なにが問題点か解っていないと同じ問題が起こる確率は高くなります。蠢いている問題をなおざりにし、それが幾つかの組織で同じ問題の発生が続くと組織は疑心暗鬼になります。早急に手を打つ必要があるのに、問題点がわかっていないため、放置し続けていると負のスパイラルに陥っていきます。つまり、真の問題点を杷博することが大切です。
「大正七年六月弐拾日佐竹侯爵家 所蔵残品入札売立会ヨリ買入レル」とあり、郷里の秋田由来の作品ということで食指を動かしました。むろんこのような書付は眉唾ものと思ったほうがいいでしょう。
月下虎之図 佐伯岸岱筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱 佐竹侯爵家旧蔵
全体サイズ:縦1925*横475 画サイズ:縦1005*横345
落款に「筑前介 岸岱」とあり、嘉永6年(1853年)筑前介に叙していることから、それ以降の年代の作品であることが推察されます。つまり71歳以降の晩年の作品といえます。
落款と印章は下記のとおりです。「岸岱」「君鎮」の白文朱方印が押印されています。
元治2年(1865年)に82歳で亡くなっていますので、当時としてはかなりの長寿です。本作品は岸駒の筆法を受け継ぎ、虎などの動物画を得意としつつも、四条派を意識した温和な作品と言えます。猫のような描き方はまだ実際の虎を見ていない、岸派独特の描き方です。
「大正七年六月弐拾日佐竹侯爵家 所蔵残品入札売立会ヨリ買入レル」とあります。佐竹侯爵家は、むろん旧秋田藩主のことです。
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大正6年11月の入札は、佐竹家の財産整理の一環として、同家家令大縄久雄が、佐竹家の同意のもと企画し、益田鈍翁、高橋箒庵を世話人として開催されました。この入札の目玉はいわゆる佐竹本「三十六歌仙絵巻」です。この作品については、最初40万円の止値(最低落札価格)を佐竹家では希望していましたが、世話人等の相談の結果、35万円に引き下げ、それでも単独で落札するものがなく、札元全員の連合で、35.3万円で落札した。
翌年、この作品は、当時船成金として威勢をふるっていた山本唯三郎が買い取りましたが、第一次大戦終了後の不況のため、間もなく山本も手放さざるを得ず、大正8年には、益田鈍翁の主導のもと、絵巻を切断して分譲され、各歌仙軸装とされたことはよく知られています。
雪村「風涛図」は、大阪北浜で相場師として活躍した上野与吉が落札しましたが、上野はこの入札で、名物「山桜大海」茶入もあわせて落札しています。
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本作品は「価格65円50銭」とありますが、上記の入札目録には掲載されておらず、その翌年に再度「所蔵残品入札売立会」が開催されたかは不明です。
大正時代の「価格65円50銭」とはどれほどの価値があったのでしょうか? おおよそ「50万円」ということらしいのですが・・。
岸岱(がんたい):天明2年(1782年)〜元治2年2月19日(1865年3月16日)。江戸時代後期の岸派の絵師。岸駒の長子として岸派を継承し発展させた。名は若い頃は国章、のち昌岱。字を君鎮。別号に卓堂、虎岳、紫水、同功館など。
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岸岱の補足説明
父から厳しく画法を習い、画才が乏しいことを責められたという。厳しいね〜
文化5年(1808年)筑前介(岸駒は越前介)に任ぜられ、その翌年父岸駒とともに金沢城内に障壁画を描いています。天保15年間(1844年)有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝、奥書院の障壁画の制作を申し出、2ヶ月足らずで「柳の間」「菖蒲の間」「春の間」全てを完成させています。
嘉永6年(1853年)に叙す。
安政年間(1854年-1860年)御所造営に岸誠・岸連山・岸竹堂らと共に参加し、御常御殿二之間、御学問所中段之間、皇后宮常御殿御寝之間、御花御殿北之間の障壁画を担当した。墓所は上京区の本禅寺。
岸駒や呉春亡き後、長命だったことも手伝い、岸派の二代目として京都画壇に大きな勢力を築いています。『平安人物誌』には文化10年(1813年)から嘉永5年(1852年)の長期に渡って掲載されています。
