天龍道人の作品は意外に市場に多く出回っています。贋作もありそうななので、ネットオークションからの購入などは一応警戒して、印章などは照合した方がいいようです。本作品は最晩年の作と思われ、資料での最終確認は未了ですが、一応真作としての前提でブログを作成しました。
鷹図(三幅対)その3 天龍道人筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦520*横1300
落款は「天龍道人九十三歳筆」と記されていることから、1810年(文化7年)、天龍道人が93歳頃の作品と推察され、この年の8月21日に天龍道人は亡くなっています。
最晩年のもっとも枯淡の現れた作品であり、この年の作品は非常に少なくとても貴重だと思います。
左幅がもっとも出来がよく葡萄の花? に鷹の図。
根津美術館発刊「天龍道人 百五十年記念展」の解説には「葡萄図は八十代、九十代に於いて独自の境に入り完成したもの」という記述があります。
さらには93歳の葡萄図の賛に『天下無人知我者 総道只葡桃先生 看画不敢論工拙 東西各自伝虚声 我幸好以有此癖 風流一世得遯名 鵞湖折脚仙九十三歳天龍道人王瑾併題書』とあり、意味深長である。」とあります。
「老境に入ってますます旺盛にして、本作品は一代の傑作であり、初期の五十代、六十代の作とは別人の観があります。」
「壮年期の作品を凌ぐものであるのは、磨き上げた芸術の偉大な力と言えましょう。」とも・・。
佐賀県立博物館の所蔵されている「葡萄図」には「鵞湖折脚仙九十一歳天龍道人王瑾」の署名があり、最晩年の91歳の作品と判明している作品です。この作品の賛文を読み下すと、「かつて葡萄を描くもの、果を描き花を描かず。われはこれ新様を写し、千載一家をなす。」と記されています。
賛文をふまえて、この作品の葡萄をみると、点描風に描かれているのは果実ではなく、花であり、花が咲いた状態の葡萄を描いた珍しい作品といえます。葡萄を描く場合、実をつけた状態で描かれるのが一般的ですが、天龍道人は花の状態を描いており、そのことを賛で、これまでにない新しい葡萄画を描き「一家をなす」、と自負しているものと思われます。
本作品にも葡萄の花を点描風に描いた左幅があり、鷹の絵が描かれた非常に貴重な作品だと推察されます。
まくりの状態での入手で屏風から剥がした作品かもしれません。しみ抜きをして三幅対の掛け軸に仕立てたら、さぞ立派になろうと・・・。
先立つものは資金・・。また何かを処分せねばなりません
中央は松ニ鷹図・・・。
水墨に鷹の部分に一部、胡粉を使っています。
墨が枯れたように筆が運ばれ、見事というほかありません。
このような作品がまだ市場にあったというのはラッキーでした。数千円での入手。
右幅は葡萄に鷹図?。
長野などで2010年の没後200年ではなにか記念の展示会は催されたのでしょうか?
鷹の絵であまりいい作品がなかったのですが、本作品は別格ですね。
このような作品を後世に伝えてゆきたいものです。
?? 「この絵のどこがそんなにいいのかい?」だって? そこから説明するのはちょっと厄介ですね。
天龍道人のファンがいないものでしょうか? 本ブログで20作品以上を投稿していますが、いまだにコメントは一件もありません 内容がつまらない・・・
天龍道人は姓は王、名は瑾と称しましたが、「勤王」をひっくり返したものらしい
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天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。
半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。
54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。
天龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。
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なんといっても90歳を超えて、これだけの絵を描くというのはたいしたものだと思います。90歳以上も永く生きることさえ難しかった時代に・・・
鷹図(三幅対)その3 天龍道人筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦520*横1300
落款は「天龍道人九十三歳筆」と記されていることから、1810年(文化7年)、天龍道人が93歳頃の作品と推察され、この年の8月21日に天龍道人は亡くなっています。
最晩年のもっとも枯淡の現れた作品であり、この年の作品は非常に少なくとても貴重だと思います。
左幅がもっとも出来がよく葡萄の花? に鷹の図。
根津美術館発刊「天龍道人 百五十年記念展」の解説には「葡萄図は八十代、九十代に於いて独自の境に入り完成したもの」という記述があります。
さらには93歳の葡萄図の賛に『天下無人知我者 総道只葡桃先生 看画不敢論工拙 東西各自伝虚声 我幸好以有此癖 風流一世得遯名 鵞湖折脚仙九十三歳天龍道人王瑾併題書』とあり、意味深長である。」とあります。
「老境に入ってますます旺盛にして、本作品は一代の傑作であり、初期の五十代、六十代の作とは別人の観があります。」
「壮年期の作品を凌ぐものであるのは、磨き上げた芸術の偉大な力と言えましょう。」とも・・。
佐賀県立博物館の所蔵されている「葡萄図」には「鵞湖折脚仙九十一歳天龍道人王瑾」の署名があり、最晩年の91歳の作品と判明している作品です。この作品の賛文を読み下すと、「かつて葡萄を描くもの、果を描き花を描かず。われはこれ新様を写し、千載一家をなす。」と記されています。
賛文をふまえて、この作品の葡萄をみると、点描風に描かれているのは果実ではなく、花であり、花が咲いた状態の葡萄を描いた珍しい作品といえます。葡萄を描く場合、実をつけた状態で描かれるのが一般的ですが、天龍道人は花の状態を描いており、そのことを賛で、これまでにない新しい葡萄画を描き「一家をなす」、と自負しているものと思われます。
本作品にも葡萄の花を点描風に描いた左幅があり、鷹の絵が描かれた非常に貴重な作品だと推察されます。
まくりの状態での入手で屏風から剥がした作品かもしれません。しみ抜きをして三幅対の掛け軸に仕立てたら、さぞ立派になろうと・・・。
先立つものは資金・・。また何かを処分せねばなりません
中央は松ニ鷹図・・・。
水墨に鷹の部分に一部、胡粉を使っています。
墨が枯れたように筆が運ばれ、見事というほかありません。
このような作品がまだ市場にあったというのはラッキーでした。数千円での入手。
右幅は葡萄に鷹図?。
長野などで2010年の没後200年ではなにか記念の展示会は催されたのでしょうか?
鷹の絵であまりいい作品がなかったのですが、本作品は別格ですね。
このような作品を後世に伝えてゆきたいものです。
?? 「この絵のどこがそんなにいいのかい?」だって? そこから説明するのはちょっと厄介ですね。
天龍道人のファンがいないものでしょうか? 本ブログで20作品以上を投稿していますが、いまだにコメントは一件もありません 内容がつまらない・・・
天龍道人は姓は王、名は瑾と称しましたが、「勤王」をひっくり返したものらしい
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天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。
半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。
54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。
天龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。
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なんといっても90歳を超えて、これだけの絵を描くというのはたいしたものだと思います。90歳以上も永く生きることさえ難しかった時代に・・・