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瀬戸独楽香合 山口錠鉄作

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本日は休日ということで気軽な作品?の紹介です。

そもそも香合というものは何に使う者であろうか? 実際に道具として使ったことのある御仁は稀有ではないかと思ってしまうところがありますね。実際は小物入れや食卓にて珍味入れに使うことのほうが多いように思います。

瀬戸独楽香合 山口錠鉄作
共箱
全体径55*内側口径45*高台径35*高さ40



香合は、簡単に言うと香を収納する蓋付きの小さな容器。茶道具の一種であり、また仏具の一種でもあります。香蓋とも書かれるが当て字だそうです。また香を入れる道具以外に用いる場合は一般的に合子(ごうす、ごうし)ともいうのでしょう。



茶の湯において香合とは香をいれておくための器ですが、炭点前のときに客は亭主に所望して香合を拝見します。香合の中には香を3個入れておき、その内2個を炭の近くに落とし入れ、薫じさせ、残り1個はそのまま拝見に回します。風炉の場合と炉の場合などその茶席に応じて、香とともに香合も使い分けることが多いそうですが、茶事に詳しくない小生には縁遠い所作です。



実際に香合を使うのは茶事を仕切る人であって、茶事を嗜まない人にとっては用のないものです。しかし、香合は一般の人にも見慣れたことが多いのでないでしょうか? 干支の香合などたくさん家元から配られたり、玩具のような意味合いも強かったように思います。母は茶事に使っていたのですが、叔母などは小物入れの箪笥の引き出しに数種の香合が大切そうにしまわれていたことを覚えています。 



骨董蒐集する側も茶事を嗜まないのも関わらず、香合を入手するのは本来はお門違いなものなのでしょう。ただこの小さな器は意外に魅力があるものなのです。



使うとしても恐れ多くも朱肉入れ、珍味入れ、文房具の小物入れなのでしょうが、小生も例にもれず、せっせと面白いものがあると購入してしまうのですが、香合専用の引き出しが満杯になってきました。意味があるのかな~と反省しているこの頃です。





四曲半双屏風 藤井達吉画・作

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人生はいつ何時何があるか分からない。そういうことを覚悟しているところから、日頃の生活のありがたさ、大切さが自覚できるものと思っています。このことは今回のコロナウイルス禍の状況で感じた人も多かったと思います。



さて都会はむろんですが、地方でも葬祭センターで葬儀を行うことが多くなり。「逆さ屏風」ということを知らない方が多いのではないでしょうか? 小生のように身内の多くを失い、複数の葬儀で喪主や施主を務めると、いつのまにか葬儀の所作には詳しくなってきます。葬儀では行われますが、日常では理解できないことで面食らうことが幾つかあります。その中で一番最初に理解できなったのは「逆さ屏風」です。

ということで本日は屏風の作品の紹介です。

四曲半双屏風 藤井達吉画・作
紙本水墨淡彩軸装
全体サイズ:縦1760*横1380 画サイズ:縦515*横150など



「逆さ屏風」とは故人の枕元に屏風をさかさまに立てかけることです。

亡くなった方を、通常は亡くなった場合が病院の場合、自宅にまず運びます。亡くなった家内や母は小生と家内が在京だったので、すぐに車を手配して郷里まで運びました。飛行機便と車で運ぶ場場合があります。自宅に到着するとすぐに必要なのが布団と屏風ですが、一般家庭には屏風などはないでしょうね。田舎では葬儀屋さんが手配してくれます。

最初に郷里の義父が亡くなった際には、病院から遺体を運び込むとすぐに親戚の方から「屏風を持ってこい! 逆さ屏風にするから・・」と指示を受けました。

屏風を逆さにする理由は、これは葬儀における「逆さ事」のひとつだそうで、葬儀において、通常とは逆に行うことを、「逆さ事」と呼んでいます。経帷子は左前に着せる、足袋を左右逆にはかせるなどが「逆さ事」です。

従来、人は死という特異な事態に対処するため、葬儀の際には死と自分たちが生きているこの世とを隔絶させようとしました。日常的に行うことを逆にする逆さ事もそのひとつのようです。また、この世と死者の住む世界では、物事が逆になっていると信じられていたことから、かつては夜に葬儀を行っていました。あの世は昼間で明るくて迷わずに済むという理由から、葬儀は夜に行ったといいます。

遺体に装束に着せ替える際にはブラインドにするためにも屏風は重宝だったのでしょう。



なぜ本日の作品である屏風を入手し、さらに「逆さ屏風」を説明したかというと、終活に入っている当方としては、つい思ってしまうのですが、自分が死んだ際に使われる屏風は何だろうと思っていたからです。逆さにして死を弔う作品とは・・屏風の絵柄はやはりり花かな?



山水画、人物、仙人図とか現在所蔵する屏風を頭に思い浮かべたのですが、いずれ郷里にあって東京には置いていません。それなりに場にふさわしいものがいいのだろうと・・。鶴と亀、金屏風などのめでたい席での屏風では天寿を全うしていないと不釣り合い?ということもありますね。



とりあえず藤井達吉のファンとしては、藤井達吉の作品でもあり、屏風のひとつくらい手元にあってもいいかなという衝動的な動機もありました。

*仏壇の保存は昔はそれ専用の箱の収められていました。現在はその収納箱を不要としているようです。理由は箱ごと置くスペースがないからとのことです。私はその傾向に反対です。屏風を扱うと解りますが、一人で扱うには重いものです。ぞんざいに扱うと痛めてしまいますから、箱は重要です。この作品はそれほど大きくないので、タトウにしようかとかと考えています。



しかも、この作品は定かではありませんが、藤井達吉が自らコーディネートした可能性があります。絵の出来もよく、春夏秋冬の図柄と判断しました。表の表具の生地は2種類、裏の表具もセンスがいい。金具などは使わず染め物で繋いでいます。



ところで「逆さ屏風」に用いるのはいいとして、この絵の賛は何と書かれているのは気になるところです。



「前世を悔いあらためよ。」などという賛なら成仏できそうにありません・・・。



いつもながら藤井達吉の賛は読みが難解です。



なんとか成仏できるように内容は理解しておく必要がありそうです。



絵柄が「四季」なら時期を選ばない・・。(下記参照)

 

印章はすべての作品が「達翁」ですね。これは他の作品にもある印章で晩年の作と推定されます。

 

はてもさても縁起でもなく「逆さ屏風」の心配するようなのは小生くらいか・・。義母も家内もこの作品は気に入ったようですが、逆さ屏風の件は呆れていました。ところでそもそも「逆さ屏風」を念頭に屏風を描いた絵師や画家はいたのでしょうか?

「逆さ屏風」の話題はさておいて、改めて作品を観ると絵は四季を表現しています。



春夏秋冬でしょう。




















さらに本屏風の魅力は表具ですね。



藤井達吉のセンスの良さがよくわかります。



屏風は痛みやすいたま、現在保管用の収納箱を製作依頼中・・・・・

野 松尾敏男筆

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週末の土曜日には雨が降らないとの予報でしたので、ジャガイモの収穫を家族全員で行いました。



以外に体力を使いましたが、数で勝負で短時間で完了・・・。



さて本日は松尾敏男の作品の2作品目の紹介です。



野 松尾敏男筆
紙本着色 誂黄袋+タトウ
額サイズ:横705*縦580 画サイズ:横515*縦395(P10号)



野に生きる二頭の鹿。その動きや野の様子は着色と勢いのある墨の線で巧みに描られている。輝く他の稲の金彩が、幻想的な雰囲気を一層引き立てる。晩年の作と推定されるが、日本画の重要なテーマである「墨」の表現に挑んだ一作であろう。



本ブログでは「花菖蒲」の色紙の作品を以前に紹介していますが、松尾敏男は花鳥画を得意とし、花鳥や人物、風景、動物など幅広いテーマに取り組んだ日本画家・松尾敏男の佳作といえると評価しています。



松尾敏男はとくに牡丹の名手として知られ、インターネットで検索するとともかく牡丹の作品ばかりが出てきます。しかし晩年に取り組んだ墨の世界は彼がたどり着いた日本画の原点である、極致だったと思われます。



多くの日本画家は墨絵の世界に最後は辿り着くようですが、これは日本画の大きな特徴と言えるのでしょう。画題や作風がどうあれ、日本画家の宿命のようなものかもしれませんね。



野で生きる動物の力強さと優しい動物の鹿でありながら、一種の野生の不気味さが感じらます。とはいえこの絵から感じるのは生き物というものはつがいで生き、そして最後は一人ということか・・・。



なにはともあれ文化勲章受章の画家の晩年の筆力には驚きです。

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松尾 敏男(まつお としお):1926年3月9日~2016年8月4日。日本画家、日本芸術院会員、日本美術院理事長。長崎県長崎市生まれ。堅山南風に師事。東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)卒業。在学中は体操選手であった。



1949年に『埴輪』が院展初入選。以後院展に出品を続け、1962年初の院展奨励賞、1966年院展日本美術院賞、1971年芸術選奨新人賞、1975年院展文部大臣賞、1979年日本芸術院賞。1988年多摩美術大学教授に就任。



1994年、日本芸術院会員。1998年、勲三等瑞宝章。2000年、文化功労者。2012年、文化勲章受章。

2016年8月4日、肺炎のために死去。90歳没。歿後に従三位追叙。

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裏面には共シールがあります。



もしかしたら当方の最終的な蒐集作品かもしれません。ところでひとりを生きるというということを感じた絵は下記の作品です。

正面之虎 大橋翠石筆
絹本着色軸装収納箱二重箱 所蔵箱書 軸先本象牙 
全体サイズ:横552*縦2070 画サイズ:横410*縦1205



展示室の展示状況は下記のとおりです。



書き込みの多い作品ではありませんが、松尾敏男の作品としては珍しい画題の作品です。



三彩「天下第一」走馬文皿 永楽和全作

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本日の作品は「交趾焼、源内焼、そして京都の近代陶工の代表格である永楽窯」の三者入り混じった観点からの考察が必要な作品の紹介です。

三彩「天下第一」走馬文皿 永楽和全作
底に印 共箱
口径230*高さ48*高台径



まずこの作品と同図の作品が、源内焼の図集の代表格とされる「源内焼(平賀源内のまなざし)」(五島美術館発刊)に作品NO60として掲載されていることです。



図集に掲載の作品は本作品より小ぶりな作品です。同じく見込み中央に「天下/第一」の文字、その周囲に三頭の馬が廻る。

図集には「口縁部、およびそれに伴う文様帯が退化し、見込みの文様も源内焼らしい繊細に乏しい」といういかにも意味深な評が掲載されています。



本作品の箱書には「交趾焼」と記され、裏面には「押印 和全造」とあります。字体や印章は京焼の伝統の名家の中で永楽12代である永楽和全の文献資料と一致します。

  

作品の高台内には「永楽」の円印があります。本作品は永楽12代和全の作に相違ないでしょう。それでは永楽和全と源内焼との関連は・・・???