その画法は岸駒の筆法を受け継ぎ、虎などの動物画を得意としつつも、四条派を意識した温和な作品や、伝統的な大和絵の画題や金地濃彩の障壁画など幅広い作風を示しています。本作品は虎の作品ですが、基本的には岸駒の画法を受け継いでいることがうかがえます。
金刀比羅宮の障壁画では、80年前に描かれた伊藤若冲の障壁画へのオマージュや宮への恭敬からか、敢えて自分の得意な画題を描かず、与えられた空間を最大限活かすように作画しています。絵だけでなく文筆にも秀で、書籍の序なども手掛けています。
弟子に、長男の岸慶、次男の岸礼、末子の岸誠、喜田華堂など岸派を大成させました。
岸派(きしは):岸駒を派祖とする江戸時代後期から明治時代の日本画の一派。京都画壇に一大勢力を形成し、岸駒の長子岸岱、河村文鳳、横山華山、白井華陽など多くの画家を輩出しています。望月派の派祖である望月玉蟾は岸駒に学び、四条派と岸派を融合させました。
初代岸駒
本ブログでお馴染みの画家で、各流派を折衷し、表現性の高い写生画で知られています。
二代岸岱
岸駒の実子で岸派の絵画を発展させた。実子に、岸慶、岸礼、岸誠がいます。 表現方法もあきらかに岸駒の影響がわかります。
三代岸連山
岸岱の弟子となり、後に岸駒の養子として京都の伝統画派四条派の画風を加味して癖の強い画風を変容させました。実子に岸九岳がいます。
当方に所蔵作品がありますが、未整理ゆえに未投稿です。
四代岸竹堂
連山の弟子で後に連山の養子(娘婿)となる森寛斎、幸野楳嶺らと並ぶ明治草創期の近代京都画壇に重鎮となり、岸派の伝統である虎や鳥獣だけでなく、洋画の陰影や遠近法を取り入れ写実的な風景画なども描いています。しかし、岸派はこの竹堂をもって実質的な終焉を迎えました。竹堂の作品もどこかにあったはず・・・。
しかし、どうもこの作品、月に虎に瀧・・・そして添え状???揃い過ぎ????
岸岱は画力という点で岸駒よりは劣るというのは共通した評価でしょう。
参考作品
思文閣墨蹟資料目録「和の美」第459号作品NO2 9より
印章は大きさが違う同文の印を使用しています。
贋作をつかませられたら、真の原因はなにかを捕らえなくてはいけません、印章の未確認、対費用との見極め・・? しかし真の原因のほとんどが得するかもという欲
「大正七年六月弐拾日佐竹侯爵家 所蔵残品入札売立会ヨリ買入レル」とあり、郷里の秋田由来の作品ということで食指を動かしました。むろんこのような書付は眉唾ものと思ったほうがいいでしょう。
月下虎之図 佐伯岸岱筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱 佐竹侯爵家旧蔵
全体サイズ:縦1925*横475 画サイズ:縦1005*横345
落款に「筑前介 岸岱」とあり、嘉永6年(1853年)筑前介に叙していることから、それ以降の年代の作品であることが推察されます。つまり71歳以降の晩年の作品といえます。
落款と印章は下記のとおりです。「岸岱」「君鎮」の白文朱方印が押印されています。
元治2年(1865年)に82歳で亡くなっていますので、当時としてはかなりの長寿です。本作品は岸駒の筆法を受け継ぎ、虎などの動物画を得意としつつも、四条派を意識した温和な作品と言えます。猫のような描き方はまだ実際の虎を見ていない、岸派独特の描き方です。
「大正七年六月弐拾日佐竹侯爵家 所蔵残品入札売立会ヨリ買入レル」とあります。佐竹侯爵家は、むろん旧秋田藩主のことです。
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大正6年11月の入札は、佐竹家の財産整理の一環として、同家家令大縄久雄が、佐竹家の同意のもと企画し、益田鈍翁、高橋箒庵を世話人として開催されました。この入札の目玉はいわゆる佐竹本「三十六歌仙絵巻」です。この作品については、最初40万円の止値(最低落札価格)を佐竹家では希望していましたが、世話人等の相談の結果、35万円に引き下げ、それでも単独で落札するものがなく、札元全員の連合で、35.3万円で落札した。
翌年、この作品は、当時船成金として威勢をふるっていた山本唯三郎が買い取りましたが、第一次大戦終了後の不況のため、間もなく山本も手放さざるを得ず、大正8年には、益田鈍翁の主導のもと、絵巻を切断して分譲され、各歌仙軸装とされたことはよく知られています。
