した原精一は“書く”という作業に取り憑かれ、時間さえあれば作品を作っていました。原精一の作品の代表作は「裸婦」ですが、憂いのあるような顔つきの女性が果敢なげに遠くを見つめている姿が特徴的で、暖色系を基本とした色彩のバランスや、明るい光りの使い方などで爽やかな印象すらも受けます。ガッチリとした骨太なラインで描かれる女性の姿も独特でインパクトを与えます。まさに、たおやかな人柄ながら芯の通った原精一の人間性を表していると言えるでしょう。

戦後、帰国した原精一は画家として大きく評価を得ていきます。1948年には図画会に会員として迎えられ、1964年まで在籍しています。その期間も同展に自らの作品も出品しています。

フランスをはじめとするヨーロッパにも渡り、生涯自らの芸術の真髄を追求していきます。デッサンを通じ、全ての対象物の核となる真実を見出してきた原精一の作品と生き様に、未だなお多くの人々が憧れ、尊敬している画家でしょう。

********************************************

本作品は黄袋とタトウを誂えるために市内の額縁店に預けてあるのですが、この度のコロナウイルスの影響で作品が返ってきません。この投稿予定日まで返却されていないので展示室での撮影写真はまだありませんので、ご了解ください。



「フランスをはじめとするヨーロッパにも渡り、生涯自らの芸術の真髄を追求していきます。」という記事にあるようにイタリアに渡航した際に描いた作品と推定されます。



原精一が得意とする裸婦の作品ではなく、この風景画に強く惹かれるものを感じたのは力強い筆致です。小さな作品ですので飾る場所が限定されるでしょうから、その空間に合うのには裸婦よりも風景画だろうという理由もありました。



本ブログでは原精一の作品では下記の作品を紹介しています。

婦人像 原精一筆
紙本水彩額装
画サイズ:縦370*横270



この作品には「於南京 昭和十五年(1940年)一月二十日」と記されてあり、最初の中国大陸への従軍し、1941年に召集を解かれる直前の南京に従軍していた時のスケッチではないかと推察されます。

洋画にはあまり縁のない当方の蒐集ですが、飾っての愉しむのには日本画も洋画も特にこだわってはいません。

渓秋太公望 伝谷文晃筆

$
0
0
谷文晁の作品の紹介は本ブログで2作品目の紹介となります。なお子息の谷文一の作品についても本ブログに紹介されています。いずれの作品も当方では真作と判断している作品ですが、相変わらず「伝」としておきましょう。

*谷文晁の他の作品、谷文一の作品は本ブログの記事を参考にしてください。



ただ正直なところ、この偉大な画家を当方、並びに家内もまたあまり好みとしていません。青緑山水画などの作品は、「仕官している画家」として捉えているせいか、派手さはあっても渋味がないという、どこか面白味に欠けている趣向の作品と感じられ、当方の趣向と合わない画風としてとらえているせいかもしれません。



本日紹介する作品はまだ若い頃の作と思われる谷文晁の作品です。この作品は当方の趣向と合っていると感じています

渓秋太公望 伝谷文晃筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 佐竹永陵鑑定箱入
全体サイズ:縦2000*横520 画サイズ:縦1125*横440

 

賛には「甲虎仲冬於小峰山房 文晁筆 押印(朱文白方印「谷文晁印」)とあり、34歳頃の1794年(寛政6年)冬に描いた作品と推定されます。

 

「小峰山房」とは谷文晁がちょうどこの頃に奥州関門の名城と謳われた白河小峰城の三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えていますので、「小峰山房」とはこのアトリエのことでしょう。後になって開設された有名な写山楼の前身のアトリエと言えるのかもしれません。印章の確認は手元に資料が少なく後学とします。



款記中の「仲冬」は冬三か月の中の月、陰暦11月の異名のことです。12月10日から1月7日が陰暦11月にあたります。寛政6年に文晁は2月27日に感応寺にて古画鑑賞会を催し、馬孟熙等の作品を縮写しています。4月2日には縮写をまとめた「書画甲鑑」が成されています。夏には松平定信の入封に従って白河に赴いています。さらに松島に遊びこの年はこのままま白河にて越年したようです。よって本作品は寛政6年の年末ではなく、1月初旬に描かれた作品と推定されます。



谷文晁の30歳前後の例歴は下記の資料のとおりです。

**********************************************

谷文晁と画塾写山楼:26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した。30歳のとき、田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり、定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。

寛政5年(1793年)には定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し、図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し、古書画や古宝物の写生を行った。また「石山寺縁起絵巻」の補作を行っている。

奥州関門の名城と謳われた白河小峰城三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えた。白河だるま市のだるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされている。文晁は自他共に認める旅好きで、30歳になるまで日本全国をさかんに旅し、行ったことのない国は4、5か国に過ぎなかったという。

旅の途次に各地の山を写生し、名著『日本名山図絵』として刊行した。文化9年(1812年)に著した『日本名山図会』は、日本の代表的山岳89座の風景を90葉の画で表したものであり、当時広く親しまれ、後世の山の見方に影響を与えたという。山岳の中では最も富士山を好み、富士峰図・芙蓉図などの名品を多数遺している。

画塾・写山楼には多くの弟子が入門し、渡辺崋山・立原杏所などのちの大家を輩出した。写山楼の名の由来は、下谷二長町に位置し、楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。なお、この写山楼は2階建て・20畳であった。弟子に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われた。しかし、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だった。弟子思いの師として有名であるが、権威主義的であるとの批判も残される。

**********************************************

*渡辺崋山、立原杏所らの作品も当方のブログで紹介されています。



巻き止めには「文晁老人筆 太公望図 (佐竹)永陵鑑 押印」とあります。箱裏には「後学永陵鑑於写山画(楼)?房中 押印」とあります。

 

佐竹永稜は明治期から昭和初期の日本画家で、「谷文晁の鑑定では第一人者」といわれています。 佐竹永稜は号、別号に写山画房・巍々堂などがあります。

佐竹永稜の作品は本ブログにおそらく投稿された作品はないと思いますが、先代の佐竹永海の作品は本ブログに投稿されています。

ちなみに佐竹永陵の来歴は下記のとおりです。

**********************************************

佐竹永稜:(さたけ えいりょう)明治5年5月5日(1872年6月10日)~ 昭和12年(1937年)1月8日)は明治期から昭和初期の日本画家。谷文晁の鑑定では第一人者といわれる。 旧姓黒田。名は銀十郎。永稜は号、別号に写山画房・巍々堂など。

東京浅草の生まれ。はじめ外祖父にあたる正木竜塘について書法を学ぶが、後に画に興味をもち佐竹永湖に師事する。谷文晁の南北合流の画法をよく学びその画力を認められ、明治20年(1887年)永湖の娘婿となり佐竹永海から続く佐竹家画系の3代目となった。

各種展覧会・共進会で受賞多数。宮内庁に実績が認められ数十回も御用品となる。明治27年(1894年)、明治天皇御前揮毫の栄誉に浴し、その後も大正天皇の御前揮毫を三回行っている。