 

まずここで永楽12代の陶工、「永楽和全」の詳細を記述します。

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永樂和全:(えいらく わぜん)1823年(文政6年)~1896年(明治29年)5月7日)。19世紀に活躍した京焼の陶芸家。 千家十職の一つ、土風炉師・善五郎の十二代である。

江戸後期を代表する陶芸家の一人永樂保全(十一代善五郎)の長男で、幼名は仙太郎。 十二代善五郎を襲名したのは1843年であり、1871年に息子の得全に善五郎の名を譲って隠居し、以降は善一郎と名乗った。

1852年に義弟・宗三郎(回全)と共に仁清窯跡に御室窯を築窯し、本格的な作陶活動に入った。さらに、44歳で隠居した後も加賀大聖寺藩に招かれて山代で製陶の指導を行なうなど、精力的な活動を続けた。保全の残した負債に苦しむなどもしたが、よく後代に基盤を残した。

1823年(文政6年)永樂保全(十一代善五郎)の長男、仙太郎として生まれる。母は2年後に没。
1843年(天保14年)十二代善五郎を襲名。
1847年(弘化4年)酒造業木屋久四郎の長女、コウと結婚。
1852年(嘉永5年)このころ仁清窯跡に築窯。
1853年(嘉永6年)長男の常次郎(後の得全)生まれる。
1865年(慶応元年)この頃から「和全」の銘を使用する。
1866年(慶応2年)宗三郎・常次郎と共に九谷焼の指導のため山代春日山に赴く。
1870年(明治3年)九谷から京へ戻る。
1871年(明治4年)得全に善五郎の名を譲り、善一郎と名乗る。また西村姓を永樂姓に改姓。
1872年(明治5年)三河国岡崎の豪商・鈴木利蔵に招かれ、岡崎の甲山に築窯。
1877年(明治10年)岡崎での作陶を終え、帰京する。
1882年(明治15年)一条橋橋詰町から洛東高台寺鷲尾町に転居し、菊谷焼を始める。妻・コウ没。
1883年(明治16年)聴力を失う。
1885年(明治18年)鷲尾町から祇園に転居。
1892年(明治25年)祇園から建仁寺塔頭の正伝院に転居。
1896年(明治29年)5月7日、74歳で亡くなる。

参考作品

「色絵七宝文盃洗」



色絵遠山若松図角皿



共に東京国立博物館蔵の作品です。

永楽和全 補足
若い頃から父・永楽保全をうならせる陶技を発揮した和全は、幕末明治の激動の時代を生きました。焼物の研究に熱心なあまり多額の借金を重ねた父の後を継ぎ、家を維持することに力を注ぎ、義弟とともに立て直しました。 幕末に仁清ゆかりの地で登窯(御室窯)を持ち、維新を迎えてからは京都を離れて加賀山代の「九谷窯」で陶技の指導し、さらには裏千家十一代玄々斎の高弟・鈴木利蔵に招かれ三河岡崎に窯を作って従事しました。また、明治になってから始まった神社仏閣での献茶や大寄せの茶会用として、華やかな茶道具一式を生み出し、新しい永楽家の茶陶の様式を確立しました。 永楽和全は、金襴手の優品を多く残していることでも知られています。

永楽和全の生い立ち
永楽和全は、保全の長男として文政6年(1823)に生まれ、幼名を仙太郎といいました。天保14年(1843)、父・保全の隠居をともない、弱冠21歳にして十二代善五郎を襲名しました。和全の善五郎時代は、明治4年(1871)に家督を長男の常次郎(得全)に譲って自らを善一郎と称するまでの約28年間です。和全は、25歳のときに酒造業を営んでいた木屋久兵衛の娘古宇こうを妻に迎えています。



永楽和全の作風
永楽和全の作風は父・保全の作風に比べてどこか鷹揚な雰囲気があり、写し物は本歌を踏まえつつもやや崩して写す傾向があるため、茶人の間では和全のわびて茶味のある作品の方において評価が高いとされています。 これは、波乱の時代を生き経済的な苦労を重ねた和全が至った、わびの境地の深さをあらわしているともいわれています。嘉永元年頃、鷹司家の注文で近衛家に秘蔵される「揚名爐」の写しの制作で和全は保全の手伝いにあたり、このとき保全を感嘆させる陶才を示したと伝えられています。しかしこの頃から、相続のことで保全との関係に不和が生じています。この頃まで和全の作陶生活は、西村家の当主として京都市内でそれまでと同じように小規模な工房体制で生産を続けていました。

永楽和全の作陶活動を大きく分けると
「御室窯」時代:嘉永5年頃になると、義弟宗三郎とともに御室仁和寺門前の仁清窯跡に窯を築き、このころから和全の本格的な作陶活動が始まったと言われています。
「九谷窯」時代:慶応2年(1866)から明治3年(1870)にかけて加賀大聖寺藩に招かれて山代で製陶の指導に当たった。
「岡崎窯」時代:明治5年から明治10年にわたって三河岡崎の豪商鈴木利蔵に招かれて作陶した「岡崎窯」時代と帰京時代
「菊谷窯」時代:明治15年(1882)に油小路一条の住まいを売り払い東山の下河原鷲尾町に移って窯を築いた「菊谷窯」時代
と、以上の4つの制作期に分けることができます。



「御室窯」時代と「善五郎」共箱作品
御室おむろ窯は嘉永6年に開窯したと言われています。御室の窯は、義弟宗三郎の所有地に築いたと伝えられています。 その地が仁清の窯跡であったことは窯を築く際に仁清印のある陶片がその地で出土したことからわかったそうです。しかし、開窯に当たっては、郊外における永楽家自前の本窯所有の実現、仁清以来衰退していた御室窯の復興、仁和寺の御用窯的な展開など、いくつかの目論見があっての開窯であったようです。また、御室での開窯には、宗三郎の存在が必要不可欠であったと考えられ、和全との緊密な協力体制がなければ実現しませんでした。この窯では金襴手や色絵など、当初から完成度の高い作品が焼かれていましたが、このような時期的に早い段階から様々な技法の作品が作られ、かつ完成度が高いのは、永楽和全の卓越した陶技のみならず、義弟宗三郎をはじめ轆轤師西山藤助などの熟練した職人も加わった工房体制があったためと考えられています。この時期の作風としては、金襴手と色絵の懐石用高級食器が作られ、仁清・乾山の色絵磁器を強く意識した作陶がなされています。御室窯が開窯した嘉永6年は、ペリーが浦賀に来航した年でした。保全が翌嘉永7年に亡くなり、多額の負債を残し、和全はその負債を抱えて明治維新の動乱を乗り越えなければなりませんでした。

「九谷窯」時代と善一郎時代
慶応2年(1866)頃、加賀大聖寺藩から九谷焼の技術指導のため招かれ、和全をはじめ宗三郎や常次郎(得全)ほか工房をあげて山代春日山に移り住み指導にあたります。これが、永楽和全の九谷窯時代です。 和全の指導によりその後の九谷焼に定着した技法が金襴手でありますが、保全の金襴手は金泥を用い、和全から金箔を使った金襴手が焼けるようになったとされ、山代では良質の金沢金箔を使った金襴手が焼かれたと伝えられています。



「岡崎窯」時代と帰京時代
明治に入ると、急激な西洋化で京都の伝統文化は軒並み没落の危機に瀕していました。永楽和全は明治3年(1870)に山代から京都に引き上げ、翌4年には隠居して長男常次郎(後の十四代善五郎・永楽得全)に家督を譲り、自らは善一郎を名乗ります。 またこのとき、西村姓を永楽姓に正式に改姓しています。明治5年には、裏千家十一代玄々斎の高弟・鈴木利蔵の招きで三河岡崎に赴きます。 岡崎甲山での3年間にわたる作陶は、主に赤絵や染付など磁器の量産であったとされています。明治維新で時代が大きくかわり、茶道の世界も様相が大きく変わる中で、時代に応じた西洋的な作品(コーヒー碗やスープ皿など)の制作も手掛け、柔軟に作品を生み出していきました。 またこの間、明治6年には東京の三井家に出向き、和全製品の定期的購入を目的とする「永製講」を組織するなど、三井家の協力を仰ぐものの、実現には至りませんでした。その後、得全による大阪造幣寮の坩堝製作という三井関係の仕事に和全も関わるものの、不成功に終わり、経済的困窮はなかなか解決されませんでした。 しかし、その後明治10年に岡崎に見切りをつけて京都に帰り、帰京後は三井家との交流が深まり、三井家からの注文が増えていきました。


