今は二束三文のわが郷里を代表する日本画家の寺崎廣業の作品ですが、家内が小生の所有する作品を観て「寺崎廣業の作品はま〜、いいねと言える作品が多いね。」だと・・・。なかなか見る眼がありそうな伴侶である。
もうこれで24作品目となりました。贋作が多いので要注意ですが、数千円から数万円以内でいい作品がごろごろしています。当時は横山大観や竹内栖鳳と並び称されるほどの画家でしたが、あまりにも多作過ぎたのか現在では評価金額は非常に廉価な画家です。それでも出来の良い美人画はそれなりに人気があります。
桃下唐人図 寺崎廣業筆
絖本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横290*縦1180 画サイズ:横170*縦225
落款部分には「甲午孟冬巴□□次 宗山生廣業 押印」とあり30歳(明治27年)頃の作品と推察されます。印章は「廣業」の朱文白方印が押印されています。廣業の「業」の字が二本線の場合は俗に言う「二本廣業」で、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間に描かれたといわれていますが、本作品はさらにそれ以前の作品と思われ、「廣」の字も馴染みのある字体と違います。
酔っぱらった唐人と世話する子供を描いた作品なのでしょうか? 小生なら子どもよりうら若き女性を描いてしまいそう
画題は不詳ですが、なにか画題がありそうな気がします。
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戸籍名は広業(ひろなり)でしたが、周囲の者は皆「こうぎょう」と呼び、そのまま通号としました。ただし秋田には小室怡々斎(いいさい)という狩野派の画家がいたので、もともと絵の好きだった広業は成年まで世話をした乳母である長谷川家とも相談のうえ入門し、「秀斎」の号をもらっています。これが初号となります。その直後に平福穂庵に才能を見出され上京しましたが、さらに放浪しならが修練し、明治23年(1890年)に第三回内国勧業博覧に出品した「東遊図」が褒状を受け、明治24年狩野派風に描いた中国人物「藍菜和図」を日本青年絵画協会に出品して最高の一等賞を獲得しています。邨田丹陵や山田敬中も一等賞を受けていますが、明治25年に広業が結婚した菅子は、丹陵の姉となります。向島に新居を構えた広業でしたが、結婚のあくる年明治26年4月、仲間と市川方面に写生に出かけている間に住まいが貰い火で全焼し、粉本やデッサンの類をすべて焼失してしまいます。しかし広業は、これからいよいよ広業の絵を描くことにしよう、と平然としていたといいます。広業の負けじ魂が言わせたものでしょう。広業が東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)の助教授に抜擢されたのは、明治30年3月ですから、本作品はその直前から火災に遭った間の作品となります。その後「売れっ子は東の広業、西の(竹内)栖鳳」と言われた一時期があったくらい広業は自身の創作活動にも打ち込み、各種展覧会の入選者の常連となって弟子も次第に増えていきます。
寺崎廣業の落款には「秀齋」、もしくは「秀齋廣業」(所蔵作品:勿来の関)、そして四種類の書体の「廣業」があり、さらには「二本廣業」と「三本廣業」に分類されます。本作品は数少ない火事の被災から東京美術学校助教授に就任するまでの作品と思われます。所蔵品にも同時期の作品と思わる作品があり、「鯉」、「鐘馗図」、「山水図」が同時期と思われます。豪放磊落な人柄がよく表れています。評価は「三本廣業」が一番高いと言われていますが、それゆえ「三本廣業」や美人画には贋作が多くなっています。現在となっては逆に「三本廣業」以外の作品が良い出来のように思えます。それは「三本廣業」の時代の寺崎廣業は流行画家となり、作品をかなり描いており、酒席でも依頼されるとよく描いており、濫作のごとくになっているためです。きちんと描いた作品でないと価値を見出すことすら難しいとさえ評価されています。贋作も多く、現在では売買価格については横山大観や竹内栖鳳に比してかなり廉価な画家のひとりです。逆にいいものだけを集めるチャンスかもしれせん。私の郷里の代表的な画家の一人ですので、これからは厳選して収集に努めたいと思います。