明治31年(1898年)、日本画会の結成に参画、明治39年(1906年)には松林桂月・小坂芝田らと日本南宗画会を創設するなど活躍した。日本美術協会第一部委員・日本画家協会幹事・日本書道会幹事などの要職を歴任。享年66。谷中霊園に墓がある。

文晁の実子谷文二が夭折し、文晁門の粉本類・遺作などは佐竹家に伝わった。文晁の研究を熱心に行い、文晁の作品鑑定の第一人者といわれた。しかし、大正期の火災によりこれら粉本類や諸記録などはすべて焼失した。

**********************************************

大切な資料がすべて失われたというから、火災は怖いものですね。蒐集する者にとって火災は天敵です。



表具も古いままでいい表具ですので、多少の折れ目があるもののこのままとします。



以上のような知見?を踏まえて購入する際には、たよりない美的感性と相俟って購入に踏み切りましたが、一応真贋は不詳ですが、かなりの確率で真作に相違ないと考えています。

ただしこの構図と同じ作品は谷文晁の作品には他にもあります。たとえば下記のような作品ですが、他にもあるかもしれません。

谷文晁 太公望之図 
文化10年(1813年)
軸寸(軸先まで)236×84  画寸(絹本)131×65 二重箱 (売値:33万円)

 

この作品が描かれたとされる文化10年9月には木村蒹葭の13回忌に伴い大応寺にて書画展覧会が催されています。この時に有名な「木村蒹葭堂肖像」が出品されています。ブログで紹介した本作品より大きな作品ですが、共に書画鑑賞会の前に描かれているのは興味深いです。

同図の作品は贋作も疑われますが、ただ多くの日本画家は描いた作品の下絵をもっており、その下絵をもとに驚くほど同じ構図の作品を描くことがあります。南画もまた本来思いつくままに筆をふるったようでありながら、同じような構図の作品があって、頭を悩ませるものです。



上記作品は本ブログで紹介した作品より約20年後の作品で、より太公望の不気味さが洗練されて表現されているように思います。

画題の太公望(呂尚)については何度か本ブログに記事を投稿していますが、詳細な記述は下記のとおりです。

**********************************************

呂尚(りょ しょう):紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖姓は姜。氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。

歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。
『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。
また周に仕える以前は殷の帝辛 (紂王) に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌 (後の文王) のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。

営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆棱(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという。しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に建立された。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。また、古今の名将十人が唐代の史館により選ばれ、太公望と共に祀られた(武廟十哲)。782年、徳宗の命により唐代の史館が新たに六十四人の名将を選出し、武成王廟に合祀された(武廟六十四将)。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた。

太公望:中国周時代の賢者。氏は呂、名は尚。魚を釣って沈思することを楽しみとしていた。時に西伯(文王)が猟に出ようと占うと獲るものは動物ではなく自分を補佐する人物とでた。そして、渭水のほとりでこの呂尚と出会い、喜んで師とした。これより、太公望は西伯を援けて王者の師となった。これより、太公望は西伯を援けて天下の三分の二を領し、ついで武王を援けて紂を破って周の天下となし、百余歳でなお王の師であった。太公望が江岸に釣糸を垂れる図は古来から好画材であった。海北友松、尾形光琳等の作品がある。

**********************************************

*太公望を描いた作品は本ブログでも他に幾つかの作品を紹介しています。



この作品は太公望の奇異な顔に注目しがちですが、周囲の描き方にも画力がうかがえます。



あまり好みでなかった谷文晁ですが、この作品は気に入りました。



太公望・・・、したたかな策士、「熟慮を重ねて行動せよ。」か、これは経営者に必要不可欠な要素かもしれません。






炉廻文螺鈿蒔絵絵馬形敷板 伝柴田是真作

$
0
0
土曜日になると、投稿の内容もおろそかになりがちです。もともと文章を書くのは苦手だし、たとえ書くにしても推敲を充分に行わないと、支離滅裂な文章になりかねない怖さがあります。実はブログの投稿にはかなり抵抗があり支度はないという気持ちが今でもあります。ただ作品整理へのエネルギー源としては、重要なファクターになっているのは事実でしょう。ガラクタの多い蒐集作品を並べるのが苦痛なのに、長く続いているのは飽きっぽい小生には珍事と言えましょう。

さて、本日は投稿する作品も少なくなってきたので、最近の茶室を撮影してみました。別に来客の予定もなく、当方の好みや調べる対象の作品を好き勝手に展示しています。



その茶室に並べている作品の香合の敷板に使っている作品が本日紹介する作品です。柴田是真の作品らしき小品・・・・。

炉廻文螺鈿蒔絵 絵馬形敷板 伝柴田是真作
合箱入
作品サイズ:幅132*厚み16



いったい何に使うのでしょうか? 家内に聞いても解りません。



茶道具の窯と炉箒、窯環を描いたものようです。



渋い作品?ですね。



幾つかの揃いであった作品かもしれませんね。



裏側は木目のまま・・。



柴田是真の漆の作品には印章のない作品もあります。当方における柴田是真の作品は日本画の作品が多く、漆器はまだ未開拓の分野です。というか市場には柴田是真の漆器作品はもはや見当たらないかもしれません。また人気ゆえに日本画には贋作が数多くありますね。頭を悩ます分野でもあります。

 

柴田是真の漆器は超絶技法を呼ばれていますが、それはもっと凝った作品ですね。



真塗に描いた作品のほうが人気が高いでしょうが、下地の木目を生かした作品も柴田是真の作品には数多くあります。



小さめの作品には下記の作品があります。



なお本作品には「敷板」とあります。敷板の説明は下記のとおりです。

********************************************

敷板:風炉の下に敷き風炉を乗せる板のことです。風炉の熱気が畳へ伝わるのを防ぐ他、風炉を安定させる役割があります。元々風炉は台子の上に置かれていました。

時代と共に釜の形に合わせた様々な風炉がつくられ、鉄や焼物などの素材も用いられるようになり、風炉は畳の上で使われるようになってから風炉を乗せる敷板が必要とされ、使用するようになりました。流儀や好みによって色々な敷板があり、陶磁器製の敷瓦などもあります。

敷板は「真塗」が正式とされ、唐銅風炉だけに用いられます。黒掻合(くろかきあわせ)板は多くの風炉に使用され、土風炉、唐銅風炉、切掛風炉、瓶掛などに用いられます。

********************************************

風炉の敷板には小さすぎるでしょうが、いろんな用途に使えそうで使い勝手がよさそうです。



香合の敷板・・。是真だろうがなかろうが当方は知ったことではありません? だいたい茶室の照明程度では「是真」の落款には気が付くまい。



作品と遊べや、遊べ。息子曰く「パパはおもちゃがたくさんあっていいね!」だとさ。そう「おもちゃ」の文章を書くのに夜遅くまで四苦八苦しているのさ・・











羅漢之図 橋本雅邦筆

$
0
0
本日は当方で勉強中の橋本雅邦の作品の紹介です。橋本雅邦の作品はまだ30代の頃に双幅の作品は大枚をはたいて購入したり、師とする親戚の方から真作を何点か見せていただいたりとなにかと当方と縁のある画家ですが、なにしろ贋作が多いので作品と出会うと未だに右往左往している状況です。



羅漢之図 橋本雅邦筆
水墨淡彩軸装 軸先骨 鑑定箱  
全体サイズ:横570*縦1975 画サイズ:横425*縦1200

 