「菊谷窯」時代
和全は、明治15年(1882)に油小路一条から東山高台寺に近い下河原鷹尾町の菊渓川のほとりに住まいを移し、菊谷窯を開窯しています。 この頃妻を亡くし、耳が聾したと言われ、自ら「耳聾軒」と号しました。 菊谷焼は、粗い胎土に薄く透明釉を掛けて簡略な絵付けを施したものが多く、民芸風ともいえる風流な味わいがあり、晩年の永楽和全の境地が窺える作風です。この菊谷焼に捺される繭印「菊谷」の印文は、三井高福の書といわれ、菊谷窯には三井家が深く関与していたと考えられています。また、明治20年(1887)年に京都御苑内で開かれていた京都博覧会の会場で、明治天皇への献茶に和全の天目茶碗が使われました。 この献茶は、三井高朗と三井高棟(北家十代、1857-1948)が主席となり、表千家碌々斎が点前を行っています。 さらにその席上、日の丸釜にまつわる御下問があり、それを記念して和全により日の丸茶碗がやかれています。さらに、明治23年に京都高等女学校で行われた皇后陛下への献茶でも和全の 白地金襴手鳳凰文天目 が用いられています。この頃から日本文化を見直す気運が高まり、伝統文化の振興が図られましたが、それらの献茶はそういった背景を象徴する出来事でした。永楽和全は、そういった神社仏閣での献茶や大寄せの茶会用として、華やかな茶道具を生み出し、永楽家の新たな茶陶の様式を確立したのです。明治29年(1896)、永楽和全は74歳で亡くなりました。

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長々と列記しましたが、この陶歴には源内焼との関連性はみられず、源内焼と永楽和全との関連性は残念ながら不明です。むしろ本作品は源内焼を意識したというより、永楽和全が得意とする交趾焼として製作した作品であろうと思うのが妥当と思われます。

他の可能性として「源内焼が永楽和全も同じ交趾焼の作品を模倣したか?」ということです。それは源内焼の性格上あり得ないでしょう。考察するなら、逆に源内焼の図集「平賀源内のまなざし」(五島美術館発刊)の作品自体が交趾焼でははないかということがあり得ます。このことは図集の記述とも相俟って信憑性があるのですが、当方では断定できることではありません。



製作年代は明治期? ともかく交趾焼、源内焼、そして永楽窯とあちこちに興味を持っていたおかげで当方に舞い込んできた作品であり、自己満足的ながらこのような考察も可能になってきたということでしょう。



「天下第一」は明末赤絵などから中国の器に記されてきた用語ですね。





華精 その2 杉本健吉筆

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杉本健吉の肉筆画は非常に貴重なようです。油絵をはじめとする多くの作品が美術館に寄贈されており、本筋が工芸品ゆえ原画とされる作品は数が少なく、また売られることは少なかったと思われます。



華精 その2 杉本健吉筆
紙本水墨淡彩額装 F4号
全体サイズ:縦510*横410 画サイズ:縦330*横240



本作品は写真ではシミが目立つものの実際に鑑賞してみるとそうでもありません。実にかわいらしい作品です。



この作品に押印されている印章は当方の所蔵作品「カサブランカ」に押印されている印章と全く同じ印影です。

 

杉本健吉は花に「精」を描いた作品は数多く描いているようで、リトグラフの作品にも多くあります。当方では肉筆画を蒐集していますが、肉筆画でも他に2点の作品が当方にはあります。

ブログでも紹介していますが、その作品は下記の2作品になります。

琵琶童女 杉本健吉筆 その6
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1280*横440 画サイズ:縦390*横300



華精 その1 杉本健吉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先練 共箱
全体サイズ:縦1235*横450 画サイズ:縦430*横320



杉本健吉の作品はちょっとしたスケッチでも人気が高く、意外に高値で取引されていますが、その卓越した描写力は一流の画家にも劣らぬものがあります。




氏素性の解らぬ作品 信楽壷 蹲? 時代不詳

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よく解らぬ作品群のひとつが壺。解らぬことに挑戦したがるのが当方の悪癖というか、懲りないところ。家内も「南画と壺は解らない。」と申しております。正直なところ小生も同じ・・。

小さめの壺の代表格が世に言う「蹲」という壺、本日は「蹲」に分類するにはちょっと大きめの作品かもしれませんね。

*相変わらず「氏素性の解らぬ作品」としての投稿です。

氏素性の解らぬ作品 信楽壷 蹲? その3 時代不詳口に破損在 誂箱入
口径*胴径170*底径*高さ210



本ブログにおいては今さら、古信楽がどうの、二重口がどうの、桧垣文がどうのという講釈は述べるのも飽きるほど記述されていますので省略しました。



ところで「蹲」という名の由来は人が膝をかかえてうずくまるような姿からきていますが、もともとは穀物の種壺や油壺として使われた雑器を、茶人が花入に見立てたものです。



文献によれば江戸時代に入ると蹲という呼称が定着しています。古信楽の壺は大きいので、茶席には使えない。そこで蹲という小さめの壺なら使えるということで珍重したのでしょう。世の常で珍重した故に贋作だらけになったようです。



なお信楽の蹲は古いもので鎌倉末~室町時代から伝世していますが、数は非常に少ない?



口縁が完璧に残っているほうが評価はむろん高いのですが、古信楽においては口縁が破損している作品は数多くあります。



桧垣文があるほうが評価は高いですが、本作品の桧垣文はそれほど密度多くは描かれていません。また底には下駄印はありません。これらは真贋の決め手にならないでしょう。一般に贋作のほうが下駄底が多いようです。



ところで驚いたことに水を入れておくと底から茶色の水となって水が沁み出してきました。さては意図的に古色を付けた作か・・・。



種入れなどなんらかの用途に使われていた「うぶな作品」とするか、コーヒーや茶でなんらかで古色を付けたものか・・・。

どうも胎土に沁み込んでいる?? 贋作として口縁を破損させ、茶渋やコーヒーに漬け込んだ??? 骨董には思いもよらぬなにかが起こるようで・・。



水を複数回入れ替えると徐々に汚れは落ちて、かえって焼成時の色の対比が良くなってきました。古色を付けたなら余計なことをする輩がいたものです。そのような輩には構わず、当方はただ単に作品そのものを観る・・。さて本作品は・・。



所詮、壺はただの壺、真作だ贋作だ、室町時代だ、近代作だと騒ぐのは高値で売買するから。当方はこの大きさの壺壺は花を活ける器にしか過ぎないと・・・・。



さて、じっくりと色を抜き、乾燥させて鑑賞・・。



古信楽はかせた感じがいいものと自然釉の変化を愉しむものと極端に言うとふたつの愉しみに分かれるようですが・・。



贋作 牡丹図 その3 平福百穂筆 昭和8年(1933年)頃?

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充分に注意している平福百穂の作品ですが、本日紹介する作品は当方で最近入手した贋作と判断した作品です。絵が良く描けているのでちょっとした注意を怠ったために贋作の入手となりました。



贋作 牡丹図 その3 平福百穂筆 昭和8年(1933年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:横415*縦1915 画サイズ:横*横

 

印章は晩年に描かれた他の「牡丹図」と同じく「三宿書房」ですが、落款はぎこちなく印影はよく似せていますが一致しません。この点を見逃していて贋作を入手してしまいました。

どこが違うか解りますか? 一番の見落としは落款のぎこちなさです。

左が本作品、右が図集掲載の真作「秋苑」(昭和6年作)からの落款と印章です。これくらい似せた贋作はざらにあると思わなくてはいけませんね。

 

平福百穂は晩年に牡丹を題材に多くの作品を遺しています。



この作品は雨中に煙る牡丹を四条派の技巧を駆使して上手に描いています。



作品自体は申し分ない・・・??

当方で所蔵している平福百穂が描いた「牡丹」を描いた作品は下記の2作品です。「その2」は本日紹介した作品の印章と同じく「三宿書房」です。

牡丹図 その2 平福百穂筆 その8(真作整理番号)
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横1320*縦500 画サイズ:横365*横365



本日紹介した作品と同じく真印と比較してみましょう。左が本作品「牡丹図 その2」、右が図集掲載の真作「秋苑」(昭和6年作)からの落款と印章です。これらは一致します。

 

他に牡丹を描いた当方の所蔵作品には下記の作品があります。

牡丹図 その1 平福百穂筆 その8(真作整理番号)
紙本着色小色紙 平福一郎鑑定書付 タトウ入
画サイズ:横181*横211



これらを踏まえてもまだ贋作を入手してしまうのは、まだまだ詰めが甘い

九谷五彩手 明末五彩倣草花文四寸角皿 五客揃

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蒐集する者は蒐集作品が煮詰まってると、マニアックな蒐集になりがちとよく言われます。古伊万里なら古伊万里のみ、李朝なら李朝のみ、さらにその領域のいろんなものまで・・。美的センスとは距離を置いた作品蒐集になりかねませんね。これが蒐集する側には意外に多く、多くの蒐集家がその蟻地獄に嵌り込みます。作品群もそうなるように仕組んでいる節がありますが・・・。



当方でいえば、たとえば「明末の餅花手」の作品群です。最初に藍釉の作品を入手しました。さらに褐色釉薬、藍釉の龍文のある作品と入手します。ここまではいいとして、さらにできれば柿釉、青磁、白釉と蒐集を目指すことになり、ふと振り返ると最初の藍釉の作品の美しさに敵う作品は他にはないと気が付く・・。