雪村「風涛図」は、大阪北浜で相場師として活躍した上野与吉が落札しましたが、上野はこの入札で、名物「山桜大海」茶入もあわせて落札しています。
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本作品は「価格65円50銭」とありますが、上記の入札目録には掲載されておらず、その翌年に再度「所蔵残品入札売立会」が開催されたかは不明です。
大正時代の「価格65円50銭」とはどれほどの価値があったのでしょうか? おおよそ「50万円」ということらしいのですが・・。
岸岱(がんたい):天明2年(1782年)〜元治2年2月19日(1865年3月16日)。江戸時代後期の岸派の絵師。岸駒の長子として岸派を継承し発展させた。名は若い頃は国章、のち昌岱。字を君鎮。別号に卓堂、虎岳、紫水、同功館など。
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岸岱の補足説明
父から厳しく画法を習い、画才が乏しいことを責められたという。厳しいね〜
文化5年(1808年)筑前介(岸駒は越前介)に任ぜられ、その翌年父岸駒とともに金沢城内に障壁画を描いています。天保15年間(1844年)有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝、奥書院の障壁画の制作を申し出、2ヶ月足らずで「柳の間」「菖蒲の間」「春の間」全てを完成させています。
嘉永6年(1853年)に叙す。
安政年間(1854年-1860年)御所造営に岸誠・岸連山・岸竹堂らと共に参加し、御常御殿二之間、御学問所中段之間、皇后宮常御殿御寝之間、御花御殿北之間の障壁画を担当した。墓所は上京区の本禅寺。
岸駒や呉春亡き後、長命だったことも手伝い、岸派の二代目として京都画壇に大きな勢力を築いています。『平安人物誌』には文化10年(1813年)から嘉永5年(1852年)の長期に渡って掲載されています。
その画法は岸駒の筆法を受け継ぎ、虎などの動物画を得意としつつも、四条派を意識した温和な作品や、伝統的な大和絵の画題や金地濃彩の障壁画など幅広い作風を示しています。本作品は虎の作品ですが、基本的には岸駒の画法を受け継いでいることがうかがえます。
金刀比羅宮の障壁画では、80年前に描かれた伊藤若冲の障壁画へのオマージュや宮への恭敬からか、敢えて自分の得意な画題を描かず、与えられた空間を最大限活かすように作画しています。絵だけでなく文筆にも秀で、書籍の序なども手掛けています。
弟子に、長男の岸慶、次男の岸礼、末子の岸誠、喜田華堂など岸派を大成させました。
岸派(きしは):岸駒を派祖とする江戸時代後期から明治時代の日本画の一派。京都画壇に一大勢力を形成し、岸駒の長子岸岱、河村文鳳、横山華山、白井華陽など多くの画家を輩出しています。望月派の派祖である望月玉蟾は岸駒に学び、四条派と岸派を融合させました。
初代岸駒
本ブログでお馴染みの画家で、各流派を折衷し、表現性の高い写生画で知られています。
二代岸岱
岸駒の実子で岸派の絵画を発展させた。実子に、岸慶、岸礼、岸誠がいます。 表現方法もあきらかに岸駒の影響がわかります。
三代岸連山
岸岱の弟子となり、後に岸駒の養子として京都の伝統画派四条派の画風を加味して癖の強い画風を変容させました。実子に岸九岳がいます。
当方に所蔵作品がありますが、未整理ゆえに未投稿です。
四代岸竹堂
連山の弟子で後に連山の養子(娘婿)となる森寛斎、幸野楳嶺らと並ぶ明治草創期の近代京都画壇に重鎮となり、岸派の伝統である虎や鳥獣だけでなく、洋画の陰影や遠近法を取り入れ写実的な風景画なども描いています。しかし、岸派はこの竹堂をもって実質的な終焉を迎えました。竹堂の作品もどこかにあったはず・・・。
しかし、どうもこの作品、月に虎に瀧・・・そして添え状???揃い過ぎ????
岸岱は画力という点で岸駒よりは劣るというのは共通した評価でしょう。
参考作品
思文閣墨蹟資料目録「和の美」第459号作品NO2 9より
印章は大きさが違う同文の印を使用しています。
贋作をつかませられたら、真の原因はなにかを捕らえなくてはいけません、印章の未確認、対費用との見極め・・? しかし真の原因のほとんどが得するかもという欲