落款と印章は下記の左写真のとおりです。印章は見慣れている印章を似てはいるものの違う印章ですね。これだけで贋作というのは早計でしょうね。



落款は右の真作の写真と書体が近似しております。まだ若い頃の作品ではないかと推察しています。



右の作品解説        
紙雛 橋本雅邦筆 水墨着色秀邦鑑定箱 画サイズ:横325*縦1035

 

状態、色彩、筆致を含めて実にきれいな作品です。状態がいいので表具は再表具しているのでしょう。



箱はどなたかの鑑定箱のようです。

 

「侮れない作品」というのが当方の判断です。



雅邦の真贋はプロでも難しく、画集に掲載されていないかぎり真作と認めないという風潮するあります。



「おそらく真作でしょう。」というのが当方の判断です。



これは感ですけどね・・・・、もとい「勘」。





古伊賀焼・古信楽? 煎餅壺

$
0
0
古い煎餅餅と称される作品への二度目のチャレンジです。最初の作品の入手はどうやら失敗らしいですが、一度の失敗くらいで懲りないのが当方の性分のようです。



ブログで紹介したようにひと作品目は大いなる惨敗、ひと作品目下記の作品ですが、現在は屋根裏行・・。

古伊賀焼 煎餅壺→贋作(近代作)
合箱入
口径113*胴径*底径*高さ285



本作品には次のようなコメントも頂きました。「良い物をお持ちですね。ですが、この伊賀は「いけません」贋作ですね。口造りや造り込み、高台等全てダメです。」というコメント・・・

ま~、煎餅壺というよりも「壺」なる作品に挑戦し始めてばかりの頃の入手でしたので詳しい方から見ると失敗作のひとつなのでしょう。今でも見識はそれほど向上していませんが、現在の見識では「姿が悪い、釉薬の発色も汚い、高台は低すぎ」ということなのでしょう。

*この手の壺はネズミなどが入らぬように高台は明確に高めの作られるらしい。



さて本日紹介する作品です。失敗してもチャレンジあるのみ・・。

古伊賀焼・古信楽? 煎餅壺
合箱入
口径*胴径*底径*高さ275



再度若干「煎餅壺」なる作品の復習をしてみます。

まずは煎餅壺の名の由来

1.土肌がぷくぷくっと焼けて膨らんだような感じが煎餅が焼けたところのように見えるという説で、元来は茶葉を入れる器だったが、茶葉を入れて蔵に置いたとき、ネズミが後ろ脚をかけられない、いわゆる“鼠返し”の形となっている。
2.銭壺(せんつぼ)からだんだんと音読みから煎餅壺に変わっていったという説。
銭を入れる器に使われたという説。
3.本当の煎餅を入れたという説

結局「煎餅壺」という名の由来は明確には解らないようです。

煎餅壺として実用性を重んじた作行がメインですが、その姿の良さから茶人が珍重したようですね。



自然釉薬の垂れ、火面・火裏のはっきりしたものが良く、何と言ってもすっきりした形の良いものが珍重されたようです。



主だった粘土は信楽も伊賀も同じものを使っていため、焼き上がりの肌だけで信楽か伊賀かを見極めるのは難しいようです。強いて言うなら土肌にちょっとぷつぷつと白い粒が吹き出しているのが信楽の大きな特徴としか言いようがないのでしょう。これは陶土を水で漉して細かいものだけを残す、という処理を信楽では行なわないためのようです。

「伊賀焼は基本的に無釉で、自然発生した釉薬、ビードロという緑色の釉薬が掛かったり、灰かぶりという、まきの灰がかかり黒っぽい釉薬となって自然発生します。全体には素朴で、無骨な感じがします。また伊賀の土は鉄分が少なく、耐火度が非常に高いので硬く焼けます。灰のかからない所は土味が緋色になって赤く出ます。さらには粘土の中に含まれる長石が浮き上がって白い点になり、珪石は石はぜになる。」と言われていますが、これも焼成具合では信楽焼にも当てはまる事項ですね。



本作品は肌の様子から古信楽と思われますが、当方では正直なところ判断がつきかねています。ところで古信楽では釉薬が掛かった面白さと胎土のかせた感じの面白さと両方の魅力のある作品が存在します。贋作は一般に自然釉が掛かったものが多く、かせた感じの贋作は作るのが難しいのかあまりないように思われます。



本作品の底にはいわゆる下駄印が見られます。器物の底に下駄歯のように二条の痕のあるものです。凹んだものを「入り下駄」、凸のものを「出下駄」といいます。

これは作品をロクロ引きするさいに、中心がずれないよう固定した跡といわれます。こうするとロクロからの離れもよく、焼成しても底に隙間ができるのでくっつきにくくなります。伊賀の下駄起こし、信楽の足駄焼は有名です。いずれも継櫨台が不完全だったためにできたものらしいです。



なお下駄痕は古丹波・常滑にもあります。丹波のものは時代の降った信楽の下駄痕のように形が正しく、長く、間遠であろと言われています。常滑のはやや安土・桃山時代の信楽に似ており、出下駄もあり入り下駄もあるようです。なお常滑には平安時代末から下駄印が一部分にみられています。なお古備前で下駄印があるのは極めて珍しいと言われていますが、意外に多いかもしれません。



なにはともあれ庭に置いてたり、庭に咲いていた牡丹を活けてみては、作品の良否をうかがっています。



要は古信楽としなければ、花入れとして使えるか否か・・・

古備前波状文壷 その5 室町前期

$
0
0
マンションが多くなった都会の住宅事情などの理由から居場所を失ったのは掛け軸ばかりではなさそうです。大きな壺もまた居場所を失っているように思われます。居場所を失った作品らが当方に迷い込んでくるのかもしれせんが、手頃な大きさを選ぶとしても、当方でもあまり数多くなるのは考え物の作品群です。飾るにもせいぜいひとつかふたつが妥当で、収納するに場所をとる・・・



古備前波状文壷 その5 室町前期
合箱
口径約138*胴径*底径約153*高さ280



本作品には窯印がなく、「肩のはり」はすんなりとしており、玉縁が柔らかい形状を成しています。底には下駄印があり、古備前では下駄印があるのは極めて珍しくい?とされ、このような作り方の特徴の壺は室町初期の古い手のもの? 定かではありません。



備前焼に、彫られた窯印が見られる様になったのは、一般的には、室町時代中期以降であると言われています。大窯を共同で焚くようになって、各自の製品がわかる様に手印を入れたのが始まりであろうと思われます。窯印も後代になっては、その様な目的だけではなく、自己の製品の優秀性を表示する商標の如きものに変わってきたとされています。



窯印の書かれた場所、大きさなども多様で、室町時代後期のものは大きく、肩、胴部に彫っていますが、時代が下がってくるに従って小さく、底部に彫られるようになり、押印も桃山時代から見られるようになって、江戸中期以降は押印の方が彫印より多くなったという記事があります。特殊なものには古備前大瓶の肩に彫られた窯印があるそうです。