多少破損の補修跡のある作品まで入手してしまっていますが、それが意味のある蒐集か否かという美的感性の琴線に触れます。家中に所狭しと並べると、たとえ一級品であっても、そのような蟻地獄に嵌った作品群は光り輝くことはないのでしょう。金銭的価格に心奪われたり、美的感覚より学芸的研究心が優先したり・・・。蒐集者は骨董商でもなければ、研究家でもないのですからあまりマニアックになるのは戒めなくてはならないのでしょう。



よく考えると、蒐集は一代限りかもしれません。個人個人で趣向が違うので、なんのための蒐集かということが重要だと最近改めて思いなおすことがよくあります。

ともかく愉しめと最近入手したのが、本日の作品です。

九谷五彩手 明末五彩倣草花文四寸角皿 五客揃
徳田八十八吉識箱
幅132*奥行132*高さ34



古九谷は言わずと知れた陶磁器を蒐集する者以外にとっても垂涎の的です。ひと作品は青手の大皿が欲しいと夢見るものです。当方もいつも夢見ていますが、むろんたやすく叶う夢ではありません。



そこで明治期の紛い物や再興九谷などを手にして喜んでいるのですが、だんだん「やっぱりつまらないな~」と思うようになります。



実際に使えるか? 飾るしかあるまいという作品はつまらないと・・。それで徐々に蒐集の志向が使える大きさのものになっていくのですが、ちょうどよい大きさの古九谷の作品は「九谷五彩手」という作品群になっていきます。



ご存知のように「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されています。多くの人が恋焦がれるには「青手」でしょうが、これは叶わぬ恋・・・。小生のような凡人には高嶺の花・・。「祥瑞手」は数が少ない? そこで数が多く、入手しやすい?「五彩手」ということになります。



九谷五彩は緑・黄・紫・紺青・赤の色絵の具を自在に活用して、黒の輪郭線を用い絵付けされたスタイルです。5色の色絵の具をフル活用することから、「五彩手」とも呼ばれます。器の中央に、作品のモチーフを絵画的・写実的に描くことも、色絵の特徴です。作品の見どころは、屏風や掛軸から器へ抜け出してきたかのような絵画を描いた、熟練された絵付けの筆づかいです。



特に色絵の古九谷は、中国の明王朝末期から清王朝初期にかけての色絵磁器がモデルになっているとも言われ、大皿 (大平鉢) から小皿 (端皿) に至るまで、中国風の人物・動物・山水 (風景) を見事に描写した名品が数多く残されています。



あこがれはむろん大皿でしょうが、飾るだけでなく実用を優先するなら手頃な大きさのものを選びます。ただこれは時代の判断が難しいのです。素人にはまったく判別がつかないでしょう。小生は気に入ったものを入手し、仏壇の蝋燭置き、筆置きに使っていますが、古いのやら新しいのやらさっぱり解りません。



初代徳田八十吉らなど多くの九谷の陶工が再現の取り組んできましたので、再現した作品と並べても「九谷五彩」の作品と称するものの時代判断は素人の域を超えているのでしょう。



本作品は「中国の明王朝末期から清王朝初期にかけての色絵磁器がモデル」そのものです。大湖石などの花鳥画のデザインは中国の南京赤絵や五彩の作品がモデルで相違ないでしょう。絵付けが稚拙と言えばそれまででしょうが、味があるという見方もできますね。ちょっと見は南京赤絵風となっています。



箱書の識は初代徳田八十吉によるものかと思われます。箱蓋裏には「古九谷中筆致殊尓(に)面白き変り多き珍品也」とあり、さらに「九谷八十吉識 押印」とあります。印章は朱文白方印「九谷八十吉」で、初代の印章と思われ、初代徳田八十吉の識箱書と推測されます。



有名な「徳田八十吉」は現在で4代目となります.

*本ブログでは二代と三代の作品が紹介されています。

初代の陶歴は下記のとおりです。

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初代徳田八十吉(1873年11月20日~1956年2月20日)は、吉田屋窯風の作風を得意とし、古九谷・吉田屋の再現に生涯をかけた陶工です。号は鬼仏。指導者として浅蔵五十吉、二代目、三代目徳田八十吉等を育ています。
明治 6年 石川県能美郡小松大文字町(現小松市)の染物屋に生まれ、
明治22年 荒木探令に師事して日本画を学んでいます。
明治23年 義兄松本佐平(佐瓶)に師事、陶芸の道に進みます。
大正11年 東宮殿下御成婚の折、石川県より花瓶製作献上。
昭和28年 上絵付け(九谷)の技術が文部省より無形文化財の指定を受ける。
昭和31年 死去。

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「古九谷中筆致殊尓(に)面白き変り多き珍品也」は言い得て妙・・・。このような作品を入手することをマニアックというかどうかが本日の論点です。私の美的感性からはこれが蒐集の醍醐味・・。「古九谷でござい」の作品ばかりではつまらなかろう。紛い物と笑わば笑えという居直りかもしれませんが、当方のように明末の作品を蒐集している者にはこのような作品は愉しくてしょうがない。使う前に飾って置いています



箱書きが無ければ、明末から清朝にかけての民窯の色絵と判断していたでしょう。ま~それでも構わないのですが・・。これをマニアックというのかもしれませんね

帰帆図 双幅 寺崎廣業筆 明治35年(1902年)頃

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当方としては、久方ぶりの郷里出身の画家「寺崎廣業」の作品の紹介です。

帰帆図 双幅 寺崎廣業筆 明治35年(1902年)頃
絹本水墨着色軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1875*横642 画サイズ:縦1117*横505

 

寺崎廣業の作品は当方の蒐集作品がかなり多くの作品数となったため、厳選のためよほどの購入理由がないと入手しないことにしているのですが、本作品は双幅ということが大きな購入理由です。



寺崎廣業の作品で一番人気のあるのは美人画でしょうが、美人画は贋作も多く、初期の頃の作が多いようです。作品としては大正期になってからの山水画に寺崎廣業の魅力があります。本作品はまだ明治期末の作品と推察しています。



寺崎廣業は注文に応じてあまりにも多くの作品を描いたので、筆の足りない作品が多く、没後の人気衰退の一因になっています。本作品は筆数の多い方の作品となります。



寺崎廣業の作品では、四幅の作品には著名な作品がありますが、意外に双幅という作品は少ないように感じています。



双幅の作品はないことはないですが、当方では画集に掲載されている「渓山春雨」・「湖山雪後」という作品くらいしか思い浮かびません。



また寺崎廣業の作品では海面(湖面)に帆舟という構図はよく見られます。本作品の題名は仮題ですが、全体に画面が赤っぽいことから夕刻の時刻と推定し「帰帆図」としています。同様な作品として当方の所蔵作品には「舞子之帰帆図」(明治44年(1911年)頃)があります。

*「舞子之帰帆図」(明治44年(1911年)頃)は本ブログに投稿されています。



本作品の落款の字体は明治31年~明治36年頃までと推定されます。画集などからは明治33年頃からと思われますが、実は明治31年の作品にもこの落款の字体の作品が存在しています。字体については時代が前後して難しい画家も多いですね。

 

さて展示室に飾ると実に見栄えのする双幅の作品です。



手前は家内の家の庭にあったという黒柿で作った皿です。

李朝初期 粉青沙器輪線文壺

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漆器の補修、陶磁器の保存箱の作成、刀剣の手入れ、木彫の補修、額装の絵画の修復・保存箱の作成などの蒐集作品のメンテをすすめていますが、最後に残っている現在のメンテナンスは掛け軸です。



軸先のないもの、保存箱のないもの、紐が痛んでいる作品などは費用がそれほどかからずに済みますが、表具や本紙の痛みが時間と費用を要するものです。

 

改装するか否か、さらには染み抜きの処置までするか否かは対費用効果が判断のポイントになりますが、いつもながら葛藤する課題です。



さて、本日は「粉青沙器」なる作品の紹介です。

朝鮮半島の焼き物は白磁をベースとした作品が一番の人気ですが、それ以前の高麗青磁、三島手のような象嵌、茶碗などの作品も人気があります。その中で「粉青沙器」と称せられる作品群は意外に知られていないようです。「粉青沙器」・・・、名前だけは聞いたことがあるという方がほどんどではないでしょうか?



当方のような資金力の乏しいものはちょっとお目こぼしのある作品にどうしても食指が動かざる得ません。ある意味で李朝の王道から外れているようで悔しいですが・・・。

李朝初期 粉青沙器輪線文壺
合箱
口径110*最大胴径145*高さ115*高台径60



高麗青磁から転化したと考えられる粉青沙器は李朝初期の主流をなしていました。これらは日本で三島・刷毛目・粉引などと呼び、茶陶として深く親しまれていますが、多くは高麗の作と思われている節があります。その作品は鉄分を多く含んだ鼠色の素地に白土の象嵌及び化粧掛けが特徴とされます。



「粉青沙器」とは下記のように定義、分類されるようです。

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粉青沙器:朝鮮陶磁における用語で,〈粉粧灰青沙器〉の略称。

この名称は古いものではなく、1930年頃に韓国の美術史家・高裕變(こうゆうへん)が「粉粧灰青沙器」という名称を提唱し、略して「粉青沙器」という名称が定着したそうです。

陶器の有色の素地に白化粧が施されている技法,作品をいう。白化粧の上に印花文,掻落し,鉄絵,象嵌(ぞうがん)など,多様な装飾がなされている作品が多い。朝鮮王朝時代(李朝)の14世紀末から16世紀末までおよそ200年間,朝鮮半島の各地で作られていた。日本では江戸時代より茶人たちに〈三島〉と称されてきたやきもの。

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要は「三島手」・・・・???



