昨日は長男の初節句(本当は来年?)、お祝いを頂いた親戚にお祝い返しでお出かけ・・、長男は疲れたのか、9時間ぐっすり
本ブログによく出品される作品というと
1.源内焼
2.浜田庄司(非公開)
3.福田豊四郎(非公開)
4.平福父子(一部非公開)
5.天龍道人
6.倉田松涛
7.寺崎廣業
といったところでしょうか?
その中で倉田松涛の11作品目の投稿となります。郷里の秋田県でも知っている人の少ない倉田松涛の作品です。少しでも多く、廃れる前に手元に保存し、伝承しておきたい画家の一人です
いつか郷里で展覧会を催せたら本望ですが、それにはもっと蒐集品を充実させなくてはなりませんね。本日は達磨を描いた作品で、珍しく厳しい顔を描いた作品です。
達磨図 倉田松涛筆 その11(真作整理番号)
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:横460*縦1730 画サイズ:横340*縦1090
落款の部分に「百三談畫房□人 松涛□」と署されていますが、この人の賛は非常に難解です。
「百三談書房」の朱文長方印が押印されています。また「松涛」朱文長丸印も押印されています。
倉田松涛の達磨についての作品は下記の作品が投稿されています。
達磨の凧揚げ圖 倉田松涛筆
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2020*横425 画サイズ:縦1310*横335
ともかくも倉田松涛の作品は人の表情が実に面白いですね。布袋などの一般的な作品は郷里でもときおり見かけますが、もっと面白い作品がたくさん倉田松涛は描いています。
本作品は紙表具のまま残っています。状態が良いのでこのまま保存
本日は「達磨」についての基礎知識・・・
*******************************
達磨について
達磨(だるま、ボーディダルマ):禅宗の開祖とされている人物である。菩達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるがいわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記する。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。
曇林が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば宋_(南朝)の時代に中国にやって来たとされている。中国禅の開祖。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗と呼ばれた。「ダーマ」とも。
菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いを持たれている。南天竺国香至王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨(ボーディダルマ)になったということになっているが、最も古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』(547年)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。
「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。起ちてはるかなる中土に来遊す。このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。ペルシア生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、わが中国へ来遊した。金盤日に?(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、南無と唱え、連日合掌す。 永寧寺の塔の金盤が太陽に輝き、その光が雲表を照らしているのを見て、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。その自ら言うところでは、齢は150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮にはまたと無いもの、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。(洛陽城内伽藍記巻第一(永寧寺の条))」
達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。
大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。
その没後には道教の尸解に類した後日譚が伝わるが、中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。それは当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。
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本ブログによく出品される作品というと
1.源内焼
2.浜田庄司(非公開)
3.福田豊四郎(非公開)
4.平福父子(一部非公開)
5.天龍道人
6.倉田松涛
7.寺崎廣業
といったところでしょうか?
その中で倉田松涛の11作品目の投稿となります。郷里の秋田県でも知っている人の少ない倉田松涛の作品です。少しでも多く、廃れる前に手元に保存し、伝承しておきたい画家の一人です
いつか郷里で展覧会を催せたら本望ですが、それにはもっと蒐集品を充実させなくてはなりませんね。本日は達磨を描いた作品で、珍しく厳しい顔を描いた作品です。
達磨図 倉田松涛筆 その11(真作整理番号)
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:横460*縦1730 画サイズ:横340*縦1090
落款の部分に「百三談畫房□人 松涛□」と署されていますが、この人の賛は非常に難解です。
「百三談書房」の朱文長方印が押印されています。また「松涛」朱文長丸印も押印されています。
倉田松涛の達磨についての作品は下記の作品が投稿されています。
達磨の凧揚げ圖 倉田松涛筆
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2020*横425 画サイズ:縦1310*横335
ともかくも倉田松涛の作品は人の表情が実に面白いですね。布袋などの一般的な作品は郷里でもときおり見かけますが、もっと面白い作品がたくさん倉田松涛は描いています。
本作品は紙表具のまま残っています。状態が良いのでこのまま保存
本日は「達磨」についての基礎知識・・・
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達磨について
達磨(だるま、ボーディダルマ):禅宗の開祖とされている人物である。菩達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるがいわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記する。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。
曇林が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば宋_(南朝)の時代に中国にやって来たとされている。中国禅の開祖。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗と呼ばれた。「ダーマ」とも。
菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いを持たれている。南天竺国香至王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨(ボーディダルマ)になったということになっているが、最も古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』(547年)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。
「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。起ちてはるかなる中土に来遊す。このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。ペルシア生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、わが中国へ来遊した。金盤日に?(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、南無と唱え、連日合掌す。 永寧寺の塔の金盤が太陽に輝き、その光が雲表を照らしているのを見て、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。その自ら言うところでは、齢は150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮にはまたと無いもの、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。(洛陽城内伽藍記巻第一(永寧寺の条))」
達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。
大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。
その没後には道教の尸解に類した後日譚が伝わるが、中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。それは当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。
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