さて本作品には窯印が見られません。これだけで「窯印のできる室町中期以前の作」とはむろん決めきれませんね。戦乱の世になってくるに従い、個々の窯で焼成するのが難しくなり、共同窯で焼成することから窯印が増えたとはいえ、当然窯印のない作品も多数あったものと推測されるでしょう。



備前の陶印はその大部分が共同窯に於いてその所属を明らかにするための窯印であって、その窯印には家号を用いており、丹波では共同窯の場合には各窯の部屋のよって区別しているため窯印の必要がなく、主として作者名が彫ってあるそうです。



室町時代中期の古備前には玉縁が多いですが、この時代の玉縁が最も力がある作行が多いようです。そして肩が張っている特徴があります。これより古い作品はもっとすんなりしているらしい。むろん窯印があってすんなりした形状の作品もあるでしょうから、このことからも時代を限定することはできませんね。



古備前で下駄印があるのは極めて珍しいという記事があります。胴と底を別に作っているので、それをはめ込んだ跡が高台に残るそうで、この手の物は室町初期~中期の古い手のものに多いとされるそうです。



以上より本作品を大胆にも「室町時代初期」と断定できるかどうかは確かでありません。



本体の汚れを洗い流して、水を一杯にして庭に咲いた紅白の牡丹を活けてみました。水のシミ具合もちょうどよさそうです。水が沁み出してこないとかえってつまらないかもしれませんね。不思議なことに二日、三日経つと水が沁み出てこなくなります

この現象は下記の作品で以前に本ブログで紹介した「古備前波状文壷 その4」(窯印在)も同じです。水圧との関連かな? 



当方は時代はどうあれ、今のところこの花を活けて、さらに水の染み出し具合を鑑賞して作品の良し悪しを判断しています。むろん本体の景色も評価の対象です。火表、火裏の対比も評価のポイントとされています。



壺は「ど~んと置くだけ」というのはある意味で面白味がないかもしれませんね。



軒下に壺だらけという御仁もいましたが、ともかく部屋が壷だらけにならないように注意しなくてはなりませんね。備前の壺の作品も取捨選択にさしかかっていますが、先人の蒐集した作品(家に伝来している作品)に敵う作品がまだ蒐集できていない状況です。

古九谷 吸坂手錆釉山水文瓢形徳利 

$
0
0
まだ小学校がきちんとは始まらない息子は昨日は畑に収穫に出かけたようです。今までにはサヤエンドウ、スナップエンドウが食卓に多かったのですが、次は・・。



指導は近所のおじさん、なるほど葱と玉ねぎか・・・。



さて本日の本日の作品です。以前に本ブログに下記の作品を「伝吸坂手の作品」として紹介したことがありますが、ブログへのコメントのより「お持ちの吸坂等は…明治以降の物が多いです。」とのことです。つまり明治時代の「伝吸坂手の作品」とのことなのでしょう。

倣古九谷様式(明治期) 吸坂手徳利 
合箱入
口径約30*最大胴径70*径67*高さ186



古九谷様式と分類されるだけで異常な人気がある作品群があります。「吸坂手の作品」もその作品群のひとつのようで、古九谷というと「色絵」とばかり思われていますが、「吸坂手の作品」のような地味な?作品群も古九谷様式に分類される作品群です。

当方は相変わらず失敗に懲りずに再度チャレンジしており、本日は再チャレンジした「吸坂手」の作品の紹介です。

古九谷様式 吸坂手錆釉山水文瓢形徳利 
古箱入
口径約30*最大胴径105*底径*高さ195



「吸坂手」のついて復習してみましょう。

詳しくは知りませんが、吸坂窯は江沼郡吸坂村(現在の加賀市吸坂町 大聖寺の東北約2キロメートルの丘陵地)にあったといわれていましたが、この窯に関しては不明なことが多く、今後、究明されることが必要とされているようです。

この窯の興亡について、『秘要雑集』『大聖寺御算用場年代記』『茇憩紀聞』などから、
まずは、貞享2年(1685)、久保次郎兵衛が吸坂村に築窯し製陶を始めましたが、窯がいつのまにか休止となったこと、元禄13年(1700)、製陶を再開するため燃料用の松木を購入したいと松奉行に願い出て許可されたものの、半年後に窯が閉じられたこと、
そして、天保期に吸坂村の源太郎が瓦と陶器を焼きましたが、天保15年(1844)までには窯が閉じられたこと、
などがわかります。窯跡は2基見つかったものの、耕地整理が行われたため破壊されています。



この技巧に優れた生掛け焼成による柔らかい釉調の鉄釉作品はこの石川県加賀市の吸坂地区で焼成されたとの説が唱えられ、その地名から「吸坂」と名付けられました。しかし、有田古窯跡の山小屋や百間窯等で、吸坂とされる鉄釉陶片が確認された事によって誤認である事が立証されたと記事にはあります。



鉄釉を主体とした吸坂は有田産という事が確定されていますが、 現在も「吸坂(すいさか)」という地名を冠した呼称は残っています。吸坂焼と称されるやきものは、釉は鉄釉・柿釉・錆釉・瑠璃釉・灰釉などが使われ、茶道具類や徳利・皿・鉢などの飲食器類などが伝わっています。



本作品に対して最初の印象について、家内曰く「いまいちね。」だと・・・。家内はいつでも小生の蒐集には手厳しい批評家です。その評価が当たっていることが多いのですが・・。



真の蒐集する者?は最初の作品の入手のような一度の失敗には懲りないものです。失敗に懲りてしまう者は鑑識眼は向上しませんが、反省しないで勉強しない者はそれより困った者のようです さて当方はどちらに分類されるやら・・。



そころで絵付けの山水はおもしろいのかおかしいのか・・・。どちらかというと味がある絵付けだと思っているのですが・・。



インターネット上には下記のような名品があります。

古九谷様式 吸坂手金銀彩楼閣山水文皿



古九谷様式 吸坂手錆釉鉄絵山水文徳利



さて本作品の用途は、当方では最近は酒を嗜むことが少なくなったので一輪挿でしょうかね?



庭に咲いていた絶滅危惧種のクマガイソウを活けてみました。義母と家内が「なかなかいいじゃないの」と言ってくれましたが、評価したのは花なのか花入れなのか・・。

これには前段がありまして、活けた際の床の掛け軸は最初は先日紹介した安田靫彦のまま・・。



家内から「さすがに季節が合わなさすぎる。」とのクレームがあり、クマガイソウの名の由来に関連のある作品を家内が探し出してきました。

絶滅危惧種のクマガイソウの名の由来は下記のとおりです。

*********************************************

クマガイソウの名の由来:和名の由来は、アツモリソウともに、膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣に見立て、源平合戦の熊谷直実(くまがい なおざね)と、一ノ谷の戦いで彼に討たれた平敦盛(たいら の あつもり)にあてたものである。

クマガイソウ:熊谷直実
アツモリソウ:平敦盛

ともに名の由来は武士が背中に背負った母衣に見立てもの

*********************************************



さすがに当方では熊谷直実を描いた作品は見当たらず、家内の推薦で源平合戦の「那須与一」を描いた作品を飾りました。つまり源平合戦の熊谷直実(くまがい なおざね)と、一ノ谷の戦いで彼に討たれた平敦盛(たいら の あつもり)に縁のある画題ということです。観る者もこれを承知していないとこちらの意図が解らないということになります。