朝時代初期はまだ高麗の影響が残っており、青磁のような色彩の陶磁器を作っていましたが、緑がかった青磁は時代が経つにつれて青味を失い、中には黄土色の色を持つ焼物となりました。



本品もそのような青磁の一種で、日本でいうと瀬戸のような色合いとなっています。



本品は黄土色の素地に白い土を象嵌した壺。時代を感じることのできる壺で、形は日本古来の壺に似ています。よくあるテカテカした感じがないのが、本作品の魅力なっています。



本品のような作品を作っていた陶工が日本に渡来して日本の陶磁器を発展させたのでしょう。高台の作りが唐津に似ていますね。



李朝の王道からは外れている当方の蒐集ですが、回り道をしながらなんとか王道に行き着きたいと願っています。メンテに費用を投資しながら、新たなモノへも挑戦するから葛藤は絶えない・・・。

家内に「建水でどう・」と尋ねたら、「建水はもっと安定感のあるものよ。」だと‥納得



改装完了 斑猫 中村岳陵筆 昭和5年頃

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陶磁器の作品は屋根裏部屋(3階部分)に収納していますが、心配なのが数が多くなるにつれての過重オーバー・・・

しかも作品を探し出す時に天井高さが低く頭がつかえるので中腰にならざるえず腰に負担がかかるため、そこで新たに陶磁器を収納する棚を渡り廊下に作ろうとしています。



今年は2階の収納室の棚を増設したのですが、そこには漆器と掛け軸、木彫、刀剣であっという間に満杯になりました。郷里の男の隠れ家にも運び込んでいますが、さすがに郷里は遠く、調べたい時にすぐに現物が見れないという不都合があります。



そこで渡り廊下が多少狭くなっても致し方ないのですが、片側に収納棚を作ることにしました。もともと展示室を作る時から構想にあったのですが、歪な形を利用して作ることから予算の関係もあり、取りやめていた棚です。

男の隠れ家にも増築や改装の計画がありますが、まずは手元にあるところが便利という理由でにの収納スペースの増設です。天板の木目のきれいな?板を少しずつ集めていましたので、なんとか利用したいと大工さんと打ち合わせ中です。窓も本来は設計段階では木目調のロールブラインドの予定でしたが、これ近々・・・。

骨董蒐集はこういうことも必要で、それもまたまた楽しからずや・・・。

さて、本日は額装にした作品や掛け軸の作品を染み抜きして改装した作品の紹介です。

額装のない作品に額を誂えるのも蒐集の愉しみのひとつです。本日は版画の作品に額を誂えたものを紹介します。作品自体は最近本ブログで紹介された作品ですが、額はコロナ禍で額屋さんの対応が遅れて投稿に紹介が間に合いませんでした。



浮世絵版画は無論のこと、版画は長時間の展示はいけません。よって飾る時間は短い方がよく、長く飾ると変色しマットの跡ができたりします。

版画作品をすべてを額装にするのは費用がかかる場合は、作品とマットまでしておいて、額は同じものを転用し、マットごと作品を飾る、つまり作品はマットごとにて保存しておくというやり方もあります。これは版画のサイズが規格性があることから有効です。額装に際してはマットと面金などの取り合わせ、そして額によって作品が綺麗に蘇ります。

保存だけなら浮世絵、版画は作品の裏打ちはせず、机に仕舞ったままが一番です。ただそれでは面白くない、取り出す際にも痛みやすいものです。



さて次は掛け軸の染み抜+改装した作品の紹介です。

当方は資金が少ないので、掛け軸は廉価で購入することから、入手する作品には「訳あり」の作品が多いです。たとえば一番多いのが「状態の悪い作品」です。「シミがある」、「折れシワがある」、「軸先が片方、もしくは両方ない」、「箱がない、共箱の誂えがない」など・・。むろん真贋怪しきものもあるのですが、基本的に資料として以外は真贋を慎重に判断して入手しています。

本日は「シミがある(ひどい)」という作品を染み抜きして改装した作品の紹介です。箱は子息の中村渓男による鑑定箱二重箱に収めらえていました。

改装前の表具の状態は下記の写真です。本作品は2017年10月の本ブログに、この状態で紹介されています。



シミの発生状況は下記のような状態です。湿気の多いところに長期間飾ったり、湿気を乾かさないまま保管したり、押し入れなどの湿気の多い場所に保管してたり、保管箱のないままであったりするとこのようになります。日本画は膠が悪さする場合もあるようです。

掛け軸は外気に直接触れるので、シミは宿命的なものでもあります。



改装した状況を本日は紹介します。

斑猫 中村岳陵筆 昭和5年頃
紙本水墨画帳外し軸装 軸先象牙 子息中村渓男鑑定箱二重箱
額サイズ:縦1515*横623 画サイズ:縦314*横471



もともとの表具の雰囲気を基準にしますが、多くは表具師のセンスによります。



スケッチ帖からの表具でしょうか? 中央の折れ目は致し方ありません。



「訳あり」の作品、俗言うと「ジャンク品」? を費用を費やすか否かは作品の出来次第・・。



「この作品をきれいにして飾りたい。」という衝動が基準です。



費用対効果もあるでしょうが、これが判断なら始終迷いっぱなしになるでしょう。



せっかく入手した作品はその辺りに放りっぱなしの輩は費用対効果だけが判断基準で、入手に対する欲望のほうが強いのでしょう。



骨董は飾る、使うことが大切です。そのためには飾る場所、収納する場所に費用を費やし、維持管理に気を使わなくてはなりません。



骨董を使う、飾る機会が少ないなら、数は限定的にいいものだけを遺しておくようにしなくてはなりません。



所狭しと飾ったり、目につく場所作品を置いておくこと、維持管理しないことは骨董蒐集、美術蒐集する者として失格なのでしょう。ただ小生のように所狭しと収納スペースを作るのもどうかと思うのですが・・。

入手から改装までの費用は5万円程度・・。さて本作品を観て、入手して飾りたくなった方が一人でもいれば改装のし甲斐があったというもの。ただこうして積み上げてきた作品が収納する場所に四苦八苦する・・。蒐集する者よ! 飾る空間と収納スペースを確保せよ!!






花 色紙 ガッシュ 林武筆

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絵に関心のある方なら「林武」という名前は必ず聞いたことがあるはずです。本日の作品は「林武」の作品、東京美術倶楽部の鑑定証が添えられている作品です。それだけ当方にとっては林武の作品については入手には慎重を要する作品群ということです。



花 色紙 ガッシュ 林武筆
色紙 共タトウ 東京美術倶楽部鑑定証付(平成30年3月24日)
額サイズ:横440:縦480 画サイズ:横240*縦270



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林 武:(はやし たけし)1896年(明治29年)12月10日~1975年(昭和50年)6月23日)。日本の洋画家。本名は武臣(たけおみ)といった。 東京都出身。大正末期から洋画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。

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林武の年譜は下記のとおりです。

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年譜
1896年(明治29年)- 12月10日、東京市麹町区上二番町十五番地に6人兄弟の末子として生まれる。武の父・甕臣(みかおみ)は国語学者、祖父・甕雄(みかお)は歌人、曽祖父・国雄は水戸派の国学者だった。
1909年(明治42年)- 牛込区余丁町小学校を卒業。同小学校では東郷青児が同級生で、担任の先生だった本間寛に東郷とともに画才を見出される。
1910年(明治43年)- 早稲田実業学校に入学、学費が払えず実家が営んでいた牛乳販売店で労働しながら通学するが、体調を崩して中退する。
1913年(大正2年)- 東京歯科医学校に入学するが、翌年には中退する。
1917年(大正6年)- 新聞や牛乳の配達、ペンキ絵を描いたりして生計を立て画家を志す。
1920年(大正9年)- 日本美術学校に入学するが、翌年には中退する。
1921年(大正10年)- 第8回二科展にて初入選し、樗牛賞を受ける。渡辺幹子と結婚。
1922年(大正11年)- 妻幹子をモデルにした「本を持てる婦人像」を制作。
1923年(大正12年)- 関東大震災被災のため、神戸に移住する。
1928年(昭和3年)-「横たわれる女」制作。
1930年(昭和5年)- 二科会を脱退。独立美術協会を創立する。「裸婦」を制作。
1934年(昭和9年)- 3月 渡欧。フランス(パリ)・ベルギー・オランダ・イギリス・ドイツ・スペインを訪れる。「コワヒューズ」を制作。
1935年(昭和10年)- 東京都中野区新井町に居を移す。「裸婦」を制作。
1937年(昭和12年)- 7月 松坂屋で滞欧作展を開く。
1938年(昭和13年)-「室戸岬風景」を制作。
1940年(昭和15年)- 皇紀2600年奉祝美術展覧会に「肖像」を出品。
1942年(昭和17年)-「静物」を制作。
1944年(昭和19年)- 持病の胃潰瘍が悪化、静養をかねて西多摩郡網代村にこの年から2年間疎開する。



