Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3055

リメイク 松渓悲居 田崎草雲筆

$
0
0
蒐集してきた作品は真贋をきちんと整理し、さらに要らぬ作品と要る作品とに区分けし、作者別に整理して当方の最終整理としております。



所蔵しておく掛け軸は表具など痛んだ部分を修復し、保存箱や説明資料もきちんとしておきます。額装の作品もまた同じように整理していきます。



蒐集初期の作品もなるべく取り寄せて整理していますが、本日はその蒐集初期の作品に紹介です。

松渓悲居 田崎草雲筆
絹装軸絹本着色箱入 470*1195



本作品は草雲の山水画のなかでも優品といえる作品だと思っています。



賛の意味は友人が解釈してくれており、「緑深い渓谷はもの悲しいところを感じる」という意味で「松とは漢詩等では翡々とか節操・長寿とかに引用される」と友人が解説してくれています。



落款は「草雲匠人」、印章は白文方印「草雲氏」、および白文方印「田跂芸印」(跂はへんが危)が押印されています。他の作品の参考印と同じであることより明治26年頃の作品と推察しています。

明治11年以降に白石山房に閑居していますが、そのときの心境を画に賛にした作であろうと思います。購入時に痛みやシミがひどいためしみ抜きし、再表具しています。



**********************************

田崎草雲:1815年11月15日(文化12年10月15日)~1898年(明治31年)9月1日)。日本の南画画家。名は芸(うん)。字は草雲。弟子に小室翠雲がいる。司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデル。

1815年 江戸小川町(現在の千代田区)足利藩江戸藩邸に足軽二人扶持の祐筆、田崎恒蔵の長子として生まれる。幼少より絵に長じて縁戚の金井烏洲、次いで谷文晁(1763~1840)門下となる。
1835年 家督を継母の連れ子に譲るため、足利藩を脱藩。放浪の後、江戸の加藤梅翁の門下となり号を梅渓とする。
1840年 谷文晁没す。
1843年 独立して浅草山谷堀の裏店に家を借りるが絵はまったく売れず。
南宋の盛茂燁の山水画に傾倒、研究を重ねる。
この前後、松浦武四郎、小野胡山らの紹介により玉池吟社の梁川星厳に謁し、感化されるところが多く画論の研究を進める。また尊王思想についても共感するところがあった。
1850年 この頃、禅学に傾倒、草雲の号を使う。周囲の評価も高まる。
1855年 妻の菊子が狂死。翌年、草雲は江戸を去り足利へ帰郷。藩へ絵師として復帰する。
1858年 尊王志士と交わり幕府の嫌疑を受ける。安政の大獄の難を遊歴をすることで避ける。 
1868年 藩主以下重臣に説き藩論を尊王に統一させる。藩内の百姓を徴兵した「誠心隊」差図役として足利山麗会議にも出席。藩の防衛に努めた。一方、実子の格太郎は妻と自殺する。
1876年 第1回内国勧業博覧会へ画を出品し、高評を得る。
1878年 蓮岱寺山(現足利公園内)に草庵の白石山房をたてる。足利では多く弟子をとり絵画を教えた。ただし、単に絵を欲しがるだけの人物は軽くあしらうことが多かったという。足利の酒屋は草雲から金をとらず、かわりに絵を描いてもらうことが多かった。
1890年 皇居の杉戸図を描く。同年10月2日、帝室技芸員を拝命。
1898年 死去。墓は足利の西宮長林寺。
1968年 鈴木栄太郎が私費で草雲美術館を建設し、足利市に寄付。

**********************************



**********************************

前半生においては、南画の師である谷文晁や先輩の渡辺崋山亡き後、書画会における草雲の評価は低かったとされる。草雲は文晁を畏敬はしたが、真似る事を恐れておりこれが巨星なきあとの画壇の風潮と合わなかったと見る事ができる。

また、周囲の南画の技術革新も進まなかったのが不遇時代を長くさせる要因となった。しかし、この時期に写実のため本草学も学ぶという熱心さが彼のプロ意識の高さを物語っている。凧の絵や浮世絵を書いたりして世渡りをする一方で、本分においては己の節は曲げないという江戸っ子としての「意地」の部分が草雲を大成させたと言える。



大島萬世によれば、草雲が出品した展覧会で、金牌なしで銀牌2名(うち1名が草雲)となることが立て続けに起き、これを、地方在住者である自身へのあてつけと考え、以後、中央画壇と断絶した。しかし、白石山房を訪れる人物を、会わずに追い返すことは決してしなかった。(借金取りなど、一度会ったことのある人物に対し居留守を使うことはあった)

もっとも、白石山房には、常に「草雲は不在」という札が掲げられていたため、事情を知る知人や出入りの商人以外はあまり出入りしなかった。

帝室技芸員を拝命する際も、当初、地方在住者であるという理由で固辞し、担当者が必死に説得したという。これについては、帝室技芸員になると、東京に通勤しなければならないと草雲が勘違いしていたためという説もある。

**********************************



**********************************

草雲という字名は、本名の芸(うん)を二字に分けたものといわれる。

幼少より絵と同様に武術も好み、6尺(約180cm)近い草雲は剣術や柔術に巧みであったという。書画会においては、己の絵を貶す相手には拳骨で殴りつけて「あばれ梅渓」のあだ名をもらったとされる。

郡司信夫の「ボクシング100年」や加来耕三「日本格闘技おもしろ史話」の記述によれば1854年、横浜に遊んだときにボクシングを使うアメリカ軍水兵と喧嘩になり体落としで相手を倒しているが、記録に残っている限りで、これが近代日本における異種格闘技戦の第1号とされる(同じ1854年に伊豆戸田でヘダ号の造船を待っていた旧ディアナ号の船員が村相撲に参加しているが異種格闘技かどうかは
不明)。

この事件は富田常雄の「姿三四郎」における柔道とボクシングの格闘場面のモデルとされているが、原典の記述は草雲の通称や柔術の流派が通説と大きく食い違うとされ、疑問を呈する研究者もいる。

また、山水画の研究のために旅行を繰り返した。国定忠治と会ったことのある人物による唯一の肖像画は、草雲のものである。ただし、この肖像画は、忠治の没後に草雲が思い出しながら描いたものであるとされる(作家の丸谷才一はこの動機を「ファン心理」と分析している)。剣客・博徒との交際も深く中山道の大親分の信濃屋喜兵衛留書によると、甲州では博徒の竹居安五郎宅に宿泊するなど「亦諸国貸元親分衆に詳しきもの」とされる。

2017年に草雲の肖像写真が見つかった。角刈りで白の着物に黒い羽織を着ている。写真には草雲の戒名「遊玄院畫仙草雲居士」と「七十七歳撮影」と書かれている。草雲の写真は2017年現在までに7枚見つかっている。

**********************************



**********************************

白石山房:明治6年に蓮台寺(蓮岱寺)跡を買い求め、明治11年に完成。 母が吉兆の徴とした白の碁石に因んで『白石山房』と命名し、書生や数人の女中と暮らしていました。



**********************************

以前にリメイクして投稿した下記の作品と飾って愉しんでいます。



松に冨士 田崎草雲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先 箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ;横500*縦1275



これらの作品は蒐集を始めた同時期に入手し、痛んだ表具を直して、説明書きを添えて所蔵しています。



箱書きは友人によるもので、栞は小生の自作のものです。趣味とは手間暇のかかるものです・・。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3055

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>