描いたのは松村呉春。この作品は本ブログで詳細は投稿してあると思います。



これにて一件落着・・



まったくもって飾るということの難しさを改めて痛感しました。



骨董は「選ぶ(買う)、飾る(使う)、そして(知識とセンスと機転を)学ぶ。」か・・・ 

まことにものの真贋などいつもながら小事  



さて食卓には葱と玉ねぎがどう調理されてでてくるやら、そのほうが小生には大事。同じ食材でも取り合わせ(組み合わせ)が大切・・。









               






作品の見直し 浅絳山水訪友之図 釧雲泉筆? 文化2年(1805年)頃

$
0
0
息子が小生の執務室をレゴで作りたいというので、写真を撮ってきて見せたら、家内と二人でその写真を再現したらしい。帰宅すると「見て! 見て!!」と・・・・。なるほど即興のわりによくできている。



さて終活に向けて「要る作品と要らない作品」、「修理すべき作品と修理不要と判断する作品」などと整理をすすめていくと要らないと判断していた作品の中に「おっ」と思う作品が遺っていることがあります。



本日の作品は贋作と判断して放っておいた作品で、本ブログにも投稿していなかった作品と思われます。

何しろ掛け軸だけで当方で扱った作品数は1500作品近くありますので、何を投稿したかさえよく覚えていない状態です。



浅絳山水訪友之図 釧雲泉筆? 文化2年(1805年)頃
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2155*横410  画サイズ:縦1058*横275

 

寛政年間の頃の釧雲泉の作品の構図の大胆さ、そして文化年間の重々しさとは作風が違います。

 

絹本に描いた作品も珍しいということ、なにより違和感の一番は透明感のある近代風の色彩の趣に違和感があるととらえる人も多いかもしれません。



寛政の初期の頃の作品には透明感のある作品が多々ありますが、この落款の書体はすでに文化年間にさしかかる頃のものです。



軸の誂えはいいものです。軸部分の重み・・・、これはいつもそうですが、この重みはなんの根拠もなく真作にしかないものです。改装したものと推定されますが、贋作にはない表装の良さで、おそらく前の所蔵者は真作と判断していたのでしょう。



真作ならまだ江戸に居た頃、なにかいいことが釧雲泉にあったのかもしれません。



この頃の釧雲泉の来歴を紐解くと

享和年間
享和元年(1801年)、蒹葭堂を訪ねる。その後京都に赴き、享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住。儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わる。この頃に結婚したと推測される。

文化年間
文化3年4月(1806年)46歳の頃、大窪詩仏とともに信越に赴く。高崎から安中を抜け碓氷峠を越えて信濃入りし、信濃川を下って越後の柏崎に至る。その途次各地で画の依頼を受けて制作をしている。詩仏は引き返したが、雲泉は旅を続け三条で秋を過ごした。その後一旦、江戸に帰り、妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽くす。この間越後の各地を遍歴し石川侃斎、上田坦山、倉石米山、倉石乾山、行田八海などの門弟を育てている。文化5年(1808年)には燕の素封家の神保家に滞在し画作している。

*本作品が真作なら享和年間から文化年間にかけて江戸に在住していた頃の作となります。



多くの文人墨客と交わった心境を表現し、友人を訪ねた、もしくは友人が訪ねてきたことを描いたのかもしれません。



落款の書体は享保年間から文化年間初めの頃に一致します。印章は朱文白方印の「仲孚」は問題ありません。白文朱方印の「釧就之印」は見慣れた印章とは違うものです。

 

作風の軽さ(透明さ)と印章のひとつの違いで真作とは認めず破棄しようとしていた作品ですが、当方では保管すべき作品(保留作品)に分類し直しました。捨てきれない作品が多いとさっぱり終活にならないですね。終活はままならぬもの・・・  レゴのごとく部品があると好きな時に再現できるもののほうがいいいかも・・・。









涼趣 山元春挙筆

$
0
0
当方の日本画の蒐集対象の画家は一流の画家というよりも、一流の画家の影で忘れ去られつつある画家に焦点を当てて蒐集してきたように自らは思えます。資金の関係でそれが一番効率的だったからもあるでしょう。その画家らの作品は掛け軸の不人気により作品の値段が下落したことによります。

そのような作品に中に山元春挙の作品もありますが、作品が市場に出尽くしたからなのか、山元春挙の作品のいい作品がなかなか見つからなくなりました。本日はそんな状況で久しぶりに入手した山元春挙の作品の紹介ですが、ただ当方の蒐集対象のレベルとしては出来は物足りない作品です。

なお山元春挙が瀧(瀑布)を描いた作品は本ブログにおいては3作品目の紹介となります。



涼趣 山元春挙筆
絹本水墨着色軸装 軸先 鑑定箱
全体サイズ:横500*縦1730 画サイズ:横*縦(未測定)

 

山元春挙は雄大な山岳風景を題材に写実的で壮大なスケールの作品を次々と発表し、新時代の到来を感じさせる革新的な画家として人気を博しましたが、物足りないとはいえ本作品はその片鱗をうかがわせる作品です。



「山元春挙 -大明神と呼ばれた画家-」と題されて昨年4月に名都美術館(名古屋市中区)にて展覧会が開催されています。京都画壇では竹内栖鳳を並び称せられる画家ながら、現在はいまひとつ人気がないように思われますが、当方では陶磁器、茶道の関連で膳所焼再興に関連すること、学生時代に登山をしていたことから興味深い画家のひとりとしてとらえています。



本作品は山元春挙 が得意とする青と緑をつかった彩色画ではありませんが、水墨による表現は力強いものがあります。壮大でスケールの大きい風景画を得意としていた山元春挙は、その風景を描くためにカメラを持参するという方法を初めて試みた画家としても有名です。



表具もそれなりに立派ですが、残念ながら共箱ではありません。



この作品に印章は見慣れないものですが、おそらく真作に相違ないと当方では判断しています。



趣は今年の猛暑に備えた一品。



瀧を描いた掛け軸の作品はひと作品くらいは家に備えておきたいものですね。そのことは以前紹介した「瀑布」の作品にも記したような気がします。

掛け軸にも徐々にいい作品、掘り出し物的な作品が少なくなってきているのはコロナ禍も影響しているのでしょうか? 現状は物足りなく感じています このままだと蒐集活動もしばしテレワーク・・・・。


樹下家屋文瀬戸絵石皿 江戸後期

$
0
0
はてさて、もやは今年も6月です。コロナウイルス騒動で時間が経つのが早いのか、遅いのか・・・。

本日の作品紹介はいままで機会あるごとに紹介してきた瀬戸の絵皿ですが、本日もまた気に入った作品が入手できましたので紹介します。これほど絵の出来の良い瀬戸の絵皿は珍しいでしょう。

樹下家屋文瀬戸絵石皿 江戸後期
誂箱
口径255*高台径*高さ42



瀬戸の煮〆皿は江戸末期から瀬戸で大量に作られた雑器中の雑器です。石皿の特徴は呉須と鉄で絵付けされていて、皿の縁取りが広く取ってあること、高台が厚めに低めに作ってある事などです。煮〆を盛るのに良い感じなので、煮〆皿とも呼ぶようです。大量に作られたが故に、そこに描かれた絵や文字は、手慣れた筆裁きによる無意識の美を表しています。