1946年(昭和21年)-「うつむき女」を制作。
1948年(昭和23年)-「静物」を制作。この年から坂上星女をモデルにした連作を描き始める。
1949年(昭和24年)-「梳る(くしけずる)女」、「静物(鯖)」を制作。第1回毎日美術賞を受ける。
1950年(昭和25年)- 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に前々年制作の「静物」を出品。「星女嬢」を制作。
1952年(昭和27年)- 安井曾太郎の後任として、東京芸術大学美術学部教授に就任。
1953年(昭和28年)- 風景に題材を求め十和田に滞在。「十和田湖」の5点の連作を生む。「横向き少女」を制作。
1954年(昭和29年)-「斜面の顔」「ネッカチーフの少女」を制作。
1956年(昭和31年)-「伏目の女」で現代日本美術展大衆賞を受ける。「卓上花」「月ヶ瀬」を制作。
1957年(昭和32年)-「赤衣の婦人」を制作。
1958年(昭和33年)- 日本橋髙島屋において180点出品の大規模な回顧展を開く。「熱海風景」を制作。
1960年(昭和35年)- 5月 渡仏。「薔薇」「ノートルダム」「エッフェル塔」など23点を制作。
1961年(昭和36年)- 9月 髙島屋において滞欧作展開催。美術出版社よりそれまでの自身の画業を集大成した画集が出版される。
1962年(昭和37年)-「立てる舞妓」など、舞妓をモデルにした連作を描く。
1963年(昭和38年)- 週刊誌の表紙のため「少女」を制作。12月 東京芸術大学教授を定年退職し牛島憲之に教授職を託す。渋谷区に居を移す。
1964年(昭和39年)- 富士山を描き始める。再び妻をモデルにした「三味線」を制作。
1965年(昭和40年)- 自身の生い立ちと芸術論を述べた初めての著書『美に生きる — 私の体験的絵画論』を講談社より出版。薔薇の連作を始め、「花」を制作。
1966年(昭和41年)-「滝富士」「海」「裸婦」を制作。
1967年(昭和42年)-「赤富士」を制作。第37回朝日賞受賞。
11月 文化勲章受章。



1968年(昭和43年)- 富士山と並行して、波打ち際の怒涛を題材にした連作を手がける。『週刊朝日』の依頼により銀座の街頭を描く。
1969年(昭和44年)-「ばら」「怒涛」「花帽子の女」を制作。
1970年(昭和45年)- 富士山の連作「朝霧富士」3点を制作。八百屋お七に扮した女優の菊ひろ子を描く。
1971年(昭和46年)- 国語問題協議会会長に就任。正かなづかいの復権を訴えた著書『国語の建設』を講談社より出版。
1972年(昭和47年)- 講談社より刊行予定の画集のため、初めて自画像を描く。
1973年(昭和48年)-「少女」を制作。
1974年(昭和49年)- 前々年から展覧会に旧作を多数出品。
1975年(昭和50年)- 3月29日 慈恵会医科大学付属病院に入院。6月23日 肝臓癌のため79歳で没した。病床で描いた「薔薇」が絶筆となった。贈従三位(没時叙位)。6月28日 野口弥太郎が葬儀委員長を務め葬儀が営まれた。



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武の絵画には岸田劉生、セザンヌ、モディリアーニ、ピカソ、マティス、ビュッフェなどの影響を見てとることができると言われています。。初期の作品は絵具を薄く塗る傾向が強かったのですが、戦後になってからは絵具を盛り上げて原色を多用するようになっています。



サインは「Takeshi・H」もしくは「Take・H」と記すことが多いのですが、本作品は画中に「武」のサインと押印、さらに押印の下のものは判読できていません。

 

武が戦後に獲得した絢爛豪華な作風は多くのファン層を取りこみ、おりしも1950年代から60年代にかけて起こった投機的絵画ブームにも乗り、一時期は号あたり20万円という高値で取引されるようにもなりました。当然贋作も多くなり、基本的に鑑定証が必要な画家の一人になっています。本作品には平成30年に発行された東京美術倶楽部の鑑定書が付いています。



林武が晩年に多く描いた薔薇や富士山の絵画は今もって市場では人気が高いのですが、一方で武の代表作とみなされる「梳る女」(1949年)や「静物」(1948年)などが描かれた1940年代から50年代にかけての時期が武の黄金期であったとする見方も多いようです。




薔薇や富士山にみられる絢爛豪華な作風に違和感を覚える方も多く、逆に婦人像のような筆致が好きな方もおおいのでしょう。

参考作品             「なんでも鑑定団」出品作 2012年02月15日放送
薔薇
評価金額:150万円



本作品は縁があって入手できた作品、当方にて大切にしておきたい作品のひとつです。



やはり鑑定証のある作品は安心してのんびりと愉しめますね。たまにはキチンとした鑑定証のある作品を入手することも必要でしょう。

春寒 福田豊四郎筆 色紙

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福田豊四郎が上京しても想うのは故郷・・。その記憶に郷里の自宅で買っていた愛犬がいたようです。一見すると稚拙な絵・・???



本日は土曜日ということですので、気軽に楽しめる作品を選びました。

春寒 福田豊四郎筆
絹本着色色紙額装タトウ入 3号
画サイズ:縦270*横240



本作品に押印されている朱文白方印「豊」は珍しい。同期時の小点のほとんどの作品はこれと累形の朱文平行線白印「豊」が押印されているからです。当方でも初めて見る印章ですが、描き方や落款などから昭和10年頃の福田豊四郎のの作品として違和感はありません。

下写真左が本作品の落款と印章で、下写真右が同時期と思われる当方の所蔵作品「鶏小屋」の落款と印章です。この時期には印章と落款が期間が短く変動しているようです。

 

この犬と同型の犬は同時期に郷里にて描いている作品「春寒」(同題の2作品:昭和8年作と昭和10年作)にも描かれており、郷里の自宅での愛犬ではなかったろうかと思われます。母曰く福田豊四郎氏は犬好きだったようです。父と母は福田豊四郎氏とは友人の付き合いだったようです。

参考作品
春寒(人物) 部分
1933年(昭和8年)作 紙本着色 額:1196*880 秋田県立近代美術館蔵
子供の頃の思い出?



軒下には犬が描かれています。



参考作品
春寒
1835年(昭和10年)作 紙本着色 額:720*905 小坂町立総合博物館郷土館蔵

母がこの作品を観て「豊四郎さんの真骨頂ね。」と言われてたのを今でも覚えています。



同様に軒下には犬が描かれています。



これらの作品を知っていることから、初期の稚拙とも思えるこの作品を当方では入手することと判断しました。


明治期伊万里 倣?献上錦絵窓絵舟形大鉢

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最近読み直している本が下記の本です。高峰秀子氏の著書ですが、著名な女優であった高峰秀子氏が骨董に造詣が深く、骨董店の店主であったことは意外に知られていません。



何気ない(小粋な)作品を小粋に使う、そんなに高いお値段の作品ではないものをうまく使うことには長けていたようです。むろんこれぞという時にはさすがにお値段構いなしに購入したようですが・・。

本日の作品はそのように使いたい作品・・・??



明治期伊万里 倣?献上錦絵窓絵舟形大鉢
誂箱
最大幅331*奥行195*高さ57



江戸初期の揺籃期を経て幕府や諸藩の政治・経済の基盤が固まり、文化が発展した元禄時代(1688~1704)。それは経済力を蓄えた町人を中心とした奢侈逸楽の文化でもありました。贅を好む風潮の中で、伊万里焼にも絢爛豪華な様式、“古伊万里金襴手様式”が成立します。



染付の青い文様をベースに、赤・黄・緑・紫・黒に加え、金をたっぷりと使った華やかな古伊万里金襴手の鉢は「型物」と呼ばれ、高級食器として豪商たちの間で珍重されました。



17世紀後半以降、伊万里焼は重要な貿易品目でもありました。元禄頃には、ヨーロッパの王侯貴族の趣味を反映し、大型で華美な室内装飾用の瓶や壺が作られ、海を渡っていきました。このような作品が日本に里帰りしてきたりしており、コレクターの努力により栗田美術館などの美術館に多くが収納、展示されています。



元禄期の献上錦手の作品は数も少なく、古伊万里の中でも非常に高い人気を保っていますが、古伊万里の献上錦絵の作品は元禄の頃が最盛期であり、時代の下がった幕末、さらには明治期まで脈々と続き、絵が簡略化されて一般庶民にいきわたるようになりました。



残念ながら本作品は元禄期の作品ではなく、幕末頃から明治期にかけての作品と推察されますが、一応「献上錦手」としての売り先の言い分です。絵の出来から元禄期などの最盛期には程遠いというのが当方の見立てです。ただ献上錦手にしても、大聖寺焼にしても、一般の古伊万里にしても、これだけの大きさの舟形の鉢は珍しいかと思います。



近代になって阿蘭陀人を描いた有名な作品の献上手作品のコピー作品が出回っており、古伊万里作品はまったく油断のならない分野になってきました。藍九谷などの染付の古伊万里、色絵の柿右衛門手などのコピー作品は素人にはまったく判別できないそうです。中国からのコピー商品のようですが、骨董商向けに講習会が開催されたほど見分けが難しいようです。中国に日本人が依頼して作ったらしいという風評がありますが、真実は解りません。



時代云々よりも本作品を含めて古伊万里にはそのようなコピー商品の恐れがあるようです。当方も一度そのような作品(錦手)を若い頃に入手し、飲食店のオーナーに普段使いとして差し上げてことがありますが、本物と勘違いされて往生したことがあります



最終的には本作品は幕末から明治にかけてのに錦手の作品と判断していますので、気軽に洗面台の石鹸入れなどが妥当かな?



ネクタイピンや財布などの小物入れ、筆入れなどとして机に置くのもいいでしょう。入手値段もそのようなものです。

高峰秀子は当方の亡き母と同じ名前でで親近感が湧きますが、骨董に関しては中島誠之助の師のひとりでもあります。このことも知らない方が多いかもしれません。夫は松山善三、画家で親交があったのは藤田嗣治や梅原龍三郎・・・、ちょっと当方とはレベルが違うようで・・・・



ともかく何にでも使えそうな使い勝手のよい器のようです。



舳先の花はなんの花?