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もうこれで24作品目となりました。贋作が多いので要注意ですが、数千円から数万円以内でいい作品がごろごろしています。当時は横山大観や竹内栖鳳と並び称されるほどの画家でしたが、あまりにも多作過ぎたのか現在では評価金額は非常に廉価な画家です。それでも出来の良い美人画はそれなりに人気があります。
桃下唐人図 寺崎廣業筆
絖本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横290*縦1180 画サイズ:横170*縦225
落款部分には「甲午孟冬巴□□次 宗山生廣業 押印」とあり30歳(明治27年)頃の作品と推察されます。印章は「廣業」の朱文白方印が押印されています。廣業の「業」の字が二本線の場合は俗に言う「二本廣業」で、明治35年頃から42年頃までの7年くらいの間に描かれたといわれていますが、本作品はさらにそれ以前の作品と思われ、「廣」の字も馴染みのある字体と違います。
酔っぱらった唐人と世話する子供を描いた作品なのでしょうか? 小生なら子どもよりうら若き女性を描いてしまいそう
画題は不詳ですが、なにか画題がありそうな気がします。
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戸籍名は広業(ひろなり)でしたが、周囲の者は皆「こうぎょう」と呼び、そのまま通号としました。ただし秋田には小室怡々斎(いいさい)という狩野派の画家がいたので、もともと絵の好きだった広業は成年まで世話をした乳母である長谷川家とも相談のうえ入門し、「秀斎」の号をもらっています。これが初号となります。その直後に平福穂庵に才能を見出され上京しましたが、さらに放浪しならが修練し、明治23年(1890年)に第三回内国勧業博覧に出品した「東遊図」が褒状を受け、明治24年狩野派風に描いた中国人物「藍菜和図」を日本青年絵画協会に出品して最高の一等賞を獲得しています。邨田丹陵や山田敬中も一等賞を受けていますが、明治25年に広業が結婚した菅子は、丹陵の姉となります。向島に新居を構えた広業でしたが、結婚のあくる年明治26年4月、仲間と市川方面に写生に出かけている間に住まいが貰い火で全焼し、粉本やデッサンの類をすべて焼失してしまいます。しかし広業は、これからいよいよ広業の絵を描くことにしよう、と平然としていたといいます。広業の負けじ魂が言わせたものでしょう。広業が東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)の助教授に抜擢されたのは、明治30年3月ですから、本作品はその直前から火災に遭った間の作品となります。その後「売れっ子は東の広業、西の(竹内)栖鳳」と言われた一時期があったくらい広業は自身の創作活動にも打ち込み、各種展覧会の入選者の常連となって弟子も次第に増えていきます。
寺崎廣業の落款には「秀齋」、もしくは「秀齋廣業」(所蔵作品:勿来の関)、そして四種類の書体の「廣業」があり、さらには「二本廣業」と「三本廣業」に分類されます。本作品は数少ない火事の被災から東京美術学校助教授に就任するまでの作品と思われます。所蔵品にも同時期の作品と思わる作品があり、「鯉」、「鐘馗図」、「山水図」が同時期と思われます。豪放磊落な人柄がよく表れています。評価は「三本廣業」が一番高いと言われていますが、それゆえ「三本廣業」や美人画には贋作が多くなっています。現在となっては逆に「三本廣業」以外の作品が良い出来のように思えます。それは「三本廣業」の時代の寺崎廣業は流行画家となり、作品をかなり描いており、酒席でも依頼されるとよく描いており、濫作のごとくになっているためです。きちんと描いた作品でないと価値を見出すことすら難しいとさえ評価されています。贋作も多く、現在では売買価格については横山大観や竹内栖鳳に比してかなり廉価な画家のひとりです。逆にいいものだけを集めるチャンスかもしれせん。私の郷里の代表的な画家の一人ですので、これからは厳選して収集に努めたいと思います。
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