石皿の名前の由来は、いくつかあるようです。
「韓国の石器を思わせる所から、石皿」、
「釉薬に長石を使うから、石皿」というような感じらしいです。
はっきりした由来は分からないようです。器に描かれた絵や文字の中では初期伊万里、桃山唐津と並んで第一級のものとも評されます。本作品は何ともユーモラスに生き生きと描かれています。省略の中に絵付けの技を見ます。なんともよい味わいを醸し出しています。



江戸時代後半の瀬戸窯は、現在の瀬戸市の中央に位置する瀬戸村を中心に登窯が増加するなど最盛期を迎えます。その製品は瀬戸村を例にすると、茶碗・湯呑・皿などの食膳具をはじめ、植木鉢・火鉢といった住用具、甕や半胴といった貯蔵具など、日常生活におけるやきもの需要の急速なたかまりを背景に、様々な釉薬・技法を施した新たな製品が数多く生み出されるなど、産業的なエネルギーに支えられ、19世紀の磁器生産開始へと続く時代でした。

こうした産地の盛り上がりがあった時代に、石皿・馬の目皿・行燈皿などの絵皿は生み出されました。



そこに描かれたものは、吉祥を表わす鶴や松、絵柄の組合せで意味を成す判じ絵、園芸ブームを背景とした朝顔などの花木であり、まさに当時の江戸を中心として発展した庶民文化を表わしているといえます。さらに、絵付の軽妙でのびのびとした自由な筆運びは庶民の「粋」の精神、遊び心をより刺激したことでしょう。



絵付けは鉄絵と呉須の組み合わせが一般的です。一日に数百点も絵付けをしているうちに何も考えなくとも実にいい線が描けるようになるのでしょう。民藝作品は値を下げてしまったものが多いですが、それでも瀬戸の絵皿の魅力ある品には相変わらず愛好する方が多いのではないでしょうか。



瀬戸の石皿は煮〆皿や瀬戸絵皿とも称されているように、油皿(行灯皿)とは用途の上で区分されるものでしょう。形状も油皿は平らに近く石皿系統はがっちりしているものの皿の形状を成している作品が多くなります。

石皿には
①無地のもの、
②簡単な絵付けのもの、
③書き込みの多い上手の作品、
④そして長石分の多い釉薬で器体全面を白化粧し、その上に鉄で渦巻き文を描く「馬の目皿」
の4種に区分できるでしょう。



「馬の目皿」の文様は単純なようですが、淀みなくこの渦巻き文を描くことは日々大量に同じ図柄を描くことで、初めて可能となるのでしょう。現代でも模倣品を見かけますが、無意識の渦巻き文にはほど遠い物ばかりです。

なおこの馬の目の数でどうも評価が違うようですが、あくまでもそれはマニアックな世界、骨董の美とは無関係です。ただ発展形としての文様も入れると多種多様であります。

ついでながら馬の目皿のみを蒐集するというのは当方では如何なものかと思います。お猪口のみ、古伊万里のみ、ノリタケのみというのはおそらく美的価値から遠いものと判断しています。絵画でも同じですね。浮世絵美人画のみというのも頂けないものです。



なお瀬戸で作られた石皿と呼ばれる用途本位の簡素なうつわは想像もできないくらいの数が作られてこの世に存在していたかと思います。その中でごく一部に自由奔放な絵付けが施されたものが今日絵瀬戸石皿と呼ばれて珍重される一群で、それは柳宗悦らが取り上げて古民藝の定番として現在でも評価されていると思います。

あとの大部分の石皿は絵付けさえも施されず、無地のまま粗末な道具として使い倒され、壊れれば惜しげもなく捨てられてきており、膨大な数が焼かれてまた膨大な数が廃棄処分の憂き目に遭ってきました。

当方では蒐集していませんが、無地の石皿は釉薬の成分が絵瀬戸の長石分の多いものより灰釉に近いものが多かったようです。それでやや緑や褐色に近い発色になっているものが多いようです。それだけにきらきらと硝子化したものの発色はきれいで、そこに経年の使用された味が染み込むとまた一段と愉しいものになっています。ただこれは無地意外の簡単な絵付けの作品でも楽しめる鑑賞ポイントです。

評価は好みによるでしょうが上記の分類の石皿の種類の中では、はやり上手の作品の大きめの絵皿が評価が高いようです。



下記の図柄は人気があったのでしょうか? かなりの数が遺されているようです。



今では数千円から1万円程度の作品ですが、実に丈夫なので当方では家内が実際に複数の作品を使っています。割れて破損してもご愛敬という感じの丈夫さですね。



展示室では大津絵と一緒に飾って愉しんでいます。



ともにもやは語りつくされた感のある民芸作品・・。



家内は単純な魚などの石皿が好きなようですが、当方はこの程度の書き込みにある瀬戸絵皿が好きですね。



一日に何十枚も描き続けたことにより、まったく媚びた感じがしない絵になっています。



上空には月が出ていて、松か柳かよく分からない樹木が自由奔放に描かれています。この図柄は以前紹介した「行灯皿」にもあります。もっと簡略された図柄になっていることに気が付いた方がおられるかもしれませんね。



南画のようでもあり、古武雄焼にも似ており、そしてまるでピカソのような出来上がりです。



絵瀬戸の中でもこれほどの作品は珍しい・・・。



皿としてはまったく武骨な作品です。



あちこちに傷がありますが、これもご愛敬。



瀬戸絵皿の作品、ひとつやふたつ家に普段使いとしてあってもいいではないでしょうか? 繰り返しになりますが、「出来の良い」といっても所詮日用雑貨であり、意外と格安で入手できる作品群です。月日が経つのは早いもの、コロナウイルスなど疑心暗鬼な情勢で、身の回りにはちょっと面白いものに囲まれて過ごしたいものです。




田村将軍 木彫彩色像 加納鉄哉作 明治40年作

$
0
0
前にも述べましたようにコロナウイルスの影響でしょうか、めぼしい作品?の入手が難しくなっています。全くと言っていいほどいい作品が見当たりません。このままでは紹介する作品は整理中の作品のみとなり本ブログも打ち切りとなりそうです

とりあえずはこのような状況下でもネタ?のあるかぎりは、整理目的でつまらない記事ですが、淡々とブログの記事は投稿する気ではいます。

本日は加納鉄哉の2作品目の紹介です。近代木彫という範疇では加納鉄哉は見落とされがちですが、意外に人気が高い作品があります。



田村将軍 木彫彩色像 加納鉄哉作 明治40年作 その2
底彫銘 共箱 補修必要
作品サイズ:高さ310*幅135*奥行155



共箱裏には「丁未六月大吉日 寶藻庵主鉄哉拝施 押印」とあり、底には「鉄哉造拝」、「丁未年□□吉 以下不明」とあり、1907年(明治40年)加納鉄哉が63歳の作となります。

 

「寶藻庵」についての詳細は不明ですが、1921年(大正10年)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てて本拠地とする前の工房と推定されます。

 