そう使うこともそうですが、見ているだけで楽しくなるのも良き作品の条件ですね。




月夜魚釣図 橋本雅邦筆

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展示膣の2階廊下の棚の製作が進んでいます。主に陶磁器、長さの短い掛け軸、参考資料用の棚です。



歪な部分も当方の注文通りの形になってきました。



天板などの使用は杉の木目調です。



本日は橋本雅邦の作品の紹介です。

橋本雅邦の作品の良し悪しはもはや感に頼るしかないというのが当方の結論です。落款、印章は似せているものが多く、その場での判断はもはやあてにならず、鑑定も東京美術倶楽部ならいざ知らず、他の鑑定は書体を似せているので素人判断は難しい・・。さらにはいくら真作でも画集などに掲載させていないと価値は低いなど魑魅魍魎たる世界・・。



本日の作品は現段階での当方の感性にて真作として判断し、入手した作品です。

月夜魚釣図 橋本雅邦筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 橋本秀邦鑑定箱(大正10年10月) 
全体サイズ:横400*縦2080 画サイズ:横275*縦1150



写真では解りにくですが、とても清涼感のある作品です。



月夜に一人、棹を垂れる・・。



釣り人は何を思い、何を感じているのか・・・。



落款から初期の頃の作か?



子息の橋本秀邦の箱書きは大正10年のもの。橋本秀邦の箱書きは絶対的なものでありませんし、書体を真似た贋作も数多くあります。また鑑定は本物で中身は偽物というもののあるようです。「橋本秀邦」の鑑定箱書きは鵜呑みにしてはいけないようです。



ともかく作品の品格を嗅ぎ分ける臭覚が蒐集する者には必要なようです。



この作品は当方では真作と判断しました。写真では解りにくいと思いますが、透明感のある品格の高い作品と思います。自己満足でしょうが、こういう作品にはなかなかお目にかかれないと思います。

改装完了 正面之虎 大橋翠石筆 明治40年代(1907年)頃

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虎の絵の作品で著名な大橋翆石の作品ですが、表具が痛んできていたのでこの度改装しました。

大橋翆石については、今年は滋賀県美術館にて「明治の金メダリスト 大橋翠石 〜虎を極めた孤高の画家〜」と題されて展覧会が開催されるようです。開催期間は予定では2020年7月23日(木・祝)から2020年9月13日(日)のようです。

この展覧会を担当される村田准教授から本作品について問い合わせがありましたが、東京での開催が見送られ、またコロナ禍も影響されたようで、本作品の出品は次回以降に持ち越されたとのことでした。

村田准教授によると本作品を描いた頃は大橋翆石は岐阜(大垣新町)に在住しており、体が弱いことから岐阜で当時盛んであった養蜂業を営む渡辺某氏から蜂蜜をいただくなどの付き合いがあったらしく、その付き合いから渡辺某氏は多くの大橋翠石の作品を所蔵していたそうです。渡辺某氏は近年その作品らを手放したらしい。箱書きにある「渡辺」はその養蜂家の方ではないかと推定されるそうです。



正面之虎 大橋翠石筆 明治40年代(1907年)頃
絹本着色軸装収納箱二重箱 所蔵箱書 軸先本象牙 
全体サイズ:横552*縦2070 画サイズ:横410*縦1205
分類A.青年期から初期 :1910年(明治43年)夏まで  ~46歳

 

ちなみに本作品は愛知県からの入手です。「点石翠石」と言われる落款の「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏までの作と推定されます。後年の箱書きには「旧作」とされておあり、数少ない青年期の作品です。



箱書の印章は「人 世到処断崖多」の朱文白方印。箱書きは大正時代初期に「渡辺氏」と為書きがされていて、大正時代には箱が無かったため 旧作と箱書きに沿えたと考えられます。

 

作品中の落款は下記のとおりです。いわゆる初期の作で「点翆石」と称される落款です。箱は二重箱でタトウを誂えました。

 

資料による印譜の写真は下記のとおりです。

 

村田准教授によると正面から描いた虎の作品は珍しいものの、数点あったらしく海外(韓国?)には贋作も存在するとのことです。本作品は落款や印章から真作と判断されるとのことでした。

当方にとっても大橋翆石の作品蒐集の記念碑的作品であり、大切に保存していきたい作品です。


椅子にかける少女 伊勢正義画 その18 1941年(昭和16年)作? 

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1階の展示室の廊下にも2階と同じような棚を設置する案は家内から却下されました。どうも布団を運んだり、洗濯物を運んだりするため広い方がいいらしい  準備していた天板用の屋久杉材は2階の廊下の棚の天板に急遽用いることにしました。



本日の作品は当方の蒐集対象の唯一の洋画家であり、同郷の画家「伊勢正義」の作品の紹介です。「伊勢正義」の佳作と言える作品が入手できましたので紹介します。



椅子にかける少女 伊勢正義画 1941年(昭和16年)作? 
油彩額装 左下サイン 誂タトウ+黄袋
画サイズF12号:横645*縦750 全体サイズ:横500*縦605



洋画家が女性を描いた作品、女性を描いて著名な画家は数多くいますが、女性を描いたこの人の作品には独特の雰囲気があり、当方が特に好きな作品群です。



これは好みの問題でしょうが、裸婦ではない気品のある女性を描いた作品はいいですね。本作品は女性と言っても少女ですが・・・。



昭和の雰囲気が堪能できます。



少女への愛情の眼差しが感じられる作品ですね。



制作年代の記入はあるもの判読不能で、1941年(昭和16年)、34歳の時の作品か? それとも下記の記述のように1951年(昭和26年)か???



額は新たに誂えたもののようです。



描いた年代を特定するのに興味深い資料があります。「週刊朝日」の表紙の絵です。同じ少女がモデル??



伊勢正義が描いた表紙の絵ですが、この週刊誌は昭和27年に発刊されています。昭和27年は1952年ですから、それに近い1951年の作ではないでしょうか?と推察されるものかもしれません。

 

現在展示室の廊下には伊勢正義が女性を描いた作品を飾ってあります。



訪れた方々には評判の良い展示です。



このような昭和の雰囲気のある作品は落ち着きますね。



単なる美人画ではない婦人画ともいうべき作風・・・。



繰り返しになりますが、当方の好きな作品群です。



我が郷里の画家「伊勢正義」、ぜひ再評価なり、改めて展覧会を催して頂きたい画家の一人です。以前の投稿記事で紹介したように東京ステーションギャラリーにも一作品ですが展示されたことがある画家です。

洋画家たちの青春 白馬会から光風会へ 2014年3月~5月開催
下写真の一番左の作品で若い頃かもしれません。



参考までに伊勢正義の来歴は下記のとおりです。

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伊勢正義:1907-1985 昭和時代の洋画家。明治40年2月28日生まれ。藤島武二に師事。光風会展や帝展,第二部会展で受賞。昭和11年猪熊弦一郎,小磯良平らと新制作派協会(現新制作協会)を結成。戦後も同協会で活躍。昭和60年11月18日死去。78歳。秋田県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「バルコン」「キャバレー」など。

新制作協会会員の洋画家伊勢正義は、11月18日腎不全のため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。

明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡(大館市白沢)に生まれる。転勤の多かった父に伴い、各地を転々としたが、少年時代を小坂町で過ごした。当時の小坂町は鉱山の最盛期で、秋田県で北辺の土地でありながら、中央から直接文化が流れ込み、近代的・都会的な雰囲気が満ち溢れていた。演劇などの文化活動も盛んに行われ、芸術方面の関心が高い町だったと思われる。伊勢正義を同じ、日本画家の福田豊四郎(1904年~1970年)も同郷である。
 
昭和6年東京美術学校西洋画科卒業。藤島武二に師事。
同8年20回光風会展に「女性」他3点を出品しK夫人賞を受け、翌九年光風会会員となり、同年の15回帝展に「カルトン」が初入選する。
同10年22回光風会展に「無花果のある静物」他2点を出品、最初の光風特賞を受賞した。
同10年松田改組に伴う第二部会展に「集ひ」を出品し、特選、文化賞を受けたが、翌年同志と官展を離れ、同年猪熊弦一郎、佐藤敬らと新制作派協会を結成、第1回展に「バルコン」「キャバレー」を出品した。
同12年日動画廊で初の個展を開催。その後新制作協会の主要メンバーとして同協会展に制作発表を行い、近年はアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた。また、日本貝類学会会員、国際教育振興会理事でもあった。

戦前の混乱期、また画壇の紛糾していた時代に製作活動を続けていた画家です。改めて見直すべき洋画家のひとりと言えるでしょう。

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地元では秋田県立美術館で「没後20年 伊勢正義展」が2005年に開催されています。



残念ながら今では地元でも知る人は少なくなっている画家ですね。








破墨山水図 谷文晁筆

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これぞ、谷文晁の破墨山水図・・・かな?



破墨山水図 谷文晁筆
紙本水墨絹装軸 軸先象牙 佐竹永陵鑑定箱
全体サイズ:縦2170*横672 画サイズ:縦1220*横527

 

いい作品自体を目の前にして、「寛政の谷文晁は特徴的な烏落款」だとかいう講釈はもはやいいでしょう。



これほど大きな作品での破墨山水画は見事です。谷文晁の極色彩画は好きになれませんが、この作品はさすがに筆力のすごさを改めて感じられます。



迫力がありますね。



立派な象牙の軸を使っており、表具の状態もよく、所蔵印もありますのできちんと保尊されてきた作品のようです。。



このような破墨山水画はあるようで意外にないものです。



破墨山水というと室町期が最盛期ですが、江戸期に破墨山水の達人を上げるとすると立原杏所と谷文晁でしょう。



保管のきちんとした掛け軸は感じの良いものです。作品を観ずして保管の状態で真贋が解るというのも経験を積むと理解できます。



谷文晁の鑑定に第一者の佐竹永陵の箱書き、谷文晁の落款、印章はともに真印、真作の書体と一致します。

 

当方における他の所蔵作品「渓秋太公望」、「富嶽雲龍図」、「墨瀧図」らの落款、印章とも一致します。これからもこれらの作品も真作と判断されます。

 

日本画は行き着くところ、もとい「行き尽くところ」水墨画・・・・



展示して愉しんでいます。

*谷文晁の破墨山水画はほとんどが贋作ですので、要注意の作品群です。さて本日の作品の真贋や如何??

掛釉二彩唐津大徳利 古武雄焼(二川焼)

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本日の作品は民芸作品の代表格・・???

褐色と緑の釉薬を櫛目状に白い土で文様を形成したものに打ちかけている作品です。この掛け釉薬の技法は近代では浜田庄司の作品の作品などにも見られます。打ち釉薬はほんの一瞬の間に施されますが、その技は考えるよりはるかに難しいものです。

*左の掛け軸は田中一村筆による「軍鶏」で、近日投稿予定の作品です。



打釉二彩唐津大徳利 古武雄焼(二川焼)
誂箱
口径53*胴径205*高台径125*高さ330



大徳利を手にもって横にして二種の釉薬を掛けたようです。



掛けすぎてもいけない、少なくても面白くない。これはやってみた人でないと解らないものです。



浜田庄司のあっというまの掛け釉の技を観ていた人が「そのような短い時間でできるのにお値段高いですね?と問うたところ、浜田庄司が「長い鍛錬が含まれている。」と答えたそうです。



この作品は分類上は古唐津に入ります。さらには古武雄焼という分類になりますが、このことは幾度となく他の作品で記述していますので説明は省略させていただきます。



家内も「この作品はいいわね!」という感想でしたが、「そう、この作品はいいです。」という小生の答え・・。



運よくいい作品が入手できました。「古武雄焼 緑褐打釉櫛目文大平鉢」と共に当方の所蔵作品の打釉の名品と思っています。



本作品と同じ系統の作品は下記の作品が本ブログに投稿されています。

徳利では下記の2作品です。

櫛目文唐津大徳利 古武雄焼(弓野焼)
誂箱
口外径45*最大胴径160*高台径107*高さ345



下記の作品は古武雄の徳利の作品中では逸品だと思っています。打ち釉薬の代わりに透明な釉薬が処理されているように思います。

松絵紋二彩唐津大徳利 古武雄焼(二川焼)
「小さな蕾」(2001年4月号 「骨董と偲ぶ」)掲載作品 合箱
口径*胴径135*高台径*高さ240



大皿では下記の3点を紹介しています。

下記の作品が本日紹介する作品と同じような打釉の技巧による作品です。これほど出来の良い作品は珍しいでしょう。

古武雄焼 緑褐打釉櫛目文大平鉢
古杉合箱
口径365*高台径*高さ105



こちらも絵皿としては佳作ですね。

古武雄焼(弓野焼) 二彩松絵大皿
誂箱
口径315*高台径170*高さ55



三島唐津象嵌大鉢 
藤谷陶軒鑑定箱入
口径445*高台径*高さ155



一般的に弓野焼と称されている水甕には下記の2点の作品が紹介されています。

松絵紋二彩唐津水甕 古弓野焼
漆蓋 合箱
口径320*胴径355*高台径130*高さ295



松絵紋二彩唐津水指 伝古弓野焼
漆蓋 合箱(所蔵印在)
口径96*胴径175*底径*高さ145



上記に記述しました浜田庄司の打釉の技術を見せている作品には下記の2作品が本ブログにて投稿されています。

釉描角盛皿 浜田庄司作
共箱 
作品サイズ:304*300*高さ67

まるでお化け?のような文様になっていますね。叔父から頂いた作品です。



もうひとつは有名な万博に展示された作品と同手の大皿ですが、この大皿は今では入手不可能でしょう・・。掛け釉薬の見事な技です。

白釉黒流掛大鉢 浜田庄司作
共箱 花押サイン有 
径550*高さ143*高台径245

デザイン性の優れた釉薬の打ち方は思うようにはいかないものです。一瞬のミスでいままでの工程がすべて駄目になりますし、掛け直しはできません。



民芸の魅力はその手慣れた技法によります。絵付けも打釉も幾度となく繰り返した工程の結果です。



本作品に戻りますが、二彩色の打ち釉薬が見事ですが、これ以上の釉薬を掛けたら景色がうるさくなりますね。



徳利を横に持ち、釉薬をさっと二種類掛けたら、乾く前に横にしたと推定されます。簡単なようで出来のよい景色はなかなかできないし、万が一景色が良くない仕上がりではすべての工程が無駄になります。人生と同じさ・・・


軍鶏図 田中一村筆

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最近、本ブログで紹介した福田豊四郎が描いた「軍鶏」(下記の写真)と比較してみようと入手した作品です。



描いたのはあの「田中一村」らしいです。

軍鶏図 田中一村筆 その3
紙本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:横455*縦1720 画サイズ:横315*縦940

1950年頃40歳前半の作と推定されます。

 

なんともはや「お上手」という出来です。軍鶏の野生の凄みをうまく表現しています。



色彩は奄美時代の通じるものがあります。



真贋はもはや別にして、この作品は気に入りました。



ちなみに落款は「一村画」となっており、1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選した際に、このとき初めて一村と名乗っていますので、40歳以降の作でしょう。

その後、1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意していますので、画風からその以前の作、40歳前半の作ではないかと思われます。

印章は朱文白丸印の「師古」で、「米邨」時代からの印章であり、当方の「叭々鳥」と同じ印章です。下記の左写真が本作品の落款と印章で、右写真が「叭々鳥」の落款と印章です。

 

田中一村は人気の画家ですが、それは奄美大島に移住してからの特徴的な画風の作品によります。その頃の作品は身内によってすべて管理されましたので、市場に出回ることはまずありません。

奄美に移住する前の特に若い頃の「米邨」時代の作品は市場にたまに出回ります。とくに呉昌碩のような文人画風の作品はよく見かけます。貴重なのは「一村」の落款のある40歳代の作品でしょうが、画風が移行する時期で人気が出なかったし、売るということをしなかった時期なので、市場にはなかなか出回りません。

なんでも鑑定団にはその頃の作品である2作品が出品されています。

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参考作品 なんでも鑑定団出品作 2016年11月29日放送
軍鶏図など2点 評価金額:500万円



評:田中一村の作品に間違いない。8歳から40歳までは「米邨」という号を使っていた。印章には「年/三十有九」とあるので、昭和21年、まさに千葉に住んでいた時代の作品。

描かれているのは当時の千葉の原風景。荷車に牛、そして軍鶏。描き方は非常にその当時の近代的な日本画のもの。ところが後ろに描かれた木々は非常に伝統的な水墨画で描いている。一つの画面で彩色画と水墨画を同時に用いるというのが一村の大きな特徴の一つ。依頼品はおそらくその当時のままで、一村が仮表装のまま持ってきたのだろう。そういうことはほとんどないので、このままの状態にしておくというのも資料的には面白い。

参考作品 なんでも鑑定団出品作 2016年11月29日放送
花図屏風 購入金額:1200万円  評価金額:3000万円



評:描かれた時代は40歳代前半、米邨から一村に改めて間もない頃。その頃は支援者が少しおり、依頼品のような大きな作品を何点か描いている。昭和23年の頃の「菊花図」は、割と下の方に描いていて上に空白が残っている。それが昭和25年頃になると、花が画面いっぱいにあふれてくる。一村の心情を表現している気がする。それまでのいろいろな苦しい思いからだんだんと解き放たれて前向きになっているよう。こういったベースがあって、最後の素晴らしい作品群ができたという流れの中の貴重な1点。「一村」と名乗るようになってから売り絵は一切描いていないため、一村落款の作品が出てくることはまずない。 

*「一村落款の作品が出てくることはまずない。」というのは51歳で奄美に移住してからはこのことは確実ですが、40歳代の作品は滅多に売りには出されていないものの、作品は人手に渡っていると思われます。

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当方で所蔵している作品は下記の2作品です。                     

叭々鳥 田中一村(米邨)筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横477*縦1740 画サイズ:横366*縦1035



この作品も40歳前半頃の作と推定されます。一度は贋作だろうと当方で打ち捨てていた作品ですが・・。



本日の作品と同時期より少し前に描いた作品と推察しました。



もう一つは若い頃の作品です。16歳でこのような作品を描いていたというのは田中一村がいかに早熟の画家であったかが解りますね。

大正乙丑初夏之図 田中一村(米邨)筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横450*縦1970 画サイズ:横340*縦1360



この作品には賛に「乙丑(きのとうし、いっちゅう)初夏」と記されており、大正14年(1925年)、田中一村が16歳頃の作と推察されます。



上記の作品である「大正乙丑初夏之図」にも押印されている「師古」という印章は下写真の左で、右の写真は思文閣に掲載の印章で昭和元年、18歳の時の作に押印されています。当方で所蔵している3作品の「師古」の印影は一致しますが、この程度の印章はたやすく偽造できるでしょう。真作のポイントはあくまでも出来。「大正乙丑初夏之図」はまず間違いなく真作と判断しています。

 

とにもかくにも気に入った作品は多少無理しても、思い切って購入することが大切です。こういう場合は作品が贋作であっても長い目でみれば、いい勉強になるものです。ただし事前に勉強によるある程度の知識と眼力が前提です。むやみに購入するとガラクタの山を築くことになります。



息子と鑑賞・・・。



抜けかけている羽根の描き方にはただならぬ力量がうかがわれます。



気づきにくいですが、墨と色の表現は独特です。なんでも鑑定団に出品された「軍鶏」の作品より後年の作でしょう。出来が良いです。



本作品の入手の決断は、当方にとっては身の程知らずの思い切った決断かもしれません。
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