鉄哉のサインや落款は鉄哉にしか書けない字なのでこの字の書体が加納鉄哉の作か否かの決め手になります。この点は弟子の市川鉄琅(最近、「なんでも鑑定団」に出品作があります。)についても同様ですね。本ブログに投稿されている加納鉄哉、市川鉄琅らの作品はすべて真作です。

注目すべきは作品の箱書きは、「息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた。」という文章が志賀直哉の小説中の記事にあります。つまり加納鉄哉本人ではなく、弟子の市川鉄琅が書いているらしい。前から感じていた共に箱書きが似ているということで納得・・・。



加納鉄哉の来歴は下記のとおりです。

************************************

加納鉄哉:彫刻家・画家。岐阜生。名は光太郎。1845年に岐阜で生まれ極貧生活を送る。父鶴峰に南画と彫刻を学び、出家して仏画の研究を修める。10代は寺で修行し独学で仏画を習得。還俗して鉄哉と号し、東京で佐野常民に見出され、鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業とする。明治天皇に業務を披露することもあったという。

和漢の古美術を研究し、奈良に住して庵を構え制作に明け暮れた。正倉院や法隆寺の宝物の模造など古典技法の修熟に努め、その技法は木彫・銅像・乾漆と多岐にわたった。大正14年(1925)歿、81才。

************************************

ご覧のように保存状態はよくありません。修理することを検討することになります。



************************************

補足

弘化2年(1825)、岐阜本町に生まれる。名は光太郎。家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家であった。父・鶴峰から絵画と彫刻を学ぶが、少年時代に家は没落し、母が亡くなる。

14歳の時、長良崇福寺の住職が鉄哉を引き取り、数年間、僧の修行をした。その後、19歳で現在の美濃加茂市にある正眼寺に移る。明治元年に寺を出て還俗し、諸国を漫遊したと言われる。

明治7年ごろ東京に出て、しばらくは偽筆贋作で生活していた。ある時、パリ万博やウィーン万博の出品に関わった佐野常民に見出され、自宅に招き入れられる。鉄哉の師は、父・鶴峰に学んだ以外、あまり知られていないが、鉄筆画については、辻万峰(1825生)の影響を受けていると言われる。

鉄哉の名が世に出たのは、明治14年の第2回国内勧業博覧会への出品が入賞したのが最初らしい。古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨き、フェノロサ、岡倉天心らの古寺調査にも同行する。

明治22年、東京美術学校が開設された際、教諭を命じられるが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で職を辞している。官職を離れてから、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。

明治20年代の終わりからは、奈良で模作に励んだり、各界の有力者を顧客とした制作を行っている。落語家、講談師、歌舞伎界などにも交際が広がり、鉄哉作品の意匠は、若い時代から禅を学んだベースの上に築かれていったものと思われる。

晩年は、奈良に滞在して制作活動を続け、和歌山や大阪の顧客の為の作品が多い。鉄哉の人気は高く、大正9年には支援者らによる「鉄哉会」が設立され、その作品を入手するための会則が設けられたりした。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えた

加納鉄哉については特別な研究機関はなく、「加納鉄哉展~知られざる名工~」(岐阜市歴史博物館図録)や「知られざる名工 加納鉄哉」(西美濃わが街386号)などがまとまった著作(西美濃わが街は現在は廃刊)です。



絵画や彫刻、古美術研究と調査・・・等、博学多才で加納鉄哉走られています。作家の志賀直哉は、大正14年、京都から奈良へ居を移していますが、この年、鉄哉は亡くなっていますが、志賀は生前の鉄哉の工房を訪ねているようです。

2年後、鉄哉をモデルにした短編小説「蘭齋没後」を発表していますが、鉄哉よりむしろ、息子の加納和弘や弟子の渡辺脱哉(だっさい)らと親交があったようです。脱哉とは「人間がぬけているから」という理由で、師匠の加納鉄哉によって付けられた号です。彼のキャラクターと数々のエピソードは、志賀の短篇「奇人脱哉」に見る事ができます。「牙彫出身の脱哉は、水牛角の干鮭の差根付を唯一の得意とし、銘は鉄哉が入れていた。」とか、「それは30円で毎月一つつくれば生活が出来た。」とか、又、作品の箱書きは、「息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた。」等、興味深い話ばかりです。そこには一貫して、志賀の、脱哉へ向けたあたたかな眼差しが感じられるものです。

加納銕哉は、1921年(大正10)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てて、本拠地としました。この工房兼住居は2度の移転を止むなくし、銕琅によって受け継がれましたが、銕琅の死後はその保存は断念せざるを得なませんでした。

志賀直哉曰く「職人気質の名工」と称え、気風闊達、野の人でもありました。天長節(天皇誕生日)には、必ず赤飯を作り祝うことを忘れなかった銕哉でしたが、一方悪戯半分に自他を問わず贋作を作るという茶目っ気もありました。そのうち、“贋銕哉”も出現するはめになることになり、弟子の銕琅を悩ませるくらいだったそうです。

************************************

彫られているのはご存知、「坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)」の像です。坂上田村麻呂は、平安時代の公卿、武官で名は田村麿とも書きます。

*ただ共箱の表は判読が難しいです。「田村将軍像 春日社? 」以下は判読不能です。



坂上田村麻呂は4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残しています。薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍し、死後は平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神や軍神として信仰の対象となりました。



現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出されています。むろん神格化され多くの神社の祀られています。



さて神をおろそかにしてはいけません・・・。



PS.加納銕哉作の「田村将軍木彫」の作品は複数存在しますが、現在では完品は非常に少ないようです。多くは共箱でなかったり、本体(弓、刀、矢)に欠損がありますが、本作品のように色彩のみの欠損のほうが修理しやすいかもしれません。



加納銕哉、市川銕琅の作品の修復をしてきましたが、今回で3作品目の修復となります。



上記写真:後方の丸い作品が加納銕哉作を修復した作品、前方の「福の神」の作品が市川銕琅作を修復した作品です。

PS.本日紹介した作品の修復費用の見積がなんと18万円強・・・ はてさて再度交渉するか、当方は中途半端は嫌いなので、あきらめて破棄処分するか・・。
→後日の交渉の結果11万円で修理を依頼することになりました。おそらく修理には3か月から半年かかるかもしれません。む~、神はおろそかにしてはいけません、高くつきます

寒山図 加納鉄哉筆 大正14年作 

$
0
0
男の隠れ家にあった明治期の揃いの漆器から痛んでいた数点を輪島塗に修理に出していた作品が出来上がってきました。



基本的には口縁の欠けていた部分の補修ですが、内側全体の塗りなおしまでしています。



部分の補修のみだと色が変わる点から、全部塗りなおすと費用という点からこのような補修になっています。



色の古い部分と新たに塗った部分とが見分けがつかないようにうまく色合せされています。



亡くなった家内の実家の所蔵品ですが、分けて数点頂くことにいました。その際に痛んでいた作品を頂いて修理しようという試みです。修理代金は一点につき6000円から7000円ほどです。収納箱を製作し保存しておくことにしております。



費用は掛かりましたが、補修内容などが書かれた栞や作品の写真が添付されているのが嬉しいですね。こいう修理は気持ちの良いものです。



さて本日は加納鉄哉の掛け軸の作品の紹介です。

骨董蒐集を始めたころから幾度か加納鉄哉の絵画の作品を入手する機会があったのですが、今一つ気乗りがしないので今まで入手してきませんでした。今回は気に入った作品があり、さらにすでに本ブログにて投稿されている「田村将軍像」の作品を入手したことも契機となり購入しました。

展示室に飾って楽しんでいます。



寒山図 加納鉄哉筆 大正14年作 
絹本水墨淡彩軸装 軸先陶器 合箱 
全体サイズ:縦1870*横396 画サイズ:縦1150*横260

 

加納鉄哉は多くの絵画を描いていおり、その作品には「寒山拾得」を描いた作品が数多くありますが、本作品は亡くなった年に描いたという点で貴重な作品となります。

あらためて加納鉄哉の略歴は下記のとおりです。

************************************************

加納鉄哉:彫刻家・画家。岐阜生。名は光太郎。1845年に岐阜で生まれ極貧生活を送る。父鶴峰に南画と彫刻を学び、出家して仏画の研究を修める。

10代は寺で修行し独学で仏画を習得。還俗して鉄哉と号し、東京で佐野常民に見出され、鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業とする。明治天皇に業務を披露することもあったという。

和漢の古美術を研究し、奈良に住して庵を構え制作に明け暮れた。正倉院や法隆寺の宝物の模造など古典技法の修熟に努め、その技法は木彫・銅像・乾漆と多岐にわたった。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えた。

補足
弘化2年(1825)、岐阜本町に生まれる。名は光太郎。家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家であった。父・鶴峰から絵画と彫刻を学ぶが、少年時代に家は没落し、母が亡くなる。

14歳の時、長良崇福寺の住職が鉄哉を引き取り、数年間、僧の修行をした。その後、19歳で現在の美濃加茂市にある正眼寺に移る。明治元年に寺を出て還俗し、諸国を漫遊したと言われる。

明治7年ごろ東京に出て、しばらくは偽筆贋作で生活していた。ある時、パリ万博やウィーン万博の出品に関わった佐野常民に見出され、自宅に招き入れられる。鉄哉の師は、父・鶴峰に学んだ以外、あまり知られていないが、鉄筆画については、辻万峰(1825生)の影響を受けていると言われる。

鉄哉の名が世に出たのは、明治14年の第2回国内勧業博覧会への出品が入賞したのが最初らしい。古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨き、フェノロサ、岡倉天心らの古寺調査にも同行する。

明治22年、東京美術学校が開設された際、教諭を命じられるが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で職を辞している。官職を離れてから、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。明治20年代の終わりからは、奈良で模作に励んだり、各界の有力者を顧客とした制作を行っている。落語家、講談師、歌舞伎界などにも交際が広がり、鉄哉作品の意匠は、若い時代から禅を学んだベースの上に築かれていったものと思われる。

晩年は、奈良に滞在して制作活動を続け、和歌山や大阪の顧客の為の作品が多い。鉄哉の人気は高く、大正9年には支援者らによる「鉄哉会」が設立され、その作品を入手するための会則が設けられたりした。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えた

加納鉄哉については特別な研究機関はなく、「加納鉄哉展~知られざる名工~」(岐阜市歴史博物館図録)や「知られざる名工 加納鉄哉」(西美濃わが街386号)などがまとまった著作(西美濃わが街は現在は廃刊)です。
絵画や彫刻、古美術研究と調査・・・等、博学多才で知られる加納鉄哉は、東京美術学校の教論職を2ヶ月で退き、その頃より「唯我独尊庵主」を名乗っている。

志賀直哉との関り
煙管筒や根付、仙媒等もつくり、晩年は奈良を活動の拠点とした。作家の志賀直哉は、大正14年、京都から奈良へ居を移している。この年、鉄哉は亡くなっているのだが、志賀は生前の鉄哉の工房を訪ねているようだ。2年後、鉄哉をモデルにした短編小説「蘭齋没後」を発表しているが、鉄哉よりむしろ、息子の加納和弘や弟子の渡辺脱哉(だっさい)らと親交があったようだ。脱哉とは「人間がぬけているから」という理由で、師匠の加納鉄哉によって付けられた号である。彼のキャラクターと数々のエピソードは、志賀の短篇「奇人脱哉」に見る事ができる。牙彫出身の脱哉は、水牛角の干鮭の差根付を唯一の得意とし、銘は鉄哉が入れていた、とか、それは30円で毎月一つつくれば生活が出来たとか、又、作品の箱書きは、息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた等、興味深い話ばかりだ。そこには一貫して、志賀の、脱哉へ向けたあたたかな眼差しが感じられる。

************************************************



賛には「寒山昔日在□台炙□向僧為□活最勝精舎八十一叟鉄哉 押印 花押」とあり、亡くなる1925年(大正14年)に描いた作品と推定されます。なお1921年(大正10年)にアトリエである「最勝精舎」を建てて工房としています。

 

************************************************

寒山拾得(かんざん じっとく):中国,唐代の隠者,中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる寒山と拾得の伝承詩人である寒山と拾得のこと。9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。二人とも奇行が多く、詩人としても有名だが、その実在すら疑われることもある。

寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残した。

拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められる。拾得は天台山国清寺こくせいじの食事係をしていたが、近くの寒巌(かんがん)に隠れ住み乞食のような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったという。その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持を語っている。

寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身と言われることもあり、非常に風変わりなお坊さんだったようで、後年様々な絵画に描かれる。たいていは奇怪な風貌で、なんとなく汚らしい服装で描かれている。そして、怪しげな笑い顔で描かれることが多い。また拾得が箒を持っている作品が多い。



補足
唐の時代(七世紀頃)、寒山という人がいた。風狂の化け物と称される。カバの皮を着衣し、大きな木靴を履いていたと言われる。寒山は普段は寒厳の洞窟に住んでいたそうですが、たびたび国清寺に訪れていた。寺に来ては奇声を上げたり、奇異な行動をとって寺のもの困らせていた。しかし、追い払おうとすると彼の口から出る言葉はその一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。

寺の給仕係りをしていた拾得とは仲良しで、いつも寺の僧たちの残版を竹の筒につめて寒山に持たせて帰らせた。寒山と拾得を導いたのは豊干という国清寺の僧。豊干は、二人について「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」と言ったという。「寒山拾得」というのはこの二人の伝説の事。

寒山と拾得の二人は、のちのち墨絵の題材となり多くの画家が絵を残しています。日本の有名な画家たちも「寒山拾得図」を描いています。

豊干(ぶかん):中国唐代の詩僧。天台山国清寺に住み,虎を連れた姿で知られ、寒山・拾得(じつとく)を養育した人と伝えられる。豊干を釈迦の化身に見立てるものもある。

************************************************

加納鉄哉の木彫と掛け軸の作品を一緒にして飾るのは「田村将軍像」を修復してからにしました。すでに「田村将軍像」は京都の人形店に修復を依頼しました。(本ブログ「田村将軍像」記事参照)

骨董蒐集はその費用とエネルギーを「修理とメンテ」に多くが費やされるものです。それに費用とエネルギーを費やさない蒐集家は蒐集家と言えないと思っています。
Viewing all 3058 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>